鬼の目/キノメ
はじめに
今でも、あの時のことは覚えている。僕の、これまでの人生の中でも、あの時ほど心臓が負担を訴えたことはないだろう。
瞼を、薄く閉じてみる。すると、途端に、身も凍るような記憶の蓋が解放される。瞼の裏に、あの時の映像が焼き付いていて、狂いそうなほど怖くなる。
ここは一つ、僕が体験した恐ろしい記憶を、ここに記そうと思う。
あれは、今から三年ほど前の出来事だっただろうか。当時、僕は、三原高等学校という公立高校の数学の講師をしていた。
これは、サンバラ(三原高校公認の通称だ)に赴任したばかりの頃の、僕の体験談だ。
さて、その前にまず、僕のことについて、ある程度自己紹介しておこうと思う。
僕の名前は、木野目信司という。言うまでもなく、性別は男だ。年は、今現在で三十二歳。当時はたしか、二十八だったように思う。
小、中、高と、青春時代は特筆するようなこともなく、教育系の大学に進学して、そこで人生初の彼女ができて浮かれたり、三年で別れて落ち込んだり、自分的には普通の青春を送ってきた。
先述したように、職業というか、数学の講師で収入を得ている。
これくらいで、大丈夫だろう。
本当は他にも書きたいが、あくまでもメインは僕の情報ではなく、僕の記憶なのだから。
ここからは、僕の一人称視点の小説形式で、当時のことを記していく。
つまり、これは当時の出来事を僕の一方的な解釈によって記されたもの、ということになる。だから、途中途中、不明な点が出てくるかもしれないが、そこは了承してもらいたい。個人の解釈というのは、それだけいい加減なのだ。
あれは、茹だるような夏の年だった。
一応このことも書いておく。今回、あの記憶を記録するにあたり、妙な危機感を抱いた僕は、これを書く前にお祓いを受けている。これを読もうとする人がもしいるならば、僕と同様にお祓いを受けることを勧める。お祓いをしてから読め、とまでは言わないが、これを読んだ後、身の周りに奴が現れるようになってしまった、などと抗議されても、僕には責任の取り様がないからだ。
まあ、これから話すことは三原高校で起きた出来事だから、あそこに近づかない限りは、大丈夫だろう。
1
例年のように桜が舞い散る春。
僕はこの年、三原高校に数学講師として赴任した。
講師という身分であったが、なんとクラスの担任も任された。もっとも、「副」担任だったが。受け持つのは、僕と同じくその年からサンバラに通うことになった一年四組だった。
ついこの前まで中学生だった少年少女。やはり、僕としてもどこかに親近感のようなものを抱いたのを覚えている。
一番最初のホームルームでのことだった。
古典を教えるらしい担任の奈良坂純二教諭の後、自己紹介は簡単に済ませた。
その後、生徒たちも自己紹介して、後は教師側と生徒側とで軽い会話になった。
奈良坂教諭は、その時点で五十代のベテランだったが、創作作品などでおなじみの型物や頑固者な印象は一切なく、むしろ驚くほど生徒たちの会話についていけるほど、柔軟な人格をしていた。
しかし、やはり五十代と十代では、決定的に世代の差があるらしく、時折、会話の食い違いが起こったりした。
その点、僕と彼らは十歳以上の年齢差こそあったものの、それほど違和感が生まれる差でもなかったのだろう。
だからなのか、生徒がしてくる質問のうち、僕の回答が望まれているように思える質問は女子が、逆に奈良坂教諭が回答しそうな質問は男子が主にしてくるのだった。
そして、ホームルームの時間も終わりに近づいてきた頃、その女子生徒は質問してきたのだ。
「先生は、幽霊を信じますか?」
その女子生徒は、鼻筋がすっと通っており、目もぱっちりしていて、一言でいうと、クラスに最低一人はいるような綺麗な顔立ちをした女子生徒だった。
名前は何といったか。この時点では、僕は彼女の名前を思い出すことはできなかった。
後になってきてわかるのだが、彼女の名前は角芽千恵美。今となってしまっては、僕は彼女のことを鮮明に覚えているし、名前もすぐに出てくる。
たった数か月ほどだが、交流が深かった生徒の一人なのだから。
千恵美の言ったことは、僕にとっては理解不能の一言だった。
これまでの質問でも、「カレーは好きか」とか「好きな俳優女優は誰か」とかの質問はあったが、千恵美の質問はやや不自然といえば不自然だったのだ。
その年は例年を超える猛暑の夏が記録され心霊番組やホラー映画が放送されることが多かったのだが、千恵美が質問した時点では、まだ季節は春だったのだ。ホラーブームも起きていないのに、「幽霊を信じるか」とは、かなり不自然ではないだろうか。
いろいろと考えたが、この時の僕は、彼女がホラーマニアなのだろうと考えることで納得した。
「うーん、幽霊ねー。あたしはもう二十年以上教師をやっとるけど、いまだに幽霊はんには会ったことがないねー」
奈良坂教諭が、薄くなった頭を掻きながら答える。
正直に言うと、この時の僕は少し絶句していた。
言ってしまうか?
みんなはどう思うのだろうか?
気味悪がられたりしないだろうか?
大体、そんなことを思っていたと思う。
「木野目先生?」
奈良坂教諭が、怪訝な顔を向けてくる。
とりあえずは誤魔化しておこう、そう思って僕は答えた。
「いや、僕も、幽霊には、ちょっと会ったことがないですね」
隠して焦らしても仕方がないのでここで告白するが、真っ赤なウソだった。
千恵美は困ったような笑顔を浮かべて、首を少し傾げた。その様子は、なんとも愛らしい仕草だった。
しかし、僕の彼女に対する第一印象はやはり、変な子だな、だった。
2
見知らぬ青年が、馬乗りになって首を絞めてきていた。
いや、知っている。この青年は知っている。これまでずっと一緒にいたんだから。
その青年が、首を絞めてくる。部屋の光が逆光になって、青年の表情はわからない。
やめて、苦しい。
どうして、こんなことを……。
青年が答えるはずもなく。
やがて、ぼきっ、という音が聞こえたような気がした。
はっと、目を覚ました。
夢を見ていたのだ。
この時、目覚まし時計を見てみて午前六時前だったのを覚えている。
当時、僕が住んでいるのは、ちょっとした高級マンションだった。十五階建てのちょうど十階の一室だった。
奇妙な夢を見た時は、大抵、嫌なことの予兆だった。
そうだ、この時、溜め息をつこうとしたのだった。直後に、スマートフォンが鳴ったので呑みこんだが。電話をかけてきたのは、上述の僕の大学時代の元カノである白木風香だった。別れこそしたが、その後も友人関係として縁はあったのだった。
しかし、早朝六時前に電話してくるとは、彼女のこの行動は非常識ではないかと今でも思っている。
「もしもし」
「もしもし。信司、おはよ」
「……おはよう」
この時のやりとりは、今でも鮮明に覚えている。
「信司、今年からサンバラの講師になったんだって?」
「うん、まあ」
「大丈夫なの?」
「はあ?」
そう、彼女の質問は、まったくもって意味不明だった。今になって振り返ってみれば、この時から既に、僕の恐怖の物語は始まっていたのだ。
「あのガッコってさ、人が死ぬことが多いって噂なのよ」
風香の言葉は、突飛すぎて実感がわかなかった。少なくとも、この時点での僕には。
「そんなわけないだろう。そんなこと、言われなかったぞ」
「だから、毎年死んでるんじゃないんだって。ある年に、数人の生徒や教師が、纏まって死んじゃうのよ。事故だったり、事件だったりするけど。その年の前の年も、翌年も、死人は全然出ないのに、本当に、他の年とは違う、絶対に死者が出る年があるのよ」
風香の説明を、僕は冗談だと思って聞いていた。
本当に、僕のこの行動の軽率さには呆れてしまう。この時、風香の言葉を真剣になって聞いていれば、後になってあんなことにならずに済んだかもしれないのに。
いや、サンバラの伝説をよくよく噛み砕いて考えてみれば、やはり関係ないだろう。風香のこの説明だけでは、どっち道サンバラの裏の顔を知ることはできないのだから。
「ていうか、どうして風香はそんなにサンバラのことを知ってるんだよ?」
僕の問い返しに、彼女は母がOGだったからだと答えた。
風香との通話を終えると、朝御飯を簡単に済ませ、通勤用に着替えて、余裕をもって部屋を出た。この時点で、たしか六時三十分くらいだったと思う。
十階という高さのため、一階へ降りるのに僕は階段ではなくエレベーターを利用していた。
下へ降りるためにボタンを押すと、ちょうど上から降りてくるエレベーターがあった。
ラッキーだ、とこの時の僕は思ったものだった。
マンションのエレベーターは最大人数が七人と、マンションの大きさに反して結構少ない。僕がエレベーターに入った時点で、既に四人先客がいた。
ビジネススーツを着込んだ男が二人、挙動不審そうな青年(私服のようだった)と、彼をじっと見つめる少女が一人。
僕はその瞬間、奇妙な感覚に襲われた。
何故かぶるぶる震えている挙動不審な青年が、どこかで見たことがあるような、そんな奇妙なデジャヴがあったのだ。
ここではっきりさせておくが、実際のところ、僕とこの青年は幼い頃に一緒に遊んだことがあったりとか、実は遠い血縁関係にあったりとかはしない。正真正銘、この時点の僕らに接点などなかったし、それは今の今まで、つまりそれからも僕とこの青年は赤の他人同士だった。
青年の年齢は、二十歳前後に見えた。
それだけでもおかしかったが、問題は彼をじっと見つめる少女だった。
明らかに、変人だった。
白いワンピースは、まるで自分の家の中にいるかのように着崩しているし、冷静に考えてみれば、この時の季節はまだまだ春だったから、白ワンピという服装も少し変だった。
足元を見てみれば、靴さえ履いていない。
彼女はただ、青年を見つめていた。
ぱっと見ただけでもわかるくらい綺麗な顔立ちだったが、青年を見る目は、思わず身引いてしまうくらいにぎょろりと開かれていた。瞬きさえしてない。
そして何故か、彼女は右手で首元をさすっていた。
もしかして……?
そんな疑問が、僕の脳裏をよぎっていた。
エレベーターが閉まって、再び稼働しだす。
会話をする者はいなかった。しいていうなら、青年と少女が少し音を立てていたことくらいだったろう。青年は、エレベーターが動いている最中、ずっと押し殺したような悲鳴を上げていたのだ。
五階にさしかかった頃、エレベーターは再び止まった。
この階に住んでいるらしい中学生か高校生か、背丈から判断する限り多分中学生、が三人、ずかずかと入ってきた。
エレベーターがまた動きだして、今度はそれまでの静寂はなくなっていた。新たに入ってきた三人の会話が、かなり遠慮がなくて、うるさかったのだ。
そして、何故か青年の悲鳴が、それまでよりいくぶん、小さくなっていたのだ。
それでも時折声を出して、すると学生たちは奇異な視線を隠すことなく青年に向けるのだった。
ここで言わせてもらうが、彼らに青年をあんな目で見る立場はなかったと思う。彼らだってうるさかった。非常識なのは、お互い様なのだから。
そして、エレベーターが一階に近付いていきながら、僕はやっぱりそうだったと思った。
彼女は、やっぱり……。
サンバラは、僕の住むマンションからは、結構距離が離れている。具体的にいうと、車を走らせて三十分以上かかる距離だ。
学生だったら、朝のホームルームが始まる八時三十分、遅くても一時限目が始まる八時五十分までに着ければ上出来なのだが、あいにく僕は教師側だ。
当時の僕は、最低でも七時頃までには学校に着けるように努力していた。
学校への通勤には、最近買った車を使っていた。
「キノメ先生おっはよ!」
車を駐車場に駐めて降りると、すぐに声をかけられた。
声の主は、一年四組の女子生徒、神埼まどかだった。
「やあ、おはよう」
僕も、挨拶を返す。
まどかは、僕の車をしげしげと眺めていた。彼女が何故僕の車を観察したがったのか、今になってもわからない。僕の車は、スポーツカーでもなければ外車でもない。いたって普通の車なのに。
「なんだい?」
「んん、何でもない」
最近の学生というのは、年が近いだけで教師にもタメ口をきくのか。書いていて、少し呆れてしまう。
「あれ、木野目先生」
また声をかけられる。
千恵美だった。
この時は疑問に思うことはなかったのだが、後になって考えてみると、千恵美の行動は不自然だった。
千恵美の通学路というか、学校に来る方角を考えると、学校の駐車場を通るのは、まったくの遠回りだったのだ。
もっとも、この時点で僕がそれに気づいていても、僕はやはり彼女が少し変なだけなのだろうと思っただけに違いない。
「やあ、おはよう角芽さん」
月は既に五月に入っていた。さすがに、これくらいたてば、生徒の一人や二人くらい覚えられる。
「ね、キノメ先生、今朝のニュース知ってる?」
横から、まどかが訊いてきた。
「ニュース?」
「うん、今朝やってたニュース」
たしかこの時、僕は肩をすくめたんじゃなかっただろうか。
この日の朝はあいにくと、テレビを点ける暇がなかったのだ。
何故、三年も前のそんな細かなことを覚えているのかというと、やはり朝のエレベーターでの奇妙な一幕と、この後まどかが言ったことが、とても印象的だったからだろう。
「大学生が、付き合ってた女の子を絞め殺しちゃったんだって。昨日の、夜中に」
「物騒だね。女の子が朝から言うことじゃ、ないな。それで、何でそれを僕に?」
うん、と彼女は頷いて、言った。
「その大学生が殺したのって、女の子の部屋なんだけどさ、Rマンション、たしかさ、キノメ先生も、あそこに住んでるんじゃなかった?」
間違いがないようにここで記しておくが、Rマンションとは本来のマンションの名前ではない。今これを書いてるにあたって、とりあえずの仮名であるということを認識しておいてもらいたい。
それはともかくとして、まどかの言ったことは当たっていた。まどかが口にしたマンションの名前は、たしかに、僕が当時住んでいたマンションの名前だったのだ。
しかし、この時の僕は、何故教えてもいないのにまどかが僕の住まいを知っているのか、そこに疑念を抱いていた。
「ね、ね、犯人の男に会ったりした?」
興味津々に瞳を輝かせて、まどかが質問してくる。
僕は、曖昧に笑うことしかしなかった。
「ね、先生って、何階に住んでるの?」
「何階って、うーん、言っていいのかわからないけど、とにかく、結構高いよ」
「十二階より、下? 上?」
まどかはなおも、喰い下がった。
しかし、何故十二階? と僕は一瞬だけ疑問を持った。その疑問は、すぐに解消したが。
つまり、その殺された少女の部屋というのが、十二階にあったのだ。つまり、僕の部屋より上の階で殺害事件が起きた、ということだった。
なるほど、と合点がいった。
ここまで来ればわかるだろうが、僕が思い浮かべたものとは、やはり今朝のエレベーター内でのことだった。今思い出してみても、そうとしか考えられないような、見事な条件の一致だった。
本当にそうだったのか、これまで確認はとっていないから何とも言えないが、あの挙動不審の青年が恋人を絞殺したのだ。
それに、エレベータ内で、学生三人が入ってくるまでの間。あの静かな時間の中で、音を立てていたのは、青年と少女の二人だったのだ。
少女はずっと、青年を凝視して、かすれるような声で呟いていたのだ。「ナンデ、ドウシテ……」と。
そして、その声がするたびに、青年は悲鳴を上げていたのだ。
やはり、と僕は思ったし、今でもそうだったんだとやけに覚えている。
やはり、エレベーターで青年を見ていた少女は、青年に殺された恋人の怨霊だったのだ。
3
話を一旦止めて、ここで僕のことについて詳しい話を挟んでおこうと思う。
エレベーターでの奇妙な出来事でもうわかってしまっている人もいるかもしれないが、僕には一般人には見えない存在、恰好のいい言い方をしても仕方がないからざっくりと言うが、僕は幽霊の類が見える特殊な目を持っていた。
この説明も、少し恰好をつけてしまったのかもしれない。
誤解がないように言っておくが、僕の目が特別なんじゃなく、僕の霊感が強いということなのだ。それも、かなり強力らしい。
幼少の頃から、僕は様々な霊的体験をしてきた。
小学二年生に上がったばかりの頃、母方の祖父が亡くなった。
僕がそれを見たのは、葬儀の時だった。坊主がお経を唱える中、棺桶の横に、当の祖父が正座していたのである。
僕はそれを見ても、特に驚きはしなかった。
今でも、別の意味でもう驚いたりはしないが、高校生や大学生だった時なら、間違いなく腰を抜かしていただろう。七歳だった僕が驚かなかったのは、もちろん当時の僕が祖父が死んだという事実を許容できなかったからだ。
「ねえ、おじいちゃんがいるよ」
僕はそう言って、祖父が正座している場所を指差した。しかし、祖父が座っているのは棺桶のすぐ脇であり、母も父も、僕の言っているのが棺桶の中の祖父なのだと思ったらしかった。
「うん、そうね。おじいちゃんが、眠っているね」
母が、ハンカチで口を押さえながら言う。母は誰よりも、祖父の死を悲しんでいたような気がする。
結局、この時は何事もなく終わったんだったと記憶している。
しかし、それからしばらくがたって、僕は再び祖父に再開することになったのだった。
真夜中、僕は何故か自分の部屋を出て玄関から外へ出た。
そういえば、あの夜はやけに静かだった。
ふと、一回だけ空を見上げると、まるでクロワッサンのような三日月が夜の闇の中に浮かんでいた。
「シンジ」
名前を呼ばれて振り替えると、巨大な影が僕を見下ろしていた。
「おじいちゃん!」
一目で祖父だとわかった。
僕の祖父は、実は身長百九十六センチという、とんでもない長身だったのだ。
熊のように巨大な影が、僕の頭を撫でてくる。今でも、あの感触は忘れられない。
その時、僕は背後に気配のようなものを感じた。振り返ると、そこには見るもおぞましい物がいた。身体中から黒い煙のような靄を噴き出して、輪郭から推測すると、無数の腕が生えているようだった。大きさは、僕の祖父と同じくらいだった。
祖父が、片手を払うような仕草をすると、見るもおぞましい物は、怯んだように後ろへさがり、途端に夜の闇の中に消えていってしまった。
その時の僕は、何が起こったのかまったくわからず、ただ祖父を見上げるのみだった。
祖父は、僕を見下ろして、言った。
「もう、大丈夫だよ」
「おじいちゃん、アレは何?」
僕の問いに、祖父の顔はほころんだ。
「あれは、生きていた人間だったものだよ。人はね、死んでしまうと、もうそれまでとは、まったく別の人になってしまうんだ」
「別の人?」
「そう。別の人。だから、おじいちゃんも、もうシンジのおじいちゃんじゃ、ないんだ」
「そんなの、嫌だ」
未だに、あの時の不思議な会話の内容は覚えているものだ。祖父は、ゆっくりと手を振った。
「じゃあね、お別れだよ」
「やだ! 遊ぼうよ」
祖父は、ただ手を振るだけだった。
目を覚ますと、そこは葬儀の場だった。僕は、葬儀中に、突然気絶してしまったらしかった。
実はその葬儀は、当時の僕の友人の葬儀だった。祖父が死んで間もなく、僕は二度目の葬儀の場を経験したのだった。
今でこそ、思うのだ。
あの夢に出てきた見るもおぞましい物は、友人の怨霊で、祖父は怨霊と化してしまった友人から、僕を守ってくれたのではないか、と。
であれば、あの時祖父の霊の言葉も、なんとなく納得できるような気がする。
『死んでしまった人間は、もうそれまでとは別人になってしまう』
僕はこれまでに、何度も別人になり果ててしまった「元」人間を視てきた。
4
あの青年を最初に目撃したのは、五月の下旬あたりだっただろうか。
三時限目の時間だったか。その時間、僕は担当する授業もなく、完全なフリー状態だった。やることも特になく、ちょうどその時は喉が渇いていて、僕はサンバラの自販機でお茶を買おうとしていた。
サンバラ高校の自販機は、校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下にある。メーカーは忘れてしまったが、お茶を買った僕はそのまま職員室にでも戻ろうとしていた。
体育館では授業が行われていて、後に知ったことなのだが一年二組と四組の合同授業とのことだった。
その瞬間、僕は視てしまった。渡り廊下の中ほどで、じっと、体育館への扉を凝視している、黒色の背広を着込んだ男性が立っているところを。僕の視点からは、男性は後ろ姿しか見えなかったが、背丈は僕と同じくらい(僕の身長は百八十四センチだ)あったと思う。
僕はこの時ぞっとした。
何故かはわからなかったが、あの男を視た途端、生きている実感がすっぽりと抜けてしまったようだった。
その後に、彼の正体を知った時は、それはもう縮み上がったものだ。
5
たしか、六月の上旬か、中旬頃だったと思う。
一年二組の男子生徒が一人、交通事故で亡くなるという出来事があった。
サンバラでは、月に一度、体育館に全校生徒を集めて校長が朝礼をする行事があった。だが、その日は急に朝の朝礼になったのだった。
校長の話は、もちろん亡くなられた男子生徒の話であり、普段は退屈な校長の話に、生徒の皆は聞き流したり、あるいは居眠りをしたりしていたのだが、人が死んだという話題では、どうにも皆が校長の話に聞き入っていた。
亡くなってしまった男子生徒の名前は、もうしわけないが覚えていない。
今でもサンバラの教師たちの連絡先は残っているから、その気になれば調べることもできるが、ここではあえて、少年Kと仮称することにする。
その会話が聞こえたのは、まったくの偶然だったのだ。
昼休み。トイレで用を済ませて手を洗っていると、女子用トイレの手洗い場の方から、声が聞こえてきた。
「Kくん、かわいそうだね」
「うん、そうだね」
その時、僕の身近な生徒の声が聞こえた。
「わたしも、あんなふうに死んでほしいとまでは、思わなかったな」
一年四組の、神埼まどかだった。ちなみに、他の女子生徒は声に聞き覚えがなかったから、四組以外で、かつ僕の数学担当以外の組の生徒だったのだろう。
ここで、三人の会話について、ある程度僕の知っている情報を教えておこうと思う。
まず、少年Kの死に方についてだ。
先述のとおり、その死は交通事故による事故死だったのだが、普通の事故死より、少し気分が悪くなる内容だった。
少年Kを轢いたのは、大型のトラックだった。交差点の信号で、少年Kは轢かれてしまったのだが、どうもその時、首が飛んでしまったようなのだ。
これだけでも、僕は軽い吐き気を催すが、状況はそれだけにとどまらなかった。
少年Kの生首はそのまま車道に投げ出され、ちょうど走ってきた車のタイヤに、見事に轢き潰されてしまったのだ。
下校の際のことだった。
夕暮れ時に、交差点の車道で、大型トラックに轢かれてしまった首のない少年Kの死体と、少し離れた所には、少年Kの脳ミソの欠片と血がぶちまけられている。
その情景を初めて想像した時は、本当に吐くかと思ったものだ。
このように、少年Kは交通事故によって惨たらしい死を迎えていたのだ。
次に、まどかについての情報だが、これは詳しいことはその後、彼女の言葉をそのまま伝えた方がわかりやすいと思うから、ここでは割愛させてもらうが、簡単にいうと、まどかは少年Kのことをよく思っていなかったらしいのだ。
「まどか、そういえばあんた、Kのことあんま好きそうじゃなかったけど、なんかされたの?」
「Kくんって、けっこうイケメンじゃん? それに勉強もできて運動もいけるし、どうして?」
「わたしじゃないの。千恵美よ。Kってね、千恵美のこと好きだったみたいなんだけど、陰湿なのよね。かなりつきまとわれてて、千恵美が鬱陶しいってぼやいてた」
その会話を聞いた時は、別段、何も感じなかった。
少なくとも、少年Kの死は、不幸な事故であると百パーセント信じていたからだった。
実を言えば、千恵美はかなり男子生徒に人気があった。
少年Kではないが、ストーカーまがいな行動に出る者もいた。
僕は一度、その現場というか、そういう生徒を捕まえたことがあったのだ。
あれは、二組の授業を終えて教室を出た時だった。一人の男子生徒が、僕を追い越すようにして、猛スピードで教室を飛び出していった。二組の次の時間は四組と合同での体育で、男子は教室で、女子は女子更衣室で体操着に着替えるのだ。
その生徒のことは、イマイチ覚えていない。身長は僕と同じくらいだったことは覚えているが、それ以外はさっぱりだった。顔、声、それらの情報は、僕の記憶には残っていない。名前ももちろん覚えていない。少年Kに倣い、ここは少年Aという仮称にしておこう。
少年Aは、既に体操着に着替えていた。
何か感じるものがあってこっそり後を追っていくと、彼が向かったのは体育館ではなく女子更衣室だった。
少年Aを捕まえ、話を聞いてみれば、着替え中の千恵美目的とのことだった。
こういうことはもうしないように、とその時は注意するにとどめたのだったが。
「キノメ先生、このガッコってさ、七不思議あるんだよ」
放課後だったか。下校しようとする生徒や、部活に向かう生徒の中で、まどかは僕を捕まえてそんな質問をしてきたのだった。
「七不思議?」
「うん。1、夜に学校の音楽室でピアノの音がする。2、生物室の人体模型は本物で、夜な夜な自分の入るべき墓を求めて彷徨いだす。3、……」
途中からは聞いていなかった。
というのも、まどかの話したサンバラの七不思議が、あまりにも定型文すぎて、しかも僕の小学校時代に聞いた話と同じだったからだ。
7、とまどかが言おうとした途端、僕は片手でまどかを制した。
「その先はわかるよ。これまでに言った六つの不思議を、他の誰かに言わないと、酷い目にあっちゃうってんだろ?」
他では、七つ目を知るとその人に不幸が訪れる、とかだろうか。だが、僕の小学校では、この拡散を促す呪いのメールのような七つ目が主流だった。
まどかは、首を横に振った。
「違う違う。ねえ、キノメ先生は、サンバラの公式ホームページって知ってる?」
「ああ、知ってるよ。一応」
赴任が決まったその日に見ておいたのだ。
「ページの下の方にさ、サンバラ生の学校内でのルールって枠があるのは知ってる」
「うん、知ってる」
内容は、廊下を走らない、だの、制服を着崩したりしない、だの、普通のことであるが。合計で十二のルールが記載されている。
「真夜中の午前十二時にサイトに入るとさ、ルールの枠に、一般には知られていない、十三番目のルールがあるんだって」
「…………へえ」
正直、この時は信じていなかった。ただ、ここではそんな七つ目なのか、と感心したくらいだった。
まさか、この七つ目が、ある意味で本当のことだったのだとは、この時の僕には思いもよらなかった。
6
午後十一時五十七分頃。
僕は部屋の電気を意図的に薄暗くして、デスクの上にノートパソコンを開いていた。
まどかから七不思議の話を聞いたその日の夜のうちに、僕はその不思議を試してみようと思ったのだ。
『M県公立三原高等学校』と打って検索する。ページの一番上に、三原高校公式ホームページへのリンクが出た。ジタル時計で現在時刻を確認しながら、午前零時になったのを確認して、ホームページをクリックする。
すると、赴任した日に覗いた時と同じ、サンバラの公式ホームページに繋がった。
すぐさま、サンバラのルールのところを見てみた。
『サンバラの生徒になった者は、以下のルールをきちんと守り、楽しい高校生活を送りましょう』
その下に、所謂「サンバラのルール」が、丁寧に記載されていた。
例としては、『1、廊下を走ってはいけない』『2、真面目に授業を受け、予習、復習はしっかりと』などである。今になって思うが、当の三原高校生徒は一体どれくらいの「サンバラのルール」を守っているのだろう。
結論から言って、まどかの言う十三番目のルールというものはなかった。
念のために、それから毎日夜中の十二時近くに三原高校公式ホームページにアクセスしてみたが、五日ほど粘ってみても、結局十三番目のルールは発見できなかった。
この頃、僕の中では複数の不安があった。
一つは、先述の少年Kの交通事故をきっかけにするように、その後、何人かの生徒が次々に事故にあったり、または殺人事件等に巻き込まれたりして、悲惨な死を遂げていたことだった。
死亡した生徒に共通する特徴を、僕なりに言わせてもらえば、皆が皆、その死が悲惨すぎるというものだ。
ある者は、借金を抱えていた両親の硫化水素による自殺の巻き添えで、ある者は、工事現場で落下してきた鉄筋の下敷きになって全身を潰され、ある者は、通り魔にでくわして殺害され、その後はここに書くにもおぞましい末路をたどり、こういうことも書いていいものではないが、とにかく皆、悲惨な最期を遂げていた。
そして、ぼんやりと、考えるようになっていた。
風香が言っていた、その年に限って死亡する生徒や教師が出るというサンバラの奇妙な噂というのは、実は本当のことだったのではないか、と。
二つ目は、いつか、渡り廊下で視た背広を着た男を、またちょくちょく視かけるようになっていたことだ。
背広を着た男は、生徒に何らかの害を及ぼすのでもなく、ただじっと、授業を見つめるだけだった。しかし、どういうわけか、僕はこの男を頻繁に目撃した。奇妙に思いながらも男の存在に慣れてきた頃、ふと僕はこの男が現れる法則に気付いてしまったのだった。
背広の男は、一年四組の授業に、確実に現れる。
僕が四組で授業をしていた時だった。
その時は、公式や方程式の解説をしていたと思う。教室中を見回した時、廊下で、憮然と立って教室を見ている背広姿の男を視てしまったのだ。授業はまだ始まったばかりで、終了までまだ四十分ほどはあった。そしてその間、背広を着た男は、身じろぎもせず、ただ教室を見ているだけだった。
他にも、他のクラスでの授業を終えて廊下に出ると、四組の教室前の廊下に彼が立っているのを視た時があった。あるいは、科学室で、生物室で、彼を視た。
この法則に気付いた時は、微かに戦慄したものだ。
まるで、四組に取り憑いているようだった。
その頃既に、僕は背広を着た男の異常性に気付いていた。彼は、いつも背広を着ていたのだ。話しかけてみようと思ったことも多々あったが、何故かそのたびに躊躇われた。本当は、この時から、もう僕は感づいていたんだと思う。背広を着た男が、既にこの世に存在しない亡霊なのだと。
まさかあの男は、四組の生徒を呪おうとでもしているのか。
僕は幽霊を視ることはできても、極論それだけだ。払い方など知らないから、もし本当に背広を着た男が霊なら、手の出しようがなかった。
そういえば、奈良坂教諭からあの話を聞いたのは、ちょうどそんな時期だっただろうか。
帰りのホームルームが終わった後、奈良坂教諭が、話しかけてきたのだ。
「最近、生徒が死にますなー」
のほほんと伸ばしたような声音だったが、僕はたしかに、彼の声に悲しみを聞きとった。
「ええ、本当に、嫌なことです。昨日まで普通に顔を合わせていた生徒が、もういないんですから」
誤解されそうなのでここで確認しておくが、何もこの時点で相当数の生徒が死亡してしまっていたわけではない。
ちょうどこの日の数日ほど前、僕と特に親しかった女子生徒と、男子生徒が死んでしまったのだ。
彼らの名前は、四組の生徒ということもあり、いくらか覚えているが、感じで表記するのはやはり難しい。少年Kという前例もあるので、ここは、ショウゴとハルナという名前で話をするとしよう。
ハルナは、千恵美やまどかの親友とも呼べるほど親しい友人で、必然、僕と会話する機会も多かった。ショウゴはそんなハルカと恋人関係で、そうなればやはり僕との会話も多くなったし、まどかたちとも親しかったようだ。
二人は登校途中、交通事故で亡くなった。
「木野目先生、知ってますか? 昔、何年か一度、いや、何十年かに一度だったかな、こんなことが何回か起こっていたそうなんですよ」
今思い返してみれば、風香の言っていたサンバラの噂のことなのだと、はっきりわかる。
「いえ……そうなんですか?」
「ええ、実際、あたしが在籍していた時期にも、あったんですわ」
僕はこの時、奈良坂教諭がサンバラのOBだということを知り、驚いた。
「まあ、あたしの時は三人か、四人くらいだったんですがね。死んだのは、みんな一年生でした。あたしはその時二年でね、部活動で親しかった後輩が死んじまって、すこし落ち込みました」
「なんで、こんなことが起こるんでしょう」
「さあ、ああ、でも、なんか、そんな話が出回ったことがありましたわ。なんでだったかな…………あっ、そうだ。サンバラの七不思議ですよ。七つ目が原因だって、言われたことがありましたわ」
「七つ目……学校のサイトに行くと、十三番目のルールが見れる、というやつでしょうか?」
この時点で、既にその七つ目は試していたし、何もなかった。だから、奈良坂教諭がもたらした情報には、心底驚いたし、同時に少し怖くも思った。
「いや、違いますよ。木野目先生は、この学校の音楽室の隣の空き教室、ご存知ですか?」
「ええ、まあ一応は、知ってますけど」
奈良坂教諭は、声を落として言った。
「あそこの黒板にはね、さっき先生が言った学校のルールが書かれてるんですわ。それで、今の七つ目はどうやら学校のホームページに夜の十二時ってことになってるようですけど、あたしの高校時代はその教室に真夜中の二時、だったんですなー。いやあ、真夜中の二時にそんなとこに行く物好きなんていませんから、本当かどうかはわかりませんがね。それに、行こう思っても、セキュリティがありますからな」
つまり、サンバラ七不思議の七つ目の不思議とは、「夜の十二時に学校のホームページに入ると、『学校のルール』の蘭に、十三番目のルールが現れている」ではなく、「真夜中の二時に音楽室の隣の空き教室へ行くと、十三番目のルールが見れる」というものだったのだ。
その時、僕は思ったのだった。
その不思議を、試してみよう、と。
今にしてみれば、僕はこの時、少しばかり首を突っ込みすぎていた。
7
真夜中のサンバラに忍び込んだ手口は、残念なことに思い出せない。
僕自身、あの場所で縮みあがるほどの恐怖にかられたからかもしれない。
三原高校音楽室は、四階にあった。ちなみに、最上階である。
真夜中の校舎を、懐中電灯を片手に巡回するのは、夜の十二時に学校のサイトにアクセスするよりもはるかに勇気が必要だった。それに、僕は目のことがあるだけに、霊害の類に遭いやすい。告白すれば、それまでにも何度か、危ない目に遭うこともあった。その内の一つとはいえ、真夜中の学校探索は、多分もうできないだろう。
三原高校は上から見ると「王」の字型の校舎で、この場合の縦戦にあたる部分が、玄関口の造りになっている。そして、僕が向かう空き教室は、不運にも三つの校舎の内の端側、しかもその校舎内だけで見ても一番端っこに存在した。上手く表現できないが、要は、玄関口から各教室に行くまでかかる時間を計測した場合、特に時間がかかるであろうルートになるということだ。
七不思議の中に「音楽室からピアノの音が聞こえてくる」というのがあっただけに、音楽室の前を通る時はすこしぞっとした。だが、そのすぐ後に僕を襲った戦慄に比べれば、この時の不安など、微々たるものでしかなかった。
音楽室の隣の教室は、奈良坂教諭の青春時代から変わらずに空き教室のままだった。
多分、三年が経過した今でも空き教室だろう。おそらくは、誰も使わない空き教室であることが、あの教室の存在理由なのだから。
教室の中は、懐中電灯がなくても平気だった。窓から差し込んでくる月光は青く、空き教室の中はとても幻想的な光景になっていた。あんなにも青々とした光が堂々と入ってくるのは、あの教室のカーテンが破れていたことも起因しているだろう。
あまりの光量と神秘さに、僕はその時、懐中電灯の光を消してしまった。こんな人口の光など、この神秘な光を貶めるだけだと、場違いにも思ってしまったのだ。
そして、たしかに黒板には「サンバラのルール」が縦書きで、右側から番号順に書かれていた。
マジックペンで書かれたのか、黒板消しでは、まず消せないだろう。文字は、外から差し込んでくる月光だけで読むことができた。
「1、廊下を走ってはいけないべからず。2、真面目に授業を受け、予習、復習はしっかりすべし」と、ホームページでも見たことがある文面だった。
だが、肝心の十三番目はなかった。
少しほっとした。もし本当に十三番目のルールなんてものがあったらどうしよう、と考えていたからだ。
帰ろうと思い、教室の異様な明るさに消していた懐中電灯をつけて、僕の視界に、とんでもないものが飛び込んできたのだった。
こういうのを、あぶり出しというのだろうか。
懐中電灯で照らし出された黒板の左側、十二番目のルールのすぐ横に、「13」という番号と、所謂、「十三番目のルール」の内容があったのだ。
今になって冷静に考えてみれば、納得できるものがある。
夜の学校というのは、とにかく暗いものだ。午前二時など、言うまでもない。当然、周囲を照らす強い明りが必要だ。僕の時のように月の光が綺麗でなければ、まず間違いなく、教室に入っても明かりは消さない。そして、黒板の「ルール」を読むためには、黒板を照らす必要があり、光によってあぶり出される「十三番目のルール」とは、そういう仕組みで現れるということなのだ。
話を戻そう。
「十三番目のルール」を見た僕は、その意味を噛みしめて、全身が凍りついたかのように一瞬固まった。
懐中電灯にあぶり出された内容は、こうだった。
「13、背広を着た人物が見つめる生徒にかかわるべからず。さもなくば、あなたも連れていかれてしまうだろう」
背広を着た人物が見つめる生徒にかかわるな。
その文の意味を理解して、僕の脳内には、一人の人物の姿が浮かんでいた。四組で授業を行っている時廊下に立っている……別のクラスの授業を終えて廊下に出た時四組前の廊下に立っている……四組と二組の体育の授業中渡り廊下に立っていた……。
あの男だ。最近視かけるようになっていたあの男だ。
そして、文全体を読み返して、さらに悪寒がした。
あなたも・連れていかれてしまう、とある。それはつまり、あの背広を着た男は、誰かを連れていこうとしているということだ。そして、その誰かにかかわれば、その人も道連れになってしまう。
はっとした。
もしや、これまでの生徒の死亡事故や事件は、全て「そういうこと」なのではないのか。「連れていく」というのがどのような意味で書かれているのかはわからないが、「殺す・死に至らしめる」などの呪的な意味だとすれば。
そこまで考えて、僕の恐怖心は最高潮まで達した。
早くここから逃げ出したい。
今にも、教室のすぐそこに、背広を着た男が憮然と立っているかもしれない。
その一心で、僕は逃げるようにサンバラから飛び出していったのである。
推測は、それから間もなくして確信へと変わった。
その日は休みだった。にもかかわらず、朝からスマートフォンがじりじり鳴っていたのだ。
電話をかけてきた相手は、白木風香だった。
「もしもし」
「もしもし、信司くん?」
電話に出たのは、風香ではなかった。だが、僕はこの人のことも知っていた。白木麗子。風香の母親だった。
「麗子さんですか」
「ええ、そうよ。元気?」
「はい。というか、なんで風香のケータイからかけてるんですか?」
言っておくが、麗子さんは機械音痴とかではなく、ちゃんと自分の携帯電話も持っている。しかし、どうして麗子さんは僕に電話をしてきたのだろうか。今でもわからない、謎の一つだ。
「私の、今充電中なのよ。それで」
「そう、ですか……そうだ」
その時、思い出した。麗子さんも、サンバラの卒業生だった。
「麗子さん、サンバラの七不思議って知ってますか?」
「え、ええ、知ってるけど」
「七つ目は?」
この時の僕は、真夜中の学校であんなにも背筋が凍る思いをしたのに、とても興奮していた。そして、麗子さんの返答は、僕をさらに高揚させる内容だった。
「背広を着た人が見ている生徒に、近づかないってのでしょう?」
「そうです。それです。それについて、何か知ってることってありませんか?」
我ながら、藁にもすがるような思いだった。
「知ってることって、例えば?」
「えっと、例えば、何故現れるのかとか」
この質問は、今でも覚えている。後になって、かなり根源的な質問で麗子さんは回答が困難だっただろうと思い、申し訳なく感じたから印象に残っているのかもしれない。
「現れる理由って……そもそも、なんでそんなことを知りたいのかしら? サンバラで何かあったの?」
僕は答えに詰まった。
麗子さんはサンバラのOGだが、今学校で起きている現象には関係ない。しかし、理由をでっちあげるのに、そう苦労はなかった。
「いえ、違いますよ。生徒の一人に七不思議について聞かされたんですけど、曖昧なもので、麗子さんはサンバラのOGでしょう。だから、ちょっと気になって訊いてみようと思ったんです」
こんな嘘はどうせ、すぐにばれることだった。三原高校の生徒は、たしかこの時点で五人は死亡していたのだ。いずれ、大事になるのはわかりきっていた。むしろ、何故この時まだニュースになっていなかったのか、本当に、当時はわからないことだらけである。
しかし、この時点で、少なくとも麗子さんの耳に、サンバラ生の連続死亡事故(事件も)の話は届いていなかった。
僕のその場しのぎのでっちあげ話に、麗子さんは、納得したようだった。
「そうなの。そうね、背広を着た人がなんで現れるのか、か。……うーん、あっ、そうだったそうだった。あのね、背広を着た人間が見ている生徒ってね、実は、その年の新入生だって決まりがあるのよ」
麗子さんは、僕に、背広を着た人物について話しだした。
かいつまんで説明すると、背広を着た人物とは、やはり既に死んでしまった亡霊だった。そして、出現する法則は、実にユニークで奇妙なものだった。
曰く、三原高校には昔から“ある伝説”が存在したという。
サンバラに入学する生徒の中に、入学するまでの三か月以内の間に血縁者の誰かが死亡しているという事情を持っている生徒がいると、死亡してしまった血縁者が背広を着た姿で学校に現れるようになり、やがてその生徒を呪い殺してしまう、というのが「十三番目のルール」の説明だった。
狙われた生徒と一定以上に親しい、あるいは強い関係を持っている人物がいると、亡霊として現れた血縁者は、まずそちらを呪うらしい。
これが、僕が遭遇した、恐怖の物語の真実だった。
確証を得る要素は、他にもあった。
それは、麗子さんから真相を聞かされてから数日ほどがたったころだ。
その日、千恵美は学校を欠席していた。
話では、その年の一月から行方不明だった兄が腐乱した遺体で発見され、葬儀のために休むとのことだった。
そして、千恵美が学校にいないその一日、僕はついに、背広を着た男を視なかった。
千恵美がサンバラを欠席した途端に、背広姿の男が現れなくなった。そして、一月頃から行方不明となり、遺体として発見された千恵美の兄。
僕は、必然、答えに至った。
ここ最近、校内で視かける不審な背広姿の男。彼の正体は、亡くなった千恵美の兄その人なのだった。
他にも、この結論に至った理由はある。
死亡した生徒たちは、皆が千恵美と関係があったのだ。例えば、ショウゴとハルナは、千恵美の友人だった。少年Kは、千恵美に付き纏い、鬱陶しいと煙たがられていた。千恵美にかかわった人間は、皆悲惨な死を遂げている。それは全て、千恵美の兄の亡霊の仕業だ。
この時、僕は全てのピースが揃った、とほとんど他人事のような捉え方をしてしまっていた。
千恵美の兄は、角芽浩一こういちという名前だった。千恵美より四つ年上で、彼もまたサンバラのOBらしかった。
千恵美の話では兄弟仲は良好らしく、両親は千恵美に対して冷たい態度を取っていたらしいが、浩一だけは千恵美に対して優しく接してくれたとのことだ。
そんな仲のいい兄妹だったのに、浩一は千恵美を狙っている。彼女を、道連れようとしている。しかも、その道中で、千恵美に一定以上かかわりを持っている人間までもを殺している。
幽霊による殺人。
これはもはや、警察や政府に任せても仕方がないことだった。
こういう話をしていると、祖父の言葉がやけに深く感ぜられてくる。
“人は、死んでしまうと、もうそれまでとは全く異質のモノに成り果ててしまう”
角芽浩一は死に、もうそれまでの千恵美と仲のよかった兄ではなくなってしまったというわけだった。
8
奈良坂教諭の話を聞いて、昔にあった死亡者が出る年というものを調べたことがあった。
奈良坂教諭の話は正しく、たしかに極稀に、それまでとは打って変わり、その年だけ異様に生徒や教師が死亡してしまう年、というものがあった。
死亡者数もまちまちで、一クラス分以上の人数が死亡した年もあれば、ほんの二、三人が死んだだけで終わった年もあった。
おそらく、背広を着た亡霊に狙われた生徒の性質に起因しているのだろう。
社交性のある生徒が狙われれば、当然友達も多く、連れていかれる機会も多いはずだ。逆に、内気な性格だったり目立たない生徒であれば、それだけかかわる人間も少なく、連れていかれる機会も少ない。
もっとも、人間関係はそれだけじゃない。恨みを買っていたりしても、どうやら連れていかれる対象になるらしかった。
調べた後、僕は落ち着かなくなっていった。
そして、そんな時期だった。
夜に、まどかから電話がかかってきたことがあった。
「もしもし、先生?」
「まどか? どうして僕の番号を知ってるんだ?」
最近の学生は、ハッキング技術を備えていたりするのだろうか。
だが、電話越しのまどかの声は震えていた。今でも、その声音は鮮明に覚えている。
「先生、助けて」
「どうしたんだ?」
「あいつらのせいで……うんうん、一番悪いのは、あいつ。あいつが、あいつが――」
「一体どうしたんだ。少し、落ち着いて、何があったのか、ゆっくり、説明してくれ」
「あいつが、あの男のせいでわたし、わたし!」
電話はそこで切れてしまった。
彼女の精神は、そのまま受け取れば、ものすごく不安定になっているようだった。そして、この電話の数日後の出来事だった。
神埼まどかが、自殺したのは。
9
まどかは、五月の半ば頃から地元の不良グループに捕まり、たびたび凌辱を受けていたらしかった。
このことを知ったのは、まどかが首を吊った翌日だ。
まどかが自殺したのは七月のことで、彼女は約一か月と半月ほど、不良たちに犯されていたらしい。その間ずっと周囲に隠していたが、今回堪えきれなくなり、自ら楽になる道を選んだのだった。
まどかは千恵美の親友だった。
これも、角芽浩一の仕業だ。
なんということだろう。神埼まどかに、罪はなかったのに。角芽浩一は、まどかに自殺させる道を歩ませたのだ。
それから、教室で見る千恵美は、いつも机に突っ伏すようになった。
ショウゴとハルナが死んでしまい、残った親友も自殺してしまった。しかも、生前まどかは千恵美にただの一度も、度重なる凌辱のことを打ち明けなかった。親友として、まどかの異変に気づけたかもしれないのに、気付けなかった。親友から、たったの一度も相談されなかった。
何から何まで、かわいそうだった。
千恵美自身の悲しみも、まどかの身に起こった悲劇も、何よりも千恵美に真実を伝えてやれないことが不憫だった。
真実を伝えてしまえば、彼女にまどかを自殺に追い込んだ黒幕は君の兄で、まどかは君の親友だったから殺されたのだ、それだけじゃない、これまでこの学校で死んだ生徒たちは皆そのような理由で殺されたのだと伝えれば、彼女は優しかった兄にまで裏切られることになる。いや、それだけではない。親友やその他大勢の命を奪ったのは自分のせいだと、自責の念に捕らわれてしまうかもしれなかったのだ。
あの時ほど、状況を辛く思ったことはない。
だが、やはり、僕はあくまでもこのことを他人事に捉えていたのだ。
放課後、僕は四組の教室で一人、まどかがかけてきた電話の通話内容について考えていた。普段は生徒が使っている椅子の一つに腰掛けて、机の上で手を組み合わせて考え事をした。
あいつらが……あいつのせいで……あの男……。電話でまどかが最初に言っていた“あいつら”とは、まどかを凌辱していた不良グループと見て間違いないだろう。だが、その次の「あいつ」とは、一体誰を指しているのだろうか。呼び方からして複数人ではなく個人を指しているのは間違いないが。不良グループの中に、特に鬼畜生な男がいたのだろうか。
いや、違う。
何故か、直感した。
しばらく考えて、突然閃いた。もしかすれば、あの時の冴えは、僕の身に起こる危険を、本能が察知したから故だったのかもしれない。
もしかすると、まどかが言い残したあの男というのは、背広を着た角芽浩一のことだったのではないか。
死ぬ寸前、まどかには角芽浩一が視えていたんじゃないだろうか。
もしかすると、他の生徒たちにも、兆候はあったのではないだろうか。
皆、死ぬ前に、角芽浩一を目撃していた?
その時、急に何かの気配を感じて、僕は廊下側の窓の方を向いた。
そこには、背広を着た男、角芽浩一が立っていた。
なんだ、と僕はある種の安堵を覚えてしまっていた。この頃になると、教室の外に角芽浩一の姿が現れるのはほとんど当たり前になっていた。
自分で仮説を立てておきながら、僕はその危険性に一瞬気付かなかったのだ。
その時、教室に千恵美はいなかった。後になって聞いたのだが、この時、千恵美は父に伴われて奈良坂教諭と面談を行っていたらしい。
視線を自分の手に戻そうとして、嫌な違和感を抱いた。
この時、教室内に僕以外に人はいなかった。では何故、角芽浩一は教室前の廊下に立って、こっちを見ているのだ?
意味を理解するのに、そう時間はかからなかった。
一瞬で、僕の全身を鳥肌が立つ感触が駆け巡っていき、もう一度、角芽浩一の方を向いた。
廊下に立った青年は、まっすぐに僕を見ていた。
心臓の鼓動が速くなるのが、自分でわかった。でも、そんなことを気にする間もなく、僕は教室を飛び出していた。
どこに行くかもわからない。とにかく、角芽浩一から逃げなくては。その一心だった。角芽浩一に捕まったが最後、僕は惨たらしい死を迎えるに決まっていた。これまで彼に呪い殺されてきた生徒たちのように。
時間の感覚はなかった。だから、実際にどれくらい走ったのかはわからない。だけど、時々立ち止まって、撒いたかな? などと楽観的に考えても、すぐにまた角芽浩一が現れて僕を追いかけてきたことは覚えている。
あれは、今思い出してみてもぞっとする。
角芽浩一には、おおよそ僕の居場所がわかっているかのようだった。あれはもはや、僕の体力がどれくらい持ちこたえられるかで勝負が決まる、いいや、最初から僕がどれだけ逃げられるかの違いだけで、勝負自体はあちらが必勝の鬼ごっこに等しかった。
ついに、これ以上走れなくなって、奔るのをやめた時、僕はサンバラの外にいた。
当り前だが、自分を呪い殺そうとしてくる鬼に、学校の中だけという制限はあまりに鬼畜なルールだ。
学校に戻りたかったが、戻れば、角芽浩一が待っているような気がしたので、その時は、もう帰ってしまおうと思ったのだ。
そして、僕はこの時、電車で帰る道を選択してしまったのだ。
ホームで電車を待っていると、太陽は静かにその色を赤く染めていった。
途中何度も、やっぱり学校に引き返そうと考えたのだが、角芽浩一があそこにいると思うと、奮い立たせた足はすくんでしまうし、それにもう充分なほどに命の危機を感じて、いい加減僕は疲れていた。「もういいじゃないか」「ゆっくりさせてくれ」「もうどうにでもなってしまえ」なんて言い訳を考えてしまっていたのだ。
やがて、電車がやってくるのがわかった。電車に乗り込んで、しばらく揺すられて、それから駅を出れば、僕が住んでいたマンションはすぐ近くだ。
やっと、安心できそうだった。
ほっとした。
気が緩んだ。
電車がホームに止まる、直前。僕は、背中を強く押されて、ホームから線路の上に突き落とされた。
走ってくる電車がちらりと見えて、そしてぐるりと回っていく視界の中で、ホームで僕を突き落としたらしい学生と、その隣に憮然と立つ、角芽浩一が視えた。
10
幸運だった。
電車は僕を轢き殺すことはなかったのだ。
というのも、僕の背中を押した力は意外に強く、僕はそのまま電車が通っていった手前側の線路ではなく、その向こう側の線路の方にまで飛ばされていたからだ。
文字通り、目の前を電車が通っていった時は冷や汗が出た。
もしも、僕の背中を押す力が少しでも弱かったりしたら、僕が落ちるのは間違いなく手前側の方の線路の上で、そうであったら、僕は生きていなかったに違いない。
僕をホームから突き落としたのは、なんと、サンバラの学生だった。
顔は覚えていないが、その時の僕は、彼が、いつだったか千恵美目当てで女子更衣室を覗こうとしていた少年Aであることに気付いた。
その後警察からの事情聴取など、いろいろと面倒くさいことになったので、ここで簡潔に説明しておこう。
少年Aは、どうもあの日以来、僕を逆恨みするようになっていたらしい。それで、その日、駅のホームで僕の後ろ姿を見て、つい衝動的に死なせてやろうと思ったようだ。
まったく、思春期の気持ちというのは厄介だ。
だが、僕には一つ気になることがあった。
ホームから突き落とされた瞬間、僕はたしかに少年Aの隣に角芽浩一が立っているのを視た。なのにそれっきり角芽浩一の姿が、ふらりと視えなくなっていたのだ。
ひょっとすると、僕が奇跡的に助かったのは、角芽浩一がいなくなったからではないか、とこの時思った。
角芽浩一の失踪の原因は、なんとなく千恵美にあるのではないかと僕は思っている。
僕が角芽浩一と鬼ごっこをしている時、千恵美は彼女の父と共に、奈良坂教諭と面談のようなものを行っていた。そしてこの時、千恵美が転校することが決まったのだった。
何故、千恵美が転校しなければならないのか。
これには少し、彼女の家庭での事情が絡んでくる。
千恵美の両親、特に母親は、息子である浩一を溺愛し、千恵美にはあまり関心を示さない人だった。件の浩一の遺体を目にした時、死体の状態を見た彼女は精神に支障をきたすようになり、県外の田舎で療養することになったらしく、千恵美とその父も、それについていく形で引っ越すことにしたらしい。
引っ越しはその日の内に済ませたようで、翌日には学校に千恵美の姿はなかった。
背広を着た人物云々の話は、三原高校の生徒に対するルールだ。サンバラに通う生徒たちのために作られたルールであり、サンバラの生徒ではなくなった千恵美に対してこのルールが効かなくなり、それによって角芽浩一は消失したのではないかと僕は推測している。
なんとも皮肉な話だ。
結局のところ、この亡霊による連続殺人を行ったのが角芽浩一ならば、終止符を打つ引き金になったのもまた、彼なのだから。
ともかく、以上が僕が体験した恐怖の記憶だ。
11
木野目はその年で三原高校を離任した。
講師という立場が役に立ったと、彼は思っている。本当を言うとあんな事件にあった時点で止めようとも思ったが、何故か最後まで完遂させようという、謎の義務感を発揮したのだった。ともあれ、二度と三原高校にかかわりたくないとも思っているが。
あれから三年。
当時の記憶にも、だいぶ整理がついてきた。
当時のことを書き終えた木野目は、大きく伸びをした。
ここは現在の木野目の住まいの近くにある公園だ。書き始めた時は正午だったのだが、今は太陽が西に沈もうとしている時間帯だった。
木野目は、首を二、三回鳴らしてからベンチを立った。
これで当時の出来事について、一応のけじめはつけたつもりだ。
角芽浩一の一件は、心霊現象と遭遇することも多い木野目からしてもトラウマになるくらい衝撃的で、しばらくは悪夢にうなされたものだった。
三原高校で起きた、「十三番目のルール」という現象が何なのかは、未だにわかっていない。
だが、もしかするとあの高校は、もともとは死者との交信ができるくらいの場所だったのではないだろうか。それがいつの間にか、死者の道連れへの場と変貌してしまったのではないか。人間の心が歪んでいくように、三原高校もまた、その性質を歪めていってしまっただけなのではないか、と。
だが、この件に関してはもうかかわるのは御免だ。
木野目は大きく、息を吐いた。
そういえば、千恵美は今どうしてるだろうか。
引っ越した後、木野目は何度か千恵美との連絡を試みた。しかし、いつ電話をかけてみても、繋がった先で彼女は無言を返してきていた。あの引越しの日以来、木野目は千恵美とは全く連絡を取っていないのだ。
もののついでだ、と木野目は電話をかけてみることにした。
実は、昨日の夜にも電話をかけていた。だが、その時は相変わらずで、繋がりこそすれ、千恵美と会話することはできなかった。
千恵美の電話番号を打って、コーリングの音が鳴りだすのを待つ。これまでなら、四回から五回ほど鳴ってから繋がり、そこから無言電話になってしまう。
だが、この時ばかりは違った。
コーリングの音は鳴らず、代わりに「おかけになった電話番号は、現在使われておりません……」という女性の機械的な声が返ってきた。
木野目は、眉をひそめた。
もう一度かけ直してみるが、結果は同じだった。
昨日かけた時は、たしかに繋がった。そこに通話という形が成立したかどうかは別として、たしかにコールする音が聞こえ、今かけたようなことは起こらなかった。
怪訝に思っていると、ぴろりん、というスマートフォンの音が鳴った。
画面を見てみると、無料通信アプリで風香からだった。
『信司、知ってる? 鬼ってさ、中国では幽霊って意味らしいよ』
風香の意図を理解しきれず、木野目は思わず首を傾げた。とりあえず、返信を打っておく。
『そりゃ、知りませんでした』
既読マークがすぐにつき、返信もすぐに来た。
『不思議だよね~~』
『そういえば、』
『ママがサンバラのルールで思いだしたことがあるって言ってたんだけど……』
苦笑しそうになった。
たった今けじめをつけたばかりなのに、ほじくり返さないでほしい。
しかし、その時、背後から声をかけられた。
「木野目先生」
振り返るとそこには、あの件以来会っていなかった角芽千恵美本人が立っていた。
彼女の姿を見た瞬間、木野目は少し安心した。
もう彼女の先生ではないとはいえ、かつての教え子の安否がわかったのはよかった。
「あ、邪魔だった?」
角芽千恵美は、木野目が持っているスマートフォンを見て遠慮がちに言った。
「ああ、いやいや、そんなことはないよ」
いつでも連絡が取れる風香と、長らく連絡が取れなかった千恵美とで、優先すべきは千恵美の方だ。
角芽千恵美は「よかったあ」と言うと、木野目に一歩近づいてきた。やけに馴れ馴れしく、男女間の正常な間合いを大きく踏み越えるほどの近距離になる。
「……千恵美?」
木野目は、視た。
角芽千恵美の瞳を。まるで、生きている光が消えていた。
同時に、気付いた。角芽千恵美の今の姿を。それは、木野目が散々目にしてきた中でも、一番かかわってはいけない霊のものだった。
角芽千恵美の病的なほど細長い四本の腕が、突然、巻きつくように木野目の首を絞めてきた。
「あっ……!」
『……どうして』
千恵美は呪詛を唱えるような低い声で、呟いていた。
『どうして……おしえてくれなかったの……にいさんのことおぉ……』
木野目の耳に入ってくる角芽千恵美の声は、憎しみに燃え、驚くほど低くなっていた。
『わぁたしがあ……こんなになぁっちゃったじゃなああぁい』
無数の腕を生やして、なおかつ黒い靄を噴き出している彼女は、呪うように怨嗟の声を吐いていた。恨みのこもった視線は、すくみ上がるほど恐ろしく、木野目は彼女の今を悟った。
彼女はもう、木野目の知っていた彼女とは、別のものになってしまったのだ。
地面に落ちた木野目のスマートフォンの画面には、風香からのメッセージが次のように続いていた。
『十三番目のルールってね』
『本当は別のやつもあるんだって』
『それはね……』
『入学するまでに血縁者を殺していると死んじゃった人が出てくる、てやつなんだってさ』
『それでさ』
『殺されちゃった血縁者の人は』
『どこまでも新入生を追いかけてくるんだって』
◎十三番目のルールについて
・誤
入学するまでの三か月以内に血縁者の誰かが死んでいると、死んでしまった血縁者が背広着た姿でやってくる。
・訂正
入学するまでの三か月以内に血縁者の誰かを殺してしまうと、その血縁者が復讐にやってくる。復讐者の目印は、背広を着ていること。
※なお、十三番目のルールについては、死者の復讐劇に巻き込まれてしまう第三者の生徒及び教師にのみ適用される。
終わり
鬼の目/キノメ