その音は雨に

その音は雨に

 しとしとと雨が降っていた。
 灰色の雨雲は、お昼をすぎたばかりの高さにある太陽の光を遮り、外を出歩く人々の数も、晴れた日のそれを大きく下回っていた。ぽつり、ぽつりと歩く人たちはみな傘を差し、降り落ちる雨粒から我が身を守ろうと足早に目的地へ、または雨宿りの場所を探して急いでいるようだった。
 外のあらゆるものが雨に濡れている。公園の遊具やベンチ、街路樹、建物、アスファルト……。地面にできた浅く広い水たまりが、上空の信号を映している。青から赤へ、赤から青へ。降り落ちる雨粒にゆらゆらとうごめきながら、そしてうっかり足を踏み入れてしまった人の靴に跳ねながら、水たまりはふたたび青へと変わった。
 その喫茶店に入ってきたのは、少年だった。
 高校生くらいだろう。細くもしっかりと鍛えられた腕に、濡れた白いシャツがぴったりと張りついている。ぐっしょりと濡れた黒髪と、同じ色のすこし陰った瞳。うつむいて、どこか陰のある雰囲気をただよわせている彼は、しかしきりりと意思の強そうな弧を描く眉を、額に張りついた前髪で隠してしまっている。雨を吸い込んだジーンズは、ずっしりと重そうだ。目だけをきょろきょろと動かして、店内を探っている。
「いらっしゃいませ」
 店の奥――カウンターの向こうから、やわらかい声がかかった。
 少年が見やると、そこには女性がひとり、にっこりと微笑んでいた。
 二十代後半といったところか。少年と同じく、白いシャツ。その上からピンクのエプロンをかけている。チョコレート色の長い髪はさらさらとして、柔和な笑みは、おそらく営業用のものだろうが、細められた瞳はうるうると潤んでいるようにたゆたっていて魅力的だった。少年をじっと見つめている。
 店内はコーヒーの香りと、どこか甘い匂いがうっすらと混ざっている。小さな音量で、ジャズが流れている。閉めたドアの外は、雨がしとしとと降り続いている。さして広くない空間に、四人掛けのテーブルが三つ。カウンターには背の高いステンレスパイプの椅子が五つ並んでいる。木製のテーブルには、水色と白のチェック柄のクロスが、ゆったりとかけられている。少年のほかに、客の姿はない。
「はい、どうぞ」
 少年がふたたび正面に視線を移すと、店員の女性がこちらに歩いて移動してきていた。手には大きめのスポーツタオル。それを両手で広げて、少年の前に差し出す。女性のエプロンと同じ、ピンク色をしたそれを受け取ると、ふんわりとやわらかかった。顔を拭くと、洗剤と太陽のにおいがした。女性は次いで、オートミールの長袖のシャツを差し出した。
「わたし、大きめの服が好きだから……あなたにはちょっと小さいかもしれませんが、どうぞあちらで着替えてください。あなたの服は、いまのうちに乾かしておきますから」
 そう言って、奥の化粧室を指す。どうやら彼女の服らしい。少年は困った顔をする。雨に濡れて青白かったほほに、ほんのりと赤みが差す。しばらく迷って、それから照れたように、おどおどと着替えを受け取る。
「ご注文は後ほど伺いますね」
「……ココア」
 店員がくるりと踵を返したところで、その背中に発注する。彼女がふたたび振り返ったとき、少年はもう化粧室のドアを開けていた。
 ドアを閉め、それからピンクのスポーツタオルで身体を大雑把に拭き、借りた服を着る。たしかに彼女には大きいサイズかもしれないが、少年にはちょうどいい大きさだった。タオルと同じ、洗剤と太陽の、そしてコーヒーのにおいがした。女性はすでにカウンターの向こうに戻っている。
「ホットですよね」
 奥からかけられた声に、「はい」と返す。そしてホールに戻り、カウンターの一番左端――女性から遠い椅子に腰を下ろす。ステンレスパイプの椅子が、きいっ……とちいさく軋んだ。骨組みだけの背もたれに軽く体重をあずけて、カウンターに広げて置かれたままの雑誌に手を伸ばす。そのまま拾うと、上下がさかさまになっていた。おそらく店員が厨房側で読んでいたのだろう。それは、文芸雑誌だった。書店でたまに見かける、わりと有名な雑誌だ。
 店員が、湯気の立ち昇る白いカップを、同じ色のソーサーに載せてやってきた。
「お待たせしました」
「どうも……」
 カチャリと硬い音を立てて、テーブルにカップが運ばれた。ミルクのたっぷり入った、熱々のココアがふわふわと波打っていた。持ち上げて、ふーふーと細い息を吹きつける。それからほんの少し、ずず……と口にして、あまりの熱さに眉をひそめてソーサーに戻す。店員はカウンターの右端で洗い物をしている。すこし冷めるまで、ちらっと大きな窓の外を見やる。雨はいまだ、しとしとと、細く降り続いている。遠くに見える信号が赤に変わる。車がスピードを落とし、止まる。止まった車を、雨がふんわりと包み込む。車体に信号の赤色が映っている。雨に打たれて、たゆたっている……。
 ふいに、厨房の水道の音が消えた。そちらを見ると、店員が清潔な白い布巾で、洗い終えた透明なグラスをきゅっきゅっと磨いていた。少年の視線に気づいて、にっこりと微笑む。営業用の、作り物の笑みに見えた。少年は目を細める。手にしたままの文芸誌をぎゅっと握る。風向きが変わったのか、雨が窓を打ち始めた。たったたったった……と、まるでおもちゃのドラムロールのように不規則に窓を打つ音が、店内にゆっくりと流れるジャズとセッションを始めた。
「なにか話したいことがあるんじゃないですか?」
 唐突に、女性が口を開く。少年はどきっとする。
「なぜ、そう思うんですか?」
「ボックスではなく、カウンターに座られたので……。でもそちらの端なので、積極的には話せないことなのかな、って思ったんです」
 なるほど、と少年は納得する。さすがは喫茶店の店員だ。よく客を見ている。
「よかったら聞かせてください。もちろん、気が進まなければ話さなくても結構ですが……」
「いえ、話します」
 そして少年はゆっくりと、過去を振り返りながら、話し始める。
 コーヒーと、どこか甘い香り。洗剤と太陽のにおい。静かに流れるジャズと、大きな窓を打つ雨の音。限られた小さな空間は、少年の回想とともに、景色を変える……。
 
 
 二年前、少年はある人物と出会った。
 出会ったといっても、その人のことは、なにも知らない。顔も、声も、名前ですら、少年にはわからない。出会ったのは文字だけの世界――パソコンを介してのものだった。
 その日、少年はひどく疲れていた。なにをやってもうまくいかない。努力するほど、前向きにがんばろうと意気込むほど、すべて空回りした。バイオリズム的なものだと思っていた。山があれば谷もある。今はきっと谷の時期なのだ、と自分に言い聞かせた。しかし、いくら耐えようとも、深い深い谷は終わらなかった。見上げる気力はすこしずつ、じりじりとなくなっていった。深淵たる谷は深く、暗かった。足元さえ見つからないほどの完全なる黒色だった。自分がまだ歩いているのか、それとも止まってしまったのか、それさえもわからなかった。深く、暗い谷は、どこまでも続いているようだった。
 
<なぜ、そう思うのですか?>
 
 パソコンのモニター上に映し出された文字は、少年をどきりとさせた。
『チャット』とは、リアルタイムでログを上げて――つまり文字を打って会話する機能である。厳密にはインスタント・メッセージというサービスで、ツイッターなどのSNSとは別のコミュニケーション・ツールとして人気を博している。
 とあるきっかけで知り合った、文字だけの人。女性であるということ以外、顔も、声も、名前ですらわからない。ただ、インターネット上の名前は、『つかさ』と名乗っていた。文字だけの、謎多き人。
 少年は『(やしろ)』と名乗った。ひらがなにしないのは、某大物演歌歌手と間違われたくないからだ。チャットで悩みをそれとなく打ち明けた少年――社は、どう答えるべきか悩んだ。
<抜け出せないのです。この闇から。今の状況から。頑張っても無理です>
<なぜ、そう思うのですか?>
<分かりません。分かりたいけど、分からないのです。どうすればいいですか?>
<社さん、あなたはどうすればいいと思いますか?>
 つかさはいつもこうだった。彼女の中できっと答えは出ているはずなのに、それをけして言わず、まずは社の意見を聞いた。そして、社の考えを否定することもなかった。必ず、間違いではない、そういう考え方もある、と賛同を返した。それから重い腰を上げるように、やっと自分の意見を述べ、しかしそれはささやかなアドバイス程度にとどめて、その日もいつもと同じように、
<あなたの思うとおりに進んでみてください>
 見る者によっては投げやりとも取れる言葉を、社に送った。
 社はふと、部屋の窓から外を見た。
 日付けもそろそろ変わろうという時間、閉められた厚手のカーテンの向こうから、窓を打つ雨の音が聞こえていた。しんとした部屋に、その音は不規則で、しかしどこか心を落ち着かせるように、たったたったった……と、やさしく響いていた。遠くで、車のタイヤが水たまりを跳ねて走る音が聞こえてきた。音はしだいに大きくなって、部屋の外を横切り、そしてだんだん小さくなって、消えた。やさしい雨は、ずっと窓を打っていた。
 社は気づいていた。彼女がけして投げやりではないことを。本当に自分のことを考えてくれていることを。だからこそ彼女は、社が自ら答えを見つけるまで、なにも言わないのだ。考えさせるために。どんな状況であっても、打破できない問題などないとでも言うように。だからこそ彼女は、否定しないのだ。考え抜いて出した結論がどれほど貴重で尊いものであるか、彼女は知っているから。
<先生>
 社は言った。不意を突かれて、つかさは慌てている。
<わたしは先生なんて呼ばれるほど、大した人間ではないですよ>
<でも、ぼくには先生です>
 画面の向こうで顔を真っ赤にして照れているつかさを想像した。顔なんてわからないのに、どうにも照れている様子が、自然と頭に浮かんだ。ログがなかなか上がらない。きっと何度も打っては消し、打っては消しを繰り返しているのだろう。しばらくして、たった一言、
<ありがとう>
 たくさんの想いがぎゅうっと凝縮されているようで、社はふふっと口の端を上げた。雨は、まるで拍手を送るように、たったたったった……と、不規則なドラムロールを続けていた。また一台、車が通過した。
 
 
「……ぼくと先生は、ちょこっとずつ仲良くなっていきました。冗談を言ったり、からかったり……」
 少年、社はそこでひと息ついて、すこし冷めて飲みやすくなったホットココアに口をつける。ミルクたっぷりのココアは、冷え切った身体をほこほこと温めて、疲れもそのぶん癒えた気がした。
「ある日、ぼくは先生に言ったんです。『ぼくは雨が好きです』って。こんな話を友人たちにすると、笑われるんですよ。おかしなやつだ、って。でも先生には聞いてもらいたかったんです。知ってほしかったんです。ぼくを」
 もう一口、ココアを含む。文芸誌に視線を落とし、それから店員をちらっと見やると、彼女はやはり営業用の微笑を作り、社を見つめていた。不意に視線が合って、あわてて逸らす。彼女はじっと見つめている。雨足が強くなったのか、ドラムロールは音量を上げている。入口側の二隅の天井に設置されたスピーカーから、ほのかに流れ聴こえるジャズ。男性ボーカルの低音が、ゆったりと響いている。
「それで……その、つかささんは、どうされたんですか?」
 魅惑的な歌声に溶け込むように、流れるようにそっと、店員が訊いてくる。社は閉じた雑誌をくるくるともてあそびながら、
「笑いませんでした。『わたしも好きですよ』って言ってくれました」
「そうですか」
「犬が苦手だと言いました。『吠えたり噛みついたり、やんちゃな犬がいますからね』って言ってくれました。ぼくは、そうじゃないですと言いました。襲いかかってきたら反射的に攻撃してしまう……傷つけてしまうのが怖いんですと言いました。先生は、『やさしい人ですね』って言ってくれました。ぼくはやさしくなんてないのに……。それでも先生は、そんなぼくを、やさしい人だと言ってくれたんです」
「そうですか」
「ぼくは先生が好きです。先生は犬好きだけど、それでも先生のことは好きなんです」
 そこまでひと息に話して、ほうっとひとつ、ため息をつく。ココアから立ち昇る甘い香りが、社の鼻腔をくすぐる。手にしたカップをソーサーに置くと、となりに置かれた銀色に輝くティースプーンが、カランと小さく音を立てた。
「……去年の今ごろ、先生は突然、いなくなりました」
 ぽつりとこぼす。あまりにも力のないその声に、店員は目を細める。
「ほんと、突然だったんです。その前にもそんなことが……急にネットからいなくなってしまったときはあったんですが、そのときはまた、ふらっと戻ってきて……。でも今回は、本当にいなくなってしまったんです。パソコンやスマホからメールしても返事はないし……」
 社の表情に陰が落ちる。この店に入ってきたときのような、ひどく疲れた顔つきになる。ぶるっと身震いする。店員は目を閉じ、それからゆっくりと、うっすらと開け、
「彼女とはそれきりなんですか?」
 うつむいたままの客に問う。社はふるふると首を振って、
「いえ。先生がいなくなって一週間ほど経った頃……ぼくがまだ、気楽に構えていた頃、一度だけメールがありました」
「メールですか」
「ええ。スマホに届いたんです。……その日はぼくの誕生日でした」
「じゃあ、おめでとうメールですかね」
「そうです。お祝いの言葉と、ボイスデータが添付されていました」
「ボイス? では、彼女の声が入っていたんですか?」
 社はまた首を振って、乾いてきたジーンズのポケットからスマートフォンを取り出した。数回ボタンを押す。すると、小さな何かの音が聞こえてきた。社が操作して、音量を上げる。雑音まじりのそれは、どうやらアコースティックギターのようだった。何度もつっかえながら、ゆっくりと慎重に、ギターの音は流れる。コードしか弾いていないが、それはバースデー・ソングのようだった。素人でももうすこしはましに弾けるだろうと思えるくらい、たどたどしいリズム。まるで窓を打つ雨のように――なまじ楽曲であるがゆえに、聴くに耐えない不規則な旋律は、やがて終わりを迎える。
 それでも社は大切そうに、スマートフォンを両手で包むように持ちながら、やさしい微笑を浮かべて見下ろしている。
「この日は局地的な大雨で、ぼくの住む地域だけ、ものすごい雨が降ったんです」
 遠い昔をなつかしむように、社はつぶやく。
「聴こえましたか? このバースデー・ソングのうしろで、雨の音が聞こえているんですよ」
 雑音の正体は、雨音らしい。社は店員に振り返った。
「先生は来ていたんですよ。ぼくの住む町に。ギターを車に積んで」
「……局地的とはいえ、ほかの地区でも雨は降っていたかもしれませんよ」
「調べました。先生の住む地域はそのとき、快晴でした」
 断言して、ふふっと笑う。店員もつられて微笑む。
「すみません、ペンを貸してください」
 社が言うと、店員はかわいらしいピンクのエプロンのポケットから黒いボールペンを取り出して、社に差し出した。社はそれを受け取ると、カウンターに置かれた紙ナプキンを一枚抜いて、そこになにやら書き始めた。書きながら、社は言う。
「先生はきっと、来てくれたんです。なんのために来てくれたのかはわからないけど……でも、近くにいたんです、きっと」
「お家は遠いんですか?」
 店員が問うと、社が自分の住む県名を答えた。店員は目を見開いて、
「遠いじゃないですか。高速道路を使っても、何時間もかかる距離ですよ」
「新幹線で来たんですが、やっぱりけっこう時間がかかりました」
「今日はなにか用事でこっちに来られたんですか? ひょっとして、つかささんを……」
 社は「まさか」と肩をすくめて笑って、ペンを置いた。ココアをぐびっと飲む。
「遊びに来ただけですよ」
 店員は、それこそまさかですよ……と、胸のうちでごちる。遊びに来て、なぜ雨に打たれるのだろうか、と。店内に姿を現したときの暗く陰った表情と、つかさのことを話すときの明るい表情――それらを見ていれば、心情は少なからず察することができるというものだ。
 会話が止まり、静寂が落ちる。広くない店内には、コーヒーと甘い香り。洗剤と太陽のにおい。ココアの香り。ゆっくりと流れるジャズ。窓を打つ、雨の音……。
「聞こえたから……」
 社がぽつりとこぼす。
「バースデー・ソングが流れて……その音は雨に、拍手を受けて……。雨の拍手と一緒に、ぼくに届いて……。だからぼくは、ありがとうを言わなくちゃいけないんです」
 それは、決意のような、使命感のような、固い意志を含んでいた。
「ひょっとしたら……」
 店員は言う。
「ひょっとしたら、彼女はそのとき、スマホを雨に濡らして壊してしまったのかもしれません。急にパソコンが壊れて、ネットができなくなったのかもしれません。ひょっとしたら、彼女はまた、戻ってくるかもしれませんよ」
「そんな都合のいい話があれば、ぜひ乗っかりたいものです」
「悪いことは、得てして連続するものです」
「それは言えてる気がします」
 社が微笑む。店員は肩をすくめる。雨の拍手は鳴り止まない。
「入ったのがこのお店で良かったです。ぼくは、この話を誰かに聞いてもらいたかっただけなのかもしれません。こんな話に最後まで付き合ってくれて、ありがとうございました」
 ごちそうさまでした、と社が立ち上がる。
 店員が、乾かしていたシャツを取りに奥に引っ込もうとするのを、社が止める。
「また近いうちに来ます。そのとき、引き取らせてください。なのでこのシャツ、それまで借りっぱなしになっちゃいますが……」
「かまいませんよ。どうぞまた、お越しください」
 店員が頭を下げる。社は代金を伝票と一緒にカウンターに置いて、立ち上がった。
 そして踵を返し、そこから振り向かないまま、
「おめでとうのメール……メッセージにはこう書いてあったんです。『まだ終わりじゃないですよ』って」
「……そうですか」
「あれからもう二年経っていますが……ぼくは信じていますから」
 
<なぜ、そう思うのですか?>
 
<社さん、あなたはどうすればいいと思いますか?>
 
<わたしは先生なんて呼ばれるほど、大した人間ではないですよ>
  
「先生が戻ってくることを、ぼくは信じています。戻ってきたとき、ちゃんと、ありがとうって伝えたいから……だからぼくは、信じて待っています」
 
<ありがとう>
 
 
 雨の降る中、社が歩き去っていった。傘を貸そうとして店員の女性が外に出たときはもう、彼の姿は少ない人波のどこかに隠れ、消えてしまっていた。雨はやさしく降り続いている。
 店内は静かだった。有線で流れる、魅惑的なジャズ。彼女の大好きな、コーヒーと甘い香り。そして――店の片隅に飾られた、アコースティックギター。
 店員はそれを持ち上げ、いつものように磨き、一弦ずつ音を確かめて、背の高いステンレスパイプの椅子に座る。足を組み、その上にギターを乗せる。左手の指がたどたどしくコードを押さえ、右手の親指が弦をかすめる。雨の拍手が響く中、聴くに耐えないバースデー・ソングが、ゆっくりと流れ始めた。
「そろそろ戻りたいんですけどねえ……」
 ほうっとため息をついて、こぼす。
「新しいパソコン、まだ買ってないんですよ」
 価格破壊競争が激化する昨今、パソコンも昔よりずいぶんと安くなった。だが、こうも客の来ないサービス業では、その出費さえも少々手痛い。
 ふと、カウンターが目に留まる。そこには、ココアのカップとソーサー。代金。そして――
「あら、忘れていったみたいですね」
 白いカップのとなりに、彼がなにやら熱心にメモしていた紙ナプキンが裏向けて置かれていた。
 ギターを椅子の脇に立てかけ、手を伸ばしてそれを取る。
 そこに書かれたものを見て――
「うわあ」
 店員は思わず情けない声を上げた。
 
 ――待ってますからね、先生?
 
「うーむ、いつから気づいてたんですかねえ」
 苦笑する店員――つかさは、天を仰ぐ。
「ネットカフェなら安いかな……」
 彼女の考えを後押しするように、雨の拍手は大きく響く。
 信号が赤から青に変わる。
 止まっていた車が、ゆっくりと、また走り出す。

その音は雨に

その音は雨に

「だからぼくは、ありがとうを言わなくちゃいけないんです」

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-08

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