白い本
『Doppelganger』
似てるな。最初はそう思っただけだった。会社の同期の女友達が持ってきた雑誌だった。女性向けの情報誌で、衣食住あらゆる最新のおしゃれなものが載ってる。その雑誌で、少し早い夏に向けての新作Tシャツを紹介したページだった。メインは女性モデル、その脇でエスコートしてるみたいに写ってる男性モデル。それが俺にソックリだったんだ。
「ほんとに加納くんじゃないの?これ」
「違うよ。俺がモデルとかやるわけないじゃん。俺だよ?」
「まあそうだけど、でもそっくりだよねー」
「ほら、このアングルとか加納くんソックリ!」
確かにそれは、自分でも気持ち悪くなるくらいソックリだった。だけど俺はこんな、モデルなんてする質じゃないしね。センスもない、こんなかっこいいポーズとか決めれるわけないじゃん。そう思いながら、手渡されたその雑誌のページをじっと見ていた。
俺、なんだよなあ。似てるよなあ。
普段から派手じゃない。生活はいたって地味。普通のサラリーマン。上司に言われた仕事をこなすだけで精一杯で、この分じゃ昇格なんて何年経ってもできないんじゃないかって不安になるくらい。性格はたぶん真面目。不器用ではあるけど、頼まれたことはちゃんと最後までやる。取り柄といえばそれくらい。女子受けはいいけどいい人止まりのよくいる男子だよ。
その雑誌の俺に似た人は、華やかなイメージだった。
「こんなに似てるのに、違うもんだなあ、印象って」
あまりに似てるのが面白いからって、その雑誌をその女友達は俺にくれた。家に帰ってもう一度見てみる。角度が変わるわけもないのに、雑誌の角度を変えて見てみる。
「似てるわあ」
部屋にある鏡に向かって、その雑誌を見ながら真似てポーズを取ってみる。そんな自分、なんとも華がない。鏡に映る残念な自分に、ふっと笑いかけた。
・・ そんな笑うなって ・・
「え?」
思わず俺は後ろを振り返った。変わらない自分の部屋。キョロキョロと見回してみる。いつもの、同じ空間。だけど、確かに声がしたよね?
・・ イケてるよ、おまえだって ・・
「え?誰?」
そして鏡を見てみる。その瞬間、俺は腰を抜かしたように後ずさりしながら驚いて座り込んだ。
「なんで?なんで鏡の中で喋ってんの?」
鏡の中の俺が、違う動きをしていた。映っている部屋の風景は同じなのに。そこに居る俺の姿だけが違うのだ。腰を抜かして座り込んでいる俺と違って、鏡から覗き込むように立ったままで俺を見下ろしている。
「そう驚くなって。俺はおまえだよ」
「俺?おまえ?はあ?」
「その雑誌、見たんだね」
「え?」
鏡の脇に置いた雑誌と鏡の中の自分とを交互に見ながら、わけわからない今の状況に思考もついていかない。
「それはおまえなんだって。紛れもなく」
「へ?」
「そっくりさん、とかそういうんじゃないよ。おまえなんだってば」
「何、言ってんの。俺はこんな仕事してないし。撮られた記憶もない」
「おまえがなくても俺が知ってる。だってさ、撮影場所に行ったのは俺だから」
「え?何言ってんの?っていうかなんで喋ってんの?鏡だろ?誰だよ。気持ち悪いよ」
「気持ち悪いは失礼なんじゃないのっ?俺はおまえだって言ってんだからさ」
そしてその、不思議な俺の姿をしたそいつは、ゆっくりと鏡から出てこようとする。
「え。・・・え??いや、出て、くんなよ」
後ずさりする。だけどそれ以上後ろに下がれない俺は泣きそうになりながら鏡から出てくる俺を見ているだけだった。ホラー映画だよ、これはまるで。何かで見た、恐怖映像だよ。なんだよこれ。
そしてそいつは俺に近づいてくる。ソックリな、俺と同じ顔をして。だけど少し表情が違う。違う、俺じゃない。俺はそんな顔しない。そんな表情見せたことない。
「いや、見せたことないって思ってるのはおまえだけなんだって。おまえはこんな表情するんだよ」
艶のある笑顔で俺の顔まで数センチのところで動きを止める。そいつは、そこで怯える俺にそっと手で触れる。
「ひゃあっ!!」
思わず出た声を遮るように、そいつの手が俺の口を抑えた。
「怖がんなって。俺たちは一心同体なんだから」
心臓がバクバクいって止まらない。怖い。俺じゃない。違う。これは俺じゃない。似てるけど違う。
そんな心の声を全部聞き取っているのか、そいつはゆっくりと俺の耳元で低い声でこう言った。
「今からしばし俺と交代だよ」
ぷつりと。そこから記憶がなかった。目が覚めたのは明け方で。自分の部屋だ。意識を失った時の場所に、そんまま横たわっていた。天井を見上げていると、微かに視野の端に鏡が映る。俺はそれにゆっくりと視線を移した。ここから見える限り、映っているのは俺の部屋の中だ。そしたらなんだかその鏡を見てみたくなった。確かめる意味で、だ。あれが夢だと、夢だったんだと確認するためだ。そっと、床を這うように近づいて鏡の中をじっと見た。
そして俺は大きく息をした。
そこに映っているのは今そのものの俺だった。当たり前、鏡の中の俺が別の動きをするはずもなければ話すはずもない。鏡の中に向かってにーって笑顔を向けてみる。鏡の中の俺も、同じ顔をした。安心した、なんだよ、やっぱり夢だったんじゃないか。開きっぱなしの雑誌のページに映る自分にソックリなモデルをチラっと見て、その雑誌は閉じた。そのままゴミ箱に捨てた。
それから別に変わりない。いつもと同じ、いつもの生活だった。変な夢を見た。それだけだ。だけどその後何度も見る、同じような夢。俺にソックリな人間が出てくる夢。
それから、数週間後のことだっただろうか。
「これ、これこれ。やっぱり加納くんモデルやってるんだよね?」
「え?」
この前の雑誌の最新号だった。ペラペラとページをめくって、同期の女友達がまた前のように雑誌を見せてくれる。
「ほら、この間と同じモデル。やっぱりこれ加納くんじゃん」
「あ・・・」
この間、鏡の中で喋ってたあの、あいつの表情だった。俺と似てるけど違う。
「え、違うよ、これ俺じゃ」
「そんなことないよ。どう見ても加納くんじゃん」
「だって俺、こんな表情しないよ?」
「あら。自分で気づいてないだけじゃん。最近よくこんな顔してるよ?」
「え?俺?」
「うん。別の部署の子も騒いでたよ。でもこれ、上の人に見つかるとやばいんじゃないの?副業禁止だよ?ここの会社」
「だから、俺じゃないってば」
そう言いながら雑誌に目をやる。夢だから、あの日のあれは。だけど頭に蘇ってくる、あの言葉。
「今からしばし俺と交代だよ」
どういう意味なんだ?それは。交代って。何を交代するの?
「ドッペルゲンガーって聞いたことある?」
夢の中でそいつはこう言う。俺に問いかけてくる。
「ドッペルゲンガー?何?」
「この世に、自分に似てるやつが3人居るって言われてる」
「3人?」
「その人物に会うと死ぬっていう、噂とか伝説みたいな、そういう感じ?」
「それがなんだよ」
「死にたくないだろ?」
「はあ?」
「俺は自分に似てるやつに会ったことでわざわざ死にたくないんだよね」
「何言ってんの?」
「だから同じ時間に出没しないようにしてる。あえて時間を行き来してる。この鏡を通って」
「は?」
「ドッペルゲンガー、似ているその人は結局は自分の自己幻覚とも言われてる。俺たちはそっちのほうなんだってよ」
「そっちって?」
「本当にソックリな違う人物じゃなくて、俺、いやおまえ自身が作り出してるもうひとりの自分」
「もうひとりの自分?は?なんなの?ほんと」
「頭悪いよね、おまえって。そういう自分が嫌で、地味な生活してる自分が嫌で、それでおまえ自身が作り出した幻覚が俺だろ?」
「え?」
「同時刻に出没して遭遇したくない。それで死ぬのはごめんだもん。この間は驚かせて悪かったね。まあ、もう二度と目の前に出ることはしないよ。だからあえて、俺が動く時間はおまえには眠ってもらってんの。あの雑誌に載ってるのは、俺。俺であり、おまえが幻覚で作り上げたおまえ自身だよ。誰が見ても他人の空似でもない、だって本人なんだから」
そこで目が覚めた。目が覚めたばかりだというのに心臓がバクバクいっていた。鏡を通って時間を行き来してる?なんだ?意味わかんねえ。顔を洗おうと洗面所に向かう。水道の水を出して顔を上げた時に目の前の鏡の俺と目があった。そしてその鏡の中の俺がニヤっと笑った。
2014/04/08 PM14:36
WORKS>>Ai Ninomiya*
『Half』
真っ暗だった。ただ、何かの機械の乾いた音だけが聞こえていた。身体は重く、動けない。機械音以外は静かで、何も見えない。そりゃそうだ、俺は目を閉じている。それがやっとわかった瞬間声がして、俺は目を開けた。
「生きたいか?」
その声の主はそう俺に問いかけていた。いま確かに俺は目を開けているのに何も見えない。やはりそこは真っ暗で、俺の前に誰かが居る、そんな気配だけを感じていた。そして俺はその声の主に聞き返す。
「生きたいかって?何故そんなことを聞くの?」
「だってもう、一年も眠ったままだろう?どうだ?生きたいか?」
男の声だ。低い、静かな声だ。その問いかけに、俺は一言だけ答えた。
「生きたい」
次に俺の意識にあるのは、白い天井だ。やはり、何か機械の乾いた音がしていて、俺は天井をじっと見つめていた。ここは病院だ。微かにする薬品の匂い。ゆっくりと身体を起こそうとしたけれど何かが引っかかってほんの少ししか起き上がれなかった。ベッドで寝ていたのは理解した。そして横たわる俺のお腹のあたりに重みを感じる。もう一度少し体を起こして見ると、それは兄の俊也だった。俺の身体の上に覆いかぶさるように眠っている。そして手を伸ばして何かを掴んでいる。直径三cmほどある太い管のようなものだ。ゆっくり体の位置をずらして気付いた、その管は、俺と繋がっていた。
「……っ」
声が出ないのはそのせいだ。俺の喉にその管は繋がっている。ずっと聞こえていた機械の乾いた音は、俺自身が呼吸するためのものだったのだ。
数分後、一人の看護婦がやってきたのは俺がなんとか手を伸ばしてナースコールのボタンを押したからだ。俊也の重みを感じつつ、なんとか手を伸ばしてナースコールのボタンを押したのだ。「桜木さん、どうかしましたか?」と何度かナースの声が聞こえていた。だけど何も答えられない、なんせ喉に管が繋がっているのだから。少し身体を動かしてみるが俊也は全く起きる気配はない。
何も返答のない病室に、まず一人の看護婦が入ってきた。「え!」とだけ声を上げると、慌てて廊下へ出て誰かの名前を呼びながら走り去った。その後知らない男が一人一緒に戻ってきた。担当医、ってとこか?白い白衣の男だ。後からまた別の看護婦も走ってくる。「気が付いたんですね!」と驚いた表情で俺を見ている。答えられない俺は、そこに居る知らない三人を見ていただけだった。
「一年も眠っていたのよ。その間毎日俊ちゃんはここに来ていたわ。なのに今度は俊ちゃんが意識不明になるなんて」
懐かしいという感覚だった。母が、俺の頬に手を当ててそう言った。
たしか、俊也と仕事が終わってから待ち合わせていた。六本木、だったかな。交差点で俺は待っていて、後から俊也がやってきた。少し仕事でトラぶったとか言ってたのを覚えてる。俺はイベントのプログラマーの仕事についていて、俊也は外資系の商社に勤めていた。全く違う仕事に進んだ。けど、性格も似ていて、少し身体が弱いところも似ていた。背は低めで、痩せていて、子供の頃からずっと周囲に心配されながら育った。そんな、俺らは一卵性の双子だ。
六本木の交差点から少し歩いた時だった。急に突っ込んできた車に、俺が突き飛ばされた。高く、飛んだのが最後の記憶だ。軽やかに中を舞った。スローモーションみたいに景色が見えて、俊也が俺の名前を叫んだ。「郁也!」って。そこで記憶は止まっている。
「原因がわからないの、俊ちゃん。まったく意識がなくて、何処も悪くないのに。せっかくあなたの意識が戻ったのにまるで交代するように俊ちゃんが、俊ちゃんが・・・」
そう言って母が目の前で泣いている。俺はというと、一年も眠っていたわりには、身体は軽かった。今すぐ起きて走れるんじゃないかって思うくらい、筋肉の衰えも感じない。一年間ずっと横になっていたとは思えない。不思議だ。
その日俺はそのままその病室で、俊也は集中治療室に入院した。母は後からかけつけた父とひとまず家に帰った。独りになって、眠りにつきそうになった時にまた、声がしたんだ。あの男の声だ。
「生きたかったんだろう?」
俺は慌てて体を起こして部屋を見回した。喉に繋がれたままの管が邪魔をする。部屋は暗くないのに、誰も見えない。というか、居ないのだ。
「その喉の管は明日外されるだろう。その管のおかげで一年間息ができたんだ、感謝するといい、外されていなかったことに。だけど残念だが、そこにそれが繋がれていたおかげで、お前は声を失う。人魚姫のストーリーにもあるだろう?何かを叶える為には何かをいただかなくてはならない。声を貰う代わりに生かしてやる」
ただ、声だけがする。きょろきょろ見回す俺の心を読むように、またその声の主は言葉を続けた。
「一年前、俺はお前の兄に同じ質問をした。生きたいか?とね。そしたら生きたいと答えた。だけどね、君たち双子を生かしてはおけない。もともとは一人の人間として生まれるはずだった。なのにね、いつしか感情が二つ芽生えていた。どちらかを消そうと思えば消せたのだが、命の源そのものがあえて二つにわけることを選ばれた。それで君たちは双子として生まれた。そのせいで少し、人より成長も遅かっただろうし身体も弱く育った。ある時期まではそれでも問題はなかった。だけどね、もともと一つのはずのものが二つになってしまったおかげで生命に歪ができてしまった。どちらかを消さなくてはいけなくなった。そこでわたしはまず兄のほうに問うてみた。生きたいか?と。生きたいと答えられてしまったのでね、お前の命を一年保留にした」
どんどん話が進む。子供の頃に絵本でも読んでもらっているかのように、俺は見えない誰かを自分の視線の先に感じながらじっと聞いていた。
「兄には一年で答えを出せと言った。弟の命を消すか、自分が消えるか。自分が生き残るには、一年の間に弟の喉に繋がれた管を外せと命じた。そうすれば弟の命は終わる。そうすればお前が生き延びられるのだよ、と。だけど結局決められなかったようだね、お前の喉の管を掴むまではできたが、外せぬまま一年の猶予が終わってしまった。そして代わりに、生きたいと答えたお前が目を覚ました」
俺はふと自分の喉から出ている管に目をやった。あの時これを俊也が掴んでいたのはそのせいだったっていうのか?馬鹿らしい。
「さて、今度はお前の番だ。一年の猶予をやる。兄は選択をお前に委ねた。一年間、兄は意識を取り戻さない。その間に決めろ、自分が生きるのか死ぬのか。生きたければ今度は兄に繋がれた管を外せばいい。そうすれば兄の命がお前に吹き込まれてお前が生きられる。逆に兄を生かせたければ兄と同じように何もしなければいい。自ずと一年後に兄は目を覚ます。そして代わりに、お前が死ぬ。この一年の間だけは、お前は一人の人間だ。一年だけだぞ。その後お前たちが一緒に共存することはできない。もともと一人だった命の、半分なんだから」
声は、そこで途切れた。心の中で、待って、どういうこと?そんな作り話誰が信じると思う?大きくそう叫んでみるものの、数日経っても、俺が普通の生活ができるくらいに回復してもまだなお、もう声は聞こえなかった。そして俊也は喉から管を繋がれた状態で眠りについているままだ。本来、気管切開で全く声が出なくなる可能性は100%ではない。だが、俺はあの男の言うとおり声を失くした。
本当なんだろうか、あの話は。時々、俺の喉から繋がれた管を掴んでいる俊也がリアルに思い出される。俊也は、あの日管を外そうとしたのだろうか。俊也が毎日病室に来ていたと母が言っていたのと同じように、俺もまた、毎日俊也の病室に足を運んでいた。毎日が自問自答だった。
・・・どうする?郁也、生きたいのか?・・・
そして俺は答えを出せないまま。俊也の管を掴んでは、結局何もできずに手を離すのだ。
2013/06/10/PM
WORKS>>Ai Ninomiya*
『生まれ変わり屋』
「生まれ変わる」っていうのはやっかいなもんだ。新しくひとつの命としてこの世に真っ白な状態で送り込まれてきたのとはわけが違う。なんせ「生まれ変わり」っていうくらいだ、前に生きてた頃の記憶があったり、特に強く願われて誰かの代わりに生まれてくるのだ。悔いの残った人生をやり直すためだったりね。
俺は普通とはちょっと違う。「生まれ変わる」ってことをメインに命を循環させてる生命体だ。まぁ、一般的にはめったにお目にかかれない身体であることは間違いない。聞いたことないでしょう?そうでしょうよ。この世に1000人もいない珍しい身体だ。しかもそれは本人しか自覚していない。他人から見てわかるものでもないし、自分から他人に公表することもない。公表したところで、誰が信じるんですか?って話だ。
とにかく、生まれてきた段階で理由がある。
例えば幼い子を失くした母親がまた自分のところに生まれてきてほしいと願うパターンとしよう。そのタイミングでうまく一致した身体がその幼い子の記憶を宿したまま生まれることがある。つまりその母親の子の「生まれ変わり」ってことになる。そのために身体を提供するのが俺たちの役目だ。
それも上手く成立することは5%ほどしかないけどね。なんせもう一度逢いたい、もう一度生きたいと願う人の数と、俺たち「生まれ変わり屋」との数の割合が全く合わない。世の中みんな都合よくそんな時だけ天に向かって手を合わせてくれるもんだ。
常に芯として自分の意志はある。新しく生まれ変わったその人を演じるためのね。心も身体もその人に貸すのだ。そのためだけに常に生かされている。ちなみに俺は「生まれ変わり屋No617」。あるのは意志と、その番号だけだ。
生きるってこと、何が楽しいんだと思うね。すっげぇ長生きする「生まれ変わり」さんもいるよ。こんだけ長く前世で生きたのにまだ生きたいのかと思うほど長生きな人。この前は百歳超えるまで生きたなあ。さっさと次に「生まれ変わらせてくれ」ってこっちが根を上げるような罪人だったり。逆に「生まれ変わった」とたんにまだ幼いその体には生きる気力がないってパターンもある。あん時はたしか数日で俺の仕事は終わったっけ、残念だったけど。
どれだけ周囲や本人が願っても循環されたそれはまた同じことを繰り返すのさ。なので生まれ変わったその命の長さは決まってる。何度生まれ変わっても同じ。ずっと同じ。願わくば、生まれ変わりたい、また生まれ変わってほしいって思うようなやつには、いい人生を送ってほしいと思うね。そのほうが俺たちも生まれ変わり甲斐があるってもんだ。そんなの生きてる時の気持ち次第だよ。少し前向きに考えるとか、少し誰かのために頑張るようなことをしてみるとかさ。ぜひそう思って生きてほしいね、「生まれ変わり屋」としてはそう願う。
さて。今回俺はまた新しい「生まれ変わる」タイミングに一致してしまったので、この世に生を受けることとなった。今回はちょっと運命を感じてるんだ。俺のナンバー、No617と同じ6月17日生まれの男のやつだ。過去にどんな人生を送り、今回は何を願われ願い生きることになったのか。少し、その生命の気というものが不思議なやつなんだ。楽しみだ。
2080年6月17日。これで何度目になるんだろうか。俺はまた、新しく生まれる。今回はこのオトコだ。
2013/11/15 AM01:40
WORKS>>Ai Ninomiya*
『白い本』
それは、ある朝郵便受けに届いていた。薄めの文庫サイズの本のようだった。表紙は真っ白で、タイトルも著者の名前もない。郵便受けの前で俺はそれを手にしていた。中を開くと一番最初に、
『声に出して読まないこと』
と書いてある。どういうこと?と思いながら先に進む。
『この本はあなたの心の声をそのまま文字に起こしてしまう、あなたの心の本です。なのでここから先の物語はあなたの心の声になります。この本が文字に起こしてしまうあなたの心の声というものは、たいていが悪いことばかりです。あなたが普段不満に思っている心の奥の声を映し出すものです。そして、それを声に出して読むと内容がそのまま現実になります。ですからけっして、声に出して読まないこと。』
は?どういうこと?
一ページ目はそれで終わっていた。そして次にめくると真っ白だ。真っ白だったのに、急に文字が右上から順に白いページを埋めていく。思わず驚いて俺はその本から手を離した。大きくバサっと音を立てて落ちていく本。その拍子で本は閉じられてしまった。
「なんだ?今の!」
怖くなったけど、また俺はその本を恐る恐る拾い上げた。開く勇気がない。捨ててしまおうかと思った。何処か知らない場所に。だけどもし中身を誰かに見られたら?俺の心の声だって誰かにバレたら?いや、そんなことはありえない。そんな、俺の心の声をそのまま文字に起こすなんて、ありえない。
そして俺はまた、その本を開いた。
二ページ目はすでに文字で埋められて真っ黒だった。
『正直言って、バイト先のコンビニの店長は嫌いだ。偉そうで指図ばかりするくせに自分は裏で休憩ばかりしてる。ずっとスマホいじってること知ってる。あんなやつ、店を辞めてしまえばいいのに。』
あ、馬野さんのことだ、これ。
『梨穂子は面倒くさい。好き?って何度も聞いてくるし、LINEが既読にならないと何度もLINEを送りつけてくる。開いたら開いたで返事まだ?って。読んだんでしょ?って。俺はいつでも暇ってワケじゃないんだよ。正直うんざりなんだよ。ちょっと可愛いと思って。いっそのことブスになっちゃえ、そしたら思い切りフッてやるよ。』
梨穂子のことだな、名前出てきてるもんね。でもほんとにこれ、思ってるまんまだ。もう別れたいなって思う反面、男友達にはウケがいいからだらだら付き合ってる。
なんなの?ほんとにこれ。声に出すとどうなるっていうの?
とにかく俺は、この本の存在を知られないように慌ててバッグにしまうと、急いで部屋に戻った。コンビニでもらってきた賞味期限切れのお弁当。温めて帰ってきたのにもうすっかり冷めていた。もう一度温め直そうとレンジに入れる。時間はもう朝の7時半、すっかり外も明るい。一晩働いて、これが俺の朝食になるんだ。
「毎日毎日、店長十一時には帰るくせになんで俺だけいつも朝までなんだよ。たまには代われよ」
そう口にして、ふと思った。今のもあの本の中に書かれてたりすんのかな?心の声なんでしょ?しかも悪いことばかりって、こういうことなんじゃないの?
俺はさっきバッグにしまった本を手に取った。さっきの続きを目で追う。他にも親とか友達とか、数日前に来た客とか電車で以前絡んできて迷惑だったおっさんとか、いろんな人に対しての不満や愚痴などがどんどん書かれてあった。
「ほんとにこれ、忘れかけてたくらい前のムカついた話とかまで載ってる。なんなのよ、すげえんだけど。あ、あった。馬野さん」
『毎晩早くに帰って俺に仕事押し付けてふざけんな、そして朝はゆっくり七時出勤ってなんだよ、それ。店長のすることかよ。たまにならいいよ、交代制にしろよな、俺毎晩だぞ?深夜。だったら俺のほうが店長にむいてんじゃないの?マジで。』
「マジそう思うわ。深夜に頑張ってる俺のほうが店長であってもおかしくないよ。で、なになに?」
その続きを俺は、声に出して読んだ。
「あんなやつ、事故にでもあってしまえばいい。馬野さん。そんで仕事なんてできないくらいな体になってしまえばいい。そしてずっとそこでバイトしてる俺が店長に指名されればいいんだ。・・・か。ほんと、その通りだよ」
そこまで読んだところで、レンジの温めが完了した音が鳴った。本を閉じてテーブルに置くと台所に向かおうとした。そしたら、携帯が鳴った。
「ん?誰?こんな朝から。・・・梨穂子かな」
見てみると登録していない番号からだった。とりあえず、出てみる。
「はい?」
「あ、澤井さんですか?○○の本店の井田と言います」
「へ?」
それは、勤めているコンビニを経営している大手企業の人からだった。
「さっきね、店の前でゴミを片付けてた馬野くんのところに車が突っ込んできてね、重症なんだ」
「え?馬野さんが?重症?」
「当分店に出れないと思うから、キミにいろいろ任せたくて。一番あそこで長く勤めてると聞いたもんでね」
「あぁ、まあ確かに」
「ちょっと後遺症が残るかも知れないとかいう話でね、もしかしたらそのまま、キミが良いならあの店任せることになるかもしれないんだけど。ちょっと急いで来てもらってもいいかな?」
「今からですか?」
「夜勤明けらしいね。ちょっと打ち合わせだけなんで、頼めないだろうか」
「あー、わかりました。すぐ戻ります」
携帯を切って思わずぞっとした。馬野さんが事故って?しかも店を俺に任せるって?頭ん中で内容を復唱する。台所では温め終わったレンジが何度も終了を知らせる電子音を鳴らしている。
「ちょっと待ってよ。マジなんなの!?」
俺は目の前に置かれた本を手に取った。
「これのせい、ってことはないよね?声に出して読まないこと、だっけ?」
もう一度本をパラパラとめくる。今度は梨穂子の名前が目に入った。
「ストーカーに狙われてるとか言ってたっけ。自分で可愛いと思ってるから被害妄想だよ。ほんとにストーカーに狙われてるっていうんだったら、襲われてみろよ。・・・って書いてあるよね。声に出したけど、これもまた現実になるってことはないでしょ。ストーカー本当のわけないじゃん」
そしてまたそこで携帯が鳴る。今度は梨穂子だった。
「もしもし?なに?朝から」
「タケ?助けて!」
「は?どしたの?寝ぼけてんの?」
「違う!追いかけられてる、変なやつに。ストーカー!」
「は?朝からやめてよもう」
「ほんとなんだって!え?嘘!?いやっ!きゃーーーーーーーーーー!!」
で、携帯は切れた。
「え?梨穂子?ちょっと?梨穂子?」
急いで電話をかけ直すが、話し中になる。なに?どゆこと?ストーカー?また頭ん中で内容を復唱する。追いかけられてる、って・・・。で、目に入るさっきの本。
「冗談だろ?」
そして何度も鳴るレンジの電子音。
「あーもううるさい」
レンジから温め終わった弁当を取り出す。だけど俺は食べずに家を出た。さっきバイト先に向かうと会社の人に返事したし。バッグにはあの本を忍ばせた。でも梨穂子も気になる。気になるけど何処で追いかけられていたのかとか詳細はさっぱりわからない。もう!頭ん中がパンクしそうだ。なんかあったんならまた連絡があるだろう。それくらい軽く考えていた。
バイト先に向かうと店の前の駐車場に警察官が数名居た。数滴落ちた赤いものはきっと馬野さんが事故にあった時のものだ。店自体に破損等はないが、駐車場の隅にあった証明写真機に車が突っ込んだということで、半分破損していた。慌ただしく人が行き交う中で井田さんという男性に声をかけられ店の中に入ろうとした。その時に警察官が話しているのが聞こえたんだ。
「通り魔でしょうか?女性が刺されてます」
「刺された?」
「そちらにも応援に来てくれとのことです」
「どこだ?」
「ここから一キロほど行った所です」
「なんだよ、やけに今日は事件が多いな」
女性が刺されたって。ここから一キロほどって。ちょうど梨穂子んちもそれくらいの距離だ。井田さんに断って、俺は警官に声をかけた。
「あの、その刺された女性って名前とか分かってます?」
「は?なんだ?キミは」
「あ、少し前に、彼女からストーカーに追われてるって電話もらってたんですけど、途中で切れて。ちょっと気になってて」
警察官は顔を見合わせる。
「キミ、一緒に同行してくれるか?」
「あ、いいですけど・・・」
そう言いながら井田さんを見ると、行ってこいと手で合図を送られた。俺はパトカーに乗せられて一緒にその現場に行くことになった。一キロ先の見慣れた交差点。いつも梨穂子んちに行く時に通るそこそこ人通りのある通りだ。そこも警察官と人だかりでいっぱいになっていた。連れられて現場に行く。さすがに被害者の女性は病院に搬送されてそこにはいなかった。
「写真はこれです」
倒れた女性の写真を見せられた。当たり前だけど、こんなの見たのは初めてだ。ドラマの被害者の写真みたいだ。あ、そうだよね。被害者だ。横たわってまだ刃の刺さったままの腹部を手で押さえる女性、まさにそれは、梨穂子だった。
血の気が引くようだった。何もしてないのに、俺が犯人みたいな気分になる。さっきの本のせいだ。俺の心の中?まさか。死んでほしいなんて言ってない。襲われてみろって言ったんだ。俺は殺してない!
「彼女、です。無事なんでしょうか?」
「いや、まだそのように連絡は来てないけれど意識もなく重症だ。名前はなんていう?この子」
「新堂梨穂子です」
とにかく僕はバッグを持つ手にギュッと力を込めた。手に汗がにじみ出てくるのが分かった。この中に、入ってるんだ、あの本が。さて、この本はどうしたらいいんだ、俺は。捨ててしまいたい。持っていたくない。また見てしまうかもしれないでしょ?
白い、タイトルも著者名もない本が郵便受けに入っていたことはありませんか?だったらそれ、ぜったい開かないほうがいいです。
2014/02/01 PM23:31
WORKS>>Ai Ninomiya*
『カムパネルラ』
「めずらしいね、ここに呼び出すなんて」
とあるビルにあるバーに来ていた。カウンター席とテーブル席数席しかない、奥へと長細い作りになっている小さな店だ。店内はそんなに暗くはない。どちらかというと明るい。雰囲気が好きで俺はよく来る。ただ、こいつがこの店にはあまり来ないんだ。以前ちょっと別の客ともめたことがあって、よほど居心地が悪かったんだろう、それからは誘っても違う店の時にしか顔を出さなくなった。そんな学生時代からの友人である彼が、電話をかけてきた。一緒に飲まないか?ってね。
店の奥寄りのカウンター席に座っていた彼の隣に俺は座った。
「じゃあ、ピコン・パンチ」
注文すると、スタッフに「いつものね」と言われた。最近気に入っていて、ここに来てまず最初はこれにしている。少し苦みのある味がすっきりする。カクテルを作り始めたスタッフの手元をじっと見ながら「あぁ、そういえば」と俺は体を彼の方に向けた。
「あれ、どうなった?来月だっけ?みんなでお祝いしようって言ってたやつ」
結婚を決めた友人がいて、数人で飲みに行こうって話になっていた。なんとなく日だけ決まっていて、詳細はまだ決まって無かったなあと思って。だけど彼は俺を見てニコリともしない。
「どうしたの?なんか、あった?」
そうだった。彼がここに居ることがめずらしいんだった。何がどうなって、俺を呼び出したのか、そしてどうしてこの店だったのか、不思議だった。
「あのさあ、愁斗」
やっと彼が口を開いた。まだ名前を言っただけだけど。そこで出来上がったカクテルが俺の目の前に置かれた。俺はまず、スタッフから笑顔でそれを受け取り、彼の目の前に置かれた、まだ一口も飲まれていないっぽいカクテルグラスに乾杯するような仕草を向けた。そしてカクテルを一口飲んだ。
「おまえ、飲まないの?」
「あぁ、俺は」
注文したのに、変なやつだなあと思いながら俺はもう一口飲んだ。しかしどうも、今日はいつもと違う味に感じられた。
「ねえ、今日なんか味違くない?」
「そんなことないですよ、いつもの、です」
作ったスタッフにそう言われて首をかしげると、俺はグラスを手元に置いた。
「で?どうしたの?」
「ああ、あのさ・・・」
「なんだよ、はっきり言えよ。気味悪いなあ」
もっとさ、話すと面白いやつなんだよ。ネタも豊富に持っていて。なのに今日はどうも話しづらそうだ。だからこそ何かあったのかと余計に心配になる。
「何か言いづらいようなこと?」
「あぁ、たしかに」
「いいよ、おまえのタイミングで話せよ」
俺はまた、カクテルを口に付けた。やっぱり、今日はちょっと味が違う。苦みが感じられないんだ。何やらいろいろ変な日だなあと思っていたら、彼が急に妙なことを言い出した。
「これさ、夢なんだよ」
「は?」
「今、夢の中なんだ」
「何言ってんだよ、まだ一口も飲んでないのに酔ってんのか?それともそれ、何杯目?」
彼のカクテルを指さすと、彼はその指さした俺の腕を掴んだ。
「どうしても最後におまえに会っておきたかったんだ」
「は?最後って?どこか行くの?」
「もう、会えないからさ」
「え?どこ?外国?」
彼は掴んでいた手をそっと離すとつづけた。
「銀河鉄道の旅自体はさ、あれ、実際に旅したわけじゃなくてジョバンニが見ていた夢だっていう説があるよね」
「え?なんだよ急に。銀河鉄道の夜の話?懐かしいね、読んだね。感想文書けって言われてふたり必死になってさ。意味わかんねえっつって、あーだこーだ、こういう解釈なんじゃねえの?なんて言い合ったよな。中学んときだっけ?」
「最後にジョバンニに会いたくて、カムパネルラが夢の中でジョバンニと銀河鉄道の旅をするんだ」
「主人公はジョバンニだろ?唯一の友達だったカムパネルラと旅をしたかったのはジョバンニのほうだろ?そういう話だろ?あれ」
「いや、実際にはカムパネルラが最後にジョバンニを元気づけたくて夢の中に現れに行ったと俺は思ってるよ」
「なんだよ、今夜の酒のアテは文学?」
そこで彼は目の前のカクテルグラスを手に取った。
「さよなら、愁斗」
じっと見つめる彼の視線があまりに細くて、不気味になってくる。
「だから一体何があったんだよ。さよならってどういう意味?」
「夢だって言っただろ、これ」
「なんだよ。もし夢として、何なんだよ」
「最後に会っておきたくて、夢におまえを呼んだ」
「呼んだって、意味わかんねえけど?」
「目がさめたらさよならだ」
いつもの店。いつものスタッフ。周りには数名の客。そして目の前には友人がひとり。何が夢なんだよ。ほんと意味わかんねえ。
そしたら突然目の前の映像が歪みだした。
「え?」
俺の存在するこの場所が、まるで映し出された映像であるかのように、少しずつ遠ざかっていく。すぐ隣に座ってるこいつもだ。いつの間にか手の届かない距離に遠ざかっていく。
「会えてよかったよ。顔が見れてよかった」
「は?なんだよこれ」
「愁斗とはいっぱい遊んだよな。忘れないから」
「待てよ。銀河鉄道の夜の話がひっかかるんだ。さよならって。あの物語は、実はカムパネルラはもう死んでいたんだ。銀河鉄道の旅は死んだ人としか出会えない旅だからね。もしかしておまえもう死んでるとかバカなこと言うなよ?ジョバンニやらカムパネルラやら、わけわかんねえこと言って、つまんねえ例えすんなよ、おい」
立ち上がって手を伸ばすけれど彼にはやっぱり届かなくて。足元が不安定なのかそれ以上前にも進めない。泣きそうな顔をしている彼の表情を確認すると声が聞こえた。
「違うよ、カムパネルラは愁斗のほうだよ」
え?
触れたいのに触れられない空間にいるのは俺のほうだった。歪んでいくのは俺のいる場所だ。彼が遠ざかっていくんじゃない、違う、俺が離れていっているのだ。
カムパネルラは俺のほうってどういう?
そこで映像はシャットダウンした。あ、そうか、今あいつ夢からさめたんだ。あいつの夢に入り込んでいた俺の時間はもう終わり。それでもうさよならだ。もう会えない。会えないんだ。だって、俺さっき死んだんだもの。急に飛び出してきた酔っぱらってる風の男を避けようとして運転誤って、そうだ、事故ったんだ。深夜の道路だ。
今のバーは、夢で。あいつの夢で。最後に会っておきたかったのは俺のほうで。あいつがジョバンニで俺がカムパネルラだった。なんだよ最後の最後にややこしい例えすんなよ、俺。違うんだ、あいつとあぁやって何かについて討論するのが好きだったんだ。最後になんでもいいから、どんな話でもいいから、あいつと酒を飲みながら話をしたかったんだ。
大切な、1番の友達だったんだ。
「さよなら」
2014/09/22 PM20:57
WORKS>>Ai Ninomiya*
『past changed. 』
「今度の仕事はこいつだぞ」
降りしきる雨のせいでまるで霧でも出ているかのような視界の悪い日のことだった。いつものようにシュンから写真と紙を渡される。子供の写真だ、男の子。そして場所と時間が秒単位で書かれている。
「勘弁してくれよ。もう俺はやらないって言ってるだろ?」
写真と紙をシュンの胸に押し当てるようにして俺は強くそう言い放った。だけどいつも俺の意見なんて完全無視だ。
「この雨で車がスリップ事故を起こす。ちょうどその先にこの子が居て巻き込まれるらしい。時間までにうまくその子を足止めしてくれ」
「だから。そうやってこの子の命を助けることで、この先の未来が変わってしまうんだぞ?死ぬはずの人間が死なないんだ。そんなこと有っていいわけがない」
「そう言われても、その子の母親からの依頼なんだから仕方ない。2070年ではその子の母親は86歳らしい。自分の死が近づくにつれ思うんだろう。あの時あの子が事故になんて合わずに生きていたらどんなにいいだろうって。仕方ないよね、2060年にタイムマシンができた。今では…って言うのは変か、俺は2014年の人間だからな。2070年の世界では過去を変えるためにタイムマシンで過去へ行き、当時の状況を良いように変えるという商売が繁盛してる。俺の子孫がそんな商売を始めちまったんだから仕方ないだろ」
「だ、か、ら、それに俺を巻き込まないでくれって。だったら自分らでやってくれ」
「仕方ないだろ、俺よりもそういうのはレオのほうが得意なんだから。タイムマシンが発明されたといっても未来の人間が過去の次元に長時間いると寿命を奪われるんだと。だから指示だけして未来へ帰っちまう。結局今の時代の俺が動くしかないでしょ?うまくこっそり、本人にわからないように手助けする。どうすればいいのかなんて俺思いつかないもん。ほんとお前は頭いいよな」
褒められたって嬉しくない。そんな、誰かの人生を変えるなんて。それに伴ってどれだけ未来が変わっていってしまうかだってわからない。そんな仕事に付き合わされてる。断れないことはない。だけど結局、いつもこう言われて最終的には無理なんだ。
「じゃあ、その子が目の前で死ぬのをレオは何もせずに見ていられるってんだな?」
その日も無理やりその時刻にその場所に連れて行かれ、死ぬのを見過ごせない俺はその子を助けた。断れない自分が嫌だった。だけど目の前で誰かが死ぬのを見るのも嫌だった。いつもシュンに上手く使われて、それで終わりだ。少しずつ俺は未来を変えてしまっている。いつものように何とも言えない罪悪感に襲われながら家に向かって車を走らせていた。その時だ、俺自身が車をスリップさせてしまい、事故を起こした。被害者は特に出ていない。俺自身が事故死したということ以外は。
やっと終われる。誰かの人生を変える、未来を変えてしまうあの仕事から逃れられる。死んだことでこんなに喜ぶ人間なんているんだろうか。不思議だけどホッとできた瞬間だった。あぁ、やっとゆっくりできるんだ。ただ、動かなくなった自分の体にすがりつくように泣く妻の姿だけは見ていて辛かった。もっといろいろ話をすればよかった。もっと愛してやりたかった。だけどもうできない。ごめんな。もうこの世を去るよ。よくある心霊現象の再現ドラマみたいな自分に笑えた。遠く高いところからそんな泣きじゃくる妻の姿を見下ろしてそう思っていた。だけどその時に聞こえたんだ。妻がすぐ隣にいるシュンに言った言葉を。
「シュンくんの子孫のかたは過去に戻って過去の出来事を変える仕事をしてるんだよね?」
「そうだよ」
「だったら、レオの過去も変えられる?少し前に戻って、事故を防ぐことができる?」
「俺もそれを考えてた。レオに死なれるわけにはいかないよ。大切な友達なんだ」
・・・なんだって?
「じゃあお願い。レオを死なないように過去を変えてください」
「もちろん。未来の人間と今度交信する時にその少し前の時間の俺に連絡を入れるように指示しとく」
「ありがとう、シュンくん」
・・・やめてくれよ。やっと、俺はあの仕事から離れられるんだぞ?
そして俺が事故を起こす数分前に時間は戻る。
「どうした?レオ」
「おかしいな、エンジンがかからないんだ」
車に乗った俺を見送ろうとしたレオが、何度もエンジンをかけてはかからない俺の動作を見てドアを開けて覗き込む。
「キー貸してみ。俺がやってやる」
「あぁ、頼むよ」
シュンが代わりにキーを回すが全くエンジンがかからない。
「故障してんじゃないの?ちょっと見てもらったほうがいいよ、これ」
「どうしよう、すごい雨なのに」
「だったら俺が送るよ、乗ってけよ」
「じゃあ、そうしようかな」
エンジンがかからなかったのは、少し前の時間のシュンが俺の車のエンジン部分に少し細工をしたからだった。そんなことを知らない俺は、そのまま車をガレージに停めたままシュンの車で家に帰った。そうやってシュンに命を助けられたことなんて全く気付きもしないで。
そしてまた、明日からもシュンの仕事に付き合わされるのだ。
2014/01/10 PM22:37
WORKS>>Ai Ninomiya*
『SOLD OUT』
とにかくそれは、今年最大の商品になるんじゃないかってくらい発売前から話題で。うちの店でも取り扱えることにはなったけれども、数に限りがあった。雑貨店ごときではなかなか卸せない商品でした。もともと数量限定で作られている上に、大型電器店がやはり多く数を確保していて、うちに置けたのはほんの数十本だったんです。
まずビジュアルがいい。今までにないフォルムで、女性には馴染みやすそうなのにスタイリッシュというか。シンプルという言葉が1番似合う。
そしてOSはもちろん最新のもの。更新される時には自動受信し、こちらで設定を行う必要もないのだ。
当たり前のように防水加工は施してある。数時間水に浸しておいても大丈夫なくらいな丈夫さ。新しく開発された樹脂は指ざわりも滑らかで、とにかくずっと触れていたくなるような感触。
言語も多彩。世界で広く使われているいくつかの言語を搭載し、翻訳もできる。日本製故の利点といえば、日本語に関しては方言や、今時らしく略語等も多く登録されている。
充電は1時間でFULLになる速さで2日持つ。十分でしょう?しかも車の中ではシガーソケットから接続して充電可能。USBでの充電も可能なので、大学生が講義を聴きながらノートパソコンで充電、というのも有りなのです。
商品自体は少しサイズは小さめだけれども、場所を取らない点ではいいんじゃないかと思う。
実際これは非常に極秘、内緒の話だけれども、私も購入した。店に仕入れた1つを、こっそり自分用によけておいた。それほどしなければ手に入らないのだ。
現にうちのような小さな雑貨店でも数日前から店の前に泊まり込みで客が並んでいる。うちの店舗の確保数より多く並んでいたため、予め列を作ったお客様に
「数に限りがありまして並んでいただいても購入は無理かと思いますよ」
と声をかけておいたが、それでももしかして前に並んだ人が買わないかもしれないという小さな期待を込めて並び続けた。そんなこんなで、発売当日、開店と共にSOLD OUTとなり、数日前から徹夜で並んだというのに買えなかったというお客様も多数いた。
そんなだから大型電器店の前の道路はひどいもんで、アップル製品の販売を待つ列よりもすごいと各メディアで報道された。
それでも何を考えているのか、小さな期待を持って開店してから数時間後ぐらいに、ゆっくりやってくる呑気な客もいる。そんな時間に来て手に入るわけがない。
「あの、すみません」
「はい。いかがしましたか?」
「あの・・・大野智ってもうなくなりましたか?」
「あーーーーーー、そうですね。あちらは人気商品でして、もうすでにSOLD OUTです」
「やっぱり。違う店行ってみます」
「すみません」
違う店、か。どこに行っても同じだと思うけどね。もうすでにオークションなんかで数十倍の高値が付いてるよ。
今世紀最高の出来と言われたアンドロイド、Name:大野智。
あなたは手に入れましたか?
2014/01/28 PM23:50
WORKS>>Ai Ninomiya*
『最悪の再会』
うちから1番近いコンビニ。夕方、6時過ぎだったと思う。日曜日、仕事は休みで、特に予定もなく僕はのんびりと1日家に居た。夕食を作るのも面倒で、かといって友達を誘って食べに出るのも面倒で、コンビニの弁当でいいや、と買いに来た。いつもだいたい悩むのは同じ。白身フライのり弁当か、鶏の唐揚げ弁当か。あまり高いものは、と思うと最終的にこのふたつで悩む。そしてその日は鶏の唐揚げ弁当を手に取った。
「すみません、それ私にも」
声がしたので何気に振り返った。女性が、僕の前の棚をじっと見ていた。
「え?」
「それ、唐揚げの弁当。私にも取ってもらえます?」
「あ、はい」
そう言われて、僕は棚にあと1つ残っていた鶏の唐揚げ弁当を手に取り、女性に渡した。
「ありがとう。よかった、もう1つあって」
「あ、はあ・・・」
なんとなくの返事をして、僕はそのまま飲料コーナーに移動してビールを1缶だけ籠に入れた。その後何気に雑誌を数冊ちらっと見て、精算を済ませるとコンビニを出た。
少しだけ、歩いた時だ。先ほどの女性がすっと寄って来た。
「さっきはありがとう」
「あ、いえ」
「鶏の唐揚げ、本当に好きなのね」
「え?」
「あの時も、食べたわね、一緒に。鶏の唐揚げ」
「え?」
「懐かしいな」
「あの。何のことですか?誰かと、間違ってませんか?」
「ほんと変わらない。いつも可愛いの。私本当にあなたのファンだから」
え・・・。
一瞬にして僕は固まるように笑顔をなくした。[あなたのファンだから]、聞きたくないフレーズ。そしてずっと脳裏に残っているフレーズ。
「あなた、もしかして」
「久しぶり。私はずっと、見てたけど」
小学1年生の時だ。僕は3日だけ、誘拐されたことがある。なんとなく、覚えている。女の人に声をかけられて、その人はとても優しくて、母親の友達だと僕に言った。遊んでいた公園から何処か歩いて行って、そのままタクシーに乗った。その人は何度も僕に言う。[あなたのファンだから]。だから、何でも好きなものを買ってあげる。何処でも好きなところに連れて行ってあげる。バカな僕は、好きなものを言った。そしたら買ってくれる。行きたい場所を言う、そしたら連れてってくれる。優しい笑顔で、僕の頭を撫でながら。帰りたいと言うと、また何かを買い与えてくる、当時流行ってた最新のゲームとか。本当に僕はバカで、単純に、これを友達に自慢したらみんな驚くだろうなって素直に喜んだ。怖いとは一瞬も思わなかった。むしろ、とても優しかった。だけど、3日後、たくさんの大人が女の人を抑えるように取り囲み、泣きながら母親が僕を抱きしめた時の力の強さが体に沁みて、とても怖くなった。
けど、女の人の顔も覚えてない。実際には母親の友達ってのも嘘みたいだった。買ってもらったものは僕の手元には残らなかった。すべて警察の手に渡った。大人がそうやって僕から遠ざけていった3日間のその日のことを、知らない間に僕は忘れていったんだ。[あなたのファンだから]ってフレーズだけを耳に残して。
「何・・・ですか?」
「ほんとにすてきな男性になった」
僕は、無視してその人からわざと少し離れるように通り過ぎた。まさかあの日のあの女の人がまた現れるなんて思わない。もう会うはずなんてない。人違いだ、そう思いながら通り過ぎた。だけど、後ろからは、ゆっくりと靴の音がする。やたらと、ヒールの音を鳴らして歩いてくるんだ。ついて来ている。
「結婚するんだって?」
背後から、そう言われて僕は立ち止まった。なんで知ってるんだ?ゆっくりと振り返ると、女性はヒールの音を鳴らしながら近づいてくる。
「何のつもりですか?」
「別に。あなたのファンなだけ」
「だからそれが!何ですか?」
「3年だけ、知らないの」
「え?」
「あの後、3年の懲役って判決がでて、私はあなたの傍に3年だけいられなかった」
「は?」
「あなたが、9歳の時かな。そこからはずーっと知ってる」
女性は、笑顔で言う。
僕はあの日僕を連れ去った女の人の顔をもう覚えてないのに、あの時の優しい笑顔の記憶はなんとなく蘇る。やっぱりこの人があの時の?
「ずっとやってた野球クラブをやめて、中学受験に向けて塾に通いだした頃かな、私があなたにまた会えたのは」
「え?」
「そのあと私立中学に進学して、高校もそのまま男子校で。でも近所の女子高の女の子と付き合い始めて、初めてキスしたのはその子と」
「やめてください!ほんとに何なんですか?」
「大学生の時は居酒屋でバイトしてて、あ、あれ美味しかった。目黒のお店の、手羽先!あそこは渋い店だった。あなた笑顔でいろんな日本酒を勧めてくれて。よく勉強したわよね、あんなに種類置いてるのにどれがどんな味か説明してくれるんだもの」
「店とか、来てたんですか?」
「店だけじゃないわよ。あなたが高校生の時はあなたの高校の食堂で働いてたし、大学の、あなたの受けてる講義、こっそり同じ教室で聞いたこともある。あれ、スリルあったなあ。講義内容も面白かった」
僕の目の前で、優しく笑顔で語っているこの人はいったい何なんだ。
「ストーカー、ですよね。それって間違いなく」
「そう?私の生活とあなたの生活が何気に絡み合ってるだけでしょう?」
「何気に?すべて意図的ですよね。あなたの意志で行動してる」
「まあ、私はあなたのファンだから?私の意志では行動しているかもしれないけれど、たまたまあなたの生活の線の上に、私のできる仕事があったり、私がしてみたかったことが乗っかっていただけのことであって。特に問題はない」
「あります。気味が悪い」
「そーう。そんなに喜んでもらえると思わなかった」
「頭おかしいんじゃないですか?もう構わないでください!」
僕はそう言って、家に向かって走った。さっさとその場から立ち去りたかったんだ。何がしたいんだよ、あの人は。そして僕のことをやっぱり見てる。監視されているというか、そんな恐怖が急に押し寄せてきた。いつの間にどうやって何を知って、あの人は今何をしてるんだ?
走りながら、1度だけ振り返ったけど女性はついてきてはいなかった。周囲を見回して、それからマンションに入った。エレベーターで階まで上がって、そこでも僕は周囲を見てから自宅に入った。ここも、知ってるんだろうか。この歳になって誘拐されることはさすがにないだろうけど、あんなにいろいろ知られている、同じ場所に居たことがある、それって、どう考えてもおかしいだろ。
ドアの鍵を閉めようと思った時だ、気になる音がした。遠くから響いてくる音だ。ゆっくりと歩く、女性のヒールの音。
「え?」
その音は、確かにうちの前を通り過ぎた気がした。そして少し先で、止まる。
「え?今のって・・・」
僕は息をひそめてゆっくりと玄関のドアを開けた。ゆっくりと広がっていくドアの隙間から顔を出して、エレベーターと逆の方を見る。そこに、居たのだ。さっきの女性が。
「え?隣?」
さっきの女性がにっこり笑った。そして隣の家の玄関の鍵を回していた。
「い、つから?」
「あなたがここに1人で越してきた時から」
「え?」
「もう。7年くらい?ずっと隣に住んでるわよ。あ、結婚したらさすがに、ご近所付き合いはちゃんとしなきゃだめよ」
笑顔でそう言うと、女性はドアを開けて家の中に入った。
偶然の再会なんかじゃない。ずっと、ずっと前から僕は見張られてたってこと?え?どうして?何のために?気味が悪くて家に入り、ドアの鍵を閉めたけれど、家の中すべてが不気味に思えてくる。何処かに何か隠されてるんじゃないか。テレビでよくやってるみたいに、隠しカメラとか、盗聴器とか、いろいろ。考えると頭がおかしくなってくる。買って来た弁当さえも気味悪くなってきた。どうして同じもの買うんだよ。とにかく引っ越さなきゃ。ここには居られない。最悪だ。本当に最悪だ。
僕はこれからどうしたらいいんだろう。
のんびりと過ごしていた日曜日の、太陽が一気に沈んでいく。暗くなる窓の外がまるで僕の心の中みたいだった。
2014/06/19 AM11:20
WORKS>>Ai Ninomiya*
『シナリオのオトコ』
少し前まで、僕は刑事だった。
その前は、サッカー選手。
その前は、たしか商社に勤めていた。
これは全て、役として。演技だ。
刑事の頃は、難しい事件を次々と解決する敏腕刑事と言われた。サッカー選手の頃は、日本代表チームに所属し、プレイボーイと言われるほど女性には困ることもなく楽しい日々だった。商社に勤めていた頃はイマイチで、どちらかというと仕事のできないやつだった。
どの僕も、まるで別人で。所謂カメレオン役者と言われたものだ。台本を貰ったら、きっちりと読み込む。そして僕は、その中の1人として生きはじめる。役者としては当然のことだろうと思っている。それで毎回人格も容姿も、まるで僕本来ではないほど入れ込む。最初にそういう手法を身に着けたのは中学生の頃だった。僕の役者人生は、最近流行りの子役の頃に始まった。そして今に至る。ずっと、今まで僕は、その役になり込んで生活をするというスタイルで生きてきた。
今は、精神科医という難しい役を演じている。僕以上に、患者の役を演じる役者たちが渾身の演技をぶつけてくる。そして僕はまた、それに全力で演じ返すだけだ。
「筒井くん、今回のドラマも本当に高視聴率だったよ、きみのおかげだな」
監督からそう嬉しい言葉をいただいたのは、最終回の撮影が始まった日だった。
「それでね、筒井くん。視聴者の感想などを取り込んでね、今回のドラマのラストを大きく変更しようと思うんだ」
「変更、ですか?」
手渡された台本には改訂版と書かれている。ささっと目を通す。最初のほうは特に変わりはない。が、途中から僕は何とも言えない恐怖感を感じながらその台本を読んだ。
「どうだい?筒井くん演じる神田自身が狂ってしまうんだ。視聴者の期待を裏切らない最期だろう?」
「え、でも自殺までしなくてもいいんじゃないですか?」
「いや。彼が居なくなることでこの物語に終止符が打てるってもんだ。頼んだよ、急な変更だけど演技期待しているから」
基本僕は、仕事を選ぶときにまず台本を読ませてもらう。その展開次第で受けるかどうかを決める。自分の身体を傷つけるもの。特に死んでしまうものは避けるようにしている。でないと、演じられないからだ。
「そんな・・・」
僕がこの登場人物の神田になって3ヵ月が過ぎる。今更、僕の中の神田を止めることなんてできないじゃないか。
恐怖だった。台本の最後の数ページを再度読んでみる。最悪だ。読み終えるなり僕は、まだスタジオセットに忙しく走り回るスタッフを横目に1度建物の外に出た。近所に大きなドラッグストアがあったはずだ。そこで僕は大量にあるものを買い込んだ。
「あれ?俳優の筒井道哉さんですよね。ドラマいつも観てます。何すんですか?カミソリの刃、ほぼ全部買い込むなんて」
レジで店員が笑顔で話す。
「ちょっと、次の演技でね。必要なんだ」
「へえ~。さすがっすね。あ、っと。14200円になります」
買い込んだカミソリの刃ばかりを持っていたバッグに詰めて、僕はそのままタクシーに乗った。自宅のある住宅街の傍まで。タクシーを降りて僕は、出来るだけ人に見られないように走って自宅に帰った。
さぁ、ここからが始まりだ。台本の修正部分だ。
僕は1度、演じる前に同じことを自宅でやってみる。声に出して演技をする。動きがあればそれに応じて動く。今回ばかりはやめておけばいいのに。脳裏にはそう考えがよぎる。だけど止められないのは、僕がもう何十年もこうやって演技を身に染みつけてきたからだ。カメレオン役者と呼ばれるまでになったその手法を今更変えられない何かが僕の考えを押し付ける。
部屋に入ると上半身の洋服を脱ぎ、僕はそのままカミソリの刃の入った袋を持ってバスルームに向かった。
・・・神田は、大量に買い込んだカミソリの刃で自分の腕に赤い筋を山のように入れた・・・
台本通り。僕は買ったばかりのカミソリの刃を自分の左手首に当てた。少し力を入れて引くと、すぅーっと赤いラインが入る。きれいだ。赤い血の線が1つ浮き出してくる。その隣にまた、次のラインを入れる。快感を覚えてくる。もっと。もっと。どんどん刃を当てていく。大量に買い込んだカミソリの刃を次々と袋から出しては切り込んでいく。バスルームの床には次第に赤いモノが流れ出していた。
最後だ。神田の最期。
両手に数えきれない赤いラインの入った腕を見て、ニヤリと笑う。
「きれいだ。血の色は」
そう言って、最後の1刃を1番やばい血管の上に当て、骨に当たるまで力いっぱい押し込んだ。それをすぅーっと引く。噴出した血しぶきがとてもきれいだった。
「俺の色だ」
狂った神田の最期は、自分自身で身体に傷をつけ、出血多量死をするというものだった。これで、演技に集中でき…る…。
はずはなかった。その日の夕方、連絡が付かないからと合い鍵を使って部屋に入ってきたマネージャーに発見され、俳優筒井道哉の自殺が発覚した。夕方からニュース番組やらで臨時ニュースが入ったと大きく取り上げ、マンションの周囲は警察官と報道陣で溢れかえっていた。
だから嫌だったんだ。自分自身が死んでしまう役は演じない。そうマネージャーに散々言ってあったのに。誰か今から物語のエンディングを変えてくれよ。九死に一生で助かった、とかさ。
そんな思いが通じるはずもなかった。
俳優、筒井道哉は、台本通りの死を遂げた。何故そのような死に至ったのか。謎のままでね。
2013/10/05 PM22:30
WORKS>>Ai Ninomiya*
『見つけた』
俺らはこれから何処へ行こう。
遥か遠く旅に出よう。
もちろんあなたは不可欠なんだ。
俺にとっては不可欠なんだ。
今より先、ずっとその先も、
そのまだ先へも、あなたをずっと連れて行く。
耳元で呟く。歌うようなそんな言葉が耳の奥に入り込んでいく。そしたらあたしは眠りに落ちる。それは遠く懐かしい。そして少し怖い。離れられなくなる魔法のようで、だけどそこに堕ちていく。
最初はどれくらい前だろう。数え切れないくらい何度も生まれ変わり。そのたびにそこにはあなたがいた。
名前が変わり。
人種が変わり。
両親が変わり。
住む地が変わり。
目の色や髪、肌の色、あたし自身の姿がどのように変わっても。
あたしはいつも女で、あなたは男だった。
そして今も。
日本というこの地で、あなたはあたしの前に現れた。
「見つけた」
初めて会う人。見たこともない人。だけどその人は優しい笑顔であたしを見つめる。当たり前のように、「見つけた」、そう口にする。そしてあたしは、新しく生きる今の時代が急に止まったかのように、あなたのその笑顔に、そしてずーっと昔の記憶に啄まれていく。
不思議だ。こんなに広い世界の中で、あなたはいつも追いかけてくる。同じ時に生まれつく。
「どうして見つかったんだろう」
不思議そうにそう呟くと、人目など気にせずにゆっくりとあたしを抱きしめてあなたは言う。
「俺にはあなたが不可欠なんだ」
「どうして?」
「どうしてかな、運命だから」
「運命って、なんなの?」
「それは、俺とあなたの愛のカタチ」
「そっか。だから見つかるのか」
「そう。いつでも俺はあなたを見つける」
背中に腕を回してギュッと抱きしめ返すと、ほんのりと体温が伝わってくる。そうだ、この香り。この人の香り。あたしの運命の相手の香り。
そう納得してしまうのは、きっとあなたの呟く、歌のようなそれのせい。
俺らはこれから何処へ行こう。
遥か遠く旅に出よう。
もちろんあなたは不可欠なんだ。
俺にとっては不可欠なんだ。
今より先、ずっとその先も、
そのまだ先へも、あなたをずっと連れて行く。
2014/03/14 PM16:12
WORKS>>Ai Ninomiya*
『白猫出版社』
その日俺はある出版社の面接に来ていた。たまたま見つけた求人広告だ。「人事と営業の兼任が可能で、猫の好きな人」とあった。猫が好きかは微妙なところだったが嫌いではない。人事と営業の兼任も大変そうだなと思ったけれど、何よりも惹かれたのが「給与日払い」ってとこだった。その日の分はその日に貰える。もし何かで辞めることになっても次に行きやすいと思ったのだ。
その『白猫出版社』はとある駅から25分ほど歩いたところにあった。少し不便かとは思ったが周囲はあまり使っていないように見える倉庫や工場が目立つ。というか人がほとんどいない。ここなら車で来て停めておいても差し支えないだろうと思った。コンクリートの壁が殺風景な古いビル。鉄製の錆びかけたドア。小さな小窓がついている。そのドアの横に、縦書きで木の看板に書かれた『白猫出版社』という文字があるが、雨ざらしのせいだろうか少し消えかけている。俺はその錆びかけたドアを2回ノックした。
「どうぞ」
すぐに女性の声がした。あまりに近く聞こえるその声に不思議だなと思いながらドアを開けると、「うわっ」っと思わずびっくりして声をあげてしまった。ドアを開けるとすぐのところに女性が立っていたのだ。
「ようこそお越しくださいました。猫田さま」
「え?なんで?俺が来るのわかっててここで待ってたんですか?」
「はい、足音がしたので」
「え?」
思わず俺は足元を見た。スニーカーなんだけど…、足音なんて聞こえるもんなのかな。そして女性に視線をやった。白いシャツに黒いパンツ。よく見るOLみたいな格好の背筋の伸びた女性だった。
「ご案内します」
鈴の音がチリンと鳴ったかと思うと、女性が一瞬にして消えた。
「え?えーーーーーーーーーっ!?うそ。え?」
消えた、のではなく。足元に白い猫がいた。赤い首輪に鈴のついた猫。そして、にゃぁ~と一声鳴くと階段を上がっていく。『白猫出版社』は、ドアを開けると1メートル四方ほどのスペースしかなく、すぐに壁なのだ。右手を見上げるとコンクリートの階段が続いている。その白い猫はゆっくりとその階段を数段上がると、こちらを振り向いて再度にゃぁ~と鳴いた。
「来い、って?」
気付くと俺は、錆びかけたそのドアを閉め、階段を上がって行っていた。
真っ直ぐに、ひたすら真っ直ぐに伸びる階段。窓は一つもない。それが3階分ぐらいまで上がったんじゃないかってくらい続いているのだ。そしてやっと登りきったときに、そこにはまた、先ほどの女性がいた。
「申し訳ありません、階段を上がるときはあの格好のほうが楽なもので」
よく見ると、白いシャツの襟元のボタンを外した隙間から赤いチョーカーが見える。鈴のついたやつだ。
「あなたは…猫?人?なんなんだよ、いったい!ここは!?」
「私は人です。そしてここは『白猫出版社』でございます。そして申し遅れました、私は三毛と申します。では、こちらへどうぞ」
開けられたドアの向こうに1つの部屋があった。普通の会社みたいな感じだ。デスクがいくつかとチェストやコピー機、棚がいっぱいあって雑誌や本が詰まっている。まさに出版社という感じだった。そこに1人の男性がいた。こちらを見ている、ものすごい笑顔で。ちょっと小太りのその男性は40代くらいだろうか、立ち上がるとこちらに声をかけた。
「新しい人ですか?わたし猫柳といいます、猫の絵本をメインでやってます、よろしくお願いします」
「あ、はじめまして」
もう、なんだかわけがわからなくなって、思わずそう返事をした。ここは確かに普通の出版社って感じだけど、さっきのこの三毛さんって人の、猫になったり人に戻ったりっていうあれ。いったいなんなんだ。
「あと1人猫渕さんとおっしゃるかたが働いておられます。今日は資料作成のために外に出られてますけど」
「はぁ・・・。で、俺はどうすれば?」
「私事ですが来月寿退社することになりまして。私の仕事をあなたにお願いしたいのです」
「あなたの?」
「はい。出版の仕事は猫柳さんと猫渕さんがされてますので安心してお任せいただいて大丈夫です。お願いしたいのは、猫の引き取りです」
「引き取り?」
「はい。『白猫出版社』では、出版で得た利益をすべて猫の引取りに使用しております。怪我をした野良猫や人が飼えなくなり捨てられた猫、保健所にて引き取り手もなく殺処分になる予定の猫などを引き取ってきています。それが営業のお仕事になります」
「猫ばっかり引き取ってくんの?どうすんの?そんなに集めて」
「お世話をするのです。なので求人の方にも書いておきましたが、猫が好きな人に限らせていただいております」
「はあ。え?それが仕事?」
「そうです。全国各地、情報が届けば何処へでも飛んでいただきます。もちろん自分からも情報を探して危機に迫られている猫をすべて引き取ってきていただきます」
「でもそんなに猫ばかり集めても住まわすところがないでしょう?」
「いえ、こちらに」
そう言って三毛さんが1番奥のドアまで歩くと、手を差し出して「どうぞ」と言った。開けてみろってことか。俺は恐る恐るドアに手をかけると、ゆっくりとそのドアを開いた。そこは見渡す限りの広いスペースで。何百、いや何千?もっとだ。数え切れない猫がいた。
「このあたりの地域の建物はすべて内側で繋がっております。すべて猫の住まいとなっております」
「住まい?」
そうか。もう使ってなさそうなビルや工場が多かったのは、外観こそは1つずつの建物だけれど、内側でこうやって繋がっていて猫が住んでるってことなのか。
「けどこれ、こんなことして、何の得になるんですか?」
「得?そんなものありません。社長が殺されたり、住む場所をなくして死んでいく仲間を悲しく思い、始められた事業ですので」
「仲間?」
「あちらが社長です」
三毛さんが指さした先には白い大きな猫がいた。大きいどころではない、俺よりも数倍大きい。なんだこれ。ジブリの世界だろ、マジで。夢だ。ぜったいにこれは夢だ。そうだ、寝る前になんか猫の出ているCM見たからそれが頭に残ってたんだ。そうに違いにない。そう考えながら自分で頭を叩いたりドタバタ暴れていると、その大きな猫は、それまた大きな声でにゃぁ~と鳴いた。一斉に周囲の猫たちも動きが止まる。そして三毛さんはこう言った。
「猫田くん、きみの名前気に入った。採用する。とのことです」
「え?なんで?にゃぁ~って言っただけでしょ?」
「はい。そうおっしゃられました」
「あなた猫の言葉わかるの?やっぱり猫?妖怪?」
「やめてくださいよ。あなたもじきに同じようにできるようになると思います」
「え?なんで?」
「こちらに出勤していただいている間は昼食はこちらを召し上がっていただきます」
「え?猫缶?」
三毛さんが指さしたのはだだっ広いその部屋のすぐ左の部屋に大量に置いてある猫の餌の缶詰だった。
「あれは、猫の餌でしょ!」
「いえ。ちゃんと人間も食べられるものばかり集めてあります。特に害はありません。同じものを食べることによって、あなたは猫の言葉がわかるようになり、猫たちもあなたの言うことが自然とわかるようになります。半月もあれば大丈夫です。私が退社するまでには立派な営業マンになれるかと思います。がんばってください、猫田さん」
「え?俺やるって言ってないし。まず無理だし」
「そうなんですか?」
そうやりとりしていると、また社長だとかいうあの大きな猫がにゃぁ~と鳴いた。
「あ、社長が、日当100万出すとおっしゃってます」
「100万?1日で?」
「はい」
「100万。1日で?」
「はい。そうです」
「100万?1日だよね?1日?」
「そうです」
「やりましょう」
その日から俺は三毛さんと一緒に営業の仕事を始めた。全国津々浦々、猫の保護をしては連れて帰ってくる。猫柳さんや猫渕さんが手がけた本や雑誌の収益で餌を買う。掃除も時々していたがこれでは手が足りないので新しくお世話をする人を雇いませんか?と俺は社長に提案した。「いいでしょう。」とすぐにOKを貰った。
「仕事が板についてきましたね、私も明日で最後になりますが、猫田さんがいればもう安心です」
「いやぁそれほどでも」
すっかりここでの仕事に慣れてきた。約1ヶ月ここに通い、全国へ飛び、そして猫缶を食べて過ごした。
「猫田さん、社長から昇格のお祝いとのことで、これを」
三毛さんが手にしていたのは、三毛さんが首につけているチョーカーの青いものだった。それをそっと、三毛さんが俺の首につけてくれる。首元の鈴がチリンと鳴った。
その瞬間、俺は猫になった。
「え?えええ?」
たぶんそれは、他人からすると、にゃぁ~としか聞こえてないだろう。だけどその場にいる何千もの猫たちが歓迎の歓声を上げた。照れくさくなりながら俺は皆に頭を下げた。
「ありがとう。これからもがんばります」
そしてブルっと首を振った瞬間に鈴が鳴り、俺はまた人間に戻った。
「うまく利用してください、その鈴。猫田さん、あなたがここに来てくれて本当によかった。『白猫出版社』は安泰です」
そう言って三毛さんは笑顔で拍手をした。傍にいた猫柳さんも猫渕さんも。
そして社長の大猫が大きくにゃぁ~と鳴いた。
さ。昇格してからの初の仕事は新しい求人を募集すること。猫の部屋のお掃除をしてくれる人を探さなきゃいけない。
『白猫出版社』
急募!猫のお世話が好きな人!給与日払い!
あなた、猫は好きですか?うちで働きませんか?私、猫田がご案内させていただきます。青いチョーカーが目印の『白猫出版社』営業マンです。どうぞよろしく。
2014/03/06 AM00:56
WORKS>>Ai Ninomiya*
『渡邊。』
行き慣れた安い居酒屋で、飲み慣れた友人と今夜も飲んだ。大した話題もない毎日で、いつもくだらない話で無理やり盛り上がる。愚痴とか職場の文句とか、そういうのにはもう飽きていて、俺と友人はいつも、とにかく何か笑っていたくて会話をする。
「そういえば、産休の、代行の先生が今日からとか言ってなかった?」
そう言って焼酎の入ったグラスを持ったまま友人は煙草をふかした。
「あぁ、それがさあ。超笑えるんだけど」
「なになに?」
「担当が国語なんだけどさ」
「おう」
「渡邊って女のやつでさ」
「うん」
背もたれに体を預けながら煙草をふかす友人とは逆に、テーブルに身を乗り出して俺は友人の目をじっと見て話す。
「二十、八っつったかな、歳は」
「そんで?」
「クソ真面目そうなやつでさ」
「なんだよ、勿体付けないで一気に話せよ」
「わたなべのなべっていう字は旧字体でしんにょうではなく点が2つあります。とかさぁ」
「ほお」
「いろんな種類がありますが、私のは下の部分が方になってます、とかさ。自己紹介で生徒に言っててさ」
「それがどしたの?国語の先生なんだろ?漢字にはうるさいってやつ?」
「いや、それは別にいいんだけど。最近なんかそういう旧の漢字使うの多いじゃん?桜井が難しい櫻井、だったりとかさ」
「おう、あるある」
「それを真面目に語ってんだけどさ、渡邊が」
「うん」
「そいつハーフなんだよね」
「ハーフ?」
「母親がアメリカ人?だったかな。見た目何処にも日本人残ってなくてさ」
「まじで?」
「目も青いし、髪もほぼ金髪に近くてさぁ。それで国語の教師だよ?説得力ねえ~とか思いながら今日その、初日の授業覗きに行って笑いそうだったわ」
「まじかよ。ウケるなそれ。中学生相手にやってけんの?」
「わかんねえ。でも日本生まれの日本育ちらしくって。英語はほとんど話せないつってたかな」
どうでもいいようなそんな話。そんなネタ。別に特別面白くもないし、教養のある話でもなければ仕事に使える内容でもなく。ただそんなくだらない話をして、今夜も笑っていた。それから1時間くらい、ふたりであーだこーだ話をして店を出た。
「そんじゃ、また」
「おう、またな」
店から家が近所の友人とは店先で別れて、俺は駅に向かった。ホームには人がまばらで、仕事帰りのサラリーマンが多いのかな、といった印象だった。電車に乗り込むと、座席は空いていたが俺はドアの近くに立った。バッグに入っている本を取り出すと、しおりの挟んでいた箇所を開く。少しの間俺はただ、本の中の世界に浸っていた。時々ドアが開くけれど反対側で、特に気にもせず文字を追っていた。それから数駅、ある駅で俺の立つ側のドアが開くアナウンスが流れた。ふいに視線を上げると、真っ暗になった外の風景と共にドアのガラスに映り込む自分が見えた。その背後から送り込まれる視線。目が合ったその人は50代ぐらいのサラリーマン?だろうか。1度目を反らしたけれど、気になってもう1度視線をガラス越しに向けると、やはりその人は俺を見ていた。そしてニヤッと笑ったのだ。
なんだよ。
視線を外さないでいると、その人は近づいてきた。ガラス越しに見えるその姿が、スッとすぐ背後に来たかと思うと、その人の手は俺の肩に乗った。
「なあ、そんなに可笑しいか」
話しかけられ俺はガラス越しではなく、振り返ってその人を見た。
「なん、ですか?」
「そんなに面白いのか?って聞いてんだよぉ」
素面かと思ったけど、酔っぱらっている風にも見える。
「なんですか?この本ですか?」
「ちげえよ、さっき笑ってただろ?」
「なんのことですか?」
絡んでこられたそのやりとりに、周囲の視線もこちらへ向けられる。それはなんだか悪いものでも見るような視線で、何もしていないのに罪悪感を押し付けられるような感じの悪いもので。絡んできたのはサラリーマンのほうなのに、明らかに周囲の視線は俺にあるのだ。
「渡邊がそんなに悪いか?」
は?
サラリーマンの一言に、意味もわからず固まってしまった。電車は次の駅に到着し、止まる。そして俺の立っていた側のドアが開いた。少し冷たい風が外から入ってくる。
「渡邊がそんなに悪いのか?って聞いてんだよ!」
一層の大きな声でサラリーマンが俺に言うので、思わず俺は何も言わずにそこの駅で電車を降りた。振り返ると、電車の中からまだサラリーマンは俺を見ていた。座席に腰かけた人や、手すりにつかまった別のOL女性や、みんなが俺を見ている。そして気づいた、俺が今降りた駅のホームでも、電車に乗り込もうと俺の横を通り過ぎる人までもが俺をちらっと見ては逃げるように早足で別の車両へと走りこむ。
何なんだよ、いったい。
ドアを閉めて発車した電車を見送ると、俺はホームに立ち尽くした。
「なんだ?さっきの」
イライラしながら次の電車を待とうとホームの後ろ手に下がろうとしたら、また通り過ぎる人が俺をちらっと見ていく。自分の服装とか髪型とか何か変なのかよ?食べたものが口の周りに付いたままとか?気になって手で拭ってみるけれど何もなく。また通り過ぎる人が俺をちらっと見る。何か悪いことしましたか?俺。とにかく心外だ。そう思いながら、駅から出ることにした。
改札で定期券を通すと、エラーが表示されて俺は改札に大きな音を鳴らした。え?区間内でしょ?ここ。そう思って出てきた定期券をあらためて確認する。そしたら駅員が寄って来た。
「ちょっと、よろしいですか?」
「え?あ、これ区間内なのにおかしいんですけど」
持っていた定期券を駅員に見せると、駅員は定期券ではなく俺の顔をじっと見た。
「あの、他の改札機だったら通りますかね?」
そう言って別の自動改札機に定期券を入れようとした。すると駅員に腕を掴まれた。
「そんなに可笑しいですか?」
「いや、おかしいでしょ。ほら、区間内ですよ?ここの駅」
「そうですか。可笑しいんですか。渡邊がそんなに?」
「は?渡邊?」
なんだ?また?何なんだよ。掴まれた腕に駅員のチカラがこもってくる。
「何なんですか?手、放してくださいよ」
そう言って視線に入った。駅員の名札だ。わた・・・なべ。ポカンと口を開けたまま俺はその駅員の名札と顔とを行ったり来たり見て、そして思った。何が何だかわからないけど、逃げろ。
だから、俺は何もしてないしどうして逃げなきゃいけないのかわからないけれど、駅員の手を振り払うと無理やり改札を通り抜けて駅の外へ出た。人の少ない小さな駅。駅前には小さな店がいくつかある程度で、たぶんこの先には住宅街しか待っていないだろう。どうしようかと思いながら走って駅から少し離れると、俺はちょっとした国道に出た。うちまではまだ数駅ある。タクシーでも拾うか。こんなところでタクシーなんて拾える気はしなかったが、国道沿いの歩道を歩きながら走ってくる車に目をやっていた。
あ、来た!
ラッキーだ。これを逃すとたぶんこのあたりでタクシーを拾うのは難しいだろう。そう思って、俺は大きくゼスチャーしながらそのタクシーを拾った。
「よかったぁ、ここ通ってくれて」
タクシーに乗り込んでそう言うと、タクシーの運転手はフロントミラー越しに笑顔で答えた。
「どこまで?」
「あ、道言いますんで、とりあえずここ真っ直ぐ言ってもらっていいですか?」
「わかりました」
ゆっくりと発進すると、俺は大きく息を吐いてシートに深くもたれこんだ。
「お急ぎだったんですか?」
「いや、違うんですよ。ちょっとなんか変なことに巻き込まれちゃって。よくわかんないんですけど」
「そうなんですか?」
「ほんっと助かりました。この道路沿いでタクシーなんて拾えないかなと思ってたんで。運がいいな、俺」
「そう言ってもらえるとなんだかこの道走っててよかったなあって気になりますね」
タクシーの運転手はそう言いながらまたにっこりと笑った。
「お客さんを乗せられて私も運がいい」
「え?どうしてですか?」
シートに深くかけていた体を乗り出して、またフロントミラー越しに俺は運転手の顔を見た。
「聞きたいことがあるんですが、いいですか?」
「なんですか?」
「渡邊って、そんなに可笑しいですか?」
え?
また?
運転手は笑顔を作ったままで、前を向いたままで、視線だけをチラッと俺に向けた。
「面白いですかねえ?」
ゆっくりと、言葉に力が入ったかと思うと運転手から笑顔が消えた。俺は何となく気になって、助手席の前に設置された運転手の名前のカードを見た。
[渡邊]
そう書かれたカードに血の気が引いていく感じがした。だから、何なんだ?って。それがどうしたんだよ?って。俺が何をしたんだよ?って。
「止めてくれ」
俺は後部座席でバッグに手をやるとそう言った。けれどタクシーが止まる気配はない。
「止めろよ」
強く言ってみるけれど運転手は淡々とタクシーを走らせる。そしてまた頭の中で思うんだ。逃げなきゃ。そこそこスピードの出ているタクシーのドアを俺は無理やり開けると、持っていたバッグで頭を庇うようにし、意を決して飛び降りた。死ぬ!一瞬そう思った。強く体をアスファルトに打ち付けて、タクシーの後から走ってきた乗用車が俺のすぐ横を通り過ぎた。転がるようにしてガードレールに体をぶつけると、全身に痛みが走った。
「ってえ!」
その後もどんどん走ってくる車に冷や冷やしながら、とりあえず死んではない、そう思って必死で歩道に逃げた。足に力が入らない。もうどこを怪我したとかわからないくらい、痛みが襲う。だけどここに居るわけにもいかない。反射的に俺は、自宅に向かっていた。
どれくらい国道沿いを歩いたか。車でなら走り慣れた路だけど、歩くことになるとは思わなかった。タクシーから飛び降りた時のだろう、服は乱れまくっていて、自宅について玄関にある鏡を見て驚いた。何やってんだ、俺は。部屋に上がってシャツを脱ぐと体が痣だらけだった。触れると腕が痛む。だけどなんだかホッとした。ソファに座り込んで、テレビのリモコンをONにした。よく見かける企業のCMが安心する。俺はそのまま目を閉じた。続けてコンビニのCMのメロディなんかが聞こえてくる。そしてCMがあけると、あるニュースが耳に入って来た。
「臨時ニュースが入りました。先ほど、大内被告が逮捕されました」
目を閉じたまま、何気に聞こえてくるニュースに耳を傾ける。
「大内被告は今夜8時過ぎ、都内の居酒屋で渡邊を侮辱した疑いで手配を受けていました」
は?
目を開けると、俺は体を起こしてテレビに目をやった。
「大内?」
そこに映された写真の人物はさっきまで一緒に飲んでいた友人で。そして画面が切り替わったかと思うと、俺たちが飲んでいたあの居酒屋の店内が映し出された。
「えぇ、そこの席です。ふたりでとにかく笑っていました。何が可笑しいのかわからなくて、気味が悪かったです」
そうインタビューに答えているのは、もう何年も顔を知ってるその居酒屋の店主で。怯えるようなその表情は見たこともない。いつも笑顔でいらっしゃいって言ってくれる店主ではなかった。
どういうことなんだ?渡邊、の話をした。今夜あの店で。新しい教職員の、ハーフの渡邊さんだ。見た目が外人みたいなのに国語の教師で、って確かに笑って。でもそれだけだぞ?いやちょっと待てよ。ギャップが面白いって話をちょっとしただけで、大内が逮捕とかどういう・・・。
そしたら、玄関のチャイムが鳴った。
何故だか瞬時に俺は、出てはいけない気がして。玄関に目をやったままじっとしているともう1度チャイムが鳴って。俺は思わずテレビの電源をOFFにした。静かに、ゆっくりと玄関に近づいて、見えない外の風景を気にするように耳に聞こえてくるものに集中した。誰かがいるのはわかった。
「いるんだろ?玄関を開けなさい。警察だ」
静かに聞こえた声に体が反応して硬直する。さっき痛めた腕や足も痛みを増す。音を立てないように静かに呼吸をしながら玄関に座り込んでいると声がまたした。
「渡邊侮辱罪で逮捕状が出ている。大人しく、出てきなさい」
低く語るドアの向こうのその声に、思わず肩を落とした。
何なんだよ、渡邊っていったい。意味も分からないまま、そのあと俺が逮捕されるのに時間はかからなかった。
2014/11/21 PM15:49
WORKS>>Ai Ninomiya*
『Shutter』
キミの見る景色は僕の景色だ。
キミはこのカメラの開発に積極的だった。映像転送システムを導入したカメラだ。カメラでシャッターを切る。普通はカメラに保存したものを何かしらのソフトを使って転送する。インターネットを使ったり、Bluetoothを利用したり、cloudや、ということだ。このカメラは、シャッターを切ると同時に写真を転送する。カメラに映像を保存するとともに、別に準備されたシステムにも同じものを保存する。その、別に準備されたシステムというのが、僕の脳の中のチップだ。キミがシャッターを切るたびに、同じ景色を僕も見ることができる。小さな、僕の脳の中のチップはまだまだ将来性がある。音声や動画も受け取れるような、そんなものをこれから開発していきたい。
キミと僕の共同制作だった。もともとは、同じものを共有したいという発想から始まった。カメラが趣味のキミが撮るそれを、僕も瞬時に見たい。離れていても、一緒にいる感覚を味わいたい。いつでも傍に居たい想いから生まれた。抱きしめることはできないけれど、唇を合わせることもできないけれど、Faceメッセージとまた違う何か。同じ空間を共有したいと思った。
チップはちゃんと僕の神経と連動していて、僕は眠っている時や例えば車を運転している時や、映像が入ってくると支障の出る時はシステムはOFFにする。見たい時にONにして、溜めてあった情報をきちんと見ることができる。もちろん別のディスクにも同じものが転送されてくるので、ゆっくりと大きな画面でそれを確認するのも可能だ。
昨日はキミからたくさんの海の写真が届いた。僕もそこに居るかのように、一緒に海を見る。波の音は届かないから、電話口でキミが届けてくれる。
「いつかこの音も届けられたらいいな」
「そうだね」
そんな話をふたりでしながら。
「そしたらいつでも一緒に居られて。開発の仕事も、そうでない時も、同じ気持ちで居られる気がする」
「うん、早くそうなればいいね」
同じ希望があって。同じ未来を持って。僕とキミは離れていても一緒だよ。
ある夜、眠る準備を始めて僕はチップのシステムをOFFにした。キミと暮らすこの部屋も時々独りになる。カメラを手にキミが居ない夜は、広すぎるベッドに横になって窓の外を眺める。星なんてほとんど見えない街の空だけど、キミから送られてくる昨夜のキミの居る街の空は満点の星空だった。
体温が温めていくブランケットの温度に心地よく眠りにつきそうな頃。いつもならあり得ない。システムはOFFにしたはずなのにキミからの写真が届いた。シャッターの音がする。夢かと思った。夢の中でまでキミのカメラの映像が恋しくてしかたないんだろうか。そう思った。
だけど違ったんだ。僕が目にしたのはいつもの温かい映像なんかじゃなかった。目を開けて天井を仰いだ。
「え?」
体を起こしてきょろきょろと見渡す。見渡してもそこにキミは居ないのに。そしたらまた写真が転送されてきた。自分で何度確認してもシステムはOFFなんだ。どうして転送されてくる?そしてこの写真は今何が起こってる?
銃口が完全にこちらを向いていた。
「どうして?どうして逃げない?何故いつまでもシャッターをきってるんだよ。逃げろよ!」
また送られてくる写真には何名もの武装した男が写っていた。連写されているであろう、その送られてくる写真は、恐ろしい光景だった。何処か、南の島に行ってるんじゃなかったの?何処に居るんだよ。
慌てて携帯を手に取った。コールはするけれど出ない。落ち着けよ、今システムはOFFになっているんだよ。写真が届くはずないだろ?ゆっくりと、気持ちを落ち着けて僕はシステムをONにした。その瞬間に大量の情報が流れ込んできた。まるで戦争映画を観ているみたいだった。海のきれいな南の島は?どうしてこんな、危険な場所に居るんだよ。
おかしいよ。システムが正常じゃないよ。だからこれも夢だよ。
そしたら1枚、シャッターがきられて転送されてきた写真が見えた。キミだった。横たわっていた。銃で打たれたその姿は完全に息をしていないことが伝わってくるほどリアルだ。
だけど、もしこれが夢じゃなくて現実で。システムも正常だったとして。カメラのシャッターは誰がきってるんだよ。
慌ててパソコンの電源を入れた。こちらのディスクにもカメラの映像は送られてきているはずだ。1つずつ確認する。間違いなく、僕のチップと同じものがそこにはあった。そして最後の1枚は横たわるキミの写真なんだ。
誰かが、彼女のカメラを使ってるのか?それよりもいま彼女はどうなってるんだよ!?
連絡も取れないまま、次の日まで気持ちがモヤモヤしたまま。誰に確認を取っても彼女の安否はわからない。僕はシステムを研究している研究所にデータを持ち込んで、場所の検討を依頼した。彼女は今何処に居るのか。それは、あっさりとわかった。僕が知らなかっただけで、彼女はシステムにきちんと位置情報を登録してあったのだ。たしかに南の島ではあった。どうしてこんな場所にこんな危険な場所が存在するんだ?そんな、リゾート地だった。そして実際、連絡が入り、彼女はその場所で見つかった。写真と同じ姿だった。
いろんなことが矛盾していて納得がいかなかった。システムはOFFにしてあったのに。どうして写真が転送されてきたのか。そして最後に撮られた彼女の写真はどうして存在するのか。だって、このカメラはずっと彼女の手の中にある。
何度検証してもわからない。最後の1枚。横たわる彼女の首からは明らかにカメラと繋がれたストラップが見えていて、そして横たわる体の向こうに、手にしたカメラが映っているのだ。彼女が横たわったあとに、彼女の手の中にあるカメラでこの写真を撮れるはずがないんだ。僕のチップにはこのカメラからの映像しか届くはずはない。
「お前に見つけてもらいたかったんじゃないのか?彼女は」
研究所の仲間が僕にそう言った。メッセージだったんじゃないかって。最後の1枚は彼女がカメラで撮ったものではないけれど、僕に1番知らせたかった1枚だったんじゃないかって。もしそうだとしても、知りたくないよ。キミが居ない世界なんて。そんな写真は要らないよ。いつでも同じ景色を見たいって。そう願ったシステムなのに。
それきり、シャッターがきられることはない。僕のチップに何も届かない。カメラはもう、キミの手の中で永遠に動かない。僕はまた、システムをOFFにした。だけどチップを脳から取り出す手術はしなかった。だって、もしかしたら、またキミからの写真が届くかもしれないから。
2015/1/12 PM01:25
WORKS>>Ai Ninomiya*
『101回目の未来』
俺は、焦っていた。東京スカイツリーの見える、ある橋の上で、スケッチブックを片手にペンを走らせる。描いてはまた、気に入らずにページをめくる。そんな感じで今日すでにスケッチブックは三冊目だった。
やっともらった仕事なんだ。そこそこ名前のある雑誌の挿絵だ。題材は東京スカイツリー。俺と、パソコンで絵を描いてるやつ一人と、油絵専門のやつ一人、計三人に挿絵を依頼していると聞いた。そして、一番特集のコンセプトに合った絵が、選ばれるのだ。俺の得意分野は鉛筆画やペン画。使う色は黒のみ。影などはあまり使わない。イラストに近い感じで、線と黒塗り、たまに使う網掛けなんかで協調はするけれどシンプルなものだ。写真に近いイメージになる他の二人のやつに比べるとイラストのデザインセンスが問われる。
必死だった。そうそう無いチャンスなんだ。もう何年も掛け持ちしているバイトで生活をし、本職にはならない絵を描き続けている。恋人は2か月前に愛想をつかして離れて行った。だって何年付き合ったって、結婚もしない。できるわけがない。養えない。自分の生活さえも苦しいってのに。
そんな思いが焦らすせいか、なかなか気に入ったイラストが描けなかった。
「ねえ、なんでそんなにいっぱい同じような絵ばっかり描いてるの?」
声をかけてきた子供がいた。忙しいのに。時間がないのに。かまってられるかよ。俺はその子を無視していた。時々覗きこんで、描いている絵と同じ風景の先を見る。
「あれ描いてるんだよね?でもそれさっきと同じだよ?全部同じようなのばっかり」
さっきと同じ・・・。何度描きなおしても代わり映えしないってことかよ?そう思うとイラッとした。ずっと描き続けていたペンを持つ手を止めると、俺は子供のほうを睨むようにして見た。
「うるさいな、親何処だよ。家帰れよ。大事な仕事してるんだ。遊んでるんじゃないんだよ。全部同じだと?うるさいよ。微妙に違うんだよ、これは。絵のことわからないくせに、子供が口挟むな。あっち行け!」
そう言って。なんとなく俺はその子から目が離せなかった。・・・見たこと、ある気がした。誰だ?誰かの子供だっけ?黒いロゴ入りのトレーナーにジーンズ。中学生、くらい?目が合ったまま、そしたらその子供が口を開いた。
「最悪だ。残念な結果だよまったく。こんな大人になりたいわけじゃないんだ。終了だね」
え?次の瞬間、俺の視界は途切れた。
「どうだった?智也」
「最悪だ。絵の仕事なんて全然もらえてないよ。得意だから中学は美術部に入って、そのまま絵の勉強しようと思ったけどやめた」
「そうか、じゃあ次の未来にトライするか」
父のその声に俺は頷いた。
そうだ。俺は今十二歳で、ここは父の研究所だ。ヘルメットみたいな、コードが沢山繋がれた装置を頭に被せて、リラックスできるようにと柔らかいソファを改造して作ったマシンに座る。ほぼ完成だという父の、その、未来をエキシビジョンできる装置の初めての実験台が俺。たまたま、そういう装置を作る研究をしていた父と、将来何になりたいかわからない俺とが手を組んだ。父は研究の一環として。そして俺は、未来の自分を探すために。
「じゃあ十分休憩したら次の未来を考えよう。何になりたいのか、考えておいてくれ」
そう言われて俺は、線の繋がった装置を頭から外した。もう今ので76回目のトライだ。76回、俺の希望した未来を見た。どれもたいしたことはない。だったら次は何になろう。そう考えて、あっという間に十分が経つ。次のトライがまた始まるんだ。
だけど次のトライも、エキシビジョンが始まって十五分もしたら俺はENDのボタンを押した。
「どうした?智也、またダメか?今度は早いな」
「最悪だよ、また。今度は医者になってみたんだ。すごく優秀な外科医になってたよ。毎日たくさんの手術に引っ張りだこ、そこまではよかったんだ。ある手術でミスが出て。直接手をかけたのは俺じゃないのに、指示をしたのが俺だってことで、全責任を俺が追うことになった。患者の遺族と裁判沙汰だ。病院に見捨てられたんだよ、なんだよあれ。医者になんて絶対なるもんか」
「なんだか智也の未来は、なかなかうまくいかないな。今度は三十分休憩だ、あまり続けてやるのもよくない」
父はそう言って研究室を後にした。
白い壁。白い床。白い天井。黒い色をしたその装置以外は、すべてが白い部屋。この部屋とこのマシンのことを知っているのは俺と父だけだ。父の研究所の、この部屋のある一角は他には誰も入ることはできなくて、入り口の認証システムに反応するのは父だけで、俺も一人では出入りできない。
もう、見慣れたけどね。この白と黒だけの風景も。そして、まだ決まらない自分の将来にため息をつく。
「それからさ、77回目は農業をやってみたんだ」
「へえ、智也くん、ほんとにいろいろやったんだね」
「まあね。でね、その時はけっこう上手くやれたんだよ、農業自体はね。でも二年連続寒波に襲われてしまって、結局畑自体が使えなくなったりで」
「そうなの、それは大変だったね」
いつもこうやって話を聞いてくれる女性は、この人なんて名前だったっけな。俺が産まれてすぐに亡くなったっていう母の写真になんとなく似ていて安心するんだ。見慣れ過ぎた白い壁、白い床、白い天井。この女性の衣類もすべて白。慣れたんだけど、あの頃、父とふたりきりだったあの部屋とは違う。だって、ベッドがあるし、個室トイレも洗面台もある。線がたくさん繋がれた黒いあのマシンはなくて、そう、すべてが白なんだ。視線を自分に落とすと、自分の着ているものも白だ。
そしてふと、俺はある場所に目をやる。
窓の全くないこの白い部屋の、ある壁に付けられた五十センチ四方程度の枠。額のようなそれだけが、唯一この部屋で色を付けていて。今は桜の花が見える。何か機械で制御されているんだろう、時々、この部屋からはわからない外の季節を表している。と、俺は感じている。部屋の温度は一年間いつでも一定みたいだけど、その額の景色からすると、きっと今は春なんだろう。
その額の桜の花の前まで歩いていくと、俺はそれをじっと見た。
この額の向こうから自分が監視されていることなんて知らずにさ。
「どう?智也くん」
「相変わらずですね、未来を何度もやり直した話ばかりしてます」
「父親が未来の見れるシステムを作っていたなんて、よくそんな作り話を毎日できるもんだ」
「ほんとに。100回目でもう未来に自分はないと判断したんですってよ。それで101回目の未来を見ようと父に言われた日、研究所にアルコールとライターを持ち込んだそうよ」
「まあ、確かにあの当時、ある研究施設が燃える事故はあったし、実際に智也くんの父親も焼死している。でも、未来を見れるシステムなんて本当にあったのかどうだか、真相はわからないままだろう?」
「消火システムはすべて作動しないように細工がされていたとかなんとか。それを自分がやったって前に智也くん言ってたかな。でも、あれからもう二十年、ずっとこのpsychiatry departmentにいるのよ?連れられてきた十二歳の頃から、もう彼は精神的に変なのよ」
「まあ、未だに夢のような話を毎日続けている状態だからね、一生ここで暮らすことになるんだろうな、可哀想だけど」
そうだ、さっきのあの女性は春日井さんだ。名前を思い出した。もう少ししたら夕食を運んできてくれるはずなんだ。少しわくわくしながら時間を待つ。時間を待つと言っても、時計がないから、なんとなくの自分の毎日の感覚で女性を待つ。
少ししたら、扉が横にスライドするように開いて春日井さんが入ってきた。
「夕食でしょう?」
「さすが智也くん。体内時計は相変わらず完璧ね」
「ねえねえ、これ食べたらまた話聞いてよ。今度は78回目の俺の未来の話。今度は小学校の先生になるんだ」
そう、こうやって毎日。今までもこれからも、俺は100回分の未来の話をするんだ。そうやって話をする今が、実際の101回目の俺の未来だ。
2015/02/27 AM00:50
WORKS>>Ai Ninomiya*
『Twitter』
煙草を吸っていた。コンビニを出てすぐの、自転車置き場の脇で。別になんてない光景で、コンビニの袋を手にしたおっさんが駐車場に停めた車に向かって歩いていた。陽が落ちようとしていた。コンビニは大通りを曲がったところにある細い道路に面して立っていて、大通りを通り過ぎる救急車の音が聞こえる。なんとなく視線をスマホから大通りのほうへとやった。
通り過ぎた救急車のあと、大通りから曲がってきた女の子が目に入った。俺と近しい年齢の、女の子。スマホをいじりながら歩いていた。長い髪が邪魔していたけど、イヤホンをしているのは白いコードが見えたことでわかった。なんとなく視線をやって、そのまま開いていたTwitterに文字を載せた。
-可愛い女の子が通ってった。ちょっとタイプww-
大したことのないツイート。なんとなく載せただけ。溜まってきた煙草の灰を軽く指で落とすと、もう1度煙草を吸った。それで俺は、もう煙草の火を消した。
-どんな子?誰似?-
リプが入った。親友のシンヤだ。
-はしもとかんな-
-マジ?めっちゃ可愛いじゃん。声かけろよ-
コンビニの店先で俺は返信を打った。シンヤからのリプを見ると、そのまま画面を閉じて家に向かって歩いた。さっきの子が歩いてった方と、うちの家の方角とは一緒で、なんとなくまだ追いつくかなって期待をしながら歩いた。けど、さっきの女の子はいなかった。
住んでるハイツに着く頃、街灯が付き始めた。足元の明るくなった階段を登りながらポケットからスマホを取り出した。
-見当たらなかった、さっきの子-
シンヤに返信を入れると俺は鍵を開けて家に入った。
今日はもう何も用がなくて、ゆっくりビールでも飲もうと思って買ってきたとこだった。先にシャワーを浴びて、適当に冷蔵庫にあるものでつまみを作った。フライパンから皿に移すと、それを持ってソファに座る。皿をテーブルに置こうとして気づいた。スマホの画面にリプの表示があった。
-声かけてくれればよかったのに-
気になって急いで画面を開いた。さっきの、可愛い女の子が通ってったっていうツイートに対してのリプだった。は?なんだこれ。リプを入れたのはシンヤではない。アイコンは卵のままで、名前は・・・[はしもとかんな似]となっていた。
悪戯かよ、と思った。そのままスマホを置いてビールの缶を開けようとしたら、またリプの表示が出た。
-今外にいるよ-
外?なんとなく、部屋に面した窓から外を見た。居るわけ・・・ないか。そしたら音がした。玄関のほうだった。そっち?俺は玄関のドアのほうに向かおうとした。けど、なんとなく足を止めた。音をたてないようにゆっくりとインターホンモニターに近づいた。表示をONにする。ゆっくりと外の映像と音だけをそこに映し出す。
そしたらそこに、居たんだ。さっきの女の子が。
一瞬訳が分からず戸惑って、次に頭で思ったのは追いかけろ!だった。俺はそのまま玄関に向かってドアを開けた。けどそこには誰も居なくて、俺は階段のほうに向かった。ここは一カ所しか階段がないから、そこに向かうはずだ。三階。これ以上の階はない。行くなら下だ。追いかけるけれど、足音もなければ誰の姿もなかった。
「足早すぎねえか?」
息を切らして1階まで降りると、ハイツの前の道路をきょろきょろ見回してみる。けれど、やはり誰の姿もなかった。そのまままた、俺は部屋に戻った。
テーブルに置いたままのスマホがまた、リプの表示を出している。
-今度は私がツイートするね-
は?どういうこと?誰だ?こいつ。俺はそのまま、シンヤに電話を入れた。
「もしもし?」
暇してんだろう、さっきもリプすぐにくれたし。シンヤはすぐに電話に出た。
「あのさ、さっきの俺のツイート」
「どれ?」
「はしもとかんな」
「あぁ、さっさと声かけとけばよかったのに」
「そうじゃなくて、俺にリプしてきたやつがいて」
「リプ?」
「見てくれよ、お前以外にもう一人リプしてきたやつがいるんだ。はしもとかんな似って名前の」
「なんだそれ」
シンヤは電話の向こうで笑ってた。
「とにかく見て、早く」
「ちょ・・・待てよ。今パソコン開いてたとこだから」
俺はそのままシンヤの返事を待っていた。向こうでマウスの音がする。
「誰もいないけどなあ。お前のここ最近のツイートにリプ入れてるやつなんて」
「いるだろ?卵のまんまのアイコンの」
「いないって。さっきの俺とのやりとりだけだぜ?それともそいつ、鍵付き?」
「ちょっと待って」
俺はいったんスマホから耳を話すと、Twitterアプリを開いた。ほら、あるじゃないか、リプ。俺はそのアカウントをメモると、またスマホでシンヤに話しかけた。
「鍵はかかってない。えっと、アカウントは・・・」
不規則なアルファベットと数字が並んだそのアカウントを電話で伝えた。シンヤはそれをキーボードで打ってるみたいだった。また、音がする。
「いや、存在しないって出るけど?何か間違ってんじゃねえの?」
「そんなはずは・・・。それにさっき家の前に」
「家の前?」
「いや、いいよ」
俺はそのまま電話を切って、またTwitterの画面を見た。やっぱり、あるじゃないか、リプ。それにさっきのモニターに映ったあの子、何なんだよ。
わけがわからず、スマホの画面をいったん閉じた。すっかり冷めた料理に視線をやって、俺は開けかけていた缶ビールを手に取った。気にならないわけじゃないけど、気にしすぎるのも頭が変になりそうだ。俺はビールを一気にグッと飲んだ。
それから、少ししてだ。どれくらいだ?五分くらい?いや、十分くらい。考えにならない何かを考えようと、ビールだけを飲んではやめ、考え、まとまらず。女の子の顔を思い出していた。モニターに映ったあの子、笑顔でこっちをぜったいに見ていた。それで、急に女の子が手を挙げて、何か持ってたな。
そこまで思い出した時、スマホのリプ表示がまた出た。
-かっこいい男の子と目が合った-
は?開くと、また卵のアイコンだった。さっきの子だ。目が合った?いつ?
そのツイートには画像が添付されていた。
「・・・なんで?」
それは俺の写真だった。でもこれ、何処で?いつ撮った?なんとなく視線を自分の胸のあたりに落として気づく。今の俺の服装だ。これ。髪も濡れてる。今?家の中にいるのか?もしかしてさっき俺があの子を探しに家を空けた時に中に入っていたとか?立ち上がると俺は家の中にあるドアというドアを全部開けた。小さなベランダも、押し入れ、トイレや洗面所の物置もすべて。けどどこにも誰もいない。
その時気づいた。さっきからスマホが鳴ってんだ。それはあきらかに何かを知らせる音だ。もう一度スマホを開くと、俺はその表示に驚いた。俺の写真を添付したあの子のツイートがリツイートされまくっているんだ。数百だったのが、見ている間にどんどん増え、数千に。まだまだ増えている。そのたびにスマホが通知の音を鳴らしていく。
「なんで?どうして?何なんだよ!」
リツイートがどんどん増えて、俺は思わず返信を入れた。
-やめろよ。勝手に写真撮って、何なんだよ?-
-だって、さっき目が合ったでしょ?かっこよかったから-
-目が合うも何も、俺はあんたと会ってない-
-目が合ったよ。モニター越しに。写メっちゃった、すてきだったから-
モニター越し?写メ・・・ってさっきの?通知が鳴り響くスマホの、ツイートを遡って俺はさっきの写真を見た。完全にカメラ目線の俺の写真。そう言われれば、モニターを見たときの、あの。あの子が手を挙げて、何かを持っていたあれって。スマホ?でも向こうからモニターなんて見れないだろ。こっちからだけだろ?写メるなんて無理だろ?
そしたらスマホが急に真っ黒になった。
「え?壊れた?」
電源ボタンを長押ししたりしてみるけど反応がない。え?マジかよ。いろいろいじっていたら、また表示が出た。
-だから、なんでも好きかってツイートしてんじゃねーよ-
え・・・?さっきの、卵のアイコン。表示が出たと思ったらスマホがスムーズに起動して、俺はすぐにTwitterを開いた。
「え?」
自分のツイートを遡る。ない。さっきのやりとりが全くない。シンヤとのやりとりも。まず、一番最初の、[可愛い女の子が通ってった。ちょっとタイプww]ってツイートから全てがない。その前に呟いたやつを最後に俺のツイートは全くなかった。
慌てて電話を入れた。シンヤにだ。
「もしもし?」
「シンヤ?なんかおかしいんだ、さっきのTwitter。ツイート全部消えた」
「は?さっきのって?」
「はしもとかんなだよ」
「何言ってんの?」
「さっき話しただろ?可愛い子がいるって。お前声かけろってリプ入れただろ?」
「お前こそ何言ってんだよ。俺今日は誰ともTwitterしてねぇよ」
「は?」
「ボケてんじゃねぇの?」
確かに。何も俺のツイートはない。探してみたけど、[はしもとかんな似]って名前も、さっき俺がメモったアカウントも存在しなかった。
「目が・・・合ったんだろ?誰なんだよ、あんた」
どうしても、俺の勘違いなんかに思えないんだ。だってさ、俺のスマホの写真フォルダに、あの子が撮った俺の写真が残ってるんだからさ。
2015/11/02 PM22:23
WORKS>>Ai Ninomiya*
『針と糸』
僕には針と糸が付いている。いや、僕、ではなく、人には針と糸が付いている。誰も知らない、たぶんだけど。僕にはそれが見えていて、人はそれぞれ、毎日自分を縫いながら過ごしていく。
大きなその針は、僕の体の一部を刺し、しっかりとした黒い糸が僕を縫っていく。小さい頃から見ているそれは、どうやら他の人には見えていないらしい。誰にでもあるのに、針と糸が。
それを自分で操れることに気づいたのは中学の頃だ。当たり前のように僕を縫っていく針に、ある時僕は触れてみた。とても長くて太くて尖った針だ。だけどその先端に触れても何も感じない。針をグッと押してみた。そしたら、風景が変わった。何のことだかさっぱりわからなかった。自分の部屋に居たはずなのに、僕はリビングのソファに居た。
「ほら、ご飯だって言ってるのにいつまでそこに座ってるの。食べないならいいけど」
「そうだぞ、いつになったら食うんだ?」
母がキッチンから僕に声をかけた。父もテーブルに手をかけて立ち上がると僕を見ていた。
「俺、いつからここにいた?」
「何言ってんの?もう十分以上も呼んでも無視して、いい加減にしてよね」
怒られた。僕の記憶では、リビングのソファではなく自分の部屋に居たんだ。その時なんとなくまた僕はその針に触れてみた。少しだけ押し込んださっきの針を今度は少し戻すように引っ張ってみた。そしたらまた、風景が変わった。学校からの帰り道だった。二時間ほど前に通った道。二時間ほど前にすれ違って挨拶をした友達のお母さん。また同じ挨拶をする。二時間ほど前に見た風景だった。
この針は僕の時間を縫っている。だから、早く進みたかったら縫い進めればいいし、戻りたかったら抜いてやればいい。ただ、どう頑張ってみても、1度縫い終わった糸は僕の体から抜けなかった。ということは、やり直しの効くのは刺さった針が僕の体を抜け切るまで、に起きた時間だ。抜け切る前に戻してやれば僕の毎日は融通が利く。
それからすぐの運動会で、僕は1000mのリレーに出た。一人200mを五人で1000mを走る。一番走者だった。合図が鳴って、僕はいいスタートが切れた。一位ではなかったものの、僅差で二位をキープしたまま。次の走者にバトンを渡す手前で、僕は大きく転んだ。靴ひもがほどけてそれを自分自身で悪い踏み方をしてしまったのだ。どんどん抜かれて僕は一気に最下位になった。カッコ悪いし、情けなかった。その時だ、思い出したんだ、ちょうど今は左腕を縫っている途中の僕の針を。立ち上がりながら僕は、その針を少しだけ、戻した。
目の前にある風景は、少し前。僕を含めた一番走者が準備をしている段階だった。余裕だ。やり直せる。靴紐をグッと結びなおすと、今度の僕は転ぶことなく二位でバトンを次に繋いだ。
人生楽勝だ。針と糸が見えている。その時点で僕はこの世の運を勝ち取ったようなもんだ。
ところがこれを扱うにはちょっと工夫がいるらしい。期末テストの時だった。問題を書かれた用紙と答案用紙がそれぞれ配られていく。面倒くさい。テストなんて、さっさと終わってしまえばいい。僕は、答案用紙に名前を書くと、一気に針をグッと刺した。だいたいは、やり直しのために針を戻すことばかりだった。だけど今回は先に進めようと針を押し進めた。初めて針を触った時と同じだ。時間が先に進む。この行動は失敗だった。進んだ先の僕の時間は、期末テスト一日目が終わっていた風景だった。その時点で帰り際、先生に呼び止められた。
「おい、どうしたんだ?具合でも悪かったのか?それとも何かのメッセージのつもりなのか?」
「何ですか?どういう意味ですか?」
「今日の三教科、一教科目は名前だけ、あとの二教科に関しては何も書いてない。どれも答案用紙が白紙だったじゃないか。いつも成績のいいお前が、どういうことなんだ?」
は?白紙?たしかに、一教科目の答案用紙に名前を書いて、そこで針を押し進めた。進めたその時間は、もしかした空白になるんだろうか?そうだ、初めての時だって、僕は自分の部屋からリビングに移動した時間を覚えていない。マジかよ。面倒くさい。けど仕方ない。そんなときのための針だ。僕はまた、針を少し戻した。一から期末テストをやり直すために。
上手く使えばいいんだ。自分の人生なんだから。そんな感じで今日まで生きてきた。
今夜は大学時代の友人に誘われたOB会という名の合コンだった。僕は別に何のサークルにも入ってなかったんだけど、頭数に入れられて遊びに行った。その中に、ひとり、僕をずっと見ている女の子が居た。まだ二十代前半の可愛い子だった。場が盛り上がってきた頃合で、なんとなく席を立つと、個室から店の廊下に出た。別に何の用もない、ただ、僕はそこで立っていただけだ。そしたらやっぱり、あの子が個室から出てきた。
「何をされてるんですか?」
「ん?」
「部屋を出て行ったきり、帰ってこられなかったから」
そういう彼女を壁際に寄せるようにして顔を近づけると、照れるように上目遣いで僕を見る。ほら、やっぱり。わざと出てきたんでしょ?僕はにっこり笑った。
「もしかしたら、出てきてくれるかな、と思って」
そのまま僕はその子を連れて店を出た。そこから一番近いホテルを探してふたりで入った。
「どうして出てくるかもって思ったんですか?」
「だって、ずっと俺を見てたでしょう?」
裸で抱き合ったまま、彼女は甘えるような声で僕に問いかけてくると、きれいに塗られた指先の爪で僕の唇にそっと触れた。その手を掴むと僕はキスを返した。
「ちょっとシャワー浴びてくる」
僕が湿ったベッドから起き上がると、彼女はシーツを手に取って自分の体を隠すようにした。もう体の全てを知ったあとなのに、今更まだそうやって恥じらうのかよ。けど、そういうフリはもういいよ。何度となくいろんな女を知ってきたからさ。
ホテルに行くときには浴室がベッドから見えない位置にある部屋を選ぶ。シャワーを出すと、音が聞こえるように水圧を最大にする。そのままゆっくりと、シャワーを浴びずにベッドの上の女の様子を伺いに戻る。なんとなく、こういうのが癖になってきた。もう何度もこういうことを繰り返してるとね。
ほら、やっぱりだ。スマホをいじっている。誰かとやりとりをしている。それは、スマホをいじるタイミングでわかる。文字を打って。返信を見る。そしてまた、打つ。誰と何を話しているのかは知らないけれど、その後スマホから視線を外すと、僕の脱いだ衣類を床から拾い始めた。探してるんだろう?ほら、やっぱり。彼女はゆっくりと僕の財布を拾い上げると、中を開いた。またそういうの目当てだったのか。
「何してんの?」
いじわるっぽく僕は彼女の前に姿を現す。シャワーの音を聴きながら。そして僕は、自分に刺さった針をそっと戻すんだ。
時間は、さっきの居酒屋の個室に戻る。今日はこの子を誘うのはやめにしよう。彼女と寝た記憶は僕の過去になる。彼女の香りも柔らかさも、イク瞬間の気持ちのよさも、全て過去だ。ただし、それは僕だけの過去で。実際には全く存在しない過去。だって、針を戻してやり直したんだから。やり直した最後の一つだけがリアルな過去になる。
そうやって、僕はまだ32年しか生きていないのに、もうたぶん、合わせると100年くらいは生きてるんじゃないだろうか。同じ時間をやり直して。記憶ばっかりが増えていく。だけど半分以上が存在しないもので、僕しか知らない時間だから、誰に話せるでもなく膨らんでいくばかりなんだ。
苦しくて、長くて、いつになったら僕の人生は終わるのかって、時々葛藤するんだ。この針と糸を見ていると。黒い糸が憎らしく見えてくる。どうして僕にだけ見えるんだろうか。
そしていつもここにたどり着く。この糸を切ってしまったらどうなるんだろうかって。怖くていつも思うだけでやめてしまうのだけれど。抜いたり刺したりしながら針をいじって、糸ばかりが僕をしっかり丈夫に縫い固めていく。
けどそろそろ、切ってみてもいいかなって思った。普通のハサミで切れるのかな、これ。恐る恐る刃を当ててみる。だけど糸は硬くてびくともしなかった。なんだよ。今度はハサミをきちんと持ち直してグッと力を入れてみた。一瞬目を閉じて、息をのみながら力を入れたのに、切れはしなかった。やっぱり、こういうのは勝手には切れないんだな。
しっかりと黒いその糸を、遊ぶように俺は手で持ってグッと引っ張ってみた。
え?
記憶っていうのは、ここで途切れている。それぞれ人を縫っているその糸っていうのは、この世の作り物のハサミでは切れないくせに、自分自身の手では案外簡単に切れるらしい。
僕は、自殺という人生の終わり方をこの世に残したんだそうだ。
2016/02/07 PM16:23
WORKS>>Ai Ninomiya*
白い本