もう一度、星々

もう一度、星々

 今ごろ病院は大騒ぎだろうな、と美雪は電車の窓に目をやった。
 そこに映るのは、すっかり痩せ細ってしまった自分の青白い顔。部活の仲間たちと毎日日が暮れるまでグラウンドを走り回っていた自分はもういない。
 ただ座っているだけなのに、額に汗がにじむ。細い呼吸が早くなり、心臓もどくどくと脈打っている。気を抜くと、そのまま倒れてしまいそうだ。だが倒れるわけにはいかない。少なくとも、今は。
 
 治ることのない病気。それを医師から聞かされたときは、正直実感がわかなかった。だってついさっきまで走っていたんだから。タイムが伸びてきているって陸上部の先輩に褒められたばかりなんだから。それから不意に意識を失って、気がついたら病室のベッドに寝かされていて。だからいきなりそんなことを言われても、他人事(ひとごと)にしか思えない。
 大丈夫なところを見せてやろうと思って身体を起こそうとした。でもなぜか力が入らなかった。何度も起きようとした。何度も何度も全身に力をこめた。なのに身体はちっとも応えてくれなかった。大丈夫なのに。自分はまだ走れるのに。どうして起き上がれないの?
 涙が溢れた。泣くつもりなんてないのに。親の前でみっともない。恥ずかしい。見ると、母も泣いていた。いつも自分を叱ってばかりでちょっと嫌いな母。さいきんは怒っている顔しか見たことのない母が、声を上げて泣いていた。やめてよ。泣かないでよ。そう言おうとした。でも嗚咽が邪魔してうまく言葉にならない。それがもどかしくて、悔しくて、美雪もまたぽろぽろと涙をこぼし続けた。
 
 昔――まだ父が健在だった頃。家族三人でよく星を眺めに出かけた。
 父の運転する車に乗って、母の作ったお弁当を持って。いつもの山のいつもの場所で。きらきらと輝く星々を見上げると、美雪は幸せに包まれた。父がいて、母がいて、自分がいて、星が輝いている。自分はなんと幸福なのだろうか。
 望遠鏡を買ってやろうと父が言った。星がもっと近くに見えると。美雪は断った。満天の星々。レンズ越しではきらきらが弱くなってしまいそうで。この目で見上げるからこそ美しいのだ。父は微笑んで頷き、美雪の頭をなでた。母がお弁当を開いた。星に照らされながら三人で食べたお弁当は、とてもおいしかった。
 
 目的地に到着するアナウンスが車内に流れ、美雪ははっと頭を起こした。いつの間にかうとうとしてしまったようだ。手すりに寄りかかるようにして、どうにか身を起こす。大丈夫。この身体はまだ動く。日々の治療のおかげで、少しくらいなら歩くこともできる。大丈夫。大丈夫だ。
 ホームに降り立ち、なるべく自然に振る舞って歩く。ふらつき、倒れてしまいそうな身体に鞭打ち、息を殺し、改札をくぐる。
 駅を出ると、そこは何年ぶりかの田舎町だった。あの頃と――三人で来ていた頃となにひとつ変わらない。心地よい風に揺れるススキ。虫たちの合唱。ぽつりぽつりと点在する平屋建ての家屋。ちょっぴり傾いた電柱。満天の星々。
「なつかしいな……」
 荒い息づかいのすき間から、そんな言葉がこぼれる。
 不意に目の前が真っ暗になり、傍の電柱に身を預ける。でも座ってはいけない。もう二度と立ち上がれなくなるから。身を屈め、息を整える。整うはずなんてないけど、もう少し歩けるだけの体力が回復すればそれでいい。顔を上げ、美雪はまた歩きだした。
 
 こんな夜中にロープウェイが動いているわけがなくて。やっつけで舗装されたような無骨な山道を、一歩一歩ゆっくりと足を踏み出す。一歩……一歩……。
 ふと、その足を止める。このときを待っていたかのように、全身から大量の汗が噴き出す。がくがくと震える足。(もも)に手を置き、ちいさく笑う。
「うまく……いかないなあ」
 限界だった。もう動けない。ほんの一歩も動かせない。
「あーあ……」
 目を閉じる。闇に包まれる。思考が止まる。身体がぐらりと前に傾き――
「美雪っ!」
 地面すれすれで抱きとめられる。
 うっすらと目を開く。自分を抱きしめている人。それは母だった。
「お母さん……」
「もう! あんたはいつも無茶ばかりして!」
「ごめ……な……」
「しゃべらないの!」
 また母に叱られてしまった。しかし今はなぜか、それが心地よい。さいきんずっと優しかったから、ひょっとしたらどこか物足りなさを感じていたのかもしれない。そうだよ。お母さんはやっぱりこうじゃないとね。
 また病院に連れ戻されて、こっぴどく叱られるのだろう。そう思う反面、それはありえないと感じる自分もいた。
 だって私はもう――
「さあ、行くわよ」
 しかし、母は山を降りなかった。美雪をそのちいさな背中にかつぎ、ゆっくりと登っていく。美雪がどこに行こうとしていたか知っているように。――いや、知っているのだ。なぜなら、そこは思い出の場所だから。家族三人で星を見上げた、星にも負けない、きらきらと輝く思い出の場所だから。
 美雪を背負い、母は山を登る。
「ごめん……お母、さん……」
「謝っても許さないわよ」
「うう……」
「あんたの考えてることなんて全部お見通しなんだからね。何年あんたの母親やってると思ってるの」
 張り出した枝に足をとられ、転びそうになる。それをなんとか堪え、また一歩踏み出す。
「お母さん……今日、何の日か、知って……」
「だからしゃべらないの!」
 人ひとり背負っての登山はさすがに疲労する。無謀ともいえるそのただ中にありながら、それでも母は休むことなく歩き続ける。
「今日はお父さんの命日。あんたはお父さんと一緒に星を眺めるつもりだったんでしょう。それは別にいいわよ。よくないけどよしとするわ。でもね、なんで私を置いていこうとするの? 私はそれが腹立たしくて仕方ないわ」
「だって……」
「分かってるわよ。どうせ、私に言ったら病院から抜け出せなくなるとか思ってたんでしょう」
「うう……」
 まさかここまで的確に把握しているとは。さすがは自分の母親だ。
「でもね」
 前を見据えたまま、母は言う。
「私も家族なのよ。あんたの」
 
 満天の星々。それはあの頃と変わらず、きらきら輝いていて。母の背から降りて、今は母に寄りかかって座っている。
 満天の星々。手を伸ばせば届きそうで、でも腕はもう上がらなくて。
 でも、それでもいいと思った。今こうして母と星空を見上げている。これ以上の幸せがあるだろうか。
 だんだん眠くなってきた。身体が重い。母の肩に頭を置く。
 遠くに人影が見えた。それはゆっくり輪郭を形作っていき――
「お父さん……」
 父は何も言わず美雪のとなりに座った。それから頭をなでて空を見上げる。家族三人で星を見上げる。あの頃と同じように。
「……ありがとう」
 やわらかい風が吹いた。父はもういなかった。
 美雪はもう、目を開けなかった。
「美雪、星が綺麗ね。あんたはよく星座を覚えて、私とお父さんに教えてくれたわよね」
 母の声が木々に、星空に吸い込まれていく。

もう一度、星々

もう一度、星々

「うまく……いかないなあ」

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-01

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