願い事ハートマーク

願い事ハートマーク

 わたしがまだ幼少の頃の話。
 仲良しの拓人(たくと)と近所の大きな廃屋(はいおく)に忍び込んで探検ごっこをしていたわたしは、偶然見つけた地下室ですごいものを見てしまった。
 通風量の少ない淀んだ空気。階上から射すわずかな光。ぼんやりと浮かぶ棚と、そこに陳列された、見渡す限りの怪しげな瓶。くぐもった空気に混じるかすかな刺激臭は、これのせいだろうか。暗闇の両脇にずらりと並んだ棚は子供の背よりも高く、ともすれば、ちょっとでも揺らしたら全部自分たちのほうに倒れてきそうで、わたしたちは棚から距離を取れる場所、その中央をびくびくしながら歩いた。
 しばらく進むと、闇の中にぽうっと光る場所を見つけた。助かった、と思う反面、怖くもあった。光の先には怪物が待ち構えていて、光に寄ってきたわたしたちをぺろりと食べちゃうかもしれない――そう思うと足がすくんだものだったが、それでも幼いわたしたちは、きっと助かるだろうという根拠のない自信や、なにより好奇心が強かった。
 わたしと拓人は、(ほの)かな光源に向かって、ゆっくりと歩を進めた。一歩……一歩……。
 そして光の正体を知る。それはろうそくの灯りだった。ゆうらり、ゆうらりと不気味に揺れる、(だいだい)の灯火。その灯りに照らされる、子供がひとり横になれる大きさの、木製の机。そして机に向かい、ぶつぶつと何やらつぶやいている、大きな布を頭からすっぽりかぶった老婆。
 わたしはちいさく悲鳴を上げてしまった。しまったと思ったときはすでに遅く、老婆は不法侵入の子供たちをじろりと睨めつけた。
「お前たち、そこで何をしているんだい?」
 一瞬で背筋が凍りつくような、しわがれた声で老婆は言う。
「み、道に迷ったんだ!」
 拓人は咄嗟(とっさ)に嘘をついた。普段からわたしに平然と嘘をいっぱい教えていたから、慣れというか(くせ)みたいな部分もあったのだろうけど、ともあれ老婆はさして怒るふうでもなく、「そうかい」と答えたきり、再び机上の薬瓶を混ぜたりかき回したりしていた。わたしたちは力が抜けてしまって、引き返すでもなく、ただただその場で老婆の行動をじっと凝視していた。
 どのくらい時間が経っただろうか――根負けしたわたしは、老婆に尋ねた。
「あの、お婆さんはここで何をしているの?」
 すると彼女は待ってましたとばかりに、ぎらぎらと輝く目でこちらに振り返り、わたしたちにずいっと詰め寄った。
「これはね、魔法の薬なんじゃよ」
 興奮を抑えきれない勢いで、老婆は言った。
「ま、魔法の、薬?」
「そうさ。この薬を飲んだ人間はね……」
 まったく理解できない老婆の口上(こうじょう)が続き、どう見ても怪しい薬瓶を手渡された。わたしと拓人にひとつずつ。困り顔のわたしたちをじっと見つめながら、「さあ、飲んでごらん」と老婆は勧めた。飲まなきゃ殺される――そんな圧倒的な圧力に子供が(あらが)えるはずもなく、わたしたちは味わわずに一気に喉の奥に流し込んだ。途端、視界がぐるぐると回り始め――気がつくと、そこは廃屋の外だった。もう一度地下室の入口を探したけど、そんなものはどこにもなかった。
 きっと夢だった――と、そう思うことにした。

 そして現在。
 昼休みの教室に、わたしの悲鳴が響いた。
「あ、あんた何やってんのよ!」
「見て分からないのか、チャーミング螢子(けいこ)? あ、その角度からじゃ見えないか。すまん」
 しれっと答えてくるのは、身長百九十センチオーバーの巨大な影。逆光で顔が見えないが、見なくても分かる。高校生にもなってこんな――スカートめくりなんて小学生のような馬鹿なことをするのは、わたしの知る限り一人しかいない。背後からわたしのスカートをべろーんとつまみ上げ、「ほほう、これは匠の技ですなあ」とか言ってまじまじと観察するような変態は。
「いっぺん死ね!」
「おっと」
 わたしの渾身の平手打ちをひらりとかわし、重力って何ですかと言わんばかりに後方に大きく飛び退(すさ)る。……その巨体でそれだけ身軽に飛び跳ねられると、ちょっと気持ち悪いなあ。
「何だ、構ってほしいのか? それならそうと早く言いなさい。五秒で脱ぐからちょっとそこで待ってろ」
「構うな! 脱ぐな!」
 へらへらと笑う彼に力いっぱい叫んで返す。
「あんたなんか大っ嫌い!」
 そう言ってやると、彼はさも心外だとばかりに大きく肩をすくめ、ショックと落胆のジェスチャー。
「そんな悲しいことを言わないでおくれ、ハニー。俺はこんなにも君を愛しているというのに」
「どこがよっ。いつもいつも嫌がらせばかりじゃない!」
「それは素直になれない俺の、屈折した愛情表現なのさ。ほら、男子ってよく好きな女子にいたずらしちゃうだろう? つまりはそういうことなのさ。しかし心配はいらないよ。紆余曲折の末、二人は真実の愛に至ることができる予定だから」
 クラスのみんなが見ているというのに、この男はへっちゃらな顔でもって、そんなことを言いやがる。
 わたしは真っ赤な顔を見られないように、
「バカ拓人っ!」
 叫んで、教室から逃げ出した。某配管工のBダッシュをぶっちぎれるスピードで。
 そう――この変態バカの巨大な悪魔こそ、わたしの親友だった小泉拓人、その人なのだった。

 どこでどう道を踏み外したのか、昔のやさしい拓人はもういなくて。
 代わりに台頭してきた、わたしを悩ませることに生き甲斐を感じている高校生拓人は、毎日毎日性懲(しょうこ)りもなく、わたしの嫌がることをひとつひとつ丁寧に実行してくれやがる。そして家が近いものだから、学校が終わってからもそれが続いたりする。ああ、わたしは一体どうすればいいのやら。
 ほら、今も校門の前で、下校する生徒たちの群れからぴょこんと頭ひとつ分飛び出ているのが見える。迷子になる心配がなくていいね、ほんと。どうせまたわたしに嫌がらせをするつもりなんだろうけど、そうはいかないんだから――そう思ってわたしが裏門へと回れ右しようとした、その時だった。
「……え?」
 拓人のもとに歩み寄る人影。それはとても綺麗な大人の女だった。
 彼女は拓人を呼び止め、何やら仲良さそうに話している。拓人も拓人で、まんざらでもなさそうにへらへら笑っていて。その光景は、とても楽しそうに見えた。
 誰、あの人?
 分からない。分からないけど、これだけは分かる。二人はああやってお互いに笑顔でいられる、そんな関係なのだ。
 足が震えている。その震えが伝染して、脳が揺れて考えがまとまらない。二人から目を逸らせない。息が詰まる。呼吸が浅く、早くなる。
 ひょっとして――と、不意によぎる、答えのような何か。
 ひょっとして、彼女は拓人の――
 その結論にたどり着いた途端、胸の奥にズキンと鋭い痛みが走る。突き刺さるようなそれは、胸の鼓動をどんどん加速させていく。このまま倒れてしまえたら、どれだけ楽だろうか。
 不意に。
 拓人がこちらに気がついた。
 見つかった――そう思った瞬間、世界が反転した。

 倒れたのかと思った。ようやく倒れてしまえたのかと。
 でもこうして、わたしは立っている。
 じゃあ何だっていうの、この世界は?
 空は真っ黒で、そのくせ人や建物ははっきりと色をもって見える。ここにいるだけで吐きたくなるような嫌悪感はみんな同じみたいで、中にはぐったりとうずくまってしまっている人もいる。突然の事態に誰もが困惑の、あるいは恐怖の表情を浮かべている。遠くから、車のクラクションが聞こえてくる。事故があったのかもしれないし、交通が一気に麻痺してしまったのかもしれない。見上げると、雲は空とのコントラストを強調するような真っ白だった。
「な、何よ、これ……」
 そうつぶやいたところで答が返ってくるわけもないし、何より答えられる人なんてきっといない。立っていられなくなったわたしは思わず膝をつき、倒れそうな身体を必死に両手で支えた。
「螢子」
 誰かがわたしを呼ぶ。頭が重くて顔を上げられないけれど、やっぱりわたしは、この声だけはどんなときでも分かっちゃうみたいだ。変態バカの巨大な悪魔――
「拓人……」
「大丈夫か?」
 彼はわたしを無理に起こそうとせず、自らも片膝をついて、わたしの背中に手を当てた。
 ああ、なんか温かい。
 その手の温もりは、わたしのよく知っている、やさしい拓人のそれだった。
 それで安心してしまったのだろうか――今度こそ、わたしは気を失った。

 夢を見た。
 幼い日の――あの日の不思議な地下室の夢。
「この薬を飲んだ人間はね……」
 しわがれた声で、老婆は言う。
「たったひとつだけ、願い事が叶うんだよ」
「願い事が叶う?」
 オウム返しに訊くわたしに、老婆はくっくっと喉の奥で笑って、
「そうとも。何だって叶うのさ」
 わたしと拓人を交互に見やって答えた。
 それは見ようによっては、いや、どう贔屓目(ひいきめ)に見ても、とても信じられないことだったし、それどころか、謎の液体を飲んだ途端にひどい病気が発症して、身体中が変な色になって死んでしまうと言われたほうがよっぽど説得力のあるシチュエーションではあったけれど、それでも老婆はひとり、満足気にうんうんとうなずいて、子供たちの困った顔なんてまったく気にしていないふうだった。
「でもねえ、それにはふたつ、条件があるのさ」
「条件?」
「あんたたちが物事の分別がつく歳であること。そして、心からの願いであること。これが条件さね」
 水分のない、かさかさの手で子供たちの頭をなで、薬瓶を手渡してくる。
「くれるの?」
 拓人の問に、老婆はやっぱりひゃっひゃっと笑って、「実験台にさせてもらうんだよ」と答えた。
「なあに、実験台といっても、その薬は完成しておる。心配は無用じゃよ」
 老婆のぎらぎらした双眸(そうぼう)に吸い込まれるような感覚。未知の液体。わたしたちにとって、それらは恐怖の対象でしかなかった。
「さあ、飲んでごらん」
 そして――

「お、気づいたか?」
 目覚めたわたしの目の前に、拓人の顔があった。しゃがんだ姿勢の彼に抱きかかえられているのに気づいて、慌てて飛び起きる。
「そんな反応するなよ、ハニー。ちょっと傷つくぞ」
 真顔でぶーたれる拓人の頭を軽く小突き、
「馬鹿! そんなこと言ってる場合じゃないでしょうが」
 今の今まで気絶していたことはひとまず棚に上げておくとして。
 依然、黒色の世界がわたしたちを覆っていた。
 辺りを見渡すと、いま地面に立っている人間はいない。みんな力尽き、倒れてしまったようだ。あちこちから細いうめき声が聞こえるが、それ以外の音はもう届いてこない。
「何なのよ、これは……」
「考えられるのは一つだな」
 ぼやくわたしに、拓人はあっさりとそう返す。
「あんた、分かるの?」
 驚いて彼を見やると、
「お前には分からないのか。俺は悲しいぞ、ハニー」
 顔に手を当て、大げさに悲しんでみせた。ああもう、じれったいなあ!
「いいから早く教えなさいよ」
「……本当に分からないのか?」
 唐突に見せた彼の真剣な表情に、思わずどきりとする。
「この世界は――」
 そして、拓人は言った。
「お前が望んだんだよ」
「…………は?」
 こいつが何を言っているのか分からなかった。わたしが望んだ? いやいや、望んだから真っ暗になったとか意味わかんないし。ていうかわたし、こんなことを望んでなんて……。
 そんなわたしの心を察したように、拓人は続ける。
「なんでこんな世界を創ろうとしたのかは知らないが――こんな芸当ができる人間なんて、俺とお前くらいなんだぜ?」
 拓人とわたしだけ――
 はっと息を飲む。さっき見た夢のせいだろう。わたしは突然理解した。
「あの日の薬……」
「二人同時に同じ夢がリンクするなんて、俺は信じない。だとしたら、あの地下室は実在した――そう思わないか?」
「だってそんな……それこそ夢のような話、信じられないよ」
 あの日の不思議な、不気味な地下室は夢だった。あの廃屋の薄気味悪い雰囲気から、子供特有の大きな発想力で、そして経験の浅さゆえの、想像力の狭さで、ありもしない怖い夢を――内容の近しい夢をふたりで見ただけだ。わたしはそう思っていたのに。
「信じられなくても、これが現実だ。周り全員がぶっ倒れちまうような世界で、身体が特に頑丈というわけでもない俺たちだけが、こうしてなんとか立っていられているのも、お前が創った世界だからだ。ふむ、一体なんでまた、こんなサイコな世界を望んだりしたんだ、お前は?」
「望んでなんか……」
 望んでなんかいないよ。わたしの気持ちなんて、拓人には絶対分からない。
「んー、まあいいか。さっさと元の世界に戻そう」
 言うなり、拓人はよっこらせと立ち上がった。
「で、できるのっ?」
「お前にできて、俺にできないことはない」
 不安でいっぱいなわたしにしれっと返す。こんなときにまで大口を叩くこいつって、実はけっこう大物なのかもしれない。まあ身体は大物なんだけどね。大物というか大きな者というか。ともあれ、ちょっとだけ尊敬する。ほんと、ちょっとだけね。
 そんなわたしの熱い視線を一身に受けた大きな者は、その大きな両手をいっぱいに広げ――
「…………」
「…………」
「…………」
「……ね、ねえ、何してんの?」
「俺にも分からん」
 堂々と言い放った。
「ばっ、馬鹿ああああ!」
「ふむ、思ったより難しいな」
 わたしの精一杯のシャウトをさらりとかわし、腕組みしながら首を傾げる拓人。
 やっぱり駄目だ、こいつは――そう思ったら、急に身体が重くなってきた。ここまでなんとか耐えてきたけど、拓人とわたしが他のみんなよりこの世界に耐性があるみたいだとはいえ、そろそろ限界が近い。頭がくらくらする。気持ち悪い。まぶたが重い。
「そうか、分かったぞ。もっと具体的な願いが必要なんだな、多分」
 拓人の声が遠くなる。分かったのか多分なのかどっちだよ。
「俺は螢子と……」
 そしてわたしは、再び深い眠りに落ちた。

「……お嬢ちゃん、起きなさい」
 わたしに向けられた、しわがれた声。頭をなでる、かさかさの手。
 目を開けると、そこはあの日の地下室だった。あの日と違うのは、わたしの身体が高校生のそれであることと、拓人がここにいないこと。
 老婆はやさしそうに、悲しそうに目を細め、しわしわの顔に、より深いしわを刻んだ。
「いけないよ、あんなことに薬の力を使っては」
「でも……」
 いまだ混濁(こんだく)する意識のまま、わたしはよろよろと起き上がった。
「でも、あいつが……」
「ああ、分かっているとも」
 わたしの頭をなでながら、老婆は言う。
「感情的になることは悪くないさ。あんたたちのように多感な年頃ならなおさらね。自分を押し殺して育つより、もっと多くのことを学ぶべきなんじゃよ」
 ろうそくの灯りがゆうらり、ゆうらりと揺らぐ。その灯火に照らされて、壁の棚にびっしりと並べられた薬瓶の影が伸縮する。
「でもね、あの少年は、あんたが心配するような男じゃないよ」
「し、心配なんて!」
「特別に教えてやろうかい? あの少年が薬に願ったことを」
 楽しそうに笑う姿は、やっぱりあの日の老婆のそれだった。
「拓人の……願い?」
「ああ。あの少年はね、あんたと――」

 気がつくと、そこは学校の保健室だった。
 白い室内。さらさらと風に揺れるカーテンと、その向こうにはオレンジ色の空。灰色の事務机に、赤や青のファイル類。つまりは色のある世界に戻ってきたわけで。
 ベッドに寝かされていたわたしは力なく首をめぐらせて、ふと、足の裏がくすぐったいと感じた。
「……何やってんの?」
 そう声をかけると、
「ぬっ、もう起きたのか。つまらん女だ。せっかく俺が足の裏に素敵な落書きをプレゼントしようと目論(もくろ)んでいたというのに。だが安心しろ、ハニー。お前がどれほどつまらなくても、俺はお前を愛しているぞ」
 わたしの足元、大きくふくらんだ布団の下から声が返ってきた。
「落書きと言ってる時点で素敵でもなんでもないわ」
「まあ今回は片足で許してやるか」
「片足は仕上がったんだ……」
「任せておけ。バッチリだ」
 そう言って顔を出したのは、やっぱり変態バカの巨大な悪魔だった。手にしているのは赤いマジック。油性かよ、この野郎。
「あの後……どうなったの?」
 訊くと、彼は「何のことだ?」ととぼけて見せた。
「何のことって、あの黒い世界のことよ」
「黒い世界? おいおい、その歳で中二病かい、ハニー。そうでなければ、夢でも見ていたんじゃないのか?」
「ゆ、夢なわけ……」
「お前は授業中、貧血で倒れた。だから俺が率先して、お前をここに運んだ。そういう設定だ」
「設定って……」
「あの世界はみんなの記憶から消えてるみたいだ。初めからなかったことになってる。だからお前もそういうことにしておけ」
 そう言って、主のいない椅子に腰を下ろす。
 そっか。やっぱり拓人が助けてくれたんだ。
「ありがと」
 お礼を言うと、彼は「別にいいさ」と笑って見せた。
「まあ、なんでお前があんな世界を望んだのかは、いまだに分からないけどな」
「そ、それは、その」
 これはいい機会かもしれない。あの校門前の女性のことを訊けば、少しは心のもやもやがなくなるかもしれない。
「あ、あのね、拓人……」
 わたしが意を決してベッドから乗り出したそのとき、保健室のドアが開いた。
「あら、小泉くん、またサボリ?」
 清潔そうな白衣をなびかせて入ってきたのは、なんと件の(くだん  )女性だった。え、なんで?
 戸惑うわたしを指さして、拓人はそれに答える。
「今日はこいつの看病ですよ、先生」
 ……先生?
「それは保健医の私の仕事でしょ。さあさ、あなたは教室に戻りなさい」
 え? え?
「よく言うよ。今までここ空けてたくせに」
「職員室で用事があったのよ。いいから戻りなさい」
「へいへい」
 拓人は肩をすくめ、わたしに「じゃあな」と言い残して出て行った。
「まったく……」
 ドアに向かって嘆息(たんそく)し、女性――保健の先生はわたしに向き直る。
「あなた、彼のクラスメイト?」
「は、はい。そうですけど」
「じゃあ、あなたからも注意してやってくれないかしら。彼のサボり癖、なかなか治らなくて手を焼いているのよ」
「は、はあ」
「いつも仮病でここに来ては、ベッドを占領して寝てるのよ。昨日も校門前で待ち伏せして注意してやろうと思ったんだけど、うまく話をはぐらかされちゃってね」
「え、そうなんですか?」
 彼女の言葉に、思わず身を乗り出す。
「そうよ。あの子って口が達者だから」
 いや、そっちじゃなくて。
 知らず、わたしは顔が緩んでしまっていた。そうか、そういうことだったのか。
 入学してからこっち、健康だけ(ではないと思いたい)が取り得のわたしは、ご多分に漏れず保健室なんて利用したことがなかった。朝礼や全校集会なんかで彼女を見かけたことはあったのかもしれないが、保健室にいない先生を見かけたところで、どのみちそれが保健医だなんて分からない。
 わたしはベッドから起き上がり、
「あら、もういいの?」
「はい。大丈夫です」
 保健室を後にした。

「あの少年は、あんたと共に幸せに生きたいと願ったのさ」
 老婆は言った。
 心からの願いしか叶わない、魔法の薬。
 彼の思いが真実か否か――それはこの鮮やかな世界が物語っている。
 自宅で発見することになる足の裏のへたっぴなハートマークは、わたしの身体をほんの少し軽くしたような気がした。

願い事ハートマーク

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「たったひとつだけ、願い事が叶うんだよ」

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-15

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著作権法内での利用のみを許可します。

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