大空へのウイルス
まったく、なんでこんなことになったんだろう。
炎天下の陸上競技場は、それはそれはたくさんの人間で埋まっていた。
そのスタンドの一角、最前列に、俺はしかめっ面で座っている。松葉杖に交差した両腕を乗せ、目下で競われている高飛びを、つまらなそうに半眼で見下ろしている。飛べるやつもいれば、そうでない残念なやつだっている。こういうのもドラマなんだろうね、選手にとっては。
右肩をぽんぽん叩かれて、そちらを見やる。マネージャーの有田が嬉しそうに下を指差して叫びだした。
「ほら、寺野くん! いよいよ彼の番よっ」
いったいなにが嬉しいのか、有田はきゃーきゃー声を上げては、しきりに人の肩を叩きやがる。痛えっての、まったく。てか、言われなくても見てるっての。
俺たちの眼下では、トラックに現れた後輩がストレッチを始めたところだった。
二週間前まで、俺は高飛びの選手だった。
それまで俺の他にろくな高飛び選手がいなかったこともあって、俺は大会では毎回、暫定レギュラーだった。実際、俺はそこそこの記録は持っていたし、それなりの自信と誇りもあった。
飛べないやつらは、こぞって俺のことを「羽が生えてるみたいだ」とか「本校のホープだ」とか囃し立てたり持ち上げたりした。悪い気はしなかった。いや、むしろ嬉しかったかな。言われ続けていると、なんだか自分でも本当にそんな気になってくるから不思議なもんだ。俺はちょっと調子に乗っていた。
だからだろうな。うん、きっとそうだ。
俺は自分の背中に翼があるような、そんな妄想を抱いちまったんだ。
ある日の放課後、校舎の階段を鼻歌まじりに下りていると、途中で後輩の清水と会った。
こいつは特に、バカみたいに俺を尊敬している変なやつだ。短距離走の選手で、毎日熱心に部活に通い、自宅でも自主トレしているような、今時めずらしい熱血くんだ。どういうわけか、入部当初から俺の追っかけよろしく、ずっと後をついてきやがる。喉が渇いたと言えばドリンクを持ってきてくれるし、足がだるいと言えば気持ち悪いくらいマッサージしてくれた。
以前、清水に訊いたことがある。
「お前はなんで、ずっと俺の後をついてくるんだ?」
すると清水は照れたように笑って、聞いてるこっちが恥ずかしくなるようなエピソードを語り始めた。
「寺野先輩は知らないでしょうが、オレ、中学の頃に先輩を見たことがあるんス。そんときのオレは、なかなかタイムが伸びなくて、けっこうヘコんでたんスよ。そんなときに、ある大会で先輩の高飛びを見ました。めっちゃ感動したんス。ああ、この人はどんな障害もああやって軽々と飛び越えちゃうんだろうなあって。オレもあんなふうになりたいなって思って……。それから先輩は、オレの目標になったんス」
よくもまあ、こんな赤面ものの昔話を真顔で言えるもんだと感心したものだ。
だから階段で会ったときも、カバンを持たせてくださいとかなんとか言われて、頭を軽く小突いてやったんだ。周りに何人か人がいたし、そんな姿を見せるのが恥ずかしかったからな。照れ隠しみたいなもんだ。
ただ、小突いたタイミングが良くなかったらしい。
清水は足を踏み外して、階段から転げ落ちそうになった。それを慌てて支えたら、今度は俺がまっさかさま――というわけで、俺は右足をギプスで固めるハメになっちまった。
つまりは俺が悪いってこと。清水はあくまで被害者だ。
だというのに、このアホはなぜか俺の怪我を自分のせいだと思い込んじまって、毎日部活が終わってから病院に見舞いに来るようになった。おまけに「自分が高飛びに転向して、先輩の代わりに飛ぶっス!」とかトンチンカンなことを言い出しやがった。
短距離も高飛びも脚力勝負だが、使う筋肉が根本的に違う。こいつだってそれを知らないはずはないのに、俺なんかのためにそんなバカげた宣言しやがって……。
だから怒鳴ってやったんだ。
「翼ってのは飛ぶだけのためにあるんじゃねえ!」ってな。
そりゃあ翼は高く飛び上がるためのものさ。でも、空なんてもんは、人それぞれだろう? 勉強にしたって部活にしたって色恋にしたって、精一杯がんばってるやつが飛べるんじゃねーの? そういうもんだろう?
ああ、わかってる。こんな恥ずかしいセリフ、いつもの俺なら絶対言わねえよ。
でも、そのときの俺はどうかしちまってたのさ。悪性のウイルスが頭の中で暴れまわってたんだな、きっと。清水の熱血ウイルスが。
別に清水を応援してるとか、そんなんじゃないぞ? あいつがうっとうしく付きまとってきて困ってただけだ。それだけだよ、ホント。
「神様、どうか清水くんを一番にしてあげてください……」
手を組み合わせて神に祈りだした有田を横目で見やり、それからトラックに目を移す。
身体を沈ませてクラウチングの姿勢に入った清水は、俺が今まで見てきたどのあいつよりも、まっすぐで真剣な目をしていた。その先にあるゴールだけを見据え、肩をゆっくりと上下させている。
号砲が鳴り響く。
六人の走者が一斉に大地を蹴る。
先頭に並ぶ、清水と……名前知らねーけど誰か。
トップスピードのまま、ゴールに迫る。
知らず、俺は叫んでいた。
「清水! 飛べェェェェ!」
なんて間抜けな応援だろう。走ってるやつに「飛べ」なんて。
でも、それでよかったんだ。あの熱血アホ清水だって、翼を持ってるんだからな。
ゴールラインにまっ先に足を踏み込んだ清水は、実にあいつらしく、熱い咆哮を上げたのだった。
「んじゃ俺、病院に戻るわ」
「えっ? 清水くんにおめでとう言ってあげないの?」
はしゃいでいた有田の肩に手をかけて立ち上がると、俺は振り返らずに答えた。
「次の大会で結果出したら言ってやるよ」
次は三ヶ月後の県大会。俺の足も治ってる。どっちが高く飛べるか――そのときは同じトラックで見届けてやる。
「ま、せいぜいがんばりな」
さて、戻ったらさっそくリハビリでも始めるとするか。
俺の翼はまだ折れちゃいないからな。
大空へのウイルス