欲しかったもの

欲しかったもの

 暗く、暗く、冷たい部屋。
 鉄格子(てつごうし)のはめられた窓と、鍵をかけられたドア。向かい合うパイプ椅子の間に、年季の入った灰色の簡易デスク。そこに置かれたスタンドから、煌々(こうこう)と光が溢れている。
 照らされる人物はふたり。安物のスーツをまとった壮年の男と、うつむいたまま黙りこくっている若い男。
 壮年の男は、それまでくわえていた煙草を灰皿に押し付け、長い息を吐いた。
 若い男は動かない。ただじっと、ひざに乗せた両拳をかたくなに見つめている。
「……単刀直入に訊こう」
 気が遠くなるような長い沈黙をやぶり、壮年の男が口を開いた。
 若い男はゆっくりと、こくりとうなずく。
 壮年の男は言った。
「なぜ、殺したのかね」
 
 先月オープンしたばかりのコンビニエンスストア『ズミリティ』の外には、客ではない大勢の人間が押し寄せていた。店舗を遠巻きに囲み、その人波の内側に数台のパトカーが停まっている。そこにいる誰もが、店内の様子を神妙な面持ちで見つめている。
 多くの視線の先には、ひと組の男女がいた。
 若い男と、少女。
 男は帽子を目深にかぶってマスクをしているため、表情をうかがい知ることはできない。ただ、先ほどから聞こえる彼の声から察するに、どうやら二十代前半ほどではないかと推測されている。
 少女はコンビニの店員らしく、淡いグリーンの制服を着ている。際立って美しい容貌(ようぼう)。さらさらと流れる黒髪。しかし、いまは男が背後から回した腕で首を押さえられ、苦しそうな表情を見せている。
 男のもう片方の手には、包丁。先端を少女の首筋に当てている。
『君の要望は聞く。だから、その少女を解放してくれ』
 店の外から、拡声器越しの声が届く。
「うるせえ! だったらいますぐ、ここから立ち去れ!」
 男が怒鳴る。
 力んだせいで、少女の首がさらに絞められる。少女は苦しそうに顔をしかめ、だが、抵抗はできずにいるようだった。
 男は、コンビニ強盗だった。
 
 膠着(こうちゃく)状態が続き、男が立てこもってからすでに数時間が経過している。空はすっかりオレンジ色から濃紺へと変わっている。
 男はレジカウンターの裏側に陣取り、血走った視線を警察に投げつけていた。
「ねえ……」
 場違いなほどの、静かな、よく澄んだ声が聞こえた。
 少女が男の腕に、そっと自分の手を添える。
「逃げないから……腕を放して……苦しいの」
 たしかに、ここから逃げるにはカウンターを上らなければいけない。もしくは、男を乗り越えて、奥のバックヤードまで行かなければいけない。逃げようとしても、どのみち男が少女を捕まえるほうが早い。男から逃げるのは無理だ。
 そう判断し、男は腕の力をゆるめる。言ったとおり、少女は逃げなかった。
「ねえ」
 少女は問いかける。
「どうして、こんなことをしたの?」
 それは男を(さと)そうとしているのではなく、純粋に疑問に思っているようだった。
「お前には関係ない」
「関係なくなんかないわ。だって、わたしは人質だもの。わたしがこんな目に()う理由くらい、教えてくれてもいいんじゃないかしら」
「うるせえな。黙ってろ」
「話していたほうが気が紛れると思うけど?」
「黙れと言っている」
 少女は肩をすくめてみせ、そして口を閉ざした。
 店内には有線放送が流れている。有名なミュージシャンの、テンポの良い最新曲だけが、殺伐とした空気をなごませようとするかのように奏でられている。
 やがてその曲も終わり、沈黙が落ちた。
 店の外では、警察がこちらとの距離をはかり、じわじわと近づいてきているように見える。
「おい」
 不意に、男が口を開いた。
「お前、名前は?」
「…………」
 しかし少女は答えない。美しい横顔から、ちいさくため息がひとつ、こぼれるくらいだ。
「おい、訊いてるだろ」
 すると少女は憮然とした様子でちらりと男を見やり、立てた人差し指を自分の口元に当てた。黙れと言った男の言いつけを守っているというよりは、どこかふてくされているようだった。
 男は困った顔で後頭部をぽりぽりとかき、
()ねてんじゃねーよ。ガキか、お前は」
「…………」
「ああもう、わかったわかった。俺が悪かった。もう話してもいいぞ」
「最初からそう言えばいいのに」
 少女は男に向き直った。
 改めて、男は少女を眺める。
 本当に美しい女性だった。どこか憂いを含んだような、陰りのある双眸(そうぼう)。艶やかな黒髪は蛍光灯の光をきらきらと反射して、背中の中ほどまでたゆたっている。淡いグリーンの制服はしわも少なく清潔で、彼女の人となりを表しているようだった。形の良い、ぷっくりとしたピンクのくちびるはいかにもやわらかそうで、男はつい、じっと見入ってしまう。
 対して男はというと、着古した白無地の長袖に、くたびれたジーンズ。ぼさぼさの髪に、マスクの脇から覗き見える無精ひげといった、敝衣蓬髪(へいいほうはつ)じみたいでたち。その両目は暗く(よど)み、血走っていた。
「……小森アキ」
 少女は言う。それが彼女の名前らしかった。
「あなたの名前は?」
「犯罪者が名乗るかよ」
「犯罪者って自覚はあるんだ」
「うるさいな、お前はほんと」
 眉間にしわをよせる男。
 正直なところ、もはや逃げ切る自信はなかった。男は嘆息(たんそく)する。
 まず、最初がいけなかったのだと思う。
 この美しい店員に包丁を突きつけたとき、ちょうど私服警官が巡回していようなどと誰が想像できるだろうか。牽制(けんせい)の応酬に気を取られ、気がつけば店の周りは包囲されていて……。なんとか私服警官を店から追い出すまでは良かったが、これではまさに袋のねずみ。どう転んだって逃げ切れるはずがない。
 しかし、と男は思う。
 それでもやらなければいけない。逃げなければ。自分の人生はこれからなんだ。こんなところでつまづいている場合じゃない。
「ねえ」
「なんだ」
 外を睨みながら、男が応じる。
「さっきの質問。なんでこんなことしてるの?」
「……あいつを見返してやるためさ」
 視線を外さず、男は言った。心なしか、先ほどより呼吸が荒れてきているようだ。
「あいつ?」
「俺を振った女さ。金の切れ目が縁の切れ目とはよく言ったもんだな。俺が会社をクビになった途端、別れ話なんて切り出しやがった」
「お金がほしいの?」
「いらなきゃ強盗なんてするわけねえだろ。よく考えろ」
「よく考えろだなんて、強盗する人から言われるとは思わなかったわ」
「……やっぱうるさいな、お前は」
 男の視線の先には、包囲の枠を狭めようとじりじり近づく警察の姿。よく見れば、無線でなにやら指示を出しているらしい警官も確認できる。援軍を要請しているのか、それとも突入のタイミングを指揮しているのか……。どのみち、自分にとってさらに不利な状況になることだけは理解できる。
「よく考えてみたんだけど」
「あん?」
「あなたがほしいのは、お金じゃないと思うの」
 アキの言葉に、男が振り返る。アキは鈴の鳴るような涼しげな声音で、しかしきっぱりと言う。
「あなたがほしいもの。それは、その人の愛でしょう?」
「……なっ」
 男は口をパクパクさせて、次に顔を紅潮させた。
「ば、バカなこと言ってんじゃねえよ! やっぱ黙ってろ」
「黙らないわ。わたしも同じだもの」
 ふっと顔をそむけ、アキはぽつりと言った。
「自慢じゃないけど、わたしに言い寄る男ってけっこういるのよ」
 少女のその美貌をもってすれば、それも当然のことだろう。なんの疑いもなく、男は納得する。
「でもね、男たちはみんな、わたしのこの顔が目当てなの。心じゃない。わたしの顔しか見ていないのよ」
 そのときだった。
 窓の割れる大きな音とともに、円筒状のちいさな何かが店内に転がった。警察が投げ入れたのだ。黒っぽい色をしたそれは、突如激しく煙を吐き出しはじめる。煙幕だ。こちらまでまだ届いていないため、それが催涙性のものかは分からないが、白い煙はみるみる店内を覆いはじめる。煙に隠れた、割れた窓の向こうから、たくさんの足音が近づいてくる。少女の言葉に動揺した男の表情を確認し、()れた警察がついに動いたのだろう。
 男は急いでアキの首に腕を回し、包丁を突きつける。
「来るなっ! 来たらこいつを殺すぞっ」
 狂ったように叫ぶ男。しかし、足音は止まらない。
「……あなたもそう。わたしもそう。誰も、自分に本当の愛を注いではくれない」
「お前は黙ってろ!」
「愛してほしいのに、愛されない」
「黙ってろって言ってるだろ!」
「あなたはその先、幸せを掴み取れる?」
 アキは問う。暴力的な足音はどんどん近づいてくる。視界はすでに白く染まっている。
「わたしは……わたしは無理だと思う。あなたはどうか分からない。でも、わたしはもう、駄目なんだと思うの」
「バカ野郎!」
 男は叫ぶ。
 男と少女。形は違えど、誰かの愛を欲するふたりに、一番大切なこと。それは――
「幸せってのは、自分で掴み取るもんだ! 愛されたいなら、まず愛せ! 誰かを愛せ!」
 レジカウンターの奥に陣取ったのは間違いだった。逃げる場所がない。こちらからは何も見えないが、向こうはきっと暗視スコープだかサーモグラフィーだかなんだかで、こちらの姿は見えているはずだ。ヘタに動いたところでどうしようもない。いまはなんとかこの少女を利用して逃げることを考えなければ……。
 狼狽(ろうばい)する男の耳に、アキの声がそっと響く。
「ありがとう」
 それは、あまりにも悲しげな声だった。
「でもね、そんな人たちばかりを見ていると、もう誰かを愛することなんてできなくなるのよ」
「お前っ……」
「あなたは愛する人を振り向かせるために、こんなことをしてる。それはけして褒められることじゃないけど、それでも、あなたの愛の力の強さはよく分かるわ」
 包丁を握る男の手に、そっとあたたかいものが触れた。やわらかい。それは、アキの手だった。
「おい、何をしてる!」
「でもね――あなただけ助かる(、、、、、、、、)なんて許せないの」
「おい、何を言ってるんだっ?」
「……さようなら」
 瞬間。
 男の手に、ずぐり、と鈍い感触が伝わった。
 やわらかいなにかを刺すような、嫌な感触。
 アキの身体がずしりと重くなる。彼女の力が抜けたのだ。
 首に回した腕に、熱い液体の感触。それはどくどくと、とめどなく溢れては、男の腕を伝って流れ落ちる。
「おいっ、しっかりしろ!」
 しゃがんで彼女を寝かせ、上半身をわずかに抱き起こして身体を揺する。
 しかし、アキはもう、動かなかった。
「しっかりしろ! おい、なんとか言え!」
「動くな!」
 不意に、背後から羽交い絞めにされる。
 それから床に――アキのとなりにうつ伏せに叩きつけられ、後ろ手に回された両手首に、銀の輪がガチャリとはめられた。
 男の強盗は失敗に終わった。
 
「なぜ殺したのかね」
 スーツをまとった壮年の男――刑事は問う。
「少女は君にとって、逃げ切るための大切な人質だった。そうだろう?」
「…………」
 うつむいたまま、男は答えない。
 刑事は辛抱強く、男の言葉を待った。
 わずかばかりの沈黙のあと、男はようやく口を開いた。
「あいつは……間違ってるんです」
 慎重に耳を傾けなければ聞き取れないほどの、ちいさな声だった。
「間違っている?」
「人生なんてこれからなのに……。勝手に悟って、結論付けて……」
「……それは、君の自嘲ととって良いのかね?」
「あいつはまだ、死ぬべきじゃなかった……」
「殺したのは君だろう」
 渋面を隠そうともせず、刑事は言う。
 男は膝の上で組んだ手を震わせ、それはしだいに全身に感染していった。ぶるぶると震え、かみしめた歯に、熱い涙が伝う。男は見上げない。ただただうつむき、震えながら涙を流す。
 刑事はふむ、と唸り、質問を変えた。
「君が少女を――小森アキさんを殺害した。これは認めるかね?」
 男はびくりと肩を震わせ、アキの言葉を思い出す。
 
 ――あなたがほしいもの。それは、その人の愛でしょう?
 
 バカなことを言ってくれたものだと思う。
 愛を欲しがっていたのは男だけではない。アキのほうこそ、強く、願っていたはずだから。
 なのに、なぜ……。
 男は顔を上げた。涙でぐしょぐしょになった顔で、刑事をまっすぐに見据える。刑事は微動だにせず、男を見つめ返している。
 男は思う。
 自分もそう。少女もそう。どこかで、なにかを間違えてしまった。狂ってしまった。
 大きな過ち。それはきっと、取り返しなんてもう、つかなくて。
 男は言う。今度ははっきりと――
「俺が、殺しました」
 
 数日後、男は刑務所の中で自害する。
 細くやぶいたシーツでロープを作り、それで首を吊った。
 このことは新聞の片隅でちいさく取り上げらた。
 だが、ただそれだけだった。

欲しかったもの

欲しかったもの

「わたしはもう、駄目なんだと思うの」

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-15

Copyrighted
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