小説家のスコア

小説家のスコア

 都内の某レコーディングスタジオ。
 スケジュールどおりであれば軽快なダンスミュージックが流れているはずのこの時間、しかし室内は重い空気に押し潰されたかのように静まり返っていた。スタッフはみな口をつぐみ、疲れきったように肩を落としている。
 その中でひとり、黙々とペンを走らせる男がいた。
 男はしばし黙考し、それから手元の紙に書き込むという作業を数分繰り返し、やがて音もなく立ち上がって部屋を出ていった。
 彼が向かった先は、となりのミーティングルーム。ノックもせずにドアを開けると、
「おい、美弥(みや)。次はこれで歌ってみろ」
 先ほどの紙を掲げてみせた。
 男の視線の先には女。雑誌をめくる手を止めて、気だるそうに男へと顔を向けた。
「ねえ、直樹。あんたまだ私の邪魔をしたいの? しばらく放っておいてって言ったでしょう」
 鈴鹿(すずか)美弥。『MIYA』と聞いて、彼女を知らない人間はまずいないだろう。昨年、タイアップなしのデビュー曲がチャート初登場一位という快挙を成し遂げた、大型新人歌手である。続くセカンドシングルも大ヒットを記録し、彼女の曲が流れない日がなかったほどだ。
 彗星のごとく現れた、天使の声を持つ少女『MIYA』。しかし、その勢いも昨年末までだった。
「私はね、スタッフたちに時間をあげているのよ。私がこうして時間を潰している間に、彼らには私にフィットした編曲をしてもらいたいわけ。わかる?」
「わからんな。俺には、お前が先走って歌ってるようにしか聴こえなかった」
 直樹の言葉に一瞬彼を睨みつけるも、「あんたには理解できないかもね」と美弥は肩をすくめた。
「どうせあんたはいまだに小説家を目指してる、ただのマネージャーよ。マネージャーはマネージャーらしく、私の言うとおりに動いていればいいの」
「ずいぶんな言い草だな。共に小説家の道を目指していたやつの言葉とは、とても思えない」
「私はね、変わったのよ!」
 声を張り上げ、テーブルを叩きつける美弥。
「私の生きる道は本の中にはなかった。天使と賞賛される歌声があった。だから歌手になった。それだけのことじゃない!」
「お前がそう言うならそれでいい。だが、だとすればお前は歌手だ。歌手の本業はなんだ?」
「……わかってるわよ」
 ちいさく舌打ちし、直樹の手から紙を奪うように取り上げる。
 それはレコーディング中の楽曲の譜面(スコア)だった。だが――
「なによ、これ」
 歌詞の記されている部分。その所々に句点(くてん)読点(とうてん)が大きく書き足されていた。
「これ、小説のつもり? あんた馬鹿じゃないの?」
「歌詞も小説も同じだ。その中には世界がある」
 からかうような美弥の視線を真っ向から受け、直樹は言った。
「小説家は文字で、歌手は歌声で、その世界を世に伝える。美弥、お前には誰かに伝えたい世界はあるか」
「……ないわよ。そんなもの、客が勝手に想像するものでしょ」
 直樹から視線を逸らしたまま、美弥は取り(つくろ)うように口の端を上げてみせる。
(こいつは――直樹は昔からこうだった。いつもいつも理論武装して、私を追い詰める。だからつらかった。でも、それ以上に私は……)
「美弥?」
「なんでもないっ。もう行くわよ」
 直樹を押しのけて部屋を出ていく。直樹はその後を追った。

『いいか、美弥。句読点、特に読点ってのは大切なんだ』
『読みやすいところで区切るだけでしょ? 簡単じゃない』
『たとえばこんな文がある。<かわいい俺の美弥>』
『ちょっと直樹、やめてよ。恥ずかしいなあ、もう!』
『ここでの読点は、<かわいい>の後が正解だ。<俺の美弥>、つまりかわいいのは美弥ってことだ』
『ふ、ふうーん』
『だが、間違えて<俺の>の後に打ってしまうと始末が悪い』
『<かわいい俺の>……ぷっ、あんたいつからそんなキャラになったのよ。あはは』
『……そういうことだ』

 ずいぶんと遠い昔のことのように思える。
 わずか二年。だが、なんと長大な二年であっただろうか。
「難儀なものだな」
 美弥の背に届かないように、ひとり、直樹はつぶやく。
「お前をこの世界に引っ張り出したのは俺だというのに……その俺がまだ、お前が小説家でいることを願っている」
 レコーディングルーム。主役の登場で、スタッフたちは再びあくせくと動き回り始めた。
「んじゃ、もうひとがんばりしようかなっと……直樹」
 防音室のドアを開けたまま、美弥が振り返る。
「なんだ?」
「私は歌手よ」
「知ってるよ」
 何を今さら。しかし彼女はにやりと不適に笑い、「でもね」と続ける。
「でもね、直樹。私は元、小説家の卵なのよ」
「……聞こえていたのか」
 ドアを閉め、たったひとりの空間に身を投じる美弥。ヘッドホンを装着し、句読点入りの譜面をボードに置く。
 音楽が流れ始める。重なる美弥の声。天使の声。
 今度は先走らない。なぜなら――
「あいつが先走るところ全部に読点を打ってやったからな。読点は『ちょっと休み』だ」
 読点だらけの物語。それはもう物語なんて呼べない代物で。
 それでも美弥の歌声が生み出すものは、明らかに『世界』だった。
「……美弥、お前はもう大丈夫だよな。俺がいなくてもやっていけるよな」
 今度こそ、この声は彼女には聞こえない。
「俺ももう一度、自分の手で世界を作り出してみるよ」
 片や歌手。片や小説家。道は違えど、生み出すものは一緒だから。
「じゃあな、美弥」
 天使の歌声を背に、直樹はそっとドアを開けた。

小説家のスコア

三題噺「世界」「歌」「句読点」

小説家のスコア

「その中には世界がある」

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-09

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