留年ガールの恋事情
prologue
「図書室ってあったかくていいね。おすすめの本とかあるの?」
隣から聞こえた声が耳につき無意識に振り返った。僕を見つめる優しい黒い瞳。茶色がかった長い髪の毛。気さくそうな人だと思った。背は僕とあまり変わらなかったけれど「佐倉」と書かれた赤い名札がひとつ先輩であることを表している。さっきまでカウンターの前に座って図書委員と喋っていたその人は不意に僕のほうを見てそういったのだ。
「わからないです…僕、図書委員じゃないので」
かすかに声が震えてしまっていた。知らない先輩から話しかけられるのはドキドキした。
「知ってる。でもいつも来てるでしょ?一番ここにいる時間が長いのは絶対君だよ」
全部お見通し、とでも言うように先輩は僕の顔を覗き込んだ。
「教えて。君が読んだなかで1番面白かった本」
僕は無言で立ち上がって廊下側の本棚から一冊の本を取り出した。
「赤川次郎か。ミステリー好き?」
「はい」
先輩はパラパラと本のページを軽くめくって眺めていた。その横顔がとても綺麗で思わず見とれてしまう。横髪を止めている飾り付きのピンに光が反射してきらりと光った。
「ありがと、文学少年。また来るね」
「あ、はい…」
『文学少年』といわれて少し違和感は抱いたものの、嫌な気はしなかった。
「ナホ見つけた!どこ行ってたの?」
「ずっとここにいたよ」
また本を返しに図書室に来るだろうか。また声をかけてくれるだろうか。
「佐倉、ナホ先輩…」
それから毎週先輩は本を借りに来た。どんな本も2,3日もすれば必ず返しに来た。
「好きなんですか。読書」
本を渡すのが当たり前になった頃1度だけ先輩に尋ねたことがあった。
「読書はあんまり好きじゃないかな。まあ恋愛ものとかは割と好き」
「じゃあなんで図書室に通ってるんですか?」
先輩は少しだけ考えてまっすぐに僕の方を向いた。
「君に会うため…って言ったらどうする?」
「えっ…」
「冗談だよ!」
不意打ちだった。
冗談だよ、って言われるまでほんの一瞬だったのにかあっと頬が熱くなったのを感じて思わず目をそらした。
「顔真っ赤!かーわいい」
先輩が笑うので恥ずかしくて顔を上げられなかった。先輩の笑い声に吸い寄せられるようにして周りの人がこっちを見ているのがわかった。
「まあ君が好きなように解釈してくれていいよ。多分その通りだと思うから」
先輩はいたずらに笑った。そんなことが1年以上続いた。学年が新しくなってもそれはずっと繰り返された。
3月。卒業式。
先輩は学校を去ってしまった。結局あの時の答えは教えてもらえないまま。なぜ図書室に通っていたのかわからないまま卒業してしまった。でも好きなように解釈していいというなら大した理由はなかったのだろう。それから僕は先輩と会うことなく1年の月日を過ごした。地元の高校に無事に合格、4月には春爛漫の空気に包まれて入学式を迎えた。
01 予想外の再開
「入学式日和」
頭上に咲き誇る花を見て呟いた。
そう言えるほどに満開に咲いた桜は春の明るい日差しに照らされて花びらはひらひらと目の前を舞っている。けれどそれを見て自分を祝っていると喜ぶほど伊織は子どもではない。桜が舞い込む大きな校舎。クラス分けの表はその校舎と隣の校舎の間に張り出されていた。伊織の名前は2組の欄に見つかった。同じクラスの面子を一通り見てはみたけれど仲のいい友達の名前は見当たらなかった。そもそも仲の良かった友達はこの学校にはあまり来ていないのだ。伊織が通っていたのは剣道で全国的に名の知れた中学校。伊織もその部員の1人で、仲良くしていたのはほとんどが部活の友達だった。なのでその多くは剣道の名門高校に進学した。それに比べて伊織は県大会出場とほかのメンバーのように特別強いわけではない。剣道を続けたいと中学までは選んだが高校では推薦枠もなかったし選んでまで強いところへは行かなくてもいいと思った。それで地元の高校で進学を目指すことにしたのだ。
「…あれ」
何度か2組の生徒の名前を巡っていったところで気になる名前を見つけた。知ってはいるけれどここにあるはずのない名前。
『7 佐倉那穂』
「さくらなほ…先輩?」
文学少年、と自分を呼ぶ声が頭の中に響いた。
あの頃図書室に通っていた先輩の名前は間違いなく『佐倉ナホ』だった。名札に書かれていた苗字も友達から呼ばれていた名前も何ひとつ忘れてはいない。けれど1つ年上の先輩は今年高校2年生にあがる。ここに名前があることはありえるはずがない。
「今年は2組…かな?」
後ろから聞き覚えのある声がした。片時も耳から離れない声。あの日図書室で聞いた声。さっきまで頭の中で響いていた声。間違えるはずはない。
「文学少年?」
「えっ?」
その人は明るい声で伊織に呼びかけた。文学少年ということばに反応してしまったのは伊織ぐらいだろう。そう呼ぶのはあの先輩のほかにはいない。みんな伊織たちの方を見ていた。それもそうだろう。真新しい黒の制服を着た新入生たちの中に白いカーディガンの桜色のリュック姿の先輩は正直目立っていた。その人がいきなり大きな声をあげていたらみんな見るに決まっている。そしてその声の主は見覚えのあるまっすぐな視線で伊織を見ている。その視線にはただならないデジャヴを感じた。
「高遠伊織くんだよね?」
そう言うと一気に表情が変わった。声の主は突然伊織の肩を強くつかんでそういった。
「え、あ、はい…」
「久しぶりだね!1年ぶりかな?」
目の前では物事がとんとんと進むけれど驚きの連続に頭の中の整理が全く追いついていかなかった。だってそんなはずはない。今日の午後からは入学式だから在校生は校内立ち入り禁止。部活動の生徒も午前中で切り上げて校内から出るようにように指示が出ているはずだ。でもあの勝気そうな目は見覚えのある先輩の目だし、短くなっているけれどあの頃と同じ茶色がかった髪の毛は飾り付きのピンで留められている。
他人だなんて考えられない。
「えっと…みんな見てるんですけど」
「あ、ごめん。場所変えようか」
何もわからないままで人気の少ないところまで連れて行かれた。校舎の裏まで行くと腰を下ろして先輩は楽しそうに話し始めた。
「1年ぶりか。那穂のこと覚えてる?」
「佐倉先輩…ですよね。なんでここにいるんですか?」
「Repeating the same grade.留年したんだ」
伊織はその言葉に耳を疑った。先輩は頭がいい人の話に必ず名前が挙がっていたし上位の成績だったことは間違いない。そもそも通常の高等学校で留年する確率は0.3%ほどだ。なんで留年なんかしているんだろう、と考えるのも無理はない。
「…知りたい?」
「あ、無理には…すいません」
「謝ることなんかないよ。そんな重たい理由じゃないし」
「そうなんですか?」
「君と…一緒になりたかったからさ」
「えっ…」
先輩は一瞬だけはにかんで俯いた。けれど次の瞬間見たことのある悪戯っぽい顔に変わった。
「冗談だよ!ひっかかった?」
「いや、ひっかかってません」
伊織は慌てて顔を逸らした。あの時と同じ状況。また不意打ちにはまってしまったのだ。
「本当はなんでですか?」
「去年ちょっと留学しててね。夏休みぐらいから」
中学の頃から英語が得意だった先輩は高校に入ってから短期留学でイギリスに行っていたらしい。向こうの学校に通っている間はこちらの学校には通えないのでその分単位が取れないのは仕方のないことらしい。
「丸1年行ってるわけじゃないし成績と頑張りによっては進級できるんだろうけど那穂は留年してもよかったし」
確かに中学時代から那穂は同級生より年下といるのを見る方が多かったことは伊織も知っている。敬語を使わない後輩も少なくなかったし本人も馴染んでいたから一緒になることに抵抗がなかったのかもしれない。
「でもすごいですね。留学って」
「中学の時からの夢だったの。短期留学」
那穂の話を聞いているとそんな簡単に留学なんてできるんだと思うと外国が少しだけ身近に感じられた。
「あ、そろそろ行かないとSHR始まるね」
「はい」
そう言って立ち上がろうとしてからふと思った。那穂はこの時間に学校に来ているけれど去年入学しているわけだ。ふいにもう1度入学式をするのだろうか、そうじゃないなら今日は何をしにきたんだろうかと言う疑問を抱いた。
「先輩って入学式出るんですか?」
「出ないよ。HRまで待ってる」
「HRって何かやるんですか」
「明日からの日程とかいろいろ配るからHRは来いって言われた」
那穂は欠伸をしながら猫のようにその場に寝転ぶ。伊織はカバンを持って立ち上がった。
「じゃあ僕先に上がります」
「もう先輩じゃなくていいからね」
「はい?」
「同級生なんだから別にタメでもいいんだよ」
「え、それはちょっと…」
いくら同じクラスになるとはいえ年上は年上。厳しい上下関係のある部活で中学時代を過ごした伊織にとってタメ口は気が引けた。
「さっすが剣道部。真摯だね。でも、本当気にしなくていいから」
「でも…」
「留年してるって那穂がバカみたいだからそう思われなくないの」
留年してるって思われなくない。その気持ちを考えたら先輩と呼ばれるのは周りからの目も気になるし決していい気はしないだろう。
「…那穂、さん」
勇気を出して名前を呼んでみた。
「うん。じゃあ後でね、伊織!」
「はい」
軽く返事をして階段を駆け上がった。
教室に着くと先生は来ていなかったけれどもうほとんど揃っていた。静まり返っている教室に空いた席は2つ。おそらく伊織と那穂の席だ。黒板に貼られていた席順の名簿を見てみると伊織の席は窓際から2列目の1番後ろ。左隣の席には佐倉那穂と書かれていた。
「隣の席…」
先輩と隣の席というのもなんだか気まずい感じがするけれど知らない人よりはずっといい。今までの出席番号順だと男子が先だったけれど高校は男女混合なので伊織より前にも女の子がいた。落ち着いて時計を見ると教室に入って置くようにと言われていた時刻のギリギリだった。また荒い息も整わないうちに前のドアが開いて担任の先生らしき人が教室の中に入ってきた。
「全員揃ってるな。左右前後でいないやつとかいねえか。あ、そこ以外で」
先生がそこといったのは伊織の隣。那穂の席だ。
「この後1時から移動で半から式だから入るの遅れないように」
さらっと説明をして先生が教室を出るとまた周りの人たちは話し始める。ほとんど知っている人のいないこの教室。伊織の周りの空気だけが重く冷たい気がした。1時を前に先生の指示でみんな順番に教室を出て行った。他のクラスが混ざってくると知っている人が見えて少し安心した。入学式は1年生と保護者だけの出席だった。やはり先生の話が一番長いというあたりは変わらないようだ。中学校の卒業式ほどの席にゆとりがなく前後とも左右ともかなり近づいていた。卒業式とかはみんなこの中に入れるのだろうか。入学式は思いの外早く終わった。体育館を出て歩いているといつの間にか集団の中に那穂が混ざっているのが見えた。
「あ、伊織。お疲れ様」
「さりげなく混ざりますね」
「うん。ばれたくないからね。年上だと思われると面倒でしょ?」
内緒にしてね、と付け加えた。教室に入ると那穂も席が隣であることに気づいて笑った。
「よかった。知らない人じゃなくて」
「はい」
先生が来るまで周りのみんなは自由に喋っていた。クラスには那穂はもちろん伊織が知っている人もほとんどいない。
「城浦僕らだけみたいですね」
「今年は推薦とか多かったしこっち来た子も少なかったんでしょ?」
去年まで地元の学校は5クラスあって特進クラスも2クラスだった。けれど今年から4クラスに減った影響で市外の高校へ流れる人が多かったのだ。さらに例年以上に特待生入学やスポーツ推薦なとが多かったため思ったほどこっちの高校には進学しなかった。
「もともと城浦ってバカと偉い子の差が激しいから特進じゃない普通科って少ないしね」
かといって那穂たちだけになるとは思わなかったけど、と那穂は笑う。
先生が話し始めるとみんなおとなしく聞いていた。伊織は提出する書類が多くて混乱しそうになったけれど那穂はほとんど何もなかった。先生が言っていた書類の提出や明日からの予定の配布はすぐに終わりHR後割と早く帰ることができた。
「やっと終わったあ!帰れる」
HRを終えて教室を出てから那穂は目一杯体を伸ばした。
「先輩の家、どこですか?」
「那穂」
「あ、那穂さん」
先輩ではないといわれたことを思い出して慌てて言い直す。那穂は肩から落ちたリュックの肩紐をかけなおした。
「那穂は城浦。わりと中学校の近く。伊織は?」
「中辺です」
「じゃあバス通か。いいなあバス通」
「近いのもいいじゃないですか」
「そっかな。じゃあまた明日ね」
手を振って帰っていく那穂。
『また明日ね』
という明るい声が耳を離れずずっと頭の中でリピートされた。
「明日…か」
まだなんの見通しもない高校生活の先が少しだけ見えた気がした。
02 伊織の知らないこと
「伊織、早くしないと遅れるよ」
「うん」
高校生活2日目。中学校よりもさらに大きな集団での生活が今日始まる。初日の今日は身だしなみ指導、身体計測、対面式。今週いっぱいはほとんどそれらしい授業はなく、新学期らしいことが続くらしい。バスに揺られてバスセンターの近くまで来ると見覚えのある桜色のリュックを背負った後ろ姿。伊織の瞳に那穂が映った。
「おはようございます」
バスを降りて声をかけた。
「あ、おはよ。結構ゆっくりだね」
「バスなので」
学校を目前にしてまわりは登校してきた同じ制服の学生の姿がめだった。だが予鈴まであと10分ほどしかない。
「思ってたより時間かかりますね」
「那穂の家は歩いてもそんなにかからないからね。近いものよ」
「いいですね。学校近いのって」
「うん。ギリギリまで寝れるよ」
那穂が朝に弱いのは昔からずっとらしい。夜起きてるからだと友達に言われるらしいがどれくらいまで起きてるのかは日によってまちまちである。
「0限の時はちゃんと寝るよ。起きれないとやばいしね」
「0限?」
「1年も希望者は月水金だけSHRの前に1時間授業やるの。前に聞かなかった?」
「そういえば聞きましたね」
陸の孤島のような場所にポツンとある田舎の学校だから当然塾や予備校もない。その代わりとして先生たちがボランティアで進学を希望する生徒には課外授業をしているらしい。
「一応那穂も進学希望だから」
「そうですね。去年も、」
受けてたんですか、と言いかけて伊織は口をつぐんだ。周りには1年生もたくさんいる。同じクラスの人ももしかしたらいるかもしれない。
「すいません」
「そんな神経質にならなくてもいいよ。いつかはバレる覚悟だし」
確かにいつまで隠し通せるかはわからない。1年バレずにいられる保証なんてものはどこにもない。けれどそういう話をするたびにそんな顔をされるのは嫌だから
「僕、絶対に誰にも言いません。約束します」
「うん…ありがと!」
那穂が笑っているとなんとなく安心してしまう自分がいることに伊織は気がついてしまった。学校の門をくぐると同じ制服を着た人が一気に増えた。中学の時の同級生たちの登校風景も制服が違うとなんとなく新鮮な感じがした。
「バス通の人も多いんですね」
「そりゃあ市内全部から集まるからね。外からもいっぱい来るし」
確かに市内に高校はひとつしかない。少子化もあって増やすことはできないだろうと言われているため遠いところからここに通う人も少なくない。それは校区内に限らず市外、県外から通う生徒もいる。
「3階ですか。教室まで遠いですよね。今までは玄関からすぐだったのに」
「でも3階はまだいいほうじゃない。4組じゃなくてよかった」
2,3組は教室が第4教棟で4組は同じ教棟の4階にある。教室は既に半分以上の席が埋まっている。騒いでいると昨日より人数も多く感じられた。まだ来ていない人はおそらく校区外から通っている人だろう。
「偉いよね。バスで1時間もかけて通学とか。那穂は絶対無理」
8時半のまでに登校なので7時半までにはバスに乗らなければ間に合わないことになる。朝起きるのが苦手な那穂には少し厳しいかもしれない。
「バスの時間早いですよね」
「うん。伊織も結構早いの?」
「今日は間に合う範囲で1番遅いバスなのでそんなには」
結局時間ギリギリまで席は埋まっていなかったけれど、さすがに初日から遅刻する人はいなかった。
「昨日も言ったけど今日は1,2時間目が講話と身だしなみ指導、3,4時間目身体計測、昼から対面式な。あと…」
今週はしばらく特別な時間割で授業が短くなるので普段より早く帰ることができる。身だしなみ指導は体育館であるらしく揃って階段を降りて外に向かった。200近い人が入ろうとするとドアが3つあるにもかかわらず入り口付近はかなり混んでいた。中学の時の全校生徒と匹敵する人数が1つの学年にいることは伊織にとってはあまり実感が湧かなかいことだった。いろいろな先生の講話を聞いていると1年部の先生だけでも軽く10人以上はいる。中学のときは5,6人くらいだったから2倍の人数。学年集会というよりも全校集会に近い気がした。身だしなみ指導は男女で別れて行った。横目でちらりと見ると那穂はすぐ見つけることができた。みんなは黒のブレザーを着ているのに那穂はいつも白のカーディガンを着ているから人より目立つのだ。高校は規則もあんまり厳しくないし前髪が多少長いくらいでは検査に引っかからない。冬服期間なのにブレザーを着ていない那穂も指導は受けていなかった。2時間目が終わり教室に戻る途中で那穂と伊織は合流した。毎年4月の学年集会になるとこんな風に学年部の先生の話がある。先生は基本的に持ち上がりなので那穂にとっては先生がほとんど変わった。そのため教科担任も去年とはかなり入れ替わった。
「去年の担任は嫌いじゃなかったけど那穂は今の担任がいいな。教科担とかも」
今年1年生の学年主任になった中野先生は国語の先生で去年は3年生の特進クラスを持っていたらしい。
「那穂のお兄ちゃんの担任だったんだよ。那穂は授業なかったけど」
「那穂さんお兄さんいるんですか?」
「うん。伊織とは入れ違いになるけどね。今年から大学生」
今まで伊織はいろいろなことを那穂から聞いていたけれど兄弟がいることは聞かされていなかった。
「まあ聞かれなかったし。伊織はひとりっ子?」
「はい。たまに兄弟欲しくなります」
伊織はいつも1人で遊んだり留守番したりしていたからか1人でいることにはそれなりに慣れている。けれど兄弟がいたら楽しいだろうなと思うことはよくよくある。
「いつもお兄ちゃんとカードゲームばっかりしてたよ」
「そうなんですか。僕もデュエルよくやってました」
「やったやった!クレバーなお兄ちゃんに鍛えられたからね。そこらへんの男の子には負けなかったなあ」
本当はかわいい妹が欲しかったと那穂はいう。確かに幼い女の子がデュエルなどのカードゲームをしていて楽しいかと言われればきっと大半は楽しくないだろう。
「お兄さん頭良かったんですか」
「うん。5組文系でいっつも2番だったらしいよ。大学もわりといいとこ行ったし」
1番は取ったことなかったけどねと笑っているうちに教室に戻ってきた。
大学を目指す人は大概特進クラスに入る。那穂は文理で言えば理科や数学が得意な理系。英語もクラスの中では比較的頭のいい部類に入る。それでも多少自信なさげに見えるのは文系科目への苦手意識が強いからかもしれない。1年生でいう世界史と国語総合が苦手分野らしい。特に歴史と古典。古典は主要3科目に入るので模試でも致命的な欠点となる。
「すぐ着替えろよー。男子が隣の教室で女子がここだからな」
席に着いて腰を下ろす暇もなく先生の指示に従い教室を出た。
「156.5」
「ありがとうございました」
高校1年生男子ながらこの低身長。那穂と並んでもそんなに変わらなかったが女子と同じというだけでもちょっぴり情けない。那穂も高校生としては特別背が高くほうではないから伊織より背の高い女子も当然いるわけだ。それから体重、座高、視力、聴力と順番に測っていく。全て終わって教室に戻るともう女子は終えて先に教室に戻っていた。
「お疲れ。何センチだった?身長」
「それ聞きますか…」
教室に戻ってくるなり目をキラキラと輝かせて聞いてくる。がっかりしている伊織を半分面白がりながら那穂は伊織の用紙を覗き込んだ。
「156.5?那穂とぴったり一緒かも」
「え、5までですか?」
「多分。ほら、156.5!」
「うわー」
自分の身長が女子並みであることを改めて突きつけられたようで伊織は心が痛んだ。
「まあ伊織ちっちゃいもんね。剣道部の集団でみたら本当ちっちゃい。でもクラスで並んだらそんなにちっちゃくもなかったかも」
「ちっちゃいちっちゃい言わないでください」
那穂はそう言ってるけど部活の男子だけで見ても伊織より背が低いのはいた。ただよく隣にいた佑馬はクラスで見ても背が高いほうだし清大はとにかくガタイがいい。当分伊織が勝てるような相手ではない。
「剣道部って大きい子とちっちゃい子の差が激しいよね」
「直樹くんとかですか」
「そうそう。直樹と智広の差!」
中学のころ剣道部にいつも一緒にいる2人がいた。片方は155センチ、もう片方は175センチ。その身長差は20センチと大きくあの頃はあちこちでうわさになっていた。
「伊織はよかったね。隣にいるのが那穂で。直樹みたいにはならないよ」
那穂はこれ以上伸びないから安心して、と言われるけれど今同じという現実だけでもう安心できなかった。
「那穂そんなにちっちゃいほうじゃないしさ。伊織はきっとまだ伸びるよ」
「伸びるといいですけどね…」
さっさと片付けてお昼の準備を始めた。
「対面式ってなにするんですか?」
「学校の説明とか部活動紹介とか」
「あ、部活か」
「でも伊織はもう決まってるんじゃないの?」
「いや、まだです」
1年生は必ず入部しないといけない決まりがある。伊織はこのまま剣道を続けようとも思えなくて少し迷っていた。
「伊織は剣道一筋だと思ってたのに」
「まだちょっと迷ってます」
「へえ。美羽も迷ってたよね。陸上」
那穂は剣道苦手だなあ、と呟いた。体育の授業の模擬戦で直樹と当たって2本取られるまでに10秒持たなかったという話は今ではちょっとした伝説になりつつあるらしい。
「那穂さんは何部なんですか」
「美術部。言ってなかったっけ?」
「聞いてません」
伊織からしてみると少しだけ意外だった。中学では吹部だったけれど運動会での活躍が多かった。いつも明るい人だし静かに絵を描いてる美術部というのは伊織には安易には想像できなかった。
「吹奏楽は好きだし未だに勧誘来るよ。剣道以外ならなんかやりたいことあるの?」
「自然科学とか。進学にも役立ちそうですし」
「あそこは先生の趣味に生徒が付き合ってるような部だよ。マニアックだけど好きな人は好きだよね」
美術部もオススメだよ、と言いながら那穂さんはお弁当を片付けた。
03 大きな夢と小さな嘘
「月日は百代の過客にして…」
様々な行事を一通り終え、普通時間割での授業が始まりだんだんと高校生活らしくなり始めた頃。勉強はまだまだ中学生の復習のような内容が多く、伊織も那穂も苦手な科目で遅れをとることはなかった。
「那穂もおかげさまで国語はだいぶわかるようになったかな」
苦手科目と得意科目がばっちり逆だった伊織と那穂はお互いの苦手科目を教えあうことにした。那穂は現代文は比較的得意なようで古典の方も1年間やっているだけあって基礎の基礎ははきちんとできていた。問題となるのは世界史。那穂は苦手とかいう以前に勉強することが極端に嫌いだった。同じ美術部の2年生に世界史が得意な人がいるらしいが忙しくて教えてもらう時間が取れないという。
「もともと世界史って暗記科目だから教えてもらうような科目じゃないんだよね。でも勉強しながら部活ってほんと偉いよ」
「特進の運動部って大変ですよね」
「でもみんなビビットだよね。特に運動部って楽しそうだし」
本当すごいよね、と那穂は繰り返す。自分が去年成し遂げられなかった学業との両立をほとんどの人は続けている。過去には学校にほとんど来なくても春休みの挽回で卒業した先輩はいる。それでも那穂が進級できなかったのは他に問題があるのだ。
「そういえば今日の放課後部登録ですよね」
2人ともそれぞれ美術部、自然科学部と決めているので今から悩むこともない。
「本当に良かったの?剣道続けなくて」
「はい。僕より上手い人はいっぱいますから」
「まあ新しいことできるのは今のうちだしね」
体験入部で1度剣道部にも行ってみたけれど中学ほどの活気もないし他のメンバーも続けないという人が多かったから伊織も続けないことにした。那穂も中学の時は吹奏楽部に入っていて美術部に入ったのは高校に入ってからだった
「やっぱり高校でも続ける人って少ないんですかね?」
「どうかな。那穂以外はみんな吹部続けてるみたいだし」
中学は夏の吹奏楽コンクールで3年連続金賞で地方大会に出場する県内ではそこそこ名の知れた中学校だった。高校の吹部もダメ金ではあるけれど毎年金は逃さずとっている。決して弱小と言えるレベルではない。
「なんでやめたんですか?」
「それはまあいろいろだよ」
那穂は笑って曖昧にごまかした。けれど那穂は美術部を楽しんでいるようで部活の話をするときが一番生き生きとしていると伊織も感じていた。だから深い意味はなくただ美術が好きなんだろうなと思っていた。
「美術は本当に好きだから美術部にしたの。それだけだよ」
そう話す那穂はこの上なく幸せそうで美術部が本当に好きという気持ちが嫌というほど伝わってくる。普通部活動をしているとだんだん行きたくなくなるものだけれど1年経ってもなおこんなに部活が好きな人って珍しいな、と伊織は感じた。
「じゃあ運動部の部長から並んでください」
放課後、部登録のため体育館に集められた。全校生徒が入るとさすがに狭く、部登録は運動部と文化部に分けて行われた。文化部だけでも並ぶとかなりの人数になり窮屈だった。自然科学部は2,3年生は多かったが1年生は数人しかいなかった。それに比べると美術部は全学年バランスがよく特に多い学年少ない学年はない。
「今年も順調に1年生入ったからとりま安心かな」
「那穂さんも1年生ですけどね」
その日はそのまま部活に向かった。
部登録が終わって、毎日繰り返されるごくごく普通の高校生活にもだんだんと慣れ始めた。そして4月も終わりに近づいた頃。
「来週からゴールデンウィークに入りますがそれが開けたらすぐにテストになります。しっかり勉強しておくように」
ゴールデンウィークは新しい学年になって最初のまとまった休み。やっと少しは羽を伸ばせるかと思いきや、週明けからの中間考査に向けてのテスト期間になっている。
「2年生はテスト終わったら修学旅行だって。いいなあ」
「いいですね」
2年生にとって5月はゴールデンウィーク、テスト期間、修学旅行とイベントが続き5月はあっという間に過ぎてしまう。伊織や那穂たち1年生にとってもテスト期間が開けた時点で半分終わっている。
「まあ逆に言えばテスト期間が開けないと5月は終わらないってことだよね」
「そうですね」
テスト期間中は原則として部活動は全面禁止。試験が終わってから3週間以内に公式戦のある部活動については特別に決められた時間まで活動が認められている。運動部の中には何人か残って練習する部もあるが文化部は基本的に残って練習することはない。
「ほとんどのコンクールはどこも8月入ってからだしね」
文化部は運動部と違って各コンクールの他にも学校や地域の文化祭など発表の場がある。だからわざわざテスト期間を使ってまで他のコンクールに出る必要はない。自然科学部も広島やら鹿児島やらにしょっちゅう学会に行っているため発表の場としては満足しているだろう。
「伊織は部活何時くらいに終わる?」
「6時半くらいですかね」
週に数回しかない文化部では完全下校前の定時帰宅は珍しくない。写真部や放送部のように普段の活動をあまり必要としていない部活もあるため部活があっても早めに終わるところも多いのだ。
「那穂さんはいつまでですか?」
「那穂も同じくらいかな。今日は一緒に帰らない?バスセンターまでは行くでしょ」
部活終わったら下で待ってるね。
その言葉が耳を離れなくて授業中もずっと頭の中でリピートしていた。
「ねー打ち込みの資料どこやったか知らない?」
「パソコンのとこにないの?」
放課後。慌ただしい部活。かたかたと資料を打ち込む人がいたり、網と毒瓶を持って昆虫の採取に行く人がいたり、半島の模型を作る人がいたり。いつもと変わらない部活の風景だった。
「高遠、ちょっと手伝って?」
「あ、はい」
2年の先輩に声をかけられ資料をまとめるのを手伝った。
「これも2009年です」
「お前この後なんかあるの?」
「え?特には…」
「時間気にしてるから」
無意識のうちに時計を気にしていたようで自分が思っている以上に那穂と変えることを心待ちにしていることに気づいた。
『部活終わったら下で待ってるね』
そういった那穂の言葉が頭をよぎって思わず顔がにやけそうになる。
「やっぱなんかあんだろ」
「別にないです」
横腹をひじで突いてくる先輩を笑ってごまかしながら部活の時間が過ぎるのを待った。
その頃美術室でも似たような会話が聞こえていた。
「那穂、今日なんかいいことあったか」
通りすがった顧問の先生が那穂の絵を見て声をかけた。
「んー、別になんもないけど」
「無意識か?わかりやすいなー」
いつもより色が明るい。そう言われたけれど那穂自身に自覚はなかった。
「今日に限ったことじゃないけど、最近学校楽しい」
先生は少し驚いた顔で那穂を見たけれどすぐにいつものいたずらっぽい笑顔を浮かべた。
「いいんじゃね?楽しいなら」
先生はそういって通り過ぎて行った。
「上がります。さようなら」
「おう」
今日早いな、と先生は言っていたけれど深入りはされなかった。ここから話を広げれば厄介なことになるのは那穂もわかっていたから早々と美術室を後にした。
「伊織!」
「あ、那穂さん。お疲れ様です」
「ごめん、遅くなった」
「いえ。僕も早かったんで」
まるでデートのような会話をしながら帰路に着いた。那穂の家の近くのバスセンターまで1km弱。ゆっくり歩いても20分あれば余裕で着く距離だ。
「それでね、先生にも最近楽しそうって言われるんだ」
「そうなんですか」
「うん。那穂最近楽しいの。伊織と同じクラスになってからかな」
そういってもらえることを伊織は素直に喜んだ。けれど先生の発言からしても今までの那穂と今の那穂が違うということはわかる。何が違うのか伊織はまだ知らない。いつも一緒にいるのにお互いのことをあまり知らないことが悔しかった。
「那穂さんのこともっと教えてください」
「那穂のこと?」
「はい。留学のこととか。あと誕生日とか好きなこととか」
こんなこと言ったらさらにデートのような雰囲気に包まれてしまうけれどお互いのことを知りたいのは素直な気持ちだった。
「…9月4日」
「へ?」
「那穂の誕生日。9月4日」
那穂はにこっと笑ってお祝いしてねと告げた。
「僕は9月7日です」
「本当?めっちゃ近いね!あと好きなことはね、英語とイラスト。専門は水彩画とパステル。スポーツも好きだし、猫と遊ぶのも好き!」
好きなことを語る那穂は本当に生き生きとしている。伊織も自然と笑顔になって耳を傾けた。
「伊織は?何が好き?」
「僕は読書ですかね」
「伊織らしいね」
同じクラスになってからこんなに経つのにこんなにたくさん話して笑うのは多分初めてだ。
「将来は美術の仕事がしたい!それから暇になったら外国を放浪するの」
「放浪するんですか?楽しそうですね」
「伊織はどうするの?進路」
「僕は…」
自分には那穂のように大きな夢はまだない。まだ近い将来さえ見えていない。来年のことすらわからない自分に高校を卒業したあとのことなんてわからない。
「まだわからないです」
「そっか。まだ1年生だもんね」
同じ高校1年生でも那穂は伊織と違って1年高校で過ごしている。高校は1年の初めから進路学習にも意欲的だからこの差は大きい。
「焦らなくても大丈夫だよ。那穂も高校入ってから進路決まったもん」
「へえ。なんか意外です。前から決まってたのかと思ってました」
「先生あってから決まったの。先生みたいに美術は楽しいよってみんなに伝えてあげたいなって」
「美術部の顧問の先生ですか」
「うん。感謝してるし尊敬してる。先生は那穂の恩師だから」
美術部の顧問の先生は男の先生でサバサバとした性格の割に手先の器用な先生。それから那穂は先生から教わったことを伊織に語った。先生は油彩画の専門だということ、教師になる前よりなってからの方が苦労したこと、那穂の感性を褒めてくれたこと。先生のおかげで部活が本当に楽しいこと。
「伊織は部活楽しい?」
「はい。里山行ったり標本作ったり、勉強になります」
「部活でも勉強とかえらいなあ」
他愛ない会話を続けていると時間は早くすぎるものであっという間にバス停に着いた。
「バス、いつ来る?」
このまま待てばあと2,3分でバスは来る。けれどこのまますぐ帰ってしまうのはなんとなく名残惜しい気がした。
「バスさっき行っちゃったみたいです。あと40分くらいは。飲み物買いに行きませんか」
バスの行き先を見ればばれてしまうかもしれない小さな嘘。それでも伊織は少しでも長く那穂の話を聞きたい気分だった。まるで雰囲気に飲まれてしまったかのような甘い気分に陥った。
「それじゃ仕方ないね。いこっか」
2人はまた話しながら歩き始めた。
04 秘密の図書室
キーンコーンカーンコーン…
「終わったあ」
「伊織、那穂行くとこあるからお昼食べてて」
「あ、はい」
入学してから数日。一緒にお弁当を食べていた2人だが今日は那穂が1人で教室を出て行ったので伊織1人で食べていた。那穂は昼休みの間には戻って来ず、伊織はそのまま掃除に向かった。教室に戻ってきてから伊織は那穂に尋ねた。
「昼休みどこいってたんですか」
「うーん…内緒!」
那穂はなにも教えなかった。伊織もいずれ分かることだと深入りはしなかった。
翌日。
「那穂さん…あれ、那穂さん?」
「那穂ちゃんならさっき下で見たよ」
探していると前の席の女子が振り返って教えてくれた。
「下?」
「うん。ジュース買いに行って戻ってくる時にすれ違った」
「今日は一足遅かったか…」
今日もまた那穂は伊織を置いて1人教室を出て行ってしまったようだ。結局どこに行っているのかわからないまま。今日も1人でお弁当を食べた。その日の昼休みは図書室に行ってみた。もともと本を読むのが好きな伊織は中学でも1人で図書室に入り浸るような子だった。だからというわけではないけれど部活以外での友達はそんなに多くないし作るのもあまり得意ではない。図書室は2階の1番奥。下にいると言っていたからもしかしたらどこかで那穂とすれ違うかもしれないと思いながら階段を降りていった。
「失礼します…」
ドアの前に大きな本棚が立っていて奥には移動式や回転式の本棚もある。高いところまで本がぎっしり並べてあってあまり収容数はかなりのものだ。中学校の図書室ほど広々とした空間ではないけれど市民図書館のような雰囲気があった。
「あれ…那穂さん?」
カウンターの前に並べられた机に先生と向かい合って座っていたのは4限が終わってすぐに教室を出て行った那穂だった。
「あれ、もしかして探してた?」
「そういうわけじゃないですけど」
「そっか。伊織図書室好きだもんね」
那穂の前にいる先生は若い女の先生。少し不思議そうに僕の方を見ていた。
「あの子が伊織くん?」
「そうですよ。可愛いでしょ」
なんだか可愛いことにされてる、と伊織は内心苦笑した。
「いつもお昼休みここに来てたんですか?」
「うん。去年もずっとここ来てたから図書室解放されたって聞いて。お昼1人にしてごめんね」
そういうことなら言ってくれればよかったのに、と伊織は少しだけふてくされた。
「伊織もお昼くる?」
「いいんですか?」
どうせ教室にいてもぼっちだし、ここに来れば今まで通り那穂もいて、本にも囲まれてていいことには間違いない。伊織はちらっと那穂の前にいる先生に目を向けた。この先生はそれでもいいんだろうか。
「いつでも来てね。待ってますよ」
その先生は優しそうに微笑んだ。
「国語の小林先生だよ」
「1年2組の高遠です」
「小林です。よろしくね」
先生と伊織はすぐに馴染んでよく話すようになった。
「伊織はコミュ力高いなあ」
「そうですか?」
「普通あって間もない先生とあんなに話せないよ」
「那穂さん通してましたから」
実際伊織は先生と、といよりはほとんど那穂と話していた。それに合わせて先生も話を振ってくれるのでとても話やすかった。
「去年まではね、小林先生じゃなかったの。後藤先生っていう男の先生がいたんだ」
「他の先生ですか?」
「うん」
後藤先生は国語科の男の先生で司書教諭の資格を持っていたからか昼休みは図書室でお弁当を食べてから仕事をしていた。那穂もそこで一緒になってお弁当を食べていた。それから授業のことや本のことについて語り合った。
「先生は村上春樹より中島敦が好きなんだって。それから唐揚げも好きで先生のお弁当にはいつも唐揚げが入ってた」
「那穂さんはその先生が好きだったんですね」
「うん。明るくて面白い先生。授業も楽しかったんだよ」
伊織は那穂の話を聞きながら国語の後藤という先生を脳内で必死に探していたが名前にすらピンとこなかった。
「その先生今もいますか?」」
「ううん。変わっちゃったの。去年」
どうりでわからないはずだと伊織は落胆した。自分の知らない那穂がいるということがなんとなく腑に落ちない気分だった。最近いつも一緒にいるからか知らない間に伊織の中に那穂に対する独占欲のようなものが生まれていた。ふと我に帰ると那穂が楽しそうに話しながらも少し浮かない表情をしていることに気がついた。
「寂しいんですか」
「ううん、大丈夫。小林先生も伊織もいるし今は今で楽しいよ」
「それはよかったです」
那穂に自然な笑顔が戻り、伊織も安心したように笑った。その笑顔が心からの笑顔であるようにと祈って。
「那穂さん…?」
行き先もわかっているし、今日こそは一緒に行こうと思ったのに4限が終わった途端那穂の姿が見えない。どこに行ったんだろうと考えながら図書室に向かった。
「失礼します」
教室に入っても那穂の姿は見当たらない。図書室にはまだきていないらしかった。来る途中でも見かけなかったからジュースでも買いに行っているのかもしれない。
「高遠くん、教室での那穂ちゃんってどんな感じ?」
「いつもと変わらないですね。明るくてテンション高くて」
「そうなの。よかった」
先生の少し意外そうな言い方が伊織は気になった。まるで教室では明るい那穂がいなかったかのように少し驚いた言い方に聞こえた。
「那穂さん前に何かあったんですか?」
自分が聞いていいのかわからない。けれど自分だけ何も知らないのは嫌だ。伊織はもっと那穂のことが知りたかった。
「留学してたのは知ってる?私は帰ってきてからのことしか知らないんだけど、しばらく学校を休んでたの」
「そうなんですか?」
少し伊織には信じがたいことだった。だってあんなに明るくていつも笑顔の那穂が学校を休んでたなんて今じゃとても考えられない。
「それからずっとここに来てたんですか?」
「ええ。でも去年のことなら私より同級生の子の方が詳しいわよ」
「はあ…」
「高遠くん自然科学部でしょ?いい先輩がいるじゃない」
「え?」
先生曰く、自然科学部の2年生の斉藤可憐は1年の頃那穂と仲が良くいつも一緒だったという。2人は中学も一緒だったはずだが特別一緒にいた記憶はない。
「話聞いてみたら?何かわかるかもよ」
「はい」
その日の放課後。部活に行くと2年生はほとんど来ていた。その中でも数少ない女子が斉藤可憐だ。見た目からして真面目そうな可憐は2年生の選抜クラスでも上位の成績を収めている。そんな人と常に一緒にいた那穂と今は自分が行動を共にしているんだと思うとなんとなく後ろめたいような気持ちになった。
「斉藤先輩」
突然先輩に話しかけるのはすごく勇気がいるし緊張していたけれど那穂のことを思うと自然と背中が押された。
「那穂さんと去年仲良かったって聞いて」
「まじ?誰から聞いたの?」
「小林先生です。図書室の」
「あー、小林ちゃんか。まあね。仲良かったっていうか一緒にいるのが当たり前だったって感じかな」
可憐の話によると、中学から高校にあがると割と中学からのグループがそのままだったりすることが多い。けれど可憐も那穂も中学で一緒にいた子が他校に行ってしまったから誰かと一緒にいようと思った時お互い都合が良かったらしい。
「2人は中学から仲が良かったんですか」
「そこまでじゃないかな。クラスも違ったし。でもまあ小学校から面識あったから気が置けない仲ではあったよ」
「留学から帰ってきてから、学校休んでたんですか?」
「…まあ休んでたね。理由はあたしも知らないけど、連絡しても大丈夫しか返ってこなくて。だんだん来るようにはなったけど出席足りなくて」
いつも一緒だった人ですら理由を知らない。ここまでくればもう本人しか知らないかもしれない。伊織はそれ以上のことを聞くのを諦めた。
「あと、これ関係あるかわかんないけど…那穂がブレザー着なくなったの帰ってきてからだよ」
「ブレザー?」
「あいつ冬服の時いつもカーデ着てたじゃん?前まではブレザー着てた。あと前はネクタイしてた」
「制服ですか?」
「うん。女子の制服ってネクタイとリボン選べるんだけど前はネクタイだったと思う」
確か今はいつも濃紺のリボンをしている。それがヒントになるのかどうかはわからない。でももし自分の知らない那穂がいるならそれも知りたいと思った。
「それにしても熱心だね。こんなに那穂のこと考えてる人多分初めて」
「そうですか」
「うん。あいつ今母子家庭だし、なんか色々あるのかも」
「母子家庭…?」
「あ、やば。知らなかった?」
知らなかった。兄弟がいることは聞いていたけれど母子家庭だということは初耳だった。ただ言うタイミングがなかったのかもしれないけれどもしかしたら知られたくなくて黙っていたのかもしれない。
「でも那穂最近明るいしもう大丈夫だと思う。あんまり昔のこと気にしないほうがいいかも」
「そうですね…ありがとうございました」
いろいろと教えてもらったけれど結局1番知りたいことはわからないままだ。気にしないほうがいいかも、なんて結論にたどり着いてこのまま終わってしまうのは納得できなかった。
「そういえば最近一緒に帰ってるじゃん?本当に仲良いね」
「え、まあ…前に一緒に帰ってなんとなくそのまま」
あれから次の日もまた次の日も伊織が待っていると那穂は同じ場所に来た。それこそ可憐の言うように一緒にいるのが当たり前、という感じに。
「今日も一緒に帰る?」
「多分…」
「那穂のことよろしくね。仲良くしてあげて」
「はい」
去年ずっと一緒にいた可憐から那穂のことよろしく、と言われるのは認めてもらったような気分でなんとなく嬉しかった。
「伊織」
教室を出てから考えていると突然後ろから呼ばれた。振り返るとそこには那穂が立っていた。
「部活終わった?」
「はい」
「じゃあ帰ろうか」
いつも那穂は部活が終わると下で待っているけれど迎えに来るのは初めてだった。
「はい」
さっきまで那穂の話をしていたからか本人を目の前にすると何を話していいのかわからなくなる。
「今日ね、新しい絵の下書き終わったんだ」
楽しそうに話す那穂を見ていると本当に去年学校を休んでいたのだろうか、なんで留年なんかしたのだろうかと不思議になる。今まで聞いてきた話も全部嘘なんじゃないかという気さえする。もっと那穂のことを知りたい。本人が話してくれるくらいに信用されればこんな欲求消えてしまうだろうに。
05 進路のすすめ
「やだなあ…毎日毎日雨ばっかりで」
「梅雨ですからね」
「せっかく夏服になったのに」
6月に入って衣替え。見た目も重かった黒い冬用スカートから爽やかな水色のチェックスカートに変わった。男子は長袖から半袖になったくらいで代わり映えしないけれど女子は見た目の印象が一気に明るくなる。
「テスト終わったのにこんなに湿っぽいと気分下がるよね」
「湿っぽいとかって英語でなんていうんですか」
「humid」
中間考査を乗り越えて6月に入ればしばらくは何もないが、下旬になれば期末考査、クラスマッチ、野球応援とまた忙しい日々が始まる。
「期末考査までに苦手は消さないとだよね」
さすがに高校最初のテストで赤点はないにしろ今の段階で苦手があると7月の全国模試には響く。期末試験のうちに苦手克服を図らないと模試が危ないのだ。
「国語とか考査はノートから出るからいいけど模試は全然知らない文章だからわかんないんだよね」
「古典ですか」
「うん。読めないから解けないの」
1年生の全国模試は国数英3科目。初めての模試ということもあってあまりいい点数が出ることはないが自分の実力を知るには十分のテストだ。
「数学はまだ1年の7月だから範囲も狭いし頑張ればなんとかなるよ」
「じゃあ数学教えてください」
いつもと同様に理系科目と文系科目を教えあっていた。那穂は1番苦手である社会に関しては模試にないため特に問題ないが伊織の苦手科目は数学。特に今習ってる数式や二次関数の分野は伊織が最も苦手とする分野だった。
「とにかく量をこなせ!解いた分だけ身につくよ」
「はあ」
「特に二次関数はいろんなのあるしといて覚えるのが手っ取り早いね」
平方完成、グラフ、解の配置、場合分け、最大値・最小値など高校に入ったばかりの1年生にとって最初から盛りだくさんな印象を受ける。
「高校数学って難しいですね。やっぱ苦手です」
「伊織本当数学だめだね」
那穂が世界史を苦手なように、伊織も数学が苦手。けれど伊織にはまだ勉強意欲や克服しようとする気持ちがある分マシなのかもしれない。
「そういう人には心理的に苦手科目を好きになる方法があるらしいよ」
「なんですか、それ」
伊織は教科自体はそこまで苦手意識はなく、単にできないだけ。そういう場合はひたすら問題を解いてできるようになってしまえば苦手意識は消える。そういう心理学を試してみるのも那穂は好きだった。
「なら那穂さんも心理的に世界史好きになってくださいよ」
「それはできないな。伊織とは苦手のレベルが違いすぎて手に負えない」
好きこそ物の上手なれ。好きなら必ずできるようになるとは限らないけれど苦手よりはずっといいはずだ。
「でも那穂さんって数学も英語もできるでしょ。それぞれ2科目ずつあるからもう4科目制覇ですね」
「そんな簡単じゃないよ。コミュと表現は違うし」
なんだかんだと理由はつけるけれど那穂は英語も数学もできるし化学の成績もいい。中間考査ならそれだけでも十分に苦手をカバーできるし、期末考査になっても家庭科と情報と保健の3科目に特に苦手はなかった。それに対して伊織は国語総合と世界史の2科目。苦手は数学がと化学。同じテストを受けるならこっちの方が危ないと言える。
「大丈夫だよ。苦手な科目でも伊織の方ができてるし。那穂は世界史とことんだめだから」
「それ全然大丈夫じゃないですよ」
能天気な那穂とは反対に苦笑いの伊織。
「1年の1学期だもん。そんな悪いことないって」
那穂のいうとおり高校1年の1学期のテストは範囲が狭いためそこまで悪い点数は出ない。1学期は二次関数しかやっていないため他の知識を詰め込む必要もなく、とにかく二次関数だけやっておけば期末考査だけでなく模試にも応用が利く。
「解の配置って難しいですよね」
「解の配置は簡単だよ。場合分けの方が大分面倒で難しいけどな」
指定された範囲内で指定された解の数ができるグラフを配置する解の配置。慣れてしまえば単純な3つの作業でできてしまう。
「解の配置は頂点座標と軸の位置とf(0)だけ見ればいいんだよ。まあfはたまに他の数にもなるけどfの意味考えたらわかるよ」
それから那穂による特訓が始まった。同時進行で伊織による国語と世界史の特訓も始まった。
「この頃は中国の王朝よく名前変わります」
「なんで?」
「内乱とか異民族の移住とかで衰退して滅びては名前が変わるんです」
「那穂中国嫌い」
中学で覚えた殷周秦漢などはすぐに終わってしまい新しい知識を詰め込んだ。他人に教えながら自分でも勉強するのは大変だった。
「那穂こんなに勉強したの初めてかも」
「進学希望なんでしょ。頑張ってください」
期末テストに向けての勉強は夏休み前の模試対策にも役立つ。
「那穂さんは中学の時から英語好きだったんですよね」
「好きだったよ」
「数学は好きだったんですか」
「うーん。そうでもないかな」
中学時代は那穂はどちらかというと文系だった。好き嫌いで言えば数学は苦手だったけれど現代文は好きだった。社会も公民だけなら成績は良かった。けれど高校に入ると国語は古典とセットで一科目。社会は世界史だけ。文系科目は苦手が多くなり、逆に数学はスパルタ教師に仕込まれて比較的に得意になった。将来美術関係の仕事に着こうとすれば1番可能性があるのは学校教師。教師になるならどの科目もバランスよくできる必要がある。
「絵が描けるとこには進みたいけどそれも詳しく決まらないと文理選択できないんだよね」
「僕なんか…まだ何も決まってないですし」
「伊織は先生にはならないの?国語の先生」
「先生ですか」
伊織の国語の成績は2,3組でもトップクラス。中間テストの成績も上位だった。それに要点もまとまっていて教えるのがうまい。これは実際教わった那穂だからわかったことだ。
「伊織は先生向いてるんじゃないかな」
「でも僕喋るの得意じゃないし」
「そっかあ。絶対向いてると思ったんだけどな。文学少年でしょ」
「那穂さんが言ってるだけですけどね」
美術の仕事といえば芸術、教育、医療などと幅は広い。それによって進路も大きく変わってくる。那穂自身は美術教師になることを望んでいるが授業以外の仕事を考えると向いていないと諦めかけている。
「オーキャンとか進路相談会とかもあるしそれから決めても遅くはないよ」
「オープンキャンパスですか?」
「うん。去年那穂も行ったよ」
那穂は興味がある学校はとりあえず行ってみる。実際に大学に行ってみれば講義も受けられるし先生の話も聞ける。
「那穂推薦で入りたいからオーキャン行った方が有利なんだって」
「そういえばボランティアとか行ってますね」
「うん。あと学校も休まないし部活も頑張ってコンクールで成績残すの」
美術のコンクールの成績が推薦に有効かどうかはわからないがボランティアや無遅刻無欠席は少しは有利になるしオープンキャンパスは面接でアピールするのに役立つ。
「役立つことはなんでもやっとけばあとあと楽でしょ。バカはこういうこと頑張んないとね」
「勉強も頑張ってください」
期末考査は中間考査と違って保健、家庭科、情報などのテストも入ってくる。その科目を捨てて国社数理英に集中する人もいるし少数派だが保家情で点を稼ぐ人もいる。那穂は保家情は勉強しなくてもそこまで悪い点数は出ないので国数英の3つに絞り、その他は前日に追い込む。3教科は文句無しの結果が出るのだが苦手なのに勉強しない社会はいつも恐ろしいことになる。伊織は満遍なくバランスよく勉強するタイプ。なので苦手な科目と得意な科目がテストにも顕著に表れる。
「伊織はなんで満遍なくやるのにきっちりできるの?器用だよね」
「そうですか?」
「那穂そういうの無理。やるなら1科目に集中しないとできないタイプ」
那穂は美術や体育はなんでも器用にこなすけれど勉強に対してはかなり不器用だった。テスト期間に1日2科目勉強するようなことはできないし、3科目以上あるような日は迷わず1番得意な教科に時間を割いた。そして案の定他の科目はできていないのだから考えものだ。
「苦手科目頑張らないと隙だらけじゃないですか」
「…そんなに隙があるのってダメなこと?」
「隙があればそこがネックになって点が伸びません」
「伸ばすのって本当に必要なこと?時間をかけてネックを無くすのってそんなに大事なの?」
「…那穂さん?」
留年する時にも言われたことだった。ここで留年すれば大学入試や就職で面接を受ける時にそこがネックになって不利になると。でも那穂には分からなかった。留年することがそんなに悪いことだとは思わなかった。勉強ができてないのに2年生に上がってもみんなにはついていけないし成績は上がらない。それならもう1度やり直したほうがいいのではないか。ちゃんと進級して落ちこぼれるよりも留年してでもきちんと勉強は理解して進学したかった。このまま進級してもきっと大学には行けない。留学した意味もない。そんなの本末転倒だ。
「だから那穂は隙があるのはダメだと思わない。そんなこと言ったら自分を否定することになるでしょ」
「そうかもしれないですけど…」
勉強がしたくない那穂の言い訳かもしれない。こじつけだと言ってしまえばそれまでだ。けれど留年した時にそう言われたことも事実だろうし、その気持ちは本人にしかわからない。
「那穂さんの言いたいことはわかります。勉強が全てじゃないかもしれないですけど、結果は自分に返ってきますよ」
年下の自分が、まだ高校生になって数ヶ月の自分が何を言っているんだろうとは思うけれど伊織は那穂を説得したかった。少し前まで受験生だった伊織だからわかることもある。大学を目指す那穂に後で後悔して欲しくない。
「世界史もう少し頑張ってみませんか。僕も付き合いますから」
「…少しだけなら」
頑張り始めた2人。テストまであと3週間。
06 苦手克服大作戦
「違います。シリアを通ってる方がユーフラテス川です」
「シリアってどこ?右?左?」
「左です」
世界史の勉強を続けること2週間。少しずつではあるが確実に那穂は世界史を克服していた。このペースなら期末テストの範囲だけなら十分間に合う。あれだけ世界史を拒否していた那穂にしては上出来だ。伊織も教えることに自信がついてきたようだ。
「メソポタミア文明とエジプト文明が混ざらないように気をつけてください」
「わかった」
文明は一通り抑えた。テストまではあと1週間。もう少し細かいところを復習すれば人並み以上の点数は取れる。これで社会は克服したと言ってもいい。国語に関しては1学期の期末は国語総合で1科目なので現代文が50点、古典が50点。教科書に沿って出題されるのでノートを見返しておけば失敗はしない。
「ここまでやったら大丈夫ですよ」
「だといいけどね。伊織は数学平気そう?」
「はい、おかげさまで」
お互いに苦手を克服できて期末試験にも自信を持って臨めそうだ。期末テストは教科数が多いので勉強時間を確保できるように木曜日から5日間、土日を挟んで行われる。けれど、世界史は1日目の木曜日、数学は2日目の金曜日だった。
「数学は仕方ないんだよ。2回あるから土日前と後。でも世界史まで前に来なくても…」
「まあ頑張るしかないですよ。月火水とありますし7割越え目指しましょ」
テスト前の授業日はほとんどの授業で自習になる。その時間を利用して真面目に勉強すれば7割越えも狙える。
「じゃあ那穂が7割越えできたらご褒美ね」
「えー、そんな勝手に」
「だって那穂が7割越えだもん。それくらいないと頑張れないよ」
「じゃあ今度の自習の時プリントとノート渡します」
「OK!那穂も演習ノート持ってくるね」
約束して別れた金曜日。土日は個人で、月曜から3日間はまた2人で頑張る。自分の時間を割いて教えてくれた友達のためにも、自分自身のためにも失敗はしたくない。月曜日。いつもより早く学校に来た。テスト本番の朝でもないのに早く来て勉強なんて自分も変わったなあと実感する。去年までなら0限がないのをいいことに寝ていたけれどその時間を勉強に回した。少し眠いけれどここまで来て7割切ってしまうのはもったいないしプライドが許さない。
「那穂、おはよ」
「あ、可憐。なんか久しぶり」
去年までは一緒にいた2人だが3ヶ月も経てばすっかりお互いがいないことにも慣れてしまった。
「テストどんな感じ?」
「去年よりいいよ。世界史頑張ってる。可憐はどうせ勉強してないんでしょ」
「もちろん。しなくてもできるし」
「やだやだ。できる人の発言なんて聞きたくない」
可憐は所謂天才で普段必要最低限の宿題しかせずテスト期間も1時間未満の勉強しかしない。それなのに上位の成績が取れてしまうようなやつなのだ。さすがに高校に入ってからは以前より勉強しているらしいがそれでも他の秀才たちに比べれば比ではない。
「高遠くんに教えてもらってるんでしょ。頑張りなよ。奨学金止まってるんだから」
留年している間は前に申請してもらっていた奨学金も当然止まるので家計的には厳しくなる。母子家庭の那穂なら尚更だ。
「今日も今から勉強する。偉くない?」
「真面目になっちゃったね。まあ新しいクラスにも慣れてるみたいで良かった」
「あんまり…良くはないかな」
話すのはいつも伊織くらい。お弁当も移動も休み時間も全部伊織と一緒。他の人とはまだまともに話せていない。クラスに慣れているかも知れないけれど馴染めてはいない。
「まあ那穂だもんね。仕方ないか」
「そうだよ。那穂だもん」
「開き直ってないで頑張れ。勉強するんでしょ」
「うん。じゃあまたね」
可憐と別れた那穂は教室までの階段を駆け上がった。教室のドアを開けると荷物はあるけれど誰もいなかった。那穂は参考書を開いて勉強を始めた。しばらくすると1人、また1人と教室に人が増えていく。8時を過ぎるとどんどん人が入り、徐々に席が埋まっていった。伊織が来るバスは8時13分のバスだからそろそろ付いている頃だろうか。プリントの答えがわからないから教えて欲しい。ワークの答えも見せてもらいたい。数学の演習ノートを渡さないといけない。けれど8時20分を過ぎても伊織は来ない。今日はちょっと遅いななんて思いながら伊織を待っていた。
キーンコーンカーンコーン…
5分前の予鈴。あと5分でSHRが始まるけれど伊織は来ない。伊織が遅れるなんて珍しい。バスに乗り遅れたなら授業には待に合わないかもしれない。家が郡内だから間に合う方法もあるかも知れない。そんな那穂の予想も期待も先生の一言に打ち消された。
「高遠は今日休みな」
それだけをクラスに告げられた。理由も何もわからない。SHRが終わって那穂は伊織のケータイにメッセージを送った。
〈どうしたの?休むの珍しいね〉
先生の目を盗んでは休み時間こまめにケータイをチェックしていたが返信が来たのはお昼前だった。
〈すいません、昨日の夜から熱が下がらなくて休みました。ノート明日持っていきます〉
テストまであと3日。休んでしまえばその分の点はない。先生によっては見込み点でつけてくれる先生もいるが前回の本人のテストの点と今回のクラスの平均点を平均して0.8をかけることがほとんどだ。それではきっと7割は越えられない。当日休むよりは今しっかり休んでテスト本番に来る方がいい。
〈ノート遅くなっても大丈夫だからちゃんと治してね。お大事に〉
メッセージを返してからお弁当を持って図書室に向かった。
「高遠くん休んでるの?大丈夫?」
那穂はお弁当を食べながら小林先生に国語を教わっていた。
「はい。昨日の夜から熱が下がらないらしいです」
「こじらせないといいけどね」
テスト前のこの時期は授業時間はほとんど自習なので学校休んで痛手になることはない。けれど真面目な伊織のことだから学校に来なくてはと無理してしまわないか。それだけが不安だった。
「テスト受けられるといいね。高遠くん」
「大丈夫ですよ。多分」
どこから来るのかわからない自信。でもきっと大丈夫だと信じていたかった。
次の日も伊織は来なかった。まだ熱が引かないようで那穂は不安を募らせていた。丸2日も伊織と顔を合わさないでずっと1人でいることがこんなにも不安なのかと今更知った。去年自分がしたことを思い出して那穂は胸を痛めた。
「那穂ちゃん、一緒にお昼食べる?」
クラスメイトに声をかけられた。伊織がいなくて1人でいる那穂を気遣ってくれたのだろう。けれど那穂は断った。今伊織のいないところで他の人と接していたら伊織が離れていってしまうような気がした。自分たちがそんな浅はかな関係でないのはわかっている。けれどずっと一緒にいられる保証はないしいつか伊織は那穂から離れていくかもしれない。それでもせめて一緒にいられる今だけでも長く一緒にいたい。その時間を自分から縮めてしまいたくない。
「那穂用事あるからいいや。ごめんね、せっかく誘ってくれたのに」
図書室の戸を開けるといつものところに小林先生はいない。まだきていないのかなと1人お弁当を広げた。
『那穂は独占欲強いよね。この場合独占されたい欲か』
1年の頃可憐に言われた言葉を思い出す。独占されたい欲。初めて聞いた言葉だけれど自然と違和感はなかった。可憐の言う通りなのかもしれない。自分のなかで1番の人には相手のなかでも自分が1番であってほしい。可憐にそう強く思っていたあの頃はずっと可憐にくっついていた。成績優秀な可憐といられる自分が誇らしかったし、馬鹿な自分と一緒にいてくれて文句を言いながらも勉強も見てくれる可憐は那穂にとって重要な存在だった。
「独占されたい欲か…」
可憐の言葉は何度でも鮮明に思い出される。妙に納得してしまったし忘れられないのだ。自覚してしまうとさらに独占されたい欲は膨らむ。可憐に彼氏が出来た時も他の子と仲良くしているのも気に入らなかったのだ。それと同じことに今陥っている気がした。
「なーほ。どうしたの?」
「あれ、可憐?どうしたの?」
「いや、こっちが聞いてるし」
「小林ちゃんが来ない。お昼なのに」
「小林ちゃん今日出張よ」
可憐が図書室に来るのは極めて珍しい。小林先生の授業がない那穂は出張していることを知らないのでは、とわざわざ様子を見に来たらしい。
「高遠くん一緒じゃないんだね」
「今日休み」
「へえ。まあテスト前で良かったね」
「昨日も来てないの。今日で2日」
「それは心配かもね。連絡した?」
「うん。熱が下がんないんだって」
日曜日から数えれば3日は熱が下がっていないことになる。夏風邪は症状が重いし長く続くから負担がかかる。帰りに様子を見に行きたいけれどうつってしまえば那穂もテストが受けられない。その日の帰り道、1人歩いているとケータイが震えた。
〈だいぶ熱下がりました。明日は行けそうです〉
伊織からだった。熱が下がっだと聞いて少し安心した。このままうまくいけば無事テストを受けられる。7割越えが夢で終わらずに済むのだ。
〈じゃあちゃんと治してね。明日待ってるよ〉
その日の夜は伊織に渡すノートをカバンの中に入れたのを確認して早めに布団に入った。次の日、教室に入るとまだ伊織は来ていなかった。那穂が最近早く来ているから当たり前といえば当たり前なのだけれど那穂は伊織が来るのが待ち遠しかった。それまでまた勉強していようかとノートを広げた。ここ数日だけで勉強の仕方が身についたようで机に向かうのがそれほど苦痛でなくなってきた。あんなに拒絶していたのが嘘のようにノートを広げることに抵抗がなくなった。周りの音をなにもかもシャットアウトしてひたすら問題に向き合った。
「那穂さん」
後ろから自分を読んだ声に那穂は振り返った。4日ぶりの再会に少しだけ痩せた伊織はノートを差し出した。
「遅くなってすいません」
「ううん、もう大丈夫なの?」
「熱は一応下がったんで多分」
那穂は良かった、と微笑んだ。伊織がテストを受けられるだけで自分が頑張って教えたことが報われるのだから。
テストはあっという間に過ぎていく。勉強に囚われるテスト期間は長いものの実際始まってしまうとはやいものだ。そして帰ってくるのも驚くほどにはやい。数学は早々と手元に返ってきた。那穂は8割を超え、伊織も無事7割を超えた。週に2時間しかない世界史は返ってくるのも遅いのだ。
「じゃあ世界史のテスト返しまーす」
世界史の担当の先生が淡々と名前を読み上げていく。7番の那穂の順番はすぐに回ってきた。
「佐倉」
「はい」
点数は見ずに席まで戻る。伊織の答案も返ってきてから恐る恐る答案を開いた。
「…74点」
「74点…!来た!7割!」
那穂は嬉しいというより信じられないという感じでいた。
「なんか夢見たい…結構やってみればなんとかなるもんだね」
「はい。これで世界史は克服ですね」
「まさか。今だけだよ」
でもやればできるという自信がついたことでできるようにはならなくても頑張れるようにはなる。次のテストもとりあえずキープを目標にしたいかなと那穂は誓った。
07 那穂の恋愛事情
「もう夏休みですか」
「早いよね」
期末テストが終わり、クラスマッチも終わり、残すは終業式だけとなった1学期の終わり。全校生徒は体育館に集められて体育祭のブロックの結団式をしていた。3年生の各係りの紹介のあと、話し合って各学年の係りを決めた。
「那穂さんは何かやるんですか」
「那穂は美術部だから立て看。大きいパネルみたいな」
各ブロックの名前に沿った朱雀、青龍、白虎の立て看板を描く。基本的に1年生は各クラスの美術部から1人選ぶ。1年2組には那穂以外に美術部がいないので自動的に那穂が立て看板の係となる。
「なんで四神で揃えてるのに玄武がないんですか?」
「昔は人が多かったから四神で4ブロックあったんだけど少子化でクラスが減るからブロックも減ったらしいよ」
「じゃあしばらくしたら白虎も消えますね」
「確かに…」
2人のブロックはその白虎。那穂にはホワイトタイガーの立て看板の完成予想図が配られていた。
「すごいですね。こんなの本当にかけるんですか?」
「うん。看板が大きいから多少ベタでも遠くから見たら綺麗に見えるよ」
各学年の応援リーダーや3年生の各リーダーは夏休み前から集まって体育祭の準備を進めていく。それは立て看板も例外ではなく那穂も今日の放課後から集まって立て看板政策に入るらしい。
「だからちょっと帰り遅くなるかもだけどどうする?」
「じゃあ完全下校の前になったら迎えに行きます」
いつもなら部活を終えて帰る時間。まだ残っているといつもと違う新鮮な感じがあった。
「高遠くん今日はまだいるんだね」
近くを通った可憐が伊織に言った。ポーカーフェイスのはずなのに目の奥は何かを楽しんでいるように見えた。
「はい、今日は那穂さん立て看行ってるんで」
「あいつも偉いよねー。めんどくないのかな」
「ほかに美術部いないですし」
可憐は自分が得するためにしか動かないタイプなので何かの報酬がないと働かない。ボランティア精神がないのだ。
「那穂最近どんな感じ?」
伊織の正面に座って資料を整理しながら話しかけてきた。
「前とあんまり変わらない感じですけど」
「あいついつもは明るく見えるけど本性は根暗で冷ややかだからさ」
「そんな風じゃないですけど」
「それは高遠くんの前では明るい自分でいたいっていうせめてものプライドじゃない?プライド高くてかっこつけなとこは変わってないんだから」
台詞だけ聞くと悪口にしか聞こえないが可憐が言うと2人は本当に仲が良かったんだという風にとれてしまうから不思議だ。
「本当仲良いな。また一緒に帰るん?」
今度は他の先輩が伊織に話しかける。
「ええなあ。リア充爆発しろ」
「リア充じゃないですよ」
「そういえば那穂の恋バナしばらく聞いてないね」
確かに、と周りの先輩たちも共感した。聞けば、中2の2月から3年の初めにかけて誰かと付き合っていたがそれ以降の情報は聞いてないらしい。
「いつ別れたのかも知らないけど那穂ってガード堅くなったよね」
「だよな。恋愛もテストも何もかも秘密が増えたっていうか」
「まあクラス変わったし部活も終わったし情報回らなくなっのは当たり前か」
深い事情があるのか知らないけれど今はテストの点も順位も教えてくれるしその頃に比べたら感情がオープンになっているのかもしれない。部活を終えて伊織は白虎の立て看板が作業している教室に向かった。後ろの窓から覗くとみんなが静かに作業を進めているのが見えた。色を塗る那穂は真剣な眼差しで作業をしている。まだ始めたばかりなのであまり進んでいないらしくまだ白い部分が多かった。まだ忙しいなら先に帰ろうかな、と伊織が振り返ると後ろから美術部の顧問の田辺先生が歩いてきていた。
「あ、こんにちは」
「ん?誰か待ち?」
「いや、終わってるなら一緒に帰ろうかな、と思ったんですけど」
「もうすぐ終わるし、中で待てば?ここ暑いだろ」
促されるままに先生について中に入った。中はクーラーが効いていて涼しい風が漂っていた。伊織たちが入ってきたのに気づいた那穂が少し驚いたようにちらっとこっちを見てごめんね、というように片手を立てるとすぐ作業に戻った。
「そろそろ時間になるから上がれよ」
「はい」
持ち場が終わった人から片付けに入った。
「待ってて、伊織。すぐ片付けるから」
「あ、はい」
「お前が高遠伊織か?」
「え、はい」
いきなり先生にそう聞かれた。前に他の先生からも同じことを聞かれたような気がする。
「いつも那穂が話すんだよ。仲良いんだろ」
前は図書室の小林先生だった。やっぱり那穂が話していたのかと恥ずかしくなる。
「那穂、友達待ってるぞ。いいのか」
「わかってる。すぐ片付け終わるから」
まるで友達同士のような会話。那穂が田辺先生に対して敬語を使わないからというのもあるけれど先生も他の先生と違って生徒に対してフランクな感じがした。
「お待たせ、帰ろうか」
「じゃあな」
「うん。さよなら、先生」
那穂は日に焼けてか暑さで火照ってか頬が赤くなっていた。
「日焼けですか。ほっぺ赤くなってます」
「本当?大丈夫」
那穂はベタベタするのを嫌がって日焼け止めを塗りたがらない。そのせいか今日はチークを塗ったかのように赤みを帯びていた。それだけではない。いつもなら那穂から話の話題を振ってくるはずなのに今日はいつまでたっても那穂は黙っていた。
「那穂さん、何かあったんですか?」
「あったっていうほどのことでもないけど…あったといえばあったかな」
曖昧な返しをする那穂はいつも通りの笑顔の中に一縷の迷いが見えた気がした。
「先生が褒めてくれたの。立て看の那穂が描いたとこ」
そう話す那穂はいつもの明るく楽しそうな笑顔ではなく、嬉しそうでなんとなく恥じらうような笑顔だった。
「那穂ね、1年の時から田辺先生のことが好きだったんだ」
それは伊織にとって衝撃的な真実。もともと禁断恋愛と言われる生徒が先生に恋愛などというシチュエーションはドラマの中でくらいしか見たことがないのにこんなに近くでそれがあるなんて。伊織から見て那穂は恋愛なんて見逃してしまいそうなくらい能天気で天然な子だった。だから那穂が好きな人がいることもそれが先生だといことも現実味がなかった。
「小学生のときにね、金沢美大の卒作展を見に行ったことがあるの。その時すごく気に入った絵があったの。その作者が田辺先生」
「なんが運命的ですね」
「うん。ずっとあの絵を描いた人に会いたかったの。だからびっくりして嬉しくて」
そう語る那穂の表情は今までにないくらいキラキラと輝いていて、伊織は甘酸っぱい気持ちと苦々しい気持ちが相まって複雑な気持ちになった。
「あの時に美術室であった日先生の絵に惚れ込んで、那穂にないものいっぱい持ってる先生が羨ましくて憧れてて本当に好きだった」
けれど生徒と先生の恋愛は世間的に認められていない。那穂はそれを理解した上でこんなことを言っているのだろうか。
「那穂さんは先生とどうなりたいんですか」
「どうもならなくていい。今のままでいいの」
「今のままで?」
那穂もわかっている。自分が叶ってはいけない恋をしていることを。けれど那穂にとってそれは恋愛感情以外の何でもない。ただ好きになった人が偶然先生だった。それだけのことなのだ。
「片想いだけなら自由だよ。誰にも知られなきゃ先生にも迷惑はかからない。それならいいでしょ」
那穂はもう戻れない。自分気持ちに嘘はつけない。他に人を巻き込まず1人で恋していれば問題はない。そう思っていた。
「本当に教師との恋愛なんてあるんですね。ドラマとか小説なら卒業してから結ばれるケース多いですけど」
「そんなの那穂には無理だよ」
「わかりませんよ、案外。先生と那穂さん仲良いじゃないですか」
「だめなの…先生結婚してるから」
そういった那穂は笑っているのに目は涙が今にも溢れそうで見ているこっちが辛くなった。伊織はそれを見て確信した。本当に心から先生のことが好きなんだ。曖昧な憧れなんかじゃない。ドラマみたいだとか、軽率なことを言ってからかってはいけないと。
「すいません…」
「ううん、那穂もわかってるの。先生子どもがいて本当に家族が好きなの。それに教師と生徒がなんて絶対だめ」
本気で好きになってしまったものは取り返しがつかない。諦めようにも諦められない。だから那穂はあえて諦めることをやめて飽きるまでとことん好きでいることにしたのだ。中途半端な気持ちでは絶対にできない。
「すいません。僕が軽率でした」
「ううん、那穂が悪いの。ダメってわかってるのに諦めれない那穂が悪いの」
とりあえずここは人もたくさん通る。誤解を招かないためにも伊織は那穂の手を引いて人気の少ない裏道からバスセンターに向かった。
バスセンターについてベンチに座り、那穂が落ち着くのを待った。
「あんまり泣くと目が腫れますよ」
伊織は那穂の隣に座って買ってきたジュースを差し出した。
「飲みますか?」
「ありがと」
那穂はやっと泣き止んで落ち着きを取り戻した。
「自分では分かってるつもりなの。泣いたって仕方ないことも、叶わないのが分かった上で好きでいることも。でも那穂本当は分かりたくないんだね」
「好きなんですよね」
那穂はまた泣き出しそうな表情でうなずいた。伊織にはどうすることもできない。こんな時自分にはかけてあげられる言葉がない。年下で那穂のことを何も知らなくて気持ちもわからなくて。そんな自分が近くにいていいのかと思うことはよくある。
「いつもそうなの。本気で好きになればなるほど相手は他に相手がいたりしてさ。諦めようって何度も思うのにそれもダメで。本当嫌になるなあ」
そう言って缶ジュースに口をつけた。伊織はその缶を持つ手を無意識に掴んで1口含んだ。
「…伊織?」
ずっと前から自覚していた。ずっと誤魔化してきたけれどもう無理だった。那穂といると鼓動が速い。息が荒い。のどが渇く。普段でもそうなのに、泣き顔なんてずるい。先生が結婚していることが那穂を泣かせているのに心のどこかで喜んでいる自分が、弱さに漬け込んでいる自分が1番ずるい。
「…すいません」
「伊織…どうしたの?」
「僕、那穂さんが好きです」
08 化学と恋の答え合わせ
那穂は学校前の花壇の縁に腰掛けてかたかたと下駄を鳴らしていた。日常では聞くことのできない音にお祭りらしさを感じた。春から少し伸びた髪の毛はいつものピンではなく浴衣用の飾りで留められている。
「那穂さん!」
「あ、来た。ごめんね、急に時間早くしちゃって」
「いえ、大丈夫です。何かあるんですか」
「吹部の演奏があるの。5時半から」
年に一度の大きな花火が打ち上がる夏祭り。期末テストで7割越えを果たした那穂はご褒美に夏祭りに付き合ってもらうことにした。
「人少ないね」
「まだ5時過ぎですからね。屋台も出てないですし」
「そっか。歩行者天国もまだだもんね」
道路にはまだ車が通っている。吹部の演奏がある恋来寺の下まで着くと少しは人が増えて来た。階段を上りきると制服をきた学生たちが楽器を持ってうろついている。
「少なくなったよね城中も」
「今年の1年生50人切ったらしいですよ」
「それやばいじゃん!那穂が入った時には70人切ったって騒がれてたのに」
人数が少なくなれば吹奏楽はできない。そうなれば小規模校のように部活動を減らすこともある。人数が足りない以上吹部は1番に削られてもおかしくない。
3年生はもう引退しているので残っているのは1,2年生だけ。那穂とは入れ違いになったため知らない子ばかりだ。人数は少なくても奏でられる音楽はすばらしいものだった。那穂のいた頃に比べれば吹奏楽と呼べる人数ではないけれどそれでもあの頃の音楽は受け継がれている。
「こんな人数でもちゃんと合奏になるんだね。案外なんとかなるじゃん」
少ない人数だったけれど大人数編成に劣らない音楽を奏でていた。少ないからこそ一人ひとりの音が鮮明に聞こえる。少人数編成の特徴だ。
「やっぱいいなあ。吹奏楽」
「もう1度やりたいですか」
「うん。那穂ね、吹奏楽が嫌になってやめたわけじゃないんだ。だから音楽自体は続けたかったの。ちょっと未練がましいよね」
じゃあなんでやめたんですか。
そう聞こうかと思ったけれどやめておいた。何か聞いてはいけない事情がある気がして伊織は退いた。こういうことを遠慮なく聞けるようになったら那穂の過去もわかるのかもしれない、と思わずにはいられなかった。
「じゃあいこうか。そろそろ屋台でてるよ」
夏祭りといえば屋台。屋台といえば夏祭り。お寺の下まで降りると今度は人がたくさん集まっていた。
「もうパレード始まってるね。にぎやか」
「やっとお祭りって感じになってきましたね」
同じクラスや同中の知り合いともすれ違い声をかけ合った。
「伊織ってお祭り来たら何する?」
「何でしょう。適当に回って花火まで時間潰してますね」
「じゃあちょっと河原降りよう」
土手の階段を降りて河原に着くと川のせせらぎが聞こえて涼しさを感じた。河原にもかき氷や水ヨーヨー、ジュースなどの屋台が出ている。
「あ、那穂!」
「可憐!浴衣可憐久しぶりだね」
「なに?デート?」
「そんなんじゃないってば」
可憐は彼氏とデート。浴衣姿の可憐の後ろには長身の素朴な少年が立っていた。
「あの人斉藤さんの彼氏だったんですか」
「うん。たまに部活に来てるでしょ」
部活動に所属していない可憐の彼氏はたまに可憐や他の友達に用があって自然科学部に来ていることがあるが部員ではない。
「そういえば那穂、ヨーヨーは?」
「今からだよ。今から」
那穂の目当てはかき氷でもジュースでもなく水ヨーヨー。毎年お祭りに来たら水ヨーヨーを取るのがお決まり。カーテンレールに吊るして新しい水ヨーヨーが来るまで置いておくらしい。
「やっぱお祭りはこれがないとね」
子どものように白と黄色2つの水ヨーヨーを釣って指にぶら下げた。
「何か食べたいものある?」
「特にはないです」
「じゃあかき氷でもいっとく?ちょっとでも夏気分満喫しないとね」
「ですね」
2人でかき氷を買って河原に腰を下ろした。川のせせらぎが聞こえて少しだけお祭り騒ぎの世間から離れた世界を感じた。
「やっぱり川の近くは涼しいね」
「はい。浴衣って涼しいんですか?」
「まあ涼しいよ。安物だから生地も薄いしね」
那穂の浴衣は去年のお祭りに新しく買ったもので白地に桜の舞っている。普段から白い制服に桜色のリュックの那穂にぴったりのデザインだ。
「花火、どこから見ますか?」
「ここからじゃちょっと見辛いか。あと30分くらいあるけど移動する?」
階段を上がって橋の近くに移動した。土手沿いは人も少なくて花火が上がる川上の方もよく見える。
「那穂ね、去年はお祭り来てないんだ」
「え?」
夏休みに入ってからイギリスに留学。3ヶ月契約だったので8月はまだイギリスにいた。日本で夏祭りを騒がれている頃那穂はホストファミリーと過ごしていた。那穂のホストファミリーは幼い子どもが2人いていつも那穂と遊んでいた。妹や弟ができたようで那穂も喜んで遊んだ。ロンドンでの生活は楽しかったけれどやっぱり不安になることがあった。自分の英語ちゃんと通じているのか。目の前にいる子どもたちより拙い英語が本当に相手に伝わっているのかと。
「だから日本ってやっぱり落ち着くしこうやって夏祭りってちょっと幸せだなあなんて…」
ドーン
突然の音にびっくりして振り返った。花火が始まったのだ。始まりを知らせる1番最初の花火はとても鮮やかだった。音も大きくてそこにいたみんなが驚いていた。
「びっくりしたあ…花火こんなに近くてみたの初めてかも」
近くで見る大きな花火に那穂はテンションが上がっていた。橋から花火を見る人へ多いがその脇の土手は人が少ない。だから誰にも邪魔されず花火が綺麗に見える。
「すごいね。なんか化学の実験みたい」
「そういえば花火って炎色反応の原理で色変わるんですよね」
「そうそう。こないだ見たやつね」
夏休みに入ってから化学基礎の課外で炎色反応の実験を行った。先生が前でしている実験を見て元素を当てた。炎色反応は花火の色にも関係がある。
「あの赤はリチウムですか」
「花火の赤は大体ストロンチウムだと思うよ」
「じゃああの緑は…なんでしたっけ」
「バリウムかな」
「あれはカルシウムですか」
「多分ナトリウム」
なんかバカみたい、と笑いながら那穂は花火を見上げた。夜空にケータイを向けて写真をとった。なかなかうまくは取れなかった。
最後の花火が打ち上がるとあたりにはやっと静寂が戻る。その静寂が夏祭りの終わりを告げていた。
「帰ろっか」
「はい」
今まで通ってきた屋台を通って学校の近くの道に向かって歩いた。まだ冷めきらない夏祭りの熱で那穂のテンションは上がったままだった。
「あ、いちご飴まだある!お祭りもうすぐ終わるから多分最後だよね」
「そうですね」
いちご飴はきらきらしていてとても綺麗だった。那穂の冷めきらない瞳と同じくらいに輝いている。人混みを離れるに連れて次第に那穂の熱は冷めていく。けれど伊織の熱は冷めることはなく、むしろこれから上がるところだった。那穂に自分の想いを伝えたい。そう思って一緒に夏祭りに行くことを承諾してここまで来たのに、このままで終われるはずがない。今伝えないときっと後悔する。
「那穂さん…」
「なに?もうちょっと余韻に浸る?」
躊躇っている場合じゃない。今が最大で最後のチャンス。
「僕やっぱり那穂さんのこと好きです。中学の時から…好きでした」
那穂の笑顔が一瞬で消え、新たな熱を帯びた。お祭りの熱ではなく火照るような熱に変わる。
「僕と付き合ってもらえませんか」
いちご飴の溶けた飴が滴り落ちて、那穂の指先を赤く染めていく。答えられない那穂を急かすようにまたぽつりと飴が滴る。
「伊織…ごめん。那穂も伊織のこと好き。だけど、伊織の気持ち全然わかってなかった。でも…でもね」
断られたという事実からの打たれるような衝撃とは裏腹に初めて那穂の口から言われた好きだという言葉に少しだけ胸が高鳴っていた。
「でもね、那穂が1番好きなのって精一先生なんだ。片想いでも那穂は先生が好きなの。だからこんな中途半端な感情で伊織の気持ちに答えたくない」
那穂の正直な気持ちだった。断られたのはつらいけれど伊織は那穂の正直な気持ちを知ることができたというのも素直に喜べた。気持ちは満たされないけれど完全に空っぽでもなかった。
「じゃあね、ばいばい」
那穂が手を振ると伊織もさよなら、と返した。楽しかったお祭りが終わってしまうとどっと疲れが出たようだ。那穂はいちご飴の薄い欠片が喉に刺さったような引っ掛かりを感じていた。本当にこれで良かったのだろうか。間違ったことは言っていない。先生のことが好きなのも伊織のことをそういう目で見ていなかったのも事実だ。けれど想いを告白されたあの日、確かに那穂は伊織のことを意識していた。いつまでも弟のような目では見ていられない。伊織は紛れもなく同年代の男子なのだ。
「わかんないよ…」
自分はずっと先生に片想いでいいと思っていた。けれど先生と生徒である限りその先には行けない。そんな関係にいつか耐えられない日が来るのではないだろうか。それに周りから見初められるなんて選択肢今まで存在しなかったのだ。那穂はケータイを取り出してある番号に電話をかけた。
「もしもし、寝てた?」
「なわけないじゃん。まだお祭りテンションだし」
電話の相手は可憐。可憐と話せば少し気持ちも楽になると思った。
「那穂はお祭りテンションじゃないわけ?」
「んー、ある意味お祭りテンションかも」
「ある意味ってなによ」
「恋って難しいね。数学みたいに答えが決まってたら楽なのに」
「はあ?そんなん面白くないじゃん」
彼氏持ちの可憐もお祭りに一緒に来ていてかなり楽しんでいたようだ。恋愛としても先輩の可憐に教えて欲しいことはたくさんある。
「面白いことあったなら教えてよね。まあ那穂のことだし大して面白くはないんだろうけど」
「期待しないことをオススメする。可憐が好きな類じゃないかな」
「じゃあまたなんかあったら聞くわ。楽しみにしてるね」
「はいはーい」
なんの解決にも繋がらなかった通話。けれど可憐と話したことでなんとなく気持ちが落ち着いた。辛くなれば逃げ道がある。その逃げ道を確認できた気分だった。
09 熱を冷まして
「立て看の進み具合はどうですか」
「あとは細かい修正だけ。夏休み頑張ったもん」
「優勝できそうですか」
「さあ、わかんない。青の立て看がすっごいかっこよかったの」
夏休み明けの学校。夏休みも課外に立て看にとほとんどの日を学校で過ごしていた那穂からすれば夏休みはあってないようなものだった。伊織も学校にはずっと来ていたため今までほど夏休みを満喫してはいない。9月に入ればすぐに体育祭があるため高校の始業式は8月終わり。まだ世間では夏休み終盤と騒がれている間にも学校に通い続ける。夏休みの間も学校に通っていたのでそのあたりは慣れたものなのだが。
「高校の体育祭シーズンといえば伊織も誕生日だよね」
「あ、覚えててくれたんですか」
「近いから覚えちゃうよ」
那穂が9月4日。伊織が7日。3日違いの誕生日をお互い忘れることなくちゃんと覚えていた。今年の体育祭は2人の誕生日の間である6日。生徒としてはそのくらいが1番練習期間が短くすみタイミング的にはちょうどいい。ブロック全体の団体競技とそれぞれ個人競技に出る。那穂は大縄跳びと借り物競争、伊織はスウェーデンリレーと騎馬戦に出る。各ブロックに各学年から2クラスまたは1クラス。白虎には1年生が2組しかいないため必然的に1人あたりの種目が多くなってしまうのだ。那穂は借り物競争だけが良かったと言っていたけれど人数が少ないのは仕方ない。体育祭までは1週間あまり。少ない練習時間をどれだけ有効に使えるかが優勝への鍵となる。最も、初めての体育祭でついていくのに精一杯の伊織も、とりあえず立て看で勝てれば満足の那穂は競技の勝敗に特に興味はなかった。
「でもこういうのって多分どっかのグループが総ナメするんだよね」
「全部取るってことですか?」
去年の高校の体育祭も白虎が競技、応援、よさこい、立て看、総合の5部門で全て優勝した。中学校は赤と青の2ブロックに分かれていて伊織が3年のときの運動会では応援は青、競技は赤がとった。そういうケースは極めて稀で、那穂が見た中では中学校でも高校でもその1件しかない。ほとんどの場合は競技を制すものが全てを制すのだ。そして優勝するグループは結団式の段階でほぼ決定する。優勝候補は初めからまとまりがあり、結団式の進行もスムーズ。時間の無駄も少ない。
「でもやるからには勝ちたいですよね」
「3年生にその気がないなら那穂だってやりたくないよ。やるならみんなで頑張らないと楽しくないでしょ」
「そうですね」
「今年はどうなるかな」
練習期間は1週間ほど。しかし練習することは全体練習の入場行進や開閉会式のほかにも団体競技の大縄跳び、ムカデ競争、30人31脚、応援練習やよさこいなど盛りだくさんだ。さらに応援合戦のための衣装作り、立て看板の修正などやることは山ほどある。1週間で終わるのかと伊織は不審に思うが体育祭前の1週間は長い。1日のほとんどを体育の授業に割き、さらに放課後も体育祭準備や練習で最低でも5時までは帰れない。さらに総練習やグラウンド整備も組み込まれる。そんな状態で続く1週間はほかのどの1週間よりも長いのだ。結局今日は5時半頃まで練習した。
「やだね。体育祭シーズン」
「長いですね。1週間」
「バスまで時間ある?」
時計とバスの時刻表を見合わせて確認する。運動会練習のあと那穂を待って帰ってきたからいつも乗るバスはもう行ってしまったらしい。次のバスまではあと30分ほどある。
「今日はちょっと寄り道して帰ろうか」
那穂に連れられて近くのベーカリーに入ってチョコレートマフィンとドーナツを買った。普段バスでまっすぐ帰る伊織にとっては初めての体験だった。バスセンターまで1度戻ってベンチに並んで腰を下ろした。
「どっちが良い?」
「じゃあドーナツで」
那穂が伊織に渡した揚げたてだからか那穂がずっと持っていたからかドーナツはまだ少しだけ温かかった。
「プログラム3番短距離走に出場する生徒の皆さんは召集場所に集まってください」
放送がかかるとみんなが動き始めた。体育祭は始まるまでは長いものの、始まってしまえばすぐに終わる。次々と競技が進んでいき自分の番がまわってきてまた終わる。騎馬戦は団体競技の中では1番早く、召集のがかかって伊織は行ってしまった。那穂は大縄跳びも借り物競争も午前の後半。まだ出番は先のため応援席で1人休憩していた。
「位置について、用意」
バァン、とピストルの音が響いて選手たちが一斉にスタートする。ここまでくると体育祭が始まってしまったんだなと実感せざるを得ず那穂は苦笑いで選手を見送っていた。運動会日和と言うべきか言わざるべきか晴れ渡った秋空と眩しい日差し。軽い熱中症を起こす人もちらほら見られた。
「プログラム10番男子選抜によります騎馬戦です」
ついに来た。伊織の今日最初の出番だ。と言っても騎馬戦の右側だから応援席からは1番見えにくいポジション。そんな状態で伊織のことを見ているのは那穂くらいのものだ。今時騎馬戦なんてと毎年思うけれど伝統であるだけあって盛り上がる競技の1つなのだ。競技が終わる前に那穂は大縄跳びの召集がかかって最後までは見られなかった。
「伊織!お疲れ様」
「あ、お疲れ様です」
大縄跳びを終えた那穂が応援席に戻ってきた。伊織たちの騎馬戦は3グループ中2位だったが那穂たちの大縄跳びは1位だった。
「すごかったですね。あんなに人数いるのに」
「中学のときは100回跳んでたけどね。でも今日は最高記録」
あの頃は練習時間も多く人数も今より少なかったため今の倍以上は跳んでいたのだ。1位だった那穂たちも連続して飛べたのは42回だった。
「いつまでも日陰にいたら怒られるかな。前行く?」
「そうしましょうか」
那穂は応援席を出ようと立ち上がって初めて気付いた。伊織が右足を怪我していることに。
「伊織、足どうしたの?」
「さっき騎馬戦でこけたんです。2回戦見てませんでした?」
「途中で召集かかったからな。手当てしなくて大丈夫?」
伊織は大丈夫と言ったけれどこの後スウェーデンリレーにも出ないといけない。那穂に半ば無理やり連れられて救護テントに向かった。
「擦りむいただけだしリレーに出るのは構わないわ。気をつけてね」
「はい」
消毒をしている間に保健委員が足りなくなったガーゼを取りに戻ってくれた。テントには数人の保健委員と先生がいたがそこで休んでいる人はいないようだった。
「ごめん伊織、那穂戻ってるね」
「あ、はい…」
耳元で囁くように伊織にそう告げて那穂はテントを後にした。どうかしたんだろうかと思ってふと前を見ると田辺先生がテントに入ってくるところだった。しかも熱中症でふらつく女子生徒に肩を貸していた。伊織は手当が終わってすぐに那穂を追いかけた。
「那穂さん!」
幸いさほど遠くにいっておらずすぐに追いついた。
「最低だよね、那穂。相手はそんなつもりじゃないのに勝手に嫉妬してさ」
何も言えなかった。自分は那穂が視線を向けていた田辺先生を相手に嫉妬していたなんて言えるわけもない。
「那穂なんか手繋いだことしかないのに肩とかずるいよ!」
「え?」
思っていたほど落ち込んでいない。というか子どものやきもちのようで伊織は少し安心した。那穂は顔を真っ赤にしてずるいずるいと連呼する。伊織もずるいと思う気持ちがあったけれど今はそんなことをしている場合ではない。
「那穂さん、借り物競争そろそろですよ」
「え、うそ?」
「最初のカード先生の名前とか書いてあるんですよね」
「そっか!那穂頑張る!絶対先生引き当てるよ」
そう言って召集場所に向かって走っていった。さっきまでのやきもちはどこへやら。那穂に笑顔が戻ったことは嬉しいけれど田辺先生へのやきもちは消えない。どこかずるいと思う気持ちが残ったまま那穂のレースを見に応援席に戻った。
「1年生第3レース」
今までのレースで先生のお題出ていない。スタート直前に那穂はちらっと伊織の方を見て笑った。走り出した那穂は一直線にカードに向かい2つ折りにしてあるカードを開いた。
「来た!」
伊織に振り向いて最高の笑顔とともにカードを見せる那穂。そこには「田辺先生」と確かに書かれていた。伊織も驚いて思わず笑顔になった。急いで田辺先生を探して次のカードをめくりに行く。2枚目のカードには二人三脚とか背中合わせとか指令が書いてあって指定された先生とカードの指令に従ってゴールしなければならない。那穂が引いたカードは二人三脚。自分のハチマキを外して先生の足と自分の足を縛った。
「中からね。行くよ」
那穂は勝つ気だった。せっかく先生のカードを引いたのだ。勝ちにいかなければ意味がない。すでに2人ゴールしているけれど1人は前にいる。後ろには2人。あの1人は抜きたいところだ。前は先生とボールを蹴りあいながら走っている。先生が蹴ったボールを取り損ねた隙を狙って那穂と田辺先生は3位でゴールした。
「今度はもっと楽なの引けよ。二人三脚なんて何年振りか」
「那穂だって中2以来やってないよ」
息が上がった先生とそんな会話をして笑いながらテントと応援席まで歩いた。
「なんでそんな嬉しそうなんだよ」
「楽しかったもん。先生と二人三脚」
「おまえな…こっちは死にそうだってのに」
那穂は頬をりんご色に染めて子どものようにけたけたと笑った。
「さっき先生女の子に肩貸してたでしょ。満更でもない感じでさ」
「あれか?好きで貸してたんじゃねえよ」
「ずるいなあって思ったの。那穂は手しか繋いでないのに。だから先生と二人三脚できて那穂楽しかったよ」
「おま、こんなとこで…」
周りの誰に気からてるかもわからないグラウンドの片隅で那穂は田辺先生の右手に自分の左手を絡ませた。先生は周りを見回したが那穂は気にせず続けた。
「ありがとう、先生」
那穂はにこっと笑うと伊織が待つ応援席に駆けて行った。その後ろ姿をみて先生は頭を抱えるのだった。
「潮時だよな。そろそろ」
10 1年前の出来事
「おい、高遠!」
体育祭の片付けの最中。パイプ椅子を運び終えグラウンドに戻ってきたところでところで背後から誰かに呼ばれた。振り返るとそこには見覚えのある先生の姿。田辺先生だ。
「そっち持ってくれ。美術室の前まで運ぶから」
田辺先生が指差したのは立て看板の1枚。周りの人たちはみんなで2人1組で立て看板を運んでいた。立て看板は全部で18枚。はぐれてしまった那穂を探しに行こうかと思っていたけれど後回しにして立て看板に指をかけた。
「最近那穂どうよ?」
運んだ立て看板の紙を丁寧に剥がしながら田辺先生は伊織にそう問いかけた。
「どうって…」
どう、と聞かれたらなんと答えるのが正解なんだろうか。最近といえば一緒に夏祭りに行ったり練習帰りに寄り道したり体育祭で嫉妬したり。とてもどうと聞かれて笑い半分に返せるような内容ではない。
「特に変わったとは思いません」
「そっか。安定してるってことだよな」
田辺先生と話すのは今回が2度目。まだ那穂とのことも田辺先生本人のこともわからないことが多いためあまり自ら話を振る気にはならなかった。
「まあいいや。ちょっと那穂のことで相談があってさ」
「相談ですか?」
伊織は予想外の言葉に戸惑った。那穂のことを誰よりもわかっていそうなこの先生が今更自分に何を相談するというのか。
「実は那穂とちょっと距離を置こうと思ってんだ」
「距離を置くって…関わらないってことですか」
「ああ。でもちょっとまだ迷ってる」
去年からずっと関わってきて那穂のことは誰よりもわかっているつもりだった。実際にその通りで部活が一緒で家庭の事情も知っていて会って間もないのにすでに気の置けない仲で敬語もいらなくて。友達や仲の良い先輩後輩ならそれでいいのかもしれないが田辺先生と那穂は教師と生徒。度を過ぎれば指導も受けるし校長室に呼び出されたり最悪首がとぶことだってあり得ない話ではない。公務員の田辺先生が学校という公共の場で一生徒である那穂を特別扱いし続けるわけにはいかないのだ。
「先生と那穂さんはどうしてそんなに仲が良いんですか」
「そりゃ部活で一緒だし」
「それにしても仲良すぎませんか」
ずっと気になっていたことだった。部活で関わりがあるとはいえ2人の関係は教師と生徒。田辺先生がここまで那穂とことを気にかける理由も那穂が惚れるほど田辺先生を慕っている理由も伊織にはわからない。そもそも特別扱いしなければ指導や懲戒免職を恐れることはない。リスクをおかしてまで先生が那穂と特別深く関わっているきっかけを伊織はまだ知らない。
「聞きたいか?」
「まあ…」
「お前那穂の家のこと知ってるんだっけ」
那穂の家のことといえば伊織が知っているのは母子家庭でお兄さんが大学に入っていることくらいだ。田辺先生が言う家のことというのは那穂と暮らしている母のことを指すのか、大学に行って離れて暮らす兄のことを指すのか、または家にいない父のことを指すのか。
「プライバシーにもかかわってくることだからこっから先は那穂も入れないと話せねえな」
それから伊織は那穂のプライバシーにか関わっていて先生が那穂を特別扱いする理由って何なんだろうと考えていた。
「伊織」
那穂に声をかけられて振り返った。自分の持ち場の片づけが終わったらしい那穂は伊織を探してグラウンドを探し回っていたのだ。
「那穂さん…」
「どうかしたの?」
さっきまで話していたことを思い出すといつも通りにできない。那穂のことを知りたいと思った。でもそれが原因で那穂が傷ついてしまうのは怖い。どうするのが正解なのかわからないけれど今は知りたい。自分が知れば那穂を助けられることがあるかもしれない。
「嫌だったらいいんですけど、もしよかったら去年あったこと教えてくれませんか。僕留学してたってことくらいしか知らなくて、田辺先生とのこととかいろいろ知りたいんです」
那穂の顔からはいつもの明るさが消え何かを思い出したように少しうつむいた。
「伊織が知りたいなら話すよ。でも、もうちょっと待って欲しいかな」
「待ったら教えてくれるんですか」
「うん。一緒に来て欲しいとこがあるの」
突然のことで驚いたけれど那穂が伊織に何か教えようとしていることはきっと間違いない。
「杉海まで往復2人分お願いします」
数日後バスセンター集合。那穂は慣れた手つきでバスの切符を買うとバスが来るのを待った。
「僕の分、お金…」
「いいよ。那穂が付き合わせてるんだから。でも田辺先生には内緒にしてね」
杉海までは片道1時間半ほどかかる。往復で3時間。そんな遠くまでわざわざ何をしに行こうというのか。
「そういえば休みの日に会うのは初めてだっけ?」
「そうですね」
「那穂引きこもりだから休みの日はほとんど外でないんだけどね」
制服も合服に移行してだいぶ涼しくなり、バスの中の冷房もほんの少し落ち着いていた。1時間半の旅の間、那穂はただ黙って何かを握りしめていた。
「それなんですか」
「宇宙ガラス。綺麗でしょ」
ビー玉の中に宇宙を注ぎ込んだような綺麗なガラス玉。細いチェーンが付いて首から下げられるようになっていた。杉海で降りた2人はそこからさらにバスに乗った。伊織が普段見たこたもない場所にバスはどんどん走っていった。
「杉海にもこんなとこがあるんですね」
「うん。ここが那穂のお父さんのふるさと。昔よく遊びに来たんだ」
懐かしげに窓の外を見つめる那穂は微かに哀愁を漂わせていた。駅から20分ほど揺られたところでバスを降りた。目の前には海が広がりたくさんと筏や船が繋がれている。後方には山があり、麓には家が並んでいた。
「どこに行くんですか」
「那穂のお父さんのとこ」
お父さんのところで何か話が聞けるのだろうかと思っている伊織をよそに那穂は山奥に歩き進めていった。そしてその道沿いに墓地が広がっていた。さすがにここまで来たら伊織にもわかってしまう。
「今日ね、お父さんの命日なんだ」
なんとなくわかっていても、正面から事実を伝えられると胸が痛んだ。那穂の父である佐倉那幸(ともゆき)は21歳で3歳年上の恭子と結婚し、翔梧と那穂という2人の子どもを授かった。結婚前から娘を欲しがっていて、那穂という名前も那幸が付けた。キャリアウーマンとして働く恭子に代わり仕事の合間を縫って家事や子育てをする優しい父親だった。幼い那穂に英語を教えたのもまた那幸だった。なんでもできる兄に劣等感を抱いていた那穂にお兄ちゃんにはできないことをしようと教えたのだ。那穂は佐倉家のお墓の前に腰を下ろした。伊織も隣に座って手を合わせた。
「去年の7月にイギリスに行って3ヶ月くらいで帰って来る予定だったの。でも2ヶ月くらいしたときにおばあちゃんが亡くなったって電話があって日本に帰ってきた。お葬式には間に合ってなんとか参列できたんだ。でもその日の夜お母さんと買い物に行って帰ってきたら部屋でお父さんが首吊ってたの」
首を吊っていたという言葉に伊織は思わず息を飲んだ。老衰でなくなるような年齢ではないだろうとは思っていたけれどまさか自殺だったなんて。
「まだおばあちゃんのお葬式も落ち着いてないのにさ。そのときお父さんの服のポケットにこれが入ってたの」
那穂が伊織に見せたのは『那穂へ』と書かれた水色の封筒だった。これがいわゆる遺書というやつかと伊織は背筋が凍るのを感じた。
「呼んでいいよ」
中から便箋を取り出すとそこには那穂の字にも似た流れるような綺麗な文字が並んでいた。
〈那穂へ
那穂を置いていく父さんを許してください。でも女手一つでここまで父さんを育ててくれたばあちゃんを1人で逝かせるわけにはいかないんです。お葬式はしなくていい。直葬で済ませて浮いたお金は那穂と翔梧の学費に当てなさい。翔梧はすぐ大学生になるしこれからは那穂が母さんと一緒に居てあげて。宇宙ガラスは那穂にあげるから大事にしなさい。この手紙は那穂が読んだら父さんと一緒に焼いてください。〉
握りしめた宇宙ガラスと手紙は亡くなったお父さんの形見。焼けと言われても焼けるはずがない。それがお父さんが那穂にくれたたった1枚の最初で最後の手紙だったのだから。那穂は慣れた手付きで花の水をかえると、線香を立てて静かに両手をあわせた。
「…帰ろっか」
那穂は少しだけ笑顔を作って立ち上がりお墓を後にした。那穂が自分の過去を話してくれたことが伊織は素直に嬉しかった。けれどまだ謎は全く解けていない。小林先生は留学から帰ってきて学校を休んでいたと言っていた。けれど実際那穂が帰ってきたのは留学が終わる1ヶ月ほど前。そのことを小林先生が知らなかったなら那穂は10月以降まで学校を休んでいたことになる。可憐が言っていたブレザーのことも何か関係あるのだろうか。結局田辺先生が関わるようになった理由はなんだったんだろう。
「その顔だとまだ納得してないね」
「え、まあ…那穂さんがブレザーを着ないのは何か関係あるんですか」
「まあそうかな。お父さんのことが原因かはわからないけど金縛りにあうようになってね。体が動かないのが怖くてブレザー着れなくなっちゃったの」
「じゃあネクタイがリボンになったのって…」
「前は可憐に合わせてネクタイだったんだけどお父さんがネクタイで首吊ってたからなんか怖くなって」
全てに理由がある。これまでも、きっとこの先も。みんなが伊織にも教えた那穂のことは大好きだったお父さんの死とつながっていたのだ。
「まだなにかある?」
「いや、その…田辺先生と仲が良いのも関係あるのかなって」
「あるよ。先生が那穂のこと助けてくれたんだ」
「助けて?」
お父さんが亡くなってからしばらくいろいろあり学校にも行かず家に引きこもっていた那穂だったが兄の翔梧に引きずられるようにして学校に行ったのは12月のはじめのことだった。その時最初に会いにいったのは田辺先生だった。事情は以前から翔梧から聞いて全て知っていた。数年前に祖父をなくしていた田辺先生は少しなら那穂に同情することができた。そこで約束した。家族以外とお墓には行かないこと。辛いことを思い出す場所にわざわざ行かなくてもいい。そして那穂が辛いときは絶対守るから無理をしないこと。それからしばらくは教室には行かず美術室で過ごした。
「先生がね魔法をかけてくれたの。大丈夫になる魔法」
11 魔法が解ける日
「話したのか。那穂と」
「はい。お父さんのこと教えてもらいました」
那穂と杉海にいった数日後。伊織は美術室に来ていた。2人で杉海に行ったことは伏せて田辺先生に自分が聞いたことを話した。いろいろ複雑な内容の話を聞いてまだ混乱しているけれどまだまだわからないことが多い。だからその内容を聞こうと思って放課後田辺先生を訪ねたのだ。
「9月に那穂さんが 帰ってきてお父さんが亡くなって、その次学校に行ったのは12月に入ってからなんですよね。その間は何があったんですか」
「それはまあいろいろと…」
先生が何か話し始めようとしたそのとき突然ドアが開いて1人の男の人が入ってきた。伊織は初めて会うのになにか初めてではないような気がした。どことなく誰かに似ている気がしたのだ。
「おう翔梧!帰ってきてたのか!」
「先生お久しぶりです」
先生が翔梧と呼んだ男の人。その名前には伊織も聞き覚えがあった。その名前は以前に那穂と帰ったときに那穂の口から語られたものだ。
「あの、那穂さんのお兄さんですか」
「あ、うん。君は那穂の友達?」
「はい。クラスメイトです」
佐倉翔梧。国立大学に通う那穂の兄だ。夏休みに帰省して先生のところに顔を見せて回っているらしい。身長があまり高くないところや二重で大きな目は那穂と似ている。
「なにかお話中でしたか」
「こいつが那穂のこと知りたいっていうから話してたんだ」
「那穂のこと?」
「はい…去年那穂さんにあったこととか」
「去年か…もう1年だもんな。教えてやろうか。どこから知りたい?」
せっかく夏休みに入り帰省して先生との久しぶりの再会。話したいこともいろいろあっただろうに翔梧は嫌な顔1つせず伊織に話してくれた。
「9月の終わりにさ。父さんの火葬が終わってから何日かした日に那穂が部屋で服薬してたんだ」
「それって自殺ってことですか!」
「まあ。どこで薬なんか手に入れたんだろうな。幸い致死量には届いてなかったみたいで命に別状はなくて病院で治療を受けただけで済んだけどね」
そこまで思いつめていたのだ。後追いまでしていたなんて伊織にはとても信じられる事実ではなかった。
「それでしばらくはまた自殺しないように様子を見てもらってたんだけど2ヶ月くらいしたらもう大丈夫だからって退院したんだ」
空白だったお葬式からまた学校に来るまでの間にはそんな出来事があったのだ。あのいつも明るい那穂にそんな時期があったのだ。しかもその出来事からまだ1年ほどしか経っていない。
「でも後であの薬の量じゃ100パー死ねないってお医者さんに言われたんだよ。父さんには会いたくても死ぬのは怖かったんだろうな」
那穂が本気で死ぬ気ではなかったのかもしれないと思った伊織はほっと安心した。けれど死のうとして服薬したのは事実だ。命は助かったにしろ大切な家族が2人も自殺を試みたことは翔梧にとっても大きな打撃を与えたはずだ。
「いつまでも引きこもっててもしょうがないと思って学校に連れてきたら先生が面倒見てくれるっていうから任せたんだよ」
先生というのは田辺先生のことだろう。この辺りからは那穂から聞いた話とつながる。これで話のほとんどの流れがつかめた。何かあったのは間違いないと思っていたけれどこんなに重く苦しい過去だったとは思わなかった。
「学校側もこればかりは多少の特別扱いは目をつむってくれてたしな」
那穂と田辺先生の関係が親密なのは学校も認めてのことだった。だから指導に怯えるまでに仲が良かったのだろう。
「まあ病院では何もできることはなかったし那穂を立ち直らせてくれたのは先生ですよ。本当に感謝してます」
「那穂さんが美術室に来てたとき先生は何をしてたんですか」
「絵を描いてただけだよ。那穂には新しい画材を渡したんだ」
「新しい画材?」
美術部に所属しているくらいだから水彩、油彩、アクリルガッシュ、ポスターカラー、色鉛筆など使える画材はだいたい使っているだろう。その那穂に与えた新しい画材というのはなんだったんだろう。伊織にはすぐには思いつかない。
「それがパステルだったんですか」
その答えを口にしたのは翔梧だった。
「パステルって100均とかであるあれですか?」
田辺先生は机の引き出しから1冊のスケッチブックを出した。表紙にはローマ字で『Naho』と描かれている。1枚ページをめくると柔らかく色をのせたような絵。またページをめくると同じような柔らかい色の絵がたくさん描かれている。
「今でもたまにかいてるんだけどさ。そのスケッチブックは那穂に返しておいてくれないか」
「僕がですか?」
一瞬疑問を抱いたけれどは距離を置こうかと言っていたあの日の言葉を思い出した。
「あいつと最低限の関わり以外は絶ったほうがいいかと思ってさ」
「え、卒業まで那穂の面倒見てくれるんじゃないんですか」
「ばか。一生徒だけにそこまでできるかよ。憲法違反だ」
「那穂さんはそれでいいんでしょうか」
確かに憲法違反かもしれない。公務員はあくまで全体の奉仕者であって個人の奉仕者ではない。けれど今まで一緒にいてくれた先生が突然離れていくのはきっと辛いはずだ。
「俺はただ身の安全のためだけに那穂のそばを離れようとしてるわけじゃないよ」
「でも…」
「あいつはもう大丈夫だと思うんだ。ちゃんと立ち直ってるしもしまた何かあっても今はお前がいるしな」
「僕ですか?」
「今年に入ってから那穂はすごく楽しそうでさ。どこでもお前の話してんだろ。俺より近くにいてやるべきなのはお前だよ」
今まで1番近くで見てきたであろう田辺先生にそう言われると伊織も少し自信が持てた。けれど伊織は自分が那穂に先生のように何かしてあげられるだろうか、尽くしてあげられるだろうかと戸惑った。
「うちの妹あんなやつだからさ、近くにいてわがままに付き合ってくれれば喜ぶよ。4月からずっと君が相手してくれてたんだよな。那穂からもよく友達ができたって話は聞いてたよ。君名前は?」
「あ、高遠です。高遠伊織です」
「高遠くんになら妹を任せられると思う」
「本当ですか」
翔梧は那穂に似た優しい笑顔を見せた。この1年の間1番近くで那穂を見てきた田辺先生と翔梧が伊織のことを信じて任せてくれようとしている。そのことが嬉しくもあり、重圧でもあった。
「もしまた那穂さんに同じようなことがあったとき、僕は何をすれば…」
「今まで通りでいいんだよ。留年って普通1つ下の人たちの中に混ざって浮くこともあるんだけど那穂はそんなことなかったろ。お前がいたからだよ」
「僕は自分の学校もあっていつも妹の近くにはいてやれないからいつも近くにいてくれる人がいると安心できるよ」
いつも那穂の近くにいる人。伊織は時間をかけてそれは田辺先生ではなく自分であるということを自覚した。たとえ田辺先生がそうであったとしても卒業して進学すれば離れ離れになってしまう。遠くの大学に行けばすぐには会えないし次に会えるのがいつになるかもわからない。それは翔梧も同じなのだ。1番近くにいてあげられるのはクラスメイトである伊織。あと2年は確実に、そのあとも望めば一緒にいられる。それは伊織だけなのだ。
「僕にできるでしょうか」
「できる。多分お前じゃないと任せらんねえよ」
「妹のこと頼んだよ」
伊織はスケッチブックを握りしめた。ここまで来たら那穂にどんなことがあろうとも腹をくくらなければならない。
「那穂まだ上にいるのか?」
「はい。僕が終わるまで教室で待ってるって」
「そっか。せっかく部活休みなのに結局残ってるんだな」
那穂をいつまでも待たせるわけにはいかないと伊織は那穂の待つ教室へと向かった。
「那穂さん、お待たせしました」
「やっときた。那穂宿題終わったよ」
「もう終わったんですか」
また2人は今日も他愛ない会話を繰り返す。那穂からあんなことを聞き出してまだ数日しか経っていないのでぎこちなくなってしまわないか不安に思っていたけれど杞憂に終わった。那穂はいつも通り伊織に接していた。伊織もつられていつも通りに接する。
「そういえばこれ田辺先生から預かってきました」
「先生から?」
何のスケッチブックであるかはすぐにわかったらしい。けれどなぜこのスケッチブックを今返されたのかは理解できない。今までだって先生が管理していたのだから。ぺらぺらとページをめくると1番最後のページに鉛筆書きで何か書いてあった。それを読み始めた途端に那穂はその場に止まってしまった。
「那穂さん?」
「伊織…これ」
覗き込んで伊織が目にしたもの。それは田辺先生から直筆のメッセージ。那穂のスケッチブックに書かれた別れを告げる手紙だった。
〈何か困ったことがあったらこれからは俺じゃなくて高遠を頼れ。これ以上俺と必要以上の関わりを持てば特別指導もあり得る。きっともう那穂は1人でも大丈夫だから。俺は那穂の絵が好きです。田辺〉
那穂と距離を置くとは言っていたけれど伊織もこんなに突然だとは思わなかった。今日伊織に渡すときまではずっとあの引き出しの中に入っていたのだとしたらこれを書かれたのはもっと前。以前からこのスケッチブックを返すことは考えていたということになる。
「那穂大丈夫なんかじゃないよ…」
涙ぐむ那穂に伊織は焦ることしかできない。
「大丈夫ですよ。僕は近くにいますから」
「でも…先生が」
伊織にはわかってしまった。那穂が求めているのは自分ではなく田辺先生何だということを。けれど本当にそれでいいんだろうか。那穂は自分のことを求めていない。それなのに近くにいていいのだろうか。泣き続ける那穂の近くにいるべきなのは本当に自分何だろうか。
『俺より近くにいてやるべきなのはお前だよ』
そんなときに頭をよぎった先生の言葉。近くにいるべきなのは田辺先生ではない。先生はそう断言していた。伊織なんだと自信をもたせてくれた。
「先生じゃないとだめですか」
那穂が少しだけ顔を上げて伊織の目を見た。伊織も強く那穂の目を見た。
「近くにいるの先生じゃないとだめですか。僕じゃだめですか」
自分が思ったことを言葉にした。飾り気のない素直な言葉。この言葉は那穂に届くのだろうか。
「…わからないよ」
「え…?」
「伊織には那穂の気持ちなんかわからないよ!」
那穂はそれだけ吐きすてるとスケッチブックを置いて走っていってしまった。
「那穂さん!」
那穂は止まらない。重い荷物を抱えたまま走っていく。魔法が解けたのだ。田辺先生が那穂にかけていた『大丈夫になる魔法』が解けた瞬間だった。
12 新しい魔法
次の日学校に来ても那穂と伊織は話さなかった。隣の席であるがゆえに必要最低限の関わりは持ってしまうのだがそれ以上に関わることはしなかった。那穂には田辺先生が必要なことがわかっていたのに無理に引き剥がそうとした自分が悪かったのではないかと伊織は責任を感じていた。昼休みも那穂はいつも通り図書室に向かったようだが伊織ははいかず自分の席で1人お弁当を広げていた。
「あれ、高遠今日は教室?」
「あ、うん。教室」
1人でいる伊織に声をかけてきたのは伊織の前の席の高槻颯人。いつもこの近辺で友達と集まってお弁当を食べているらしい。その後ろには他にも2人のクラスメイトが立っていた。
「じゃあ一緒に食べるか?」
「あ…迷惑でなければ」
変に断ることはしなかった。クラスメイトの行為は素直に嬉しかったし那穂といられない今図書室に行くのもなんだか後ろめたい。自分1人でいられる場所はない。
「高遠っていつもは佐倉といるよな」
「中学同じなんだっけ。仲良いの?」
「まあそれなりには」
やっぱり那穂といる伊織がクラス内では定着している。伊織が教室にいる以上那穂といることが正解なのかもしれない。1人でいると周りから心配されたりすることも少なくない。
「何で今日は別々?」
「ちょっと…喧嘩してて」
「お?倦怠期か倦怠期」
「そんなんじゃないけど…」
伊織の一方的な片想いに過ぎない2人の関係上、倦怠期という言葉は使えない。だったら何というんだろう。別に喧嘩しているわけでもない。今は少し気まずいというだけで伊織自身は那穂といたいと思っている。
「倦怠期かどうかはいいけどさ高遠と佐倉って付き合ってないの?」
「別に付き合ってないよ。本当に中学が同じってだけ」
たまたまクラスに同じ中学の人がいなくてお互いが引っ込み思案な性格ゆえ他に友達を作ることもせず狭く深い関係を築いてきた。本当に最初はただそれだけだった。
「それにしては仲良いよな」
「高遠は佐倉のこと好きとか?」
「うーん…」
伊織は那穂のことが好き。それは紛れもない事実だ。けれど那穂の気持ちがこちらに向くことはない。それがわかっているからか伊織はいつからか自分の那穂に対する気持ちをすべて無視してしまうようになっていた。好きなことは間違いないけれどこれ以上伊織が那穂に訴えかけたところで那穂と結ばれるわけではないとわかったのだ。
「好きだけど…好きでいちゃいけない気がする」
「なんだよそれ。意味わかんねえ」
「だよね。ごめん、忘れて」
そのころ那穂はいつも通り図書室に来ていたもののなんとなく入りづらくて1人図書室の手前の休憩スペースで座っていた。1人で行けば伊織のことを聞かれるだろう。そう聞かれたらなんと返せばいいのか。喧嘩したわけじゃない。自分の心ない一言のせいで伊織はついてきてくれなくなったのだから。
「今日は図書室じゃないんだ」
突然頭上から声をかけてきたのは可憐。図書室は2年生の教室とおなじ教棟にあるからここにいることは当たり前だ。今日はちょっと、と曖昧に返すと頬をつねられた。
「小林ちゃんが那穂が来ないって心配してたよ」
「本当?じゃあ後で顔だけ出しとこうかな」
表面上だけ明るくそう言って何とか取り繕おうとしたものの可憐には通じなかったようだ。
「那穂なにがあった?」
「はい?」
何かあったこと前提で聞いてきた質問に那穂は一瞬どきっとした。
「那穂が高遠くんといないなんて珍しいなって思って」
「そういう日もあるよ」
食べ終わったお弁当箱を片付けるとなんでもないから、とだけ言って何事もなかったように教室に戻った。すべて話せば長くなってしまう。それに那穂と田辺先生の仲の良さや事情を知っているのは伊織と美術部くらいのもの。そのほかの人にはたとえ気の置けない友人であっても知られたくなかった。
放課後になっても2人は話さないまま。那穂は早々と部活に行ってしまった。伊織もそのまま部活に行った。
「ねえ、高遠くん。那穂となんかあったの?」
部室に入るや否や可憐にそう聞かれて伊織は1歩退いた。
「あ、まあ…」
「那穂も深入りされたくないっぽいし聞かないけどさ。頑張らないとだめだよ」
「はい?」
「那穂と喧嘩とかしたら絶対こっちから行くまで口聞かないよ」
「そう…なんですか」
「頑固なやつだからね。だから自分から行くしかないよ」
自分から行くしかない。いつまでも相手を待っててはいけない。那穂の気が自分に向くまで待つのではなく自分に向けるために動かなければならない。それが今伊織のやるべきことだ。時計は5時を指す少し前。
「今日らもう帰ります」
「高遠くん」
可憐からのアドバイスを受け取って伊織は階段を急いだ。美術部の定時は5時。その時間に帰るとすれば今から下に降りれば間に合う。まだ那穂は学校にいる。
「那穂さん!」
階段を1番下まで降り切った美術室の前。ちょうど那穂が出てくるところに間に合った。可憐から聞いた『いつも通りに』という言葉を思い出す。
「帰りましょうか」
少し驚いたように固まっていた那穂だがすぐに頷いた。伊織は頭の中でいつも通り、いつも通りとおまじないのように繰り返しながら話を切り出した。
「だいぶ涼しくなりましたね」
「うん」
「最近暗くなるのも早いですよね
「うん」
「そういえば、」
「伊織」
突然名前を呼ばれて手首を掴まれた。伊織は驚いて歩みを止める。那穂の目はまっすぐに伊織の目を見て何か言いたげに控えめに口を開いた。
「怒ってないの?那穂伊織にひどいこと言っちゃって。伊織もちゃんと考えてくれてたのに」
那穂の髪を撫でていた風が止み、静寂に包まれる。伊織がいつも通りに接してくれるのは那穂にとってありがたいことだった。けれど自分がひどいかなとを言ってしまったという事実を闇に葬るわけにはいかない。
「大丈夫ですよ。那穂さんの言いたいことはわかりましたから」
那穂の言いたかったことは伊織にちゃんと伝わっていた。親が生きていていつでも会うことができる伊織には父を亡くした那穂の気持ちはわからない。そういうつもりだった。だから那穂は伊織に自分の気持ちはわからないと言ったのだ。
「僕は両親とも生きてますけど…でも一緒に住んでるのは父だけなんです」
「そうなの?」
「僕が小学校のときに両親が離婚してて今はお父さんと2人なんです」
「知らなかった…」
那穂は自分の家族のことも過去のことも話した。けれど伊織のことは何も聞かないでいた。自分ばかりが辛いものだと思って聞こうとしなかったのだ。
「まあ生きてますし会おうと思えば会えるんですけどね。那穂さんの気持ち少しなら分かるつもりです」
「ごめんね…那穂自分のことばっかりで」
「いいんです。僕も一緒にいる以上那穂さんのこと少しでも知りたくて自分のことは棚に上げたままで」
「伊織は、那穂のこと知りたい?」
2人の間に沈黙が流れた。伊織の中の那穂のことを知りたいという気持ちはまだ消えていない。けれどこれ以上踏み込んでまた那穂を泣かせるようなことにならないだろうかと不安がよぎった。
「那穂ずっと怖かったの。話したらみんな那穂から離れちゃうんじゃないかって。だから誰にも話せないでいたの」
「僕は絶対離れたりしません。もっと知りたいです。那穂さんのこと好きですから」
自分で言って伊織は恥ずかしそうに目を逸らした。那穂も頬を赤く染めた。
「わかった。伊織が知りたいことは全部話すよ。誰も知らないことも教えてあげる。でも1つだけ約束して」
全部話す、と言われて長い間探ってきたことがやっとつながると内心喜んでいた。だからそのあとの「約束」というのは何か大きな代償があるのではないかと心配した。
「那穂のこと全部知っても那穂と一緒にいて。1人にしないで」
そんなこと、と伊織は安心したけれど那穂にとってはその「そんなこと」がとても大切なことなんだと思った。いつもそばに人がいてくれることが那穂にとってはとても重要なことなのだ。大切な人を失ったからこそわかることだった。
「絶対1人にしません。ずっと那穂さんといます」
「よかった。それだけで十分」
それから那穂は翔梧や田辺先生が話した内容も合わせて去年の自分にあったことを全て伊織に話した。祖母と父が亡くなったこと、薬を飲んで自殺未遂をしたこと、出席日数が足りずに留年したこと。そして田辺先生と美術室で絵を描いていたときのことも教えてくれた。その話を聞いていて普段当たり前に那穂のそばにいた田辺先生がいなくなるということの重大さに伊織はやっと気づかされた。伊織もまた那穂と同じように自分のことを話した。両親が離婚していること、今は父と2人で暮らしていること。その内容は那穂の知らないことばかりでいつも一緒にいたのに知らなかったことが不思議なほどだった。
「那穂ね、普通の女の子でいたかったの。誰にも昔のことは知られたくなかった。だから初めは伊織にも黙ってたんだ。ごめんね」
「僕も自分が知りたがるばっかりで那穂さんの気持ちは考えてませんでした。すいません」
お互い謝ることが多いけれどこれ以上話していてもきりがない。もうすぐバスも来てしまうからそろそろ切り上げなければならない。
「那穂はさ、普通の女の子になれるかな?」
父が亡くなっていて元自殺志願者で留年している那穂は世間から見たら普通の女の子と見られない場合もあるかもしれない。那穂はそんな自分を捨てて普通の女の子でいたかった。
「僕の中ではずっと普通の女の子でしたよ」
たとえどんな曰くが付いていようとも伊織にとっての那穂は明るくて楽しい普通の女の子なのだ。それ以上変わろうとする必要などない。
「僕は今のままの那穂さんが好きです」
「うん…ありがとう」
古い魔法は解けてしまったけれど那穂にもう『大丈夫になる魔法』は必要ない。それは新しい『魔法のいらない魔法』を伊織にかけられたからかもしれない。
翌朝ホームルームの後、那穂は美術室を訪れた。
「おはようございます」
「お、なんか用か?」
「ちょっと先生とお話しようかなーって。先生今朝のニュース見た?」
今朝テレビで見たニュース。県内の高校教師の不祥事が発覚して書類送検されたというニュースだ。その教師は数年前は友島高校にも勤めていて今回と同じように不祥事を起こして首を斬られている。その不祥事というのが生徒との必要以上な関わりをもってしまったことだったという。
「先生はその先生のこと知ってたんでしょ。だからそろそろ那穂と関わるのやめないと自分もって思ったんじゃない?」
「まあそれもねえわけじゃないけど」
確かに前例がある以上自分も同じ不祥事を起こせば首を斬られるのは確実だろう。長い間警察から取り調べも受けるかもしれない。実際にその先生が不祥事を起こしたのは書類送検される2年前のことだった。けれど那穂から距離を置こうとしたのはそれだけじゃない。
「本当に俺がいなくても大丈夫だと思ったんだよ。お前はもう1人じゃねえしあれから時間も経ってる。だからそろそろ潮時だと思ってさ」
「潮時だなんて。でも那穂もわかってた。そろそろ先生が那穂から離れちゃうんじゃないかなって」
「あんな一方的なやり方したのは悪かったよ。まあ部活には来いよ」
「うん。部長も新しくなったしね。那穂も文化祭頑張るよ」
那穂は満面の笑顔で言った。
「那穂も先生の絵大好きだよ」
13 留学再び
「こんなの興味ない?」
担任教師が那穂の前に差し出したのは海外留学プログラムのパンフレット。普通に勉強するだけのものではなく生物の遺伝子について研究している大学のチームに参加できるコースや、プロを目指すスポーツ選手の卵が集まる練習に出られるコース、NPOが主催する国際ボランティアに参加できるコースなど様々。那穂が進められたのはアーティストを育成するアートスクールに通えるコース。
「田辺先生から。興味あったら先生と相談してみて」
「はい」
やっぱり回しものだったらしい。 1年生ももうすぐ折り返し。そろそろ2年生からの進路や修学旅行の希望調査が始まる時期。来年のことについて考え始めるこの時期に留学の資料を持ってくるのはタイミングとしては悪くない。しかし那穂はあまり気が進まなかった。
「那穂、おはよ」
「おはよう、萌香」
出席番号が近い人を中心に那穂も友達の輪を広げ始めていた。前の席の木下萌香を中心に少しずつではあるが、交友関係は広がっていった。その中には那穂が留年していたことや留学したことがあるというのを知っている人もいるようだが、誰も気にしている様子はなかった。
「最近他のことも仲良いみたいだね」
「はい。対人スキル上がった気がします」
相変わらず図書室でお弁当を食べてはいるけれど、教室で過ごしている時も友達と話していることが増えてきた。那穂の友好関係が広がるのは伊織にとっても嬉しかった。けれどどこかで那穂の特別でありたいと思う伊織はいいと思えるこの状況もなんとなく不愉快だった。それはきっと独占欲。
「高遠くん、ここからずれてるよ」
「え?あ、すいません」
部活中、データの打ち込みをしていても那穂のことが頭から離れない。可憐にも迷惑をかけてしまっていた。
「なに?なんか考えごと?」
「別にそういうわけじゃ…」
那穂が他の人と仲良くしてるのが気に入らないなんて言えるわけない。しかも可憐に話したらなんと馬鹿にされるだろう。
「そういえば那穂最近他の女の子といるのよく見るね。うまくやってるみたいじゃん」
「はい。席が近い子と仲良くなったみたいで」
ピンポイントでその話題をついてくる可憐に恐れを抱きながらなるべく普通に伊織は会話を続けた。
「あの那穂がね。那穂なら高遠くんがいればいっか、って友達増やさないと思ってた」
「なんですかそれ…」
まるで那穂が友達を欲しがっていないかのような言い方。伊織がいればという言葉もなんとなく引っかかった。
「那穂は人見知りなことあるから。面倒ごとは嫌いだし薄い友情とかも求めてないでしょ。1人いればあとはいいやーって思うんだろうね」
「でもクラスマッチとか修学旅行のこと考えるとやっぱり女の子の友達がいたほうがいいですよね」
「だから頑張ってるんじゃない?」
修学旅行はまだ行き先の希望調査しか取ってないけれど正式に行き先が決まれば仲のいい人同士で班を組むことになる。そうなれば必然的に異性である那穂と伊織は組めない。そんなことがこれから先増えてくるだろう。1年生は行事も少ないけれど2年生、3年生と学年を重ねれば伊織だけでは背負っていけない問題もある。それを見越して他の子との距離を縮めようとしているのかもしれない。
「田辺先生、これ先生が回したんでしょ」
その頃美術部。担任から渡されたパンフレットを田辺先生に見せつけていた。先生は素直にそれを認めた。留学ができる上に外国で本物の芸術が学べる。英語と美術を極める那穂にはぴったりだと勧めてきたらしい。その読みは決して外れてはいないし、まだ自分のことを気にかけてくれていると那穂自身は少し嬉しかった。
「お前のことだから近いうちにまた行くんじゃないかと思ってたんだけどそうじゃねえみたいだったから」
「まあ前はそのつもりだったんだけど」
帰ってくる前は祖母の葬儀が終わったらまたイギリスに戻るつもりでいた。けれど父もいなくなり、兄も家を出た。今自分が家を出れば家族はバラバラになってしまう。それだけは避けたかった。留学制度の話を聞けば行きたい気持ちにストップが効かなくなる。だから目を逸らしていた。それなのに目の前にさらに興味をそそる内容が突きつけられたのだ。
「留学はしたいし、絵の勉強出来るならこんないい話ないと思う。でもうちにはお金もないし…」
「奨学金制度とか使えばできないことなんてほとんどねえよ。行きたいなら行けばいいさ」
留学する高校生を対象とする奨学金制度もある。普通の留学制度でも旅費を全て負担させるようなことはないだろう。
「お父さんが最後にいってた。那穂がお母さんといてあげてって。だからお母さんの近くにいないとだめなの」
「父親の遺言ってそんなに大事か。もうこの世にはいないんだろ」
「いないから大事なの!」
父親のことを言われるとすぐに感情的になってしまう。大学に行くようになれば親元は離れなければならないのだからいつまでもとらわれていてはいけないことはわかっているけれど最後の父の言葉くらいちゃんと聞いてあげたいと思ってしまう。
「ごめん…まだ考えてみる」
「時間はあるし、焦るな。でも1つだけ言っとく。お前は親のこと気にしてるかもしれねえけど、親なら子どもがやりたいことをやってほしいはずだ。無理だろうじゃなくて1回親と相談してみろ」
「こういう時ばっかり教師面して」
「教師だからな」
なんかおかしい、と那穂は笑った。お金は制度を使えばまかなえる。那穂が高校を卒業してから少しずつ返していけばいい。最初那穂に留学を進めたのは父だけれど母も賛同してくれていたし留学が決まったときは一緒に喜んでくれた。きっと反対しないはずだ。それでもまだ何か引っかかる。本当にお金と母がなんとかなればってもいいのだろうか。
「今日のHRは文化祭の話し合いしまーす」
文化祭実行委員が前に出て黒板に大きく「文化祭」と書いた。外で模擬店を出すのは基本的に2年生。1年生は教室で展示や簡易カフェを出すことが多い。今年の1年生は4クラスで使える教室は2つ。必然的に2クラスに分かれての展示か、1つのクラスがカフェなどを開き、後の3クラスで展示となる。各クラスで幾つか希望を出し、教室の割り振りを決めていく。
「何かやりたいことある人!」
学級委員は成績順で選ばれるためあまり向いてない人が選ばれる場合もある。そのため行事の際の話し合いなどは体育委員や実行委員などその時々によって別の委員が仕切ることが多い。今回実行委員になった日向有香里も推薦だがテキパキしていてしっかりした子だ。
「じゃあ多数決とるよ。1回だけ手あげて」
多数決と先生たちの話し合いの結果、1年2組は教室を1つ貸し切ってカフェを開くことになった。当日は部活で当番がある文化部を除いたメンバーで調理班と接客班に分かれて活動することになる。ちなみに那穂は美術部、伊織は自然科学部での展示があるためクラスの方には参加しない。
「文化祭楽しみだね、那穂りん!」
「重い、美波重い」
那穂の膝に乗り早くも文化祭テンションの江藤美波。すらりと背が高く色白で黒髪とまるで人形のような容姿。放送部に所属するだけあって滑舌と綺麗な声は優れもの。かわいいものが大好きでどこか抜けたような性格は憎めないところがある。
「放送部は何もないし手伝えるね。吹部は?」
「吹部は楽器の片付けあるかな。まあそれ終わったらずっと暇」
萌香は吹奏楽部。中学時代も吹奏楽部だった。学校は違うけれど那穂と同じ楽器を担当していたためその頃から交流がある。那穂が年上であることを知っている人物でもある。
「美術部はなんかやるの?」
「ポストカードとかの販売とか。本番までいつ当番がわからないんだよね」
3人は4番、6番、7番と出席番号が近いことで番号順に並んだときいつも近くに来るらしい。それで最近急激に仲を縮めている。
「できたら3人で回ろうよ。こっちは暇だしクラスの方も那穂に合わせるよ」
そう言われて那穂はちらりと伊織を見た。今までずっと伊織としか一緒にいなかったからそれ以外の選択肢というのもを初めて与えられた。自分が他の子と回ったら伊織はどう思うだろう。こちらの視線に気づいたようで伊織もこっちを見た。
「文化祭、美波たちと回っていい?」
約束をしていたわけではないし、普通なら那穂さえよければそれでいいはずだ。でもいつも自分が振り回しているのに今日は誘われたからとあっさり手放すわけにはいかない。
「僕はいいですよ。那穂さんがいいなら」
「やった!3人で回ろう」
「うん」
那穂が他の友達とうまくやっている。以前よりも笑顔が増えた。女の子同士で話している時間は楽しいらしく、明るい表情を見せた。それでもやっぱり帰りは待ってくれてて、部活が終わって下に降りると美術室の前に立っていた。
「帰ろう」
那穂はそう言って笑ってくれる。けれどその笑顔は教室で見たものとは違う気がして焦る。伊織よりも他の子の方がいいのかもしれない。当然男より女のほうがいいだろうし楽しいこともあるだろう。でも果たして今までの那穂を見る限り同じことがいえるのだろうか。
「そういえば前先生に留学の話されてましたよね」
「うん。知ってたんだね」
「また、行くんですか?」
「わかんないけど…やめとこうかなって」
先生とも今日その話をしてきたところだった。お金も心配いらないし、家族も大丈夫だと言われてもやっぱり那穂は決断できなかった。
「お母さんが1人になったとき何かあったらどうしようってずっと思ってたんだけどね。先生に言われたんだ。親なら子どもがやりたいことをやってほしいはずだって」
母とは話をした。やはり母も亡き父が勧めてくれた留学を続けて欲しい、ここで終わらせて欲しくないと言ってくれた。けれど最近になって那穂は前とは変わった。母がいいと言ってもまだ躊躇われる。それは他に理由があるから。離れたくないのは母だけでなく、クラスの友達や先生達もいた。最近友達が増えてきた那穂だから決断を躊躇っているのかもしれない。しばらく友達と会えなくなる。それは今の那穂にとっては大きいことなのだ。
「田辺先生とか伊織とかみんなとか卒業したら離れちゃうでしょ。高校生活は3年って決まってるからその時間は大事にしたいなって。だから卒業するまではやめとく。お父さんもそう思ってたんじゃないかな」
「そうかもしれないですね」
父がそう思っていたかどうかはわからないが、それも一理ある。貴重な高校生活だ。短い時間を大切にしたい。
「先生は大学でもあるからそのときは行けるといいなって。いつまでも教師面してさ」
「先生ですからね」
すぐにはしないけれど、またいつか必ず留学することを那穂は固く心に誓っていた。
14 三年越しの
「一緒に回らない?文化祭」
「別にいいけどクラスの当番がどうなるかな」
那穂が他の子と文化祭を回ると聞いてから、伊織も他の人を誘っていた。同じ中学出身で自然科学部の川上奏汰。中学の頃から同じクラスだったけれど高校からは商業科と普通科に分かれたためクラスは離れてしまった。奏汰は部活とクラスの展示とは別に商業化の展示があるのでそれなりに忙しい。
「高遠くんは那穂と回らなくていいの?」
そこに割って入ってきたのは可憐。毎度毎度いいタイミングで痛いところを突いてくる可憐が伊織も奏汰もちょっぴり苦手だった。
「那穂さんクラスの子と回るらしいです。だから僕も」
「だったら僕もクラスの子と回ればいいじゃん。なんで川上くん?」
「文化祭一緒に回るほど仲良い人いないし、奏汰とのほうが楽かなって」
「そんなんだと那穂に置いてかれるよ」
可憐はため息を吐いた。鋭利なもので刺されたような気分になった。可憐のいう通りだ。那穂が他の子と勇気を出して友達になっているというのに自分はそれを見て妬いているだけなんてかっこ悪い。人見知りで、面倒ごとが嫌いで、1人いればあとはいいと人付き合いを避けていたのは伊織のほうだったのだ。
「あんたは那穂と似てる。悪いとこばっかり。でもそんな人に那穂は任せられないな」
辛辣な一言を吐き捨てて可憐は教室を出て行った。
「もう定時か。俺らも帰ろうぜ」
2人もカバンを持ち上げて、教室を出た。
『そんな人に那穂は任せられないな』
まるで親のような言い方。聞きようによってはおまえは何様だと言われかねないがこの状況の伊織には言い返すこともできない。
「伊織!」
今日も美術室の前で待っている。自分には任せられることのできない人が自分のことを待っている。自分は那穂の隣に立つ資格なんてないのかもしれない。
「そしたら美波がね…伊織?」
「あ、すいません。なんでしたっけ?」
「…あのさ、可憐になんか言われたりしてない?」
このタイミングでくるあたり、那穂も可憐に何か言われたのかもしれない。そうでなくても誤魔化していてはいつか限界がくる。素直に話したほうが話が早い。
「そっか。可憐そんなこと言ってたんだ」
「任せられないって言われるとなんとも…」
「あいつは親か。まあ可憐ってそういうやつなんだよね。面倒なの」
素直じゃなくて皮肉屋。自分が誰よりも上に立ちたがるところがある。那穂に関して多少なり人より長い時間一緒にいた可憐だから伊織に自分より上を行かれるのが嫌だったのかもしれない。
「本心じゃないと思うんだけどね。そんなにいい子じゃないけど悪い子でもないから。本当に面倒なやつ」
本当に本心でないならいいけれど。まだ不安は残ったけれど少し安心した。
「大丈夫だよ。前は高遠くんに任せてれば心配いらないとか言ってたし。那穂は伊織といる方が楽しい」
可憐も伊織と似てるとこあるね、と那穂が笑う。那穂が伊織に取られていくようで気に入らなかったのかもしれない。那穂を自分の手元に置いておきたいと思う気持ちは2人に共通している。
「可憐に昔言われたんだ。那穂は独占されたい欲強いって。可憐も伊織も独占欲があるから那穂とうまくやれてるのかもしれないね」
那穂といるようになって感じ始めた独占欲。自分の中にも存在していたなんて今まで気づかなかった。それだけ那穂には今まで出会った人とは違う感情を抱いているということだろう。
「伊織は文化祭誰と回るの?」
「奏汰です。川上奏汰」
「そういえば奏汰と仲良いよね。部活も一緒か」
那穂は奏汰と小学校から一緒なので伊織よりも長い時間を過ごしている。学年が違えど同じ小学校というのはやはりいつになっても仲がいいし、年下と関わることの多い那穂ならなおさらだ。
「本当に美波と萌香と回っていいの?」
「はい。僕もいつまでも那穂さんに甘えてられませんから」
「甘えるなんて。甘やかすの間違いでしょ」
「そうかもしれませんね」
文化祭当日、那穂はポストカードの販売、伊織は自然科学部の展示があり、午前中はそれぞれの持ち場についていた。那穂の当番が終わる頃、萌香と美波が美術室に迎えに来た。
「那穂りん!お迎えにあがりました!」
「もう上がれる?」
「うん、引き継ぎ終わったし。クラスの方は?」
クラスでは交代でクッキーやプチパンケーキを作っている。市販のお菓子も置いているので調理班はそこまで忙しくなく、2人は午前中で交代できた。美波はクッキーの型抜きをしていたことを嬉々と話してくれた。ほんの1時間ほど型抜きをしていただけなのに話す内容は尽きないほどあった。
「那穂は高遠くんと回らなくてよかったの?誘ったときも話してたよね」
やっと落ち着いて座れるところを確保したところで、萌香が話し始めた。萌香も美波も那穂と伊織の関係性については深入りしないものの気になってた。
「うん。萌香たちと回っていい?って聞いたの。そしたら那穂がいいならいいよって」
「先に約束とかしてたの?」
「してないよ。でも漠然と伊織と回るんだろうなって思ってたけどね」
以前から一緒に回ることを決めていたわけではない。けれど、那穂は伊織と回るものだという曖昧な確信を持っていたし、きっと伊織もそのつもりでいただろう。そこに割って入ってしまったのではないかと萌香は心配していたのだ。
「那穂りんは高遠くんが好きなの?」
「好き…なのかな」
仲の良い2人であれど、田辺先生のことは話していなかった。ドラマに出てくるような禁断恋愛を本気にはしてくれないだろうし、噂が広がれば田辺先生に迷惑がかかる。だから他の人には喋らないと決めた。
「えー、あんなに仲良いのに好きじゃないの?」
「好きだけど、恋愛とかの好きじゃないの。でもよくわかんなくて」
前は違っていた。伊織と会ってすぐの頃。中学生の頃は、単純に大事な後輩の1人だった。弟のような、幼馴染のような、でもやっぱり他人行儀な伊織がただただかわいくて仕方なかった。けれどそれは恋愛ではないということは那穂も気づいていた。それは田辺先生への思いと違う感情だったと気づいたから。でもこの好きはいつか恋愛に変わるのだろうか。
「私は今のままでもいいと思うけどな。仲良いとは思うけど、那穂は気があるっていうより友達っぽいもん」
「わかるー。那穂りん意識はしてないよね」
「高遠くんの気持ちは知らないけど、那穂がいいならこのままが平穏なんじゃない?」
伊織の気持ちは知らないけれど。伊織は那穂のことを好きと言ってくれた。告白もした。1人にしないと約束してくれた。そばにいることを誓ってくれた。
「伊織は好きだよ…那穂のこと」
「なにそれ決定事項?那穂りん自信家」
突然の報告に美波も萌香も頭がついて行っていない。が、理解はしてくれたようだ。
「それほんと?」
「ほんと。好きって言ったし、告られてるもん」
「那穂は何で付き合わなかったの?」
「中途半端な好きで付き合うのは伊織に悪いかなって…」
田辺先生がいようがいまいが、あの頃の伊織への気持ちは確かに曖昧だった。けれど今はあの頃よりもっとはっきりした気持ちを持っていることもまた事実だ。
「でも那穂りんは伊織くんのこと好きなんだよね。それは間違いないよね?」
「間違いない、と思う」
「なら付き合ってみるのもアリじゃん?そこから恋愛に発展するかもしれないし、今のままよりは絶対いいよ」
美波はテンション高めにそういうけれど、必ず恋愛に発展する保証はない。付き合ってみてうまくいく確信も、伊織がいつまでも自分を好きでいてくれる自身もない。だから今まで避けてきたのかもしれない。
「那穂は高校3年間大事にしたくて留学諦めたんだよね。なら青春謳歌しないともったいないよ。3年しかないのは高遠くんも一緒なんだよ」
『高校生活は3年って決まってるからその時間は大事にしたい』
自分で言ったあの言葉。那穂はわかっていたようでわかっていなかったのかもしれない。友達といる時間、先生といる時間を大切にしたい。そう思って留学をやめた。ならばその時間は有意義に使わなければもったいない。伊織といられる時間だって平等に3年間しかないのだ。いつまでも那穂の答えが出るのを待ってくれるわけではない。伊織の優しさに甘えて先延ばしにしていては時間が過ぎてしまう。
「ちょっと行ってきます」
「那穂りんファイト!」
那穂は走り出した。王子様は待っていてもやってこない。あの王子様は控えめだから、1度引くとこちらから行くまでは大人しくしているだろう。自分から攻めなければいけない。じゃないと手遅れになってしまう。
「伊織!」
散々走った末、ついに見つけた王子様はきょとんとした顔で姫君を見つめる。
「奏汰、ちょっと伊織貸して」
「どうぞどうぞ。ごゆるりと」
こういうときに口の達者な幼馴染は助かる。理解もいいし、すぐに他のやつを捕まえるから、気兼ねなく借りていられる。
「那穂さん江藤さん達といたんじゃないんですか」
「ちょっと伊織に用があって探してたの」
まだ息切れも落ち着かない。勢いに任せて走ってきたけれど、実際何を言えばいいのかわからない。まだ伊織の気持ちが変わっていない確認もできていないのにいったい何をするつもりで来てしまったんだろう。
「伊織は…まだ那穂のことが好きですか」
自意識過剰だと思われるかもしれない。でもこれを聞いておかなければ安心して自分の気持ちも伝えられない。まずは伊織の気持ちを確認しておきたかった。
「好きですよ…ずっと変わってません」
「…那穂は、まだわからないの。伊織のことは好きだけど、この気持ちがなんなのかはよくわからない。でも誰にも取られたくないの。3年しかないから…伊織といられるのも3年だけだから那穂は大事にしたい」
今の気持ちをありのままに伝えた那穂の言葉は伊織に届いただろうか。不器用な那穂だから、凝ったことは言えない。伊織の本当に欲しい言葉ではないかもしれない。でも嘘じゃない。それが那穂の素直な言葉だから。
「関係なんて変わらないかもしれない。迷惑かけるだけかもしれない。ただ那穂のわがままなんだけど、伊織がよかったら…那穂と付き合ってほしいの」
夏の記憶が蘇る。あのときは辺りは暗くて、人もいなくて静かだった。今は文化祭の最中だから明るく人の声もにぎやかだ。けれど伊織はあのとき以上にドキドキしていた。
「これから恋愛に変わるかもとか、先生のこととかは特に考えてないの。ただ伊織を他の人に取られるのだけは嫌で。キープしておきたいのかな」
「それでもいいです。那穂さんが好きって言ってくれるなら」
それが本当に伊織が望んでいたこと。那穂が考えていた以上にそれは簡単で、単純。
「うん、好き。それは間違いないよ、絶対!」
伊織に初めて会った時からいだいていた感情。分からないと目を背けてきたその感情は他でもなく「恋」だったのかもしれない。伊織も同じだった。中学生の頃からずっと那穂に恋をしていた。3年前から変わらない二人の感情が今、やっと交わった。
15 具体的な夢
「那穂りんおめでとー!」
「美波うるさい」
「まああたしは大丈夫だって思ってたけどね」
「はいはい、ありがと」
無事に付き合うことになった運びを美波と萌香に報告した。付き合う、と言っても今まで友達以上恋人未満のような曖昧な関係だった2人のことだから、名称が友達から恋人に変わったところで大差はないのだろう。
「でも那穂たちのことだから結局付き合ってもすること変わんなさそう」
「前からそれっぽいことしてたもんね」
今までの仲の良さを知っている2人はその辺りをいじってくる。那穂も負けじと言い返すが、そううまくはいかない。
「別にそれっぽいこととかしてないよ。席隣だし同中だしそれなりには仲良いけど」
「席隣で同中だったら一緒に帰るの?」
「お昼も一緒に食べるもんなの?」
「あーもう、うるさい!」
あまりの恥ずかしさに那穂は美波の口を物理的に封じた。美波は何か言っているがもごもごとしか聞こえない。
「あ、きたよ。高遠くん」
さっきまで散々いじり倒していたくせに伊織が来た途端自分の席に戻り大人しく授業の予習を始める2人。
「本当おせっかいなんだから」
おせっかいでおしゃべりな2人だけれど、那穂のことをとても思ってくれている大事な親友だ。2人がいたからこそ伊織に頼りすぎずとも田辺先生への思いも忘れられる。
「今から進路希望調査を配ります。来年のクラス分けの参考にもなるからきちんと記入するように」
文化祭が終わって仕舞えば残された2学期も残り1ヶ月ほどになり年明けも近づく。那穂たちの進路希望調査も志望大学の欄ができるようになった。
「もうそういう時期なんですね」
「伊織はどうするの。進路」
まだ将来やりたいことは見つかっていない。那穂のように漠然とでも何か決まっていれば書けるのだろうけれど伊織には何を書いていいのかわからない。
「那穂さん進学先とか決まってるんですか」
「まだ。検討中かな」
那穂も美術関係に就職したいという漠然としたものはあるけれどそれだけでは全く具体性がない。美術関係と言っても広いし漠然とした希望の中で進路を決めるのは難しい。
「後ろから集めてー」
美術関係の大学は美大や芸大だけではなく一般大学の芸術学部もある。進路によって学部も学科もかわる。専門学校も入れればまさに多種多様だ。
「ねえ、琴果先輩は大学決めた?」
放課後の部活の時間。色を塗りながら隣の琴果に話しかけた。琴果は同じ美術部の2年生で、去年までは那穂と同じクラスだったから未だに仲がいい。
「まだかな。国公立の農学部ってくらいなら決めてるけど」
「農学って多いもんね。悩むよね」
那穂も農学という分野について詳しくは知らないが、琴果が楽しそうに話す様子を見て、決して農業だけの分野でないことだけはよくわかっている。
「でもやっぱり県内がいいかな。近いし。那穂ちゃんは?」
「那穂は…」
ずっと美術関係の仕事がしたい。美術に関わっていたい。そういってきたけれど具体的にどんな仕事あるのかはわからない。このまま美術を夢見てゴールにたどり着けないよりは潔く諦めて確実な道をいったほうがいいのではないかと思うときもある。
「まだちゃんと決めてない。でも那穂行きたいとこがあるの」
「大学?」
「うん。美大に行きたいんだ。美大って就職先ないっていうし、別に将来何かしたいことがあるわけじゃないんだけど…でも美術が好きだから。絵が描きたい」
「美大かあ…」
美大に行ったからといってアーティストになったり美術関係の職につく人は少ないと言われている。美大からの就職先で1番多いのは中学校、高校の美術教師だが那穂にその気はない。美術は趣味の範囲にとどめておいて一般大学に行ったほうがいいのではと思うけれど大好きな美術をやめたくはない。好きだという気持ちは尊重したい。
「美大って確かにちょっと就職厳しいって聞くよね」
「お兄ちゃんは英語系の大学行ったらっていってるしその方がいいのかな」
「でも那穂ちゃん英語もできるそれもいいかも」
「まあ将来安泰だよね」
英語も美術も好きなだけでは就職に結びつかない。でも那穂はどちらも好きだから諦めたくはない。好きなことだけしていても仕事にはつけないということなのかもしれない。
「難しいね。琴果ちゃん」
「だね」
那穂の水彩画は画用紙の上で赤と黄緑が混ざり合って濁ってしまった。帰り道も伊織と進路について語らった。
「やっぱ高校ってもう進学のための予備校みたいだよね。大学みんな詳しいし」
「斎藤先輩にも色々教えてもらいました。大学入試って複雑ですね」
「単願とか併願とか面倒だよね。伊織はどこって書いたの?進路希望調査」
「一応教育系って書きました。進学先の欄は空欄ですけど」
「でも教育系いくなら大学だし特進じゃないと厳しくない?文系だよね」
那穂も大まかな進路はとりあえず芸術系と記入したが進学先は空欄にしている。
「英語関係の仕事ならわかりますけど那穂さんがやりたい美術関係の仕事って何ですか」
「わかんないけど、好きなことで仕事したいじゃん。モチベーション上がるし」
「でも英語関係の仕事の方がたくさんあるしその方が探しやすいですよね」
「そうかもしれないけど…」
「美大にいってもその先でやりたいことがないなら4年間もったいなくないですか」
「それでも那穂は美大に行きたいの!」
那穂は感情的になって叫んだ。伊織も少し冷静になった。
「すいません、ちょっと喋りすぎました」
「いや…ごめん」
那穂だって卒業後の進路がないことくらい分かっている。将来のことを考えると美大に行くのは無駄とも言える。けれど美術は学生時代しか打ち込めないし専門的に美術を勉強したいという気持ちはずっと前から那穂の中にあった。就職のためとか将来のためとかではなく純粋に大好きな美術を学びたい。そんな簡単な気持ちしか那穂にはなかった。
「那穂子どもみたいだね。学生の間は好きなことやって過ごしたいんだよ。だから絵を描いて評価されるところがいいの」
「見つかるといいですね。大学」
「うん。頑張る」
英語が話せて絵も描けてもそれだけでは仕事には結びつかない。コミュニケーション能力や文章力、指導力などと合わせて初めて職にできる。プラスαになる何かが必要なのだ。伊織は那穂の英語力を授業の時に何度も見てきた。辞書を引くより正確で速いので伊織はいつも那穂に英単語の意味を聞いている。きっと英語圏のどこにいっても大体話は通じるのだろう。だとすれば海外でも仕事ができる。アーティストにとって世界進出できるのは大きいし、その時那穂の語学力は少なからず役に立つ。片方だけを選ぶ必要はないのかもしれない。
翌日から出席番号順で個人面談が行われた。
「佐倉の進路は…芸術系か。具体的には?」
「まだちょっと…学生の間は絵を描きたいかなって」
「卒業後は全然関係ない仕事についても?」
「まあ最悪それも仕方ないと思ってます」
大学を卒業した後のことは考えていないけれど出来るだけ永く教育機関の中で絵を学びたい。そんな思いで第一志望に四年制の美術大学を上げた。
「でも美大って言っても幅広いぞ。デザイン系とか芸術系とか工芸とか」
「できれば芸術系に。絵画の方で」
「英語は考えてないのか?成績はずば抜けていいけど」
それも考えなかったわけではないけれど正直言って英語よりも美術が好きだ。けれど卒業後のことを考えるとやはり英語のほうが就職先が幅広い。応用も利く。通訳にでもなればリアルタイムで英語を訳せれば各国を回ることもできる。那穂なら勉強すれば無理なことではない。でもそんな人生を那穂は望んでいなかった。確かに色々な国は回れるかもしれないけれど、いざ家族に何かあったときに地球の裏側にいて仕事で帰れないでは困る。
「就職は安定した場所で就職したいです。異動がない仕事とか」
「どちらにせよ要相談だな。美術進学するなら田辺先生ともよく話し合って来年のクラス決めていこう」
「来年のクラス?」
「今はまだ1年生だからいいけど、四大に進学するなら4組にいたほうがいいし美大に進学するなら3組じゃないと美術が選択できないから」
4組は特進クラス。3年生から美術の授業はない。3組は美術の授業はあるけれど、目指すのは基本的に私立の大学だ。上のクラスには入るべきだけれど1番上はだめ。なにやら面倒なことに巻き込まれた気分になった。とりあえず志望校も含め、田辺先生に相談するのがいいかもしれない。美術系の進学先ならあの先生が強いだろう。
「え、美大?」
「そう。田辺先生と話し合えって」
「そっか。近いうちに2年の希望者集めて話す予定だったけどお前まだ1年だもんな」
田辺先生は準備室の奥の椅子に座り、面談のように那穂を正面の椅子に座らせた。
「お前はなんで美大に行きたいんだ?」
「絵が描きたいから。学生の間は大学で美術を学びたい」
「そのあとのことは考えてないのか」
「それなんだけど、美大行った人って大体どうするの?美術関係の仕事はしたいけど具体的に何があるのかわかんないよ」
1番多いのは教職だ。高校ないし中学の美術教師。その他にはデザイナー、フリーのアーティスト、美術館の学芸員、研究者、教授や学部助手などなど。一般企業に就職する学生もいる。さらに高度な技術を求めて大学院に進学する場合もある。
「そっか。やっぱり絵に関われるのが理想かな。できるだけ長く絵は描いてたいと思う」
絵を描いていたい。その思いだけが那穂を大学に行かせようとしている。那穂の進路への気力。
「お前がどうするかはお前が決めればいいし大学に行ったあとのことも俺は口出しできない。でも美大が就職悪いってのも事実だし、実際将来やりたいことがない奴ほど卒業後は関係ない職についてる。推薦受けることも考えるとやりたいことはできるだけ明確に考えとくのが妥当だな」
那穂がやりたいこと。絵を描く他に、将来的にやりたいこと。絵を描くだけで生計を立てるのは多分無理だ。自分は天才ではない。何か、美術に関する仕事といえば…
「那穂は美術館好きだよな」
「え?うん、好き」
「じゃあ学芸員とか。好きなことは覚えるだろ。那穂の絵ならストーリーさえあれば絵本作家も向いてる。子ども好きだしな」
「学芸員って、博物館とかにいる人?」
「ああ。就職は難しいけど、移動もほぼないし安定てるな」
好きなこと。それは自分がするべきことではない。難しく考えなくてもやっていて楽しいと思えることを考えればいい。
「いいね。学芸員か」
絵を見ること、特に西洋絵画は好きだ。自分が好きな夢を見つけられたかもしれない。
16 また来年も
「那穂ー!」
「あ、いたいた」
1月1日。8時を少し回った頃。那穂は美波と萌香と3人で地元の神社を訪れていた。0時に来れば人も多くて混み合うし、暗くて危ないので、日が高くなってからと約束していた。
「美波家遠いのによくこっちまで来たね。もしかして泊まり?」
「うん!昨日から萌ちゃんの家にお泊まりー♪」
「いいなあ。那穂も呼んでくれたらよかったのに」
「那穂は高遠くんと行くのかなって思ってたから誘わなかったの」
「誘ったんだけどね、那穂も」
那穂は伊織に声をかけたが、毎年父が正月の時期も仕事で忙しいためそれらしいことはしないらしい。お雑煮を作ったりくらいはするけれど、初詣や書き初めなどは長いこと縁がないと言っていた。
「それこそ那穂がもっと押したほうがいいんじゃない?滅多に行かないんだし行きたかったと思うな」
「きっと那穂りんにも会いたかったと思うよ!」
「別に連絡も取ってるし、会ってないわけじゃないから。寒いのにわざわざ呼び出さなくてもいいでしょ」
冬休みに入ってからは業務連絡(宿題の話など)を含め連絡は取っている。冬休みは短いし、またすぐに学校で会えるようになる。普段から伊織は会おうと思えば会ってくれるし長期休暇だからといって那穂は特に壁を感じることはなかった。
「ちなみに2人でクリスマスはお祝いしたのかな?」
「やだやだ。全部知ってるくせに」
今年のクリスマスイブ。3人で萌香の家に集まってカップケーキとクッキーを作った。ただのクリスマス会ではなく、那穂から伊織へのクリスマスプレゼントの練習だった。クリスマス当日は那穂1人でカップケーキを焼いて伊織の家へ持って行った。後日、伊織はお返しのプレゼントを持って那穂の家に来てくれた。
「それで、お返し何もらったの?」
「これだよ」
那穂は自分の横髪を止めている新しいヘアピンを指差した。今まではチェーンにピンクとパールのビーズを繋げたデザインだったが、今度は白い桜とピンク色の雫がぶら下がっているデザイン。つけるとかんざしのようにゆらゆら揺れてかわいらしい。3つセットになっていて、後の2つはピンクの桜の花びらがついたものと透明のストーンがついたもの。1つずつ付けても重ねてつけてもいい。色合いも雰囲気も那穂に似合っていた。
「那穂に桜とは高遠くんも安直だね」
「いいの。那穂桜好きだし」
「でも白とピンクと桜って那穂りんって感じするよね」
「確かに。普段の格好とかもそうだもんね」
制服姿だけでなく、私服も白やピンクがどこかに入っていることが多い。さらにカバンにつけたアクセサリー、ケータイのカバー、ネックレスやイヤリングなど、どこかを探せば桜がある。白、ピンク、そして桜は那穂を表すトレードマークのようなものだ。
「そろそろ帰ろうか。那穂もうち来る?」
「いいや。お母さん待ってるし今日は帰る」
那穂が友達と初詣に行くと言ったらお節を準備して待っていると送り出してくれた。これから母と帰省している兄と3人でお節を食べるのだ。
「春休みにはみんなでお泊り会しようね~」
「するする。じゃあまたね」
「ばいばい」
2人が一緒にいるのに那穂だけ反対の方向へと帰っていくのは少し寂しいものもあったが那穂にとっては家族といる時間は2人といる時間と同じくらいかけがえのないもの。大切にしたかった。そしてもう1つ。
「もしもし?起きてた?」
「起きてました。明けましておめでとうございます」
「あけおめ。今年もよろしくね」
電話の相手は伊織。初詣には来られなくとも、家でそれなりにゆっくりと過ごしているのだろう。
「江藤さんたちと初詣行ったんですよね」
「うん。提灯とかいっぱい飾ってたよ」
夜であれば境内を囲うように提灯を吊るし、足元を照らす提灯と燃え盛る炎の灯りだけの幻想的な空間だったはずだが、朝になった境内は雪が積もっているくらいで、いつもと大して変わらない景色だった。
「もう帰ったんですか?」
「今から帰るとこ。まだ神社の近くにいるんだけどね」
「ちょっと会いませんか。今からでます」
「え、家はいいの?」
「はい。少しなら」
「じゃあ神社の下で待ってるね」
鳥居の下。階段に腰を下ろした。今年の年明けも雪が積もっている。足元に積もった雪を集めて雪だるまを作った。両手に乗るくらいの大きさの雪だるまをいくつも作って並べた。
『なんだそれ?進級の験担ぎか?』
笑いながら一緒に雪だるまを見た日を思い出す。今からちょうど1年前になる。1年の冬休み、課外を終えて校舎の外で雪だるまを作っていた時に田辺先生に言われた言葉だった。
「また田辺先生だ…」
忘れようとしても思い出す。もう癖になっているらしい。伊織と付き合い始めてから2ヶ月弱が経つが那穂は変わらない。相変わらず田辺先生が頭の片隅にいる。けれど伊織と田辺先生。秤にかけると以前よりはずっと伊織のことを考えるようになってきたと思う。やはり1度惹かれた相手。自然と先生のことを考えてしまうのはもうやめられないのかもしれない。
「那穂さん、お待たせしました」
「あけおめ」
家から出てきてくれた伊織は雪が降っているというのに息を切らして頬はほんのり赤かった。
「毎年お正月って降るよね」
那穂がさっきの雪だるまを撫でながら呟いた。雪は毎年降るけれどこんなに一面真っ白になったのは久しぶりだ。去年作った雪だるまも降った雪をかき集めてやっと作ったものだった。
「今年は結構積もりましたね」
「本当にね。でも日が差してきたしそろそろ溶けるかもね」
たった数時間で溶けてしまうとても儚いもの。それは自分たちも同じことかもしれない。3学期を目前にするとどうしても来年のことを考えてしまう。長い人生の中でたった1年間しか時を共にできないクラス、それ以上は誰も保証できない。
「伊織はどうした、来年の」
「一応特進には入ろうと思ってます」
「そっか。那穂もそんな感じ」
「やっぱり美大とか行くんですか」
「うん、絵の勉強ができる学校に行こうかと思って」
自分を死の淵から救ってくれた恩師に与えられたもの。それはこれからの那穂の人生にとっても大きなものとなるはず。だから、それを磨きたい。先生と同じ美術を生かす道につけたら1番いいと思う。
「きっと見つかるよね。美大でやりたいこと。あと2年全力で探すんだ」
雪を降らせる雲がだんだんとはけて、光が多く差し込んできた。その暖かさが年が明け、新しい日々が始まることを強く知らせている。
「年明けちゃったね。もうすぐ1年生も終わりなんだ」
あと3ヶ月。それで泣いても笑っても今度こそ2年生になる。出席日数は足りている。成績も申し分ない。進級は安泰だ。だがその時伊織の隣に入られるかどうかはまだわからない。席が離れるかもしれない。クラスが離れるかもしれない。どうなるかはまだわからない。
「4月なんて来なければいいのに。2年生にはなりたくないなあ…」
「また留年したら今度は退学になりますよ」
それもいやだ、と那穂は笑う。後はない。今はおとなしく進級するしかない。
「那穂ね、2年生になるのが怖いんだ。前に1回できなかったことがこんな簡単にできていいのかなって。那穂は進級できるほど変われなのかな」
「変われてますよ。きっと」
伊織が那穂に少し近づいて、お互いの肩が触れ合った。近くにいる。それが感じられるだけでも那穂は大きな安心感を受け取ることができた。
「クラスが変わらなければいいのに。このまま伊織も美波も萌香も一緒でさ」
「そうですね」
雪だるまの頭がずるりと体から落ちた。日が長くなってきて、周りの雪徐々に溶け始めたようだ。
「そろそろ帰ろうか。お母さんたち待ってるし」
「はい。また学校で」
2人は手を振って別れた。来年もまた同じクラスになれますように。
17 たちが悪い過去
ついに3学期に突入。雪が降る日もあり、寒さの厳しい新学期。2年生に向けて総まとめの時期に入った。
「そういえば、美大卒業した後ってどんな仕事があるんですか」
配られた進路資料を眺めながら伊織が那穂に問いかけた。
「うーん、教職の課程とかもあるとこが多いし、学校の先生かな。みんながみんなアーティストになるわけじゃないし。あとはデザイン会社とか映像系の会社とか。一般企業に就職する人もいるみたい」
教職の道を進むとなると、先生も言っていたように教員になるまでよりなってからの方が苦労するだろう。どの学科を出ても油彩画、水彩画、彫刻、塑像、デザイン、すべてを教えなければならない。授業でやることも自分で考えたりと苦労することは多い。不器用な那穂はそんなに器用にいろいろ身につけられない。だから教鞭は取る気はない。自分の話を終えたところで伊織はどうするの?と話を振り返した。
「やっぱり教育学部に行こうと思います。先生になろうかなって」
「そっか。中学?」
「まだ迷ってます。高校か中学か」
「高校か中学なら文学部とかも視野に入れたほうがいいかもね。教育学部でも高校の免許取れないとこもあるし」
一概に教育学部と言っても幼児教育から高等教育まで様々。すべてを教えている学校ばかりではない。幼児教育から初等教育の免許が取得できるところもあれば、中等教育と高等教育というところもある。中等教育の国語の免許は取れるが、高校は書道の免許しか取れないという学校もある。本当に大学によって様々なのだ。中等教育と高等教育の国語の免許ならば教育学部以外にも文学部や人文学部など取れるところはいろいろとある。他の学部よりも多くの下調べが必要となる。
「伊織は子ども受け良さそうだから小学校もいけるかもよ」
「童顔って言いたいんですか」
「人が折角褒めてるのに!」
美術にせよ教育にせよ2年後のこの時期は受験に追い込まれて慌てている頃。高校生活の2年なんてあっという間。みんなといろいろなことをしたい。卒業、進学した後で後悔しないように。
「次移動だよね。行こうか」
社会情報の授業は数少ない移動教室。しかも教室横の階段を降りて渡り廊下を通って向かいの教棟の階段をまた上がるという遠距離移動。この季節には厳しい距離だ。
「あっ」
教室のドアを開けたところで急に那穂が足を止め、伊織はそのまま那穂にぶつかった。
「どうしたんですか、急に止まって…」
「聞こえる?」
那穂が隣の教室を指差した。誰かの声がする…それも話しているような声ではなく悲鳴のような激しい声。何かにぶつかるようなこともしている。誰もいないはずの物理教室からだ。
「もしかして…」
「暴力?やだ。早く行こう」
「はい」
1度歩みを止めたくらいだから止めようと中に乗り込むのだろうかと思ったがそうではないらしい。すぐに踵を返すと移動先の教室に急いだ。
「誰かわかったんですが、さっきの」
「多分だけど、神楽ちゃんかな。最近女バレの子になんかされてたみたい」
八瀬神楽。あまり関わったことはないけれど、華道部に所属する大人しい子だ。女バレの子たちとは中学から一緒だというから昔から何かあるのかもしれない。人のいないところで暴力とはかなり陰湿だ。よく見ると足にはあざの跡がある。きっと長袖の下には他にも外傷が残っているのだろう。
「暴力だろうと何だろうといじめはたち悪いよね」
フェノールフタレイン溶液の塩酸が入ったコニカルビーカーに水酸化ナトリウム水溶液を加えながら那穂は萌香に話した。化学は出席番号順なので大原、木下、佐倉、笹井と50音で早い名前が並ぶ。
「止めるの?」
「まさか。何もしないよ」
「しないんだ。たち悪いのに」
一向に色が変わらないコニカルビーカーを眺めながら笹井怜央も口を挟んだ。
「何もしないほうがいい時もあるよ」
「まるで見てきたような言い方」
大原六翔が冗談めいて笑った瞬間、コックを止めていた那穂の手が止まり、水酸化ナトリウムが次々と塩酸に注がれた。
「あ、赤くなっちゃった」
「ごめん…失敗だね」
「入れすぎたか。やり直しだ」
「難しいな、中和滴定」
六翔は赤く染まった溶液を捨て、塩酸で洗い直した。那穂も冷静に戻り、フェノールフタレイン溶液を準備した。
『もういいです。何もしないでください』
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。思い出したくない記憶。でも那穂は一生この記憶から逃れることができない。
「那穂さん、片付け終わりましたか」
「ああ、もうちょっと。ごめんね」
授業が終わりコニカルビーカーを戻そうと振り返った瞬間、ピュレットを持った怜央とぶつかってしまった。
パリーン!
怜央のほうのピュレットは問題なかったが那穂は手を滑らせてコニカルビーカーを落として割ってしまった。
「ごめん、怪我してない?」
「那穂は平気。そっちは?」
「大丈夫」
萌香がすぐに放棄とちりとりを持ってきて片付けてくれた。
「大丈夫ですか」
「うん。萌香が片付けてくれたし。那穂は全然」
「気になりますか。いじめのこと」
那穂は答えられなかった。気にならないと言えば嘘になる。ここで無視してしまうのも正直なところ良心が痛む。けれどこれは那穂には解決できる問題ではない。那穂が身勝手に手を出してかき乱してはいけないのだ。
「中1のときさ、黒木彩音っていたの覚えてる?」
「彩音ちゃんですか?覚えてます。同じクラスだったので」
中学1年時、伊織と同級生だった黒木彩音。彼女は1年の終わりに転校してしまった。以前は吹奏楽部のサックスパートに所属していた。つまり、那穂の直属の後輩だ。
「彩音が転校したのね、那穂のせいなんだ。助けてあげられなかったから。全部那穂が悪いの」
3年前。那穂が中学2年生の夏。ちょうど地方大会が終わり3年生が引退した頃。上級生がいなくなった2年生の羽目が外れる時期。城浦中学校の吹奏楽部にはいじめがあった。彩音を2年生の一部がシカトしていた。那穂と彩音は部活、プライベート共に仲が良く、同級生のようなフランクな付き合いをしていた。けれど、彩音の仮にも先輩である那穂への態度をよく思わなかった2年生が行動に出たのだ。那穂もすぐにそれに気づいた。初めは無視や陰口くらいのものだったのだがそれも次第にエスカレートした。サックスパートのメンバーはいじめには加担していなかったし、早いうちに手を打てばすぐに消えてしまうと思って、那穂は実行犯の2年生と話した。しかし、いじめはおさまらなかった。そのことが先生にも実態が知れてしまったことで反感を買われてしまっていじめはさらにエスカレート。もう手に負えなかった。
「那穂が言わなかったら先生の耳にも入らなかったし、あそこまでひどくならなかったはずなの」
「仕方ないですよ。彩音ちゃんは那穂さんにかばってもらえて嬉しかったと思いますよ」
「だめだよ。那穂がやめてれば彩音も吹部続けてたかもしれないのに」
「そんなことないと、」
「あるよ」
現実を突きつけられたのはある日の帰り道。いつものように彩音と2人で歩いていたときのこと。
「ごめんね、なんか前よりエスカレートしてきちゃって。でも頑張ろ。彩音いじめるなんて、那穂が絶対許さないから」
那穂は前向きだった。彩音にまた前みたいに笑ってほしい。その一心でいじめと戦っていた。けれど彩音はそうではなかったらしい。
「もういいです。何もしないでください」
「えっ…」
「前のままでよかったんです。今みたいにひどくなくて、実害もほとんどなくて」
「それは…那穂は何もしないほうがよかった?」
彩音は黙って頷いた。良かれと思って、彩音のためにやっていたことが逆に彼女の首をしめていたことにやっと気づいた。望んでもいないことをして、彩音を苦しめてしまったのだ。
「吹部はやめます。もう私と関わらないほうがいいですよ。那穂さんまで巻き込まれたら大変だから」
そういって彩音は走って行ってしまった。自分はただ彩音を助けたかっただけなのに中途半端に手を出した偽善者となってしまったのだ。
「ごめん…ごめんね、彩音」
あれから彩音の笑顔を見ることはなかった。年度の終わりに誰にも告げることなく転校していった。
「だから余計なことはしないって決めたの。那穂が吹部やめたのもね、それど関係あるんだ」
「嫌になっちゃったとか?」
「やっぱいじめてた側にとっては那穂は彩音の味方だから気に入らないわけじゃん?口に出さなくてもわかるんだ。那穂嫌われてるって。だからあの人たちとは一緒にいたくないの」
また新たに浮かび上がってきた那穂の過去。好きだった音楽を止めたことにも重い過去が関わっていたのだ。中学から高校と短い時間でいくつもの重い過去を背負わされた那穂に伊織は同情せざるをえなかった。
「じゃあいじめの件は黙秘するんですか?」
「それがいいのかも。本人は今のままが楽かもしれないし実際助けるって言っても何していいかわかんないよ」
口出しはしなかった。伊織だってどうすれば望む通りの結果になるのかわからない。そっとしておくのが賢明かもしれない。けれど那穂らしくないなとは思った。いつものテンションで神楽に話しかけて仲良くなれば心の拠り所くらいにはなるかもしれない。けれどそれではいけないと知っているから動けないのだ。神楽がそれを望んでいない場合だってある。
「本人がどうにかしたいって思ってるなら何かするはずだよ。サインがあるまで待ったほうがいい。今何かしても神楽ちゃんを苦しめるだけだと思うから」
経験がある分那穂の言葉は重みがあった。きっともう彩音のように人が笑わなくなっていく姿を見たくないから慎重になっているのだろう。中途半端に手出しして失敗すればそれはただの偽善者だ。それなら何もしないほうが誰もこれ以上傷つかない。これは逃げではない。那穂なりの解決策。果たしてそれが吉と出るか凶と出るか。
18 気持ちのけじめ
1月から2月にかけてはイベント続き。新学期が始まるとすぐにセンター試験。3年生を刺激しないように学校全体が神妙な空気に包まれていた。それから間もなく1,2年生も模試が行われる。那穂や伊織が受けるのは1つしかなかったが、中には2週、3週と連続で模試を受けるクラスもある。2月に入るとマラソン大会、推薦入試、学年末考査など。気が休まる間もなく数々の行事を乗り越え、2月も半ばに突入。那穂がいつものように部活に出ると、同じ1年生の雛子の描いている絵が目にとまった。チョコレートを題材にした女の子。甘くて可愛らしいイラストだ。
「かわいいね、雛子の絵。チョコレートだ」
「そう?ありがと」
「そっかあ。もうそんな時期だね」
気づけば季節はバレンタイン。仮にも彼氏持ちの女子としては一大イベント。だが、伊織にはバレンタインに関して切っても切れない問題があった。
「那穂りんは高遠くんにチョコあげる?」
「あげるよねー。カレカノだもんね」
「うーん、伊織チョコはNGだからなあ」
伊織はチョコレートが苦手だった。ホワイトチョコが苦手や、ビターチョコなら平気という人もいるけれど、伊織はチョコレート全般が食べられなかった。ミルクもビターもホワイトも抹茶も関係ないのだ。
「クリスマスにカップケーキあげたよね。あれは平気だったの?」
「うん。プレーンなら平気みたい」
「要するにチョコじゃなければ大丈夫なんでしょ。またみんなで作ろうよ」
「楽しそう!やろうやろう」
「2人とも完全に楽しんでるよね。那穂最近弄ばれてばっかり」
バレンタインと代名詞と言えるチョコレートは作れないけれど、それ以外なら大丈夫。簡単でシンプルなお菓子なら平気なのだ。
「でも那穂もお菓子作りとかあんまり得意じゃないからな」
「平気平気。カップケーキも喜んでくれたんでしょ?」
「それはまあ」
「なら大丈夫!」
とりあえず後日、日曜日に萌香の家お菓子作りをすることになった。
「イギリスではバレンタインどんなことするの?」
薄力粉をふるいにかけながら萌香が那穂に尋ねた。
「うーん、那穂もバレンタインのシーズンにいたわけじゃないからわかんないけど、カップルのための日って感じらしいよ。おしゃれなレストランでデートしたり」
「お金かかるだろうね。外国の人は金銭感覚おかしいのかな」
美波は持参したお菓子をつまみながらケータイの画面でレシピを見ている。
「次なんて?」
「別のボールでバターと砂糖混ぜて」
3人が作っているのはバタークッキー。器用な萌香ならレシピを見れば大体のものはできるが、クッキーなら好みも割れにくいだろうし、量産できるから他のみんなにもプレゼントできる。
「那穂りんは高遠くんだけ?」
「そうかな。クラスは仲良いの伊織と美波と萌香くらいだし」
「アメリカでは男の人が花渡すらしいね!」
「それこないだ先生が言ってたやつ」
英語の授業で先生から聞いた話。日本では女性からチョコレートを渡すのが一般的だが、アメリカでは男性から女性に花とメッセージカードが贈られる。花の本数や種類によって意味が異なるらしい。
「でも今時花ってちょっと重くない?お国柄ってやつかな」
「那穂は嫌いじゃないよ。お花好きだし。一輪とかならそんなに重くないよね」
「あ、じゃあこんなのどう?花型クッキー!」
美波が見せたケータイの画面にはカラフルな花をかたどったクッキーがならんでいた。花の形をしているものや、アイシングで花束の絵を描かれているものなど種類は様々だ。
「グローバルな那穂りんから外国風にお花をプレゼントって感じ?」
「…じゃあそれにする」
美波に顔を覗き込まれて恥ずかしくなった那穂は視線を逸らした。そうこうしている間に萌香が出来上がったクッキー生地をまな板の上に広げた。
「型抜きしよう」
3人でまな板の前に集まり、肩を寄せ合いながら型を抜いた。ハート、花、テディベアなど可愛らしい形をしたクッキーがクッキングシートいっぱいに並んだ。
「第1弾焼きまーす」
電子レンジで加熱している間に第2弾の準備。いろいろな話をしながら次々と型を抜いて、クッキーはあっという間に焼きあがった。
「おおー!」
「いっぱい焼けたね!」
「かわいいー!」
広いお皿にはたくさんのクッキー。アイシングや食紅を使って色とりどりに仕上がった。出来上がったクッキーを綺麗にラッピングした。
「那穂は高遠くん以外はあげないの?」
「美術部には配ろうかなって。萌香は部活で交換したりしない?」
「するよ。みんな女子力高いから」
「さすが吹部だね」
ラッピングまで終わると各々分け合って持ち帰った。焼き菓子とはいえ手作りなので渡すのは早い方がいいだろう。バレンタインには少し早いけれど明日学校で配ろうと紙袋に入れてリュックの隣に置いた。
「ハッピーバレンタイン」
翌日。学校に到着したばかりの伊織に花型のクッキーを差し出すと一瞬戸惑ってフリーズしたがすぐに状況を察して受け取ってくれた。
「早いんですね」
「手作りだからね。時間開けない方がいいかと思って。萌香と美波と作ったの」
伊織は女の子らしいクッキーをしばらく眺めてからカバンの中しまった。
「そんなに甘くないから大丈夫だと思うけど、食べれなかったら無理しないでね」
「大丈夫です。ありがとうございます」
嬉しそうに笑った伊織だが、机の横に下げている紙袋が目に入った。
「他にもあげるひとがいるんですか?」
「え?ああ、これ。美術部に」
「先生にもあげるんですか」
美術部ということは顧問の田辺先生も含まれているのだろうか。他の美術部員ならまだいいけれど、田辺先生にあげるのはなんとなくいい気がしない。
「伊織が嫌だったらあげない、かな」
その言葉に伊織は少し安心したが、同時に戸惑って無理に笑った那穂の顔を見た。伊織が嫌がるならば避けようと思う気持ちに偽りはない。けれど先生にもあげたいという気持ちも少なからずそこに存在するのだ。
「あげてください。先生にも。美術部の一員ですしね」
那穂が気を使ってくれるのは嬉しいけれど、ここでそれに甘えれば那穂を信用していないことになる気がした。いつまでも先生に妬いてないで自分に自信が持てるようになりたいと思った。
放課後、美術室でみんなにクッキーを配布した。やはりバレンタインには少し早いこともあって那穂が1番乗りだった。
「彼氏さんにもあげたの?」
雛子が楽しそうに聞いてきた。美術部内の人は大概知っているけれど、こんなに楽しそうに聞いてくるのは雛子くらいだ。
「朝あげたよ。雛子にはついで」
「えー、もう那穂ちゃんにはあげないからね」
大げさに頬を膨らませた雛子。紙袋の中にはまだ1つクッキーが残っている。先生の分だ。職員会議で来ていなかったのでまだ渡していない。さすがにみんながいる前で渡したら怪しまれるかな。でも部員にもあるから顧問にもって感じなら平気かな。いろいろ考えたけれどやはり誰にも見られないところで渡したい。ちょうどコンクールの締め切りが終わったところでみんな定時が過ぎたら帰るだろう。そのあとで渡せばいい。
「なににやにやしてんの?」
雛子が頬を指でつかんでぐいっと引っ張った。そういう雛子の顔も負けず劣らずにやにやしていて可笑しかった。
「別に。雛子のお返し楽しみだなあって」
「えー、那穂ちゃん性格悪い」
「もう、先生来たらどうするの」
先生がいないのをいいことにみんな今日は自由度が高い。いつも静かに絵を描いている雛子も今日は喋ってばかりだ。職員会議も毎回1時間が目安ではあるが実際のところいつ終わるかは時によってまちまちだ。もう放課から40分以上たっているし今すぐに扉が開いて先生が入ってきてもおかしくはない。
「お、雛子、那穂、楽しそうだな。もう絵は出来たのか?」
噂をすれば。雛子は駆け足で自分の絵の元へ戻った。那穂も静かに絵の前に腰掛け続きを始めた。少しずつ仕上がる絵。過ぎる時間。近く部活の終わり。余ったクッキー。全てが那穂の鼓動を速めた。
「那穂?顔赤い?」
不意に掛けられた言葉に顔を上げる。すると先生の手が那穂の頬に当てられた。
「あったかい…」
思わず発した言葉に周りが振り向く。慌てて弁解しようと那穂は言葉を探した。
「先生手あったかいね。寒いのに」
「さっきまで職員室いたからな。ストーブついてるし。熱はないみたいだな」
それだけ言うと先生はすぐに自分の机に戻っていった。一体何だったんだろう。那穂をドキドキさせるためにこんなことしてるのか、と責めたくもなった。
「そろそろ締めるぞ」
定時を過ぎると人はほとんどいなくなる。クッキーのために最後まで残っていた那穂も片付けを始めた。他に残っているのは美術系の大学に進学する3年生ばかり。その人たちも帰り支度をして早々と美術室を後にした。
「那穂、帰らないのか。鍵締めるぞ」
今しかない。那穂はみんなと同じ可愛くラッピングされたクッキーを差し出した。
「バレンタイン」
「バレンタイン?」
「みんなにあげたの。先生だけないのはかわいそうだから」
そういって皮肉っぽく笑った。
「まさかそのために残ってたのか?」
「当たり前でしょ。じゃなきゃもう帰ってるよ」
「バカだなあ。外もう寒いのに」
何時になろうとよかった。いつ帰っても寒いものは寒い。だから先生と2人きりになるまで待ちたかった。誰かがいるときっと素直な言葉は出てこないから。
「今ね、伊織と付き合ってるんだ。伊織の彼女。だからこれは部活のみんなに。田辺先生だからじゃないからね」
「わかってるよ。遅くなるからもう帰れ」
「うん。さよなら」
そういって美術室を出た。部活全体へのものであれ、田辺先生にバレンタインにクッキーを渡せたことは嬉しかった。そろそろけじめをつけなければならない。これでもう全部終わりにする。先生への想いを全て断ち切る覚悟でいた。これが最後の那穂からの気持ち。
「さよなら、先生…」
19 桜の咲く季節
3月。卒業式を終えて、学校中が春の陽気に包まれ始めた。寒さも少しは和らぎ桜の蕾も色づいている。
「楽しみだなあ、春休み」
「何かあるんですか」
「何もないけど、長期休暇ってわくわくするでしょ?春休みは宿題も少ないし、あったかくて過ごしやすいし」
春休みは教科担当が変わったり、異動になる先生がいるため基本的に宿題は少ない。またクラスによっては長期休暇中の課外がないのも魅力だ。夏や冬と違って暑過ぎたり寒過ぎたりすることもなく、学生にとっては嬉しい休暇だ。
「この時期になると早く帰れる日も多いし。もう半分くらい春休み気分」
「そうですね」
学期末の2週間程度は職員会議、成績会議に加えて来年のクラスを決める会議、進級会議などとにかく会議が多い。午前中授業で午後からは会議のため放課、部活もなしという日が週2日はある。
「クラスもう決まってるのかな」
「来週の月曜日、決定らしいですよ」
「那穂何組になるのかな」
「何組で希望出したんですか」
「4組。美術は部活でやる方がいいから。大学によってはセンターもいるし。伊織は?」
「僕も4組です」
「よかった。来年も一緒だといいね」
「はい」
萌香は専門学校への進学で3組、美波は就職で2組を希望している。そのほかのみんなも基本的に2組か3組を希望している。2組から特進クラスである4組に上がる方がイレギュラーだ。4組は授業の進度も早く、1年生のうちに2年生の内容を進めたりもするため途中から入るのは難しいとされている。そのため希望者は少ないのだ。1年生で4組に入ったらよっぽどのことがない限り抜けることもないため、入れる可能性はあまり高くない。那穂のように成績にムラがあればなおさらだ。
「4組じゃなくてもいい。伊織と一緒がいいよ…」
「そうですね…」
もう離れてはいられない。2人で一緒にいたい。お互い持ちつ持たれつ、支え合いながら1年間やって来た。そしてこれからも、そんな日々が続いて行くことを望んでいる。
数日後、終業式。この日はいつもぎりぎりの那穂も早い時間から学校に来ていた。教室の外に来年のクラスが一覧で貼り出されるのだ。気になって寝てはいられない。いつもはゆっくり歩く通学路も今日は早く進んだ。教室の前につくと張り出された表をじっと見つめた。1年前、ここに自分の名前はなかった。1年教室の前に張り出されたのは来年の2年生のクラス。来年も1年生を続けることになった那穂の名前はなかったのだ。まるで合格発表を見ているかのような緊張感。自分は2年生になれるのか_
「…あった、那穂」
進級できている。表の中に名前を見つけた。まっすぐ表を上がってクラスを確認する。
「…3組」
やはり4組には入れなかった。教科によって学力にばらつきはあるし、安定していない。今いる人を外してまで入れるほどの学力ではなかったのだろう。佐倉那穂の上には木下萌香の名前もあった。江藤美波はない。隣の2組になったのだ。少し寂しいけれど、これも美波の選んだこと。教室も近いしいつでも会える。大事なのはもう1人だ。
「高遠…高遠…」
1つ1つ下に降りるが高遠の名は見つからない。那穂の名前から5人ほど降りたところ、高槻の名前の下に津島と並んでいた。つまり、同じクラスに高遠はいない。伊織と同じクラスではないということだ。那穂は急いで隣の表に目を通した。2年4組。特進クラスには普段あまり関わることのない、聞き覚えのない名前がずらりと並んでいる。上から順に見て行くと比較的早く見つかった。
「高遠…伊織」
伊織は4組。那穂は3組。1年4組から2人抜け、そこを埋めるように伊織ともう1人、他のクラスから入るらしい。
「やっぱり頭いいな…」
伊織が思うようになって喜びたい反面、自分はその隣にいられないという悔しさが胸を満たした。自分がこの1年もっと必死に勉強していれば、もっと前から勉強していれば、留年しないくらいしていれば…きっとこんな想いにはならなかったはず。
「留年なんかしなければ…」
伊織とのこの1年間がなければこんな思いはしなくて済んだ。そう思うと1年前の自分の行いが悔やまれる。今更こんなこと言ったってどうにもならないことはわかっているのに。
「那穂、おはよ」
「萌香…」
「クラスどうだった?」
萌香も表を眺めて那穂と同じクラスだとわかるとにっこりと笑った。
「また一緒だね。よかった」
「うん…よかった」
「高遠くんは?一緒だった?」
「伊織は…」
那穂は伊織の名前を指差した。萌香は現状を察すると優しく笑って那穂を抱きしめた。
「大丈夫だよ。わたしは一緒だからね。高遠くんだってクラス違うくらいで離れていったりしないよ」
「わかってる…わかってるけど」
萌香の温もりに涙が溢れる。この1年自分の隣にいてくれて、わがままを聞いてくれて、勉強を教えてくれて、自分を受け入れてくれた人がいなくなる。当たり前が当たり前でなくなる怖さを那穂は誰よりも知っていた。一生会えないわけではない。クラスが違えど同じ学校の同じ学年。恋人同士という間柄でもある。でも今まで隣で支えてくれた人が近くからいなくなることに変わりはない。
「いつまでも泣いてないの。夢のためでしょ。悔しかったら成績あげて来年は4組に入ってみなよ」
「萌香…」
「応援してるよ、那穂のことずっと」
「ありがと」
伊織も学校に来て現実を受け入れた。今日が最後。今日を最後にこのクラスはバラバラになる。といっても半分はまた同じクラスだが、半分が離れてしまうことも事実だった。
「萌香ちゃんも那穂りんも3組かあ。寂しいよ」
「教室隣だし、いつでも会いにおいで」
「そうそう。また遊ぼう」
なんだかんだで立ち直りが早い那穂。いつでも会える。呪文のように自分に言い聞かせた。
「那穂さん帰りますか?」
HRが終わって、伊織が那穂に声をかけた。部活はなく、これから何の予定もない。断る理由もなく那穂は素直に頷いた。
「4組いったら勉強大変だね。宿題もう出てるの?」
「はい。数学と英語がちょっと」
「わー、大変だね」
4組は学年の中でも特別扱い。同じ普通科でも他のクラスとはまるで違う扱いを受ける。それだけ期待されているのだ。
「寂しくなります。那穂さんがいないと」
「那穂も寂しいけど…でも平気、かな」
「そうなんですか?」
「前に伊織さ、いつまでも那穂に甘えてられないって言ったよね」
「言いましたね」
「那穂も伊織に甘えてばっかりじゃダメだから。遅かれ早かれこうなってたんだよ。大学まで一緒にはなれないし。急に遠くに離れるより、ゆっくりちょっとずつ離れるほうがいいよね」
「そうですね」
「今までみたいには一緒にいれないけど、一緒に帰ろうね」
「はい。那穂さんが終わるの待ってます」
「那穂も待ってる」
2人の頬を撫でる春風が桜の花びらを運んで来た。まさに花あらし。1年前入学式の日に咲き誇った桜が今年もまた咲いたのだ。
「また明日ね」
那穂がポツリと呟く。華やかに舞う花の中に立つ白いカーディガンの那穂の言葉は1年前に見たものと同じだ。クラスが違ったっていつでも会える。明日でも明後日でも会おうとすればクラスなんて関係ない。1年前はこの言葉がこんなに強い意味を持つなんて思わなかっただろう。
3月17日。2人の1年間に終止符がうたれた。そしてまた桜が散りはじめる頃、新しい学期が始まる。
2年後_
「よかったね。卒業までに進学先決まって」
「ほんと焦ったよ。ボーダーぎりぎりだったもん」
2月。それぞれ進学先の合格、就職先の内定をもらった那穂、萌香、美波は集まっていた。バレンタインに向けてお菓子作りをしているのだ。
「去年は誘ってくれなかったもんね!」
「仕方ないじゃん。美波就職模試あったんだから」
「そうそう。クラス違うと不便だもんね」
3人とも第一志望の企業、学校に決まって安心している。特に那穂は11月の推薦では不合格でセンター試験の後1月のAO入試を受け、つい先日合格をもらったばかり。これで受からなければ一般入試を受け、卒業式が終わっても受験が終わらないところだった。
「今年も高遠くんにあげるんだよね」
「当たり前じゃん。部活にも行くからいっぱい作ってね」
「まだ部活行くの?」
「美大ですから。受かっても卒業までは部活続けるよ」
美波は市内の企業、萌香と那穂はそれぞれ県外の専門学校、大学に行くためあと1ヶ月もすればバラバラになる。こうして遊んでいられるのもいつまでかわからない。
「高遠くんは近いんだよね、大学」
「まあね。広い街だけど市内だし」
「いつでも会えるじゃん。私たちがいなくても寂しくないね」
「そうだね」
そんなこといいながらも実際進学したら暇だからと月1で会いに来る未来も想像出来る。2人がそばにいなくなるのはもちろん寂しい。修学旅行も一緒に行って、文化祭も一緒に回って、何度も遊んでお泊まりもして、那穂の楽しい高校生活は2人がいてのものだった。伊織と2人だけではできなかったような経験もたくさんした。けれど付き合いは続くもの。きっと学校が違うくらいで途切れてしまうことはない。2年前、伊織とクラスが離れることが不安で仕方なかったが、実際に離れても毎日会って、連絡を取って特別寂しいと感じることはなかった。初めこそ心にぽっかりと穴が空いたような気持ちはあったがそれも次第に埋まって行った。きっと今度も大丈夫。お互いに好きという気持ちと会いにいける行動力さえあれば今と変わらない。いつでも会える。離れていても怖くなんかない。そばにいるのが当たり前じゃなくなるだけでいなくなってしまうわけではないのだから。
「ほら、クッキー焼けたよ」
「わあ、いい匂い!」
那穂の笑顔は消えない。いつでも会える仲間がいる限り、これまでもこれからも。
留年ガールの恋事情