闇の右手
後藤夫妻が寝室を別にしたのは、夫婦仲が悪くなったからではない。一番の理由は、夫である信一郎のイビキである。妻の博子も長年我慢してきたのだが、ベッドを買い替えるため、部屋の模様替えを二人で相談するうちに、自然にそういう流れになった。
夫妻が今まで使っていた二階の東側の部屋を信一郎が、娘の真菜が使っている真ん中の部屋を挟んで反対の、西側の部屋を博子が使うことにした。
部屋を広く使えるようになって一番喜んだのは、実は、信一郎である。それまで中央に二つベッドを並べていたのだが、趣味のジオラマを組み立てるスペースを確保するため、ベッドをうんと壁側に寄せてピッタリくっ付けた。寝ると左側が壁面になってしまうが、今までどおりベッドの右側から降りるので違和感はない。
数日後、実家の法事に行くため、博子が夏休み中の真菜を連れて外泊することになった。
その前日、信一郎が仕事から帰ると、母娘二人が半ば旅行気分で準備をしていた。
「パパ、一人で淋しいでしょうけど、一日だけの辛抱だからね」
「大丈夫さ。おかげで、思い切りジオラマに集中できるよ」
「あなた、夢中になりすぎて、あまり夜更かししないでよ。仕事に差し障るから」
「わかってるさ」
だが、翌日、仕事帰りに外で軽く食事を済ませてきた信一郎は、どっぷりジオラマに集中した。途中、さすがに眠くなってきたが、コーヒーを飲んでがんばった。
夜中過ぎ、ようやく一段落して寝ようとしたが、神経が興奮していてなかなか寝付けない。コーヒーなんか飲むんじゃなかったと後悔したが、もう遅い。それでも、何度も輾転反側するうちに、ようやく少しウトウトしてきた。
と、思う間もなく、信一郎は金縛りになった。
今までの経験から、声を出せば金縛りが解けると思い、何とか声を出そうとするのだが、上手く声が出ない。自分でも気味の悪い、呻くような声になる。
それでも力を込め、できるだけ大きな声を出していると、左のベッドに寝ている博子がポンポンと信一郎の肩を叩いてくれたので、スッと金縛りが解けた。ああ、良かった、助かったと思い、そのまま寝ようとして、信一郎はハッとして目を開いた。
すると、左側の壁から突き出している真っ白な手が見え、スーッと壁に吸い込まれるように消えて行った。
(おわり)
闇の右手