目を回す心

 白く硬い渦が僕を包む。ぐわん…と音をたてているようで、僕は少し眩暈を覚える。極度の緊張が眩暈を持ち込んだことを何となくだけど想像出来たので、僕は眩暈に飲み込まれることはなく、立ったまま待つ。
その内に看(むい)が病室から出て来る。
 「おかえり」と僕は言う。
 「暇やった?」
 看が訊くので、僕は首を振る。看は相槌のようにしてにこと笑う。だけどその表情には疲れが見える。ここ一ヶ月の治療の単調さが苦しくなってきているのだろう。院内の殺風景な白い廊下を看と二人で歩きながら、僕は前担当医の松橋茂との会話を思い出す。
―あの子は、遠藤くんは心臓と脳の位置が生まれつき逆なんですわ、胸に脳、頭に心臓。…本当に? それで生きていられるものなんですか? 僕は訊く。 生きていられるかって、実際にあの子はああして二十三歳になって歩いてますやろ、まあ実際そんな不思議なことでもありませんでな、ただ位置の逆転が起こっているだけで、それらをバイパスしてる器官やら神経やらっていう諸々はちゃんと障害もなく動いてますわ、ただ、他の人らよりそれらが多少長いし、長い分デリケートみたいやけど。 へえ…。 へえ、やあらへんですよ西島さん、問題が全く無い訳やあらへんのやから。 というのは? それが分からんのですわ。 は? 先生、今問題はある的な事言いましたよね? だから、前例が無いんですわ、脳と心臓の位置の逆転についての、不思議なことはあらへんけど、実例が無いからそういう身体の構造の子はどういう疾患を起し易いとか、それに対する対処の仕方の予測がつかない。 つまり、先生は何を言いたい訳? あの子はいつ何時死んでしまっても全くおかしいことは無いってことですわ―。
僕は思い出しながら胸の奥にちりちりと怒りを燃やす。勿論、松橋が見当違いの事を言っていた訳ではないというのは分かっているし、まあ多分、医者としての率直で簡潔な見解を述べただけなのだろうと思う。だけどその素っ気無い態度が、僕にはどうしても医者として匙を投げているようにしか見えなかった。何時死んでしまっても全くおかしいことは無い? そんなの、僕もお前も変わらないだろ。命の保障をされてる人間が、一体何処にいるんだよ?
隣を歩く看を見やる。さっきよりは表情が和らいでいる。時間が経って緊張が解れたのだろう。診察室では緊張がピークに達するし、それに担当医が一ヶ月前に変わったばかりで、まだ慣れていないのだ。新担当医の新澤ここみは「いい? 看ちゃん、あなたは色々な事を考えてそれを心に取り込んでいかなければならないし、それは周りの人達より少し多めで大変なの。だけど急ぐ必要は無いのよ。ゆっくり時間を懸けてやればいいし、もしやり方が途中で違うと分かったり肌に合わないなと思えば、その時その段階から変えればいいだけのことなのよ」と、初回の問診でこれを告げ、その後基本的には看のスタンスとペースを主軸にして身体との折り合いをつけていこうという、カウンセリング中心のものとなっている。事実この一ヶ月の間の通院八回においては、投薬や検査などの行為は全く行っていない。松橋の時はとにかく白血球や血小板の濃度を平均値に持っていこうとしたり、分泌物が過剰に活動するのを常監視していなければならないといって毎週毎週検査検査検査だった。そして毎週毎週新しい薬薬薬。松橋は、看の身体に異常を探すのに必死だった。治療が目的じゃなくて、異常を探すのが目的のように。心臓と脳が逆なんだぜ? いやそりゃ異常があって当然だろ? そんな風に言いながら看の身体を診ているように見えた。僕は、そんな風に粗探しみたく看の身体を診ている松橋に嫌気がさして、ある時検査棟と一般病棟とを繋ぐ渡り廊下で松橋をつかまえてその場で殴り散らしてしまったから、担当医が変わることになったのだけど。看はこの事を知らない。僕と松橋、看の両親と病院側というスクエアな関係の中で、担当医を変えるという条件で何とかおさめてもらったのだ。看の両親も松橋の検査投薬検査投薬っていう作業的なスタンスに前々から疑問をもっていて、どんな理由にせよ看のことを治療している医者を殴るなんていう暴挙に出た僕をまったく咎めなかった。いやあ担当が変わってかえって良かったんじゃないか、なんて僕の擁護をしてくれたりもして、僕はかなり―妙な形ではあるけど、救われていたのだ。おそらくは看も。でも…、と。良かったとは手放しで言えない僕もいる。確かに松橋は検査や投薬を過剰に思えるほど行って、看を治療という名の縄でぐるぐる縛っていたが、新澤のやり方が看を救っているかと言われれば、僕は黙らざるを得ない。看は一ヶ月経つ今でも新澤に慣れていない。新しい治療スタイルにじゃなくて、新澤本人に。それが看の我侭だと言ってしまえば、まあ確かにそういう部分もあるだろうとは思うけど。「萌人(もえと)君、いい?」新澤は言う。「問題なのは、看ちゃんの身体じゃなくて看ちゃんの心よ。あの子は実際に自分と他の人との身体が異なるっていう事実を、深層的に拒んでいる。それでは駄目なのよ」新澤は看の新担当になってから週二回のアセスメント面接を行い、三週間目の僕との面談で先の事を告げた。はあ? あんた今まで何やってた訳、と僕は思った。おいおい…、それ、心理療法じゃないの? 看の心はどこも病んでないからね? 大体看の身体は心臓と脳が逆だって分かってから今まで内科的治療でずっと来てたのに、担当が精神科医になってしかも治療法まで変わるって。そんな風に都合で振り回されるから看が疲れているのだし、未だに慣れてないんだって。っていうか慣れたくないしそもそも治療して欲しくないんじゃないの? 僕は苛々する。内科的臨床が正しいのか精神科的臨床が正しいのか。正直、そんなことはどうだっていい。看の身体の状態は取り分けて進退してないのに、看の表情は暗くて、うつろなままなのだ。その看の顔は駄々をこねる子供そのものだ。だけど僕は思う。あんたらは確かに必死かもしれないけど、僕だってこんな看は見たくないんだよ。切実なんだよ。これだけははっきりと思える。僕はその内に新澤にも拳で訴えてしまうかもしれない。暴力なんてそもそも得意でも好きでもないのに。
 会計を済ませてから入り口脇にある軽食喫茶に寄る。僕も看も、薄口の味付けが気に入っていて、特に三つ葉と明太子のパスタが美味しい。食事制限を色々つけられていた松橋時代と違って、最近の食事の時の看は明るい。
 僕は今更のように訊く。
 「ねえ、看、…心臓と脳が逆って、どんな感じ?」
 きょとん、として直後に笑う看。
 「あははっ、何言ってるんよモエちゃん。今まで何回も訊いてきたやん? それともまた忘れたん?」
ふふ、と僕も笑って返す。「違うよ、いつものやつ、聞かせてよ?」と僕は繰り返す。
いつものやつ、っていうのは僕が看に過去数限りなく訊いてきた「心臓と脳の位置の逆転による得したこと」で、看が実際に感じることによって救われている看自身の感覚のことだ。看がふとした時に思い浮かべるイメージや、人と接する時に表れる心の動きなんかを看が歌うように話すのが、僕は好きだった。それらの感覚と、心臓と脳の逆転との因果関係は僕にはつけ難いけど、看が実際に身体を通して抱いている感覚ってのを言葉として色鮮やかに語る行為が、看を例外無く笑わせていたっていう事実は僕にとって安心以外の何ものでも無かった。話している間中その猫みたいな細い目が更に細くなって一筋の曲線になっている看を見て、僕はほっと出来たのだ。
看が心に張った泉に手を優しくつける。波紋が揺らぐ。「…んとなあ、まず何といっても血管が丈夫なことやんなあ。私の身体は心臓と脳が逆やで、ほら、心臓が身体の頂点に位置しとる訳やろ? 位置エネルギーが普通の人より大きいから血流が激しいんや。その分血管も頑丈やないと簡単に破裂してしまうんやけど、まあその辺バランスとってくれたんかなあ、私の血管は普通の人の二・五倍は太いんや。あとは…」。僕は看の話を聞きながら思う。血管太いのか。初めて聞いたな今の話。へえ。そういう―身体についての具体的な話はそういえば今まで無かった。
 僕は看の話を遮って一つ訊く。「血管のこと、初めて聞いたんだけど、看も最近聞いたの?」「…」看は黙って、何も答えない。僕は看に話を続けてもらおうとする。だけど看は黙ったままで、僕の方すら見ようとしない。「…看? どうしたの看? 何か具合でも悪くなった?」。看は僕を見ないまま答える。薄暗い声で。
 「…モエちゃん、私のことちゃんと考えてくれなくなったね」
 僕は呆然。ちょっ、待って待って、何処からそういう展開になるんだ? 今の流れで? 僕は引き続き訊く。
 「看、どうした? 僕が何かした?」「そういうところ」
 …ん?
 「最近のモエちゃん、いっつも私の顔色伺ってばっかりで、本当に私のこと考えてくれん」「そんなことないだろ」「あるわ、モエちゃんが訊いとるんは、モエちゃんが本当に訊きたいことじゃないんよ」「そんなことないって」「あるって。モエちゃんは、私と寄り添ってる誰かの影や」は? 影?「私の隣にいっつも居て、私といっつも喋って、私の事をいっつも心配してる、そういう誰かがモエちゃんの心の中にはいつの間にかいたんや。モエちゃんはそいつに自分の立ち位置をとられてしもて影になっとるんや」影。よく分からない喩えと一方的な語り口が少しいらっとしたので、僕は言い返す。「僕は影じゃないし、それに例え影だとしても僕は看の事いつも考えてるし見てるし、そんな訳の分からない奴の気持ちなんか僕の中の何処にもないよ」
 「あるんやって」看は引かない。
 「ある。誰かの気持ちはあるし、モエちゃんの気持ちは何処にも無い。もう私のことなんてどうでもええんや」「どうでも良かったらこんな風に付き添って無いって」「義務感や憐憫だけでも、人間はそれっぽく行動出来んねんよ?」「…僕はそうじゃない」「大体、血管の話は何回もしたわ」
 「…え?」
 「何回もしたわ、血管の話。モエちゃん、自分が想像膨らませられる話しか興味無かったの、私知っとるよ? モエちゃんは私の気持ちの話を『話』としてしか捉えてくれてなかったやろ? 『気持ち』として捉えてくれてた? 話の奥深くまで掘り下げようとしてくれたこと、一度もないもん。モエちゃんにとってはただのお話やったんや。映画や漫画やアニメや小説やらそういうのと同じ、フィルター通した向こうの誰かのお話や。お話として見てんねやもん、本音言っても仕方ないわなあ?」
 そこまでをほとんど一息かと思うほどに続けて喋った看は、椅子から立ち上がって喫茶の出口へと向かう。まくし立てられて唖然としていた僕に振り返り、
「付き添いもしばらくええよ、おでこ、触ってほしくないわ」と、そっと言う。
 看が去ったテーブルには、暫くしてパスタが二皿並ぶ。
 僕は一人きりで並んだパスタを見つめる。そのうちに二皿ともを平らげ、勘定を済まして帰路に着く。


 看が言ったこと。
僕は看の気持ちを考えてない。僕は本音を誤魔化している。僕は看の話を「気持ち」としてではなく「お話」として聞いている…。
 本当に?
 うん、多分本当だ。看が言った通り、って訳ではなくて、看と別れてから時間が経ち幾分かクリアになった思考と自分の気持ちを擦り合わせて考え直してみて、僕は僕に頷ける。
 僕は思い出す。看と過ごして来た時間の流れを、掻い摘むようにゆっくりと。言われてみれば…、って言われて気づくようじゃ遅いのかもしれない。だけど、最近は特に、看の事を考える時間の割合が多くなっていて、しかもそれが大体の場合自己未完だったことに思い至る。自分一人だけで考えて、しかも完結や解決に至っていない。うわ、最悪だな…。看はきっと僕のそういう部分―一人よがりに献身的になり過ぎている僕の態度や言動ってのが、「二人で歩いてない」って感じがしてしまって、私のこと考えてくれてないって言ったんじゃないか? 看は賢い子だ。僕の考えてること位、全部が全部とは言わないけど、大体は分かるだろう。そしてそれが自分の身体についての内容だってことも。僕は僕なりに親身になって考えている。だけど問題は、考えているっていう事実やその深度じゃなくて、その考えるっていうことの共有にあったのだ。看はそれを望んでいたから、それをしようとしない僕に対して腹を立てたのだ。
 確かに僕は影だったかもしれない。僕は看との会話の裏に、無意識の内に「こう言ったら看は悲しむだろうか」、「こう言えば看は喜ぶだろう」、「怒るだろうからこれは無し」、「楽しい看でいつもいて欲しい」というような疑問や条件や期待を込めてしまっていた。…いや、きっとこれらだって最初は意識的にやっていたに違いない。僕は僕自身の感情が看に余計な心配を与えることを拒んで、こうやって感情のコントロールを選んだ筈だった。僕なんかの事で悩むんなら、自分の身体のことで悩んでくれ。こう思ったのだった。だけどそれは間違いで、僕は自分の本音っていうものを捨てていたし、それを捨てるってことはイコールで自分というものを人に見せないってことだ。看にすら。
 去り際の看の言葉を思う。「おでこ、触られたくない」。これは看の持っている一つの特別な感覚にルーツがある。看は人の心の所在は「heart」、つまり心臓の位置とリンクしていると信じていて、頭に心臓を持つ看にとってはおでこを触られることは心を触られるのと同義なので、今の僕なんかに心なんてコアな部分触らせませんよって思ったんだろう。僕の胸に看の辛らつな訴えが響く。「心見せてくれない人になんて、誰が見せたいと思うんよ?」…。
 僕は阿呆だ。遠慮なんかしてる場合じゃなかった。遠まわしなじめじめしたしょうもない気遣いなんてするんじゃなかった。色々な想像が邪魔だった。僕は看のことを考えた末に行き着いた結論のつもりでいたし、その結果は看の全てを包み込む言葉となる筈だった。看の抱える痛みや悩みを背負う。守る。それが僕の気持ちの自己未完や感情のコントロールに備わっていた意味だった。だけど違う。それらは全部的外れで、僕は看のことを一生懸命考えているつもりだったけど、実は看のことなんてまるで関係ないことばかりだったんじゃないか? 心臓と脳の逆転なんて大変な構造をその小さい体に抱えて辛いだろう、毎週毎週終わりの見えない治療に通って、しかも方針や目的すらもあやふやな中で不安だろう、でも看とは違う身体を持つ僕が果たして看に説得力のある言葉をどれだけ言ってあげられる? そんなずれた事ばっかり考えてたから駄目なのだ。一方通行な思い込み。親身になるって、こういう事じゃないんだろう。少なくとも看にとっては。
 看は僕としての鮮度の高い気持ちを僕の口からすぐさま出して欲しかったに違いないと思う。すっ、と思いついたことをまた、すっ、と言葉にするというリズム。思いつきでもいいんじゃないか? それが仮に看を傷つける結果になってしまったとしても。
 帰り道の途中で看に電話をしてみる。……出ない。コールはし続けている。留守電にも保留にも話中にもならない。意図的に避けているんだったらアウトだけど。まあそんなこと、今の僕にとってはどうだっていい。
 予定変更をして看のアパートへ向かう。真っ直ぐ帰ってればいいんだけど。嫌がられるかもしれないが、そんなのも嫌がられてから考えればいいのだ。
 看の部屋の入り口に立ち、チャイムを鳴らす。ドア越しに、部屋の中に響くインターホンの音色が聞こえる。鳴り終わって、暫く無音。もう一度ボタンに手を掛けようとしたところで声がする。
 「はあい…? だあれ…?」
 ドアのすぐ裏側にいるのに、潜んでいるような弱くか細いその声が言う。
 「…モエちゃん?」
 「そうだよ、看? ごめん、開けてもらってもいい? 話、したいんだけど」
 看はすぐに応える。「うん、うん、私も話、したいわ、でもね、準備出来てないんよ」
 「…準備? 何の?」
 「心の」
 「そっか、じゃあ、僕出直そうか」
 「ううん、大丈夫、あと少しで出来るんやけど、もうちょっと待って?」
 「うん、分かった…、っていうか看、声、おかしくない?」。ドア越しに話しているにしたって、少しボリュームが足りない気がする。あとちょっと妙に篭った感じ。
 「何か、喉でもやられた?」僕は訊く。
 「そうじゃないんだけど…、まあ、ちょっと、開ければ分かるよ、ドア、鍵開いてるから入ってええよ? 準備、出来た」
 看のその応えを聞いて、僕は一間置き、ドアノブを回す。ドアを開けるとすぐに看の顔が見えると思っていたのに、看の定位置である筈の僕の胸のライン上に看はおらず、目線を下げるとぶかぶかのカーディガン一枚を着た小さい看がいる。
 看が縮んでいる。
 姿形はそのままに。サイズだけ。一…、二…、五回りくらい?
 僕は唖然とする。予測範疇外の出来事に、頭の回転が全くもってついていけない。僕の視線の先には小さい看が何だかバツの悪そうな引きつった薄い笑いを浮かべている。何だこれ? 人が縮むなんて事があり得るのか? でも実際、今目の前にいる看は小さくて、きっと元の看の半分にも満たないだろう。六十センチくらい…? 確かに縮んでいる。看は元の身長から、身長を奪われて今の姿になったのだ。どうやって? 一体何者がどうしたら、人に余分な外傷も影響も与えずに、身長だけを縮めるなんて芸当が出来るだろう? そして何の為に? 分からないことだらけの渦の中で、僕はふと思う。心臓と脳。逆転。…もしかしてこれらが働いて看の身長を奪ったのだろうか? …あり得ると思う。人の身長が縮むなんてことが起こっているんだから、その因子についての是非だって、どんな形でもいいんだと思う。起こり得る。
 看がぽんぽんぽんと僕の脛を叩く。両手で必死に叩いているが、質量の小さい拳は僕にあまりダメージを与えられない。「ひとりで考えないで~」と言いながらぽんぽんぽんと脛を叩き続ける看はむすりとしている。僕が色々また一人で考えあぐねているのが分かったんだろう。
 僕が「ごめんごめん」と言うと、看はむすっとした表情を少しほぐして、伺うように言う。
 「…びっくりした?」
 「まあね」と僕は応える。
 「そんなもんなんや、何やつまらん」
 「つまらんって…、看楽しんでない?」
 「楽しいことないわ~」と言ってまたぽんぽんぽん。
 「帰ってきて、帰ってくる間に色々考えてて、なんかもう疲れた~って思ったから少しちょっと寝ようと思って、寝て、起きたら、こんなんやってんも~ん、電話も出来んし、ドアも開けられへんし、もうどうしよ~って思ってたらチャイム鳴ったんや~、あ~ん…」。看は半分笑って半分泣く。僕は、「うん、そうか、そうだね、看、ごめん、僕、何も考えてなかった」と今胸の底からすうっと湧き上がってきた気持ちをそのままに伝える。
 「…なん? いきなりどうしたん?」不思議がる看。「僕、看の話聞いてなかったり、勝手に突っ走って一人で看の気持ち知った気になったり、望んでもないこと押し付けてばっかりだった、本当に、ごめん」「ううん、そんなこと無い、そんなこと無い、私、モエちゃんが私のこと考えてくれてるってのははっきり分かったし、ちゃんと伝わってたんだけど、私、やっぱり一方的にされるのが嫌みたいで、頭で分かってたけど身体がついていかなかったって感じで…」
 そこまで言って看の声が徐々に窄んでいき、看は泣き出す。大きな声で。
「…あ~ん! だって、私、もうモエちゃんのこと許してあげようって思ってるのに、病院でのこと許してあげて、だって私、その前から、ずっとずっと前からモエちゃんが私のことすっごく考えてくれてるってはっきり分かってたのに、なのに縮むんやも~ん! 私はもうモエちゃんの心に触れたくて、あったかい所に行きたいのに、それを嫌がる意地悪な私がいるんやも~ん! そいつが私の身長縮めてしもて、私の心をモエちゃんの心から離そうとするんやも~ん! あ~ん! どうしたらええか分から~ん、あ~ん、あ~ん…」
 泣きながら必死に両手を天にかざす看。開いて閉じてを繰り返す看の小さい掌を見ながら僕は困惑するが、しかし同時に納得する。
 看の心は、僕の心から離れたかったのだ。
 看は自分の心に僕に触れて欲しくないばかりか、僕の心に近づくのすら嫌がって、拒否して、その気持ちが看の身長を縮めたのだ。僕と心の距離を取りたいという看の強い思いが、物理的な意味合いでの距離をも広げてしまった。
 目の前の状況と看の訴えが合わさってこの事実がほぼ間違いないという段階まで進み、僕は自分が看から圧倒的に拒否されてるっていうことはそっちのけで、ああ凄い、と思う。人の気持ちって、そんなことも可能にさせる程、強いものなのだ。願い、祈り、ひたすらに訴えるその強固な気持ちが、思いもよらない形で現実になるという事。そういうことってあるのだ。様々な形を伴って。
 僕は看を抱き上げる。小さい看。こんなに軽いのか…。その急激な上昇に看は少しびっくりしたのか、一瞬身体を強張らせて嗚咽をも止める。けど僕が看のおでこを僕の胸にぴたりとつけて抱きしめるようにすると、また、あ~ん、あ~んと泣き出す。僕は暫くそのまま動かずに、看の心を抱く。
 そして、看は自分の「モエちゃんの心に触れたくない」という気持ちの裏に「本当は触れたい」っていうもう一つの気持ちを感じて、その矛盾した二つの気持ちの折り合いのつかなさに僕への内なる不信があるんじゃないかっていう解釈をして頬を濡らしたけど、それで正しいのだと僕は思う。人の気持ちなんて一つじゃない。いつだってごちゃごちゃしていて、それぞれが矛盾していたり包含されていたりとおよそ論理などとは無縁の領域にいる筈だから、そのままにしておけばいいのだ。共存させておく。思い出したらまた迷えばいいし、二つの気持ちがぶつかりそうでも、そんなもの勝手に喧嘩させておけばいい。どっちが本物でどっちが偽物、どっちが生き残るべき気持ちだとか否かとか、そういうのは無いのだ。
 看が僕の胸の中で寝てしまい、僕はベッドに行く。思う。…このまま看の身長が戻らなかったらどうしよう? あり得るとも思う。あり得ないとも思うが、僕はまあ別に、どちらでもいいと思う。戻らなくてもいいんじゃないかとも思う。あまり重要な事ではない。それより何より、僕にとってはこうして看の寝顔を傍で見れるというような些細なことが大事なのだ。しょうもないことだ。看が起きて、看の身長が元に戻るかどうかなんてどうでもいいなどという、僕のこの気持ちを看が知ったらまた怒るかもしれないし、やっぱりモエちゃん判ってないよ…と、別れを告げられるかもしれない。でもこれこそが僕の本音なのだ。誤魔化しようのない、淡々とした本音。そして僕はたまたま今そう思っているだけで、即座に変わる気持ちかもしれない。命も保障という意味では永続とは無関係の僕たち人間が背負っている不安定さの一つだけど、気持ちの動き方だって誰にだって決められるような軟弱なものではないのだ。
 こんな風に、人の気持ちは本質的にモジュレーションを求めていると思うし、自分の中で不安定にふわふわと浮かぶ気持ちに接してああでもないこうでもないと一喜一憂を繰り返す人間にとっては、その気持ちを抱くタイミングこそが、正に巡り合わせで分かれ道なんだろうなあ…、と、そんな事を思いながら僕もうとうとし始めて、看のおでこを薄い胸に抱きながらいよいよ眠りにつく。目を瞑っている自覚が解れていき、暗闇が白んでいく。そのモノクロームのまどろみの中で、僕は白い壁が割れる様を確かに見る。僕はその白い壁を知っている気がする。…病院? 看の病院の廊下。眩暈を感じたあの場所。白く硬い渦。あれは壁だったのだ。しかし何で今その壁が出てくるんだろう…? 考えていると、壁が崩れた先に一つの空間があるのが見える。目をこらすと何故かピントが合い、段階を分けて視点が倍化される。僕はおそらく遠くに居ながらにして、割れ目からその空間を見ている。空間には景色も調度類も何もなくて、ただ一つ大きな穴が開いている。その淵に女の子と男の子が一人ずついて、だけど隣り合ってはおらず穴の直径ライン上に互いに座っている。妙な絵だ。女の子は目が細くて少しつりあがっていて、どこか看に似ている。でもその子は背が高いようだし髪の毛も腰くらいまでと長い。男の子の顔は暗くてよく見えない。背格好は僕くらいの中肉中背だけど、顔の部分だけが黒く塗り潰されているように影がかかっていて表情が読めない。
 女の子が男の子に向かって一方的に何かを告げている。僕はその会話を聞こうとする。するとやはり、先の視点の時と同様、僕の意志に呼応したかの様に聴覚のスポットが合う。ボリュームのつまみを回しているみたいに女の子の声が段々と聞こえ出す。
 「ねえ、私やっぱり、他の人と違うことや異なることって、あんまり良くないことだと思う」
 「弱いって自分で思っていないのに、弱いって思われてるってことが、凄く、邪魔」
 「力っていうものが具現化されるなら、私は大きさで欲しいわ、色々踏み潰したいことが多いからね」
 「ふふ、ねえ、見て? FALSE、ALTERNATIVE、素敵でしょ?」
 女の子はそう言いながら着ているシャツの袖をめくって両腕を男の子に見せる。腕には刺青が彫ってある。『間違いの~』と『代わりの~』。女の子は笑いながらも、寂しそうな口元をしている。男の子は相変わらず、影のように。
 男の子と女の子は誰を待つともなく、ずっとそのまま向かいあっている。その光景を見ていた僕は、誰を待つともなく…なんて恣意的な表現を頭に浮かべたが、それは二人が待ってる誰かが居たような気がしたからであった。互いが互いに、別々の人を。二人を裂くように開いた大穴は、確かに役目を果たしている。
 見つめている光景に変化がある。
 女の子が口を開き、悲しそうな笑みを浮かべながら言う。
 「私は元に戻ろうと思うけど。でも駄目。あなたがきっと、邪魔するのよね」
 穴の向かいに座った男の子に向けて言い放った女の子はすっくと立つ。男の子もそれに反応し、立つ。女の子がまるで拭い去るように「駄目よ」と言うと、穴が一瞬の内に中心に向かって収束し、ちゅぽんっ!という音と共に消えて無くなる。と同時に男の子もその収束に飲み込まれて、消えていなくなってしまう。女の子は、無表情の見下ろし。穴が窄まった場所に薄暗い染みみたいなものがある、それを見ているようだ。追って、真っ白だった空間に黒い線が描かれ始める。物凄いスピードで。鉛筆の走り書きのようにして次々と線が描かれていく。…部屋だ。その黒い線は何処かの部屋を描こうとしている。端から浮かび出す生活感のかけら。ざざざざざっ…と動くその線の動きは生き物さながらで、僕は思わず目を奪われる。その後も女の子は全く微動だにせず、その黒い線の自動筆記を背景に、足元の染みのような影をずっと見下ろしている。黒い線が描いているのは、何だか看の部屋の景色のようにも思える。
 突如、ずうん…、というざらついた音が聞こえだす。壁が修復されていく。壁の破片が宙に浮き、パズルのように形を為していく。穴が狭まっていく。穴の奥ではまだ黒い線が動き、女の子は立ち尽くしている。動き、止まり、雑然が回る空間の中、僕はまた眩暈に襲われる。目の前に渦が巻かれる。白濁色の瓦礫が元に戻りきる直前に、女の子の視線が僕に向く。女の子は無表情のまま僕に向かって中指を立てる。Fuck up。僕はその姿にどきっとして、気持ちが浮き、目が回って訳が分からなくなる。
白い渦の向こうに揺らいだ女の子の顔が一瞬確かに、看の顔に見える。

 「モエちゃん」

 「ねえ、モエちゃん」

 白く薄い霧のようなもやに包まれながら、僕は看の声を聞く。

 「モエちゃんってば」

 リピートされるその声は僕の胸の辺りから聞こえてきて、それは看だった。本当の。白い壁も男の子も何処にも見えない。目の前にいる看も、看に似ている女の子ではなさそうだった。
 「見て? 何かな、寝て起きたらな、戻ってたわ~」と看は言い、立ち上がってぐるぐる回り始める。本当だ。看が大きくなっている。身長が伸びている…、というより元に戻ったのか。「何処もおかしくなさそ?」と僕が訊くと、看は「ぜんぜ~ん」と笑い、またぐるぐると回る。
 ふと僕の頭に、さっきの、夢だか何だか訳が分からない情景が浮かぶ。モノクロの空間。顔が真っ黒な男の子と、両腕刺青の女の子。女の子の言葉の中で、僕は女の子が、大きさとしての力が欲しいんだ、というような内容を言っていたのを思い出す。看によく似た女の子。その子の願い。
 僕はその女の子の願いこそが看の身長を元に戻したのだと、何となくだが確信してしまう。僕が見た謎の夢。あれは夢なのだ…、と思う。僕たちが眠る時に見る、空想や予感や現実を孕むそれとは異なる形の。僕の気持ちとしての夢。僕の願い。あのモノクロの光景は僕の願いや期待で、僕は看の姿をした女の子に願いを言葉として発させることによって、看へ向けての願いを放ったのだろうと思う。元に戻って欲しいという願い。どうでもいいとか何だとか言いながら、僕はちゃっかりというかしっかりというかで、看に元に戻って欲しいと思っていたのだ。混濁とした眠りの底で。僕は強く思い、願い、祈った。夢という形で。その気持ちが、看の身長を伸ばしたのだ。
 看の身長を縮めたのは、僕の心にひたすらに触れたくないという看自身の強い気持ちだった。本来看とは他人である筈の僕が、看の強い気持ちを引き金にして表れた葛藤を吹き飛ばして看の身長を元に戻せたのは単なる幸運だったのかもしれない。偶々にして看自身の葛藤が戻りたい寄りになっただけなのかもしれない。
だけど僕は、その限られた時間の中で僕の心と看の心が隣り合っていた結果だったのだと、信じてみたい。
 でも或いは…、と僕は考える。先の夢は、看の夢でもあって、看の心を通って僕の心に入り込んできた。とすると、女の子はやはり看自身だったのだ。だとしたら、看は夢を通して僕に訴えたかったのだろうか? 心臓と脳の位置が逆で、あなたは気にしないかもしれないけどやっぱり私は嫌なんだよ? 特別視は蔑視になることもあるんだよ分かってる? …そして、やっぱり看は切に元に戻る事を願ったのだ。それはもしかすると、身長のことではなかったかもしれない。自分の事を間違いだとか代わりのとかと敢えて言うことによって、看は自分のアイデンティティや唯一性というものについて必死になっていたのかもしれない。看にとって「元に戻る」という事は、決して手に入ることの無い、心臓と脳の位置が僕や他の人と同じところにある身体を手にすることだったのかもしれない。


 それから数日して看に新たな変化が訪れる。看はおでこを僕の胸に着けて、僕の心の情景を読み出す。看に見えているのは僕の心のトーンで、それは「黒」「白」「灰」の三色に大別されるらしい。喜びや悲しみ、怒りなどの感情を記号としての色で判別しているという。
 「モエちゃん、違う、違うんや。私、こんなこと望んでない」
 看は目を潤ませながら僕に言う。
 看は自分自身の異様な変化に、慄き、脅える。いつの日かやってくるかもしれない、僕以外の人間の気持ちを悟れることが怖くてたまらないのだ。
 そういう時、僕は柔らかに笑いながら、震えながら、看を抱く。直後に見え出す僕の様子とちぐはぐな心の色を認めて、看は怪訝な顔をする。
 僕の心が白黒のコントラストを纏って目まぐるしく回り、そのせわしなさを見た看の心も、不安定にぐるぐると回る。
 僕たちの心はこの先ずっと、重なることはないだろうが、それでいい。
 待合室に座る僕を、看が呼ぶ。看の笑う顔に白い壁が重なって、また眩暈がする。

目を回す心

目を回す心

―心臓と脳の位置が逆の身体を持つ女の子、看。 彼氏である萌人はそんな彼女の状況を懸念しつつも、二人で穏やかな日常を過ごしていた。 そんな時、萌人との喧嘩を引き金にして、更なる異変が看の身体に起こり始める。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-03-30

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