何に見えるか
六年間勤めた会社を辞めて、一年半くらい遊んで暮らした。その間に本を百二十三冊読んだ。おかげで貯金は底をつき、一日も早く職を見つけねばならかった。東島は妻子持ちのくせに後先のことを考えない性格で、土壇場で焦ってしまうほうだった。その日も渋谷の街で焦っていた。面接は三時までだが別の用件を果たして、遅れ気味になった。しかも道に迷ってしまい、あいにく雨が降り出した。じりじりして、タクシーを拾った。
「豪徳寺まで行って下さい」
「はいはい、かしこまりました」
軽快な返事を聞くと、中年の運転手に何となく救いを感じた。今から四十年前のことで、三十三歳だった。
「豪徳寺には何か調べに行かれるのですか」
「目的地はその近くです」
「ああ、そうですか。私はお客さんが少壮の歴史学者じゃないかと思いましてね」
意外なことを口にした。東島はショルダーバッグを肩にかけ、春もののジャケットをラフに着こなして、髪も長めである。広告会社や出版社に勤めていたから知的に見えるに違いない。社交辞令だろうが、いたく彼の自尊心をくすぐった。そして素直な気持ちになった。
「実は私は失業していて、これから面接にいくところでね」
「おやおや、そうなんですか」
「だけど、仕事にあぶれていると、ろくなことを考ないですね。自分は社会的に何の意味もない存在だと思ったりして。だから、学究肌に見られて、己を見直したね」
「アッハハハ……」運転手は高笑いをした。「私も二十代の頃、喫茶店のウエイトレスに変なことを言われました。『お客さんは演劇関係の方ですか』と聞くんです。『そんな風に見られたのは始めてだね』『将来、舞台に立つために勉強をしているって感じ』彼女はにこやかに笑いました。正直言って嬉しかったです。それにしても、この私が俳優の卵に見られるなんて驚きです。そこは信濃町で文学座がありますけどね」
東島は何気なさそうに男の横顔を見たが、美形でも個性的でもなく、ただのおっさんだった。
「それ以来、彼女目当てに店に通うようになりました。食事に誘って、芝居や映画の話をしました。ある日、こう頼まれました。選挙の時は公明党にお願いしますとね。彼女は創価学会の信者だったのです。当時は勃興期で日の出の勢いでしたからね」
男は話好きらしく、格好の聞き役を得て、淀みのない口調で喋った。そしてまた豪徳寺の話に戻って、寺の由来について語り、さらに聖徳太子に飛び火して、
「あの方は偉大な人物です」
などと礼賛するのだった。そんな悠長な雑談をしている余裕はないけれど、歴史学者に見立てられた手前、一応耳を傾け、相槌を打った。適当に聞いているうちに彼は創価学会が如何に素晴らしい宗教であるかと称賛してやまなかった。折しも参議院選挙の最中である。
「私は決して公明党に投票してくださいとお願いしているわけではありません。ただ世の中をよくすることが大事だと考えているのです」
運転手の魂胆はこれではっきりした。彼はここまで話を運ぶために見知らぬ客を少壮の歴史学者に仕立てて、きっかけをつくる必要があったのだ。しかし東島はあることを思い出して、急に不機嫌になった。
「私は宗教には何の関心もないよ。ましてや創価学会なんて問題外です。大嫌いだね」
「ほう、相当憎んでいますなあ」
「私の古傷に触れたからだよ」
「傷って何ですか」
「婚約していた女が心移りして、他の男に走ったんだよ。好きになった彼氏は学会員だったの、憎悪する気持ちも分かってほしいね」
「私から見たら、その女性は敬虔な方ですよ」
「そんなんじゃない。相手の男のほうがセックスが上手で気持ちがいいと言うんだから。あそこも大きくてね」
「ほう、ほう。男の体がいいわけね」
「ドスケベの馬鹿女だ」
「比較はいけませんなあ」
「ぼくはすごく劣等感を持ってしまったよ」
「ところで、これから、どんな仕事をなさるの」
「まあ、現場で働くんだけどね」
東島は頭脳労働に自信を失って、方向転換を図ったのだ。生まれつき頭はよくなかった。
「するとデスクワークってわけじゃないんだ」
「体を使って、働くのも悪くないと思ってね」
「そう言われてみると、現場の人に見えますね」
運転手の口調には蔑みが感じられた。
「ひどいなあ。認識を変えてしまうなんて」
「人は何にでも見えるもんです」
「何に見えるかは大事なことだ。私はこれでもプライドが高いからね」
「人間は皆プライドだけは高いですよ」
「とにかく、働かないと食っていけないんだ」
「相当に切羽詰まっているようですね」
「同情はいいよ」
「心配しているのです」
これ以上運転手から哀れみの目で見られたくなかった。タクシーが豪徳寺の前で停まると、彼は気を取り直して降りた。これから行くところはパチンコ屋の景品を卸している商事会社である。こんなところでも自分を雇ってくれればいい――
何に見えるか