君をスーツケースに入れて

彼女はとてもまじめで、いつも僕の無理難題ですら笑って通過してきた。
だからこのコとならいけると思ったのだ。

あなたはなにも言わないで?
鉢合わせるとマズいから、約束の時間にあの場所にスーツケースを取りに行って。
そしてそのまま飛行機に乗って。

同時行動はマズい。
それは妻帯者である僕が時折言っていたことだが、今回はやけに彼女が主張してきた。

不倫はいけないことだ。それは僕だってはっきりと言える。
妻とはうまくいっていなかった。同じ布団で眠ったのも、彼女の料理を食べたのも、すべてが過去の話なのだ。
たまに家の前を歩く野良猫のほうがかわいくて、いつもネコ缶を与えてやりたい気持ちを抑えるのに必死だった。

彼女はまじめだったが、彼女もまた結婚していた。
僕と出会ってから離婚したという話は聞いた。いつ離婚したのかは知らない。
一番質の悪かったのは、彼女の元旦那だ。
そもそも離婚がすんなり判を押せて提出できたというのが疑わしいが、それもそのはずだ。
調停なんかに持ち込めば、今後近寄ることもきっと難しいのだろう。
すんなり判を押した代わりに、ストーカーになった。
彼女も何度も警察に駆け込んだらしいが、どうやら難しい線になるらしいと。
生傷でも作られたほうがマシ。
俯いて情けなく笑う彼女を見るのがつらかった。
彼女は、弱音を一度だって吐かなかった。
まして縋るように、私と一緒になって、などとは。

込み入った話を、彼女とすることはできなかった。
彼女は少なくとも傷を負っている。それは現在進行形で。
そして僕らは、なにをどう足掻いたって不倫関係にしかない。
彼女は現実からひとときの逃げ場として僕と過ごすのかもしれないし、それを言っては僕も彼女を現実逃避の道具にしか使っていないのだ。
もちろんそれは憶測に過ぎない。彼女がひたすらに我慢しているだけなのかもわからない。
僕は弱かった。ただ、それだけだった。

妻がいそうなところでは連れて歩くこともできなかった。
それでも彼女は、一両車両の走る無人駅でいつもにこにこと僕を待っていてくれた。
いつもなにもさせてあげられなかった。
その寂れた町の、かびの匂いの残るホテルで抱き合うだけだった。

だから彼女があんなことを言ったときには、まず自分の目から疑った。
これは本当にあの彼女なのか、と。
でも、いつものように情けなく笑う姿は紛れもない彼女で、僕はかつてなく自分を恨んだ。
こんな女の子ひとりに、ふたり分の人生を決めさせてしまったことを。

あなたが奥さんのことをどう思っているのかは正直わからない。
でも、きっと逃げたいってことはたしかだと思う。
だから嫌じゃなかったら、一ヶ月後、うんと遠いところに行こう。一緒に。
もしも嫌になったら、そのときはあなたは現実に帰ればいいのだから。

情けないはずの彼女の横顔に、奮い立たせたような決心が浮いていた。
だから一緒に行けると思った。このコとなら。



いつもの無人駅のロッカー、一番下の一番左。彼女が指定した場所だ。
鍵は刺さったままだったが、さすが荒らされた形跡もない。
スーツケースを取ったら、すぐに空港行きの列車に乗り込む。そしてすぐにチェックインして飛行機に乗り込む。

到着したら電話して。
僕はガラス張りのターミナルからヤシの木を眺めながら携帯電話を取り出した。
ちょうど彼女が乗り換えの飛行機の待ち時間だから、見事に綿密な計画だ。

ずっとコール音を聞いていた。
留守電にもならず、延々とコール音が流れる。
まさか、彼女が。

そう思って、はっとした。
彼女のスーツケースから、電話の鳴る音がする。
一度電話を切って、また掛ける。音は一旦止み、またスーツケースから…。
僕は自分の携帯電話も放って、スーツケースを開けた。
彼女がいた。

僕は再びスーツケースを引いて歩く。
もう大丈夫だよ、もうなにも心配しなくていいんだ。
スーツケースのなかでばらばらになった彼女に笑いかけた。



Fin.

君をスーツケースに入れて

君をスーツケースに入れて

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-13

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