おじいちゃんの婚活2

宜しくお願いいたします。

おじいちゃんの婚活

その日、比奈子は夏休み中にもかかわらず、部活動のため登校していた。比奈子の通う青葉女子高等学校は近隣でも有名なお嬢さま学校である、らしい。らしいというのは、比奈子自身は特段、自分の学校をそう思っていないからである。ご機嫌ようなどという挨拶が交わされることもなく、授業に花嫁修業のカリキュラムが組みこまれているわけでもない。敢えていうならば髪を染めた生徒や、制服を改造している生徒が比較的少なく、のんびりとした女生徒が多いところが中学時代とは違うところだろうか。そんなおっとりとした青葉女子高等学校、通称青女だが、なぜかクラブ活動だけはやたらと熱心で、インターハイなどが行われる体育会系のクラブを始め、特にどこかで大会があるでもなく、何かのコンテストに出品する予定もない文科系のクラブまで夏休みに入ってからもほぼ毎日活動することになっていた。比奈子が所属する書道部では墨が飛ぶといけないので、部活動中はみんな指定ジャージに着替えることになっている。比奈子も例に漏れず、白い綿のシャツに紺のジャージ姿で机に向かっていた。エアコンの効きが悪い二階の教室内は、二0人ほどの所属部員の熱気も相俟って、かなりの高温に達している。気合いを入れて墨をすり、いざ書かんと筆をもった右腕に汗で半紙がべたりとくっつき、比奈子はそのきりりとした眉をよせる。今日は自由課題で、好きな文字を書いていいことになっていた。比奈子が書こうとしていた文字は「青空」だ。特に理由があったわけではなく、書く文字を考えていた際、たまたま教室の窓から、夏の突きぬける様な青い空が見えたので、その言葉を選んだだけだった。比奈子はあまりクラブ活動に熱心な高校生ではなかった。聞き腕に張り付いた半紙を剥がすと、もう集中が切れてしまい、ぼんやりと教室からみえる校庭とその先にある正門を眺めた。時刻は一四時を回ったところだった。一日のなかで一番暑い時間帯、炎天下の校庭ではインターハイでの全国大会出場を目指しているソフトボール部のメンバーが鬼気迫る声を上げて練習に励んでいる。見ているだけでくらくらしそうな光景だった。正門に視線を戻すと何やら黒い影が砂煙をあげて、門に向って突っ込んでくるのが見えた。
(なんだろう、あれ)
不思議に思いじっと眺めていると、その影はだんだんと大きくなり、その正体が陽光を浴びて疾走する自転車の車体であることが判明する。それは一直線に正門をくぐり向け、校庭を切り裂いて走った。思わぬ闖入者に校庭でざわめきが起こるのが分かる。遠くの方でソフトボール部員の悲鳴があがった。不審者が構内に侵入したのだ。最早、教室内にいる全ての生徒がその光景を目撃していた。比奈子は怖くなり、思わずそばに座っていた同級生と手を握り合っていた。自転車は校舎の影に入り、一旦比奈子の視界からその姿が消えたかと思うと、階下からとんでもない大声が耳に飛び込んでくる。
「里永ぁ、里永比奈子はおるか!」
聞き覚えのある声。自分の名前を大声で叫ばれ、比奈子は教室の窓に飛びついてそこから身を乗り出し、建物の下にある昇降口の辺りを覗き込む。
昇降口付近で叫んでいるのは、やはり見覚えのある小柄な少年だった。カーボンファイバーボディの業務用自転車。その顔は遠目にもわかるほど日焼けしていた。もともと日焼けしていたが、さらに真っ黒くなってまるで高校球児のようだ。
「おい、こら、さっさと出て来い一年三組里永比奈子ぉ!!」
特徴的な関西弁のイントネーションは間違いなく坂井諒一だった。
次の瞬間、職員室から、幾名かの男性教師陣が刺又を手に昇降口へ走っていく姿が、二階の窓からその光景を見ていた比奈子の目に入った。比奈子は目を丸くしている級友達を尻目に、慌てて荷物をまとめ指定ジャージのまま階下目指して走り出す。階段を駆け下り、全力で廊下を走りぬけ、息を切らせた比奈子が昇降口前に到着してみると、屈強な男性教師数人が刺又を片手に諒一に詰め寄っているところだった。大柄な大人たちに囲まれて、自転車に跨ったままらしい諒一の姿は、比奈子の視界に一向に入らない。しかし、勝ち気で無駄に大きな少年の声はこじんまりとした下駄箱がならぶ昇降口で、びっくりするほど響いていた。
「里永のじいさんに頼まれて迎えにきただけや。携帯番号?知るかそんなんっ」
「君は里永の身内か何かなのか。里永のご両親からそんな連絡は受けていないが」
「せやから、じいさんの方に頼まれたんやて。急ぎやねん。はよ、呼んでくれ」
「君はどこの学生かね。学校名と名前を名乗りなさい」
「この子、親戚です、遠縁の。最近こっちに引っ越してきたんです」
大柄な教師陣と諒一の間に無理やり割って入りながら、比奈子は慌ててウソをつく。見れば、諒一はすでに二人の教師にがっちりと両脇を抑えられ、見動きとれない状態だった。教師は胡乱な目つきで比奈子と諒一を交互に見た。そんな大人の戸惑いをきれいに無視して、諒一は一瞬の隙をついて教師の拘束を逃れると、比奈子の腕を力いっぱい自分の方へと引っ張った。引きずられる形になった比奈子を、一度自分の胸で受け止めた後、流れるような早業で比奈子の身体を自転車の荷台へと放り投げる。何事かと抵抗しようとした比奈子だったが、比奈子の頭が諒一の胸に当たった際、諒一が小声で言ったその言葉に一切の抵抗をやめ、どんな衝撃にも耐えられるよう目の前のサドルに座る腰にしがみ付いた。
そして、教師達が唖然とするなかをカーボンファイバーフレーム仕様業務用自転車は、砂嵐を巻き起こしながら風のような早さで校庭の校門目指して一直線に疾走していったのだった。
 後ろの方から制止を求める教師の声が聞こえて来るが、走り出した自転車は一顧だにすることなく、さらにスピードに乗って加速していく。
(さすがカーボンファイバーフレーム)
がたがたと派手に揺れる荷台に座らされた比奈子は咄嗟に、遮二無二自転車を漕ぐ背中を見つめた。
『紅葉ばあちゃんが救急車で大きい病院に運ばれたらしい』
先ほど呟くように比奈子の耳元で発されたその声は、心なしか震えていたようだった。
 正門を抜け、真昼の住宅街を疾走する自転車は、そのスピードを緩められることはなく、酷使されたチェーンがぎりぎりと嫌な音を立てた。進む方向から言って、目指す先は大岡総合病院なのだろう。勇吉が住む一軒家からさらに続く坂道を登ったところにある、私立の、親族経営をしている病院のなかでは、この辺りでは一番大きな施設だった。最近理事長が亡くなったらしいが、その葬儀の際には街中から千人近い弔問客が訪れたというから、街の名士一族なのだろう。比奈子にはよく分からない大人の世界のことだった。
思考がどんどん上滑って、うまく纏まらない。
紅葉おばあちゃんが倒れた。病名は、病状は、意識はどうなっているのだろう。
自転車は住宅街を抜け、坂道へと入っていく。勢いよく登り坂のアスファルトと噛んだタイヤが二人分の重みに軋み、座っているだけの比奈子の身体にも後ろにのけ反るような重量がかかった。いかに新型の自転車といえど、人間二人分も負荷を加えた状態での登坂は困難を極めるようだ。諒一は赤い顔をして、懸命にペダルを漕いでいるが、自転車はじりじりとしか登っていけない。
比奈子はこの坂の上にいるであろう紅葉のことを思った。比奈子には祖母の記憶がほとんどない。勇吉の連れ合いで比奈子の実の祖母である千代子が亡くなったのは一二年前、比奈子が二歳の時だった。母方の祖父母は比奈子が生まれる前に鬼籍に入っている。
 比奈子はふるりと身震いをする。身体にかかるじりじりとした重力を感じながら、比奈子は冷たいべとりとした何かが胃の底から背骨を伝う様な不安を覚えた。考えてみれば、これが比奈子が初めて体験する、身近な人の死の匂いだった。こんな心細さを、恐怖を勇吉はどうやって乗り越えたのだろう。
「ねえ、私降りるよ」
小声でそう申告するが、諒一は聞く耳をもたない。
「ええから、掴まっとれ」
少年は吹きだす汗を拭おうともせず、坂の上だけを凝視する。彼は何を思って、このペダルを漕ぎ続けているのだろうか。まるで自分を罰するように、何かの懺悔を繰り返すように、重い重いペダルを漕ぐ諒一。比奈子は諒一の背中を見つめた。そこにある、確かに流れて巡る血の熱さと、溢れて吹きだすような生命のエネルギーに比奈子は目を見張った。
曲がりくねった坂道の端に大きなコンクリートの建物が見えた。目指す建物はすぐそこだ。あの中に紅葉おばあちゃんがいる。
固く冷たいコンクリートに囲まれたあの空間の中に。



二人が紅葉おばあちゃんの病室を訪ねると、ハレーションを起こしそうなほど真白い室内に、入院着を着た彼女が一人で横たわっていた。まだ意識は戻っていないらしく、閉じられた瞼が偶さかにひくりひくりと痙攣していた。その細い腕には痛々しいほど太い針で点滴の針が刺さっており、彼女の血圧と脈拍を示す機械音だけが無表情にその命の在り処を示している。
紅葉おばあちゃんの病状を聞きに一旦出ていた諒一が戻ってきた。
「紅葉おばあちゃん、どうなの」
備え付けの長椅子に並んで腰かけながら、比奈子はそっと力なく開いたままになっている紅葉おばあちゃんの手に触れた。水分を失くした、かさついた、ひんやりと冷たい手だった。
「熱中症と過労と、あと栄養失調。一時はホンマに危なかったらしい」
栄養失調、と比奈子は口の中で繰り返した。この飽食の時代に、聞き慣れない言葉だった。諒一は疲れ切って、足を投げ出して座ったまま、白い天井を見上げて、独り言のように呟いた。
「俺、週に四回は配達のついでに紅葉ばあちゃんとこに、顔だしとったんや。せやけど、俺、先週から海の家に泊まり込みでバイトに行っとってん。配達するのに原付の免許が欲しいから、教習所代稼ごうと思て。連れと一緒やから半分遊びにいくみたいなもんで、浮かれとったんや。バイト入れたから来られへんくなるて言うたら、紅葉ばあちゃん、しっかり働いて来い言うて相手先用の手土産まで用意して送りだしてくれて」
比奈子は黙って聞いている。相槌を必要としているようには思えなかった。
「俺、ホンマは気付いとったんや。最近紅葉ばあちゃん、暑さにやられて急に食が細なっとたし、あの家、今時扇風機しかないから、エアコン買えとも言うとった。歳とると体温調整難しなるのも、気温の変化に気づき難くくなるのも、俺、知っとったのに。知っとって、放り出したんや。自分が遊びたいばっかりに」
「諒一君のせいじゃないよ」
そう言った比奈子の言葉は、諒一に届いた気配はなかった。比奈子ははたと病室を見渡し、この部屋には入院するための道具が何ひとつ揃っていないことに気付いた。タオルも、ティッシュも、薬を呑むためのコップすらこの部屋にはないのだ。
「ご家族の人はいらっしゃらないのかな」
「おらんよ、紅葉ばあちゃんには」
え、っと声をあげて、比奈子は諒一を振り返った。一人暮らしとは聞いていたが、二人目の旦那さんの家や実家の親戚はいるものだと思っていた。
「二人目の旦那失くした時に、子供がおらんかったから嫁いだ家から出されて、その二人目の旦那の死因が結核やったから、実家からも総スカンや。伝染病やからな。高嶺は実家の姓やけど戸籍は独立戸籍やし、紅葉ばあちゃんホンマに一人で生きてきたんや。」
「詳しいね」
「爺さん婆さんの話に付き合おうてると自然とな。せやから、紅葉ばあちゃんには看病にくる身内はおらん。今、うちの婆ちゃんが必要なモン買いに行っとる」

『慣れてはいるのだけれど、偶にね、どうしようもなく寂しくなるの。夜中に急に叫びだしたくなるような、不条理な恐怖がこみ上げてくるの。大人になってみても、こんなに長く生きてみても、やっぱり一人は寂しいのよ。こんなおばあさんは変かしら』

何時かの紅葉おばあちゃんの声が思い出された。比奈子は泣きたくなったが、しかし、泣くのは紅葉に、このたおやかでそして強い女性に失礼な気がして必死で我慢した。不意に廊下に人の気配を感じて、比奈子は病室の扉から廊下に顔をだす。少し離れた暗い廊下の隅で、五月と周、そして勇吉が難しい顔をして何やら話し込んでいた。
「お一人で家に戻られるのは未だ危ないと思うの。でもみどりさんのところは息子さん夫婦がいらっしゃるから無理でしょう。うちはお店をやっているから夜遅いし」
「では、介護施設に入院ってことになるのかね」
「それが安心といえば安心なんでしょうけど。先生、任意保険に加入しておられないから、収入は国民年金と教室だけなのよ。教室が開けないとなると、到底入院費は賄えないと思うの」
「……では、生活保護という選択肢も念頭におくべきかもしれませんな」
漏れ聞こえて来る声は、紅葉の今後のことらしい。このまま入院ということには、ならないのだろうか。いつの間にか比奈子の隣で同じ話を聞いていた諒一が、比奈子の無言の疑問に応える。
「熱中症ではそうそう入院させてもらえん。年齢のこと考えたらこのままどっかの療養型の介護施設に入れられるやろな」
「それって老人ホームってこと?」
「まあ、病院付きの老人ホームみたいなもんやな。そこに入る金がないから生活保護申請したらどうかって話をしてんねやろ」
「……生活保護」
するとそれまで周と五月の話を聞いていた勇吉が無言で踵を返し、病室へと向かってきた。扉のところで立っていた諒一と比奈子に気づいて少し目を丸くしてから、うっすらと笑う。その手には何故か朱色をした萎びたハマナスの花があった。勇吉はそのまま病室に入ると足音を立てずに迷いなく紅葉の枕元まで歩いて行った。すると、まるで待っていたかのように紅葉が目をぽっかりと開ける。ぼんやりとしたまま辺りを見回す姿は、自分がなぜここにいるのか、どういう状況にいるのか、よくわかっていない様子だった。
「おはようございます、紅葉さん」
勇吉は穏やかに話しかける。
「おはようございます。私、どうしたのかしらん。お庭にいたはずなんだけれど」
「倒れたんですよ。熱中症です」
紅葉はあどけなささえ感じる動作で、まあ、と呟きゆっくりと目を見開いた。
「しっかりお帽子も被っていたんですけどねえ」
「気をつけなければいけませんよ。こう暑いと、家の中にいても熱中症になる人もいるんですから」
「お見舞いに来てくださったの。ありがとうございます。まあまあ、私、倒れてしまったのねえ。ここは病院ですか」
「ええ、そうですよ」
「困りましたね。私、すぐにお家に帰られるのかしら」
その話なんですが、と勇吉は手にしていたハマナスの花を紅葉に手渡した。
「紅葉さんはハマナスの木の手入れの仕方をご存じですか」
紅葉はまだ少しぼんやりとした風情で手渡された朱色の花を見て、ふふと笑った。
「まあ、綺麗なお花。ええハマナスなら家のお庭にもありますよ。ちょうど今頃花が咲く頃合いですねえ」
「ウチの庭にもね、あるんですよ。ハマナスの低木が。でも、今年はどうも元気がないようで。花もこのとおり、どこかね、元気がないんです」
「それは心配ですねえ」
そうなんです、と勇吉が続けた。
「ちょっと、ウチに来て様子を見てやってくださいませんか」
勇吉の言っていることの意味を理解しかねるというように、紅葉はぱちぱちと大きく瞬きをした。
「行って差し上げたいのだけれど、ごめんなさいね、この通り身体が思うように動かないものだから」
「ええ、だから、しばらくの間ウチに居て、元気になってからお願いします」
「はい!?」
声をあげたのは、比奈子と諒一、そして遅れて入って来た周と五月、つまり紅葉以外の全員だった。
「ハマナスのお世話ですか」
「ええ、どうも僕は植物と相性が悪いようで、なかなか思うように世話をしてやれないんです。折角、連れ合いが残した庭なので、なんとかしてやりたいんですがね」
「それは、大変ですねえ」
「ええ、大変なんです」
目を剥く外野をよそに、当の本人達は実にのんびりとしたやり取りを繰り返している。
「私にできるかしらん」
「ぜひともお願いしたいんですが、ダメですか」
紅葉はしばらく思案顔になり、それからぺこりと頭を下げた。
「じゃあ、しばらくご厄介になりましょうか」
「厄介をかけるのは僕のほうですよ」
紅葉おばあちゃんは童女のようにふふふと笑った。
外野陣が互いに互いの顔を見合わせる。こうして、驚くほどの早さで、二人の同居が決まったのだった。


紅葉おばあちゃんが退院してから一週間程した頃、比奈子は部活帰りに二人の様子を見に行くべく、勇吉の家へと向かった。午後三時の真夏の日差しは一向に衰える気配もなく、攻撃的なほどに周囲を刺し貫き、青い空に昇り立つ白い入道雲には日差しを遮る気など端からないらしい。項がじりじりと焦げつくような気がする。この暑さのなか、あの坂道を自転車で登ることを早々に諦めた比奈子は、滴る汗をハンカチで拭いながら徒歩で坂を登り始めた。件の坂の途中で、前方にえっちらおっちら登坂する、覚えのある最新式カーボンファイバー自転車の車体が目に留まる。小柄な少年が上体を激しく左右に振って、まさかの立ち漕ぎで登坂をしている。なぜこの暑い最中にわざわざ自ら体力を消耗するようなことをしているのだろうか。一心不乱にペダルを漕ぐ諒一は下にいる比奈子に気付かない。
「諒一君、諒一君」
比奈子は一五メートルほど下から諒一を呼んだ。すると、集中を乱されたのか、業務用自転車がカクンと止まり、そのままずるずると重力に引きずられて比奈子の脇まで滑り落ちてきた。
「お前、急に声かけんなや。集中力切れるやろが」
諒一はあまりに暑かったのか、もはや制服のシャツすら脱ぎ捨て、汗で色濃く変色したタンクトップ一枚になっていた。配達焼けで真っ黒になった腕に突っ伏して、ぜいぜいと上がった息の下から文句を垂れる。
「なんで敢えての立ち漕ぎなの。若くても熱中症で倒れる人っていっぱいいるんだよ」
諒一は真っ黒に日焼けした腕で荷台を指した。
「この荷物でちんたら登っとったら日が暮れるわ。それに、このチャリに変えてからこの坂も段違いに登りやすなったしな」
後ろから見ている分には、今までとどう違うのかさっぱり分からなかったが、諒一があんまり嬉しそうなので、比奈子は黙っていた。 繰り返すが、比奈子はよくよく空気の読める女子高生なのだ。諒一の自転車の荷台には二リットル入りのペットボトルが二ケース積まれている。とすると計二四キロの錘を持ってこの坂を登ろうとしているのか。比奈子は目眩を覚えた。
「手伝うよ、それ」
「あほか、配達舐めんな。一ケースも持たれへんやろ」
「二,三本ならいけるもの」
「バラしてどないすんねん。商品やぞ」
呆れた口調の諒一に、比奈子は尚も食い下がる。
「それ、どこまで持っていくの」
「お前のじいさんのとこ」
「じゃあ、いいじゃない。どのみち目的地は一緒なんだし。その商品受け取るの私なんだから」
「仕事は仕事や。けじめつけなあかん」
変なところで律儀らしい。面倒臭いとも言えるが。
「じゃあ、下から押すから一緒に歩いて登ろうよ。それならいいでしょう」
比奈子の提案に諒一はしぶしぶ頷く素振りをみせる。比奈子はくすりと笑う。本当は、彼の膝ががくがくと震えて、限界を訴えているのに、それでも手伝ってくれと自分から言い出せないのは男の矜持というやつなのか。比奈子は気付いていないふりをした。
 男の子って案外可愛らしいのかもしれない。
比奈子は何となくおかしくて、坂を登る間くすくすと笑い続け、諒一に気味悪がられた。



比奈子と諒一が汗だくになって、勇吉の家に辿り着くと、低い生け垣越しに二人の姿を見つけた勇吉が声をかけてきた。
「ああ、二人ともよく来たね。早くあがって冷たいものでも飲みなさい」
すると、その勇吉の脇からひょいと小柄な紅葉が姿を現す。
「まあまあ、比奈ちゃんこんにちは。ご厄介になってます」
紅葉はサンバイザーに頬被りという農家の人のような格好をしている。
「おら、また二人してこんな時間に外に出て何しとんねん。庭いじりは朝か夕方にしろて言うやろう」
子供を叱るような諒一の口ぶりに、ご老人二人はしゅんとなってもごもごと言い訳を試みた。
「だってね、ハマナスの木はちゃんと剪定しておかないとすぐに弱ってしまうのよ」
「と、紅葉さんが言うものだから。僕は紅葉さんが無理しすぎないように監視していたんだよ。諒一君に言われたとおり、一五分に一回お茶を飲んで水分の補給も欠かしていないしね」
ね、と勇吉と紅葉おばあちゃんがお互いを見合って、胸を張る。
「お茶より、スポーツドリンク飲めて言うてるやろ。お茶では電解質が足らんねん」
「ごめんなさいねえ、ジュースを飲む習慣がなかったものだから」
「ほな、これから習慣にしい。また持ってきたから。」
見れば、荷台に積んである段ボール箱の側面には、有名なスポーツドリンクのロゴが印刷されていた。もしかして、気を遣って持ってきてくれているのだろうか。比奈子は、ちらりと諒一を盗み見る。黒く日に焼けた諒一の顔は初めて会った頃よりどことなく大人びて見えた。
屋内に入ると、諒一は段ボール箱二ケースを持ち上げて台所まで運んでいき、それからずかずかと居間に入っていくと、エアコンの設定温度を三一度から二ハ血度へ下げた。そして、じろりと勇吉を見遣る。勇吉はへどもどして目を泳がせた。
「紅葉さんはもともとエアコンに慣れていらっしゃらないし、節電するにはこれくらいの温度でちょうどいいかと思ったんだよ」
「二ハ血度は十分節電推奨温度や。暑さ感じ難くなってるて自覚ないなら、とりあえずこのくらいの温度にしとき。部屋んなかでも熱中症にはなるんやで。比奈子、なんぞ飲み物用意したって」
 (いつの間にか呼び捨てだし)
これでは、この家の主が誰だか分からない。比奈子が心の中で文句を言いながらグラスを用意していると、サンバイザーと頬被りを脱いだ紅葉おばあちゃんが台所にやってきた。その手には真新しい老人用の携帯電話が握られている。
「ねえ、比奈ちゃん。あなたならこれの扱い方がわかるかしら」
「多分、分かると思います」
比奈子は薄桃色の可愛らしい色をしたその携帯電話を受け取り、操作手順を確かめてみる。比奈子の持つものとは機種は違うが、老人用の簡便システムになっているらしく、比奈子にも直ぐに操作ができる。
「あのねえ、比奈ちゃん。よかったら私と、電話番号と、あと何ていったかしらん。メールの住所?」
「アドレスですか。交換しましょうか」
「ええ、ええ。交換してくれるの?嬉しいわねえ」
紅葉おばあちゃんはニコニコと笑う。赤外線通信で互いの情報を交換し、ちゃんと登録されているか確認しようと、一言断りを入れてから、比奈子は紅葉おばあちゃんの携帯電話の電話帳フォルダを開ける。そこにはすでに、諒一と勇吉のデータが入力されていた。
それね、諒一君が入力してくれたのよ、と紅葉は嬉しそうに目を細める。
「諒一君ねえ、ここのところ三日に一回はご用聞きにきてくれるの。ここは坂が急だから危ないって、酒屋さんに関係のない細々としたものまでお使いに行ってくれるのよ」
知らなかった。比奈子は手を止めて、居間の方を見る。居間では、まだ諒一が勇吉に熱中症の怖さと対処法についての抗議を延々と語っている。
「男子三日会わずんば即ち刮目して見よというけれど、ここのところずっと角がとれて丸くなったような、大人びたようなそんな感じに見えるわねえ」
紅葉おばあちゃんは嬉しそうに孫がいればこんな感じかしらんと呟いた。
「比奈子ちゃん、諒一君ていい子ね」
比奈子は言葉を濁して曖昧に笑った。比奈子の定義している「いい子」からは外れるが、確かに諒一は「いいヤツ」なのだろうと思う。自分のなかの良い人間像を広げる必要があることを、比奈子はひしひしと感じていた。今までの物差しとは全く別の基準を知らなければ坂井諒一という人間は測れない。用意したグラスをお盆に置き、居間に移動しようとした比奈子に、紅葉おばあちゃんが何か楽しい秘密を打ち明けるようにそっとささやく。
「あの子はいい子で、そして多分イイ男になりますよ」
ぎょっとして振り返った比奈子に、紅葉おばあちゃんはふふふと可愛らしく笑った。やっぱり食えないおばあちゃんだと、比奈子は思った。
 比奈子が飲み物を四人分用意し、紅葉おばあちゃんと連れだって居間に入ると、部屋の隅に、小さく畳まれた布が置いてある。脇から出たひょろりと長いヒモが丁寧に巻かれていた。その形状と鈍い金属めいた色には見覚えがあった。
「ねえ、おじいちゃん。これって一郎おじさんが使ってたヤツでしょう」
以前、足を痛めた一郎のために勇吉が作った簡易ソファだった。自分の定位置に座ってグラスを受け取った勇吉が、ああ、と穏やかに応じる。
「紅葉さんも立ったり座ったりするのが大変だと仰るからもう一つ作ってみたんだ」
「そうそう、比奈子ちゃん、これすごいのよ。見ていてね」
紅葉は珍しくいそいそとその布を持ち出し、小さく畳んである布の上に座った。そして、横から出ているヒモを引っ張ると、布はムクムクと空気を吸って膨張し、直ぐに小さなソファに成長する。
「丁度立ち上がりやすい高さになってくれるの。比奈子ちゃん、あなたのおじいちゃんはすごいわね」
子供のように声を弾ませた紅葉が、うきうきとソファから立ち上がる。
「ウチは和室ばかりで丁度いい高さのイスやソファがないからね」
勇吉が照れたように頭を掻いた。
「それでね、村上さんちょっとお聞きしたいんですけど、この布地って色をつけたり、柄をつけたりできるのかしらん」
小首を傾げて聞く紅葉おばあちゃんに、勇吉は虚を突かれたようにきょとんとなる。
「色や柄ですか」
「ええ、このソファすごく使いやすいけれど、色や柄をつけることができたらもっと素敵だと思いませんか。とっても可愛くなると思いますよ」
色柄かあ、と勇吉は思案顔になる。
「今のままでは難しいですね。繊維に特殊な金属を合わせてより集めたものなので、カラースプレーとかならいけるかもしれませんが、発色はあまりよくないと思います」
「あら、残念。ごめんなさいね。ご面倒なことを言ってしまって」
「いやいや、僕のほうこそ、いいご指摘をありがとうございます。女性ならではの視点というか。駄目ですね、男の考え方は実用一辺倒の無骨なものになってしまって」
「あらあら、一番大事なことは実用性ですよ。遊び心はその次です」
楽しげに微笑み合うシルバー世代を、座卓についた子供組が汗を掻いたグラス片手に眺めている。
「ああ、よかった」
「何がやねん」
「二人とも何だかんだで楽しく暮らしているみたいだから。おじいちゃん、何だか楽しそうだし」
比奈子の素直な感想を聞き、なぜか諒一がげんなりした表情のまま無言で座卓を指さした。
「あれ、なんやと思う」
諒一が指した座卓には、なぜか一面に南国リゾートの写真が印刷された旅行会社のチラシが乗っている。簡易ソファに腰掛けた紅葉と、その隣に座った勇吉がそのパンフレットを見比べなら、旅行の算段を立てているようだった。
「紅葉さん、このタヒチなんてどうでしょう」
「まあ、いいわねえ素敵な浜辺。でもこっちのタヒチも捨てがたいですねえ」
ご老人二人がお互い持っているパンフレットにはそれぞれ、ハワイとグアムという文字が大きく印刷されていた。
「ここのタヒチの海の水は透明度が世界一だそうですよ」
「でもお料理はあっちのタヒチのほうがおいしそうねえ」
今度はモルディブとパラオのパンフレットを持ち出して楽しそうに話している。その様子を生温い目で見守りながら、老人二人のはしゃぎっぷりにげんなりした諒一が口を開いた。
「なあ、タヒチって、そないに世界中にあるもんなんか」
「え、どっかの島でしょ。一つだよ。一箇所」
「あの二人の話やと、白い砂浜と透明な海のある場所は全部まるっとタヒチになっとるぞ」
どうやらあの二人はどこか南国のリゾート地に行きたいらしい。なんにせよ、退院から一週間ほどで旅行に出かけたいと思うまでに回復したというなら、それは喜ばしいことだ。
「まあ、勇吉さん、ここのタヒチではイルカと遊べるらしいですよ」
「いいですねえ。僕はあっちのタヒチの秘境ツワーも捨てがたいなあ。火山なんかもあるそうですよ」
タヒチがゲシュタルト崩壊を起こしている。



 ツクツクボウシがうるさく鳴き始める晩夏の夕暮れ、比奈子が勇吉の家から帰宅すると、応接室と呼ばれてる部屋から母が比奈子を呼んだ。比奈子は訝りながらも応接室の襖を、膝を着いて開ける。応接室は和洋折衷の和モダンな作りになっていて、青々しい畳の上には豪奢な絨毯が敷かれ、細やかな細工の施された、つるりと光る欄間にガレだかミロだかのシェードランプの籠もった灯りが鈍く映しだされていた。丈の低い重厚なテーブルと、そのテーブルに合わせた重々しいソファには父と母、そして珍しく伯父の勝司が座っており、雁首を揃えて比奈子の帰りを待っていた。
「ただいま、いらっしゃい勝司伯父さん」
勝司は立派な眉毛をぴくりと上げて、無言で頷いた。これが勝司の挨拶なのだ。厳めしい顔つきのこの伯父が、比奈子は少し苦手だった。一体ぜんたい何の用事があって、会社の経営者として忙しい勝司がわざわざ妹夫妻の家を訪れたりしたのだろう。嫌な予感がして、比奈子は少し顎を引いた。
「比奈ちゃん、ちょっとそこに座りなさい」
言ったのは母の弥生だった。思いの外強い口調に驚きながら、比奈子は仕方なくソファの一番端に小さくなって腰をかける。
正面の三人がけのソファに勝司と比奈子の父であり勇吉の義理の息子正紀、その横の一人掛けソファに母弥生と、三方向から固められ、比奈子は怖々と三人の顔を順番に眺める。皆一様に難しい顔をしていた。
「比奈子、今日もおじいちゃんのところに行ってきたのね」
確かめるように聞いたのは弥生だった。比奈子はこくりと頷く。そこで、伯父の勝司が大きく息を吐いてから口を開いた。
「最近、親父のところに変な婆さんがいるという話を小耳にはさんだんだが、本当かね」
立派な眉の下の鋭い目がじっと比奈子を見据えている。比奈子は尋問されている犯罪者の気分だった。そもそも勇吉の婚活自体家族には秘密にしてあったが、事態がここまで動いてしまっては話さないわけにはいかないのではないか。しかし、秘密にすると約束した手前、比奈子は家族に打ち明けることを躊躇した。勝司は比奈子の無言をどうとったのか腹の底から空気をはき出すような深い深いため息をついた。
「親父もいったい何を考えているんだか。変な遊びに手を出したこともない、真面目なだけが取り柄の男だったのに。あの歳になって、おかしな婆さんにたぶらかされるなんて、認知症にでもなったとしか思えんな」
「紅葉おばあちゃんはちゃんとした人です」
咄嗟に言い返してから、しまった、と思った。比奈子の反駁に弥生は目を丸め、そしてわなわなと堅く握りしめた拳を震わせた。
「もう子供にまで取り入っているのね。なんて人かしら」
まあまあと割って入ったのは正紀だった。正紀はまだ、勇吉が社長をしていた頃、社員として弥生と出会い、結婚をした。今は勝司の下で働いている。たしか、理事だったか専務だったかの肩書を持っていたはずだが、比奈子は覚えていなかった。父が会社でどんな仕事をしているのか、比奈子にはさっぱりわからない。その正紀がいきり立つ弥生と勝司を宥めつつ、困ったように比奈子を見る。そんな視線を寄越されても比奈子に協力できることは何もなかったが。
比奈子からの援護を得られないとわかると正紀はおもむろに自分の携帯電話を取り出して言った。
「とにかく、本人に話を聞いてみよう。こういうことは顔を見て話さないとはじまらないよ。今から僕が車をだしてお義父さんを呼んでくるから」
そういって、正紀は腰を上げると、携帯電話で勇吉に連絡をとり、今から迎えに行く旨を伝えた。昼間、あんなにうるさかった蝉の声が今はひっそりと静まりかえっている。比奈子は何か不穏な空気を感じた。しかし、彼女は為す術もなくソファに座っていることしかできないのだった。
 家を出てから数十分後、正紀が勇吉を伴って帰ってきた。勇吉は今回の急な家族会議の内容を知らされていないのか、ニコニコと我が子二人に声をかける。
「なんだ二人が顔を揃えてるなんて珍しいじゃないか。今日は一体なんの会なんだい」
「親父、いいからちょっと座ってくれ」
紅葉おばあちゃんとのやり取りが楽しかったのか、上機嫌を隠しきれない勇吉に、勝司は厳めしい声でそう言った。まるで命令しているかのような声音だった。比奈子は密かに眉をしかめる。勝司伯父の振る舞いの端々に見える、こういった高慢な態度が比奈子は大嫌いだった。弥生が全員分のお茶を用意するのを待って、勝司が厳めしい眉毛を引き攣らせながら口火を切った。
「親父、最近、家に赤の他人をあげているそうじゃないか。どういうつもりなんだ」
勝司は単刀直入に、詰問口調でそう切り出した。勇吉は一瞬驚いたような素振りをみせたが、すぐにいつもの柔和な微笑みを浮かべてゆったりと応える。
「最近知り合った方だよ。高嶺紅葉さんというんだ。お琴と日舞の先生をしていらしたんだがこの間急に体調を崩されてね。同じ独り身同士なにかと助け合おうということで、一緒に暮らしているんだよ」
一緒に暮らして、とオウム返しに呟き、頭痛を堪えるように弥生はこめかみを押さえた。
「どういう人間なんだ、その高嶺さんとやらは」
「だから、お琴と日舞の先生で、いい人だよ」
「歳は」
「今年でハ血三歳になるらしい」
「婆さんじゃないか」
「お婆さんだねえ。僕だってお爺さんだ」
にこにこと応える勇吉は柔和な態度を崩さない。しびれを切らし、弥生はヒステリックに声を荒げた。
「いい加減にしてお父さんっ。そう言うことを聞いているんじゃないの。どうして赤の他人を簡単に家に入れたりするの。あそこは私達の家でしょう。私と兄さんが育った、お母さんが住んでた家でしょう。どうしてそんなことができるの」
「お前たちにはもうそれぞれ自分の家があるだろう」
あくまで穏やかに勇吉は実の娘の批難にも応える。立ち上がった弥生を、正紀がまあまあと諫め、勝司が苦い表情で胸ポケットからタバコを取り出し、大きく煙を吐き出した。
「で、まさか籍をいれようなんて言い出さないよな」
「どうしようか、考えている最中だよ」
「親父、それだけは駄目だ」
「なぜ」
勝司は子供にでも言って聞かせるように奇妙に丁寧にそして、一層凄みの増した低い声で唸った。
「相続権が発生するだろう。籍を入れると親父に万が一のことがあった時、親父の資産の半分をその女が持って行くことになる」
「法律上はそうなるね」
勇吉はあくまで穏やかに、しかし引く気もないのだと態度で示した。
それを聞いた弥生が、お父さん、と悲鳴のような声をあげる。勝司は頭痛を堪えるようにこめかみをきつく押す仕草を繰り返した。それから、大きく天を仰いで、喉の奥に絡まった毒を吐きだすような低い呻き混じりに呟いた。
「親父、これは俺に対する腹いせなのか」
「なんの話だい」
突拍子もないことを、と勇吉はきょとんとなって、目を丸くする。その態度に、苛立つ己を隠そうともせず、勝司は口早にまくし立てた。
「親父が今の会社の方針に反対なのは気づいていたよ。あんたはアパレルやファッション業界より、従来の紡績繊維業でやって行きたかったんだろう。そのために炭素繊維の技術開発や製造ラインまで、当時専務だった俺に隠れてこそこそ作っていたくらいだからな」
「またえらく昔の話を蒸し返すなあ。別に隠れてやっていたわけじゃないよ。それにあの分野にはまだまだ伸び代があると踏んだからそうしたんだ。なんだい、急にそんな昔の話を」
「だから、その製造ラインを潰して、親父を事実上会社から追い出した俺への報復をしたいのかと聞いているんだ」
初めて聞く話に、比奈子は目を見張って母である弥生を伺った。そして、所在なさそうに俯く彼女の仕草に、自分の母も、そして伯父の会社で働く父もそのことを知っていたことを悟る。
何ということだろうか。伯父は祖父を会社から追い出し、比奈子の両親はそれを黙認していたのだ。勝司伯父の話はまだ続いていた。
「確かに炭素繊維関係は大したもんだよ。今じゃあ自動車や航空機にまで利用されている。ただそれは、今になって思えばの話だ。あの時点では、会社を傾けるようなリスクを負ってまで手を出せる代物じゃなかった。そうだろう」
同意を求めるというよりは恫喝するように勝司は強く言い切った。勇吉は、そうだねと、軽く流して目の前に置かれたお茶を啜った。
「で、それと紅葉さんの件と一体なんの関係があるっていうんだい。報復っていうのはどういう意味なのかな」
未だに息子の話の意図が汲めないと眉を顰める勇吉に焦れ、勝司はドンと乱暴にテーブルを拳で打った。傍に座っていた比奈子は思わず肩を震わせて、ギュッと目を瞑る。それくらい、勝司の怒りは深いように思えた。
「会社の株、土地建物、その他諸々の資産で、親父名義のものがまだたくさんある。それの半分をどこの馬の骨ともわからん婆さんに持っていかれるかもしれないんだ。親父、あんたはその婆さんを使って、俺に復讐をしたいのか」
(おじいちゃんがそんなこと考えるわけない)
思わず批難の言葉を口にしそうになった比奈子を、テーブルの下で勇吉の枯れた腕が制止した。骨と筋に皮が張り付いた老人の腕だ。しかし、確かな意志を持ってそこにある、決意の腕だった。勇吉はいつものやんわりとした口調を崩さず、声を発した。
「勝司、お前は」
勇吉は呆れたように嘆息して、くすりと小さく笑った。
「しばらく会わないうちに、えらく捻くれたおじさんになったもんだ」
勝司は目を剥いて、怒りを露わにしたが、勇吉は気にした様子もなく、おっとりと笑って、顎のあたりをつるりと撫でた。
「アパレルだのファッションだの僕にはわからないけれど、このご時世で大幅なリストラもなく従業員さん達がご家族を養っていけるだけのお給料を渡せているんならそれで結構じゃないか。何を気に病んでいるんだい」
「何も気に病んでなんかいない。親父、話をそらすな。その婆さんと籍をいれるのかどうかを聞いているんだ」
「話を逸らしたのはお前だよ、勝司。いや、混同しているのかな」
勇吉は弥生の入れたお茶を啜って、何から紐解いていくべきかなとぼんやり呟いた。
「色々大変だろうけれどお前は十分に会社を経営しているよ。僕が経営から身を引いたのはお前が考えているよりもっと単純なことだよ」
勝司はその強い眼光だけでその真意を訪ねた。勇吉はそんな勝司に肩をすくめて見せる。
「僕は経営なんて、そんなに好きじゃなかったんだ。お前も知っているだろう。自分でなにか作っていることの方がずっと好きなんだよ。社長職を退いて正直ほっとしたくらいだ。紅葉さんのことと代替わりのことは全く関係ない。お前が一0年以上もそんなことを考えていたなんて驚いたな」
「だったらなんで今さら結婚なんて」
声を荒げたのは弥生だった。弥生は弥生で、勝司とは別に勇吉が再婚するかもしれないという事実に感情的な拒否感を抱いているようだった。
「もし俺たちの同意なしに入籍を強行するっていうなら俺にも考えがある」
勝司は苛立たしげに、豊かな眉をひくひくと痙攣させて言った。
「親父が保有している会社の株と会社の土地建物、資産関係全てを会社に譲渡してくれ。あの家は親父名義のものだからあれは親父の好きにすればいい」
「兄さん、やめてよそんな話」
「お前は黙っていろ、大事なことだ」
我が親と親戚の生々しいやり取りを目の当たりにした比奈子は、ただ小さくなっていた。比奈子の知らない大人の世界のどろどろとした部分を、自分の両親らから見せつけられどうしていいかわからず、震えていることしかできなかった。伯父は祖父を会社から追い出しただけでは飽き足らず、今度は親族からも追い出そうとしているのだろうか。
「どうしてそんな話になるの。一緒にいるだけでしょ」
「子供が口を出すんじゃありません。比奈子、あなたこの間無断で部活を早退したそうね。柄の悪い男の子と一緒だったって学校から連絡があったわよ。比奈子に限ってそんなことありえないと思っていたけど、それも何か関係があるの?」
思わずあげた抗議の声も、大人の理屈に一蹴される。比奈子は悲しくて、悔しくて、俯いて涙をこらえた。そんな比奈子の背中を、老いた勇吉の手がそっと撫でる。困ったように笑う勇吉は悲しそうでもあり、そしてどこかすっきりとしたようにも見えた。
「親父、どうするつもりだ」
「どうも、こうも、お前は昔から性急すぎるよ」
勇吉は勝司の追求をのらりくらりと交わし続け、お互いに疲れが見え始めた頃、先の見えない問答に割って入るように、玄関の呼び鈴が鳴った。
「こんな時間に誰かしら」
眉を顰めつつもこれ幸いと弥生が緊迫した場を後にする。しばらくすると、玄関の方から弥生の悲鳴めいた声が聞こえてきた。
「なんなのあなた一体」
「ええから、ちょう、お邪魔するで。ここに勇吉じいさん来てんねやろ」
どかどかと廊下を踏みならす足音とともに近づいてくる、聞き覚えのある乱暴な関西弁に、比奈子は目を見開き、勇吉はおや、というように眉を上げた。
「どういうことです、佐伯のおじさん」
「やあ、弥生ちゃん、夜分にすまないね。なに、ちょっと勇吉に諸用があって、家の方にいってみたんだが、どうやらこっちに来ているらしいから」
「困ります。今、大事な話をしていて……」
どうやら周も一緒らしい。声はどんどん応接間に近づき、ついに襖が乱暴に蹴り開けられた。黒漆で塗装された襖の縁が、勢いよくスライドして奥の壁に激突する。
「おう、ちいと邪魔すんで」
ごろつきのような物言いをして最初に飛び込んで来たのは、制服こそ着用しているものの、そのネクタイを結ぶことなくだらりとかけただけの、一見して取り立てに来たチンピラにしか見えない諒一だった。
「馬鹿かねキミは」
その後ろから現れた周の鋭い平手が、諒一の後頭部をぴしゃりと打つ。
「我々は話し合いに来たんだ。粗暴な態度は慎みたまえ」
「これが話し合いっちゅう空気かいな。ただの吊るし上げやろ。けったくそ悪い」
歯を剥く諒一をきれいに無視して周は立ち上がろうともしない勝司に目を向けた。
「やあ、久しぶりだね、勝司くん」
勝司はひくりと眉を動かしただけで、応えの代わりとし、身を乗り出して膝の上で手を組んだ。
「佐伯教授、こんな時間に非常識じゃないですか。見ての通り、今、取り込み中でして。親父に用事があるなら、日を改めてもらえませんかね」
横柄な態度で勝司が不快感を隠さずに鼻を鳴らす。その仕草に、周の柳眉が跳ね上がった。しかし、叱り飛ばすことはせず、一度大きく深呼吸することで怒りをやり過ごしたらしかった。
「その取り込み中の話題に無関係でもないので、こうやって馳せ参じたんだのだよ、勝司君」
努めて平静を保った周の発言に、勝司は、立ったままの周を威圧するように睨みあげた。
「それは、今回の親父の醜態に教授も一枚噛んでいるということですかな」
何の血が騒いだのか、即座にいきり立ってメンチを切り返す諒一を、再度無言でぴしゃりとやってから、周はおもむろに口を開きかける。その時、周の発言を待たずして、年齢にしては大柄な周の、更にその後ろから、やんわりとした声が割って入った。
「それなら私からお話した方がいいと思いますよ。なんと言っても当事者ですしねえ」
諒一と周がさっと左右の脇に退くと、そこには小柄な紅葉おばあちゃんが立っていた。某先の副将軍よろしく左右に少々年季のいった助さんと柄の悪い格さんを従えた紅葉おばあちゃんは、薄い紺色の紗の下に清潔な白い着物を着込み、美しい白髪をさっぱりと結い上げている。その姿には小柄ながら、息をのむほど圧倒的な存在感があった。日本舞踊の先生をしていたのだから人前に出るのは慣れているのかもしれない。紅葉おばあちゃんは絨毯のうえに正座をして、流れる様なきれいな所作で頭を下げた。
「お初にお目にかかります。高嶺紅葉と申します。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。この夏に体調を崩してしまい、村上さんのご厚意に甘えてお世話になっておりました」
「お世話ねえ」
紅葉おばあちゃんの発する空気に呑まれていた弥生が、我に返り、嫌み混じりにため息を吐く。紅葉おばあちゃんは気にした様子もなく、涼しげに話を続けた。
「私の件で村上さんのご家族がお話をされていると聞いて、失礼とは思いましたが、飛んで参りました」
「ご自分のお立場をわかっているのかいないのか。妾が本宅の娘の家に上がり込むとはどういう了見ですかな」
「勝司伯父さんっ」
「ああっ!?なんやとっ」
勝司のあまりの言い様に、比奈子は思わず批難の声を発し、諒一が獣じみた唸り声をあげた。即座に、比奈子は勇吉に、諒一は周に取り押さえされたが。
「そのように見えてもしょうがありませんかねえ」
紅葉は顔色一つ変えずにおっとりとそう返した。
「ただ、老婆心で申し上げますけれど、そう言った物言いはお父様に失礼ですよ」
「まったくもって文字通り老婆心以外の何物でもありませんな。あなたが父の家に上がり込むようなことがなければこんな騒動にはならなかったんですから」
紅葉おばあちゃんは一時目を伏せ、小さく笑ったようだった。
「村上さんのお宅ですが、大分と傷んでいるようですよ。雨どいもそろそろお替えになった方がよろしいでしょうし、給湯機も古いものをそのまま使っておいでだから、偶にお湯が出なくなるんですよ。今時分はいいでしょうけれど冬になるとお困りでしょう。それに、お庭の剪定も村上さんお一人では難儀されているようですから、業者さんにでもお願いなさったらよろしいかと」
「だからっ、そんなことをあなたに言われる筋合いはないっ」
「そんなことすらわからないほど、村上さんを放っていたのはどなたですか」
容赦なく叩きつけるように声を荒げた勝司に対し、紅葉おばあちゃんは穏やかに、しかし毅然と言い放った。
「それぞれ、どんなご家族にもご家庭の事情がおありでしょう。そんなことに口を挟むほど野暮な真似はいたしませんよ。そう長くお世話になるつもりもございません。ただ、初めから家族のいない私と、ご家族がありながら孤立しておられる村上さん、どちらがより深い孤独を感じているとお思いですか。あなたは、村上さんのそういったお心中をお考えになったことはありますか」
勝司はむうと唸って黙り込んでしまった。


家族会議が解散になる頃にはもうすでに夜になっていた。この日、結論は出ず、弥生は紅葉との付き合い自体に拒否反応を示し、勝司は紅葉の存在を容認するも籍を入れるなら家族の縁を切ることも辞さずという構えだった。勇吉は実子二人のそんな反応を静かに受け止めていたが、入籍云々には言及せず、さりとて紅葉を家から出す気も毛頭ないようだった。諒一と比奈子の子供組はそれ以上の口出しをすることができず、紅葉おばあちゃんと周は成り行きを静観していた。
 結局この日は折り合いが付かないまま解散することとなり、周が乗ってきたミニクーパーで諒一と勇吉、紅葉おばあちゃんの三人を送って行くことになった。比奈子は両親と一緒にいることを拒んで、祖父の腕にしがみつき、また弥生を怒らせることになる。しかし、比奈子は頑として退かず、無理矢理に、ミニクーパーの狭い後部座席に乗り込んでしまった
「あー、好きなことを言ってしまったわ。ごめんなさいね」
助手席に座った紅葉おばあちゃんがぺこりと頭を下げる。
「いやあ、僕はすっとしましたよ。なんだかかっこ悪いなあ。僕が紅葉さんを守るはずだったのに」
諒一、比奈子とともに後部座席ですし詰めになっている勇吉が照れたように頭を掻く。周のミニクーパーは、うんうん唸りながら坂道を登っていった。
晩夏の夜だった。昼の日差しに焼かれたアスファルトが未だ熱気を大気中に吐き出し続け、足下からじりじりと蒸されるような多湿な夜。しかし、藍色の夜空にはどこか秋の気配を感じさせる透明な色があった。何とか坂を登り切ったおんぼろミニクーパーから転がるように降りると、諒一が無理に縮こめていた身体を解放するように大きく一度伸びをした。見れば、勇吉の自宅の前にはいつもの配達用の自転車が止まっている。
「配達の途中だったのに来てくれたの」
比奈子が聞くと、諒一ははっとしたように腕時計をみた。比奈子が横から覗き込むと、既に一0時を回っている。
「いつもここが最後やからええねんけど。・・・しもた。俺、家に連絡してない」
諒一は焦った様子で、だらしなく垂れ下がった制服のズボンのポケットの中に手を突っ込み、携帯電話を探し始める。運転席から降りてきた周が、丈の低いミニクーパーにもたれながら、天井をこつこつと指で叩いて、子供二人の注意を引いた。比奈子はそんな仕草も様になっていると思ったが、諒一の目には気障ったらしく映ったのか、ただ白けた視線を送っただけだった。
「なんやねん」
「君の帰りが遅くなることは既に五月さんに話してある。彼女から君のご両親に連絡がいっているはずだ」
そしてにやりと笑う周に、諒一は、けったくそ悪い、と呟いて自転車のハンドルに手をかけた。大人の余裕で先回りされたことも、周と五月が頻繁に携帯電話でやり取りをしていることも、どちらも諒一には「けったく悪い」ことなのかもしれない。周と五月の関係に未だ思うところはあるらしく、その周に気遣われたことがまた、悔しいのだろう。
男の子って複雑。
比奈子は、なんと面倒くさい生き物なのだろうと呆れ半分に、無言で肩を怒らせる諒一を眺めた。
「諒一君が、周さんを呼んでくれたのよ」
三人のやり取りを聞いていた紅葉おばあちゃんが、玄関の鍵を開けながらそっと事の次第を話し始めた。
「勇吉さんが急にお子さん達に呼び出されたでしょう。何となくお話の内容も検討がつきましたし、私一人隠れているのも良くないんじゃないのかと思いましてね。どうしようかと考えあぐねていたところに丁度諒一君が来てくれたものだから」
「それで、諒一君に呼び出された私が、二人を里永邸まで送っていったんだよ」
周が、蒸した熱気のために乱れた前髪を几帳面に直しながら、付け足した。いつの間に諒一と周は電話番号の交換をしていたのだろう。仲が悪そうに見えて実は案外、気が合っているのだろうか。この二人の関係性は、比奈子にとってやっぱり謎だった。
比奈子の困惑をよそに、扉を横にスライドさせて、玄関に入った紅葉おばあちゃんが屋内から、それでね、と言葉を継ぐ。
「それでね、これもちょうどいい機会ですし、そろそろ私もお暇しようかと思って」
紅葉おばあちゃんの後に続いて、家に入ろうとしていた一行は一様に彼女の意図が掴めず、ぴたりと足を止めた。玄関先には、紫色の風呂敷包みがちょこんと置かれている。それをひょいっと細い腕で持ち上げると、紅葉おばあちゃんは、穏やかな声で周に頼みこむ。
「周さん、お手数をおかけして申し訳ないのだけれど、私を家まで送っていただけるかしらん」
その言葉に誰も反応できず、夜の闇に濃密な沈黙が落ちた。
「家というのは」
最初に声を発したのは、紅葉おばあちゃんの真っ直ぐな視線に晒されて、耐えきれなくなった周だった。
「ここではなく、ということですかな」
ええ、と紅葉おばあちゃんは丁寧に応える。
「ここから歩いて帰るにはちょっと距離があるものですからねえ。ご面倒かけてごめんなさいね」
「いや、それは」
焦った周は視線で勇吉に助けを求める。一番後ろにいた勇吉が、比奈子と諒一の間を抜け、紅葉おばあちゃんに一歩近づいた。静かに微笑んで勇吉を見る紅葉おばあちゃんに、勇吉もまた穏やかに話しかける。
「お家に戻られるんですか」
「ええ、あと一、二週間もすれば涼しくなってくるでしょうし、おかげさまで、もうだいぶ体調もよくなってきましたから。それにね」
紅葉おばあちゃんは、するすると五人がひしめき合う玄関を抜け、表に出ると、脇の低い生け垣の奥を指さす。
「お気づきでしたか。あのハマナスの低木、もうすっかり元気になってきれいな赤い花が咲いているでしょう」
本当にきれいねえ、と紅葉が独り言のように呟く。
「本当だ。きれいに咲いていますね」
紅葉の隣に立った勇吉が目を細めて、ハマナスを見つめた。深い藍色の闇の中、玄関からこぼれる淡い光に照らされ、ハマナスの赤が淡く滲んでいた。
「もう私のお仕事は終わりですね」
二人はしばらくじっとその花を眺めていた。比奈子も諒一も、周でさえも、何も言えない空気の中、紅葉おばあちゃんは、さて、と小さく声をかけ、振り返って周を見た。
「では、周さん、お願いできますか」
「あ、ああ、はい」
周はらしくもなく慌てた様子で、ポケットの中のキーケースを探す。
「では、皆さん、本当にお世話になりました。どうかお元気で」
そう言うと紅葉おばあちゃんは深々と頭を下げ、そのままくるりと向きを変えるとミニクーパーの助手席に向かう。
嫌だ、と比奈子は思った。これではまるで
(今生の別れみたいじゃない)
何か言わなければいけない。引き留めなくてはいけないと口を開きかけると、無駄に察しのいい諒一が、比奈子の腕を強く引いてそれを押し止める。比奈子が非難を込めて諒一をきつく睨んだその時、勇吉が意を決したように声を発した。
「は、ハマナスはっ」
緊張しすぎて震えたうえに、奇妙にひっくり返った声だった。
「花が咲いた後、実が成るんです。小さい実ですが、ビタミンCが豊富です。僕はハーブとかアロマとかそういう方面には本当に疎いんですけれど、最近では、ろーずひっぷてぃとかにもなっているそうなんです」
紅葉は振り返り、少し目を丸くして勇吉決死のハマナスプレゼンを聞いている。
「秋には実がなります。紅葉さんが丹誠込めて世話をしてくださったので、きっといっぱいなるでしょう」
一息で言い切ると、勇吉はここで大きく深呼吸をした。
「秋になったら、実を届けに行ってもいいですか」
最後は声が裏返ることもなく何とか言い切った勇吉が、息を呑んで紅葉おばあちゃんの応えを待つ。紅葉おばあちゃんはきょとんとした顔になってから、そして、ふふふと童女のようにあどけなく笑った。その笑顔に、比奈子もそして恐らく勇吉もほっとする。しかし、その後、紅葉おばあちゃんはその微笑みを崩さないまま、しかし、しっかりとした声音で応えを返した。
「果実は、ご家族や皆さんに分けて差し上げてください」
そう言うと紅葉おばあちゃんはもう一度丁寧に頭をさげ、ミニクーパーの助手席へと姿を消した。
ミニクーパーが軽いエンジン音を立てて走り去った後、残された三人はただ呆然と小さくなっていく車の姿を眺めていた。左腕に不快な熱を感じて、そういえば比奈子の左腕を未だ諒一が掴んでいることを思いだす。同時に、理不尽な怒りがふつふつと湧いてきた。
「何で止めるの。紅葉おばあちゃん行っちゃったじゃない」
「本人がそう決めたんやったら、外野がガタガタ言うこととちゃうやろ」
それに、と諒一と大人びた顔で続ける。
「お前の家であんな事があったんやぞ。紅葉ばあちゃんが気にせえへんわけないやろう。出て行く覚悟決めとったからあそこまで言うたんやろうし、じいさんのため思たらしゃあない選択やと思うわ」
比奈子は掴まれたままになっていた腕を思い切り振りほどいて声を荒げる。
「なに分別臭いこと言ってるの。あなた不良でしょ。反体制、反権力でしょ。何で戦わないのっ。あなたそれでもまっとうな不良なのっ」
「俺はロックンローラーか。お前、根本的に不良の意味をはき違えてるぞ。てゆーか、俺は更正しとるわ。大体なんやねん、まっとうな不良て。日本語おかしいぞっ」
「まあまあ、二人ともそんなに熱くならないで」
きゃんきゃんと喧嘩を始めた子供組を勇吉がやんわりと窘める。
「おじいちゃん、なんで止めなかったの」
「止めたよ。見ていただろう。ようは」
勇吉は、再び、庭のハマナスの木に視線を戻し、自分に言い聞かせるように呟いた。
「僕は振られてしまったんだねえ」
ぴしゃりと軽く、まるで周のように諒一が比奈子の後頭部を叩く。
「言わせたお前が悪い」
比奈子は言葉を失って、ただ俯くことしかできなかった。

おじいちゃんの婚活2

おじいちゃんの婚活2

1の続きです。

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  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-08

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