BOY MEETS GIRL

 心地よい風が頬に当たる。鳥のさえずりが聞こえる。
「朝…か。」
呟きとも、とれないような声がもれる。
うっすらと目を開けると、白いレースのカーテンが頭の上のほうで揺れている。
ふかふかで白く大きなベッド。
うちの布団とは大違い。
そう思いながらいつもここでは目覚める。
天井も、壁も、白を基調にした色合い。綺麗に整理され、掃除の行き届いている部屋。
出窓付きでバルコニーもある、そんなおしゃれな部屋。
まるでドラマの中の世界。そんな部屋にこのベッドは存在する。
「しんじ?起きた?」
ベッドの上でうなだれていると、足元のほうから声がする。
「う・・・ん」
まだ何処となく目覚めきれない声で答える。
「朝ご飯できるよー。」
キッチンでカチャカチャと音が聞こえる。
トーストの焼ける匂いと、たまごを焼いている匂い。
そのたまご・・・正確に言えば目玉焼きだが、その目玉焼きを皿に移す音が終わり、ケチャップとともにテーブルの上へ運ばれる。
目玉焼きとケチャップ。
変だと思われた方もいるかもしれない。でも、ケチャップがすごくいい。
そんなことを考えているうちに、足元の声の彼女はすぐ脇まで来てベッドに腰掛ける。そして、柔らない感触を頬に受ける。
腕にも柔らかな感触を同時に受け、目を開ける。
小柄でシャープながらスタイルの良い体つき。
小顔で鼻筋が通った、美人ながらもかわいらしい顔立ち。そんな顔立ちに、ポニーテールがまた良く似合う。
こんなあどけなさはここでしか見られないのだろう。そして、ロングTシャツ1枚と言うすごくラフな姿も・・・。
「まおは、今日仕事?」
気合を入れ、ベッドに上半身を起し、服を着替える。お泊りながら、シャツの着替えは既にこの部屋に備え付けてあった。
壁のカレンダー、8月15日。今日の日付に赤い丸がしてあった。
彼女とつきあうようになって、今日でちょうど1年が経とうとしていた。
「そうだよ~。1時から雑誌の取材。ラジオ局内でね。そのあと、2時からそのままラジオ収録。6時から写真撮影。もう少ししたら、ドラマ収録が始まるよ~。時間がまた少なくなる~。しんじに会えないよ~。」
「えっ、ドラマ出演決まったのか?」
「えっへんっ!そうなのー。さっきマネージャーの都築さんから、電話があって、聞いたのー。」
「そっか。とうとう女優デビュー。おめでと。」
そう言うと、着替え終わった僕に、お礼の返事として言葉代わりに最高の笑顔と抱擁が帰って来る。
彼女は神山まお子、19歳、職業グラビアアイドル。いまは女優の卵。
小柄ながらスタイルが良く、かわいらしい顔立ちの理由はそんなところからきている。まるで作ったような言い方だけど、それはきっと・・・気のせいだ。
そんなことより気に掛かることが、今、出来た。それは、
「今、何時だ?」
「いま?いまは・・・十一時だよ。あっ!いっけなーい。しんじ、遅刻!」
「ははははは・・・・・。」
あきれ笑い。9時に起して欲しいと言っておいたのだが・・・・・。
こんなおっちょこちょいな所も他の人ではあまりお目にかかれないのかもしれない。それは彼女らしい一面だった。
作ってくれた朝ご飯を食べ、ネクタイを締めなおし、エリート商社マンとして、エリート商社マンらしくふるまい出掛ける。
そんな真山しんじ、24歳。


「はー・・・。」
ため息ひとつ。
ここは、とある街の、とあるビル郡の中にある、とある建物の、とある戸の前。その扉についている札には、フラッシュ出版とかかれている。
紺のスーツを着込み、ネクタイを締め、気合を入れ、約20社目となるこのフラッシュ出版の面接試験に臨むところ。
左手にはセカンドバッグ。中には履歴書が入っている。
『6月30日付、真山しんじ、19××年7月30日生、現在22歳、K大学卒業、印鑑に顔写真。』
右手には雑誌から切り抜いた求人広告。
『月額20万円、交通費支給、各種保険etc,etc・・・そして、活気ある元気な若者募集!アイドルナウ発行、今をときめくフラッシュ出版』
とある。
このアイドルナウという雑誌は、アイドル専門芸能雑誌。簡単に言えばアイドルの様々な情報を詳細に伝える、ゴシップ記事が並ぶアイドル情報誌。
ご覧のとおり、今から面接に行く。
昔は『弁護士になりたい』だとか、『刑事になりたい』だとか、『パイロットになりたい』などなど、いろいろと夢もあったはずなのだが、とあるビル郡の中にある、とある建物の、とある戸の前に立っている。
まあ、その夢も小学生や中学生の頃、TVドラマなどの影響でちょくちょく変わっていたわけだから、とあるビル郡の中にある、とある建物の、とある戸の前にいても仕方がないといえば仕方ないのかもしれない。
それに、そんなドラマ本位な夢ばかりを口から並べ立てているうちに、高校に入り、高校卒業後、大学になんとなく入り、そして大学卒業するも、この不景気の中、あまり真剣に就職活動をしなかった僕は、就職先も当然なく、就職浪人となった。
卒業してから数ヶ月がたち、ようやく本腰を入れて就職活動を開始。
でもなかなか現実は厳しいものだ。
「あと2週間で誕生日だというのに・・・。」
とは言っても、今までの誕生日が何か特別だったわけでも、何か思い出に残ってるわけでもない。
ここ何年かは、誕生日らしく、パーティーなどない。してくれる相手、彼女もいなかった。
「よしっ!」
僕は気合を入れなおし、背筋を伸ばしてドアをノック。
“コンコン”
「失礼します。本日、3時より面接をお願いしておりました真山しんじと言います。」
扉をあけ、大きな声で自己紹介して、お辞儀をする。
しかし、あまり物音がしない。人の気配もあまりない。
恐る恐る傾(かし)げた頭(こうべ)を上げてみる。
机が10台程度向かい合わせで2列に並ぶ。そして、一番奥にこちらを向くように机が1台くっついている。合計11台の机が出迎えてくれた。
決して広いとはいえないビルの1室。
どの机にも様々な書類やら雑誌やら写真やら鉛筆などが散乱している。
一番奥の机に一人座っている人がいる。しかし、その人も反応はない。
僕は間違えたのだろうかと、右手の求人広告誌を再び見ようとしたその時。
「真山くんかい?」
奥に一人いるその人は声をかけてきた。
「はいそうです。」
中肉中背、40代後半という感じで、シャツに綿のスラックスと言う、とてもラフな姿で座っている。
しかし、何処となく風格があり、パワーを感じさせる。
「本日面接をお願いしておりました、真山しんじです。上田さんはお見えになりますでしょうか?」
もう一度挨拶をするとともに、名前を伝える。
「おれだよ。こっちへきてくれるかい。」
その人はそう答える。
促されるまま、一番奥のデスク横まで行き、一礼をする。
「なかなか美男子だな。」
そういうと上田さんは立ち上がり、腕を組みながら僕の周りをぐるぐると回る。
まるで品定めをしている鑑定士のようだ。
僕はどうしてよいか分からず、ただ立っていることしか出来なかった。
その時、
“バタンッ!”
勢いよく扉があいた
「ただいま~。あ~、つかれた~。」
半そでのTシャツにジーンズ。ショートカットで、ボーイッシュな感じ。
その服装とは異なり、大人を感じさせる女性が、高揚した顔で事務所に入ってくる。
僕が、緊張しながら押して入った、重苦しい入り口の扉を、いとも簡単に押しのけて。
しかし、緊張して重かった室内の空気は一気に吹き飛んでしまった。
「おっ、かずえか。おかえりっ!」
上田さんのその言葉に反応するのもだるそうに、扉から一番近くのイスに座り、上体を机の上に伏せたまま、左手を上げて答える。
しかし、次の瞬間、我に返った様にバッと上体を起し、僕の方をじっと見る。
その顔は驚き半分、興味半分。そんな感じだった。
「編集長?もしかして今度採用予定の人?」
その女性は、上田さんに向かってそう話し掛けている。
「かずえはどう思う?」
「例のですよね?結構いいんじゃないでしょうか?」
このかずえと呼ばれる女性。本名は千野かずえ。
彼女のこの一言で、上田さんはうなずき、僕にとって、20社目にしてようやく採用の決まった。
天から与えられた誕生日プレゼントは、『就職』という形だった。


「うちは小さい会社でな。全部で6名しかいない。しんじ、君が7人目ということだ。」
面接の翌日、昨日と同じ机、編集長デスク横の場所でまず言われた事だった。
目の前には上田さん、いや、編集長がいる。
「うちの出版社は知っての通り、アイドルのゴシップ、おっかけネタ等を主に取り扱う雑誌、アイドルナウを発行している。しかし、しのぎを削る出版業界。一時は人気を博していたうちのアイドルナウ。しかし、正直、最近は業績があまり芳しくない。」
そこまでを続けて一気に話す上田編集長。
しゃべるたびに銀の丸眼鏡が上下に動き、はやしている口ひげも、髭ダンスを思わせるごとく上下に動く。
しかし、髭ダンスの髭より量は少ない。そして頭は・・・・・頭は、更に微妙に・・・・。
「しんじ、聞いているのか?」
「あ、はい!」
「では頼んだぞ。」
そういうと、編集長のデスクに載せてあった何冊かのファイルを僕の腕に乗せる。
「え、あの、どういうことでしょうか?」
全く説明は受けていない。もちろん、聞いていなくて聞き漏らしたと言うことでもない。
さっきのちょっとした話を受けただけで、あとはファイルを渡された、いや、押し付けられただけだった。
「その中に全部入っている。俺はちょっと用事あるから出掛ける。今日は戻らないからよろしく。」
「いってらっしゃい。」
それだけ言うと、みんなに見送られさっさと出掛けてしまった。
まあ、みんなと言っても、今日来たときには既に僕以外の社員6人全員いたわけではない。
しかも、その後出掛けた人もいて、いまはこの事務所に3人。
そのうち1人は当然のことながら編集長だったため、僕含めて2人きりでの見送り・・・。
それにしても、昨日も今日も事務所にあまり人がいない。
僕は仕方なく、3冊のファイルを抱え、席に戻る。
「あのー、千野さん、すみません。」
僕は千野さんに声を掛ける。彼女の席は、僕の真向かいだった。
「どうしたの?」
彼女はペンを止め、僕のほうを向いてくれた。
「なんか、昨日も今日も事務所にほとんど人がいませんけど、いつもこんな感じんですか?」
僕は事務所内を見回しながら聞いてみる。
「そうね。大体みんなそれぞれ担当の仕事を持っているからね。もうすぐ留守番のパートのおばさんはくるわよ。」
そう言って、何の不思議もなさそうにさらりと言う。
僕からの質問がそれ以上なさそうな様子を見て、仕事に戻ろうと下を向く。
僕もファイルに目を通そうかと、1冊のファイルを手に取る。
しかし、今度は彼女の方から僕に声をかけてきた。
「そう言えば、がんばってね。」
「あ、はい、がんばります。よろしくお願いします。」
「違う違う、その仕事の内容よ。」
そう言って、さっき編集長から貰ったファイルを指差した。
彼女は昨日とそれほど変わらす、Tシャツにジーパンと言う格好。
変わっているのは疲れていないということと、昨日気づかなかったことで、化粧は殆どしてなくて、肌がすごく綺麗ということだけだ。
「あの、千野さん。これ、会社の資料とかじゃないんですか?」
僕はてっきり、初出勤だけど、編集長が会社等の説明する時間がないので、この会社や雑誌のことが書かれている資料を置いていったのだと思っていた。
「あら、聞いてないの?そっか、まあ読んでみれば分かるわよ。それから、千野さんじゃなくてかずえでいいから。」
「そうですか。千野さん・・・じゃない、かずえさんは、この仕事の中身知っているんですか?」
「『さん』は別にいらないわよ。しんじと同じ歳だしね。」
「えっ?同じ歳なんですか?」
「そうよ。・・・なに?わたし、そんなに歳に見える?」
かずえさんは鞄から鏡を取り出して覗き込む。
ボーイッシュに見えても、意外と女性らしさがある。
「あ、いえ。とっても大人っぽいので・・・。」
「うーん、そういうセリフのときって、あんまり褒め言葉じゃなかったりするけど、まあ、素直にお礼を言っとくわ。」
かずえさんは、にんまりと笑顔を浮かべながら鏡を鞄へと戻した。
「ところで、このファイルのことなんですけど・・・。」
僕はファイルを指差しながら、中断された質問を繰り返した。
「あ、そうそう、その仕事ね。その仕事のことだけど、みんな知っているわよ。この事務所内のみんながね。誰もやりたがらなかった仕事だもん。みんな忙しいからね。あ、私にはその仕事は出来ないけどね。」
いまいち、何を言っているのか分からず、かずえさんの顔をじっと見つめていると、
「読んでみれば分かるわよ。」
再びそう言って、かずえさんは仕事に取り掛かった。今日はデスクワークのようだった。
『中身を読めば』か。
そう言われると何故だかとても気が重くなる。
ドラマなどでそう言われていい結果になった試しがあまりないからだ。
再びファイルに目を落とす。
僕の手の中には、100円ショップで買ってきたような3冊のファイル。
気が進まないけど、だからといってこのまま読まないわけにもいかない。とにかく、読まなければ進まない。
3冊のファイルを机に並べてみる。ファイルには番号が親切についている。
Vol・1、とりあえずこれから取り掛かる。
「うーん、なになに?しのぎを削る出版業界。昨今の不況により、当社発行の雑誌アイドルナウも例外なくそのあおりを受けている・・・。」
なんだか昨日聞いたような説明文だ。
「それから?次はと。ふーん、うーん、うぅ、んっ?」
僕は一瞬目を疑った。
「ええっっ!」
思わずその場で立ち上がる。
なんでかって、驚いたも驚いた。驚かずにはいられなかった。
「どうしたの?」
ペンを止め、かずえさんが声を掛けてくる。
驚いている僕を見て当然とも、面白がっているとも取れる笑顔で、僕の顔を見上げる。
「こ、これ、ほんとうに、こんな仕事内容ですか?」
僕の、慌てた態度を楽しむかのように、返事が返ってくる。
「なんか、その敬語、やめてほしーんだけど。」
「すみません。でも、この内容って・・・。」
「ぷっ、ぷはははは・・・。」
「かずえさん、な、何で笑うんですか?お、おちょくってるんですか?」
「ごめんごめん。そんなんじゃないよ。さっきのしんじの驚いた顔がね。おもしろくって。思い出し笑いってね。」
「そうなんですか。あはは。」
んっ?それって、やっぱり、おちょくられているってことのような気が・・・。
まあ、いいや。それどころじゃない。
「それより、これって、いいんでしょうか?この仕事内容、間違ってないですか?」
一呼吸置き、さっきの笑い顔から真顔になったかずえさんはこう切り出す。
「しんじさぁ、何でしんじが採用になったか分かる?」
「なんでって・・・・。」
ん?そういえば、昨日の面接、ジロジロと編集長に見られて、その時かずえさんが帰って来て、かずえさんが編集長と話しているのを見て、それから履歴書を編集長に手渡し、編集長から一言。
「明日から来いよ。」
と言われただけだった。
今考えると、編集長が僕の履歴書の中身、見ていたような気配もなかった。
「全然分からないですよ。そういえば編集長から質問も何もなかったですから。」
だろうねといった表情のかずえさん。口元は再びなんとなく笑っている。
僕は続けて問い掛けた。
「あの時、編集長、かずえさんに声掛けて、2人で話してましたよね?例のこととかなんとか。それって、これのことだったんですか?」
かずえさんは、問い掛ける言葉を交わすかのように、立ち上がり、机によりかかる。
僕のほうに背を向けた状態のまま、ゆっくりとした口調で答えてくれた。
なだめ透かし、言い含めるように。
「しんじがさ、今回選ばれた理由ってのは、実は、すごーく簡単なことなんだよ。そう、極めて単純で、極めて分かりやすいこと。」
そこまで言うと、かずえさんは一呼吸を入れ続けた。
「それは、ルックス。外見よ。ようするに、顔がかっこよく、スタイルもいいから採用になったわけ、ね。でも、今回のこの仕事にとって、非常に重要で必要な条件ってわけ。」
顔がいいからって・・・そりゃぁ、そう言われて悪い気はしない。
自分ではそれほどかっこいいと感じたことはなかったけど、たまにそう言われることもあった。
僕が怪訝(けげん)そうな表情をしているとかずえさんが続けた。
「しんじの気持ち、分からなくはないわ。でも、仕事なのよ。割り切るしかないんじゃない?」
「確かに、仕事といわれれば仕事かもしれないですけど、こんな内容って許されるんですか?」
机の上のファイルを見つめる。手に取るのも恐ろしく、机の上に閉じておいている。
「そうね~。でも、向こうだって悪い気持ちはしないんじゃない?認められているってことだから。」
「でも、それにしてもですよ・・・・。」
やりきれない気持ちが胸のどこかに引っかかる。
「最初に言っておくわ。ここでは、この会社では、みんな気持ちのどこかで割り切れない思いを持ちながら仕事をしているところもあるのよ。人でなしだとか、ダニだとか、ハイエナだとか、ハエのようだとかって罵声を浴びたり、けなされたりね。そして、本当にこれでいいのかって心のどこかで悩む。でも、それがゴシップ記者としての真実。辛くて当り前。毎朝配達される新聞や文芸雑誌の記者ような、社会的地位がある華やかな世界ではないのよ。」
「・・・・・。」
とても気迫のある、それでいて何処となく切なさも漂う、そんなかずえさんの言葉だった。そんなかずえさんの言葉に、僕は次の言葉が出なかった。
これが仕事・・・。
僕はファイルを再び開けて、その内容を確認する。そこに書かれていること。
『リストの中の女性一人と付き合い、深い関係となること。』
女性と付き合うことが仕事だということなのだ。
それだけ聞くと、とっても楽しそうな仕事に聞こえる。でも、結果的には騙す事になる。
今回、僕に与えられた仕事の内容とは、それは簡単に言えば完全密着取材。
でも、相手はそれを知らないし、知られてはいけない。
完全に恋人同士になることで、私生活を覗き見る。
それにより得た情報を特集として後で記事にする。
もちろん、今売れているアイドルでは当然難しいし、こちらがゴシップにされるだけで終わってしまう。
そこで、これから売れそうなアイドルに接近し、恋人となり、情報を得る。
そして、後日記事にする。
だからある程度のルックスも必要。そういう筋書きの仕事だった。
編集長から渡された3冊のファイル。
そのうち2冊には女性の名前がびっちりと書いてあった。
それは、編集長から見た、これから人気が出そうな女性アイドルの一覧。
ファイルVol・1には、今の出版業界の現状とこの雑誌の現状、今回の仕事の内容と書いているページ数が少ない。
そんな少ないページの最後に、ひときわ大きく今回のプロジェクト名が記されていた。
“BOY MEETS GIRL”


“カランッ、カランッ、カランッ”
「いらっしゃいませー」
店員の声がする。
とある街の、とあるビル郡の中にある、とある・・・・ファミリーレストランの、とある戸を入ったところ。
ファミリーレストランで“カランッ、カランッ、カランッ”なんてあり?なんて思った人、正解。
とりあえずそんな感じで、扉を開けて入ったわけで。
いや、自動ドアだったので自分で開けたわけではないのだけれど・・・。
「何名様でしょうか?」
駆け寄ってきたウエイトレスの女の子が、マニュアル通りの言葉を奏でる。
しかし、外の暑さとは無縁なくらい、そのウエイトレスの女の子の声は涼しげで軽やかだった。
「1人です。」
「それではこちらにどうぞ。」
入り口から入ってすぐ脇にある、アイスクリーム販売ケースの前を通り過ぎ、レジの前を抜けて席に案内される。
「こちらでよろしいでしょうか?」
窓際のテーブル席の前に来て僕にそう聞いてきた。
いつも思うことがある。
この時に『嫌です』って答えられたら、ウエイトレスの女の子はどうするだろうか?
多分、慌てるのだろうな。
もしかしたら、この大人しそうに見える子も、他のウエイトレスの子達と、
『あの客さぁ、とーっても嫌なヤツー。でさ、でさ、あの髪型もかっこ悪くな~い?』
などと裏で文句を言っているかもしれない。
そんなことを考えると口元が引きつった。
まあ、僕には『いやです』なんてこと言う勇気はとてもなかった為、一度も言った事はないけど。
「あの~、どうかされましたか?」
「あ、いや、なんでもないよ。ここでいいよ。」
ウエイトレスの女の子から突っ込まれ?て慌てて席につく。
水とメニューを貰い、店内の涼しさにほっと一息つく。
「お決まりになりましたらそちらのボタンでおよび下さい。」
テーブルの上のボタンを差し、笑顔で奥のほうへ戻っていった。
店内は、4人掛けのテーブル20セットくらい。
フランチャイズのファミリーレストランとしては決して大きくはない。
その店内に、半分くらいの席が埋まっている。
学生にOLらしい人、サラリーマンの姿もある。この暑さでみんな涼みに来ているのだろう。
 入社から1ヶ月以上がたった。
もうすぐ周りはお盆の夏休みに入るだろうこの時期。
窓の外を見ると、熱気で景色が揺れている。最高気温33.5℃。風もなく、暑さばかりが目立つ。
「スーツなんて着てられるか。」
愚痴半分でつぶやく。
入社以来、あのファイルを、いや、今は手元にあるからこのファイル、とずっとにらめっこを続けている。
リストの上の子から、尾行、アタック。そして撃沈。
そう、きちんと仕事をこなしている。
一生懸命口説き落とすべく、ナンパを繰り替えす日々。
理不尽と思いながらも、結局、やめることなく続けているのだ。
しかし、既にVОL3のリスト2冊目のファイルに並んでいた名前も順調に消されていき、今では殆ど残っていない。
今朝、会社に出勤したとき、編集長にこの仕事のことを相談してみた。
「編集長。この企画、やっぱり無理があると思います。」
「何のことだよ。」
「何って、このBOY MEETS GIRLの企画です。」
「どこが無理だというんだ。」
「この企画そのものが、です。」
「しんじさ、頭使っているか?」
「頭、ですか?」
「そうだ。使わないと駄目さ、頭を。どうしたら相手が喜ぶのか、その気になるのか。ちゃんと調べながら、こう、演出を大事に行かないと、なっ!」
「そんな、簡単に『なっ!』なんて言って、肩叩かれたって・・・。」
「しんじ、編集長の言う通りだぞ。仕事はすべて頭を使わないといかん。」
「遠山さん。」
突然会話に入ってきたのは遠山健二さん、30歳。
気になる人もいるかも知れないので、伝えておくと、独身。
自称もてる・・・らしい。ちなみに、副編集長。でも、実はこれも自称。
しかし、ここの職場が長いことは事実。編集長の次に。
そして、天然パーマで、ウンチクを結構持っている。これは真実。
「でも遠山さん、ドラマじゃないんですからそう簡単に『はいそうですか、お付き合い宜しくお願いします』なんて行きませんよ。」
「だから演出なんだろ。場面を作るんだ。ドラマが現実にないなら、そのドラマを作るくらいでないといかん。そうですよね、編集長?」
「そうだ。成せばなる。成さねばならぬ、何事も、って、さ。」
「そこまで言うならお二人に一度手本を見せてもらいたいですよ。もう何十人にも当たって駄目な僕には見本が必要ですよ。」
「・・・・・・・・・・・・・」by 編集長。
「・・・・・・・・・・・・・」by 遠山さん。
「あ、俺はこれから出掛けなければならんから、な、遠山、あとはよろしく頼む。」
そそくさと事務所を後にし、出て行く編集長。
「あ、編集長?・・・逃げた。」
ポツンと取り残される遠山さん。横目で僕の方を向き、目が合う。
「じゃあ、遠山さん。宜しくお願いします。」
僕はすかさず頭を下げた。
「あ、もう9時だ。印刷の打ち合わせ、もう行かなくては。しんじ、おまえなら出来る。大丈夫だ。自分を信じるんだ。」
両手を僕の両肩に掛けて、力説する。
ホワイトボードには印刷打ち合わせ、11時からになっているんですけど。
と、僕がそう言うよりも早く、遠山さんは出掛けていった。
「印刷屋さん、ここから10分くらいなんのはずですよね?」
席に戻り、僕は向かいのかずえさんに問いかける。
「だねー。」
結局逃げられ取り残されたってことだよね、はーぁ。
ため息つくしかなかった。
ということで、本日やる気も起きず。
とぼとぼ歩いて、とあるビル郡の中にある、とある・・・・ファミリーレストランで現実逃避となった。
「はー。」
リストを眺め、ため息を付く。
いや、リストと言っても、ファイルのリストではなく、食事のリスト。
現実逃避の最中ですからファイルのリストは見ませんよ、絶対に。
メニューを眺め、時計を眺め、まだ昼には2時間も早い、腹の減りも、それほどでもなかった。
「お決まりでしょうか?」
先程のウエィトレスの子が戻ってくる。
「うーん・・・」
後にしてもらおうかと思ったのだが、あるメニューが目に入る。
「このモーニングセット。まだできますか?」
提供できる時間が朝10時までとなっていたのだ。
「えーっと・・・。」
ウエイトレスの女の子は少し考え、そそくさと厨房のほうへ戻っていく。
結構いいウエイトレスの子だと感じた。面倒くさがりのウエイトレスの子だと、その場で断っていたと思う。
しばらくすると厨房から戻ってくる。
「はい、大丈夫ですよ。」
笑顔で一言。
「じゃあ、それをお願いします。」
サラダにトースト、コーヒーに、そして目玉焼きが付いているセットだった。
僕はたまご料理の中で、目玉焼きが結構好きだったりする。
なぜだろう?一番素朴で、シンプルで、飽きがこないのがいいのだろうか。
僕は目玉焼きにケチャップを掛ける。
これが実に微妙な味でやめられない。
その微妙な味が好きなためなのだろうか。どちらにしても目玉焼きは好きだ。
ところが、ケチャップ派はあまりいない。そして、案の定、
「お待たせしました。モーニングセットです。」
テーブルの上に、コーヒー、メインディッシュ、サラダボウル、ドレッシング・・・と、先程のウエイトレスの女の子が手際よく置いていくが、その中にケチャップの姿はなかった。
当然と言えば当然なのだが、何処の店に行ってもケチャップを目玉焼きと一緒に出してくるお店は今までに見たことがない。さっきオーダーのとき、ケチャップを添えてもらうよう頼む事をうっかり忘れていた。
「あの、すみませんが、ケチャップをいただけませんか?目玉焼きに付けたいもので。」
「えっ!」
思わず出たという感じでウエイトレスの子は声を上げていた。その表情は当然のように驚いた表情。
少数派のケチャップ。
驚くのも無理はない。いや、それにしても・・・。
確かに、ケチャップは少数派かもしれないけど、そこまで驚く必要はない気もするのだ。
「あまりケチャップ派なんていないからびっくりしたよね?」
「あ、いえ、すみません。」
そう言うと、そのウエイトレスの子は頭を下げる。そして、続けた。
「実は、ケチャップに驚いた訳ではないです。」
「そうなの?じゃあ、なんで?」
「それが・・・」
不思議に思った僕はウエイトレスの子に聞いてみると、言いにくそうに、僕の後ろをチラリと見る。
その視線を辿ると、僕のすぐ後ろに女の人が座っていた。
僕と背中合わせなため、顔は見えない。
連れている人はなく、1人で来店している感じだ。
白いシャツ、ピンクのスカート、ポニーテールの清楚な感じの後姿。テーブルには僕と同じモーニングセットと思われる皿の数が並ぶ。
そしてその脇に、ケチャップの小瓶が見えた。
「普段、目玉焼きにケチャップつけて食べる人、そんなにいないんですけど、今日は2人目だったので、ちょっとびっくりしてしまって、どうもすみませんでした。」
「そうだったんだ。」
確かにそれは驚くかもしれない。
ケチャップ派の僕ですら周りでケチャップ派の人に出会った事はないのだから。
「あの、今、ケチャップ、あの方のところのしかないので、声掛けてみますね。」
「あ、いいよ、自分で貰うから。」
後ろの女の人に声を掛けようとしているウエイトレスの女の子を静止する。
僕が止めたのは、ウエイトレスの子が可愛かったからでも、気があったからでもない。
興味があった、自分以外にケチャップをつけて目玉焼きを食べる人に。
「そうですか?それでは宜しくお願いします。」
そそくさとウエイトレスの子は厨房へと戻っていった。
僕はその姿を見送ると、後ろの女の人に声を掛ける。
「すみません。」
「・・・・・。」
反応がない。
「あのー・・・。」
もう一度声を掛け、肩を軽くたたく。
「きゃっ!あ、はい。すみません、ボーっとしてしまっていて。」
「い、いえ、僕のほうこそ、いきなり肩越しに声掛けたので、驚かしてしまってすみません。」
こちらに向いたその女性というより女の子、小顔で鼻筋が通った、美人ながらもかわいらしい顔立ち。年は16、7歳くらいに見える。
「申し訳ないんですが、ケチャップを借りられたらと思いまして。」
「あ、すみません。」
そういうと、その子は自分の座っているテーブルの方に向き直り、ケチャップの小瓶を手にとる。
そして、そのまま立ち上がると、僕の座るテーブルのところまでわざわざ運んでくれた。
「どうぞ。」
そう言うと彼女はケチャップの小瓶をテーブルの上に置く。
そして、そのまま自分の席に戻り、腰をおろした。
すぐ後ろの席だからわざわざ運んでくれたと大げさに言うほどの距離でもないのだけれど、普通はあまりしないと思うし、それに、あまりに華麗で可憐な、それなのに自然すぎるほど自然な一連の行動だった。
その仕草はとても先程の16、7歳に見て取れた姿ではなく、20数歳の女性を思わせた。
「そのー・・・」
その女性は席につくと再びこちらに顔を向け、声を掛けてきた。
その笑みはやはり16、7歳の女の子、と言う感じだった。
さっき20数歳に見えたのは目の錯覚だろうか。
「ケチャップは何に使うんですか?」
僕の肩越しにこちらのテーブルの上を伺いながら、その女の子が聞いてきた。
「目玉焼きだよ。」
そう言うとその子は大きな目をさらに大きくして、満面の笑みを浮かべて、大きくうなずいた。
「ですよね、ですよね。絶対そうですよね。目玉焼きにケチャップは絶対ですよね。」
「ま、まあね。」
「よかったー。同じ人もいるんだー。ひどいんですよ。友達みーんな、ケチャップは変だっていうんですよねー。変なのはどっちだよって感じですよ。全く分かってないんだから。」
なんだか独り言にも取れるような話し方で、言葉をとめどなく口走っていた。
さすがに少し驚いてしまったが、その一生懸命さがまたかわいらしくもあった。
「あ、すみません。勝手に独りでしゃべってしまって。」
一通り話をして気が済んだのか、一言も声を出せず、驚き半分の僕を見て、我に返ったように、今度はきちんと人の言葉として分かるような会話をしてきた。
それから僕たちは目玉焼き談義に花を咲かせた。
しかも、すぐ隣り合わせのテーブルを1人1つずつ占拠して、誰も入ることの出来ない、目玉焼き同盟と言う目に見えないバリケードを張って。
「あのー、すみません。」
「はい?」
突然声がする。
目玉焼き話を中断し、2人して顔を上げると、そこには先程のウエイトレスの女の子が立っていた。
「すみません、お昼に近くなって、混んできたもので、席をどちらかに移ってはもらえないでしょうか?」
お昼に近い?2人して時計を思わず見る。既に11時30分頃になっていた。あれから1時間もの間、目玉焼き談義をしていたのだ。
「すみません。」
2人してバツ悪く頭を下げる。
とりあえず、ということで、ポニーテールの女の子は席を立ち、僕の向かいに座った。
そしてなにやらメモをしている。
僕は最後に残った、既に冷えたコーヒーを飲み干した。
周りではいつのまにか、店内に20席あるテーブルはほとんどが埋まっていて、雑踏感が漂っていた。
「これどうぞ。」
そう言うと、その女の子は顔を上げて、今書いていたメモを渡してきた。
そこに書かれていたものは、名前と住所、電話番号だった。
「また今度どこかで目玉焼きのお話、一緒にしてください。」
そういうと、自分の伝票を手にとり、会計をして店を出て行った。
僕は彼女を目で追い、振り返る彼女に手を振って見送った。
「さて、そろそろ僕も行かなくてはいけないか。」
僕は伝票とメモを手にとる。
「あんな子が、彼女だったらいいかもな。」
そんなことを思いながら、半分に折られたメモを開き、その名前を見つめながら、自然と笑みがこぼれる。
「名前は・・・・神山まお子か。んっ!あれ?」
この名前には見覚えがあった。
「まさか・・・。」
急いでリストを見る。
今度は料理のリストではなく、編集長から渡されたアイドルリストの一覧を。
もう残り殆どない名前のリストの最後の欄に、しっかり名前が載っていた。
この瞬間、彼女が僕の仕事のターゲットとなったのだ。
ドラマでしかありえない出来事。
演出しようとして考えなければならなかった、ドラマティックな出会い。
その出会いが偶然にも舞い込んできた。
僕はこの出来事に高揚し、彼女であったことに感謝し、同時に仕事が無事には自前る事への安堵感を感じていた。
しかし、この出会い方が僕にとって、幸だったのか不幸だったのか、この段階ではわかっていなかった。


「そうか、しんじ、やったな。」
あの出来事、神山まお子と目玉焼き論議をしてから二週間後、彼女ができたと編集長に報告した。
出来れば彼女をターゲットにしたくない思いもあり、リストの残りの人たちにアタックしたのだが、そううまく行くはずもなく、結局彼女と付き合う事となったのだった。
報告を聞き、椅子から立ち上がり、満面の笑みで僕を迎える編集長。
「な、言った通り、しんじには出来たじゃないか。」
その報告を隣で盗み聞きし、そう言ってニヤニヤと笑う遠山さんの姿。
全く人の気も知らないで2人ともいい気なものだ。
「しかしな、しんじ。気をつけなければならん。」
編集長がまじめな顔になり話し始めた。
「おまえも分かっているとは思うが、おまえ自身がこのフラッシュ出版の人間であることは絶対に知られてはならん。」
「でも、今回の出会い方は偶然だったので、話をしても大丈夫なんではないでしょうか?」
「甘いぞ。しんじ、この世界は怖い。もしここで話して、警戒心から彼女が逃げてしまったらどうする?たちまちこの計画はすべて水の泡。おまえの努力した1ヶ月以上もの時間も無駄になるんだぞ。どうせ、もうリストに名前は残っていないんじゃないのか?」
「うっ・・・・・。」
「やっぱりか。だったらなおのこと、慎重にならなければいかん。」
なんだか、こじ付けのような気もする。しかし、た、確かに編集長の言うことは一理ある。
「それでしたら、どうしたらいいんでしょうか?これから付き合っていくというのに、何も仕事がないって言うのも・・・。」
「それは当然だ。そこでだ。」
編集長はそう言うと、自分の席に座りなおし、引出しの中から掌くらいの箱を出してきた。
「これを使うんだよ。」
そう言って差し出されたその箱を開けてみると、中には名刺が入っていた。
僕の名前が入っている。
その上には営業企画第1課と記され、日本M商事との文字が目に入ってくる。
「日本M商事!これって、商社の大手じゃないですか!いくらなんでも大きすぎませんか?僕ではとても入れないところですよ。」
「そんなこと分かっているさ。しかし、これくらいでないといろいろと面倒なんだ。」
うーん、僕が考えるにはもっと面倒な気もするのだが・・・どこがこれくらいでないと面倒なんだろう?名刺を見つめて考え込む僕に、編集長が続ける。
「分からないようだから教えよう。大手は社内の規約も厳しい。私用電話は全く許されていない。そして、仕事で出掛けていることも多い。さらに、その名刺の電話番号、もちろん本物だが、代表の電話番号だ。社内の色々な人を経由していく訳だから、とっても電話口に出るまでに時間が掛かる。だから連絡したいときは携帯電話に連絡を欲しいと彼女にいうわけだ。だから時間の融通が利き易いように営業職にしてある。」
「なるほど。でも、何で第1課なんでしょうか?」
「それは簡単だ。」
そう言うと、編集長はメガネを外し、レンズを拭き、再びかけなおしてから答えた。
「1課のほうがエリートと決まっているから、なんとなく仕事が出来るイメージあるだろ。」
「イメージって・・・・・。ところで編集長?この課は本当に存在する課なんですよね?」
「・・・・・・・・・・・」
「へ、へんしゅうちょ~?」
「ま、まあ、それはいいとして、これ、お前に渡しておくから。」
編集長は再び自分のデスクの、さっきとは別の引き出しから、携帯電話を取り出して机の上においた。
「これって。」
「専用の携帯電話だ。誰にもこの電話番号は教えるなよ。あ、彼女以外には。だから、彼女以外から掛かってくることはない。これならこの電話が鳴れば相手が誰かすぐに分かるだろ。」
「たしかに。」
「ま、そういうことで、しんじ、小物は用意した。後は頼んだぞ。俺は出掛けるから。」
「へ、へんしゅうちょうっ?!」
そう言うとさっさとまたまた出掛けた。
またまた、僕はまともに説明されることもなく逃げられてしまった。
ふと、遠山さんのほうを見ると、既に扉のほうへ向かってこそこそと出て行くところだった。
遠山さんにもまたまた逃げられたのだ。それにしてもひどい上司に先輩だ。
そこへ、かずえさんが入ってきた。
「おはよー。」
「おはようございます。」
僕はうなだれながら、かずえさんと一緒に席に着いた。
「はーーーーー。」
気が重い。気が重い。気が重い。気が重い。気が重い。
「う、うううううーーーーー。」
「な、なに、うつむいて。そんなに唸(うな)ってたら、怖いよ。どうしたの?」
かずえさんが声を掛けてくれる。
相変わらずTシャツにジーンズ姿は変わらなかった。もうこの姿が制服のようにも思えてくる。
でも、冬になったらどんな格好をするんだろう?いつも元気だから冬もTシャツにジーンズだったりして。
「そういえば、かずえさん、今日は出掛けないんですか?」
「出掛けないんじゃなくって、今、帰ってきたところよ。」
事務所へは、家からではなく、現場からのようだった。
でも、それは他のスタッフも同様で、別に珍しいことではない。
「もしかして、張り込みでした?アンパンと牛乳片手に?」
「そうそう、ホシを待つこと5時間。やっと現れた玄関口で一斉に検挙・・・って、刑事じゃないんだから。」
僕は、かずえさんと冗談が言えるほど、仲良くなっている。と言うより、ここの人たちはみんなどこか屈託がない感じ。
悩みなど抱えているのだろうか?と言う感じだった。
「だけど似たようなものよね。まさに張り込みだものね、この仕事。」
「大変ですよね、待つことばっかりで。」
「そうね。けど、しんじの仕事のほうがもっと大変でしょう。ところでしんじ、今日は出掛けないの?」
「はぁ、いぇ、まぁ。」
事務所の中には既に電話受けのパートのおばさんと僕たち二人以外には誰もいなかった。
時計を見ると、今、丁度10時を指している。
この事務所の時計、昔の学校にありそうな、丸くて大きな時計で、出入り口の扉の上に掛かっていて、存在感を放っている。
赤い秒針がカチコチと大きな音を立てて動き、この小さな部屋には少々異様な感じにも映る。
そっか、10時か。確かに、いつもならもうとっくにいない時間だった。
「なによ、歯切れの悪い返事して。もっと元気出しなさい。仕事がうまく行かないぐらいでへこたれてるんじゃないのよ!」
そう。まだかずえさんは相手が見つかったことを知らない。
それもそのはず。神山まお子との出会いは、さっき編集長に話すまで、他の誰に話さなかった。当然、事務所に今戻ってきたばかりのかずえさんが知るはずもない。
「実は、見つかったんです。相手。」
「・・・・・・・・」
かずえさん、固まる。
そして数秒後。
「見つかったって、例の仕事のターゲット?ほ、ほんとうに?」
「はい、見つかったんです。けど、」
「すごいじゃない!それはたいしたものよ。おめでとう。」
かずえさんは固まって一瞬沈黙したあと、『けど』を続けて言おうとした僕の言葉をさえぎり、飛び上がりそうな勢いで立ち上がって喜んでくれた。
それはそれで嬉しいんですけど、けど・・・、けど・・・。
「なに、仕事うまく行っているのに、嬉しそうじゃないね。」
かずえさんは自分だけ喜んでいる事に気づき、ノッてこない僕をつまらなそうに見つめる。
そして続けてこう言い放った。
「もしかして、まだ甘いこと考えてたりする?いい、この世界はね、騙し合いが多く存在するのよ。それにへこたれている場合じゃないでしょう。この計画がうまく行かなかったらここにいられなかったかもしれないんだからね。」
「いえ、この仕事を続ける以上、騙す事になることは仕方ないと分かっています。でも実際に相手が決まると本当に黙っていけるんだろうかという不安もあったり、プレッシャーも感じたりで。それに、本当にいい子だと思うんです。だましたりする世界には無縁な感じの。」
そう言うとかずえさんはあきれた顔で椅子に腰をおろし、静かに話してきた。
「しんじ、あなたその子に惚れてしまったんじゃない?仕事なのよ。だます相手なのよ。あなたの恋人探しをするために1ヶ月以上もの時間があったわけではないのよ。」
「それはそうなんですけど。」
「それに、あなたが言っていることは言い訳で、ただ怖いだけじゃないの?自分が酷い人間にみられるのが怖い、ただそれだけよ。この仕事をする上で一番最初に悩むこと。誰もが直面する最初の壁よ。それを乗り越えなければこの仕事は続けていけないのよ。」
いつもいつも、かずえさんの言葉は胸に突き刺さる。
たぶん、いや、きっと、図星なんだと思う。
自分が酷い人間だと思われるのが怖い。
でも一体誰に? 
神山まお子にそう思われたくないのだろうか?
神山まお子だからそう思われたくないのだろうか?
それはまだわからなかった
「しんじ、私、もう帰るけど、これだけは言って置くわね。あまり感情移入しないことよ。演技をしなさい。自分が役者になることよ。演劇部にいたんでしょ?演じきるのよ、もう1人の真山しんじを。」
そこまでいうと、かずえさんは立ち上がり、手元にあったかばんを手に取り事務所を後にした。
「もう一人の真山しんじを、演じるのか・・・。」
その時僕は、自分の中の、理想となる真山しんじを、自分とは正反対の自分をイメージしていた。


「しんじー。待った?」
「いや、今、来たとこ。」
とある街の、とあるビル郡の、とある・・・噴水の前。
M商事の商社マンとしての僕がそこにはいた。
自分なりの商社マンとしてのイメージで、もう1人の真山しんじとして彼女と付き合い始めていた。
もちろん相手は神山まお子。
あれから気持ちを切り替えて電話を掛け、既に数回のデートを重ねていた。
「でもしんじ、大丈夫だったの?今日仕事だったんじゃないの?」
僕の顔を覗き込む様に、不安そうな、心配そうな表情を浮かべる。
少し痛む僕の胸の内。
「いや、大丈夫。まおの為だし。それにまおはこれからきっと、仕事が忙しくなって、休みも少なくなっていくと思うから、今のうちに頑張って合わせないとね。」
なんて言ってはいるけど、合わせるまでもない。
時間的には大丈夫に決まっている。なんと言っても彼女と会うことが仕事なのだから。
「ほんとにー?うれしー。」
そんなことを知らない彼女は、無邪気な笑顔でとても嬉しそうだ。
お昼近くに待ち合わせをする。
とある街の、とあるビル郡の、とある・・・噴水の前。
ここが彼女とのいつもの待ち合わせ場所になっていた。
グラビアアイドルの立場である彼女だが、今はまだそれほど人目を気にする必要もないのだそうだ。
それに、逆にこういうビジネス街のようなところのほうが分かりにくいとの事。
これは、遠山さん情報だ。
「昼飯でも食べに行こうか。」
「うん。」
彼女と出会ってから月は変わり、9月中旬。
しかし、今年も残暑厳しく、まだまだ暑い。
今日もそんな日だった。
まおは、珍しくズボン姿で、白い綿のパンツ、白い半そでのTシャツに、ピンクのシャツをはおり、ピンクのラインが入った白いスニーカーを履いていた。
そして、僕の姿は商社マンらしくいつもと変わらずスーツ姿。さすがにジャケットは手に持っていたけれど。
暑さもあり、それほど遠くないイタリアンレストランの店に入る。
オープンテラス風のちょっとおしゃれな店。
「わぁ、かわいい。こんなお店入ったことない。」
いつもまおは無邪気だった。
どこへ行っても目を輝かせて喜ぶ。
なるべく彼女に喜んでもらえるよう、いつも行く店は最初に出向き、下調べを済ませている。
居酒屋などには連れて行けない。ドラマのような付き合い方を僕なりに一生懸命演出するのだった。
大抵は経費で落ちるのだが、ポケットマネーも少なくない。それも仕事のためだ。
「最近はどう?」
テラスから少し店内に入った、壁際の席。白いテーブルクロスの上に、薄い黄色のクロスを重ねた丸いテーブル。
座るところが少しくぼんだ、背もたれもおしゃれな木のしっとりとした椅子。
ナイフとフォーク、スプーンが、白いパスタ皿の横に綺麗に並ぶ。
テーブルの端には白い花と水差し。そしてピルスナー2つに水が注がれている。
あまりおしゃれな店には入ったことがなかったため、かなりナイフとフォークの使い方は練習をしたのだが、いまだに上手く使いこなせない。
「うーん、すっごく、おいしいよー、このパスタ。」
彼女は、そんな僕の努力など知る由もなく、今運ばれてきたパスタをフォーク1本で既に口に運んでそう答える。
「そうじゃなくって、仕事のことだよ。今は仕事何してるの?」
彼女は、続けてパスタを口に運ぼうとする手を止めて、首を傾げて考え込む。
本当は聞くまでもない。知っているのだから。
今回のこの仕事、ターゲットが決まってからは1人で行動しているわけではなかった。
あくまで恋人役としての僕はあまり彼女と会っている時間以外に彼女の周りをうろつくわけにも行かず、他は遠山さんが仕事のスケジュールや身辺状況などをマークしてくれている。
当然、情報はこちらに筒抜けで、逆にそれらの仕事に対する感想を僕が聞きだす、目に見えない心の内をさらけ出す事が役割になっていた。
遠山さんと2人で行動している分余計に、これは仕事なんだと言う風に気持ちも踏みとどまらせていた。
「明日は雑誌の取材があるよ。それに、写真撮影も。雑誌の巻頭特集に出ることになったの。」
それだけ言うと、また食べることに夢中になる。
今見てもこの無邪気さは16、7歳に見える。彼女が20歳だと知ったのは最初のデートだった。
「それでさ、まおは今の仕事どうなの?」
「ん?だのじいよ。」
口にパスタをほう張りながらしゃべっている。
「楽しいのか。水着とか着て写真撮ったりするだろ?はずかしくないのか?」
「うーん。」
ピルスナーに注がれている水を飲み、一息ついて答える。
「それほど考えたことないよー。世の中には大変な仕事たくさんあるでしょ?その人たちに比べたら、まおの仕事って恵まれているような気もするから。それともしんじはまおが水着になるのいや?嫌ならやめること考えてもいいよー?」
「や、やめるなんて!そ、そんなこと、言わなくても、い、いいよ。」
かなり慌てた。
じーっとこちらを見つめる彼女。
こ、これは下手に返事をすると本当にやめてしまいそうな勢いだ。やめてしまわれたらここまでやってきたことが無駄になる。
慌てた様子の僕をみていた彼女は不思議そうな表情を浮かべる。
「あ、いあ、な、なんでもないよ、せっかく頑張っているまおをとめる気はないよ。」
どぎまぎのあたふたな状態で答える。
「そっかー。」
そう言うとまたパスタを必死に食べ始める彼女。
それにしても、彼女はあまり今の仕事には真剣さを感じられない。
今まで会った子(他の例のリストの子達)とは違って、こう、押しのけて前に出ようとする感じはなく。また、本当にこの仕事をやりたいと言うような感じでもなかった。
だから簡単に『やめること考えてもいいよ。』などと言えるのだろうか?本当はこの仕事のことどう考えているのだろうか?
「あのさ、まお?」
「うん?」
「あ、いや、なんでもない。おいしいかい?」
「うんっ!」
口一杯にパスタをほう張り、まん丸の目をこちらに向けられ、一生懸命食べている彼女。そんな、とても無邪気な表情の彼女にこれ以上の質問は出来なかった。


「いつもきれいな部屋だな。」
「そう?ありがとー。掃除はなるべく一生懸命するようにはしてるんだけどなー。しんじがいつ来てもいいようにねー。」
パスタを食べ、映画を見てショッピングを楽しみ、彼女のマンションに来ていた。既に外は暗く、部屋の照明が室内の白い壁に反射して幻想的な部屋となる。
「この部屋にはいつから住んでるんだ?」
この部屋に来たのは初めてではなかったけど、ふとそんな疑問がわいてきた。
「えーっとー。」
「なに?忘れた?」
「ううん、そんなことない。一人暮らし始めてからずっと。だから、高校卒業してからずっとかなー。」
「そっか。」
別にそんなことが聞きたいわけではなかった。
本当に聞きたい事は別にあった。
「まおは、今の仕事、ずっと続けるのか?」
本当に聞きたい事は、どうしても気になる昼間の質問で疑問に感じたことだった。
「どうして?」
「いや、まおはあまりこの仕事、好きではないように見えたから。」
「そっかー。」
そういいながら、下を向いて考え込む。
こういう時に、時折見せる、クールで普段とは違った横顔は、大人の女性らしい表情だ。
どちらかと言えば、グラビア写真に近い表情だと、この時感じた。
「しんじは、まおの仕事が上手く行くと、嬉しい?」
いきなりそう聞かれるとは思わず、少しびっくりした。
でも、驚いたのはそれだけが理由ではなかった。
彼女の考え込んでいる姿に見とれていたためもあった。
「ねえ、どう?」
彼女は、僕を下から眺めるように聞いてくる。
さっきの大人びた表情とはまったく違う、少女の顔をして。
僕は胸の奥、お腹の方から、何とも言えなく湧き出すものを感じる。
気持ちを落ち着け、冷静を装い答える。
「あ、ああ、もちろん。」
僕は、活躍した時の彼女を思い浮かべながら、顔には、自然と笑みがこぼれて止められなかった。
「そっかー。だったら、まおは頑張るよ。しんじが喜んでくれるなら、まおはすっごく嬉しいから。」
僕のその顔に安心したのか、彼女の顔に飛び切りの笑顔があふれた。
しかし、今の答えでは彼女の本当の気持ちは分からなかった。
彼女の本心では、芸能界を続けたいと感じているのか。それとも、実は辞めたいと感じているのか。
「そ、それで・・・。」
“ピンポーン”
その時、部屋のチャイムが鳴り、僕の質問の続きが消されてしまった。
いつもそう、なぜかタイミングが悪い。
小学校のときもそうだった。
掃除時間、一生懸命掃除して、ホッと疲れて腰を下ろした瞬間に先生が来て、まるで今までサボっていたかのように見られる。
どうしてこうなんだろう。
しかし、そんなことをのんきに考えている場合ではなかった。
彼女が、来客とインターフォンの受話器で対応すると、小声で僕に呟く。
「つ、都築さんだよ!しんじ、隠れてー。」
「あ、ああ。」
2人の付き合いは誰にも内緒。彼女との約束だった。
だから誰も知らないことになっている。彼女の周りでは誰も。
当然、彼女のマネージャーである都築さんも知らないのである。
都築洋子。31歳、独身で、いかにも仕事が出来るキャリアウーマン風。
そして仕事は本当に敏腕で、何人もの有名タレントを世に送り出している実績も持っていた。
僕としては苦手なタイプだ。
「ど、どこがいいだろう。」
隠れるところを探し、あたふたする僕と彼女。
彼女のマンションは1ルームなのだが、20畳以上はある部屋。
オートロックでカメラなども付いている。
もちろん、シャンプードレッサーやウォークインクローゼットもあり、トイレ風呂別はもちろん、お風呂はジェットバスでテレビまで付いている。
マンションの入り口から部屋まで来るには時間が掛かるのだけれど、隠れる場所などそうはない。
「ここ狭いな。」
そう、仕方なく隠れた場所は、洋服ダンスの中。
「ウォークインクローゼットの中にすればよかった。」
そんなことを考えていると、玄関を開ける音がして、女性の声が聞こえてきた。
「あら?誰か来てたの?」
上がってきた都築さんの目に最初に飛び込んできたのは、さっきまで飲んでいたテーブルの上にある2つのティーカップ。
「う、うん、久しぶりにね、友達が遊びに来てたの。」
「そう。いい、まお、今の時期すごく大事だから、プライベートにも十分注意してね。」
「はーい。」
そういうと、2人はソファーに腰を下ろした様だ。
見えないので、感じでしか分からない。
「今日突然来たのは、明日の予定が少し変更になることを伝えに来たのよ。それと、来月から急なんだけど、テレビの出演が決まったこと。出たがってた、動物ワンダーランドよ。喜ぶと思って、急いで伝えに来たわけ。」
「ほ、ほんとー、うれしー。」
そっか、彼女も都築さんの前では仕事が決まると喜んでいたんだ。
さっきはあんな風に、それほど仕事に対して情熱ないって感じだったけど、少し安心した。
「それにしても、都築さん、いつまでいるのかな・・・。」
都築さんはそれから1時間、何を話しているのかはっきり内容はわからなかったが、彼女としゃべって帰っていった。
僕は狭いタンスの中で息を殺して卒倒する自分を抑えていた。
そんなふうにこの日の夜は更けていった。
そして、この日、僕が彼女の・・・まおの部屋に泊まる最初の日となった。
こうして月日は流れ、運命の日は近づいていた。


「遠山、そろそろかもしれんな。」
「そうですね、編集長。レギュラー番組は既に6本。ドラマ出演も決まったことですし、かなり彼女の人気、出てきてます。」
「記事的にはどうなんだ?」
「かなり写真もたまっています。1年間追ってきた分、1冊分を埋められるくらいの記事は書けそうです。」
「あれからちょうど1年か。そうだな。これ以上しんじをつけておくのも危険かもしれんしな。」
「はい、編集長。しんじもかなり頑張ったと思います。」
まおの記事は、あれから小出しにうちの会社が発行している雑誌、アイドルナウに掲載していた。
内容的には、子供の頃よくいじめられたけど、体の弱い母親には心配かけまいと気丈に振舞った話だったり、母親が入院したときに野原の花を摘んで毎日お見舞いに何キロも離れた病院まで歩いて通ったことなど、まおと僕との間で何気に交わしている会話で、好感を得られそうな内容をピックアップしたりしていたのだ。
しかし、それは遠山さんが、後で事務所を通し、彼女に正式なインタビューをして、取材途中で分かったこととして掲載している。
そうしないと、当然、僕から話が流れたことがばれてしまうからだ。
しかし、それらがきっかけともなり、彼女の固定ファンは増え、人気はどんどんと上がっていったのだった。
“バタン”
「おはようございます。」
面接の日、あれほど重く感じた扉。
『とある街の、とあるビル郡の中にある、とある建物の、とある戸の前。』
のあの扉を僕は今では軽く開けて入っている。
まおと付き合って今日でちょうど1年。恋人同士であるならばとても特別な日。
「お、しんじ、重役出勤だな。スーツ姿もしっくりと商社マンが板についてきたな。」
「からかわないで下さいよ、編集長。」
僕は自分の首を締め付けているネクタイを外し、上着を椅子の背もたれにかけた。
「それで、彼女の家から直行かい?」
そんなことは昨日、後をつけていたのだから聞かなくても知っているはずなのだけど、皮肉たっぷりに、にやけながら遠山さんが声を掛けてきた。
時間は既に昼を過ぎていた。
起きたのが十一時頃なのだから無理もない。
「すみません。起してくれなくて、今の時間になってしまいました。」
「それはいいから、ちょっとこっちにこい。」
「はい。どうしました、編集長?」
事務所の中は編集長と遠山さん以外に、かずえさんとパートのおばさんのみで、他には誰もいなかった。
編集長のデスクのところまで来ると、編集長のデスクの上に、遠山さんのまおに関するデータやメモ、写真などが並べられているのが目に入った。
「しんじ、今日でちょうど1年になるな。」
「はい。」
「この1年間良く頑張った。」
「ありがとうございます。」
編集長はいつにもまして、めがねを光らせながら、労をねぎらってくれた。
「おまえのお陰で彼女はかなり知名度をアップさせることが出来た。ドラマ出演も決まったようだしな。」
「知っていたんですか?」
「さっき遠山から聞いたよ。遠山も今朝知ったそうだ。おまえも聞いたのか?」
「はい、今朝、まおの口から直接聞きました。」
「そうか。ところで、お前が入社した時に言ったと思うんだが。」
「入社した時にですか?」
入社した時の事は、面接の時、事務所入り口の重かった扉のことしか殆ど覚えていなかった。
それと、今回の企画、『BOYS MEETS GIRL』のことと。
「話しただろう。うちの雑誌も厳しい状況になってきたということを。」
「あ、ああ。はい。聞きました。」
確かに、そんな話を聞いた気がする。企画の方があまりに衝撃で、忘れていた。
「も、もしかして、廃刊ですか?」
「ああ、実はな。」
編集長の言葉に、僕は一瞬にして顔がこわばった。
「って、そんなわけないだろ。」
「ちょっ、びっくりしました。脅かさないで下さい。1年でまた失業になるかと思いました。」
「でもな、それも、あながち、冗談ではなくなりそうだ。そこで、そろそろうちのアイドルナウも再度爆発的に販売部数をあげて、大台に乗せたいと思っているんだ。」
口にあわせて動く、編集長の口ひげダンスは1年前と変わらず健在だ。
「1年もたったわけだし、ここにこうして、これだけの情報もある。」
そう言って、編集長はデスクの上のまおの資料を手のひらで撫でるように、デスクの上で回す。
「そ、それって、もしかして、まおの特集を大々的に組むと言うことですか?」
「そうだぞー。しんじと俺の2人で1年間かけて積み重ねてきた取材が、実を結ぶことになるだ。わくわくするだろ?」
もう抑えきれないと言った感じで遠山さんが会話に入ってきた。
本当に嬉しい様子で、目が輝いている。こんな遠山さんを見るのは初めてだった。
「社運も賭けたこの一大企画。最後の集大成なんだ。もう少し頑張ってくれ。それから、原稿書きも頼むぞ。」
「はい、編集長!」
まおがとうとう大々的に読者に紹介されることになる。
予定ではカラーで60ページに及ぶ大々的な特集記事。また人気が出るだろう。
僕は自分の記事が出ることよりもまおの人気が出ることの方が嬉しかった。そんな気持ちに自然になっていた。
席に戻るとかずえさんが声を掛けてくる。
「しんじ、おめでとう」
「かずえさん。ありがとうございます。」
1年経ってもかずえさんはかずえさんと呼んでいる。
1年数ヶ月前の初出勤日に『かずえ』でいいからと言われたけど、『かずえ』とはどうしても呼びにくいものがある。
とても同じ歳には思えない。い、いや、決して老けていると言うことではない。僕が幼いだけなんだと、思う。
「ところで、だいじょうぶなの?」
かずえさんは、手に持った鉛筆を回しながら聞いてくる。
「え?なにがですか?」
「彼女のこと書けるの?」
「いやだなー。何言ってるんですか。僕だって1年間、まがいなりにも記者としてやってきたんですよ。まおとばかり会って遊んでいたわけじゃありませんから、特集記事の1つや2つ書けますよ。あんまり子ども扱いしないで下さい。」
なんとなく最後の言葉は違う気もしたが、幼い自分に劣等感を感じるようなことを考えていたせいもあって、つい口に出ていた。
「そう。」
かずえさんはそれ以上言うことなしという感じで、半分呆れ顔で手にした鉛筆をしまい、出掛けていった。
この時、僕はかずえさんが心配して聞いてきた本当の意味が分かっていなかった。


「かんぱーい。」
「かんぱい。」
とある街の、とあるビル郡の、とある建物の、とある・・・レストラン。
夜景がとっても綺麗な最上階の窓際の席。
恋人にとって大事な、付き合い始めて1年というアニバーサリーをワインで乾杯して祝っているところ。
今までに行ったことのない最高級レストランを予約していた。
「ファミリーレストランで目玉焼き議論をして、あれからもう1年がたったわけだ。」
「二人ともそれぞれ一つずつ年取ったってことだよねー。」
「そうだな、まおはお酒の飲める歳になったわけだし。」
そう、1年前はまだ19歳。僕も1つ歳をとり、24歳になった。
え?なに?誕生日はどうだったのかって?
僕の誕生日は、覚えていてくれる人なら分かると思うけど、2週間前。
まおの誕生日は、先週。
と言うことで、今日は、2人の付き合い始めの記念、まおの初ドラマ出演と一緒に、2人の誕生日も兼ねている。
クリスマスやお正月など、特別な日のことが飛ばされてると思った人もいるだろうけど、クリスマスやお正月はまおの仕事が忙しく都合がつかなかった。
記念日として、2人でアルコールを使った乾杯は、今日が初めてだった。
さらに、昼に編集長から特集のゴーサインが出て、気分が乗っていた僕としては、達成感にくわえ、まおとの1年の付き合いと2人の誕生日、まおの初出演ドラマ決定ということともあいまって、なんとも言えず浮かれた気持ちで、この夜がすごく楽しいものだった。『盆と正月が一度に来たようだ。』
と言う表現を聞いたことがあるけど、
『盆と正月、クリスマスとゴールデンウィークに花見』
までおまけについてきたような感じだった。
天にも昇る気持ちとは、まさにこんな気持ちなんだと感じていた。
だからこんなセリフ
「今日もキレイだよ、まお。この夜景よりもずっと。」
なんてサラリと言えた。
「えー、ほんとー?うれしー。」
まおは満面の笑みを浮かべている。
「これ。」
僕はそのまおの笑顔を更に満面にしたくて、スーツのポケットからオレンジ色の小さな紙袋を取り出した。
「これなに?H・E・R・M・E・S?エルメス?」
「たいしたものじゃないよ、本当に。」
とはいえ、結構な値段。とても経費で落ちる値段ではない。
でも、経費で落ちたとしても、僕は経費で落としたりはしなかっただろう。
ただし、懐は痛い。
「えー、うれしー。ありがとー。開けてもいーい?」
「もちろん。」
まおは興味津々な瞳で、小さな紙袋の中を覗き込む。
そして、中から長細い箱を取り出すと、箱を開ける。
「これってー・・・ストラップ?」
箱から出てきたものは、エルメスのロゴが入った、特別モデルのスマホストラップ。
「そう。ジュエリーだと、いつも着けていたら問題になると思ってさ。置物だとあの部屋のセンスに合う物がなかなかないし。これなら、スマホに常に付けていられるから、いいかなと思ったわけ。」
「うれしー、ありがとー。」
何度もストラップを見つめる。この笑顔を見ると、懐が辛いことに文句は言えなかった。
「あ、私からも。」
まおは我に帰り、思い出したように鞄を取り出す。
そういえば、まおは白が好きだ。
清潔感があるのが好きだと以前言っていた。だから部屋も白い壁で、服も白が多い。
そして今日も、まおはちょっとおしゃれな、白のドレスにハイヒール姿。鞄も白いものだった。
ヘアースタイルはポニーテールではなく、縛ってもいない。サラリとしたストレートの黒髪が、綺麗に揺れる。
さすがに今日は16、7歳には見えない。
でも、しぐさや行動は、いつも通り。その様子に安心する。
僕は相変わらずスーツ姿なんだけど。
そんな白い鞄から、黒い小さな紙袋を取り出す。
テーブルに置かれた袋には、僕があげた紙袋と同じように、袋の中央に文字が入っている。
「これ、GUCCI・・・グッチ?」
「あけてみてー。」
僕は黒いふくろを手に取り、中を覗き込む。
興味深げに、それでいて笑をこらえているまおがこちらを見つめている。
「これって・・・。」
「ねー。」
黒い紙袋から同じく黒い箱を取り出し、中身を開いてみて、まおが何で笑をこらえているのかが分かった。
まおからのプレゼントも、スマホストラップだったのだ。
「なんかー、お互い惹かれてるーって感じだよねー。」
「そうだね。」
指輪でもない、ネックレスでもない。
付き合い始めて1年と言う記念に普通ではプレゼントをしないようなものを、プレゼントとして選んでいるところが、お互いらしいのかもしれない。
「失礼いたします。」
ボーイの人がテーブルに料理を運んできた。
慌てて紙袋を後ろに隠す僕とまお。
まおを見ると、まおもこちらを見つめている。
飾台のローソクの炎が、まおの顔を幻想的に浮かび出していた。
「うふふふふ。」
「あははは。」
ボーイの人がいなくなると、僕とまおはこらえていた笑いを再び開放した。
まおの前でこんなに素直に笑ったのは初めてかもしれなかった。
ただ、周りから見ればおかしな人たちだったと思う。
天にも昇り、2人だけの世界に入っていた僕は、その時は気にもしていなかった。
「このホタテー、すっごくおいしいよー。」
運ばれてきたのは、香草とホタテのカルパッチョ。
少し落ち着いた僕らはフォークを手にして、ようやく食べ始めた。
以前にも聞いたようなセリフだと思ったかもしれないが、まおは何か食べると必ずいつも同じ、この言葉を口にする。
そして、まおの笑顔がいつもと同じく眩しく映る。
この1年間、ちょっと値の張るレストランばかり通っていたお陰もあり、あれだけ練習して、緊張しながら使っていたナイフとフォークには随分と慣れた。
まおは相変わらずの食べ方だけど、その着飾らないところが素朴で愛らしさでもあり、僕にしか見れない姿でもあった。
「あ、今日ね、ドラマの収録スタッフの人たちに会ってきたの。」
「へー。まおはどんな役なんだい?」
「まおはねー、ゆうこさんの妹役。」
「ゆうこさんって、柴田裕子?」
「うん、そうだよー。」
朝にまおから直接聞いた、初出演ドラマの話をしていた。
当然僕は昼に遠山さんからドラマの内容の情報を受けてきているので全部知っている内容だった。
柴田裕子は今、押しも押されぬ大人気の女優。
そして、今、注目度ナンバー1の神山まお子との夢の競演。そんなフレコミなんだとか。
「裕子さんって、どんな人なんだろー。今から楽しみ。」
そういいながらも、2品目のスープを飲むペースは変わらない。
以前と違い、この仕事が随分と楽しそうに見える。
もう悩んだような、つまらなそうな表情も見られない。
「そういえば、今日しんじの会社の人にも会ったよ。」
「俺の会社の人?」
さて、誰だろ?遠山さんかな?かずえさんじゃないだろうし。編集長はどこに行っているかいつも分からないから違うだろうし。
うーん・・・悩んでいるとまおが続けて、教えてくれる。
「うん、そうだよ。今度のCM、カップラーメンなんだけど、そのプロモーションを担当している会社だってー。名刺に日本M商事って書いてあったもん。確か、営業3課の浜崎って人だったと思う。知ってる?」
「あっ、あー、よくわからないな。なんせ人数多いから、うちの会社。」
「そっかー、そうだよね。なんだかパッとしない感じの人だったしー。」
そうだ、忘れていた。
僕が今、勤めているところは日本M商事。まおにはそうなっている。
実際に勤めているわけないから、そんな人など知るはずもない。
それにしてもまずい展開。
「ま、まおは、何か俺のことその人に言った?」
デザートを食べ始めていたまおはその手を止め、口に入ったメロンを噛み砕きながら考えている。
「ん、うーん・・・・、何も言ってないよ。だって2人のことは秘密でしょ?」
「あ、ああ、そうそう、秘密だからさ。」
ほっと胸をなでおろす。
あまりの緊張に心臓がフル回転で稼動している。
最近あまり僕の商社マンとしての仕事の話題になることはなく、すっかり忘れていた。
そうなんだ、まおはタレントで、アイドルで、TVに出ている女の子。俺は日本M商事に勤めるエリート商社マン。
「しんじ?どうかしたの?」
「あ、いや、なんでもないよ。」
「そのデザート食べないの?」
いつの間にかまおのデザート皿には何も残ってなく、さっきの話で放心状態の僕のデザート皿にはまだ手付かずのメロンがのっていた。
「まお、食べたいならあげるよ。」
「ほんとー?やったー。」
僕のメロンに必死にかぶりつくまおの姿を見ながら、ふと不安になった。
今回の特集記事が出た後、僕たち2人はどうなるのだろうか?
そんなことは今まで全く考えたこともなかった。
いや、考えなかったのではなく、1年が経つうちに、いつの間にか全く頭になくなっていたのだ。
まおがいるのが当り前、2人でいるのが当り前。
そんな日々が普通になっていることを、このとき初めて気づかされたのだった。
『しんじ、だいじょうぶなの?』
ふと、昼間にかずえさんから言われた言葉が頭に浮かんできた。
なぜ、かずえさんがそう言ったのか、記事のことを言ったのではないことに、この時、やっと、気づいたのだった。
それから3週間後、まおの特集記事が出ることになった。


「はー。」
とある街の、とあるビル郡の、とある建物の、とある戸の前。
1年と少し前、この扉を通ったときのことを思い出していた。
あの時と同じように、今、とても扉を重く感じていた。
ノブに手をかけるけど、なかなか中に入ることができない。
今日は、ここに来るまでの足取りもすごく重かった。
「お、は、よ、う、ご、ざ、い、ま、す。」
出てくる言葉も重いものだった。
そして、扉を開けるなり目に飛び込んできたもの。
見たくなくても嫌と言うほど目に入る、この小さな事務所にデカデカと、
『祝・発行部数120万部!』
と言う文字。
今日が、アイドルナウ最新増刊号の発売日。
編集長の後ろに、事務所に入って正面奥の壁に、大きな大きな横断幕が飾られていた。
僕のデスクの上には、出来上がったばかりのアイドルナウ最新号が乗っている。
「おっ、英雄が来たぞ。我らのヒーロー、まやましんじ!」
遠山さんが出勤してきた僕を見て、すかさず近寄ってきた。
「そして、忘れてもらっては困るのが、陰のヒーローおれー!」
そういって、自分のことを紹介すると、デスクの上に登って大騒ぎしている。
それを見ながら編集長も、無礼講と言った感じで、デスクに腰をおろしたまま、満面の笑みで見つめている。
他の人たちは、おのおの最新のアイドルナウを手にページをめくっていた。
会社の人、全員を一度に見たと言うのはかなり久しぶりだった。
そう、入社後の歓迎会以来だろうか。
しかし、遠山さんの一言で、他のスタッフも僕に気づき周りを取り囲む。
「しんじ、よくやったな~。」
「しんじくん、すごいよ!」
「1年間ご苦労さんだったね~。」
「あ、有難うございます。」
みんながお祝いの声を掛けてくれる。
なるべく気丈に明るくお礼の挨拶を述べる。
みんなが喜んでくれることは嬉しいのだが、僕の心はそれほど躍っていなかった。
それどころか沈んでいた。
みんなからの祝福を受け、落ち着いたところでデスクにつく。そして、最後の一人から祝福の言葉を貰う。
「しんじ、とりあえず、おめでと。」
「ありがとうございます。」
デスクに戻れば目の前にいる人、かずえさんだ。
「元気ないよね?だいじょうぶ?」
「はぁ、まぁ。」
「しんじ、まだ見てないでしょ?」
そう言って、僕のデスクの上を指差す。
「ええ、じつは・・・・。」
そう、僕はまだ見てなかった。
アイドルナウ最新増刊号。
デスクの上に手を伸ばし、そっとページをめくる。とは言っても、手にとってきちんと見る事は出来なかった。
隙間から覗き込むように少し開いてみる。
そのわずかに開いた隙間からは、いつものまおが、僕に見せる笑顔が、そこにはあった。
まおとはこの2週間、1回も会っていない。
仕事が忙しくて会えないと言ったのだ。
確かに仕事を缶詰状態でこの2週間やってきた。
何回もペンが止まりそうになるのを必死にこらえながら。仕事なのだから、そう自分に言い聞かせながら。そうしなければ書き上げられるわけがなかった。
溢れる涙でインクがにじみ、原稿を何度書き直したか分からなかった。
「そうよね、誰が見ても分かるわよね、この内容ではね。」
この雑誌の、この特集には、2人の1年間の思い出がすべて詰まっていた。
美術館めぐり、ドライブ、遊園地、浜辺の夕日に写るまお、部屋の中も。
すべての写真が詰まっている。
もちろん、僕と付き合っていた事は書いていないし、写真の中にも僕の姿はない。
しかし、その写真は、まおと一緒に遊びに行った人にしか絶対に撮れるはずがない写真。
そう、僕にしか撮れる筈のない、僕しか持っていない写真が、その雑誌には並んでいた。
そして、記事の最後にはしっかり僕の名前が。
「これ、やっぱり、見ますよね?」
「うーん、そうね、やっぱり見るかしらね。周りから言われると思うしね。」
「そうですよね。」
僕は肩を落とす。
書かなければならない状況ではあったけれど、書いてしまったことへの後悔もある。
「電話、しないの?・・・出来ないのか。だよね、辛いよね。」
かずえさんは、それ以上かける言葉もないと言う感じで席を立っていった。
僕は淡い期待を抱いていた。まおの目に入らなければ。そうすれば分からない。
僕が実はアイドルナウの記者であること。
まおとは仕事で付き合い続けていたこと。
それより、僕がまおのこと何とも思っていないと思われることが一番辛かった。
この雑誌を見ないなんて、そんなことはある訳ないのだが、どうしてもそう思わなければやりきれなかった。
僕は、お祝いムードの事務所をこっそりと抜け出し、屋上へと上がった。
残暑厳しく、日差しは強いけど、今日は風も強く、暑さは少し和らいで感じる。空は澄み切った青空だった。
しかし、僕の心は晴れる事はない。
スマホをポケットから取り出す。
一人からしか掛かることのない電話。その電話に付いている、GUCCIのネームの入ったストラップ。まおとのひとつの大事な思い出の品。
そして、当然、電話帳の中には電話番号はひとつしかない。
僕は、まおから電話が来るのが怖くて、電源を今まで入れられなかった。
もちろん、まおには仕事だから電源をしばらく入れないと言ってあった。
今も昨日のように思い出される3週間前のレストランでのひととき。
こんな風になることなど、あの時の雰囲気から、あの時、店にいた周りの客の誰が予想しただろう。
しかし、このまま離れる事は出来ない。それに、このまま離れるなんて事はしたくなかった。
「いや、大丈夫。きっと、まおなら分かってくれる。きっと分かってくれる。」
まおに電話をするためには、そう思い込むしかなかった。
“プッ、プッ、プッ、プルルルル・・・・”
電話を手に取り、登録電話番号、0番、唯一登録されている特別な番号。まおに電話をかける。
「あー、駄目だ。」
呼び出し音が鳴るとすぐに電話を切ってしまった。
目を閉じ、電話を握り締める。風が吹くたび、まおとの時間、様々な場面が自分の中に吹き込んでくるようだった。
『やっぱり会いたい。』
気を取り直し、リダイヤルボタンを押す。数回コールがなる。
とてもとても長い時間に感じた。
“ガチャッ!”
「しんじ?しんじだよね、今日夜7時、いつものところでね。」
“ガチャッ!プー、プー、プー・・・”
電話に出るなりいきなりの言葉。
そして、それだけ言うと既に電話は切られていた。
「な、なんだろ。」
向こうからの一方的な話で終わった電話に、どこかホッとしながら、そして、まおの声が聞けた喜びと安らぎを感じる。
「でも・・・。」
しばらくすると、電話の話し方で、すごく怒っている感じにも、哀しげな感じにも受けとることが出来、心が痛んだ。
僕はその罪悪感にかられ、その後何度か、登録電話番号0番をかけるのだが、『この電話は電波の届かないところにあるか、電源が入っていないため掛かりません。』というメッセージが繰り返されるばかり。
今日の夜7時を待つしかない。
どちらにしても一度きちんと会って話をしなければならなかった。
しかし、実際会うことを考えると、緊張は募るばかりで、その後は仕事がまともに手につかないまま、時間だけが流れ、夜を迎えることになった。


とある街の、とあるビル郡の、とある・・・噴水の前。
まおと待ち合わせをする『いつもの場所』の噴水の前。
9月も、もうすぐ終わりに近く、さすがに夜になると少しひんやりとする。
僕はいつものとおり、スーツ姿で来ていた。
腕時計を見ると午後7時。まおとの待ち合わせの時間となった。
しかし、まおの姿はまだどこにもなかった。
「やっぱり来る気がなくなったんだろうか。」
しばらく待ち、再び時計を見る。
時計の針は7時15分をさしている。
普段、余り時間に遅れたことのないまおだっただけに、事故にあっていないかと言う心配と同時に、やっぱり会うのが嫌になったのではないだろうか、という不安感が押し寄せた。
しかし、こちらから電話をする勇気も出ないまま、ただ待つしかなかった。
“プルルルル・・・・”
電話の音。鳴った瞬間に相手が分かる。
僕は緊張で張り裂けそうなくらいどきどきの胸の鼓動を必死に落ち着かせ、震える唇をぐっと食みしめた。
そして、ひと呼吸置き、電話に出る。
「はい、真山です。」
「しんじ?」
「ああ、そうだよ。今、噴水の前にいる。」
「見えてるよ。」
そう言われて周りを見渡す。
家路へと急ぐサラリーマンや、OLの姿ばかりが目にとまる。
ここは、ビルに囲まれ、昼には弁当を食べに来る会社員の姿が見られる、働く人のオアシスと言った感じの場所。
しかし、この時間にはただ通り過ぎるだけの場所となっていて、立ち止まっている人はそうはいない。
そんな中、さっきまでそこにいなかったはずの人影が、携帯を片手にこちらを見て立っていた。
「まおっ!」
僕はその人影に向かって走り出す。
まるで逃げるかのように、その人影は一つのビルの陰に消えていった。
僕は更に急いでそのビルの陰へ急いだ。実際は数秒の話なのだけれど、気持ち的にはようやくそのビルまで辿り着いたという感じだった。
人陰の人物はビルの陰に隠れるようにそこで待っていた。
「しんじ。」
「ま・・・お。」
息を少し荒くしながら声を掛ける。
まおは、ビルの壁にもたれながら、下を向いたままだった。覗き込もうとしても顔を横にそらし、目をあわせようとはしない。
「まお・・・。」
なんと声を掛けていいか分からない僕。
すると、まおがゆっくりとした、それでいてとても重い口調で口を開いた。
「しんじ、ほんとう、なの?あの、アイドルナウの、記事、しんじ、が、書いた、の?」
「ご、ごめん、まお。」
「・・・・・・・・・・」
まおはしばらく沈黙したあと、言葉が出てくる。
「ごめん、って、ことは、しんじ、なの、ね。あの、記事、書いた、の、は。」
言葉も途切れながら、やっと発している感じで、肩もなんとなく小刻みに揺れ、泣くのをぐっと我慢していることが手にとるように分かった。
僕は後悔と罪悪感でいっぱいだった。
「騙すつもりじゃ、なかったんだ・・・・。」
その僕の言葉に、まおは今まで抑えていたものがはじけたかのように、僕のほうに向き直り、キッとした目つきで僕を見つめて掴みかかるように言葉をぶつけてきた。
「騙すつもりじゃないって、騙してたんじゃないっ!どうしてっ、どうしてよっ!」
「・・・ご、ごめん。でも、僕の、僕の、まおを思う気持ちは、本当だよ。」
まおの目からはなおも涙が溢れ、もうどうにも止まらないと言う感じだ。
まおの必死の訴えに僕はどうしていいものかわからなくなり、まおの身体を抱きしめた。
「いっ、いやよっ!離してよー!」
まおの体を包んだ僕の腕を、必死に振り払おうともがくまお。
「いや、いや、いやー。」
まおの涙が、僕のシャツの胸のところを濡らし、肌にまでその涙の感触が伝わる。
とても切ない涙だった。
その涙は僕の気持ちをより締め付ける。僕は腕を離されないように頑張っていたけれど、あまりに抵抗するまおを見て、それ以上抑えることがどうしても出来ず、まおを僕の腕から開放した。
手を離すと、まおはすぐにビルの壁のほうに向いてうつむき、しばらく気持ちを落ち着けてから、話を切り出してきた。
「さっきの言葉が本当のしんじなのね。さっき、『僕』って言っていた。それに、まおが嫌ってもがくと、離しちゃうんだよね。いつもの強気のしんじじゃないよ。それが本当のしんじなのね。」
気が付かなかった。
いつもまおに会うときは、エリートサラリーマンとして振舞っていた。
だけど、さっきは、必死の行動のうち、つい言葉に出たのだった。
「しんじ、どうしていつものように強い口調で、強い自信に満ちた態度で今も接してくれなかったの?そうすれば、少しは・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「もうだめだよね。きっとこれから関係を続けたとしても、しんじに・・・しんじに会うたびに、裏切られたということを、思い出す気がするの。」
「・・・・・・・・・・・・。」
僕はもう言葉が何も出てこなかった。自分自身の気持ちにも混乱していた。
呆然とする僕の前を、まおはゆっくりと通り過ぎ、ビルの陰から出て、人の流れに向かおうとしていた。最後にこの言葉だけを残して。
「わたし、あなたが、ほんとうに、すきだった。」
それを聞いた僕は、その場に力なく座り込んだ。
ビルの影にいる僕の姿は、すっかり暗くなった空の下、誰にも気づかれる事はなく、涙を流す姿を誰にも見られることはなかっただろう。
今この顔を見られたら、いや、とても見られる顔ではないと思う。
それほど、すごく泣いた。
僕の涙が地面に落ち、水の斑点模様がまるで湖のようになる頃には、自分がどれほど深く、まおのことを愛していたのか、失ったものの大きさを味わっていた。
そして僕は、その場で、さっきまでまおが泣いていたそのビルの陰で、朝日が差し込むのを感じていた。


 心地よい風が頬に当たる。鳥のさえずりが聞こえる。
「朝…か。」
呟きともとれないような声がもれる。
うっすらと目を開けると、白いカーテンが揺れている光景が右側のほうに見える。
天井も、壁も白を基調にした色合い、綺麗になっている部屋でベランダもある。
そんな部屋にこのベットは存在する。どこかで聞いたような風景だけど・・・。
“ガタンッ!ガシャンッ!”
「203号室の小川さん、本日検査ですので、朝食は抜きです。」
「おい看護婦、俺の箸ないぞ!」
鳥のさえずりの代わりに様々な音や声が聞こえる。
確かに『そんな部屋』だけど、以前の『そんな部屋』とは、環境がまったく違う『そんな部屋』にこのベットは存在している。
しかも、このベット以外にも、部屋の中には3つベットが存在する。
「真山さん、朝ご飯の時間ですよ、起きてください。ご飯食べたら検温ですからお願いしますね。」
白い白衣を身にまとい、白い帽子をかぶったナースの姿が目に入る。
僕のベットのところには既にプラスティックの器に入った食事が、トレーに乗って、食べられる状態になっていた。
一晩をビルの陰で過ごしてから3日がたった。
僕は体調を崩し、病院へ来ると空腹、疲労と肺炎でそのまま病院へ入院となった。
何とも情けなく、何ともお粗末で、呆れるくらいだった。
しかし、これが現実。
なんとなく生きてきた僕の結末はこんなものではないだろうか。そう、これが僕にとって一番しっくりくる現実。
「何℃ありましたか?ちょっと見せてください。」
食事を食べ終わると検温のため、再びナースが来ていた。
「もうすっかり熱も下がりましたね。昨日の朝までは死にそうだったんですけどね。今日の午後には退院できると先生も言っていましたよ。よかったですね。」
「どうもすみませんでした。ご心配おかけしました。」
「いいえ、これが仕事ですから。昼過ぎには退院後の説明などにもう一度来ると思いますからお願いしますね。」
「はい。」
入院してから昨日の昼まで僕は熱でうなされていたらしい。ナースの人に聞いた話。
僕は熱で寝ていたこともあり、覚えていなかった。
お陰で、その間はまおのことを思い出すことはなかった。
病魔と戦うこと2日、昨日の夕方にはだいぶ回復していた。そして、回復と同時にまおへの思いも湧き出てきた。
しかし、病院のベットの上では、さすがに悲しむ訳にも、泣いているわけにもいかず、ただ何も考えないようにぼんやりとするように努めていた。
しかし、それでも走馬灯のように色々な事が思い出され、目頭が熱くなるのを感じ、昨日の夜はさすがにトイレに駆け込んだときもあった。
「お、しんじ、生き返った?」
「なんですか、いきなり、ひどいですよ、かずえさん、人をゾンビみたく、言って。」
昼の食事が終わり、窓の外をぼんやり眺めているとかずえさんが見舞いに来てくれた。
「いやー、だって、しんじが入院したって聞いてみんなでびっくり!来てみたら熱にうなされているのを見て。本当に心配したわよ。」
そういうと、ベットの横の丸いすに腰掛ける。
手にしていたコンビニの袋からプリンを二つ取り出すと、1つを開けて、さっさと自分の口に放り込んでいる。
「どうもすみませんでした。ご心配おかけしました。」
「まったくよ。今度何かご馳走してもらわなくちゃね。」
そういいながら、コンビニでもらったプラスティックのスプーンを口にくわえ、もうひとつのプリンの蓋を取ると、僕に差し出す。
「ありがとうございます。」
受け取るものの、かずえさんの食べっぷりに圧倒される。
「食べなさいよ。私ばっかり食べてると、私が卑しく、がっついているみたいでしょ。」
「あ、あの、僕が食べても、がっついていることは変わらないと思いますよ。」
「なにー?」
かずえさんはこぶしを上に振り上げる。
「す、すみません。つい本音が・・・。」
「でも、それだけのことが言えれば大丈夫ね。」
「・・・・はい。」
心配をかけているんだと、改めて感じさせる、かずえさんの一言だった。
「あら、真山さん、彼女がいらっしゃってるの?」
先程のナースが書類を片手に僕のベットのところへ来た。
「あ、いえ、彼女なんかではないですよ!ど、どうりょうです。」
「いいのよ、隠さなくったって。3日間毎日来ているんだもんね。彼女じゃなくて何なのよってねー。」
「あ、いや、だから・・・。」
そう言おうとする僕の言葉を聞こうとせず、さっさと退院の説明を始めていた。
このナース、すごく親切で、丁寧で、人当たりもよく、気が利くナースなのだが、やはりおばさんナースなのか、こういう話は大好きのようだった。
「それではおだいじに。」
「お世話になりました。」
会計を済ませ、かずえさんといっしょに病院を後にする。
「かずえさん、毎日来てくれていたんですね。本当に有難うございます。」
さっきのおばさんナースの言葉を思い出し御礼を言う。
まったく知らなかった。
「な、なによ、あらたまっちゃって。スタッフみんなが心配していて、私がたまたま暇だったから来ていただけよ。それに、病院へ見舞いに来てても、編集長や遠山さん、他のスタッフからも、心配して結構電話あったのよ。」
「そうなんですか?」
「そうよ。・・・でも、そう言うなら、お礼に何かおごってよ。」
「あ、そうですね、コーヒーくらいなら大丈夫ですよ。」
そう言って、近くの喫茶店に入ることに。
今日は9月最後の日。僕の気持ちを表すかのようにどんよりとした曇り空だった。
「ねえ、さっき何考えてたの?」
店内の席は極めて少なく、カウンターに6席と、テーブル席が3つだけだった。
「さっきって、いつですか?」
「私がしんじの病室に行ったとき、外を見つめてたでしょう?なんだか、ただボーっとしているだけではなかったような感じがしたから。」
そう、確かにかずえさんが入ってくるとき、僕は考え事をしていた。
なぜだか非常に引っかかっていた言葉を思い出し、考えていたのだ。
「いえ、それが、まおの最後に言った言葉。『わたし、あなたが、ほんとうに、すきだった。』って言葉がすごくひっかかっているんです。」
「え?別に普通じゃないの?なんか、のろけられている感じもするんだけど。」
運ばれてきたアイスコーヒーにストローを差し、コーヒーを口に運びながらかずえさんは答えてきた。
「あ、いえ、内容自体は、それほど問題ではないんです。」
「なに?何がそんなに気になるの?」
「それが、まおは今まで『わたし』って言葉を使ったことが一度もなかったんです。いつも自分の事は『まお』って呼んでいましたから。それと、僕のこともいつも『しんじ』って呼んでいたのに、その時だけ『あなた』って。」
「なるほどね。でも、たまたまなんじゃない?」
「いえ、その言葉を言われる前に、僕も、今までまおの前では『俺』って言っていたんですが、思わず『僕』って言ってしまったんです。そのことをまおに、その時突っ込まれて、自分でもそんなに考えたことなくて、頭が混乱してしまって・・・・・それなのに、まお自身がそんな言葉を使って最後に一言、『わたし、あなたが、ほんとうに、すきだった。』って、言ってきたんです。なんとなく似ている気がしたんです。」
「ふーーん、なるほどねー。」
アイスコーヒーを飲みながら、それでも、かずえさんは目だけはしっかり僕のほうに向け、真剣に聞いていた。
「でも、彼女とは、もう終わったんでしょ?」
「ウッ!そ、それ言われると、その通りなんですが・・・・。それ、その一言、別れたんだということを思い出して相当辛いです。苦しいです。」
「ごめん、ごめん。」
かずえさんは自分のグラスのアイスコーヒーがなくなった頃、アイスコーヒーのグラスをじっと見つめている僕に一言。
「とりあえず、アイスコーヒー、飲んだら?」
「あ、はい。飲みます。」
しかし、どうしても引っかかる、どうしても。最後のあの一言。なんであんな風に言ってきたのだろう。


「お、名誉の負傷ならぬ、名誉の失恋かい?」
「と、遠山さん、ひ、酷すぎますよ。」
4日ぶりの出勤。昨日は退院後そのまま家に帰り、今日朝から出社したのだが、出社するなりこのセリフ。ど、どうしてここの人たちはデリカシーがないんだ。
「そう言ってやるなや、遠山。」
「へ、へんしゅうちょ~。」
救いの神が現れたのかー。少しは僕の事をいたわってくれる人。
「編集長になって初めて、しんじのお陰で、社長から金一封を貰ったんだから。ほら見てみろ?」
お、おいおい。それって、結局僕をねぎらってませんよ~。
相変わらず張られている『祝・発行部数120万部!』の横断幕。
その横断幕に手を合わせている編集長の姿。
この職場って、やっぱり、まともな人、いないかも。
「そういえば、かずえさんはどこに行ったんですか?」
「おや?しんじー、今度はかずえに乗換えか?」
「と、とおやまさん!」
この人って一体どんな教育をされてきたんだろう。
それにしてもかずえさん、さっき来たときはいたはずなんだけどな。
気付けばいつの間にかいない。今日一緒に行動するはずじゃなかったかな?
「携帯に電話入れてみたらいいさ。ほれ、かずえの電話番号だ。」
編集長からかずえさんの携帯番号のメモを受け取る。
そういえば、1年も一緒に仕事をしているけど、他のスタッフのことほとんど知らないよな。そんなことを考えながら電話してみる。
“トウルルルル・・・・ガチャッ!”
「はい、千野!」
「あ、かずえさんですか?」
「ん?なに?しんじ?」
「あ、はい、そうです。」
すごく聞きにくそうに話している。
一体どこにいるのだろうか?かずえさんの言葉以外にすごい雑踏が聞こえてくる。
「一体どこにいるんですか?」
「ん?なに?よく聞こえない。」
「今、どこですか?」
「ん?よく聞こえないけど、そういえば、今日一緒に行動するはずだったよね?ごめん、ちょっと他の仕事でいいネタ入りそうだから、そっちに行くわ。編集長に伝えといて、それじゃあ。」
「あ、ちょっと、かずえさん?」
“プー、プー、プー・・・・・”
僕の叫びも虚しく、受話器の向こうでは機械の音だけが鳴っている。
「どうした?しんじ。」
受話器を置くと、編集長が相変わらず横断幕を見ながら聞いてくる。
「はい、なんか、他にいいネタ入りそうだから一人で行動するのでよろしく、と編集長に伝えておいて欲しいとのことです。」
「なに?全く困ったやつだな、かずえも。」
横断幕から目を放し、こちらを振り返る編集長。
「まあ、仕方ない、遠山、しんじと一緒に行ってくれ。」
デスクに座っている遠山さんに声を掛ける。
「な、編集長?何で俺なのでしょう?」
「そんなの簡単だ。周りを見てみろ。」
遠山さんと二人で周りを見回す。事務所には既に、編集長と遠山さんと僕以外には誰もいなかった。


「おはよう、しんじ。少しは吹っ切れた?」
朝から爽やかな笑顔のかずえさんが、事務所に入るなり声を掛けてきた。
「おはようございます、かずえさん。ええ、大丈夫ですよ。もう、大丈夫です。」
職場復帰から1ヶ月が過ぎた。
さすがに事務所に張っていたあの横断幕も取り外されていた。
編集長はかなり未練たっぷりって感じだったけど、僕としては嬉しかった。少しでも早く忘れたかったからだ。
「そっか。それはよかった。じゃあさ、しんじ、『ホリデーナイト』見てる?いつも好きで見てたでしょう?」
「えっ・・・。」
僕は、鞄をデスクの上に置こうとした手が止まり、返事に言葉を詰まらせた。
ホリデーナイトは、まおが出演しているテレビ番組だ。
「あ、あれは、まお、あ、いえ、彼女が出てたから、企画のため、仕事のために見ていたんですよ。」
「あれ?以前さ、この仕事をする前からずっと、あの番組は好きだって言ってたじゃない。」
「そ、それは・・・。」
「じゃあ、動物ワンダーランドは?サタデーイブニングは?」
「・・・・・・・・・・。」
立ち尽くし、固まって、鞄を握り締める僕に追い討ちをかけるように、かずえさんは番組名をいくつも挙げる。
「どうしたの、しんじ?」
「もういい加減にしてください。」
そう、見ていない。
ホリデーナイト、動物ワンダーランド、サタデーイブニング、それどころか、今ではテレビも、ラジオも、雑誌も、まともに見たり聞いたり読んだりしていない。
自分のところで発行しているアイドルナウでさえ、自分が書く記事以外は全く目にしていない。
「しんじ、見れないんでしょう?まだ吹っ切れてなんかいないから。」
見ることなど出来るわけなどない。
相変わらず僕の心の中はまおでいっぱいだった。
あの日、入院する前日、別れ話となったあのときに、ぎゅっとまおを抱きしめたことは、昨日のように思い出され、感触もしっかりと残っている。
別れたあの日からもまおは今まで通り、いや、それ以上に活躍していることはこの職場にいればなんとなく伝わってくる。
それは僕にとって嬉しく、安心したことだった。僕のせいでまおが傷つき、仕事に影響しないか心配だったからだ。
「彼女さぁ、随分活躍してるわよね。」
「そうらしいですね。」
「誰のお陰であそこまで活躍できてるんだろうね。」
「さあ。それは、実力じゃないですか?」
そう、まおには実力があった。それだから活躍できる。
しかし、まおが以前に増して活躍そておりことで安心している反面、今の僕にとって、まおのことを忘れることが出来ないことにも繋がって、大変辛いことでもあった。
「しんじさぁ、それでいいやなんて思ってない?」
「それはいいことじゃないですか?いけないんですか?」
「あまりに元気で毎日過ごしていると思わない?」
「気丈に振舞っているんじゃないですか?それとも僕への気持ちはその程度だったのかもしれませんし。」
「それにしてもさ、少しぐらいはふとした表情なんかに出るものだけど、何事もなかったかのようだしね。」
「そ、それって、というか、かずえさんは何が言いたいんですか?」
「しんじ、彼女のこと、ちっとも吹っ切れていないわけよね?それならわたしが手伝ってあげるわよ。」
そういうと、自分のデスクのかばんを手にとり、もう一方の腕で僕の片腕に引っ掛け、強引に事務所から連れ出した。
「い、痛いですよ、かずえさん。」
「なら早く立ちなさいよ。」
「分かりましたよ。それで、一体どこに連れて行くんですか?」
「行けば分かるわ。」
そういうとさっそうと前を歩いていく。
ダウンジャケット姿で、皮のズボンを身に付け、ジーンズ姿ではないかずえさんがここ数週間続いている。
そして、ここ数週間、1人で行動することが多かった。
とある街の、とあるビル郡の、とある建物を離れ、とある街の、とある別のビル郡の、とある建物に着くまで、かずえさんも僕も、一言もしゃべることはなかった。


「さあ、ついたわよ。」
電車に乗り、歩いてくること30分。
とある街の、とあるビル郡の、とある建物を離れ、とある街の、とある別のビル郡の、とある建物の前。
そして、その建物はすごく見慣れていた。
「ここって、まおのマンションじゃないですか?!」
2人の思い出が詰まったこのマンション。
まおが1人暮らしを始めたときからずっと住んでいると言っていたマンション。
その建物の前にかずえさんと2人で立っていた。
「そうよ。彼女、今日ここにいるかしらね?」
「えっ!」
思わずかずえさんの顔を見る。
「なに、驚くことじゃないでしょ?ここはあなたも知っているとおり、彼女のマンションなんだもの。」
困惑気味の僕をよそ目に、こちらに目もくれず、平然とした顔で建物を見上げながらかずえさんは言う。
「そ、そういうことではなくて・・・。」
僕はいても立ってもいられなかった。
ここにいて、もしまおにでもばったり出会ってしまったら・・・。
「ぼ、僕は帰ります。」
引き返そうと建物を背にして歩き出す僕に、背中のほうからかずえさんの、冷静な声が聞こえてきた。
「あら、逃げるの?そんなに逃げてばかりじゃ何も解決しないわよ。」
その言葉に足を止め、僕はまた振り返り、相変わらず建物を見上げているかずえさんの背中に向かって叫んでいた。
「かずえさんに、何が分かるんですか!悪いのは僕ですから、仕方がないじゃないですか!まおのことをいくら好きでも、もう会うことは許されないんですよ!僕がまおを傷つけたことに変わりはないんですから、今はとにかく時間が経つのを待つしかないんですよ!」
かずえさんは何も言わず、ゆっくりと建物を眺めることをやめ、僕のほうを向いて近づいてきた。
「そうね。あの状況だけなら、あなたのほうが完全に悪いわ。それをやらせてきたわたし達にも責任は当然あるし。だからと言って、失恋の辛さを変われるわけではない。失恋の辛さはあなただけの問題だものね。」
次第に、かずえさんの姿がにじんで見えてくる。
いつの間にか僕の目からは涙が溢れ出していた。その涙を拭きながら僕は問い掛けた。
「じゃあ、なぜ?どうして僕をここに連れてきたんですか?」
「しんじ、あれから彼女に電話をかけたことある?」
「い、いえ、ないですよ。電話なんて出来るわけないじゃないですか。」
「そう、だったら、今、掛けてみなさい。」
「なぜですか?まおに話すことはなにも・・・。それにまおも話したくないだろうし。」
「いいから掛けて御覧なさい。携帯電話を返していないと、編集長から聞いているわ。どうせまだ電話番号も残っているんでしょう?」
そう強く勧めるかずえさんを断ることが出来ず、僕はしぶしぶ携帯電話を取り出す。
登録電話番号0番。いつもの登録番号の数字。唯一登録された番号。
あれからも消せず、編集長に返すこともなく、確かに今もしっかりと僕の手元にある。
そして、ストラップも。
編集長も気を使ってくれていたのか、いや、編集長ならただ忘れていただけだと思うけど、電話を返せとは言ってこなかった。
「どうしたの?」
携帯電話を握り締めたまま動かない僕に、かずえさんがせかす。
「い、今、掛けますよ。」
僕は仕方なく、通話ボタンを押す。
“プッ、プッ、プッ”
電話の電子音が聞こえる。そしてその後だった。
『お客様がお掛けになられた電話番号は、現在使われておりません。もう一度良くお確かめになってお掛け直しください。』
「あれ?」
「どうしたの?」
「あ、いえ、間違えたみたいです、もう一度掛けてみます。」
僕は少し焦っていた。電話番号を間違えるはずなど、あるわけがない。たった一つしか登録されていない電話番号なのだから。
「そう、今度は間違えないようにね。」
かずえさんは、冷静に言う。再度、登録番号0番を電話帳からだし、通話ボタンを押す。
“プッ、プッ、プッ”
電話の電子音が聞こえる。そしてその後、
『お客様がお掛けになられた電話番号は、現在使われておりません。もう一度良くお確かめになってお掛け直しください。』
やはり同じメッセージが流れてきた。
「どうしたの?」
携帯電話を見つめたまま考え込んでいる僕にかずえさんが声をかけてくる。
「い、いえ、それが・・・・。」
どもって言葉にならない僕。
「『お客様がお掛けになった電話番号は現在使われておりません』なんて、言われてたりするのかしら?」
「そ、そんなこと・・・・・。」
僕はムキになり、何度もリダイヤルボタンで電話をかけてみる。そんな僕に、かずえさんが、いたずらっぽく声を掛ける。
「しんじ、何度かけても同じことよ。」
今度はなだめるように、かずえさんが話してきた。
「彼女はもうその電話番号は使っていないわよ。しんじが退院した日、既にそうなっていたの。」
「そ、そうですか・・・。」
僕は、電話が繋がらないことにどこかホッとするけれど、すぐに失望感が涌いてきた。
「い、いえ、当然かもしれませんね。あれだけの事をしたんですから、嫌われて電話番号を変えるなんて別に、普通だと思いますから。」
押しつぶされそうになる自分の気持ちを必死にフォローしていた。
「また、そんな2枚目気取った体裁のいい言葉を出すわけ?」
僕は顔を上げ、かずえさんを見た。
「そ、そんななんじゃありません!本当にそうなんですから。そう言っただけです。」
「じゃあ、何で何回も電話をしたのかしら?」
「そ、それは・・・電話番号を間違えたからかもしれないと思ったからで・・・。」
僕は再びかずえさんを見ることが出来なくなっていた。
顔を下に向けた僕に、かずえさんの声が聞こえる。
「しんじって、まだ彼女がしんじからの電話を待ってるかもしれないなんて、淡い期待を持っていたんじゃないの?だから繋がらないことが信じられなくて、何度も電話をかけなおした。」
「そ、それは・・・・。」
僕は言葉が出なかった。
確かに、その通りだった。図星だった。
僕は心のどこかで、まおは、まだ待っていてくれるんじゃないかと、きっとまおも自分と同じ気持ちだと、そう思っていた。
考えてみれば、そんな淡い期待を持っていたからこそ、今まで携帯電話を手放すことが出来ず、更には、まおの携帯番号を消さずに持ち続けていた。
しかし、それにもかかわらず、その僕の淡い期待を裏切られることが怖くて、電話をあれから一度もかけることができずにいた。
まおを傷つけたから掛けられないなんて、そんなことを言いながら、本当は自分が傷つくことが怖かっただけなんだ。
「・・・ありがとうございます。」
我に返り、かずえさんに声を掛けた。
「今度は、本当に、吹っ切れることが出来そうです。それに、自分の愚かさにも気づくことが出来ました。」
顔を上げ、かずえさんに精一杯の笑顔で答えた。
「そう。それはよかったわ。」
そういうかずえさんの顔に、笑顔はなかった。
僕は今まで以上の挫折感、失望感を感じていた。
しばらくの沈黙の後、かずえさんが再び話しを始めた。
「でも、この世界に生きている人はなかなか電話番号を変える事はないわ。まして、彼女くらいになればなおさらよ。」
「どういうことですか?」
僕は、かずえさんが再び話し出したことの意味が分からなかった。と言うより、今は頭が半分働いていない感じもする。
暗い気持ちに頭の思考回路も占領されているようだ。
ただでさえ、殆ど動いていない思考回路なのだけれど・・・。
「彼女、かなり売れている子よ。そんな彼女の交友関係、仕事関係の人たちはどれくらいいるかしら?」
「それは・・・・かなりの人だと思います。」
「でしょうね。そうなると、いちいち全員に、携帯電話の番号を変えましたという連絡をする事は大変なことじゃないかしら?それなのに、彼女はそれをすごく簡単にしているわけよね。」
「そうですね。もしかしたら、プライベートとビジネスとでは携帯電話が違うかもしれません。僕のように・・・意味は違いますけど。」
「そうね、その可能性は当然あるわね。もしかしたら意味も違わないかもしれないけれどね。」
「な、なんですか?」
最後に、かずえさんがなんと言ったのか、いまいち聞き取れなかった
「いえ、いいのよ。それより、吹っ切れたんなら、見れるでしょ?」
「見れるでしょ?って、どこをですか?」
かずえさんの顔を見つめる。
かずえさんは、指をさした。その指の先にあるものは、まおのマンション。
考えたら、今、まおのマンションの前に来ている。
「ちょ、ちょっと、まってくださいよ。ここに行くって、それは、吹っ切れたこととか、愚かさに気づいたこととは関係なく、まずいですよ。」
そういう僕の言葉に耳も貸さず、さっさとマンションの方へ向かっていく。
後を追うと、かずえさんはマンションの入り口で立ち止まった。
ここのマンションは、オートロック。暗証番号がなければ中に入ることはできない。ところが・・・。
「じゃあ、行きましょう。」
「い、いくって・・・」
目の前の自動ドアが開いた。
かずえさんはオートロックのドアの解除キーをあっさりと押し、入っていった。まるで魔法のようにも見えるくらい、たやすく簡単に。
実は、僕でもここの解除番号は知らなかった。考えてみると、マンションに来る時は、いつもまおと一緒だったり、まおが居る時にたずねたりだった。
「ど、どうして解除番号を知っているんですか?」
僕の問いかけに答える事はなく、かずえさんはさっさと進んでいく。
ぼくは、ただ付いて行くしかなかった。
「彼女の部屋の表札って、しんじが通っていたときついていたかしら?」
エレベーターに乗ると、かずえさんがたずねてきた。
「はい、付いていましたよ。丸い木の板に、色のついた紐を『かみやま』って字を型取って、貼り付けていました。それに金色の鎖を繋ぎ、ドアノブのところに下げてありました。」
そう言われ、よーく当時のことを思い出してみる。少し胸が痛んだが、思い出さなければならないと言う使命感のほうが今は強かった。
「そう、よく思い出したわね。えらいわよ。」
「ど、どうも。」
まるで子供に話すかのような口ぶりで、僕の頭を撫でる素振りすら見せる。
その間も、エレベーターはスムーズに進み12階で止まる。
ドアが開くと、左右に伸びる廊下。その廊下の左の一番奥の部屋がまおの部屋だった。
「さあ、どう?」
『1205』と書かれた扉の前。まおが使っている部屋。また胸が痛くなるのを覚え、目をつむる。
「どうしたの?しっかり見て。」
かずえさんにそう促され、心を静め、気合を入れ直し、再び目を開けてみる。『1205』の数字が再び目に飛び込んでくる。それ以外には何もない扉。
防犯上、ここの扉には郵便受けも覗き穴もついていない。代わりに扉の上に防犯カメラがついていた。
「どう?」
かずえさんがせかすように問い掛ける。
そう言えば、さっき言っていた『かみやま』の文字がついた丸い木の板が、ドアノブには掛かっていなかった。
あの表札、はずしたのだろうか?そう考えるのが普通なのだが、その考えはすぐに吹き飛んでいた。
かずえさんはポケットから一つの鍵を取り出すと、なんとその扉を開けてしまったのだ。
あいた扉の向こうは、全く生活観のない空間が広がっていた。
「入って確認してみたら?」
かずえさんにそう促され、返事も出来ないほどの放心状態のまま、部屋の中に入っていった。
間取りや壁は僕の知っている部屋だったが、そこにはそれ以外僕の知っているものは何一つ置いてなかった。
「彼女、あなたが退院した日には既に、この部屋にはいなかったのよ。」
「・・・・・・・。」
「どう?しんじ、感想は?」
「・・・・・・・きっと、きっと、僕に会いたくないから、だから、この部屋を引越ししたんだ。そうですよ。きっとそうです、そうに違いないですよ。」
つぶやきにもならない、潰れた声を口から出すのがやっとだった。
自分が愚かな事はさっき改めて痛感した。けれど、やはりまおのことを傷つけたくなかった。大事な思い出なのだから。
「そうね、その可能性もなくはないわね。でも、あまりに用意周到よね。マンションにしても、携帯電話にしても。」
部屋を出ると、かずえさんは扉を閉じ、再び鍵を掛ける。僕は更に混乱し始めた。
「それじゃあ、次に行くわよ。」
そんな様子の僕には構わずかずえさんは部屋を後にする。
「次って、どういうことですか?もういいじゃないですか。わかりましたから。」
「なにが分かったというのかしら?」
エレベーターに乗り込み、1階のボタンを押す。
「だから、僕が愚かだったってこと。変な期待を持っていたから、今まで吹っ切れなかったこと。」
「そう。」
かずえさんはそれだけ言うと建物を出て行く。
僕の心の中は、まおが僕を完全に捨てたんだと言う絶望感が心を覆っていた。
僕はどうしようもなく、ただかずえさんの後について行った。まるで、母親の後を追いかける子供のように。
そして、次に行くところで、僕はあることを知ってしまうことになった。


「さて、次はここよ。」
とある街の、とあるビル郡の、とある建物を離れ、とある街の、とある別のビル郡の、とある建物の前。
何気なく付いてきたその先にそびえたつ建物。その建物もさっきのマンション同様、見慣れた建物だった。
「こ、ここって、スタジオシャンクじゃないですか!」
このスタジオは、音楽製作、フォトスタジオ、プレスルームも入っている、まおが所属する事務所の総合スタジオ。
円形の建物で、ガラスが前面に張ってある、おしゃれな建物だった。
その建物の前にかずえさんと2人で立っていた。
「今日ね、彼女ここにいるのよ。」
「えっ。」
僕は驚き、かずえさんのほうを見る。かずえさんは建物をじっと見つめている。
「ど、どうしてここへ僕を?」
「そろそろケリをつけなくちゃ。」
「ケリって。ケリならもうとっくに付いてますよ。僕が裏切って、そして傷つけた。それなのに、僕は自分の中で勝手にまおに対して期待して、携帯電話も編集長に返すことも出来ず、かと言ってまおに電話をする勇気もなく。・・・・・まおは携帯番号も、住んでいる場所もとっくに変えていたというのに。ここまで分かって、打ちのめされて、これ以上どうやってケリをつけろと言うんですか?」
再び目頭が熱くなる感じを覚えた。
僕は、溢れそうになる涙をぐっとこらえていた。
「しんじ、あなたはまだ彼女のことを忘れてはいないんでしょう?」
「そんなにすぐ、忘れられるわけないですよ。さっき、気持ちの切り替えを始めたばかりですよ。」
「そうよね。実は・・・・。」
「な、なんですか。」
かずえさんは少し考え込んでいる様子。
相変らず、建物の方を見つめている。
「実は、なんですか?」
たまらない沈黙感に耐えられず、僕の方が気になり、切り出す。
「これからしんじに伝えること、かなり酷な事かもしれないわ。」
「そ、そんな、神妙な顔で言われると、怖いですよ。」
「それとも、さっきまでと同じように、彼女を美化したままの方がいいかしら?」
「美化したままって・・・・。確かに、まおがまだ、僕のことを思ってくれているんじゃないかと考えて、勝手な妄想してましたけど、それは美化でもなんでもなく、僕の思い込みですよ。だから、これ以上僕を追い込まなくてもいいじゃないですか。」
「そのことじゃないのよ、これから教える事は・・・。」
かずえさんが僕の方を向き、真剣な目で僕の目を見つめる。
普段の冗談を言って笑っている、切れ長でも目じりが下がった瞳ではなく、真剣な目がそこにはあった。
「もう帰りましょうよ。今なら時間が解決してくれます。これ以上傷が深くなると、立ち直れないかもしれませんし・・・。」
かずえさんはその返事を聞き、再び建物に目を向けた。
「そう。あなたが本当にそう思うのであれば、このまま帰りましょう。けど、知るチャンスはもう今日しかない事は事実よ。後で聞いてもしんじはそのことを信じる事は出来ないでしょうから。」
「・・・・。」
「それと、しんじの気持ちは、確かにそのうちそれで収まるかもしれないわ。だけど、彼女はきっと納まっていないはず、だと思うわ。」
「・・・・。」
そう言われると考え込んでしまう。やっぱり、知りたくないといえば嘘になる。
人間の興味と言うのは、どういう構造になっているのだろう。
『最後のチャンス』とか、『秘密なんですが』と言われると無性に知りたくなる。
それに、やっぱり心のどこかでまおのことをまだ信じていた。
まおのことを考えると、いや、まおという言葉を聞くだけで、胸が張り裂けそうなくらい痛くなる。
「かずえさん・・・。」
「なに?」
「そのことを教えてもらったら、まおのことを完全に吹っ切れることが出来るでしょうか?」
「うーん、どうかしら。私はしんじじゃないもの。まあ、私だったら携帯電話自体、とっくに処分しているでしょうけど。」
「ですよね。僕はかなり引きずる方です。今回は特に長引きそうです。」
「ただね・・・ただ、しんじは知る必要も、その権利もあると思うのよね。」
「何だか分からないですけど、このままだといけないと思うので、教えて下さい。僕も、まおのことを完全に吹っ切って、またやりなおさないといけないですし。」
「そう。けしかけるようにここまで連れて来ておいてこう言うのもなんだけど、本当にいいの?」
「はい。」
「そう。わかったわ。」
かずえさんは返事をすると、手に持っていたかばんの中から2枚の紙を取り出した。
それは契約書のコピーのようだった。
「知り合いがいてね、本当はいけないんだけど、無理言って頼んだのよ。」
かずえさんはそう言って、取り出した2枚のコピーを僕に手渡した。
ひとつは携帯電話の契約書。そしてもう一つはマンションの賃貸契約の契約書だった。
「そこに契約者の名前が入っているでしょう?プロダクション事務所株式会社シャンクって。その名前は当然、知っているわよね?」
「はい。」
知っているに決まっている。まおが所属するプロダクションの名前だ。
そして、目の前の建物がそのプロダクションが入っている建物でもある。
「でも、これって、どういうこと、っていうか、会社がまおのために借りていたってことですよね?別に変ではないですよね?」
「そうね。プロダクション事務所が所属タレントのために借りているマンションは特別なことではないわ。」
「ならどうしてですか?契約書見ても分からないじゃないですか。」
「あら?分からない?彼女って、いつから一人暮らしを始めたんだったかしら?」
「いつからって、高校卒業してからすぐですけど。」
僕はかずえさんの言いたいことが分からなかった。
「まだわからないようね。彼女って、一人暮らしを始めた頃から、あのマンションに住んでいたのよね?」
「ええ、そうです。」
確かに、思い返しても、あの日。初めてまおの部屋に泊った日。
高校を卒業してすぐに一人暮らしを始め、その頃から使っていると僕は聞いた。
あの時は、他の質問に気を取られていて、大して気にもしていなかったけれど。
「そんな、高校卒業したばかりの女の子が、突然こんな立派なマンションに住めると思う?」
かずえさんは説明を続ける。
「そ、それはそうですけど・・・プロダクション事務所がまおのために借りたなら支払いはプロダクション事務所ですから別に変ではないでしょう?」
「そうね。けど、その2つの契約書の契約した日付はどうなっているかしら?」
「契約した日付?」
日付を見て目を疑った。
「な、なんで?何でこうなっているんだろ?」
その2つの契約書の日付は、どちらも同じ日付。
それも変な話なのだが、その日付は、1年3ヶ月前の8月10日。
まおの一人暮らしは高校卒業してすぐの4月からだから、4月にはあのマンションに住んでいるはず。
当然契約書も4月か、もしくは前の月の3月の契約日になっていないといけないはずだ。
「しんじ、さっきプロダクション事務所が彼女のために借りたと言うことならおかしくないと言ったわよね?」
「あ、はい、言いましたけど・・・。」
「でもね、タレントになって、まだほとんど実績もあげていない彼女に、プロダクション事務所が普通のアパートならともかく、あれほど高いマンションを借りてあげるかしら?」
「そ、それは・・・・・。」
「そんなに甘い世界じゃないって以前も言ったわよね?」
「そ、それはそうですけど・・・。」
そうだ、その通りだ。
僕も就職してからまがいなりにもこの世界を見てきている。自分で言っていて、分かっている。しかし・・・。
「それに、ご丁寧に2つの契約書はいずれも同じ日にちになっているわよね?しかも8月10日。その日にちは1年数ヶ月前、しんじが例の企画、『BOY MEETS GIRL』でわらをも掴みたいと感じて、苦労していた時期じゃなかったかしら?」
確かに、僕が就職決まって初出勤した日の3週間後、あの例の企画をしていて、すごく辛く、苦しい思いをしていた、まさにそんな状況のときの日にち。
それに、まおと出会うたった数日前の日にちだった。
「それじゃあ、入りましょうか。」
混乱している僕を横目に、かずえさんは建物の正面からではなく、裏のほうへと周る。
慌ててかずえさんの後についていくと、裏口のドアの鍵を警備の人に開けてもらい、なんと入れてもらっていた。


「さて、どこかなー?」
「な、何を探しているんですか?」
そう言う僕の質問には答えず、かずえさんは更に奥へと進んでいった。
ここは、スタジオシャンクの建物の中の通路。
外から見るガラス張りの印象とはまったく異なり、一面が壁に覆われている。ドアはあっても、窓はついていない。
スタジオシャンクは、プレスルームとエントランスの一般公開部分以外は部外者立ち入り区域。
当然、僕は中を見たことがなかった。
「あったわ、こっちよ。」
そういうと、一つの扉の中へ入っていく。
「シー、静かにね。」
「は、はい」
かずえさんはゆっくりと扉を開ける。
僕は、かずえさんの後についていく。扉には確かスタッフオンリーとなっていた。
「こっちよ。」
かずえさんが手で小さく手招きをする。
扉の向こうは片側には黒い布が張られ、もう片側は壁で、正面はかなり奥のほうまで塞ぐ物はなく、黒い布のトンネルと言う感じだった。
かずえさんは音を立てないように静かに扉を閉め、黒い布と壁で挟まれた、舞台裏といった感じの布のトンネルを奥へと進む。
黒い布の向こうからは物音や人の声がする。
「見て御覧なさい。」
かずえさんが止まり、小声で言う。
黒い布の隙間からチラリと覗く。
すると、10メートル四方はあると思われる、結構広いスタジオだった。
スタジオの反対側、僕らがいるこの黒い布の向かいには白い布が張られ、その前に何人か人がいる。
機材も様々なものが置かれていた。天井も高い。
黒い布から覗く、そのすぐそばに人が立っている。
すごく小声であっても、見つかってしまうのではないだろうかと思うほど、すごく近い距離だった。
白い布の前ではストロボがたかれ、まさに写真撮影の途中だった。そして、そのストロボを浴びている人物は、まおだった。
「お疲れ様でした。」
カメラを持った後姿の人が声を上げ、それ以外の人からも緊張感が解けたように声があがる。
「お疲れ様でした。」
「お疲れ様でした。」
それと同時に、後片付けを始める人たち。
慌しく人が動く中、まおはこちらに向かって歩いてくる。相変わらず、姿を見れば心にぐっと来るものがあった。
このまま見つかってしまうのではないかと思うほど、僕が隠れている場所のすぐ傍まで来ると、すぐそばに立っていた人影の人と話を始めた。
「お疲れ様、まお。」
先に声をかけたのは人影のほうだった。その声は、聞き覚えのある声だ。
「お疲れ様です、都築さん。」
まおが話す相手、人影の主はマネージャーの都築さんだった。
相変わらずビシッとスーツを着込み、キャリアウーマン風の後姿。
撮影をしているまおの方を向いていて、後姿も少ししか見えなかったため、都築さんだとは気づかなかった。
「こんなに大変だとは思わなかった。」
まおは都築さんの隣りにある椅子に腰掛けた。
都築さんを挟んで、僕が覗いている隙間とは反対の方で、椅子に座る音が聞こえる。
そして、2人は話し始める。
「何言ってるの、まお。仕事でしょ。」
「それはそうですけど、ここまですごいことになるなんて思ってなかったですから。」
「わたしが計画したのよ。すごくならないわけないじゃない。急いで携帯電話とマンションを用意して、あんなに高いマンション借りて。すごくなってもらわないと困るわ。」
「そうですよね。でも、あんなに早くマンションや携帯電話を引き払わなくてもよかったんじゃないでしょうか?」
「何言ってるのよ。記事が出てしまえば彼にもう用はないわ。当然、あの部屋にも、彼としか繋がらない携帯電話も必要ないもの。それに、もしかしてストーカーにでもなられたりしたら、あなたも困るでしょ。」
「それはそうですけど・・・。」
「なに?もしかして気になるのかしら?」
「あ、いいえ。そうじゃなくって、少し余韻に浸りたかったかなって。」
「そうね。さすがに1年以上使っていたものね。」
「はい。」
「そう言えば、慌てていたこともあって、あの時携帯電話もマンションも、どちらの契約も同じ日になったこと、私としては失敗だったわ。」
今まで立っていた都築さんも、まおの隣りの椅子に腰掛ける。パイプ椅子がきしむ。
「それに、慌てたと言えば、あなたが一人暮らし始めたときからあのマンションに住んでいると言ったと聞いた時はもっと慌てたわ。8月からしか借りていないのに、4月から一人暮らししているまおが住めるわけないものね。まして、彼と出会う、たった数日前に借りたばかりなんて。それに、高校出たばかりであんな高いマンション、普通に考えたら住めるわけないものね。」
「あの時は、すみませんでした。」
「それはもういいのよ。彼、全然不思議に感じてなかったんでしょ?」
「ええ。そうですね。」
「とろい子で助かったわ。どうせ契約書を見なければ分からないことですしね。彼だと、見ても分からないかもしれないけれどね。まあ、どちらにしても彼が契約書を見ることはないでしょう。」
都築さんの言葉がすぐそこで聞こえる。
それにしても、『彼?』『計画?』『契約書?』手元にあるけど?これのことかな?
契約書の入っているズボンのポケットに手を当てる。
しかしそれ以上に感じたこと。
「それにしても、本当にまおなのかな?」
僕は二人に聞かれないように更に小声でつぶやいた。
「そう思うのも無理はないわ。」
「かずえさん・・・。」
そう。あまりに違う。
それは、まおの話し方だった。
人が変わったかのように、とても凛々しさがある。
最初にファミリーレストランでまおに会って、ケチャップを運んできた仕草を見た時のまおを、そして、本当に芸能界を続けようかと悩んでいるときの横顔。
普段のあどけない感じではなく、一瞬見せた大人びた姿のままを、今は一瞬ではなく、普通に見せ付けられているかのようだった。
20歳よりもずっと幼く見えたまおの姿はそこには全くなかった。
2人の会話は続く。
「それにしても、まおの演技、見事だったと思うわ。」
「いえ、都築さんがチャンスをくれたお陰です。都築さんには、感謝しています。」
「チャンスをくれたのは、あちらだけれどもね。でも、1年以上の間、あなたはよく頑張ったわ。」
「ありがとうございます。とにかく1年間必死でした。今まで誰かとあんな風に接した事なんて一度もなかったですから。すっごく恥ずかしくて、心の中では、こんな話し方、寒いな、なんて思っていたところもありました。」
「ふふっ、でも、そのお陰で新たな一面を見ることが出来たわ。自信持って、ドラマの話を引き受けられたもの。」
「そうですか?」
「それにしても、わたしがマンションに行った時の慌てぶりって言ったらなかったわ。あなたは知っていたのにね。彼、洋服ダンスの中に隠れていたんでしょ?1時間以上もあの狭い中に。よく我慢していられたわよね。」
「もう、笑わないでくださいよ。」
などと言いながら、半分まおも笑っている。
しかし、彼?一体誰のことだろう?洋服ダンスに隠れたのは僕だけど、僕以外にもいたのだろうか?
「今回は、我ながらいいアイデアだったと思っているわ。騙そうとしている記者を知らぬ振りして騙されてます、って顔してその話に乗っかって。本当はこちらが騙しているとも知らないでね。そして、わたしの計画通り事は運ばれ、記事は載り、特集にまでこぎつけた。」
「はい。」
「でも、もしあの計画を本当に知らないまま、あなたが騙されて、雑誌に掲載されていたとすると、色々と大変なことになっていたわ。裁判関係なんかでね。面白い企画だけど、思い切った企画よね。一か八かって感じの。・・・あら?どうしたの?やっぱり、気になっているのかしら?」
「あ、いいえ。きっと、少し疲れただけです。一気に忙しくなったので。」
「そう、それならいいけど。これだけは言っておくわね。最初に騙そうとしていたのはあちらなんだから、私たちが気にすることなんてない。いいわね?」
「はい。」
なんだかとっても嫌な感じがしてきた。
胸を締め付けられる気持ちを感じ、胸に手を当てる。
それに気づいたのか、かずえさんがもう一方の手をぎゅっと握り締めてくれた。それにより、少しは自分の気持ちを抑えることが出来た。
そんな事には、当然気づいていない2人の会話は更に続いていた。
「それに、彼も騙すことに必死で、無理して高いレストランなんかに入ったりして、頑張って『俺』なんて格好までつけたわね。こちらは普段の彼を調べて良く知っていただけに、笑えたわよ。それに、商社マンのフリして。しかも、日本M商事。あそこの会社、うちの事務所とはずっとCMで取引している会社なのにね。知らなかったのかしらね。でも、そんなに頑張っている彼見ると、なんかかわいく思えたわよ。」
都築さんは上着のポケットからタバコを出すと、火をつけている。
「都築さん、ここ禁煙ですよ。」
まおが注意をしている。
「いいのよ。構わないわよ。」
隙間から覗く、座っている都築さんの背中越しから、タバコの煙が見える。都築さんは数回タバコをふかすと、再び口を開いた。
「でも良かったのよ、無理して彼と寝なくたって。」
「でも、悪いかなって。それに、1年間もまったく関係がないというのも、変かなとも思いましたし・・・。」
「それはそうだけれど、逃げる事だって出来たのよ。SEXなんてしなくても、あちらはあなたから逃げる事は出来なかったんだから。それとも、惚れちゃったのかしら?」
「え、あ、ま、まさか、そんな・・・・。」
「まあ、いいわ。終わったことよね。」
「はい。」
「それはそうと、アイドルナウの発行部数も伸びたって聞いたわ。彼も結果的には騙されたとはいえ、活躍出来て良かったじゃない?それにしても、今でも気づいてないのよ、あの彼。今頃何しているのかしらね。肺炎で入院したって話は聞いたけど。彼、名前なんていったかしら?もう忘れてしまったわ。」
「ひどいですよ、都築さん。しんじ、真山しんじ、です。」
そのまおの言葉を聞いて、僕の体は硬直し、胸の張り裂ける音が聞こえたようだった。
え、なに?まやましんじ?それって、誰のこと?ぼく?僕のことって事か?
ずっと2人の会話を聞いていて、もしかしたらと思いながらもどこかで、
『これは僕の話じゃない。まおはそんな子じゃない。』
そう思っていたのかもしれない。
でも、自分の名前を聞いたとき、頭の中がもう真っ白になっていた。
そして僕は、次の瞬間、自分でも信じられない行動を取っていた。
「しんじ、駄目だって。」
そう言うかずえさんの言葉は一応耳に入ってはいたのだが、もうどうにも止まらなかったのだ。
「まおっ!」
目の前にある黒い布を押しのけ、かずえさんの握っている手を振り払い、静止を押し切って、2人の前に飛び出していた。
二人は素直に驚き、そして硬直した表情に変わったのが解った。
「し、しんじ?」
まおがようやく絞り出したように呟いた。
僕の視界の端で、かずえさんが“アチャー”と言う表情をしているのが分かった。
「あ、あなた・・・・・こんなところで何をしているの?」
都築さんがまおの言葉で我に返る。
こんなところでって、ここは・・・・・都築さんの言葉で今度は僕が我に帰る。
「あっ、えーっと、あーっと、そのー・・・・・」
スタジオシャンクだったんだよね、ここって。
そうだよね、ここにいる僕って、向こうからしたらおかしいわけで、なんと言っても、スタッフオンリーの扉から入ってきたわけで・・・。
「誰かいないの?」
このスタジオ内は、いつの間にか他の人は撤収していていなくなっていた。
都築さんは慌てて叫びながらドアから廊下に飛び出して警備員を呼びに行っている感じだった。
僕は何も出来ず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「ほら、しんじ、逃げるよ。」
見かねたかずえさんが黒い布の中から出てきて、僕の手を掴んで引っ張っていこうとする。
しかし、僕はまおから視線をそらすことが出来ず、ただ固まったまま動けなかった。
まおは、目線を合わせられないといった感じで、椅子に座ったまま下に顔を伏せたままだった。
ビルの陰でうつむいて別れ話を切り出すまおを思い出した。
「まお」
話し掛けようとする僕にまおが切り出した。
「ごめんね・・・・・ごめんなさい。」
相変わらずうつむいて、そう言葉を搾り出すのがやっとと言う感じだった。
「お互いに相手のことを好きだと思っていたのは僕だけの思い込みだった?あの出会いも、この1年以上もの間のことも、全部演技だったの?僕も演じていた。それは悪かったと思っている。けど、僕のまおを思う気持ちは本当だった。まおは、その気持ちすら、演技だったの?」
そう問い詰める僕の言葉に、一瞬顔を向ける。
「そ、そんなことは・・・・。」
そう言うとすぐに下を向き、目をぎゅっとつむり、唇をかみ締める。
「ごめんなさい・・・・・。」
しばらくの沈黙の後、再び謝るだけの言葉が出る。そんなまおの顔を見て、謝るまおの謝罪に嘘はないと感じ、それ以上僕は追及できなかった。
「ほら、はやく。」
かずえさんが再び黒い布のほうへと僕の腕を引っ張り、入ってきた扉から僕たち2人は通路へと出る。
「あっちに行ったわよ。」
都築さんの言葉が後ろで聞こえる。
もう後ろを振り返っている余裕などなく必死に走る。
『騙されていたんだ。騙していると思って悩んでいたけど、自分が騙されていたんだ。最初から裏切られていたんだ。』
今まで隠していた感情が溢れてくる。
それと同時に、そんな痛烈な思いに涙が溢れ、視界がぼやけていく。
僕が騙そうとしていたわけだから仕方がない。でも、まおを好きだった気持ちは真剣だった。
自分では気持ちに区切りをつけて接しているつもりだったのだが、完全にまおを好きになっていた。
まおもそうだと信じていた。
まおにしたら純粋に僕と向き合い、付き合ってくれていると思っていた。
ところが、最初からまおにそんな気持ちなどなかったのだ。最初から、これっぽっちも。
拭いても拭いても溢れてくる涙。
周りの視界は完全にぼやけ、もうただ必死にかずえさんの後姿を追いかけるしかなかった。
気づいたときには、とある街の、とあるビル郡の、とある建物の、とある戸を抜け、いつもの事務所にいた。
それから何日かがたっても、僕たちが忍び込んだことで、呼び出されることも、問いただされることも、新聞に載ることもなかった。
きっと、折角売れたまおのイメージを下げたくはなく、表沙汰にはしたくないのだと思う。
それがまおの答えだと、僕は感じていた。


「編集長、お話が。」
「なんだ、しんじ。」
編集長のデスクの前。片手には『退職願』と書かれた封筒を編集長に手渡した。
心配そうに見つめる遠山さんとかずえさんの視線を、背中に感じることが出来る。
打ちのめされたあの出来事から2ヶ月がたち、悩みに悩んだ末の決断だった。
みんなにはすごく申し訳なく思っている。
「そうか、どうしてもやめるのか?」
「はい。僕には向いてなかったのかもしれません。」
かずえさんが、僕に教えてくれたあの事実、まおが僕を騙していたというあの真実は、皆が、まおの周辺、マネージャーである都築さんの周辺、プロダクション事務所関係など、ありとあらゆる人脈を駆使して調べてくれたから分かったことだと後でかずえさんから聞いた。
まおのマンションは編集長がいつも使う情報屋から、スタジオを通れたのは遠山さんが友人となった警備員さんに頼んでくれたから、スタジオ内で撮影場所が分かったのはほかのスタッフの方から、そして契約書関係はかずえさんが裏から手を回して(どのような手かはいまだに教えてくれないけれど)手配してくれたものだった。
ここのスタッフはみんな、やはりそれぞれ知り合いを作り、こっそり忍び込んで情報収集をしていたんだということも後で知った。
僕が始めての出勤日にかずえさんが言っていた
『ここではみんな気持ちのどこかで割り切れない気持ちで仕事をしているところもあるのよ。罵声を浴びたり、けなされたり、本当にこれでいいのかってね。でも、それがゴシップ記者としての真実。辛くて当り前。』
そう言っていた事を思い出した。
そして、自分が今まで何もしていなかったんだと言うことを痛感させられた。
最初は、殆ど人がいなくて異様な雰囲気の事務所に戸惑い、まじめに話を聞いてくれない編集長や遠山さんに不信感を抱いたり、不満を感じたことも多々あった。
でも、入院した時や退院後、それにまおとの件。
僕が肺炎で入院した病院を退院した日にチラッとかずえさんに呟いた『なんだかまおの最後の一言が引っかかる。』と言うたったそれだけの言葉を信じて、みんなが僕のために動いてくれた。
僕が知らなかっただけで、遠山さんも、編集長も、あまり僕のことを考えている風には見せなかったけど、ずっと僕のことを見守り続け、考えてくれていたんだと言うことを痛いほど感じた。
その話を聞いたから、ぼくはこうして今立ち直り、しっかりと会社に出社していると言えた。
あのままだったら、きっと、いや、絶対に打ちのめされたまま会社は勿論、自分の部屋から出てくることすら出来なかったと思う。
「しんじが自分でそう決めたのなら、それは仕方がないことだ。」
「すみません、編集長。」
編集長は、僕の差し出した退職願をデスクの引き出しにしまった。
「いや、謝らなければならないのはこちらのほうだ。正直、大変な企画だとは分かっていた。しかし、この業界のことを何も知らない人間の方がやり遂げられると感じて推し進めてきた。」
編集長はメガネを外し、目頭を押さえている。
「まさか、こちらが騙されていると言うことはわたしも気づかず、ただでさえ大変なこの仕事を更に大変にして、追い込んでしまっていた。私の落ち度だったよ。しんじにはすまないことをした。」
「いえ、とんでもないです。ありがとうございました。」
それだけ言うと、僕は一礼をして自分の席に戻る。
席に戻る途中、掛ける言葉が見つからないと言った表情で、僕を見つめる遠山さん。
僕が遠山さんの後ろを通り過ぎる時、遠山さんは何も言わず僕の背中をポンポンと軽く叩いた。その手はどんな声よりも暖かく感じられた。
「しんじ・・・・。」
僕が席に戻ると、かずえさんも椅子に座る僕を見つめ、それ以上の言葉は出てこなかった。
僕は机の片づけを始めていた。
1年6ヶ月とはいえ、この机には色々とお世話になったものだ。
それほどないと思っていても、自分の荷物は思った以上に増えていた。その量が余計にここにいた歳月の重みを伝えていた。
仕事が手につかないといった感じのかずえさんが、ふと立ち上がり、編集長のほうへ行くとなにやら打ち合わせをしている。
「それじゃあ編集長、そう言うことで。」
「ああ、かずえ、わかったよ。」
デスクに戻ってくるとかずえさんは明るく笑顔を作って僕に言ってきた。
「しんじ、あなたの送別会をするわよ。」
「送別会?い、いいですよ。皆さん忙しいし。」
「何言ってるの、1年半も一緒にいた仲間でしょ。労をねぎらうのは当然のこと。それにしんじは偉業も達成したんだから当然よ。」
そういうと、1枚のメモ用紙に店の名前と時間を書いて、僕に手渡した。
今日の午後5時。
店は、居酒屋でもなく、料理屋でもなく、ファミリーレストランだった。
どこのファミリーレストランかは言っていなかったはずだが、何の因果か、まおと一番最初に出会ったあのファミリーレストランだった。


“カランッ、カランッ、カランッ”
「いらっしゃいませー」
店員の声がする。
とある街の、とあるビル郡の中にある、とある・・・・ファミリーレストランの、とある戸を入ったところ。
もちろん、“カランッ、カランッ、カランッ”という音は鳴っていないけど、やはりそんな感じで扉が開く。
時計は午後5時。
ちょうど送別会をしてくれると言う時間だった。
「あ、しんじ、こっちよ!」
奥のほうで、かずえさんが僕を見つけ、こちらに向き、手を振って呼んでくれる。
ウエイトレスの子に声を掛け、みんなのところへ向かう。
既に事務所のみんなが集まってくれていた。
みんなが揃うのは、今日で3回目。歓迎会と、あの特別号の発売日と、送別会。
「まあしんじ、ここにすわれよ。」
編集長が一番奥の編集長の隣の席を開けて、その椅子に僕を招き入れる。促されるままその椅子に座った。
僕のもう一方の隣りの席にはかずえさんが座っていた。
「さて、主役も来た事だし、そろそろ始めますか。」
編集長の言葉に待ってましたとばかりに、僕の向かいに座っていた遠山さんが席を立つ。
そう言えば、どうして人は、みんなに声を掛けるとき、マイクを持つマネをしたり、何かをマイク代わりにするんだろう。
その時の遠山さんも例外なく、まだ開けていない箸を箸袋ごと持って、マイク代わりに放し始める。
「それでは、えー、あれから色々なことがあり、ゆっくり祝賀会も出来なかったので、今回120万部達成のお祝いと、しんじの送別会をただいまより行いたいと思います。そこで、まずはしんじから挨拶してもらおうと思う。」
そういうと、遠山さんは、箸マイクを僕の方へ差し出す。
「ほれ、しんじ。」
遠山さんは立て立てと、手で仰ぐようにして催促してきた。
「あ、いや、いきなり言われても・・・」
「何言ってるの、『送別会』も『120万部達成祝賀会』も、どちらも主役はしんじなんだから。ほら。」
かずえさんが肘で僕のわき腹を突っつく。
「あ、あの、それでは、あまりこういうのには慣れていないんですが、一言だけ。」
そういって、仕方なく僕は腰を上げてその場でたった。
「えー・・・・・」
みんなの顔を見回す。
1年半もの間一緒に頑張ってきた人たち。1年半もの間の思い出がめぐってくる。
まおにふられて泣いたあのビルの陰のときとも、スタジオシャンクで知った衝撃の事実のときとも違い、辛い感じはない。
みんなの僕を見つめる温かな目に、言葉に詰まる。しかし、誰も何も言わずじっと僕を見つめて、言葉が出てくるのを待ってくれていた。
「1年半と言う短い時間でしたが、本当にみなさんの温かさを感じた1年半でもありました。」
こみ上げてくるものをぐっとこらえ、僕は続けた。
「最初は、編集長や遠山さんは冷たい人だな、と感じたりしたものでした。また、かずえさんの言葉にシビアで冷徹な人だー、などと感じたこともありました。しかし、かずえさんは局面ごとに僕を導き、そして、遠山さんや編集長は僕の行動を常に遠くから温かく見守りつづけていてくれていました。またそれは、他の皆さんも同じでした。」
そこまで言うと、一呼吸置いた。みんなはじっと聞いていてくれた。
「ここの会社は、どちらかと言えば一般の企業とは違い、極めてはずれの世界。しかし、一番人間らしくあり、そして、その中だからこそ、助け合うことの大切さを学びました。人生から見れば1年半と言う、短い時間かもしれません。しかし、今までなんとなく生活してきた僕にとっては、とても大事な、そしてとてもお金では測ることの出来ない貴重な体験でした。ご迷惑もお掛けしたと思います。こんな僕を温かく見守っていただき、どうもありがとうございました。」
一礼をする。シーンとみんなが静まり返り、そして拍手をくれた。
「しんじ、いい挨拶だったわよ。」
かずえさんが隣で声を掛けてくれる。
なんだかほっとする。ほんわりとする。
向かいの席では、遠山さんは涙ぐんでいた。
「えー、しんじの、すばらしい、挨拶もあり、ちょっと感動してしまいましたが・・・」
座った僕の変わりに、遠山さんがその場で立ち、目頭を抑えながら司会を続けた。
「では、そろそろ料理も運んでもらっていることですし、ファミリーレストランと言う場所で一風変わっていますが、みんなで食べましょう!」
4人掛けのテーブルを3つあわせ、社員、パートさんも含め、8人が陣取っている。
そのテーブルの上に、料理が運ばれてくる。
突然のことだったから他に場所が確保できなくてと、かずえさんは言っていた。
文句を言える立場ではない。送別会をやってもらえるだけで感謝なのだから。
そして、目玉焼きのついたプレートも運ばれてきた。
「この目玉焼きにケチャップもお願いします。」
誰からともなく声がする。目玉焼きにケチャップは今回の仕事でみんなに知られていた。
「わたしも体験してみよ。」
かずえさんがいたずらっぽく笑い、目玉焼きにケチャップをかけて、ほお張るっている。そんな幸せで楽しいときが流れていった。
「えー、さて、みなさんちゅうもくー!」
顔を赤くした遠山さんが立ち上がり、締めに入ろうとしていた。
ファミリーレストランでここまで顔を赤くして酔っ払っている人を僕は始めて見た。
「大変盛り上がっているところ、大変申し訳ありませんが、この辺りで一つ・・・」
そう言って、僕に立て立てとまた手を仰ぐ。
なんだか分からずその場で立つと遠山さんは話を続けた。
「あー、しんじ。おまえはよくがんばった。」
「あ、ありがとうございます。改めて面と向かって言われるとはずかしいですよ。」
「そこで、おまえにプレゼントを用意した。」
遠山さんは皆を押しのけ、フラフラとファミリーレストランの入り口の方へと向かって歩き出した。
プレゼント?なんだろ?
そう思っていると遠山さんは入り口から一度外へ出て、中に人を1人招き入れてきた。
その人物を見て、僕は驚きを隠せなかった。
「ま、まお?なんで?」
テーブルのところまで来ると、遠山さんがまおの紹介を続けた。
「えー、みんな知っているとは思うが、神山まお子さんだ。うちの雑誌のもう一人の救世主だ。」
「神山まお子です。」
遠山さんに紹介され、まおは一礼をする。
僕は何がなんだか分からず呆然としていた。
「実はね、しんじ。」
隣にいたかずえさんが立ち上がり、まおのそばへ向かっていった。
そして僕のほうへ向き直り言葉を続ける。
「あの後、まおさんから連絡を貰ったの、わたしに。」
「そ、そうなんですか・・・。」
何がなんだか分からず返事をしていた。
「まおさんね、わたしに電話口で切実に訴えてきたわ。当然、私としては、これ以上しんじを傷つけたくなかったからその電話を切ったの。ところが、それから毎日、私のところに電話をくれた。そこで、少しずつ、話を聞き始めることにしたの。随分苦しんでいることがよく伝わってきたわ。」
「でも、僕のことを騙しつづけていたんですよ。」
「それは分かっているわ。でも、騙そうとしていたのはこちらも同じことでしょ?」
「それはそうですけど・・・」
「あの時、相手がまおさんに決まったとき、わたしが喜びながらも言ったセリフを覚えているかしら?」
「そ、それは・・・」
「覚えているようね。この世界は騙しあいのところがある。わたしたちはまおさんを騙そうとしていた。そして、それと同じようにまおさんもわたし達を騙そうとしていた。そう言う世界だって事。」
「・・・・・・・。」
「でもね、そんな世界でも、まおさんはわたしに気づかせてくれたことがあるのよ。」
そういうと、僕の傾聴具合を確認するように少し間を置いた。
僕がうつむき加減の顔を上げると、和江さんは続けた。
「それは、相手を信じ続けることの大切さよ。そして、そのまおさんは、そのことをしんじから教わったそうよ。」
「えっ!ぼくから?」
「ほら、まおさん。」
かずえさんはそう言うと、まおの肩に手を乗せて促した。
まおはかずえさんの目を見てから、再び僕の方を向き、ゆっくりと口を開いた。
「私は、高校の時から芸能界と言う世界に入り、ウワサとも嘘ともつかないような、人と競い合う競争の中で仕事をしてきた。そして、いつの頃からか、それが当り前になっていた。でも、高校を卒業する頃、ちっとも人気があがらず、知名度が低かったわたしはすごく焦っていたの。このまま続けるべきか、それともいっそのこと、別の道に進んだほうがいいのかなって。そこに、アイドル雑誌アイドルナウが、仮想の恋人役を立てて、アイドルの子とつき合わせることで、私生活を垣間見ようとする企画があるという情報を、都築さんがキャッチしたの。そこで、都築さんは、わたしが騙されているフリをして、ターゲットの役になることで、逆に利用しようとする計画をつくった。その相手が、しんじ、あなただったということなの。」
まおは一呼吸おくと、続けた。
「私は、子供のころから芸能界に入り、タレントとして活躍したかった。ほら、母が入院していたって話したでしょ?」
僕は黙ってうなずいた。
「母は、昔から身体が弱くて、結局亡くなってしまった。その母の夢が、女優になることだったの。私は母の夢を代わりに実現したかった。焦りもあた私は、都築さんの計画に乗っかってしまったの。相手も騙しているんだし、問題ないって言い聞かせて。それに、騙しあいと言う世界の中で、それが当り前で、それが普通と感じていたから、思っていたより抵抗もなかった。その時は、もうそれしかない、とも感じていたし。」
僕は何も言えなかった。
それは、僕もひどい仕事だとは知りながらも、もう就職活動なんてしたくないと言う弱い心と、これが当り前なんだと言う風に自分に言い聞かせて仕事を始めたからだった。
あのとき、止める事だって出来たのだから。
「でもね、しんじに会って、わたしのために色々な店を調べたりしているしんじを見て、段々いたたまれない気持ちになっていったの。最初は『しんじだって仕事でしていることだから』と思っていた。けど、会うたびに本当は仕事ではない感じをしんじから感じ始めていた。だって、しんじって、私が笑うと、すっごく嬉しそうな顔するんだもん。・・・しんじ、わたしに仕事嫌なのか?ってきいた事覚えてる?」
「そういえば、そんなこともあったね。でも、都築さんの前ではすごく喜んでいたでしょ?。」
「そう。でも、本当は、あの時、やっぱりあまり仕事に乗り気じゃなかった。しんじを騙している事に、すごくつらい気持ちを感じ始めていたからなの。でも、しんじが『わたしが仕事頑張っているとうれしい』と言ってくれたから、それならしんじの為にも頑張ろうって気持ちになったの。これは本当よ。」
「じゃあ、ケチャップの事は。」
「え?」
「一番最初の日、目玉焼きにはケチャップだって、二人で話をした。」
「それは本当に偶然だった。私もケチャップ派。これは本当よ。」
「あの、こ、これは。」
そういって、ポケットから、いまだに返していない携帯電話を取り出す。
ぶら下がっているものは、まおからもらった、お互いに送りあった携帯ストラップ。
「それも、本当に偶然。そして楽しかった。しんじのことを考えながら選んでいることは。」
「・・・・・。」
「でも、こんな関係は長くは続かない。最後には、あなたと別れなければならない。心のどこかではわかっていて、整理をつけていたつもりでも、どうしても断ち切ることは出来なかった。」
しばしの沈黙が続く。
まおも、僕も、何もいえなかった。
そんな状況を静かな口調でかずえさんがフォローを入れてくれる。
「まおさんね、しんじのひたむきな心に、次第に真剣にしんじのことを考え始めたのよ。それに、しんじは、まおさんのことを完全に信じきっていた。そんなしんじを見て、いつかは言い出さなければならないという恐怖心を感じ、でも、やっぱり言い出しにくい。そんなことを考えて、まおさんもあなたと同じように苦しみ、悩んだ。そして、例のしんじが真実を知ったあの時、再びあなたを見て、あなたの為に何かしたいと思った。だから、あれから必死になって私のところに電話を何度も掛けてきたのよ。本当にあなたが好きだってことが、わたしにも伝わってきたの。遠山さんや編集長とも、既にまおさんは何回も会って謝っていたわ。」
そこまで言うと、かずえさんはまおの後ろに立ち、僕のところまでまおの背中を両手で押しててきた。
久し振りに間近で見るまおの顔。少し疲れている感じの表情。
しかし、僕もまおも、まともにお互いの顔を見ることが出来ない。
「ほら、何か言うことないの?しんじも未だにまおさんのことを、『彼女』ではなく、『まお』と呼んでいる時点で、まだ忘れていないんでしょ?」
まだ黙って眺めている僕を、せっつくようにかずえさんが言う。
「まお。」
かずえさんの言葉に勇気づけられるように、僕はまおを見つめた。
まおも僕を見つめかえした。
少し潤んだその瞳に、ぼくは徐々に胸につかえている全てのものが綺麗に拭い去っていくのを感じた。
どこかでまおのことを信じ続けていた自分がいる事も感じた。
まおのことを大好きでたまらない自分がいた。
そして僕はまおを、ぎゅっと強く、しかしやさしく抱きしめていた。
「しんじ。」
背中にまおの腕を感じる。強く僕の背中を抱きしめ返すまおの腕を。
そんなまおのぬくもりを感じながら、僕は思っていた。
かずえさんはまおが僕から教わったと言っていたけど、教わったのは僕の方。
遠山さん、かずえさん、みんな、そして、まおから。
『人を信じる続けることが人を愛すること』という一番尊く大事なことを。
テーブルには最後の料理としてモーニングセットが特別に並べられていた。もちろんケチャップつきで・・・。


 あれから、僕はまだ、フラッシュ出版で働いている。
やめる事は、『まおのためによくない』と、編集長や遠山さん、かずえさん、それに都築さんからも言われて。
都築さんが何故?
そう思った方もいると思う。
けど、都築さんはやっぱりかなりの敏腕のようです。
今回の企画に合わせて、まおを僕に近づけた逆企画を考えただけでもすごい。
もちろん、まおが僕の事を真剣に好きにならないように気を配りながら。
でも、都築さんは、もし、まおが僕に惹かれて、本当に好きになってしまった場合の事もちゃんと考えていた。
都築さんは今回のことで、企画第2弾を編集長に促しているらしい。
そして編集長も、その話に乗り気なんだとか。
でも、第2弾のその時は、僕がその企画をやる事はないだろう。

BOY MEETS GIRL

BOY MEETS GIRL

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-07

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著作権法内での利用のみを許可します。

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