15、ボウイが絆?

15、理沙と麻奈 迷いの中の出会い

15、理沙と麻奈 迷いの中の出会い
 

 「先生、美原さんがいらしてます。」
恵美の突然の声に理沙は心の中を見られた気がして体が硬くなるのを感じた。
「そう。入ってもらって。」
診察室のドアが開く。最初に入って来たのは一緒に付いて来た区の職員だった。その後ろにうつむきかげんの女性が立っていた。小柄な彼女の顔は青白く、まずは体の心配のほうが先ではないかと思える程弱々しくみえた。彼女は理沙を見るとひっそりと笑みを浮かべ静かに頭を下げた。その消え入りそうな表情がそっと上品さをそえる。



男の方がまず理沙に話しかけた。
「先日は失礼をしました。私、河野と申します。」そう言って名詞を差し出した。そして後ろを振り向き小さく頷くき麻奈を紹介した。
「美原と申します。この間は本当に申しわけございませんでした。」
麻奈はもう一度深く頭を下げた。その声はあわく、やわらかい。ただ、その言葉が行き場を探す様にさまよっているのが印象的だった。どういうわけかこの時理沙は麻奈にじわじわと引きずられて行く自分を感じていた。



「私、院長の沢田です。どうぞ、お座り下さい。」
一つのテーブルをはさんで沈黙が空気をふるわせる。河野はこの場に自分がいる事に違和感を覚え落ち着かない。理沙はそんな河野を安心させる様に言った。
「河野さんはあちらで待っていてください。」
「ああ・・・はい。」
河野はほっとしながらも心配そうな表情を麻奈に向けながらドアに向かった。



そして今、四十五年の人生の結果を抱えた女がふたり向き合う。現在の状況があまりに違い過ぎるふたり。ひとりは医者という仕事を持ち、社会的立場も確立し、それなりに経済的にも恵まれ、その上この歳になっても両親の愛情を受けている女。
もうひとりは長い結婚生活がこわれ実家の母や兄との溝までもが再燃し、これという職も持たずさらに住む家も失ってしまった女。



そんな二人に共通点などあるわけがない。それでも何故か理沙は思っていた。
(もしかしたらこの人と私はそれ程変わらないかも。――同じ匂いがする。今の状況がどうであれ人生の長い間恵まれていた人。本人がどう思おうとお嬢様育ちと言われて来た人の匂い。――どうしてかしら?・・・彼女の事なにも知らないのに。妙な話。)
理沙は麻奈の様子をうかがっていた。黙ったままで。



(いったい彼女に何が起きたの?――生きる事にまるで興味がなさそう。こけた頬、目の下にくっきりと刻まれた隈。絶望を身にまとっている様だわ。それなのに・・・この存在感は何?)
理沙はなんども繰り返してきた患者との沈黙の駆け引きに久しぶりの緊張を覚えた。
(この沈黙をどんな言葉で破る?)
頭が回らない。ただ思いついた言葉が口をついて出た。



「この間はやはり来る決心がつきませんでしたか?――心の中を人に見せるのは誰でも抵抗ありますものね。」
どこか心療内科医としての自信を否定するような言いかたに麻奈は口元だけの笑みを見せた。心のベールはしっかり覆ったまま。そのベールにはじかれるのか理沙のいつものペースは狂ったままだった。もう一度自信を取り戻すかのようにお腹に力を入れ声に威厳を注ぎ込む。
「体は大丈夫ですか?ちゃんと食べてます?」
「はい。」
「本当に?――確か電話では眠れないとか。」
「ええ。でも・・・もともと眠りが浅い方で。」
「そう。――もし辛ければお薬を出しましょうか?」
麻奈が首を横に振った。まるでそんなものは意味がないといった感じに。そして――また言葉に詰まる。


理沙にとっては慣れたはずの日常の仕事の場が突然混乱の場になっていた。
理沙は気付かれない様に自問自答を繰り返した。
(これはいったいどういう事?私はどうしたの?――やっぱり疲れているのかな。それにしてもこの人のは何?弱々しいのに私より強く感じる。)
その時だった。麻奈が音もなく立ち上がった。
「あの、今日はこれで。」
理沙は当惑の表情で麻奈を見上げた。
(何も聞き出せず、彼女の思いもわからないまま。それじゃ私は間の抜けた医者じゃない。)
麻奈の顔をしばらく見つめる。そこにあるのは麻奈の心の固さだけ。理沙はあきらめるより仕方のない気がした。(それでも何か繋がりを残しておきたい。)



「わかりました。でも少し待っててもらっていいですか?河野さんにちょっと。」
麻奈がもう一度席に着く。理沙はせめてものプライドを保つ様にゆっくり立つと優しく麻奈に頷いてドアに向かった。
 待合室では河野が心細そうな顔をしていた。理沙を見るとさっと立ち上がる。
「ああ、先生。どうでしたか?」
理沙は溜息をついて首をかしげた。
「今日は話したくないみたいで。お薬も拒否。」
「そうですか・・・。」



河野は肩をカクンと落とし訴える様な目で理沙をみた。その目が自分を責めているみたいで理沙には痛い。
「こういう事は焦ってもいい結果はでません。彼女自身が話す気にならないと。ここに来たのは美原さんの意志ですか?」
「どうかな・・・?どちらかと言うと私が希望して説得しました。食べてないし、寝てないし。このままではいけないと思って」
「でも今の彼女は通院する気もなさそうですね。――時間と信頼が必要です。この仕事には。とにかくもう少し様子をみましょう。心配な時はいつでも連絡して下さい。」



河野の顔は真剣そのものだった。
(どうしてこの人は彼女をこんなに心配するのだろう?彼にとってはいつもの仕事の一つのはず。何か気になる事でも?)
「河野さん、何か気になる事が?」
「もし――彼女が死を選んでしまってからでは遅いと思って。」
河野の声がしぼんでいく。理沙はふとはかなげな麻奈から押し寄せる妙な強さを思い出した。
(確かにあり得ないことではないかも。あの強さはそういう事?死が怖くない。とすればあきらかに正常な心のバランスを失っている)



理沙はなだめるように河野に話した。
「待ちましょう。でも気になる時は本当にいつでも電話して下さい。」
「はい。有難うございます。」
結局この日河野は何も変わらない状況の切なさと、理沙には何もできなかったという気持ちだけが残った。



病院を出る二人を見て恵美がぽつりと呟いた。
「あの人、大丈夫でしょうか・・・。」
「――私にもわからない――。」
理沙は情けない思いだけがすっぽり自分をつつんでいる気がした。ただその一方で情けなさが何故か温かい。この仕事を始めたばかりの頃の未熟さへの悔しさにも似た不思議な心境だった。その不思議を連れて来た麻奈にもう一度会いたいと強く感じていた。

15、ボウイが絆?

15、ボウイが絆?

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-10

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted