おじいちゃんの婚活1

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おじいちゃんの婚活1

 里永比奈子は、自転車のサドルに座ったまま、アスファルトで舗装された地面に一度足をついた。真夏の太陽がじりじりと若い肌を焼き、今年初めて袖を通した真新しいセーラー服が背中にべとりと張り付く。目の前にそびえ立っているのは、延々と続く急勾配の上り坂だ。比奈子は額に滲む汗を乱暴に腕で拭った。目的地は坂の中腹にある祖父の一軒家だったが、ここに至るまでに比奈子はすでに汗まみれになっていた。通学に使用している自転車の籠には、ナスとオクラの揚げ浸しと焼いたししゃもが入ったタッパーが保冷剤を伴って鎮座している。
 本日の比奈子のミッションはこれを祖父である村上勇吉に届けることだったが、この坂を自転車で登り切ることは一五才の若さをもってしても些かの躊躇を覚えた。しかし、坂の上では祖父が腹を減らして待っている。
 比奈子は、覚悟を決めると、意志の強そうなきりりとした目を坂の急勾配に向けた。そして、肩まで伸びた髪をヘアゴムで高く結い上げ、えいや、とペダルに体重を乗せた。自転車のチェーンが鈍い音を立てて稼働し始めたその時、比奈子の直ぐ後で、少し間の抜けた柔らかいクラクションの音が響く。振り返ると、見覚えのある渋いエンジ色のミニクーパーの姿が見えた。ミニクーパーは比奈子の真横で止まると、開いていた窓から見知った人物が二人、顔を出した。
 「よう、日曜だってのに制服か。またひでぇ汗だな」
 助手席に乗っていた佐々木一郎が先にダミ声を響かせる。午前中は部活があったから、と答えると、そりゃあいい、若いうちは身体を動かしておくもんだ、と、豪快に笑った。この春、自宅近くの女子高に進学してから書道部に所属していると都合五回程伝えているはずだったが、比奈子は曖昧に笑ってやり過ごした。
 今年七0才になる一郎は長年大工の棟梁をしていて、小柄な老人だが、むやみやたらと声が大きい。つるりと禿げ上がった頭に巻いた手ぬぐいと作務衣の着こなしも実に堂に入ったものだった。
 「俺もこの足じゃなかったら、こんな坂ぐらい屁でもねえんだがな」
 一郎は春先に仕事先で足を骨折して以来ずっと左足にギブスをしていた。つい数日前にギブスがとれたと聞いたが、一郎の年では五体満足でもこの坂は厳しいだろう、と比奈子は思った。思ったが口にはしなかった。比奈子は聡明な女子高生なのだ。
 「やあ、比奈ちゃん、こんにちは。こう暑いと比奈ちゃんも大変だろう。上まで乗って行くといい。なに、目的地は一緒なんだから」
 奥の運転席から声をかけてくれた佐伯周は、比奈子の祖父である勇吉とは尋常小学校の頃からの同級生という、筋金入りの幼なじみらしい。スマートな体つきの彼はいつも三揃えのスーツを着ていて、立派なカイゼル髭を蓄えている。今日はそれにハンチング帽を被っていた。帽子の縁から覗く軽くウエーブのかかった豊かな白髪が一段と洒落て見えた。彼は御年七五歳になるというのに、やたらと姿勢がいい。今も、運転席に座ってさえ背中に定規を当てているかのようにまっすぐな姿勢を保っている。並んで立つと、比奈子よりも視線が高いところから鑑みるに身長は一七0センチくらいありそうだ。この年代の人にすればかなりの高身長で、そして、多分、かなりおしゃれな人なのだろうと比奈子は思う。多分とつくのは、ご老人のオシャレについて、彼女はあまり詳しくないからだ。元もと大学で英文学だかフランス文学だかの教授をしていたところ、めでたく定年退職となり、今はどこぞの大学院で名誉教授と呼ばれているらしい。言われてみれば英国紳士とはこういう感じの人物像なのかもしれない。比奈子は実物の英国紳士とやらを見たことがないので、単なるイメージの産物でしかないが。パリジャンだと言われればそんな気もする。イギリスもフランスも地理的に近そうであるし、きっと似たようなものだろうと比奈子は勝手に納得する。英国紳士とパリジャンに怒られそうだが、恐らくパリとバリほどの違いはないはずだ。比奈子は欧州文化にあまり詳しい高校生ではなかった。
 「一郎おじさん、周おじさん、こんにちは。自転車を置いておけないのでこのまま、登ります。荷物だけ先に持って行ってもらえますか。お料理が傷んじゃうといけないから」
 おお、と一郎が歓声をあげる。
 「ありがたいねえ。独り身には家庭の味が沁みらぁな」
 二年前に長年連れ添った奥さんと熟年離婚した一郎は、家庭の味とやらに飢えているらしい。少し寂しげに見えたが、やはり比奈子は何も言わなかった。彼女はヨソサマとの適切な距離を測れる賢明な女子高生でもあるのだ。
 「じゃあ、先に行くけど、くれぐれも無理をしてはいけないよ。熱中症に気をつけて」
 そう言って、周は汗をかいたお茶のペットボトルとともに、自分の被っていたハンチング帽を脱いで、一郎に手渡した。比奈子に渡せということらしい。
 「あ、私、汗をかいているので、帽子は」
 そう言って断ろうとすると、一郎がまた大きなダミ声で豪快に笑った。
 「おうおう、聞いたか、周さん。あの小さかった比奈ボウズがいっぱしに遠慮を覚えたみたいだぜ。俺たちも年を取るわけだ」
 比奈子は赤くなって俯いた。幼い頃のやんちゃの数々を知られている身としては、反論の余地がない。脛に傷がありすぎる。周は無言で咎めるように一郎の膝をぴしゃりと打つと、運転席から身を乗り出して、比奈子に手招きをした。その、手招きに応じて、勢い車内に向かって身を乗り出した比奈子の頭に周が運転席から手を伸ばし、自分の帽子を乗せる。
 「帽子とは本来、そういうものだよ。気にせず使いなさい。じゃあ、先に行って待っているからね」
そう言って、周は車を発進させた。坂道をえっちらおっちら登っていくミニクーパーを眺めながら、きっと若かりし頃の周はさぞかしモテていたのだろう、嫌みなくらいできた爺さまだと、比奈子は思った。比奈子の被ったハンチング帽からは、コロンだか香水だかよく分からないが、とにかくやたらいい匂いがした。


 比奈子の祖父である村上勇吉の家は、長い長い上り坂の中腹にある平家建の一軒家だ。勇吉が寝室として使っている六畳と、リビング代わりのハ血畳間、それに客間と台所に風呂とトイレという実にシンプルな日本家屋だった。こじんまりとしてはいるが、小さいながら庭と縁側があり、そこは比奈子のお気に入りの場所となっている。
 勇吉の家の前にはミニクーパーが止まっていた。車を避けて、自転車を止めていると、垣根の切れ間から勇吉がひょいと顔を出した。
 「ああ、比奈子よく来たね」
 そこそこの紡績会社の二代目として生を受けた勇吉は、なんとか昭和の荒波を乗り越え、会社を潰すこともなく社長としての職務を全うした後、現在は悠々自適の老後生活を送っている。現役当時から仏の勇吉と呼ばれるほど温厚な性格で、その生来のお坊ちゃん気質が顔に表れているのか、笑いじわの深く刻まれた柔和な顔立ちをしていた。
 「こんにちは、おじいちゃん。何をしてるの」
 脇の低い生け垣から庭をのぞき込むと、勇吉は部屋着につかっている紺色の浴衣の裾をたくし上げ白いパッチも露わにした夏定番のスタイルをしていた。中肉中背というには些か目方の足りない体格だったが、長年、着物を愛用していることもあってさすがに様になっている。
 勇吉の足元には、なにやら巨大なズタ袋のようなものが広げられていた。大きさでいえば丁度クリスマスにサンタクロースが担いでいるくらいのサイズだったが、如何せん袋にしては形が歪すぎる。布の端からひょろりと短い紐のようなものが垂れていて、布の真ん中と思しき所に黒い栓のようなものがついていた。どうやら中に何かを詰めて持ち運ぶためのものではないようだが、その布の用途がさっぱり分からない。素材はやたらと固い繊維でできているようで、どことなく鈍い光を放って見えるのは、何かしらの金属が錬りこまれているからだろうか。
 「これ、何に使うの」
 素直に問いかけてみると、ああ、これかい、と勇吉は額を伝った汗に目を細めながら、立ちあがる。
 「ほら、一郎が足を骨折しただろう。座ったり立ちあがったりに難儀してるというから、ちょっと作ってみたんだよ」
 言いながら、勇吉はどっこらしょっと声をかけて緩やかに腰を折るとひょろりと出ていた紐をぐっと引っ張った。紐は思いの外スルスルと伸び、同時にバフンと音をたてて歪な袋が空気を孕んでみるみる膨れ上がる。五秒後にはちょうど立ちあがるのにふさわしい丈を有する簡易のソファが立ちあがっていた。
 「すごい、おじいちゃん!これ、自分で作ったの」
 比奈子は興奮して、目をキラキラさせながら生垣から乗り出した。
 「会社の方にまだこの布が余っていたようだからそれを貰って来たんだよ。空気を抜けばまたただの布に戻るから場所もとらないしね」
 「どうやって布を椅子の形にしてるの」
 「この素材は一定の圧力がかかるまでは伸縮性も高いから、場所によって布地の厚さを変えてやればいいんだよ。空気を入れるには、救命胴衣とかと同じで炭酸ガスボンベを使うからこれはまだ改良しないとね」
 そう言って笑う勇吉はどこか子供のように無邪気で、比奈子はおじいちゃんすごい、と惜しみない賛辞を贈った。
勇吉が布の端についている黒いキャップをくるりと回して外すと、簡易ソファはへなへなと形を崩し、もとの布に戻っていく。
 「さて、比奈子、今日はお前が来るからスイカを冷やしておいたんだ」
 そう言って勇吉が目で促した先には、なみなみと水が張られた金属製の盥があった。氷の塊とともに大きなスイカが涼しそうにぷかぷかと浮かんでいる。
 勇吉がしゃがんでそのスイカを持ち上げようとするので、比奈子は慌てて制止の声をあげた。
 「いいよ、おじいちゃん。そんな重そうなの。後で私がやるから」
 「はは、これくらい何でもないさ。歳はとっていても、おじいちゃんはお前のおじいちゃんなんだよ。孫のためのスイカぐらい」
 言いながら、勇吉はよっこらせと実に老人らしい発声で、しっかりと身の詰まった重たげなスイカを持ち上げ、何とかそれを盥から引き上げることに成功した。比奈子は、スイカを持ち上げた腕がぷるぷると痙攣し、多少足腰がよろけていたことは見なかったことにした。比奈子のためにとわざわざ端折り上げた浴衣を濡らしてまでスイカを用意してくれる、この優しい祖父が比奈子は大好きだった。勇吉は、額に浮き出た汗を袂で拭う。心なしか誇らしげな仕草だった。勇吉は縁側にそのスイカを置くと、広げたままになっていた布を回収にかかる。硬そうな見た目に反して布はするするとしなやかに勇吉に腕の中で反物のように丸まっていった。
 「周達が先にごちそうにありついているから、お前も手を洗って早く居間に来なさい。食べ物が無くなってしまうよ」
 汗で白い額に張り付いていた比奈子の前髪を整えてやりながら、細面の柔和な相好を崩して、勇吉は孫娘を急かす。比奈子は急に自分が小さな子供に戻ってしまったような気分になって、はぁいと甘えた返事をしてしまった。
 言われた通りに洗面所で手を洗ってから居間に入ると、先ほどまで比奈子の自転車の籠のなかにあった料理がタッパーごと座卓に並べられていた。座卓の周りには周と一郎が陣取っていて、各々の小皿とグラスを用意し、すでに宴会が始まっている。
 比奈子の祖父である村上勇吉とその幼なじみの佐伯周、そして佐々木一郎は、四,五年前から、悪童の会と称して月に一,二度この変な会合を催していた。料理を作るのは比奈子の母であり勇吉の実の娘である弥生で、それをこの家に運んでくるのが比奈子の役割になっていた。
 「おお、ヒナ公やっと着いたか。どうだ、駆けつけ三杯」
 そういって、すでに赤ら顔になった一郎がビール缶を手にするが、即座に横に座っていた周が、また一郎の膝をぴしゃりと打った。
 「やあ比奈ちゃん、いつもありがとう。冷蔵庫に比奈ちゃん用のサイダーを冷やしておいたから、それを飲みなさい」
 にっこり笑って周が促すので、比奈子は、はいと応じて台所に向った。
 冷蔵庫の扉を開けるとそこにはこれでもかというほど大量の缶ビールと、それに押しやられて、隅で潰れているスーパーのお総菜パックがあった。比奈子も毎日、勇吉の家に足を運べるわけではない。勇吉は一三年前、比奈子が二つの時に連れ合いを亡くしてからずっと一人でこの家に住んでいる。勇吉はいつもこんな食事をしているのだろうか。
(おじいちゃんもウチか、勝司伯父さんと一緒に住めばいいのにな)
 ここに来るといつもそう思うのだが、何やら大人の事情があるらしく実現する見込みはないらしい。比奈子もその辺りの話にはあまり首をつっこまないことにしていた。
 居間では、爺さま三人が雁首揃えて何やらどうでもいい話題で盛り上がっている。こういう姿を見ていると、齢七十を越えるご老人方も比奈子が中学生だった時のクラスの男子も大して変わらないように思えた。
 サイダーの入ったグラスを持って居間に入ると、一郎が件のソファに空気を入れて、ご満悦な様子でビールを呑んでいた。
 「いやあ、勇吉っさん、こいつはいいや。高さも調節できるし持ち運びもできるじゃねえか。足を折っちまってからこっち、立ちにくいは座りにくいわで難儀してたんだよ」
 「よかったら持って帰るといいよ。一人だとなにかと不便だろうからね」
 周が感心したようにしげしげと簡易ソファを眺めた。
 「勇吉、お前は昔から本当に手先の器用な男だなあ。この繊維も昔、お前の会社で作っていたんだろう」
 酒のせいか、それとも照れているのか僅かに耳を赤くした勇吉がへにょっと頼りなく笑う。
 「若い頃の話だよ。今の会社は紡績から、あの、ほら、なんだったかな、比奈子」
 サイダーの入ったグラスを持って座った比奈子に、勇吉が苦手な横文字業界の名称を聞く。
 「アパレル関係よ、おじいちゃん」
 「そうそう、アパレル関係に力を入れているようだから、もう必要のない技術だよ」
 教えた比奈子も教わった勇吉もアパレル関係とは一体何に関係した業種なのかさっぱり理解していなかったが。
 「老兵は黙って去りゆくのみってか、やってられねえやな」
 何か自分とだぶることでもあったのだろう。一郎はそう言って、ぐいっと一息にビールを飲み干した。


 それから数十分後、周がなにやら哲学なのか文学なのかよく分からない抽象的なお説教を滔々と一郎に言って聞かせ、勇吉はにこにこしながらそれを聞いている。当の一郎は、一人でビールから日本酒に切り替え、聞いている素振りも見せない。いつもの光景なので、比奈子は気にも留めず、居間の端にある仏壇に手を合わせた。
(おばあちゃん、ご先祖様、こんにちは比奈子です)
 心の中で挨拶して、脇の壁に設置されている代々の遺影に目をやる。曾祖父と曾祖母、それに勇吉の妻である千代子の写真が並んでいた。一代で紡績会社を興し、軌道に乗せた曾祖父の達治は、立派な眉に彫りの深い顔立ちをしていて、勇吉とはあまり似ていない。現在の社長であり、平成不況を乗り切るべく紡績繊維業界からアパレルファッション業界へ大きく舵を切り、なかなかのやり手だと言われている伯父の勝司はこの曾祖父によく似た面差しをしていた。隔世遺伝というものだろうか。そして、あまり認めたくない事実であるが、比奈子もこの二人と同じ系統の顔をしているらしい。とすると、自分も歳をとるとこんな立派な眉毛になるのだろうか。それはあまり好ましくないなと、一人で顔を顰めていると、急に後の宴の席で、野太い泣き声があがった。
 ぎょっとして振り返ると、いつの間にか作務衣を脱いで上半身裸にになった一郎が、簡易ソファから転がり落ち、上野のパンダよろしくごろごろ畳の上を転がり号泣している。
 「祥子~、祥子~」
泣きながら呼んでいるのは、二年前、
 ごめんなさい。別の人を愛してしまいました。捜さないでください。
という置き手紙と判をついた離婚届を置いて姿を消した一郎の奥さんの名前だった。
 「祥子~、祥子~」
 悲しそうに呼ぶ声は、母親を見失った迷子のようだと思ったが、その祥子さんが傍らに居たとき、少なくとも幼かった比奈子の知る限り、一郎は祥子を大切にしているようには思えなかった。比奈子は一郎の奥さんの名前が祥子であることを、当の祥子さんが消えてから知ったくらいだ。それまでずっと一郎は奥さんに声をかける時は、おい、だの、やい、だのと言っていて、名前を口にすることがなかったからだ。比奈子はずっと彼女のことを佐々木のおばさんと呼んでいた。
 大工の棟梁という職業柄なのか、一郎は人に対して些か乱暴な態度をとる傾向がある。本当は情に脆く、比奈子のような子供に決して本気で怒鳴ったりはしないし、周にまったく頭が上がらない一郎の姿を知っている比奈子としては、そんな一郎が可愛らしく見えないこともない。しかし、その一郎が、奥さんに対しては、子供の比奈子でも眉を顰めたくなるほど横柄で高圧的な態度を取っていたように記憶している。佐々木のおばさんは一郎おじさんよりも少しだけ背が高く、びっくりするほど華奢な人だった。いつも俯きがちに、一郎の横暴な命令にはいはいと素直に返事を返し、常に一郎の三歩後ろに控えているような女性で、幼い比奈子は何度か一郎相手に、
 おばちゃんをいじめちゃ駄目、
と舌足らずな物言いで窘めたりもしたのだ。しかし、幼子の言い分など通るはずもなく、あの二人は何十年もああやって連れ添って居るんだからいいんだよ、子供が口出しすることじゃないと周りの大人に言い含められてきた。それで幼い比奈子は、佐々木のおばさんこそ、かの有名な大和撫子という生き物かと認識していたのだった。
その佐々木のおばさんが二年前のある日、忽然と姿を消してしまったのだ。しかも、理由が不倫の末の逃避行というのだから、大人の世界はわからない。
 むしろ、幼かった比奈子の見解の方が正しく、佐々木のおばさんが我慢できなくなったのも仕様がないのではないかと、比奈子は思っている。が、もちろん、口にしたことはない。
 「祥子~、何で俺を捨てて別の男なんかに」
 一郎は相変わらず一升瓶を抱きしめながら逃げた奥さんの名前を呼んでいる。可哀想な迷子の泣き声から捨てられ男の恨み節に変わってきているということは、大分とお酒が回ってきているのだろう。
 「いい加減にしないか、みっともない」
 窘めたのは周だが、酒が回った一郎は老人とは思えない機敏な動きで跳ね起き、座卓に、ドンと腕を乗せた。
 「みっともないとはなんだ。あいつぁ、俺を裏切ったんだぞ。俺は被害者だ」
 「祥子さんが出て行ったのは、お前が祥子さんに甘えて、ちゃんと大切にしなかったからだ、馬鹿者」
 「結婚したこともない周さんに言われたかねえな。夫婦には夫婦の阿吽の呼吸ってもんがあらぁな」
 「それで出ていかれているんだから世話はない。一郎、お前は独りよがりなんだよ。あげく、自分が被害者だとは何事か。見苦しいにもほどがある。」
 いつの間にかバーボンをロックで飲み出している周が、座卓を人差し指で連打し始めた。これは周が本気で苛立っている時の癖だった。
 「まあまあ、そんなに怒ってやるなよ。一郎君も足の骨を折ってから色々難儀して、感じるところがあるんだろうさ。周も独り身の寂しさを知らないわけじゃないだろう」
 勇吉が冷酒を手酌でお気に入りの薩摩切り子に注ぎながら、のんびり笑う。周は反駁しようと口を開くが、勇吉の柔和で静かな佇まいに不意をつかれたように、口を閉じた。
「僕もね、最近よく亡くなった家内を思い出すよ。いつもってわけじゃあ、ないけどね」
 生来のおっとりした性格のせいか、自分の心情を伝えることが不得手な勇吉は、手持ち無沙汰にグラスの縁を指でくるくると辿り、しっくりくる言葉を探すようにゆっくりと話した。
 「家内とは父さんの勧めで見合いをしてから三ヶ月で結婚して、それから、ちょっとずつお互いのことを大事に思うようになっていってね。お互い仕事と子育てに追われているうちに歳をとって、子供が独立して仕事を任せられるようになってから、これでやっと家内に楽をさせてやれると思った矢先に亡くなってしまったからねえ。家内はちゃんと幸せだったんだろうかとか漠然としたことを思うこともあるよ」
 言いながら、勇吉は、胸の内を晒すには未だ酔いが足りないとばかりに、勢いよく切り子に酒を足す。
 「こんな暑い日にはいつも蚊帳を張っていてくれていたなとか、よく冷えたスイカを出してくれたとか、庭をいじる時には必ず帽子と飲み物を用意してくれていたんだとか、そういう細々したこととかもね。もう、僕にそういう気遣いをしてくれる人はいないんだなあと思うと、何か、背骨が抜けるような、堪らなく居たたまれない感じになることがあるんだ。僕ももう七五才だし、そうそう先が長いわけでもないのにね」
 そう言って、長い自分語りを恥じ入るように、グラスの冷酒を一気に呷る。
 おじいちゃんがそんな風に考えているなんて知らなかった。
 少し乱暴な仕草で更に酒を進める勇吉は、いつもよりなんだか小さく見え、その様に悲しい諦観を見てとった比奈子は心が痛くなった。気がつくと一郎が一升瓶を抱いて、しくしくと声もなく泣いていた。
 居間に葬式会場のような陰鬱な沈黙が落ち、一郎のさめざめとした嗚咽だけが響くなか、周がバーボングラスを手にしたまま、すっくとその場に立ち上がり、その痩身からは想像も付かないような張りのある声をあげた。
 「諸君!七五は老齢であるか。然り、老齢である。では、七五は人生の終盤にさしかかっていると言えるか。然り、七五とはすでに人生の終盤である。では、ここで諸君に問おう。七五は若輩者に遠慮して、彼らの言うなりになる聞き分けのよい老人であるべきか。年寄りは年寄りらしく社会の片隅でひっそりと死を迎えるべきか」
ここまでを一息でしゃべった周は、唖然として自分を見上げる阿呆面の旧友二人とうら若き女子高生を、ぐるりと見回し唾を飛ばして先を続けた。
 「否、断じて、否である。我々は、我々の人生の最後を謳歌する権利がある。人として生まれ、男として人生を過ごし、今や残された時間も少ない我々から、人生の終の楽しみを奪う権利を、一体誰が有しているというのか。諸君、我々は今こそ行動するべきなのだ。行動するジジィになるべきなのだ。
Rage ,rage,against the dying of the light!!」
 老教授は、雄叫びの様に強く、叱咤するが如く鋭い声でそう叫ぶ。
 水を打ったような静けさが八畳間に滑り落ちてきた。酒が回って真っ赤になった禿頭が茹でたタコのようになっている一郎は、きょとんと、赤子のような顔で、立ち上がった周を見上げている。勇吉は、笑い皺が深く刻まれた目を何度も瞬かせた。
 「えーと、つまり。どういうことなのかな」
 勇吉の困惑に満ちた問いに、周は胸元のポケットから黒い皮ケースに入った手の平サイズの何かを取り出し、印籠を取り出す格さんよろしく大仰に、ぽかんとしている他の三人にそれを見せた。
 「わかるかね。スマホだ」
 「須磨穂。新しい稲の種類かなにかかな」
 「須磨ってことは海の近くで育つ稲ってことかい。こいつぁ、画期的だ」
 「馬鹿者!誰が水田耕作の話をしておるか」
 「おじいちゃん、スマートフォンの略語だよ。タッチパネル式の携帯電話のことをスマホっていうの」
 周が印籠の如く翳していたその黒い物体を座卓の上に置くと、一郎と勇吉は恐々とそれを眺めた。
「これが、携帯電話だと。馬鹿いうなよヒナ公、ボタンもねえし、しゃべるとこも訊くところもないじゃねえか。これじゃあまるで小型テレビだ」
 「別に、普通に使えるから大丈夫だよ。周おじさん、使ってみてもいい?」
 周が、どうぞと気取った仕草で応えたので、比奈子は画面上に指を滑らせる。指の動きに合わせてスライドする画面に、勇吉と一郎は目を丸くして見入っていた。比奈子はそんな二人の爺さまを尻目に、電話機能を選択すると電話帳データの中から祖父の番号を選択して、かけて見せた。しばらくすると、勇吉のらくらくフォンから軽快な着信メロディが流れ出す。勇吉が慌ててそれに出るのを確認して、ハンズフリーにするとスマホに向かって話しかける。
 「もしもーし、おじいちゃん、聞こえますかー」
 「聞こえてるよ。すごいな、ちゃんと電話なんだ」
 勇吉は感嘆しきって、周のスマホをまじまじと見た。
 「はあ、こいつはたまげたな。テレビ以来の驚きだ」
 一郎は自分の膝を打って、スマホの画面を指で触っては、次々と変化する画面を面白そうに眺めている。
 「で、このスマホがどうしたの、周おじさん」
 立ちあがったまま三人を見下ろしていた周は、うむ、と大仰に頷いてから、きれいな所作で自分の定位置に座り直した。そして、まだ、画面をスライドさせて遊んでいた一郎から、黒い本体を取り返すと、慣れた手つきであるアプリを起動させる。黒い画面に、朱色と鶯色といった、華やかで、且つ落ち着いた色合いの画面が浮かび上がる。そこには毛筆体で
 会員制婚活サークル プラチナシルバーライフ
と書かれていた。
 「会員制婚活さーくる ぷらちなしるばーらいふ……。周、なんだいこれは」
 老眼のせいか目を細めながら、そこに書いてある文字を何とか読みとった勇吉が、それでも理解できないと、眉を下げる。
 「読んで字のごとく、婚活をするための会員制のサークルだ。参加資格が未婚で六五歳以上の男性、女性は六0歳以上となっている」
 「こんかつ……」
 「豚カツじゃないぞ。先に言っておくが」
 脳内で漢字変換に失敗していそうな一郎の呟きに、周が前もって釘をさす。このあたりはさすがに、付き合いが長いだけのことはあるのだろう。
 「で、この、さーくるがどうかしたのかい」
 勇吉はきょとんとした顔でその画面と周の顔を交互に見た。一郎も、訳がわからないといった様子で無意味に体を揺すってみたりしている。二人のあまりの察しの悪さに焦れたのか、また周が食座卓を人差し指で連打し始めた。
 「登録するんだ。私達三人で」
 比奈子は、口に含んでいたサイダーを吹き出した。一郎と勇吉も言葉を失くして周の立派なカイゼル髭を蓄えた品の良い顔を凝視している。そんな三人を尻目に、周はさくさくとサイトの説明画面へと進んでいった。
 「ほら、見てみたまえ、グループ参加も歓迎と書いてある。なるほど、まず、相手への条件を提示し、マッチングした相手と会う機会を設けて顔合わせをするらしい。うまくいけばあとはご自由にということか」
 「いやいやいや、ちょっと待ってくれよ、周。婚活ってつまり、僕らが結婚相手を探すのかい。僕らが幾つになると思っているんだ。今年で七五だよ。もういい爺さんじゃないか」
 慌てて勇吉が制止するものの、周は顔も上げずに登録画面に移行していく。
 「気にするな。私達も爺さんだが、相手の女性達もよいお年の方々だ」
 婆さんだと言わないのは、周のフェミニズムがそう言わしめているのだろう。
 「周、話を聞いてくれよ。いきなりどうしたっていうんだい」
 「そ、そ、そ、そうだ。横暴だ。冗談じゃねえ。俺は再婚したいなんて一言も言っちゃあいねえぞ」
 ここに至り、ようやく事態が飲み込めてきた一郎が抗議の声を上げる。
 周はそこでようやく顔を上げると二人の古馴染みの顔をじっと見つめた。そのグレー掛かった瞳は、思いのほか真摯な色合いをしていた。
 「勇吉、君は千代子さんを失くして何年になる」
 「十三回忌だから、一二年かな」
 「そうだ、一二年だ。孫子に頼らず一二年、お前はここで一人で暮らしてきた」
 「近くに息子も娘も住んでいるし、一人が気楽でいいんだよ」
 そう言って柔和に微笑む勇吉を周は少し痛ましそうに見つめた。
 「そうだな。一人は気楽でいい。今までずっと一人者だった私が言うんだから間違いない。しかも、近くには息子夫婦も娘夫婦もいる。偶に孫娘も顔を出す。お前は確かに恵まれているんだろう」
 しかし、と周は続けた。空恐ろしいほど静かな声だった。
 「考えてもみろ。彼らはもうすでに生活を共にする自分の家族がいる。家庭がある。そして、そのなかにお前は含まれてはいない。残酷だけれど、それが事実だ。もし、万が一、家の中で急に昏倒したとする。そんな時、誰が救急車を呼んでくれるだろうか。そして、そのままあの世行きにでもなってみろ。気付かれるのは冷たくなった後か、下手をしたら腐敗が始まっているかもしれない。自分の末期の瞬間、助けを求めて延ばして手を取ってくれる人が、我々にはいないんだ。最後に延ばした手が、誰にも知られることなく空を切る。その瞬間の孤独感はどれほどのものだろうか。そんな人生の最後を思うと、私は、正直背筋が冷える思いがするよ」
 何か自分の知らない深淵を垣間見たような気がして、比奈子は軽く顎を引く。年若い彼女には未だ触れることすら許されないなにか。そして、腹の底を直接ひやりと冷たく薄い手で撫でられたかのような感覚に思わず身震いをした。
隣で聞いていた一郎が、ズビッと豪快に鼻をすする。
 「なあ、二人とも。歳を取ると諦めることが上手くなる。身体が持たないから、先が短いから、世間体が悪いから。諦めるための理由ばかりが増えていく。そして、孤独になっていくんだ。みんなそうなんだ。自分で自分をどんどん孤独に追いやっていく。しかし、本当は、我々こそが人を求めている。他人と、社会との繋がりを必要としている。そのことを恥じなければいけない理由が、私にはいっこうにわからんね」
 周はさっさと会員登録画面に進んでいく。
すると、一郎が禿げあがった頭を真っ赤にしてやにわに立ちあがった。
「俺は若い嫁さんが欲しいっ。掃除、洗濯、飯炊きを誰かに頼みてぇ。パリッと糊の効いた仕事着で仕事がしてえんだ。一回履いたパンツを裏返してもういっぺん履くのも嫌だ。コンビニ飯ももうごめんだ。不味くたっていい。誰かが俺のために用意してくれた飯が食いてえっ」
 涙と鼻汁と涎でぐちゃぐちゃになった顔でそう叫ぶと、ドカリと周のと隣にすわり、子供のように手の甲で鼻汁を乱暴に拭きとった。
 「周さん、登録してくんな。俺ぁ、腹括ったぜ。やってやろうじゃねえか豚カツを」
 「婚活だよ、一郎おじさん」
 「そうそう、それだ。ヒナ公にはまだ早ぇがな」
 そうこうする間に、周は自分と一郎の登録を済ませたらしい。見事な白髪の頭を巡らせて、勇吉を見る。
 「で、君はどうするかね」
勇吉はしばらく、所在なさ気に視線を左右に泳がせていたが、臆する自分を奮い立たせるように、薩摩切り子に残っていた酒を一息に呷った。それから、蚊の鳴くような小さな声で言ったのだった。
 「僕も年下の女性がいいかな。先立たれるのはもう嫌だから」
 「決まりだな。全員参加だ」
 周はにんまりして、勇吉の登録をすべく画面に視線を下げる。
 おかしな話になってしまった、と比奈子は思った。とりあえず、急に持ち上がったこの件を、母親に話していいものかどうか思案していると、勇吉が赤い顔をして、立てた人差し指を口の前に持っていく。家族には言うなということらしい。了解、と目で応えて、比奈子は自分用飲み物のお代わりを取りに台所に行く。台所は、四畳ほどのスペースしかない。昼間にため込んだ熱が、四畳その小さな空間に未だ充満していて、比奈子は息苦しさを感じた。冷蔵庫からサイダーの缶を取り出し、シンクの脇に置いたグラスにそれを注ぎいれる。蒸した夏の空気の中、勢いよく弾ける細かい炭酸の気泡がやけに清々しかった。そういえば、と比奈子は思う。この家の台所のシンクもテーブルも食器棚の、全て比奈子や勇吉が使うには丈が低すぎる。食器を洗っていても中途半端に腰を屈めるせいで、腰への負担が大きい。比奈子ですら、負担に感じるのだから勇吉にとってはさらにきつい作業のはずだ。どうして、勇吉は改装しないのだろうか。そこまで思い至って、比奈子は、はっとなった。小さなシンク、ちいさな調度品。これら全て、亡くなった祖母のために誂えられたものなのだろう。そのことに気がつくと、今は亡きこのキッチンの主の存在が急に比奈子の中で身近なものに感じられた。顔もほとんど覚えていない比奈子の祖母。しかし、彼女は確実にこの家で数十年の月日を勇吉と重ね、そして、勇吉に看取られ亡くなったのだ。一人この家に残された勇吉のことを思うと、比奈子は、さきほど勇吉が明かしたひやりとするような寂寥感にほんの一瞬触れたような気がした。
居間に戻る途中の廊下で、トイレから出てきた周と出くわした。周はらしくもなくカイゼル髭をもごもごさせて、言葉を選んでいるようだった。
 「比奈ちゃん、今日のことは……」
「大丈夫です。誰にも内緒って、さっきおじいちゃんと約束しましたから」
 周は深い笑い皺を作って、比奈子の小さな頭を撫でた。
 「君は聡明な娘だ」
 二人して廊下を歩きながら、比奈子はふと疑問に思ったことを口にしてみた。
 「周おじさんだったら、無理にネットで相手を探さなくてもデイケアセンターとかに行けば、モテモテなんじゃないですか」
 すると、周は足を止め、むむっと眉根を顰めると、地を這うような声で言った。
 「あそこは年寄りのいくところだ。比奈ちゃん、君は私に、毎日健康体操だの、わくわく折り紙教室だのに参加しろというのかね」
 どうやら地雷を踏んだらしい。七五歳は十分年寄りだと思うが、口にすると藪蛇になる。比奈子は素直に謝ることにした。年齢に関することは本人の主観が大きく影響するので、他人がとやかくいうことではないのだろう。
 「ごめんなさい。失言でした」
 「うむ、以後気を付けるように」
 周は学生に言い渡すように厳かにそう告げてから、比奈子の額を人差し指で軽く突いた。
 周の綺麗にのびた背筋を眺めながら、痛くもない額を摩る。
 庭で鳴いていたカエルの声が一瞬途切れて、薄暗い廊下に小さな静寂が満ちた。居間では、また周と一郎のやり取りが始まったようで、なにやら騒々しい声が聞こえてくるが、その喧騒も今やこの廊下に満ちる静寂に呑まれ、どこか遠い場所で起こっている出来事のようだった。
 比奈子は、なんだかややこしいことになりそうな予感がした。



 「皆さんいらっしゃい。奥のテーブル席へどうぞ。洋子ちゃん、お通しをお出しして」
 そう声をかけてきたのは、恐らくこのお店、小料理屋さつきの女将である立山五月だろう。件の酒宴から三週間後、上手くマッチングしたグループを見つけた悪童の会の面々は、連れだって隣町の小料理屋にやってきていた。女将も今回の婚活のメンバーの一人で、彼女が自分の店を指定してきたらしい。門から少し奥まったところにある小料理屋さつきは、建物までの小路の足元を照らす燈籠や、石畳みの脇に敷き詰められた石の淡く発光するかのような白さが印象的な、粋人の隠れ家と言った風情の店だった。なかに入るとカウンター六席とテーブル席三つというこじんまりとした店ながら、手の行き届いた料理屋独特の檜の香りに似た清潔な匂いがする。
 「本日はどうも」
 被っていた山折れ帽を脱ぎ、周がとっておきの外面を披露する。女将の五月も見事に計算されつくした美しい笑顔でそれに答えた。
 「他の二人はもう先に席についてますから、どうぞ奥へ」
 「や、これは失敬。女性を待たせてしまうとは」
 五月は目を瞬かせて、それからうっそりと笑った。
 「あなたが佐伯さんですね。いただいたメールの文章と同じようにお話しになるのね」
確か手元に送られてきた資料では、彼女は七三歳とあったはずだが、見た目は六0を少し超えたくらいか、見ようによっては五0代に見えないこともない。綺麗に結いあげた髪は染めているのか黒々と美しく光り、黒いロング丈のワンピースはケバケバしくない程度に華やかだった。これが昨今世間で流行っている美魔女という生き物かと、比奈子は一同の最後尾に並びながらかの女性を観察する。
 そう、何故だか分からないが、比奈子はこのシルバー合コンに同行する羽目になったのである。親同席のお見合いならまだしも、孫同席の見合いなど聞いたことがない。始め、比奈子は控えめに、しかし頑なにこの同席を断っていたのだが、爺さま三人に拝み倒され半ば無理やり連れてこられたのだった。プラチナシルバーライフの規約では、万が一のことがあった場合を考え、必ず親族は一人付き添うことが義務付けられていた。残念ながら周には子供も孫もおらず、一郎は今回のことを息子であり、現在は一郎のかわりに佐々木組を取り仕切っている息子に話していないので、一連の事情を知っている比奈子に白羽の矢が立ったのだった。ちなみに、向こうも一人孫が来るらしい。
  (これってかなり責任重大かも)
 三人の爺さま方の恋の行方に自分の立ち居振る舞いが大きく左右するのかと思うと、比奈子は変なプレッシャーを感じて憂鬱な気分になった。
 「気にすることはないよ。比奈ちゃんはそのままで十分いい子なんだからね」
そう言って頭を撫でてくれる勇吉は多分に爺馬鹿の嫌いがある。比奈子は胡乱な目つきで深い笑い皺の刻まれた勇吉を見返すことしかできなかった。
そんなわけで、比奈子の悪い予感は的中し、ややこしい御老人方の秘密の会合に同席することと相成った。
 周はタイトなイタリアンスタイルの三つ揃いのスーツに山折れ帽。それから、ネクタイ代わりにループタイを付けていた。これはかなりの気合いの入れようである。
一方、一郎は、いくら周が叱っても聞かず、これが俺の勝負服だと言い張って、今時珍しい大工半纏に真白いパッチを合わせてきている。もちろん染抜きの大工半纏の背中には白抜きで佐々木の家紋である丸に井桁(まるにいげた)が入っていた。勇吉はごくごく普通のスーツを着ていたが、如何せん現役時代のものなので、型が古く、些かくたびれているように見える。そしてそこに、なぜか制服姿の比奈子も参加するという珍妙な一団が編成されたのだった。
 案内された奥のテーブル席にはすでに女性が二人陣取っていた。そこに先ほどの女将、五月が座り、三人対三人の合コンが始まった。男性陣から一通り挨拶を済ませると今度は女性陣の自己紹介が始まる。比奈子は未だ合コンに参加したことはないが、世間一般で行われている若い男女の合コンもこんな感じなのだろうか。男女三人が向かい合わせに座る形なので、長方形のテーブルの短い一辺、いわゆるお誕生日席に座る羽目になった比奈子は手持無沙汰に、そんなことを考えていた。
場を取り仕切るのは、この会場をセッティングした五月の役割らしい。
 「どうも皆さん初めまして、ここの女将をやっております。遠藤五月と申します。娘が三人おりますが、みんなお嫁にいっておりますの。長女の洋子がこのお店を手伝ってくれてまして、さっきお通しをお持ちしたのがそうです。次女は近所のお酒屋さんに嫁いでいるから、この店にいいお酒を降ろしてくれていますのよ。皆さまぜひ楽しんでくださいね。三女は、アメリカ人と結婚してサンディエゴから帰ってきませんの。この店の上で寂しい一人住まいをしていますのよ」
言いながら、向かいに座る周や一郎のグラスにビールを注ぐ手つきは手慣れたもので、長くサービス業に従事している様が垣間見えるようだった。
 「私のおとなりに座っているのが、立山みどりさん。まだ若くていらして六二歳ですの」
そういって紹介された立山みどりなる女性は、確かに平均的な六0絡みの女性だった。やや小柄で中肉というには幾分ふくよかな感じがした。
 「初めまして立山みどりです。今は息子夫婦と同居をしていて、二人が共働きなものですから、孫の世話ばかりしています。なんだか、こんな席は初めてでどんな話をしていいのやら…緊張しちゃってます。長年専業主婦をしてるので、何か生活に変化が欲しいんです。あら、私、何をいってんでしょうね。とにかく皆さん、よろしくお願いします」
色白の丸い顔を赤くしてぺこりと頭を下げる仕草は、どこか愛嬌があった。
 「で、一番奥の席にお座りなのが、高嶺紅葉さん。私達、紅葉さんの開いていらっしゃる日舞とお琴の教室の生徒なんですよ」
その言葉につられて、比奈子は自分から一番遠い席に座っているその人に目を向けた。
 「高嶺紅葉と申します。今日はお生徒さんの五月さんとみどりさんに誘われまして、のこのこついてきてしまいました。皆さんお若い方ばかりで、なんだか恐縮してしまいますねえ。今日は私は引率係ということで、お若い方で楽しんでくださいな」
おっとりとそう言って微笑んだ紅葉さんは、クリーム色の麻の着物に清潔そうな真白い半襟を合わせて、薄い紫色の帯を締めた、なんとも上品なおばあちゃんだった。事前に交わされている釣り書きによると八三歳とあったから確かに一番年上ということになるのだろうが、比奈子からしてみれば、この場は全員がおじいさんとおばあさんの集まりだ。
 「では、高嶺さんが一番のお姉さんですね」
なんの気なしに呟いた勇吉の言葉は、周が座卓の下で即座に足を踏んで黙らせたが、お姉さんという表現がおもしろかったのか、紅葉おばあちゃんは鈴を転がしたように笑った。
 「そうですねえ、お姉さんです」
 「いや、申し訳ない高嶺さん。こら、勇吉、女性に年齢の話題なんて」
 「まあ、いいじゃありませんか、佐伯さん。その辺りはざっくばらんに参りましょうよ。隠したって仕方ありませんもの。ねえ、佐々木さん」
そう言って、未だ挨拶以来口を聞いてない一郎に五月が話を振る。
 「え、ええ、はあ、まあ。そうですな」
一郎は出かけの元気もどこへやら、つるりと光る頭を登頂まで赤くして俯いてもぞもぞとしている。どうやら、美魔女五月を前にすっかり気圧されてしまっているようだ。一郎がしきりに比奈子の服の裾を引っ張るので、比奈子はしょうがなく立ちあがって自己紹介を始めた。
 「初めまして、村上勇吉の孫の里永比奈子です。青葉女子高等学校の一年生です。今日は折角の会についてきてしまってすみません」
最後にぺこりと頭を下げるとまあ、お利口さんというみどりの声がした。
 「うちの孫もこれくらい大きくなったら楽なんでしょうけれどねえ。まだ二歳と三歳なものだからもう、家の中がしっちゃかめっちゃかで」
言いながら、みどりが朗らかに笑う。
もしかして、今日来る孫というのはその2歳児と三歳児なのだろうか。だとすれば本日の比奈子の任務は子守り係に決定だ。可愛い赤ちゃんを相手にするならそれなりに楽しいかもしれない、と比奈子は少しほっとした。爺さま方も緊張しているだろうが、比奈子だって知らないお婆さま方に囲まれて緊張しきっているのだ。子供の相手をしているほうがまだマシに思えた。
 「さあさあ。皆さん、なんでも頼んでくださいな。ビール、日本酒、ワインなんかもありましてよ。洋子ちゃん、オーダーをお願い」
カウンターの奥からハーイという明るい声がすると、五月に面差しのよく似た四0代くらいの女性が現れた。
 「先ほど言っておりました長女の洋子です」
 「こんばんは、楽しんでいってくださいね」
洋子は大人全員分のオーダーを取り終えると一番手前の誕生日席に座る比奈子に声をかけた。
 「お嬢ちゃんは何がいいかしら」
 「えーと、じゃあ、ジンジャーエールを」
 「了解。ジンジャーエールね」
洋子はてきぱきとオーダー表に書きいれながら比奈子にだけ聞こえるように、声をひそめる。
 「ごめんねえ、無理言っちゃったんじゃないかしら。ウチのお母さん言いだしたら聞かないから」
どうやら孫の強制参加は五月の発案らしい。
 「いえ、とんでもないです。こんなに素敵なお店なかなか連れてきてもらえないので」
 「ならいいんだけど。おじいちゃんおばあちゃんの相手ばかりじゃつまんないでしょう。こっちの孫ももうすぐ来るからちょっと待っててね。あなたと同い年の高校一年生よ。去年まで関西にいたの。私はその子の伯母さん」
(あ、赤ちゃんじゃないんだ)
同世代と聞いて、ちょっと残念なような、ほっとしたような気がした。
 (大阪って関西弁を話すのかな。リアル関西弁初めてだな。どんな娘だろう。仲良くなれるといいな)
比奈子は運ばれてきたジンジャーエールに口を付けながら、聞くともなしに御老人方の話に耳を傾けていた。
アルコールが回るにつれ、口の回転も速くなるのは、性別も年齢も関係ないらしい。梅酒、ビール、日本酒と各々の杯を重ねていくにつけ、会話が飛び交い始めた。それを盛り上がっていると表現するかどうかは別として、だが。
 「だから、私も言ってやったんですよ。そんな育て方したら孫の今後の成長に関わるってね。それなのにあの嫁ときたら、私には私の教育方針があるんですだなんて。失礼しちゃうわ。私は孫たちのためを思って言ってやってるのに。普段は私に世話を押し付けて好き勝手やってるくせに、都合のいい時だけそうなんだから、やってられませんよ」
 「いやあ、分かる!わかるよ、みどりさんのその気持ち。最近の若い者ときたら口だけ達者でやるこたあたらねえ。仕事も満足に出来もしねえのに、文句だけは垂れやがる。ちょっときつく言えば、次の日にはやめますとくる。我慢ってもんを知らねえんだ」
 「そうです。そうなんですよ。わかってもらえますか。一郎さん」
一郎と専業主婦のみどりは何やらお互いの愚痴で意気投合しているようだった。
 「私もねえ、嫁が結婚しても仕事を続けたいっていうんで出来る限りのことはしているんですよ。それをあなた、言うにことかいて、余計なことをしないでくださいなんて酷すぎやしませんか。息子も完全に嫁の味方ですし、やっぱり息子はダメね。家庭を持つとそっちが一番になっちゃうんだもの。家の中に余所の人が入ってくるってだけでこっちはかなりの譲歩をしてるのに、そこらへんのことがまったくわかってないのよあの子たち。そこへくると、五月さんなんて娘さん三人もいて、いいんじゃないの」
一郎もそうだが、みどりの酒も絡み酒らしい。余所の人っていうのはお嫁さんのことなんだろうか。結婚しても余所の人扱いされるのはなんだか寂しいもんだと、比奈子に思ったが口にはしなかった。ここはじっと石の沈黙を守るのが若輩者の努めであり、最善の策だ。無駄に御老人方に囲まれ慣れている比奈子は年寄り扱いの上手い女子高生なのだ。
そんなみどりの愚痴をきいて、五月は自分で用意したジントニックを舐めながら小さく笑った。
 「まあ、四五歳の末娘がこの春なんとかお嫁にいったから、やっと肩の荷が降りたかしらね。あの子には本当に手を焼かされたのに、勝手に結婚を決めて、しかもそれがアメリカだなんて。初めて聞いたときには、常連さんのボトル落として割っちゃったわよ。娘なんて嫁にいけば所詮他人の家の人間になるんだもの。そう大してかわらないわ。傍に長女と次女がいるけれど、私は娘の世話になるつもりはないから、身体が動くうちはこの店を続けるつもりよ。女手一つでやってきたんですもの。これからだって、そうやって生きていくの」
気がつくと始め接客モードだった五月が何時の間にか素になっているような気がする。それでも、お酒に崩れたような様子はなく、項にかかるほつれ髪がむしろ彼女の色気を増して見せているようだった。これで七0をとっくにすぎているのだから、美魔女恐るべしだ。
 「五月さんは、お一人で子育てをなさったんですか」
聞いたのは周で、手にしたグラスにはいつものバーボンが入っている。
 「聞いて楽しいお話じゃございませんよ」
 「もしよろしければ、お伺いしたいものです。お聞かせ願えますか、あなたの半生」
格式ばった周の物言いに、五月は喉の奥で低く笑った。気がつけば、周の手が、綺麗にネイルの施された五月の手の上に重ねられている。
(何これ何これ 大人の会話だ。怖い怖い怖い)
すぐ隣で繰り広げられるなにやら夜の香りの纏ったやりとりに混乱して、比奈子は一番奥の席に座る祖父に助けを求めた。奥の席では祖父勇吉と紅葉おばあちゃんが黙々と無言で杯を重ねている。二人の前は置ききれなくなった空のジョッキとグラスが重ねられ積み上げられて、物の例えではなく、山のようになっていた。勇吉も酒好きでかなり呑む方ではあるが、量から鑑みるに紅葉おばあちゃんもかなり行ける口らしい。気がつけば、目の前に知らない大人の空間、その奥で年寄りの愚痴大会、頼みの綱の祖父は無言の酒豪対決と、比奈子の眼前は訳の分からない混沌とした世界になっていた。
比奈子が一旦落ち着くためにトイレに立とうとしたその時、カウンターから何やら騒がしい言い合いの声が聞こえてきた。そちらに目を向けると、あからさまにカウンターの奥から突き飛ばされたであろう勢いで、男の子が飛び出してくる。御老人方はそれぞれの世界に浸っているので彼の存在に気付いていなかったが、立ち上がりかけていた比奈子と、ばちりと視線が合った。身長は一六0センチの比奈子とさほど変わらない、どちらかといえば小柄なほうだった。しかし、真っ黒に日焼けした顔に、伸びかけた毬栗頭その少年は勝ち気な目で比奈子を睨むと、ずかずかとテーブルまでやって来る。
そして、比奈子の目の前に重ね合わされていた、周と五月の手を遠慮なく掴むと、それを乱暴に引っぺがした。
 「どうも、遠藤五月の孫の諒一です。遅なってすみません。祖母がお世話になってます」
比奈子の脇に立ち、右手に周の手首を、そして左手に五月の手首を持ったまま、そう挨拶する。イントネーションは完全に関西の言葉のそれだった。
 「ああ、こんばんは、今日はよろしく」
掴まれていた腕を取り返しながら、周は努めて鷹揚にそう答えた。みどりや紅葉は顔なじみらしく、一様にあら諒ちゃん久しぶりと声をかけ、一郎と勇吉はアルコールの回り切った赤ら顔で何とか挨拶をしていた。
 「まあ、諒一遅かったじゃないの」
五月が声をひそめて言うと諒一はふてくされたように低い声で答える。
 「配達に手間取った。この辺の地理がまだわかってへんねん」
諒一と名乗ったその少年は、自分用の椅子を別の席から取ってきて、しばらく思案した後、なるべく比奈子と距離を置く様に、五月のすぐ脇に自分の場所を定めた。
 (なにそれ、感じ悪い)
少しムッときたがここで無視するというのも大人げない。まだ自分だけ挨拶していなかった比奈子は、またそれぞれの談笑を始めている六人の邪魔にならないよう小声で諒一に声をかけた。
 「初めまして、里永比奈子です。あの奥に座ってる村上勇吉の孫です。よろしくね」
諒一は面倒くさそうに比奈子が指す方に視線を向け、それから馬鹿にしたように鼻で笑った。
 「えらい酒飲みやないか」
確かに、勇吉と紅葉はまたしても沈黙の飲み比べを始めている。
「おじいちゃん、照れちゃって何もしゃべれなくなってるから呑んでごまかしてるの」
諒一はへえ、だか、ふんだか適当な相槌を打った。かなり印象の悪い人物ではあるが折角現れた同世代の人間だ。何とか間を持たせようと比奈子は必死に会話の糸口を探す。
 「関西から来たって聞いたけど、関西のどの辺りなの」
 「尼崎」
 「尼崎って大阪の?」
 「尼崎は兵庫や」
 「ああ、甲子園球場がある」
 「それ、西宮」
 「あれ、じゃあ阪神タイガースって西宮の球団なの?」
 「阪神は尼崎のもんや!」
 「言ってる意味がわからない」
 「その辺の機微が分からへんからなあ、東京モンは」
 「キミだって今東京に住んでるんでしょ」
 「やかましい女やなあ、ちいと黙っとけやっ」
急に大きな声を上げた諒一に驚いた周りの衆目が集まる。諒一はバツが悪そうにしながらも、あからさまに舌打ちをした。
 「ごめんね、比奈子ちゃん。この子関西でもちょっと言葉の荒いところで育ったからびっくりするかもしれないけど、悪気はないのよ」
急いで五月がフォローするが、ちょっとどころではない柄の悪さだ。しかも当の諒一は伸びかけの毬栗頭を掻き毟って歯を剥いた。
 「もう、ええやろ、ばあちゃん。なんやねんプラチナシルバーライフて。自分ら何がしたいねん」
どうやら諒一はこの会合に反対らしい。諒一はさらに苛立ちが増してきたのか、足をどんどんと踏み鳴らし、声を荒げる。
 「なあ、おかしいやろ。ええ歳した爺さんと婆さんが合コンて。なに浮かれて色ボケしてんねん、歳考えろや歳。」
諒一の言葉に、老人六人が不意にいい夢から覚めたようにきょとんとした顔になり、それから表情をなくして俯き、肩を落とす。不意に比奈子の脳裏にこのサークルへの参加を決めた折の三人爺さまたちの姿が過った。一人で死ぬのが恐いと言った周。自分たち老人世代こそ本当は誰かを求めて止まないのだと、周が吐露した本音には背筋が寒くなるような寂寥感と孤独があった。
 「会うのをこの店にしてくれっちゅうたんは俺や。こんなん周りのやつらに知られたら俺、みっともなくて町歩かれへんわ。ちいとは周りの迷惑考ええや」
 「みっともなくなんてないよっ」
尚も言い募る諒一の声を遮って、比奈子は叫んでいた。自分でも驚くほど大きな声が出た。
 「みっともなくないよ。何でそんな風に思うの。歳がどうこう言ってる方がよっぽどみっともないよっ」
反論されて黙ったのは一瞬で、諒一はすぐに今度は比奈子に食ってかかる。
 「俺の何がみっともないちゅうねん」
 「おばあちゃんが他の男の人と仲良くなるのが嫌なんでしょ。それって、おばあちゃんのこと一人の人間としてみてないんだよ。幾つになったって、寂しい時は寂しいし、悲しい時は悲しいよ。誰かに隣にいてほしい時だってあるよ。人間なんだから当然でしょ」
 「ええ歳こいた年寄りが寂しいもクソもあるかい!」
 「だから、歳なんて関係ないの。なんでわかんないかなあ!」
 こんな怒鳴り合いみたいなケンカを、比奈子は親とも友達ともしたことがない。しかし、不思議と怖くはなかった。怖くはなかったが何故か感情が高ぶって涙があふれていた。それに気付いた紅葉さんが手を伸ばして、ハンカチを貸してくれた。ハンカチは綺麗な藤色の染め物で、比奈子の知らないいい香りがした。
 「ありがとうね、比奈子ちゃん、あなたはいい子ねえ。諒一さんもね、ちょっと座ってくれるかしら」
紅葉の穏やかな声に促され、諒一は力が抜けたようにすとんと、椅子の上に落ちる。
 「おばあちゃんが始めの旦那さんと結婚したのはね、ちょうどあなたたちぐらいの歳だったかしら。戦時中だったからばたばたしていてね、旦那さんは三ヶ月後に特攻隊に行くことが決まっていたの。特攻隊って知っているかしら」
比奈子は無言で頷いた。頷いたが、テレビや授業で聞くその単語は、鎌倉幕府や平安京といった歴史の教科書に載っている、遠い昔の出来事としてしか認識していなかった。
 「特攻隊に行ってしまったらもう帰って来られないから、急いでお見合いをしてね。私、恥ずかしくてその日は一度も旦那さんのお顔をまともに見られなかったの。ただ、玄関までお見送りした時に襟元から見えた、青く刈り上げた項がとてもきれいな人だなって思ったの。次にその人に会ったのは結婚式の日だったのよ。そこで初めて、ああ、こんなお顔をされているんだってわかったの。思いのほか男前でどきどきしてしまったわね」
思い出しながら話す紅葉さんの白い小さな顔が、どこか童女のようにあどけなく見えて比奈子は悲しいような愛しいような、なんだか訳のわからない気持ちになった。
 「その人が三ヶ月後に特攻に行って、やっぱり帰って来られなくて、数ヵ月後に亡くなったのが確認されたの。そしたら今度は亡くなった旦那さんの弟さんと籍を入れることになって」
となりで諒一が目を剥いたのがわかった。そんな諒一に、戦争中は家のためにそうすることがよくあったの、と五月が囁いた。
 「二番目の旦那さんも穏やかなとてもいい人だったのだけど、終戦後直ぐに肺を病んでしまってね。あの頃は何もかもが焼けてしまって、栄養のある食べ物もなかったし、結局その人も若いまま亡くなってしまったの。それから、おばあちゃんはずっと一人よ。心配してあげたい子供もいないし、文句を言い合うお嫁さんもいない。生徒さんが帰ってからはテレビと一緒に食座卓を囲んで後は寝るだけ。慣れてはいるのだけれど、偶にね、どうしようもなく寂しくなるの。夜中に急に叫びだしたくなるような、不条理な恐怖がこみ上げてくるの。大人になってみても、こんなに長く生きてみても、やっぱり一人は寂しいのよ。こんなおばあさんは変かしら」
 「……いえ、変じゃないです」
諒一は殊勝な声でそう答えた。紅葉さんはふふっとまた可愛らしく笑って、身を乗り出すと、諒一の硬そうな髪を撫でた。
 「諒一さん、あなたもいい子ね」
諒一は無言で俯いていたが、隣にいた比奈子には、真っ赤になった耳がよく見えていた。その姿をみて、思ったほど悪い子じゃないのかもしれないと思った。
 「さて、みなさん」
シンと静まりかえった場さっとすくいあげるように紅葉さんは朗らかに言った。
 「今日はもうお開きにしましょうか。大切なお孫さんを傷つけないよう、節度あるお付き合いをしてくださいね」
「あのう……」
教師に質問する生徒のように一郎が恐々と挙手しながら声をあげる。
 「節度あるお付き合いってのは、どの程度が目安なんでしょうか」
紅葉さんは、しばし思案顔になり、それからにっこりほほ笑んで言った。
 「男女七歳にして席を同じゅうせず、あたりでしょうか」
比奈子の両脇で五月が、がくりと肩を落とし、周が天を仰いだ。一郎とみどりはお互い顔を見合わせ、勇吉は黙々と一人で酒を飲み続けていた。



そんな奇怪な婚活パーティーが催された翌週の水曜日。六時を告げる鐘の音とともに書道部の活動を終えた比奈子は、級友達数人とともに自分の通う、青葉女子高等学校、通称青女の正門に向かった。最近読んだ本や、お気に入りの音楽等たわいない会話を続けていると、正門の外側、ちょうど民家の影になっているところに一台の自転車が止まっている。車体の前方に大きな荷物籠、後方には頑丈な荷台が着いており、そこいらにあるママチャリを業務用にカスタマイズしているようだった。その業務用カスタムママチャリには、見慣れない制服を着た小柄な少年が跨っている。白い半袖の開襟シャツにチェック柄のズボンというよくある制服だが、如何せんその着崩しかたがいただけない。シャツのボタンは胸元が見えるくらい大きく開けられ、くたくたのネクタイが中途半端に結ばれてだらんと垂れさがっていた。大きすぎるシャツの裾は全てズボンの中から放り出されていて、その下から、かなり低い位置で止まっているズボンが見えている。いわゆる腰パンというやつだろうか。全体的にだらしなくて不格好だと比奈子は思った。級友達は眉を顰め、その隠した口元からは変な人、不良、という単語が飛び交う。比奈子は軽い目眩を覚えた。幸か不幸か、本日一緒にいる級友たちは比奈子とは別方向に帰る娘ばかりで、比奈子だけはあの少年の潜む民家の方へと赴かなければならない。心配して、一緒に遠周りをして帰ろうという友達をなんとか宥め、比奈子は足早に家路を急いだ。
 目を合わせないよう前方の遠いところを見つめたまま、早足で歩く比奈子に、件の柄の悪い男子生徒、先日の婚活パーティーを台無しにした諒一が声をかける。
「よう」
「どうも」
比奈子は軽く頭を下げてそのまま脇をすり抜けようとした。諒一が慌てて、比奈子の腕を掴む。
「おい、ちょお、待てや」
「柄の悪い人と関わっちゃいけませんてお母さんに言われてるの」
「柄悪いて何やねん。これは方言や」
「もっと穏やかな関西弁ってあると思う」
「言うとくけど、京訛りは無理やぞ。あれは、全然別モンやからな」
「そうなの?」
「違う。全然違う。栃木弁と茨城弁くらい違う」
諒一が力説する意味が比奈子にはよく分からなかったが一応相槌だけは打っておくことにする。比奈子は協調性にも長けた女子高生だった。
「ふうん」
「ふうんてお前やる気のない。て、ちゃう、俺はこんな話をしに来たんやないや」
「じゃあ、なんの話をしにきたの」
諒一は、ああ、だか、うー、だか意味を為さない唸り声をあげて身もだえている。よくよく見ると、諒一の左目のまわりには、マンガでみるような見事なアオタンができていた。ケンカでもしたのだろうか。比奈子の日常にケンカ、ましてや、怪我を負うような暴力を伴うやり取りなど皆無といってよかった。先日のことを思い返してみても、彼女にとって諒一は全くの異世界から来た闖入者に思える。
比奈子は急に怖くなって、無言で腕を振りほどき、脇をすり抜ける。
「おい、ちょお待てて。イラチなヤツやな」
「不審者に近づいちゃいけませんてお父さんに言われてるの」
歩き始めた比奈子の後を追い、諒一が自転車を降りて、それを曳きながら着いてくる。
「俺のどこが不審者やねん」
「道端で唸り声あげてるところ」
「ええから、時間をくれ。ええか、俺は、俺はなあ」
「痛いっ」
尚もその場を立ち去ろうとする比奈子の腕を、諒一が慌てて再度捕える。あまりに強く掴むので、比奈子は抗議の声を上げた。諒一は驚いて腕を引っ込め、とっさに、すまん、と謝った。その後で、自分の手をまじまじと見つめながら言い訳じみて呟く。
「……なんや、柔い腕しとるなあ」
「乱暴者と一緒にしないでください。で、話ってなに」
足を止めて振りかえった比奈子に、諒一は無言で自転車の前の籠に入っていた紫色の風呂敷包みを比奈子に差し出した。
「なにこれ」
手渡されたそれは、お重か何かのようでずしりと重くひんやりとしていた。
「おはぎや。うちのばあちゃんと、みどりおばちゃんと紅葉ばあちゃんが作ったおはぎ」
「何で私に」
「お前とちゃう。いや、別にお前が食べてもええのやろうけど。この間の爺さまら宛てや。今日、また会合するんやろ」
暇な爺さまらやで、と誰にともなく諒一が愚痴る。確かに今日は、先日の反省会と称してまた悪童の会が催されることになっていたが、平日のため比奈子が顔を出す予定にはなっていなかった。
「で、なんで諒一君がここにいるの」
「りょ、諒一君てお前」
名前を呼ばれて、諒一は急に耳まで赤くなる。しかし比奈子は諒一の名字を知らない。五月の姓は確か遠藤だったが、娘さんのお子さんということは別姓である可能性の方が高い。比奈子が黙って見ていると、諒一は口の中でもごもごと何事か言った後、まあええか、と呟いた。
「これを渡しに来たんや言うてるやろ」
「お爺ちゃんの家に直接行けばいいのに」
「誰も、住所知らん」
諒一は憮然として答えた。コトの顛末はこうらしい。
「昨日急にうちの婆さんがおはぎ作る言いだして、何や知らんけど、みどりおばちゃんと紅葉ばあちゃんも一緒になって作りだしてん。今日、学校行く前に、放課後これ届けてくれて言われたんやけど、誰も爺さまらの住所知らんかって。わかってんのはお前の高校だけやってん」
そこでや、と諒一は比奈子のセーラー服を指差した。
「ここでお前を張っとってん」
と諒一は得意げに鼻を鳴らす。住所もわからないのにおはぎを作るとは、あの三人のお婆さま方はなかなかそそっかしい人たちなのかもしれない、と比奈子は思った。
 渡されたお重を持って怪訝そうにしている比奈子を見て、諒一が慌てた様子で急に声を上げる。
「ちゃうで。別に婆さまらがボケてるわけやないからな」
「別にそうは思ってないけど。そそっかしい人たちなのかな、とは思う」
それを聞いて諒一はまた、あー、だか、うー、と唸りだして硬そうな髪質の頭をぐしゃぐしゃと掻き毟った。比奈子はお重を持って迷わず、再度その脇を通り抜けようと試みる。
「せやから、待てって。短気な奴やな」
「不審者に近づいちゃいけませんってお父さんに」
「それはさっき聞いた」
諒一は、今度は先ほどのように比奈子に悲鳴を上げさせることのないよう加減した力で比奈子の腕を掴んだ。
「これは、あれや。婆さまらからの俺に対するペナルティ」
「ペナルティ?なんで?」
訳が分からないと応えると、諒一は比奈子を掴んでいた腕を放し、跨っている自転車のハンドル部分に突っ伏して、ヤケクソじみた声をあげた。
「せやから、俺、この間、お前を泣かしたやろ。その罰や。お前見つけて謝ってこいて」
諒一の、突っ伏した腕の端から見える耳が真っ赤になっていた。比奈子としては、別に諒一に泣かされたとは思っていなかった。しかし、三人の婆さま方からすれば、合コン相手の孫が、自分たち側の孫との言い合いの末に泣きだしたとなると、確かに何か引っかかるものがあったのかもしれない。それで、この罰を科したのだろう。考えてみれば、隣町の男子高校生が女子高の前で一人ぽつんと、来るともしれない、しかもほぼ初対面の女子を待ち続けるのは中々精神的な負担を強いられる行為であるように思えた。
「ちなみに、それって誰の発案なの」
「……紅葉ばあちゃん」
大分と茶目っけのある人のようだ、と比奈子は思った。


 勇吉の家まで続く長い長い急こう配を前に、自転車を曳く諒一は絶望的な声を上げた。
「登るんか。この坂を」
「登るのよ。この坂を」
比奈子の学校から件の坂まで徒歩で一五分。盛夏の夕暮れ時、太陽はすでに傾き、空は茜色に染まっていたが、夏の熱気を纏った空気は昼の暑さの名残を孕んで湿った重みを増していた。二人の額にはすでにじっとりと不快な汗が滲んでいる。
「自転車で先に登っててもいいよ」
「チャリのほうがきついやろ、これ」
諒一は額から頬を伝う汗を乱暴にシャツの袖で拭った。業務用らしい大きな荷台が取り付けられた自転車はそれだけで十分な重さがあるようだった。意を決して坂を登り始めた二人だったが、諒一はともすると重力に負けて、自転車ごとずり落ちそうになる。仕方がないので、比奈子は車体の後ろからそれを押してやることにしたが、重しつきの登坂はいつもの倍ほど体力を消耗した。
「なんでわざわざ、こんな重い自転車で来たりするの」
「こっち方面に配達があったんや。おはぎはそのついで」
配達と聞いて、そういえば酒屋さんの息子だということを思い出す。
「家の手伝い?」
「まあ、喰わせてもうてるし。義務教育でもないのに学校にも行かせてもうてるからな」
(高校って皆いくものなんじゃないの)
確かに義務教育は中学校までだということは比奈子も知っていたが、彼女もそして彼女の周りも当たり前のように高校には行くものだと思っていた。
(学校にも行かせてもうてるからな)
自分にはない発想に驚きながら、比奈子は滴る汗に目を細め、前を行く諒一の背中を仰ぎ見た。諒一はやはり小柄で、一見、身長も体格も比奈子とそう変わらないように見える。
「ねえ、これって、紅葉おばあちゃんの男女七つにして席を同じうせずっていう規則に引っかかってる気がするんだけど」
前方から同じように息を乱した諒一が、意味を測りかねるように応えを返す。
「はあ?同じ学校でもないのに席が近所になるわけないやろ。なに言うとんねん」
紅葉おばあちゃんの言わんとしているところは、そういう意味ではないような気がする。しかし、比奈子はわざわざそれに反駁したりはしなかった。単純に、しゃべることが億劫になるほど息が切れていたからだ。



 勇吉の家の前にはお馴染みのミニクーパーが止まっていた。比奈子は諒一が自転車を止めるのに手を貸そうとしたが、予想外に車体が重く、彼女の腕ではまるで持ち上げられない。諒一はそれをひょいっと事も無げに持ち上げてみせた。なぜか負けたような気がして、比奈子は憮然としたが、諒一はそんな比奈子に気づく様子もなく、低い垣根の向こうを親指で差した。
「なんや、えらい騒がしいな」
騒がしいのはいつものことだが、よくよく聞いてみると、何やらまるで演劇のように、誰かが一人でしゃべっているようだ。玄関の前に立つその声がより一層明確に耳に飛び込んでくる。


O my Luve's like a red, red rose,
That's newly sprung in June:
O my Luve's like the melodie,
That's sweetly play'd in tune.


玄関の中に入らずして尚、正確にその発音まで聞き取れる素晴らしい美声が響き渡っていた。比奈子は一瞬、驚いた子猫のように毛を逆立て、ふるりと身震いした。そのあからさまな様相の変化に諒一は怪訝そうに眉を顰める。そして、自転車を脇によせながら、視線で居間を指した。
「おい、あれは何や」
比奈子はその質問に答えずに大きく一度深呼吸する。そしてヘアゴムで結んでいた髪を、一度解いてから、きりりと結い直すと、更にもう一度深呼吸した。そうしてやっと覚悟を決めてから玄関の扉をスライドさせたのだった。
「おい、ちょお待てて。なんの騒ぎやねん」
慌てて後に着いてきた諒一を振り返ることなく、比奈子は三和土で靴を脱ぎながら何でもないことのように返した。
「周おじさんの詩の朗読」
比奈子にとっては日常に近い光景だったが、彼にとっては違うらしい。諒一は初めて聞く単語の様に、オウム返しに繰り返した。
「しのろうどく。……死の老毒?」
「漢字の変換、間違えてる」
間髪いれず訂正してから、比奈子は地を這うような低い声で真実を告げる。
「詩よ。ポエム」
「ぽえむ……」
諒一は薄気味悪いものを見る目で、声がする居間の方を見遣った。居間からは、まるで舞台役者のように朗々と詩を詠いあげる周の張りのある声が聞こえてくる。


As fair art thou, my bonie lass,
So deep in luve am I;
And I will luve thee still, my dear,
Till a' the seas gang dry.

Till a' the seas gang dry, my dear,
And the rocks melt wi' the sun;
And I will luve thee still, my dear,
While the sands o' life shall run.


「何語なんや、あれ」
「英語だったかな。正確にはスコットランドの言葉らしいけど」
「どこにあんねんスコットランド」
「イギリスの近所」
「ほなイギリスてどこ」
「……スコットランドの近所」
諒一は胡乱な眼で比奈子を眺める。比奈子はあまり地理が得意でない女子高生だった。恥じ入るように耳を赤くした比奈子に助け船を出すように、諒一は話題を変える。
「ほんで、なんて言うてんの」
「聞きたいの?あれの和訳を」
日々、あの朗読の犠牲者になっている比奈子の声には、おどろおどろしさが滲み出ていた。諒一は些か驚いたようだったが、訊いてしまったものはしょうがないと、腰が引けた様子で頷いた。比奈子はぱっと顔をあげ、周の声音までしっかり真似てヤケクソ気味に件の詩の和訳を詠いあげる。

俺の恋人よ,お前は赤い薔薇だ,
六月にぱっと咲いた赤い薔薇だ。
お前はまるで甘い音楽だ,
見事に奏でられた甘い音楽だ。

お前の美しさに負けまいと,
俺の恋も命がけ,おお,俺の可愛い恋人よ!
いつまでも俺の心は変わりはしない,
たとえ海という海が干上がろうと

たとえ海という海が干上がろうと,
たとえ岩という岩が太陽に溶けようと,
俺の心は変わりはしない,いつまでも,
そうだ,俺の命がある限り, ―おお,恋人よ!


「ストップ!待て待て。俺が悪かった!」
慌てて止めた諒一の腕には見事な鳥肌が立っていた。
「ようあるんか、詩の朗読会」
「偶にね。始まると三時間は終わらないし。おじいちゃんも一郎おじさんも詩なんて興味ないから、最終的に私が聞かされる羽目になって、感想とか求められるの。何回も聞くから覚えちゃった」
比奈子は影のある表情を作って見せた。
「それなりの苦労しとんな、優等生も」
「他人事みたいに言わないでよ」
口を尖らせる比奈子に諒一は冗談じゃないと声をあげた。
「一00%他人事やろ。他人事以外のなんやちゅうねん」
心外だという諒一に向かい合い、比奈子は彼にとって最も恐ろしいであろう現実を突きつける。
「あの詩の恋人って、五月さんのことでしょ」
「は?」
未だ現状を把握し切れていない少年に対し、比奈子は一言一句明確に発音しながら懇切丁寧に説明をした。
「このタイミングであの詩をチョイスしてるってことは、周おじさんの言ってる、真っ赤な薔薇で、甘い音楽で、海が干上がろうとも、岩が溶けようとも愛してる愛しの恋人っていうのはあなたのおばあちゃんのことでしょ」
「……っ」
諒一は言葉を失い、そしてその場に膝から崩れ落ちた。比奈子の予想以上の打撃を負ってしまったらしい。
「ばあちゃんが赤い薔薇、ばあちゃんが甘い音楽」
何を想像してしまったのか、今にも泡でも吹き出しそうな様子で諒一はうわ言のようにそう繰り返し、目玉をぐるりと巡らせた。
そして、やにわに立ち上がると、持っていた風呂敷包みを比奈子に押しつける。そして見事な勢いで身体を反転させ、玄関のガラス戸に手をかけた。
「これ渡しといてんか。俺がよろしゅう言うとったて伝えといて」
そう言い捨てると脱兎のごとく逃げ出そうとする諒一のシャツの裾を、比奈子はすんでのところで捕まえた。
「ずるい、自分だけ逃げる気でしょ」
「アホか。薔薇?音楽?可愛い恋人?勘弁してくれ。俺の許容範囲を軽く越えとる。関西にああゆう、こっ恥ずかしい文化はないねん。文化圏が違いすぎる。あんな甘ったるいもん三時間も聞かされたら脳みそ溶けるわ」
「こっちにだってないよ、そんな文化」
「お前、慣れてんのやろ」
「脳みそ溶けるのに慣れてる人なんていないもん」
振り払おうとする諒一と、離すまいと握り締める比奈子の攻防の最中、居間の襖がすらりと開き、中から勇吉が顔を出した。
「なんだ、騒がしいと思ったら比奈子が来てたのか。ああ、君は五月さんのところの、諒一君だったかな。こんばんは」
「こ、こんばんは」
一度硬直した諒一は、ガラス戸ににじり寄る前かがみの態勢のまま、それでも何とか挨拶を返した。
「そんなところで遊んでないで早く上がりなさい。嬉しいね。今晩は賑やかになりそうだ」
にこにこと相好を崩し居間に戻って行った勇吉に逆らえず、諒一はしぶしぶスニーカーを脱ぎ始める。
 居間に向かう廊下の途中で軽く比奈子の腕を肘で小突き、声を顰めて文句をこぼす。
「おい、一つ貸しやからな」
「なんのことかわからない」
お互い小声で牽制し合う少年少女は、これから始まる過酷な『詩の朗読会』を思い、悄然とうなだれるのだった。


比奈子と諒一が居間に入ると、すでに出来上がった三老人が、赤ら顔で二人を迎えた。立ちあがって詩の朗読をしている周と、その脇で最近お気に入りの件の簡易ソファにどっかり座り、一升瓶から酒を自分のグラスに注いでいる一郎、それにそんな二人をニコニコ笑いながら眺めている勇吉だ。
「おう、お前、あの時のヒナ公泣かせたクソ坊主じゃねえか。何しに来やがった」
始めに、声を荒げたのは気性の激しい大工の棟梁の一郎だった。
「一郎、そう突っかかるな、五月さんのお孫さんだ」
「そうそう。なにか用事でもあるのかな」
割って入ったのは周で、純粋に疑問を提示しているのが勇吉だ。諒一は憮然として口を一文字に閉じたまま、すでに酒類と料理が並ぶ座卓の上に件の風呂敷包みを置いた。
「ばあちゃん達からあんたらへ届け物。おはぎやて」
放り投げるようにそう言うと、さっさと踵と返して出ていこうとする。爺さま方がわっと声を上げて風呂敷を開けにかかる最中、比奈子は即座にそのだらしなく垂れ差がっているシャツの裾を掴んだ。つんのめる形になった諒一が小声で比奈子に抗議する。
「何やねん、お前」
「一人だけ逃げるとか、ズル過ぎる」
「待て待て。ここて、俺にとって完全アウェイやんけ」
「それ含めてのペナルティだと思う」
ぐっと言葉に詰まった諒一に、勇吉が絶妙なタイミングで声をかけた。
「諒一君、ありがとう。折角だからキミも食べていくといい。比奈子、彼と比奈子の分の飲み物と小皿を用意してきてくれるかい」
「はぁい」
台所へ行く比奈子を見上げる諒一の顔が、どこかお母さんを探す迷子のように見えて、比奈子は不覚にも可愛いと思ってしまったのだった。台所に向かう途中、勇吉がひょいっとやってきて、薬箱とアイスノンも頼むね、と言い置いていった。諒一の左目の痣が気になるのだろう。比奈子は薬箱の置いてある納戸経由で台所に向かった。
 台所から戻ると、ゆでダコのようにつるりとした頭頂部まで真っ赤にした一郎が、諒一にからんでいるところだった。聞いている諒一は片膝をたてて鼻をならし、今にもイライラを爆発させそうな不穏な空気を醸し出していた。
「大体最近の若いもんは年長者に対する口のきき方がなっちゃいねえ。おまけになんだお前その格好は。ちゃらちゃらしたナリしやがって。ズボンはちゃんと腹まで履けってんだ」
「あ?よそさんの家でステテコ一丁になってる爺さんに言われたないわ。もうちょお気ぃ使たれよ。女子高生がおるんやろが」
「うるせえ、ひよっこ。ヒナ公は俺がおしめだって替えてやったんだ。よそもんにとやかく言われる筋合いじゃねえや」
「ああ、そう。さいでっか。ほな、あんたも俺からしたらよそもんや。俺の格好にとやかく言わんでくれ」
比奈子がグラスとジュースの乗ったお盆を座卓に置くと、脇に抱えていた薬箱とアイスノンを勇吉がそっと取って行く。
「減らず口叩くんじゃねえ。派手な青あざなんざ作りやがって。どうせ、その辺でケンカでもしてきたんだろう。おふくろさん泣かしてんじゃねえ」
その言葉が、少年の何かの引き金を引いたのか、諒一は急に立ち上がり座卓越しに、掴みかからんばかりの勢いで牙を向いた。どうも一郎と諒一は相性が悪いらしい。血の気が多いところはよく似ているように思うが、同族嫌悪というものだろうか。
「俺がいつオカンを泣かしたっちゅうねん。勝手な想像でモノ言うな。くそジジイ、ええ加減にせんとホンマにいてまうぞっ」
犬のように低く唸った諒一に、老いた闘争心が触発されたのか、一郎も唾を飛ばして応戦する。
「上等だい小童が。大工舐めんじゃねえっ」
「はいはい、二人ともそこらへんにしておいてくれ。家が壊れると困るからね」
そう言って割って入ったのは薬箱を手にした勇吉だった。周は周で頭から湯気を上げている一郎を羽交い絞めにして止めている。
「とりあえず、その眼は冷やした方がいいね。はいこれを当てて」
手渡したのは、比奈子が用意したアイスノンだった。
「他にどこか怪我しているところはあるかい」
青くなっている目の辺りにアイスノンを当てながら、諒一はもごもごと戸惑った様子で答えた。
「別に大したことあらへん」
「比奈子、消毒液と絆創膏と、あと湿布を貼ってあげなさい」
「ホンマに大したことないねん。ようあることやから」
「そんなに頻繁にケンカってするものなのかい」
「せやから、ケンカとちゃう。親父にちょっと小突かれただけや」
その言葉に、湿布の準備をしていた比奈子の手が止まり、一瞬あたりの空気が軋んで固まる。
「あ~、それはつまり」
周が立派なカイゼル髭の下で、慎重に言葉を選ぶように形のいい唇を幾度か開閉させた。
「所謂、家庭内暴力というものなのか?もしそうなら、私達には警察へ通報する義務が生じてくる」
諒一は、周の発言の意味を測りかねるとばかりに、一瞬ぽかんと口を開いた間抜け面を晒す。やおら目を剥いて声を張り上げた。
「ちゃうわっ、なんでそんな話になんねん。あんたらの感覚ほんまにわからんわ」
「しかしだね、父親からそんなひどい傷を負わされるというのは尋常ではないことだ」
「俺んとこでは尋常やねん!ええ加減にしてくれ」
諒一はこんな場所には一秒でもいたくないとばかりに素早く立ち上がると、居間を仕切る襖に向かう。
「待ちなさい、諒一君」
「気安う名前で呼ぶなっ」
呼び止めた周に、勢いよく諒一が振り返って威嚇した。勢い、周と諒一の視線がばちりと合う。そこで不意に諒一が目を細め、しばし無言で周を眺めた。いきなり黙り込んだ諒一に戸惑うように、周は瞬きを数度繰り返している。しばらくして、諒一は元いた場所にどかりと座り直すと、誰のものともしれないグラスに、ビールを注いでそれをぷはっと一息に飲み干した。一連の動きは実に手慣れた動作だった。
「ええわ、ええ機会やから腹割って話しとこ。なあ、佐伯のおっさん」
左目にアイスノンを当てたまま、諒一は周に向きなおる。なにやら抗いがたい迫力に気圧されて、周は不覚にも背筋を正すように座り直した。
「今の親父、坂井のおっさんは俺の保護司をしてくれとった人や」
「保護司ということは、君は」
先をぼかした周の質問に、諒一は無言で頷く。比奈子は耳慣れない単語の意味を隣に座る勇吉に小声で聞いてみた。
「おじいちゃん、保護司って何をする人なの」
勇吉は少し困ったように眉毛をハの字に下げてから、それでも比奈子に分かるように説明してくれた。
「僕もよく知っているわけじゃないけれど、悪いことをして少年院にいった子や、少年院にまではいっていないけれど誰かの指導が必要だと裁判所で判断された子の面倒をみる人のことだよ」
それを聞いて比奈子は小さく目を見開く。
つまり、諒一は警察のご厄介になったことがあるのだ。
「今回のこれは、うちのばあちゃんから、客の女子高生泣かした話が坂井のおっさんの耳に入って、女の子泣かすとはなにごとか。ゴツーンや。俺は別におっさんが間違ってるとは思わんからこれはこれでええねん」
そこまで一息でしゃべって、再度ビールに手を延ばす諒一の目の前に、勇吉がそっとジュースの入ったグラスを置く。諒一はひくりと手を止めて、勇吉を見た。勇吉がにっこり笑う。憮然とした面持ちになりながらも、諒一はジュースのグラスを受け取った。甘いそれを一息に飲み干すと、更に周に向かって話を続ける。
「佐伯のおっさん。俺はあんたに聞いときたいことがあんねん」
諒一は目を座らせて、真正面から周を見る。周はカイゼル髭をぴくりと動かし、顎を引いた。
「あんた、うちのばあちゃんに本気なんか」 
ごくりと誰かが喉を鳴らす音が響く。それはその場を見守る比奈子達のものか、周なのか、それとも諒一自身のものであったのか、それはわからなかった。
「私は彼女さえよければ、本気でお付き合いしたいと思っている」
「ほんまに本気なんか。絶対か」
すかさず続いた鋭い声に、一瞬周が目を見張った。諒一は乾いた唇を舌で湿らせながら、一歩も引く気ないと強い視線で睨みつけた。居間に張りつめた空気が流れる。庭で鳴くセミの声がやたらと耳についた。深刻な雰囲気の苦手な一郎が、なぜか緊張した面持ちで所在なげに身体を揺する。重たい静寂を破ったのは、のんびりと諒一の名を呼ぶ勇吉の声だった。
「ねえ、諒一君、無闇に本気か絶対かなんて詰め寄られても、周も困ってしまうよ。諒一君は何をそんなに心配しているのかな」
勇吉のおっとりした物言いに毒気を抜かれたように、諒一は眦を少し和らげ大きく息を吐いた。そして、自分の思いをなんとか言葉にしようとするように、ゆっくりと話し始める。
「聞いとるかどうか知らんけど、ウチは今んとこ二代続いた水商売家系や」
うんうん、と勇吉が先を促すように相槌を打つ。
「佐伯のおっさん、あんた、それをどう思う」
「どう思うとは、どういうことかね」
せやから、と焦れたように唸って、諒一は短髪の頭を掻き毟った。
上手く言葉に出来ない自分に苛立っているようだったが、前回のように勢いに任せて怒りをぶちまけることはなかった。どこか周の様子を伺っているような、冷静さを残しているように、比奈子には見えた。
「俺はオカンにもばあちゃんにも感謝しとるし、何も恥じることはないと思てる。けどな、世間様はそうは見いひんやろ」
そう言って、値踏みするように、周を正面から見据える。それは、一五、六歳の少年がする顔ではなかった。どこかスレたような、小さな身体に不釣り合いな、すでに知らなくてもいい痛みを知ってしまっている人間のする表情だった。
「世間様」
一郎が、誤って変な虫でも飲み込んだような顔で諒一の言葉を繰り返す。
「あんた、どっかの大学の教授なんやってな」
間違いのない事実なので周が頷く。それがどうした、と三老人はまじまじと理諒一を見た。三人の視線に晒された諒一は飲み込みの悪い老人を相手に、もどかし気に声を荒げる。
「せやから。そのあんたがうちのばあちゃんにどこまで本気なんかっちゅう話や」
「私は浮ついた気持ちで五月さんとお付き合いをしているわけじゃない」
周の答えを聞いても納得できない様子の諒一は、殴られた痕も痛々しい目のまま、低く呟く。
「今は本気かもしれんけど、先のことは分からんやろう」
急に語気の弱まったその声には、どこか途方に暮れた子供のような心もとない響きがあった。すると、しばらく周と諒一のやり取りを静観していた一郎が急に、ああなるほどなあ、と妙に明るい声を出して、得心したとばかりに禿頭をぽんと叩いた。
「周さん、このボウズは周さんのお堅い職業柄を心配してるんだろうさ。五月さんのことが世間様に知られたら、変な噂でもたつんじゃあねえか。のぼせ上がってる今はいいかもしれねえが、いずれ重荷に感じるんじゃあねえかってな」
そうだよな、と周から自分に視線を移した一郎に、諒一は大きく頷くとグラスに残った甘いジュースを一息に飲み干した。
「ウチのばあちゃんをぬか喜びさせるようなことはせんとってくれ。気丈なばあちゃんやけど、あれでホンマは脆いとこも多いんや」
周は灰色掛かった瞳でじっと諒一の話を聞いていた。そして、何事か述べようと口を開き、また躊躇って口を閉じるという仕草を数度繰り返す。語るべき言葉を考えあぐねているようだった。
そんな周を前に焦れた諒一の手が今度は日本酒の入った酒瓶に伸びる。苛立ちを押さえきれないその若い腕から、筋張った細い腕が、やんわりと酒瓶を奪い取った。勇吉の腕だった。
「諒一君、お酒が好きかい」
「今はもう飲んでへん。昔は、味とかようわからへんし、酔えたらそれでよかった」
「それは、あんまりいいお酒じゃないね」
そう言って勇吉は諒一の開いたグラスに再びジュースを、そして、薩摩切り子に自分の分の酒を注いだ。それをちびちびと舐めながら、勇吉はふと遠い目をする。
「先のことなんてわからないよ。キミだってそうだろう」
無責任に聞こえるかもしれないけれどね、と勇吉は笑う。穏やかで、しかし諦観の漂うその言葉にはどこかしら寂しさの匂いがした。
「キミに比べれば、僕らの先々なんてたかが知れているんだけれどね。それでもやっぱり、先のことは分からないし、正直に言うと怖い部分もあるよ。それどころか、終わりが近い分、恐ろしさが増してきているような気がする」
勇吉は言葉を切って酒に口をつけると、ああ、おいしいねえ、とにんまり笑う。
「諒一君がお母さんやおばあちゃんを守ろうとしているんだね。家族を守るっていうことは、僕らの世代が必死になってやってきたことだからその気持ちは痛いほどよく分かる。そんなキミに、必ず守るとか、絶対幸せにするとか確約してあげられないことはとても心苦しい」
「そんな恰好ええこととちゃうけど」
言い訳めいて呟く諒一のグラスに勇吉がジュースを注いでやると、諒一も勇吉が空けた切り子に酒を注ぎ返す。横で見ている比奈子には、それが何だか分かりあった男同士のやり取りに見えて、少し悔しかった。
「人はどこからか人生の逆算を始めるんだよ。生まれた時は前だけ向いて登り坂の人生を歩いていける。成長して、働いて家族を持って。そしてある日不意に気がつくんだ。自分がもう坂を登り切ってしまっていることに。あとはこれまで必死で登って来た坂をゆっくりと下っていくだけだということにね。そうして、残りの時間を計算するようになる。そうなるとね、簡単に絶対とか確実という言葉を紡げなくなる」
情けなくてごめんねと勇吉は頭を下げた。いい年をした老人に頭を下げられ、諒一はドギマギした様子で意味もなく頭を振る。勇吉は諒一が注いでくれた酒を美味しそうに飲みながらぽつりぽつりと語った。
「最後の時を誰かと分かち合いたいっていうのは、とてもとても利己的で原始的な欲望なのかもしれないけれど、キミの大事なおばあさんを必ず幸せにしますなんてきっと周には怖くて言えないんだろうけれど、それでも誰かと共にありたい、できればその人は五月さんであって欲しいという周の弱さと甘さを許してくれると嬉しいなあ。勝手なことを言ってごめんね」
「ほんまに勝手やわ。けったくそ悪い」
諒一は、ジュースに口を着けながら、呆れたように長いため息をついた。
「ほんで、もし今の話をウチのばあさんが聞いたら、むっちゃ喜びそうなんがわかるから更にけったくそ悪い」
冷たいそれを飲みながら、諒一は悪態を吐く。その言葉に反応して、いつの間にかうつむいていた周が物言いたげに顔を上げた。諒一はチッと舌打ちをして、明後日の方向を向きながら独り言のように呟いた。
「ウチの家系の女は代々面喰いなうえにヘタレの優男に弱いんや。今、話きいとったら周のおっさん、ばあちゃんの好みどストライクやないか」
心なしか萎れていたカイゼル髭の両端がみるみるピンと綺麗に立ち上がったかのように見える程、目に見えて周の顔に精気が満ちていた。
諒一は、そのいつになく色艶のいい老紳士の顔を眺めながら、ホンマけったくそ悪い、と再度呟いた。
 比奈子は嫌がる諒一のシャツを半ば無理やり引っ剥がし、擦過傷に消毒液を吹き掛けながら、一人でにこにこと酒を飲んでいる勇吉を見ていた。周は諒一の祖母五月さん、一郎は主婦のみどりさん。
(じゃあ、おじいちゃんは)
勇吉はあの三人の女性陣のなかで誰か気になる人がいるのだろうか。二人の男性陣と被らない女性となると紅葉さんしかいないが、今回の婚活に参加を決めた時の勇吉の発言を思い出すと、なかなか難しいのかもしれない。

『僕も年下の女性がいいかな。先立たれるのはもう嫌だから』

十二年前、連れ合いを看取った勇吉。比奈子の前で涙をこぼしたことはなかったが、それからめっきり勇吉は痩せてしまって一回りほど小さくなってしまったと聞く。
 紅葉さんは今年でハ血三歳だという。初対面からこっち、比奈子は高嶺紅葉という人のことをどんどん好きになっていくが、勇吉と紅葉がお付き合いするとなると諸手をあげて大賛成というわけにはいかなかった。例え二人が心を添わせるようなことがあったとして、勇吉がまた近い将来、片割れを失う悲しみを負わなくてはならなくなる可能性が高いのだ。そのことを想像するだけで、比奈子は胸が痛くなった。
「痛いっ、お前ちっとは手加減せえよ」
考え事をしながら作業していたせいか、消毒液を掛け過ぎたらしい。ひどく染みたのか、諒一が抗議の声をあげる。諒一の背中には、擦過傷と打ち身の痕が生々しく残っていた。
「ねえ、これ本当に病院に行かなくてもいいの?」
「かまへん。そんな柔い身体してへんわ。アオタンは、配達の時にできたんもあるし、はよ慣れなあかん」
諒一の背中は、確かに小柄ながらみっしりとした密度と重さを持つ筋肉が付きつつあった。その造形や内に孕む熱量は、中学時代の同級生や、父、祖父といった、比奈子の知るどんな背中とも違う。もちろん比奈子自身とも違い、まるで全く別の生き物のように思えた。普段諒一はあの重い業務用の自転車を一人で操っているのだ。
比奈子はなんだか、悔しいような、一人取り残されるような不可解な不安に襲われてわざと乱暴に大判の絆創膏をぱちんと貼り、諒一にまたもや悲鳴をあげさせた。


夏休みが始まり、比奈子はいつもより頻繁に勇吉の家に顔が出せるようになった。シルバー合コンから半月ほどが経過していた。周は五月さんの携帯電話の番号とメールアドレスをゲットしたらしく、ご自慢のスマートフォンを眺めてなにやらにやにやとしていることが多くなった。例のおはぎのお重と一緒に五月の連絡先が書かれたメモが入っていたのだ。誰宛てとは書いていなかったが雰囲気を察した勇吉と一郎が引いた形になった。一郎はみどり相手に一度、破局寸前の大喧嘩をしたらしい。話をしていくうちにお互いの望む結婚観のズレが明らかになってしまったようだ。一時は一郎が酷く荒れて顔もみたくないと頭から湯気を上げていたが、結局、紅葉おばあちゃんが間に入り、復縁することと相成った。それ以降はそれなりに上手くやっているのだから、紅葉おばあちゃん、恐るべしだ。
 よく晴れた真夏の夕方。ちょうど近くの公園の鐘が四時のチャイムを鳴らす頃、比奈子は大量の食糧を持って坂道を登り、勇吉の家を訪れた。玄関先にはお馴染みのミニクーパー。そしてその隣には新参者の業務用カスタムママチャリが止められている。
 家の中からは相変わらずの笑い声とも怒鳴り声ともつかない騒がしいやり取りが聞こえてきていた。
 一声かけて居間に入ると、悪童の会の三老人と、そこに最近やたらと呼びだされているらしい諒一の姿があった。
「じいさん、あんたら呑みすぎやで。俺、ここんとこ週二でここに配達に来とる。勘弁してほしいわ。週二であの坂登ってんねんで」
「生意気いうんじゃねえ、その配達がお前の仕事じゃねえか」
「とはいえ、諒一君は高校生だ。学業が疎かになっては困るな。今度からは私が坂井さんのお店に伺おう」
「あんたそう言うて、ついでにウチのばあちゃんの店まで顔だす気やろ」
車を出す気満々だった周がむむっと唸る。
「それは下種の勘ぐりというものだ」
「下種とはなんや下種とは」
「まあまあ二人ともその辺にしておいて。ほら、諒一君、今日のお酒は田酒の古酒だよ。ちょっと風味が強いから食事と一緒に呑むよりは、お酒を楽しみたい人向けのものなんだけど、ちょっと飲んでみるかい」
「ええ匂いがする。クセがあるかも知れんけど俺は好きや」
「お、一丁前に酒の味が分かってきやがったか」
「しかし、勇吉、学生の本分は勉学にあるものだ」
「いいじゃないか周。諒一君は将来お酒屋さんを継ぎたいって言っているんだし、自分が売る商品の事を知っておくことは大事なことだよ」
「勇吉のじいさん、話わかるわ」
しかしだね、と未だ自分が隣町まで行く案を捨てきれない周はさらに喰い下がる。三老人プラス一若者のその一連の会話を聞いていて頭が痛くなってきた比奈子は、立ったまま諒一の手から酒瓶を奪い取る。
「その前に、諒一君は未成年です。いい大人が三人も揃って何言ってるの」
そこで初めて比奈子の存在に気付いた悪童の会のメンバーはばつ悪そうにお互いの顔を見合わせた。
「大体三人とも、普段からお酒を飲みすぎなのよ」
「おいおいヒナ公、とばっちりはごめん被るぜ。酒ぐらい好きに呑ませろよ」
比奈子が取り上げた酒瓶に手を伸ばす一郎から身をかわしながら比奈子はじとりと一郎の赤ら顔を眺める。
「一郎おじさん、この間の健康診断で肝臓の数値がかなり上がってたって聞いたけど」
一郎は、痛いところを突かれたとばかりに、うっと呻いて伸ばしていた手をぱたりと畳の上に落とした。
「周おじさんも、尿酸値が高かったんでしょ。それで痛風に気をつけろって言われたのよね。おじいちゃんも、糖尿病一歩手前だから食べものには気を使ってくださいって、松木医院の先生が言ってたもの。皆ほんとにしばらく禁酒したらどうなの」
三老人はなにやら口々に申し開きをしようとしたが、有効な言い訳を見つけることが出来ないようだった。諒一が胸に手を当てて、田舎の情報網、怖っ、と呟いた。



「では、ひと段落ついたところで会議に入ろうかと思う」
結局、一度比奈子が奪った田酒は老人達の驚異の粘りにあい、敢え無く取り返されてしまった。三人は満足顔でその酒を啜りながら、何やら会議という名のお遊びを始める様子だ。どこから持ってきたのかホワイトボードまで用意されている。議事進行役は、日ごろから教壇にたって、人前でしゃべることに慣れている周が務めるようだった。
「さて、本日の会議であるが、議題は次のとおりだ」
そういって、周はホワイトボードに手慣れた手つきでこう書いた。


① 一度目のデートはいつ頃決行すべきか
② どこへ行くのが最善か
③ 一度目のデートではどこまでの接触が許されるか
④ キスを行うには何度目のデートがよいか
⑤ どこで実行するのか最適か


周は流麗な字でそう綴るときゅっと音を立ててマーカーのキャップを着ける。すぐ近くで、諒一が派手に咽せた。
「さて、諸君の忌憚のない意見を聞かせてくれたまえ」
「はい、先生」
元気よく手を上げたのは一郎だった。
「では佐々木くん、どうぞ」
「俺あもう、一回目のデートってヤツを済ませちまいました」
「なに!?どういうことかね」
「この間、一緒に草餅の旨い店があるってんで、一緒にいきました」
「ふむふむ、美食の方向から行くか。それはなかなかの策かもしれんな。それでどうなった」
「餅を喰って帰りました」
「相手のご家族へのお土産は用意したかね」
「いや、二人で行って、二人で喰って、そのまま帰ってきやした」
「馬鹿者、我々シルバー世代の逢瀬はご家族の理解があって初めて成り立つものだ。特に相手のご家族には気を遣わなくてはいけない。マイナス三0点だな」
一郎はうへえといって頭を掻いた。
比奈子は体育座りで老人三人のやり取りを眺める。もっとも勇吉はニコニコと他の二人のやり取りを眺めているだけだったが。
「では、佐々木君、一度目のデートでどこまで接触を測ったのだね」
「はい、先生。肩を並べて歩きました」
「エクッセレーント!女性の歩調に合わせる、それが重要なのだよ佐々木君。プラス一五点だ」
一郎はへへへと笑って身体を無意味に揺すった。
いつの間にか比奈子の隣に座っていた諒一が疲れた声で比奈子に話しかける。
「これが五番まで続くんかいな」
「一郎おじさんの前の奥さんて、三歩下がっておじさんの影を踏まない人だったから、一郎おじさん的にはかなりの意識革命なの」
「あれで?」
「あれで」
「曲がりなりにも元既婚者やろ。退化しとるやないか」
「フェミニスト目指すんだって」
「無理やろ」
「私もそう思うけど、努力することを諦めちゃいけないっておじいちゃんが」
諒一はあきれ果てたように.天を仰いで長い長いため息をついた。げんなりする若者たちをよそに爺さま方はさらにヒートアップしていく。
「諸君、今佐々木君から貴重な報告があった。私は未だ紅葉ガイダンスに則り、電話とメールのやり取りが中心だ。外で会うときは大抵諒一君か娘さんがご一緒なので二人だけで会ったことはまだない。手を握ったのも初対面の時だけだ。このことに関して様々ご意見もあるだろうが、あえて一歩後退し、時間をかけて信頼関係を築いていきたいと思う」
「いい事だと思うよ」
「ありがとう」
鷹揚な声音で合いの手を入れた勇吉に、周は軽く手を上げて応えた。
「勇吉、お前には何か報告すべきことはないのか」
「ないよ。ないない。なにもない」
赤くなって否定する勇吉をそれ以上追及することはせず、周はふむ、と頷いただけで次の議題に移ることにしたようだ。
「では各自検討して該当番号一番と二番の課題に取り組むこととしよう。では次の課題だ、これはなかなかの難問だぞ。番号四番五番、これはどうかね佐々木君」
「いやあ、残念ながらまだでさあ」
「じいさんとばあさんのキスとか、誰がそんなん興味あんねん」
赤くなる一郎を眺めながら諒一が白けたように鼻白みながら呟く。
それを耳ざとく聞き咎めた周が芝居がかった動作で、優雅にそして機敏な動作で諒一に振りかえった。
「では、そこの若者代表坂井諒一君、キミならこの四番五番の設問にどう答える」
比奈子はホワイトボードに目を遣った。四番、五番には

④ キスを行うには何度目のデートがよいか
⑤ どこで実行するのか最適か

とある。キスという単語に正直比奈子はどきっとした。爺さま方の話はどこか遠い世界のお話のようで面白く聞けていたが、今、隣に座っている同世代の諒一の話となると急に生々しく感じて、無意識に少し距離をとってしまう。諒一はそんな比奈子に気づく素振りも見せず、面倒臭そうに頭をがりがりと掻いた。
「別にしたいときに、したい所でしたらええんとちゃうか」
「獣かキミは」
「そうだ、お前はケダモノか」
即座に周と一郎からヤジが飛ぶ。さすがにむっとしたのか、ほな、何時、どこでやったらええねん、と諒一が噛みついた。
「そうだな、一度目のデートではまだ早い。一度目は近場へ行って六時には家の門の前まで送っていかなくてはいけない。ご家族への顔見せも一回目ではまだ早い。この時は何も言わずに去るべきだ。そして二回目のデートで、軽くショッピングでもする。この際に本人とそのご家族の趣味趣向のリサーチをしておくことが肝心だな。そのためのショッピングだ。その日も当然、家まで送り、この時に前もってリサーチしておいた手土産を持ってご家族に挨拶をする。もちろん家に上がり込むなんて無礼なまねはしてはいけない。あくまで玄関先でお土産を渡し、お付き合いさせてもらっているという、顔見せ程度の挨拶だ。そして、三度目、ここが決めどころだな。少し遠出をして、自然の美しい公園であるとか、今頃なら海もいいな。どこか景色のいいところで、時間帯はそう、夕暮だ。茜色に染まる空が少しづつその光の力を失くし、僅かに影が濃くなる頃、そろそろ別れなければいけないという焦燥感が二人を焦がし、自然と会話が途切れたような時がベストだろう」
「乙女か!!」
最後まで聞いていたのは、諒一なりの譲歩なのだろう、と比奈子は思った。そして、周がずっと独身だったのもきっと彼のこういった側面のためだという自分の予想は案外当たっている気がする。全く関係のない比奈子でさえもいささか面倒臭いと感じるのだ。あれを常にやられては、相手の人は堪ったものではないだろう、いや、相手にもよるか。
考えこんでしまった比奈子をよそに、諒一は我慢していた何かをぶちまけるように喚いた。
「てゆーか。ご家族て俺らのことか。勘弁してくれ。あんたの妄想に勝手に俺らを登場させんな。しかも、そのキスする二人てあんたとうちのばあちゃんやろ。そんなん誰が聞きたいねん。きもすぎるわ」
これにはさすがにムッときた様子の周がトレードマークのカイゼル髭をひくりと震わせる。
「キミにはこのリリシズムがわからんのかね。実に嘆かわしい」
「嘆かわしいのは、じいさんの頭ん中や。なんやねんリリシズムて。ええ歳こいた少女趣味のじいさんの妄想やろが。海やろうが山やろうが、周りに人がおれへんかったら、ぶちゅっと、いったったらええねん」
「へえ、ぶちゅっといくの」
「そうや男やったらぶちゅっと」
勢いにまかせてしゃべっていた諒一が、ふと思い出したように、脇にいた比奈子に視線を向ける。
「ぶちゅっと」
もう一度諒一の言い様を真似て繰り返す比奈子の呟きを聞いて、諒一は見る間に耳まで赤くなった。そして意味もなく口をぱくぱくと開閉させる。比奈子は池の鯉のようだと思った。そんな若者組のやり取りとは別のところで、周は大仰に嘆息を吐いてみせる。
「よそ様の趣味趣向までどうこう言う気はないがね。キミには些か情緒というものが欠けている。情緒というものは、人間と動物を隔てる大切な要素の一つだ」
「俺が動物やとでも言いたいんか。俺かて情緒くらいもっとるわ」
「どうだかなあ、どっちかってえと動物に近しいものはあらあな。違うってんなら、見せてみろよ、お前のリリシズムってヤツをよ」
歯を剥いて怒る諒一を、一郎がさらに挑発する。諒一は耳から煙を吹きださんばかりの勢いで、ほんならなあ、と叫ぶように言い放った。
「ほんなら、佐伯のおっさん。あんたがほんまにそのリリシズムとやらでばあちゃん落として、俺の義理祖父になれたあかつきには、俺はあんたのことを、おじいちゃまて呼んだるさかい覚悟しとけ」
言った瞬間、周と、そして諒一自身も全身逆毛立つほどの鳥肌がたつのがわかった。
なんという嫌がらせの自爆テロ。まさに捨て身の攻撃だった。そのあまりの破壊力に誰もが言葉を失い、寒々しい沈黙が流れる中、比奈子は一人ひっかかっていた素朴な疑問を口にしてみることにした。
「ねえ、なんで家の中って選択肢がないの」
なぜか男性陣がぎょっとして、八つの目が一度に彼女に向けられる。そんなにおかしなことを言っただろうか。ひょっとして真意が伝わっていないのではないか。そう思い、比奈子は更に言葉を重ねた。
「なんで状況設定が全部屋外なの。家の中のほうが人目もないし、チャンスが多いんじゃないかと思うんだけど……」
「ダメだ。ダメダメ。比奈ちゃん、家の中はいけないよ。特にキミたちの年代はいけない」
比奈子の発言に被せる勢いで珍しく勇吉が声を荒げた。
「なんで」
勇吉、周、一郎、諒一の順に視線で問いかけるも、皆一様にわざとらしく視線を逸らせて誰も応えてくれない。
「だからなんでダメなの」
しつこく聞くと、一郎が所在なさげに身体を揺すりながら、言い難くそうにぼちぼち口を開いた。
「そら、お前、あれだ。その、なあ」
一郎は鼻の頭を掻き、諒一を見るが、諒一はこっち見るなと顔を背ける。
「あれだ、ほら、」
誰も助けてくれないと悟った一郎は口火を切った責任として、最後まで口にした。
「それだけで済まなくなるだろうよ。男と女てやつは。特に若けえのはよ。よく言うだろ車と何とかは簡単に止まれねえって」
言った瞬間、周が一郎の膝を、そして諒一がその禿げ頭をぴしゃりと打った。案の定、一郎は痛え、と悲鳴をあげる。
「ちょっと、ひどくねえか。お前らが俺におしつけたんじゃねえか」
「言い方が下品なんだ。お前は」
「おい、諒一。なんでお前まで殴るんだよ」
案外な強さで殴られたのか、赤くなった頭頂部を抑えながら一郎が諒一に噛みついた。
「気にしな。ただの突っ込みや。関西人の習性みたいなもんやから」
諒一は、叩いた右手をひらひらさせながら、しれっと流す。
なにおぅと立ち上がる一郎を、まあまあといって勇吉が納めに入り、気を逸らさせるように新たな酒を勧めた。もしかしたら自分は大変なことを聞いてしまったのかもしれない。比奈子は急に恥ずかしくなって、使い終わったグラスや小皿を下げる名目で、台所に逃げ込んだ。
 流しで、グラスを洗っていると、まだ残っていたらしい使用済みのグラスを持って、諒一がやってきた。
「これ、まだ残っとったから」
「あ、うん。ありがとう」
受け取る時、自分が晒してしまった無知が恥ずかしくなり、比奈子は諒一の顔を見ることができなかった。様子のおかしい比奈子に気遣ったのか、諒一は言葉を探すように、自分の手でぞろりと顎を撫でた。その手が、小柄な諒一の体格に比して意外なまでに大きいことに気づき、比奈子はまた訳もなく俯いてしまう。俯いてしまう自分に比奈子自身が驚いた。
「あー、と。まあ、そない気にすんな。ただの下品な親父ギャグや。ネタにされただけのことやから」
「うん。気にしてないよ。ありがとね。一郎おじさんに悪いことしちゃった」
「ええて、そんなん。お前の前で言わへんだけやから。お前おれへんかったら、あのじいさんの話八割方シモネタやぞ」
「そうなの?」
「おっさんてそういう生きモンやろ。お前とこのじいさんが変わっとるんや。まあ、佐伯のじいさんも別の方向にかっ飛っんどるけど」
せやから気にすんなと言い残して、諒一は居間に戻っていった。比奈子はというと、何故か大きく骨ばった諒一の手にどきどきしてしまった自分に驚くばかりだった。
 比奈子が居間に戻ると、何故か四人は縁側から庭に出ていた。夏の夕暮れの空では、濃い橙色をした巨大な太陽が本日最後の出血大サービスとばかりに四方八方に茜色の光を放ちながら山の際に蕩け落ちようとしている。昼間はうるさいほどの大合唱を繰り広げていたセミたちも、今はその気配すら感じさせない。
「で、このフレーム部分がその炭素繊維強化プラスチックで出来ていて、アルミよりずっと丈夫で軽いんだ」
悪童の会の三人と諒一が何やら庭の一角に集まっていた。縁側から覗き見ると、輪の中心にあるのは、真新しい自転車だ。その自転車について、珍しく勇吉が長々と熱弁をふるっている。
「耐熱性にも優れているし、強度も高い。その上錆難いっていう優れものだよ。諒一君は商品を乗せて走るから、やっぱり軽い方がいいだろう。荷台部分もこれで作ってあるから、荷物が重すぎて変形しちゃうこともなくなるよ。ただ、繊維を寄せ集めたものだから破損した時に、一見して分かり難いのと、修理が難しいのが難点なんだ。だから、何かあった時には早めに言っておくれ」
真新しいその自転車は悪童の会のメンバーから諒一へのプレゼントらしい。サドルが高い位置にある設計で、車両後部に用意された荷台もバランスがとりやすいよう計算されているようだった。現在、諒一が配達で使用している自転車は所謂ママチャリに無理矢理大型の荷台を取り付けたものだ。確かにあれでは、重い荷物を運ぶ時大変そうだった。
「つまりこれ、あれか。カーボンファイバーで出来てるってことか。あの競技用に使こてるような」
諒一はしゃがみこんで繫々とその新しい自転車を眺めている。
「一般的にはそう呼ばれているね。これは重い荷物を運ぶようにちょっと素材の分量とコーティングの仕方を変えているから、厳密にいうと違うんだけど」
「ようわからんわ」
「つまりぁ、お前使用の特注品ってことだろうよ。四の五の言わずもらっとけ」
恐らく一番理解していないであろう一郎が、がははと豪快に笑う。諒一はペダルの部分を手で回して車輪の回転を確かめながら、恐々と呟いた。
「カーボンファイバーて、これ、めっちゃ高いんちゃうん」
「馬鹿野郎、子供が値段の事なんか気にすんな」
ダミ声でがなる一郎に、同じくらいの勢いで諒一が噛みつく。
「アホか、気にするわ。これ、普通に一台十何万はするやつやろ。」
諒一の明かした相場を聞いて一郎も顔色が変わり、近くにいた周に、自転車ってのはそんなに高ぇのか、と小声で尋ねていた。諒一は名残惜しそうにハンドルを手で一撫ですると、きっぱりと未練を断ち切るように自転車に背を向ける。
「あかん、勇吉のじいさん、こんな高価なもんホイホイもらわれへん」
そのまま屋内に戻ろうとする諒一の背中を勇吉が慌てて引き戻す。
「値段は気にすることないよ。もともとタダ同然なんだから」
「タダなわけあるか。俺かてチャリのカーボンファイバーフレームくらい知ってるわ。しかも、カーボンファイバーって素材自体がむっちゃ高い上に加工が難しいねやろ。それを俺使用にカスタマイズて、一体いくら掛かっとんねん」
馬鹿にするなとばかりに声を低くする諒一に、勇吉は困ったなと眉を下げる。
「本当に申し訳ないくらいお金はかかってないんだよ。もともと僕が持っていたカーボンファイバーを古い知り合いのところに持って行って、手間賃も払わずに作ってもらったんだから」
「古い知り合い?」
未だ疑わしいと語尾を上げる諒一相手に、勇吉は更に言い募る。
「僕が働いていた頃の取引先で、昔、自転車を作っていた製作所があるんだ。今はもう自転車は作っていないんだけどね。そこの社長が今度、代替わりするとかで、引退式に出席してきたんだよ。そこで、そういえば昔うちの会社でも炭素繊維強化プラスチックの生産ラインがあったねって話になって」
話しを聞きながら比奈子は目を丸くする。伯父の会社がそんなハイテクな技術を扱っていたとは知らなかった。そういえば、比奈子は勇吉の現役時代のことをほとんど知らない。比奈子が物心をついた頃には勇吉はすでに隠居してこの家で一人静かに暮らしていたのだった。勇吉は渋る諒一を説得すべく更に言葉を続ける。
「息子に聞いてみたら採算が合わないとかで何年か前に閉めてしまったらしいけど、製品自体は残っていたからね。その話を製作所の先代にしたら、久しぶりに自転車が作りたいねっていう話になって、じゃあ、ちょっと知り合いの子が自転車で配達に回っているからその子の自転車をお願いしますっていう話になったのさ。ようは爺さんの手慰みなんだから、気兼ねせずに使っておくれよ。彼は、諒一君がそれに乗って配達に来るのを楽しみにしているんだよ」
らしくもなく熱心に言い募る勇吉に負けたのか、諒一は無言で件の自転車のところまで戻り、サドルに腰を降ろして俯いた。
「貰ってくれるかな」
俯いたままの諒一が微かに頷く。
「リピーターさんは大事やからな。その爺さんの住所、教えてんか」
呟く諒一の耳が、微かに赤くなっていることを比奈子は見逃さなかった。実は相当嬉しいのかもしれない。縁側に座って一連の成り行きを見守っていた比奈子の隣に、いつの間にか周が腰かけている。日が落ちると昼間の暑さが和らいで、ほんのわずかながら乾いた風が庭の樹木の葉をさらさらと揺らしていた。
「比奈ちゃんは、勇吉の現役時代を知っているかね」
比奈子はふるふると頭を振る。
「文学畑の私にはよくわからないが、あの素材、カーボンなんとかというのは、勇吉が一番力を入れていた分野だった。当時、まだまだ開発途中でなかなか周りの理解を得られなかったから、製造ラインを作るのにも苦労していたよ」
周は夕闇に溶けた太陽の痕跡を探すようにどこか遠い目をしていた。
「勇吉は学生の頃、化学者になりたいと言っていたんだ。先々代の意向もあってそれも叶わなかったけれど。人生とはわからないものだな。家のためにと家業を継いで家庭を築いた勇吉と、自分の好き勝手をやって未だ独身の私が、なぜだか、何時の間にか隣に立っているのだから」
比奈子はその話を聞きながら、自分の知らなかった勇吉の人生を思い、その時間の長さと密度を前に慄然とした。勇吉にも、勿論、隣に座る周にも一郎の身体にも何十年という、比奈子からすれば途方もない時間と密度が刻みこまれ、その重みを背負って生きているのかと思うと、いつも身近にいる老人たちが急に遠くて、そしてどこか触れ難い存在のように感じた。その感情に名前をつけるなら、畏怖というものなのかもしれない。
 群青色に染まった空が一番星を連れてきた。そろそろ家に帰らなければいけない時間だった。

おじいちゃんの婚活1

おじいちゃんの婚活1

高校一年生の里永比奈子はおじいちゃんっ子だ。早くに連れ合いを亡くし、穏やかな隠居暮らしをしている祖父、勇吉の家には、いつも勇吉の悪友である大工の佐々木一郎と大学教授の佐伯周が入り浸っていた。三人は幼いころからの付き合いで、それぞれの事情により、皆、独身だった。大工の一郎が怪我をしたことがきっかけに各々の現在の生活に不満と不安を覚えた三老人は、老人限定婚活サークル「プラチナシルバーライフ」に入会し、婚活を始める。「人として生まれ、男として人生を過ごし、今や残された時間も少ない我々から、人生の終の楽しみを奪う権利を、一体誰が有しているというのか。諸君、我々は今こそ行動するべきなのだ。行動するジジィになるべきなのだ!」比奈子はこの婚活に巻き込まれ、一人の少年と出会う。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-06

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