潮騒
思い起こせば、私が初めて好きだと伝えた相手は、女の子だった。
とはいっても、記憶はもう曖昧だし、それは友だちの延長としての「好き」だったけれど。
私が育ったところはものすごい田舎で、少し歩けば海があって、子供たちが「遊びに行こう」といえば、その先はだいたい海であった。
飛び込んだり、もぐったり、岩場を探検したりして、日が暮れるまで遊んだ。
そんな場所が観光開発の対象になったのは、小学校も卒業間近なころ。自分たちの海が取り壊されて、まったく違う風景になってしまうことを、とても悲しく思った。
幼なじみの彼女とは、物心ついたときからのつきあいだった。けれども学年があがるにつれ、次第に一緒にいる友達が変わってしまった。
私は、学年いち成績の良い、本ばかり読んでる子と仲良くなって、漫画の話でよく盛り上がった。彼女はというと、ずば抜けて運動神経がよかったので、部活の友人たちと仲良くなっていったのだった。
一緒に遊ぶことも少しずつ減っていたある日、彼女と二人で、開発話のもちあがった海を見に行った。
どちらかが誘ったのか、たまたま立ち寄るきっかけがあったのか、もうよく覚えていない。少しずつ距離ができはじめていた彼女と、潮風にふかれて海を眺めながら、落ち着かないような、でもこの風景がまだお互いを結びつけているような気がしていた。
この風景を彼女と見るのは、きっとこれが最後になる。そんな風に思った。この場所は開発で変わってしまう。彼女と私も、この先ちがう道を選んでいくだろう。そう思うと、その言葉は、今しか伝えられないものなのだった。
この海もAちゃんも好きだよ、と、たしかそんな風に言った。好きと言おうとして、大切と言い換えたかもしれない。自分の口からそんな言葉が出るなんてと、びっくりしたことだけ覚えている。
ちょっとした沈黙のあと、彼女は、自分もだよと答えてくれた。伝えられれば満足なはずだっただけに、その返答に少し驚いて、でもとても嬉しかった。
それはあの一瞬にしか口にできない言葉だっただろう。その先に、わたしたちはもう少し大人になって、それぞれに恋愛感情を知っていくから。
大人になるにつれ、失われていくものがあることを予感していく。その一方で、好きという言葉がまだ、性愛を思い起こさせないあの頃だからこそ、伝えることができたのだと思う。
そんな彼女との間柄は、いったんは予想したとおり疎遠になったけれど、東京で再会すると、彼女はとても喜んでくれて、しばしば二人飲みにいくようになった。そのたび、やれ失恋しただの、勤務先と少額裁判をおこしてるだの、引っ越したアパートの玄関の鍵が南京錠だっただの、いろんな話をした。田舎道を裸足で走り回っていた彼女と、池袋の居酒屋で恋愛話をしていることが、不思議なようでおかしかった。
いつだったか彼女の恋人が言っていたけれど、彼女はいつもフルパワーで生きていて、どこか壊れていても構わずエンジンをふかしてしまうような、そんな危うさがあるのだそうだ。けれどその真っ直ぐにしか走れない感じや、危なっかしさは、むしろ人を惹きつける。
彼は自慢でもするかのように、彼女のことを話した。
彼女が東京を離れてから、その人が私に教えてくれたエピソードがある。
彼女が10代のころ好きだった男の子に告白をしたら、その彼が好きなのが、実は私だったと知らされたのだという話。当時はその手のことにとんと疎くて、誰かに好意をもたれていることさえ想像したこともなかったから、その話にびっくりした。
その人には言わなかったけれど、私は少しだけ嬉しかった。その感情をどう言えばいいのだろう。ほんのひと時でも、彼女のある種の羨望を得ることができた、ということへの感情だろうか。
私たちは透明な糸でつながっていた。それは私からは見えないし、彼女からも見えない。ただ、その人の言った打ち明け話で、そう、その光の具合で、一瞬だけふいに浮かび上がる。
後から思い出した彼女とのやりとりがある。
くだんの男の子は、寡黙でスポーツができたので、わりあい人気があった。私はクラスの女の子から「年賀状を出したいんだけど勇気がなくて」と相談されて、「じゃあ私かいてあげようか!」と、なぜか代わりに年賀状を出したことがあったのだ。
年が明けてクラスメートから「あれから目を合わせてくれなくなった」と報告をうけて、なんとも気まずい空気になってしまった。
そのことを、おもしろ可笑しく伝えたところ、彼女は何か返答に困るように、言葉をつまらせたのだった。
今思えば、彼女はその男の子の当時の気持ちを伝えようとしたのかもしれない。あるいは私のその鈍感さは、そこ関わる人たちを、ないがしろにしていただろうか。幼なじみの彼女と、知らずと女どうしとして向き合っていた瞬間であったかもしれないと、それを貴重なことのように思う私は、おかしいだろうか。
しかしながら、きっとおそらく、あの海を眺めて私が口にした告白を、彼女は私ほどには思い出しはしないのだろう。
里帰りのたびに、散歩がてら海を見に行く。あのとき予感したように、私たちの遊んだ海は、整備されて味気のない風景に変わってしまった。
幼い頃に、つぎに巡りくることはないだろうと思った一瞬は、だいたいその通りになる。通り過ぎていく光の粒を、その手につかむことはできない。体をつらぬいていく光のその感覚を、ただ感じることだけが、あるいは生きるということなのかもしれない。
潮騒