ソング・オブ・ラブ
尋ねて来た男は、どうやら遠い場所からの来訪者のようであった。コクドウに沿って歩みをすすめ、黄昏を通り過ぎ、遠景に転がる大岩と、聖者が手招きしているような風貌の樹を見送り、空になった瓶を覗きこんでいたところで、雷の轟音が聴こえた。荒野のまっただ中、彼が雷に眼差しを向けられるであろうことは想像に難くない。鈍重な脚を駆らせ、息も絶え絶えに、ようやく一軒の家が視界に入ったのだという。彼の背後の、乾いた地面に、湿った水玉模様が浮かび始めていた。砂塵をふんだんに吸い込んだ空気に、別の世界の埃の香りが添えられる。決闘前の瞬間の静寂を背後に、彼を家の中へと招き入れた。暖炉の前のソファに腰を下ろし、差し出したカップから漂う香りに目を細めたところで、彼がようやく生を取り戻したのだということに、気づいた。吐息とともに唄いだすように、彼は謝辞を述べた。
「ありがとうございます。ようやくわたしは、わたしを取り戻したような気がします。いつの夜に街を発ったのか、実は記憶にないのです。荒野の乾いた空に浮かぶ月は、さながら楽園からの使者のように、わたしに素晴らしい微笑みを投げかけてくださいましたが、彼女の微笑みはわたしの脚を無意識のうちに速めさせていた……素晴らしくも、恐ろしい体験をしていたのでしょう」
男はコンラードと名乗った。小説家で、ある目的のために、接ぎ木のような国道を辿り歩いて来たのだという。彼が自己紹介のなかで、夢見るように呟く「海」という単語に惹かれ、詳細を尋ねた。故郷の街の神だ、と彼は健やかに微笑む。海を、ご存知ないのだろうか。ああ、俺は生まれてこのかた、荒野に脚の錠を、鎖でつなぎ止められていてね、海というものの噂は耳にしたことがあるけれども、石油で半分が埋め尽くされ、おかげで過去の人間の多くが死んだというじゃないか。石油に埋められなかった、残りの海域はもう人の手の届かないところにある、そいつによって、俺たち生物はいまなお生きながらえている。
その意味では、俺らにとっても、海は神だろうがね。そう付け足すと、男は、目眩と呼ばれる場所に立たされているかのように、何度も瞬きを繰り返した。カップに口をつけ、暖炉の火を見やった。
「この香りは、数世紀後に、わたしがどこにいようとも変わらず、暖炉の炎が見せてくれる夢も、また、変わらず」
「コーヒー豆はここよりもずっと西部の、ある密林のなかを走る渓流の周囲で採られたという。チョコレートは南部……しかし、あそこにはあらゆる世界の物品が揃えられるから、一体どの場所の何が使われているのか、俺には分からない。どちらも、目前の大きな道を通っていった商人から買い取ったものだ」
「商人?……彼、あるいは彼女は、仕入れ先に関する話題を、あなたに供することはなかったのだろうか……」
「ないな。彼らにとって、そして、俺らにとって重要なのは、商人がモノをどの方角から運んで来たか、ということだけだからな。お前の時代には、そんな風潮があったのかい?」
「商人というのは、世界の最大の表象者であるとすらいっても、過言ではないのではなかろうか。……わたしは実は、商人殿が運んで来てくれるモノの秘話を聴くのがとても好きなんだ。しかしあなたが、海について知らないのも頷けるな。この周辺にはあなた以外の住民は」
「少し離れたところに、一人の初老の男が住んでいる、その近くには親娘が。確か山麓へ脚を伸ばせば、樵夫が居を構えていたはずだが、彼と最後に対面してから、いくつ嵐を見送ったかは、分からない。時折、お前のように、旅人が来るというが、俺の家にこうしてやってきたのは、お前が初めてかもしれない」
「目立った市場や商業集積を、思い返せば目にすることはなかった」
「自分たちで賄えてしまうからな。あえて、誰かに己の、自由を引き渡すことはしない。めいめい耕作をし、家畜を育て、家を修復する。残りの時間を、誰がどうしているかは、彼、あるいは彼女の心のみが知っていることだ」
そこで男は、ぴたりと動作を止めて、不安げに揺れる瞳をこちらに向けてきた。言葉にすることを迷い――迷った末に、一つ呼吸をして漏らした。
「芸術は、どうなったのだろうか」
「今でも残っているのは、記録の類いだ。余暇の間に、膨大な絵画や彫刻の数々が、それぞれの家の奥に積み重ねられていくが、翌日には焚き火の材料になる。大昔には、感情を可視化し、誰かに贈るという風習があったというが、それらは真っ先に捨てられていったらしいな。詩や歌といったものだ」
「それらなしに、あなたがたはどのように日々暮らしているのだろうか」
「身一つあれば十分だ。己の思想に従い、己の思想を研ぎすませていく、それだけでひとの一生は終わってしまうよ」
失われた、あるいは失われるであろうものに関して触れるとき、コンラードは少しばかり寂しげな笑みを浮かべた。それが、彼の時代の風潮だったのか、それとも、彼自身の性癖なのかは、見当がつかない。カップが空になっていた。かわりのものが必要かを尋ねれば、こんなに美味しいものは一杯分であるからこそより高尚なものになるのだ、と頬を緩めた。カップに再びコーヒーを注ぎ、チョコレートを溶かすと、今度は自分の口元に運ぶが、彼がいうほどに素晴らしいものであるようには、到底考えられない。彼の暮らす世界から、この世界に至るまでの間に失われたものを、数え上げようとしたが、自分では不可能なことである。しかし、美しい時計は数多く存在していたに違いない。少なくとも、自分には不必要となってしまった産物が……。
この世界では時間は崩壊を止められている。止められているはずだった。それなのに、外ではいよいよ、舞い降りた雲から、激しく雨が降り注ぎはじめている。突風に、古い立て付けの窓は騒々しい音をたて、木目の壁は、過度に高まった緊張に張りつめた呼吸を繰り返す。それでも家が壊れるとは到底思えなかった。この荒野の先では常に、陽の精が、瓦解する日々を惜しみ、泣いていた――満たされる黄昏の涙は、文字通り、本来過ぎ行くはずの日々を、その場に立ち止まらせていた。それが今日は、陽の精の涙で塞き止められていたそれらが、一気に流れ出してしまっていたのだ――孤独の不安を抱える灰白色の雲が、地平線の先から遠くの山稜まで、延々と群れをなして、そして、身を寄せ合って震えていたのだ。
これは、きっと、なにかおかしいことが起こっている。非日常的な何かが、この荒野に訪れている――しかしそれは悪魔じみたものではない。俺は直感的にそう感じていた――なにか大きなものが、沸きあがっている。漠然とした不安に、心を支配される感覚は、随分久々のものであるように思われた。
男は、黄色がかった灰色の目を、恐れることも、期待の光を宿すこともなしに、窓の外へ向けていた。男の目を彩る黄色が、黄昏が宵闇に沈み込む、その瞬間の、まだ日々が崩壊を忘れていなかった頃に放っていた、一瞬の力強い輝きに重なることに、たった今気づいた。男は、孤独な空を、孤独な空そのままとして受け入れている。男は、雲雲の孤独を、慈しんでいる――そして同時に、哀しみを寄せているのだ。
「コンラード」
俺は堪らず、彼に声をかけた。振り返った彼の顔は、暖炉の炎の橙に照らされ、まるで朝陽が生まれようとしているかのように、煌々と輝いていた。相変わらず寂しげな笑みを浮かべ――彼は気づいていたのだ、ここがどこであるのかも、これから何が起ころうとしているのかも、その透明な瞳で、見透かしていたのだ。
雨脚が強くなり、世界が瞬く。雷の叫び声に溶かすようにして、コンラードが、まるで数万年隠され続けてきた、創造の呪文を奇跡として告げるように、満たされた声色で呟いた。その目は、悲しい弧を描いていた……。
「やはり、ここでは多くのものが満たされている、しかし同時に、多くのものが失われてしまったのだ。生涯を掛けて、ひとが抱く最大の悪癖を、ここでは克服されている――ひとは密かに勝利したのだ、我々の先祖が地に足をつけた瞬間から、我々の血肉に刻んだ呪いに――誰もが心に与えられし永遠の書物を。ほんとうに我がものにしたのだ。だが、書物を得るために、ひとは一つの言葉をどうやら、忘れてしまったのかもしれない」
「コンラード」
「……その言葉ではやはり、ひとは救われなかったのだな」
「コンラード、今日はもう外に出るのはよした方がいい。今夜はこの家に滞在するといい、明日には嵐がやむだろう。そうしたら、また、お前の目的を果たすために、再び歩み始めるんだ。だから、その話はどうかやめてはくれないか。我々には、もう、廃墟も遺跡も街も必要ないんだ、虚しいものなんだよ」
「わたしには、あなたの名前が分かる気がするよ」
「俺には、もう」
「ガナア。あなたの名前はガナア・フュトゥール。あなたが匿っている子どもの名前はバーリド。たった一人、あなたが愛した――の唯一の倅だ」
何故彼が、俺の名前を知っているのか、ましてや息子の名前と、出生の秘密まで知っているのか、問いただす気にはならなかった。しかしそれは必然的なものであり、同時に彼と俺の血肉がどこかで混ざっているのであるのかもしれないということを、ぼんやりと考えさせられた。きっと彼のいう目的とは、このことだったのだ。
ランプの光が瞬いている。暖炉の火が弱まり、外ではますます天気が荒れ、陽の光を通さなくなっているからこそ、分かる瞬きだった。カップは空になり、それが暗喩となっているかのように、俺たちの間に会話はなかった。終末を待つ静寂が、部屋の主となっていた。
家の奥で、雷の轟にまざって、息子が泣き声をあげた。
ソング・オブ・ラブ
思考の虚しさを日々実感せざるを得ません。