未完の叫び

失われた一年

私、人様の名前を覚えることがこの上なく苦手でして。情けないお話ですが、窓を共した級友の名前を一年経っても覚えられなかったどころか、進級した数か月後には会う度声をかけてくれる数少ない友人の名もすぐに思い出せない様である。義務教育を経て、自尊心と共に飛び出した地元が今や田舎の中の田舎に思え、砕かれつつも意地を張る自尊心が井の中の蛙と化し、理性が大海の恐怖に怯えんばかり。この恐怖に気付きながらどうしようもない私は、私を労わってくれる場所、いわば桃源郷のようなものを探し求めていた。世間はこれを自分探しと呼ぶが、皆は「そんなもの時間の無駄遣い、時は金なり、単語や公式を記憶に刻め」とおっしゃる。つまり私は劣等生なのだ。
ぼんやりとしたまま大海(その時点での)の波に飲まれ、機能しなくなった私は人の抜け殻の如く季節も感じぬ一年を過ごした。

大海を駆ける馬

そんな私も部活動というものにはきちんと参加していまして。過去に短期(半年に満たない程)ですがジュニアクラブに在籍していたこともあり愛着があったのか、陸上部への入部を決意いたしました。体を動かしていれば一瞬でも嫌なことを忘れられると思っていましたが、ここでもやはりぼんやりとしたまま半年が過ぎていました。三年の先輩は私が一年の夏には引退でしたので、それほど深い交友(先輩後輩に交友はあり得るのかという疑問は後程解消されましょう)もなく、前述の通り部員の名前もはっきりと覚えていない私にとっては先輩、引退、といった風に単語が意味もなく脳裏を富浮遊するばかりでした。ただ、この三年の先輩、仮にA先輩と呼びましょうか、A先輩は本当にしっかりとしたお方で、実は三年はA先輩一人のみなのですが、無知な私を含めた一年はもちろん、どこか足りていない二年の先輩の世話までA先輩が受けていたのですから尊敬の念を抱かざるを得ないわけです。
なにやら話が寄り道を始めたようなのでこの件はここまで。なに、はっきりと覚えているじゃないかとお考えの読者様もいらっしゃいましょう。しかし、私のぼんやりとした何かはここらから少しづつ、鮮明でありながら靄のかかった道を歩み始めたのです。

それは本当に突然で、記憶の海に飛び込んだ馬のようでした。その馬はとても美しく、身のこなしも軽やかで、私にないものを全て備えておりました。育ちがよく、それでいて本能的と言いますか、その勢いは辺りの空気を斬るようでした。美しいのです。後悔を知らないのではなく、後悔をせぬよう生きている。そこに生きていることがひしひしと伝わってくる。賢い馬は私の中を駆け抜けて、空気だけを置いて行きました。

今となってはどのようにして彼女のことを知ったのか、初対面でどのような言葉を交わしたのか、はたまたどのような態度で接していたのかは深い靄のかかった海の底です。経緯は思い出せませんが、私達は帰路を共にするようになりました。電車の中で私達は、趣味の話で盛り上がりました。そうこうするうちに私達の仲は急発展を遂げ(言い方が適切かはさて置き)周囲からも私のことを聞くならば彼女に、彼女のことを聞くならば私にと太鼓判を押しておりました。交友関係の少ない根暗な私はその関係を勘違いし、浮かれ、勢いづき、うまくやればこのままあと一年は続いたであろう関係を自らの手で崩壊させたのです。ああ、なんと愚かで馬鹿で女々しいことか。この懺悔の書に書き得ない、言葉で表し得ない後悔の念に私は今も息を失いかけるのです。

阿吽の呼吸、漫画の登場人物らがおりました。私たちはこの登場人物らを好み、前述の通り、周囲も認めた仲でしたので成り行きから私達も阿吽の呼吸と呼ばれるようになりました。彼女が阿というと吽というのが私のお役、それが嬉しくて、嬉しくて。
二年の半ば、部に新たにマネージャーとして男の先輩が加わりました。M先輩は私が一年の時、半年だけ参加していた生徒会の先輩で、面識もあったためすぐに打ち解け、真面目で気が利く性格のために部でも厚い信頼を受けるようになりました。この先輩に悪い面はこのあとも無く、終始誠実を貫くため、読者の中にも惚れたという方は出てくることでしょう。
M先輩は優しいお方です。誰に対しても平等に接される、頭も良いし、運動もできる。顔も不細工ではない。一言でいうと漫画に出てきそうな理想の男性なのです。M先輩は後に同じく三年の先輩(冒頭で二年だった先輩方)の一人と付き合いを始めるわけですが、それでもS先輩に憧れを抱く女生徒は数多おりました。私はこの頃から何やらアルミたわしのようなものが心臓をごしごしと擦るような、或は心臓の中でシンバルが暴れて騒ぎ立てているような、心地の悪さを感じるようになりました。
後になって同じ学年のTが「嫉妬」というものを教えてくれました。醜くも私は彼女に嫉妬の念を、それ以前に恋心というものを抱いていたのです。どうにかしてこの嫉妬の念を振り払おうとしますが、それがかえって彼女との間に固い防波堤を築きました。

私はこの頃どうかしていたのです。そうでしょう、変でしょう?貴方の為に生きたいし、貴方が笑顔を誰かに向けるたび、自分の無力感に悶えます。どうか私を嫌いにならないでください。どうか、貴方の傍に居させてください。もうお気付きのことでしょう。

これが私の精一杯。私にしてはなんとも大胆なこの告白が私と彼女の間に大きな潮目を作りました。防波堤はこれでもかというくらいに高く高くそびえ立つのです。しばらくの間、どこを怪我したわけでもないのに痛みが続き、授業と休み時間の境目が薄れ、日夜ぼうっとどこかを眺めておりました。
私が勇気を振り絞って発した阿の文字がだれにも拾われることなく地に落ちたのです。

それ以来、私は一種のコミュニケーション障害かと思われる、言語不能に陥りました。文字にすると溢れんばかりの言葉が声に出そうとすると色を失い逃げ出す。かろうじて思いついた言葉も、自分の声の為にかき消され、頭のなかに自分の声が乱反射し、自分の声の為に息が詰まる。どうしようもない私は、これまで以上にどうしようもなく、ほんとうに抜け殻になった気分で日々を過ごしておりました。嫌なことを忘れられる場であったグラウンドに彼女がいるものですから深く息を吸って精一杯の挨拶のみを交わし、帰りの電車も沈黙の海。世界が一面モノクロームと化し、生を傍観しているだけ、そんな気がしました。

彼女は優しい。それでも私に声をかけてくれる。彼女もまた誰に対しても平等でした。その平等は私には残酷でした。そこからは何も覚えていません。なにも思い出せません。時系列があべこべになっていて、思い出せてもそれがいつのことか分かりません。どうやら私は大海に足を踏み入れてしまったようです。今もその大海から抜け出せてはいません。彼の美しく、愛おしい馬が再びこの海にやってくることもありません。もし見かけたら駆け寄りましょうか、いえ、そんな勇気も力も今の私は持ち得ません。遠くの砂浜からこちらをみつめる二年前の私よ、お前は焦らず待ち続けなさい。そしていつか彼女に別れを告げなさい。彼女はきっと「うん」と言ってくれましょう。

無題

11月、

ちょうど一年前、私が何か大切なものを失って、探し求めながらもう一年が過ぎた。
何かが変わったか
何かが見つかったか
何かを手に入れたか

おそらくその何かは認知できなくて、傷がかさぶたになり始めた。まだかゆくはない。

部活を引退して以来、一度も一緒に帰っていない。理由はいたってシンプルで、気まずいため、そして彼女が受験勉強に集中するためだった。朝、電車が一緒になっても声をかけることは控える。すれ違いざまに「おはよう」と挨拶を交わすだけ。これでいい、このくらいの距離がお互いにとって心地いいのだろうと思う。周囲の人にこのことを話すとたいていは「変な関係」と言われる。確かに挨拶だけは必ずするけど会話はできない、会話を避けるのに不仲ではない、それは青春を謳歌する者にとって比例関係を逸脱したものなのかも知れない。でも、いいんだ。私と彼女の関係における挨拶の役目は大きい、それ故に挨拶をすることに何よりも幸せを感じるし、朝、挨拶を交わせればまた一日頑張れる。

塞翁が馬。美しい馬は私に大きな絶望も、小さな幸せも見せてくれた。もう満足したよ。
4月、私は町を出た。

シナリオ(追加)

彼女は、

3月 このままなんだかんだ言って大学に合格する。
4月 県内の大学に進学。先輩と再会。
5月 浮かれて遊びまくる。
6月 部活に入ろうか迷っているところ先輩に声をかけられまた陸上を始める、もしくはマネージャーになる。
7月 どうやら先輩は恋人との仲がうまくいってない。
8月 祭り前に別れる、もしくは祭りの時に先輩が恋人に別れを告げる。
9月 先輩が別れたことで遠慮がなくなる。
10月 先輩に遠回しに告白される。

それから季節はあわただしく進む。

合格までは邪魔をしないようにと思ってた。合格したらいっぱい話そうと思ってた。でも、またしても私は、自分の選択で彼女から遠ざかった。もう、好きとも言えない。もう、触れることもできない。溜まった涙でピントが合わない。オートフォーカスが働いてくれない。ファインダー越しの彼女はやっぱり綺麗だ。

今日は彼女と先輩の結婚式。

未完の叫び

言葉遊びが好きで「海馬」「阿吽」「塞翁が馬」等のダジャレ的な要素にそって話を進めていきました。鮮明な記憶、都合よく書き換えられた記憶、拾われなかった阿の声、終始重役を果たす馬。算数の計算をしているような気分で書きました。お楽しみいただけましたでしょうか?
どうしても最終章の題が見つかりませんでした。ぼんやりとした靄にようやく朝日が照らし始めた気はします。掌編ですが、なんせ知識不足なもので、自分で読み返してこんなにも軽薄なものかと思う程でした。この小説を登録したのは夏ですが、それ以前に何度も書いては消してを繰り返していてかれこれ二年半も書き続けています。どうにも自分の中で完結しない作品です。今後何かの心境の変化で改正する可能性がありますが、その変化もお楽しみいただければと思います。

以上、ここまでお読みいただいきありがとうございました。

未完の叫び

なにやらぼんやりした「私」の人生の一端。 ※現実的、そう上手くはいかない人生の参考にどうぞ

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-30

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  1. 失われた一年
  2. 大海を駆ける馬
  3. 無題
  4. シナリオ(追加)