かわいいひと

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ある日

「相上、そこにあるティッシュ、箱ごと投げてくれないか」
牧はわたしのことを苗字で呼ぶ。わたしも牧のことを苗字で呼ぶ。
「やだ、ちゃんと自分で取りにきて」
普通こんな風に断られたらすこしくらいはイヤな気持ちになるだろうに、(だって箱ティッシュは本当にわたしが手を伸ばせば楽々届く範囲に落っこちているのだ)牧はソファから降りて四つん這いになってこっちに近づいてくる。かわいい。わたしは牧が手を伸ばして取ろうとしたティッシュを自分の後ろに隠すようにして前屈みになりすかさず牧にキスをする。口の中に牧がさっきまで食べていたポテトチップスの味が広がる、わたしはコンソメよりうすしおが好きだけど、牧はコンソメがいちばん美味いという。
「おい、ティッシュ寄越せよ」
牧は言葉遣いこそ乱暴だけど、ほんとうは照れている。耳まで真っ赤で最高に愛らしい、髪の毛がボサボサになっている頭をめちゃくちゃに撫でてやる。当然のようにもっと髪の毛がボサボサになって、少し笑ってしまった。

わたしと牧が恋人同士になって同棲を始めてから2年と7ヶ月になる。牧は平気な顔をして「まだそんなもんかぁ」なんて言うけれど、わたしとしては驚きでしかない。
なぜなら私は極度の飽き性で、1人の男性と1年どころか1ヶ月だって一緒にいられない人間だったからだ。21にもなってまるで恋愛を覚えたての中学生のように付き合ったり別れたりを繰り返すわたしのことを両親は本当に心配しているようだったし、わたしとしてもそんな下らないことで両親に心配をかけていることについて少しだけ申し訳ない気持ちを持っていた。ちなみに両親は牧のことを知らない(もちろんわたしが話をしていないから)ため、娘の状況が実はもう心配するに足らない方面へ向かっていることもしらない。

牧とはもともとわたしが高3のころ働いていたバイト先のカフェで知り合った、牧がわたしの後輩として新しく入ってきたのだ。
そのとき牧は23歳で、わたしには付き合い始めて2週間の彼氏がいたが、そんなことはお構いなくすぐにわたしはこの年上の後輩に夢中になった。こだわりやそれに対する頓着を全く感じさせない雑に切り揃えられた短髪に、鋭い瞳と外国人のような高い鼻を持つわりと精悍な顔立ち。あと牧は飛び抜けて身長が高かった。後でそれが186センチなのだと知った。
彼が見た目に反して実はとびきり甘党なのだというキュートな情報を本人から聞かされるようになるころには、当時の彼氏などとうに別れを告げていた。「小説家を目指している」と恥ずかし気もなく堂々と言い切ってしまえるところなどもわたしはすごく良いと思った。好き、とか憧れ、とかでは無いけれど、なんだか良いな、と思った。この人、良いな。
それからすぐにわたしたちのお付き合いが始まったかというと、正確にはそうではない。彼にはその頃1年ほど連れ添った恋人がいて、わたしはそれを聞いたとき悲しいとかがっかりとかではなく、何よりも1年という単位に驚いたような記憶がある。わたしの考える恋愛には賞味期限があって、それはとても短く、間違っても1年や2年腐らずに残っているようなことはあり得ないと思っていた。そして、それを腐らずに保管できてしまう彼のことをますます良いと感じた。わたしも彼に、腐らないように大切に大切に管理されたい。
そうしていつの間にかわたしは望み叶って彼に管理される恋人という立場になったわけだが、こうして2年と7ヶ月も腐らずに生きていられるのは本当にすごいとおもう。牧はすごい。何も考えていないようでほんとうはとてもわたしのことを考えてくれているのではないかと思ってじっくり観察していた時期もあるにはあったのだが、やっぱり牧は何も考えていないようだったので(少なくともわたしにはそうとしか見えなかったので)牧は考えず感じることでそれをやってしまう人なのだろうと結論付けることにした。
牧はあれからずっと変わることなく小説家を目指している。ただすでに何冊か本を出しているのでわたしはもう牧のことを小説家だと思っているのだが、牧はわたしがそれを口に出すと決まって「俺はまだまだだよ。小説家になりたいよ」と答える。
牧がなにを基準に小説家とは何かを考えているのかはわたしにはきっと一生わからないので、考えるのもやめた。元来恋人に対してわからないことがある、というのを許容できなかったわたしがそういう風に諦めたり許したりできるようになったのは、やはり牧がわたしを管理してくれているお陰であろう。管理、なんて言い方をすればそれは恋愛ではない!なんて声高らかに叫ぶ人たちもいるだろうが、誰がなんと言おうとわたしにとって牧とのこの行為は恋愛以外の何者でもなく、それはきっとわたしと牧にしか分かり得ないものなのだろうと思う。

牧は書いている原稿が息詰まると散歩に行こうと言い出す。
「ゲームをするとか、本を読むとかじゃダメなの?」
さすがにこんな土砂降りの日に、わたしは外で散歩なんてしたくない。
「ダメだ。歩かなくちゃ思いつかないんだ」
牧は見た目通りというかなんというか、とても頑固だ。
「家の中を歩くっていうのはどう!」これは悪あがき。
「景色が動くのがいいんだ。それに家の中で歩くのを散歩とは言わない」ほらね。
「じゃあ1人で行っておいでよ、わたしは雨にうたれたくないよ」
すると牧は困った顔をしてぼそぼそと小さな声で
「相上が隣にいないと、なんだか調子が狂うんだ」
あーあ。わたしはその一言で完全にノックアウト、もうダメだ。そもそも牧に勝てるわけがない、だってわたしはあくまで管理されてる側なのだから。
「それじゃあわたしがいなくなっちゃったら小説書けなくなっちゃうね、小説家になれないね」
なんて意地悪を言いながらわたしはさっきの一言を心の中で反芻する。わたしが隣にいないと、牧の調子が狂うんだ。わたしが隣にいないとだめなんだなぁ…
なんだか笑ってしまうな、”自分が隣にいないと相手がダメになる”なんてことで喜んでしまう自分を、とても浅ましく思ってしまう。
それでも牧のことが死ぬほど愛おしいのだから、自分の浅ましさなんてものは、もうどうってことないのだった。

とある全く何の予定もない休日、喫茶店でクリームソーダを飲んでいると、前の席にしらない男の子が座る。わたしは小説をめくる手を止めて、前を向く。そのしらない男の子は、今時のわかい男の子のように少し伸ばした髪の毛をワックスやらヘアアイロンやらできっちりセットしていて、爽やかな目鼻立ちでなるほどなかなかかっこいい。ジュノンボーイみたいだ。
「あの…すいません」
とわたしとの沈黙に耐えられなくなったのかしらない男の子が先に口を開く。
「はい、なんでしょう」
とわたしはにこりともせずにしらない男の子にたずねる。
「しばらくここに座っていてもいいですか」
としらない男の子はまるで心から申し訳ないと思っているような顔をして(本当は思ってなさそうな顔だった)わたしに聞く。
「べつにいいよ」
とわたしはやっぱりにこりともせずにしらない男の子に答える。
「僕は岬といいます、岬旬です」
ああ、と思った。これでこの瞬間このしらない男の子はわたしにとってしらない男の子ではなく岬旬くんという男の子になってしまった。
「わたしは相上みきです」
岬くんが自己紹介をしたからとわたしが名前を教える義理はなかったかもしれないが、わたしの中で彼が岬くんになってしまった以上、彼の中でもわたしを相上さんにしておきたかったのだ、なんとなく。
「みきさんですか、みきさん」
しかし思いがけず彼の中でのわたしはみきさんになってしまった。いや、べつに名前で呼ばれるのが嫌だとか、自分の名字を必要以上に愛しているとかではないのだが、しかし、彼の中でわたしがみきさんになることはなぜか全く想定していなかった。
「それで…岬くん、「旬です」……旬くん」わたしの中でも彼が旬くんになってしまった。「どうしてわたしの前に座っているの?どうしてわたしに名前を教えるの」しまった、そんなつもりはないのだがすこし言い方がきつくなってしまったかな。
「僕は、あの、舞台俳優をしていまして」自分で自分のことを”舞台俳優”と紹介するのが恥ずかしいのだろうか、彼はそこでなぜか言い淀む。
「これをあなたに観にきて欲しいんです」
そう言って旬くんが傍に置いてあるカバンから取り出したのは、再来週から始まるという彼が主演を務めるという舞台のチラシとチケットであった。
「突然すみません、今みきさんが読んでた小説がちょうどこの舞台の原作で、もしかしたら興味があるかなとおもって…」
興味があるかなとおもって…でわたしの座っている席の前に腰掛けて声をかけられる彼のことを少し図々しいと思ったが、そんなこと今はどうでもいいと思った。
旬くんが渡してくれたチラシに紹介されている舞台、およびわたしが今読んでいるその舞台の原作らしい小説。それは、牧がはじめて本にして出版することができた小説だった。それはつまり、牧の書いた小説が舞台になったということで、そして、牧がそのことを何故かわたしに黙っていたということだった。
すっかり溶けてしまったアイスクリームとメロンソーダの混ざり合うお世辞にも綺麗とは言えないその色が、人間が持つ秘密の色そのもののように見えてきて、わたしはそれを口にするのが少しだけ怖くなってしまった。

サプライズ

旬くんは突然たくさんの情報(そんなにたくさんではなかったかもしれない、でも私は頭がとても悪いのだ)を詰め込まされてぼうっとしてしまった私に対して何か見当違いの罪悪感を抱いてしまったのだろう、少し気まずそうな顔をしたあと「チケット、ここに置いておきますから、よかったら、ぜひ」と言い残してそそくさと席を離れてしまった。
連絡先を聞くとか、そういうのではないんだなあ…とまるで見当違いな(人間はみんな見当を違えてばかりだ)感想を抱きながらさらにぼうっとしていると机の上で携帯が震えた。なんとなくそれを手に取りメールを確認するとそれはさくちゃんからだった。今晩付き合えないか?との用件に私は全然構わんさ!と返した。どうせならさくちゃんにこの案件を相談くらいしてやろうと思ったのだ。
してやろうと思っていたのだけど。
「相上〜〜〜〜〜っっ!わたし!どうしよう!死ぬかも!」
さくちゃんとの行きつけの居酒屋に入り席に座った途端さくちゃんは堰を切ったようにこちらへ自分の用件を押し付けてきたのだった。まあさくちゃんからのお誘いなのだからさくちゃんが私に何か言いたいことがある、というのは少し考えればわかるようなものだが。
「どうしたのさくちゃん、さくちゃんは生きてるよ、安心して」
ちなみにさくちゃんはわたしの同級生。わたしと違ってお洒落やら可愛さやらを日々研究し追求しまくっているいまどきガール。わたしと牧の関係も知っていて、わたしは付き合いたての頃から牧との惚気、ときどき真面目な相談、をさくちゃんを相手に積み重ねてきた、いわば大親友というやつだ。大親友という言葉ほど安っぽく響く言葉も珍しいと私は口にするたび感じる。
「ねえ相上わたしの話聞いてる!?」そういえばさくちゃんも私のことを苗字で呼ぶ。だからと言って私はさくちゃんのことを苗字では呼ばないけど。
「ごめん、聞いてなかったからもういっかい、おねがいします」
「この素直やろうめ…だからね!同じバイト先のイケメンと連絡先交換できたの!前から何回か話してたでしょう、年下の!」ちなみにさくちゃんは年下好きだ。世話焼きで、実家もお金持ちだからよくどうしようもない若者というやつが寄り付く。からさくちゃんはとても”カワイイ”のに安定した恋人がいない。
「相上いまなんかすごく失礼なこと考えてたでしょう」
「考えてた…なんでわかるの…」
「顔に出るのよ相上は」
なんだと。もう少しがんばってくれよ私の顔。
「それでその年下のイケメンとはうまくいきそうなの?」
「そんなに結論を急ぐんじゃないわよ、ひとまずこれを見なさい。」
そう言ってさくちゃんが見せてきたのはその年下のイケメンとさくちゃんとのツーショット写真。
「あ…」思わず声が漏れる。そんなバカみたいなことあるのだろうか。
「なによ??」怪訝そうな顔でこちらを見つめてくるさくちゃん。写真の中でそのさくちゃんと肩を並べて写っている気まずそうな顔に私はとても見覚えがあった。今日の午前中、私が喫茶店で小説を読んでいたら図々しくも目の前に座ってきた彼…
「この人の名前って、もしかして岬旬…とかだったりする…?」
私がおそるおそるその名前を口にするとさくちゃんは一瞬ポカン…という擬音がこれほど似合う人間がこの世にいるだろうか、というような顔をした後、
「え!?!?知り合い!?!?」とそもそも喧しい居酒屋という店の中でさらに喧しく叫んだ。
私はなんと説明したらいいか咄嗟に判断できず固まってしまったが、そもそも今日この誘いに乗ったのもさくちゃんに彼のこと(というか舞台化の相談をしてくれなかった牧のこと)を話そうと思っていたからだ、ということを思い出しついさっき彼に会っていたこと、彼が舞台俳優で次の舞台が牧の書いた小説の舞台化されたものであるということ、そして私はそれを牧から何も聞いていなかったということ、をさくちゃんにざっくりと話した。
「ほお…牧くんって隠し事とかできるんだね…」
さくちゃんは私と同級生なのだから当然牧よりいくつか年下なのだが牧のことを牧”くん”と呼ぶ。私はそれを面白がって度々さくちゃんと牧を会わせるのだが、牧はくん付けに慣れないらしく(なんと同級生からもさん付けされていたという!)呼ばれるたびにむず痒いような顔をするので私はそれがまた面白くてにやにやしてしまう。牧は私に負けず劣らず顔に感情が出やすいのだ。牧も自覚かあるらしくだからこそ何か悪いことを牧がしてしまったときは(勿論あまりあることではないのだが)嘘をついたり隠したりするより正直に白状するようにしているらしいし、実際私は何度か”白状”されていた。
「うん…そこも私がいちばんびっくりしてる…これまでそんなことなかったし、っていうと今回あったんだからこれまでも気付いてなかっただけであったんじゃないかって言われちゃうだろうけど…」と私がなんとなく後ろ向きになっていると、
「でもさあ…」さくちゃんはあっけらかんとした顔で
「それ悪い意味で隠されてるわけじゃないんじゃない?」
「へ…?」私はその言葉の意味が本気でわからないという顔をしていたと思う(実際本気でわからないのだから)
「いや牧くんって絶対単純な人なんだけど時たま不思議なことしてくる人じゃん?自分の小説の舞台化決まったけど、すぐ報告しないで舞台の上映日に突然チケットかなんか渡してきて一緒に観に行こうとか言いそうじゃない?それで最初はよくわからなかったけど観てるうちに意味がわかってきた相上のことにやにやしながら見ててさ、終わってからどうだった?とか嬉しそうに聞くの」
どうして私よりもさくちゃんが牧のことを分かっているように話すのか、とムッとしかけたがこれに関しては確かに私よりもさくちゃんの方が牧のことを分かっていたのだと思う。
それから2週間後のある夜、そろそろ寝ようと思って布団に入ると、牧が後ろから私を抱きしめるようにして同じように布団に潜り込んできて、私の前で交差させた手にチケットを2枚持ってきた。「明日予定がなかったらこれを観に行きたいんだ、ついてきてくれないかな」
上映が始まって私はもう何度も読み返したその物語をもう一度きちんとなぞるように舞台を見つめていて、横からの視線はそんな私を愛おしそうに見つめる牧のものだろう。旬くんは主人公の男の子を堂々と演じていて、あんなに自分のことを舞台俳優と呼ぶのを恥ずかしがっていた青年と同じ人とは思えなかった。舞台は滞りなく終演し、私は長時間目を集中して使っていた疲れを和らげるために邪魔にならない程度に小さく伸びをした。隣で牧が、「ねえ、どうだった?」と芸を成功させて飼い主に褒めてもらうのを心待ちにしている愛らしい犬のような顔で聞いた。

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-28

Copyrighted
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