アレが見えるの(その五)
その五 ダラネーナ教団
もともとは、黒石御影も普通の子だった。
御影の家も普通の家だった。両親も他の家族もごく普通の人ばかりだった。
「だった」と過去形を繰り返したのは、今はそうじゃないからだ。
ある時を境に、御影の世界はどんどん普通から離れていった。
御影の祖母があの教団に入信したせいで。いや、仏教やキリスト教のほうじゃない。
聖ダラネーナ教団。
まだまだ規模は小さい。信者は数百人程度(稲葉高校の一学年分の人数より少ない)、狭い地域に集中してる。御影の家がある周辺だ。たぶん大きな成長は見込めないし、正直ずっと小さいままでいてほしい。知れば知るほどそう思う。
古代インドが起源とうそぶくが実は最近できたばかり、ボジャイと名乗る聖人だか山師だかを教祖として崇める新興教団、その教えが長年の伴侶を失くし空虚な思いでいた御影の祖母をとらえたのだ。
ボジャイ様につき従えば、やがて来る艱難から免れる。失くしたものは取り戻し、宿願だったこともかなえてくれる。
ボジャイ様とは何者か? まず経歴からして怪しい。一応は日本人である。小さい頃に宗教者としての素質を見込まれインドの名家に引き取られたという。そうして霊的な英才教育により修行を積み重ねた末、ついに悟りの境地に達し教祖の称号ボジャイを名乗るようになった。
とにかく並みの日本人とは違う。容姿も、人格も、振る舞いも。
「あの人はインド人に育てられたから、インド人みたいになっちゃったのよ」
巷のおばさんに言わせればそうなるが、ただしこの言い草は無知もはなはだしい。日本人に育てられて忍者みたいになっちゃったのと同じくらい変なんだ。インドについての理解が、江戸川乱歩の水準で止まってる。
インド共和国の名誉のため言いたいが、かの国とダラネーナ教団とで文化的な関わりはまったくない。「インドの名家に引き取られた」も作り話に決まってるし、だいたいボジャイ様がインド人に見えるもんじゃない。
あくまで日本の中だけで通用する変人だ。
ともあれ、ボジャイ様なる人物の経歴ほど疑わしいものはない。みずから「私は詐欺師でござい」と言ってるに等しい。
並みの人なら、これはヤバイ、ご利益なんかあるはずないと思うだろう。御影の祖母がまさにそうだったのは最初のうちだけで、いつしかボジャイの教えにはまり込んでしまった。
どんな存在でも、ちょっと目立つこと、変わったことをすれば感化されていき、神と崇める人まで出るという見本かもしれない。
しかも怪しいのは経歴だけじゃない、最たるものはその教義だ。
すべての人を幸福にする方途はない。世の中の不幸の総量は一定であり、人類にこの定まった量の災いを免れる術はない。どうしてもそれだけの不幸や不運を集団として受け容れなければ世界はやっていけなくなる。
つまりくじ引きで「凶」を引いてしまうように、誰かしら不幸になる道理なのだ。
しかしボジャイ様には厄を避ける力があり、その信徒になれば回ってくるはずの不運からは逃れ得る。はずれ籤を引かずに済むのだ。すべての人は救えないが、資財を投げ打って忠誠を尽くす者をボジャイ様は守ってくださる。だから信徒たちは不幸が、自分たちでなく教団外の者に見舞うようひたすら祈るのだという。
他人がどうなろうと知るかというんじゃない、是非とも他人に不幸を肩代わりしてもらおうという。
なんたる教え。なんたる祈り。こんな宗教の信者になるほど不幸なことはない。
たとえばキリスト教。
救世主イエスは人類の原罪をすべて引き受け、我が身を犠牲にして償ったとされる。いや、それはいい。本当かわからんし。
でも入信するには、人が生まれながらに罪を引き継いだ存在なのを認めなければならない。そう受け容れるのが出発点となるわけで結構むずかしいことだ。
かたやボジャイ様は、世界を救うなど端からあきらめ、自分を教祖として崇める人々だけを守る。信徒たちも、ボジャイ様のもとに集いそのはからいで降りそそぐ災いを逃れようというわけで志に大変な差があるのだ。
とにかくダラネーナ教と比べれば、他の宗教がよほどまともに見えてくる。街中で勧誘を受けても、いとも容易に振り払えるだろう。しかし……。
狂気というのは憑依するものだという。そして伝染病のように拡がっていくらしい。
御影の祖母ばかりじゃなかった。家の他の人々も、あきらかに異常な戒めで信徒を律する新興宗にあらがうどころか、しだいに教えに帰依するようになった。
ほんとうに普通の家なら起こるはずのないことが、御影の一家には起きた。
カルト信仰とは人々をそれほど変えてしまうものなのか。あるいはもとから黒石御影の家族には、集団狂気の発現する素地があったということか。
いや、黒石家の中にもボジャイ様の教えを頑として受け付けない者がいた。
ほかならぬ御影自身である。しかし彼女には、家族が狂信にはまっていくのを止めることができなかった。できるはずもない。ダラネーナ教が家に持ち込まれたとき、御影はまだ9歳だ。
自分の家族が一人また一人と狂信に染まっていくさまを眺めるって、どんな気持ちだろう。それを幼い御影は、一人で味わったんだ。
御影が中学に入るとき、家はダラネーナ教にすっかり乗っ取られていた。我が家がその地区の教団支部と化したんだ。外面はまあまあ普通の一家に見えたが家の中では教えに背いた言動が許されず、体罰やネグレクトでの仕置きを受ける。
たとえばお祈りするときに、失態は許されなかった。
ダラネーナ教では祈祷のとき、鐘だの太鼓だのをけたたましく鳴らしながら聖句を朗誦する。
「カーン、カーン、カーン! 七難ボジャイ、八苦ダラネーナ。チーン! ポコッ! 何とぞ我らから七難八苦を退け、九死に一生をあたえ給え。カーン、カーン、カーン! 七難ボジャイ、八苦ダラネーナ。チーン! ポコッ! 艱難がどうぞ他所に向かい、我らには至福が訪れますよう。カーン、カーン、カーン! 七難ボジャイ、八苦ダラネーナ……」
ここがいけなかった。変な風に聞こえるのだ。
「七難ボジャイ」が「なんぼじゃい」、「八苦ダラネーナ」が「ハッ、くだらねーな」に。まだ幼く、空気の恐ろしさが読めない御影は、朗誦がその部分にくるとどうしても吹いてしまう。
すると祈祷の場を取り仕切る御影の父は、こいつ神様を笑ったと鬼のように怒るのだ(すでにボジャイ様から教団の支部長を仰せつかっていた。人格能力による采配とちがい、その地域で最初に入信した家が支部、家長が支部長になる定めだ)。
厳粛であるべき時と場合に重大な粗相をしでかしたということで、彼女は制裁を受けた。
ご飯を食べさせてもらえない。
他にも、信仰のことでちょっとでも本音をもらそうものなら、たちまちお仕置きが見舞った。
布団で寝かせてもらえない。遊びに行かせてもらえない。テレビを見せてもらえない。漫画も読ませてもらえない。お洒落も許してもらえない。遠足にも行かせてもらえず終日、教団本部の掃除を命じられるという……。
これじゃ家のみんなに合わせるしかない。
屈辱的な姿勢で祈り、教団への奉仕に専心した。祈りの場でも声を張り上げ、朗誦を真剣におこなった。
とにかく表向きはボジャイ様の信徒として落ち度のないよう振舞い続けたのだ。そうしなかったら、高校にも行かせてもらえなかっただろう。
誰もが同情はしても自分がそうなりたくはない境遇。
御影はそこに身をおき、日々を送ってる。
なんで、こんなに詳しいのかって?
友だちに聞いたんだよ、御影の友だちに。どうして御影に幽霊が見えるようになったか、あるいは幽霊が見えると言うようになったか、過去に秘密があるんじゃないかと思って。
でも何だか、幽霊どころじゃない恐ろしさの魑魅魍魎の世界にはまり込んだみたいだ。
実際、この世でいちばん行きたくないのが黒石御影の家だ。これは痛切に思う。
しかし今僕は、その玄関に立っている。
御影の家はさびれきった商店街のような通りにあった。ほとんどの店がシャッターを下ろし、昼間なのに行き交う人も少ない。どでかいショッピングモールが駅前に出来、客を吸い取られてしまったのだという。
通りの入り口では「楽園通り商店街」と銘打ってるけど、いまでは誰が呼んだか、「霊園通り昇天街」。言い得て妙だ。
場所は御影の友だちに教えてもらった。「行ってもいい?」なんて本人に訊いたら(訊くのさえ容易じゃない)、「来ないで」と言われるに決まってる。だから体験礼拝の名目で、じかに教団支部のほうを訪ねることにしたんだ。もろちん御影の家と一緒だ。
家の前には大きめの看板で、「聖ダラネーナ協会 大野小町一丁目楽園通り支局」。
いや、立派な建物じゃない。木造平屋でありきたりの一軒家。店舗だったのを改装したらしい。
しかし、ここで逡巡してしまった。
なんだか気恥ずかしく、空恐ろしい。まるで恋した少女の家を初めて訪ねるような気分だ。あるいは神経科の病棟のような、普通なら行かない場所に足を踏み入れる気持ち。
まだ遅くない。やめようか。
でもここで引き返したら、自分につきまとう問題は解消できない。この先、幽霊にも風説にも祟られながら過ごすなんて。なんとかしなければ! 端緒となることを言い始めた御影に近づけば、糸口が見出せるかもしれないんだ。来たのは誰のためでもない、自分のためじゃないか。
なに、ひとりで行くんじゃない。幽霊たちも一緒だ。気を取り直して、呼び鈴を押した。
チン、コーン。
「どなた?」
か細くかすれた、中年女性の声が応じた。
「守屋護といいます。御影さんの同級生ですが」
あれ、なんで御影のことを言ってしまったんだ。初っ端でとちったぞ。
御影なんか関係なしで、通りしなに看板を見て興味を惹かれ寄ってみたような振りする気だったのに。
すーーっと玄関の戸が開き、なんと幽霊が現れた。髪はほつれ、青白い相貌の女の幽霊が。痩せた身を白い長衣に包んでいる。
うわ、ついに僕にまで見えるようになったか。御影が言うのは本当だったんだ。でもこんなのがとり憑いてるなんて、やだな~、と思った矢先。目の前の幽霊はもの問うような顔で、生体反応を示した。
「御影のお友だち?」
幽霊じゃなかった、御影のおかあさんだ。
(ふん。ありがちなギャグだ)
「いいえ。幽霊のお友だちです、御影さんに言わせれば」
そう返そうとしたが、やめておいた。まあ広義の意味でお友だちなんだろう、「クラスメート」だからな。
僕は、これも同級生で御影さんの友だちから聞きました。ダラネーナ教のことを。それでボジャイ様の教えに興味をもって詳しく知りたいと思ったんですと用件を述べるかたちで、相手に通用する嘘をついた。
話変わるけど。ぼくの大叔父さんは、「三十歳より若い者の言うことは信用できねえ」が口癖だった。なぜかといえば、「若い奴らは相手が大人と見ると本音を言わず、嘘つくからな」 。
みずからのおこないに照らせば、これは至言だ。大叔父さんにも若い時があったのだろう。大叔父さんが他の大人と違うのは若かった頃を忘れてないことだ。
さて。
とりあえず受け容れてもらえた。僕が真面目な好男子に見えるせいもあるが(みんながそう言っている)、教団としては入信者が増えるのは大歓迎のはずだ。
奥のほうに通された。
僕は居間兼応接間のような空間で待たされ、やがて支部長たる御影のお父さんと引き合わされた。
あんな娘がいるとは思えない人物だ。表向きは円満で愛想が良く、口先上手。そのうえ損得勘定が巧みで抜け目がない。話からすれば、そうとう狂信的なのではと覚悟してたのに。宗教人というより商店主のようだった。事実、ダラネーナ教に染まる以前は、文具屋を堅実に経営していた。建物が表玄関を入るといきなり礼拝所でその奥が住居というのは、店舗だった頃の名残りだ。
要望したとおり、ボジャイ様の教えについていろいろと説明を受けた。いろいろと。それはもう、得意になって淀みなくしゃべるのを聞かされた。
普通と異なる場にいるという緊張感はあったが、内容については御影の友だちが言ってたとおり、それもボジャイ様をあくまで褒め上げる立場から聞かされる。正直あくびをこらえるのに苦労しながらの一時間だ。
でも説教が一段落ついた頃には、律儀に耳を傾けながら時おり質問をはさんだりでちゃんと聞いて理解した振りをし続けた僕は、相手からかなり信用を獲得していた。とりあえず自分の影響力の圏内に入ったと思ってくれたらしい。
そのあと、お茶菓子を食べながら入信の準備や自分の身の上についての雑談をするうちに、聞きたくてたまらなかった疑問を差し向けてみた。
「変なこと聞くようですが。この信仰を続けてて、怪異な現象を体験するってありますか? 他人にとり憑いた悪霊が見えるようになるとか」
はっはっは、と支部長は笑って受けた。
「あり得ない。ここは当教団の聖殿だよ。怪異なものなんか入れるわけがない。悪魔も幽霊も、入り口に立っただけで退散していくさ。はっはっは。恐れることなんか何もないんだよ」
いや、そういうのが聞きたいんじゃなくて……。あなたがご家族をどの程度わかってるかということなんです。ほんとにご存じないんですか、幽霊の見える娘さんがいることを。娘さんが学校でどんなこと言ってるかも。
ああ、直裁に訊けないもどかしさ。なぜ御影がああなったのか、その答えを得ようと来たようなものなのに。
そのとき。
ガラリと玄関の戸が開き、一呼吸おいて、ピシャッとしまる音がした。
誰かが帰ってきた様子だ。たんたんたん……と廊下に軽快な足音を響かせながら、近づいてくる。
「あら、『ただいま』は?」
御影のお母さんが出迎える声がする。
「ただいま~。お母さ~ん、走ってきてのど渇いちゃった~。冷たいものな~い?」
御影の妹だろうか。子供っぽい、あまえた声で、おやつをねだっている。
いや待て、御影に妹はいなかったぞ。
ついで、母親がこれこれと叱る調子で娘をたしなめる声。
「お行儀よくなさい。学校のお友だち来てますよ」
「ふんふん♪ アッコが?」
「守屋くんという男の子」
母親がそう言うのと、快活な少女が居間兼応接間に姿を見せるのとはほぼ同時である。
あれま。
黒石御影その人だった。
瞬間、彼女には何事が起きたのか理解できない様子でいた。
やがて……御影は視界の中の事実、自分の家にあの守屋護がいる、あるはずのないところにあるはずのない存在を認めたのがわかると、待ち伏せでもくらったみたいに、激しく悲鳴を上げた。
学校ではとんと、こんな反応は示したことない。鼓膜をつんざくという形容がぴったりのけたたましさだった。
ぎゃーーーーっ!
家中の人が集まってきた。
アレが見えるの(その五)