ノクターン

 クリスマスの夕
 ひっそりと静まり返った夜道をコート姿の若者がひとり歩いて来る
 寒そうに肩をいからせ両手はポケットの中
 吐く息が月光に白く照らされ、風に揺らぐマフラーにからまる
 微かなハミング
 メランコリックなメロディー
 彼はピアニスト
 さきほどまで親しい友人と街で呑んでいました
 その友人とはバイオリニスト
 駅で別れてきました

 街に出る前、ふたりは郊外のピアニストの部屋で語り合っていました
 そしてバイオリニストはピアニストにバイオリンを預けました
 長いスランプに陥って悩んだ末決心したことです
 自分の身体(からだ)の一部のように肌身離さず大切にしていたバイオリンを残して今夜旅に出たのです

 バイオリニストは言ってました
 「こいつを一度も手にしないで幾日か過ごしてみよう
 それで解放感を味わうか、それともさびしさにたまらなくなってすぐ帰ってくることになるか」
 するとピアニストは笑って言いました
 「すぐ帰ってくるね
 その証拠に君はもうバイオリンケースを取り戻してにぎってる」
 「いや、置き場所を考えているんだ。君の部屋はずいぶん散らかっていてどこにおけば安全かさっぱり見当がつかないね」
 「いやいや、世界中どこを探したって君は自分の腕の中以外にその愛器の安全な置き場所を見つけることはできないよ
 さあ持って行けよ」
 「それはだめだ、旅に出る意味がわからなくなる
 よし、このベッドの下に入れておこう
 だれにも触らせないように頼むよ」

 それはイタリアのある名人の作による極上のバイオリンでした

 こうしてピアニストは手ぶらになったバイオリニストとバスに乗ってクリスマスメロディーに浮かれる街に出、駅前の酒場で半時間あまりの待ち時間を過ごしたのち、駅の改札口で別れました

 そして今はその帰り道
 酒の勢いで歩いて帰って来ました
 今頃はもう友を乗せた夜行列車は長いトンネルを抜けて海辺を走っているでしょう
 ピアニストは酒に酔うことはありませんでしたが、今夜は友としばしの別れということでいつになくセンチメンタルになっているようです

 彼は思い出します

 自分もスランプの時はひとりで旅に出た
 突然思い立って手ぶらで汽車に乗り、行ったことのない町で降りる
 高そうでない旅館に入り音楽のことはいっさい忘れてぼんやり時を過ごす
 湯から上がって宿の丹前と羽織に身を包み、窓から夜景を眺めていると作家にでもなったような気持ちになってくる
 そしてあの無頼の作家をきどってほおづえをついて慣れない煙草をふかしてみる

 バイオリニストはいったいどの町から便りをよこすだろう

 クリスマスの夕にひとりっきりになってしまったせいだろうか、今自分の部屋にひとりで帰っていくのがこわいほど寂しい
 自分の寂しさの底に自分の部屋があるような

 もの悲しいハミングがひとりでに胸を鳴らす

 遠くで列車が連結されその衝撃が端から端に伝わる大きな連鎖音がして彼はふっと我に返り夜空を見上げた
 そしてはるか上空に大きな気球を見た

 それは太陽光線を冷たく反射させている上弦の月と、そのずっと下にぶらさがるように位置している、他の星よりもひときわ明るく輝く明星であった

 月は、右側が強く照らされ、陰になっている部分も、青みを帯びて澄み切った夜空の中ではっきり見え、球の正体をあらわにしている
 それは素晴らしく雄大なバルーンだ
 そしてそのやや斜め下方の明星は宇宙の風を受けて振られたゴンドラだ

 ピアニストはその気球の発見に胸を躍らせた
 気球は彼が歩く方向にずっとついて来た
 立ち止まると大学の校舎の上で止まった

 果てしない宇宙を流されて地球の近くまでやってきた巨大な気球
 あのゴンドラに乗っているのはどんな生き物だろう
 地球に何の用があってやって来たのだろう
 あの大バルーンを膨らませているガスは何だろう
 宇宙に浮くために必要なガスとは何だろう
 ああ何と美しい気球だろう
 あの気球のような雄大な音楽ができたらなあ
 それもピアノだけで

 雄大なものはいつもシンプルだ

 彼が細い路地に入るとゴンドラの部分が彼のアパートの屋根に隠れてしまった

 「本当にあの女(ひと)を失ってしまったな」
 突然ピアニストは何の脈絡もなくそう呟いた
 「寒い」

 あの女もそう言ったことがいつかあったな
 いつだったろう
 そうか、あのコンサートの帰りに右横を歩きながら・・・

 ピアニストは右横を見た
 夜風がマフラーの端をはらりと吹き上げた
 寒い

 まだ8時前だというのに音楽生たちの巣くうアパートもそのまわりも異様な静けさに包まれている
 ふつうならいろんな楽器の音色(ねいろ)が8時まではにぎやかに聞こえてくるのに
 みんな街に出かけてクリスマスパーティなのだろう
 しかしあまりに静まりかえっているとかえって何者かの存在を感じさせる
 彼は急な階段を昇りながら自分の部屋に誰かが来ていそうだという予感を禁じ得ない
 さきほどまでの寂しさがいつのまにか彼の憂欝なハミングとともに消散している

 彼は廊下を歩きながら寂しいと思っていない
 廊下の奥の自分の部屋に誰かがいるような気配に胸騒ぎさえする
 いつも鍵はかけていないから友達が勝手に入って寝ていたりすることもある
 しかし今自分の部屋の方から何の物音もするわけではない
 また部屋の明かりも出た時のまま小さな常夜灯しかついていない
 しかし確かに自分の部屋で誰かが呼吸をしている
 微かに
 そして彼の廊下を歩く足音に耳を澄ませているような・・・

 遠くで蒸気機関車の汽笛の音が響いた
 彼はまるで必ず誰かがいるのだと自分に言い聞かせるように自分の部屋のドアをノックした

 「お帰りなさい」
 女性の声だ
 彼は思わず部屋を間違えたかとあたりを見回す
 が、やはり自分の部屋の戸口に立っていた

 「外は寒かったでしょう」
 彼はその声に親しみを感じ、なんだか聞いたことがありそうだ、誰だっけと思う
 ドアを開けると常夜灯の薄明かりの中のその女性に見覚えはない
 美しい人だ
 窓の月光を背にしているにもかかわらずその色白の容姿は月影の中に埋もれず、彼女自身が淡く輝いているかのように彼の目をとらえる
 まるでこの部屋に差し込む月光が化身したかと思われるくらいに妖しい美しさだ

 透明ガラスの窓から先ほどの気球がのぞいている

 「誰ですか、あなた?」ピアニストは戸口でためらった
 「あら、私をご存じないでしょうか?」いたずらっぽく言う
 なだらかな肩、ほっそりした胴、それに形のいい腰が誘惑のシルエットを造る
 彼は部屋に入り蛍光灯を点し、彼女を見つめる

 彼女は眩しそうに目をしかめるが、そんな表情までも美しい

 栗色のビロードのワンピースにすらりと伸びたからだを包んで立っている
 深いVネックラインであらわにされた胸部が白いユリの花のように優雅だ
 きりっと締めたくちびるに気高さが読める
 しかし彼の目をまっすぐに見返すその黒い愛らしい瞳にやはり覚えはない

 「どこかでお会いしたことがありましたっけ?」
 彼はアップライトピアノの上のスタンドの電球も点す
 これで部屋の全ての明かりが点された
 色白の彼女は部屋が明るくなるにつれますますその美しさを極めていく

 「私のほうはあなたをよく存じてますわ。ずっと前から」
 してやったりというふうに得意顔でほほえむ
 するとえくぼができて、次に白い歯がのぞく
 しかしその可憐な微笑にも見覚えはない
 美しさに加えて人なつっこそうな表情が彼の警戒心を解きほぐす
 「じゃあ、きっと思い出してみせましょう」
 しかし今までにこんな美しい女性に会ったという記憶はない
 「早く思い出してね、まちがっちゃいやよ」わざと口をとがらせて言う、しかしすぐにまたえくぼのある輝く笑顔を作ってくすっと笑う

 次々に繰り出される彼女の表情とそれに伴う声音(こわね)の変化はどれも彼をますます魅了する
 まるで万華鏡をのぞいているかのようであり、また巧みに転調する音楽を聞いているかのようでもある

 光沢のある黒髪が細い首にそって肩に垂れている
 美しい姿勢を保った均整のとれたからだつきに気品が漂う
 ますます彼には未知の女性であることがはっきりしてくる

 「困ったな、あなたのように美しい人なら一度でも会っていれば忘れるはずはないんだが
 あっ、どうぞそこにすわって」
 ピアニストは彼女にピアノ用の回転椅子をすすめる

 「部屋が散らかったままだから恥ずかしいな」
 「私しばらくここにお邪魔させていただけるのね。いつもあなたのピアノが聞けるなんて素敵だわ」
 「待ってください、それは困るな」
 「あら、決してお稽古の邪魔はしませんわ。お行儀よく静かにしてますから、お願いね」

 彼女の笑顔から発せられるそんな言葉は一音一音が軽やかに飛び跳ねるスケルツォのように快い
 そしてそれは確かに聞き覚えがある
 彼の警戒心は完全に解きほぐされた
 むしろこういった場面では女性のほうが警戒すべきはずなのだがこの女性はまるで自分の家にいるようにくったくなく振る舞う

 「お住まいはどちらですか?」
 まだコート姿のままの彼は彼女を家まで送って行こうと思った
 徘徊癖という危惧が頭をよぎったからだ
 その時彼は初めて彼女が小さな弓を持っているのに気づいた
 「おうち?さあどこでしょうね、秘密ね
 とにかく今夜は私はここにおいていただかないと行くところはないんですのよ」
 「それはまたどうしてです。なぜここでないといけないんでしょう?
 あなたのお名前は?」

 彼女は弓をアップライトピアノの上に置くと、回転椅子にすわり直し、ピアノの蓋を開いて右手だけで短いフレーズを弾いた
 そしてくるりと椅子ごと回って会釈していたずらっぽく上目づかいに彼を見た
 今のが私の名前よ、というふうに
 そしてそれは彼女の名前として立派に通用しそうな高貴なメロディーだった
 回転の勢いで黒髪の一束がえくぼをつくった唇にかかって静止している

 「このお花一本くださいね」
 と言うやピアノの上の花瓶に差していた白い椿を一つひねり取り胸のポケットに差した
 そして花瓶の横に立てられた楕円の回転鏡に自分を映す
 首を傾げて両手で髪をうしろに集めようとする
 すると豊かな胸がいっそう隆起し、あわよくば服からはじけ出ようとする

(アリア) ああ、美しきひとよ
   あなたの花園の花を一つ私の方へお投げ下さい
   さもなくば私は花盗人になるやも

 「あら、マエストロ 歌もお上手なのね」

 鏡に映る彼女は彼と目が合うと彼にほほえむ
 しかし目にためらいがふとよぎる
 美しい 

 「あらトランペット」
 彼女は立ち上がって本棚の上から銀色のトランペットを取り上げて、吹く真似をする
 まるで遠慮ということを知らない女性だ
 しかし彼はもう彼女のそういった態度を愉快に感じ始めていた、そして
 
 まさか!
 
 「あなたはあの気球に乗って来たんでしょう」
 ピアニストは窓越しに見える例の気球を指差して言う
 そしてピアノの鍵盤を両手で一撃し劇的な和音を鳴らした
 彼の精一杯の反撃だ

 「気球?」と言って彼女はトランペットを置いた
 なおも和音の余韻が響く
 「ははっ、しらばくれてもだめですよ。ぼくは知っているんですよ、あの気球を」
 彼はこんどはリストの第一コンツェルトの不穏なモティーフを打ってピアノの蓋を閉じる

 「わかった、三日月のバルーンのこと?
 あははははっ、おもしろい方。私があのバルーンに乗って来ただなんて」
 彼女は窓ガラス越しに三日月を見る
 彼はその横顔を見つめる

 美しい

 「でも素敵でしょうねあれに乗れたら
 本当にきれいね、月って」
 そう言うやいなや彼女はひらりとピアノの蓋の上にすわって足を組んだ
 そして彼の名を呼んだ
 まるで古くからの友達を呼ぶように
 かわいい脚がまぶしい

 すると彼女は両手をひざ小僧の上で組んだ
 まるでピアノの上にすわることにとても慣れているかのように美しく、上品にすわっている

 「私もさっきまでひとりであの気球をながめていたのよ、こうやって」
 彼にとっては大切にしているピアノだが怒る気もしない
 あたかもこのアップライトピアノが彼女のために特別に造られた長椅子ででもあるかのように自然に座っている

(アリア) 我が愛するマエストロよ
   私があなたに捧げることができるのはこの花束だけ
   どうぞピアノの上にお忘れなさらぬよう

 「あなたのその歌う声は聞いたことがある
 ね、ヒントでもいいから教えてください
 あなたの正体に関するヒントを」

 「正体だなんて、まるで私は人間じゃないみたい」
 「人間じゃないんでは?」
 「あはははは」
 彼女の笑い声はなんと素敵なのだろう!
 玲々としていて、くすぐられているような感じになる
 いくらでも笑わせてやりたくなるのだ

 「そうだ、あなたはあの気球でやって来た宇宙人エイリアンだ」
 「あはははは」
 彼女はひらりとピアノから飛び降りる
 「きっと地球を征服しようとしてやって来たんだ」
 「あはははは」

 確かだぞ、この華麗な笑い声!

 「そしてぼくから手始めにやっつけようとしているんだ」
 彼は再びピアノの蓋を開くとベートーヴェンの運命のモティーフの4打を両手で強烈に打ち鳴らした
 「あははは おもしろい方」
 「その弓が何よりの証拠だ」
 運命モティーフの後半4打が鳴り響く
 「でも矢は持ってないわよ、ははははは」
 彼女は弓の弦をはじいて笑う

 「じゃあその弓は何のために持ってるの?
 まさかここで弓取り式でもするわけじゃないでしょう、ははは」
 彼も笑いだした

 ピアニストは自分が最近こんなに愉快でおどけた気持ちになったことはないと思う
 自分が自分でないような
 それでいてこれが本来の自分なのではなかろうかという思いもする

 「エイリアン、きっとあなたの手は冷たいはずだ」
 彼は思わず弓を持つ彼女の左手を取った
 すると彼女は右手で彼の手を包み
 「あら温かいわね
 さあこの手でピアノを弾いて下さらない?」
 と言って彼の両手を鍵盤の上に置いた
 不協和音

 冷たい手だ

 「あなたの声、あなたの歌うような笑い声は確かに知っている!」
 「ピアノ弾いてくださいな
 私歌いたいの
 あなたのピアノに合わせて歌ってみたいの
 そうすれば私が誰かあなたに思い出していただけるかも知れませんわ」

 「どんな曲?
 ぼくはあまり歌の伴奏は上手じゃないなあ」
 「ノクターンがいいわ
 ショパンの1番よ」

 彼ははっとした
 駅からの帰り道ハミングしていた曲だ

 「ね、弾いて下さるわね
 私一度でいいからあなたのノクターンに合わせて歌ってみたかったの」
 「あれは歌う曲じゃない」
 「いいのよ
 ね弾いて下さるのね
 それから私の歌っているところは振り向いたりして見ないでね
 いいわね?」
 「どうして?」
 「どうしてもよ!」
 このきつい声もあれだ・・・

 彼女はピアノの上の回転鏡を裏返し、天井の蛍光灯を消した
 すると残されたピアノの上のスタンドの電球が彼女を艶(なま)めかしく浮き上がらせる

 ピアニストはコートを脱いでノクターンを弾き始めた
 やがて彼女はスキャットで歌い始めた
 柔らかく表情豊かなソプラノだ
 そしてなんと清らかで気品のある歌い方だろう

 彼はピアノを弾きながら、いつまでもこのまま、彼女の伴奏をしていたいと思う
 ピアノの黒い光沢面に彼女の胸から下がおぼろげに映っている
 弓を動かしている
 そして彼はピアノにぼんやり映る女性の姿がいつのまにか全裸になっているのを見た
 
 そして彼女の声が変容する

 人の声からまぎれもないバイオリンの音に変化していった
 ついにたまりかねて彼が振り向いた時、女性はもうそこにはいなかった

 友が預けていったバイオリンが裸のまま月光を浴びてベッドの上に転がっている
 その f 字孔に白い椿が刺さっている
 花びらが一つ落ちベッドからもすべり落ちた
 見るとベッドのそばに開かれたままのバイオリンケースが転がっている

 ピアニストは中断したノクターンの続きを弾き始める
 窓の外の気球のゴンドラが冬の風に振られている

ノクターン

ノクターン

学生ピアニストの幽玄体験

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-03-31

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