烏の泪

烏の泪

 土に埋まる夢を見た。なんだか奇妙な朝だ。
 瞼の隙間から入り込む光を拒み、また目を閉じその夢を反芻する。
 漆黒の暗闇だった。地中のバクテリアのような蟲たちに身体の至る所をかじられ、肢体に至る全ての肉体がひき千切られる。あと僅かの時間でこの痛みさえも感じられなくなり、人としての生を終えこのまま土に還るのだ。
 そう覚悟を決めていた矢先に訪れた朝だった。汗が凄い。生きた昆虫が土の世界に入り込もうとすると蟻の総攻撃を受けるらしい。その攻撃に耐えたものが土の世界に受け容れられるのだとかいう話をどこかで聞いたことがある。
 床に入ったままそんなことを思案する間に、瞼に映える外の光が強さを増し夢の色相を淡くすると、熱気を帯びた蝉たちの鳴き声が耳に届き、同じ世に生きるものたちの活動から取り残されているように思われ、床から出る。
 がたがたと障子戸を開けると、竹葉の隙間から見える空の群青が否応なく私を現実に引き戻す。思えばこの古民家に移り住んできたのも夏の終わりだったことを不意に思い出した。
 何とはなしに思い立って鎌倉の辺りまで足を延ばし、人気のない山の方へと漂っているうちに辿りついた竹薮に現れたのがこの茅葺き屋根の民家だったのだ。奔放に延びた見たこともない蔦性の植物が其処彼処(そこかしこ)のはがれ落ちた木板の壁を覆って今にも崩れそうな廃屋を保っているような有様だった。自然に取り込まれながらも超然と其処に佇むこの廃屋を目の当たりにした時に、あるひらめきが烈風の如く頭をよぎった。
「ここで骨董屋をやろう」
 この風に乗るのか、乗らぬのか、選択の余地はないほどその直感は確信めいたものだった。冴えない勤め人であった当時の私にとって常識で考えれば脳裏によぎるであろう「無謀」という考えは、ついぞ現れることはなかった。それからというもの、そのひらめきに無心に従い、風に運ばれるがまま早六年の歳月が過ぎていた。なんとかなってしまうものだ。
 そんなもの想いに耽けながら、勝手で湯を沸かし、珈琲を淹れる。すると、ふと見慣れぬ壷に目を奪われる。そうだ、ぬか床を混ぜなければ。贔屓にしてくれている近所のばあさんと(たいていの場合はお喋りの相手なのだが)夏場の食べ物は日持ちが悪くて困るなどという話題になり、私の独身の身を案じたのもあってか、その日の内にこの壷とぬか一式を携えて来てくれたのだった。ひょっとしたら今朝の夢はこの影響もあったのかもしれない。ぬか床の中で生きるものたちには苦しみを越えた安らぎがあるのだろうか。そうして漆黒の闇に生きるものたちを思いやりながら、ぬか床に手をいれ底をひっくり返すのだった。
 すると突然、外の方からなにやら物音がした。勝手口の戸を開けると、足元の異物に目を疑う。胡瓜(きゅうり)だ。なぜ胡瓜がこんなところに。ここまで人が入ってくるには竹の柵を乗り越え、店の脇を回ってこなければならない。さてはまだ夢から覚めていないのか、はたまたこの世は夢も現実も同じことなのか、なぜなら私はここに在り、夢を見ているときも呼吸は続き、汗もかいていたではないか。きっと理屈では説明のつかないことがいくらでもあるものだ。受け容れよう。すると新たなひらめきが訪れる。そうだ、ぬか漬けだ。ぬか床もそろそろ熟成された頃合いに違いない。そう思い立ち胡瓜を漬け込み、店を開ける。

 昼前になっても客が誰ひとりとして来ないのはいつものことなのである。本から目を外し現実に戻ると、姦しい蝉の鳴き声があたりを包んでいて、勝手口へ抜けていく風が額の汗を冷やす。
 この店は玄関続きの土間を改築したので、外に比べたら幾分涼しく、さながら東屋のような作りになっている。お金などなかった時分に開業したので無論ほとんどのものが手作りなのだ。土の床に無骨なまでに置かれた陳列棚にはその当時の廃屋から出てきたものもいまだに置いてある。たいていはその後に少しずつ増えていったものだが、ここに行き着いたものたちは、その作り手の意志によるものだったのだろうか。作り手がこの世を去ってもその魂が宿されたものたちはそれぞれ一人歩きせねばなるまい。この薄暗い空間に溶け込み静かに語るものなのか。それとも蛹のように眠り飛び立つのを待つものなのか。このものたちに囲まれた私もひょっとしたらその一部なのかもしれない。そうこうしている内に柱時計が牛の刻を告げるので、戸締まりをして外に出る。昼食をとりに行くのだ。

 源氏山を下りて小一時間歩くと目の覚める華やかな観光地となり、その流行的な賑わいの中に在って昭和の香り漂う木造長家造りの小さな店舗が、いきつけの定食屋なのである。開発の波に流されずそこに在り続ける様は、都会の交差点に佇むお地蔵さんのような強い意志が宿っているように思う。定食屋の店先に来ると店主がちょうど暖簾を出したところで、こちらの存在に気がつくと、
「いらっしゃい。」
その大柄な体躯のわりに愛嬌のある笑顔を向けられるといつも和むのだった。
「どうも。今日はずいぶんのんびりで。」
「これだけ暑いとなかなか人も出てこないからね。中へどうぞ。」
店先の準備に勤しむ店主を余所に、念入りに拭かれた古い木戸を開く。
「あら、いらっしゃい。」
カウンターの向こうから店主のお袋さんがいつもの屈託のない笑顔を覗かせていた。年季の入った黄ばんだエプロンと齢八十路になるとは思えない快活さが調和している。
「開けっ放しにしといてな、いい風が入ってくっから。」
木戸を閉めようとする私を制して中へ促した。今日も暑いですね、などとひとしきりの挨拶を交わすと、
「いつものでいい?」
と注文を確認し、麦茶を置いて、裏の調理場に消えていった。手持ち無沙汰になってしまったので仕方なくテレビに目をやることにする。なにやら大卒の就職率が年々下がっているなどというニュースが流れていたが、どうも興が醒めるので、壁に張られたものに目をやることにする。彼方此方(あちこち)テープで補修された相撲番付は何度見ても飽きないものだ。麦茶に手をやると、店主が戻ってきて、開口一番、
「いやぁ、暑い暑い。おい、おっかあ、扇風機ついてねえじゃねえか。」
「あっれま、忘れてた、すまないねえ。」
調理場からすまなさを微塵も感じない優しげな声がかえってくる。
「お構いなく。うちの店でも扇風機はつけてないので。」
お袋さんを擁護した訳ではなく、本当に暑いのは平気な質なのだ。
「いやぁ、実は俺が暑くてね、はっはっは。」
誠実さの滲みでた笑顔は母親譲りなのだろう。扇風機の前に立ち涼みながら、こちらに顔を向け、
「お店の方はどうです?」
「まぁ、ぼちぼちですね。こうして食事にもありつけてますから。」
実際、店を構えてからは、お金や時間に苛まれることはなくなっていた。
 すると、奥からお袋さんが出て来て、
「お待ちどうさん。」
とカウンター越しに定食を受け取る。
 鰹のタタキ、味噌汁、お新香、それにご飯。長らくこの組み合わせだけを食べていると他のものはどうも受け付けなくなってしまう。人間が酸素を取り込むようになり、いつの間にか身体の作りがそれ相応に変容してしまったのも分かる気がするのだ。
 まずはお新香に手を伸ばそうとすると、何やら表が騒がしい。
「また来やがった!」
怒気を含んだ男の声が響く。外に目をやると、勢いよく烏がばさばさと飛び立っていった。声の主である蝶ネクタイを付けた初老の男は、恐らく隣接するレストランの関係者であろう。
電線に留まり様子を伺う烏に向かって威嚇し、烏が飛び立っていったのを見届けると、
「ゴミ箱までひっくり返しやがって!」
と男はぶつぶつ言いながら散らかったゴミを片付け始めた。
「カラスも人間の生活にまで入り込んでご苦労なこったね。」
店主は何事もなかったかのように皿を洗いながら笑っている。すると、お袋さんは、
「そらみんな一緒だ、こんな都会とゴミの中で暮らしてなあ。」
そう言いながら、曲がった腰を少し延ばして、洗った皿を棚に戻しながら応えた。もとは農村生まれで、戦後の高度成長のあおりで暮らしが立ち行かなくなり出て来たと聞いたことがある。不本意であったのだろう。私は味噌汁を味わいながらゆっくり箸を進めた。

 しばらくするとまた外でガサゴソ音がしだした。さっきの烏か。例の人間がいなくなったとばかりに散らかった残骸を漁りにきたのだろう。
「おーおー、また来た。」
お袋さんはにこやかに外に目をやると、冷蔵庫を開け魚片のようなものを取り出し、そのまま店先に放り投げた。それに気付いた烏は警戒しながら店先にトコトコ近寄りこちらを一瞥すると、自分に敵意が向けられていないのを感じ取ったのか魚片をつつき始めた。
お袋さんはその烏を微笑ましく眺めながら、
「ああ見えたってカラスも命懸けだ。」
ぼろぼろになった間仕切りを潜り、調理場から何か手にしてまたゆっくり戻ってくる。
「うちんとこ来るもんはスズメでもタヌキでも食いたきゃくれっから。そしたらお互いなんも害はない。ほれ。」
そう言うと、私に饅頭を手渡し、皺だらけの顔を潰して笑った。
 私は礼を伝えようとすると、そんなものは不要だと言わんばかりに店主が割って入り、
「お客さんがくれたやつでね、悪くなっちまうからもらってやって下さいよ。」
 そう言うと、各々仕込みの作業にかかるので、私は、すみませんと短く礼を述べたら、烏はもういなくなっていた。
 
 黙々と食事をしているところに、テレビの音が流れだした。
「午後のニュースです。昨夜、安保に関連する新たな法案が可決され、国会の前では戦争に反対する若者が・・」
すると、お袋さんが、
「またありもしやしないことに苦しんでまず・・」
仕込みの手を動かしながら呟き、
「与えられたとこで、生きてくしかあんめ。」
さらにそう付け加えて、背を向け調理場に消えていった。故郷を離れ、この地で生き延びるのは相当な苦難があったに違いない。
 お勘定の際に、改めて饅頭の礼を伝えて、外に出る。盛夏の日差しに目が眩み、観光地の賑やかさが突如耳をつんざくので、しばしぼうっとするが、先ほどの蝶ネクタイの男が目に入り、すぐに自分がどこにいるのかを把握する。隣のレストランの店先にはいつの間にか長蛇の列ができており、蝶ネクタイの男が客に頭を下げながら、
「申し訳ございません、ただいま・・」
などど、のたまっているのを横目に帰路に就く。

 店に戻り、入口の格子戸を開けると、屋根から音がしたので目を向ける。すると烏がばさばさっと飛び立って行った、と同時に何やら落ちてきた。シャンプーの空ボトルだった。きっとびっくりして落としてしまったのだろう。これを食そうと思ったのか、はたまた巣のたしにしようと思ったのか。
「与えられたとこで、生きてくしかあんめ。」
定食屋のお袋さんの言葉がふと頭に浮かんだ。それから結局、誰も客は来なかった。
 
 その夜、漬けた胡瓜を取り出してみると、ぬかに塗れ、しなだれた姿に変容していた。ほう、こんな簡単にできてしまうものか、とまじまじ眺めていると、小さな傷がついていることに気付く。その溝に入り込んだぬかを取り除くと、なにやら爪の跡のようだった。胡瓜をひとかじりすると涙が頬を伝った。

烏の泪

烏の泪

鳥獣風話 第壱話 生まれてはじめて書いた小説で、梨木果歩さんの「家守綺譚」に影響を受けて書いたものです。 改めて読み返してみるとひどい出来だなと思う。でも、当時は一生懸命だったのだから良しとする。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-16

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