そして誰も…

 下條が、今年小学校に上がったばかりの息子の和之がいないことに気付いたのは、昼少し前だった。
 普段は日曜日でも接待ゴルフで家を空けることの多い下條が、珍しく朝から和之と遊んでやったのだが、慣れないせいかすぐに疲れてしまい、早々に妻の明子にバトンタッチした。しばらく二階の書斎でビジネス書などを読んでいたのだが、下に降りて来て和之の姿が見えないことに違和感を覚えた。今日の昼は家族全員で外食に行く予定だから、一人で外に遊びに行くはずがない。
「おい、明子、和之はどうした?」
 リビングでファッション雑誌のページをめくっていた妻に声をかけると、怪訝な顔をした。
「え、いきなり何よ。カズユキさんって誰?」
「ふざけるなよ。それとも、鬼ごっこでもやらせるつもりか。早く出かける準備をさせろよ」
「ちょっと、あなた、何わけのわからないこと言ってるのよ。熱でもあるの?」
「だから、もう、おふざけはやめろよ。和之はどこにいるんだ」
 最初ムッとしていた妻は、あきれたような表情に変わっていた。
「ねえ、本当にどうしたのよ。誰のこと?」
 一瞬、カッとなりかけた下條は、改めて妻の顔をまじまじと見た。
「おまえこそ、大丈夫か。まさか自分の息子の名前を忘れたのか」
 すると、妻はみるみる不機嫌な顔になった。
「何よそれ。あなたの妄想?子供がまだできないのはわたしのせいじゃないし、できたとしても男の子とは限らないわよ」
「ああ、もう、いい」
 妻の小芝居にこれ以上付き合いきれないとばかりに、下條はリビングを出て、廊下の突き当たりの子供部屋のドアを乱暴に開けた。
「おい、和之、隠れんぼはもう」
 終わりだ、という言葉は出てこなかった。
 確かに子供部屋だったはずの奥の四畳半は、部屋ですらない、クローゼットになっていた。
「いったい、どうなってるんだ」
 妻が何か知っているだろうとリビングに引き返すと姿が見えず、代わりに田舎にいるはずの母親が座っていた。
「おふくろ、来てたのか。明子と和之を見なかったか」
 だが、母親は下條に言われてびっくりしたような顔をした。
「あれ、お客様が来るのかい。それなら準備をしないとね。お昼も食べていかれるんだろうね」
「何言ってんだ。だいたい、こっちに来るなら来るで、前もって連絡してくれよ」
「おかしなことを言うね。おまえが未だに嫁をもらわないから同居して世話をしてやってるのに、まるであたしがいないみたいに。ははあ、彼女でもできたのかい。それなら遠慮することないよ。おまえが身を固めてくれさえすりゃ、あたしゃいつだって田舎に帰ってやるからさ」
 下條は母親の言うことを無視して、二階に駆け上がった。
「みんなして、おれをからかうのはやめろ!明子、和之、どこにいるんだ!」
 だが、二階をくまなく探しても誰もいなかった。それどころか、一階に戻ると母親の姿もなかった。
 リビングはいかにも男の一人暮らしというふうに散らかり、台所にはカップラーメンの容器が散乱していた。
「どうなってんだ、これは。おれの頭がおかしいのか」
 急に不安に襲われ、知り合いに連絡を取ろうとして、リビングの固定電話がないことに気付いた。それだけではない。確かにポケットに入れていたはずの携帯電話もなかった。
 居ても立ってもいられなくなり、家の玄関から外に出てみると、愛車がなくなっていた。呆然としている下條の目に、ゆっくりしたスピードで巡回中のパトカーが見えた。
「すみません、すみません!車を盗られました!」
 パトカーが停まり、警官が一人降りてきた。
「何かありましたか?」
「ここに住んでいる下條哲也といいます。家の前の駐車場に停めてあった車がないんです」
「一応、免許証を見せていただけますか」
 だが、下條が必死でポケットを探っても、何も出てこない。警官の顔に訝しげな表情が浮かんだ。
「ええと、家に忘れてきたみたいです。ちょっと取ってきますので」
 あわてて振り返った下條の動きが、急に止まった。
「どうされました?」
「家が、おれの、家が」
 そこには、『宅地造成中、来春より販売開始。先行予約受付中』という看板だけがあった。
「ちょっと、交番まで御足労願えますか。近頃、このあたりで不審者出没の情報がありましてね」
 その時、パトカーを運転していたもう一人の警官が窓から顔を出した。
「おい、何やってるんだ。そろそろ行こうぜ」
 外に出ていた警官は、同僚の方を振り向き、自分の横を示した。
「え、いや、この不審者を、あれ」
 そこには誰もいなかった。
(おわり)

そして誰も…

そして誰も…

下條が、今年小学校に上がったばかりの息子の和之がいないことに気付いたのは、昼少し前だった。普段は日曜日でも接待ゴルフで家を空けることの多い下條が、珍しく朝から和之と遊んでやったのだが、慣れないせいかすぐに疲れてしまい、早々に妻の明子に…

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted