由香とトイ10

由香とトイ最終話

由香は最近バイトを変えた。選んだのはトリマーのバイトである。というのも、知り合いの喋るトイプードルに以前トリミングを頼まれたとき、あまり上手にできなかったためである。ちょうどよく、知り合いの獣医さんのところでアルバイトの募集をしていたので、由香は練習がてらやってみようと思ったのであった。獣医の先生は志田先生といい、由香が小さい頃、由香の家で飼っていた犬の世話をして貰っていた。先生も由香の事を覚えていて、由香は色々優遇してもらえた。バイト料金にちょっと色を付けて貰え、トリマー以外の仕事もちょいちょいやらせて貰っていた。そんな由香も動物達に触れることが苦にならず、楽しかったので将来はこんな仕事もいいかなと思っていた。そんなある時、由香は先生に「由香ちゃんは、本気で獣医を目指さないのかい」と聞かれた。志田先生は昔由香が大きくなったら獣医さんになりたいと言っていたことを覚えていてそういったのだった。「嫌ですよー。小さい頃の話じゃないですか。普通に目指しません、だって勉強できないもの」と言って由香は笑ったが、由香の中では実際はなれるならなってみたいという気持ちはないわけではなかった。ただ、なんとなく自分にはできないと思っていてどこか諦めの気持ちがあった。先生は笑って「そうならいいんだけど」と言ったが目は笑っていなかった。「由香ちゃん、僕はね、僕の弟のようになって欲しくないんだよ」先生の弟は由香もバイト中に見たことがあった。仕事中にイキナリ入ってきて、志田先生におこずかいをねだってきてびっくりした記憶があった。どうもいい年をして、定職につかずに何時までもふらふらしていているらしい。「弟は今でこそあんなんだが、昔は夢を追って頑張っていた時代もあった。ただ、必要な時に十分頑張れなかっただけなんだ」「そうですか」由香には事情がわからなかったのでそう言うしかなかった。「由香ちゃんを見てるとね、なぜか当時の弟のことを思い出すよ。だからもう一度しっかり自分のことを考えてほしい。ごめん、つまらない話ばかりして」「いえ、いいんです、ありがとうございました」その日の深夜の友人たちとのお食事会で由香は友達にそれとなく進路を聞いてみることにした。知子はその美貌で普通の一流会社の社長秘書になって若手のイケメン課長と結婚するわと言った。恵美はテレビ局のプロデューサーになって海外を旅行し、アラブの金持ちの青年と結婚するわと豪語した。由香はじゃあ、私はレースクイーンになって、モナコの王様に見初められて王妃になるわと言って、夜は更けて行くのであった。由香がもう一度、今度は由香が、獣医の先生に由香が獣医にならないかと誘われている事を話してみた。二人はお互いの顔を見合わせて「冗談でしょ?」「由香?本当にそんなこと言われたの?」と言って吹き出した。そんなに笑うこと無いのになーと思いつつも「だって獣医っていったら医者と同じくらい難しいって言われているジャン」「由香あんたそんなに頭がよくないじゃない」「きっとからかわれたんだよ」「そう、そうだよねー普通に無理だよね」と言って由香は少しほっとして言った。由香は志田先生の話を冗談だと思っていた頃、荒井教頭の家では大変なことが起きていた。喋るトイプードルのトイが病気で倒れていたのだった。荒井教頭は朝いつもの様に早起きして、朝ごはんを作っていた。ところが荒井教頭は妙な胸騒ぎがして外へ出た。すると玄関の所で丸くなっていたトイを発見したのだった。荒井教頭は慌てて由香のバイト先の志田獣医に連れて行った。そうとも知らず由香は授業を受けて、お昼を食べてなんら変わらない一日を過ごしていた。由香は家に帰るとラインに教頭先生からメッセージが来ているのに気が付いた。モコが倒れたから志田病院に来てほしいということだった。由香が慌てて病院へ行くと、荒井教頭が心配そうな顔で待合室に待っていた。荒井教頭は由香にトイの状態を教えてくれた。トイの意識は朦朧として危険な状態らしい。MRIを撮って見たところ、脳に腫瘍ができていて、それを取り除くしかトイの命を助かる方法はないと、志田先生はおっしゃった、ということだった。由香はトイの様子がおかしいことに全く気付いていなかった。もしかしたら以前から何か信号を発していたのかも知れないのに。そう思うと由香は気持ちが泥の中に沈んでいくようだった。そんな由香の気持ちを知ってか知らずか、「志田先生がすぐに手術をなさってくださっているから様子をみましょう」と荒井教頭は言った。由香は手術を待っている間、トイのことをすっと考えていた。由香とトイが初めて会った時のこと。色々な人の手助けをしたこと。トイに頼まれてトイの毛を刈ってあげたこと。由香が最後にトイにあったのは、リリアの件を終えて帰ってきた時だった。トイはいつもと変わらないように由香を馬鹿にしたように言っては笑っていた。これでお別れなんてひどいよ。「由香さん。大丈夫ですか、何か飲み物でも飲みますか」と荒井教頭が由香を気遣うように言った。「大丈夫です。急だったのでびっくりしているだけです」「そうですよね。でもモコももういい年ですしね」「トイさんは何歳だったの」「それがね、よく知らないんですよ。モコは自分のことは話しませんし。ただ私とあってから10年以上たっていますし」「…」「自分の事は話さないけど、私たちのこと、特にニュースとか新しいものが好きだったんですよね。最近ではスマホについてすごく知りたがって。私は別にいらなかったのですが、買わされてね」「それでやたら詳しかったんだ、スマホのこと」「モコは内によく来ていましたがなぜかわかりますか?」「わからない」「ラジオを聞きに来ていたんです。庭にモコ用にラジオを聞けるようにしてあったんです。なぜか本人が聞きたがってね、設置したんですよ。本当に新しい物が好きだったのでしょうね」「先生やめてください。まるでトイさんが死んじゃうみたいに、過去の物みたいに言うの」「ご、ごめんなさい。そんなつもりではなかったんです」二人の間に沈黙が流れた。「モコは絶対に助かりますよ、強い子ですもの」と教頭先生が言ったが、由香にはなんだか白々しく聞こえていらいらした。そうしているうちに、志田先生が手術室から出てきた。由香達は志田先生の所へ行くと手術はどうであったか聞いた。志田先生は「手術は成功した。でもまだ余談を許さない状態だよ。しばらく様子を見なくては何とも言えない」と深刻な顔をして言った。「それはどういう意味ですか」由香は言った。「手術に成功したんじゃないんですか?成功したのに、容体が悪くなったりするんですか」「由香さん落ち着いてください」荒井教頭は慌てて言った。志田先生は落ち着いて「手術は成功したけど、脳にダメージがいっているかもわからないし、再発するかもしれない。体力が弱っていればこの手術自体に耐えられないかもしれないんだよ」と言った。「由香さん、先生を困らせないで上げてください。無理を言って手術をしていただいたのですから、ごめんなさい先生」「いいんですよ。由香ちゃん、トイは奥の入院室に移したから行ってあげて。疲れて眠っているからそっとしてあげてね」「わかりました」と言って由香は奥の入院室へ行ってしまった。トイはベットの上で丸くなって静かに寝ていた。前見た時より痩せていて、頭の包帯が妙に痛々しかった。荒井教頭も遅れて入ってきて「モコ、よく頑張ったわね」と言った。数時間後、「ちょっとごめんなさい。流石に疲れたので少し休ませてください」と言って仮眠していた志田先生に代わって看護師さんが「そろそろ病院を閉めますので、お帰りください、後は私がみますので」と申し訳なさそうに二人に言った。荒井教頭は「志田先生にありがとうございました。よろしくお願いしますとお伝えください」と言って帰ろうとしたが、由香は「ここにいる」と言ってきかなかった。荒井教頭は「私たちにできることはもうないわ。ここにいるとかえって迷惑になります。帰りましょう」と由香を説得したが由香は聞かなかった。由香にはトイが本当にこのまま死んでしまうのではないかと恐ろしかったのだ。荒井教頭はそんな由香を見て諦めたのか「由香さん、ではお願いしますね」と言って帰ってしまった。由香にはそんな荒井先生の行動が冷たく感じられて、いらいらした。さらに時間が過ぎて、看護師さんも帰って深夜になった。起きてきた志田先生がトイの眠る部屋へと入ってきた。「志田先生」「頑張るね、由香ちゃん。でもそろそろ帰ったほうがいい。後は僕がみるよ」「いいんです。先生。トイが目覚めるまでここに居させてください」「明日は学校だろう?教頭先生も明日君が出なかったら悲しむよ」「教頭先生はいいんです。あの人トイのこと助かって欲しそうじゃなかったし」「どうしてそう思うの?」「だって凄く冷静で冷たかったし、トイがまるで死んでしまうみたいに言っていたし」「由香ちゃん、君の思い込みでそんな風に言っちゃいけないよ。教頭先生は間違いなくトイを助けたいと思っていたんだよ」「どうしてわかるんですか」「僕が言ったからだよ。助からない可能性が高いから手術をしないほうがいいですよって」「どうしてそんなことを?」「お金がかかるからだよ。由香ちゃん、今回の手術費用がいくらかかったか知っているかい?」「5万円くらい?」「40万だよ。入院費を考えたらもっといくだろう」「…」「先生は躊躇せずに言ったよ。どうか手術してくださいと。それでも教頭先生は助けたくないと思っていたのかな?」「払います」「え」「私も払います。ちょっと手持ちがないですけど、母親に借りますんで」「あのねぇ…そういうことじゃないんだけど。由香ちゃんから金を貰おうなんて思ってないよ。」「払います」「わかった、じゃあ、こうしよう出世払いで」「はい?」「僕は由香ちゃん獣医に向いていると思うんだ」「ちょっと待ってください。それは先生の冗談でしょう」「そんなこと無いよ。バイトで手伝ってもらっている時、まるで動物の言いたいことがわかっているような感じでうまく付き合えるじゃない。ベテランのようだった」「…」「それから由香ちゃん今まで本気で何かをしたいと思って行動したこと無いでしょう?そこが僕の弟にダブるんだ。本気を出さない内に年だけ取ってしまい、だめだと思って諦めてしまった僕の弟みたいに」「…意味がわかりません」「とにかく君からお金は貰わないよ。それよりも君みたいな人が獣医になってくれたほうが僕は嬉しいってことだけ覚えておいて。それともう今日は帰りなさい」「ここに居ます」志田先生は首を振ると「頑固だなぁ。じゃあ、任せるよ」と言って診察室の方へ帰って行った。由香はトイをじっと見つめながら先生の言ったことを考えてみたのだった。由香はいつの間にか眠りに着いていた。夢の中で声が聞こえる。トイの声だと気づくと、夢の中にトイが現れた。トイは言った。「今までありがとうナ。由香」由香は返事をしようとするが声にならなかった。「僕は自分の犬生に満足しているよ。僕はネ、僕を助けてくれた人や、仲間だった野良たちにお礼がしたかったんだ」と言ってトイは話しかけてくる。「僕は高野に捨てられた犬だった。小さい頃はリリアによく餌を分けてもらっていた。だからリリアやその付近の野良は皆知り合いだった。みんな救えてよかったよ」「ある時女性の坊さんが僕たち野良を今の街に連れて行き飼ってくれた。面白い坊さんだった。酒を飲んでは僕らに言葉を教えていたよ。テレビよりラジオが好きで、僕はそこでいろいろ学んだんだ。自分を大事にできない飲んだくれだったが、他人にはすごく真摯な人だったよ」「坊さんが亡くなられて、僕はそこを出てふらふらしていた。各地を転々として、いろんな人に会った。洋子に由香もそうだな」「食えなくて、住むところもなくて、つらいこともあったが、今思うと総じて楽しいものだった」「ありがとう」由香は慌てて目を覚ますと、目の前のトイは静かに寝っていた。「由香、そろそろ出ないと。電車に間に合わなくなるわよ」「わかったー。じゃあトイさん、行ってくるね。私獣医になるね。頑張るね」由香は自分の部屋に飾ってあるトイの写真に手を合わせた。今日はいよいよ引っ越しの日だった。すでに荷物は送ってある。由香と由香の母は駅まで歩いた。駅には知子と恵美が見送りに来てくれていた。「まさか、本当に受かるとは」と知子がショックを受けたように言った。「何度目、知子。由香頑張っていたからしょうがないじゃん」と恵美が笑って言った。「賭けに負けて悔しい」「あんたねー。今日ぐらいは別れを惜しみなさいよ」「由香がんばれ」「適当だねー、じゃあ私もがんばれ」「ありがとう、行ってくるね」電車が来たので由香は乗り込んだ。「じゃあねーミンナ。夏にはまた会おうね」「ばいばーい」「ばいばい」電車の扉が閉まり、電車は走り出した。由香は、空いている席に座り、スマホを取り出した。健一から来ていた。ラインで「何時ごろ着く?」と来ていたので「2時くらい?」と返事をした。由香がスマホのラインを終わらせると、壁紙にいるトイが、にやりと笑っていた。

由香とトイ10

由香とトイ10

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-30

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