劣等感の源?

 人にはいろいろな人がいて当然なのだが、一部の日本の人に関して思うのは、<えらく(/やけに)外国に対する劣等感が強いなあ>ということで。

 で、強過ぎる劣等感は、裏返しになれば極端な見下し(みくだし)にも変貌するわけで。
 また、<自分より上だと思っている国々>に対する劣等感の反動(というのかな?)として、<自分より下だと思っている国々>に対する優越感や侮蔑の念にもつながっていくわけで。

 で、こういった強過ぎる劣等感は一体どこから来たのだろうなんて考えていたときに、ふと思ったのが、<明治以降の富国強兵、諸外国(/列強)に追いつき追い越せ>の風潮の中で、他国に対して日本が遅れている/劣っている点を(民衆の尻を叩くために)強調し過ぎた結果がそれにつながっているのかも、なんて。

 自分のほうが劣っていれば、そのこと(=自分のほうが劣っていること)を知り、その上でどうするかを考えるのは重要なことなのだが、日本の場合、そのどこかに<見下されたくない、馬鹿にされたくない>というのが異常に強過ぎる感じがして、それはどこから来たのだろうと思ったときに、<こんな遅れた日本の現状(※当時)のままでは諸外国の笑いものにされる>みたいな形で(民衆に対して)喧伝して、国力の増強を急がせたのではないか、と。

 で、そのやり方は、急がせるためには有効だったかも知れないけれど、元々が歪んだ(ゆがんだ)物の見方に基づいているから、歪んだ価値観の人たちを大勢生み出すことにつながっていくわけで。

 (<今(※当時)の日本のままでは見下される(から、とにかく急いで諸外国に追いつき、追い越せ)>→<劣っているものは見下され、笑われる(のが当たり前、という発想)>→<日本のほうが強くなったら、他国を見下し、笑いものにして構わない(/他国を見下すために国力を増強する、という発想)>)。

 (ちなみに、ここから抜け落ちている(/意図的に外されている)のが、<なぜ日本が遅れをとるに至ったのか>ということで。で、それを外されているから、歪みがさらにひどいものになっているのではないか、と)。
 (それを外すことによって、本来、日本が遅れをとったのは民衆の責任ではないはずなのに、追いつくための無理で過度な努力を民衆の側に強いることになり、不当に責任を負わされてこき使われていてもそれを具体的に認識できないから、結果、物の見方が歪んでくるのでは、と)。

 以上、まとまりはないが、とりあえず思いついたことなど。

劣等感の源?

劣等感の源?

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-13

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