我が楼閣、砂上にあれど

千代に八千代に聳え立つ

流石に寝苦しいなと、申し訳程度に腹の辺りに掛けていた薄手の布団を鈍くさい動きで横に払った。潮風を随分と吸っていてやや不快な重たさとぐっと鼻に付く独特の臭気に少しだけ薄い眉間に皺を刻んだ。
視界の及ぶ範囲に時計が無かったので時刻は正確にはわからないのだが星の傾きと東の空の端の端からさす山吹色のほの明るさを見ると午前の四時は回ったところだろう。

首だけを無理くり夜空へ向けていたから、筋の浅い部分がきりりと痛む。まだぼんやりとした頭で船頭の男の背中をとらえる。故郷の男そのものといえる浅黒い肌と黒々とした頑固そうな毛質の癖毛が汗を含んで象のように太い首もとにへばりついている。

交代制とはいえど一晩中、船を出すというのは考えられないほど神経を消耗するだろう。なにせ、一寸先は闇を、諺の意味の部分は卓袱台に置いておいてそのままの情景を抜き出したような海上だ。どこから鰐、本島では鮫たいうのだったか、そんなものとぶつかりでもしたらことである。
ずっと遠方の異国ではもっと発達した海中探査機があるそうだが、ただでさえ辺鄙な瀬南王国のさらに南に進路を移した、人口も300程度の離島にそんなものがあるはずもなく、今、戸隠呉葉が身を預ける船はほぼ木製で、航海用などとはお世辞にも言えぬ粗末で小さな漁船だ。

少しの波でも揺れ、へりが低いから海水だって顔にかかる。あと何時間の辛抱だろう。入学式が八時だからそれまでには間に合うんだろう。

さて、友人の桃原夏生はいつもと変わらず盛大な寝息を立てて眠りこけているかなと、使い古された漁具箱の反対側に寝ているはずの彼を盗み見に行った。
だけれども、熊のような大きな巨体はどこにもなく、布団だけがもぬけのからであった。こうなるといない方が気掛かりなのでぐるっと船内をふらふらと徘徊していたら、船頭の男が振り向かずに「アラー、何サー?もう帰りたくなったノー?」とからかってきたので、違いますっ!とお断りを入れてから夏生の所在を訪ねたが。
「…夏生さ、怖じ気づいて違う船で帰ったサァ〜。」と軽口を叩いて答えてはくれなかった。

夏生は簡易船員室の中で熱心に本を読んでいた。医療学科に進学したと言っていたからそれ系統の予習でもしているのか、普段、島の人間の気質を存分に受け継いだのんびりとした男だが、幾分かは今回の環境の大きく変わるこの節目にはいつものような調子も乱されたのか。
呉葉が盗み見てしても全く気がつくことなく黙々と頁を読み進めている。彫りの深い顔立ちに、大きな黒い目、太い眉、百九十糎(センチメートル)をこえる長身はたから見れば与太者のようだが、長い付き合いの呉葉でも怒った顔を見たことがないくらいに温和な男である。

「夏生くん、夏生くん、起きてたの?いつから?ずっと?」呉葉はこんこんと船員室の小窓を叩き、こちらに視線を向かせた。夏生は呉葉を見ると厚い唇に弧を描いて人の好く顔で手招きをした。こういったときの彼の顔はよくこんなにも自然に穏やかに笑えるものだと感心してしまう。

「アナタ、もうそんな気取った喋り方してるノー?ワタシといる時くらい球楼の言葉でお喋りすればいいサァ?」球楼【キュウロウ】は瀬南王国最南の国境に位置する離島の名称で、一昔は独立した国であったと聞かされており、その名残か独特のなまりや文化、夏生や船頭の男性のようにやや人種も本島とは異なる部分が多い。
「んー、だって早く慣れないと恥ずかしいもん…。都会の人は方言聞くと面白くなっちゃうんだって。私馬鹿にされたくないよ…。頑張って、日焼け止めで肌も結構白くなったけど、仲間外れにされたりとかしないかな…?ちょっと怖くなってきちゃった。」船員室の木箱に腰掛けて少し拗ねてみせる呉葉、夏生にはよくみせる姿だが、本来、普段の彼女は天真爛漫で悩みなど無いような溌剌とした少女だ。勿論、元来のそれに変わりはないが、どうにも夏生に対しては実兄のように甘えたくなるものらしく、それについては夏生も実妹のように世話を焼いたり、たまに静かにたしなめたりもする。

お互いが一人っ子で家も近く、幼少からともに成長していったせいなのだろう。

最初に瀬南国立魔法学院に進学の方向を決めたのは夏生であり、もともと呉葉は実家の反物屋の手伝いをして、中学からの進学はしないつもりであった。
だが、それを知ってはすっかり寂しくなってしまって、猛勉強と実技試験の結果、戦闘学科への合格が決まったのである。夏生も夏生で「呉葉はうじらーさんさね(可愛い人だね)。」と満更でもなかった。

ただ、一点気掛かりであったのは自分たちが入学後、すぐに万華鏡戦争が開催されるという決定事項があったことである。一人息子と一人娘をそんな遠方な上に戦争なんてと球楼人らしい穏やかな性格の両親たちは渋っていたが、自分たちのことはできるだけ自分たちで生活し、勉学も怠らないこと、卒業後は必ずこちらへ帰ること、なにより、命の危険がもしあるのなら退学してでも戻ってくること、を条件に二人は旅路を歩んでいくことを許可されたのだった。

「もし、お友達が中々出来なかったら、ワタシの所くればいいサァ。まあ、呉葉は平気だと思うヨー。なんくるないサァ。」
「うん、でも私と下宿でも一緒なのに鬱陶しくない?」呉葉のその言葉に空気が揺れるほどの大笑いをした夏生は息をと整えながら
「アハハハっ!随分、しおらしくなってるサァ。ほーむしっくには幾ら何でも早すぎるヨー?」
「そ、そんなことないよ!夏生くんが特別鈍感なだけだもん!うーん、でもやっぱりお友達できるしばらくはお世話になります。若様。」
「なぁに、おべっか使ってるサァ?ほら、ちゃんと寝ないとアナタ入学式で居眠りしちゃうヨー。」ほら、と促すように主不在のままの寝床をさして呉葉を誘導する。自分は寝る気がないのか本を閉じようともしていない。これ以上は彼のこと邪魔にもなると、呉葉は船員室の扉に手をかけて振り向かず呟く。

「頑張ったら、さ。私の魔法でも誰かを守ったりできるかな?傷つけたりするだけじゃなくて。」
「呉葉…シワサンケ(心配するな)。」
「…カフーシロー(ありがと)。」

もうすっかり夜が明けている。
郷土と違った朝日の弱々しさは戸隠呉葉の心情を少しばかり汲んでいるようで、その柔らかな光は桃原夏生が彼女にむけてかける言葉のように暖かかった。

漸く、船が着く。
船頭の男は別れの言葉を二人にかけるとわざわざ荷物を持ってきてやり、餞別だと球楼名物の真赤な桜の模様が入った蜻蛉玉を二人に手渡した。「なぁんだか眠たいさねぇ。全く本島にかぶれてこっちさ、帰ってくるって忘れないようにネー。」と男は目をこすっていたが、声が僅かに震えていることは、その意味は、語らずともわかった。

球楼の子供は少ない。みな、本島へ出て行き。戻って来ず、きっといつか、球楼そのものも無くなるのかもしれない。

今、この時の未来に対する緊張や期待や恐怖やそんな化け物みたいな不安な感情も、笑い話として将来は子供に聞かせるような大人になれるのだろうか?
どちらだって構わないが、それは本島ではなく、球楼の子供に聞かせたいのだということを呉葉も夏生も強く願っている。

だが、その気持ちを口にするのはあまりに陳腐な気がしたから、二人は思い切り船頭の男を抱きしめる。そうしたら、三人ともなんだかやけに鼻の奥が塩辛くなって、誤魔化すように笑った。

美しい思い出を美しいと思えるのは、とても短い時間で、それはどんどん風化していく。時には美しいことさえ疑心する。それでも人はまた何度もその美しい世界と記憶を見たいと思う。

そしてそれは、たった一つの、明日生きていくだけの理由になる。

我が楼閣、砂上にあれど

我が楼閣、砂上にあれど

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-16

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