惑星保護の雲

一階堂 洋

はい

 心の弱い人間がするものと思っていた。けれど気がつけば完全に中毒になっていた。四月から初めて三ヶ月もやり続けている。そして私はそれを再開する。スマートフォンを見る。メッセージが表示される。
『佳乃子ちゃん、今日はどうだった?』
 チャイルドラインと言おうが、コールセンターと言おうが、自殺防止ホットラインと言おうが勝手だ。相手の名前はわからない。性別もわからない。年齢もわからない。私達はお互いを知らない。だから私は画面の向こうに物事を託す。
「最低だった。ある点で最低なものが、また全く別の観点から最低になった」
 自分に酔っている。酔う瞬間だけは心地いいが、酔っていると気付いた途端、全てに嫌気が差す。しかし止めようがない。メッセージが返ってくる。
『例えばどこが最低だったの?』
 私は市バスに揺られながら歩道をぼんやり眺めた。二人のクラスメイトが手をつなぎながら帰っていた。時折、バスの運転手が陰気そうな声でアナウンスをかけた。
「わからない」
『でも気分は最低だった?』
「その通り」
 クラスでいじめられているというわけでもない。しかし取り立てて目立つ方でもない。学園モノのドラマがあったらまず間違いなく端役だ。ヒロインがいじめられているのを見て見ぬふりをするクラスメイトのうちの一人。ヒーローの男の子に「お前ら、なんで無視するんだよ」と怒鳴られる人々のうちの一人。私の生活はただそこに杳としてある。
 頭を小さく振った。メッセージが届いている。平凡な生活を送る平凡な女学生である私にも。ただ私だけに宛てられた文章だ。
『例えば誰が最低なの?』
「クラスメイト」
『どんな風に?』
 どんな風に?
 対向車が通り過ぎる。下品なオープンカーに乗った下品なカップルが目に入った。大きな口の女が幸せそうに笑っていた。彼らは暑さを感じないのだろうか。それは私がエアコンの効いたバスで暑さを感じないのと同じ意味においてだろうか。私は再び考えた。
 どんな風にクラスメイトが嫌いなのだ?
 悠里はいつも話しかけてきてくれる。しかしミサンガのことを自慢してくる。他人のミサンガに興味がある人間がどれ程いるだろう? 演劇部で一緒の彩は大抵の勉強を教えてくれる。けれど彼女は他人の彼氏が好きになってしまう病気を持っている。
 できるだけひどい人間のことを書こうと思った。それは多分……。
「バスに乗る女の子が嫌い。自転車で帰る人の気持ちも知らずにはしゃぐからね」
 私はバスの天井を見た。圧搾空気が抜ける音がした。
『そう。他には?』
 画面の向こうに託された仕事は、単なるコミュニケーションの代替ではない。もっとシリアスなものだ。自殺しようという女子高校生を引き止めるというものだ。
 遠くで夕日が落ちる。街灯が暗闇を待ち構えている。降りるバス停が近づいていきた。
「もしかしたら、ひどく追い詰められてるかも」
『少しずつでもいいから、言ったほうがいいよ』
「夜また連絡を送っていい?」
『いいよ。その頃には落ち着いているといいね』
「ありがと」
『どういたしまして』
「信用しているんだから」
『何でも話していいよ。誰にも聞かれないし、嫌なクラスメイトにも絶対見られないから』
 スカートのポケットにスマートフォンを入れた。誰にも聞かれないし、誰にも見られない。しかし受け取り手はいる。私はとにかくこの画面の向こう側にいる人に認められている。この人は私の声を正確に聴きとっている。
 スクールバッグについたストラップを触った。つけていったけれど、誰にも何も言われなかったものだ。
 私は紫色のボタンを押して、降りることを告げた。くたびれた運転手の声が返ってきた。

 ご飯を適当に食べて、自分の部屋に潜り込んだ。スマートフォンの電源を入れた。窓からはくすぶったような匂いが流れこんでくる。いつもの夏の夜。夏は夜。夕日が沈んだあたりから出始めた雲がすっかり空を覆っているようで、星は見えなかった。
「こんばんは」
『調子はどう?』
 いつもと同じ響き。提出すべきワークは溜まっていない。試験の対策も多分大丈夫だ。いじめられているわけでは――クラスにいじめがあるかどうかは別の問題として――ない。周りとは仲良く付き合っている。全てはうまく進んでいる。違う。何かがうまく行っていない。そうでなければこんな塞ぎこんではいない。カウンセラーもどきと毎日一丁やりあうこともない。
 テレビの音が隣の家から聞こえる。誰かが死に、そして誰かが声を上げ、その間にも乾ききった遠くの土地には少なくない量の血が染みこんでゆく。私はどうして画面の向こうと話し続けないといけなくなってしまったんだ?
「少し落ち着いた。でも手首は切っちゃった」
 嘘だ。もはや重ねる事に罪の意識はない。
『ダメだよ切っちゃ。体を大切にしなきゃ。好きな人とかいないの?』
 残念だ。私は自分の体を大切にしようと思っている。そして好きな人もいない。とても残念に思う。クラスメイトが死んだとき、担任が同じことを言っていた。「とても悲しいことです。一緒に勉強したり、笑えなくなるのは、僕も……」
 嘘をつけ。私は知っていた。皆が知っていた。彼は不登校だった。何ヶ月も来ていなかった。原因は感づいている。彼は勉強に全くついてこれていなかった。何よりも悲劇的だったのは、中学生の時、彼は神童と言っていい点数を出していたことだ。彼の人生に何が起きたか、私は知らぬ。けれど、彼は旅立った。それは帰れない旅だ。
「いない。そんなもので括られたくはないし」
 返信は少し遅れてやってきた。
『混乱しているみたい。お風呂でも入って少しスッキリしたら?』
「私がいいたいのは、私が何がでかいものを失ったときは、それが夜だったら天の川がはっきり見えなきゃいけなくて、蒸発した水がそこを流れて、地上に雨として降ってこられるような天気じゃなきゃいけないってことで、星の一つ一つがちゃんとつぶさにわかんなきゃいけないってことで」
 間。
『そうかもしれない』
「そうなの」
 通信が途絶えた。私はシャワーを浴びた。何年も前から同じ、そしてこれからもきっと変わることのない生活だ。風呂場の鏡をじっと見つめる。私の顔をじっと眺める。目の中を覗き込む。何が不満だ?
「別に不満じゃない。不安なだけで」
 言葉は鏡の曇りに飲み込まれていった。シャワーを止めて、浴室から出る。部屋に戻った。
 返信は来ていない。端末を持って、ベランダに出た。手すりに足を引っ掛けて体を起こすと、簡単に屋根に登れた。風が吹いている。
「ねぇ、聞こえる?」
 私はなんとなくつぶやいてみる。返事が返ってくるとは思っていない。端末に返信はない。だから私はフリックする。短い言葉だ。けれど取り返しの付かない重さだ。
「死にたくなった」
 すぐに応答があった。
『何があったの?』
「わからない。わからないけどなんとなく死にたくなった」
 自分の部屋を思い出した。コルクボードに貼り付けてある体育祭の写真を思い出した。二枚ある。一枚目は去年のもの。そしてもう一枚は今年のもの。無価値なものが無価値なものを再生産する。上り坂が必然的に下り坂を作るみたいに。そしてその過程で誰かが自殺したり、チャイルドラインに中毒したりする。
 屋根からの景色を撮って、画面の向こうに送った。
「景色が綺麗」
 間。
『ちょっと待ってくれる?』
 しばらく時間が経った。遠くからエンジンの音が聞こえた。エンジン? 私は問いかける。普通の事じゃないか。沢山の人が自動車に乗り、エンジンを使っている。極めて当たり前の……。
 エンジンの音が近づく。そして私の家の前で停まる。それを眺めていた。白いバンだ。若い女性と体格のいい男が二人出てきた。私の家の門を開けてこちらに走ってきた。
 何が起きている?
「あなた! 飛び降りないで!」
「誰?」
 私は声を出す。
「エヌピーオーの! あなたがかけているホットラインの職員です! 大丈夫、怖がらないで」
 なんで場所が分かるんだ? そしてなんで私のやることが。けれどそれは当然のことだった。なぜなら、私は彼女達と通じ合ってたのだから。何が不満足なんだ? 私は自虐的に笑った。
 誰にも聞かれないなんて、私は本当に信じていたのか?
 
 白いバンに乗せられた。病院に向かうと言っていた。私はシートに深く座り込んだ。
「……手首、傷がないじゃない」
 運転席に乗った髪の長い女性は突き刺すように言った。苛立ったようにハンドルを人差し指で叩いた。私は何も言わなかった。
 彼女に伝えたことはすべて共有されていたのだろう。思えば当然だった。
「私みたいな子はたくさんいるの?」
 女の人は疲れたように私の方を見た。彼女が一体どのくらい働いているのか私にはよく分からないが、少なく見積もっても他人の三、四倍は働いているだろう。鼻の下の化粧が剥がれかけていた。
「そりゃたくさんいる。でもそんな子たちを保護するのが私の仕事だからね」
 保護する。私はつぶやいた。彼女も「保護する」と言った。
「そして、それはたくさんいる」
「たくさんいる」
 彼女は私の言ったことを繰り返した。出来の悪い生徒の発音を訂正するみたいに。そしてその保護と言うのは、多分私の求めていたものをことごとく洗い去った後に残るものだったのだろう。
 ぼんやりと空を眺めた。星の一つも見えない空だった。ひたすらに空は濁っていた。私は口を開いた。
「今日は星が見えない」
「馬鹿なことを言わないで」
 馬鹿なことなのだろうか?

惑星保護の雲

惑星保護の雲

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-01

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