神ヒト血鬼~ヒューマニズム・オブ・レスタト~

神ヒト血鬼~ヒューマニズム・オブ・レスタト~

#0『もう一度アージェンタイトで』23265字

 受け継いだものの重さを知れば、今は躊躇うこともできない。
 たとえどんな悲鳴を聞いても、切り裂く手を止めてはいけない。
 同じものだとわかっていても。同じものだとわかっているから。
 託され、背負い、受け継ぎながら、同じだけの何かを裂いて、屍の山を一人で築く。
 ただ一人生き残った理由はわからなくても、
 誰に理解されずとも、後に誰もいないから、たった一人で祈り続ける。
 他に救いの道があっても。
 この道の半ばで死んだ、彼らの分まで歩いているから。

  ◆

「気を付けて下さい、チーフ。コーティングは有って無いようなものですから。そんな普通の手袋ごしじゃあ触れた途端、手首まで崩れますよ」
 開かれたトランクケースの内側は、まるで宝石箱のように紅く(ごう)(しゃ)な布張りだった。そこに半ば埋まりながらズラリと並ぶ銃弾たちに手を伸ばすことをやめて――アルマンは息を呑む。
「……ふざけてるのか? そんな劇物、また混戦に持ち込まれたら使いようが」
「無いですね。だから弱装弾として再調製してあります。入荷が遅れたので、間に合ったのはこれだけですが」
「再調製? 入荷だ? オイこの弾……何処から調達しやがった」
「騎士団のひとつにツテがあります。そこに無理を言って、流してもらいました。どの貴族領の騎士団かは、訊かないでくれると助かります」
「……なるほど、有る所には有る訳だ。しかも、街で何が起きようと我関せずの引き籠もり共に、そのままじゃ危なっかしくて使えねえ高純度の銀の銃弾ときたもんだ。お似合いだよ、洒落が利いてやがる。くそったれが」
「そういう負い目が彼らにも有るから、調達できたんですよ。貴族領にだって、あの殺人鬼の噂は伝わっていますし……私たちに対処を押し付けることに、納得してもいないんですから」
 アルマンをチーフと呼んだ若者は苦笑し、トランクの縁を指で小突いた。そして、すぐに笑みを止めて言葉を再開する。
「用意できた弱装弾は、短機関銃(サブマシンガン)の弾倉一つ分。私たちの防護服――クラスⅣのプロテクターを貫徹しない、ギリギリの威力です。これの持ち手が仲間に銃口を向けた場合、私たちは殺人鬼『ヴァニッシャー』の常套手段にまんまと填ったフリをして、裏をかくことが出来る」
「お前が使え、レオン。お前以外に居ない。今夜の作戦、いざという時はそいつで俺ごと撃て」
「わかりました」
「他の奴にも、そう言っとけ。的が俺なら、弾がなんだろうと構わず撃て」
「……チーフ。逆のことを私が要求したら」
「命令だ。わかったと言え」
「……ほんと、自分勝手な人ですね。どうして皆、ついていくのか。私も含めてですが」
 嘆息しつつ。レオンは明確な肯定も否定も語らなかったが、アルマンには充分だった。
「こっちの台詞だよ、こんな部下殺しに――くそったれが」


 かつて雪という現象があったという。空から降り注ぐ、柔らかで儚い氷の結晶だったという。
 ――そんな妖精譚を、自分は何故知っているのだろうか?
 どの本にも載っていなかったはずだ。創成期以前の文献は、平民街では手に入りようがない。人から聞いた憶えも無い。むしろ誰からも教わっていないという妙な実感だけがある。
 知識というよりは、記憶に近い手触りだ。
 知らないものを思い出すなどと、形容するだけでも馬鹿らしいが。
 それでも、『ヴァニッシャー』追跡のために初めてコフィン・シティを出て、この廃墟の風景を一望した時、これが雪の降る様に似て非なることをアルマンは悟ったのだった。
 ここに降り注いでいるものは、雪ではなく砂塵だ。
 雪と違って溶けもせず、土地を潤すこともなく、そして一時たりとも降りやまず。
 ゆっくりと降り続く微細な砂の粒たちは、遙か彼方で竜巻にでも巻き上げられた石礫の成れの果てなのか、アルマンが暮らす街の土壌とは別の世界の匂いがした。
 大量の砂に埋もれて、ビルの隙間にあるはずのアスファルトの地面はもう何処にも見当たらない。低所にある建物の一階二階は埋葬されて既に久しく、堆積に耐えかねた高架道路(ハイウェイ)は折れて砂場に突き刺さっている。
 まれに大型トラックが斜めに半身を覗かせているのは、おおかた周期的に流砂でも起こっているせいなのだろう。それならば、廃ビル群の優に過半数が、斜めに傾き、横っ腹を何かに抉られたような傷をさらしているのも説明がつく。
 砂に埋もれた無人街。あちこちで傾き、傷付き、倒壊している建造物。錆び付いた機械たち。
 どちらを向いても横たわっている、慣れ親しんだ文明のカタチ。
 時を越えて、まるで自分の街が滅んだ未来にでもやって来たような、空虚な現実感。
 そんな光景が、数キロ先の巨大な「壁」まで続いている。
『通信指揮車より最終警告。……、残り……を切りました。作戦中止、……下さい。繰り返します、日の出まで残り二〇分を切りました。今作戦は失敗と判断。撤退を最優先……』
『突入開始だ! レオンの班は四階へ上がれ!』
『了解。各員続け! 時間が無いぞ!』
 砂の立ち込める夜空に、儚い電波が放たれては消えていく。
 この街にはもう有り得ないはずの、砂風以外の、動くモノたち。砂を踏み荒らす意志の群れ。
 光が瞬く。銃声の残響を、新たな銃声が掻き殺す。それはある廃建築――かつてはオフィス街の一角であったに違いない、一棟の廃ビルだけで始まった。
 砂に埋もれた一階二階を闇に閉ざしたまま、まずは三階の一室に銃火が灯された。
 三階が闇を取り戻す少し前に、四階が瞬き始める。そして四階が消灯する前に、最上階にあたる五階ホールの窓が最も強く照らされ、最も念入りな弾雨の洗礼を受けた。
 窓を塞いでいた板金が飛ぶ。壁に亀裂が走り、一箇所また一箇所と砕けて粉塵を吹き散らす。
 発火炎(マズルフラッシュ)に照らされた部屋は、階数に関わらず、どれも廃ビルの西側だった。
 東側はとうに崩れ落ちており、誰が隠れ潜む可能性も余地も、もはや無かったためだ。
『室内状況を確認! 屍灰(しはい)、動く標的、共に確認できません!』
『五階奥の通路に屍灰らしきもの有り。二人分と見えますが、砂塵が混ざって判別不能です』
 全ての階から銃火が絶えて、そんな音声通信が飛び交い始めた。
『やはり、殺人鬼がこの建物に逃げ込んだ確証が取れません。クリアリング中なんの抵抗も受けませんでしたし、誘導に失敗していた可能性が……』
『他の逃走ルートは銀鎖のネットで塞いだままだ! 狙撃班も間に合って、建物入り口に煙幕が炊かれたのを確認してる。間違いなくここへ逃げ込んだだろ! ガスと飽和射撃で殺せたはずだ! それが出来るって理由でこの建物を選んだんだから――』
『うるっせえぞ、話し合ってる場合か! 夜明けまでに帰投することだけ考えやがれ!』
 飛び交う全ての通信を、アルマンの怒声が蹴散らした。
 発砲による硝煙も、巻き上げられた砂塵も、そして発煙弾から放出されていた銀の粒子片(チャフ)ガスまでもが、打ち破られた窓や壁の欠損箇所から夜風に()かれて流出してゆく。
 やがて霧散して、建物上階を包む靄が晴れた頃、穴だらけの壁の際に人影が立った。
 屋内を駆け回る他の者たち同様、フルフェイスのヘルメットに防弾服という姿だが、ひときわ目立つ(きょ)()の男。薄明るく変わりつつある空を(いち)(べつ)し、襟元の通信スイッチを押す。
「こちらはアルマンだ。おいレオン! 四階(そっち)はどうなった、無事か!」
『……こちらレオン分隊。戦果は不明ですが、このまま撤退します』
「よし! 狙撃班も応答しろ! おい、どうしたってんだ、聞こえてねえのか!」
 ザザッ、ザッ、と、嫌なノイズがヘルメット内に広がった。夜空は静かだが、砂塵に含まれるなんらかの成分が、今までの作戦中にも幾度か通信を妨げてきた。ノイズはその兆しだ。
「ちっ、こんな時に……まあいい、指揮車に急ぐぞ! 破城槌(ラム)は捨てていけ!」
 近くにいた部下を押しのけ、壁の亀裂を睨み、アルマンは壁に改めて向き直った。
 壁には風穴が空いているが、人の通り道としてはまだ小さい。
 全員で階段を降りていては時間がかかりすぎるので、緊急時は壁に穴を作って、飛び降りて建物を出る手筈だった。その様を見れば三つの狙撃班も、撤退を理解することだろう。
 問題は壁の穴を、人間大にまで拡げる方法だが。
 アルマンは拳銃をホルスターに収納した。代わりに何を手に取る訳でもなく、グローブに包んだ拳を、ただ握り締める。
 そして当然の如く振りかぶった。
 部下のうち、最初から廊下や階段にいた少数が駆け下りていく。残りは数秒後に開かれるであろう突破口を使うつもりで、室内各所への警戒を維持した。
 アルマンの背中を、危なげに見守る者など一人も居ない。
 朽ちた廃ビルとはいえ、銃で崩れなかったコンクリートの壁を「殴って」破ろうとする男。
 そこに疑念を抱く者は居ない。
 この時代の何処にも存在しない。
 ――否定し、阻む者は居るとしても。
 狭苦しい防弾服に覆われた全身を以て、アルマンは拳闘のフォームを描いた。靴底で砂を()き、腰をひねって半身を旋回させ、拳の弧の軌道が最も遠い位置で壁の亀裂に重なるべく、骨格というバネを限界まで軋ませる。
 発射寸前の発条弩(クロスボウ)のように、エネルギーを溜めて傾ききった、直立姿勢に程遠い体勢。
 その臨界の瞬間に、それは起こった。
 一迅の風。
 と共に、何かがアルマンの顔面へ降り注いだ。
 より正しくは、ヘルメットの外装(バイザー)から更に数センチずれた空間へ。今まさに拳で砕こうとしていた壁が勝手に割れて、破片の雨となって殺到した。
 勝手に割れて? 否。
 外から入ってきた衝撃によって、壁は破壊されたのだ。
 先ほどアルマンに押しのけられたまま、半身を窓穴にさらすように立っていた部下一名が、それに捕まった。防弾セラミクスの外装と耐刃鋼繊維の裏地からなる胸部プロテクターが、易々と穴を穿(うが)たれて、素通りも同然に「射線」の通過を許す。
 壁を砕いて屋外から飛来した「銃弾」は、そのまま部下の背中から抜け出でて、アルマンの認識外へと姿を消した。
 防護服とヘルメットをまとった部下が、体を射抜かれた衝撃で重力を失う。
 見えない矢で瞬間、宙に磔刑に処されたように。
 垣間見えた僅かな身じろぎは、断末魔の悲鳴をあげようとしたためだろうか?
 実際にはそれは敵わず、ほんの一瞬だけ、赤い血が見えた。
 アルマンの眼前で、部下は貫かれた胸部からたちまち赤熱を始め、四肢へ伝染させていった。光が爪先に達する頃には、傷口はもう無い。傷口を覗かせていた胴体そのものが、黒ずんだ灰となってボロボロと崩壊を始めている。
 その手にあった物――銀の弾倉を孕むサブマシンガンが、砂塗れの床で鈍い音を立てた。
 あとは防護服やヘルメットごと無形の灰と化して、砂風と混ざり合う。
 その光景を目の当たりにし、部下の名を叫びそうになったアルマンは、しかし踏み留まった。
 肺に溜まった有りったけの空気を、そんなことに使うのではなく。
 今の自分には、他の部下たちへ吼えるべき言葉がある――
「っ、物陰に隠れろオッ!!」
 そう言った頃には既に、別の一人のヘルメットが吹き飛んでいた。軽量合金を主材とするフルフェイス・ヘルメットが宙を舞い、想像したくもない中身を隙間からぶちまける。
 ぱぁん、という破裂音と共に、灰が周囲へ散布された。弾ける瞬間だけ眩しく赤熱し、すぐ漆黒に染まって床に落ちる。それはヘルメットを被ったままでも細かな身動きだけで誰だか判別できるほど、親しく、付き合いの長い部下の――成れの果てだ。
「うわああああああああっ!」
 間近で見た別の一人が悲鳴を上げる。そして、それはそのまま最期の息となった。直前の犠牲者の首から下が灰と化す間に、悲鳴は途絶えて、心臓を撃ち抜かれた穴から「屍灰(しはい)」の噴き出す音に取って代わられる。
 それは『ヴァニッシャー』と戦い始めて以来、何度も見てきた光景の再現だった。
 かくして、瞬く間に三人が消滅した。その犠牲を払ってやっと、他の者たちは部屋から逃れ、またはアルマン同様、無事な壁に隠れる。
(狙撃? 外から狙われただと?)そんなはずは無い。だが――
「こちらアルマン、最上階が西から狙撃されてる! 索敵急げ! B(バイソン)、C(コヨーテ)、D(ディンゴ)、応答しやがれ! ……ああっ、くそ!」
 通信が使えないというのに、風の吹く音は相変わらず聞こえなかった。建材の欠片が散る、パラパラという音。部下たちの体の震えと息遣い。そして自分の心臓の音。
 全てが克明に聞こえるほどの、静寂が訪れる。
「……くそったれが。追い込んだ気になって、射的台に昇ったのは俺たちの方かよ。一体どこでルートを抜けやがった……?」
(チーフ、聞こえますか? 見えました。敵は時計塔です)
(痛っ――なんだ、レオンか? ……時計塔だと?)
 頭の中、鈍痛と共に湧いて出た副官の声に、顔をしかめる。
 アルマンはしゃがんだまま、手頃な瓦礫を掴み、壁に開いた穴の中央めがけて放り投げた。それは驚くべき速さと正確さでたちまち狙撃されたが、その刹那を利用して、外の光景を垣間見ることができた。
 すぐに頭を引っ込めて、頭の中で呟いた。時計塔。確かにそれらしき建物はあった。
 しかし。遠すぎる。
 この廃ビルを含む半径数百メートルの作戦範囲内には、三つの高台があり、アルマンはその全てに狙撃班を配備させてあった。だが時計塔はそのどれよりも遠い。最低でも一・五キロ。
 そんな遠くから、今の精度で狙い撃ちされているのか?
 ここに逃げ込んだと見せかけて、『ヴァニッシャー』はそんな遠くに居るというのか?
 信じがたい。とはいえ、レオンの言である。アルマンは覚悟を決めた。
 この距離で反撃する手段は、アルマンたちには無い。接近する必要がある。
 殺人鬼を(たお)すにしろ、この状況から仲間を逃がすにしろ、誰かがそれをせねばならない。
(……レオン、本当に、時計塔で間違いないんだな?)
(確かです。私の階は高架が射角を遮るので、狙われていません。こちらから仕掛けます)
「ふざけんな、くたばりてえのか!」
 ドゴンッ。窓穴の真下、僅かに残った壁を貫いて、衝撃が再来した。
 手首を吹き飛ばされた若い部下は痛みと混乱のあまり、アルマンが制止するより早く、その場を立ち上がってしまった。追撃によって数秒後、灰と化したことは言うまでもない。
「くそったれがっ……!」
(行きます! 分隊、足に自信のある者だけ私に続け!)
「待て! 俺が囮になる! てめえが続け!」
(無茶です! こちらが先行します、みんな行くぞ!)
 (にわ)かに焦燥を帯びたレオンの声を聞きながら、アルマンは立ち上がり、壁に開いた穴めがけて全速で身を投げ出した。
 足がかりにした廃ビルの壁が、アルマンの脚力とは違う衝撃によって破砕される。
 おそるおそる顔を覗かせた獲物を仕留める算段で放たれた銃弾だろうか? 全く違う勢いで飛び出したアルマンは、同時に、今の自分とレオンのやりとりを五階の部下は聞いていなかったはずだ、という事実を(あらた)めていた。
 念話の扱える平民など、全く以て希有な人材である。かくいうアルマンも、自分にその適性があるということを、レオンと知り合ってから初めて知ったくらいだ。
 とはいえ回線を開くことはできず、持ちかけられた念話に応じるのが関の山であるため、いぜれにせよレオン抜きでは用を為さない才能だったわけだが。
(頼むぞ……ついてこようとするんじゃねえぞ、野郎ども――)
 一応、その心配はないはずだった。何故ならアルマンはこの時、自分に可能なめいっぱいの飛距離を狙ってビルを後にしたからだ。
 公安警察の武装課所属とはいえ、平民の身で咄嗟の跳躍から三百メートル超の飛距離を叩き出せるヴァンパイアなど、署の警官すべて掻き集めてもそう居るものではない。
 部下の追随を許さぬ初速と角度で、アルマンは廃ビルから飛び降りるのではなく、ほぼ真横へと弓なりの弾道で飛び出していた。防護服を押し破りそうな砂風の圧を退けて、暴れる気流に聴覚を塞がれながら、急速に迫る着地点めがけて体勢を反転させる。
 そして別の廃ビルの側壁に、両の靴裏と片手で当たり前のように「着地」した。
 衝撃波が砂の堆積を吹き飛ばす。コンクリート壁に半球状の(わだち)が刻まれる。パラパラと舞い散る砂礫を逆巻く風が拾い上げ、アルマンの視界を遮ったが――距離も砂風もお構いなしに、平民ヴァンパイアの印ともいうべき赤い両目で、アルマンは目的地を凝視した。
 目測一・三キロの西方にそびえる、石造りの時計塔。
 レオンの言が確かなら、その建物の何処かから敵は狙撃を仕掛けてきたはずだ。
 廃墟の街並みという遮蔽物を避けて撃ってきたからには、比較的上の階層に陣取っていると思って間違いあるまい。
 塔の頂の付近、円形の時計盤がびっしりと砂の被膜に覆われている様に焦点を合わせる。
 そしてふと、その直下の階が目に付いた。
 窓とは違う、ずっと広く四角い広間が覗いていた。暗い闇に隠されつつも、砂の洗礼をほとんど受けていないように見える。まるでつい最近まで閉ざされていたかのような――
(バルコニー……か? あそこか?)
 他方、レオンたちの位置と動きは探すまでもなく「感じ取れた」。ヘルメットの中、アルマンは赤い視線を巡らせて、予期していた通りの方角でぴたりと味方を探し当てる。
 眼下の街並みを潜る一団。垣間見えた人影は五人だが、実際は六人だと明確に「感じる」。
 廃ビルから北西へ飛び出したアルマンに対し、レオンらの()った針路は南西。アルマンに比べるとだいぶ小刻みに跳躍を繰り返し、地を這うように廃建築の隙間を駆けて時計塔を目指すらしかった。
 レオンらしい、堅実な移動方法だ。だが街並みは一様ではない。
 時計塔周辺には遮蔽物がほとんど見当たらないことにレオンも気付いているだろう。犠牲者を出さずに、そのエリアを突破できる保証は無い。
(俺が照準を引きつけりゃいい!)
 膝を屈め、コンクリートの側壁を砕きながら、アルマンは第二の跳躍をした。
 身を隠して進むなど論外。飛距離の荒稼ぎも兼ねて、高々度めがけて斜め上に我が身を撃ち出して、先刻以上に硬く立ちはだかる風と重力を打倒して――
 いや、実際には打ち勝ってなどいないのか。
 街並みのどの建物より高い空まで上昇したが、ほぼ同時に失速して重力の虜となる。当然の物理現象だが、問題はその変化のスピードだ。
 ようやく自由落下が始まった頃、アルマンは歯噛みした。
 遅い。まだか。あの副官はアルマンの思考ぐらいお見通しだ。馬鹿な上官が無謀な賭けを始める前に時計塔へ辿り着くべく、全速で急行していることは間違いない。
 時計塔に潜む狙撃手がどれだけの手練れでも、弾丸の速さで数百メートルを跳躍中のヴァンパイアを、いくらなんでも狙いはすまい。
 アルマンが囮として機能するには、早々に見晴らしの良い場所に着地し、レオンが時計塔に取り付くまでの間、その場所に陣取って的になり続ける必要があるのだ。
 そう思って次の足場に辿り着くことだけを考えると、重力が次第に体を絡め取っていく自然の加速度すら遅く思えた。こんな風に感じるのは生まれて初めてのことだったが――
(ん……? なんだこの違和感は?)
 廃ビルから外へ飛び出した。時計塔めがけて廃墟を駆けること数秒、時計塔までの距離は残り約七〇〇メートル。他に動きを感じられる仲間はレオンら別働隊の六名のみ。
 足りない、とアルマンは疑問を抱いた。『ヴァニッシャー』の気配が相変わらず時計塔のどの層からも察知できないのはもはや当然として、あと感じられる気配が遙か後方に置き去りにしてきた部下たちだけだという事実にまとわりつく、この違和感はなんなのか。
 居るはずのものが居ない。感じられるはずの気配が何処からも感じられない。
 その違和感の正体が、廃ビルの周囲三ヶ所に布陣させていた狙撃班らの不在であると。今のアルマンには思い当たるだけの余裕が無く、気付いて動揺できるような(いとま)もまた無く。
 かつては立体駐車場であったと(おぼ)しき構造物の屋上へ盛大に着地した頃には、アルマンはその疑問をすっかり忘れ去っていた。ギザギザに割れた足場に佇立(ちよりつ)し、即座にレオンたちの位置を再確認するや否や、全神経を前方五〇〇メートルに(そび)える大建築へ対峙させる。
(さあ来やがれ! 俺はここに――)
 狙い澄ました施条の一射が、既にアルマンの眼前に在った。ほとんど偶然の所作で身をねじり、すんでの所で左に躱すと、すかさず次弾が飛来する。
 何人もの部下を屍灰に変えて葬った精密射撃とはいえ、射手の方角と、間違いなく数秒のうちに自分めがけて撃ってくるという事実さえわかっていれば。この距離を隔てて真っ直ぐ迫る弾道から身を守ることは、アルマンにとって決して無謀な賭けではない。
 問題は、射手の位置が大まかにしか、わかっていないことだった。特定できないままには、たとえレオンより先に時計塔へ辿り着けたとしても、何処へ殴り込めばいいか、わからない。
 二発目、三発目から、アルマンは逃げるので精一杯だった。廃車どころではない砂まみれの屑鉄の裏へ転がり込み、ようやく一息つきかけるが、これ以上ない間の悪さだった。
 視覚によらず、レオンの軌道を感知する。安全地帯を抜ける頃合いだ。このタイミングで囮をやってみせなければ意味がない。全くの無駄どころか、アルマンはわざわざ時計塔に迫る足を止めてまで、こんな所で踊っているのだ。身を隠して休んでなどいられない――
「うおおおおおおおおっ!」
 こんな無茶がバレたら、生還しても後でレオンたちに殺されるのではないか。それがどうしたという自棄(ヤケ)た心境で、アルマンは立ち上がり、接続具を無視してヘルメットをぶっち脱ぐ。
 三発も引きつけておいて、結局、射手の位置を特定できていなかった。要は、そういう隙をこちらに与えまいという意図で敵は連射してきたのだろうが、思う壷では分が悪すぎる。
 なら、少しでも分の良い山勘に、大枚を注ぎ込んだ方がマシだ。
「喰・ら・い、やが、れえええええ!!」
 先刻、目に留めた場所。時計塔の上層、時計盤の直下に見かけた真っ暗なバルコニー。
 そこへめがけ、アルマンは有りっ丈の力を込めてヘルメットを「投球」した。
 鉄球ほどではないが、それに比べて特別軽いというわけでもない半球型の機械の塊。
 それが自転しながら五百メートルすっ飛ぶ様を、投げた当人が、異様な光景だと思った。
 奇跡的に横風もなく、放物線というよりほとんど直線で重力に喧嘩を売るその丸いシルエットは、どうやら莫迦莫迦しいまでの的確さで目的の場所を目指すつもりらしかった。
 砲弾よろしく、『ヴァニッシャー』が居るという保証のない空間へレオンたちより先に殴り込んで、そいつは果たしてどんな衝撃を顕現するのか――いや、そもそもそんな程度の結果で済むのか。老朽化した建物の支柱ぐらいは破砕しかねない運動エネルギーの接近を、
 銃撃音が拒絶した。
(! 今のは……)その時、アルマンの知覚が捉えた光明が四つあった。
 ヘルメットが割れて横に弾かれる、甲高い弾着の石火。
 ようやく微かに聞き取れた、前方からの発砲音。
 そして――時計塔の上階、時計盤の真下に開かれた闇の奥で瞬いた、一瞬の銃火の光と。
 その光が仄かに浮かび上がせた人影。黒いフード姿で、銃と共に(うつ)()せている何者かの姿。
「……()()ぉぉかぁああああああ!!」
 飛来する銃弾を、もはや難なく()なしながらアルマンは()えた。同時に、頭の中で声が響く。
(チーフもう充分です! あとは我々の突入まで守りに徹してください。狙わせすぎです!)
(ふざけんな、お前らが飛び込む瞬間に的を()れなきゃ意味がねえ! てめえは早く――)
(到達しました)
(何?)
 レオンたちの気配が、アルマンの側面前方を上昇していった。
 いつのまにか時計塔に到達していた赤い目の六人の仲間たちが、廃建築の群れから飛び出して時計塔の中腹へ。複雑な壁面をほぼ垂直に駆け上がり、加速しながら最後の跳躍を行った。
 そして狙撃手の射界ではなく、一階下の窓に飛び込む。
 ()る者は銃撃によって。また或る者は蹴り破って。
 部下たちのガラスを破る音が連なって聞こえてくる頃には、アルマンはもう駆け出していた。
 一度、目で捉えた以上、もう見失うことはない。
 直前までこちらを狙っていた時計塔の人影が、何かを察知したように銃座を離れ、闇の更なる奥へと身を退かせていくのが見えたのだ。
(勝った!)立体駐車場の割れた屋上面を蹴り、アルマンは跳躍しながら心で叫んだ。
 ヘルメットを失った頭、特に顔面に硬い砂が当たっても、高揚感は最早陰りようがない。
 ついに捉えたのだ。ついに追い込んだのだ。居所を特定し、こちらから攻め込んだのだ。長かった犠牲の日々に終止符を打つ時がついに来た、と血が騒ぐ。
 レオンたちのように迂回する必要は無い。元よりそんな思考も無かった。目的地とその真上の時計盤がみるみる大きくなる様に、得も言われぬ感奮が胸の内から広がってくる。
 殺人鬼は闇の奥へと後退したらしく、灰色の空を上昇するアルマンにその姿は見えなかった。
 逃げ(おお)せる気か? 『ヴァニッシャー』ならその算段を用意してあっても不思議ではない。
『ヴァニッシャー』に迫ったケースは過去に幾度も有ったが、奴はその都度、嘲笑うようにアルマンたちの追及を躱してきた。今回も直近の敵を殺し、こちらの探査網に穴を開けて――?
(させるかよ!)
 死んでいった部下たちの面影が甦る。
 それに続いて、なんの断絶も区別も無く、生きている者たちの顔までが想起される。
 最後の飛び石となる斜塔を蹴り壊しながら、アルマンは最後の跳躍をした。
 間近に迫ったことで、高低差ゆえの仰角が険しくなる。目指す突入口をひとたび見失うが、それも一瞬のことに違いない。
 もうなんとも感じなくなった砂塵と風圧をものとせず、時間と距離に焦らされて飛翔する。
 急げ、急げ急げ急げ。早く早く早く早く。
「一瞬」を長く感じる。感じ取れるはずの部下たちの気配を探す。
 だが、それ以上に性懲りもなく殺人鬼の気配を探っている自分が居た。
 何も感じなかった。ただ銃声が聞こえて、戦闘の最中だということだけが判断できる。
 そして自分は、仲間に加勢しようと逸る気持ちに、体の全てを委ねている。そこに嘘はない。
 だが湧いてくる異物がある。
 なんだこの感覚は。
 なんだこの焦りは。
 仲間が殺されることへの恐れや焦りと共存して、理性も感情も圧倒しそうになる焦燥感。
 奴を逃がしてなるものか、と。他の誰にも先を越されてなるものか、と。
 脳でも骨でも肉でもない身体の何処かが、我先にと何かを欲求している。
『チーフ、知っていますか? 私たちヴァンパイアという名の、一番古い意味を』
 不意に、甦る記憶があった。何週間か前、なんとはなしにレオンが漏らした他愛ない蘊蓄(うんちく)だ。
『吸血鬼。血を飲む化け物、という意味なんだそうです。いえ、本当にそうなんですよ』
『私たちの祖先は、何を好き好んで、自分たちにそんな一人称を(あて)がったんでしょうね?』
『吸血というのはわからないでもないですが、鬼というのは悪趣味に過ぎます』
『そんな単語は、その手の事件を起こす犯罪者にだけ、背負わせればいいのに』
 例えば「殺人鬼」のような。アルマンは信じなかったが、同意はした。
 レオンの話が本当だろうと嘘だろうと構わないが、鬼は俺たちではなく「奴」の方だ。
(させるかよ。逃がさねえ。必ず仕留めてやる。俺のこの手で狩ってやる)
 そんなことを、自分の血が訴えているような気がした。
 生まれて初めて、自分の本分を見出したような、奇天烈な違和感と一体感を併せ持つ衝動。
 吸血鬼としての自分が『ヴァニッシャー』を求めている――なんだ? 今俺は何を考えた?
 夜空が白く薄れていく。背後で折り重なっていく薄明の輻射(ふくしゃ)が、あらゆる死角から視界へと染み込んでくる。残り時間はほんの僅かだ。
 そして、目指す時計盤が間近に迫る――
 最後のジャンプを終えた吸血鬼(ヴァンパイア)アルマンの身体は悠々と風を押しのけたのち、目的の高度ぴったりで、重力に対する蹂躙(じゅうりん)をやめた。
 自由落下が始まる直前の浮遊感と共に、時計塔のテラスに降り立つ。
 そして茫然と。
 赤い光の粒が舞うのを、
 砕かれた赤が光を失うのを、
 熱を失った屍灰が宙に散らばるのを、アルマンは茫然と目撃した。
 一人分の銃声が止む。
 担い手を失ったサブマシンガンが床を打ち鳴らす。
 プラスチックがプラスチックを割るような、軽く甲高い音と共に。
 よく知っている首都警察制式の防弾ヘルメットが、中身ごと白刃に断ち割られる。
 頭を横薙ぎに断割された防護服の人物が、新たに全身を赤い屍灰へと変化させて破裂した。
 その直前、ちょっとした後ろ姿に潜む姿勢や体格などの特徴からでも、アルマンはそれが部下のうちの誰なのかを即座に理解することが出来た。
 だから、その名前を今度こそ絶叫しかける。
 しかしまるで阻止するように、「それ」は速やかに次の仕手へ取りかかっていた。
 全身を覆う黒いローブに身を包んだ「それ」は、袖口から覗く幅広の両刃剣をほんの少しゆっくり動かし始めたかと思うと、次の瞬間には恐ろしい速さの太刀筋を描いて、三メートル以上離れていたはずの別の武装警官を両断した。
 全て、アルマンがテラスに着地してから、次の一歩を踏むまでの間に起きたことだ。
 アルマンの頭の中が、心が真っ白になる。
 だが血は真っ赤に熱を帯びて歓喜したような気がした。
 どちらの支配下で身体は動いたのか?
 既に五人の戦果を上げた殺人鬼は、まるで床が動いているかの如く闇の中を滑り、次の獲物を目指していた。あるいは、既に充分な接近を完了していた。
 六人目の標的。時計塔へ突入した仲間のうち、最後の一人。アルマンの信じる副官。
「レオン!」
 アルマンの手の中で、拳銃がセミオートの火を放った。撃ち出された弾丸たちは戦場の只中へと狙い通りに直進し、それらのうち一つが奇跡的に、殺人鬼の剣へ着弾した。
 レオンめがけて既に軌道に乗っていたためか、外的な力に阻害された剣はあっけなく主の手を離れた。フロアの奥側へと回転しながら放物線を描き、朽ちた柱のひとつに深々と突き立ったことで停止する。
 ここは上階の時計盤を制御していた機械たちの墓場か。闇に浮かび上がるのは砂を被った床と柱と、似たり寄ったりのガラクタが築く蜘蛛の巣のようなワイヤーの斜線ぐらいだ。
 アルマンの靴に何かが当たる。
 そうか。この細長い銃身か、愚かな俺の部下を何人も食い物にしたのは――
「! チーフ……くっ!」
 レオンがこちらに気付いた。ヘルメットを被った細身の副官がこちらを顧みつつ、もし殺人鬼の手に剣が残っていたならば間に合わなかったであろうタイミングで飛び退(すさ)る。
 果たしてアルマンの視界、左前方にレオン。
 そしてフロアの中央部に立って空手をローブの陰に収める、黒ずくめの人物。
 殺人鬼『消失者(ヴァニッシャー)』。
 ついに見つけたついに追いついた。また俺の仲間を殺したのか殺したのか殺したのか!
 まだ殺し足りないのか!
「うオオオオオオッ!!」
 気が付けば、いつのまにか、とは言うまい。自分の体が殺人鬼の黒いシルエットめがけて突進を始めたことなら自覚していたし、そういう衝動を止められない己の性も承服済みだ。
 もっとも、多くの犠牲の上に成り立ち、今もなお部下の命がかかっているこの戦いで、ワケのわからない欲動に体を使わせてやる気など全く持ち合わせていなかったが。
 ナイフが二本、殺人鬼のローブの中から飛び出してきた。ヘルメットを被っていないアルマンの両目を狙う直進軌道を、こちらは防護服の腕部で払い、即座に拳銃を発砲したが、鈍色の金属音にことごとく阻まれた。
 黒いローブの裂け目から、ナイフの次に覗いたのは両刃の大剣。
 (つば)は無く、元よりそんなもの要らぬとばかりに異様に幅広がった柄元から、二等辺三角形の要領で切っ先まで直線を引く左右対称の長大な得物は、今さっき弾いた代物と全く同じ形状だ。
(同じモンがもう一本だと!?)
 両刃剣が突き出されると踏んで、アルマンは急停止のたたらを踏む。部下を次々と仕留めていった相手の手練、剣捌きと立ち回りの怪を思い出せば、単に剣の間合いから離れればいいという簡単な話でないことは自明と言える。
 離れてレオンと連携し、十字砲火を仕掛けるべきだ。
 アルマンがそう判断した時、ちょうど呼応するかのように左側面でレオンの気が動いた。殺人鬼から遠ざかっていた部下が体勢を立て直して床を蹴る。高く飛び上がり、黒ずくめにサブマシンガンを向ける。
 跳躍の軌道を理解し、アルマンも、即座に拳銃のトリガーを引いた。
 だが殺人鬼は一歩も動かず、アルマンの放った銀弾を広い刀身で受け止めるのみ。
(チーフ、横に跳んで!)
 念話が響いて初めて気付いた。
 あの黒ずくめ、剣を盾にしながら、もう片方の手で、こっそり拳銃でこっち狙ってやがる!
「くそったれがぁっ!!」
 レオンのサブマシンガンと、殺人鬼の拳銃が同時に唸りを上げた。フルオートで最低八発、転倒同然に回避したアルマンの横を拳銃弾が駆け抜ける。
 そしてそれらの射撃動作と同時並行に、黒ずくめは左手だけで見蕩れるほど巧みに両刃剣を操ってみせた。頭上を大きく飛び越えながらレオンが放つ弾の雨を、『ヴァニッシャー』と呼ばれてきた殺人鬼は剣を逆手に順手にと持ち替えながらクルリと翻して防ぎきる。
 更に、遊底(スライド)の後退した銃を捨てて、倒れたアルマンへと追い打ちの投げナイフまで繰り出す。この動作だけ僅かに遅かったが、あくまで他の動作との比較でしかない。
 なんだこの化け物は。
 アルマンは更に転がり、おかげで弾切れ寸前の残弾をほとんど()(たら)()にしか吐き出すことができなかった。当たらない。弾の幾つかはちゃんと殺人鬼へ殺到したのに当たらない。
 黒ずくめの(まと)うローブがはためき、五四〇度くるりと回って両刃剣が投擲(とうてき)される。
 投じられた剣の旋回は、天井に着地して弾倉交換(タクティカルリロード)を行った直後のレオンを捉え、その体に深々と突き立ったことで停止した。
「! レオン!」
 レオンの全身が、防護服やヘルメットごと屍灰となって破裂し、上階の大時計まで繋がっているらしい古びた機械の群れへと降りかかった。
 両刃剣が直下して、ワイヤーの一つを切断する。
 黒ずくめは柱を蹴りながら跳躍し、レオンの道連れにならず剣とも別の落下軌道を描いていたもう一つの物体――レオンのサブマシンガンをキャッチした。
 機械がどう動いたのか、時計塔の頂から鐘の音が鳴り始める。
「レオーーーーーーーーーーーン!!」
 アルマンの声は途中から、響き渡る鐘の音にかき消された。
 全身が沸騰するような熱感の中、アルマンは黒ずくめの着地点へ滑走し、ありったけの力を左手に込めて真下の床へ叩き込んだ。
 支柱間近の床が割れ、柱と床の支持均衡が失われたことで、破壊は広い崩壊へと拡散を始める。百年単位の経年劣化を証明するように、床は亀裂を走らせるまでもなく割れ、あるいは崩れ、ボロボロの砂礫へと瞬く間に変貌し――そして、その変化がフロア全体にまで伝染する。
 まるで、銀毒に冒されたヴァンパイアの灰化のように。
 フロアの崩壊が、建物全体のそれにまで連鎖していく。
 鐘の音がリズムを失い、それとは異なる断末魔を時計塔が上げ始める中、崩壊の起点となった大時計真下の機関室から、土煙の壁を破り、真横の空へ飛び出す影が一矢。
 アルマン。と、その腕に取り押さえられた黒ずくめの人影である。
「――ぅぉ――ォォォ……!!」
 薄れて消えていく鐘の音と、ますます大きくなっていく時計塔の断末魔を背に浴びながらも、怒りの吼え声は完全な埋没を拒み続けた。
 右の腕と左の手で黒ずくめを――そして自由落下を告げる浮遊感で地面までの距離を、しっかりと捕まえたまま。己の巨躯の下敷きにして殺人鬼を地面に潰すべく。
 だが、殺人鬼を包むローブの布が不意に波打って、アルマンの左手を絡め取った。
 確かに敵を取り押さえていたはずの両腕から、予想以上に軽い(そう)(しん)()(ごた)えがすり抜けて、アルマンは一人あらぬ方角へ加速する。
 投げられた。アルマンの突進力が死ぬ直前、(あらが)える程度に衰えた直後を見極めなければ()し得ない妖美なまでのあしらい技で、アルマンの体は殺人鬼のローブ――おそらく最外層を構成していたマントのような黒布――に包まれ、変化した放物線の先で弾丸よろしく廃ビルに突っ込んだ。建材を破る反作用の全てを、自分の背中で受け止める。
(ぐぅああああああっ!!)
 轟音。壁と言わず建物丸ごと貫通して、その先にあった別の廃屋の根元にまでアルマンは突貫する羽目になった。銀でも陽光でも水の流れでもないが、警官でもない一般人ならば致命傷になりかねない圧力に、間違いなく全身の骨が粉砕され、数秒の気絶を強いられる。
 布に絡まれると同時、溢れていたはずの力が出せなくなった――この布、まさか銀が織り込まれているのか。刃物や銃弾が銀素材を含むのは対人の凶器として当たり前のことだが、衣類や装飾品にまで銀を仕込むなど平民の界隈(かいわい)でも聞いたことがない。この外套(がいとう)に限った話でないとすれば、下手すると訓練された警官でさえ、『ヴァニッシャー』と同じ格好をするだけでロクな身動きができなくなってしまうのではなかろうか? アルマンも含めて。
 それに投げ飛ばされた直後、偶然に見えた黒ずくめのフードの奥。
(黒かった……だと? いや、見間違いだ。そんな目の色、聞いたこともない)
 平民は赤。貴族は金。創世記に登場するヴァンパイアハーフ《ダンピール》でさえ赤と金の片眼ずつ。
 貴族サマが嫌うはずの銀や機械を大量に身に付けている件といい、その上でのあの手練といい、『ヴァニッシャー』の実態は近付くことで逆に余計にわからなくなっていく。
 そうか、外からあのフロアの空気を探れなかったのも銀の影響か。あの機関室全体に銀製の何かが仕込まれていたため、あの時アルマンは、先に突入したレオンたちを――
 ――レオンたちを。
 自分は死なせてしまった。また多くの部下を。あまつさえ、自分が死んだ場合には存命の(すべ)ての部下を任せられると信頼していた副官までも、自分は無駄死にさせてしまった。
 仲間をやられるたびに怒りで埋め尽くしてきたアルマンの胸中で、今までとは全く違う類の喪失感が生まれ、たちどころにあらゆる熱を奪い去った。
 自分の大っぴらな怒りは、後顧の憂えを不要にしてくれる副官が居てこそのものだったのか。
 多くを失い、ついにそれほどの大きなものまでを、自分は失ってしまったのか。
 背骨が再生していく。内部構造までは無理だが、防護服も、重さと輪郭を取り戻していく。
(……違う。失ったのは俺じゃない。俺はまだ何も失っちゃいない)
 被害者は死んでいった者たちだ。失ったのは彼らだ。彼らや、あるいは首都に居る彼らの家族に贖罪すべきこの自分、アルマンは、まだ手も足も血も失ってはいない。
 ついにレオンさえ帰らぬ人となったのに。
 自分はまだ生きている。
 なら当然、しなくてはいけないことがあるはずだ。
 痛む体を押さえ、よろめきながらアルマンは砂塵の地面に降り立った。周囲には、アルマンの体と相打ちになって砕けた、まだ断面の新しい(つまり、砂塵の皮膜が張っていない)石塊(いしくれ)が無数に転がっている。
 それに加わるようにして、非常に見慣れた、しかし場違いな人工物が頭上から落ちてきた。
(……ヘルメット? なんでこんな所に転がってやがる……そうか)
 当初の作戦地を取り囲むように配備していた、味方の狙撃班。影も形も見えなくなってしまったが、彼らはアルマンやレオンよりも敵の狙撃を探知しやすい場所に居たし、それゆえに、『ヴァニッシャー』からもまず真っ先に狙われたはずだ。
 電波通信が滞る最中、背後からの狙撃を受け、アルマンたちより先にここを目指した者が居たのだろう。しかし時計塔には辿り着くことができず、途中でやられてしまったのだとすれば、こんな所に制式のヘルメットが転がっている可能性は有る。
 ――犠牲の上に成り立っている。
 ヘルメットを被り、バイザーを降ろしながらアルマンは思い知った。空が白い。場所によってはもう日が覗いているかもしれない。これらの防具で、直射日光を防ぐことは出来ない。
 拳銃は今も右手にあった。殺人鬼を地面に潰した後、トドメに撃ち込むつもりでずっと握っていた虚仮(コケ)の一念か――投げられて廃ビルに突っ込んだ際、砕けたのがこいつの銃身ではなく自分の骨だったことが何より幸運だった。現在の弾倉を確認。後三発。身に余る。予備弾倉はポーチのアタッチメントごと何処へやらだ。
 無事なホルスターに銃をしまい、アルマンは耳を澄ました。気配を漏らすような敵ではない。自分にはどう足掻いても、『ヴァニッシャー』を見つけることは出来ない。が、もしここにレオンが居たなら、どう助言してくれただろう?
 もう一度だけアドバイスをくれ、レオン。今までの言葉からでいい、ほんの教訓をくれ。
「これ以上……」地面を蹴る。真上にではなく、だが高くアルマンは舞い上がった。
 風の中、黎明(れいめい)の空から狙い澄ますは、変わり果てた時計塔の跡地だった。土台部分が砂塵に埋もれているせいで跡形もなく崩落するとはいかず、全長の半分をバラしたところで落ち着いたらしい。鐘の音も絶え、土煙は砂塵と大差ないぐらいには薄まっていた。
 その跡地を(にら)む。と同時に、聴覚の限りをとある遠方に傾ける。
 過熱したエンジンにせっつかれて、防塵仕様の無限軌道(キヤタピラ)が砂上を駆ける音が聞こえた。
 味方の装甲車だ。帰路を急いでいる。当初の作戦地域から、彼方の『壁』を目指している。
 そしてそれを――日の出が迫り、首都へ通ずる地下廃道に逃げ込もうとする黒い(かん)(おけ)のような装甲車を、数百メートル離れた時計塔跡、瓦礫の山の隙間から黒い人影が狙っていた。
 得物は細長い狙撃施条銃(スナイパーライフル)。装甲車が廃ビル群の隙間に覗く一瞬を待ち構えて――
「やらせるかアアアアアアアッ!!」
 落下しつつ、アルマンは怒号を上げた。叩き付ける全霊の拳はライフルや黒ずくめを正確に狙えたものではなかったが、落下の勢いを乗せて瓦礫の山に叩き付けた結果、衝撃が土砂崩れに近い現象を起こして、狙撃ポイントを丸呑みにする。
 アルマンは自身、かろうじて崩落の流れを逃れながら、それでも必死に廃建築の隙間から今一度、装甲車の姿を垣間見る。そうせずには居られなかった。
 思わず喉から、息を溜める暇など無いのに声が漏れる。
「……行け……っ!」
 日の出は今にも始まる。間に合え。生き延びろ。こいつのケリは俺がつける。
 いずこから如何なる軌跡を辿ったのか、アルマンの目前にそれが着地した。外套を捨てて尚、フード付きの黒いロングコートに身を包み、その奥にもまだ何層か同色の服を着ているらしい正真正銘の黒ずくめ。ひとたび背丈や肩幅が露わになれば、レオン並みに華奢(きやしや)である。
 その仇敵に対し、一歩を踏み出す。
 途端、黒ずくめの両手がブレるように揺れ、どちらかからナイフが飛来するが、
(今更そんなコケ(おど)しが効くか、くそったれ!)
 ヘルメットの曲面が、刃を逸らして火花を散らす。
 アルマンは歩を加速させ、突進よろしく黒ずくめへ詰め寄った。
 (やつ)は攻撃に際して、常に武器を使う。だがその全てが殺傷を目的としているわけではない。この投げナイフが良い例だ。生身の頭部をさらしていた先刻ならいざ知らず、今この状況では、回避運動を誘うための牽制打でしかないのが瞭然(りょうぜん)だ。そもそもこの黒ずくめは、今のところ、拳銃やナイフでは一人の犠牲者も出していない。
 警戒すべき凶器――時計塔でアルマンの部下を次々斬り捨てた両刃の大剣も、一キロ強の距離を制して狙撃をやってのけたスナイパーライフルも、今頃は仲良く瓦礫に潜っているはずだ。
 そして明らかとなった殺人鬼の輪郭は、そういった大型の武器を他に隠し持っていないことを物語っていた。
 唯一の例外――殺人鬼のコートの背面、腰の位置で固定されている、見慣れた一挺(ちょう)のサブマシンガンを除いては。
「ふッ――ぉお!」
 拳を奮う。振りかぶってから繰り出す頃には、もうそれが届く程度には近付いていた。あれだけ鮮やかなフットワークで何人も葬ってきた殺人鬼は、だがアルマンの接近から遠ざかるでも、迎え撃つでもなく、紙一重で次々躱す。まるでこちらを観察しているようだ。
 それでもアルマンは、反撃を警戒して、決して大振りな動きはとらなかった。岩を砕くような力は込めない。力のコントロールは相手が一枚も二枚も上だ。力の大きさで挑めば空中で投げられた時の二の舞となる。隙は最小限まで殺して動かねばならない。
 反撃してこない黒ずくめ相手に、ジャブを空振りすること十数回。
 ヘルメットの中で急速に、呼吸と集中が乱れていく。疲労ではない。間合いも拍子も完全に掌握されている、という実感が背筋を凍らせていくのだった。
 そして僅かな可能性に縋るように、アルマンの視線が再び殺人鬼の腰背面へ逸れた瞬間。突如としてこちらの守りをかいくぐり、いとも容易くアルマンの懐へ、殺人鬼が肉迫した。
(――――しまった!??)背筋が凍る。ガチン、という音と同時、左腕部が何かに叩かれる。
 急速に遠ざかったのはアルマンの反射的な後退ゆえか、それとも殺人鬼が身を退いたのか?
 砂の地面にナイフが落ちた。
 至近距離から奴が投じたものか? 指先で弾くように、刺すでもなく斬るでもなく――
 かくして、アルマンはようやく思い至った。
 この殺人鬼にとっては、自分という敗残寸前の平民の武装警官など全く眼中に無い。
(野郎、俺の防具を調べてやがるのか……!)
 銀の武器でアルマンを殺せば、服や鎧も燃えて灰になるから。
 生きたままのアルマンを弄んで、その装備を調べているのだ。
 今後の参考のために。
 アルマンの仲間をこれからも効率よく的確に、より多く殺し、そして殺し続けるために。
「ふっ……ざけんなあああ!!」
 衝動に任せたアルマンの一撃が、再び迫った殺人鬼の速度に追い付いた。
 それまでは目で追うことすらできなかった殺人鬼の左手に、アルマンの拳の軌道が重なり、耳障りな金属音を伴って銀のナイフを叩き折る。
 殺人鬼が後退し、それを上回る速度でアルマンが接近する。
 技術も戦術もかなぐり捨てた大振りなフックが、避け続ける殺人鬼の動きを一変させた。誘い、嘲笑うような紙一重の回避から、迫るものを脅威と認めた上での、的確な迎撃動作へ。
 だが瞬間、アルマンの粗雑な連撃はその段階すら追い越した。
(今更遅ぇ!)渾身の力を乗せて繰り出したスクリュー・ストレートが、直撃こそ逃したものの、初めて獲物を掠めて、その体勢を押し崩した。
 好機。風圧を浴びて動きの止まった標的を逃すまいと、アルマンは次撃を試みる。
 果たして――必殺を予感して放った追撃の拳は、殺人鬼を逃して(くう)を打つこととなった。
 間に合う、体勢を立て直すまで間があるはずだ、というこちらの見立てが間違っていたわけではない。倒れた体勢からそのまま滑るように移動された――いや、倒れていく勢いを利用されて逃げられた。明らかに、アルマンの知らない体術でこいつは体を動かしている。
(力じゃない。単純な速さでもない。体の形を変えてもいない。こいつの強さはなんだ?)
 考えている暇は無い。
 距離が離れた。それも殺人鬼の側から。
 再度の接近戦を挑むべきか? いいや違う。
 当初から勝機は一つ。そして接近戦では、奴はあのサブマシンガンを使う気がない。
 もし他に銃を持っていたら? 四五口径や、四〇口径の豆鉄砲がコート裏に潜んでいたら?
 やるしかない。元より、確実な勝ち方など有るとは思っていない。
 自分に出来ることは全力を以て可能性に懸けるだけだ。レオンが残してくれたかも知れない可能性に――開けてみれば空箱だった、という結果もあり得る大博打に。
 アルマンは拳を引き、一足跳びに後退した。
 不可解な行動ではないはずだ。もう接近戦で、お前がこちらを侮ることは無いだろうし、先程は虚を()いて尚、俺の拳はお前にカス当たりするのが精一杯だったのだ。事実上、接近戦は詰んでいたと言っていいし、俺の腰には銃がある―そしてお前も持ってるだろう?
(さあ来い、抜け!)
 だが、黒ずくめは異なる行動をとった。コートの裾から円筒状の缶のような物体を取り出し、自分の足元へ転がした。直後、黒煙が噴き出す。
(煙幕!? しまっ―)
 煙は黒ずくめを中心に素早く展開し、いくつかの遮蔽物や、崩れ残った時計塔の一隅まで包みながらほぼ同時に霧散した。
 居ない。見失った。だが、まだ活路が絶えたわけではない。アルマンは瓦礫の山を全速力で下り、障害物の無い、見晴らしの良い場所で立ち止まった。
 腰の拳銃の銃把(グリツプ)に手を伸ばし、西部劇の、決闘開始寸前のガンスリンガーのような姿勢で静止する。耳では何も聞き取れなかった。全感覚が間違いなく冴え渡っていたが、体内で血と肉が、かつてないほど騒いでいる。生まれて初めて味わう世界だった。
 アルマンたちヴァンパイアにとって、肉体は器でしかないという説を聞いたことがある。アルマンが服を着るように、何かがアルマンという肉を纏って、個体が成立しているのだという。
 例えば、今着ている防護服。壊れたはずの装甲が、曲がりなりにも外形を取り戻し、今もこうして服としてアルマンの身を包んでいるのは、アルマンの平民らしからぬ自己治癒力が肉体だけでなく服までを対象としたためだ。これはアルマン特有の現象ではなく、コフィン・シティで暮らす全てのヴァンパイアに共通することである。
 アルマンの肉体を癒そうとした、アルマンの中のなんらかの中枢は、肉体と被服の区別をしていないわけだ。その中枢は血であるとも、魂であるとも語られている。
 今、アルマンはそんなオカルトの諸説よろしく、自分が拡がっていく感覚を味わった。
 普段は血と肉と骨、せいぜい服を占めて満足している己の魂だかなんだかが、それでは足りぬと、体の外まで版図(はんと)を広げてくるような錯覚。もっと広く、大きな器を求める欲の疼きを。
 そのためには、自分の肉体自体を作り替えることすら(いと)わない血の猛りを。
 まるで噂に伝え聞く貴族吸血鬼(ヴァンパイアロード)たちのように。神話の時代、ヴァンパイアがまだこの世界の支配者でなかった時代から存在し続けているという、偉大なるエインシェント・ヴァンパイアたちのように。
 視界の端で、何かが動いた。
 アルマンは自分自身の銃を抜く素早さに舌を巻きながら、しかし懇切丁寧に狙いをつけてトリガーを引いた。我が身を守ることを今は考えなくていい。体の重心を正中線に固定して、まるで射撃訓練場で撃つように無警戒に、当てることだけを考えた。
 銀の銃弾が撃ち出された。現れた標的、黒い人影の胸の中央ぴったりに風穴を開けて、ビシリと走った亀裂が黒コートの人影を四つに増やした。次の瞬間、鏡面がただの無数の破片となって飛び散ったが、それの意味するところがアルマンには理解できない。
 彼は、鏡や硝子(ガラス)質の鏡面が物体を映し出すことをもちろん知っていたが、人の姿が映るなどとは想像したこともなかったのだ。鏡を覗いたことはあるが、そこに自分の顔姿を見つけた経験など無い。映るのは無生物―建物や、ヴァンパイアが身につけていない衣類や道具のみだ。コフィン・シティの鳥獣どもだって映りはしない。
 昔はそうではなかったなどと、知る由もない。
 後方から、何か来る。体が反射的に振り返ろうとしたが、それでは間に合わないと踏んだアルマンは体勢を崩しながら横に跳んだ。
 直後、フルオートで最低八発。銀の銃弾がアルマンを追い、後半の何発かは追い付いてきた。ヘルメットにヒビを入れ、膝のプロテクターを剥ぎ、そして二発が右腕を貫通する。
「―ぐ―あッ―!!」
 腕は穴があくのではなく、肩の付け根から吹き飛んだ。拳銃を掴んだままの右腕が宙を舞い、逆に腕を失ったアルマンは反動で地に叩き付けられた。体に溢れていた力は消えて、傷口から灰が噴き出す。自分の屍灰を浴びながら、彼は黒ずくめの姿を見つけた。
 アルマンが発砲したのとは、正反対の方角。距離十メートル足らず。
 その手には黒く四角張ったフォルムの自動拳銃(オートマチック)があった。レオンのサブマシンガンは、引き続きコートの背面に据えられたままである。
(…くそ…ったれが)
 体中から力が抜けていった。倒れたままで動けない自分の体、外しようのない距離、そして敵が隠し持っていた拳銃。既に銃口は定められている。アルマンは絶望した。
 奴はもう、あと一発撃つだけで自分を殺せる。更に言えば指一本動かすだけでいい。自分が死ぬのは一秒後か二秒後か? いや、たとえ撃たれずとも、傷口から灰化が進んで数分の命か。
 もしそうなったら、日が昇って焼け死ぬのと灰化で死ぬのと、どちらが早いだろう?
 アルマンがついにそんなことを考えた瞬間、黒ずくめはトドメの動作に入った。
 撃ち尽くした右手の銃を捨てて、腰の後ろから銃を取る。アルマンの赤い目が見開かれた。
 同時に、頭上で自分の右腕が破裂する音を聞いた。一気に灰化したらしい。間違いなく、まとっていた防護服の袖やグローブまでまとめて灰になったはずだが、例外が一つだけある。
 アルマンの体が動いた。みっともない、脚のもげた昆虫のようなバタつきで体を起こし、傷口からますます勢い良く灰を吐き出しながら、もつれる足で地を蹴った。
 空中で、手を伸ばす。腕ごと吹き飛んだ後、その腕まで()ぜて更に宙へ突き上げられた彼の拳銃が、弾倉の中身ではなく、それ自身が銀でできているかのように白い光を反射していた。
 アルマンがその銃を取ろうとしていることを、黒ずくめはすぐ理解したはずだ。だが誰がどう見ても、隻腕の男が空中で銃を掴み、狙いをつけるより、黒ずくめが撃つ方が早い。
 アルマンの無事な左手が、拳銃へ届いた。黒ずくめはその銃ではなく、敵本体を標的にした。
 サブマシンガンが唸る。
 弱装火薬に射出された銀弾の雨が、拳銃を掴んだばかりのアルマンの体に次々と命中した。
 アルマンを包むプロテクターは一度壊れている。防弾用の層構造は失われており、本来ならば易々と凶弾を招き入れるハリボテの鎧と成り果てていたが、レオンのサブマシンガンから放たれた特製の弱装弾はそれさえ貫通せず、殺到し、表面に食い込んでいくのみ。
「おおおおおおああああああアっ!!」
 激痛と闘志で、アルマンが吼えた。軽量サブマシンガンの銃声は続き、アルマンの鎧に亀裂を刻み続け、その衝撃を体内に伝えたが、貫くことだけは適わない。
 ようやくヘルメットのバイザーが砕けたとき、アルマンの体が黒ずくめの間近へ落ちてきた。覆い被さるようにぶつかり、隻腕ゆえにしがみつくこともできぬまま、倒れながらたった一発。
 その一発が黒いコートに穴を開け、それを着る者の脇腹を貫いた。
 ビチャッ、という音で飛沫(しぶき)が散って、アルマンのボロボロの鎧にかかった。熱い。アルマンはそれを屍灰の熱と信じて疑わなかったが、バイザーの隙間から目に入ったのは血の滴だった。思わず片目を閉じながら、その感触―痛みと熱に、全身がしびれて動けなくなる。
(ぐっ、なんだこいつは…屍灰じゃねえ、なんで血なんかが…それにこの臭い)
 目の前の黒ずくめは、脇腹からますます血を流しながらよろめいた。灰なんて一粒も出てこない。レオンの特注弾には劣るものの、制式純度の銀の弾芯弾殻が確かに胴体へ穴を開けたのに、どうして灰化しない? 貴族の中には銀への耐性を備えるものがいるというが、この殺人鬼はそれなのか? 自分は貴族と戦っていたのか? 都市伝説同然の怪物と?
 血が入らなかった右の赤い目で、アルマンは黒ずくめをなんとか見上げた。片腹から血を流すだけなら無傷のようなものだろうに、そいつは何故か銃創を押さえて、傷が癒える様子もなく、後ずさり、アルマンから離れていく。視線が合った。やはり両目とも黒い。
 そして後ずさっていく方角では、地平線が―いや、都市の外壁が白く光り始めていた。
 朝だ。日が昇ったのだ。ヴァンパイアが活動できない時間帯。しかし前任の部隊が遺した情報通り、黒ずくめは仄かな逆光で輪郭を白く染めながら依然、歩き続ける。歩いてゆく。
 その動きに合わせて、地面の上を身じろぎする何かがあった。信じがたいが、奴の影だ。鏡に姿を映すどころか、奴は太陽光を浴びて影をつくるらしい。
 平民離れした速さと身のこなしをみせ、大量の銀の得物で武装し、鏡に姿を映す術をもつ。都市の外でも昼間(デッド・タイム)に力を失わず、直射日光を受けても無事で、それどころか浴びながら影を出すことができ、目は黒く、銀に貫かれても灰にならず血を吐くだけ。
 そんなヴァンパイアの話、聞いたこともない。
 銃に弾は残っていた。しかし、アルマンは体が震えるばかりで自由にならず、銃を傾けることすらできなかった。朝になったからではない。傷を負いすぎたからでもない。力が抜けるのではなく、逆に全身が(こわ)()る感じなのだ。
 特に、血を浴びた箇所が熱い。引っ込んでいたはずの血の昂ぶりがまた体から溢れ始めて、まるで防護服に付いたあの黒ずくめの血を舐めるように―この血も変だ。本体から離れたくせに灰にならず気化もせず、主に戻ろうともせず、なんでこびり付いている?
 目の奥も熱い。焼けるように痛い。
 日差しがついにアルマンに届いた。熱い。と同時に、全身の力が抜かれていく。なのに例の感覚は、降り注ぐ死の光の中わざわざ増長して、鎧や地面の血を舐め回しながら全身を包み始める。蛇のように踊り、炎のようにうねって、死んでいく以上の勢いで活性化していく。
 この血はなんだ。奴は何者だ。体が死んでいく。魂は死と再生を同時に味わっている。
「ぅぅぅぅぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおああああっ!!!」
 日没まで、あと一一時間と四〇分。

           第0話『もう一度アージェンタイトで』終

  ◆

 遠い遠い昔、とても恐ろしい魔王が居て、この世の滅びを食い止めた。
 けれど彼はあらゆるものを憎んでいたし、病は既に世界そのものを変貌させた後だったので、
 途方もない代償を支払ってなお、世界を救うことは(かな)わなかった。

 かつての通りの、本来在るべき命の人々は地上から姿を消し、
 命という言葉の意味すら変わってしまった新たな世界で、
「生き」残った人々と
「生み」出された新たなヒトたちは、大きな棺に閉じこもり、人生のような夢をみる。

 いつでも外に出られる癖に、私たちのほとんどは、地平線も星空も見たことが無い。
 かつての通りの空と光が、死の意味だけは変わらず教えてくれるから。

 これはきっと、そんな世界の物語。

(カミ) ヒ ト (ケッ) ()  - humanISM of Lestat -

#1a『最後の人間』~少女ヤサヤ、ゲート・トンネル内にて~4674字

  ◆

アーキテクトの手記 No.212「コフィン・シティ」

 人類亡き後、吸血鬼の文明を存続させるために、〈プライム〉を消費しない環境を構築する。
 吸血鬼は定期的な人血の摂取を必要とし、昼夜を問わず消耗していくが、例外が二つある。
完全に〈プライム〉が尽きた骸の状態と、もう一つは棺の中である。
 棺桶(コフィン)、あるいはその他の形態をとる寝床において、吸血鬼が消耗せずにいられる理由は解明されていない。時間を止めているとも、一種の封印状態にあるとも言われているが、この状態でも吸血鬼は夢を見るという。意識を保って日没を待つことも、また『式』の具現たる使い魔たちを取り込んだ状態で棺に入ることもできる。
 この習性を元に考案されたのがコフィン・シティ構想である。
 全長二百キロメートルの巨大な六角形の棺で、都市まるごとを覆い包む。棺は機械式をベースに築き上げ、ヴァンパイアロードたちの結界式を憑依させる。これで理論上、吸血鬼が棺の中に閉じこもるという前提において、半永久的に彼らを「存続(スタンド)」させておくことが可能だ。
 現在、人間を避難させるシェルターとして、既に一号から二十五号までのコフィン・シティ建造予算が執行済みである。
 この二十五隻の方舟の真の用途を知れば彼らは怒り狂うだろうが、仮にいつ発覚するにしても、その頃には同時にもう一つの真理までもが彼らの思い知るところとなる。構わない。
 すなわち、人類を「存続(サヴァイヴ)」させる手段は無いという現実が。
 人類に許された最後にして最悪の幸運とは、半端な望みを抱く余地が無かったことだ。
 もし万が一、人類がたった一千万まで数を減らせば生き残れる、などといった可能性があれば、その特等席を巡る争いで全ての時間と機会は浪費されてしまっただろう。だが可能性がゼロである以上、人類の力はこの最期の時において、必要な結束を成すことができる。
 我々は人類を、その真理が疑いの余地を無くすまでの間だけ、騙し通せればいい。
 罪悪感などありはしない。この終焉の世界に、もはや自由など存在しないのだ。コフィン・シティや純血種の計画について、全人類と全吸血鬼の理解と同意をいちいち得ている時間は無いし、誰もが誰かを欺き、利用され、裏切っている。あの強大な魔王でさえ例外ではない。
 その無慈悲さと理不尽さこそが、必要な「結束」なるものの支柱なのだから。

  ◆

 上空からコフィン・シティ群を見下ろすと、正六角形がほぼ隙間無くびっしりと敷き詰められて、蜂の巣のような模様をなしているという。
 といっても、直に見て確かめた者は居ない。そもそも蜂という生物が大昔に存在したことすらほぼ失伝している以上、蜂の巣模様などという喩えは誰にも通じようが無いのだが。
 ぎっしり並んだ六角形の棺の群れ。
 壁に覆われ、蓋をされたそんな密閉空間の群れが、現人類(ヴァンパイア)の文明圏の全てだった。
 そんな蜂の巣模様の中心付近に、一箇所だけ、例外的な六角形の欠損地帯が存在する。
 文明を守るべき蓋が消失し、生活圏として機能しなくなった棺の成れの果てである。厚さ数キロの壁の内には、数百年かけて砂が降り積もり、無人街を少しずつ砂に埋めていく。
 砂の廃墟は、かつて『冥穹領(めいきゅうりょう)』と呼ばれていた。今日では、その名を知る者も少ない。
 コフィンが滅びた理由や時期に至っては、ろくに資料すら残っていない。ここ首都は旧『冥穹領』の西隣に位置しており、隣接するコフィンの崩壊によって、東側外縁部の工業地帯(コンビナート)が廃退するなどの大損害が生じている。にも拘わらず、調べても時期さえ特定できない。
 これもまた、平民街において行き届いている「管理」の一環なのだろう。
 東の廃墟に、つまりは壁外の世界に――あるいはコフィンの末路に、人々の想像力が及ぶことを予防している。似たような情報統制は様々な分野で為され、よく実を結んでいる。
 おかげで平民街の人々は外界に全く興味を示さない。無関心だという自覚すら無い。
 例えば、隣り合うコフィン同士は複数の筒状トンネルによって連結されている訳だが、この首都の東側からそのゲート・トンネルを通れば今でも東の廃墟に出られる――つまり棺の外の世界に行ける。だというのに、市民はその着想を持たない。
 平民街において「コフィンを出る」といえば、それは隣接する別のコフィンへ移動する、もしくは移住するという意味でしかなく、それすら特定職の者にしか縁が無く、興味も無い。
 閉じた認識。完結した世界。狭いとも、制限されているとも、誰も思わない。
 常に外の世界を夢想しながら育ったヤサヤにとって、それは奇異な常識だった。
「でもでもさ。だからって、こーまで徹底的に、無関心になれるもんかな。おかしくない?」
 ヤサヤの中の一人が言った。確かにそうだと、ヤサヤは思う。
「育った環境によって、視点は決まる。それだけよ。私たちの視点が妥当とは限らないわ」
 ヤサヤの中の、別の一人が言った。確かにそうだと、ヤサヤは思う。
 たとえ、この首都のすぐ東に、砂の廃墟というわかりやすい「外界」があったとしても。
『ヴァニッシャー』なる殺人鬼が報道され、それが首都と東の廃墟を往復すると知れても。
 それを討伐すべく、首都警察がゲート・トンネルを(くぐ)り、廃墟へ出征を繰り返しても。
 それでもなお、棺の外などという世界は存在しないのだ。彼らにとっては。
「私たちにとっても、そうあるべきよ。今からでも遅くないわ。引き返しましょう、ヤサ」
「そーそー。あんな化け物との約束、律儀に守る必要無いって。ばっくれよーよ。多分アイツ、ひとりでも殺人鬼にケンカ売りに行くでしょ。殺人鬼が勝って、アイツをブッ殺してくれるかもよ? そしたらアタシたち元通り、自由になれるわけだしさ」
 元通り、自由になれる。
(自由……? あの生活に戻ることが、自由?)
 あまりにも認識が違いすぎて、否定したい衝動すら一瞬で失せてしまった。今のが自分の生み出した別人格の言葉かと思うと、ただ眩暈がする。幻聴相手では耳を疑う訳にもいかない。
 以前は、彼女たちの幻と声を意識から閉め出すのは容易なことだった。
 元々はただの演技――たった一人で生きていくための、必死の鍍金(メツキ)の虚飾の虚勢でしかなかった嘘っぱちのキャラ付けが、いつしか場面に応じて使い分ける複数の仮面のようになり、やがて外している時も勝手にヤサヤの周囲を徘徊し始めたが、止め方も捨て方もわからなかった。
 第一、孤立無援で戸籍すら持たない無力な小娘が、この仮面たちの助力無しにどうやって生きていけばいいのか、想像も付かなかった。
 仮面たちは、今やヤサヤの想像物とは思えないほどの機転と機知を発揮して、ヤサヤの非合法な稼業を――つまりはヤサヤの生活のほぼ全てを、代行している。
 彼女たちに任せず、ヤサヤ自身の思考で最後に人と接したのは――いつだ? 何週間前? 何ヶ月前? 半年前? その辺りで怖くなって、ヤサヤは記憶の糸を手繰るのをやめる。
 そのうち、この恐怖や焦りも消えてしまうのだろう。
 首都で隠れ潜むだけの生活を続けていれば、間違いなくそうなる。それこそが最も恐ろしい。
 だからヤサヤは、危険と無謀を承知の上である計画を立てて、二日前、実行に移した。
 銀の銃弾が効かないという殺人鬼、『ヴァニッシャー』を目指すという計画だ。
 それは即ち、首都コフィンからゲート・トンネルを通って、殺人鬼の拠点つまり砂の廃墟を目指すことを意味した。もし警察に見付かれば、殺人鬼の仲間という容疑がかかってもおかしくない。そもそも身元を照合されるだけでもヤサヤにとっては致命的だったが――
 それを二日前に敢行して、結果どうなったか。何が起きたか?
 その答えが今、ヤサヤの眼前にある。
 今夜また廃墟を目指すにあたって、二日前の惨劇の現場へ立ち寄っていたからだ。
 二日前に通ったのと同じ経路を、今夜わざわざなぞる必要は無かったはずだ。だがある意味、ここに広がる惨状は自分が招いたと言って間違いない。だから避ける気になれなかった。
 ここは首都と東の廃墟を繋ぐ、数あるゲート・トンネルの内部である。
 全長十キロの道程のうち、ほぼ中間点にあたる。首都からの街明りもここまでは届かず、内装照明が生きているはずもない完全な闇の中。
 だから二日前、ここでヤサヤを捕らえようとした平民警官たちは皆、警察でも珍しい暗視装備を着けて彼女を追い立てた。
 暗視ゴーグルと、それを何かの小型機と接続するためのケーブル。小型機を内部に収納できる、防弾とおぼしき胸部装甲。他にも銃器ホルスターを体の随所に安定させる擬革帯(ハーネス)や、大小の銃器、弾倉、空薬莢、携帯通信機、警棒、ヘルメット、手袋、靴、手帳、ペン、上下の制服。
 そういったものが今、亀裂だらけの六車線道路のあちこちに散乱している。
 機械器具の幾つかは割れたり圧壊していたりと、争いの痕跡を残す。衣類・装身具の位置関係も、平和に脱ぎ捨てて散らかした様とは明らかに異なっている。
 シャツはボタンの留まったまま袖まで綺麗に上着の内に収まっており、その裾はベルトが締まったままのズボンに今も接している――あるいは、死に様の惨さを物語っている。
 上着も肌着もが肩口からぱっくり裂けているものがあった。そうではなく、胴体部分を鋭い何かに突き破られたらしいものもあった。それを着ていた男たちの体がどのように損壊されてから潰されたのか、ヤサヤの記憶を呼び覚ますには充分すぎるほどの生々しい光景が広がる。
 血の匂いはしない。死体も見当たらない。どれもこれもが灰に(まみ)れているはずだが、それはトンネルの東側から吹かれ泳いで積もりつつある外界の砂と混ざって、区別が難しかった。
『囲め! 壁際に逃がすな!』
『手足ならいい、撃て!』
 脳裏に声が甦る。否応もなしに、思い出してしまう。
 ヤサヤを追い立てた警官隊の足音と銃声、怒号、熱。ヤサヤ自身の感じた痛みや絶望も。
 だが、結果はこの有り様だ。
 ヤサヤが警察の目を盗んで廃墟を目指したりしなければ、警官たちはここに来ることも無く、つまりはあの男に遭遇することもなく、こんな風に殺されずに済んだはずだ。
 ここにある遺物――遺体ですらない――はもう、犠牲者たちの最期の悲哀を、目撃者に対して訴えることしかできない。しかし、ここは首都と廃墟を繋ぐトンネルであり、少しずつ砂塵も吹き込んでいる。今後、他の警官が来ても見付けるのは難しいはずだ。
 つまりこの情景を今後、誰かが発見する確率は、限りなく低い。彼らの死を記憶に刻んでやれるのは、訴えを受け止めてやれるのは、永劫に自分だけかもしれない。
 といっても――今日明日中に、自分も同じ有り様になる可能性が、かなり高い訳だが。
「ね、やっぱり首都(まち)に戻ろう? こんなコトやる化け物に、わざわざ会いにいくことないよ」
「賛成だわ。隠れて、二度とあれに見付からない(すべ)を考える方が、よほど合理的だわ」
 いつもは正反対の意見に割れるはずの幻覚たちが、左右からヤサヤを引き止めようとする。
 しかしヤサヤは全く無視して、止めていた歩みを再開した。幻覚たちの助言も無視して、こんな風に迷い無く行動するのは本当に久しぶりのことだ。
 あるいは、これが最後かも知れない。
 彼女たちが領土を広げて、ヤサヤの内の総てを占めてしまう前に。
 自分が居なくなる前に、『ヴァニッシャー』を目指す。そのためならどんな危険でも冒す。
 待ち合わせている怪物はどうやら、既に廃墟でひとり、探索を始めているようだ。

   ◆

#1b『最後の人間』~公安警官の青年、ゲート・トンネルへ~8485字

 見付けた女は、見ようによっては年端も行かぬ小娘といってよかった。
 姿形だけではない。歩き方ひとつとっても散漫なもので、足音や重心の操り方においては駆け出しのコソ泥にも劣っていた。
 いかにも無力で脆弱で、それでいて美しい顔立ちや佇まいを備え、事前に青年が聞かされていた魔女のイメージとは似ても似つかなかったので――
 これが本当にアルマンやレオンを殺した悪魔の協力者かと、懐疑せずにはいられなかった。
 だが他方、どれだけ愛らしくとも愛おしいとは感じられない、感じさせない何かがあった。
 武装した警官たちに囲まれて、いかにも恐怖して狼狽している風でありながら、それが演技であって演技ではないという未知の嘘の気配だったか。
 あるいはもっと根本的な――眼前に捉えたものが美しい娘ではなく、美しい娘によく似た精巧で脆い硝子工芸の類であるような――そんな錯覚に対する本能的な警鐘だったのか。
 いずれにせよ、数分後に襲来した怪物のために青年の血も命もが捧げられたため、娘の正体どころか存在すらもが他の全ての意識ごとに失われた。
 膨大な記憶、膨大な情報、想いと、その価値が。指の隙間から零れ落ちて何一つ残らない。
 ブレインイーター以外の吸血鬼に殺されて死ぬとは、そういうことだからだ。

   ◆

 十二月一日のこと。
 交通課から補充人員として転属してきたばかりの青年はその日、新しい職場である首都公安部の極秘出動に動員されて、ものものしい武装や暗視装置を生まれて初めて着用した。
 作戦内容は、首都東側のゲート・トンネルを不法に通行しようという不審者を待ち伏せて、生け捕ることらしい。表向きの事前説明として、武装した『クルスニク』の一団と遭遇戦になる可能性まで示唆されたが、作戦指揮を執る古株たちは違う見解だった。
 いわく、対象はおそらく女一人。アージェンタイトの魔女であろう、と。
 新人の彼はそのフレーズを初めて聞いたが、下層労働区(イーストエンド)の『輝銀鉱(アージェンタイト)』なる酒場については、説明されるまでもなく知っていた。お世辞にも治安が良いとは言えないそこに、最近の彼は毎夜の如く通っていたからだ。ただし、安酒を一人で楽しむためではなかった。
輝銀鉱(アージェンタイト)』は、見る者が見れば違うのだろうが、パッと見ではスラム間近らしからぬ凝ったインテリアの酒場で、かつ奇異な趣向をもつ。店内に噴水池があって、水ではなくワインを満たし、入場料さえ払えば建前上は飲み放題。ただし度を超せば雇われの用心棒(バウンサー)どもに叩き出されるという寸法だ。酒よりはその乱闘騒ぎを売りにしており、噴水周辺は敢えてだだっ広い。
 裏返せば、飲んだくれどもの視線が店の出入り口、あるいはカウンターから池周辺の乱闘スペースへ集まりやすい構造ということだ。
 というより公安の古参たちが言うには、それこそが店全体のコンセプトなのだとか。
 奥側はわざと視線の通りにくい調度配置にしてあって、しかもその半個室状態のテーブル席の一部は予約専用。後ろ暗い連中の密談の場として、公安からは以前からマークされ、最近やっと公安が店主を強請(ゆす)る段階まで漕ぎ着けたという話だった。
 その密談席を利用する、「自称」情報屋の若い女。
 それが魔女と呼ばれている。
 古株たちの話は全て、ひとつの確信に基づいていた。魔女には催眠だか暗示だかの――ちょっとした心理学トリックとは明らかに違うレベルの、超能力がある。アージェンタイトの特等席をほぼ顔パスで使えるのも、店主の記憶や認識を「どうにか」したためらしい。結果、店主は女の素性を疑うこともできないまま、盲目的に便宜を図り続けていた。
 そういった異能者が平民街で見付かる事件は、今までも数十年に一人の頻度で起きていたらしい。交通課上がりの青年には寝耳に水だったが、公安は魔女をその一例として既に断定していた。
「おい新入り。お前、メガネって道具を知ってるか」
 彼が否定すると、古参の中でも隊長格の男が、当然とばかりに説明してくれた。魔女が目元に着用している、視力を「抑える」ための彫金細工――およそ日常生活では用無しの品だが、とにかく魔女がそれを外したら、絶対に視線を合わせてはならない、という話だった。
 魔女は先日、その「暗示の目」の力で以て、警察からとある機密資料を取り寄せた。
 首都コフィン・シティ東端から旧『冥穹領(めいきゅうりょう)』へと伸びるゲート・トンネルの、管理情報だ。
 何世紀も前に利用価値を失い、修復計画も立たず遺棄された多層建造物。出入り口を検問で封鎖するだけで、去年までは警察すら立ち入らなかった廃道である。
 そこの情報を、魔女が求めたことで――
 警察の目を欺いて、殺人鬼『ヴァニッシャー』に会おうとする者。
 すなわち『ヴァニッシャー』の協力者という容疑が、魔女にかかった。
 かの殺人鬼が影も形も見せなくなってからはや二ヶ月。部外では楽観的な憶測も飛び交うようになった殺人鬼について、初めて具体的な情報源となりうる容疑者が浮上したことになる。
『ヴァニッシャー』へ武器弾薬を供給してきたと目される地下組織『クルスニク』が魔女から情報を買って、ゲート・トンネルへ多勢を派遣する――という説も検討されたが、内偵情報からその線は否定された。おそらく魔女は単独で、ゲートトンネルを目指す。
「……てぇことはだ。それを捕まえようとすれば、俺たちゃ殺人鬼にまで出くわしちまうんじゃねえか? 殺人鬼が健在ならの話だけどよ」
 古株の一人がそう言った。彼は殺人鬼が死んだとは露ほども期待しない一方、二ヶ月前に公安の別部署が仕掛けたという最後の遠征で、殺人鬼がなんらかの痛手を負ったと考えていた。
 もしその通りなら、回復の猶予を与えてはならない、という理屈になる。
「壊滅した遠征部隊の分析を信じるなら、音や光源を隠しようのない場所に『ヴァニッシャー』は現れない。実際トンネル内では一度も遭遇しなかったようだが、まあ可能性は残るな」
「なのに、俺たちだけで行くってか。実戦専門の連中でも歯が立たなかったのによ」
「じゃあ辞退するか? 何人辞退しようと、俺は行くぞ」
 白々しい声音で、隊長格の男が言った。隊長格というか、実際に今夜の部隊の陣頭指揮を執る隊長だ。彼は最初から、動員に応じそうなメンバーだけを選んで招集したようだった。
「『ヴァニッシャー』が存命ならそれはそれで、確証が必要だ。俺たちが生きて帰らなければ、それが殺人鬼『ヴァニッシャー』の生存確認になるだろう」
 事実、こんな捨て駒扱いも同然の説明をされたにも関わらず、辞退者は一人も現れなかった。
 交通課上がりの新人の彼も、辞退はしなかった。ただ不平を言う代わりに、どうしてヒヨッコの自分が人選されたのかを、隊長に聞いてみた。
「最大の理由は……やっぱり殺人鬼に遭遇する可能性は低いと考えるからだ。あとは……お前が『輝銀鉱(アージェンタイト)』に通い詰めてるって聞いたからだ。あの二人のことを、知ってるんだろ」
 そう答えるなり、隊長は彼との会話を切り上げて、さっさと部隊準備に戻っていった。

 そして数時間後、彼らは出撃して予定地に監視網を展開し、いとも容易く標的を捕捉した。
「囲め! 壁際に逃がすな!」
「手足ならいい、撃て!」
「往生際の悪い……逃げ切れると、思ったかこの、ガキ!」
 古株の一人が吼えて、魔女の細腕を掴み、投げるも同然に突き放した。魔女は何百年も前の廃車にぶつかり、どうやら腕の骨が折れたようだったが、骨折程度を意に介する理由も無い。
「ぅ……あッ……!」
 それでも。魔女と呼ばれる娘の苦悶の声を聞いて、新人の青年は強烈な違和感を抱いた。
 青年の役割は、前衛ではなく随伴と支援。言ってみれば雑用のようなものだ。暗視装置を外す予定は無いが、携帯電燈(ランタン)を点灯して適当な地面に置いて回り、視界を改善する。
 次に拳銃を抜いて、やや離れた位置から包囲に加わる。それからやっと、仲間警官の肩越しに「魔女」を正視して――
 幾つかの驚きと混乱が、立て続けに彼を襲った。
 魔女として包囲されたのは、修道女の装束に身を包んだ若い女――というよりほとんど少女と言ってよい小柄な姿だったのだ。
 首都上層には、修道服を制服とする富裕層向けの学院があるそうだが、この娘がまさにそこへ通う令嬢だと紹介されれば信じただろう。
 これが本当に殺人鬼『ヴァニッシャー』の協力者なのか? もしそうなら、かの神出鬼没の大量殺戮者は、こんな逃げ隠れもろくに出来ない小娘に情報を持たせていたことになる。
 もっとも、正真正銘、ただの無力の小娘だと断ずるわけにもいかなかったが。
 メガネという代物は、なるほど青年たちの使う暗視装置から一切の機械部品を除いたような、いかにも無意味な物体に見える。暗視の役には立ちそうにない。
 にもかかわらず、彼女には周囲がはっきり見えている。
 地面の亀裂を避けて歩いているし――
 少女は一瞬、間違いなく青年(こちら)を見た。
 彼女からすれば、単に自分を包囲した警官たちを順ぐりで一瞥したに過ぎない。しかしこちらが暗視装置越しの視界で難儀しているのに、彼女の視線はごく自然だ。
 考えられる理由はふたつ。メガネとやらに秘密があるか、あるいは彼女が生粋の公安警官以上の視覚を持っているかだ。後者はそのまま、彼女の血統が常人離れして高いことを意味する。
 余人の意識を視線で奪う――という話が本当ならば、夜目が利くぐらい当然かもしれない。
「捕捉完了。手こずらせやがって……周囲を再確認! 済んだらこのガキを連行するぞ!」
「トンネル内から検問所へ。標的を確保。後退して合流する。そちらの状況を報告せよ、繰り返す……」
「さあ、もう逃げられんぞ。署まで来てもらおうか。自分の置かれた立場はわかるな? こんな廃道を、わざわざ警察の目を避けて通ろうとしたんだからよ」
「ま、待ってくだ――わた、私は――」
 言葉になりきらない、狼狽しきった少女の声だった。誰が聞いてもそう評する、完璧な震え方と怯え方だったはずだ。
 だというのに。
 娘が突然その「完璧」を放棄したのは、おそらく本当に予想外の事態を感じて、取り乱したせいなのだろう。
 魔女は突然、驚いたように西方を見た。つまりはトンネルの片方、首都の方角だ。そしてそのまま釘付けになる。
 トンネルは緩やかに湾曲しながら東西へ延びているため、中間点から西を眺めたところで首都は見えない。ただトンネルの内壁が見えるだけだ。
「なんのつもりだ。こっちを見やがれ」
「え? ああの、いえ今のは……」
 慌てて隊長に向き直り、取り繕おうとする。だが無理だった。彼女は引き続き狼狽していたが、明らかに別物になっている。
 さっきまでの狼狽ぶりは、荒事を知らない御令嬢がいかにも陥りそうな、何も考えられないという恐怖と混乱だった。もちろん対象は彼女を囲む武装警官たちだ。
 その恐怖は嘘ではなかった。鍍金(メッキ)が剥がれた今なら、そう言い切れる。
 しかし魔女はどうやら恐怖や危機に免疫を持っており、怯えた自分とやらを演じながら脳裏で色々思案するぐらいの余裕はあったようだ。
 そして。
 その余裕が今は、西方から察知したらしい何かのせいで、綺麗に消し飛んでしまっている。
 恐怖の対象も、もはや警官隊ではない。
 また西方を見た。目前の警官隊長に対して言葉を選んでいたはずが、「何か」を探すことをどうしてもやめられないという風だ。目で探すより、耳を凝らすかのようである。
 もはや先程までの、典型的に無害な少女ではなくなっていた。子供という印象も曖昧になって、成人したての女性にも見える。
 箱入り娘のようにも見えるし、血腥い惨事まで見届けて老成したようにも見える。純真無垢であるようにも、そう演じることに慣れた狡猾な魔女にも見える。
 何通りもの人物像が混ざったような、不確かな少女だった。
 ただし、脆く無力であることは違いないようだったが。
「おい無駄だ、気を逸らそうとしたって、西方(そっち)にも俺たちの別働隊が……」
「検問所へ、応答せよ。こちら本隊、応答しろ! 何が……おい、そっちの通信機よこせ!」
()ってるよ! 駄目だ、俺のも壊れてる。ノイズすら受信しねえ。なんだこりゃ?」
 トランクケースを地面に置いて開き、中の通信機を操作していたメンバーたちの声。
 それを聞いて、中衛後衛の他の警官たちもが、防護服襟元の非常用無線をいじり始めた。
 青年も同じように、チャンネルを幾つか切り替えてみるが――何も聞こえてこない。チャンネル操作を意味する小さな電子音だけが、トンネルの闇のあちこちから生じては消えた。
「……おかしい。検問所だけじゃない。ここに居る俺たち同士の送受信も出来ない。妨害電波が出てるわけでもない。全員のがいっぺんに壊れるなんて、そんな訳が……」
「マロイ! 先に検問所を確認してこい! おい魔女、テメエ何を隠してる! 殺人鬼か? 『ヴァニッシャー』がここに来るのか! 助けでも呼びやがったか!」
「ちがっ、私は……っああっ!?」
 隊長が少女の頭を掴み、廃車に押し付けながら銃口を当てた。少女の体がびくんと動いて、廃車の表面でばたつく。悲鳴が響いた。腕を庇うような動きだが――まさか骨折が治っていないのか? 銀で負った傷でもない、ただ折れただけなのに?
「違う、違います……私はっ、殺人鬼とは、関係無い……仲間じゃない……!」
「だったらなんでこのトンネルを通って! このタイミングで殺人鬼が現れる!」
「これは『ヴァニッシャー』じゃない、来るのは別の、もっと……」
「殺人鬼と無関係なら、なんでそんなことが言える! マロイもういい、ここで陣形を――」
「何か、居る……近付いてくる……」
 唐突な呟き声。声の主は、青年のすぐ横に居た。仲間のマロイだ。
 隊長が名指しで命令しても全く動きが無かったので気付かなかった。長身の彼は命令を拒否するでも逡巡するでもなく、怯えた様子で西を眺めていた。耳を凝らすように、じっと。
 彼は公安の中でもずば抜けて、犯罪者を探すのがうまい男だという。勘が鋭いというか、壁一つ二つを隔てていても、逃げ隠れする標的をたちまち見付ける。青年にはなんのことかわからないが、ヴァンパイアはたとえ平民であっても、音や空気の揺らぎ以外で互いを探し、認識するという感覚を持っている、らしい。その範囲と感度に秀でて、しかも自覚的に使いこなせる人材ということで、彼は公安でも一目置かれる男だった。
 だから警官の中では、マロイが最初に「それ」に気付いたのだろう。
 とはいえ後は似たり寄ったりで、一人また一人と後に続いた。不意に閃いたように首都側を向く。そのままざわつきもせず、固唾を呑んで関心を釘付けにされる。皆同じように。
 マロイが暗視装置を外し、他数名が続いた。どうせ「それ」はまだ見える位置に無い。
 交通課時代からそんな感覚に縁の無かった青年は、先輩たちの様子から事態を推し量る他ない。ふと魔女の様子が気になって顔を、隊長たちの方へ
 ――……ォォォ……ォォォオオオオ……ォォンン……――
 遠く微かな、しかし重い悪寒に背筋を撫でられて、思わず振り返った。

   ◆

 半年前のことだ。『輝銀鉱(アージェンタイト)』に現れた一見(いちげん)客が、あの酒場を変えた。公安の先輩方が語った暗部ではなく、噴水池のタダ酒を巡って用心棒(バウンサー)と酔客が殴り合う表の『輝銀鉱(アージェンタイト)』の話だ。
 用心棒は五人いた。いずれも怪力と一目でわかる大男で、注文をせず池にへばり付くような阿呆のみならず、挑戦目的でやって来る喧嘩自慢の集団でもまとめてノしてしまうのが日常風景だった。勝ち負け自体を題材にすると賭けが成立しないため、野次馬たちはいつもKOまでの時間で賭けていたほどだ。
 だから、そんな連中がたった二人の新客にボロ負けする様は、仰天を通り越して壮観だった。
 青年はそれに居合わせた。飲み仲間が二人の来訪を事前に知っており、誘われる形で酒場に来ていたのだ。
 今度ばかりはどっちが勝つかわからねえぞ、でもあの二人を知ってる奴は今夜は賭けるなって釘刺されてるんだ、だから俺の金も使ってお前が賭けてくれよ――等々。
 青年はいつも通り聞き流して、なんの期待も心構えもなくその時を迎えて、お陰でまんまと心を奪われた。喧噪は好きだが賭けや勝負はどうでもよかった青年が、手に汗握って見入った。声援だって送ったかも知れない。誰かのファンになるという感覚を生まれて初めて理解した。
 話によると二人は警官、バリバリの現場組らしい。誰の仇討ちに借り出されたかは知らないが、とにかく入店するなり大男の方が「タダ酒を飲みに来た!」と吼えて池にダイブし、出てきた用心棒どもを優男の方と分担。二対五で沈めてみせた。
 名前も憶えた。三人がかりを力で抑え返した大男がアルマン。用心棒のリーダーを一手で気絶させた優男はその部下で、レオンと呼ばれていた。
 その晩は池のワインが他の客にまで解放されたのだが、あの日の興奮は忘れようもない。
 二人はその後も何度か来店したが、馬鹿騒ぎを起こしたのは最初の夜だけだった。普通の客として注文し、奢りで酒を飲ませたがる輩をそこそこに遠ざけて、カウンターの隅で仕事の話をしていたようだ。
 二ヶ月ほどは、まあ英雄扱いもまんざらではなさそうだったが。
 やがて皆が異常に気付き、二人を避け始めた。
 姿を現すごとに、二人の様子がおかしくなっていった。
 盗み聞きの証言曰く、仕事上のミスが重なっていたらしいが、とてもその程度の事情とは思えない沈み具合だった。特にアルマンの(すさ)みっぷりが尋常ではなかった。何かを酷く思い詰めて、まるで自殺しそうな目で、正気を保つためにはそれしかないと殻にこもって酒を飲む。レオンは(もっぱ)ら沈黙に付き合いながら、稀に仕事に関する私見や対策とおぼしき口上を一方的に述べて、決して相槌(あいづち)を求めなかった。
 次にやって来る時は、立ち直っているかもしれない――そんな皆の期待を裏切り続けて。
 彼らはこの二ヶ月、『輝銀鉱(アージェンタイト)』に姿を現していない。
 もはや店の雰囲気を悪くする一方の、招かれざる客と化していたアルマンだが、現在、あの酒場は奴の帰還を待ち望む客で連夜溢れかえっている。
 最後の夜に、奴が去り際、かつての豪放磊落(らいらく)な男に戻って、ある誓いを立てていったからだ。
『おいくそったれども! 辛気くせえな、俺のせいで酒がまずいか? ハッ悪かったな!』
『確かに俺と相棒は長いこと、ある厄介事を抱えてきた。だがそれも仕舞いだ。俺が次にここへ来る時には、全てカタがついてる。必ずだ、必ずケリ着けて戻ってくる!』
『その凱旋(がいせん)の時に、もし今のシケたツラのままでチビチビ呑んでる奴が居たらな! 俺が池に沈めてやるから覚悟しとけ、いいか! 俺が馬鹿に戻ってまた来るまでに、テメエらも元の馬鹿に戻っとけって話だ! そしたらまた奢ってやる! わかったな、くそったれが!』
 あれから二ヶ月。殺人鬼の噂はなりを潜めた。アルマンとレオンは帰ってこない。
 殺人鬼や、その討伐のために編成されたという公安特殊部隊の記事を片っ端から読み漁った。二ヶ月前に行われたという大がかりな決戦遠征によって部隊は壊滅したが、生還者も居たという情報と、全滅したという情報が何故か混在していた。殺人鬼の死亡説が次第に幅を利かせつつあったが、青年は全く安心できなかった。
 殺人鬼の生死が定かでないという噂を聞く度に、胸がザワザワした。走り出したくてたまらないのに、何処を目指せばいいのかはわからない。居ても立ってもいられなかった。
 アルマンとレオンをただ待つのがつらかった。やるべきことはそれではないと思った。しかしそれが何かはわからず、あの二人の帰還を諦めることもできず、酒場へ行くのをやめたらそれこそ本当に「終わって」しまうように思えて、通い続けた。
 公安への異動を申し渡された時、答えが見付かったような気がして飛び付いた。
 殺人鬼と内通している魔女を捕まえに行く、と聞いた今夜も、同じ気分だったように思う。
 魔女が催眠術を使って盗んだのは、たしかゲート・トンネルを通るための資料――だったか。廃墟へ行くための道。殺人鬼の拠点へ行くための道。自分にとっては、アルマンとレオンが戦った場所への道。魔女にとっては?
 今、その道に立ってみて青年は思う。自分もここを目指せばよかったのだと。
 あの二人は帰ってこないのに、殺人鬼は生きているかもしれない。
 その可能性に耐えられなかった自分は、きっと「かもしれない」を終わらせるまで、諦めることも抗うこともできなかったのだ。
 事実を確かめたところで、何が出来る訳でもないが。仇討ちなんて考えるだけ馬鹿らしい。
 しかし分不相応でも無益でも、それを確かめるまでは次に進めないという分岐点のようなものが、人生には存在するのではないか?
 そこへ至るためならば、危険を冒さずにいられない。そういうものではないか?
 アージェンタイトの魔女も、自分と同じだったのかもしれない。

   ◆

#1c『最後の人間』~12月1日の惨劇~10187字

 例えば、自室で一人っきりで微睡(まどろ)んでいる時。
 突然見知らぬ誰かが這入(はい)ってくれば、誰でも怖気(おぞけ)を感じるだろう。
 熟睡状態からでも即、飛び跳ねてしまえそうな、差し迫った危険信号が体を駆けるはずだ。
 そんな危険信号は、音や空気の揺らぎだけで感じるものだろうか? 家族の足音ではなく、風の悪戯でもなく、異常事態なのだと――そう判断する材料は、五感や記憶だけだろうか?
 耳、鼻、肌や骨で振動を感じる以外にも、「異変」自体の震度を感じ取れる気がしないか?
 交通課あがりの青年は、生まれて初めてそんなことを考えた。
 そんな感覚器が、たとえ身体の何処にも無かろうと。
 未知の感覚を、器官ですらない身体の何処かが。あるいは、身体の何処にも無い「何か」が。
 感じられてもいいじゃないか? 自分の死が迫っている時くらい。
 死神の足音を聞くのに、耳は要らないだろう。命さえ有ればいいはずだ。
 もっとも――そんな足音を、決して聞きたかった訳ではないが。
銀煙幕弾(シルバースモーク)セット、いいな? 撃つぞ!」
「撃て! 五百メートル先に重ねろ!」
 応答を聞くや否や、三人の警官が、携帯式の射出器(ランチャー)から擲弾(てきだん)を撃ち出した。
 筒のようなそれは硝煙の尾で放物線を描き、どれも指示通りの距離で地を打った。アスファルト舗装面をろくに転がりもせず、種々の銀塩片からなる猛毒の煙を吐き始める。
 出来上がるのは銀煙のカーテンだ。携帯電燈(ランタン)の光を遮り、視線が通らなくなる。
 と同時に、トンネル西方からひしひしと感じていた圧迫感も少なからず遠のいていく。
 銀がヴァンパイアの身体を傷つけ、自然治癒を疎外することは常識だが、「感覚を鈍らせる」効果を実感したのはこれが初めてだ。とはいえ、脅威が去った訳ではない。
 もう自分は、五感以外で何かを感じるという経験を知ってしまった。その感覚に繋がれた世界で、何が見えるかを知ってしまった。
 盲目の者が、視覚の概念を得てしまうようなものだ。
 価値観そのものをこじ開けられたのだ。戻りようがない。感じなくなっても探してしまう。
 人の気配ではない。
 自分はまだ間近の同僚たちの気配すら感じられないままだ。そんな自分の感じている「これ」が人の気配であるはずがない。こんなものが――人であるはずが。
 なら郊外を彷徨(うろつ)くという野犬の群れか?
 違う。「多数の小さな何か」ではなく、「一塊の大きな何か」だ。
 ここにいる警官全員、あるいは数十人の血と命を練り合わせても、まだ及ばない規模の。
 青年は周囲の仲間たちを見た。
 ある者は煙幕の増していく様をひたすら見つめ、またある者は時折、仲間同士で視線を交わす。例外なく銃をしっかりと構え、二種の銃器を携帯していた者はより強力な方に持ち替えていた。いまだにただの拳銃を手にしているのは、新人の青年だけらしい。暗視装置を外した者も散見された。
 何人かの警官が、銃身下部のサーチライトを点灯させた。廃車の群れ、汚れたトンネルの内装、そして煙幕の表面を、索敵光が泳ぐ。無意味でも探さずにいられない。
 そんな(はや)る人集りの中、メガネに修道服という()()ちの魔女が、辛うじて立っている。
 折れたままの腕を(かば)いつつ、沈鬱な面持ちでやはり西を眺めていた。
 彼女もまた恐れているが、警官たちと違って、もう焦りや困惑の色は見えない。諦めたような人形のような目で、煙幕ではなくその先へと視線を馳せて――
 次に数秒だけ、全く逆の方角を見つめた。
 東西に延びるトンネルの東側。つまりコフィン・シティの外、廃墟の方角をだ。
 なんだ? その方角に逃げることを考えたのか?
 それとも――そういえば西からの異変に気付くのは、マロイよりも彼女の方が早かったが。
 東にも、何かを感じているのか? その方角にも、何かが居るのか?
「マロイ、わかるか?」隊長の声だ。
「ああ、まだ居る……ゆっくり歩いてる。もう一キロも無い……」絶望げなマロイの声。
 トンネル入り口の検問所に待機していたはずの別働隊とは、連絡がとれない。それどころか全員の通信機が一切の電磁波を拾わなくなった。
 まるでこの一帯から「電磁波が消えた」かのようだが、そんな莫迦(ばか)げた妄想を実際に語る者は居なかった。
 全員の通信機が一斉に謎の不調をきたした、と考える方が遙かにマシだからだ。
 その莫迦げた妄想こそが正解だったときのことを、考えたくなかったからだ。
「……これで全員ただの錯覚だったら、いい土産話になるぞ。全員、東へ『後退』する! 三百移動するたびに煙幕を貼り直す。突破してくるものが有ればなんであれ、ぐっ――?」
 ひゅごっ!
 隊長も、他の警官も、もちろん少女までもが、同じタイミングで呼吸を封じられた。
 突風が吹いたのだ。
 乱気流、いや衝撃波と言った方が正しいかもしれない。
 ごおおおおおおおおっ!
 それは銀の煙を押して散らすだけではなく、錆び付いた自動車を横転させ、路面鉄道用線路の脆い箇所をめくり上げた。軽い廃材が、まだ煙幕を噴出中だった三つの擲弾(てきだん)と一緒になって、皆の後方、トンネルの遙か東方へ飛び去っていく。
「きゃあっ!?」
 飛来した金属片を避けて、少女が地面に転がった。ネジや砂塵を浴びながら隊長が()える。
「銃列乱すな! 車ごと飛んで()やしない!」
「だからってこんな出鱈目(でたらめ)な、――」ざぱん、という音と共に、警官一人の声が途絶えた。
 音のした方を、声の途絶えた方を、少女が見上げた。
 すぐ傍ら。
 ひとりの警官の首と胴が離れて、前者が天井すれすれまで()ね上がっていた。
 脱力した胴の周囲を、黒い何かが(はし)ったような。
 輪郭のはっきりしない黒い鞭のようなものが、反転して西へ飛び去ったような?
「なんだ!?」
「畜生、撃て!」
 血の降る音を掻き消すように、悲鳴と銃声が響き渡る。
 古参警官たちの動体視力は、明らかに何かを狙って発砲した。しかし各々の索敵光と弾道は虚しく路面を叩いて削りながら、みるみる西へ遠ざかる。
 煙幕のなくなった五百メートル地点を越えて、ほんの数秒で弾雨は焦点を失った。トンネルのカーブの向こうへ取り逃がしたのだろう。索敵光が散開し、路面や壁の曲面を舐め始める。
 静寂が。
 あるいは、警官たちの混乱に満ちた会話のひとときが。
 訪れることはなかった。
 首から上を失ったマロイの体が、断面からありったけの血を噴き終えて、どさりと倒れる。
 たったそれだけの猶与しか置かずに、それが再来した。
 不定形の黒く細長い「線」が一筋。
 紐ではない。紐状の物体ではない。黒ペンキで描かれた絵のような、一筆書きの床の模様。
 カーブの向こうから地を這って伸びてくる!
「うあああああああああああああっ!??」
 間違いなく全員が悲鳴を上げた。青年ですらトリガーを引いた。
 殺到する銃弾の嵐を、しかしその「線」は悠々と通り過ぎてしまう。まるで草叢(くさむら)でも避けるように平然と迂回し、隙間を縫うように通り抜けて、移動するのではなく先端を伸ばす。
 速い。数百メートル先で照準を定めようとした頃には、もう警官隊の足元に来ている!
 切り刻む時だけ床を離れて、それは立体的に鞭のように宙を往復した。
 いつのまにか二股に分岐していた鞭が、最前衛で発砲していた警官二人の四肢をぶつ切りにバラ撒いた。首は()ねない。断面が広すぎて今度は血の噴水も上がらない。骸の各部が二人分、無力に落ちて、バケツでもひっくり返したようなジャバジャバという音を立てた。
 その落下と雨音に紛れて、敵も地に沈む。
 アスファルトの地面から剥がれて鎌首を振った黒い「それ」は、再び地面にピッタリと貼り付いて、形を持たない二次元の存在に戻った。
 その変化を見て、青年は思い至る。
 地面の細かな凹凸・ひび割れに、綺麗に沿って同化した黒絵。
(見たことがある……)似たものを。日常的に見知っている。索敵光に照らされた様など特に。
 影。これは影だ。
 物体を光で照らした時に、光源の反対側に現れる限定的な暗所。それが動いているのだ。ただし大元の「照らされる物体」が見当たらず、しかも影自体が殺人を行っている。
 この影は地面を伝って、西から細長く伸びてきている――
「くっそ化け(モン)、がアアアッ!」
 野太い罵声と共に、大柄の警官が駆け寄って散弾銃(ショットガン)を撃ち込んだ。
 それまでのどの銃声よりも重い轟音が、ポンプアクションの駆動と交互に場を覆う。
 カシャコ、ドウン! カシャコ、ドウン! カシャコ、ドウン!
 老朽化したとはいえ平面を保っていたアスファルトが、発砲ごとに砕けて開く。
 正確に狙われたはずの影絵は、発砲ごとに後退して短くなるだけ。かすりもしない。
 しかし遠ざかった。
 それを好機と読んでいいかはわからなかったが。賭けに出る者はいた。
「これならどうだ……!」
 隊長が、一回り大きな狙撃銃を構えた。ボルトアクションの動作から一拍を置いて、部下たちとは違う距離めがけて銃声を鳴らした。
 ライフル弾は、迫り来る黒線の先刃部ではなく、遠方の幹(?)の部分を狙ったのだ。トンネルカーブによる死角すれすれ、直線で狙える限り最も遠い奥部である。銃火にさらされていなかったためか、支点としての役割があるのか、その部位はさっきから微動だにしていない。
 着弾の火花が閃いた。隊長警官の狙撃は完璧だった。
 だが彼の放ったライフル弾は、黒線を断裂する寸前に、まるで見えない壁にでもぶつかったように甲高く砕け散った。黒線は火花に照らされただけで、相変わらず動かない。
 その結果を、おそらく場の全員が見届けた。
 ライフル弾を何が阻んだのかはわからない。それでも望みが絶たれたという事実はわかる。
 銃声が明らかに減って――そして途絶えて、今度こそ静寂が訪れた。
 影の触手が音もなく縮んで去っていく。
 まるで、ただ警官隊を黙らせるだけが目的だったようにだ。
 うねるのをやめ、ただ短くなって遠ざかる様は、こちらの銃撃を明らかに警戒していない。呆然となった警官たちの隙を突くことも出来ただろうに、そんな素振りも皆無だった。銃撃を(かわ)しながら容易(たやす)く迫って殺せるのだから、隙の有無になど興味は無いということか。
 遠ざかっていく影に、追い撃ちをかけることはできただろう。しかし当たるとは思えない。青年も早いタイミングで発砲をやめてしまっていた。たとえ当たっても通じるとは限らないし、効いたところでなんになる?
 この影を(つか)わした本体が、すぐそこまで来ているというのに。
 トンネルのカーブを曲がった先で、ダンプカーほどの巨大な何かが息づいている。
 殺人鬼ではない。かの殺人鬼は、誰にも気配を悟らせない神出鬼没ぶりゆえに『消失者(ヴァニッシャー)』と名付けられた。得物も銃や刃物だったはずだ。今の襲撃とは似ても似つかない。
 では、この敵はなんなのか?
 今ならわかる。
 五感以外で知覚できる世界や、影を動かすという現象を認めた今ならば、青年にもわかる。
 というより、特徴や事態を総括すれば誰でも辿り着くほど自明だった。一般常識とさえ言っていい。こんな現象を起こせる怪物のことを、知識としては街の子供だって知っている。
 なのに証拠を認めるまでは「誰も」思い付かない。事実、公安警官隊は殺人鬼との遭遇まで想定して今夜ここに来たが、そんな彼らも想像すらしていなかった。
 誰もが知っているし、間違いなく実在もするが――
 街で暮らす限りは決して関わることのない、棺外世界(アウターワールド)よりも殺人鬼よりも縁遠い存在。
 聞けば警察の中にも、影を多少動かしたり、風を起こしたり出来る者は居るらしい。あとは念話か。決して実用に耐えるレベルではないが、それでも彼ちは警官で居続けるために、その切れっ端ほどの才能を必ず隠す。
 才能が明るみに出れば、彼らは平民街での今までの人生を剥奪され、ある場所への移住を強制されるからだ。そこで本来の主君に直接、仕える身となる。拒否権は無い。
 場所の総称は、貴族領。
 地上平民街の真下に位置する空洞聖域。コフィン・シティの地下領域(アンダーワールド)
 そこを治める主君たちは、存在の根底からして平民とは異なっており、肉体は()(もの)でしかなく、実体はこの世界に存在しない何かであるという。そして、平民のやるような真似事ではない本当の秘術妖術を、手足同然に常用するという。
 彼らは決して地上に出てこない。機械だらけの平民街は下俗の地と見做(みな)されているらしく、統治するにしても平民の使節を遣わすだけだ。御自ら街に現れるなど聞いたことが無い。
 なのに今、それが間近に迫っている。そうとしか考えられない。
「……貴族……」少女が呟いた。
 先刻の悲鳴と同じ喉から紡がれたとは思えない、澄んだ可憐な声だった。血腥(ちなまぐさ)い音が耳に残っていたせいか、清澄さには感銘すら覚える。
 貴族。誰かが声に出して言うべき言葉だった。受け入れがたい事実を認めるためにだ。
 その単語を発音することは何故かタブーだった。誰かが禁じた訳ではないが、貴族(それ)や貴族領が話題になった時も、直接の言及を皆が避ける。不文律があった。
 おそらく、「彼ら」が平民と平民街を避ける以上に、平民が「彼ら」を避けていたのだ。
 意識することを拒んでいたのだ。
 少女の発言以後、再び静寂が戻ってきた。影線が見えなくなってから十秒経っても、誰も動けない。見えないワイヤーで縛られたような重い空気だった。
 そんな沈黙と静寂を、ゆっくりと(ほぐ)すように――西方から――
 コツ、コツ、コツ、コツ。
 靴音が君臨する。
 コツ、コツ、コツ、コツ。コツ、コツ、コツ、コツ。
 不自然な音だった。ここ数分で耳にした誰の足音とも違う。アスファルトの地に鳴っていい音ではなく、演劇場の(オーク)の床と、舞踏用の靴が奏でるような、足音というよりは音色だった。
 気配から想像した巨体、化け物のイメージとは似ても似つかない。小気味良くさえある。
「っ、くっそおおおおおお!」
 沈黙の鎖を破って、あるいは()をあげて、警官のひとりが怒号を上げた。数分前、煙幕弾を最初に発砲した男だ。手には再び射出器があり、なんらかの弾頭を――撃った。
 小銃弾よりも重い弾頭が、ひゅるひゅると西へ飛んでいく。放っておけば、視線の途切れる地点でトンネルの曲壁に着弾しただろう。
 寸前、人影が歩いて現れる。
 臨戦態勢でもなんでもない、散歩するように悠々と歩いて現れた人影が、弾道に重なる。
 爆発が起こった。
 トラックの一、二台は横転させそうな規模の爆発が、しかし一瞬で消える。
 人影の足元から影が伸びて、爆発を先回りするように大きく広がったのだ。そして爆発を覆って包み、握り潰した。食べるようにだ。衝撃波はおろか爆音の残響すら残らない。
 影は――まるで巨大な野花が(つぼみ)を閉じて、頭を垂れているような形で、それこそ草花のようにゆらりと揺れた。
 揺れるままトンネルの曲壁に貼り付き、二次元の存在となってから、本体(あるじ)の足元を目指してゆっくり流れる。
 人影は、すらりとした男のそれだった。スーツ姿だと直感できる。手をポケットに入れるか、あるいは腰に当てるかしているようだった。
 大型車輌ほどの大きさを想像させた威圧感の正体が、たったひとりの優男。
 しかし目を疑う必要は無かった。むしろ瞭然に、ありのままを信じられた。
 ゲート・トンネルの壁いっぱいにひしめいて蠢く男の影が、翼や尻尾をうねらせて大首を巡らせる化け物を(かたど)ったためだ。
 こいつだ。間違いない。そしてやはり人ではない。
 青年は子供の頃の絵本の記憶から連想した。悪竜(ドラゴン)悪竜公(ドラクル)竜公子(ドラキュリア)
 人影がこちらを見た。
 青年の心に、恐怖と悲嘆の感情が「外部から」流れてくる。拒否したい衝動で埋め尽くされたが、青年の赤い眼球は自然に動き、視線を直視してしまった。
 途端に、脱力感が支配する。立ったままなのに、銃を持ったままなのに、手足に力を込めることも放棄することもできなくなった。体の主導権が自分に無い。外から何かに接収された。
 意識すら、操られていた。
 男の目から視線を逸らせない。心を逸らせない。釘付けになる。
 金色のふたつの瞳に。
 酒がグラスへ注がれるように、魂が注がれていく。
 残らない。自分が何をしていたのかも思い出せない。
(……あっ……、レオンだ)
 青年の魂が、最後にそれだけを呟いた。
 レオンを求めて呼んだわけではない。レオンを感じたような気がしたのだ。
 それも見付けた、遭遇したという域ではなく、レオンに導かれて「入った」と感じた。仲間入りをしたように、吸い込まれて同化したように、混ざり合ったように、何故か感じた。
 レオンとよく似た何かに加わったような――
 スーツ姿の化け物に飲み干されながら。

   ◆

 貴族吸血鬼(ヴァンパイアロード)の金の瞳は、平民の赤い瞳から意識を奪う。
 実際にその通りになった警官たちが、立ったまま脱力して、やがてゆっくり銃を落としていくのを見届けながら、ヤサヤは思った。
 やはり正統な貴族の視線は、自分の視線よりも強い。
 ヤサヤは視線が合ってからようやく相手を支配できる。背けた者に対して、視線を合わせるよう強制することはできない。しかし現れた男は無言でやってのけた。次元が違う。
 ――それから少女は、先程まで自分の外敵だった男どもが速やかに餌食となっていく光景を、黙って眺めていた。
 見殺しにした訳ではない。ただの順番待ちのつもりだった。
 彼らの次は自分の番。平民警官に追い詰められた自分が、貴族から逃げられる訳がない。
 そんなヤサヤの諦めを見透かしたが如く、捕食者は彼女を後回しにした。
 純白のシングルスーツ。瞳に比べると色素の薄い、金の短髪。どちらも闇の中とは思えないほど鮮やかで、決して発光してはいなかった。何かに照らされているかのようだった。
 ひときわ甲高く靴音(タップ)が鳴った。白スーツの捕食者が爪先で地面を小突いたのだ。すると、彼の足下から勢いよく跳ねるように、一振りの短剣が現れた。影の中に収納していたということは、銀製ではないのだろう。しかし、やはり平民には思いも寄らぬ芸当だ。
 男は両刃の短剣をキャッチし、跳躍した。痩身(そうしん)をくるり(ひるがえ)し、逆手に握った短剣で、自らの左の(てのひら)を串刺しにする。
 白い残像の放物線を描いた果てに、棒立ちの警官一人の眼前へと降り立つ。
 そして短剣が刺さったままの左手で、警官の胴体を突き破った。
 血の雨は降らない。血飛沫(ちしぶき)は上がらない。
 警官の胸から零れるはずだった鮮血は、白い捕食者の左手の傷にドクドクと殺到していく。
 見えない太い血管(ケーブル)を辿るように、流れは脈を打っていた。リズムがあった。心臓の鼓動と同じだ。奪われる者の脈動が消え入り、奪う者のそれを奏でていた。もはや、哀れな警官の血ではない。手の傷口に吸い込まれる以前から、血の所有権は捕食者に移ってしまっていた。
 数秒後。もはやカラの(さかずき)でしかなくなった犠牲者を、白スーツ氏はぽいっと捨てる。
 ヤサヤの視線は、その末路――つまり、地面に激突した衝撃で粉々に砕けてしまい、屍灰(しはい)となって四散する様へ釘付けになったが、暴君はもう次の酒杯へ着手していた。
 封を開けて(切り裂いて、突き入れて、叩き潰して)。
 飲み干して(掌の傷から、伸ばした影から、ほんの少しは唇から)。
 そして次々と叩き割っていく。
 後に残るのは警官の制服や装備一式。制服の袖や裂け目から屍灰が零れる。
 しかし、最後の犠牲者に関してだけ、白スーツの暴君はミスを犯した。
 棒立ちではなく、最初に首と胴を切り離されたっきり倒れて心肺停止していた警官を、彼は自分の手足でもなければ影でもない、見えない「何か」でプレスに掛けようとしたらしい。
 念動力で圧縮した空気の塊か、あるいは透明な厚板やブロック状の物体か。隊長と思しき警官がライフルを撃った時、弾が空中で阻止されたのをヤサヤは思い出した。
 とにかく、そんな分厚い透明な何かが、警官の頭と胴体を上から()して、ぐしゃりと。
 骨の形も、肉片も残さない。全てが赤黒い泥に変わって、それらは暴君の影に吸い込まれていく――
 そんな算段だったのだろう。
 プレスの底で、たったひとつの誤算が破裂した。
 すなわち、犠牲者の銃か制服に仕込まれていた、銃弾のカートリッジが()ぜたのだ。
 その爆発すら透明なプレスを押し返すことはできなかったが、銃弾には無論、多量の銀が含まれていた。
 炸裂した銀は、彼が飲むはずだった鮮血を()き、屍灰(しはい)にしてしまったのだ。
「なっ――……ああ、しまった」
 今まで見てきた凄惨さ全てを疑いたくなるような気楽な声を、男は吐いた。
 緊張感の無い、優雅だが気だるそうな若い声音だったのだ。まるで流血も銃撃も屍灰も何もかもが劇団のお芝居で、予行演習の最中うっかりカップを落としてしまったような。
 些細なミスを嘆く声だった。
 重大な事態などひとつも起きていない、と言わんばかりに。
 男は左手から剣を抜いて、伸ばした影に回収させた。傷口が癒えるまではほんの数秒であろうに、それすら待たず、手で髪をかき上げる。短い金髪は汗と無縁だが、こんな廃道の闇の中でも瑞々しげに、指の間を泳ぐ。
 そしてヤサヤを見て、笑みを浮かべた。
 その笑みになんの意味があったか?
 遠出した先で、友人に会ったような笑顔だった。失敗を笑われた時に、気分を害さず一緒に笑うような笑顔だった。骨折り損の労働の苦楽を、いっしょくたに愛でるような笑顔だった。
 そんな友好的な気軽さで表層を覆いつつ、金の瞳はギラギラとヤサヤを観察している。
 奇妙な装身具で目元を守り、所属を示す(タグ)を一切外した修道服を着て、貴族の金の視線を無効化した癖に、折れた腕をいつまでも庇っている。警察に追われてもいた。
 傍から見て、自分はどれほど不自然な有り様か。
 それだけではない。
 男の知覚は、おそらくヤサヤと同格かそれ以上のはずだ。ならばヤサヤが男から化け物じみた気配を感じるように、この男もヤサヤの気配を探れるはず――
「なんだろうな? お前は。結局、純血種の居所を知っているのか?」
「……え?」
「純血種、だ。賤民(せんみん)の警官どもに疑われていただろう。奴の仲間なのか、違うのか?」
「……」
 じゅんけつしゅ。初めて聞く言葉だ。反芻して、ヤサヤは意味を考える。
 すると、表情の変化から即座に察しを付けたのか、白スーツの貴族は笑みを「変えた」。
 (ともがら)に対する笑みと、敵かもしれない者に対する笑みと、供物や玩具に対する笑み。
 その比率が僅かに変動したと感じるが、分析が及ばない。わからないことが多すぎて、どの疑問から手を付ければいいのか、焦点がわからない。思考をまとめられない。
 こういうとき、最近なら仮面たちが――ヤサヤの中の別のヤサヤたちがしゃしゃり出てくるはずなのに、影も形も見当たらない。
 どうして?
 警官たちに囲まれている最中は、子供っぽい方の自分が出しゃばってくれたのに。
 この貴族がゲート・トンネルに入ってきた瞬間、ヤサヤの虚飾は消え去ってしまった。
 小手先の嘘なんて通用しない、全部見透かされるのだ、という宣告のように。
「禁じてやろう。ひとつ、僕に正体を明かすな。素性を秘したまま、慎重に振る舞え」
 男が言った。左手の人差し指を自分の口元でかざし、数字の「1」にも「秘密」を表すサインにも見える微妙な位置でしばし揺らした。
 言うまでもなく、その手には傷痕ひとつ、煤汚れひとつ見当たらない。
「許してやろう。ひとつ、僕に対して甘言を(ろう)せ。僕は今夜、純血種狩りで程々に忙しい。お前のために時間を割いてやってもいいし、さっさと殺してもいいし、後回しにできるならそれが一番いい。うまく僕を欺けば、この場を切り抜けて、街に隠れる猶与も作れるだろう。うまく僕の気を惹いてみろ。この窮地を潜り抜けるために」
「……あ、あなたは」
「一度きりだ。僕を(たばか)る無礼を、一度だけ許すと言った。街に帰って、昨日までと同じ日常に戻るチャンスだ。よくよく言葉を選べ、小娘」
「……」
 ヤサヤは息を呑んだ。念押しされて怯んだからではない。言葉を失ったためでもない。
 逆だ。男の語りのごく一部が、彼女を駆り立てたのだ。そんな自分を咄嗟に抑えた。
 自分の持っている情報と、今ここで見聞きした断片を照合する。
 警察――殺人鬼――廃墟――外界――ゲート・トンネル――自分。
 貴族――純血種――地上――外界――ゲート・トンネル――自分。
 ヤサヤ――殺人鬼――廃墟――外界――ゲート・トンネル――武装警察――貴族。
 昨日までと同じ日常に。
 戻るチャンス。男はそう言った。
(なんのためのチャンスか、あなたに決めて欲しくない……!)
 そんな反論の代わりに、彼女は最も適した言葉を探す。
 勝ち取るべきものは決まっている。
 安全や日常のために、ここへ来たのではない。
 自分は『ヴァニッシャー』に会いに来たのだ。
「………………………………私、は……あなたよりも、ずっと!」
 紡いだ言葉は、懇願でも、提案でも、命乞いでも、嘘でもない。
 白い暴君の笑みが歪む様を見て、少女は覚悟を決めた。

  ◆

#1d『最後の人間』~魔女と悪竜の探索行~11381字

『ヴァニッシャー』とは、およそ半年前から首都コフィン・シティで活動してきた重犯罪者の俗称である。
 都市間の使節団や行政官など、街の政体に関わるものを狙う。銃や刃物、または爆発物を用い、なんの声明も出さずに凶刃を奮っては当然のように追っ手を()き、日を空けては再来した。
 ただしおそらく、官公の暗殺自体は目的ではなく、手段に過ぎない。
 というのも、この殺人鬼は最初の標的を殺した後、誰かに見付かるまで、むしろ警察などの追っ手がかかるまで、現場周辺、例えば同じ建物に留まるからである。
 そして武装して駆け付けた警官や護衛官を再度奇襲で殺したところで、やっと撤収を始める。
 言わば最低一人、追っ手を返り討ちにするまでは、決して逃げない。
 たとえ警察に、増援や包囲のための時間を与えることになっても、絶対に受けて立つ。
 まるで、徹底不利の条件で戦うことこそが目的であるかのように。
 その上で切り抜けて、多くを返り討ちにしながら、首都東部へ、果ては壁外の廃墟へと転戦する。最終的には深追いした者たちを壊滅させることで、今度こそ消息を絶つ。
『消失するもの《ヴァニッシャー》』とは単に逃げ隠れの手際を指した呼称ではなく、追撃を試みた警官隊に幾度も逆襲を仕掛け、その度に忽然と消息を絶つ、言わば「出現と消失の妙」から定着したものだ。
 そんな狂ったスタイルの、世が世ならテロリストと呼ばれたであろう(信じがたいが、単独犯であるらしい)殺人鬼を仕留めるべく、首都公安警察が特殊部隊を編成したのが五ヶ月前。
 部隊が壊滅と再編成を繰り返しながら幾度となく廃墟に出征し、ひときわ大規模な決戦に臨んで、ついに首級を挙げぬまま致命的な機能不全に陥ったのが、約二ヶ月前のこと。
 以後、警察はもちろんのこと、殺人鬼の新たな動きも起きていない。
 聞けば最後の決戦遠征で、夜明け《デッドタイム》寸前にも撤退を拒んで最後まで『ヴァニッシャー』を深追いした警官が、少数ながら居たらしい。
 彼らが『ヴァニッシャー』と差し違えたのではないか? 『ヴァニッシャー』はとうに屍灰(しはい)と化しているのではないか? そんな説が信憑性を帯びつつあるが、まだ誰も確信はしない。
 そんな不確かな静寧の中、さる下弦の月夜。
 十二月三日がもうじき終りを告げようという頃。
 砂風が珍しくなりを潜めた旧『冥穹領(めいきゅうりょう)』の砂の廃墟に、西のコフィン外壁から、ゆっくりと現れた人影があった。
 壁からにょきりと伸びるチューブ状のトンネルは、本来ならば車道と鉄道からなる計三層の立体陸橋と連絡し、眼下の街並みへ枝を生やしながら市街中枢を目指すものだったろう。今や、多車線とおぼしき高架道路が数百メートル分、壁にこびり付いて残っているに過ぎない。
 人影はゲート・トンネルを通って西の壁から現れた。そこから高架道路の名残りを歩き、先端の崖まで辿り着いたところで移動を終えた。
 行き止まりではある。砂の無人街に降りられるような地続きの道は、無い。しかし慎重に探せば、ほんの数十メートルの落下で辿り着けるような廃建築の屋上が幾つか見つかる。赤い瞳の平民ヴァンパイアであっても、地表に降りることは充分に可能なはずだった。
 黒髪を肩まで伸ばした、妙齢の婦人――あるいは少女。表情と振る舞い次第でどちらにも成り済ませそうな、無垢清澄な麗しさを備えている。今はどちらを装う気も無いようで、無表情に佇む様は女性としての魅力よりも、脆い硝子(ガラス)工芸のそれに近い。
 修道女のような服装だが、厳密には首都上層街にある修道女学園の制服を着て、それっぽく成りすましているに過ぎない。袖口や胸元に刺繍(ししゅう)されているはずの学年章や寮章は全て外してあり、これなら大抵の界隈で「上等の修道服」としか見做(みな)されないはずだった。
 問題は、女が耳から目元に渡って着用する、微細な彫金飾りだ。
 両耳元の支点から伸びて顔正面で合流する細い金属管と、二枚のレンズで構成されている奇妙な装身具。それが「眼鏡」と呼ばれる視力矯正具であることは、それこそ修道女学園に入学するような身分でなければ知る(よし)もない。
 これもやはり、何処で手に入れたのか? 何故、着用しているのか?
 人目を避けて生きる者なら、そんな装身具で人目を惹いてはならないはずだが――違法な情報屋として酒場『輝銀鉱(アージェンタイト)』を出入りする際も、彼女はこの眼鏡を常に着用していた。
 二日前、ゲート・トンネルへ不法侵入した夜も同じ。
 その際の一件で、己が警察に狙われる身だと自覚したはずなのに、今夜も変わらない。
 矛盾しているような、制約の中で足掻くかのような、既に諦めているような、そんな若い女。
 アージェンタイトの魔女。
 ヤサヤである。
 彼女は高架道路の折れた崖から、南・東・北に広がる無人の街並みを幾度も見回した。
 何かを探す様子ではない。何処に何があるかは概ね承知の上で、ただ見慣れない景色だから繰り返し眺めている、そんな(そぞ)ろな視線だった。
 ただし東南東の方角を見る時だけ、特定のひとつの建物に必ず焦点を合わせている。
 周辺の他の建物よりは大きく、廃墟の割に輪郭がしっかり残っているものの、所詮は廃墟にひしめく廃建築の一棟でしかない――外見上は。
 ただそれだけの建物にたっぷり数秒、幾度目かの視線を注いでから、ふいにヤサヤは視線を上げた。
 今夜は風が弱く、砂塵が薄い。
 だから二日前よりもずっと、月と星がよく見えた。
 平民・貴族を問わず、今世の人類(ヴァンパイア)にとって無縁な光景だ。それをしばし見つめたことで、無表情だったヤサヤの眼鏡越しの赤い瞳に、やっと何かが灯りかけたが――
 ずずん……という遠い音を聞いて、硝子人形に戻ってしまった。街へ視線を戻す。
 見ると、廃墟の一部から砂煙が上がっていた。先刻からヤサヤが幾度も焦点を合わせていた建物だ。風の()いだ夜だからだろう、砂煙は互いに重なるように範囲を広げて、その間にも煙の中では建物が倒壊を続けているのが聞こえた。
 にもかかわらず連鎖破壊を起こした張本人は、煙を突き破って退避するまで、たっぷり二十秒近く震源地に留まっていた。
 その気になれば最初の一瞬で上空へ脱出することもできただろうに、まるで建物の倒壊に巻き込まれるぐらい苦でもなんでもないと言わんばかりに――事実、そいつの巨大な気配は崩落地に留まる間、足場だって崩れただろうに、全くびくともしなかった。
 そして唐突に、衝撃波をばらまきながら弾丸よろしく飛び上がったのだ。
銀煙幕弾(シルバースモーク)セット、いいな? 撃つぞ!』
『撃て! 五百メートル先に重ねろ!』
「うっ――」声が響いて、ヤサヤの脳を刺した。
 二日前、ゲートトンネルで記銘された黒い畏怖が、記憶の蓋を破って頭蓋の中に充満する。
 煙の檻を破り、煙の尾を引いて夜空へ飛翔したモノと、溢れ出した記憶の中心にあるモノは全く同じく、今夜もヤサヤに死をイメージさせる。
 それは空でひとまず静止し、悠々と翼を広げた。
 しかし「それ」に翼など無かったはずだ。自分は二日前に見て、それを知っているはずだ。
 それの尾が空を()いで、まとわりつく煙を横一閃に斬り裂いた。
 しかし「それ」に尾など無かったはずだ。それでも煙は、実際に裂けて霧散した。
「来るわ、ヤサヤ。気を付けて」
 背後から声がした。普段聞いている幻の自分の声と比べると、かなり幼いが――別人というには似すぎている、そんな声だった。
 驚きはしたが、振り向きはしない。この声を聞くのは珍しいが、初めてではなかった。それに別人格たちが何を話しかけてきても黙殺するということに、ヤサヤはよくよく慣れていた。
「彼はあなたを、いつ殺しても構わないと思ってる。私たちでは……に……ない。自分を……って……」
 急速に声は遠ざかっていった。幼き日の自分という幻は消え失せて、代わりに上空から弓なりの軌道で飛来するのは――翼も角も尻尾も持たない、白いスーツを着た並の体格の男一人だ。
 あるいは、並の体格の男に成り済ました、感じられる通りの翼竜かもしれないが。
 それが、ヤサヤの立つボロボロの陸橋に落ちてくる。羽撃(はばた)いて急降下し、砲弾のごとき勢いで陸橋の先端部へ「着弾」すれば、陸橋も彼女も無事では済むまい。
 逃げ惑う暇は無い。危機感を覚えるのがやっとの瞬時の出来事だった。
 爆発といってよい衝撃が起こった。ヤサヤの眼前でだ。
 押しのけられる空気の総量と勢いが、着地点の風を飽和させ、耳を(ろう)す。鼓膜はもはや機能せず、逃げ場を探す気圧の悲鳴が代わりに全身の肌と骨を震動させる。
 息を吐けない。目を開けられない。聴くという概念がわからなくなって、重力が消えた。確かに一瞬、体が宙に浮いたのを感じた。というより、ついに足場が崩れたのだと予感した。
 が――

  ◆

「全く、大袈裟(おおげさ)な奴め」
 次の瞬間も、数秒が過ぎても、ヤサヤの体は浮遊感と共にあり、落下は始まらなかった。
「……え?」
 薄目を開けたヤサヤが周りを見渡すより早く、何かが彼女の体を陸橋に「降ろした」。いつのまにか両肩に巻き付いていた影の触手が彼女を解放して、翼竜の気配の中心に戻っていく。
 短い、鮮やかな金髪がまず目を引いた。
 砂色の淡い闇夜の中、(すす)けるどころか(しわ)一つ無いスーツが、下ろしたてのように白い。それに袖を通した男の姿は、砂だらけの廃墟に居るとは思えないほど清潔で鮮やかすぎた。
 プラチナブロンドがとびきり似合う顔立ちは、誰でも一目で理解するほど明確な自信家のそれだ。しかし、少年っぽい顔の骨格でそんな自信を(たた)えた時には嫌でもついてくるはずの、未熟さや危なっかしさがうかがえない。
 ヤサヤが街で、酒場で見かけた自信家といえば、もっとストレスを感じさせる人種だった。この男はもっと自然体だ。ヴァンパイアとしての規模が大きすぎるせいで常に威圧感を放っているが、それを感じながらヤサヤは自覚せざるを得ない。
 物理的な、生命の危機を男から感じる。しかし心理的には逆に、安心感を得ている。
 こんな人物が実在できるのか? 衣服も顔立ちも風格も、何もかもが現実的でない。
 思えば、彼が警官らの首を()ねて、その血を■■た惨劇の直後でも、その姿は真新しい絵画のようだった。
 これでは、目で見える姿が嘘っぱちで――
 肌で感じる巨大なドラゴンの威圧感こそが真実なのだと、思いたくもなる。
 男はヤサヤを見下ろしていた。左手をズボンのポケットに入れて、右手では自身のこめかみや右眼のあたりを指差している。そんな動作ひとつとっても、そこいらの街の若者とは違って作法を学び尽くしたという片鱗(へんりん)が見受けられた。
 そして口を開いた。若いバリトン声域で、間違いなく、ここ数年ヤサヤが聞いた誰の声より(みやび)やかだった。
「眼鏡。落ちかけているぞ」
「あっ……と、うわっ?」
 慌てて両手を顔に当て、眼鏡を探――そうとした途端、ヤサヤはバランスを崩してへたり込んだ。自分が立っているという自覚が無かった。そもそも足場に降ろされたとき、そのまま倒れなかったのが、ヤサヤにおいては奇跡のようなものだった。
 膝をついたまま眼鏡を整えて、そのまま周囲を見回す。
 陸橋は無事だった。ただし様相は変わっている。コンクリートの表面に積もっていた砂塵や石塊がすっかり無くなって、(ほうき)で丹念に掃除した後のような有様だった。
 この様相には憶えがある。二日前、ゲート・トンネルの中で突風が吹いて、銀の煙幕もろともネジやら廃車やらが吹き飛ばされた後も、地面はこんな風になっていたはずだ。
 砂だらけの廃墟の隅に、砂塵の無い空間が出来上がっていた。
 その中心に君臨する男を、ヤサヤは立ち上がって改めて見上げた。そうしてやっと違和感の正体に気付く。
 白スーツの男は、陸橋の上に立ってはいなかったのだ。地面から一メートルほどの位置に靴が有る。かといって浮遊しているようでもない。左右の靴底が揃っている。
 見えない何かが空中に有って、男はそれを足場にして立っているのだろう。
 これもやはり、記憶の浅瀬に思い当たることがあった。警官らが死んだ夜。不可視の何かが、或るときはライフル弾を阻み、また或るときは警官の体を――押し潰していた。
 その時の色彩と響きと熱を、ヤサヤは憶えている。
「落ち着いたようだな」言って男はあからさまに靴を動かし、キュッと摩擦音を立てた。「勢いのまま着地して、このボロ橋を粉砕すると思ったのか? これでも気は(つか)っている。今夜は警官たちにも遭遇しなかったろう」
「……役に立つまでは、私を潰さないようにですか」
「逆だよ。役に立てば立つほど、僕は報いる。契約とはそういうものだ」
 諭すような口調だ。穏やかで、興味なさげで、なのに聞き流すことを許さない凄みがある。
 言葉遣いを庶民ぽく崩したところで、生まれと育ちは隠せない、というお手本のような声だった。
 発音の区切り方、イントネーション、抑揚のバランス、感情との距離感。歌手や劇男優が一生かけて追い求める黄金律を、この声は平民なら二十代前後の声質でやってのけている。
 これが二晩前、ヤサヤの眼前で警官隊を■■■■した男の声だとは――いや、人智を超えた者の声だと思えば、(かえ)って辻褄(つじつま)が合うのかもしれない。そもそも吸血鬼貴族(ヴァンパイアロード)において、外見年齢などなんの意味も無いのだ。
「遅れたが、挨拶ぐらいしておくか? 確か無礼講なら……ごきゲンよウ……だったな? よく来てくれた。流石に腕も治ったようで何よりだ」
「…………………………………………こんばんは」
 いっそ考えるのをやめようかと思うほど迷った後、ヤサヤはそれだけを返した。機嫌を損ねるかもしれないと予想したが、男の口ぶりは変わらない。楽しげで、怖くて、少し安心する。
「本当に、よくもまあノコノコやって来たものだ。せっかく二日の猶予を与えてやったのに。雲隠れしようとは思わなかったのか? 僕が怖くはないのか。逃げたいとは?」
「来ないと思ったから、一人で始めてたんですか。……殺人鬼捜しを」
「お前なら来るさ。他の者なら来ない。自殺志願でもなければな」
 男の左手が動いた。腕の輪郭から煙のように影が湧き出て、植物の枝葉めいた形にまとまる。男の二の腕から黒い植物が生えたようだと言ってもいいが、そのように強引に解釈したところですんなり許容できる現象ではない。
 挙句の果てに、白スーツ氏は枝に腕を絡ませ、手を突っ込んで、何かを取り出した。見ていたヤサヤは眩暈(めまい)を覚えた。ひとつの現象を理解しようと苦心しているうちに、矢継ぎ早で次の超常現象を見せつけられては頭が持たない。
 それでも、何も考えられなくなりそうな頭になんとか鞭打って目を凝らすと――
 上着もシャツも白一色のシングルスーツに、白い手袋。黒い影の枝葉。
 無彩色のコントラストを乱す異物が、手の平の上に四つ載っていた。
 硝子(ガラス)の小瓶。薬品や証拠品を保存するための、一般にバイアルと呼ばれる広口瓶だ。蓋はされておらず、中には一様に、黒ずんだ泥土のような固形物が詰められている。
 ヤサヤがほんの少しだけ眉をひそめて、口元に手を当てた。
 他方、バイアルを器用に手の内で転がしながら、白スーツ氏は楽しげだ。
「そうだな、酷い臭いだ。しかし我々の血の臭いは、これとよく似ているんじゃないか? ヴァンパイアを生かす命の臭い、そして死ぬときにぶちまける死臭、どちらも同じだ。小娘、この瓶に詰まっている物がわかるか?」
「……鉄と泥で、血の臭いを真似できるとは聞きますけど」
「次元が違うだろう? 臭気だけでなく、こいつは『そこに誰かが居る』ような錯覚を振りまく。まるで本物の血や『式』で出す影のようだ。純血種は自分の居場所を誤魔化すために、(デコイ)としてこの瓶を、廃墟のあちこちに隠しているが――正体は、奴自身の血だろうな。これは凝固した血液だ」
「ぎょうこした、血……?」
 ヤサヤには意味がわからなかった。
 ぎょうこ……凝固? 液体や気体が固体へ状態変化する現象。そこまでは想像が及ぶ。
 しかし血液が凝固とは、どういう意味なのか?
「凝血ともいう。創成期以前の文献に度々、そういう記述があるのだ。なんらかの条件が揃うと、血液はこんな黒い固体に変じて、体外でも安定するらしい。しかも出血したヴァンパイア本人が死んでも、血液は消えずに残るそうだ。意味がわからんな」
 言いながら男は手を上げ、月明かりをバイアルに当てた。
 煌々(こうこう)と輝く、濃密な黄金色の一対の瞳だ。それが数秒ほどバイアルを覗き込んだが、すぐにヤサヤに見せるように構え直す。
「ここにあるうちの一つは、今し方に僕が建物を壊しながら見付けたものだがな。他の三つはお前の手柄だ。『学校に二つ、病院に一つ、どれも殺人鬼本人とは違う』――お前は一昨日、帰り際にそう予言したな? お前を帰してから廃墟に戻り、確かめてみたらその通りだった。完敗だよ。僕には小分けされた瓶の数まではわからない。かなり近付くまではな」
 そこまで言うと、男は指の間で転がしていた瓶を、宙高く放り投げた。
 月明かりを軽く(まぶ)したシルエットが四つ。似ているが同一ではない放物線を描く。
 その、風に吹かれてバラけそうな寸前の四つの瓶が、白スーツ氏の足下から伸びた影の触手に一緒くたに呑み込まれた。
 幾条もの赤い直線光が夜景を切り裂くように(またた)いて走り、細長く伸びた魔手の、七本だか八本だかわからない指が、新たな赤光を描きながら自身を折り畳み、閉じる。
 魔手は瞬く間に、白スーツの男の足下、靴底へと引っ込んで消えた。
 静寂さに反して、動いた力の大きさを乱気流が物語る。血臭は消えて、代わりに薪を()べたような火の臭いが広がった。白スーツ氏が吐き捨てるように言う。
不味(まず)い。下賤(げせん)の生き血の方がマシだな。これが『死んだ血』の味というわけだ」
「……」
「どうした?」
「……いいえ」
 言われるまで気付かなかった――白スーツの男を、自分が(にら)んでいたことに。
 まずい。
「何か言いたげな顔だったぞ。言ってみろ」
「なんでもないです。……今の話を、ちょっと考えてただけで」
「そうか」
 素っ気ない返事だった。そして、返事の直後だった。
 奇妙な風がそよいだかと思いきや、見えない衝撃がヤサヤの背後で、陸橋の路面を(えぐ)り飛ばした。大型車輛の事故めいた轟音がヤサヤを背後から()し、足場が揺れる。
 男が降り立ったときとは違う。ヤサヤの足下は大きな金属の軋む音、折れる音、外れる音を立てながらゆっくりと静かに傾き、沈下していった。
 微震と共に視界がスライドして、おそらくほんの数十センチずれたところで停止した。反動が足に伝わり、ヤサヤは蹈鞴(たたら)を踏んで――
「止まれ」
「っ……!」
 耳元で囁かれたような錯覚を覚えた。男は、ちゃんと数メートル前方の夜風に立っている。
 あの色の瞳を爛々と輝かせて、ヤサヤを見下ろしている。
 ただし、射竦(いすく)められながらヤサヤが最も驚き、怯えた理由は、男の視線と表情が決して怒りに燃えておらず、冷たく殺意を満たしてもおらず、ずっと変わらぬ平静のままだったことにある。
 単に、些細な誤解を訂正するだけのような、淡々とした表情だったのだ。
「お前は、僕の『狩り』に貢献する。代わりに僕はお前に同行を許し、正体を隠すことを許す。それが二日前に交わした契約だ。そうだったな? 小娘」
「……はい」
「何故、(デコイ)を正確に探せるのか? 何故純血種に遭いたがるのか? 何故僕の視線に耐えられるのか? 名前は? 名乗らない理由は? ……語らせればお前の素性まで知れてしまうだろうから、僕はそれらを問わないし、仮に偽名を名乗ったとしても(とが)めない。だがな、勘違いするなよ――嘘が僕に通じるわけではないんだ。わかるか? 小娘」
「…………はい」
「『今の』は、素性を隠すための嘘ではなかったな。僕の不興を買うと危惧して、(はぐら)らかしただろう。気付かないとでも思ったか? 興を削ぐ真似はよせ。本当は何を考えていたんだ? 僕を()め付けながら」
「…………………………………………なんで」
「うん?」
「なんで、あの人たちを殺したんですか。二日前の警官たちのことです」
 白スーツの青年が、きょとんとヤサヤを見たまま止まる。かと思いきや、返事は早かった。
 しかし、内容はヤサヤの予想を超えるものだ。
「お前にそれを憤る資格が有るのか?」
 てっきり「それは大事なことなのか?」とか「理由は無い」とか、食い殺した警官たちの命を軽んじる言葉が返ってくると思っていたのに。
「あの賤民(せんみん)どもの命運を、お前は早々に見限っていた。切り捨てて、即座に別の思考へ移っていた癖に、後になってから人情ぶるのはよせ。お前は慣れているだろう。己の無力にも、誰かを見殺しにすることにも。おおかた、賤民どもの街で色々な理不尽を見てきたのだろう? そして無力を口実に、受け入れてきた。お前の目を見ればわかる」
「……」
「さ、わかったら仕事をしろ。移動が必要なら言え、運んでやる」
 男は数歩を進んで、ヤサヤと同じ陸橋に降り立った。そして眼前を横切り、道を空ける。
 ヤサヤはすぐには動かなかったが、白スーツの男は催促をしない。ヤサヤの横で背を向けて、両手をポケットに入れたまま彼は動きを止めた。
 廃墟の北を眺めるかのようだが、実際には違う。ヤサヤのアクションを待っている。
 余所を向いててやるから、その間にさっさと済ませろ、ということなのだろう。
 ヤサヤは陸橋の崖に進み、袖の砂を払って、白スーツ氏の背中を確かめてから、眼鏡を外すかどうかを迷って、やめる。
 どうせ目で探しているわけではない。

  ◆

 十秒ほどで事足りた。ヤサヤは目を開き、組んでいた両手を解いて、
「あなたがさっきまで居た場所。あそこから少し東に、もうひとつ気配があります」
「少し? あの周辺にはもう何も感じない。時計塔の根元か?」
「もっと手前です。ふたつのビルが上の方でくっついてる建物、わかりますか」
 今度は白スーツの男が、東の廃墟を向いて目を閉じる番だった。ただし一瞬だ。首を振る。
「さっぱりだ。(デコイ)の気配なら、この距離でも探せるつもりだがな。ということは……」
「あれとは違います」
「どう違う?」
「……なんとなく、としか」
「何故そこで嘘をつくか。まあいい、行くぞ」
 ヤサヤの視界から、白スーツの男が消えた。そのようにしか見えなかったが、巻き起こった風のお陰で、彼が跳躍したのだということはわかる。
 ヴァンパイアとしての気配が大きすぎて、男の二メートル程まで近付けばヤサヤはほとんど「相手の体内に入った」ような錯覚を味わう。その拘束感から解放されただけでヤサヤは大助かりだったが。
 もちろん、離れた空中に着地した白スーツ氏に、容赦など無い。
「お前の目の前に、足場を停めてある。乗れ」
「……へ?」
「階段を一段のぼる要領だ。乗ったら一メートルほど進め。お前の言った場所まで運ぶ」
 言葉の内容を、ヤサヤは考えた。自分の足下を見てみるが、何も見当たらない。
 既に陸橋の先端部に移動していたため、要は崖っぷちだ。かろうじてあと一歩は進めるが、二歩目を踏み出せば真っ逆さまに――
「遅い」
「ひゃっ!?」ドン、と硬い壁のような感触が、ヤサヤの背中にぶつかった。それ自体がヤサヤにとって相当の痛撃だったが、続く事態のせいでそれどころではない。
 衝撃で体がつんのめる。少女の体が倒れ伏すにはスペースが足りない。
 落ちる――と思いきや、またしても硬い平面が今度は前側からヤサヤを迎え受けた。平面は窓硝子のように滑らかだが、摩擦が無く不動で、少女ひとりの体重が倒れ込んでも微動だにしなかった。お陰で、激突の衝撃全てがヤサヤの負荷となり、体を巡る。
「ぐっ、()っ、た……」まだ終わったわけではない。
 不可視の床にヤサヤが乗った直後。すぐさま風が何かの動きを訴えて、ヤサヤには理解できない激突音が前後左右で鳴り響く。
 ガッン! ガンガンガン、――ガンッ!
 最後の音は真上から聞こえた。そしてそれを最後に、ヤサヤの五感から突如、風が絶えた。
 それでわかった。見えない板が何枚も周囲から押し寄せて、ヤサヤを閉じ込めるように組み合わさったのだろう。箱を形成したのだ。とどのつまり梱包――いや密封されたというべきか。
「ちょ――待っ……?」
 エレベーターを思い出させる浮遊感と共に、視界が移動を始める。上昇していく。
 陸橋を離れて、空中に佇む白スーツの移動を追うように軌道が曲がっていくのがわかった。エレベーターではあり得ない曲線の慣性だ。首都修道女学院のエレベーターよりも遙かに静かでスムーズだが、未曾有の遊覧飛行を楽しむには景色が恐ろしすぎる。
「――――――――ゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――っ!??」
 ヤサヤは悲鳴を上げた。つもりだが、箱の上の方から来る隙間風がヤサヤを薙ぎ倒すほど凄まじく、自分の耳も声も信用できない状況でヤサヤは転がった。
 途中、短時間だけ安定したところでヤサヤは、先行する白スーツ氏を見たが。
 金の瞳はヤサヤの混迷ぶりを肩越しに流し見るだけで、別に驚いてもいないし楽しんでもいなかった。別になんらかの理由でヤサヤを困らせている訳でもないと、ヤサヤは直観した。
 強いて言うなら、ただ転がるだけなので――安否に関わる事態になってはいないので。
 うむ、問題ないな、と。
 そんな判断をしたように見えた。
『逆だよ。役に立てば立つほど、僕は報いる。契約とはそういうものだ』
「――――ぃぃぃぃぃ――――っ!!」
 嘘つき、と叫んだつもりで、ヤサヤは理解した。
 ああ、やはり声が出ていない。

  ◆

 十二月四日、未明深夜。
 その晩、『ヴァニッシャー』は二体の吸血鬼の接近を察知していた。
 片方は貴族。極めて安定した飛空手段を持つことから明らかだ。前にも幾度か、単身で廃墟を訪れていた奴だが、今回は供を連れており、そのためか探索の動きがまるで違っている。
 今までのこいつは、『ヴァニッシャー』を探すといっても、ただ無軌道かつ奔放(ほんぽう)に血の臭いを辿るばかりだった。
 (デコイ)に片っ端から反応し、幾度かトラップにも遭遇しておきながら、なんの躊躇(ちゅうちょ)も無く次のポイントへ踏み込む。いつかは当り(くじ)に出くわすと考えて、虱潰(しらみつぶ)しに探す方針だったのだろう。一喜一憂を隠そうともせず、時には八つ当たりに建物を破壊し、時には飽きて唐突に帰ってしまう。単独で来訪を繰り返す、気まぐれな自信家の貴族。実力も伴っている。
 何より、『ヴァニッシャー』の正体を理解している。
 初戦の相手としては妥当だ。(デコイ)も着実に減っており、これ以上潰されると再配置も手間になる。『ヴァニッシャー』は今夜、自分から仕掛けることに決めていた。
 だが、そうして実行に移す前に、事情がいつもと違うことに気付いたのだった。
 今夜に限って、標的の動きがおかしい。なにせ供の吸血鬼と合流したかと思いきや突然、一直線に『ヴァニッシャー』の現在地へ舵を取ったのだ。(デコイ)も無い地帯に。
 あり得ないことだ。
『ヴァニッシャー』が二ヶ月前に平民警官から受けた銃創(じゅうそう)は、ナノパックで塞いである。この体、および現在の装備から、血臭は出ていない。センサーでも確認済みだ。吸血鬼の嗅覚や第六感では、今の『ヴァニッシャー』自身を見つけることは出来ないはずなのだ。
 同行しているもう一体の吸血鬼が、なんらかの未知の探知手段を持っているのか?
 だとすれば、当初の標的よりも、そちらの方が脅威だ。
『ヴァニッシャー』は息を潜め、忍び寄った。
 二体の吸血鬼は、今や目と鼻の先に降り立ち、徒歩での散策を始めている。一目で貴族とわかる男と、従者とおぼしき女。一般的な平民吸血鬼でさえ易々と跳び越えるであろう段差に、後者はまるで人間のような鈍足(のろあし)で立ち向かっている。
 大まかな探知はできても、間近で見付けることはできないのか?
 どちらを真っ先に仕留めるべきか。
『ヴァニッシャー』は柄に指を這わせ、握り締めた。

  ◆

#1e『最後の人間』~12月1日、悪竜公の視点より~4345字

アーキテクトの手記 No.250「神権世紀の吸血鬼」

 人類史という名の遺書は、壮大にして美しい。
 最終章を著し終えつつある今、はっきりとそう思う。
 その文字は殺し殺された人間の血で染筆され、その(ページ)は一瞬たりとも途切れなかった争いの糸で()じられているが、そういった醜さを我々以外の誰が肯定してやれるというのか?
 おそらく、吸血鬼たちには不可能だろう。何故なら、人類滅亡後の吸血鬼文明(コフィン・シティ)は、全く違う安定した書を(つづ)ることになるからだ。
 ただし、それは人類が夢に見た、平和と平等を理性で勝ち取るユートピアなどではない。
 むしろ時代を逆行する。
 吸血鬼文明は、「同等な生物」の群れたる人類には使いこなせなかった、遠い時代の神権政治に近い形をとり、かつ安定する。その絶対主義を否定できる者はいない。
 持てる者と持たざる者が。
 支配する者とされる者が。
 絶対的に優れた者と、絶対的に劣った者が。彼らの世界では明確に区別できるからだ。
 彼らの世界における「貴族(ロード)」とは、契約や争いの結果として築かれた地位ではなく、生来の優越者の血族を意味する。
 かつてより吸血鬼には(マスター)(スレイブ)の別があった。しかし貴族と平民の関係は、それとは別の概念である。(いにしえ)の血の主従は転化経緯に基づく契約であり、逆吸血による清算が可能だった。貴族と平民の関係は、むしろ吸血鬼と使い魔の関係に等しい。
 貴族は、コフィン・シティの地下領域から地上平民街を統治するはずだ。特に強力な貴族は、領主として結界の維持を担当する。エインシェント・ヴァンパイアはほぼ全て領主の任を負うことだろう。
 結界の機能には〈プライム〉の循環管理も含まれており、無価値と判定された者への供給を絶つことも(この仕組みは「樹化」と呼ばれることになりそうだ。別途後述とする)、人口調節のために平民の出生率や寿命を変えることも領主の手の内である。
 直接相対した場合にも、貴族と平民の上下は絶対的だ。
 体の性能、再生能力、生命容量、発現できる『式』の規模――平民に太刀打ちできる分野は一つもない。稀に現れるであろう例外的に強力な平民でも、金の魔眼への抵抗力までは生得のしようがなく、直視の瞬間から意識を手放し、生殺与奪を明け渡してしまう。
 その圧倒的な支配関係ゆえに、共存すれば平民はことごとく人形と化す。事実上、共存不能だ。この現実は地下の貴族領と地上の平民街を完全に隔絶するには充分であり、貴族への畏れと、そして神格化を更に助長するはずだ。
 仮にもし、吸血鬼の世界において貴族統治に反旗を翻す者が現れるとすれば、それは余程の狂人か、純血種か、あるいは我々の全く予知しないイレギュラーと考えるべきである。
 そう断言できるほどの差があればこそ、吸血鬼文明は最低でも数千年の星霜を生き(ながら)えることができるのだ。
 貴族という名の(あら)(ひと)(がみ)による、前時代的な神権のユートピアとして。

  ◆

 何故警官たちを殺したのか? といえば、捕まった眼鏡娘にいろいろ尋ねる上で、単に邪魔だったからだ。
 あとは、「狩り」というモノを愉しむためか。
 創成期以前の文献に、狩猟は貴人の(たしな)みだとする記述を見たことがあった。理解しがたい反面、獲物が弱くてもそれなりに興が乗るのは確かだった。
 そして、娘の方は何故殺さずに話しかけたのか? といえば、殺人鬼の居所を尋ねるため――ではなかった。
 警官とのやりとりを盗み聞きした限り、娘は殺人鬼の居所をおそらく知らない。仲間でもないはずだ。
 なのに、それ以外の何かを知っているか、あるいはそのつもりで確信している。
 殺さなかったのは、それを確かめるためだ。
「なんだろうな? お前は。結局、純血種の居所を知っているのか?」
「……え?」
「純血種、だ。賤民(せんみん)の警官どもに疑われていただろう。奴の仲間なのか、違うのか?」
 白スーツを着た若き吸血鬼貴族(ヴァンパイアロード)はそこで言葉を句切り、自分が心得違いをしていたことに気付いた。相手の反応がおかしかったためだ。
 (こいつ)は純血種という言葉を知らない。
 ということは、貴族領側の者ではないということだ。
 例えば、純血種の情報を探るべく何処ぞの貴族領から派遣された偵察員――ではない。
 この時点で彼にとって、娘は全く正体不明のモノと化した。
 そもそもこの眼鏡娘は本当に平民か?
 娘の瞳は確かに赤い。平民の色だ。しかし貴族の金の視線に平然と耐えている。
 かと思えば、数分前に折ったらしい片腕を、未だに無事な方で庇っている。痛みはだいぶ引いたようだが、たかが骨折。平民にしても治癒が遅すぎるのではないか?
 娘の気配――つまり感じ取れる生命規模は小さい。平民相応だ。しかし安酒の匂いではない。小さな瓶に美酒がほんの一滴だけ入っているような、そんな小ささだ。こういう平民も居るのだろうか? それなりの富裕層の血統なら、ありうるのか?
 他の平民の意識を視線で乗っ取ることも、可能らしい。それだけ聞くとまるで貴族だ。
 眼鏡をかけている平民というのも、初めて見た。
 模造品ではない。きちんとした彫金師が仕立てた、貴族領に納品されるような工芸品だ。ということはなんらかの『式』がかかっているかもしれない。何も感じないが。
 ひょっとすると眼鏡がなんらかの拘束具で、それを外せば娘の瞳は金色になるのか――?
 いや、だからといって生命容量や生命規模まで欺けるわけがない――
 そこまで考えて、白スーツの貴族は「答えを急ぐ」ことをやめた。
 だから次のような試練を課したわけだ。
「禁じてやろう。ひとつ、僕に正体を明かすな。素性を秘したまま、慎重に振る舞え。許してやろう。ひとつ、僕に対して甘言を(ろう)せ。僕は今夜、純血種狩りで程々に忙しい。お前のために時間を割いてやってもいいし、さっさと殺してもいいし、後回しにできるならそれが一番いい。うまく僕を欺けば、この場を切り抜けて、街に隠れる猶与も作れるだろう。うまく僕の気を惹いてみろ。この窮地を潜り抜けるために」
 実のところ、多少期待外れのことを眼鏡娘が言った場合でも、許して帰してやるつもりだった。娘の気配は独特なので、平民街に逃げ込んだとしても探し出せる。
「……あ、あなたは」
「一度きりだ。僕を(たばか)る無礼を、一度だけ許すと言った。街に帰って、昨日までと同じ日常に戻るチャンスだ。よくよく言葉を選べ、小娘」
 娘はなんとか知恵を絞って、平民街に逃げようとするはずだ。貴族はそう思い込んでいた。
 娘の命乞いを聞き入れて、数日後に必ずまた会うという約束をさせよう。おそらく娘は約束を破って隠れるだろうから、自分はそれを探し出すという「狩り」を後日やろう。
 今夜のところは、あくまで純血種狩りが主目的だ――
「私、は……あなたよりも、ずっと!」
 そんな算段を、娘は完全に打ち砕いた。赤い両目で、眼鏡越しに真っ直ぐと貴族を見据えて、
「殺人鬼を上手に探せます!」
「……なに?」
「だから、私を連れて行くべきです。必ずお役に立てます」
 白スーツの貴族は数秒、動きを止めた。
 遅れて込み上げたのは、怒りではない。チェスゲームで妙手にまんまとしてやられた時と同じ笑いが、こらえきれず肩のあたりから溢れてくる。
「……ふっふはは……はっはっは! 言ってしまった、無礼を許すと言ってしまったぞ! ということは、なんだ? 無礼討ちには出来んということか! 考えたな小娘! ははっ! はははははは! ……だがな。あくまでも、許すのは不遜な物言いだけだ。役に立つという言葉が嘘だった場合は即刻、八つ裂きにして地獄に()べてやる」
「はい」
 後ろ暗さを微塵も感じさせない、毅然とした返事だった。
 ということは嘘でも賭けでもなく、眼鏡娘には自信があるわけだ――殺人鬼を上手に探せるという自信が。純血種という言葉すら知らない癖に。
 ますますわからない。この娘は何者で、何が目的だ?
「で? 何が望みだ。狩りに貢献する見返りとして、自分を見逃せということか? それはちと難しいな。僕は自力でも純血種を探せる。お前に何が出来るとしても、僕にとってはそこまで大きなメリットではない。せいぜい、道中の安全を保証するぐらいが……」
「充分です。殺人鬼に会うまで、私を見逃してください」
「……その後はどうなる。殺人鬼に殺されるのか? 僕に殺されるのか? 廃墟のど真ん中で夜明けを待つのか? ……お前、つまるところ自殺志願者か」
「かもしれません。でも違います」
 この辺りから、白スーツの貴族は娘の正気を疑うのをやめた。
 娘は狂っている。しかし思考はまともに動いている。常人なら目指すはずのないモノを目指して、ブレーキが壊れたまま稼働を続けている。
 暇潰しのオモチャとしては最高の題材だが。
 今の自分には純血種を狩るという最重要事項がある。
「ただし探索中は、私の素性を詮索しないで下さい。私の素性を知れば、あなたは私を見逃せなくなると思うので」
「強引な理屈だな? まあいいだろう、正体を隠せと先に言ったのは僕だ。ただし契約を交わす以上、僕の方は名乗らせてもらう」
 そんな作法が本当に有っただろうか? おそらくこんな口約束を、律儀に契約と呼ぶ必要は無いのだろう。しかしこの時、貴族の男はそれなりの気構えで臨むべきだと見做(みな)していた。
 娘は命がけだ。僅かとはいえ、自分を(ひる)ませたほどに。
「レクィスだ。レクィス・エル・ランセロート。ただし、気安く呼ぶなよ」
 それから二人はゲート・トンネルを東に進み、共に砂の廃墟に出た。
 骨折と体力の問題で、少女がその夜に決定的な貢献をすることはなかったが、レクィスは早期に気付いていた。
 娘は平民と思えないほど生命探知が鋭く、嗅覚も視覚も卓越している。
 だがどれも結局のところ、レクィスよりは劣っている。
 ――なのに。
 それ以外のなんらかの方法で、レクィスにはわからない情報を知覚している。
 未知の知覚を持っている。
『私の素性を知れば、あなたは私を見逃せなくなると――』
 この発言が本当なのかどうか、判断しかねた。故意に白々しく、真偽はともかく本気ではあった。どうせ信じてもらえないと思うからこそ、敢えて本当のことを言った、かもしれない。
 だとすれば。
(この娘……いったい何者だ?)
 捉えたのはただのついで、余興のつもりだったが。
 ひょっとすると、正体のわかっている純血種よりも、この娘の方が優先すべきなのでは?
(ハッ、馬鹿馬鹿しい。純血種以上に重要な獲物など、居るわけがない。最後の――)
 最後の「ニンゲン」。
 一万年の眠りから目覚めた旧人類。
 我々ヴァンパイアの起源にして、真の命の源。
 この世界に残された、最後の「生命体」。
 その血を手に入れること以上の価値が、この終焉の時代にあるはずがない。

  ◆

神ヒト血鬼~ヒューマニズム・オブ・レスタト~

神ヒト血鬼~ヒューマニズム・オブ・レスタト~

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • アクション
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-08-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. #0『もう一度アージェンタイトで』23265字
  2. #1a『最後の人間』~少女ヤサヤ、ゲート・トンネル内にて~4674字
  3. #1b『最後の人間』~公安警官の青年、ゲート・トンネルへ~8485字
  4. #1c『最後の人間』~12月1日の惨劇~10187字
  5. #1d『最後の人間』~魔女と悪竜の探索行~11381字
  6. #1e『最後の人間』~12月1日、悪竜公の視点より~4345字