ドージン・センセーション
「……なんだよ、ここは?」
どの街にもひとつはありそうな巨大な建物を見て、セイジはうめく。
まったくやる気のなさそうな眠たげな双眸。寝起きを主張するようなぼさぼさの髪。思いっきり前傾姿勢でふらふらと、自分の前を歩く男のあとについていく。
「文化会館だ」
「見りゃわかるよ、んなことは」
文化会館。市民会館や産業ホールに名を連ねる市の建築物だ。ふだんは本当にこの中に人がいるのかと疑わしくなるほどに静寂を保っているこの場所に、今日はなんだかこれでもかってくらいの人が押しかけていた。年齢層はまちまちだが、若者が圧倒的に多い。みんな一様に大きなバッグや骨組みだけのカートを持参しているようだ。その中の何割かが同じような冊子を手に真剣な面持ちで議論を交わしているように見える。第三者的に見れば、ぜったい近づきたくない異様なオーラというか、そんな熱気に包まれていた。
前を行く男は十七、八歳ほどか。セイジと同じくらいだろう。きりりとつり上がった眉は意志の強さを表し、きゅっと引き締まった口元からは一種の使命感のようなものがうかがえた。彼の手にはやはり大きなスポーツバッグ。ぱんぱんに詰まっているみたいだが、中になにが入っているのかはわからない。
「なあ、待てよ、ヨシオ」
そんなセイジの言葉に男は振り返り、
「ヨシオではない。俺は夢幻飛鳥だ」
「む、むげんあすかぁ?」
「戦場ではそう呼べ。コードネームのようなものだ」
あくまで真剣にそうのたまう。
ヨシオ――もとい、夢幻飛鳥はびっと文化会館を指差し、
「さあ行こう、戦友よ! 共に戦い、栄光を勝ち取るのだ!」
「いやちょっと待て。お前いま俺のこと、『戦友』と書いて『とも』と読まなかったか?」
「この手に勝利を!」
「いや聞けって、人の話を」
ふたりは文化会館――戦場へと歩を進めるのだった。
そこはものすごい行列だった。有名なラーメン屋だって目じゃないほどのそれは、果てしなく続くのではないかと思うくらいの長い順路をひたすらに人で埋めていた。
飛鳥とセイジは行列の恐ろしいほどの数の視線を浴びながら、その脇をすり抜けていく。
「な、なあおい、みんなこっち見てるぞ。列に並ばないとマズいんじゃないのか?」
怯えるように、こそっと飛鳥に耳打ちする。しかし彼はいたって平気な顔で、
「大丈夫だ。なぜなら俺たちは戦士だからな」
なんてことを返してくる。
「ま、まあ大丈夫なら……」
セイジがぶつぶつとこぼしていると、
「着いたぞ」
ふいに飛鳥が足を止めた。つんのめるように慌てて立ち止まるセイジ。
「ここが俺たちの戦場だ」
見やると、そこは大きなホールの入口だった。開放されたままのドアの両脇には二十代半ばくらいの女性が立っている。おそろいの薄緑のシャツには『STAFF』と記されている。その先には長い机がひとつ置かれていて、先ほど行列で目にした冊子が山のように平積みにされていた。
スタッフの女性は言う。
「サークル参加の方ですね」
「さ、さーくる?」
とまどうセイジを遮り、飛鳥が「はい」と答える。
「では参加証を……はい、けっこうです」
なにやらちいさな紙切れをスタッフに見せ、そして金を払う飛鳥。セイジにはこれがいったいなんの儀式なのかまったくわからなかった。
そんなセイジに見向きもせず、飛鳥はすたすたと歩いていってしまう。セイジははぐれないように、必死になって彼を追った。
会場の中は外以上にすごい熱気だった。ガンガンにかかる音楽と、なんだかおかしな格好に扮した少年少女。しかしあの姿はどこかで見たことがある。よくよく思い出してみると、それは有名な映画の主人公の服装だった。なるほど、これはいわゆる『こすぷれ』というやつだ、とセイジは理解した。だが、理解するほどに、自分はひょっとしてとんでもない場所に来てしまったのではないかという不安が押し寄せてくる。
「な、なあ、ヨシオ……」
「夢幻飛鳥だ」
「むげんあすか。ちょっと訊きたいことがあるんだが」
「今は忙しい。あとにしろ」
会場には規則的に長机が配置されている。横に五、六個並べた形が、同じように何列も続いている。それぞれの列の脇には『A』とか『B』とか書かれた紙が貼ってあり、セイジたちは『F』の列だった。
あらかじめ用意してあったパイプ椅子に腰を下ろした飛鳥は、スポーツバッグからたくさんのファイルやら箱やらを取り出している最中で、セイジの言葉は耳に入っていないようだ。骨組みの付いたおおきな黒い紙を屏風のように立てると、そこにはラミネート加工したたくさんのちいさなカードが貼り付けてあった。よく見ればそれはみんな手描きのイラストで、どこかで見たようなキャラクターが所狭しと並んでいる。
セイジは考える。
異様な熱気の会場。サークル。コスプレイヤー。手描きのイラスト。
そして――ひとつの結論にたどりつく。
恐る恐る、先ほど渡された冊子に手を伸ばす。派手なイラストの描かれた表紙の上に、こう記されていた。
『第二十五回・同人誌マーケット』
「……すまん、ヨシオ。俺、用事を思いついたから帰るわ」
ふらりと去ろうとするセイジの腕を飛鳥が掴む。
「なにを言っている。戦いはこれからだぞ」
「なにが戦いだ、なにが! 同人誌の即売会場じゃないか!」
「む、気付いたか」
「気付くわ!」
飛鳥の腕を振りほどこうとするセイジ。だが、飛鳥の力は相当なものだった。
「離せ! ここは俺のいる場所じゃないっ」
「共に戦おう、戦友よ! ちなみにこれはシャレじゃないぞ」
「知るかァァァァ!」
「では、あれを見ろ!」
飛鳥はある方向を指す。見やると、そこには女の子のコスプレイヤーが壁にもたれて座っていた。けっこうかわいい子だ。こんな子までもが毒されているのだと、セイジは哀れに思った。
「女の子が座ってるだけじゃないか」
「よく見ろ。顔じゃない。その下だ」
彼女は極端に短いスカートをはいていた。そしてひざを立てて座っている。つまり――
「ぱ、ぱんつだ……」
セイジがこぼす。スカートの下からのぞくピンクの下着。たちまちセイジの目はそこに釘付けに……
「って、俺は変態かァァァァ!」
残った理性をふりしぼって叫ぶ。
「帰る! もういやだ。もうたくさんだ。俺は毒されたくなんてない。俺は健全だっ」
「セイジ、あそこを見ろ。あっちもだ」
ふたたびあちこちを指す飛鳥。そこにはやっぱり同じように座っているミニスカートの女の子がいて。
そして――セイジの理性はぱんつ台風の直撃をうけて、みごとに吹っ飛んだのだった。
会場を出ると、外はすっかり夕焼け色に染まっていた。
ぐったりと死にそうなセイジに、売り切れ御免で晴れ晴れとした飛鳥。
「よく最後まで生き残ったな。これでお前は昇進だ。喜べ」
「……何になったの?」
「軍曹だ」
「……ありがと」
あのあと、何度か理性を取り戻しては逃げようとするセイジを飛鳥が洗脳し、けっきょく最後まで付き合わせたのだ。
「また戦おう」
手を差し伸べる飛鳥に、
「……もう結構です」
セイジはうなだれて手を振ることくらいしかできなかった。叫ぶ力なんて、とっくに使い果たしてしまっている。
「そう言うな。俺には戦友がいなかったんだ……寂しかったんだよ」
夕日に手をかざす飛鳥は、本当に寂しそうに見えた。
「ヨシ……むげんあすか……」
「もうヨシオでいい。今日の戦争は終わったからな」
手にした冊子を振りつつ、飛鳥が笑う。
「だが……もし、お前がまた俺を助けてくれる気がすこしでもあったなら、それはとても嬉しいことだ」
「ヨシオ……」
「今度は無理強いはしない」
悲しげに微笑むヨシオに、セイジは胸を打たれたような気がした。たしかに彼は、友達付き合いが上手いとはいえない。それは彼の孤立を際立たせ、そして現に彼はひとりだ。セイジ以外の友達など見たことがない。
「あの、俺でよければまた一緒に……その、戦うよ」
「……いいのか?」
「ああ。俺たちは友達だからな」
まるで母親にすがるこどものような表情をするヨシオを励ますように、セイジは笑った。
「ありがとう、セイジ」
ふと、ヨシオが手をすべらせて冊子を落とす。セイジはそれを拾ってやろうと腰をかがめた。
「ん?」
冊子の間から一枚の紙がはみ出ていた。なんとなく引っぱり出す。すると……
『第二十六回・同人誌マーケット サークル参加申込書』
『サークルPR 夢幻飛鳥&SAY・JIが夢のコスプレコラボ! 必見!』
なんて書いてあって。
「……どういうことだ、これは? SAY・JIってひょっとして俺のことか?」
ゴゴゴゴゴ……なんて写植を背景に入れながら、セイジがうめく。
「む、見つかったか。そうだ、それは次回の申込書だ」
「そうじゃねーだろ! なんで俺の名前が……てか、なんでコスプレなんだよ!」
「それも戦いだ」
叫ぶセイジにしれっと返すヨシオ。
「もういやだ! ぜったい行かない! もう二度と来ない!」
「そう言うな。共に戦おう、戦友よ。ちなみにこれはシャレじゃな……」
「うっさいわ!」
枯れきったはずの力を振り絞り、セイジが叫ぶ。
特にどうということはないけれど、空はほんのり赤かった。それだけの話。
それだけの、ちょっとゆがんだ友情の物語。
ドージン・センセーション