バラードが聴こえるまで
どこにでも転がっていそうな恋物語を書きたくて書きました。
この作品は、オリジナル小説サイト『遥か彼方のきみへ』にて、掲載されているものです。
1、サクラチル
駅で電車を待っていると、クラスメイトだった奴と会う。
スーツをビシッと決め、高校時代とはまるっきり違う。入学式なんだという奴の目は、僕の格好をひとなめしてから、立花はと、訊いて来た。
――知っているくせに。
予備校。とだけ答える僕を、またしげしげと見て、ああそっかと、触れてはいけなものでも触れたように、目を逸らす。
僕はいつだって、みんなの前を全力疾走して来たんだ。負けるなんて考えたことなんか一度もなかった。
有名私立高校に入り、家族からは、将来が楽しみだと言われ続けて来たんだ。その僕が、こんなレベルの低かった奴に見下すような目をされるなんて、ふざけんな。
ぞろぞろと、駅から流れる人の波に紛れ、僕は怒りの矛先を探していた。
「ロクちゃん。やっぱりロクちゃんだ。おはよう」
えっと思って、相手の顔を見た僕は、すぐに目線を落とし聞こえないふりをした。
「ねぇ、立花陸朗君でしょ。何で無視をするの?」
だいたい、こんな名前を付ける親が悪い。縁起でもない。ロクロウなんて付けやがって。
ぎろりと僕は、星池みのりを睨みつける。
「知らなかった。ロクちゃんもこの予備校なんだ」
馴れ馴れしくすんじゃねー。人が見ているじゃねーか。
「お前に、そんな呼ばれ方される筋合いはない」
「ええー、どうして? みんなそう呼んでいたじゃない」
「みんな?」
僕の尖った言い方に、星池は一歩下がる。
歩くスピードが落ちた僕を、追い越して行こうとした男と肩がぶつかり、カッと頭に血がのぼる。
「待てよ!」
その頃の僕はいつもこんな調子で、なんにでも怒りを爆発させていたんだ。
「ロクちゃん、止めて!」
振り返った男の胸ぐらを掴みかかろうとする僕の間に、星池が立ち塞ぐ。
「すいません。すいません。本当にごめんなさい」
男は舌打ちを一回すると、何も言わずに行ってしまい、僕はその後ろ姿を見ながら、余計なことしてんじゃねーよと、星池に食って掛かった。
「ロクちゃん、今朝、ご飯食べてこなかったでしょ? はいこれ」
星池は、僕の掌におにぎりを乗せ、お腹が空いていると、気が立つからちゃんと食べなよと言って、後ろ手を振って行ってしまう。
くそっ! バカにしやがって!
僕は、そのおにぎりを、足で踏みつぶす。
2、僕の憂鬱
行きたくもない学校。当然面白くもなく、一番後ろの席で居眠りばかりしている日々が続いている。
季節は急速に暑さを増し、鬱陶しい雨が連日降っている。
重い足取りで校舎に向かう僕の横を、何故か当たり前のように星池は並んで歩いている。
一度、はっきりさせておかなければならない。
僕はそう思いながら、坂道を上って行く。
「お前さ。なんでいつも僕のそばにいるわけ?」
「ええ。何でー? 一緒の学校通ってんだもん、こんなの普通でしょう」
「ちげーだろ。お前は文系で、僕は理系。学ぶべきものが違うし、コマだって全然違うだろ」
「そんなことないよー。だって落ち着いて勉強したいでしょ。家じゃ集中できないから、自習室使いたいって誰でも考えるでしょ? ロクちゃんだって、やっているの見たよ」
それにしたって、偶然すぎないかって言いたかったけど、なんか人に見られているようで、僕はムッとしたまま足を速めた。
高校のクラスメイトだったというだけで、慣れ慣れしいんだよ。美人ならともかく、よりによって何でクラス一のブスなんだ? 冗談じゃない。
「また、そんなの食べて」
ハンバーガーをかぶりついている僕の前に星池は現れ、さっと僕の前にお弁当箱を広げだす。
「明日から、私が栄養を考えて作ってきてあげるわ。こう見えても栄養師を目指そうって考えている子だから、味には自信あるのよ」
栄養士って? やっぱこいつバカだ。もろ理系じゃねーか。冷ややかな目を向ける僕に、星池は嬉しそうに、食べて食べてと言う。
仕方なく僕は、揚げ物をを渋々口に放り込む。
美味い。
「こんな所で食っていたら、変な目で見られるだろう」
僕は弁当箱を、突っ返しきつく言う。
「あっそうか。ごめん。でも、明日からは絶対に持ってくるから、昼の心配はいらないからね」
「いらねーよ」
「そんなことを言わないでよー」
「うるさい。ブス」
僕の声が、フロアー中に響き、刺すような視線が集まる。
あははは。
星池が、それ以上に大きな笑い声を立て始める。
「嫌だな、ロクちゃん声が大きすぎだよ。冗談きついんだから、周りの人が驚いちゃうでしょ?」
何だこいつ?
「じゃ、私行くね」
何もなかった様に立ち去る星池を見て、僕は無性に腹が立った。
3、解けない方程式
予備校生活もひと月が過ぎ、相変わらずふてている僕の前に座った星池が、私の名前っていいでしょうって言いだしたんだ。
無言のままでいる僕に、ロクちゃんも私のことそう呼んでよ。みのりなんて、なんか幸せがわんさか実りそうでしょ。って。
「ブスの癖に。お前だって落っこちて、こんな所に通ってんじゃねーか 」
そう言う僕に星池は、にっと、満面の笑みを見せた。
「バカだねロクちゃんは。自分のためにご利益使っちゃったらダメでしょ? 人のために使うから意味があるんだよ」
「何のこっちゃ?」
鼻で笑う僕を見て、星池はまた嬉しそうに、笑った。
「今日はちょっとアレンジして、麺にしたから食べれると思うよ」
星池は、僕が飲まずに持っていたスポーツドリンクを手から取ると、お弁当を入れた手提げ袋の中にしまって、はいと返した。
完璧に、彼女気取りだ。
「感想聞かせてよ。私の将来が、かかってんだから」
毎度、このセリフも言って来る。
「いらねーのに」
「捨ててもいいけど、一口食べてからにしてよ。うまいかまずいかだけでも教えてよ」
「声が、でけーよ」
何人か振り返って行くのを見て、僕は慌てる。
「ブスに優しくしておくと、ご利益あるんだから」
「誰が、そんなことを決めた」
「ボランティア精神だよ。ボランティア精神」
さらりと言ってのけた星池は、突っ返す暇もなく校舎の中に消えて行ってしまい、僕は、結局全部平らげてしまった。
偶然、自動販売機でお茶を買っている星池に遭遇してしまった僕は、執拗に訊かれてうまかったと伝える羽目になった。
「よし。一日一善。よくできました」
そう言って星池は、女友達と行ってしまった。
僕は一人でソファーに座り、外を眺める。
腹が立つことに、星池は僕の心を見抜くのが上手い。
さらりとやって来て、のほほんとした口調で、すべてをはぐらかして行く。それがまた腹が立つ。
高校の時、これほど星池を意識したことがなかった。クラスではいろいろと揉め事はあったようだけど、僕にはどうでも良いことで、興味すら示さずにいた。
話し掛けられなきゃ、通り過ぎたって、横に座られたって、気が付かなかったよな。
「……ですから、この場合」
ハッとして、僕は授業中だったことを思いだす。
数式を慌ててノートに書きとる。
講師の声が一段と大きくなる。一心不乱に誰もがその早口について行こうと、耳をそば立てている。全員がライバルだ。友達なんて今の僕には必要ない。
楽しそうに友達と話す星池の姿が一瞬、頭を過る。
――ブスのくせして、友達なんか作っているんじゃねーよ。
そして、悔しいけど…。僕は僕の中に芽生えたものに気が付かず、認識だけがそれを追い越して行った。
その頃から、僕は星池じゃなくみのりって、呼ぶようになっていったんだ。
4、交換条件
「ロクちゃん、ヘルプミー」
帰ろうとしている僕は腕を掴まれ、ムッとなる。
最近、みのりは化粧をするようになっていた。香水か何かもつけているんだろう。妙に甘ったるいにおいが鼻に付く。
一体、この化粧に何時間かけているんだ?
長いつけまつげをバサバサと瞬きしながら、今、時間あると聞くみのりに、僕は露骨に嫌な顔を見せる。
「ない」
僕の即答に、みのりは口を尖らせた。
「そんなことを言わないでよ。ロクちゃん数学得意でしょう? 微分法がどうしてもわかんないのよ。教えてよ」
「そんなもん講師に訊け。そのための予備校だろうが? 僕は自分の勉強で忙しいんだ」
「ええー。そんな意地悪言わないでよー。お礼は何でもするから、ねー、良いでしょう?」
上目づかいに、鼻にかけるような声。
止めろ。ブスが気持ち悪い。
「何でもって、何でもか」
「うん。ハーゲンのアイスでも。この際、奮発して焼肉でも良いよ。バイト代、入ったし」
「バイトって? お前アホか? 予備校生にそんな余裕どこにあんだ?」
「だってー、いろいろ掛かるんだもん。小遣いだけじゃ足りないよ」
目をひん剥いて喋る僕に、みのりはたじろぎながらもごもごと答える。
「はぁん。どこの大学目指してんだっけ、おまえ?」
僕のイライラが募る。
「大丈夫。お茶の水に行くなんて言わないから」
「そう言うことを聞いてんじゃねーよ。今年も駄目だなおまえ」
「ひっどい。そんなのやってみなきゃわからないじゃない。ちゃんと勉強もしているし、別に浪人したからって、人生に負けたわけじゃないんだから。あとは本人のやる気でしょ。私は負けないつもりだよ。ロクちゃんも、そんなしかめっ面ばかりしてないで、もっと息抜きしないと、自分に押し殺されちゃうよ」
「僕に助言をするなんて、10億万年早い。僕だって負けてなんかいない。自分に似合うレベルの学校に行くために一年、勉強し直しているだけだ」
「だったら、一時間ぐらい私にちょうだいよ」
「そんなの余裕だし、その代わり北山を僕に紹介しろ」
どうしてそんな言葉を発してしまったのか、自分でもよく分からなかった。
昨日弟の奴が、彼女を家に連れてきたせいか?
アイドル歌手にどことなく似ていたその子を見て、僕は嫉妬していたのかもしれない。
北山瑞希。
高校時代、バスケ部のキャプテンをしていた奴だ。クラスは違っていたけど、何故か教室でちょくちょくと、瑞希を見かけていた。
その瑞希がみのりの友達と知ったのはつい最近だった。
いつもの如く、僕の前に現れたみのりは弁当を手渡しながら、ニヤニヤと顔を覗き込んで来た。
不気味がる僕に、みのりは携帯の画面を目の前に差し出して来た。
「可愛いでしょう?」
色違いの浴衣を着たみのりと、瑞希が写っていた。
「これ着て、花火大会に行くんだ」
相変わらず日に焼けた顔をしていたけど、一つにまとめた髪が新鮮に思えた。
「瑞希と一日デート。出来ればあの浴衣で」
どうだ。無理なんだろうという目で、みのりを見下すように見てやった。
「……わかった」
一呼吸置いたみのりが頷く。
5、夏祭り
ひょんなことから、僕は初デートを経験する運びになった。
ムッとする暑さの中、僕はみのりに聞かされた待ち合わせ場所に20分前に着く。
期待しすぎて早く着くのも癪に障るし、かといって待ち合わせにギリギリとか、遅れるという非常識な奴だと思われたくなかった。
祭だから仕方がないけど。ごった返す待ち合わせ場所に顔を顰める。
甲高い声の話声と笑い声。
――だから女は苦手なんだ。
しばらくして、はにかむように手を振る瑞希を見つけた。
「全然、変わってないね」
瑞希の弾む声に押し出さられるように、駅の階段を降り始める。
ずらりと並んだ屋台を眺めながら、僕はどんどんと前に進んで行った。
「立花君、ちょっと待ってよ。もうちょっとゆっくり行こうよ」
そう言われて、僕は立ち止まり振り返った。
「お祭りだよ。こういう縁日とか見て歩くのが楽しいんだから。そんな早歩きされてもつまんないし、ついていけないよ」
口を尖らせた瑞希が、ぎゅっと僕の腕を掴んだ。
「げたって履きなれてないし、足痛いんだから。もうちょっと私のことも考えてよ」
「ごめん」
一応謝ったけど、どうしてそんな歩きづらい物を履いて来たんだよと、腹の中でつむじを曲げる。
これがみのりだったら、平気で言えたのに。
別に金魚とかヨーヨーとか興味ないし、トウモロコシが食いたいなら食えばいいじゃねーかと、隣ではしゃぐ瑞希を見ながら僕は思っていた。
みのりだったら、絶対口の周りが汚れても平気で食べて、にやっと歯に詰まったままの笑顔を見せて笑うだろうし、やりたいなーじゃない。やるから見てろとか平気で言うと思う。
「ねぇ、立花君って、みのりのこと、どう思っているの?」
散々迷って釣ったヨーヨーをパンパン言わせながら、瑞希は訊いた。
僕は、ドキッとした。
「別に、うるさいハエくらいにしか思っていないけど。何で?」
「ううん。特に何でもないんだけど。どういう関係なのかなって思って」
なんだろう? ぎすぎすとした空気が一瞬、流れた気がした。
「立花君てさ、鈍感だよね?」
相変わらずヨーヨーをパンパンとさせたまま、瑞希は顔を上げずに言う。
「何が?」
「私、ずっと好きだったんだよ。気が付いていなかったでしょ?」
「はん?」
間が抜けた声が出てしまった。
瑞希が、真っ赤な顔をして僕を見ている。
「でも、もういいや。立花君、無神経すぎるんだもん。もっと優しい人かと思っていた。友達とかに勉強とか教えていたしさ、落とし物を黙って拾ってくれたのに、全然違う。どんどん先歩いて行っちゃうし、いちいち眉間に皺寄せてつまらなそうにしているしさ。じゃ、私帰るから」
一発目の打ち上げ花火が上がった。
バリバリと威勢のいい音を上げて、大輪を咲かせる。
僕は呆然と立ちつくしていた。
6、距離の法則
ひょんなことから、僕は初デートを経験する運びになった。
ムッとする暑さの中、僕はみのりに聞かされた待ち合わせ場所に20分前に着く。
期待しすぎて早く着くのも癪に障るし、かといって待ち合わせにギリギリとか、遅れるという非常識な奴だと思われたくなかった。
祭だから仕方がないけど。ごった返す待ち合わせ場所に顔を顰める。
甲高い声の話声と笑い声。
――だから女は苦手なんだ。
しばらくして、はにかむように手を振る瑞希を見つけた。
「全然、変わってないね」
瑞希の弾む声に押し出さられるように、駅の階段を降り始める。
ずらりと並んだ屋台を眺めながら、僕はどんどんと前に進んで行った。
「立花君、ちょっと待ってよ。もうちょっとゆっくり行こうよ」
そう言われて、僕は立ち止まり振り返った。
「お祭りだよ。こういう縁日とか見て歩くのが楽しいんだから。そんな早歩きされてもつまんないし、ついていけないよ」
口を尖らせた瑞希が、ぎゅっと僕の腕を掴んだ。
「げたって履きなれてないし、足痛いんだから。もうちょっと私のことも考えてよ」
「ごめん」
一応謝ったけど、どうしてそんな歩きづらい物を履いて来たんだよと、腹の中でつむじを曲げる。
これがみのりだったら、平気で言えたのに。
別に金魚とかヨーヨーとか興味ないし、トウモロコシが食いたいなら食えばいいじゃねーかと、隣ではしゃぐ瑞希を見ながら僕は思っていた。
みのりだったら、絶対口の周りが汚れても平気で食べて、にやっと歯に詰まったままの笑顔を見せて笑うだろうし、やりたいなーじゃない。やるから見てろとか平気で言うと思う。
「ねぇ、立花君って、みのりのこと、どう思っているの?」
散々迷って釣ったヨーヨーをパンパン言わせながら、瑞希は訊いた。
僕は、ドキッとした。
「別に、うるさいハエくらいにしか思っていないけど。何で?」
「ううん。特に何でもないんだけど。どういう関係なのかなって思って」
なんだろう? ぎすぎすとした空気が一瞬、流れた気がした。
「立花君てさ、鈍感だよね?」
相変わらずヨーヨーをパンパンとさせたまま、瑞希は顔を上げずに言う。
「何が?」
「私、ずっと好きだったんだよ。気が付いていなかったでしょ?」
「はん?」
間が抜けた声が出てしまった。
瑞希が、真っ赤な顔をして僕を見ている。
「でも、もういいや。立花君、無神経すぎるんだもん。もっと優しい人かと思っていた。友達とかに勉強とか教えていたしさ、落とし物を黙って拾ってくれたのに、全然違う。どんどん先歩いて行っちゃうし、いちいち眉間に皺寄せてつまらなそうにしているしさ。じゃ、私帰るから」
一発目の打ち上げ花火が上がった。
バリバリと威勢のいい音を上げて、大輪を咲かせる。
僕は呆然と立ちつくしていた。
7、ブラックホール
模試の結果があまり芳しくない僕は、熱を出して授業を2日間休んだ。
熱にうなされている間、僕は大きな穴に落ちて行く夢を何度も見ていた。
躰が、本当にベッドに吸い込まれていくような変な感覚。
どんどん体が得体のしれない場所に引きずり込まれ、ハッとして目が覚める。
シーンと静まり返った部屋。親は二人とも仕事に行っている。弟もどこかに出かけていて、家を留守にしている。
孤独が僕を襲ってくる。
母親が、額に手を当てるのを、いつ頃から拒むようになったんだっけ。今朝も、うざがってまともな会話にならなかった。
額に乗せた腕が熱い。
机の上、乱雑にテキストが広げられ、その上に置いてあった携帯が点滅しているのに気が付く。
みのりからのメールだった。
(風邪でも引いてしまいましたか?)
絵文字なしの素っ気ない文を見て、僕はふっと気が楽になる。
女を強調したがる割に、こういうのはさばけている。
(多分、38度くらいあると思う。明日も行けない。)
返信ボタンを押している自分に、苦笑する。
(人間していますねー。水分補給はたっぷりしてね。着替えもした方が良いよ、私の勘だと1リットルくらい汗をかいて、ロクちゃんのシャツは無残にもそれでぐっちょりと湿っていると思われるので。)
勘とかそういうもんじゃないだろう。普通に考えても分かる。
そんなツッコミを入れながら、ふらふらと立ち上がり着替えを済まし、階段を下りる。
置手紙がテーブルにあった。
(食べれるようだったら、冷蔵庫の中に食事を入れてあります。温めて食べなさい。あと、スポーツドリンクも入れてあるから、まめに水分を摂るのよ」
僕が浪人してから家の雰囲気は変わってしまった。
いつでも空気が張り詰めていて、誰もが僕に気を遣っている。
食事はとる気になれずに、スポーツドリンクを一口飲んで、また部屋に戻る。
一日だって無駄にできない。
机の前に座って、テキストをペラペラと捲ると、携帯が鳴る。
(焦っても始まらないよ。ロクちゃんのことだから勉強しようなんて考えているでしょ。ノートは何とかゲットしてあるから体を早く治してね)
僕は、思わず窓の外を見る。
もしかしてストーカーされているのかと思った。
今度会ったら言ってやろう。ストーカーなんかしてんじゃねーよって。
僕は諦めてベッドに横たわる。
目を瞑った途端、躰がベッドに吸い込まれて行く感覚が蘇り、ぐるぐると僕の体をみのりがベッドに縛り付けている夢を見た。
8、破壊
みのりとの関係はあいまいのまま、冬を迎えていた。
最後の追い込みだった。
今まで軽口を叩いていた奴らも、無言で改札を抜けて行く。みのりも余計なことは言わなくなった。弁当袋を手渡すと、黙って僕の横を歩く。
少し重みを増した袋の中身を見る。水筒が添えられている。
「顔色悪いから、野菜ジュースを付けたから」
ありがとうと喉まで出かかっているのに、僕はその一言が言えずにああと答える。
あまりよく眠れていない。目を閉じると英文法が気になって、目が冴えてしまう。数学は、あと一問解いてからと思っているうちに、朝が来ていることが多い。今まで覚えたものが、寝ている間に抜け落ちてしまうんじゃないかと、錯覚を起こしているように、寝るのが怖かった。
受験の日、雪が降った。
しんしんとした寒さの中、電車に乗り込む。
予備校最後の日、みのりから合格祈願のお守りを渡された。
「ロクちゃんなら大丈夫。頑張って来たんだから、自分を信じるだけだよ」
「ブスが、余裕かまして人を励ましてんじゃねーよ」
「口が悪いのは、元気な証拠だね。お互いベストを尽くしましょう」
みのりが手を差し出した。
僕はその意味が分からずにいると、無理やり手を握られる。
「頭が良い人の力を分けてもらわなきゃね」
「バカがうつる。止めろ! これで落ちたらお前のせいだからな」
「相変わらず酷いね」
小首を傾げたみのりが言う。
カバンにぶら下げたお守りが揺れ、僕は試験会場に入る。
自信はあった。自己採点でも九分九厘いけていると確信していた。だから、僕はこの事態が上手く飲みこめないでいる。
泣きたいのに、涙が出て来ない。
僕はみのりを呼び出した。
予備校がある駅前のバーガーショップ。参考書も持たずに、こんな所に入るのは久しぶりだった。高校の制服を着た団体が、ゲラゲラと笑って入って来た。まるで僕を笑っているようで、耳をふさぎたくなる。
一時間してみのりが来る。
「ブスが待たせてんじゃねーよ」
「ごめん。出掛けに、親がいろいろ言ってきて、遅くなっちゃった」
何でこの僕ばかりがこんな目に遭う。
「ブスが化粧なんかしてんじゃねーよ」
みのりは何も言い返さない。それがまた腹が立つ。
乱暴にごみを片した僕は、表に出る。
「どこに行くの?」
そんなみのりの問いかけを無視して、踏切を渡る。
居酒屋が並ぶ切れ目にあるカラオケボックスに入る。
「ロクちゃんが歌なんて、珍しいね」
みのりの声が、弾んで追いかけて来る。
「何、歌う?」
歌なんて歌いたい気分じゃない。僕はみんなが楽しんでいる間も、勉強をして来たんだ。こんな所でへらへらと笑っていた奴らが、先を行ってしまうなんてありえない。
「ブスが一人でうたってろ」
そんなことが言いたいんじゃない。結果を聞きたかったんだ。それなのに僕は訊くのが怖くて、適当に番号を入れる。
「全曲歌いきれよ」と言って、部屋を出てしまった。
自分でも何がしたいのかが分からなかった。
今までの生活を壊してしまいたかったのは、確かだと思うけど……。
9、破壊
ふらふらと、ビルの屋上に向かって階段を上って行く僕の腕を、みのりが捕まえる。
「ロクちゃん真面目過ぎんだよ。だから言ったでしょ、息の抜き方を知らないと苦しくなるって」
「ブスに、何が分かる」
「分かるよ。ずっといじめられてきたんだよ。ロクちゃんこそ、生きている価値とか考えたことないでしょ? 優等生で、何でもかんでも揃っていて、何の苦労もなく生きて来たくせに、分かったようなこと言わないで」
みのりの平手が、僕の頬を叩く。
泣きたかった。こんな自分なんか消してしまいたいのに。
「……酒、飲ませてくれるかな?」
笑いたくもないのに口元が緩み、僕は居酒屋の看板を指す。
じっとそんな僕を見ていたみのりが、息をフーと吐きだしてから、誰かに電話をする。
「行こう」
しばらく居酒屋の前で待っていると、野暮ったい男が近づいて来る。
「どうも」
「無理言ってすいません」
チラッと、その男が僕を見る。
「いいのいいの。丁度、俺も酒飲みたかったから」
そう言うと、男が先にのれんをくぐり、僕たちも見習って後に続く。
店員は疑うこともなく、僕らのテーブルに酒を運んで来た。
秋川義男。
みのりのバイト先の人らしいが、そんなのはどうでも良かった。
がぶがぶとビールを流し込むが、酔えずにいた。
「まぁ、大学行ってても、俺みたいにダブっている奴もいるわけだからな。入るのが遅れても別に問題ないでしょっ」
そう言って、秋川は、豪快にジョッキを空にして行く。
「ほれ、これでも吸って全部忘れちまえ」
秋川は、余分に買ってきたという煙草を僕の前に置いた。
一本取りだして吸ってみる。
噎せて咳き込む僕に、止めといた方が良いんじゃないとみのりが耳打ちをする。
それが癪に障った。
立て続けに酒のお替りを頼み、ムキになって煙草に火を点けた。
「これ以上はヤバイね」
秋川がそう言うと、帰ろうと立ち上がった。
「これ、俺の分ね」
「私のおごりでいいです」
「良いから。その代わりに今度、デートしてよ」
「またー」
「本気だから」
お金を置いた秋川は、先に店を出て行ってしまう。
気分は最低だった。秋川の言葉がやけに引っ掛かってムカムカしていた。
「大丈夫?」
みのりが、顔を覗き込んで来た。
「ホテルに行きたい」
驚いたみのりは、目を見開く。
「冗談だよ。僕はしばらく酔いを醒まして行くから、ブスは帰れ」
「良いよ」
え?
みのりが目を逸らしたまま、「ロクちゃんがそうしたいなら良いよ」ともう一度繰り返す。
10、失望
朝、目が覚めると、横に裸のみのりが寝ていた。
「おはよう」
はにかむように、みのりが言う。
僕の記憶は曖昧で、どうしてこんな格好になっているのか分からずにいた。体を動かすと、頭が酷く痛んだ。
「シャワー浴びて来るね」
そう言ってみのりがバスルームに消えて行くと、僕は仰向けになって考えた。
秋川の顔がチラつく。
あいつが、あんなこと言うからいけないんだ。僕は悪くない。
シャワーを浴び終わったみのりが、大丈夫と訊いて来た。
「無理」
「シャワーを浴びたらすっきりするんじゃない?」
理性より先に体が反応し始め、僕は力任せにみのりを抱いた。
みのりが着替えを済まし、髪を整えているのを僕はじっと見ていた。
「ロクちゃんも早く着替えなよ。延長料金取られちゃうよ」
みのりが、やたら大人びて見えた。
煙草に火を点け、煙を天井に向けて吐き出す。
その自分の仕草が、少しだけ気を大きくさせる。
「お前さ、そんなに簡単に体を許してんじゃねーよ」
僕は、みのりの前では格好つけていたかったんだ。初めてなんて、絶対に思われたくないって。
「どうして……? どうしてそんなこと言うの?」
目にいっぱいの涙を溜めて、みのりが振り返る。
いつもなら、えへへと笑ってそうだよねと頷いてくれる。今日もそれを期待していた。そしたら僕は、仕方がないから、付き合ってやるよと言うつもりだった。
「ブスが泣いてんじゃねーよ」
僕は、怒鳴っていた。
「ロクちゃんだからだよ。ロクちゃんだから許したんだよ。どうして、そんなのが分かんないの? ずっと、ずっと好きだったのに……。ロクちゃんのバカ」
みのりが部屋を飛び出して行き、僕のくだらないプライドがむき出しになる。
「お前みたいなブスは、一生こんなことないと思ったから、抱いてやったんだ。僕に感謝しろよ。一応、女扱いしてやったんだからな」
その言葉は、勢いよく閉まるドアに跳ね返された。
11、失望
―― 春が来た。
真新しい制服やスーツを着た人に紛れて、僕は電車に乗り込む。無意識に開いたドアの方に目をやってしまうのは、僕の癖になった。
みのりはもう乗ってこない。
予備校と往復で、会話もなく過ごす日々がこんなに辛いのだと思い知らされる。
酒を、部屋でこっそり飲むことが増える。煙草も、今は堂々と吸っている。その姿を見て、父親が目くじらを立てて怒るが、まるで他人事のように思える。
弟は、スポーツ推薦で大学に行くと言い出した。楽しそうに彼女と歩く姿を、何度か目撃し舌打ちをし、僕は背中を丸める。
「ほら、シャンとしなよ。おじいさんじゃないんだから」
そんな声が聞こえた気がして、僕は振り返る。
ブスのくせして……。
全ての物に取り残されたような気分になった。
「死んじゃダメだからね。そんなことしたら、一生化けてやる」
無茶苦茶な奴。
あの日、握りしめられた温もり、消えねーじゃねか。
僕は、みのりを忘れるために、がむしゃらに勉強をした。
そして、大学に合格すれば何もかもが変わると思っていた。
今まで遅れた分、取り返すかのように授業を入れる。人とつるむのは得意じゃなかったけど、サークルにも参加してみた。彼女だって出来た。全てが上手くいくと思った。これから未来が広がると、本気で思っていたんだ。
それなのに……足りないんだ。
「ロクちゃんは何のために大学に行きたいの?」
「そんなのは、決まっているだろう。就職のためだよ」
「就職って……。何がしたいのって聞いてんだよ。ロクちゃんって、頭がいいのか悪いのか分かんないね」
……僕は頭が悪い。大事な答えを見つけられずにいたんだから。
携帯を開く。
ディスプレイに星池みのりの文字。
認めるのを躊躇ってしまうんだ。
……ブスでデブなのに。
あの日、僕はどうして追いかけて謝らなかったんだろう。
いつでもそうだった。
「その一言さえ言えれば、うまく行くのに」
にこにことしながら、みのりが言っている顔を思い出す。
……逢いたい。
今更、何を考えているんだ。
僕は首を大きく振る。
あの頃の僕は、いつだって腹を立ててばかりで、大事なものをたくさん見失ってきた。
予備校の近くの公園の桜が綺麗だったことも、レンタルビデオ屋が潰れて、ゲーセンに変わり、そこで瑞希がバイトを始めたことも、弟が大学を辞めたいと言い出したのも知らずに月日は流れ、僕はそれに身を任せて、医者でも弁護士でもない小さな会社に就職をした。
12、僕は僕なりに
あの頃の僕はこの坂道を上る度、何でこんな思いをしてまで、この街に住まなければならないのかと思っていた。ありきたりの日々。単調でつまらなものばかりといつでも不満を言っていた。
僕は人を思いやるとか、そういうものとはほど遠く、自分の中に芽生えたものが何であったのか知らずにいたんだ。
桜が満開になるこの季節になると、僕はいつだって思い出す。バカなことだと自分でも思う。
……けど、思わずにはいられないんだ。
君に逢いたい。
みのり、今、君は何をしていますか?
くたびれたスーツで、交差点を渡って行く。
味気ない毎日。
本当に、僕は名前の通りのろくでなしで、でも、陸朗って意味は全然違っていて、大学教授が教えてくれたんだ。
君の名前は素晴らしいねって。
みのり、君なら分かるだろ。僕がどんな反応したか。
こんな名前のお陰で散々だったって、口を尖らせ、抗議をしたんだ。
教授は首を振って、君は何も知らない人なんだねと言った。
僕には、さっぱり言われている意味が分からなくって、ムッとした顔をして黙ってしまったんだ。
周りにいた同じゼミの人たちは、ハラハラしたそうだ。それでも教授は落ち着いた声で、辞書を引いてご覧。親がどんな思いで、その名を付けたが分かるよと言われ、僕は促されるまま引いてみた。
陸朗の陸は、水平であること。歪みなく正しいことなんだ。大学を落ちた時、こんな名前を付けたからだって、言っていた自分が恥ずかしくなった。
――あれから10年。
あの頃描いていた医者や弁護士にはなれなかったけど、まぁそれなりに社会人をしている。
弟に子供が生まれた。
僕は伯父さんだ。
いくつかの会社を転々として、やっと落ち着いたんだ。
今は、営業で頭を下げるのが、僕の仕事。
あの頃、僕が一番苦手だったことをしている。
日差しが照り返す中、僕はすれ違う親子連れを見て、立ち止る。
聞き覚えのある声。
向こうも立ち止り、振り返っている。
「やっぱりそうだ。立花君だよね?」
みのりだった。
一言二言、隣に居た男性に何か言うと、みのりが近づいて来た。
ベビーカーを押すその男性は、旦那さんだろうか?
軽く会釈され、僕も頭を下げる。
「元気だった?」
あの頃と全然変わっていないみのりは、屈託のない笑顔で言う。
「おかげさまで」
「そう、良かった。私ね、去年、結婚したんだ」
「子供、産んだんだ?」
「うん。生まれたばっかり。旦那の家行って、その帰りなの」
「幸せなんだ」
「うん。すごく幸せ。彼、優しくて、何でも手伝ってくれるんだ」
「なんか耳が痛いな。皮肉に聞こえる」
「ああ、そんなんじゃないよ。本当に違うから。私、立花君には感謝してんだ。いろいろとはっきり言ってくれたから、自分の悪いとこ直せたし、それに、立花君も充分優しかったよ。あ、私もう行かなきゃ。じゃあ」
赤ん坊が泣きだす声。
みのりは、小走りで戻って行く。
どうしてあの頃、僕はこんな大事なことに気が付かなかったんだろう?
きらきらと、みのりが輝いて見える。
僕は、みのりが好きだった。紛れもない真実。ずっと、そう思っていたくせに素直に認められずに、僕はみのりを傷付けてしまった。
そうなんだ。僕があの日抱いたのは、勢いでも何でもなかった。
僕は最低だ。
楽しそうに歩いて行くみのりの後ろ姿から、僕は目を離せずにいる。
……ブスのくせして、幸せにしやがって。
やっぱり、僕はろくでなしの陸朗だ。
僕は、携帯から星池みのりの名前を消した。
冷たいものが、頬を流れ落ちる。
桜が舞い散り、僕は少しだけ前に進んで行こうと思う。
あの日、言えなかった言葉を胸に。
ありがとうさよなら。
そして、I LOVE YOU。
< FIN. >
バラードが聴こえるまで
みのりみたいな子も、陸朗みたいに自分の気持ちに素直になれない屈折した奴も、いますよね。
若くて青いばかりに手放してしまう恋。
それもいつかは楽しかった思い出に変わって行くものなんですよね。
しかし、案外気が付かなかった分前に進みだせないっていうこともありがちなのでは……。
なんて想像しながら書いたのですがいかがでしたか。
何となく伝わってくれたらいいな。そんな思いを込めてこの物語を閉じました。