八朔

八朔

私自身はこの年八十二になる。娘が一人いるが、その娘は彼女が十三の頃私が全く知らない男と駆け落ちして家を出た。元々親密な親子関係などというものは存在しなかったため、私は娘を追わず放っておくことにした。
その娘が今日数十年ぶりに私の前に姿を現した。彼女の息子、つまり私の孫を連れて。
名前は朔という、齢は十五になる。十のころから酒と煙草に溺れ、自分の母親が家を出たのと同じ十三のころ外で人を殴って少年院に入れられた。一年の院生活の後外に出ることになったが、もう私は面倒を見きれない、というようなことを娘は言った。聞けば駆け落ちの後その男とは直ぐに別れ、何人かと寝食を共にしたらしいが朔の父親である西洋人の男とも腹が合わず別居中なのだという。たった一人でこんな不良は育てられない、だから私のところに来るというのも随分と巫山戯た話なのだが、それ以上に私が驚いたのは彼の混血児(あいのこ)であるが故に丁寧に整えられたその顔の造形美であった。私は元来西洋的なものを好み、幾つか値の張る西洋人形を所持していたが、其れ等全てが朔の透き通るような白い肌と理屈では説明できない紫に染まるの瞳の前では全く見劣りしてしまうというような有様であった。
私はそれを見て一目で朔をこの家に迎え入れることを決めた。娘は私がこんなにあっさりと孫息子を受け入れるとは思っていなかったらしく流石に驚いてはいたが、相応の手続きが済むと何の逡巡も見せず朔を置いて自分の住処へ帰っていった。

この美しき混血児との生活は私が懸念していたよりずっと何の問題もなく進んだ。先ず彼は彼の母親が私に密告したような不良ではなかった。酒も煙草も、欲しがれば買ってやろうと思っていたところだったが全く望まず、毎日外に出ずに私の寝室の本棚にある外国の小説を読んで過ごした。彼が気に入ったのは専ら幻想小説と呼ばれる文学の類で、マンディアルグやサド侯爵を好んで読み耽ることが多かった。
それに彼は父親の白人の影響か私と同じく西洋文化に興味があるらしく、本だけに飽き足らず居間に飾ってある人形の作者を尋ねたり、食器棚に掛けてある陶器の銘柄を気にしたりした。そのため私は彼が特に気に入った人形を好きなだけ選ばせ私が死んだ後彼に譲ることを約束したが、彼が三日間もかけて選び出したのは数十点のうちたったの二点であった。私は彼が全てくれと言えばやるつもりだったので本当にそれだけで良いのかと尋ねたが、彼はどうしてそんなことを聞かれるのか本当に理解できないといった顔で曖昧に頷くだけだった。その後彼が寝室にきて私の死後この二つの西洋人形を俺に譲るという内容の手紙を認めてくれというので二言三言書いてやった。彼は安心したようにほんの少しだけ笑った。冷たい、体温をまるで感じさせない笑い方をすると私は思った。

このように西洋被れの私と名ばかりの不良息子との生活は大体が順調に進み、平和とそれに伴う若干の退屈を持ってして彼が私の家に住み着いていることが日常になりつつあったある日それは起こった。確かあれは二月の半ばで、今年最も冷え込んだであろう夜のことだった。普段全く外出をしなかった朔が珍しく外に出向いて帰らなかったので、私はさっさと風呂に入り寝巻きに着替え、就寝の準備を終わらせ床に就こうとしたのだが、まさにその瞬間玄関の戸が乱暴に開けられまた乱暴に閉じられる音が大きく二階の寝室まで鳴り響いた。私はそれに構わず毛布を被り寝付くことにした。すると階下の朔は階段をどすどすと音を立てて駆け上がり私の寝室をノックもせず無遠慮に開け放った。私はあくまで寝続けることにしていたが、朔はそれに構わず私が寝ているベッドの枕元までまたどすどすと大股で近付いてきた。
「なァ…俺ぁ矢っ張り、捨てられて当然の出来の悪い不良息子だったンだろうか?」
どうやら外で酒を飲んできたらしい。相当に酔っ払っていて、外套からは煙草の匂いも微かに漂っていた。
それからしばらくして眠りについた私だったが夜更けに一度目が覚めてしまい、それから眠れなくなってしまったので下の部屋で果物でもつつこうかと思い階段を降りて居間に入ると、朔は部屋の隅に置いてある紺色の縦に長いソファに寝転んで本を読んでいた。よく見ると服の隙間から見える首や腕には無数の傷や痣があり、そこから彼が酔って外で喧嘩をしてきたんだろうということは容易に理解できた。しかし特に私はそれを咎めるでもなく、彼も小説から顔を上げて私に声をかけるでもなく私は椅子に座り机の上に置いてあった八朔の皮を剥き始めた。
「ねえ、あの人形、あともう一個だけ貰えるかい」
朔が小説から目を離すことなく私に聞いた。
「あぁ、構わないとも。本も気に入っているのならやるよ。私が死んだ後この家に住み続けてもいい」
私がそう答えるといつの間にか朔はその混血児特有の紫色の瞳から小さな雫を流しているようだった。
「そら…八朔をお食べ。酔っ払いには酸いのが効くと言うだろう」
彼はやっと顔を上げたが矢張り小説から手を離すことはなく首から上だけをこちらに向けて、私の年相応に皺だらけの手から直接八朔の身を一口のうちの半分だけ齧った。私の手に残ったもう半分から滴り落ちた汁が朔の唇を伝って顎から落ちたが、それは結局涙か汁か分からぬものとなった。二口目でやっともう半分を飲み込み、
「もう一口、おくれ」と彼がねだったので私はまたひとつ身をちぎって彼の口の前に差し出すと今度は一口ですべて飲み込めたようだった。彼は口の周りを服で拭き取ったあと首から上を元のように小説の上に戻し、今夜はそれきりこちらを向くことはなく、もう二度と私の手から直接八朔の身を食べることはしなかった。

八朔

八朔

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-01

Copyrighted
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