おじいちゃんの婚活3
続きです。これで完結です。
翌日、周の号令により、急きょ悪童の会のメンバーが招集されることになった。
平日の夕暮れ、比奈子は授業が終わるとともに部活を早退し、勇吉の家へと向かった。今年の夏は巷では酷暑と呼ばれる猛烈な暑さらしい。比奈子は学校を出る段階で自転車による登坂を諦め、徒歩で目的地を目指すことにした。しかし、こうまで暑いと徒歩でも自転車でも汗の量はそう変わらないのかもしれない。額を流れて目に染みる汗をハンカチで拭いながら、比奈子は蜃気楼さえ見えてきそうな長い長い坂道を登った。
汗まみれになって辿りつくと、そこには沈痛な面持ちをした周と勇吉、一郎といった悪童会のメンバーに加え、制服姿の諒一もソーダ片手に座っている。諒一はすっかり悪童の会の会員に納まってしまったようだ。
「勇吉、その後、紅葉さんから連絡はあったのか」
口火を切ったのは周だった。
「いいや、もう彼女は僕と連絡を取る気はないんだと思うよ」
「しかし、そいつはいくら何でも薄情すぎやしねえかい」
すでに酒の回った赤ら顔で一郎が口を挟む。
「なんでやねん、紅葉ばあちゃん責めるのは違うやろ。あんなん言われたら、身ぃ引くしかないわ」
一人だけソーダを呷る諒一が一丁前に意見した。変な会合に出喰わせてしまったと思ったが、比奈子にだって言いたいことはある。
「お母さんも伯父さんもひどすぎるよ。人の話を全然聞かないんだもの。それに」
自分用のグラスに、ソーダを入れながら比奈子は汗の滴る眉間に深い皺を寄せる。勇吉と伯父さんの間にあんな確執があったなんて。言いかけた比奈子の腕をやんわり抑えて、勇吉が小さく首を横に振った。親族内のイザコザをヨソ様の前で言うなということだろう。頭では理解できても、比奈子は憤懣やるかたない。自分の知らないところで、勇吉は伯父からも母からも疎外されてきたのだ。勇吉が一人暮らしにいくら不便を感じてもどちらかの家に身を寄せないわけがやっと分かった。そんなことも知らずに、安穏と生きてきた自分が恥ずかしくなる。比奈子はいつぞやの諒一のように、炭酸のきついソーダを、ぐっと一息に呷った。
「伯父さんも、お母さんもお父さんも嫌い。私、おじいちゃん家の子になる」
「あほか」
比奈子が涙目になりながら宣言すると、諒一が呆れたように鼻を鳴らす。そして、まあ飲んで落ちつけとばかりに比奈子のグラスにソーダを注ぐ。
「あほってひどくない?」
「勢いだけでもの言うな。犬猫とちゃうんやぞ」
ぴしゃりと言われ、しゅんとなる。こっそり勇吉を見ると、勇吉は困ったように笑っていた。それがいたたまれなくて、比奈子は更に小さくなる。
周が、むむ、と唸り、それから、重々しく口を開いた。
「私達シルバー世代ともなると色々とシガラミが多すぎる。家族、親戚、仕事先での体面。若者のように勢いだけで結婚に踏み切ることができなくなる。我々の認識がいささか甘かったということだ」
そうだねえ、と勇吉がやんわり応じた。それに納得いかないと声を上げたのは一郎だ。
「で、勇吉っさんはもう諦めるのかい。息子っつっても代替わりもすませてんだ。あれこれ文句つけられる云われはねえだろうがよ」
「僕もねえ、てっきり自分は用無しの楽隠居だと思っていたんだけれど。まあ、しがらみは色々あったみたいだね」
「みたいだねって、そんな他人事みたいに」
一郎が未だぶつくさ言っていると、勇吉はやんわりと話の矛先を変えた。
「僕のことはいいからさ。一郎、君はみどりさんとはどうなんだい。上手くいっているのかい」
一郎は急に表情を曇らせて、無言のまま手にしたぐい飲みの中身を飲みほした。
「あの二人、うまくいってないの?」
比奈子は小声で傍に座る諒一に聞いてみる。諒一は、あれはなあ、と何か考えるように小さく天を仰ぎ、大きなため息を吐いた。
「みどりばあちゃん、最近、社交ダンス始めてん」
「社交ダンス」
比奈子の頭の中で、昔ヒットした社交ダンス映画のフレーズとともに、流麗なステップを踏みながらくるくると踊る主演女優の姿が浮かび上がる。
みどりおばあちゃんが社交ダンス。
「今、似合わへんと思ったやろ」
ずばりと言われ、比奈子は慌てて首を左右に振る。頭は振ったが否定する言葉は出てこなかった。比奈子は空気を読むことはできても、ウソの吐けない女子高生だった。
「まあ、紅葉ばあちゃんがあんなことになってしもて、新しい習い事がしたなったんやろなあ」
「それが社交ダンスだったのね」
諒一は大きく頷き、禿頭を真っ赤に染めて酒を呷る一郎を指差した。
「あのじいさん、長年亭主関白してたんやろ」
うんうん、と比奈子は頷く。
「服装が気に入らんとか、男と密着すんなとかそんなこと言うたらしいわ」
「で、みどりおばあちゃん、怒っちゃったのね」
「亭主でもないあんたに言われる筋合いやない言うてな。後は売り言葉に買い言葉やろ」
「ただの痴話げんかじゃない」
簡単に答えた比奈子に、諒一は苦い顔をする。
「なんちゅうか、合わんのとちゃうかな、あの二人」
「そうなの?なんで」
比奈子の問いに、諒一は更に声を潜めた。勢い、比奈子は諒一の方へ頭を屈める。
「ようは、大工のじいさんは自分の生活の世話してくれる人を探しとったんやろ。みどりばあちゃんは孫の世話が嫌で、再婚を考えとったわけや」
「需要と供給の不一致ってこと?」
「そういうこととちゃうか」
孫の世話をしたくない人が、長年連れ添った夫婦ならともかく、昨日今日知り合った赤の他人の世話をしたいとは思わないだろう。 なるほど、と比奈子は納得した。
シルバー世代の再婚というのは、比奈子が思っていたよりずっと難しいようだ。
「おい、そこ!男女七つにして席を同じゅうせずだろうがっ。何をいちゃついていやがるんだ、イヤらしい。」
頭を寄せあって話していた子供組を見咎めて、一郎が大声を上げる。
「先生、諒一君がイヤらしいですっ」
ふざけ半分に挙手をしてそう叫ぶ一郎に、音がするほど一瞬で首まで赤くなった諒一が怒鳴り返す。
「イヤらしいて、……どんな八当たりやねんっ」
「赤くなるってえことは、何かやらしいこと考えてやがったんだろうが」
「あほか。じいさん大概にせえよっ」
比奈子は反射的に諒一から距離をとった。裏切り者めと諒一が睨むが、比奈子は単純に気恥ずかしかった。
そんな三人の喧騒をよそに、周がぽつんと呟いた。
「恋文、というのはどうだろうか」
喧騒が一瞬にして静寂にとって替わり、周以外の四人の視線がどこか遠いところを見ている老教授に集まる。
「なんだい、周」
周の宛てどない呟きに、柔らかく応じたのは勇吉だった。
「だから、勇吉、お前、紅葉さん宛てに恋文を書いてみてはどうだ。今風に言うとラブレターというやつだ」
今風に言えば、ラブレターを書く人なんてほとんどいないのではないか、と比奈子は思ったが口には出さなかった。比奈子はウソが吐けないだけで、空気を読んで言葉を飲み込むことが得意な女子高生なのだ。
「僕が、紅葉さんに?無理だよ。無理無理。ラブレターなんて書いたこともないよ」
「では、生まれて初めて書きますとでも、書き添えておけばいいだろう。勇吉、お前はあまり雄弁に話す方ではない。文章でなら口に出して言えないことでも伝えられるんじゃないのか」
いやしかし、と勇吉が渋る。
「争いごとが嫌いなお前が、家族と事構えてでも一緒にいたいと願った人なんだろう。本当にこのまま諦めてしまっていいのか。それで後悔しないのか」
強い口調で迫る周に、元来押しに弱い質の勇吉は視線をうろうろとさまよわせた。
ラブレター。比奈子は貰ったことも書いたこともないが、好きな人から貰ったらきっと嬉しいだろう。周の発案はなかなかのアイデアのように思えた。
しかし、諒一はまた別の意見らしい。
「ちょお待てストップ!」
身を乗り出して勇吉の説得に当たっていた周に、諒一が大声で待ったをかける。そしてどこか恐々とした調子で周に確認した。
「佐伯のおっさん、あんたの言うてるラブレターっちゅうのは、あんたがいつもウチのばあさんに送っとるあの長文メールみたいなもんのことか」
周はカイゼル髭のピンとはねた先っぽを指で整えながら、呆れたように諒一を窘める。
「諒一君、いくら君が五月さんを大事に思っているとしても、五月さんのメールを勝手に読むのはマナー違反だ。親しき仲にも礼儀ありだぞ」
「あーほーか!!」
今度こそ諒一は腹の底から声を張り、力いっぱいの抗議をこめて座卓をバンバンと平手で叩いた。
「あんなシロモノ誰が好き好んで読むか。読み上げるんや、ばあちゃんが。あんたからメール来るたんびに、喜々としてな」
「ほう、そんなに喜んでもらえているのかね」
「照れんな。きもいわ」
吐き捨てるように言い放った諒一は、砂漠で水を求めるようにソーダをガブ飲みする。
「ちなみにどんな内容なの」
好奇心に負けて小声で訊いた比奈子をげんなりと疲れ切った表情で眺め、諒一は大きなため息を吐いた。
「赤い薔薇やの、甘い音楽やのあんな感じのやつ」
ああ、と比奈子は同情の眼差しを諒一に送る。
「でも、喜んでるんでしょ、五月さん。本人同士がいいならいいじゃない」
元気づけるように言ってみるが、諒一はさらに脱力し座卓に突っ伏してしまった。
「知りたなかったわ、ばあちゃんのあんな一面。人生には知らんでええことの方が多すぎる」
妙に哲学じみたことを言いだした。思春期の男の子の心中は複雑らしい。
そんな諒一を尻目に周はわざとらしく咳払いをすると、話を本筋へ戻した。
「勇吉、書き出しはどうする。言ってはなんだが、こういったことは私の専門分野だ。及ばずながら、助力は惜しまんぞ」
「まだ続いていたのかい、その話」
逃げ切ったと思って安心していた勇吉が、再度話をふられてさすがに焦り始める。
「こういう時は勢いも必要なんだ。そうだな、書き出しはこうだ」
そういうとおもむろに立ちあがり、バリトンヴォイスで朗々と声を張る。
「おお、恋人よ!」
「却下っ」
周の声に被せるように、跳ね上がるように頭を上げた諒一が叫ぶ。
「却下や却下」
邪魔をされた周が、不愉快そうに眉を顰めた。
「なんだね、諒一君。少し落ち着きなさい。勇吉の大事な手紙について語っているのだよ。大丈夫、紅葉さんに送るのだから、五月さんあてよりも少しだけ落ちついた内容にする予定だ。情熱的すぎても、紅葉さんを困惑させてしまうだろう」
そう言った周に、やっと気付いたかと諒一は身を乗り出す。
「そこや。紅葉ばあちゃんに送るんやろ。せやったらもっとこう、なんちゅうか。情熱どうこうやのうて」
上手く言葉にならず、焦れる諒一の言いたいことが何となく分かった気がして、比奈子は恐々、周に意見を述べる。
「紅葉おばあちゃんって、情熱よりも情緒の人じゃないかと思います」
「そう、それやそれ。情緒」
我が意を得たとばかりに諒一は比奈子を指差す。ふむ、と唸った周は少し考えるように、指先で顎をとんとんと打った。
「では、どういった内容なら情緒ある恋文になるのかね」
そこで手を上げたのは、以外にもしばらく話について来られていなかった一郎だった。
「普通に暑中見舞い、いや、今頃はもう残暑見舞いか。残暑見舞いってのはどうだ」
「それや!」
「それよ、一郎おじさん」
若者二人の強い賛同を得て、一郎がへへっと照れ笑いをする。
「残暑見舞いか。うん、それなら僕にも書けそうだ。どうかな、周」
周は、また指先で顎をゆっくり二度打ってから、いいんじゃないのかと呟いた。そして、いそいそと自分の革の鞄の中からメモ帳とペンを用意すると、勇吉の前にずいっと差しだした。
「では、まず、好きに書いてみろ。添削してやろう」
勇吉は、ああよろしく頼むね、と答えると快調にペンは走らせていく。
「まず、時候の挨拶だろう。それから社会情勢のことなんかを入れて、相手の健康を気遣って、で、早々、と」
文章の下書きをしてみろと言われ、勇吉はメモ帳にすらすらと文案を書いて見せた。
「残暑見舞いだな」
「残暑見舞いね、おじいちゃん」
「残暑見舞いや」
「ああ、見紛うかたねえ、立派な残暑見舞ぇだ、こいつは」
だろう、と勇吉は一仕事終えたような清々しい笑顔でペンを置く。
「だから、ただの残暑見舞いを書いてどうする。少なくとも何か一言くらい添えておくべきだろう」
周が叱りつけるように声音をきつくする。
「だって他に何を書けばいいのやら」
勇吉は眉をハの字に下げながら途方に暮れたように、置いたペンを転がす。
「至急モドレ、ってのはどうでぇ」
「電文か、馬鹿者。やはりここは、誰よりも君を愛す、がベストだな」
「引くわ、ホンマ」
「では、諒一君なら、どんな一文を加えるのかね」
先ほどから、幾度となく自分のセンスを貶され、地味に根に持っていたらしい周が矛先を諒一に向ける。急に鉢を回された諒一はうんうんと唸って何とか気のきいた文句をひねりだそうとしたが、何も思いつかないらしい。元来、諒一は作文が苦手なのだろう、と比奈子はなんとなく思った。
「わかったよ。みんな色々考えてくれてありがとう。ちゃんと一文そえるから。もうこの辺りでお開きにしないかい」
勇吉のその声に、正直なところ一同はどこかほっとして、それぞれの杯を空けた。なんだかみんなぐったりとしてしまった。恋とはこんなにも、体力と精神力を消耗するものなのか。実のところ未だ初恋も知らない比奈子は、これが実際自分に起こるのかと思うと、今からちょっと腰が引ける。そしてしばらく恋だの愛だのとは無関係な生活を送ろうと固く誓ったのだった。
午後七時を過ぎた頃、諒一と比奈子は三老人に急かされ勇吉の家を後にした。周が車で送ると主張した。が、この日は飲酒が過ぎたらしく、一見して酔いが醒めていないことが明らかな赤ら顔をしていた。仕方なく、諒一が自転車で比奈子を送っていくことになったのだった。
行きは地獄の登り坂だが、帰りは驚くほどにスピードが出る。カーボンファイバー製の諒一の自転車は荷台部分に比奈子を乗せて、快調に坂を下っていく。辺りはすでに薄暗がりで、そこここに民家の灯りが橙色に浮かんでいた。その橙色が瞬く間に後ろに流れて、比奈子の網膜に蛍火のように淡く綺麗な残像が描かれていく。坂の終わり辺りで自転車が甲高いブレーキ音をたてて急停車した。なんの準備もしていなかった比奈子の身体は慣性の法則に従い、目の前にいる諒一の背中に頭から突っ込む羽目になる。
「どうしたの、急に」
ぶつけた鼻を擦りながら比奈子が文句を言うと、諒一は、あっちだとでもいうように、視線で比奈子の視線を誘導した。その先には薄暗がりにぼんやりと佇む褪せた赤橙色のポストがある。
「さっき、勇吉のじいさんに投函、頼まれてな」
そういうと、ひらひらと一枚のハガキを振って見せた。何時の間に書いたのか、勇吉はすでに紅葉宛ての残暑見舞いを書きあげていた。比奈子はそれをまじまじと見る。味も素っ気もない無愛想な官製ハガキに、勇吉らしい几帳面な文字が書かれている。
「イラストハガキにでもそればいいのに」
思わず呟くと、なんや照れくさいんやろ、と諒一が知った風なことを言った。
「これさっさと出してくるわ」
「ちょっと待って」
比奈子は自転車から降りようとする諒一の制服の裾を、引っ張った。
バランスを崩してこけそうになった諒一がなんやねん、と非難の声をあげる。
「それ、二、三日私が預かってもいい?必ず投函するから」
急に決死の形相でそう言いだした比奈子に、諒一は気圧されたようだったがすぐに、あかん、とにべもなく断った。
「これは、俺が勇吉のじいさんに頼まれたもんや。そんな無責任なことはできん」
そして怪訝そうな顔で、それにしても、と続ける。
「じいさんのハガキ盗み読みしようやなんて、お前ちょっと趣味悪いぞ」
「そんなんじゃないもの」
比奈子は心外だとばかりに憤慨してポケットから、しっかりと糊の効いたハンカチを取り出した。四つ折りにしたそれを丁寧に広げて見せる。そこには、先ほど勇吉の家を出る際、比奈子がこっそりと摘んだハマナスの赤い花房があった。
「これ、押し花にしようと思っていたの。そのハガキあんまり素っ気ないでしょう。それに貼ったら少しは華やかになるかと思って」
諒一は比奈子の見せるハマナスの花をまじまじと見つめた。
「押し花て、けったいなこと考えるもんやなあ」
「情緒よ情緒。ちょっと素敵じゃない」
「そういうもんか。まあ、ええんとちゃうか」
「でも、押し花にしようと思ったらどうしても二、三日はかかるの」
「ほな、次の配達が三日後やから、その時ここで落ち合おうや。それやったら、お前に希望も叶えられるし、俺の面子もたつわ」
「面子?」
「男と男の約束やぞ。無責任なことはできん」
諒一が再度頑なに繰り返すので、比奈子はその妥協案に乗ることにした。
三日後の放課後、諒一は約束通り現れた。配達を終えたばかりなのだろう。来ているシャツは相変わらず汗で変色し、べっとりと背中に張り付いている。比奈子が手渡されたハガキに用意しておいたハマナスの押し花を貼り、二人でハガキを投函した。明るい日差しのもとで見た勇吉の残暑見舞いには、最後に一言、会いたいです、と添えられていて、比奈子は心が痛くなった。神社でお参りする時のようにポストに向かって、ぱんぱんと二度手を打つ。
「なんで柏手やねん」
諒一は笑ったが、比奈子は真剣だった。祈るような思いだったのだ。どうか、おじいちゃんと思いが紅葉おばあちゃんに届きますように。
比奈子はもう一度強く念じた。
その日は諒一と別れ、そのまま家路につくとリビングで両親が比奈子を待ちかまえていた。
「比奈子、ちょっとそこに座りなさい」
リビングのソファに座った弥生は、比奈子をカーペットの上に正座させ厳しい調子でそう命じる。なんの話だろう。比奈子は弥生の隣に座る正紀に視線を向けたが、父は困ったように曖昧に笑うだけだった。
「あなた、二、三日前に男の子と自転車の二人乗りをしていたんですってね。しかも夜の七時頃に。近所の方が見かけてわざわざ教えに来てくださったのよ」
比奈子はしまったと顔をしかめる。帰りが遅くなったのが災いしたのか、近所の誰かの関心を引いてしまったらしい。それにしても余計なことをしてくれたものだ。
「何でも柄の悪そうな男の子だったそうじゃない。一体、誰なの、その子は」
「友達よ」
「友達って、どこで知り合ったの。学校には男の子なんていないでしょう」
比奈子は黙ってしまった。確かに自転車の二人乗りも、帰宅時間が遅くなったことも比奈子の失態だったが、母の怒っている理由は別のところにあるように思えた。
「ねえ、まさか、その子ってこの間、家に来たあの子じゃないでしょうね」
弥生は口に出すのも嫌だというように、口元を手で覆った。その仕草が、比奈子のカンに障る。比奈子は俯いていた顔をあげ、ええ、そうよと答えた。
「そうよ。坂井諒一君。酒屋さんの息子さんなの」
諒一と会うこと自体は、間違ったことをしているわけではないのだから、堂々としていればいいと比奈子は自分を勇気づけた。
「やっぱりあの子なのね」
呻くように呟いた後、弥生は目を吊り上げて比奈子に言い渡した。
「比奈子、もうあの子と会ってはいけませんよ」
「どうして」
間髪入れずに問い返した比奈子に、弥生は少し驚いたようだった。
「どうしてってあんな柄の悪い、他人の家にずかずか入り込んでくるような野蛮な子。一緒にいるとあなたまで変な目で見られるわよ。それに、あのおばあさんの親戚か何かなんでしょう」
ああ嫌だ、と弥生は最早嫌悪感を隠そうともせず顔を顰める。
「諒一君は別に紅葉おばあちゃんの親戚じゃないわ。おじいちゃんのことも気にかけてくれているの。口は悪いけどイイ子よ」
「あんな子のどこがイイ子なの。ねえ、比奈子あなた最近ちょっとおかしいわ」
「おかしくなんてない。帰りが遅くなったのと、自転車で二人乗りしたのは確かに私が悪いです。ごめんなさい。でも、本当に諒一君は……」
「あの子の話はもうしないで。あのおばあさんの話もよ。もう終わったことなの。おじいちゃんにも、もちろんあなたにも、もう関係のない人たちなの。わかったら、二度とあの人たちに会わないとお母さんに約束しなさい」
「イヤ。そんな約束できない」
「比奈子っ」
ヒステリックな声を上げる母を置いて、比奈子は二階にある自室に逃げ込んだ。階下では母を宥める父の声がする。どちらも比奈子にとって不快なものでしかなかった。比奈子はちょっとだけ泣いて、そしてそのまま不貞寝をしてしまった。もちろん母の命令に従う気にはなれなかった。
その日から三日経ち、一週間経ち、十日が経過しても紅葉おばあちゃんからの返事は来なかった。初めはどこかそわそわしていた勇吉もいつからか、諦めに色を濃くしていった。ツクツクボウシの合唱を耳にしなくなり、代わりに高い虫の音が夕暮れ庭で聞こえ始めた。
その年の夏はこうして終わった。終わってしまった。
夏が過ぎ、比奈子は長袖のセーラー服に袖を通した。薄い布地のそれは夏服と冬服の間に着る、中間服と呼ばれているものだ。よく晴れた日曜日の午後、部活帰りの比奈子は、久しぶりに勇吉の家を訪れるべく坂道を自転車で登っていた。大分涼しくなったとはいえ、やはりこの坂を登ればうっすらと額に汗が滲む。まだ中間服は早かったかもしれないと僅かに後悔しながら、比奈子は体重をかけてペダルを踏みこんだ。
結局、夏にお見合いパーティーをした六人の中で、未だ続いているのは周と五月だけだった。紅葉おばあちゃんは勇吉の家を去り、一郎とみどりは幾度かの大きなケンカの後、結局別れてしまった。お互いの結婚観の溝が埋まらなかったらしい。間に入る紅葉おばあちゃんの存在がなくなってしまったことも原因の一つだと比奈子は思う。破局した当初こそ荒れに荒れた一郎だったが、最近では積極的にまたプラチナシルバーライフを利用して、今度は親族の同席する必要のない、規模の大きな婚活パーティーに出席していると聞き及んでいた。破れた恋の特効薬は新しい恋を見つけることだと豪語しているとのことだ。一人で出席したがらない一郎に誘われ、勇吉もたまに婚活パーティーとやらに顔をだしているらしい。らしいというのは、比奈子が勇吉の家を訪れる回数が激減しているため、実際に勇吉が婚活パーティーへ出かけるところを見たことがないからだ。諒一との二人乗りを見つかって以来、比奈子に対する弥生の監視が厳しくなり、勇吉の家に遊びに行くこともままならなくなっていた。月に二回、それも休日のみで門限は四時と厳しく制限されている。恐らく、諒一との接触を嫌がっているのだろうと弥生の言葉の端々から推測できたが、あの夏の夜の諒一の態度を思えば母が警戒するもの仕方がないようにも思えた。しかし、諒一が「イイヤツ」だということを比奈子はもう知っている。どうやったらそのことが両親に伝わるのか、そこが目下、比奈子の思案のしどころだった。
比奈子は自分の携帯電話を取り出し、メールの受信欄を開ける。そこには、ぽつぽつと、送信者:坂井諒一の文字がある。諒一からのメールの内容はほとんど紅葉おばあちゃんの近況報告で、やはり紅葉おばあちゃんがどこかの施設に入ることになりそうだということ、そのための生活保護申請が五月達の手によって行われていることなどが短文で送信されてきた。諒一は週に二度ほど勇吉の家に配達に通っているので、勇吉の近況も今では比奈子よりも詳しいくらいだった。
『おじいちゃんが婚活パーティーに行くと言っていました。私は正直、おじいちゃんがそういうところに行くのはまだちょっと嫌です。まだ早いように思います』
『それは勇吉じいさんが決めることだと思います。踏ん切りがついたのならそれはそれでいいことです。たくさんの人に接する時間も老人には必要なのだと、俺は最近実感しています。先週、教室を閉めることになったので紅葉ばあちゃんは寂しそうでした。明日、配達があるのでまた様子を見てきます。』
諒一はメールになると急にですます調になる。そのギャップがちょっとおかしかった。
比奈子が勇吉の家に辿りつくと、部屋にも玄関にも明かりがない。扉はしっかり施錠されていた。どうやら勇吉は留守にしているようだ。比奈子が今日来ることは知らせているし、滅多に家を空けない勇吉にしては珍しいことだった。怪訝に思いながら預かっている合鍵で玄関のカギを開けていると、家の脇に黒いタクシーが止まる。その中からヨソイキの背広を着た勇吉が現れた。
「ごめんごめん、予定より少し遅れてしまってね」
そう言って歩いてくる勇吉が、比奈子の目には何だか以前より生き生きしているように見え、比奈子は我知らず軽い不快感を覚えた。玄関の扉を開けて、いらっしゃい、と改めて比奈子を迎え入れた勇吉の後に続き、比奈子は三和土でローファーを脱ぐ。
「今日は婚活パーティー?」
咎める様な響きになってしまう声を比奈子は自分で上手く制御できなかった。勇吉は、ははは、秘密だよと笑って誤魔化す。最近よくするようになった勇吉のこの笑い方が比奈子は好きではなかった。
(紅葉おばあちゃんは教室もできなくなって寂しそうにしてるっていうのに)
勇吉をふったのは紅葉おばあちゃん自身だ。そのことを考えればお門違いな苛立ちだと頭では分かっていても、もう次の人を探している勇吉を、比奈子は受け入れることができなかった。諒一の二人に対する接し方に比べ、自分の態度が子供じみて思え、少し悔しくなる。玄関で立ち止まってしまった比奈子を不思議そうに、勇吉が振り返る。
その時、外の坂道からぜいぜいと荒い息に塗れた諒一が飛び込んできた。
「勇吉のじいさん、いてるかっ」
振り返るとそこには、季節が遡ったのかと思うほど汗の滴を滴らせ、自転車に跨ったまま肩で大きく息をしている諒一がいた。恐らくこの坂を一息で駆けあがってきたのだろう。カーボンファイバーフレームの底力と言うやつかもしれない。
「自分ら、ケータイ見ろ。何遍電話かけたと思てんねん」
二人の顔を見るなり諒一は唾をとばして、勇吉と比奈子を叱りとばす。
「ああ、ごめん。人に会っていたものだから。マナーモードにしていたんだよ」
そういえば、比奈子の携帯も、部活中にマナーモードにしたままになっていた。改めて着信画面を確かめてみると、比奈子と勇吉の携帯電話には夥しいほど着信履歴があった。相手は全て諒一だ。
「なにこれ、怖い」
「怖いてなんや。二時間ぐらい前に、これが俺のとこに来てん」
そう言うと諒一は自分の携帯電話の受信画面を開く。送信者は高嶺紅葉でタイトルはなく、本文のみのメールだ。
びょういんへ いってきます。
恐らく漢字変換と句読点の打ち方がわからなかったのであろうその文面は、小学生の書く作文のようだ。
「急にこんなん来たら、なんかまたあったんかと思って心配になるやろ。このメールが着た時、俺、配達でえらい遠いとこにおってん。どんだけシャカリキでこのチャリかっ飛ばしても二時間はかかりそうやったから、お前と勇吉のじいさんに電話かけたんや。ここやったら病院に近いし、様子見てきてもらおうと思って。せやのに、二人ともかからんし、紅葉ばあちゃんの家行ってみたけどやっぱり誰もおらんしで、ほんま、どないなってんねん」
勇吉と比奈子は互いの顔を見合わせる。
「紅葉おばあちゃん、家にいないの?」
「家んなか真っ暗やった。念のために中も確認したけどやっぱり誰もおらん」
「家の中って、鍵はどうなってたの」
「かけてあったけど、合鍵預かってるからそれで開けた。なあ、紅葉ばあちゃん、また具合悪なって、一人で救急車でも呼んだんちゃうか」
「おばあちゃんの電話は、どうなの」
「コールはするけど繋がらへん」
「それって、電話にでられないほど体調悪いってことなの。意識がないとか」
「俺に訊くなや。わからんからここまできたんやろ。でも、その可能性もあるかと思て」
ずっと二人のやり取りを聞いていた勇吉が、坂の頂上にある大岡総合病院の方を仰ぎ見る。ざわりと庭のハマナスの木の葉がざわめいた。
「おじいちゃん」
比奈子は不安げに勇吉を呼ぶ。いつも柔和な勇吉が、厳しい顔つきで坂の上を睨みつけている。そして、普段見せたこともない俊敏な動きで諒一の自転車に飛びつくと、それに跨り、ペダルを漕ぎ始めた。どうやら自転車で頂上を目指すつもりのようだ。諒一と比奈子は老人の無謀な試みに驚き、急いでその後を追う。
「ちょお、待てじいさん。佐伯のじいさん呼ぶさかい、車で送ってもうたほうがええ」
「そうよ、おじいちゃん、無茶しちゃ駄目だよ」
よたよたと登る勇吉の背中を追いかけながら若い二人が制止の言葉をかけるが、勇吉は聞く耳を持たない。頑なな顔で坂の頂上を睨み付けたまま、視線を逸らそうともしなかった。滲んだ汗が、深い皺が刻まれた額を流れ落ち、痩せて突き出たのど仏が激しく上下し、苦しそうにぜいぜいと浅い呼吸を繰り返した。
「おじいちゃん、やめて。おじいちゃんまで倒れちゃうよ」
「僕は倒れないっ」
更に語気を強めて制止を求める比奈子の声に、勇吉が怒鳴り返した。それは比奈子が初めて聞く勇吉の怒鳴り声だった。
「僕は倒れないし、紅葉さんは無事だし、誰も何もなくさない!」
そう叫んでペダルを踏み込む足にさらに体重をかけていく。
「おじいちゃん!?」
この時比奈子は、正直、勇吉の正気を疑った。家族との不和に紅葉への心配が重なり、勇吉の精神がどうにかなってしまったのではないかと本気で怖くなったのだ。
「もうやめてったら。ねえ、おじいちゃん!お願いやめて」
悲鳴に近い比奈子の声も、鬼のような形相でペダルを漕ぐ勇吉には、もはや聞こえていないようだった。不意に、自転車に乗った勇吉を追いかけ上り坂を駆け上がっている比奈子の肩を諒一が小突いた。
「おい、俺ら何か離されてへんか」
そう言って諒一が指した勇吉の背中は確かに、登り始めた当初より小さくなっている。
「これ、じいさんホンマにこの坂登り切りよるんとちゃうか」
「無茶言わないでよ。おじいちゃん、今年で七五歳よ」
反射的に言い返した比奈子に、そうやんなあ、そうなんやけどなと同意しながらも諒一は、ふらふらと登っていく勇吉の背中を見つめ、そこで足を止めてしまった。どうしたことかと振り返った比奈子に、諒一は視線を逸らさないまま呟く。
「そやけど俺、見たいねん。坂を登り切るお前のじいさん」
どこか羨ましそうに言って走ることを止めた諒一につられ、比奈子も足を止める。勇吉の自転車は相変わらずふらふらよたよたしながらも一心不乱に坂の頂上を目指して直走っていった。
比奈子と諒一が歩いて大岡総合病院の正面玄関に到着してみると、そこには諒一の自転車が乗り捨てられていた。どうやら勇吉は本当にこの坂を登り切ってしまったらしい。
「じいさん、俺の愛車をなんちゅう扱いしてくれてんねん」
呆れた声でぼやきながら、横倒しのまま野ざらしになっている自転車を起こしてしっかり立たせた。正面玄関はすでに閉じられていて、ガラス越しに見える院内は真っ暗だ。二人は赤いランプの灯った夜間用の救急入り口へと足を向けた。受付で高嶺紅葉の名前を出すが、無愛想な受付のおじさんはそんな患者は来ていないという。そんなはずはないと食い下がるも、いないの一点張りで困り果てていると、ちょうど通りかかった白衣のおじさんが、ああ、と声を上げる。
「その人なら理事長室にいるよ。取り次いであげたら」
「理事長室?」
比奈子と諒一はお互いの顔を見合わせた。紅葉おばあちゃんはどうしてそんなところにいるのだろう。具合が悪くなって自分で救急車を呼んだのではないのか。疑問は多々あったが何とか取り次いでもらい、二人は八階の理事長室とやらに案内された。木目とシルバー素材がスタイリッシュな扉を開けると、中にはテレビで見るような、わかりやすくお金のかけられた応接セットが用意されている。黒皮のソファにぴかぴかに磨き上げられたガラステーブル。濃い飴色に輝く書棚には厳めしい装丁の本が、入ってくる者を威嚇するようにずらりと並べられている。その中央にある応接セットの革張りのソファに藤色の着物を着た紅葉おばあちゃんがちょこんと腰をかけていた。そして、残りのソファには、身形のいい五十絡みの男女が二人と、シルバーフレームの眼鏡を掛けた神経質そうな若い男が座っていた。一斉に視線を浴びて、比奈子は困惑する。自分たちがひどく場違いな場所へ来てしまったことがひしひしと感じられた。そんな比奈子の困惑を知ってか知らずか、諒一は隣に立つ比奈子に小声で話しかける。
「あの眼鏡の優男、弁護士やで。ひまわりバッチつけとる」
みれば確かに、優男のスーツの襟には金色のバッチが光っている。
「あらあら、二人ともお迎えに来てくれたの」
濃い紫の着物をすらりと着こなした紅葉が穏やかに声をかける。
「お孫さんですか」
事務的な声でそう聞いたのは、優男の弁護士だ。
「いいえ、近所の子たちですよ。私に子供も孫もいないのはあなた方がよくご存じでしょう」
「私に出来るのは戸籍を調べることぐらいですよ。探偵ではないのでね」
「子供が生まれていれば出生届を出すものでしょう。戸籍に書かれている以上のことはなにもありませんよ」
穏やかに話す紅葉おばあちゃんに対し、弁護士はどこまでも事務的だった。
「だからといって、どうして親父があんたに財産を残す必要があるんだ」
急に声を上げたのは、五十代のおじさんのほうだった。
「なあ、高嶺さん、あんたがうちの無くなった祖父さんの兄二人の嫁だったことはわかった。一時は大原の家に嫁いできたんだろう。しかし、もう何十年も前に離縁されているじゃないか。私達からすれば、完全に赤の他人だ。なんでそのあんたに親父が一部とは言え遺産を分けるなんて遺言を残す理由があるんだ」
「さて、それは私にもわかりません。確かに辰彦さんが八つになるまで大原の家におりましたし、何かと接する機会もありましたけれど、高嶺姓に戻ってからは一切お会いすることもありませんでした。よく私のことを覚えていらしたものだと、私も驚きましたよ」
「なあ、紅葉ばあちゃん、何なんこの集い」
大人達のやり取りに、諒一は何の遠慮もなく首を突っ込んでいく。それがねえ、と紅葉はおっとりと応えた。
「ちょっと前に亡くなったここの前の理事長さん、大原辰彦さんとおっしゃるのだけれど、この人は私の前の旦那さんの弟さんなのよ。もう何十年も連絡すらとっていなかったのだけれど今日急に辰彦さんの顧問弁護士さんからお電話をいただいてね。遺言書がでてきたんですって」
「遺言書?」
「そこの赤の他人のおばあさんに財産の一部分けるっていう内容の遺言書よ」
今度は女性のほうが苦虫を噛みつぶしたような顔でそう吐き捨てた。
「被相続人は幼い頃にお世話になり、実の姉のように慕っていた高嶺さんが、その後石持て追うように家を出されたことをずっと気にしておいでだったんです。それで遺言書を作成する際に少しでも報いることができればと、遺産の一部をお渡しするよう記載されたんですよ。この遺言書の作成の時には私も実際立ち会っています。公証人役場で作った正式なものですよ。」
弁護士は淡々とそう述べた。
「あの小さかった辰彦君がねえ。そんなことを考えていたなんて、全然知りませんでしたよ」
紅葉おばあちゃんは感慨深そうに、ほうっと嘆息した。
「それで、高嶺さんの正式なご回答を頂こうと思いまして、本日はご足労願ったわけです。で、どうされますか。受け取るのも、放棄するのもあなたの自由です」
弁護士の声に、紅葉はふふふと笑った。
「折角ですので、頂いておきます」
おじさんとおばさんが立ち上がって何かいいかけるがそれを制して弁護士が声を張る。
「遺言者の意思は絶対です。そして現在、大原辰彦氏の財産を動かせるのは遺言執行者である私だけですよ。お二方ともお静かに」
二人は口をぱくぱくさせて何か言おうと試みたが結局なにも言えないようだった。
「では、ご用件はすみましたね。私はこれでお暇しますよ」
紅葉おばあちゃんは朗らかにそう言うと、事態についていけない比奈子と諒一を連れて応接室をでた。
「紅葉ばあちゃん、こんなええとこに嫁に行っとったんか」
立派な造りの院内を見回しながら諒一が、はああと声を上げる。
「昔は小さな診療所だったのよ。辰彦さんが頑張って大きくしたのねえ」
そこまで聞いて、そういえばと比奈子は勇吉のことを思い出す。
「紅葉おばあちゃん、おじいちゃん知らない?おじいちゃんが先にここに着いてるはずなの」
紅葉おばあちゃんは、まあ、と目を丸くした。
「お会いしてませんよ。どこにいっちゃったのかしらん」
真っ暗な院内の待合室付近で困っていると薄いピンク色の制服をきた看護師さんに呼び止められた。
「村上勇吉さんのご家族のかたですか」
「はい」
比奈子は即座に返事をする。
「今、処置が終わって別室で横になってもらっていますからそちらに案内しますね。まったく、変わったおじいちゃんね。自転車で病院に来てそのまま倒れちゃうんだもの。元気なんだかどうなんだか」
比奈子は赤くなって、おじいちゃん、と小さく咎めるように勇吉を呼んだ。
案内された別室で、勇吉は白いシーツの医療用ベットの横たわっていた。三人の顔を見つけると、へへへと照れくさそうに笑う。
「倒れちゃったなあ。でも、登ったんだよ。僕はあの坂を自転車で登り切ったんだ。ねえ、紅葉さん、七五歳なんてまだまだ若いですね」
そうですねえと紅葉は、はしゃぐ子供をなだめるように笑った。勇吉は尚も興奮した様子で、ポケットの中から大事そうに何かを取り出す。老人の、乾いたつるりとした手の平の中には一辺が5センチほどの正方形があった。それは、ふわりと温かい赤から落ち着いた黄色のグラデーションが鮮やかな、一片の布地だった。
「これ、あの簡易ソファの素材なんです。何とかきれいに着色したくて、ここのところ知り合いの製作所に通って色々試していたんですが、今日やっとできあがりました」
きれいな紅葉色でしょう、と胸を張る勇吉に紅葉おばあちゃんは、まあといって目を丸くする。
「それで、製作所の人がこれを製品化してみたいって言ってくれているんです。やっぱり僕たちくらいの年になると皆さん足腰弱ってくるし、カラーバリエーションが豊富になればインテリアとしても十分需要が見込めるだろうって」
「それはすごいですねえ」
まるで、学校で一00点満点を取った小学生とその母親のようなやり取りだった。勇吉は楽しげにふふふと含み笑いをすると、手の平の布を愛おしげに指先で何度も撫でた。
「嬉しいです。まだまだ僕も何か人の役に立てるかもしれないと思うと、何だかすごく嬉しいんです」
頬を紅潮させてそう語る勇吉は、比奈子が知る祖父の姿ではなかった。
「僕はね紅葉さん、連れ合いを亡くしてからつらくて寂しくて、最近身体にがたもきて、なんだかねえ、自分の身の回りの世話をしてくれる人が欲しいなあとか、最後を看取ってくれる人がいればなあと思ってあの婚活サークルに参加したんですよ」
でもねと続けて、勇吉はそっと紅葉おばあちゃんの手を取った。しわしわの手に包まれた、一回り小さなしわしわの手・その姿が比奈子にはとても幸福なもののように見えた。
「僕は今、あなたの世話ができたらなあと、あなたと一緒にいれたらいいのになと思っています」
勇吉は耳の端まで赤くなりながら、それでも視線だけはそらさずに、懸命に言葉を紡ぐ。これが所謂、掻き口説く、という行為なのか。そして、口説いているのは、あの穏やかで物静かな自分の祖父なのだ。比奈子は信じられない思いで、手を握り合う二人の姿を固唾を飲んで見守った。
「どうなるかわからないけれど、年齢からいえば、僕はまた連れ合いに先立たれるのかもしれない。でもね、あなたが最後の時を迎えるなら、僕はそのすぐ傍に居たいんです。きっと、とてもとても悲しくて、つらくて、苦しいけれど、傍にいられないよりはずっといい」
なんて情熱的なプロポーズだろう。比奈子は自分のことでもないのに赤面する。
「明後日、その布で作ったソファが僕の家に届きます。あなたのためのソファです。その紅葉色のソファに座ってくれますか。僕の隣にいてくれますか」
勇吉の声は緊張で震えていた。
紅葉おばあちゃんはそうですねえ、と鷹揚に応えた後、可愛らしくふふふと笑った。
「新婚旅行にはどのタヒチにいきましょうか」
おじいちゃんの婚活3
お読みいただきありがとうございました。