お母さん熊の…最期の…お願い

 この作品をフレンドの、ほにゃさんにささげます。

 岐阜県の山奥にツキノワグマの母子がおりまして、仮に母親の名前をリュネア、二匹の子熊の名前をポポルル、ヘザムプとしておきましょう。
 このポポルルとヘザムプはともに男の子で、元気なのはいいのですが、仲があまりよろしくないのが母熊のつね悩みの種。
 それもそのはず、二匹の性格は相当に対照的でして、ポポルルはひどく物事に慎重、悪く言えば臆病。
 ヘザムプは勇敢と言えば聞こえはいいけれども、ひどく向こう見ず。
 ですから事あるごとに彼らはケンカを繰り返すのです。
 やれ食事の量がどうのこうの、川遊びにするか山遊びにするか、母親との添い寝の位置争いまで、とことんいがみあうのです。
 もちろん血を分けた兄弟ですから憎しみあう、とまではいきませんけれども母親としては、いつもハラハラしどおしで疲れる毎日。
 そんな時、彼らに父親がいてくれたらどんなにいいだろうか、とリュネアが考えない日はありません。
 しかし残念なことに、リュネアの夫は先年猟師に殺されてしまっていたのでした。

 その日リュネアは二匹の子をお腹の中に宿していたのですけれども、夫の帰りを待って棲家を守っていました。
 すると遠くから鉄砲の音。
 虫が知らせたのでしょう、リュネアは不安を抱きつつ夫を探しに音のした方向へ駆け出しました。
 案の定、すでに事切れた夫の亡骸を見つけると、涙の川、いえ海。
 何も悪いことなどしていないのに、リュネアは復讐を誓い、それ以来夫の仇を討つために、その猟師を探しているのです。
 とはいえ、とりあえず夫の忘れ形見である二匹の子供を育てるのが、母親には先決でしたが。

「兄弟仲良くしなさいって、何度言ったらわかるの?」
「だって、ヘザンプが悪いんだよ」
「なにをっ! お前が意気地なしだからいけないんだよっ!」
「行動する前によく考える癖をつけないと、駄目だよ、兄さんは」
「グズグズしてるから、チャンスを失う。ポポルル、お前を見てるとイライラするぜっ」
「別に見ててくれなんて言ってない」
「なにをっ!」
「やめなさいっ。もう、あなたたちときたら、どうしようもないわねぇ……。母さん、これから食べ物を獲ってきますから、おとなしく待っているのよ、いいわねっ?」
「はい。いってらっしゃいませ、お母様」
「母ちゃん、美味しいものたくさん、たのんだぜっ」
「はいはい。何があっても母さんが帰ってくるまでは巣の中から出てはだめよ。行ってきます」

「ほんとにしょうがないわねぇ。困ったものね。もし私に万一の事でもあったら、あの二人だけで生きていけるのかしら?」
 母熊は将来の不安を胸に、秋の紅葉した山をずんずん奥へ奥へと分け入ってゆきます。
 ヘザンプは明らかに勝気な自分に性格が似ているし、ポポルルは容姿も含めて亡き夫にそっくりだ、と母熊はいつも思います。
 大自然にあって、どちらの性格が向いていないとか、あるいは向いているということはありませんで、ただリュアネとしてみれば夫に瓜二つなポポルルを、ややヒイキしてしまわないでもないのです。
「そうそう、あなたも結構臆病ものだったわね。ふふふ。初めて会った時も、あなたは山犬に吠えられて逃げまわっていたものね」
 おや雨です。
 でも雨だからといって、母は休むわけにはいきません。
 ご存知でしょうが熊というものは、冬の間ほとんど動かずに冬ごもりすることが多いようです。
 それで秋のうちに、できるだけたくさん体に脂肪を蓄えるべく大食いするのですが、この夏はどうも天候が不順だったので植物の生育が悪く、そしてそれはその植物を食べる動物の栄養状態にも関係を及ぼして、熊の日々の生活へ少なからず影響を与えているのでした。
 母熊は三人分の食料を求めて半日、山中をさすらわなければならない、なんてことも珍しくありません。
 もちろん熊は日本では最大の獣ですから他の生物を恐れる心配は要らないのですけれども、唯一鉄砲を持った人間だけは例外で、普通の熊ならヒトを恐れて近づかないのに、リュネアに限ってはその敏感な嗅覚で自分の夫の仇を探してもいるのです。
 彼女は夫の遺体の周辺に残っていたヒトの臭いを決して忘れたりしませんし、できません。
 もしも再びその臭いの持ち主にリュネアがばったり出会ったならば、彼女は鉄砲の弾の危険などかえりみずに憎い仇に跳びかかるでしょう。
 でもその瞬間が、まさか今日、刻々と近づいていたことに彼女は、まったく気づいてはいませんでした。
 そしてその瞬間はまさに、ばったり、なる表現にふさわしいのでした。
「あおっ!」
 リュネアの眼前の茂みから、いきなりヒトが現れて悲鳴に似て叫んだのです。
 本来ならば熊の嗅覚は優れているので、ヒトの気配を覚れないわけがないのですけれども、ヒトが風下にいたことと、おりからの強い雨で臭いがかき消されてしまっていたのでしょう。
 ツキノワグマは本来性質がおとなしく、もちろんリュネアも驚いたには違いないのですが、それはヒトに出会ったからではなく、その人物の臭いが、まさに夫を殺した犯人のそれに疑いなかったからなのです。
 半分白髪になったヒトは男性で、彼は即座に銃を構えます。
 ところが一方リュネアの復讐心は少しもかげらない。
 今このときを逃しては、いつ再び機会がおとずれるかわからない、母熊はもう腹を空かした子供達の事すら念頭にありません。
 リュネアは立ち上がり両手を広げ、大きな咆哮をヒトに浴びせます。
「よ、よるな。う、撃つぞっ!」
 猟師は肝を冷やして腰を抜かしたのか地面に尻餅をついて、それでもしっかりと銃の引き金に指をからめています。
「撃ちたければ撃てばいいさ。たとえ心臓を撃ちぬかれてもお前の命をとるまでは生きててやるからね。夫の仇。いまこそ」
 当然ですが熊の言葉は人間にはわかりかねるでしょう。
 どうであれ、リュネアは言い終わるのを待たずにヒトに襲い掛かる。
 けれども、その前後雨風がいっそう強くなって木々がざわめき、熊とヒトの争いごとは、どうやら空からも地上からも見えなくなってしまったのでした。

「今、銃声がきこなかった?」
「いや、雷の音だ」
「違うよ。間違いないって」
「うるさいな。銃の音だから、どうだってんだよ?」
「なんか胸騒ぎがするんだ。母さんに何かあったんじゃないかなぁ。ちょっと見に行ってくるよ」
 ヘザンプはいつも臆病者のポポルルがそんな事を言うので少しだけ驚いて、つっけんどんに答える。
「馬鹿。言われただろう? 何があってもここを離れちゃいけないって」
「そんなこと言ってる場合か。ボクは行くよ」
「わかった。つきあう。でも母さんに怒られたら、全部お前が責任をとるんだぜ」
「ああ、いいともさ。行こう」
 二人は大木の洞穴の棲家から駆け出します。
 いつの間にやら雨風は止んで、雲の切れ間から日差しさえ降り注いで、鳥はさえずり始め、虫は浮かれ始め。
 でも二匹の小熊の胸中は、万が一にも万が一でありませんように、と穏やかではありません。
 だって彼らは無言で、両の目が真剣で、ちっとも遠足気分なる様子が見うけられないからです。

 彼らが十五分も山をさまよって、それでも頂付近で、ようやく母親の臭いらしきものにたどりつけたのは、かなり幸せです。
「臭いが強くなってきた。このあたりに母さんがいる」
「ああ。でも嫌だな、ヒトの臭いもするし、この鼻をつく刺激は、いったい何だ?」
 そう、火薬の、硝煙の臭いを二匹はまだ知らなかったのです。
「あ!」
 その時突然、ヒトがシダとコケに覆われた大岩の向こうから飛び出したので、小熊達はすぐに付近のブナの木陰に身を隠します。
 そして、鉄砲を抱えた男は静かに息をひそめている二匹の気配にはまったく気づかずに、よろよろと道なき道を下って行く。
 両肩にケガをしているようです。
 旧式のライフルを重そうに片手にぶらさげて、彼は何かをつぶやいているのですが、無論小熊達に理解できようはずがありません。
 そうしてヒトが傾斜をかなり下って、その姿と足音がほとんど感知できなくなってから、二匹はそろそろと大岩の向こう側へ歩を進めます。
 そこで彼らが見たものは、ぐったりと地に伏せている母親の巨体。
「母さん!」
 死んでいるのか、子供達が呼んでも答えません。
「さっきの人に、鉄砲に撃たれたんだ!」
 もう既にポポルルは涙声です。
「まだ生きてる。大丈夫だ」
 ヘザンプは母親の背中に耳を押し当てて心臓の音を聞いたようです。
「お前たち……」
 母熊はうっすらと半目を開けて、しかし苦しそうに呻きます。
「母さん、死んだらいやだよぉ」
「助かるよね? 死んだりしないよね?」
 母親は子供たちを見ることがもうかなわないように、視線を地面に置いたまま、弱弱しく答えます。
「ごめんね、母さん、もう、たすからない、と思う……」
「そんなぁ。いやだよ。ボク、母さんがいない世界で生きていく自信がないもの」
「お前たち、よく、おききなさい。母さんが死ぬ前にこれだけは、約束してほしいの。兄弟仲良く、なかよく暮らしていくこと。それを約束してくれないと、母さん、死んでも死にきれないから」
 母親の言葉は切れ切れで、もう命の炎が消えかかっているのを知って二匹は泣き顔をつき合わせます。
 そして目だけで互いにうなづきあってから、母に固く決意をのべる。
「わかった。母さん、約束する。もうケンカなんてしない。仲良くする。だから、だから」
 小熊達はだいたい同じような内容の事を口早に唱えながら、けれども、だから死なないで、と最後まで言えないくらい涙と鼻水がノドをせき止めています。
「よかった」
 母親は、嬉しそうに微笑んでひとすじ涙して、それから静かに目を閉じるのでした。

 秋の山に静けさが戻っています。
 先刻の雨で力尽きた色とりどりの葉がいっせいに落ちて、大地のフトンになって綺麗です。
 そこへ斜陽の赤い残照。
 そうした美しさはどうでもよい、とばかりに一人の人間が色を蹴散らしつつ、がさつに歩いてゆく。
 手に提げる銃も相当重たげに、どうやら先ほどのヒトのようです。
 なにやら独り言をしながら。
 少々気になるので、彼に耳を貸してみましょう。
「まったく、九死に一生とはあのことだぜ。死ぬかと思った。熊に跳びかかられて、上にのしかかってきて、わしのノドに噛み付こうとしやがった。だが、あいつは、わしを殺すことはしなかった。なぜだろう? わしが放り出した銃をにらんで見てやがったが、そうさ、あれには弾なんて入っちょらん。わしはあいつを撃ったが、あいつは傷さえ負っていないんだでな。わしは猟師じゃないからな、実弾はこめられていないのさ。空砲ってやつで、音はすれども、弾は出ない。熊よけに、護身用に、山に入るときは小銃を持ってくる、それだけだ。なんだかしらねぇが、あいつはその銃のカラクリを知ったようだ。わしを押さえつけながら、なんだか考えているような面しやがって、いや、実際に考えていたのかもしれねぇが。ともかく、わしからあいつはひょいと離れて、銃の臭いをかいだりくわえたりした後、その辺にごろんと横になった。わしはもう恐る恐る立ち上がって、銃を拾って、その場から逃げ出した。追っかけては来なかったが、肩越しに振り返ると、あいつ、申し訳なさそうにこっちを黒い目でじっと見ていやがった。謝っているみたいな。気のせいだろうが。とにかく助かったぜ。これで熊に襲われて助かったのは二度目だ。最初の時は、襲われたわけでもなかったが、ばったり熊に出くわしてしまって、わしが空砲を放つと、熊のやつ、死んでしまいやがった。人間で言えばショック死というやつに違いねぇ。臆病な熊もいたもんだぜ。それにしてもくわばらくわばら。もうわしは山なんて入らねぇ。どんなにうまいキノコが採れるったってよ、命あってのものだねだぁな」

 なるほどリュネアは死んでいなかったのですね。
 どうやら彼女の夫が死んだのは鉄砲の弾のせいではなかったようです。
 リュネアは、そういえば夫の遺体には傷跡が無かったわね、と回想したに違いありません。
 それを理解してリュネアはもう復讐する気も失せてしまったのでしょう、きっと。
 そこへ自分の子供たちの気配がして、母熊はある策略を考えたのかもしれません。
 今にも死にそうなフリをして、ポポルルとヘザンプに仲良くすることを誓わせた、それはとても賢い方法だったと思います。
 ですが……。

「おい、ポポルル、お前がのろのろしているから、獲物が逃げちまったじゃねぇかよっ!」
「違うよ、ヘザンプの足音が大きすぎるから逃げたのさ。狩は忍び足が原則だろう?」
「な~にが原則だぁ。頭で考えてばかりいるから、ろくに獲物が捕れないんだ、お前は」
「ボクは基本、菜食主義だからね、捕れなくてもいいんだよ」
 熊は雑食で何でも食べます。
「それはいいこと聞いたなぁ。じゃ、今日から母さんが捕ってきた肉や魚は、全部俺がいただくぜ、いいな? お前は、その辺の草でも食ってろ」
「全然肉を食べないとは言ってない」
「うっせー、ばーか」
「馬鹿はヘザンプの方だ」
「なんだとー」
 次の瞬間、兄弟はもう野獣そのものの噛み合いです。
 母親の甲高い雷が落ちるまで。
「やめなさい、もうっ。あなた達っ、ケンカはしないって誓ったでしょう? ほんとにもう。母さん、また死んじゃうよっ」
 二匹のケンカ癖はちっとも治りませんねぇ。
 でもそれでいいのかもしれません。
 お互いに本音を言える関係であればこそ、ケンカができるのですものね。
 リュネアも最近そう考えるようにしているようです。
 あ、初雪です。
 ちらりちらりと結晶が舞い降りて、山が初恋の乙女に似て薄化粧をほどこして、それでもまだまだ母熊の子育ては、しばらく終わりを告げないようです。

         おしまい

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お母さん熊の…最期の…お願い

お母さん熊の…最期の…お願い

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-08

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