二日目の親子丼とスーサイダル・カレッジステューデント

一階堂 洋


 親子丼は二日目が一番うまい。
 卵が出汁の色になって、すべてが混然一体となってからがうまい。壁に言う。友人がいないからだ。二十二歳、就活のエントリーシートを生産する機械。多分現世に住んでいる。世界は素晴らしい。そして俺には友人がいない。スマートフォンさえ持っていない。えへへ。褒めて。何がえへへだ。キモいんだよ。
 にしてもマジで友達がいない。携帯の着信がない。ホラー映画を見ながら「何が着信アリだよ、じゃあ俺の日常はホラーかよ」と突っ込むくらいにない。最近はレンタルビデオ屋の店員ともうまく会話ができない。そしてエントリーシートは落ちまくる。面接にも落ちまくる。飛ぶ鳥のように落ちる。
 面接では散々なことを言われる。途中からは『何か人のためになることをしなさい』『なるほどです』という会話をするハメになる。何が人のためになることだ? 俺も人だ。俺は親子丼を作る。俺は俺のためになる。俺は人のためになっている。何かがおかしい。多分俺だ。おかしいのは俺だ。議場には俺しかいないからだ。単純な消去法の原理だ。
「サークルの一つや二つ入っておけばよかったなぁ……」
 そういえば入っていた。けれど行かなくなった。直接の原因は、サークルにいた可愛い女の子が酔っ払って俺のバッグにゲロをたっぷり吐いたからだ。思い返すとあの女の子からクリーニング代さえもらっていない。今では顔も思い出せない。美人は大抵同じ顔をしているが、ブスとはそれぞれにブスである。
「ホント、入っておけばよかったよ、サークルの三つや四つ……」
 バイトもしていたが、カネを使わないことに気が付きやめた(やめてから気づいたが、働いていた蕎麦屋の横にあるお好み焼き屋に可愛い女の子がいた。失われた芝生は常に青い)。
「五つや六つ……」
 最近では親子丼を作るくらいしか能力が残っていない。就活の『相談室』(実際はOB訪問を取り付ける場所だ)でも口を滑らせて「親子丼、俺、うまいんスよ」と言った。机の向こうの人は微妙な顔をしていた。
「七つや八つや九つ……」
 ん? 十ってどうやるんだ? 俺は空になった丼を眺めた。じゅうつ?
「十つじゃねぇよな、十ってなんて言うんだ? 何だ? 十なめてんのか? あれか? 十六進法か? エーつか? なめとるな? 殺せ、殺す! ぶっ殺してやる!」
 不合理だ。なめとんのか。理性なめとんのか。『五つ』と『五つ』を足したら元の集合からはみ出る。群にならない。おかしい。殺す、殺してやる、誰をって知らねぇ。
「殺す!」
 壁が叩かれる。
「うるさい! うるさい声が! 声が!」
「黙れ! 倒置法を乱用するな! 安いアパートにテイクアパートしている方が悪いんじゃないのか! 悪いと思うよ、ぼくは悪いと思うよ! 悪いと思うけどな! 思うんだけどなー! どうなのかなー! ご飯食べに行かない?」
 俺は果てしなくテンションが上がっていた。
「今何時だと思ってんの!」
「時間だ!」
 俺は時計を見る。二つの棒が綺麗に揃って配置されている。これは何時と読むんだっけ? 違う。これは丼だ。丼の上に箸があるだけだ。なんで丼があるんだ? 俺が親子丼を作ったからだ。じゃあなんで親子丼がないんだ?
 多分壁を叩いている奴が食ったんだろう。なんで食うんだ? 俺を追い詰めようとしているんだろう。
「親子丼食ってんじゃねぇぞ!」
「知らない、親子丼は食ってない!」
「じゃあ姉妹丼か?」
 間。
「……あの、俺が下ネタ言って滑ったみたいになるのマジでやめてくれませんか」
「みたいじゃなくてあんたが勝手に下ネタ言って滑ってんでしょ!」
 俺はテンションが上がっていた。ベランダに出て、手すりを越えて向こう側のベランダに行った。窓を開ける。女子大生がアホみたいな柄のTシャツ姿で立っていた。『ささやかな』とプリントしてある白いTシャツだった。外国人観光客がよく買うやつだ。『ささやかな』。大笑いだ。
「修学旅行で、テンション上がり過ぎて風呂場でおちんちん見せたらめちゃくちゃしらけちゃったみたいなもんですよ……」
 女子大生は完全に引いている。この女子大生も大概にいい加減な性格らしく、何故か長い釘が壁に打ち付けてあった。多分俺の部屋から飛び出していた先端の尖った奴はこれなのだろう。ずっと『逆画鋲』だと思っていた。俺は話を続けた。
「明美、あんた……」
「明美じゃないし」
「始めの文字だけでも教えて、あと、何番目かの文字が教えられたらその次の文字も教えて」
 何言ってんだ。けれど帰納的に彼女の名前がわかることはまずもって間違いない。
「す」
 間。
「え? なに? 『す』って。怖いんですけど、いやー、最近のあれは怖いですね、あれ、あの、あれですよ、バッグにゲロ吐く、ゲロ吐くって『ゲロ博物館』の略じゃないですよ。ゲロ博物館とかあるわけ無いよね、でもちょっと気にならない? ならないかー。最近の子供は興味ないもんなー困るよホントでも俺も最近の子供だよねあっはっは面白いねーいいねーいいと思うよー」
 間。
「……そこの牛乳、飲んでいいっすか」
 間。
「駄目かー。駄目だよなー。もしボンドだったらやだもんな。俺、中学生の時一度やられたことあるよ」
「それホント?」
「いや嘘だけど」
 女が歩み寄る。女の名前はアユミではない。たぶん。俺は距離をとった。
「……不法侵入、早く出てって。あたしは明日、山梨行くんだから」
「この家は?」
「当然空けるでしょ、あたしは二人もいないんだから、分かる? 分かったら出てって」
「分からなかったら?」
「……何が言いたいの? あたしは旅行に行かなきゃいけないの、分かる?」
 間。
 俺は背の低いテーブルに目をやる。
「酒飲んで荷造りねぇ」
 気がついたら俺は自分の部屋に戻っていた。
 そして次の日の朝の六時の時報の音の一緒の時間の、ドアの何かの女子大生の、あの、立ってての、いた(途中まで調子良かったんだけどな)。這いずりながらドアの近くまで行って「開け」と言った。ドアが開いた。俺は超能力者か。使役形の能力者か。
「……隣の、あの、隣というのは壁があり、えっと壁というのは」
「山梨行くから。部屋の牛乳勝手に飲んでていいよ、部屋解約しておいて。印鑑もなんか必要そうな書類は全部置いておくから。勝手にして」
 そう言うとショートカットの女子大生は鍵を渡してどこかに消えた。俺はとりあえず部屋に入ってトランクスとTシャツを着た。全裸だったのだ。
 俺は親子丼を作って(日課だ)、親子丼を食べて(二日目用にある程度は残した)、とりあえず女子大生の部屋に入った。
 テーブルの上には茶封筒と茶封筒がおいてあった。一つは薄く、一つはもう一方よりも厚かった(なぜならば、二つ封筒があれば厚さの大小関係が必ずあるからだ)。
 厚い方にはお金が入っていた。諭吉が百人ずつ、二巻きあった。稲葉の物置が二つないといけない。女子大生がどうしてそんなに沢山のカネを持っているかは知らない。
 薄い方には手紙が入っていた。黙ってそれを何回か読んだ。短い文面だった。カネがほしいなら女に生まれ変わればいい、という趣旨の文章だった。まず間違いなく悪文に違いなかった。読ませるものがなかった。誤謬だらけだった。自家撞着の捻転した岩みたいな文章だった。最後には小さくこう書かれている。
 『樹海、私は楽しみです』。
 『私が樹海の事を楽しみにしている』だ。俺は楽しみの概念ではない。人間はいかなる概念でもない。
 封筒をリュックに詰め込んだ。服を着て部屋を出た。調布駅の近くにある銀行で金をおろした。そして京王線に乗った。
 俺は彼女を追いかけ始めた。隣に住んでいた(そしておそらく自殺した)女子大生の引き払いに加担することだけは避けたい。何にせよ。
 八月の空はいやに青かった。
 京王線はずんずん進む。窓の遠くに空が見える。山が見える。そしてビルが見える。そして民家が見え、そしてアパートが見える。俺達はここに住んでいる。
 俺は何の概念でもない。そして彼女も何の概念でもない。そして概念でないところには不明瞭さがあり、不明瞭さがあるところには予測不可能さがある。そして予測できないところには今より良い場所がある。少なくともそういう可能性がある。
 俺がいくらエントリーシートに落ちようが、俺がいくら面接でウザいことを言われようが、彼女がいくらどこかの店でカネを稼ごうが、すべてのものが完璧に決まるなんてことはありえない。俺達は何の概念にも抽象化できないからだ。俺達が具体的な世界に住んでいるからだ。そこでは皮膚を切れば血が出るし、汗を流せば金がもらえる。そしてどこかに救いのようなものがある。
 だから俺は彼女を追いかけているんだ。
 彼女は二日目の親子丼を食ったことがないんだろう?

二日目の親子丼とスーサイダル・カレッジステューデント

二日目の親子丼とスーサイダル・カレッジステューデント

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-01

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