ガルトムーアの魔女 第3部

ユースタス1 わたしったらどうしたことだろう、ブラッドとともに一族の墓所へ行こうとしている

 真ん丸く、こぼれそうなほど剥き出された二つの眼。
 白眼は、夜明け前の短い時間に降った雨の水が、大理石の上に薄く張ったかのよう。瞳はそこにぽっかりと浮かんだ煌めく碧玉のよう。碧玉がすべってゆく、右の眼と左の眼と、別々の方向へ。
 首がまたイヤイヤをはじめた。手と足も細かく震える。薔薇の蕾と讃えられた唇はだらしなく半開きになって、涎が糸を引いている。
 震えをこらえながら、しかしこらえきれずにぶるぶると、姉マミーリアの両腕があがってゆく。頭を挟むように押さえる。その一瞬、震えがイヤイヤが、止まる。
 叫んだ。
 とても姉の声とは、いいえ、人間の声とも思えない。まるで獣、あの世からわたしたちを死に引きずりこもうとしている獣、とたんムーアじゅうのヒースの花が落ち、見る見る枯れてゆく。
 わたしも叫びたい。とうとうマミーリアまで魔女に呪われてしまった。魔女はマミーリアにとりついて、これから何か月間も弄ぶのだ。けれども魔女がとりつくのは体だけだから、マミーリアの正気は失われず、自分が下品な人形芝居を演じさせられるのを黙って見ているしかないのだ。そうして、やがて死を待ち望むようになる。あれほど生きたがっていたのに。伯爵の花嫁になって、ロンドンへ行ってお洒落して舞踏会に招かれるのを夢見ていたのに。
 姉の姿は消えていた。なのに悲鳴は聞こえる。響きわたる悲鳴だけが残っている。わたしの口から発せられているのだ。だけど悲鳴ではない、笑い声だ、わたしは笑っているのだ、高らかに勝利に酔って。
 どう? 姉の有り様を見てもあなたは魔女の呪いなど嘘だと云うのブラッド? これではっきりしたでしょう、呪いはあるの、魔女はいるの、わたしたち一族はみな、アンヌ・マリーに殺される運命なのよ!
 最後までそう云いたかったのに声が出ない。息がつまる。負けじと怒鳴ろうとするけれど、唸り声にしかならない。魔女がわたしの耳もとで囁く。黙れ。黙れ。黙れ。黙らないと次はおまえを呪ってやる。
 肺が痙攣するほど息を吸いこんだとき、目が覚めた。
「静かにするんだ」
 ベッドにかがみこんでわたしの口を押さえていたのはブラッドだった。窓からは眩しい光が注いでいる。ブラッドの手をはねのけ起きた。 
「無礼な! 断りもなくレディの寝室に入るなんて」
「大声でうなされてたから口をふさいだんだ」
「わたし、何を云って?」
「魔女とか、呪いとか」
 憐憫がブラッドの顔に浮かんでいる。
 怒りがこみあげてきた。けれどこらえて、ことさら無表情を装った。「急ぎましょう、気づかれないうちに」
 ベッドから立ちあがったわたしは寝間着ではなくドレスを着ている。夕べは着がえずに寝たのだ。ドレスが皺になってしまったけれど仕方ない。早朝こっそり抜け出すのに、まさかネラ夫人を呼んで着がえを手伝わせるわけにはいかない。
 まったく忌々しいこと。どうしてわたしがこんな真似をしなくてはならないのか。
 わたしの名前はユースタス・ガルノートン。わたしは特別な娘。魔女の呪いから一族を救うという使命を帯びて生まれてきた。
 しかしブラッドはそのことを知らない。言い伝えによると魔女の呪いは石女がガルトムーアの女主人になったときに終わる。その石女こそ、このわたしなのだ。それはわたしの体が証明している。ああ、もどかしいこと。いっそのことドレスを脱ぎ捨て、すべてをブラッドに明かしてしまえれば。
 もちろん淑女にそんな下品な振る舞いは許されない。それに彼に子が産めぬ体だと知られてしまったら、結婚はまず望めない。ガルトムーアの女主人になるということは、つまり、まったくもって忌々しいことだけど、第十七代ガルトン伯爵ブラッドの妻になるということなのだ。
 だからわたしはただひたすら待っておればよかったのだ。マフラーにされた皮だけの狐のごとく、動かず聞かず口もつぐんでおればよかったのだ。なにしろユリアは年増だしほかにお目当ての相手がいることだし、マミーリアは可哀相に呪いで眼をおおう有り様、ブラッドが求婚する相手はもうこのわたししかいないのだから。
 それなのにわたしったら、どうしたことだろう。ブラッドとともにこうして、ほかの誰にも、ネラ夫人にも内緒で、一族の墓所へ行こうとしている。墓所に入ることは固く禁じられているというのに。でも、その墓所に秘密が隠されているとブラッドが云うのだ。そこを調べれば呪いの真相につながる何かが見つかると云うのだ。
 二百年ものあいだわたしたちガルノートン家を脅かしてきた魔女アンヌ・マリーの伝説は、まったくのでっちあげだとブラッドは云ったのだった。一族の命を奪ったのも呪いなどではなく、こともあろうにすべては女中頭の、長年わたしたちに仕えてきてくれたネラ夫人の、陰謀だとまで断言した。
 馬鹿馬鹿しい! ブラッドたら妄想にとりつかれてしまっているのだわ。と、そう笑い飛ばしてやれたらどんなによかったか。
 だけどそれをさせなかったのは、わたしのネラ夫人にたいする疑念だ。
「鍵は?」
 ブラッドが訊いた。
 わたしは黙って外衣(スペンサー)のポケットから鍵を出して見せた。
 ブラッドは頷き、そして先に立って廊下を歩き出した。
「ちょっと待って、どこへ行くの」
「表玄関から出るつもりか? みなにお早うの挨拶をして? こっちの裏階段を降りれば裏口が近い」
「そうね、あなたには慣れた抜け道でしょうね」
 わたしの皮肉をブラッドの背中は黙殺する。それでまた苛立ってしまう。ネラ夫人に不審を感じたとはいえ、だからといってブラッドを信じることもわたしはできないのだった。
 確かに天井裏のどくろや園丁の言動や、不可解な点はある。それは認めましょう。けれども筋道を、ブラッドの好きな筋道を立てて考えてみると、魔女のどくろと似かよった物が大量に出てきたからといって、また園丁がグロットーで何かを見たとしても、伝説を否定するには不充分だ。反対に伝説が真実であることは確実に証明できる。だって伝説が告げた特別な娘が、ここに存在しているもの。このわたしこそがそうだもの。
 だからわたしの出した結論は、これからすべきことは一つ。
 ブラッドを馬鹿げた妄想から目を醒まさせてやり結婚にこぎつける。姉のマミーリアを呪いから救うためにも一刻も早く。
 それにはブラッドと行動をともにして、彼の疑いの根拠を一つ一つ打ち消してやればいい。
 とはいうものの、墓所をあけて中を調べるとブラッドから聞かされたときは、さすがに躊躇した。遺体なんて眼にするだけでも恐ろしいし、それに呪いで殺された者に触れるのはタブーだ。触れた者まで呪われてしまうからだ。そのため墓所であるグロットーの扉は厳重に施錠され、鍵は銀器の戸棚や八角塔の鍵とともにネラ夫人の腰にぶらさがっている。
 おまえが鍵をとってこれるわけないな、つけつけババアには逆らえないものな。
 憎ったらしいブラッドのそのひと言がわたしを突き動かした。
 鍵束がネラ夫人の腰からはずされるのは、就寝時をのぞいては階下の厨房に立っているときだ。いまだにいい料理人が見つからなくて、毎日の正餐はあいかわらずネラ夫人がつくっている。料理のあいだ鍵はおそらく執務室だろう。
 午後三時、正餐の準備でもっとも忙しい時刻を見計らって、わたしはネラ夫人の執務室へ行った。そっと扉をあけ、隙間から体をすべりこませた。が、そこで息が止まってしまった。ネラ夫人がいたのだ、こちらをむいて椅子に座って。てっきり部屋は無人だとばかり思っていたのに。
 動けなかった。けど、すぐに悟った。ネラ夫人は眠っている。椅子に身を沈めて、片方の肩に首をもたげ、うたた寝している。
 安堵したけれど、次にどうするべきか迷った。が、迷ったりしたのがいけなかった、ネラ夫人の眼があいた。
「お嬢様!」文字どおり飛びあがって立った。普段のネラ夫人からは想像できない慌てようだ。けれどそれ以上にわたしも動揺してしまった。
「だって、呼んだのよ、何度も」
「あいすみません、わたくしとしたことがうっかり眠ってしまったようで」
「正餐の仕度はおわったの?」
「ええ」と返事して、すぐに「いいえまだ──」と云いかえ、少しの間があってつけ足した。「あとは煮こむだけですので。それでお嬢様のご用は?」
「わたしは、ええと、そうなの、それを訊きたかったの、正餐のメニューよ、ブラッドはお肉が好きでしょ、シチューにはお肉をたくさん入れて頂戴」
「かしこまりました」
「お願いね」
「お任せを」
「何の肉かしら」
「猟鳥でございます、猟場番から先日とどけられまして、吊るしておいたのがちょうど食べごろです。では鍋のようすを見てまいりますので」
 背中を押され一緒に部屋を出た。追い払われたみたいだった。無礼ともいえる態度だったが叱責はしなかった。そんなことより見つけたのだ。鍵束が書きもの机の上に置かれてあるのを。ネラ夫人が裏階段へ消えるのを陰から見とどけて、わたしはふたたび執務室へもどった。
 鍵を見せたときのブラッドの驚きようったら! そして輝いた顔。はからずも胸がどきんとなってしまった。
 彼は鍵ごとわたしの手を両手でぎゅっと握りしめてきた。握りしめられたのは手だけでなく心臓もだった。そのときからわたしの心臓は高鳴って、鼓動も速く、なんだか胸がいっぱいで息苦しくて、正餐の料理もろくに喉を通らなかった。ブラッドと交わした約束のことばかり考えていた。明朝、二人だけで墓所のグロットーへ。誰にも、もちろんネラ夫人にも秘密で。
 そんなわけだったからテーブルにならべられた料理を見たとき、何かがこころに引っかかったのだけど、とくに気にもとめずに忘れてしまった。
 そして今、わたしはブラッドについて裏階段を降りてゆく。狭い廊下を通り抜けるとまた階段。階段は暗く急で、廊下は曲がりくねっている。ブラッドが振りむく。「遅いぞ」「待ってよ、わたしは奉公人じゃないのよ」
 ほんとうにブラッドはわたしを苛立たせる。どんどん先へ行ってしまって、知らないところを歩いているわたしのことなど思いやってくれない。ブラッドが迷いもせずに奉公人の領域を歩きまわれるのは慣れているからだ。裏の通路を使って大きいほうの下女を誘惑し、母の寝室にこっそり出入りし、それどころかあの素性の知れないヒュゲットとも、とても口には出せない関係だったのだ。思い出すとあまりに汚らわしくて身をよじらずにはいられない。角を曲がった。またすぐ角。曲がったがブラッドがいない。誰の人影も見えない。見えるのは薄暗い廊下だけ。その先は闇──
 はぐれてしまった。置いていかれた。こんなところにわたし一人でどうしたらいいの? お願い、誰か来て。だけど下女にでも見つけられたら恥かしくて死んでしまう。
 いきなり横の壁があいたから悲鳴をもらしてしまった。壁かと思ったらドアだったのだ。「何してるんだ?」ブラッドが覗く。
「泣いてたのか?」
「違いますっ」
「それにしても相変わらず香水のつけすぎだ、匂いで場所が知れたよ」
「誰かさんに下女と間違えられたら困りますから」
 けれど、そっぽをむいたわたしの鼻先に手が差し出された。
 それからは手をつないで進んでいった。ぐいぐいとひっぱられたけれど、もう苛々することもなかった。心細くもならかった。わたしの手はブラッドに力強く握られていて、絶対に離されはしなかったから。
 案内された裏口は、天井裏に大量のどくろが隠されていたところとまた違う出入り口だった。間口は狭く、頭をさげないと通れない。なるほど、下女たちの姿勢が悪いのはこのせいなのね。朝陽がガルトムーアを洗っている。大地を埋めつくすヒースは誇らかに花をあおむけている。なんと輝かしい朝。
 なのにわたしたちはこれから墓を暴きにゆくのだ。
 グロットー(人工洞窟)まで、今度はわたしが先に立って歩く番だった。城舘をあおぎ見ると、屋上の八角塔の丸屋根が光ってわたしの眼を射た。マミーリアのことが思われた。可哀相なお姉様。塔に一人きりで寝かされて、さぞかし心細いだろう。不安と恐怖に打ちのめされているだろう。それでも姉は八角塔へ行くことを望んだ。
 あの日。マミーリアがとうとう魔女の呪いに侵され、わたしとブラッドの眼前で惨たらしい道化を演じさせられた日。ネラ夫人はてきぱきとマミーリアを八角塔へ隔離する準備を進めた。それは非情ではあったけれど、わたしたちを守るために必要な処置だった。ところがブラッドが止めた。なんとヒュー・ヒュゲットを呼んで姉を診察させるというのだった。
 診察? 無礼を承知で申しあげますが診察など無意味でございます、なぜならこれは──
 これは? 何だと云うんだ? まさか魔女の呪いだなんて云うんじゃないだろな。
 では、それでは、ブラッド様はご存じだったのですか。でもなぜ──
 なぜ魔女の呪いについて知っていたか。それは僕がこのガルトムーアの主だからだ。
 そんな会話が交わされたと憶えている。主の命令にはネラ夫人も従わないわけにはいかない。待ってましたとばかりにヒュゲットがやってきて、ずかずかとマミーリアに近づいてきて、あまりのことにわたしは慄きながら見守るしかなく、そうしていよいよヒュゲットが脈を診ようと手をのばしたとき、もう一人の姉ユリアが失神した。
 ヒュゲットはユリアに感謝すべきだろう。マミーリアに触れる直前バタッと音がして、振りむくと床にはユリアが倒れており、そちらを先に手当てすることになったのだから。
 そして彼はマミーリアの誇りにも救われた。マミーリアは診察をひたすら拒絶したのだ。どうぞ早く八角塔へつれていって頂戴と泣いて懇願したのだ。魔女に弄ばれる体をこれ以上人目にさらしたくないと涙を流して訴えるあいだも、その手足はバネ仕掛けの玩具のように陽気に跳ねていた。
 しかしブラッドは、ネラ夫人と大きいほうの下女によってマミーリアが八角塔へ運ばれてゆくときも、執拗に診察を迫った。卑怯にも当主としての権力を振りかざして。だから可哀相なマミーリアは屈辱をさらに重ねることになった。奉公人のネラ夫人に懇願したのだ。お願い、神に誓って約束して頂戴、八角塔の鍵は誰にもわたさないと。廊下のつきあたりの羅紗布で隠された扉は、ブラッドとヒュゲットの鼻先で音高く閉じられた。
 マミーリア。八角塔のあの狭い明かりとりの窓にも、この朝陽が射しこんでいるかしら。どうか清らかな光が少しでもマミーリアの慰めとなりますように。
「ここか?」
 ブラッドが云った。わたしたちは四角い石造りの窓のない建物まで来ていた。
「いいえ。これは氷室よ」
 足を止めずにわたしは進む。ブラッドはついて来ながら首をめぐらせて氷室を眺めている。
 やがて丘に埋もれかけた、石垣の名残りのようなものが見えてきた。そこをまわりこむと扉が現れた。
 人口の洞窟といっても半分は自然の地形を利用してつくったものだった。ちょっとした隆起に、石を積みあげて扉をはめこんで入り口にしたそのようすは、丘にただ扉だけが立っているようにも見える。けれど内側は奥深く掘られ地下室になっていると、以前ネラ夫人から聞いたことがある。もちろん決まりがあるから、わたしは入ったことなどない。それどころかここまで近づいたのも、葬儀のときをのぞいてはじめてなのだ。
「わたしったら何をしているのかしら、遺体にさわったら駄目なのよ、自分も呪われてしまうのよ、アンヌ・マリーに」
「まだそんなことを云ってるのか。呪いなんて嘘に決まってるだろ」
 嘘だと云うのなら、これは何なの。わたしは感じる。いつだって感じていた。今も背中に、首筋に、体じゅうの皮膚に、刺さってくる。これはアンヌ・マリーの視線。アンヌ・マリーは常にわたしたち一族を見張っている。
「わたし、わたし、間違っていたわ」
「鍵を貸せ」
「いいえ駄目。だってネラ夫人が」
「ネラだって? 全部あいつの仕業なんだよ、遺体にさわるなと云ったのはネラだろう、グロットーにも近づくなって云ったんだろう、わからないのか、それはこの中に見られては困るものがあるからだ」
「見られては困るもの──」
 黒くどっしりとした扉がグロットーを封印している。両開きの扉は鉄製で、左右の取っ手は鎖で巻かれている。鎖の太さは地獄の門をつなぐのにもふさわしく、そこにさらにわたしの手のひらほどの南京錠がぶらさがっている。去年の春、この扉は開かれた。奥の闇にぼんやりと角灯の光が揺らいでいた。そして園丁が悲鳴とともに飛び出してきて──
「思い出したわ! 園丁は、『なかった』と云ったのよ」
「園丁?」
「兄のジョンの葬儀のときよ」
「柩持ちの男か」
「ええ、グロットーの中へ兄の柩を運んでいったのだけど、悲鳴をあげて出てきたの、ネラ夫人が云うにはあの園丁──あなた、なぜ柩持ちだと知っているの?」
「あの女が何て云ったって?」
「園丁は遺体に触れたと云ったのよ。でもそれは嘘だわ、園丁はそんなことは云ってなかった、ただ、『なかった』といったのよ、なかったって何がなかったの?」
 ブラッドの声はいやに落ち着きはらっていた。
「なかったのは頭さ、遺体の頭」
 今何て? 頭ですって?
「何を云い出すの、兄を侮辱するつもり? ジョン兄様の遺体はちゃんとしていました、柩に納められたのをこの眼で見たもの」
「埋葬された先代伯爵の話じゃない、それより前の遺体だ。園丁が躓いた拍子に、棚にあった柩の蓋がずれてしまった、中には婦人の遺体が横たわっていたが、頭がなかった」
 喉をのぼってきたのは笑いだった。そんな馬鹿な、突拍子もないこと。だけど笑い声はひどく乾いていて喉にひっかかる。
「疑うなら自分の眼で確かめればいい、鍵を出して扉をあけて」
「おかしいわ、なぜあなたがその話を知っているの、一年前あなたはここにいなかったのに」
 混乱する、いったい何が正しくて何が間違っているのか。棚にあった柩の蓋がずれたですって? 頭のない婦人の遺体ですって? はっと息が止まった。
「アンヌ・マリーよ、アンヌ・マリーは斬首刑にされたのよ、ネラ夫人の云ったことは真実だったんだわ、園丁はアンヌ・マリーの遺体に触れたんだわ」
 その瞬間、頬に火がついた。ブラッドに頬をはられたのだった。
「鍵を出せ」
 頬が熱い。厭よ。
「しっかりしろユースタス、筋道を立てて考えるんだ、魔女なんていやしないんだ」
 いいえ、とかぶりを振る。魔女はいるのよ。
 けれども、魔女はいるけれども、アンヌ・マリーがひとにのりうつるのは失った体を求めているから。それが呪いなのだ。もしグロットーにアンヌ・マリーの遺体があったりしたら、話の筋が通らなくなってしまう。
「園丁が見たというのは骨になりかかった遺体だ、埋葬されてからまだ二、三年といったとこだろう。金の指輪をはめて、胸にリボンの飾りがついた屍衣を着ていたと云っていた」
 埋葬されて二、三年──、指輪──、胸にリボンの飾り──。エレン伯母様のことを云っているのかしら。伯母様が亡くなったのは一昨年だし、屍衣はリボンの胸飾りのあるドレスだった。金の指輪もはめていた。 
「そんなはずないわ、エレン伯母様も兄とおなじよ、亡くなったのは呪いのせいよ」
「ほんとうは首を切断されて殺されたんじゃないのか」
「まさか。姉たちにも訊いてみればいいわ、葬儀のとき柩の中の伯母様にみんなでお別れをしたもの。園丁が嘘を云っているのだわ」
「だから筋道を立てて考えてみろよ、そんな嘘をついて逃げ出して、せっかくの駄賃もふいにして、園丁に何の得がある?」
 そうね、おっしゃるとおりよ、得などありゃしない。
 けれども、何もかも筋の通らないことばかりではないか。三月前にロンドンから来たブラッドが、昨年の園丁の一件をなぜ知っているのか。あれほどひた隠しにしてきたのに、魔女の呪いのこともなぜ知っているのか。首がなかったというエレン伯母かもしれない遺体。ネラ夫人がわたしについた嘘。
 唐突に思い出された。昨日、正餐のときに感じていた違和感が何であったか。メニューが違っていたのだ。鍵をとりに忍びこんだら、てっきり料理に忙しいと思っていたネラ夫人がうたた寝していた。あとは煮こむだけだからと云っていた。けれどもテーブルにならんだのはシチューじゃなかった。パイは煮込み料理じゃない……
「痛かったか? ごめん」
 ブラッドの手がわたしの頬を撫でる。ぶたれた頬はまだじんじんと熱を持ち、ブラッドの手はざらついている。少なくともこの感触は筋が通っている。痛いのは叩かれたから。ざらざらするのは荒れた手だから。外衣のポケットから鍵を出してわたした。わたしにできることはそれだけなのだった。
 南京錠に鍵がさしこまれる。
 しかし鍵が入りきらない。ブラッドは苦心している。一度引き抜き、鍵を見て、またさしこむ。
「ほんとうにこの鍵であっているのか」
「ええ、間違いない、間違えるもんですか、昨年も兄と伯母、二度もここに遺体を納めたのよ、そのたびにこの鍵を使ったわ」
「糞っ」
 鍵を抜いて南京錠の鍵穴を覗きこむ。
「何かつまってる」
 わたしも見てみた。
「何かしら、泥かしら、でも白いのもつまっているわ、何本か」
 ブラッドが錠前に鼻をくっつけた。「肉の匂いがする、昨日のパイだ」
 そんなはしたない真似、と思ったけれど、わたしもそろそろと鼻を近づけた。確かに昨日のパイの匂いだった。金臭さにナツメッグやジャコウソウの香りが混じっていた。肉の臭味を消すために入れるのだ。
「白いのは骨だ、たぶんキジ。鍵穴に細い鳥の骨を何本も入れて、きっちり隙間もパイの中身でつめたんだ」
 そう、昨日の正餐はキジ肉のパイだった、とろとろに煮こんだシチューではなく。
「念の入った細工だ、ネラの仕業だな」
「なぜ決めつけるの」
「ほかに誰が僕らの邪魔をするっていうんだ、おおかた鍵を盗んだことがばれたんだろうよ」
「もう帰りましょ」
 あれほど胸を騒がせた疑念も困惑も、急速におさまってゆく、巣穴から這い出た蛇がまたひっこんでゆくように。
「墓所に入って遺体を見るだなんて、わざわざ魔女に呪われにいくようなものよ、ネラ夫人のおかげで愚行を犯さずにすんだわ」
 せせら笑われた。
「お姫様のささやかな冒険には似合いの結末だな」
「あら、必ずしもわたしの失敗かしら? ほかの可能性もあるんじゃなくて?」
「どういう意味だ」
 そうね、例えば誰かさんが特殊な関係にある下女にグロットーの鍵を持ってこいと命じたのだけど、彼女は恩ある女中頭を裏切るなど到底できず結局は密告したという可能性よ、と云ってやれたらどんなに胸がすくことか。だけどできない。ブラッドと下女の関係をあげつらうなんて下品な真似、わたしのプライドが許さない。
「そうね、やはりわたしの失敗かもしれないわね。昨日、部屋に忍びこんだらネラ夫人と鉢合わせしてしまったの。きっとそのときのわたしの態度でばれてしまったのね、それで正餐のメニューも変えたんだわ、シチューでは鍵穴のつめものにならないもの」
 腹立たしいことだが貴婦人として立派に振る舞うのなら、刃は先に納めなくてはならない。
 ブラッドが錠前を見つめて首をひねっていた。
「妙だな、するとネラは知っていながら鍵を盗ませたことになる。理由は何だ?」 
 わたしはただ肩をすくませた。そりゃあブラッドには見当もつかないでしょうよ、ネラ夫人はあなたとの二人だけの時間をつくってくれたのよ、早く親密になって求婚してもらえるようにと。なんとも忌々しい気遣いだこと。
「斧をとってこよう。鎖を叩き切ってやる」
 云うなり駆けていってしまった。せっかちなひと、少しもじっとしていない。
 煌めく朝陽が美しい。鳥はのどかに歌っている。陽射しに温められ花の香りも立ちのぼる。そのすべてをわたしは憎んだ。なぜわたしは待っているのだろう。ブラッドなど放っておいて帰ってしまえばいいのに。ようやっと走ってくるブラッドが見えた。
「大金持ちのくせして斧もないのか」もどってくるなり罵る。野良仕事の道具のことなんてわたしが知るもんですか、奉公人じゃあるまいし。
「斧のかわりに、それは何を持ってきたの」
「お嬢様は何にも知らないんだな、泥炭(ピート)を掘る鋤だよ」
 ブラッドがいかにも呆れたという視線をよこしてきたけど、わたしだって呆れ返った。鋤は木製なのだ。形は巨大なバターナイフといったところ。そんな代物で本気でこの太い鎖を叩き切るつもり?
 するとブラッドは鋤を鎖と扉のあいだに上からさし入れた。先端を扉の下、地面との境目に突き刺す。それがてこの支点で、鎖は鋤の真ん中あたり、柄はその上に突き出ていて、それを持ってぶらさがるようにして引く。そうすると鋤が鎖をひっぱるという具合だ。つい感心してしまった。
「ぼーっと見てないで手伝えよ」
 一緒になって柄につかまった。力いっぱいひっぱる。鎖の輪のつなぎ目が開きそうな気がする。
「もっと力を入れろ」
 手が痛い、肩が痛い、今までこんなに力を出したことってないわ。
 突然、大きな音がして、体が投げ出された。鋤が折れてしまったのだった。鎖はびくともしなかった。
 折れた柄を投げ捨てブラッドは悪態をついた。わたしは真っ黒になった手袋にため息をついた。そろそろ城にもどらなくてはならない。朝食室へ行くまえにドレスの泥を落とし髪も直したい。
「グロットーを調べられなくても、ほかに手はあるはずだ」
「呆れた、まだ何かする気なの」
「僕を信じられないなら、あの園丁から話を聞けばいい」
「何ですって?」
「そうさ、そうだよ、あの園丁は──!」
「園丁がどうしたというの?」
 とっておきの悪戯を思いついたとでもいうように、ブラッドはにやにやしている。
「会えばわかる」
「何がわかるというのよ」もう、うんざりだわ。
「園丁に会いに行くぞ、今度こそおまえの目も醒めるだろうよ」
「あなた正気なの? わたしに奉公人に会いに行けというの」
 かぶりを振ってわたしは歩き出した。話にならなかった。

 なのに、どうしてまたブラッドと一緒に馬車に乗っているのか。
 昨日とおなじく早朝だった。わたしはふたたびガルトムーア・ホールを抜け出したのだった。馬車は無蓋の二輪(カーリクル)で、御者席でブラッドが手綱を握っている。急ぐわたしたちを朝陽が長く腕を伸ばして追ってくる。
 昨日はあれから一日じゅう、怒りがわたしを支配していた。グロットーからもどってきたあと城で顔をあわせてもブラッドはすまし顔で、それが憎らしかった。お風呂に入ろうとして、お湯を運んできた大きい下女を見たとたん、吐くほどの嫌悪感を覚えた。だから下女が地下から十往復してやっとバスタブがお湯で満たされてから、気が変わったといって片付けさせてやった。お湯を捨てにまた十往復だ。
 ネラ夫人がやってきたときその腰の鍵束の中に、こっそり返しておいた鍵を認めた。ところがネラ夫人は何も云わない。首尾はどうだったかと訊かない。顔色を窺っているうちまたお腹の底が煮えきた。その素知らぬふりは何? わざと鍵を盗ませてやったのにせっかくの機会をふいにしたと無言で責めているの? それともいっさい話題にしないことで失敗を慰めているつもり? 
 裏切られた気持ちにしかなれない。疑念と怒りが入り混じって、暖炉にくべた泥炭のようにしぶとく燻りつづけ、夜になってもわたしを眠らせてはくれなかった。そのころにはもう何にたいしての怒りなのか疑いなのか、自分でもわからなくなっていた。大声で叫びたい。香水瓶を叩き割ってやりたい。だけど叫ぶかわりに呼び出しベルの紐を引き、瓶を割るかわりにココアを持ってくるよう命じた。これが貴婦人として恥ずかしくない振る舞いなのだ。
 そんなわたしを神様はお見捨てにはならなかった。ココアを持ってきたのが大きいほうの下女だったらお盆ごと床に投げつけたかもしれない。だけど続き部屋の奥の奉公人専用ドアから入ってきたのは小さいほう、煤だらけの真っ黒な娘だった。
 下女はお盆を大仰に掲げて持って、ゆっくりそろそろと歩いた。それだけ慎重に動いても、敷物の何もひっかかるものなどないところで躓き、転びはしなかったもののカップの下の皿にココアがこぼれた。
 しかしわたしは寛大なこころで許した。この白痴の娘をわたしは憐れんだ。するとさっきまでささくれていた胸が不思議なほど安らいだ。娘は愚かなりにも精一杯感謝を表した。跪いてわたしの手に何度も何度も口づけるものだから、もともといい加減にかぶっていたボンネットがずり落ちてしまう。それでも口づけをやめない。かわいい娘。これからは大きいほうではなくこの娘に用をいいつけよう。
 下女を見送り、カップをとる。すると皿に乗っていた。小さく折りたたまれた紙だ。こぼれたココアがしみている。
『明朝、今朝教えた裏の出入り口、誰にも知られずに』
 書いてあったのはそれだけだった。即座に破り捨てた。もう二度とブラッドのいうなりにはならない、なるものか! 
 だがあろうことか、夜明けとともにわたしはまたこっそりと裏階段を降りていったのだった。
 狭い踊り場で下女と鉢合わせしてしまった。大きいほうの下女だ。よりにもよって大きいほうだ。心臓が止まるかと思った。下女のほうもいつもはどんよりとうつむいているくせに、驚いた眼を不躾にこちらにむけてくる。
「おまえを探しにきたのよ」とっさに云いつくろった。「ベルを鳴らしたのに聞こえなかったの? お風呂に入りたいの、お湯を沸かして運んで頂戴」
 下女はのろのろと頷く。
「急いで! 早くして!」
 ドタドタと駆け降りていった。重たい湯桶を持ってまた十往復するがいい。
 昨日はグロットーへ案内させられ、今日は卑しい村へと連れ出される。裏口で待ち構えていたブラッドは、わたしが呼び出しに応じることを露ほども疑っていなかったようすで、園丁に会いに行くとぶっきらぼうに告げるのだった。昨日と同様、園丁に会えば何が真実なのかわかるというのだ。
 最初は歩いてゆくと云われ仰天した。なら馬に乗れるかと訊かれ、とんでもないと首を振った。まったく何を考えているのかしらと呆れていると、ブラッドもおなじ眼でわたしを見ていた。
 そうして馬車で行くことになったのだ。ガルトムーア・ホールにある一番軽いこの無蓋二輪馬車(カーリクル)をブラッドは自分でひっぱり出して来た。そしてやはり自分で馬車を操っている。その落ち着いた手綱さばきを後ろの座席から眺めた。風がブラッドの髪をすくいあげ、それからわたしの頬を撫ぜてゆく。空の色はまだ淡く、雲のたなびく位置も低い。ムーアの稜線は眠たげだ。
 馬車の速度が落ちた。前方に人の姿があった。牧童だろうか。それでブラッドが安全のためと手綱を引いたのだろう。
 ところが牧童を追いこすとき、ブラッドがやにわ腕を振りあげた。空気を切る鋭い音がした。鞭の唸りだ。肉を打つ響きと牧童が倒れこむのと同時だった。
 ブラッドが追いこしざまに牧童を鞭で打ったのだ。信じられない、なんという暴挙、理由もなくいきなり何をするの。紳士なら身分の低いものへは慈悲を示さねばならないのに。
 自分の行いの成果を見定めようと、ブラッドは半身をひねって振り返った。牧童も打たれた顔を押さえ卑屈に上目遣いでこちらを見あげた。その眼がむき出されていく、まるで何かに驚いたかのように。
 するとブラッドが笑った。高らかに、さも愉快げに。
 狂ってる! このひと気が変なのだわ。
 どうしよう。こんな狂人の言葉を真に受けてわたしはどこへつれていかれようとしているの。思いきって馬車から飛び降りようか。しかし逃げ帰ろうにもここがどこだかわからない。ガルトムーア・ホールはとうに見えず、荒野だけが地の果てまで広がっている。
 そしてわたしをさらに恐怖に突き落としたのは、さっきの牧童があとを追ってきた!
 男は鞭打たれた傷から血を流しながら死に物狂いで走ってきて、こちらを指さした。
「魔女め!」
 耳を疑った。男は今、魔女と呼ばなかったか。
 ふたたび男が叫ぶ。
「おまえの正体を知ってるぞ、今度こそ火炙りにしてやるぞ」
 馬車は走り、眼に映る男の形相が幾重にもぶれる。怒りと憎しみに満ち満ちた形相。それなのにブラッドはまだ高笑いしている。
 わたしは耳をふさいで縮こまった。けれどもブラッドの笑い声がなおも脳を焼き、そして男の罵倒が胸に刺さった。
 魔女め、バケモノめ……

ブラッド1 園丁に会えば真実がわかる

 メイナスに一発お見舞いしてやった。馬みたいに鞭で打ってやった。すっとした。こんなところでメイナス・ジョイスに再会するとは嬉しい驚きだ。どうせ飲んだくれての朝帰りだろう。おかげで昔のお礼をしてやれた。まだ全然足りないけどね。
 今日は朝から幸先がいい。馬車は風を切って走り、ムーアが緑や赤紫の錦織りとなって流れる。さすが伯爵家のカーリクル、村の荷馬車とは大違いだ。
 だけど後ろの座席でユースタスは震えてる。メイナスに魔女と叫ばれたのが相当こたえたらしい。いつだって自分のことしか頭にないから、罵られた相手は自分だと勘違いしてるんだろう。
 馬鹿な娘。可哀相な娘。どれだけ説いてやってもまだ魔女の呪いを信じている。あの頑固さは、魔女の伝説にしがみついているといったほうがいいかもしれない。まるで海底の岩にへばりついて離れない牡蠣みたいに。離れたらあっという間に波にさらわれ、どこか遠くの知らない場所で迷子になってしまうと怯えてるんだ。憐れな娘。あんまり憐れすぎて、つい仇だということを忘れてしまう。僕の家族、僕の身分、僕そのものを奪った張本人なのに。
 僕の名前はブラッド。ブラッド・ガルノートン。第十七代ガルトン伯爵ブラッドだ。
 だけど数ヶ月前まではアレクサという名前だった。その前はクズとかバケモンとか呼ばれていた。だけどほんとうの名はユースタス。僕こそが本物のユースタス・ガルノートンなのだ。
 筋道を立てて話そう。順番に話したほうがいいだろう。
 一年ぶりにガルトムーアにもどってきて、ガルトムーア・ホールの門を叩き、この僕がブラッドだと名乗ってやったときのスーザン・ネラの顔といったら! 痛快だった。すっかり青くなってた。そりゃそうだろう、偽者として雇ったのは鋏研ぎの爺さんなのに、見たこともない少年が持ってるはずのない手紙を見せ、自分が新しいガルトン伯爵だって云うんだから。
「新しい伯爵様は大変なご高齢とうかがっておりましたが、」さぐるように見てきた。
「僕は十四になったばかりだが、この二月に」皮肉をこめて返してやった。
 一筋の髪も残さずきっちりと結いあげたその頭の中でめまぐるしく考えたんだろう、わずかの間のあと、ああ、と手を打った。
「ご子息様ですね」
 あとはネラが勝手につじつまをあわせた。
「ご高齢のブラッド様は亡くなられた、とそういうわけなのですね。そしてあなた様はご子息のブラッド・ジュニア様、大変失礼いたしました」
 それからは芝居の観客になった気分だ。いいや、僕も男に化けて、少年伯爵の役を演じているから、芝居の一部か。滑稽で馬鹿げた、お粗末な芝居だ。ガルノートン家の娘たちが僕に結婚してもらおうと、やっきになって機嫌をとろうとする。媚を売ってくる。失望した。何度、僕はあんたらの妹なんだぞ、と叫びたくなったことか。だからつい苛めてしまったんだ。長女のユリアはまだましだった。だけどヒューに惚れてしまったのはいただけない。気の毒に、こういう女はメスマー館の患者にも何人かいたっけ。なんでか純情な女はヒューに夢中になるんだ。ユリアにいつ、ヒューには男の恋人が、じゃない、男の恋人もいるって教えてやるべきか。
 頭を悩ませているのに当のヒューは魔女の呪いの調査しか眼中になかった。城舘に来た当初ヒューから云いわたされたのは、出された食べ物は絶対に口にするなということだった。最初僕らは、呪いの正体は食事に混ぜられた毒かもしれないと考えていたからだ。はじめての正餐に難癖をつけてやったのはそういうわけだったんだ。けど、もう一つは母さんに会いたかったってこともある。待ちに待った後継者が来たというのに舘の女主人がなぜ挨拶にも現れない? 貴族のくせに礼儀にかなってないじゃないか。正餐でやっと姿を見せた母に、なんだか泣きそうになってしまった。泣きたいほどの幸せを感じたんだ。だけど次には怒りがどうしようもなく湧きあがった。母さんは廃人だった。メスマー館にアルコール浸けになったハイイロリスの標本が飾ってあったけど、母さんもそれとおなじだった。ガラスの広口瓶に閉じこめられた貴族人形、瓶へとっぷりと阿片チンキを注いだのはスーザン・ネラだ。女主人をいいように操ろうと阿片づけにしてしまったのだ。もしほんとうに伯爵家にとりついた魔女がいるとしたら、ネラこそそうだ。一刻も早く陰謀を暴いて、この腹黒い魔女を吊るしあげてやる。
 しかしそれには証拠が必要だ。だからガルトムーア・ホール(ここ)に来てまずバートルを探した。バートルならネラの悪だくみのすべてを知っているはずだ。僕はバートルはやっぱりガルノートン家の召使いじゃないかと思ってたんだ。城に自由に出入りしていたし、ネラがそばに置いて使いやすい。だけどハーマン氏の報告書のとおりだった。男の使用人はいなかった。執事すらいなかった。もちろんバートルの家にも行ってみたが、すでにもぬけの殻だった。
 次にヒューを城の裏口につれて行って、どくろを見せた。アレクサだった僕がガルトムーア・ホールに入りこんだとき見つけたどくろだ。壁の石をはずして隠しておいたんだけど、ちゃんとあった。頭のてっぺんを割られて丸く穴のあいたどくろを、なるほど、なるほど、とヒューはひっくり返したり、指でおおまかに測ったりした。これが天井から落ちてきたんだな? 
 ヒューは壁にかたしてあった瓦礫をのぼって、天井を補修した板を押しあげ覗いた。おっ、と声を発し、指であがってこいと合図する。僕も瓦礫に乗って天井に頭をつっこみ、驚いた。どくろは一個だけじゃあなかったんだ。天井裏に大量に転がってた。どれもみな、やっぱり脳天に穴があいている。
 その中にはまだ骨になりきってないどくろもあった。上半分はすでに骨があらわになっていて、からっぽの眼窩がこっちを見つめていたけど、その下は、食物庫の片隅に忘れ去られていた干し肉のような、乾いて縮んで黒く変色した皮膚が骨にぴったりとはりついていた。唇はほとんど形が失われていて、でもよく見ると口紅の色が残っていた。まばらに残っていた長い毛髪がからまっていた。
 柩持ちの園丁がグロットーで目撃したと云っていた頭のない女の遺体は、まだ骨になりきってなかった。ではこのどくろがその頭?
 後日、ユースタスに天井裏のどくろの群れを見せてやったとき、半分骨になったその頭は奥に突っこんでおいた。頭のない遺体はエレン伯母だと云ったからだ。いくらなんでも惨すぎるだろう、変わりはてた、それも頭だけの伯母と再会するなんて。ほんとうは僕の伯母なんだけど。
 最初は単純に、ネラがガルノートン家の人間を次々に首を切断して殺してきたと考えていたんだ。でも、それでは筋が通らない。呪いで死んだジョンもエレン伯母も、ユースタスが断言するには、葬られたとき首と胴体はちゃんとつながっていた。それにだいたい、どくろの数が多すぎる。四つや五つではない、ざっと数えても三十以上。ネラが城に来てから死んだ一族の数よりはるかに多い。
 そして脳天の穴。これが一番不可解だ。どくろだけ見るとこう思える。頭の骨が割れるほど殴って、それから首を切断された。まるでネラがでっちあげたアンヌ・マリーの伝説どおりに。
 もちろんそんなわけない。エレン伯母が呪いと呼ばれている状態になって死んだことは、周知の事実だ。そして埋葬され、それから首だけ盗まれたんだ。でもいったい、何のために?
 するとヒューが云った。すべてのどくろが同様に割られているのは、なにやら儀式めいている。
 儀式だって? じゃあネラは墓から首を盗んできて、祭壇に祭ってムニャムニャ呪文を唱えて叩き割って、ガルノートン家の人間を呪い殺してきたっていうわけ? スーザン・ネラの正体は本物の魔女なのか?
 きっぱりとヒューは首を振る。魔女だの呪いだの、そんなものは迷信だ。必ずからくりがあるはずだ。それを科学で解明するために俺たちは来たんじゃないか。
 しかし、ヒューの調査は行きづまってしまった。やたらと歩きまわって髪をかきむしり、書物をめくっては放り出し、はたと顔をあげ、けどすぐにかぶりを振り、そしてまた狭いところを行ったり来たり。
 部屋が狭くなって獣臭いのは、ムーアで捕まえてきた穴ウサギやイタチが入れられた籠が幾つも置いてあるからだ。ガルトムーア・ホールで出された食事を食べさせているんだけど、毒の効き目はいっこうに現れない。だいたい癪に障ることに、毎度正餐はこれみよがしに銀食器に乗っかっているんだ。銀食器の毒による変色は一筋もなく、実験動物たちはたらふく食べさせてもらってる。そうして籠の中でころころに太って昼寝しているやつを、硬くなったチーズしか口にできない僕が恨めしく眺めるといった次第。
 調査に多少の進展があったとすれば、僕が呪いについて聞き出したことだろう。二人っきりで話そうと誘うとマミーリアは喜んでついてきて、問われるままペラペラ喋った。ほんとは話しちゃいけないってネラ夫人からきつく禁じられているんだけど、といつも必ずもったいつけて。僕より高い背をせいぜいかがめて送ってくる上目遣いには、心底うんざりだった。でも辛抱した甲斐はあった。魔女の呪いとは、魔女がのりうつると思われているらしい。寒くもないのに体が震え、意思に反して手足が勝手に動き、意味のない叫びや笑いが唐突に発せられる。思いあたったのはバートルの女房だ。叫んだり笑ったりしながら奇妙な踊りを踊っていた。あれは気が狂っていたんじゃなくて、呪いのせいだったんじゃないだろうか。
 やがて呪いに侵された者はベッドから起きあがれなくなる。食べることも水を飲むこともできなくなる。そうしてしまいに衰弱して死んでしまう。園丁が話していた死んだ先代伯爵ジョンの様相はそういうわけだったんだ。十八歳の少年のはずなのに柩に納められていたのはまるで老人のようだった、魔女に命を吸いとられたようだった──
 あれは思い立ってヒューと出かけた日のことだ。
 園丁に会ってもう一度詳しい話を聞きにいく、というのが目的だったけど、動物実験で行きづまったヒューの気分を変えてやろうと思ったんだ。銀狐の尾っぽ亭へ行き、園丁の家の場所を尋ねたら、亭主は震えあがって十字を切った。僕が新しいガルトン伯爵だと知れると、地べたにひれ伏さんばかりに許しを請うた。──わしは何も知りません、ジョン様の葬式のことも知りません、噂なんかなんも聞いとりません、なんも、なんも、なあんも! 許しを請うているのは魔女にたいして、伯爵家を呪っているという魔女アンヌ・マリーにたいしてだった。
 園丁はまるで別人だった。一気に十も老けたかのようで、あの細い眼は落ち窪んで皺と見分けがつかなくなり、ヒューがその眼の目蓋をめくると、右と左の黒目がまるで糸でひっぱられているみたいに逆方向へ流れるんだ。そして始終首を振っている。赤ん坊がイヤイヤするみたいに。
 まさしくそれはマミーリアから聞いた呪い、魔女がのりうつっている状態だった。
 ──うちの亭主は見てしまったんです、伯爵様のお墓に入って見てはいけないものを見てしまったんです、魔女は秘密を漏らされるのが大嫌い、許さないんです。
 違う。許さないのはスーザン・ネラだ。墓の中の首のない遺体を見られ、口封じしようとしてるんだ。
 しかし、もし呪いが、スーザン・ネラが何かの毒を使って起こしていることなら、どうやって園丁に毒を盛ったのだろう。怯えきっている女房を宥めたりすかしたりヒューが聞き出したところによると、亭主のようすがおかしくなりだしたのは二ヶ月ほどまえ、けれどそのころガルトムーア・ホールでの庭仕事はなかった。というのも昨年の葬儀のおり途中で逃げ出してしまったのが女中頭のネラの逆鱗に触れ、馘になってしまったという。だから当然、城から誰かが尋ねてきたとか、何か特別に給わったとかも──例えば酒とか──あるわけがなかった。
 ヒューは考えを変えつつあった。呪いは毒が原因なのではなく、ある種の病気なのではないか。だとしたら、けっして呪われた者に触れてはいけないという決まりも頷ける。感染を恐れているのだ。ヒューが云うにはその地方に特有の病気、というものがあるらしい。例えばケント州やエセックス州では、狩りの季節になるとマラリアという恐ろしい熱病が流行るが、原因はその土地の沼から発生する臭い空気だという。マラリアという言葉は悪い空気という意味だそうだ。
 けど僕は認められなかった。だってもし病気だというのなら、どうしてガルノートン一族ばかりが罹るんだ。どうして都合よく園丁が罹ったんだ。ネラは病気を自由に操れるってことか。それこそ魔女じゃないか。
 しかしヒューは云った。そもそも、このような症状をひき起こす毒とは何であろうか。砒素、トリカブト、麦角、ヒヨス、ベラドンナ……そのどれもがあてはまらない。患者の体はたえず痙攣しているが特に痛みは訴えない。嘔吐もない。錯乱することもなく意識ははっきりしている。こんな中毒症状は見たことがない。それに例えば殺鼠剤にも使われているストリキニーネは同様に烈しい痙攣を起こすが、摂取後は数時間で死に至る。砒素だってそうだ。なのにこの男は何ヶ月も生きながらえている。
 毒を少しずつあたえているとしたら? 僕は推理してみる。バートルがネラに命じられ村に潜伏して、こっそり園丁一家の食べ物に毒を混ぜつづけてるんだ。ガルトムーア・ホールに姿がないのもそれで説明がつく。
 けれどもヒューはかぶりを振って、現実的ではないな。女房も村の連中も怪しい人物など見かけていないと云っている。第一、女房はぴんぴんしているぞ、亭主と同じものを食べているんだろう? 
 確かにそうだ。だいたい毒殺するつもりなら一度ですませりゃいい。犯行を長引かせたって何の徳もない。
 結局、呪いの正体はつかめぬままだ。
 でもまあ、ヒューは病気のせんで調べを進め出し、晴れてガルトムーア・ホールの正餐を食してよいとお許しが出たのは嬉しかった。持ちこんだパンやチーズや葡萄酒も切れてきたころだった。認めたくはないがネラの料理の腕は中々だ。ローストの肉汁が口に広がるのなんかこたえられない。煮込みも味がしみてていい。あっちの皿のほうが肉が大きい、こっちの皿のほうが美味そうだと料理を交換させたのは、万が一呪いが毒殺である可能性を考えてのことだ。だけどネラは顔色一つ変えなかった。とすると、やはりヒューの推察が正しいのかもしれない。それでも何度もユースタスの皿と交換させてやった。あいつったら嫌悪感もむき出しに鼻にしわをよせて僕を見るから、嫌がらせだ。
 そのユースタスだ。問題はユースタスなんだ。つねに僕を苛立たせるユースタス。僕の名前を名乗っている娘。本来なら僕の歩むべきだった人生を横取りした娘。だけど不思議だ。血のつながってる二人の姉より、強いむすびつきを感じるんだ。憎悪という絆かもしれないけど……
 そのまえにバートルについて話しておこう。彼はいた。ある日突然現れた、あまりに惨めな姿で。当然僕はつめよって、ネラの罪を、おのれの罪を告白しろと迫った。だけどネラの呪縛がよっぽど強いんだろうか、バートルはただ涙を流すばかりだった。
 ヒューと相談し、バートルのことは当分そのままにしておこうということになった。バートルは悔いている。だからこそ幼いアレクサを助けてくれたんだし、アレクサのほんとうの素性も教えてくれた。今だって僕が第十七代ガルトン伯爵ブラッドになりすましていると知っても、ネラには話していない。バートルとは会おうと思えばいつでも会える。根気よく説得するんだ。そうすれば近いうちにバートルの気持ちも変わるはずだ。
 ガルトムーア・ホールに来てそろそろ五ヶ月が過ぎようとしている。素性を偽っているとはいえ、思い描いていた家族との暮らしだ。なのに、他人で仇であるはずのユースタスと一緒にいるときが、いちばんこころがなごむのはどうしたわけだろう。ユリアは淑女のお手本みたいで退屈だ。マミーリアには軽蔑しかない。そしてエリザベスは、僕の母さんは、夢のように美しく、でも果敢なすぎて、抱きしめてほしいけど不用意に触れたら粉々に壊れてしまいそう。
 けれどもユースタスは強い。生き生きしてる。伯爵家の財産を横取りするためには伯爵の僕と結婚しなくちゃならないから、気に入られようと懸命にしとやかに振る舞おうとするんだけど、牙は隠しきれずすぐに噛みついてくる。面白い。愉快だ。退屈しない。だけど奇妙だった。ユースタスの気位の高さ! 僕を見る眼も態度も、卑屈なところは一つもない。いつもどこか見下し、同時に憐れもうと努めてる。高貴な人間が賤しい身分の者にたいする接しかただ。ひょっとしたらユースタスは知らないんじゃないだろうか、自分がネラの娘だってことを。貴族の令嬢などではなく自分はただの女中頭の娘で、しかも奉公先の家を今まさにのっとろうとしていると。
 それでキスしてみたんだ。確かめるには一番の方法だ。嘘をつくかもしれない唇は封じちゃえばいい。そしたらほかのところが雄弁に語り出す。
 ユースタスは、驚いて、戸惑って、それから拒絶した。あれは正真正銘レディの反応だった。悪党の娘だったら機会は逃さぬはずだ。
 どうやらユースタスは自分の出生は何も知らされず、エリザベスの娘として育てられたらしい。しかも実の母親の策略にまんまとのせられて、僕との結婚も一族を苦しめる魔女の呪いをとくためと信じきって、健気にも身を投げ出す覚悟なのだ。
 憐れな娘。いじらしい娘。手綱をひいて馬の速度を落とさせ後ろの座席を振り返って見ると、不憫なその娘はまだしょげ返ってる。ユースタスにしてみれば通りすがりの作男にいきなり魔女と罵られ、よほど怖かったんだろう。
 馬車を止めた。飛び降りて、足もとの草を引き抜く。御者席にのぼり草をユースタスへ差し出す。ユースタスは訝しげな表情だ。
「ワタスゲだ、ガルノートン家の紋になってる、知ってるだろ」
「もちろん知ってるわよ、でもわたしはそんなみすぼらしい雑草よりヒースのほうが好き」
「いいぞ、調子がもどったな」
 馬に鞭をあてた。馬車がまた動き出した。しばらくして振り返ってみると、ユースタスは捨てたかと思ったワタスゲをまだ持っていて、指でつまんでくるくるまわしてた。

 村に入ってからユースタスは身を乗り出すようにして景色を眺めてた。崩れかけてる藁葺き屋根に眼を瞠り、そのちっぽけな小屋から一ダースもの子どもらがわらわらと出てきたときは叫び声まであげる。ユースタスったら村を見るのははじめてだって云うんだ。生まれてからこのかた、ガルトムーア・ホールを離れたことがなかったらしい。これもネラの策略の一つか。籠の鳥にして外の世界に触れさせず、自分の言葉だけを信じさせたんだ。自分の娘とはいえこんな仕打ち、許されない。
 銀狐の尾っぽ亭に寄り道してやった。ユースタスは恐る恐る、まるで針のクッションにでも座るように店の椅子に腰をおろした。エールを頼んでやろうとしたらシェリー酒が欲しいという。こんな店にそんな上等な酒、あるわけない。出されたエールに口をつけたときの悲愴な面持ちといったら! 毒薬で処刑される姫君だってもうちょっと味わって飲んだだろう。
「園丁に会ったらおまえも、呪いなんてネラのでっちあげだってすぐにわかるさ」
 ユースタスはちらっと僕を見て、それから奥の厨房へもの珍しげに首をのばしてみたり、またエールの匂いを嗅いでしかめっ面をつくったりした。聞えないふりしてるんだ。
「園丁もおまえの云う魔女の呪いにやられた状態なんだ、八角塔に入れられたマミーリアとそっくりなんだよ、震えてて、眼も右と左べつべつのほうを見てる」
 一瞬の間をおいて、それから返ってきたのは甲高い笑い声だ。
「当然よ、だってその男はグロットーで遺体に触れたんですもの。ネラ夫人がそう云ってたわ」
「だとしたらおかしいじゃないか、魔女の呪いは貴いガルノートン一族だけのものなんだろ、何で魔女が奉公人なんかかまうんだ?」
 ユースタスが言葉につまる。
「園丁に会えば真実がわかる。彼がグロットーで何を見たか、ほんとうに遺体にさわったのか聞いてみればいい」
 そこへ留守にしてた店の亭主がもどってきた。僕の顔を見て驚愕といっていい表情になり、でも慎重に言葉を選び、どうかおひきとりをと頭をさげた。
「今日は店は休みでして……」
 あんれ、どしてですか旦那さん、とちょうどおかわりのエールを運んできた小僧が口を挟んだ。亭主はものも云わずに殴りつけ、小僧が椅子を倒してひっくり返る。
 いきなり見せられた暴力にユースタスは血の気を失った。ともかくユースタスをつれて外に出た。だが、店から弱々しく小僧の声が追いすがる。お客さん、お代を。それにおっかぶせて亭主の声が怒鳴りつける。「エールの一杯や二杯ほっとけ、あれはガルトン伯爵だぞ、魔女に呪われたいか」
 魔女の噂に怯えるにしても大袈裟すぎやしないか。可哀相なのはユースタスだ。ショックを受けて今にも倒れそうだ。
 銀狐の尾っぽ亭からまた聞えてきた。
「とうとう死んじまったんだよ、ついさっき、魔女に殺されちまったんだ、伯爵家の園丁なんぞやるからだ」
 死んだ? 園丁が死んだ?
 急いで園丁の家にむかう。失敗した、園丁がこんなに早く死んでしまうとは。ヒューとともに訪ねたときは痩せ衰えていたとはいえ、まだ話したり歩いたりできていたのに。
 到着したがユースタスが馬車から降りない。座席のへりを握りしめた手が、力を入れすぎて真っ白になっている。
「厭よ、ついてくるんじゃなかった、馬車をもどして頂戴」
「来いよ、真実を見るんだ」
「真実って何のこと? 園丁がアンヌ・マリーにとり殺されたってこと?」
 怯えた眼が烈しく責めてくる。
「来いよ、真実を知ればやたらに怖がらずにすむ」
「怖がってなんかないわ! 見損なわないで頂戴」
 そう返す声は震えていたが、ユースタスは手を差し出してきた。その手をとって馬車を降りるのを手伝ってやる。
 粗末な家に女房のすすり泣きが響いている。魔女が、魔女が、あのひとを奪っていった……
 その横を通って奥の部屋へと進む。澱んだ沼底に入っていくような気がする。黴と糞尿の匂いが混じりあっている。園丁は床に転がっていた。シーツがからまっていて、そして血まみれだった。
「馬鹿な!」僕は駆けよった。
 園丁の首に赤黒い傷がぱっくりとあいているのだ。呪いで──ヒューの説だと病で──死んだんじゃない、寝ていたところを襲われて、必死に逃げたけど喉を切られて殺されたんだ。
 シーツの血はついさっきしみこんだようだった。けれど鮮やかな赤色はにじんで、薄まりながらひろがっている。シーツが水で濡れているんだ。園丁の顔も濡れていた。だから顔はあまり汚れていなかった。
 刃物は見あたらなかった。でも床に陶器の破片が散らばっている。破片からもとの形は簡単に想像できる。これで園丁を殴った。そして喉をかっ切って殺した。
 ユースタスは顔をそむけて戸口に突っ立ったままだ。それを押しのけ女房のところへとって返す。
「誰が殺したんだ、答えろ、やったのは誰だ」
「魔女です、亭主は魔女に呪い殺されたんです」
「違うわ」叫んだのはユースタスだ。「嘘おっしゃい、魔女が使うのは呪術よ。呪いの力は恐ろしく、同時にとても神秘的なのよ、これはただの暴力じゃないの、魔女の仕業のわけないわ、出鱈目を云ったら承知しないわよ」
「誰か来なかったか、誰か、魔女なんかじゃなくちゃんと目に見える人間が」
「知りません、わかりません、あたしはパンを買いに行っとったんです、帰ったらこうなってたんです」
 女房はかかえた頭を振る。なんてことだ、呑気にエールなんか飲んでないで真っ直ぐ来るべきだった。
 ユースタスが吐き捨てた。
「どうせ強盗でしょうよ、寝こみを襲ったのよ」
「馬鹿だな、この家から何を盗むってゆうんだ?」
「馬鹿ですって! あなたこそ出鱈目ばかり、園丁は魔女に呪われてなんかいなかったじゃないの」
「見ろ」部屋にひっぱり入れようとユースタスの手首をつかむ。けど振り払われる。
「近よってよく見るんだ、直接の死因は刺殺だけど、この消耗したようす、死んだ先代の伯爵とおなじだろ」
「レディは死骸など見ないわ。なんて無礼な、わたしの兄とその男とを一緒にするなんて」
「見ろ! 魔女なんていないんだ、呪いもない、これはおそらく何かの病気なんだ、だから血筋も身分も関係なく園丁も罹った」
「病気ですって?」
「そうさ、病気だよ。園丁もガルノートン家の人間もおなじ病気に罹ったんだ」
「お黙りなさい! 我が一族とこんな賤しい者を同列にするなんて。病気ですって? 馬鹿馬鹿しい。第一、彼はもう死んでしまっているわ、これでは確かめようがないわ」
「生きてるときの症状はおなじだったんだ、ひっきりなしの痙攣と斜視、それから自由に動けなくなって、」
「でも今は死んでいるわ、わたしの目の前にあるのはもう動かぬ死体。そして死んだのは喉を切られたからでしょう?」
 勝ち誇ったようにつづける。
「それはつまり、その奉公人の死と魔女とは何の関係もないということよ。あなたがさっき云ったように、呪いはガルノートン家だけのものだと証明されたのよ。残念ね、彼を殺したのはアンヌ・マリーの呪いではなく強盗よ。お気の毒に、お悔やみを申しますわ」
 あとの言葉は女房にむけたものだった。軽く礼をし、踵を返した。
「待てよ」ユースタスを追う。外に出ると、もう馬車に乗りこんでいた。「待て、園丁を殺したのは強盗なんかじゃない」
「その話はすんだわ、帰りましょう、疲れたわ」
「園丁を殺したのは魔女だ」
 鼻で笑われた。「魔女などいないと云ったくせに」
「ネラのことだよ、口封じのため殺したんだ」
「早く馬車を出して頂戴」
「ネラに今日のことを喋らなかったか、園丁に会いに行くって」
 きっとなって振り返った。
「この恰好を見てわからないの、昨日とおなじドレスよ、昨日の午後に着がえたきりなのよ!」
 云っている意味がやっとわかった。僕と出かけることを秘密にしなければならなかったから、一人で着がえられないお嬢様は昨日からドレスを脱がずにいたというわけなんだ。でも笑ったりしたら気の毒だ、背中にずらりとならんだあのボタンの数。
 ユースタスの眼には怒りのあまり涙がにじんでる。違った、これは怒りじゃない。
「悪かった、怖がらせてしまったのは謝る、僕だって予想外だったんだ。僕も恐ろしいよ、秘密を守るためにここまでするなんて。なあ、冷静になって考えて。園丁が殺されていた部屋には欠けらが散らばっていただろ? あれ、何だかわかる?」
「もう帰りたいわ」
「考えて。筋道を立てて。真相を突きとめなきゃいつまでも怖いままだ」
 のろのろとユースタスは頷き、
「陶器の破片だったわ、花の模様がついていた、もとの形は筒のような──」
「そのとおり、あれはめん棒だよ、パイ生地をのばすんだ、中が空洞になっていて水を入れると重くなる、だからでっかくても使わないときは軽くて便利。犯人はめん棒でまず園丁を殴った、その衝撃でめん棒は割れた」
「それでシーツが濡れていたというわけなのね」
「いいぞ。そしてそんな高価なめん棒を使っているのはガルトムーア・ホールだけだ、ジョイス家だって木のめん棒しか持ってない」
「誰ですって、ジョイス?」
「あんなめん棒を僕はガルトムーア・ホールの厨房で見たことがある、何本もあった」
「呆れた、あなた、地下の厨房にまで出入りしているの?」
「犯人はネラだ、ほかに考えられない、僕らが園丁に会うまえに口を封じたんだ」
 実際に襲ったのはバートルだろうか。バートルは、ネラに命じられれば人殺しまで犯すのか。
「でもネラ夫人がなぜ知っているの、わたし何も話していないわ、誓ってほんとうよ、話しようがない、園丁に会いにいくなんて舘を抜け出すまで知らなかったんですもの」
「グロットーの鍵だって、ネラには秘密にしていたのに壊されてたじゃないか。だいたい魔女が恨んでるのはガルノートン家だろ、そういう伝説なんだろ、園丁がグロットーの遺体に触れたから呪われただなんて、ネラの云ってること矛盾してるじゃないか」
「わからない、でも、ええ矛盾している、でも、まだわたしの知らない伝説があるのかも、帰ったらネラ夫人の問いたださなきゃ」
 ユースタスったらすっかり混乱してる。
「ネラに訊いたりしちゃ駄目だ、僕らが疑ってるってばれてしまう。よく考えろ、呪いなんて迷信だろ。単なる病気を呪いというなら、牛乳が酸っぱくなるのだって、洗っても洗ってもシーツが黄ばむのだって、みんな魔女の仕業ってことになる」
「酸っぱいミルクですって? シーツは白色に決まっているでしょう」
「これだから高貴な身分ってやつは! だったら雷はどうだ? それも魔女の呪術か?」
「雷は、雷は、──雷よ」
「魔女がもしいるとしたらネラこそそうだ、陰謀でガルノートン家を支配して、僕らを弄ぶ魔女だ、呪いだって策略の一つなんだ、きっとからくりがあるんだ」
「わからないわ、考えてみないと、もっとよく」
「そうだよ、考えて。筋道を立てて考えれば真実が何なのかきっと見えてくる。呪いなんか嘘なんだ、人間が、ネラが、呪術なんか使えるわけない」
 知らせが広まったのか村の連中が集まってきた。遠巻きにしてこちらを窺っている。そのうち巡査もやってくるだろう。だけどおそらく強盗事件として片付けられるのだろう。おなじ村の仲間も被害者の女房も、当の園丁だって、そう望むだろう。魔女の呪いによる禍々しい死などよりは、強盗にやられたといったほうがはるかに人間としての面目が保たれる。
 御者席に飛び乗り馬に鞭をあてた。馬車のむきをかえると背中に村人の視線が針のように刺さった。後ろの座席でユースタスが精一杯胸を張っている。気配で伝わってくる。僕も急がなかった。ことさらゆったりと馬車を進ませた。伯爵家の人間がとり乱しているところなど下の者に見せるべきではないというのが、ユースタスの考えだろうから。

ユースタス2 わたし一人の力で魔女の存在を証明してブラッドをねじ伏せてやるのだから

 礼儀としてノックはしたけれど、返事がないのは予想していた。母はやはり寝台の上だった。けれども枕もとの小卓の蝋燭は明々と燃えているから、このまま朝まで眠っているわけではあるまい。しばらく待ってみることにした。
 魔女はほんとうにいるのか?
 もしブラッドの云うとおりなら、もしマミーリアを苦しめているのが魔女の呪いなどではなく単なる病気だとしたら、治療すれば助かるのだろうか。瀉血と阿片剤でマミーリアの頬がふたたび薔薇色に輝き、今となっては懐かしくさえあるあの高慢ちきな態度にまた悩まされる、そんな平和な日々がもどってくるのだろうか。そうなればどんなに喜ばしいことか。
 でも、そうすると、アンヌ・マリーの伝説はまったくの作り話だということになってしまう。だとしたら、このわたしの存在は、一族を救う使命を持って生まれてきたはずのわたしは、どうなる?
 錆びた刃が、ガルトムーア・ホールの静寂を無理やりに切り裂いていった。その赤錆で肌を撫でられたように、わたしの毛が逆立った。マミーリアだ。また叫んでいる。
 そして次にはけたたましい哄笑が、八角塔から降ってくる。マミーリア、なんて声を出すの。わたしを嘲笑っているの。
 いいえ、違うのだ。魔女のせいなのだ。マミーリアの体に入りこんだ魔女が、悲鳴をあげさせたり笑わせたり、弄んでいるのだ。憐れなマミーリア、なんという辱めを受けているのか。なのにこれをただの病というのか。
 筋道を立てて考えろ、とブラッドは云っていた。そうね、そうするわ。だからわたしはここに来た。
 根拠をそろえて結論を導く。ガルトムーア・ホールの過去を知っている人物といったら、ネラ夫人以外では母だ。母なら詳しく知っているはず。ガルノートン一族を苦しめてきた魔女の呪いについて、その歴史について、つぶさに聞き出して、ブラッドが反論できないよう結論を導けばいい。魔女はいる。そして今このときもガルノートン家への呪いはつづいている。そう証明してやるのだ。
 ふと、眼にとまった。キャビネットの扉が薄くあいている。
 近よっていって、指で押してしめてやった。するとまた開く。蝶番が古くて歪んでしまったのだろうか。ガルトムーア・ホールの家具は歴史ある品ばかりで、これにかぎらずどれも代々使いつづけている。もう一度押してみたが、やはりしまりきらない。諦めて、隣の鏡台の香水瓶を見ようと思った。が、キャビネットの扉の隙間から、何かが光ってわたしを引き止めた。
 そっと扉をあけてみる。
 小箱だった。長方形の漆塗りの箱。光ったのは蓋の箔押しだ。銀の紋様は、四角く囲った中にワタスゲの花が慎ましく咲いている。わたしが興味をひかれたのは、これが我が家の紋だからだ。
 何が入っているのだろう。大きさとしては首飾りかしら。ワタスゲの紋が押されているということは、きっと由緒正しき品なのだわ。
 蓋をあけようとした。が、その手も、息も、止まってしまった。わたしの肩に誰かが触れた──
「何かご用かしら? ユースタス」
 母だった。母がいつの間に起きたのか、寝台から抜け出して背後に立ち、わたしの肩に手をかけていた。
 瞬きしない眼にぞっとする。こころのない人形に見入られているよう。懸命に何気ないふりを装った。けれど無理に浮かべた笑みは大袈裟すぎた。
 しかし母は特に気にとめず、わたしの手から箱を取りあげ、おどけてこう云った。
「おいたは駄目よ、わたしのちっちゃなユースタス」
 ほんとうに母の瞳はアニスキャンディだといわれても疑わない。それも口の中で転がした飴。融けかかって光っている。阿片剤が効いているのだ。
 箱を元通りにキャビネットにしまっている。けれども扉がきちんとしまらないのを知ると、その下の鍵付きの抽斗に入れた。あとで鍵もかけるのだろうか。
「何の箱か、気になるの?」
「いいえ、べつに」
「とても貴重な物がしまってあるの、そうね、いわば証の品よ、わたしの跡を継ぐ者だけが手にできるの。見たい?」
 お母様の跡を継ぐ? 現在この家の女主人である──名ばかりだけれど──お母様の? それはつまりガルトムーアの女主人になるということだわ。
「見たいわ。ぜひ見せてください」
「駄ぁ目。あなたにはまだ早いもの」
 何を悠長な。一刻も早く女主人になって魔女の呪いから一族を救わなければならないのに。
 すると母は朗らかに笑いだした。
「そんな顔はおよしなさいな。心配しなくても時が来たらあなたに譲りますから」
「わたしにくださるの? お姉様たちではなく、このあたしに女主人の証を」
「もちろんよ、わたしの娘はあなただけですもの」
「中身は? 教えてください」
「急ぐことはありませんよ、いずれあなたがわたしの跡を継いでここの女主人となったら」
「でもブラッドはわたしと結婚するかしら、だってブラッドは──」
 迷った。話すべきかどうか。ブラッドが魔女の呪いはネラ夫人の陰謀だと考えていると。
 そのとき、やっと母がまばたきした。時間をかけて重たげに。あれは今しも眠りに落ちそうなひとがするまばたきだ。
 駄目よ。こんな阿片づけになっているひとに話したりしたら、どこで何を云い出すかわかったものじゃない。特にネラ夫人に伝わるのが厭だった。ネラ夫人には邪魔されたくない。わたし一人の力で魔女の存在を証明して、ブラッドをねじ伏せてやるのだから。
 女主人の証ですって? 
 ああ、と太いため息が出た。それならとうの昔にくださったじゃないの、代々ガルノートン家の女主人だけが受け継ぐことのできる品よと云って。お母様ったら阿片のせいで頭がおかしくなっているのだわ。だけどわたしはあれを失くしてしまった。手癖の悪い下女が盗んだのだ。母が息を吐くたびに部屋の空気が阿片臭くなって胸が悪くなる。さっさと用をすませて出ていきたい。
「お母様。少し座ってお喋りしませんこと?」
「まあ嬉しい」いそいそと椅子に腰かけた。
「アンヌ・マリーについてお聞きしたいの」
「アンヌ・マリーですって!」
 飛びあがって、あとずさっていって、ベッドにぶつかるとへなへなと座りこんでしまった。
「お母様、最初から教えてほしいの。呪いがはじまったのはいつ? わたしたち一族はみな呪いによって苦しめられてきたのでしょう? お祖父様やお祖母様、ひいお祖父様たち、そのまた上の代のひとたちも」
「厭、厭、厭」縮こまってシーツにくるまって首を振っている。
「一族の歴史についてはお父様から当然聞いているのでしょう?」
「堪忍して頂戴。何にも知らないの、知りたくもない、わたしは嫁いできた身ですもの、後妻ですもの、そんなわたしはガルノートン家の一員とはいえないでしょう? だから呪われたりなんかしない、そうでしょう?」
 ため息が出た。無駄足だった。こんな母ならアンヌ・マリーだってお目こぼしするかもしれない。
「お母様なら、呪いは嘘でただの病気だと聞いたら手放しで信じることでしょうね」
「えっ、呪いは嘘なの?」
「たとえばの話ですわ」
 シーツから母の眼だけが覗いている。舐めかけのアニスキャンディみたいな白眼はシーツに比べて青白い。不意にブラッドの言葉が思い出された。
「そのシーツ、真っ白だわ。でもシーツは黄ばんだり、ミルクは酸っぱくなったりするらしい、けれど魔女の呪術などではない……」
「魔女がシーツを?」
「雷も魔女の仕業ではない」
「雷はできるわよ」
 寝台から飛び降り、母はしゃなりしゃなりと歩いてきた。シーツは体に巻きつけたままだ。
「お母様、今、できるっておっしゃった?」
「牛乳は年頃のお嬢さんだから、桶を熱いお湯できれいに洗ってあげないと怒って酸っぱくなるの、シーツはお日様のお嫁さんになりたがっているから、芝生に広げて乾かせば花嫁衣裳のように白いままよ、でも雷を呼ぶのは魔女の呪術なのよ」
 くるりとまわって見せる。魔女にでもなったつもりだろうか、シーツがマントのようにはためいて、その風がわたしの顔に来た。生温かい風が。
「どうしてそんなこと知ってらっしゃるの?」
「だって知っているんですもの、子どものころから知っていてよ、わたしのちっちゃなユースタス、お話してあげるからお聞きなさい。まずワタリガラスをつかまえるの、実はね、ワタリガラスは雷の化身なのよ、逃げないように足に糸を縛りつけておいてね、糸は長ければ長いほどいいわ、雷にもどったときに長さが足りないといけないから、そして太鼓かラッパ、これで雷の声を真似て誘うのよ──」
 母の話はとめどなかった。歌うようにつづけられた。音を立てぬよう部屋を出て扉をしめる。やっと母の声が聞こえなくなった。

 母には失望させられてばかり。ワタリガラスが雷の化身だなんて、子どもに話して聞かすお伽話ではないか。いいえ、期待したわたしがいけなかった。人選を誤ったのだ。次にむかった先は姉ユリアの寝室だ。なんといってもユリアは長姉だし、ガルトムーア・ホールの住人としては後妻である母よりも古いのだ。
 夜も遅い時間になっていたけれどユリアは起きていて、わたしを歓迎してくれた。けっして華美ではないけれど気品が漂う、主にふさわしい部屋だ。
「お茶でもいかが?」
「いいえ、下女は呼ばないで頂戴」
 きっぱりと断ったので姉が驚いている。
「ごめんなさい、お姉様とゆっくりすごしたいの、昔話でもして。ほら、ここのところ気の休まらないことがつづいたものだから」
「ほんとうに、」腰をかけ、わたしにも椅子をすすめる。「わたしたち一族の宿命とはいえ、マミーリアが憐れでならないわ」
「お祖父様とお祖母様も呪いで亡くなったのよね」
「ええ、悲しいことに」
「ひいお祖父さまとひいお祖母さまもそうなのよね」
「ええ。恐ろしいわ」
「その前の代も?」
「なぜそんな話を?」
「ひいお祖父様たちが亡くなったのは、お姉様が幾つのとき?」
「まさか」笑い出す。「いくらなんでもわたしはそんなにお婆ちゃんではないわ。お祖父様とお祖母様が亡くなったのだって、わたしが生まれるまえですもの」
「生まれるまえ? ではお姉様はひいお祖父様の代も、お祖父様の代もご存じではなかったの? なら、なぜ呪いで亡くなったと知っているの」
「なぜといわれても。あなただって知っているでしょう」
「ええ、知っているけれど。でも、最初から知っていたわけではないわ、生まれたときは何も知らなかったはずだわ」
「そりゃそうよ、おかしなことを気にするのね、きっと小さいうちから伝え聞いたんでしょう、赤ん坊が言葉を聞き覚えるように」
「誰から? 最初に伝え聞いたのは誰から?」
「誰から……」ユリアは考えている。何度か首をかしげる。
「憶えていないわ、幼いころの話ですもの、あなたは憶えていて?」
 かぶりを振ってこたえると、ほらねとユリアは頬笑む。わたしは焦りを感じて、
「伝説は? アンヌ・マリーの伝説は誰から聞いたの?」
「さあ」また首をかしげている。
「お姉様のお母様ではなくって?」父の最初の妻のことだ。
「どうだったかしら。母の記憶はおぼろげなの、亡くなったとき、わたしはまだ五つにもなってなかったわ」
「ではお父様?」
「それは違うと思うわ、お父様は幼い娘の相手をするようなひとではなかったもの。わたしが憶えているお父様はいつも後ろ姿。それと魔女の呪いに苦しむ姿、あれはどうしても忘れられない──」
 そこで、はたと思いあたったらしく、
「お父様が亡くなったときには知っていたわ、アンヌ・マリーの伝説は知っていた。だってお父様が倒れてわたし、とうとう来たと思ったの、恐れていたときが来てしまったと。わたしは十一になっていたけれど、あなただって憶えているでしょう」
 ええ、と頷いた。当時わたしはまだ四つだった。魔女によって父が徐々に破壊されてゆくさまは、わたしのこころの中の何かを殺した。おそらく希望を。
「だけど一つだけ幸いだったと思うのは、」ユリアが云う。「お母様は魔女に苦しめられることはなかったわ」
「お母様が?」
「ああ、ごめんなさい、今のお母様ではなくわたしのお母様のことなの。わたしの母が亡くなったのは、トマスを産んだあと肥立ちが悪く肺炎になってしまったの」
 湯気のあがる茹でたてのプデイングに冷たいナイフがさしこまれた、そんな気持ちがした。
「知らなかった、呪いだとばかり思っていたわ、ほんとうに? それは確か?」
「ええ確かな事実よ、ジョンもマミーリアも、まだ寝返りもできないトマスも、みんなで母にお別れのキスをしたもの、魔女の呪いだったらそんなことできないでしょう?」
 呪いで死んだ者にはけっして触れてはいけない、それが我が一族の決まりだ。
「それから半年ほどでドーセットからあなたのお母様、エリザベスさんがいらして、お父様と再婚なさった。そのときのことも憶えているわ、雰囲気のある美しいひとで、幼いながらも感動したものよ。でも、これは内緒にしてね、年端もいかない子どもが感じたことよ。ネラ夫人のほうはなんだか怖かったわ、眼つきが鋭くて、何を考えているのかわからなくて。エリザベスさんの侍女だったのよね、ドーセットの実家からついてきて、それから我が家の女中頭になった」
「それまで女中頭だったひとは? 女中頭がちょうどいなかったというわけではないのでしょう?」
「それはもちろんそうよね。でも、そのあたりのことはやっぱり憶えてないわ。そうね、ただ子守り女中がいなくなってしまったのは悲しかったわ、ほかにも大勢いた奉公人が急に減ってしまって、でも新しいお母様は病弱らしく部屋から滅多に出てらっしゃらない、この家はどうなってしまうんだろうって子どもながらに心配したわ。けれどもありがたいことにわたしたちにはネラ夫人がいた、女中頭としてほんとうに頑張ってくれたわ」
「奉公人たちはアンヌ・マリーの呪いを恐れて辞めていったのよね?」
「仕方のないことよ、責めてはいけないわ。どうしたのユースタス、そんな顔して、お腹でも痛いの」
 プディングが切り分けられ、断面が露わになろうとしている。どうして今まで考えもしなかったのだろう。ネラ夫人がこの家に来てから急に奉公人が減るなんておかしい。呪いを恐れて? それまでは平気だったのに?
「お姉様のお話からすると、」声が震えてしまう。
「アンヌ・マリーの呪いについては幼いころから知っているが、誰から聞いたのかは定かではない。けれどもお父様ではない。そしてお姉様の母親は呪いで亡くなったのではない。ああ、なんてことかしら、これでお祖父様やひいお祖父様の代、それだけじゃない、もっと前の代の死の原因だって、呪いとは云い切れなくなったわ」
「あら、なぜ」
「お姉様もわたしも、それを伝聞でしか知らないからよっ、それも誰から聞いた話かもわからないのよっ」
「どうしたっていうのユースタス、落ちついて頂戴。何を気に病んでいるのか知らないけれど大丈夫よ、憶えていることだってあるのよ、ただそれが最初だったのかどうかはわからないけれど」
「では誰かに呪いについて聞いたことがあるのね、誰なの?」
「ネラ夫人よ」
 プディングは中身を確かめる間もなくわたしの喉に押しこまれた。
 自分でも気づかぬほど烈しく切願していたのだ。どうか幼い姉に、ネラ夫人がこの家に来る以前にアンヌ・マリーの伝説を話して聞かせた、誰かがいますように! でもそれはブラッドに魔女の存在を証明するためではなかった。なによりわたしは自分の疑念を消し去りたかった。
「あのころネラ夫人はよく云ってくれたの、アンヌ・マリーなどわたくしは怖くありませんって。それがどんなにわたしを力づけてくれたか、わたしだけでなくジョンやマミーリアもよ、半年前に母を亡くしたばかりなのに奉公人たちまで逃げていってしまい、わたしたち怯えきっていたのよ。初対面の印象だけで怖いひとだなんて思って悪かったと、わたしこころから反省したわ」
「でも、お姉様を怯えさせた魔女の話を聞かせたのもネラ夫人なのでしょう」
「ユースタス、あなた何を疑っているの?」
「お姉様は何も疑っていないの?」
「ネラ夫人はわたしたちにつくしてくれているわ、それこそ骨身を削って。それはあなたのほうがよくわかっているでしょう」
 ユリアはわたしとネラ夫人の関係を、実際の母娘より強い結びつきを、云っているのだ。
「ユースタス、あなた、呪いなど迷信だと思いたいのね。わたしもそうだった。だけどね、このごろわたし、アンヌ・マリーはやっぱりほんとうにいると思うのよ」
 そう云う姉の瞳が細かく震えているのだった。上下のけぶるような睫毛にかこまれたアーモンド型の白目の中で、丸い瞳が、定まることなく始終震えているのだった。なんだか今にも勝手に動き出そうとするのを、懸命にこらえているかのように。
「ユースタス、やっぱりわたしたちは魔女の呪いから逃れることはできないのよ」
「何をおっしゃっているの、お姉様」
「ユースタス、先祖のことが気になるの? だったら図書室に行くといいわ、古い聖書があるのよ、大きな革の表紙の」
「代々伝わる我が家の聖書のこと?」
「そこに書いてあるはずよ、歴代の家族についての記録が」
「そうなの、それは知らなかったわ」こたえたけれど、気になっているのは姉の眼だ。
「ユースタス、もう話はすんだかしら、申し訳ないけれど、わたし、もう休みたいの」
「でもお姉様」
「お願い」
 立って、わたしを促す。わたしも立つ。
「そうよね、遅くまでごめんなさい、もう行くわ、おやすみなさい」
 そして寝室を出ようとしたときだ。背後で大きな音がした。振りむくとユリアが床にうつ伏している。
「どうしたの、お姉様!」
「なんでもない、なんでもないの、ただ転んだだけよ、躓いて」
 躓いて? きれいに生理整頓されたユリアの部屋は、躓くものなど何もないのに。
 立つのを手伝ってやる。ただ立つだけなのに、どうしてこんなにも苦労しているのか。
 さらにユリアは、ようやく立ちあがったのだけれど、それから一歩たりとも動こうとはしなかった。部屋の真ん中で突っ立ったきり──
「お願いよ、ユースタス。何も云わずに出ていって頂戴」
 両方の手を拳にして握りしめている。まるで少しでも力を抜くと好き勝手に暴れ出す、というように。声がもう一度しぼり出された。
「お願い」
 わたしは辞した。姉のためにそうした。
 全身が冷えきっている。夏だというのに芯から凍えている。頬だけが熱い。涙がつたっているからだ。
 だしぬけに笑い声が降り注いだ。甲高い乾いた響きは、八角塔からガルトムーア・ホールじゅうを縦横に駆けめぐる。壁を震わせ、階段を震わせ、わたしを震わせる。
 マミーリアの、マミーリアの中に巣食った魔女の、嘲笑だった。

ブラッド2 おそらくこれは舘の主だけの秘密の隠し場所なのよ

 ユースタスが血相を変えてやってきて、図書室を調べると云い出したから驚いた。そこには一家の聖書があって、一族の記録が記されてあるらしい。
 それはいい考えだとヒューも云う。ガルノートン家のように古くからの名家には、代々伝わる聖書があって、誰がいつ生まれ誰と結婚しそして死んだか、書き残されているんだそうだ。
「それさえ読めばはっきりするわ、魔女の呪いが真実なのかどうか」
「真実なのかどうかだって?」廊下に声が反響し、慌てて低める。「呪いを信じてるなら、真実だとはっきりするって云うはずだ、さてはとうとうネラの陰謀を認めたんだな」
 ユースタスは返事しなかった。僕の半歩前に立って突き進んでゆく。正面に扉が見えてきた。図書室だ。
 いきなり止まった。僕も止まる。扉を前にしてユースタスは動かなくなった。と、振りむいた。胸をつかれた。ユースタスは泣いていた。
「おかしい? だったら笑いなさい。ネラ夫人の陰謀だなんて馬鹿げている、わたしは一刻も早く使命をはたさなくてはならないのに、だって、だってお姉様が──。だけど調べずにはいられない、聖書なんて聞かなかったことにしようと思ったのよ、でも駄目、どうしても気になってしまう、ああ頭がどうにかなってしまいそう」
 抱きしめてやろうと思った。ユースタスは混乱して苦しんでる。そんな状態の娘にしてやれることといったら、やさしく抱いてやるしかない。
 ぶたれた。
 思いっきりひっぱたかれた頬は、じんじん熱を持ち出した。
「ありがとう、感謝いたしますわ」
 ユースタスの眼からは涙が流れつづけていたけれど、でも浮かべているのは嘲笑だ。
「今のあなたの愚行で頭がしゃっきりしましたわ。これから図書室で我が家の聖書を調べます。そこには一族が代々魔女の呪いで死んでいったと記録されているでしょう、それをわたしとあなたとで確認するのよ、そのあとであなたはネラ夫人を侮辱したことを詫びるのです」
「いいだろう」
「何をニヤニヤしているの」
「ぶたれた頬がまだ痺れてる」
「ぶたれ足りないようね」
「そういえば香水はどうした? 今日は匂わないな」
 重大な忘れ物を指摘されたとでもいうようにユースタスは動揺した。が、すぐに、
「もう一つ約束して頂戴。あなたの疑いが単なる妄想だとわかったら、その場でわたしに求婚すると。そして結婚するのです、できるかぎり早く」
「一方的な要求ばかりだな」
「約束してくれるの? くれないの?」
「わかった、いいよ、また殴られちゃかなわない」
 何か云い返してくるかと思ったら、図書室にさっさと入ってしまった。
 僕もあとにつづく。とたん、くしゃみが出る。一歩歩くたびに埃が舞いあがる。窓から陽射しは射しこんでいるけど部屋はベールを巡らしたみたいに霞んでる。後ろでユースタスのかわいらしいくしゃみが聞こえた。
「その代々伝わってきた聖書ってやつは?」
「書見台だと思うわ。礼拝のたびに聖書を持ってきたりしまったりするのは、嫡子だったジョン兄様の役目だったの、それも父が亡くなるまでのことだったけれど」
「というと?」
「昔は礼拝のとき、父がその聖書を読みあげて家族みんなでお祈りをしていたのを憶えているわ。父の死後は礼拝も簡単にすますようになってしまって」
 つくりつけの書棚以外にも幾つかならんでいて、その一番奥に書見台はあった。ちょうど明かりとりの高い窓から光が落ちる場所だった。だが、天板が斜めになったオーク材の台には何も置かれていない。陽光が照らしているのは積もった埃だけだ。
「おかしいわ、どこにいったのかしら」
「ちっともおかしかないさ、ネラが盗んだんだよ」
 きっとユースタスが睨んだ。そして身を翻すと書棚を探しはじめる。腰を折ったり背伸びしたり、忙しい。眉間に皺が二本。ペンで力いっぱい書いたってこんなに太くならない。
「無駄だよ、聖書には都合の悪い記録が書かれてたんだ、それでネラが持ち出した。ということは、やはり魔女の呪いなんて嘘ってこと。筋が通っているだろ?」
「でもわたしは、ジョン兄様が聖書を運んでいたのを憶えているわ」
「だったら、おまえの親父さんが死んだあとに盗んだんだろ、旦那様の眼の黒いうちはさすがのネラも遠慮したってわけだ」
「はしたない言葉を使わないでと何度も云っているでしょう、仮にもあなた十七代伯爵なのよ、親父だなんて──待って、いいえ、思い出したわ、少なくとも二年前にはあったはずよ、エレン伯母様のお葬式のときにもあの聖書を読んだもの、ジョンが持ってきて、ガルノートン家の当主、十六代ガルトン伯爵として朗読した」
「じゃあ盗んだのはその伯母の葬式のあとってことになる、妙だな、それでは筋が通らない、そんな中途半端なときに盗んだって意味がない。ジョンのときは? ジョンの葬式のとき聖書はどうした」
「聖書のことなんて、」かぶりを振った。「誰も思い出しもしなかった」
 そして何かが眼にとまったらしい。
「これを見て」
 指さしていたのは書棚の、ある箇所だった。
 しかし顔を近づけてみても何のことだかわからない。聖書を見つけたのかと思ったけど、指がさした背表紙に書いてあるのは『タコ対カニ』──いったい何の本だ?。
 書棚全体を見てみるが、こちらも特に変わったところはない。棚は壁につくりつけで、ほかとおなじように古びた本がぎっしりとつまっている。うっすらと黴と埃の匂いがするのもおなじだ。
「ここよ、このあたりの埃」
 ユースタスが四角く指を動かして、書物五冊分の範囲を示した。
「ここだけ埃がほかより少ないわ」
 云われてみれば埃の積もり具合が少ないような気がする。
「それにこの本の題名、『タコ対カニ』ですって、いかにも馬鹿げている」
 その隣が『リンゴ酒を腐らせる方法』で、その次が『シェイクスピン戯曲集』だ。
『リンゴ酒を腐らせる方法』にユースタスが手をかけた。引き出す。が、本は出てこず、五冊ならんだ背表紙がそのまま下に倒れた。隠し棚だ。
「凄い! よくわかったな」
 ユースタスが笑っている。いつもそんなふうに笑ってればいいのに。
 隠し棚から聖書が出てきた。こんなところに隠してあったのか。
「でも、どうしてかしら? なぜここに隠したの」
「ネラの仕業、ではないな、ネラなら持ち去るはずだ」
「そうね、それにネラ夫人は隠し棚の存在は知らないと思うわ」
「どうして」
「これらの本の題名の洒落が奉公人にわかるわけがないもの。おそらくこれは舘の主だけの秘密の隠し場所なのよ」
 聖書の大きさは両手でかかえるほどだ。革の装丁が厳めしい。押された金箔は剥げかかっていたけどガルノートン家の紋であるとすぐにわかった。四角い額でかこったワタスゲ。
 書見台に乗せるのももどかしく、二人で額をくっつけ表紙を開いた。記録はすぐに見つかった。表紙の次の見返しから書きつけられている。
 細かい字がならんでいる。代ごとにまとめてある。おなじ名前がいくつもある。ジョン、トマス、どうやらガルノートン一族はこの二つがお好みらしい。一番最初はジョン、声に出して読む。
「一六四九年四月五日生まれる、六六年エマ・リップマンと結婚、二男五女をもうける、七九年第六代ガルトン伯爵に。八一年狩りで負った怪我がもとで死去」
 ユースタスと顔を見あわせた。哀願するように見つめてくる。けれど僕には何もしてやれない。
「妻エマ、八八年天然痘に罹り死去。長女キャスリン二歳没、麻疹。次男オットー一歳没、麻疹。三女エミリー五歳水死。四女ハリエット二歳一週間高熱がつづき没。二女サラ八五年結婚。五女エルシー九一年結婚」
 ユースタスの唾を飲みこむ音がする。
 次の名はトマス、
「一六六七年九月二十七日生まれる、八一年第七代ガルトン伯爵に。八二年ノーマ・クリスと結婚、四男三女をもうける、九二年落馬し死去」
「このころはまだ一族はアンヌ・マリーとかかわっていなかったのよ、きっとそうよ」
 憐れな娘。
 ページをめくって代をとばす。指でなぞって探す。あった、第十四代ガルトン伯爵の項。ユースタスの──違った、この僕の、祖父だ。
「一七九六年、チフスで妻アリスとともに死去。見ろよ、祖父さんと祖母さんは呪いなんかじゃない、二人ともチフスで死んだんだ」
 ユースタスは小さく首を振っただけだった。
 そして十四代伯爵の欄の一番下、おざなりに書いてある。弟ブラッド──僕が名を借りたブラッド、ネラが鋏研ぎを偽者に仕立てようとしたブラッドだ──八五年出奔。
 このページはここまでだ。第十五代伯爵の欄は次のページだ。
 めくる。
 ほとんど空白だった。上のほうに三行ばかり記してあるだけだ。
 ユースタスの、また間違えた、僕の実の父についての記述で記録は途切れており、あとは空白なのだった。
 最後の一文にはっとなる。
「一八一一年、父は魔女に殺された。」
 文字はところどころにじんでいる。しかし筆跡は強く紙がへこむほどで、インクも黒々としている。
 ユースタスが息を吸いこんだ。そのまま両手で口をおさえ、息を吐き出そうとしない。かわりに二つの眼から涙があふれてきた。
「ジョンよ、ジョン兄様だわ」
「去年死んだおまえの兄貴か」違うったら、僕の兄じゃないか。
「この最後の一文はお兄様が書いたんだわ」
「これではっきりしただろ。祖父さんの代までは死にかたはみんな普通に病気や事故だ、親父の代で急に魔女だ、つまり代々つづいてきた呪いなんて嘘なんだ」
 しかしユースタスは聞いておらず、聖書を持ちあげて抱きしめようとする。けど聖書は大きすぎて手にあまり、落としてしまった。
「大丈夫か、怪我はないか」
「これ何かしら」
 開いて伏せた状態になった聖書の下に覗いてる。小ぶりの、手のひらくらいの本だ。
 聖書を起こすと真ん中あたりのページが、四角くくり抜かれているのがわかった。寸法はその小さな本がすっぽりと納まるほどだ。
 本の中身をペラペラめくってみる。
「日記みたいだな」
「この字、しっかりした字、ジョン兄様よ、ジョンの日記だわ」
 ユースタスが奪いとった。最初のページを開く。あっと声をあげる。一行だけ書きつけられていた。題名のようだった。
『魔女アンヌ・マリーの呪いについて』
 その次をめくると、
 ──本日オックスフォード大学の入学が決まった。ここから僕の闘いが始まる。我が一族を苦しめてきた魔女の呪いについて、僕は本格的に調べるつもりだ。大学なら博識で頭脳明晰な先生方に助言を乞うこともできる。専門的な書物も数多く所蔵しているはずだ。この日記は僕の闘いの記録となるだろう。
 そして文章はつづき、日記は文字でぎっしりと埋められ、だが三分の一ほどいったところで唐突に終わっていた。最後のページは一文だけだった。文字は震え、乱れていた。
 ──願わくば正義を信じる者がこの日記を発見することを
「お兄様! お兄様が隠したのね、聖書の中に日記を隠し、それをまた書棚の秘密の場所へ隠した」
 日記を抱きしめ泣いている。
 それを、なるべくやさしくとりあげようと思った。反撃された。烈しく僕の手を払いのけ、それからしゃにむに日記を開いた。
 こんな一文が眼に飛びこんできた。
 ──アンヌ・マリーなど存在しない。伝説などでっちあげなのだ。それを僕はなんとしても証明してみせる。
 ユースタスが急いで次をめくる。
 ──オックスフォードへ発つまえに、このガルトムーア・ホールで調べたこと、考察したことを記録しておくべきだろう。まずはやはり聖書に記されている我が一族の記録だ。この記録こそが僕が魔女の呪いの存在を疑うきっかけとなったのだ。聖書について思い出したのはエレン伯母の葬儀の際だった。我々ガルノートン一族の葬儀は、先祖代々伝わってきたその聖書を当主が朗読するのがならわしだった。だが父が亡くなったときも弟トマスの弔いのときも僕はまだ無力な子どもで、当主としての自覚も足りず魔女の呪いに恐れおののくばかりで、聖書のことなど思い及ばなかった。そんな僕を変えてくれたのはエレン伯母だった。彼女は僕に運命にたちむかう勇気をあたえてくれた。僕がオックスフォード大学へ行くことを許されたのも、エレン伯母が継母を説得してくれたおかげなのだ。伯母は継母エリザベスの姉だから身分は貴族ではないが、彼女こそガルノートン家の伝統に則って葬られるべきだった。聖書は幼いころの記憶のとおり、図書室の書見台の上にあった。埃の堆積が、その本が長年誰の手にも触れられていなかったことを物語っていた。埃を払い、どの章を読もうかと扉を開いたときの僕の衝撃は名状しがたい。そこに記されていた一族代々の記録、そのどれにも『呪い』という記述はなかった。『呪い』などという直接的な言葉を忌み、曖昧な記述にしたのではとも考えたが、一族の面々のどの死因も明確に記してあり、もしここまで嘘でかためたとしたら、そもそも記録して残す意味が失くなってしまう。となれば結論はこれしかない。つまり代々当主がペンをとって書いてきたその記録こそ真実で、魔女の呪いは偽りである。先ほど僕は聖書の記録が疑いのきっかけとなったと書いたが、正しくは疑惑を一足飛びに越えて確信したといっていいだろう。アンヌ・マリーの伝説を僕は誰から聞いたか。それは子どもの記憶力がこたえられる質問ではない。では質問の仕方を変えればいいのだ。誰が魔女の呪いについて、最も長い時間、最も熱心に語っているか。女中頭のスーザン・ネラだ。魔女の呪いはネラ夫人の捏造だった。僕たちはスーザン・ネラに騙されているのだ。聖書の記録は父が再婚したところで止まっていた。現当主として、第十六代ガルトン伯爵として、また愛する父の息子として、僕はペンをとり父の最期をあえてこう書き加えた。魔女に殺されたと。
 ページをめくるユースタスの手が震えている。
 ──僕がネラを疑う根拠は聖書にあった記録だけではない。幼いころ僕はあることを目撃したのだ。これについてはまだ誰にも打ち明けていない。というのも記憶は記録と違い、甚だ曖昧だからだ。僕自身これまでは、あれは子どもが見た悪夢ではなかったかと思っていた。いや、あまりの恐怖に夢だったと思いたかったのかもしれない。だがしかし、先祖が代々書き残してくれた記録によって、あの日の記憶もこの眼で見た確かな事実と確信した。あれは何年前だっただろう。年月日が定かにできないのが悔やまれる。が、十にも満たない子どもに憶えておけと求めるのは酷であろう。あの日、あの夜、僕は見た。寝室の窓から見ていたのだ。それは深夜、密かに行なわれた。客の訪問でも奉公人が帰ってきたのでもないことは明らかだった。客や奉公人が舘に入るとき、馬車から降ろされるなりシーツにくるまれ、担がれるだろうか。彼らは裏口から入りこんだ。僕は思いきって裏階段への扉をあけた。裏口から通じているのは裏の通路と裏階段だからだ。奉公人専用の裏階段に入るなど、それまで考えてもみなかったことだ。下賤な者たちが行き来するところへ入りこむなど、この僕の身分ではけっして許される行為ではない。だが考えてみれば、そういった意識からして、ネラ夫人から厳しく躾けられた結果ではなかったか。おのれの不審な動向を悟られぬために、僕たち兄弟姉妹を奉公人の領域へ近づけぬようにしていたのではなかったか。だが、このときの僕は子どもの好奇心が勝った。自分自身のことながら、この子どもらしい無鉄砲な行動を、僕は賞賛する。おかげで数年後の今、ネラ夫人の悪事を暴く何らかのヒントとなるからだ。そのためにもここに思い出せるかぎり詳しく書き記しておく。
 裏階段は狭く、折れ曲がっては通路があちこちへのび、それがまた階段とつながっていて、迷子になりそうだった。が、下からのぼってくる足音が聞こえてきた。僕は通路にさがって暗がりに身を潜ませた。足音は二人分だった。下のほうにすぐに蝋燭の火が揺れて見えた。ほどなく彼らはのぼってきた。ネラ夫人だった。ネラが蝋燭の灯りを持ち先導していた。あとをついてきたのは男だった。シーツにつつんだ人間を担いでいる。そのシーツの塊がぐったりと動かないので、僕はてっきり死んでいるのだと思い震えあがった。だがそのすぐあとにさらに慄然とすることが起こった。生きていたのだ。突然動いた。その動きによってシーツがめくれた。それが何者だったかはわからない。男だった。身なりもよかった。このガルトムーア・ホールで当時しょっちゅう開かれていた正餐会に、たびたび招かれていた紳士ではないかと思えた。だがあたりは闇につつまれ、灯りはネラ夫人が持っていた蝋燭一本のみときては、この観察も正しいとはいいきれない。しかし、これだけははっきりしている。というのも僕が心底恐怖したのは、このことによってだからだ。彼は魔女に呪われていた。伝説にあるアンヌ・マリーの呪いにかかっていた。呪いに苦しんで死んでいった父とまったくおなじ状態だった。眼が落ち窪み、げっそりと衰えた顔はさながら魔女に命を吸い取られたかのようだ。首を烈しく振り、振りつづけ、手足も妙な動きを繰り返す。奇声をあげた。父がたびたび叫んでいたのとおなじだ。運び手の男が舌打ちしてシーツの男をいったんおろした。二度目に叫びがあがったとき、運び手の男が布か何か口に押しこんだのだろう、声はそれから二度と聞こえなくなった。そしてまた担ぎあげた。その、ほんの一瞬だった。ネラの蝋燭が運び手の顔を照らし出した。知っている顔だった。やはり正餐会の常連客だ。特徴があるからよく覚えていた。というより、あれは一度見たら忘れられない顔だ。生白い肌をして、右頬にくっきりと痣がある。蝶というよりは胴が太くて蛾のように見える形の痣だ。蝋燭の火が揺らめき、蛾も頬の上で羽ばたいているようだった。
 ネラと男は僕の隠れている通路を通りこし、さらに階段をのぼっていった。闇に蝋燭の炎が遠ざかってゆく。頭上で小さく輝くそれは、さながら星の光だ。そして闇に呑まれ消えた。そのように思われた。しかし扉の開閉する音が響いた。それと同時に風が僕のところまでやってきた。それで開かれたのはどの扉かわかったのだ。風は強く冷たかった。つまり屋外からの風ということだ。彼らは屋上へ出たのだ。とすると行き先は一つしかない。八角塔だ。シーツの男は屋上の八角塔に運びこまれたのだ。呪いに侵された父同様に。
 そのあとの記憶がない。おそらく幼い僕は寝室に逃げ帰り、毛布の下で震えて眠ったのだろう。恐怖を忘れるため見たものを現実の出来事から夢へと変換して。この幼さゆえの臆病を誰が責められるだろうか。だが僕はもう臆病な子どもではない。僕は十八歳、冷静に事実を分析して、真実を見極める大人なのだ。九月にはオックスフォード大学への入学も決まっている。舘にいるうちにできるだけ調べあげ、オックスフォードへ行ったあかつきにはその調査結果を携え、然るべきところへ訴え、真相を暴くための協力を仰ぐつもりだ。
 現在判明した事柄と、それにもとづく僕なりの考えをここに記しておく。
 一つ、聖書に残された一族の記録によると、父の代までに魔女の呪いが死因だったとみられる者は一人としていない。
 一つ、僕が知っているかぎり、魔女の呪いによって死んだのは、父、僕の弟トマス、エレン伯母のみ。どれもネラがガルトムーア・ホールに来て女中頭になってからだ! また厳密にいえばエレン伯母はガルノートン一族の人間ではない。これは矛盾していないか?
 一つ、アンヌ・マリーの伝説はいつ生まれたのか。聖書の記録には何も書かれていない。我がガルノートン家の歴史において大事件であると同時に、一族の運命にこれほど影響しているはずなのにだ! 僕は伝説を誰から聞いた? 語り手として記憶にあるのはネラ夫人だけだ。
 一つ、僕が子どものころに目撃した、シーツにつつまれ運びこまれた男についての謎。彼は呪いによって死んだ父と同じ状態だった。誰? なぜこの舘に? その後どうなった? しかし、もっとも肝心なのは、なぜ呪いがという点だ。アンヌ・マリーが呪っているのはガルノートン家の人間のみのはず。ほかにも呪われていた人間がいたという事実は、僕らが信じこまされてきた伝説とまったく矛盾するではないか!
 そして最後の一つ、これはもっとも重要な鍵だと思われる。シーツの男を運びこんだ男、右頬に蛾の形の痣がある男。あれは当時このガルトムーア・ホールで頻繁に開かれていた正餐会に来ていた客だ。名前は確か、
 ナサニエル・ゾフ
 日記にはこのナサニエル・ゾフという名前だけ行を変えて、文字も大きく太く、そのうえ四角く囲ってまであった。
「あなたの勝ちよ」
 ユースタスが顔をあげた。乾いた涙が筋になっていた。
「これではっきりした、魔女の呪いなんて偽りだったのだわ。ああお兄様」
 まるで幼子のような、よるべないユースタスの眼差しだった。

 ちょっと眠ってしまったらしい。眼をあけたらヒューはもう服を着ていて、眼鏡もかけ机にむかっていた。図書室で見つけたガルノートン家の聖書とジョンの日記を熱心に読んでる。
 それをベッドから眺めてたら、ぶるっと震えがきた。僕は裸のままだ。
「さっき夜食を頼んだ、食うだろ?」日記から眼を離さずにヒューが云う。
 穴ウサギが籠をかじってる音がする。イタチもきぃと鳴く。動物たちを入れた籠は二列にならべて置いてある。反対の窓際の台には顕微鏡が陽を受けて鈍く光ってる。ここはヒューが使ってる寝室で、僕が寝そべっているのはヒューのベッドだ。
 ヒューがページをめくった。何度か小さく頷いた。まためくる。太陽が雲に隠れたのか陽がかげり、顕微鏡の光も消える。まためくる。また──
「どうしたんだ?」
「あのね」起きあがってシーツを体に巻きつけてベッドの端に腰かけた。「あんたとはもうこうゆうことはやめようと思う」
 陽射しがもどった。そしたらヒューの眼鏡のレンズが反射し白くなった。
「あんたのことは好きだけど恋人じゃあない。あんたと寝るのも好き、凄く気持ちいいよ、でも、もうやめとく」
「それは残念だ」
「怒ってる?」
「何を?」
 ヒューが眼鏡をつまんで位置を直した。反射が消えて眼が現れた。「ところでこの聖書と日記、興味深いぞ」
 日記も聖書もユースタスがわたしてくれた。ヒューと一緒に詳しく調べると云ったら、拒むかと思ったのにすぐにさし出してきた。面持ちに決意をにじませていた。呪いの真相を解明して頂戴、ネラ夫人の陰謀を打ち砕くためなら何でもするわ。
「何かわかった?」
「呪いの具体的な方法については日記の主、先代伯爵のジョン・ガルノートンはたどりつけなかったようだ、オックスフォードに行ってからは思いつくかぎりの可能性を調べはじめていたが、三ヶ月も経たないうちに発病して送り返されることになったらしい。日記はそこで止まっている」
呪いは何らかの病気だとヒューはもう断定してる。ジョンの日記にも一族の人間ではない者が魔女の呪いに侵されているのを見たとあったから、もう間違いないという。
「聖書の記録によるとガルノートン一族の死因は、君の祖父である十四代伯爵まで魔女の呪いではなかった。つまり呪いと称する病気は、とりあえずは〈呪い〉病とでも呼ぼうか、その原因は一族特有の遺伝ではないということだ。では風土病だろうか。しかし風土病なら、やはり十四代まで一族に一人も罹った者がいないというのは不自然だ。ということは十五代とそれ以前のあいだにこの城で何らかの変化があったはずだ」
「ネラだよ、スーザン・ネラが来た」
「そうだ。問題はネラが何をしたかだ」
 うーん、と僕は首をひねる。
「おそらくそれを知っているのは彼だ」とヒューは日記をさす。
「ナサニエル・ゾフ、ネラの協力者だろう、この男なら何か知っているはずだ。右頬に蛾の形の痣がある男、はて、何者なんだろう。正餐会の招待客でもあったというから、貴族かそれに順ずる身分の者か」
「ユースタスは憶えてないと云ってた、子どもは正餐会のある日は早く寝かされてしまうんだって」
「エスター卿がいたらすぐに調べてもらえたんだが、遥かインドではなあ」
「貴族とはかぎらないよ、ネラの仲間だもの、貴族のふりをさせてるのかも、ネラお得意の捏造と偽装だ」
 最初に日記を読んだとき、僕はジョンが目撃したこの謎の男はバートルじゃないかと思った。だけどすぐに違うと思い直した。バートルは顔に痣なんかない。それにバートルの強いられた立場では、正餐会の客なんかになれるわけがないんだ。
「正餐会というのも妙だ、ネラとしては悪事の現場に余計な人間はなるべく近づけたくないはずだ、そのうえ客にまで〈呪い〉病とは。何か感づかれ殺そうとした? だったら最初から正餐会など開かなければいい、堂々巡りだ」
「ユースタスの話では、正餐会は女主人のエリザベスが呪いのせいで塞ぎこんでしまったから、気分転換にと以前よく開いてたって」
 ふうむ、とヒューは考えこむ。
「それでも駄目だったからエレン伯母を呼びよせたって」
「それもユースタスが云った?」
 穴ウサギが騒がしい。イタチも暴れている。違う話題を探す、手早く服を着ながら。
「エスター卿といえば、あれから次の手紙は?」
 するとヒューはかぶりを振って、
「本物のブラッド・ガルノートンの消息はもうつかめないかもしれないな」
 前の手紙では、ブラッド・ガルノートンなる人物の痕跡をインドでは見つけることはできなかったとあった。それもそのはずで、ブラッド・ガルノートンがわたった先はインドではなく、なんとニューホランドだった。エスター卿が入植者の記録をさかのぼって調べてくれたんだ。シドニー・コーブに上陸した船団の名簿に名前があったらしい。その後の足取りも追ってみるとエスター卿はいってくれている。
「だが難しいだろうな。ニューホランドは植民がはじまってたかだか三十年だ、今でも探検隊が調査している」
「ブラッド・ガルノートンがもしまだ生きていたとしても、もう七十歳だものね。呪いが嘘だって暴いても、跡継ぎの男子のいないガルノートン家は滅びるしかないのか」
 急に動物たちの籠が静かになった、こちらの会話に耳をそばだてているかのように。ヒューの返事はない。
 見ると、ヒューの頬がぽこぽこしてた。舌で頬の内側を押してるんだ。まるでつぐんだ口に何かが閉じこめられてるみたいだ。手はやたら聖書のページをめくってる。ページが持ちあがると四角くくり抜かれたところが窓になって、むこう側の景色を切りとる。
「ねえ、やっぱりさっきのこと怒ってるんじゃない?」
 眼鏡の奥の眼がぱちくりとなる。
「もう寝ないって云ったことだよ。あんたってほんと変わってるね、女に拒否された男は怒り狂うか、縁を切るかどっちかなのに」
「ああそのことか。気にしなくていい、厭々やっても楽しくないからな」
「厭ってわけじゃない、でも、その聖書と日記、見つけたのはユースタスなんだ」
 今度のぱちくりはゆっくりと。
「興味深いな、どうつながるんだろう」
「つまりね、その聖書と日記を秘密の場所に隠していたのは、ネラではなくジョンだった」
「そうだな、大学からもどされ八角塔に監禁されたが、監視の目を逃れて必死で隠したんだろう。日記の最後の文字の状態から察するに病状はかなり進んでいたはずだ」
「うん、最後の望みを託したんだ、いつか見つけてくれる誰かに。そしてそれをユースタスが見つけた、ジョンの妹のユースタスが」
「ユースタスは君だろう、ジョンは君の兄だ」
「そこなんだ。そりゃあ本物のユースタスは僕だ、だけどあの娘はまだそれを知らない、自分をガルノートン家の末娘だと信じきってる。あの娘は、呪いはネラの陰謀だって僕が何度云っても耳を貸さなかった、聖書の記録を見てもまだ半信半疑だった、なのにジョンの日記を読んだとたん、ネラの仕業だと考えるようになった。自分の兄さんの言葉だからだよ、妹だから信じたんだ、妹が兄の遺した言葉を見つけ出し、そして信じたんだ。そのユースタスがもし、ジョンとは兄妹でもなんでもない、赤の他人だと知ったら? 他人どころか家をのっとるため命を奪ったと知ったら? 奪ったのはネラだけど、悪事はすべて自分のためだと知ったら?」
 なるほど、とヒューが頷く。
「変なんだ、ユースタスを憎もうとしたのに憎めない、変なんだよ、僕の身分と人生を奪った仇だっていうのにさ」
「いいや、充分に理解できることだよ。あの娘はもう一人の君だ、君が人生を奪われたように、あの娘もネラによって人生を狂わされたんだ。ユースタス嬢がもし神が定めたとおり、ただの女中頭の娘として育っていればそれなりに幸せだったろう。贅沢はできなくても平穏には暮らせたはずだ、ありもしない魔女の呪いなんかに怯えずにね。今、君らの運命は出会い、そしてからみあっている、恋に落ちたって不思議じゃあない」
「恋?」
「おっと、口がすべった」
「僕がユースタスに恋だって?」
「忘れてくれ」
「自分が男も女もおかまいなしだからって一緒にすんなっ」
 つかみかかって、それからぶん殴ってやるつもりだった。けど思いとどまったのはヒューの言葉が図星だったからだろうか。ほんとに? 違う! でも……襟首をつかんだまま考えてたらヒューが唇を重ねてきた。やっと殴ることができた、思いっきり。
「なるほどなるほど、」床の上でひっくりかえって頬をさすってる。
「残念だが君に手が出すのはもうよしておこう。ひとの恋路に横槍を入れるほど俺はとうへんぼくじゃあないんだ」
 云い返すべきかもう一発くれてやるのか、どう云い返すのか二発目は正当なのか、迷ってるうち、部屋の奥からノックの音が聞こえた。と思ったら、下女はもう続き部屋から入ってきていて、じろじろと僕とひっくりかえったヒューを見てる。手に持ってるのは夜食が乗った盆だ。
「駄目じゃないか、ノックはよくできた、でも入るのは入っていいと云われてからだよ」
 ボンネットをふっ飛ばす勢いで娘は頷く。けれどもきっとまた次も勝手に入ってくるんだろう。ノックを覚えさせるのに三ヵ月もかかった。名前も今だにわからない。何度も尋ねてみたけれどニヤニヤするばかりなんだ。
 この白痴の娘とは以前会っている。僕はまだアレクサという名前で、落としたワタスゲのブローチを探しにこのガルトムーア・ホールに忍びこみ、そのとき地下の厨房で、なぜだか調理台の下にもぐって一心不乱にマヨネーズクリームをかきまぜてたのが、この娘だ。あれから一年、ブラッド・ガルノートンとして再会したわけだけれど、僕の化けかたが上手いせいか、この娘のゆるい頭のネジのおかげか、まったく不審がられずにすんでいる。それにしても憐れだ。誰にも名前をつけてもらえず自分でつけるのと、名前があっても誰からも呼んでもらえないのと、どっちが不幸だろう。ユースタスなど平気で小さいほうの下女なんて呼んでるけど、いつか思い知るときがくる。本来呼ばれるべき名前で呼ばれない口惜しさを。
 下女が鼻に皺をよせ音をたてて息を吸いこんだ。しかめっ面になってる。獣臭いのが気に食わないんだろう。ちょうどイタチがきゅうと鳴いたから、くるっと首をまわしてその籠へあからさまな敵意をむける。
「盆はこっちに置いてくれ」とヒューが手招きした。聖書と日記はもうキャビネットへ片付けられている。当然すべき用心だ。
 これがユースタスだったら広げっぱなしだっただろう。下女を空気か何かだと思ってるんだ。女中頭のネラでさえ、ときとして壁のコートハンガーみたいに扱ってる。そのコートハンガーが眼を光らせ聞き耳を立ててるなんて考えもしない。この娘に断りなく寝室に出入りしないよう教えているのは、そういうわけなんだ。たとえ白痴でもネラが自分の眼と耳のかわりにしないとは限らない。
 下女がテーブルを整えるあいだイタチは鳴きつづけ、穴ウサギもごそごそしていた。おっシードケーキか美味そうだ、とヒューが手を伸ばしたそのとき、娘は動物たちの籠へ突進していった。唸って犬の真似して吠える。それから籠を次々蹴っ飛ばした。ウサギもイタチも飛び出し部屋じゅう駆けまわる。娘が追いかける。ウウウ、ワンワン! いったいなんだってこんな騒ぎになる? 僕とヒューは顔を見あわせ、それからやっとつかまえに走った。僕は動物たちを、ヒューは下女を。
 ウサギは四羽ともつかまえた。イタチは続き部屋へ入りこみ、下女があけっぱなしにしていたドアから裏階段へ逃げてしまった。ヒューがとりおさえた下女は息も荒く、ボンネットもどこかに飛んでいってしまっていた。
 ウサギをすべて籠にもどしたときには下女もボンネットを探し出しかぶり直していた。といっても今の騒動で逆立ってしまった髪を全部押しこむのは無理だったけど。そうして下女がさがり、やれやれと腰かけて、冷めてしまったお茶を飲もうとしたときだ。
 またノックだ。
 しかし今度は続き部屋の奥、奉公人専用のドアからではなかった。僕らが使うほうの扉が叩かれている。慌ただしく、しかし誰かに聞き咎められまいかとおさえた音だ。
「お願い、助けて頂戴」
 ユースタスの声も囁き声だった。
「ドクター・ヒュゲット、ブラッドも一緒にいるのでしょ、助けて」
 扉があくなり倒れこむように入ってきた。
「どうしたんだ、大丈夫?」
 しかしユースタスは僕の腕を拒み、ノブにつかまって立ちあがり、まずはきちんとしめた。耳をよせて外を窺う。そして誰にも気づかれていないと確信してから、
「お願いです、ドクター・ヒュゲット。姉を、ユリアを、診てやってください。ブラッドから聞きました、あなたはわたしたちが魔女の呪いと呼んでいるものを、いえ、信じこまされ、そう呼ばされていたものを、病気だと考えていらっしゃるのでしょう。これまでの数々の無礼はこころから謝罪します。どうかユリアを救ってください、ユリアが、ユリアが、」
 こんなときだというのに僕はユースタスの流す涙にこころを奪われていた。
「魔女がユリアを、ユリアの瞳を、ああ可哀相なユリア姉様! いいえ違う、魔女などいない、呪いなど存在しないのだわ」
 美しい涙。あの涙をぬぐってやりたい、僕の唇で。
 ヒューがユリアの寝室へ駆け出していった。
「あなたも行って頂戴」
 ユースタスは壁によりかかってやっと立っている。
「大丈夫かい、君こそ倒れそうだ」
「わたしは平気よ、早く行って、ユリアを助けて」
 泣きたいのだと思った。一人になって、不安と恐怖を吐き出したいのだ。
 僕はユースタスを残し、ヒューのあとを追った。

ユースタス3 何もかもがわたしを混乱させる

 恨めしい。無垢な朝陽が恨めしい。朝が来るたびに寝室の奥深くまで射しこんで、わたしを目覚めさせる。無邪気な夢から厳しい現実へと引きずり出す。今日もまた無為の一日なのだろうか。失意と絶望のうちに過ぎていくのだろうか。可哀相なユリアにわたしは触れてあげることもできない。
 ところが今朝、わたしを起こしたのは朝陽だけではなかった。
 外から騒々しい音が聞こえてくる。蹄の音と馬のいななき、馬車の車輪が軋んで止まり、掛け声が交わされて何かの作業がはじまる。
 急いで窓から覗いた。馬車は一台ではなかった。いずれも荷馬車だった。人夫たちが力をあわせ荷を降ろしている。
 あれは何かしら? 家具かしら。丸いからテーブルかしら。だけどあれでは座ったとき足が入らない。二人がかりでかついでいる。ほかにも大きな木箱がたくさん。どれもひどく重そうだ。反動をつけないと持ちあがらないし、降ろすときもドシンと音を立てている。
 小さい下女を急がせて身支度もそこそこに降りてゆくと、荷物が舘の中に運ばれているところだった。次々と階段をのぼってゆく。ヒュー・ヒュゲットが指揮している。ブラッドも眼を輝かせている。ネラ夫人がよってきた。
「お嬢様、何の騒ぎでしょう?」眉間に苛立ちがにじんでいる。だけどわたしは見逃さなかった。胸の前できつく組んだ手は不安の表れだ。
「動揺するなんてみっともなくてよ」冷ややかに云ってやった。「ブラッドたちに常識は通用しないと承知しているでしょう、放っておきなさい」
 瞬間、ネラ夫人の眼が怒りに燃えた。しかしすぐまた平静にもどり、わたしも素知らぬふりをつづけた。
「ユリア様は今朝もまた朝食室にはいらっしゃらないのでしょうか」
「お姉様はマミーリアのことが心配なのよ、心配しすぎて気鬱症になってしまったのだわ、お母様と一緒よ。あとでわたしが寝室へ食事を持っていきますから」
 ユリアが魔女の呪いに、いいえ呪いだと信じこまされていた病に罹ったことは、ネラ夫人には隠している。一家の不幸を嘆くあまり寝室にひきこもっていることにして、密かにヒューの治療を受けているのだ。
 あれはわたしがブラッドとともに兄の日記を発見した日の夜のこと、姉の足がまったく動かなくなってしまったのだった。多少ギクシャクしても慎重に足を進めれば歩けていたのに、椅子に座ったきり立ちあがれなくなった。せめてもの幸運はわたしが居あわせていたことだ。ようすがおかしいのに気づいてユリアの顔を覗くと、眼から涙がとめどもなく流れていた。悲嘆の涙ではなかった。姉の眼はびっくりしたように見開かれ、涙はだらだらと流れつづけた。迷っている間はなかった。わたしは直ちにヒュゲットの部屋に駆けこんだ。助けてと。
「ユリア様のためにお薬を煎じさせましょうか」
「結構よ」
「足を温めるお湯を用意させましょう」
「いいえ」
「ではローダナム(阿片チンキ)を」
「とんでもない!」
「ユースタス様、何かわたくしに隠し事があるのでは?」
 隠し事ですって? よくもぬけぬけと訊けたものだわ。
 ネラ夫人が何を企んでいるか、これまでどれほどの非道を働いてきたか、すべて知っていると思うさま糾弾してやれたら! けれど、はやまるなとブラッドに止められている。悪事を証明する決定的な証拠がまだないのだった。兄のジョンが残してくれた聖書と日記だけでは足りない。状況証拠でしかない。呪いの正体も突き止められていないから、ユリアの治療も思ったように進んでいない。下手に騒いでネラ夫人を逃がすことになってはいけない。
 だからわたしの役目は、今までどおり夫人の操り人形としてふるまい、味方だと思わせて何かしらさぐり出すことだった。たとえば呪いと称している病の原因、たとえば園丁をめん棒で殴って殺した犯人、あるいはジョンの日記にあったナサニエル・ゾフという人物が何者なのか。
 荷はほとんど運び終わったようだ。エールでも飲んで帰りたまえと、心づけを弾んでいるヒューの声がする。やがて馬車は去り、ヒューとブラッドも荷とともに客間へ閉じこもり、静寂がもどってきた。
 それでも声を潜ませてネラ夫人に云った。
「ごめんなさい、わたしの態度が悪かったわ、反省します。わたし焦っているのだわ、ブラッドが中々求婚してくれないものだから」
「ユースタス様、わたしくしは騙されませんよ」
「騙してなんか、」
「隠しても無駄ですユースタス様。お忘れになってはいけません、ユースタス様がわたくしのことを何でもご存じのように、わたくしもあなた様のすべてを知っているのです」
「すべて──」
「率直に申しあげます、ご承知のとおりマミーリア様まで八角塔へ入っておしまいになられました、このような事態にあんな些細な隠し事など、どうでもいいことでございます」
 些細な?
「お嬢様はアンヌ・マリーのどくろを持ってらっしゃいますね」
 どくろ──。二回まばたきするうち、思い出した。
「お嬢様の寝室の、続き部屋にある帽子箱の中に隠してらっしゃるでしょう?」
「待って頂戴、隠し事というのはあのどくろのこと?」
 母の長持からこっそり持ってきたどくろのことだ。
「あなた、わたしの持ち物を勝手に調べたのね」
「調べるべきだとわたしに語るのです、たとえば帽子箱の置かれたむき、たとえばリボンの結び目、封蝋の形、前日とは違うそんな小さな変化が」
「あなた、わたしの帽子箱のリボンの結びかたまで記憶しているの」
「もちろんですとも。わたくしはお嬢様のことなら何から何まで承知しております」
 魔女だ。このときはっきりと感じた。ネラ夫人が魔女だ。
 いつも誰かに見られているような気がしていた。それをわたしはアンヌ・マリーの視線だと思っていた。アンヌ・マリーのどくろが舘のどこからか、わたしたち一家が破滅するまでじっと見ているのだと思っていた。だけどネラ夫人だったのだ。ネラ夫人が常にわたしを監視していたのだ。
「どうしてお嬢様はあんなものを隠し持ったりなさるのです、あれは魔女のどくろなのですよ、忌まわしい魔女の」
 どうして──。どうしてわたしは隠し持ったりしたのだろう。
 だってあのときお母様の寝室で、ブラッドがヒューと親密に、あまりにも親密に──
 だからわたしは魔女になろうと思ったのだ。アンヌ・マリーのように執念を持って、冷徹になって、使命をはたすのみと考えたのだ。でもほんとうの魔女は、詐略でもって我が一族を滅ぼそうとしているのは、今わたしの目の前にいるスーザン・ネラ。ブラッドがそうわたしに教えたのだ。必ずやネラの陰謀を暴いてやると断言したのだ。そしてわたしを抱きしめたりキスしたりしたのだ。なのにブラッドはヒュー・ヒュゲットとただならぬ関係にある。そんなひとを信じていいの? 信じられるの? でもいいえ、ブラッドだけじゃない、兄のジョンだってわたしに教えてくれたではないか。聖書と日記を残してくれたではないか。だけど、ジョンはもういない。死んでしまって、わたしを抱きしめることも守ることもできない。なんてことだろう、わたしは誰を頼りにすればいいの?
「お嬢様、どうなさったのです、お顔の色がすぐれません、何か心配事でも?」
 いかにも気遣わしげに訊いてくるネラ夫人を茫然となってわたしは見返した。わたしは一人ぽっちだ。わたしには味方がいない。
 そのとき「郵便です」か細い声がした。
 先ほどの荷入れの騒ぎであけ放されたままだった玄関から、配達人がおずおずと覗いていた。いつもの痩せっぽちの少年だった。我が家に便りだなんてめずらしい。郵便配達人は配達物がなくても、御領主様の舘には必ず御用をうかがいに寄ることになっている。でも大抵はこちらから出す手紙だってないのだ。
 ネラ夫人が代金を支払って手紙を受けとった。
「ヒュゲット様宛てです」
 わたしに見せる。そして客間のある階上へと視線を投げ、
「いったいヒュゲット様とブラッド様は何をなさっているのでしょう」
 視線がもどってきてわたしに注がれた。さぐってこいと云っているのだ。
 手紙を奪いとって階段をのぼった。これ以上ネラ夫人と対峙するのは耐えられない。けれどもわたしの自尊心はブラッドとヒュゲットの二人を前にして、どこまで持ちこたえてくれるだろうか。
 客間の扉の内側では、何が行なわれているのかまったく想像のつかぬ物音が響いていた。

「いったいこれは何なのっ」
 客間の中央に据えられていたのは、先ほどテーブルかと思った荷物だった。楕円形の桶のようで、ひとが軽く二、三人は入れそうだ。その中へヒュー・ヒュゲットが次から次へとつめていく。それは桶とともに運びこまれた木箱の中身で、砂のようなもの、ガラスの瓶、そして鉄やガラスの屑だった。砂は幾種類かあった。粒の粗さや色が異なっていた。瓶には水が入っていた。桶の側面にそって同心円状にならべられていった。ブラッドも手伝っている。慎重な手つきだ。もともと客間に置いてあった椅子やテーブルは壁によせられていて、そこにも見たことのない器械が鎮座している。横むきになったガラスの器が幾つも重なっている。
 桶の中の瓶と瓶との隙間に鉄屑がつめこまれ、それで終わりだった。蓋がおろされた。蓋には幾つか小さな穴があいていた。「一本でいいだろう」ヒュゲットが云い、ブラッドが棒をわたす。棒は長く、途中でくの字型に曲がっている。穴の一つにその鉄の棒がさしこまれた。
「これは何なの」
 もう一度訊いた。ブラッドが振りむいた。
「バケーだよ。ユリアを治療するための装置だ」
「バケー? 装置? 何を云っているの?」
 ヒュー・ヒュゲットも振りむいた。
「メスメリズムだ」
 メスメリズム、またメスメリズム。ユリアが病に倒れてからこの言葉を何度聞いたことだろう。このもっとも新しく科学的な治療法を、ヒュー・ヒュゲットはドイツにまで行って習得してきたという。
 はじめヒュゲットはユリアの寝室でこのメスメリズムを行った。こともあろうに二人っきりにしろなどと云い出し、そんな非常識はもちろん許されるはずがなかった。ところがユリアが承知してしまった。痙攣に懸命に耐えつつ訴えられては、わたしも黙るしかなかった。
 待っているあいだ、どのような治療かブラッドが説明してくれたが、わたしはさっぱり理解できなかった。半時もたたぬうちにヒュゲットがもどってきて、困りはてたというように肩をすくめた。
「ガチガチだ」
 患者が緊張していてはこの治療法は効かないという。
「驚いたよ、正真正銘の淑女というものが存在するんだな」などと云って頭をかく。
 何をされたのとあとからユリアにたずねても、教えてくれなかった。わたしがいたらないばかりにヒュゲット様のご期待にそえられなくてと、ただただ泣き伏すのだった。けれどもその頬にはほんのり赤みがさしていたから、少しはメスメリズムとやらの効き目があったのではないかしらと、わたしは期待したのだった。
 よし、完成だ! とヒュゲットがバケーとかいう奇妙な装置を叩いた。
「さっそくユリア嬢をお連れしよう」
 出て行きかけたヒュゲットを呼び止める。
「手紙がとどいていてよ」
 ところが、
「知っている、真相にまた一歩近づいた」
 云い残してヒュゲットは出て行ってしまった。真相に近づいた、何のこと? するとブラッドが、
「バケーと一緒に来た手紙に書いてあったんだ、プレストンで魔女の呪いとそっくりの症状の患者がいるって」
「プレストン? どこの町」たずねながら合点した。ヒュゲットは勘違いしたのだ。郵便配達人が持ってきた手紙と、バケーとかいう荷とともに送られてきた手紙とを。わたしそこねた手紙をポケットの上から押さえる。
「プレストンはランカシャの町だよ、その近くでヒューは開業してたんだ、メスマー舘といって繁盛してた」
「メスマー舘」
「メスメリズムの治療院だよ、弟子もいっぱいいて、その一人がこのバケーとグラスハーモニカを送ってくれたんだ」
「そのプレストンにユリアとおなじ病の患者がいるのね。真相に近づいたというのはそのことだったのね」
「近づいたというべきか、謎が深まったというべきか。ヒューは〈呪い〉病を風土病ではないかと考えてたんだ」
「じゃあプレストンに患者がいるというのは変だわ」
「そう。だけどあの二人はこの地にいたことがあるんだよ、ここガルトムーアに」
「だったらそのときに病気になったのね」
「でもヒューによると、そんなに潜伏期間の長い病気は考えられないんだってさ。というのもあいつらがガルトムーアに来たのは一年半も前──」
 そこでいきなりブラッドは口をつぐんでしまう。
「どうしたの、患者は二人なのね、あなたの知っているひと?」
「いやまさか、知らないさ」
「そうかしら、まるで知っているような口ぶりだったわ。ところであなた、ランカシャでヒュゲットと知りあったの? あなた、ロンドンにいたのではなくって?」
 ブラッドは黙っている。
 決めた。手紙はわたすまい。ブラッドは何か隠している。
 扉が開き、ユリアを抱いたヒュゲットが入ってきた。ブラッドが助かったという顔になったのを、わたしは気づかないふりをした。

 ユリアは白いドレスを着ていたから、もし忌まわしい病のせいで全身が細かい痙攣をくり返していなければ、花婿によって褥に運ばれる初々しい花嫁にも見えたことだろう。わたしはこころから姉を憐れんだ。姉は病魔に侵されながらも精一杯おめかしをしている。それは見苦しくない恰好をというだけでなく、ヒュゲットに少しでも気に入ってもらおうという悲しくも健気な努力なのだった。その乙女心にヒュゲットは気づいているのだろうか。椅子に姉を慎重に降ろしているあのようす、紳士としての単なる義務からなのか、医者の患者にたいする当然の扱いなのか。
 けれどもドクター・ヒュゲットの勇気と責任感は賞賛しなくてはなるまい。わたしは恥ずかしいことだけれども姉に触れることを恐れた。呪いを受けた者に触れたら自分も呪われてしまうと、ネラ夫人によって刷りこまれていたせいだ。しかしヒュゲットは平気だった。姉がついに歩けなくなって助けを求めたあの夜も、彼は一片の怯みさえ見せなかった。わたしの制止など耳を貸さず、そしてユリアの相手を思うあまりの懸命な拒絶も穏やかにいなし、姉の手をとって脈を計り、頬や額にも触れ、目蓋まで裏返したのだった。ブラッドとヒュゲットが何事か隠していようと、少なくともユリアの治療は本気で打ちこむつもりなのだ。
 けれども、それにしてもこの奇妙な装置は何なの?
 部屋の中央に鎮座している巨大な桶、その前に座らされた姉、ブラッドが抱えて持ってきたのは水差しと洗面器だ──顔でも洗うの? まさか!
 ユリアも眼を見開いている。きょろきょろと落ち着かないのは症状ではなく怯えているのだ。だけどその瞳はやはり右眼と左眼とわずかではあるけれど違う方向へむけられていて、わたしは耐えられず顔をそむけた。
「この棒をしっかり握って」
 ヒュゲットがユリアに云った。ユリアは素直に、けれど恐る恐る、手をさしのべる。鉄の棒は巨大な桶から突き出して、途中で折れ曲がって、ユリアのほうへのびている。鈍く光りながら。
 ためらっているユリアの手にヒュゲットが棒を握らせた。触れる瞬間、その冷たさがわたしにまで伝わってきて、身震いしてしまった。
「バケーに貯えられた宇宙流体がこの棒をつたって君の体に流れこむ。そして君の神経組織に浸透し病気を治すんだ、前に説明したからわかるでしょう」
 ユリアは熱心に頷いているけれど、わたしにはまったくわからない。ヒュゲットの言葉は呪文にしか聞こえない。
「安心なさい、今度は君の体に直接触れることはないから。このバケーを使えばきっとうまくいく」
「何ですって!」思わず口を挟んでいた。「体に直接触れるですって? ではユリアにさわったというの?」
「俺の発する動物磁気を送りこむためだ。生物は天体や他の生物から影響を受ける。その特性を動物磁気という。正常な動物磁気を伝達させ、患者の動物磁気を正しい流れに導く、これがメスメリズムの原理だ」
「何を云っているのかさっぱり理解できないわ」
「ユリア嬢の症状から俺は神経の病気を疑っている。幸いにもメスメリズムがもっとも有効なのは神経疾患だ。しかし直接触れるのはユリア嬢が緊張するから、わざわざこのバケーを送らせたんだ」
「バケー! メスメリズム! おかしな言葉を使わないで頂戴、これではまるで、まるで、」
 しかしわたしの言葉をさえぎったのはユリアだった。
「いいのよユースタス。わたしは平気よ、わたしはヒュゲット様を信じているもの」
「お姉様ったら本気なの」
「お願いユースタス、やらせて頂戴、わたし、わたし、治りたいの」
 棒を握りしめたまま眼差しですがってくる。だけど、瞳の片方が主を裏切って勝手な方角へそれる。全身も絶えずひくついて、まさにそのほっそりとした体の中に魔女が潜んでいて、今にも暴れ出さんばかりだ。痙攣という名の魔女が。
「治りたいの」
 ユリアが繰り返した。一言だったが云いたいことは充分につたわってきた。治ってヒュゲット様とともに幸せになりたい──。わたしは引きさがるしかなかった。
 ユリアが眼を閉じた。ヒュゲットとブラッドが壁際の、ガラスの器械の前に立った。横むきのガラスの器が幾つも連なっているグラスハーモニカと呼ばれていた器械だ。そばにはブラッドが持ってきた洗面器と水差しがあった。ヒュゲットが水をはった洗面器に手を入れて洗った。いいえ、洗うのではなく、手を濡らしただけのようだ。
 おもむろに濡れた手をガラスにあてる。ブラッドが器械の横に出ているハンドルをまわしはじめる。
 この音といったら! なんと云い表すべきだろう。あまりの異様さに全身の毛が立ちあがり、背筋を震えがのぼってくる。
 音はヒュゲットの手もとから発せられているようだった。ブラッドがハンドルをまわすと、心棒に刺さって連なっているガラスの器が回転し、そこへヒュゲットの指が触れるとそれぞれ高さの異なる音色が鳴るのだ。
 一分もしないうちに部屋の扉が叩かれた。
「何ごとです、この音は」
 ネラ夫人だ。外に漏れた音に驚いて飛んできたのだろう。扉には鍵はないが、ソファを置いてすぐにはあけられないようにしてある。
 ブラッドがわたしにむかって顎を振る。わたしは扉まで行って、もちろんあけはせず、なるべく明るく声をはりあげた。
「気にしないで頂戴、何でもないの、ただゲームをしているだけよ」
「お嬢様、ここをあけてくださいまし」
「駄目、だってわかるでしょ、今、わたし、ブラッドと一緒なの」
 ネラ夫人は黙った。扉を通して逡巡している気配がつたわってきた。しかし結局、足音は遠ざかっていった。
 そのあいだグラスハーモニカの音は控えめだった。しかし邪魔者が去ったとわかると、ふたたび高まってきた。ヒュゲットが優雅な仕草でガラスに手を滑らす。ブラッドは一定の速さでハンドルをまわしている。揺らめく旋律はどこかあやふやでこころもとない。だけど響きは耳の中を満たし、頭の奥までしみこんでくる。それが体じゅうにゆきわたって、そうすると体の骨という骨が共鳴し、身の内側で鳴る音と外側の音とが重なって、波となってうねり出す。この世のものとは思えない。なんて悲しく、恐ろしい音色。これは嘆きだ。嘆いている。魔女が、骨だけになったアンヌ・マリーが嘆いている。
 不気味なのは音が器械からではなく、べつのところから聞こえてくるのだ。器械があるのとは反対の壁から? 天井から? いいえ、この部屋全体が鳴っている。部屋がアンヌ・マリーの霊に呑みこまれてしまった──
 やめて、音を止めて、と叫ぼうとしたときだ。
 ユリアに異変が起こった。
 ユリアが椅子から立っている! 一人では立つこともままならなかったのに。
 バケー──なんたる馬鹿げた名!──から突き出した棒をしっかりと握りしめ、ユリアは踊るかのように体を大きく揺らしている。音の波にあわせて右へ左へ。そうかと思えば棒につかまって体を極限までのけぞらせる。白い喉も水鳥のように湾曲している。
 音色がいっそう高まった。怪しい響きに部屋も歪み、溶け出しそうだ。
 するとユリアの動きが止まった。のけぞっていた背を勢いよくもどし、直立した。ユリアの口が開いたり閉じたりし出す。波打つ旋律の隙間から漏れ聞こえてくる。つぶやいているのだった。何度も何度も。そしてつぶやきは次第に大きくなり、そして最後は、今まで聞いたこともないユリアのものとはとても思えない、絶叫となった。
「ヒュゲット様、ヒュゲット様、ヒュゲット様あああああああ」
 思わずといったふうにヒュゲットが器械から手を離した。嘆きの音色も消えた。ブラッドもハンドルをまわすのをやめた。けれど器はまだ止まらずにいて、聞こえるのはそのかすかな摩擦の音だけだ。
 ユリアは棒を離していた。離した両手を高々とさしあげ、顔もあおのいて、そうやって突っ立っているさまは天の祝福を一心に受けているかのようだ。
 しかし、天からくだされた仕打ちは残酷だった。曲がりくねった何かがユリアの頭から爪先へと走った。そう見えた。そしてその何かは去らずにユリアの体内に留まって、ガクガクと揺さぶりはじめた。烈しく揺れながらユリアの顔は歓喜にあふれている。かっと開いた眼は涙をほとばしらせ、大きくあけた口は意味をなさない単語を吐き出している。やがて単語は奇声となり、叫びはゲラゲラと下品な大笑いに転じ、それからまったく唐突にばったりと倒れた。
 倒れてもまだ痙攣している。この痙攣は〈呪い〉病のせい? それとも今の狂乱の名残り?
「お姉様!」そばへよろうとした。けれども「待て」ヒュゲットが止める。
「さあ、ユリア。歩いてみよう。まず立ってごらん、自分の力で立てるだろう?」
 何を云っているの、ユリアは歩けないのよ、この客間に来るときもあなたに抱かれてきたじゃないの。
 ところが、いったい何が起こったのだろう、ユリアがゆっくりとではあるけれど、ふたたび立ちあがろうとした。
 立った! 体が揺れて危なげだけれど、バケーの棒につかまらず一人で立っている。
「右手をあげてごらん」
 ゆるゆるとユリアの右の腕があがる。
「次は左を」
 左の腕もあがる。両方の腕を肩の高さに水平に広げている。
「そのまま歩きなさい、歩けるはずだ」
 両腕を広げたせいか、バランスをうまくとって歩いている。ひとに支えてもらわず、壁につかまることもなく、自分の足で。
 しかしユリアのあの顔! なんだか魂が抜けたよう。眼差しはわたしへむけられているものの、その瞳は何も映していない。ユリアはまるでヒュゲットの人形だ。彼の云うがまま手足を動かしている。
「今度はその場でまわってみなさい」
 ふらつきながらもユリアは二回、まわった。そして突然くなっと膝が折れ、床にくずおれてしまった。
「ユリア! お姉様!」
 助け起こそうとし、でも躊躇してしまう。だがそれも一瞬だけだ、呪いなど嘘なのだ、抱き起こした。ユリアは気を失っていた。その腕に、足に、まだ震えは思い出したように小さく起こっている。
「大丈夫だ、分利(クリーズ)したあと、人工の夢遊症になっただけだ」
「さわらないで!」ヒュゲットの手を払いのけた。「あなたたち、ユリアに何をしたのっ」
「治療だ、最初はみな驚くが」
「これが治療ですって? 見てよ、震えがおさまらない」
「これでいい。人工的夢遊症はたまたまだったが彼女はまだ歩けると確かめられた、症状は見かけほど進んでいないんだ。重要なのはクリーズだ。初回からクリーズまでいった、彼女にはバケーの治療があっている、見込みは充分だ」
 クリーズ──、また怪しげな言葉を。
「次は磁気棒も使ってみよう」
 クリーズ、ジキボー、訳のわからない言葉ばかり。
「もうたくさん、これ以上お姉様を酷い目にあわせないで」
「そうだ、いい考えがある!」ブラッドだ。
「人工的夢遊症を起こせばひとを思いのまま操れるんだから、ネラにやるってのは? 罪を告白するよう命令するんだ」
 ひとを思いのままに操れるですって?
「それはできない」ヒュゲットがきっぱりと云った。
「ネラが素直にバケーの前に座るとは考えられないし、反抗的な態度ではメスメリズムは効果がない。第一、メスメリズムは医術だ、たとえ悪事を暴くためであっても治療以外にメスメリズムを利用するのは医師として断る」
「うんわかった。ごめん、今のは忘れて」
 ブラッドは反省しているが、わたしには二人の会話が理解できなかった。ただ、思いのままに操れるというくだりを、幾度も胸の中で反芻していた。
「ベッドで休ませなければ」ヒュゲットが軽々とユリアを抱きあげる。「メスメリズムは何人もの患者を治してきた。この調子でつづければ必ず成果が表れるだろう」
 ブラッドが扉をふさいでいたソファをどかし、ヒュゲットはユリアを運んでいった。扉が閉まるとブラッドはわたしにむき直った。
「ほんとだよ。僕もこの眼で何度も見た、メスマー舘で患者たちがちょうど今のユリアみたいに痙攣発作を起こして、そして眼が覚めたら劇的に治ってるんだ、ほんとうに、嘘みたいに」
「もう、いいわ」
 耳をふさぎたい。
 奇妙な装置、不気味な音楽、呪文のような言葉、ユリアのあの錯乱したようす。体を揺らして、喚き散らして、奇声まであげて。あれはユリアではなかった。別人だった。まるで何かがのりうつったよう──。何かが? 魔女よ、そうよ、まるで魔女がユリアの体をのっとったようではなくて? 
 夢遊症ですって? そりゃ歩きはしたけれど、あれは自ら認めたとおりヒュゲットが操っていたのでしょう。
 治療ですって? メスメリズムですって? 
 あれこそまるで呪術だわ!

 寝室にもどって真っ直ぐに続き部屋へ進み、衣裳箪笥から帽子箱をおろした。
 箱にかけたリボンも封蝋も、以前のまま変わりはない。いいえ、封蝋は押し直したのではなくて? 位置が違っているような気がする。ネラ夫人が中を調べたからだ。
 封蝋を破りリボンをほどき、蓋をあけるとベルベットの薔薇が見えた。薔薇の飾りのついたパメラ型帽子を、そっと持ちあげる。現れた。埃じみた灰色の骨、骨の丸み、そこに割られてあいた穴。なぜだかほっとした。箱から出すと、どくろの虚ろな眼がわたしを見返してきた。
 あなたは誰なの? 
 アンヌ・マリーでないのはとっくに承知しているわ。あなた以外にもたくさんいるのも知っている。あなたがたは長持の中から、裏口の天井裏から、箪笥の裏の壁の中から、ずっとこの城舘で行われてきたことを見てきたのでしょう。教えて頂戴、そのからっぽの眼で何を見たの。
 寝室の扉がノックされた。返事をしていないのにネラ夫人が入ってきた。
「入っていいと云ってないわ!」
「お嬢様」眉をひそめる。視線はわたしの手のどくろにむけられている。「またそんなものを」
「用は何なの」
「先ほどの騒ぎは何だったのです、ブラッド様たちと何をしていたのです」
 どう返答するべきか迷った。ユリアを治療していたとはもちろん云えない。ネラ夫人には絶対に秘密なのだ。だけど、あれがほんとうに治療なのか。信じて協力した結果があれなのか。メスメリズムとやらも、それを持ちこんだブラッドたちも、何もかもがわたしを混乱させる。誰が正しいの、真実は何、どくろをいっそう強く抱きしめる。
 するとネラ夫人は返事を拒まれたと受けとったようだ。これ見よがしのため息をつき、こんなことを云うのだった。
「どうやらユースタス様は魔女とたいそう仲良くなられた御ようす」
「当然でしょう、魔女はわたしが生まれたときからそばにいるんですもの」
 皮肉に皮肉で応酬してやった。
「お貸しください、わたくしが捨ててまいります」
「厭、ほっといて頂戴」
 逃げてベッドに飛び乗って、どくろを抱えこむ。厭よ厭。ネラ夫人がさらに手をのばしてくる。厭よ、厭だってば。小さな子どものように頭を振った。ネラ夫人も信じられない、ブラッドも信じられない、誰も信じられない。このどくろだけなのだ、今わたしの手の中でしっかりと形を持って存在しているのは。
「ようございます。お嬢様がそれで満足するとおっしゃるのなら、どうぞお持ちになってください、たかがどくろでございます」
 その心底うんざりといった調子がわたしの顔をあげさせた。ネラ夫人はやれやれと首を振って、まるで駄々っ子にお手上げといった素振りだ。許しがたい、女中頭ふぜいが図に乗って母親気取りとは。
「正餐会を開くわ」
「は? 正餐会ですか」
「お客様をもう一度お呼びするのよ」
「お客様と申しますと?」
「忘れたの? 以前はこのガルトムーア・ホールでもしょっちゅう正餐会を開いていたでしょう。今までご無沙汰をしていた無礼を詫びて、それから懐かしい昔話をするのよ」そうすればナサニエル・ゾフという人物について、何かしら聞き出せるかもしれない。いいえ、それよりもゾフ本人を呼びよせればいい。
「何が可笑しいの?」
「いいえ、何も」
「招待状の準備をして頂戴。名前や住所や、もちろんあなたのことだから、ちゃんと控えを残してあるでしょう?」
「はい、もちろんです、お嬢様」
「だから何を笑っているのよ?」
 ネラ夫人は肩をすぼませるだけだ。
「あなた、わたしを馬鹿にしているの? ああ、わかった。わたしの命令を無視するつもりなのね、招待状など出すつもりはないのね」
「滅相もございません、そんなにお疑いなら郵便配達人を呼んで、お嬢様の目の前でわたしましょう」
 ふんと鼻を鳴らし、流し目をくれてやり、せいぜい蔑んでやった。すると、
「なぜです、なぜお疑いになるのです」
 うってかわって悲嘆にくれた声音になる。
「お嬢様はお変わりになられました。お嬢様はわたくしを、このわたくしを疎んでいらっしゃいます、以前は慕ってくださいました、全幅の信頼をよせてくださいました、母とまでおっしゃってくださいました」
 憐れっぽく顔を歪ませている。
「お嬢様、わたくしはお嬢様をわたくしの娘と思って、お嬢様を、お嬢様のことだけを」
 抱きしめようと腕をさしのべてくる。
「厚かましい。思いあがりも甚だしいわ、たかだか女中頭の分際で」
 ネラ夫人の顔から表情が消えた。頬から血の気がひいて、眼も光を失った。
 けれどもすぐに灰色の眼は輝きをとりもどした。そのねっとりとした光に鳥肌が立つ。部屋の空気が一気に重くなる。
「よろしゅうございます。いかにもわたくしは一介の奉公人、あなた様とは身分が違う、肝に銘じます。だからユースタス様もくれぐれもお忘れにならないでくださいませ。御自分の使命を」
「使命」
「そうです、使命です。ユースタス様は特別な娘としてお生まれになったのではございませんか。一族を救う救世主なのではございませんか」
 違うわ。だって魔女の呪いはあなたの作り話じゃあないの。
「ユースタス様も肝にお銘じくださいまし。もし御自分の使命をはたさないのなら、あなた様はただの化け物として生きてゆくしかないのですよ」
 何も聞こえなくなった。
 何も見えない。感じない。まわりはただ灰色に、ネラ夫人の眼とおなじ灰色にぬりこめられ、わたしは漂っているのか、それとも落ちてゆくのか、いやひょっとして、灰色に呑みこまれて消滅してしまったのか……
 気づいたらネラ夫人の姿はなかった。わたしはどくろを膝に抱いたまま、ベッドに一人、とり残されていた。
 どくろを持ちあげる。
 あなたは誰?
 ネラ夫人はうっかりしたわ。あなたのことをたかがどくろと云った。アンヌ・マリーの伝説が真実で、その呪いを心底恐れているのなら、そんなぞんざいな云いかたはしない。
 あなたは誰なの?
 そしてわたしは誰なの? 
 ほんのこのあいだまでわたしは魔女の呪いから一族を救うために生まれた特別の娘だった。だけど魔女の伝説がネラ夫人のでっちあげでしかないのなら、わたしは誰なの。いったい何のためにこの体に生まれついたの?
 化け物。
 ネラ夫人の言葉がよみがえって木魂する。化け物、化け物、化け物。どくろは黄ばんだ歯列をむき出して、ただ笑っている。
 このどくろはアンヌ・マリーなんかではない。特別でも何でもない。
 投げ捨てて、シーツにもぐる。膝を胸まで引きよせて小さく小さくなる。
 どくろは転がっていったが、しかし言葉のほうは執拗に追ってきた。化け物。化け物。シーツの下でもっと縮こまる。だけど言葉は消えない、消えるわけがないのだ、わたしの頭の内側で木魂しているのだから。
 ところがこのとき、耳もとでガサガサいうものがあった。現実の音は力強くてはっきりとしていて、呪わしい木魂からわたしを救ってくれた。
 手紙だ。ヒュゲット宛てにとどいた手紙。シーツにもぐっているうちポケットから出てきたのだ。
 差出人はエスター卿とある。インドからだ。インドといえばブラッドの父親がガルトムーア・ホールを飛び出したあと、わたった地だ。
 封をあける。
 手が震えてきた。書いてある意味をつかもうと、おなじ行に何度も眼を走らせた。
 失神しそうだ。けれど、いったんさがった血がお腹の底で集まって、ふたたびのぼってきた。熱い。眼がくらむ。
 ブラッド、あなた、いったい何者なの?

ブラッド3 ヒューにとってなにより重要なのは自分が謎を解明すること

 馬車を降りると街の喧騒につつまれた。ひとびとは朗らかに挨拶を交わし、花売り娘はラベンダーの花束を持って呼びかける。そもそも空気がガルトムーアと違ってる。ムーアのように風は飄々と吹き抜けていかない。建物と建物のあいだに生活の匂いがたまってる。ほぼ十ヶ月ぶりのプレストンだった。
 降り立った僕らを、こぼれそうな笑みを浮かべた男が迎えてくれる。しばしヒュゲットと抱擁して、その懐かしい感触を味わっている。
「バケーとグラスハーモニカは無事にとどきましたか」
「ありがとう、完璧だ」
 それから僕をしげしげと眺めた。誰だかやっとわかったようで、面食らいながらも握手を求めてきた。男どうしの挨拶だ。ジリアン・ラシェルは相変わらず天使のようだった。金髪はやわらかく巻いて、水色の瞳は澄んでいる。
「こちらです。あの救貧院です」
 さし示された建物は通りから奥まったところにあり、黒ずんだ石の壁が陰気だった。
 広間はしんとしていた。粗末な木のテーブルが幾つもならんでいるが、ひとは隅のほうで何人か固まって座ってるだけだ。義足の男と、その棒の足にしがみついている顔色の悪い子ども。僕らは広間を通り抜け、さらに奥へと進んだ。
「容態は手紙で知らせたとおりです、老人のほうはまだ軽いのですが、甥はもうまともに話すこともできません」
 かつてのヒューの弟子ジリアン・ラシェルは、今は親類の医院で働いているんだけど、教区から依頼されて、この救貧院に駆けこんでくる病人や怪我人を診てやっているのだそうだ。こんな天使みたいな医者から親切にされたら、それだけで不幸なひとの大半は治ってしまうだろう。不可解な病人が運びこまれたのは先月のことだった。見たことのない奇怪な症状だった。さらにはその二人の患者は恩師ヒュゲットと関わりのある人物だった。それでジリアンはバケーの荷と一緒に手紙をくれたってわけだ。
 両側の壁にベッドがつらなる細長い部屋に入った。病人は一番奥のベッドだった。鋏研ぎの老人とその甥だ。スーザン・ネラから行方不明のブラッド・ガルノートンになりすますよう雇われ、僕を走っている馬車から投げ捨てた二人だ。プレストンの売春宿で再会し、奪われたワタスゲのブローチをとりもどしたあと、僕らの計画の邪魔にならないよう治安判事に拘束してもらっていた。
 まず甥を見て驚いた。ひどく痩せ衰えている。肉が削げ落ちてしまって体がひとまわり縮み、あまった皮膚はたるんで皺になって、一気に十も二十も老けたようだ。
「発病したのは四ヶ月ほど前だそうです。手に負えなくなってケンドリー治安判事により監獄から移されました」
 震えている。二人とも、シーツの下の体が絶え間なく震えている。口から涎が糸になって落ちる。
「なるほど」ヒューが頷いた。「手が負えなくなったというのは?」
「ほかの囚人たちが怖がるんだそうです」
 ジリアンが甥のほうへよった。手をさしのべる。
「さあ、起きられますか。歩いてみてください」
 とたん、ぱっと眼を開いた。それはまさに昔話で語られる、片眼は呪う相手をねめつけ、残った眼は地獄を眺める、やぶにらみの魔女の眼だった。どこを見ているのかわからぬその眼が、真ん丸くむき出される。それからつづいて口もゆっくりと開かれた。喉の奥が覗けるまで開かれた。
 部屋じゅうに響きわたる。
 叫びは隅々までゆきわたって、壁板や天井の梁を振動させ、埃や塵を落とさせた。
 突然、甥の体が跳ねあがった。ベッドから飛び起きて妙な動きをはじめる。腕をくねらせ、足を蹴りあげる。背筋をぴんと伸ばしたかと思うと、がくんと折れる。騒々しく歩きまわって足を踏み鳴らし、両腕はバタバタとあげたりさげたり。その間も奇声はひっきりなしにあげられる。
 唐突に奇声がやんだ。ダンスも止まった。
 と、高笑いが起こった。
 乾いた笑い声がその体から抜け去ると甥は倒れた。異臭が鼻をつく。甥のズボンが濡れていて、排泄された液体は床に広がっていった。

「症状ははじめ痙攣でした。寒がっているみたいに震えるので最初はマラリアを疑ったのです。ですがマラリアの病毒は沼地の瘴気でしょう、沼など近くにありませんし、そもそもあの二人の患者は発熱はないのです。やがて症状が進んでくると斜視が見られ、痙攣はおさまらず、正常な歩行が困難になり、じっと立っておられず、また涙が止まらなくなったり。今の状態はご覧になったとおりです。甥のほうは失禁をくり返し、すでに自力でものを食べるのも難しい状態で衰弱してきています。あの奇声と奇妙な動作のせいで、悪魔にとり憑かれたと救貧院の世話人たちは怖がっていますが、あれは運動失調、行動障害のあらわれでしょう。いったいどういう病気なのでしょうか」
 ジリアンの問いかけにヒューは唸った。
 僕はテーブルの上の冷肉料理を睨んでいた。
「老人の患者は? いつ発病した? おなじ監房にいたのか?」
「彼は甥よりもふた月ほど遅かったそうです、二人は別々に収容されていたそうですよ」
 また唸る。
 旅籠屋の二階の食堂で軽食を注文したのだった。だけど誰も料理には手をつけていない。ヒューとジリアンは〈呪い〉病について議論に夢中で、僕は大好きな肉だけど食べる気になれない。
「俺は風土病だと考えていたんだが。知るかぎり発病したのはガルノートン家の人間と、その家に勤めていた園丁、そしてジョン・ガルノートンの日記にあった正餐会の客。だから病気の原因はガルトムーア・ホールか、その近辺にあると考えていたんだ。それこそあそこは湿地も多いからな。だが、州をこえてこのランカシャのプレストンで患者が出たとなると──」
「けれどあの二人はガルトムーアにもいたのでしょう」
「一年半も前にね、体に入った病毒が発病まで一年以上もかかったなんて例は聞いたことがない。しかも二人は発病に二ヶ月もずれがある。病毒は土地特有のものではなかったのか、そもそも伝染病ではなかったのか」
 もう一度唸って、そこでふと僕に眼をやった。
「どうした、食べないのか、めずらしいな、腹でも下したか」
 云われて肉を一切れとる。でもとりわけ皿に乗せて、僕は僕でまた考えこむ。
 鋏研ぎの男を見て確信したんだ。バートルの女房はやっぱり〈呪い〉病に罹っていたんだ。間違いない。獣じみた奇声と狂乱の踊りのような動き、鋏研ぎとおなじだった。
「症状から俺は神経に何らかの問題があると考えている。一人は治療を試みた」
「メスメリズムですね。で、どうでした?」
「バケーはうまくいったんだ、クリーズまでいけた、だが、」
 バケー治療のあと、ユリアはいったんはよくなったかに見えた。歩けるようになったし痙攣もおさまった。でも、数日後にはまた震え出し、歩くのは何かにつかまってやっとだ。それをユリアは自分のせいだと詫びるのだった。ヒュゲットの指示どおりに上手にできない自分がいけないのだと。
「メスメリズムで治療できないとなると、病気ではなく、何かの中毒症状ではないでしょうか。以前メスマー舘でもあったでしょう、毎日通ってきていた婦人姉妹にどうやっても効果があらわれず、後日判明したのは、姉の亭主が姉妹の愛用していた口紅に水銀を練りこんでいた」
「伯爵家だけならその可能性もあるだろうが。ほかの患者はどう説明する」
 先代伯爵ジョンの葬儀で柩持ちをした園丁、ネラに雇われた鋏研ぎ、正餐会の客、そしてバートルの女房も、ネラの犠牲者はガルトムーア・ホールの外にも大勢いる。
 毒だとしたらバートルの女房はともかく、ガルノートン一族以外の人間たちはどこで盛られたんだろう。正餐会の客は当然、出された料理だろう。問題は園丁と鋏研ぎだ。
「毒なら両者の発病のずれも説明がつくと思ったのです。彼らに何か共通点はないでしょうか、水銀事件のような」
「共通点ねえ……身分も境遇も住んでいるところも違うが」
 そのとき旅籠屋の給仕が入ってきた。手つかずの料理に眉を曇らせた。冷肉はおさげしてデザートをお持ちしましょうか、砂糖漬けがございますが。
「あっ、肉は食べるよ。今、食べる」と皿の肉をフォークで刺したときだ。
 閃いた。園丁と鋏研ぎの共通点。
「キドニーパイだ!」
 僕の声にヒューと、ジリアンも面食らっている。
「何だって? 何て云った?」
「共通点はキドニーパイだよ、僕は見たんだ、園丁も鋏研ぎもキドニーパイを食べてた。園丁は村の居酒屋(タヴァーン)、銀狐の尾っぽ亭で。鋏研ぎの二人は馬車の中でぱくついてた、あれはキドニーパイだよ」
 ヒューとジリアンは顔を見あわせている。それからその顔をまた僕にもどし、
「それはいつの話だ?」
「先代伯爵のジョンの葬式の日だよ、墓で何があったのか僕は園丁に訊きにいったんだ。そしたら銀狐の尾っぽ亭で食べてたんだ。それから僕はバートルにガルトムーアから出てけと鋏研ぎの馬車に乗せられて、そのとき二人もキドニーパイを食べてた、尾っぽ亭のとおなじ匂いだった、ナツメッグとジャコウソウ」
 だけどヒューは噴き出した。ジリアンも笑いをこらえてる。
「それは一年半も前の話だろう」
「そうだよ、柩をグロットーに運んだ園丁は、中で首のない遺体を見たんだ、それで忘れたくって浴びるほど飲んでて、」
「一年半前に食べたキドニーパイに毒が入っていたと?」
「共通点はそれしかない! 特に鋏研ぎのほうははっきりと云ってた、旦那からもらったって、旦那とはバートルのことだ、そして指図したのはネラだ」
「しかしねアレクサ」なだめるようにヒューが云う。ブラッドではなくアレクサと呼ぶ。
「一年以上もたって効き目が表れる毒物というのは考えにくいな。食べつづけていたのならまだしも」
「でも妙じゃないか、わざわざあたえてまで食べさせるなんて。それに、そうだ、思い出した、銀狐の尾っぽ亭だってキドニーパイは園丁が注文したんじゃなかった、注文してないのに出てきたんだ、変だろ? そうだ、もっと妙なことがあった、僕がそれを食べようとしたらバートルが店に飛びこんで来たんだ、いきなりテーブルを投げつけてきた、あのときは僕を殺そうとしたのかと思ったけど、ほんとはパイを食べさせまいとしたんだ、きっとそうだ」
 ヒューは黙っている。
「ほかにも思いあたることがあるよ、ネラとバートルが話してた、園丁は死ぬって」
「死ぬ?」身を乗り出す。「毒殺したと云ったのか?」
「ううん、はっきりとそう云ったんじゃなく、うーんと何だっけ、魔女の呪いが真実になれば噂が伝説になるとか」
「それで毒入りキドニーパイか」
「けど絶対に死ぬかどうかはわからないとも云ってた、時間がかかるとか、呪いは繊細な芸術なんだとか」
 ヒューは肩をすくめる。苦笑している。
「もしそんな毒があるとしたら、そうとう怠惰な毒だな」
 椅子を蹴って立って思いっきりテーブルを叩いてやった。皿が跳ね、グラスが倒れた。
「世界のどこかには、一年も二年もかかって忘れたころに殺しにかかる毒があるかもしれないじゃないか!」
 けれどもヒューは平然と倒れたグラスをもどす。
「それこそ呪術だ。アレクサ、悪いがこれは科学の話なんだ」
「へええ、科学も気の毒にね、常識って祭壇に祭られて黴が生えちゃってるよ」
 ヒューの頬が強張った。眼鏡のガラスが反射して奥の眼を隠す。ナプキンで口をふき──ほとんど食べてないくせに!──立った。
「馬車を用意させてこよう」
 階下に降りていってしまった。
 残された僕とジリアンはしばらくどちらも口を利かなかった。僕はむかっ腹をかかえ、こうなったらせめて冷肉を食ってやろうと取り皿にどんどん山盛りにしてやった。グレイビーソースを肉切れが溺れるほどぶっかけてると、ジリアンの遠慮がちの声が聞こえた。
「あなたは不思議なかただ。メスマー舘では真っ向から先生とやりあう者なんていませんでした、きっと特別な存在なのでしょう、男装をなさっているのもヒューのため?」
 あやうくソースをぶちまけるところだった。あっすみません立ち入ったことを、とジリアンは頬を染めている。
「びっくりしたなもう、」指についたソースを舐め舐め僕は、
「あんたって自分の愛人のこと、何にもわかってないんだな。確かにヒューはそんじょそこらの紳士より、よっぽど立派な紳士だよ、相手が女でも尊重するし。でもヒューにとってなにより重要なのは科学、自分が謎を解明すること、自分が新しい発見をすること、頭にあるのはそれだけ。誰でも受け入れて、手放すのも頓着ないのは、だからなんだよ。愛情なんてたいした問題じゃないんだ。まったく気の毒なのはガルトムーア・ホールのユリア嬢、単なる患者としか見てないくせに、研究対象としてそれこそ特別扱いしているから始末が悪い」
 ジリアンの頬に漂っていたのは寂しい笑みだった。僕は理解した。ジリアンはヒューのことをよくわかっている。わかってないはずがない。すべて承知していたからこそ、メスマー舘に突然転がりこんだ僕がヒューの婚約者だなんて話になったとき、黙って身をひいたんだ。
「ひとが手にしている自由のうち、もっとも幸福なものは何だと思いますか? 信じたいものを信じ、考えたいように考えられることですよ」
 ジリアンの頬笑みはまた天使にふさわしく、やさしく明るくなっていた。

 帰りの馬車では僕もヒューもそれぞれもの思いに沈んでいた。長い道中、僕がヒューに言葉をかけたのは二回だけだった。
「あんたはプレストンに残って二、三日ジリアンとゆっくりすごせばよかったのに」
 それと、
「ムーアが見えてきた、変だよね、賑やかなプレストンよりあんな荒地のほうがこころが安らぐなんて」
 どちらも返事はなかった。おおかた正体不明の病気のことで頭がいっぱいなんだろう。気の毒なジリアン。可哀相なユリア。こんな男に惚れるなんて。ヒューにとってこの世のすべては研究であり実験なのだろう。僕に手を出したのもきっと珍しかったからなんだろう。学術的興味ってやつだ。どんな具合か試してみたかったんだ。それでもヒューは憎めない。ヒューと寝たことで僕は変わった。蔑まれるバケモンから人間になれたんだ。
「どうした、俺の顔に何かついているのか」
 やっと口を利いた。
「ううん、べつに何でもない」
「さっきの毒の話だが、考えてみよう。確かに未知の物質はこの世にまだたくさんあるはずだ」
「うん」
 憎めない理由はこの真摯さにもある。
 だけど僕はひとにたいしてヒューみたいにはふるまえない。ひとよりも自分の目的を優先させられるだろうか。ひとというのはユースタスのことだ。僕はユースタスを仇として見ることができなくなってる。僕はユースタスを守りたい。ユースタスだって犠牲者だ。僕とおなじなんだ。
 そこで、あっと思った。
「何年もあとに効き目があらわれる毒だったら、僕らももう食べちゃってるってことは?」
「それは考えにくいな」ヒューが否定する。
「ネラの目的は、ガルトノートン家を自分の娘のものにすることだろう、財産だけでなく身分や家門、すべてだ。だがそれにはガルトン伯爵と結婚しなくてはならない、ガルトン伯爵は君だ、結婚する前に君を殺すわけがない」
「そうか。けど、先に毒を食べさせておいて、死ぬまえにさっと結婚をって計画だったら? 鋏研ぎの二人組が〈呪い〉病になったのもまさにそれじゃない?」
「それは考えられるな、最初から結婚相手はユースタス嬢を選べと指示してあったんだから。ところが実際やってきたのは鋏研ぎではなく君だった、ネラは計画の変更を余儀なくされた」
「じゃ、大丈夫ってこと?」
「見たところ〈呪い〉病は発症時期も症状の進行もまちまちだ、はやまって結婚前に伯爵を殺してしまうような危険は冒すまい。それに家を存続させるには男子が必要だ、苦労して娘を伯爵と結婚させても跡継ぎが生まれなくては元も子もない」
「だったら爺さんを偽者に選んじゃ駄目じゃない」
「爺さんとの子どもなんて最初から考えちゃいないだろうよ。ネラなら赤ん坊くらいどこからでも手に入れてくるだろう、そしてしゃあしゃあと、お嬢様が伯爵様とのあいだに跡継ぎをお産みになったと公表するだろう、だがそれには伯爵と形だけでも夫婦になっておかなきゃならない。よって君は、ユースタス嬢と結婚ということになるまでは安心してキドニーパイでも何でも食べていい」
「なるほどね。じゃ、僕は一生食べられるってわけだ」
 自分がほんとは女だってことを冗談にしたつもりだったけれど、ヒューは笑わなかった。唇は引きむすばれたまま、またもや眼鏡のレンズが反射して眼を隠してしまう。そして窓に顔をむけ、考えごとにもどる。毒の正体の新しい可能性について、脳味噌が忙しく働いているようだ。
 いよいよだと思った。いよいよネラの悪事を暴くときがきた。帰ったら今日こそバートルに白状させる。魔女の呪いなんてでっちあげで、ネラが毒殺したと証言させる。ガルノートン一族でもないのに呪いに侵された鋏研ぎ、一族の歴史を記した聖書、ジョンの日記、そしてそこにバートルの証言が加われば、いくらネラだって観念するしかないだろう。
 どうしてバートルがネラに逆らおうとしないのか不思議だったんだ。でも自分の女房もおなじ毒を食べさせられていたのなら理解できる。ずっと脅されてたんだ。おまえもおなじ目にあわせてやるとか、協力すれば女房を救ってやろうとか。でもヒューなら治してやれる。バートルが真実を明かしてくれれば、それをもとに治療法だって見つかるはずだ。
 馬車が停まった。やっとガルトムーア・ホールに着いた。飛び降りて、御者に支払いをしてるヒューを残し駆け出す。と、と、ぶつかりそうになった。なんとかよけた。でも相手は尻餅ついて、持ってた肩さげ袋の中身が散らばってしまった。拾い集めるのを手伝ってやったら、かわいそうなほど恐縮する。郵便配達の小僧だった。落ちたのは手紙だった。ぺこぺこ礼をして逃げるように行ってしまう。今日は集配の日か。ひょっとするとエスター卿から便りがとどいたかもしれない。が、ともかくバートルだ。
 正面玄関ではなく裏口を使う。暗い裏廊下を走って探す。「バートル、バートル、どこだ!」
 厨房に灯りがついている。料理の匂いもする。「バートル、今日こそ話してもらう。キドニーパイだな?」
 けど中は無人だった。調理台の上には野菜屑、配膳台には盛りつけのすんだ大皿、燃えさかる火の音だけがオーブンから聞こえてくる。
 引き返しかけ、ふと気づいた。臭い。これは肉をローストする匂いじゃない。
 オーブンに近づき、鉄格子の内側の火を覗く。薪ではないものが燃えている。四角い板状のものが熱でそり返っている。その下で重なった紙が炎に食われて、必死に抵抗するかのように一枚一枚めくれあがってる。
 聖書じゃないか! ガルノートン家の歴史を記した聖書が何でここに──
 格子をあけ、火掻き棒をひっつかみ、聖書をかき出す。火の粉が飛んで靴先を焦がす。遅かった。聖書のもっとも重要な、書き込みのあったページはすべて焼けてしまっていた。ジョンの日記もすでに失われていた。炉の中にその形は残っていたが、灰だった。火掻き棒でさわったら、虚しく崩れた。
 厨房を飛び出し裏廊下を走りまわる。「バートル! バートル!」
 いた! 階段の上。
「待て、バートル」
 背中を丸めた惨めな影が振りむいた。裏階段のその踊り場まで僕は駆けあがった。
「どうして聖書を燃やしたんだ、ネラか、またネラに命令されたのか!」
 けれどバートルは無言のまま僕の顔を見つめるばかり。
「聖書と日記だよ、あんたが燃やしただろう」
 バートルは首をひねる、いったい何のことだというように。それが芝居には見えず僕を戸惑わせる。
「いいかバートル、今日こそは話してもらう。キドニーパイだな、キドニーパイに毒が入っていたんだろう?」
 今度はバートルは驚いた。一歩二歩とあとじさった。僕は満足し、さらに迫った。
「おまえは毒入りパイを食べさせたんだろう? 柩持ちの園丁に、そして鋏研ぎの二人組みにも」
 バートルは右へ左へと視線をさまよわせている。
「正直にこたえろ! 先代伯爵ジョンの葬儀があった夜だ、銀狐の尾っぽ亭で僕を襲ったのはパイを食べさせないためだったんだろ? 鋏研ぎには金と一緒にパイをわたしたんだろ?」
 バートルの首ががっくりと垂れる。
 服をつかんでゆすぶってやる。
「こたえろ、そうなんだろ!」
 バートルが頷いた。弱々しかったが確かに頷いた。
「やっぱりそうか。ネラの指図なんだな、ネラに命じられてやったんだな、魔女の呪いは作り話で、すべて陰謀で、首謀者はネラなんだな?」
 ところがバートルは頷かない。おどおどと見返してくるだけだ。
「どうして返事しない、なぜネラをかばう、園丁を殺したのもあんたなのか、あんたはネラに命令されたらそこまでやるのか、毒のパイのせいでもう死ぬのはわかっていたのに、残酷にもめん棒で殴って喉をかっ切った」
 このときのバートルの反応に思わず僕は彼を離した。眼をむき出してわなわなと震え出し、血の気も失せていって、まるで園丁が殺されたことなど、今の今まで知らなかったといわんばかりだ。
「まさか、あんたの仕業じゃないとでも? じゃあ誰がやったんだ」
 バートルは背を丸め大きな体を縮こませている。まるで何かに怯えているように。手は口をしっかりとおおっている。絶対に白状しまいとしているのか。
「そんなにネラが怖いのか?」
 なんて卑屈な姿だろう。バートルはネラの奴隷だ。たとえ自分の妻がネラの毒のせいで狂女同然の状態にさせられても、ネラを恐れ、逆らうことはできない。
 だけど、憐れっぽく身を縮めているようすに、よみがえってきた。形相は苦痛と恥辱に満ちているのに潤んでいたバートルの眼。しなる鞭をじっと受けとめていたバートルの裸体。
 怖いだけじゃない。恐怖だけでネラに従っているんじゃない。バートルは好きなんだ。奴隷でいることが好きなんだ。
 自分のしたことに後悔もするし、良心も痛む。だからヘッジス村に捨てられた僕に食べ物を運んでくれたりした。でも、だからといってバートルはネラの悪事を止めることはしない。ネラから離れることさえしない。バートルは望んでるんだ、ネラの支配を、ネラのあたえる懲罰を。神に許しを請う一方でネラには鞭をねだって、その代償に自分の妻や、僕や、ガルノートン一族、大勢のひとたちをさし出した。
 ぶん殴ってやりたい。けど我慢して、拳を振りおろすかわりに説得した。
「あんたがほんとうに神様に許してもらいたいと思ってるなら、死んだあと魂が救われたいなら、真実を話すんだ。自分の犯した罪を、ネラの罪を、あの女が何をやってきたか、何をやろうとしてるのか」
 しかしバートルは口をふさいでいる手さえ離そうとしない。
「このまま罪を犯しつづけるつもりなのか、何人死んだと思う、あんたのほうがよく知ってるだろ、これからも死ぬよ? ユリアやマミーリアをこのまま見殺しにする気なの? 頼むよ、ねえ、ほんとうのことを話して」
「何をしているのよ」
 声は上のほうから投げつけられた。ユースタスだった。裏階段を降りてきた。背後のドアがあけっぱなしになっていて、仄暗い中に光の四角形が浮いていた。
「いやしくも家の主がこんな奉公人の領域で二人っきりで」
「ユースタス、聞いてくれ、聖書も日記も燃やされてしまった」
「お兄様の日記が燃やされた? なんてこと! 誰がやったの」小走りに踊り場まで降りてくる。
「それを今訊いてたんだ」
「訊いていた?」
 見る間にユースタスの表情が侮蔑に変わった。鼻息だけで笑った。
「わたし、あなたに云ってなかったかしら」
「何のことだ?」
「その下女は口が利けないの、舌がないのよ」
 バートルの舌がない? 馬鹿な。
 でも、そのとき、口をおおうバートルの手にいっそう力がこめられた。
「ブラッド、下女を仕事にもどしなさい」
「駄目だ、どうしても白状してもらう」
「あくまでとりつくろう気なのね、あなたときたらまったく見下げはてたひとだわ、奉公人を誘惑するなんて、それもよりにもよって下女を」
「下女と呼ぶな、彼はバートルだ」
「彼?」
 じろじろとバートルの頭のてっぺんから爪先まで眺めまわした。
「この大きい下女のことを云っているの? バートルですって?」
 おほほと声をあげて笑う。
「冗談のつもり? それともお相手は男だということにして誤魔化そうという魂胆? どちらにせよお粗末ですこと」
 ユースタスの受けこたえも無理はない。スカートにエプロン、頭にはボンネット、それがバートルの恰好だった。大きいほうの下女、それがバートルなのだ。ガルトムーア・ホールに男の奉公人がいないというのは間違ってなかった。ガルトン伯爵となってもどってきた僕がようやっと再会したバートルは、下働きの女中だったんだ。驚いている僕にそのときユースタスが云った酷い言葉を憶えている。下女の名前はリンリンリン、呼び出しベルの音よ。
「彼はほんとうに男なんだ、ネラの可哀相な手下さ。下女に化けてるのもネラの指図だろう、そばにおいていつでも使えるようにと。そうだろバートル? 襟をおろして喉を見せてみろ」
「やめて頂戴、いくら下女でも辱めていいわけないわ」
「このバートルならネラの陰謀のすべてを知ってるんだ、バートルが真実を明かしてくれれば──」
「馬鹿馬鹿しい」大きくかぶりを振る。「百歩譲ってあなたの云うとおりだとしましょう、彼女? 彼? そのバートルとやらが何を知っているにしても、どうやって明かすというの、唖者なのに」
「唖者なんかじゃない、ふりをしてるだけだ、ネラの命令だろう」
「あらまあ。どんな理由があってそんなことを?」
「それはたぶん、きっと、喋ったら男だとばれるからだ」
「いいえ。もともと不具なのよ、わたしは幼いころから知ってるもの、だからネラ夫人も下女に雇ったのよ、余所に余計な話をもらす心配がないと。疑うのなら口の中をご覧なさい、舌がないのよ」
 そんなわけあるものか。ほんの一年半前バートルはその口で僕に云ったんだ。ガルトムーアのことは忘れろと。二度ともどってくるなと。
「バートル、口をあけろ」
 しかしバートルは手で口を隠したまま、顔をそむける。
「バートル!」
 腕をつかんで口から引きはがしてやろうとした。力まかせにひっぱっる。揺さぶる。が、駄目だ。
 ところがユースタスが高らかに命じた。
「手を離して口をおあけ」
 するとバートルがのろのろと手をおろすじゃないか。少しだけ口をあける。
「もっと大きく!」
 びくっとなって、口をいっぱいに開く。
 なんてことだ、命令されれば従うのか、下女そのものじゃないか。
 バートルは阿呆みたいに大口をあけてじっとしている。その口を覗き、愕然となった。ほんとうだった。舌が途中までしかなかった。根もとあたりが短く残っているだけだ。切断されたのか。醜くひきつれた断面が、切られたときの痛みを思い出しているかのように、怯えて震えている。なんてむごたらしい──
「ネラか、ネラにやられたのか、そうなんだろ、ああ、そうに決まってる。でもなぜこんな酷いことを。あんたは忠実な奴隷じゃないか、殺せと命じられれば人殺しもする」
「それは園丁のことを云っているのかしら」
 ユースタスのこの意地の悪い口調はどうしたことだろう?
「園丁を殺したのはあいにくこの下女ではなくてよ。あの日わたしたちが見た園丁は殺されてそれほど時間はたっていなかったわ、でも下女はずっとこの舘にいたはずよ、お湯を沸かして、地下とわたしの寝室を何往復もしてね、出かけるまえにわたしが命じたの、だから下女が馬車で半時もかかる村まで行って人殺しをする暇なんてなかった。それに園丁は首を切られるだけじゃなくめん棒でも殴られていたわ、なぜかしら、簡単よ、抵抗されたら簡単には殺せないからよ、でも、この下女ならそんなこと考えたりしない、図体ばかり大きくて馬鹿力だけがとりえのこの下女ならね、というよりそんな知恵もまわらないんじゃないかしら。どう? 筋の通った考えじゃなくて?」
 僕は唸るしかない。
「いつまでそうしているのッ」
 ユースタスが叱りつけた相手はバートルだった。
「その見苦しい口を閉じて、さっさと仕事におもどり!」
 とたんドタドタと足音をたて、逃げるように階段を降りていった。階下に消えてゆくバートルの姿を眺めながら、ユースタスは吐き捨てた。
「隙あらば少しでも怠けようとする、愚図のくせにこずるい下女」
 周囲の闇が濃くなったような気がした。ユースタスの顔が白く浮かんでいる。
「だったらネラだ。ネラが自分の手で園丁を殺したんだ」
「ネラ夫人がわざわざ村まで出かけていったというの?」
「そうだ、バートルでなけりゃネラしかいないだろう」
 お話にならないと白い顔が左右に振られる。
「あなたはわたしに筋道を立てて考えろと云ったわね。あなたはどうなの、ぜひ教えていただきたいわ、きちんと筋道を立てて。ネラ夫人が園丁を殺したと考える理由は? 下女の舌を切ったというのは?」
「確かに園丁を殺したかどうかについては断言できない。けど、あのバートルのことならはっきりしてる。だって、僕は子どものころからバートルに助けられてきた、バートルはずっと僕に食べものをあたえ、読み書きも教えてくれた、ほんの一年半前までのことだ、バートルは口を利いていた、舌がないなんてことなかった、ちゃんと僕と話をしていた。だからバートルが舌を切られたのは、僕がガルトムーアにもどってくるまでのあいだのことだ」
 ユースタスの眼が驚きに見開かれている。口もとが苦痛とも喜びともつかぬかたちに歪んでいる。
「あなた、自分が何を云ったかわかって?」
 自分の失敗にはすぐに気づいた。だがそれが何だっていうんだ。バートルが舌を切られたんだぞ。
「あなたがバートルと呼ぶあの下女は、わたしがものごころつくころにはここで働いていたわ。あなたロンドンにいたのではなくって? 食べものと読み書きですって? ガルトムーアにもどってきたと云ったわね、あなたは、あなたは、いったい──」
 どう云い抜けたらいいだろう? それとも正直に明かすべきなのか。今こそ真実を告げる機会なのか。君は偽者で、本物のユースタス・ガルノートンは僕なのだと。おそらく僕らは赤ん坊のときネラにすりかえられて、君はネラの娘なのだろうと。
「僕は、」
「あなたは?」
「僕は、」
 唇を舐める。
「僕はロンドンに行くまえはガルトムーアにいたんだ、なぜって? あたりまえだろう、僕だってブラッド・ガルノートン一族だもの。辺鄙な村でひっそりと暮らしているのをバートルが同情して助けてくれてたんだ」
 まるで見知らぬ人間に、それも相手にするに値しないつまらぬ身分の者にくれるような、ユースタスの眼差しだった。眼差しは僕の胸をえぐった。だけどユースタスが真実を知ったときに受ける傷に比べれば、こんな痛みはとるにたりないと僕には思えるのだった。
「いいわ。そうね、今のところはそのこたえでいいわ」
 それから不意にユースタスは、何十年もの歳月に倦み疲れた老婆のようになった。
「ところで重大なお知らせがあります。お客様がいらっしゃっているわ。あなたが驚くひとよ、それとも喜ぶのかしら」
 客だって? 世間とは隔絶してるこのガルトムーア・ホールに? 
「誰だと思って?」
 こたえあぐねている僕にユースタスが笑いを漏らした。乾ききった笑いだった。投げやりに云った。
「ゾフよ、ナサニエル・ゾフ」

 誰のことか一瞬わからなかった。ゾフ? ゾフとはジョンの日記に──でもその日記はついさっき灰になってしまった──書いてあったネラの仲間か? 
 しかし、そう問う間もあたえず、ユースタスが先に立って階段をあがりはじめた。
「正餐の用意はもうできているわ、あなたたちの帰りを待っていたのよ」
「正餐? そうか、君の招待に応じてやってきたってわけだ」昔のパーティーの招待客をまた招くというユースタスの計画は聞いていた。それに敵がまんまとひっかかったってわけだ。
「違うわ!」
 いきなり立ち止まったから、あとについていった僕はぶつかりそうになった。
「違うのよ、招待状を出したのはついさっきなのよ、ゾフはそれより前、今日の正午ごろ、突然現れたの。驚いたわ、驚愕よ、なのにあなたは出かけて留守だし、わたしは気が遠くなって、ええ、いっそのこと失神してしまいたかったわ」
 ふたたび階段をのぼりながら、
「でもわたし、考えたの、これもネラ夫人の仕業なんだって。わたしが以前の招待客に手紙を出すと挑発したから、先手を打ってゾフを呼びよせたんだろうって。だけど違うのよ、ネラ夫人も驚いていたのよ、現れたゾフに心底驚いていたし、それだけじゃない、ゾフのあのようすといったら──! あれではネラ夫人から呼ぶはずはない、どういうことなの、何がどうなっているの、もうさっぱりわからない!」
 烈しく首を振る。いったいゾフがどうだったというんだ。
「それでもわたし、懸命に考えたのよ。そしたらあなたたちの帰りの馬車が着く少しまえ、ネラ夫人たら厭味ったらしくわたしをわざわざ呼んで、さあ約束どおりに例の招待状を郵便配達人にわたしますよと云うのよ、ゾフが来ているのだからもう必要ないじゃない! けれどそこで中止にしたらわたしは企みを認めることになってしまう、だからあくまで素知らぬふりを通したわ、招待状を送ったわよ、無駄だとわかりきっているのにね」
 僕が配達人に拾ってやった手紙はそれだったのか。
「屈辱だわ、弄ばれている気分だわ」
「でもゾフが現れたのはネラ夫人が仕組んだわけじゃないんだろ、それにこの状況はかえって好都合じゃないか」
 けれどもユースタスは忌々しげにかぶりを振るだけだ。
「どういう意味だ」
「すぐにわかるわ」
 裏階段をのぼりきり、奉公人用のドアをあけ、舘の二階へ出る。改めて階段を、主人たちが使う主階段を降りて一階へ行く。広間を抜けると正餐室の扉だ。
 が、そこで僕の足が止まった。広間の窓の外で何か光った。
 外は荒れはてているが庭園だ。雑草に埋もれた花壇があり、柵が倒れかかっており、ニワトコの木が生えている。木のそばに立っているのは、あれはヒューとバートル。
 ヒューも僕に気づいた。角度が変わって一瞬、眼鏡がまた光った。窓のむこうからヒューが眼差しで僕に何事か伝えている。
「どうしたの、怖気づいたの?」
「いや、」
 と返事をして、また窓に眼をもどすともう二人の姿はなかった。ニワトコの木と、その背後に伸び放題の茂みがあるだけだった。
 何を話していたんだろう。バートルのほうは手振り身振りだった。ヒューに何事か訴えかけていた。気にはなったがユースタスが歩き出していた。このときすぐに外に出て二人に確かめなかったことを、あとになってどんなに後悔したことか。
 正餐室の扉の前まで来るとユースタスが止まった。背中が震えている。囁く、さっきまでとはうってかわって怯えた息だけの声で。
「わたしはもう気が狂いそうよ、何をどう考えたらいいの、この事態をどう筋道をつけろというの」
 返事をするまえに扉が開かれた。
 正餐の席についているのは三人だった。エリザベスが座っていることに驚き、そして腹が立った。この異様な正餐会に、なぜ半病人の彼女までひっぱり出された?
 残りの二人は、男と、どういうわけか子どもだ。子どもは頭巾をかぶせられていて、それは大人用のマントのようで、顔だけじゃなく全身がすっぽりと隠れている。こんな場に連れてこられ怖がっているのか、可哀相に頭巾の三角頭が震えている。
 二人がこちらをむいた。
 男のほうは知ってる顔だった。なんてこった、メイナス・ジョイス! いつぞや見舞ってやった鞭のあとが顔面にまだ薄く残っている。どこで調達してきたのか上等な衣裳だが、着馴れていないのは明らかでしゃちほこばってる。それでも腹にはやつに似合いのけち臭い悪だくみをかかえているんだろう、下卑た笑いを浮かべている。
 そしてもう一人、子どものほうは──
 まったくだ、ユースタスの云ったとおりだ、どう筋道をつけたらこの事態となる?
 修道僧のような仰々しいマントの中は子どもじゃなかった。頭巾の下に覗く顔は塩漬けした牡蠣のような色で、でっぱった頬骨が脂気のまるで抜けた皮膚を透けるほど押しあげていて、そこに、はりついている。蛾の形をした黒ずんだ痣が。かつては鮮やかに浮きあがって人目についただろうが、今は目をそむけたくなる不吉なしみが。
 ゾフだ。こいつがナサニエル・ゾフ。
 何か非常に恐ろしいことがこの男の身に起きたのだ。何であんなに震えている? あれは、あの痙攣のような動きは、数時間前にプレストンの救貧院で見た鋏研ぎとおんなじじゃあないか。
 止まらぬ震えのせいで頭巾がずれていき、ついに落ちた。この男は何歳なんだろう。ジョンの日記から推察すれば老人とまではいかないはずだ。なのに髪の毛はほとんど抜け落ち、かろうじて残っている毛も貧弱で白髪だった。
 そして眼だ。痩せて落ちくぼんだ眼窩から右眼は異様にぎらつき、けど、左の眼球は裏返って、光彩が欠けらしか覗いていない。

スワン1 その意味は『豚の世話係』

 その娘の名はスワンといった。父親はスーザンと名づけた。だがスーザンはありふれている。あるとき娘は父親の蔵書を盗み読むうちスワンという単語を見つけた。古英語で書かれた本だった。意味は『豚の世話係』。これほどおのれに似つかわしい名前があろうか。それに響きが滅多にない特別な感じがする。わたしの名はスワンだと娘は決めた。しかしそれは娘一人だけの決めごとであって、父親や父親の客たちからは相変わらずスーザンと呼ばれ、娘も甘んじて受け入れていた。スーザンという名は隠れ蓑になる。スーザンという娘は平凡であり素朴であり、愚直なまで忠実であると誰も疑わない。それでもときおりスワンはこらえきれなくなると、自分のイヌをスーザンと呼び鞭で打ってやった。お許しを、お許しを、とイヌが懇願すると、おまえのその流れている涙は嬉し涙なのよ、と言い聞かせてスワンはまた鞭を振るい、はいそうです打たれるのが嬉しいですとこたえるまで手を止めなかった。
 『豚の世話係』。スワンが世話しなければならない豚は多かった。本物の豚、そして牛や羊、鹿、リス、ときには海を越えて東洋からとりよせた猿もいた。餌をやり、動物たちの小屋を清潔に保ち、また観察するのがスワンの役目だった。特に観察が重要だった。ほんのわずかでも異変を発見したら、その動物を隔離し、注意深く経過を見守る。異変はおもに腰のふらつきや一点から動かない視線だ。ほかには大人しかった性質が一変し、攻撃的になって人間にまで牙をむいて蹴ろうとする。そんな状態になったらとりわけ注意しなければならない。布の手袋の上に革の手袋を重ねて、スワンは動物たちを扱った。
 イヌもまた、世話してやらねばならないものの一つだった。食べさせてやり、着るものをあたえ、躾のため鞭を使ってやる。イヌはスワンが拾ってきたのだった。腐りかけたプラムから這い出すイモムシみたいに、浮浪児がときおり森からさまよい歩いてくるのだ。真っ黒に汚れ、襤褸をまとい、野垂れ死にしかかっていた。ひょろひょろと背が高いのはスワンより年嵩だったからなのか、生まれつきなのかわからぬが、痩せぎすだったのはろくに食べていなかったせいだろう。スワンがパンとスウプをわけてやると、器に鼻まで突っこんでがつがつと食べた。そのさまがまさしく犬そのもので、つい笑わされ、それからイヌと呼ぶことにした。親がつけたちゃんとした名前があったかもしれない。が興味はない。鞭で打ってやるときはスーザンだ。
 痩せぎすだったイヌは見る見る太って体格も立派になった。読み書きを教えてやるといじらしいほど励んだ。教養を身につけさせようと思いついたのは、それが鞭打ちの愉しみを倍増するからだ。馬鹿な人間など虐めても面白くない。その点、イヌはスワンの期待を裏切らなかった。しかも身分の低いものが教育を受けたときのありがちな奢りも見せなかった。普段の生活においてもイヌは進んでスワンの役に立ち、家の掃除や洗濯などの下働きを喜んでやっていた。
 だが料理だけはさせなかった。料理はスワンの仕事だった。常に料理の技術を磨くのを怠ってはならない。スワンは自負している。父親の仕事を成功させているのは、実際のところおのれのこの料理の腕なのだ。
 その父親だ、もっとも世話のやける忌々しい豚は。その道の専門家を気取っているが、貴重な材料となる動物たちの管理は娘のスワンにまかせっきり、仕事の依頼が来るまでは酒びたりで寝てすごす。スワンが我慢ならないのは、父には仕事への誇りがまったく見られない。先祖から受け継いだ技術を、単なる生活の手段としか考えていない。わたしだったら技をもっと発展させ、より完璧なものに仕上げられるのに。握りしめているのは、これまで様々な実験を重ねてきた、その経過と結果を詳細に記録してきた帳面。そしてもう一つ、貴重な発見、スワンだけが見つけた新しい技、白金のフォークだ。
 スワンの父親は魔術師だった。少なくともそう看板を掲げていた。先祖の開発した術を教えられたとおりになぞって行うだけだったが、盛況とまではいかなくても依頼者が絶えることはなかった。父親の呪術は殺し専門だった。依頼者の望む相手を呪い殺すのだ。
「スーザン、スーザン、スーザン!」
 だみ声に呼ばれ行ってみると、父親の前には血のしたたる塊が置いてあった。
「ぐずぐずするなスーザン、新鮮さが命だろう」
 スーザンと呼ばれるたびに憎しみが増す。
「さっさと持っていけ。いつもみたいに上手くやるんだぞ」
 そしてまた酒をあおっている。
 部屋は血の匂いにむせかえっていた。匂いは鼻腔の奥深く流れこんで喉まで達し、しょっぱい味が感じられるほどだった。ひと仕事終えた父親は椅子に身を投げ出し、足をだらしなく広げている。机の上には血まみれの塊のほか、ナイフが散らばっている。刃がペンほどの幅しかないもの、半月型をしたものなど、特別にあつらえたものだ。棚にもたくさん置いてある。鉄製のヘラや、刃先が深いところまでとどく異常に細長い鋏や、それと乳鉢に乳棒。
 生け贄となった牛は裏庭だった。窓から黒くもりあがった腹が見えた。呪いの種としてもっとも効果があるのは牛だと父は云う。といっても術が効きはじめるのには時間がかかる。早くても四、五年、十年以上待っても何の兆候も表れない場合もある。わたしならもっと早く効き目を引き出す方法を知っているのに。スワンの胸はもどかしさに疼く。とはいえ白金のフォークは確かに有効ではあるけれど、種を料理に混ぜて食べさせる方法がもっとも自然であることはスワンも認めざるを得ない。それに呪いがはじまるまでの期間、まったくじれったいことだがこの期間が依頼者と、それに請け負った自分たちをも守ってくれることを忘れてはならない。突然起こった体の異常が、何年も前に食べたものに原因があったなどと、誰が考えるだろう。
「スーザン、クルック家の正餐はやっぱりキドニーパイか?」笑っている。恐ろしいほど下品なニタニタ笑いに、スワンは吐きそうになった。
 だがそのとき、父親の手からコップが落ちた。コップは床にはねかえって転がり、酒が飛び散った。手がすべったのだろうか、呪いの種をとり出してそのままの手は、ぬらぬらとした牛の血にまみれている。床のコップにも血がべっとりとついている。
 しかしスワンは瞠目した。父親の血に濡れた指が細かく痙攣しているのだ。さらに観察していると、首も時おり、ヒクッ、ヒクッと動く。悪態をつきながら父親は手についた酒を舐めた。唇に血がついた。スワンの吐き気がいいしれぬ期待に変わった。
 手早く血のしたたる呪いの種を蓋付ボウルに移し、布で包む。血が漏れぬようさらに皮袋にしまう。忠実なイヌはすでに荷馬車を用意していた。だが一番近い旅籠へはむかわない。スワンは村人たちの視線が気になっていた。スワンの家は人里離れた森のむこう、一軒家だったが、いつの間にかひとびとは何かしら嗅ぎとったらしい。荷馬車を飛ばしていると、麦畑から誰も彼もが腰をのばし、いつまでもこっちを見ている。その眼つきが不穏だ。
「噂が──」
 陰気な声でイヌが云った。
「噂が。森のむこうの一家は魔女で、悪さをたくらんでるとか」
 鞭が鳴った。イヌが頬を押さえた。
「訊かれてもいないのに余計なことを」スワンは鞭を持ち直し、「ああ、わざとわたしを怒らせているのね、おまえは打たれるのが好きだものね」もう一発くれてやる。
 イヌは両手に顔をふせて泣き出した。その泣きかたがいかにも哀れっぽくて、喜んでいるとしか思えない。
 村を迂回し町まで馬車を走らせた。町の旅籠屋は大きく、馬車の出入りも多かった。おかげでスワンは見咎められることなく、旅行者に混じって駅伝馬車に乗れた。急げばクルック家の正餐までに間にあうだろう。三月も前からスワンはクルック家の料理人として奉公しており、夕べは里帰りしたのだ。通常だったら雇われて三ヵ月の奉公人に休暇などあたえられない。だが、クルック家の奥様は気前よく許してくれた。
 膝の上の皮袋を確かめるよう撫ぜる。臓物の味には癖がある。やはり父の云ったとおりキドニーパイにするのが最適だろう。奥様には決してパイには手をつけぬよう、忘れずに話しておかねば。
 浮気性で吝嗇家で、妻を敷物同然に踏みつけてもかまわないと思っているクルック家の当主は、スワン特製のキドニーパイに舌鼓を打ったという。翌日、スワンは暇乞いをした。
 しかしスワンは真っ直ぐに帰らなかった。駅伝馬車を乗りつぎ目あての町に着くと、通りでもの欲しそうな顔をした子どもに銅貨をあたえ言伝を持って走らせた。
 小半時ほど待っていると、その男はやってきた。
「見るからに良家のお女中といった風情だな、この魔女め」
「ひと仕事終えてきたところなのよ」
 荘園にそった小道をゆっくりと歩く。ひとの眼には年頃の青年と娘の微笑ましい散歩と映るだろう。
「財産は手に入って?」
「あれから五年もかかったがな」
「でも五年前のことなど誰も憶えていない」
 五年前スワンはこの男の屋敷の、台所の下働き女中だった。当時まだ十二歳だったスワンが雇われたのは、男が裏で手をまわしたからだ。そしてある日、屋敷の料理人が行方不明となった。正餐の時間は迫り、とんでもございませんキドニーパイしかつくれませんと、スワンはいったんは断った。だがもちろん、ほかに料理のできる奉公人はいない。男は腹具合が悪いといってキドニーパイには手をつけなかった。その兄は弟のぶんまで美味い美味いと食べた。後日料理人は納屋で酔いつぶれているところを見つかった。
「それから二年半たってやっとだ、突然兄の様子がおかしくなった。死ぬまでさらに二年半待たされた、あわせて五年だ」
「あなた悪運が強いのね、十年以上待っているひともいるのよ」
「それで三千ポンドとはな」
 呪いの謝礼金は二回に分けて支払われる。依頼時に前金として半分、呪いが完結し依頼者の望みが叶ったときに残りの半分、全額で三千ポンド。長男にかわって所領を我がものにしたとはいえ、この男にとってはかなりの金額だろう。けれどもスワンは唾を吐きたい気分だった。たったの三千ポンド! それが先祖が代々研鑽を積んできた技術の価値か。この男が手にする数年分かそこらの地代とかわらないではないか。しかも男は出し惜しみしている。それもこれも呪いが制御できていないからだ。いつとはいえぬがいずれ必ず死ぬ、などと曖昧な約束だから、おとぎ話の魔法くらいにしか思われず馬鹿にされるのだ。完璧にしなくては。完璧な呪いであってこそ、ひとを恐れさせ、同時に魅了するのだ。
「お金はいらないわ」
「何っ」眼をむいた。
「残りの千五百ポンドはいらないと云っているのよ、そのかわり──」
 男の耳に唇をよせて囁く。その言葉に、もともと血色の悪かった男の顔面がますます青ざめていった。反対に右頬の痣が、熱がこもったかのように鮮やかに浮かびあがっている。三角形の痣は蛾の形に見えた。
「何だって? 冗談だろう、とっくに埋葬はすんでるんだ、だいたいそんなもの何に使う」
「ほんとうに知りたいの?」
 男は黙る。スワンがまた耳打ちした。
「盗掘人を雇っても千五百ポンドもかからないでしょう?」
 赤紫色の蛾が生き生きと盛りあがってきた。男が頬を歪めて笑ったのだ。せっかく自分のものとなった財産を失わずにすむのなら、魔女の片棒くらい平気でかつぐ男だった。

 ナサニエル・ゾフから使いがあったのはその翌週だった。──頼まれた品の用意ができた。
 男の仕事の早さにスワンは満足だった。ナサニエルは悪事の性質をよく知っているらしい。悪事と料理には共通点が多い。一つは手早さが重要だ。でないとせっかく泡立てたクリームはしぼみ、取り引き相手は心変わりする。それに約束の品の腐敗も進む。たとえ腐ってもそこから抜き出した呪いの種が活きていることは、これまでの研究からわかっている。だけど腐ったものをどう料理したって美味しいパイにはならない。
 ナサニエル・ゾフに直接家までとどけさせなかったのは、父親には知られたくなかったからだった。呪いの種として何がもっとも有効か。スワンはあらゆる場合を試していた。父は牛が一番だと云っているが、それは代々伝わってきた知識をただなぞらえているにすぎない。実験はこっそりと行なわれた。父親は飼育場には滅多に足を運ばなかったから、秘密を守るのは簡単だった。
 伝え聞いたところによると最初は羊だったという。一族の祖が最初に呪いの種となるものを発見したのは、羊からだったという。悪魔がとりついた羊たちだった。農場でそう騒がれていた。突然暴れ出し、群れの仲間や人間を襲い、かと思うと震えつづけ、やがて目つきがどんよりとなり、立つこともできなくなって死んでゆくのだ。その数年前にもおなじ不幸に見舞われたらしい。そのときの羊たちは悪魔もろとも焼き払ったはずなのに何故また、と農夫が嘆くのを見て、一族の祖は可能性を嗅ぎとったのだ。呪術に使えるかもしれない。
 この偉大な祖の血をもっとも色濃く受け継いでいるのはわたしだ、とスワンは自負している。なぜならこの祖は呪いの種を悪魔憑きの羊から単に抜き出しただけではおわらず、実用できるよう開発したはずだからである。羊から抜き出した呪いの種は人間には効かない。人間の体の中では芽を出さない。それをスワンは実験によってとっくに知っている。
 羊からとった種が駄目ならほかの動物ではどうか。祖は呪いの種を移すことを試みただろう。羊から鹿へ、山羊へ、牛へ。抜き出した種を食べさせ、その体内でもし種が芽を出せば、そこから新たな種ができる。様々な動物を宿主にして種をつくり、そのうちどれが人間にも有効か調べるのだ。そうして試行錯誤が繰り返され、今使っているのは牛を宿主にしてつくった呪いの種だ。
 呪いの種と宿主に相性があるのは興味深い。スワンは牛から抜き出した呪いの種を豚に食べさせてみた。何年たっても豚では芽は出なかった。ニワトリにも食べさせてみたがやはり変化はなかった。だが羊に食べさせたら一年半後、震え出した。呪いの種が芽生え、じわじわと体内に伸び広がり、ついにこの憐れな羊を支配しはじめたのだ。猫も同様だった。種は芽を出した。けれど犬には──スワンのイヌではなく本物の犬だ──気配すらない。
 こうして一連の実験結果からわかってきた。呪いの種が芽生え実を結ぶまでの時間をいかに縮めるか、その鍵を見つけた。呪いの猶予期間の短縮というのならスワンが発見した方法、白金のフォークがあるが、ひとまずそれはおいておこう。
 そうして、最初に恩恵にあずかったのがナサニエル・ゾフだ。兄弟が早死にしたのは悪運が強かったからではない、すべてはスワンの研究の成果だ。だが改良の余地はまだまだある。スワンにはぜひやってみたい実験プランがある。
 けたたましい音がした。振り向くと、床が水浸しになっている。イヌが運んでいた水桶をひっくりかえしたのだ。せっかく磨いた床が台無しだ。イヌは突っ立ったままもじもじとブラシを持ちかえ、眼は早くも懲罰への期待のためか潤んでいる。
 しかしスワンは鞭には手を伸ばさなかった。にっこりと笑ってやり、
「馬車の用意をおし」
 イヌに困惑と懇願の表情が浮かぶ。
「さっさとおやり。ナサニエルが約束の品を持ってくる時間よ。受けとりに行かなくては」
 ひと睨みしてやると慌てて出ていった。その背中に云ってやる。がっかりすることはないわ、あとで鞭よりももっと素晴らしい罰をくれてやるから。そのときおまえは本物の犬ではなく人間に生まれたことを、感謝するかしら、それとも悔やむかしら。
 
 スワンが計算違いをしたのは、今日は市の立つ日だったのだ。
 落ちあう場所は街道だった。村からは充分に離れており、通るといったら郵便馬車くらいで、すれ違いざまに受けとれば人目につかずに素早くすませられるはずだった。ところが今や荷馬車や手押し車が行き交い、子どもたちがはしゃぎ、羊の群れまでやってきた。売られる運命を知ってせめてもの抵抗なのか、家畜どもはのろい歩みで街道を占領している。
 スワンの家は荷馬車しか持っていなかった。だからスワンと、隣で手綱を握っているイヌの姿は周囲から丸見えだった。まったく箱型馬車すら買えないとは。料理女の真似までして呪いで稼いだ大金はどこへいってしまったんだろう。ひとびとはこちらを真っ直ぐ見ようとはしない。それでいて、隙をねらって刺すような視線を投げてくる。ひそひそ囁きあっている者もいる。あからさまに指をさしている者も。気に入らない。前にイヌは何と云っていたっけ。噂だ。魔女一家の噂。
 引き返すべきだとスワンは考えた。しかし背後は羊の群れにふさがれている。強引に方向転換をしたら神経質な羊どもが騒ぎ出すかもしれない。
 ナサニエルの馬車が来た。スワンは舌打ちする思いだった。何を考えている。何だってあんな気どった紋章つきの四輪馬車で現れるのだ。しかも御者はきょろきょろと、いかにも誰かを探していますといったていだ。
 受けわたしは無理だ、このまま素知らぬふりをしてすれ違ってしまおうと思った。
 ところが数ヤードのところに近づいたときだ、馬車の窓からナサニエルが顔を出した。こちらへむかって合図する。
 なんと忌々しい蛾の痣!
 もしスワンが荷馬車の手綱を握っていたら、鞭でその顔をひっぱたいてやっただろう。だが残念なことに手綱はイヌの手にあり、気を利かせたつもりか、荷馬車をナサニエルの馬車へとよせはじめたではないか。
「駄目よ、そのまま通りすぎるの、早く!」
 しかしそれはイヌを慌てさせただけだった。イヌは手綱さばきを誤り、馬が首を振っていななき、するとナサニエルの御者も鞭をやたらに振りまわし、馬車と馬車は派手な音を立てて接触し、止まった。
 何ごとかと周囲のひとびとが眼をむける。噂の魔女の姿を認め、眼つきが変わる。
 スワンはイヌを睨みつけた。ひっとイヌが手をあげて顔をかばう。だが、ナサニエルの御者が馬車の状態を調べるため降り立つのを見て、スワンに案が浮かんだ。
「おまえも馬車を調べておいで」
 そのあとの命令は耳打ちする。
 のろのろとイヌは地面に降りた。あっちの御者も動きが鈍い。図体ばかりでかいのも一緒、鈍重なのも一緒、とスワンは舌打ちする。イヌにはあとでたっぷりご褒美をやろう。呪いの種の実験台になるという栄誉のほかに、大好きな鞭打ちもおまけしてやろう。
 ナサニエル・ゾフは口をあんぐりとあけて窓から覗いている。
 イヌがあっちの御者とぼそぼそ話をする。はたから見ると、おたがいの損傷具合を話しあい、どう馬車を引き離そうか相談しているようだ。御者が自分の馬車の扉をあけ、ご旦那様に報告し指示をあおぐ。よしよしと旦那様のナサニエル・ゾフは了解する。その際、御者はこっそりナサニエルから約束の品をあずかっている。そしてふたたびイヌとごく短く言葉をかわし、別れの挨拶をし、御者台へもどる。イヌのほうは後ろの荷を確認してからもどる。
 こうやって二台の馬車の陰で品は受けわたされた。ナサニエルの馬車が先に離れ、羊の群れをよけながら遠ざかってゆく。それを待ってスワンたちもすみやかに去り、取り引きは無事終了、のはずだった。
 荷馬車の荷台に干草を積んだのは誰の考えだったのか?
 むろんイヌだ。イヌの浅知恵だ。荷台が空では怪しまれると思ったのか、それともこれも罰を期待してわざとやったのか。
 背後にいた羊たちが、馬車が止まっているのをこれ幸いにと荷台の草を食べ出したのだ。
 ひっぱり出された草とともに、それは落ちた。革袋だった。スウプボールほどの大きさに丸く膨らんでいる。ナサニエルからわたされた品だ。千五百ポンドのかわりに取り引きした品。イヌがナサニエルの御者から受けとって干し草に突っこんで隠した。
 ごろごろと転がっていった。「早く拾うのよ」声を殺してイヌに命じ、自分も馬車を飛び降りた。
 だが袋はすでに羊の群れの下だった。とても近づけない。一匹を押しやっても、すぐにべつの一匹が入りこむ。そうこうしているあいだ革袋は羊の脚に蹴っ飛ばされ、踏みつけられ、また蹴られる。一瞬、スワンの頭をよぎった。これは羊たちの復讐だろうか、これまでさんざん実験台にされ切り刻まれてきたことへの。
 やっと袋が蹴り出されてきた。「拾って!」
 腰をかがめておたおたとイヌが追う。ところが目ざとく子どもが駆けよった。晴れ着を着て、市でのナイフ投げの見世物を楽しみに親にくっついてきた男の子だ。袋をつかみあげる。その瞬間、袋の口が開き、ごろりと転がり出てきた。
 首だった。人間の首だ。
 子どもの金切り声は、街道がつなぐ三つの村の隅々まで響きわたった。
 親が飛んできて抱きかかえた。それでも子どもの悲鳴は止まらなかった。地べたの首は、ぶよぶよした目蓋の隙間から蛆虫が湧いている。
 スワンの決断は早かった。身を翻す。ゾフの首はきっぱりと諦めよう。急いではいけない、慌てた素振りを見せてはいけない、あくまで無関係を装ってこの場を去るのだ。だが、その背中に浴びせかけられた。
「魔女め!」
 足が震えた。視線が無数の針となって突き刺さってくる。肌が炙られたように熱い。どうにかとり乱すことなく荷馬車に乗ることができた。こんなときばかり素早いイヌはすでに手綱を握って待っている。
「おい、待て、魔女」
 同時に馬車は動き出した。
「待て、魔女め」
 真っ直ぐ前だけを見る。
 膝の上に何かが落ちてきた。拳ほどの石だった。イヌがうつむいてこめかみを押さえている。血がしたたっていた。石を投げられたのだ。イヌの顔にあたって、スワンの膝に落ちたのだ。
 次々に石が飛んでくる。怒鳴り声も聞こえる。馬車を止めろ、魔女を引きずり降ろせ。恐ろしくて背後を振りむくことができない。イヌから手綱をひったくった。馬に鞭をあて速度をあげる。石つぶてが肩先をかすめる。
 荷馬車が街道をそれて細い横道へ入りこんでも、石つぶてとひとびとの罵声は追ってきた。

 ようやく家に到着し、スワンは駆けこむなり水を柄杓から直接飲み干した。もう一杯、今度はコップに汲む。窓からイヌがのろのろと井戸へ、顔の血を洗い流しに行くのが見えた。ほどなくつるべの滑車の軋みが、すすり泣きのように聞こえてくる。
 スワンは座りこみ、テーブルに肘をついて頭を抱えた。
 事態がここまで深刻になっていたとは。噂、と云っていた。わたしたち一家が村の連中の噂になっていると。失敗した、たかが噂と侮っていた──
 頭を起こし、外のようすに神経を張りめぐらせる。しかし射しこむ陽射しは温かで、鳥が囀っている。そよ風が運んでくるのは甘い野イバラの香り。井戸の滑車がまたまわり出したようだ。もの憂げな軋みだ。
 残りの水を飲むとスワンは立ちあがった。
 奥の部屋を覗く。父親は寝ていた。強烈な酒の匂いに胸が悪くなる。だが、しっかりと見てとった。ベッドからはみ出た父親の腕。震えている。バタバタとシーツを叩いている。と、寝言が発せられ、やおら寝返りを打った。それでも腕は震えている。体のむきが変わろうが反対側へ投げ出されようが、バタバタ踊っている。まるで別個の生命が宿っているようだ、痙攣という名の生命が。
スワンの胸に失いかけていた希望が、ふたたびよみがえってきた。
 冷静になって考えろ。いずれ巡査かあるいは治安判事が生首について調べるため、ここに尋問しに来るのは間違いない。けれどもナサニエルとの受けわたしは誰にも気づかれていないはずだ。連中が知っている事実は一つだけ、子どもが拾った革袋からひとの生首が出てきた、ただそれだけだ。そしてあとはすべて噂なのだ。単なる噂では逮捕などできまい。わたしが革袋の生首と関わりあると証明するには、あの食い意地のはった忌々しい羊どもに証言させるしかないのだから。 
 とはいえ、いつまでもここにとどまっていては危険だった。できるだけ早いうちにべつの地へ移り住むべきだろう。
 まずは家を探すのが先決だ。研究は新しい土地に落ち着いてからとりくめばいい。ナサニエル・ゾフにあたってみるつもりだった。さっそく手紙をしたためようとスワンは自分の寝室へ行った。

 しかしスワンはまだ、噂の威力を甘く見ていたのだ。
 夜も更けていた。眼が覚めたのは喉がいやにひりついたからだった。勢いよく体を起こしたとたん咳きこむ。暗いはずの寝室が白くかすんでいる。煙だ。
 パチパチと軽快な音もしている。何かが燃えているのだ。
 部屋を飛び出そうとしたが咳が酷くて走れない。煙がしみて眼もあけていられない。何かに躓いた。その上に転んで厭というほどぶつけた。下敷きになったのはイヌだった。いつもスワンのベッドの足もとで丸くなって寝ているのだ。
「スーザン! このイヌめがっ」怒りにかられ怒鳴りつけた。が、気づいた。イヌは咳きこんでもいないし、眼も平気そうだ。相変わらず表情の死んだ眼だ。
 立っているより床に近いほうが煙が少ない、とスワンはすぐさま理解した。這いずって進む。イヌもついてくる。
 直ちに外へ逃げろと本能が命じていた。だがスワンは逆らい、奥にある仕事部屋へむかった。煙がますます充満してくる。ようやくたどりつき、扉をあけると熱が押しよせてきた。正面の壁に炎が這っている。壁の外側は家畜小屋で、すでに全体が火につつまれているのが窓から見えた。炎は逆巻き、夜の闇を赤々と照らし、反対に逃げ惑う牛や羊たちを影絵にして映し出している。火は悲痛な叫びも呑みこんでゆく。最初に家畜小屋から火が出たようだ。それから母屋に燃え移った。
 貴重な呪いの種の宿主だったが、スワンは即座に諦めた。幸いだったのは、この仕事部屋はまだ壁しか燃えていない。戸棚に駆けより、実験記録の帳面を出す。術具も手あたり次第かき集める。イヌにわたす。とり落とした。殴りつけてやる。鼻血をたらしながらイヌがクロスを持ってきた。包みはじめる、もたもたと。忌々しく横目で見ながらスワンは棚の一番奥、古びたせいで横木の噛みあわせがゆるんでできた、一種の隠し棚のようになった隙間から、小さな革袋をとり出した。
 これを忘れるわけにはいかない。胸とコルセットのあいだに押しこんだ。
 そのとき音をたてて梁が落ちてきた。あと二歩近かったら下敷きになっていた。燃え広がるのが早い。木造の家だからだ。先祖が守り伝えてきた遺産を安売りした結果がこれだ。呪術をもっと有効に活用すれば、石造りの城にだって住めたのに!
 イヌがやっと包みを背に担いだ。
「先にお逃げ」
 イヌが悲しげな眼をむける。
「早く! 急がないと丸焼けよ、荷物を頼んだわよ」
 イヌは駆け出した。
 スワンも部屋を出た。だがイヌとは反対側へ進んだ。むかった先は父親の部屋だった。
 どうせ酔いつぶれて火事にも気づいていないに違いない。なんとしても助けなくては。這って廊下を進む。もう煙で何も見えない。音だけが聞こえる。迫ってくる。火の呼吸、火の哄笑。何かが崩れ、何かが爆発している。恐ろしい軋み、家全体が捻じりあげられているような。
 父親の部屋はすでに火の海だった。扉は焼け落ち、窓ガラスも割れ、壁も天井も炎が踊っていた。
 父親は一度目覚め、逃げようとしたようだ。戸口に近いところでこちらへ腕を伸ばしうつむきに倒れている。だが、その腰から下は燃えていた。
「お父さん、お父さん」
 父親は返事しなかった。動くこともなかった。死んだのだろうか。スワンは父の腕をつかみ、引きよせようとした。恐ろしく重い。「お父さん、ねえ」つかんだ腕を振ってみる。が、父はひとの形をした砂袋のようだった。この感触をスワンはこれまで何度も味わっていた。死んだ家畜たちだ。呪いの種を抜きとるために殺した、牛や羊の死体がちょうどこんな感じだった。
 とにかくなんとしても運び出さねば。
 しかし火はもう父の胸まで食い進み、肉の焦げる臭気をはらんだ熱風がスワンの顔面も焼こうとしていた。
 それでもスワンは逃げかねていた。父親をこんなところで灰にしてしまうわけにはいかない。せめてナイフがあれば──
 と、火のむこうから飛んできた。
 石だった。石がガラスの割れた窓から次々と投げこまれる。
「魔女め、思い知ったか、火炙りだ」
 ようやくスワンは自分の愚かさを悟ったのだった。巡査など来ない。噂に惑わされた人間は順当な手順は踏まない。法律も裁判も関係ない。連中は自らの手で魔女を焼き払うことにしたのだ。
 どういう心理なのか、家を焼きつくそうとする炎より、石つぶてのほうが脅威だった。あとずさって逃げた。煙にまかれ咳きこみ、涙がこぼれ、闇雲に走った。窓を見つけた。カーテンが燃えていた。椅子も燃えていた。かまわず椅子の脚をつかみ窓を叩き割った。折れた窓枠が残っていたが突進した。
 カーテンの火が髪を焦がした。地面に転がった。ごろごろ転がって、やっと止まってもスカートにまだ火がついていて、大声あげて叩いて消した。消えても興奮はおさまらず怒鳴っていた。すると表側のほうから、声がするぞ魔女かと大勢の足音が近づいてきた。まだ叫び足りない口を手でふさいで止め、走った。火事の明るさから闇へと駆けこむ。ぶつかった。尻餅をついた。慌てて立って、逃げようとして気づいた。イヌだった。ぼうっと突っ立っていた。服がひどく焦げている。足もとに投げ出してあったのは持ち出した包みの残骸だ。帳面も、何もかも灰になってしまった。
 怒る時間はなかった。足音が迫ってきた。イヌをひっぱって逃げる。この愚図めが! 走りながらスワンは、なにより鞭を持ち出すべきだったと後悔した。

ユースタス4  なんてこと! ブラッドがメイナス・ジョイスを殺したのだわ

 ゾフ。
 ナサニエル・ゾフ。
 お兄様の日記に、ペンも折れよとばかりにその名が刻まれていた人物。
 ネラ夫人の陰謀の協力者。この男こそネラの悪事の生き証人だとブラッドが断じていた人物。
 そのゾフが今日の午後突然に、このガルトムーア・ホールにやってきたのだ。
 もちろんわたしは驚いた。息が止まるほどに。そして怯えた。しかしそれは陰謀の加担者と対峙した恐怖ではなかった。わたしは混乱を恐れたのだ。紙に書かれた文字だけの存在だったゾフがこうして実際に現れたことによって、事態はいよいよ進み、隠しごとが表沙汰にされ、裏切りが露わになり、こころざしが失意に、期待が絶望に、何もかもがひっくりかえってしまい、これ以上おのれのこころがもみくちゃにされるのが怖かったのだ。
 だって、今だってわたしは疑惑に溺れかけている。わたしはもう何も信じられない。
 母親のように慕って頼りにしていたネラ夫人も、そしていかに禍々しかろうがアンヌ・マリーの伝説も、幼いころから信じてきっていたわたしにとっては、自身の一部、いいえ一部どころか基盤だった。核だったのだ。それなのにすべてが覆されてしまった。だからかわりに支えとなるべきは、当然、覆した本人ブラッドではないか。ところがわたしは知ってしまった。彼もまたわたしを騙している。彼は本物ではない、ブラッド・ガルノートンではない。ブラッド、あなた、いったい誰なの?
 それだからゾフが待ち構えている正餐室へブラッドを案内したとき、わたしは一種の復讐をはたしたような気分になったのだ。どう? ブラッド、驚いた? それともあなたは大胆不敵な男らしく、新たな手がかりが自分からやってきたと喜ぶのかしら。もしそうなら感服するわ。
 ブラッドが驚愕している。彼の背中からそれが伝わってくる。そうよ、少しでもわたしとおなじ恐怖を味わうといいのだわ。自分の手には負えない謎に呑みこまれてゆく恐怖を。
 正餐室のテーブルについていたのは三人だった。ナサニエル・ゾフ、その隣にお供のひと、そしてゾフのむかい側にはどういうわけなのか、母のエリザベス。当然だが姉二人の姿はない。しかし普段は部屋に閉じこもって人前に出ようとしない母が、なぜまたここに座っているのか。
 控えていたネラ夫人が忍びよってきて耳打ちした。
「遠路はるばる旅してきたのだからと、お客様がぜひにと」
 お客様ですって? ゾフはあなたの仲間なのでしょう、白々しい!
 けれども忌々しいことにわたしは頼まなければならなかった。
「お母様が心配だわ、そばについていてさしあげて」
 すぐさまネラ夫人は歩いていって母の後ろに立った。そのいかにもの忠義ぶりがまた腹立たしい。
 ブラッドはまだ突っ立っている。「どうなさったの、お座りになったら?」促してやったらやっと動いた。ぎくしゃくと当主の席につく。いい気味だわ。きっと頭の中は疑問符であふれかえっていることだろう。
 彼にとって一番の衝撃は何だろう。ゾフがここにいることかしら。それとも、そのお供が以前見かけた人物であることかしら。紳士気取りでめかしこんでいるけれど、あれは園丁を尋ねて村へ行ったとき、馬車に乗ったわたしを魔女と罵った羊飼いだ。その人物がなぜゾフにつきそっているのか。わたしにだってまったく見当がつかない。そもそも村の羊飼いなど、わたしたちと同席できるような身分ではない。ああ厭だ、見て頂戴、あの笑いかた、なんてさもしげな。
 その賤しい男はメイナス・ジョイスと名乗ったのだった。彼は今日の午後、あろうことかガルトムーア・ホールの正面玄関に立ち、自分はゾフの友人だと、なくてはならぬ大事な友人だと名乗ったのだ。
 なくてはならぬ友人、その意味はすぐに知れた。そしてそれこそが、もっともわたしを混乱させた。ブラッドも今、さぞかし動揺していることだろう。
 正面玄関で自己紹介を終えた羊飼いは、いったん馬車へもどった。そして次に馬車から姿を現したとき、彼はゾフを抱きかかえていた。ゾフを馬車からかかえおろして、それから背負って、舘に運んできたのだ。
 ゾフは自力では歩けないようだった。袖から覗いたその手にわたしはぞっとしてしまった。ほとんど骨と皮ばかり。あまりに痩せて、皮膚は皮膚というより指の骨に直接ぴったりとかぶさった手袋のようだった。さらには手が小刻みに震えていたのだ。まるで凍えているかのように。夏だというのに、ムーアではヒースの花が真っ盛りだというのに。
 羊飼いの肩にうつ伏せていたゾフの頭が持ちあがった。それまでわたしは、ナサニエル・ゾフという名前を聞かされても、何かの間違いのように思っていた。無礼な羊飼いが云っているのは出鱈目で、背負われているのは、気の毒に瘧に罹って痩せ衰えてしまった病人だろうと思っていた。けれども、わたしの眼に飛びこんできた。羊飼いの肩から持ちあがった顔の、げっそりとこけた頬。そこにくっきりと蛾の形の痣。
 ゾフだった。確かにナサニエル・ゾフだった。
 ゾフの眼にわたしは悲鳴をもらしそうになった。右眼は虚ろで、そして左の眼には黒目がなく真っ白だったのだ。左だけ黒目が勝手に上目蓋の奥へせりあがってしまっているのだ。
 そうしてやはり首が揺れているのだ、子どもがイヤイヤをするように。姉のユリアやマミーリアが自分の意思とは関係なくそうしてしまうように。痙攣する頬の上で痣は、まるで蛾がほんとうに羽ばたいているかのよう。
 なんということ! ゾフも魔女の呪いに侵されている──!
 あまりのことに気が遠くなる。駄目よ、何か考えるのよ、気をしっかり持つために頭を働かせるのよ。ともかく一つだけ云えるのは、ゾフが現れたのはネラ夫人が呼んだからではないということだ。ネラ夫人だってゾフの出現に、わたしに負けず劣らす当惑しているようだし、そもそもアンヌ・マリーの呪いはガルノートン家だけを襲うという伝説を覆すような人物を、わざわざ自分から呼びよせるはずがない。
 羊飼いに担がれてゾフは唇をしきりに動かそうとした。痙攣ととめどなく流れ出す涎。やっと押し出された言葉は、
 魔女め……。
 魔女ですって? すかさずネラ夫人の反応を見る。
 さすがのネラ夫人も声を失っていた。けれどもわたしがその表情から内面をさぐろうとしているのに気づくと、いつにもまして厳しく下女たちを追い立てて客室を用意させた。一刻も早くわたしからゾフを隠そうとしたのだ。部屋に運ばれてゆくときもゾフは、幾度もうわ言のようにくり返していた。魔女め、ナサニエル・ゾフが会いに来たぞ、魔女め……。
 さあブラッド。あなたはこの事態をどう考えて?
 なぜゾフが魔女に呪われているの? これもネラ夫人の仕業なの? けれどもゾフはネラ夫人の仲間ではなかったかしら。また口封じとでもこじつける? でもわたしの見たところ、ゾフの状態を眼にしたときのネラ夫人の驚きは、芝居などではなく本心からのものだった。あなたのいう筋道をどう立てればこれを説明できるのかしら。
 ブラッドはゾフを凝視するばかり。逆にゾフはブラッドにはまったく興味を示さない。舘に到着したときよりはいくらか落ち着いたのか、テーブルにしがみつくように座っている。それでも体の震えはおさまらず、せわしく揺れる首で懸命に正面を見据えようとしている。正面は母の席だが、その背後にはネラ夫人が立っているのだ。
 ゾフの横では胡乱な御友人のメイナス・ジョイスが、何が楽しいのか顔をゆるめっぱなしだ。それへブラッドがちらりと眼をくれ、すぐにそらして、今度はわたしの母へと気遣わしげな眼差しを送る。母は阿片剤(ローダナム)がいざなう夢の旅路からネラ夫人に無理やりひっぱり出されたのだろう、今しも目蓋が閉じそうだ。
 テーブルの上のスウプはすでに冷めてしまった。正餐の最初に食すべきこの料理に誰も手をつけようとしないから、次のクラレットに進めない。しかしグラスにクラレットを注いだとして、慣習に従いこの食卓から一人選んで健康を祝おうにも、誰にグラスをさしむけたって皮肉にしかならない。
「久し、ぶりだな、スーザン」
 と切れ切れのゾフの声が聞こえたとき、正餐室の時間が一瞬止まった。視線がネラ夫人に集まって容赦なく貫いたけれど、夫人はムーアに突き出た裸の岩のごとくぴくりともしなかった。
 がくん、と母の首が垂れる。また居眠りしている。母の醜態にわたしは、それどころではないというのに消え入りたいと思った。そしてブラッドがそんな母を気遣う素振りを見せたから、今度は羞恥心など蒸発するほど脳が燃えた。
 ネラ夫人が母を支える。水を飲ませたり口もとにナプキンをあてたり、甲斐甲斐しく世話をする。
「スーザン、聞いて、いるのか、わたしを見ろ、この、わたしの有り様を」
 素知らぬ顔でネラ夫人は母へ何事か囁きかけている。母の眼が開いた。にっこりネラ夫人へ微笑んだ。礼を云った。けれどまた目蓋は閉じかかる。
 テーブルを叩く大きな音がして、わたしは飛びあがりそうになった。グラスも倒れて、スプーンも跳ねた。しかし叩いた本人は、そのままずるずると床へと崩れ落ちていった。床でゾフはのたうち出した。
「スーザン、頼む、助けてくれ、なぜなんだ、なぜわたしが?」
「エリザベス様!」ネラ夫人が叫んだ。母もまた椅子からずり落ちてゆくのだ。
「奥様、しっかり」ぐったりした母の体をネラ夫人が抱き起こす。「ヒューを呼べ!」ブラッドも駆けよる。「旦那、旦那、」ゾフの傍らでおたおたしているのはメイナス・ジョイスだ。
 ゾフの体が烈しく跳ね出す。甲高い笛の音が聞こえる。耳をつんざき肌を粟立てさせるその音は、ゾフの喉を通って出てくるのだった。
「何してるんだ、ヒューを呼んでこい!」
 呆然となって座ったきりだったわたしをブラッドが怒鳴りつけた。とたん足が勝手に床を蹴って、わたしを部屋の隅にある呼び出しベルへと運んだ。
 何度も紐をひっぱるが下女は来ない。
「おまえが行ってこい」
「何でわたしが」
 舌打ちするとブラッドは奉公人専用のドアをあけ、暗い階段へむかって怒鳴った。
「バートル!」
 バートル、と木魂が返る。
 このとき確かにネラ夫人はぎくりとした。振りむいてブラッドを見た。なぜその名を知っているのかと。
「ヒューを呼んでこい、バートル!」
 しかし裏階段をのぼってくるのはやはり木魂だけだ。
 ネラ夫人が肩に母の腕をまわさせて、支えて立ちあがろうとしていた。
「待て。どうするつもりだ」
「奥様を早く寝室におつれしませんと」
「駄目だ、おまえはここにいろ、主人の命令だ」そしてブラッドがもう一度裏階段へ呼びかけようとしたとき、そこにひょっこり顔を見せたのは小さい下女だった。
「ヒュー先生を呼んでくるんだ」
 下女は大きく頷くと、また裏階段へ消えた。
「動くんじゃないネラ!」
 ネラ夫人がふたたび母を運ぼうとしていた。
「ですが奥様を早く」
「おまえは信用できない、奥様はヒューに診てもらう」
「何ということを。ご主人様のお言葉とはいえ納得いたしかねます。長年当家に仕えてきましたが、このような侮辱ははじめてでございます」
「忠臣面はやめろ反吐が出そうだ。あの男を見ろ、あのゾフを。おまえの云う魔女の呪いとやらにやられて、おまえに助けを求めに来たんだろ」
 床の上でゾフはねじりあわせた両腕を口に押しつけ、足も折りたたんで胸まで引きつけて、丸まっていた。そうやってなんとか奇声と痙攣を押さえこもうとしているのだった。けれどもその体は、何十匹もの仔猫が押しこまれた袋のごとくあちこちがひっきりなしにひくつき、みゅうみゅうという妙な声も立てるのだった。
 そんなゾフのそばにジョイスは突っ立って、ただ見おろしている。
 いっぽうネラ夫人はせめて女主人の上半身だけは床におろすまいと、自身も座りこんでしっかりと抱きかかえていた。まったく見事な忠義ぶりだ。
「ゾフ様はずいぶんとお加減がよろしくないごようす、錯乱なさっているのでしょう」
「おまえの名をはっきりと呼んだぞ」
「ゾフ様が以前ご滞在なさったおりは、大切なお客様としてわたくしがみずからお世話させていただきました。ええ、このガルトムーア・ホールにもたくさんのお客様をお招きした、賑やかなときがあったのでございますよ。ゾフ様にはわたくしごときの名を憶えていてくださって光栄でございます」
 どこまで白を切るつもりなのか。わたしは叫んだ。
「ゾフははっきり云っていたわ、魔女め、会いに来たぞって。舘に到着したときよ」
「なんと、お嬢様はあのような妄言を真に受けるのでございますか! ご覧ください、ゾフ様を。尋常なようすではございません、ご自分で何を云っているのかも、もうわからないのでしょう」
「ええそうね、確かに尋常ではないわ、わたしにはアンヌ・マリーの呪いに見える。どういうことなの、説明して頂戴」
 しかしネラ夫人はこたえない。ぐったりともたれかかっている母の髪を、いたずらに撫でるだけだ。
「だったらゾフに、」とブラッドが近づいて云った。「今ここで訊いてみようか、魔女は誰かって」
 母の髪を撫でるネラ夫人の手が止まる。
 わたしは胸が苦しい。
 ネラ夫人の手がまた動き出し、でも、次第にせわしくなってくる。
 ブラッドは横たわるゾフ──というよりも、おそらくその傍らのジョイスから──三歩の距離をあけたところまで近づいた。
「ゾフ、こたえてくれ。ここには医師もいる、すぐに来る、誰が魔女か教えてくれたら医師がおまえを診てくれるぞ」
 ゾフの頭がわずかに持ちあがった。頭は細かく揺れつづけ、顔の前で交差した腕も震えている。がくがくと口が動いた。とたん、奇声がまた出かかり、慌てて腕で口をふさぐ。筋張った首の真ん中で、喉仏が皮膚を押しあげてはひっこむ。むなしく、何度も。
「誰なんだ、あんたが魔女と呼ぶ女は」
 ゾフは眼で示そうとしているようだった。しかし左の眼の瞳は上目蓋に隠れたきりだし、右眼も充血した白目の上を瞳が流れてしまう。
 へっへっへっ。
 だしぬけに笑い声があがった。
「こんなときになんですがね、へへ」メイナス・ジョイスだった。「あっしもぜひお訊きたいでございますです、伯爵様に」
 背中を丸めて揉み手をして、わざとらしくブラッドにへつらう。
「いやあ、たまげた、見違えちまったよ、なんと伯爵様とはね、いったいどんな魔法を使ったんで?」
 ブラッドが全身、白熱したように見えた。でもそれは一瞬のことで、次には冷めた眼差しでジョイスを見据えると、こう云った。
「誰も口を利くな。当主の命令だ、これ以上喋ってはいけない、全員だ」
「何ですって!」叫んだのはわたしだ。「どういうことよ、なぜ途中でやめるのよ」
「治療が先だ」
「誤魔化さないで、今こそゾフに真実を確かめなくては」
「それはあとででいい」
「何を云うの、あなた、ゾフのお供に弱みでも?」
「黙れよ、何もわかってないくせに」
「いいえ、馬鹿にしないで頂戴、わたしだって考える頭があるのよ、筋道を立てられるのよ、今のでよおくわかったわ」
 ブラッドがひるむ。「わかったって何を?」
「ええと、そうね、そのお供は以前、馬車に乗っているわたしを見て魔女と罵ったわ。でもそれはあなたに云ったのね。お供はあなたのことを知っているのではなくて? あなたの過去を、今ここで明かされては困る過去を」
 自分でもここまで上手に組み立てられるとは思わなかった。けれどもわたしはいたたまれなくなった。ブラッド、なぜそんな顔をするの。秘密を暴こうとしているわたしを、あなたは憎むべきでしょう。なのにそれは傷ましい者にむける顔だわ。
 それだからわたしが口にできたのは、考えの半分だけだった。あとの半分をつづけようかつづけまいか迷っていると、聞こえてきた。ぱたぱたと足音がのぼってくる。わたしの脳裏に浮かんだのは、地の底から凶報を持ってうれしげに駆けのぼってくる子鬼の姿だ。
 が、実際に奉公人専用口から飛び出してきたのは、小さいほうの下女だった。煤で真っ黒な顔を振り振り、手真似と一つか二つの単語をくり返して訴える。いない、いない、どこにもいない──
「こんなときにヒューったら、どこ行ったんだ」ブラッドの舌打ちはわざとらしく、わたしの話を打ち切りたがっているのは明らかだった。
「仕方ない、ネラ、奥方はおまえと下女で寝室へ運べ。ユースタスもついていってくれ、妙な真似しないようによく見張ってくれよ。ゾフは僕とお供で運ぼう」
 厭よ、あなたの思いどおりにはならないわと、喉もとまで出かかったのを呑みこむ。いい方法を思いついたのだ。
 ブラッドが見守る中、ネラ夫人が小さい下女に命じて両脇から母を支える。母をつれ正餐室を出る。わたしもついてゆく。が、廊下をすぎて主階段まで来ると、こっそり引き返した。
 ブラッドは正餐室からわたしたちを追い払って、残った三人で話をするつもりなのだ。どんな密談なのかさぐらなくては。
 いきなり正餐室の扉が開いたので、慌てて手前の広間に身をすべりこませた。扉は完全にはしめずにおく。その隙間から、ブラッドたちがゾフを運んでゆくのが見える。メイナス・ジョイスがゾフを背負い、そのあとをブラッドがついてゆく。二人とも無言だ。
 靴音が充分に遠ざかってから広間を出た。二人は主階段の踊り場をまわるところだった。それを追って上を窺いながら階段をのぼる。のぼりきったら、客間の扉が閉じるのが見えた。
 足音をしのばせ客間に近づく。扉に耳を押しつける。
 そのとき聞こえてきたものに慄然となった。ジョイスの悲鳴だった。や、やめろ、助け──
 悲鳴はガラスの割れる大きな音によってかき消され、つづいてひとの倒れるような音がした。
 なんてこと!
 思わずその場にしゃがみこんでしまう。
 ブラッドがメイナス・ジョイスを殺したのだわ。

 さきほどわたしが立てた筋道の残り半分、ブラッドに云おうかどうか迷った半分はこうだった。といっても疑問符ばかりがつく筋道だけれども。
 お供のメイナス・ジョイスがブラッドのことを知っているのなら、ブラッドは当然ゾフとも関係があることにならないか。ブラッドは実はゾフの仲間ではないのか。ゾフと共謀してネラ夫人に魔女の汚名を着せ、陥れようとしているのか。けれどメイナス・ジョイスが自分の過去を暴露しようとしたから、殺してしまった?
 馬鹿馬鹿しい! と、どれほど笑い飛ばしてしまいたかったか。けれどもわたしにはブラッドを疑う根拠があった。あの手紙をわたしは読んでしまった。
 ヒュー・ヒュゲットにとどいたエスター卿なる人物からの手紙には、ブラッド・ガルノートン、つまりわたしの大叔父の消息が書いてあった。そしてそれは相続人としてやってきたブラッドが、真っ赤な偽者であると証明するものだった。
 家も故郷も身分も捨て、大叔父ブラッド・ガルノートンが目指した土地は、驚いたことにインドではなくニューホランドだったという。一七八七年にポーツマスを出港した船団の乗組員名簿に、その名が記されているらしい。乗客ではなく船員というところにわたしは慰められた。ニューホランドは流刑地で、船に乗せられて送りこまれたのは罪人たちだからだ。新大陸に到着したあと大叔父は帰国する船には乗らなかった。エスター卿の調べによると、ちょうどおなじ時期フランスの船が寄港しており、大叔父は放浪の旅をつづけるつもりだったのだろう、そちらの船へ移ったという。ラ・ペルーズ探検隊の目的は未知の島々の探索だった。そして探検隊は南太平洋で消息を絶った。
 それが一七八八年のこと。今は一八二一年。ブラッドはわたしとおなじ十四歳。ブラッドが大叔父の息子であるはずがない。彼が生まれる何年もまえに大叔父は、すでに海の藻屑となっていたのだから。
 ブラッド、あなた、いったい何を企んでいるの。わたしたちガルノートン家を滅ぼそうとしているのは、ネラ夫人ではなくてあなたではないの、邪悪な魔女はあなたなのではないの、ブラッド。
 いいえ、ブラッドとは呼んではいけないのだわ、あのひとはブラッド・ガルノートンではないのですもの。あなたは誰なの、正体を知っていたメイナス・ジョイスを殺してしまうなんて、あなたはやっぱり魔女よ。だからジョイスもあなたを魔女と罵っていたのよ。
 客間の扉ごしに靴音が近づいてきた。わたしは急いで扉を離れた。
 階段までもどって身を隠すと、客間の扉のあく音がした。ブラッドの名をかたっている少年が、こちらに来たらどう言い訳しようと焦ったけれど、幸い彼の足音はわたしのいる主階段とは反対のほうへ行ってしまった。そしてドアがあけられ、またしまる音がした。たぶん自分の寝室かヒュー・ヒュゲットの寝室に入ったのだろう。
 そろそろと首をのばして窺うが、廊下には誰の人影もなかった。小走りで、でも足音に気をつけて、わたしは客間へとすべりこんだ。
 ここはヒュゲットがメスメリズムとかをやるために妙な装置を持ちこんだ部屋だ。おかげで家具は壁に押しやられている。そのうちの長椅子にゾフが横たえられていた。眠っているようだけど、それでもときおり手足がひくついている。
 そして中央に鎮座しているバケーとかいう巨大な桶に、メイナス・ジョイスの体が縛りつけられてあった。桶の側面にジョイスはもたれるように座らされ、足は床に投げ出され、上半身を縄で桶ごとぐるぐると縛ってあったのだ。
 ということは、ジョイスは死んではいないのだわ。死人を拘束する必要はないもの。
 つい声を立てて笑ってしまい、慌てて口を押さえる。さんざん思いつめていたことが容易く否定されてしまい、呆れるやら腹が立つやら。それでもブラッドが殺人を犯してはいなかったことに、ほっと胸を撫でおろしているわたしなのだった。
 用心深くジョイスに近よっていく。ジョイスは頭を深く垂れている。気絶しているのだと思った。靴が硬いものを踏んだ。小石かと思ったら、ガラスの破片だった。見まわすと、部屋の隅に割れたガラスがまとめられていた。もとは半球体だったのだろう、きっとグラスハーモニカという楽器の部品だ。グラスハーモニカは調整のため分解されていて、ガラスの半球体も大きさの順番にテーブルにならべられてあった。そのうちの一番大きいのでブラッドはジョイスを殴ったのだ。
いいえ、ブラッドではないのだわ。ブラッドをかたってわたしを騙している悪人だわ。
 その悪人よりも、よほど悪人に見えるメイナス・ジョイスが眼を覚ましたようだった。顔があがってわたしを見た。頭を振って唸り声をあげて、何事か訴えかけてくる。口が猿ぐつわでふさがれているから話せないのだ。
 恐る恐るわたしは手をのばした。さっきまで正餐だったことを神に感謝する。手袋をしてなければとても触れる気にはなれない。思いきって猿ぐつわの布を引きおろしてやった。
「お嬢様、貴い貴族のお嬢様、情け深く賢いお嬢様!」
 汚らわしい、なんという眼でわたしを見るのかしら。
「ああ、お嬢様は天使だ、ついでにロープもなんとかしてくださいませんか、ちょいとほどくだけです」
「天使? おまえは以前、わたしたちにむかって魔女と叫んだわ」
「め、滅相もございません、あれは、あれは、あの野郎のことです」
「誰ですって?」
「あの野郎ですよう、あの雌ブタ野郎です」
「無礼なっ、どこまでわたしを侮辱するつもり」
「え? ち、違う、誤解だ、あっしが云ってるのはお嬢様じゃなくあいつです、あの女です」
 ジョイスは身をよじって、あいつ、あの女、とくり返す。
「おまえの云ってることはさっぱり要領を得ないわ。まるでブラッドが女性だと云っているように聞こえるわ」
「そうです! あの女です! 何でまたあんなことになってるんで? 新しいガルトン伯爵だ? ンな訳ありませんぜ、あいつはヘッジス村のみなしごですよ、野良犬同然のやつですよ、うちの納屋に捨てられてたんだ、可哀相ってんでうちが養ってやったんだ、なのに恩を仇で返しやがって。見てくださいよ、おやさしいお嬢様、さっきもあっしを死ぬほど殴りやがった。あっしとあいつは兄妹みたいなもん、兄妹同様に育ったんだ、だからあいつがどういう事情か知らんが、あーどうせ悪だくみだろうさ性悪めが、とにかくよ、妹のあいつが伯爵様になったんなら当然おれだってそれ相当の身分ってわけだ、それを無欲にも、この城で一部屋もらって下男の一人でもつけるだけでいいって云ってんのによう、」
 頭が混乱してきた、このひとは何を云っているのかしら、ブラッドが妹ですって?
「ちょっと待って頂戴、一つずつ訊くわ。まず、あなたは羊飼いなのでしょう? ヘッジス村の人間なのね、ではナサニエル・ゾフの友人というのは?」
「ナサ誰?」
「ゾフよ、あなたは彼のお供なのでしょう」
「ああゾフの旦那のことですかい、そうですよ、雇われたんでさ、旦那の馬車が轍にはまってムーアで立ち往生しとるのを、このあっしが助けてやったんだ。聞くとこちらのお城に行く途中だってゆうし、あっしもあの女に用があったし、ちょうどいいってんでお供をかってでたってわけでさ」
「要するに通りすがりにゾフに雇われただけなのね。そしてガルトムーア・ホールに入りこんでブラッドを脅迫しようとしたのね」
「お嬢様も口が悪いね、まいったなあ」
 どこまで下品に笑うのだろう、眼をそむけたくなる。
「さっきも云いましたけどね、これは当然の権利ってやつなんですよ、あっしとあいつは兄と妹同然なんです、だからあいつがいい目を見てるんならおれ様だって取り分が」
 簡潔にまとめてやる。
「おまえはブラッドが、おまえとおなじ村の孤児で、しかも女の子だった、と云うのね」
「さすが賢いお嬢様、そうです、賤しい捨て子だったやつを、あっしの家が面倒みてなんとか一人前にしてやったわけで。そろそろロープをほどいてくださいませんかねえ」
「おまえはひと間違いをしているようね、でなければ大嘘つきだわ」
「何をおっしゃるんで! 嘘なんかじゃありません、あいつはうちの羊たちと育ったんですって!」
「捨て子というのはまだしも、彼が女ですって? ほほほ、突拍子もない話ですこと」
 ところがジョイスは、あろうことか嘲笑に嘲笑で返した。
「そりゃあ、まあ、あなた様みたいな上品なおかたにゃあわからんでしょうがねえ、へっへっへっ」
「何なの、どういうこと」
「いやいや、高貴な身分のかたの前では、とても口にできない話で」
「はっきりおしゃっい」
 ジョイスは唇を舐めた。きっと計算しているのだ、この秘密の値打ちを。そして値を吊りあげることにしたらしい。
「ま、これだけ云っときましょうかね。あいつが男だなんてとんでもない、やつは雌ブタ、いや、あれじゃ雌ブタのほうが馬鹿にすんなって腹立てるな」
 縛られたまま首だけ捻じって私を見あげる。下卑た口もとをいっそう歪ませて。眼はわたしの反応を見逃すまいとむき出して。
「お嬢様がやつの裸を見たらぶっ倒れちまうだろうね。ああやって上等な服を着こんでとりすましてやがるが、醜い出来損ないなんですよ。やつはね、名前すら持ってなかったんだ、あっしらがやつのこと、なんて呼んでたと思います? バケモンだよ、バケモン」
 大きな物音がした。よろめきながらあとずさったわたしが椅子にぶつかって倒したのだった。
 わたしの受けた衝撃にジョイスは満足げだった。けれども彼は誤解しているのだ、気位ばかり高い世間知らずの令嬢を脅かしてやったと。だけどわたしが愕然となった真の理由は、ブラッドも化け物と呼ばれていたのだ。化け物──ネラ夫人がここぞというときにわたしを屈服させるために使う言葉。
 わたしは素早く部屋を見まわし、目的のものを見つけた。手につかんで持ち、引き返してジョイスへ突きつけた。
「な、何するんでっ」ギラリと光ったナイフにジョイスは震えあがった。「お許しください、お許しください、あっしが悪うございやした!」
 このナイフはヒュゲットが馬鹿げた装置の荷をほどくときに使ったものだ。わたしの使い道もおなじだった。切れたロープが床に落ちた。
「行って、早く、ひとが来るわ」
 靴音は外の廊下をすでにこの部屋の近くまで来ていた。
「ひっ、あいつがもどってきた」
 転がるように扉へ突進するジョイスを呼び止める。
「駄目よ、ブラッドと鉢合わせになってしまうわ、あっちの裏階段から出てゆくのよ」
 回れ右をして、わたしの指さした奥のドアへと飛んでゆく。「待って頂戴!」
「何だよ、まだなんかあんのかよ」
「あとで詳しく教えてほしいの、その、ば、化け物について。お礼は充分にするわ」
 とたんジョイスは喜色を浮かべた。ドアのむこうの暗がりに半身を入れながら、
「あっしはしばらくここらをうろうろしてますんで、いつでも声をかけてくださいよ」
 もちろん、そのつもりだ。そのためにこうして逃がしてやるのだから。
 ドアがしまった。そして次の瞬間、廊下側の扉が開いた。入ってきたのは予想と違ってブラッドではなく、ネラ夫人だった。

「ユースタス様、こちらにいらっしゃったんですか」
「お客様のお加減を見ていたのよ」
 ネラ夫人が長椅子のゾフへ近よっていく隙に、急いでジョイスを縛っていたロープを蹴ってバケーの後ろへ隠す。
 横たわるゾフをネラ夫人は無言で見おろしていた。その横顔からは何も窺えなかった。幾年ぶりかで再会しただろう感慨も、自分の企みが成功している興奮も。冷徹な殺人者というものはあんなふうに犠牲者を見おろすのだろうか。そう、わたしはゾフのこの状態はネラ夫人の仕業ではと考えていた。メイナス・ジョイスはゾフに通りすがりに雇われただけなのだから、ブラッドもゾフとは無関係なのだろう。やはりネラ夫人とゾフがかつての仲間で、だけどどういう理由があってか夫人はゾフの殺害を目論んだ──。
「ますますお嬢様はわたくしに疑いを持ってらっしゃるようですね」
「えっ」
「疑念のもとはブラッド様でしょう、わかっておりますとも。けれど恨み言は申しますまい、なにはともあれブラッド様と親しくなられたのは喜ばしいこと、わたくしはユースタス様さえ幸福になってくだされば満足なのですから。誰が何をユースタス様に吹きこもうと、わたくしのこの気持ちは本物なのですから」
 なぜだか追いつめられている気分になってしまう。自分が過ちを犯しているように思えてくる。これがネラ夫人の手なのだ。我が身を捨ててまでつくす献身と母親のような愛情でもってネラ夫人は、子どものころからわたしを支配してきたのだ。でも、献身も愛情も見せかけにすぎないのだわ。目的をはたすための演技なのだわ。
 黙りこんでいたら、ネラ夫人のほうからこう云ってきた。
「わかりました、ようございます、お嬢様の疑問をぶつけてくださいませ。今ここでなんなりと」
「じゃあ訊くけど、この客人は、ナサニエル・ゾフとは、いったい何者なの」
「エリザベス様の古い御友人でございます。以前はこのガルトムーア・ホールでよく正餐会を、」
「そうではなく、わたしはあなたとこのゾフとの関係を訊いているのよ」
「ですから奥様の大切な御友人であるゾフ様のお世話をわたくしが仰せつかり、」
 ふん、と鼻息でさえぎってやる。とはいえ、むかしはパーティーが頻繁に開かれていたことや、ゾフがその客だったことはネラ夫人の嘘ではなく事実だ。わたしも憶えているし兄の日記にも書いてあった。
「ゾフとはどこの誰なの」
「わたくしの口から申すわけには。なんといってもエリザベス様のご友人ですし」
 なんて忌々しい。半分狂っているような母を盾にして、あくまで白を切るつもりなのか。
「あれを見て」ゾフをさす。
「よく見なさい、あれは呪いよ、アンヌ・マリーの呪いでしょう!」
 ネラ夫人は眺めている。ただ眺めるだけだ。ムーアに転がっている石に眼をくれたって、まだ何かしらの感動を表すだろう。
「なぜゾフが呪われるの? アンヌ・マリーの呪いはガルノートン家だけの禍ではなかったの? あれをあなたはどう説明するの!」
 ほかにも柩持ちを務めた園丁や、兄が日記に書き残した深夜にゾフが八角塔へ運んでいった男。ガルノートン一族ではない者がなぜ呪われるのか。それは、魔女の呪いなどというのはでっちあげで、すべてはあなたの仕業だからではないのか。
 するとネラ夫人はため息を一つつき、
「仕方ございません、御説明いたしましょう。ですがけっしてこのことは口外なさいませんように」と、唇の前で人差し指を立てた。
「実はゾフ様はエリザベス様の愛人なのですよ、でもエリザベス様を誰も責めることはできますまい。あのころはちょうど夫である旦那様、ええ、お嬢様のお父様のことです、旦那様が呪いのせいで八角塔へ入られ、エリザベス様もお寂しかったのでございましょうから。ですが、ただ一人、それを許さなかった者がいました。魔女です、アンヌ・マリーですよ、お嬢様。ねんごろになったお二人に魔女はゾフ様もまた御一族の一員と見なしたのでしょう、それで呪いを──」
「やめてっ、そんな出鱈目!」
 どこまで嘘で塗りかためるつもりなのか。園丁や日記の男についても問いただしたら、それらしい事情をひねりだして、しゃあしゃあとこたえるのか。いいえ、嘘をつく必要もないのだ。園丁はすでに土の下、呪われていたとどう証明すればいい? 日記も燃やされてしまったとブラッドが云っていた。せっかくつかんだ証拠は失われてしまった。
「あなたは魔女だわ」
「えっ、今、なんとおっしゃいましたかユースタス様、このわたくしが魔女?」
「そうよ、あなたこそ魔女よ」
 アンヌ・マリーの骨の手がわたしの頭の中に入ってきて、芯をつかんで烈しく揺さぶった。ネラ夫人の笑い声だ。声が部屋じゅうに響いて、わたしの頭の中まで振動させるのだ。それまでは唇の端を吊りあげて、笑っているといっても含み笑いだけだったけれど、このとき、わたしが魔女と呼んだとき、突然ネラ夫人は声を立てて笑い出したのだ。あんなにうれしそうに愉快そうに。仮面がひび割れて、押しこめられていた中身が一気にあふれ出てきたように。狂態だ。何をそんなに喜んでいるのか。こんなネラ夫人、見たことがない。
 だけど、わたしが真に驚愕させられたのは、実はもっとべつのことだった。それは見逃してしまっても不思議ではない小さな異変だった。事実、ネラ夫人自身、気づいていないようだ。異変は今はほんの些細なものだけれども、確かに現われていて、そしてこれからネラ夫人の内側で静かに、でも着実に、進行してゆくにちがいない。
 見こんだとおりなのか、わたしは確かめずにはいられなかった。
「ねえ、お願い、笑うのはやめて頂戴。わたしの手袋をぬがしてくれない?」
 手袋は手首のところをボタンでとめるようになっている。
 笑い声はやみ、部屋はもとどおり静まりかえった。そして、いかがわしい治療機械と奇妙な楽器の見守る中、手袋はいっこうにはずれなかった。
 ネラ夫人の指がうまく動かないのだ。指はたえず細かく震えていて、シルクでくるんだボタンをつまもうとしてもいたずらに踊るだけ。しまいにはそりかえったまま、硬直してしまった。
 その右手を左手で握って隠し、ネラ夫人は一礼すると出ていった。終始無言だった。だけど夫人から伝わってきたのは、表情とふるまいから感情を排そうとする痛々しいほどの努力だったから、彼女は今はじめてこのことを知ったのだとわかった。
 客間にとり残されたわたしは、新たにふえた疑問をもてあましていた。
 奇妙に踊るネラ夫人の指。あれは、あれは、魔女の呪いの兆候ではなくて?

 捻じれてゆく。わたしをとりまく世界が捻じれてゆく。
 わたしとわたしの一族の宿命だった魔女の呪い。血のつながった母よりも信頼していたネラ夫人。わたしの夫となるべき第十七代ガルトン伯爵であるブラッド。
 信じていたものが捻じれて、反転して、思いもかけなかった裏側を露わにして、おまえは騙されているのだと嘲笑う。魔女などいなくて呪いは嘘ですべてはネラ夫人は陰謀で、ブラッドは真っ赤な偽者、そのうえ女性だという疑いまで出てきた。そういえば大きいほうの下女も実は女ではなく男だと、ブラッドは云っていなかったか。
 けれども、たとえ偽者でも、ブラッドは呪いの真相を解明しようとしている。医師のヒュゲットをつれてきて、姉のユリアを救おうとしてくれている。
 だけれども世界はまた捻じれた。その方法ときたら、よりにもよってあのいかがわしいメスメリズム。
 わたしはいいように弄ばれているのだろうか。
 これこそ呪いだ、わたしにかけられた呪い。わたしは世界の慰みもの。世界はわたしを裏切った。わたしを高く、高く、持ちあげておいて、それからその手を返し、わたしを真っ逆さまに落とした。
 わたしにあたえられたはずの使命、ガルトムーアの女主人になって一族を魔女の呪いから救うという使命、おまえはこのために生まれたと云い聞かされ、わたし自身もそう信じてきた使命。けれど魔女の呪いなど作り話だと認めた時点で、使命など反故にされてしまったのだ。わたしに残っているのはこの異形の体。化け物と蔑まれても仕方のない醜い畸形の体だけ。
 しかしここにも捻じれがあった。ブラッドも村の人間から化け物と呼ばれていたという。それはどういう意味? ブラッドは女性であるかもしれないだけでなく、畸形だというの? わたしと同様、服の下の見えないところに畸形の部分を隠しているというの? もしそうだとしたら、それは何かの暗示? それともただの偶然?
 そしてネラ夫人の指。呪いの症状としか思えないあの震え。でも、なぜネラ夫人にまで魔女の呪いが? 陰謀を企てた当人だというのに、魔女というのならネラ夫人こそが魔女のはずなのに。
もう疑問に溺れそう。世界は疑問でわたしを翻弄して楽しんでいるのか。
 寝室の扉が烈しく叩かれたのはそのときだった。
 我にかえったわたしは、もうすっかり陽がくれて、自分の部屋が闇に浸されているのを知った。手探りで蝋燭に火をつけようとしていたら、また扉が叩かれた。さし迫った必死な音だった。
灯りがつくのと、扉があけられるのと同時だった。飛びこんできたのはブラッドだった。いきなり抱きついてきたから、蝋燭が倒れてせっかくつけた火が消えてしまった。
「よかった、ここにいた!」
 ぎゅっと抱きしめてくる。はぐれた親をやっと見つけた幼子のように。だから問いただせない。あなたはブラッドではないのでしょう、ほんとうは誰なの、ヘッジス村の孤児だったというのは真実なの。問いただすべきなのに、できない。
 確かめるのが怖かった。ブラッドが偽者だとはっきりすればガルノートン家は今度こそ当主を失うことになる。姉のユリアの治療も、たとえ得体の知れない治療法だとしても中断してしまう。だけど真に怖いのはそんなことではない。ブラッドを失うこと、わたしが恐れているのはそれなのだ。
 消えた蝋燭の芯の焦げた匂いが漂っている。
 ふたたび暗がりとなった部屋で眼は頼りにならず、だけどブラッドがわたしの存在を確認するかのようにひたすら抱きしめてくるから、わたしもブラッドの存在を、触れた感じや体温などでありありと感じとることができた。
 華奢な体、骨があたって痛い、胸はどう? 女性なら当然の成長の変化があるはず。が、押し返してくるのは硬い感触。でも、わたしだってまだそれはおなじだから女性であることの否定にはならないだろう。
 閃光のように唐突に、ある考えが脳裏に射しこんだ。ブラッドとヒュー・ヒュゲット! 二人は誰に憚ることなく恋人どうしなのだわ、だって男女の間柄ですもの。
眼がくらむほどの焦燥がわたしを襲った。ブラッドを手放したくなかった。このまま永遠に抱きあっていたかった。疑いようがない、この情動は嫉妬だ。
 なんてことだろう! わたしはブラッドが好きなのだ、どうしようもなく。
 もしほんとうに女性だったら? それを考えると、ただただヒュゲットとの関係が確信されるばかりで、胸はいっそう昂ぶって張り裂けそうになる。でも、ブラッドも化け物と呼ばれていたことを思うと、一転して軋んでいたこころがあたたかく濡れる。
「消えてしまった」
 ブラッドの声がこもって聞こえたのは、彼が顔をわたしの肩にうつ伏せていたからだ。でも弱々しかったのはなぜ? いつもブラッドは自信たっぷりで、弱音など吐いたことがないのに。
「みんな消えちゃった、メイナスも、ゾフも、バートルも」
 消えたですって? ゾフと大きい下女が? メイナス・ジョイスはわたしが逃がしたのよ。
「それにヒューも。どうしよう、ヒューがどこにもいないんだ!」
 ヒュー・ヒュゲットがいない──? ブラッドの恋人のヒュゲットが。
 これは凶報だろうか、それとも吉報なのだろうか。

ブラッド4 あれは、あの荷は、ちょうど人間くらいの大きさじゃないか

「ブラッド、落ち着いて頂戴、落ち着いて説明して、消えたとはどういうことなの? さあ、座りましょう、そこよ、その椅子へ腰かけて。以前もここでこうして一緒に食事をいただいたことがあったわね、憶えていて? あなたがわたしのためにお料理を運んできてくれたのよ。何か飲み物はいかが? お茶を持ってこさせましょうか?」
 せっかくユースタスが心配してやさしくしてくれているというのに、情けないことに僕には感謝する余裕もなかった。それでもユースタスは根気よく僕から話を聞き出し、整理していった。
「ドクター・ヒュゲットも、あなたがバートルと呼ぶ大きいほうの下女も、二人とも正餐の直前には確かにいたのね、庭園のニワトコの木の下で二人で話しているのをあなたは窓から見た。そして正餐がはじまってからのことはわたしも知っているわ、ゾフが錯乱し、お母様も倒れ、それであなたが大きい下女を呼んだのだけどいっこうに現れず、やっと来たもう一人の下女もドクターは見つからないと云った。あなたも今まで探したけれど二人の姿はどこにもない、つまり二人はあなたに目撃されたあと、どこかへ消えてしまったというのね。落ち着いてブラッド、冷静になって考えれば何でもないことかもしれないわ。ここで注目すべきは、そうね、正餐の時間だったということじゃないかしら、つまり食事時ということよ。ヒュゲットは村の居酒屋(タヴァーン)にでも行ったのではなくて? だって彼は食事はいつも一人でとるでしょう、この舘の堅苦しい作法は肌にあわないといって」
 だとしてもこの時間まで帰ってこないなんて。
「大きい下女はきっとそこらを駆けずりまわっているのよ、なんといっても今日は招かれざる客のために急きょ正餐会を催したのだし、その正餐会もあのとおりの騒ぎですもの、おおわらわのはずよ」
 そうだろうか。そんな単純なことだろうか。庭園での二人のようすはさし迫っていた。バートルが懸命に何かをヒューに訴えていた。そしてヒューは僕に眼で伝えようとした。どうしてあのときすぐに二人のもとに行ってみなかったんだろう。
「では二人がほんとうにいなくなったとして、あなたがそれを知ったのはいつ?」
「メイナスと一緒にゾフを客間に移したあとすぐに」
「ゾフは客間に寝かせたのね、メイナスは?」
「メイナスは──、待たせておいた、医者を呼んでくると云って」殴って気絶させ、縛りあげたことは黙っておく。「それからヒューを探しにいった、城じゅう、裏階段や地下の使用人の領域まで探したんだ。けど、どこにもいなかった。バートルもいなかった。そして客間にもどったら、今度はメイナスとゾフまで消えていた」
「メイナスとゾフについてはべつに大騒ぎする必要はないわ、帰ったんじゃなくて? 挨拶もなしだなんて失礼だけど、もともと招かれざる客ですもの、いなくなってせいせいするわ」
 こともなげにユースタスは云う。メイナスは監禁されていたとは知らないからだ。縛っておいたはずなのにどうやって逃げたんだろう? それにゾフは? ゾフもつれて逃げた?
「ゾフがここに来たのは〈呪い〉病に侵された体をネラに救ってもらうためだ、なのに自分からいなくなるなんておかしい。誰かの企みとしか考えられない」
「それこそおかしいわ!」びっくりするほどの勢いで立った。「誰が何をするというの、だってそのときわたしはネラ夫人たちと一緒だったわ、みんなでお母様を寝室へ運んで介抱していたのよ、何かできた者なんて誰もいないわ」
「バートルがいる」
 ユースタスは、今はじめてその名を聞いたというようにまばたきした。それからすとんと腰をおろして、「ああそうね、そうだったわ」
 バートルがゾフとメイナスを連れ去った。だからバートルの姿もないんだ。ネラの命令だ、邪魔者を片付けろとネラに命じられた。二人をどうする気だ、金をやって追い払う? でもそれでメイナスが納得するだろうか。メイナスが欲しがっていたのは身分だ。そもそもゾフがうんと云うはずがない。金なんかいくらもらったって命は助からないんだから。
 なら、あとは殺すしかない──
 まさか、いくらバートルがネラのいいなりでも、奴隷そのものだといっても、そこまでやるわけない。だけど、鋏研ぎの二人組みはどうなった? 柩持ちの園丁は? 鋏研ぎはバートルが毒入りのキドニーパイを食べさせたんだ。けれども園丁を殺したのは違うと云っていた。いや、厳密には云ってない。喋れなかったんだ、舌を切られていたから。
 ネラがバートルの舌を切断した。魔女め、なんて惨い仕打ちを! だけどバートルも、舌を切られたっていうのに逃げ出しもせず従いつづけている。ネラに命じられれば何だってやるのか? たとえ人殺しでも。
 じゃあヒューも? ヒューもバートルに? 
 いなくなる直前二人が一緒にいたということは、バートルがヒューに何かした?
 ネラが気づいたんだろうか。ヒューが〈呪い〉病の治療を試みていることを。それでバートルにヒューを始末しろと──
 やっぱりあのとき確かめるべきだったんだ。窓の外にヒューとバートルを見かけたとき、すぐに二人のところへ行って、何をしているのか確かめるべきだった!
「ブラッド」
 頬をはさんで顔を持ちあげられた。ユースタスのやわらかい吐息が吹きかかる。
「悪いほうに考えては駄目。今夜はもう遅いわ、休みましょう、あなたの寝室までつれていってあげる」
 やさしく僕を立たせる。背中を押し、歩かせる。
「明日、朝になったら一緒に探しましょう、ね、そうしましょう、だってこんな暗い夜のうちはどうしようもないわ。それに考えてもみて。今日出したパーティーの招待状はけっして無駄なんかではないわ、ゾフは逃げ帰ってしまったけど、彼の過去を知っているお客様がいらっしゃるかもしれない」
 廊下へ出て、僕の寝室へとつれてゆく。扉をあけ、中に入り、寝台へと導く。そのあいだずっと僕の背中をやさしくさすってくれる。
「そういえばあなた、〈呪い〉病と云ったわね。そうね、魔女の呪いではなく病気なのね、〈呪い〉病」
 蝋燭の火が吹き消された。
「約束するわ、夜が明けたら一番に探すと。きっと見つかるわ、二人で探せばすぐに見つかる。明日よ、すべては明日にして今夜は眠るの。もう何も考えては駄目、ゆっくり眠るのよ」
 そっと扉が閉まった。僕は寝台で毛布にくるまっていた。あとはユースタスの云うとおり眠るだけだ。今日は出来事がたくさんありすぎた。
 明日にしよう。すべては明日だ。朝一番にヒューを探す。きっとユースタスの云ったとおりだろう。どこかの村の居酒屋にでも出かけ、何かの事情で──たぶん足を挫いたとか腹をこわしたとかで──帰れなくなったんだろう。明日だ、明日、夜が明けたら。

 考えが甘かった。夕べもう一度調べてみるべきだった。夜明けの薄青く明るんできた空のもと、庭園に出てニワトコの木まで来て見つけたのは、踏み消された文字の跡だった。ヒューが目配せで伝えてきたのはこれだったんだ。
「位置と向きからして書いたのはバートルだ。バートルは口が利けなかったから、地面に字を書いてヒューに伝えようとしたんだ」
「下女に読み書きができるとは思えないけど」
 ユースタスの口調は素っ気ない。僕が幼いころバートルから読み書きを習ったことを知らないのだ。
「きっと重要なメッセージだったはずだ、またネラか、またネラに先回りされてしまった」
「ほんとうに文字なのかしら、わたしにはよくわからないわ」
「字だよ、でなきゃ、わざわざこんなふうに消されてるわけないじゃないか! この長さは単語が一つだな、これはt? 違うな、きっとrだ。でもこっちのやつはt」
 判読できたのはその二文字だけだ。でもrとtはつづいてならんでいない。単語の端っこでもない。二つとも途中の文字だ。
「文字だとしても、意味はまったくわからないわね」
「ヒューの居場所かもしれない、プレストン? いや、それにしてはrとtの位置が近すぎる……」
「ねえ待って。静かに。あれは何の音?」
 かすかに、でも規則正しく鳴っている。どこか不吉な響きだ。
 靄がたちこめていた。ヒースを踏むたびに露が僕らの靴を濡らした。手をつないだのはどちらからだっただろう。ユースタスか、僕か。ユースタスの手は温かく、指が僕の指にしっかりとからんでいた。
 木槌の音は丘のむこうから響いていた。乾いてつまった音は耳の中でしこって、いつまでも残る。
 はじめは放牧地に柵でもつくっているんだろうと思ったのだ。だけど丘をのぼって見わたすと、羊も、つくりかけの柵もなかった。ただ丘の麓に小さく、男が一人と荷車が見えただけだった。郵便馬車の走る街道と、村と村をつなぐ細い道が交わるところに男はしゃがみこんで、地面におろされたやけに長い荷物にむかって何かをしていた。
 あれは、あの荷は、ちょうど人間くらいの大きさじゃないか。
 僕はユースタスと顔を見あわせた。そして次には丘を駆けおりていた。近づくにつれ、ようすがはっきりしてくる。大きな長い荷は布でつつまれていた。男の身なりはみすぼらしく、土まみれだった。うずくまって、荷へ木槌を振りおろしている。杭を打っているのだ。人間でいえば胸のあたりへ。そして傍らには穴が掘ってあった。荷車には土のついたシャベルが乗っていた。穴は大きさと形から、荷を埋めるためだと知れた。
 四つ辻に掘った穴。横たえられたひとのようなもの。胸に杭。
 自殺者の埋葬だ。
「待て、誰を埋める気だ」
 男は木槌を放り出して平伏した。
「死んだのは誰なんだ」
 墓掘り人夫の男がおずおずと顔をあげる。
「わかりませんです、あたしは埋めるように云われただけで。知らん顔です、このへんのもんじゃあございません、牧師様も流れもんだろうと、へえ、お若い旦那様」
 ではメイナス・ジョイスではない。ならゾフか? それともヒュー……。どちらも地元の人間とは馴染みではない。
「ほんとうに自殺なのか? 死因は?」
「首を吊ってたんですよ、自殺以外に何があるってんで? あっちの木立ちで見つかったんです」
「いつ」
「昨日です、何の因果かあたしの倅が見つけたんですよ。畑仕事が終わって、家に帰るまえに喉が渇いたからって、ちょっくら小川で水飲んでくるって寄り道したら、とんだはずれ籤だ。おかげであたしが墓掘りする破目になって、へえ、お若い旦那様」
 畑仕事を終えてということは、つまり夕刻だ。ヒューやゾフがいなくなったのもそのころだ。
「男か?」
「死んだやつのことで? へえ、そのとおりで」
「顔は? 顔が見たい」
 えっ、というように人夫は、深々と杭が刺さったつつみを見やった。死体をおおっているのは使い古しのシーツか何かだろう。襤褸だ。つつみかたも雑だ。が、文句は云えまい。布でつつんでもらっただけでも有り難いと思わなきゃならない。自殺した者にひとなみの埋葬は望めない。もっとも人夫が大罪を犯した邪悪な魂に、直に触れるのを厭がっただけかもしれないが。
「布をまくって顔を見せろ」
「けど──」と今度はユースタスのほうを窺って、
「けど旦那様、死体ですよ、自殺者ですよ、そちらのお嬢様のお眼を汚すのは」
「いいから見せるんだ」
「卒倒でもなさって、あたしのせいにされたら」
「わたしなら平気よ」
 やれやれ物好きなこったと、ぶつくさこぼしながら人夫は布をはがしにかかった。
 現れた顔にどう反応するのが正しかっただろう。驚愕する? ああそうかと頷く? 安堵する? 
 そのどれもが僕の胸を順番に巡った。なぜと驚き、しかし自殺となれば彼しかいないと思い直し、そして残酷にもほっと息をつく。よかった、ヒューじゃなかったと。
 バートルだった。
 汚い襤褸につつまれ横たわっていたのは、バートルだった。
 廃屋よりも空虚で、立ち枯れた樹木よりわびしく、砂よりも味気ないバートルの死に顔だった。なのに髪の毛や眉や睫毛はやけに艶があって、元気にはねていた。その睫毛が、目蓋の合わせ目をしっかりと閉じていて、もう二度とこの眼は開かないのだといっていた。
 墓掘り人夫は布を胸の杭のところまでまくったから、バートルが着ているのは黒っぽい外套だとわかった。まだ僕がアレクサだったころ、いつもこの外套の襟を立て顔を隠していた。メイナスに焼き殺されそうになったとき、これをかぶせて助けてくれた。焼け焦げがあちこち残っている。それで人夫にはがされて売っぱらわれずにすんだ。
 襟の陰に覗いている。赤黒い筋だ。首に喰いこんだ綱の痕だ。
「この顔は下女だわ、大きいほうの」
 そばにいるはずのユースタスのつぶやきが遠くに感じられた。
 バートルは最後は男の姿に、本来の自分にもどって死んだのか。
 僕の手で丁寧に布をもとどおりにかぶせる。
「首を吊ったと云ったな、詳しく話してみろ」
 人夫は腕をよじりあわせながら、
「へえ、倅から聞いて駆けつけると、こいつが、いえ、この御仁が木にぶらさがっていて、首に綱かけてたから、こりゃあ大変だ首吊りだあと。あたしがおろしたんです、死んだばかりのようで、まだあったかいのを」
「まだ温かかった?」
「そ、そうです、生きてる人間とそう変わらんかったです。だからなんとか息を吹きかえさないかって、いろいろやってみたんですよ、その、いろいろ、水飲ませたり、気つけ薬をかがせたり」
 嘘かほんとうか疑わしいが人夫は必死に云いつくろう。
「いつだ、昨日の夕刻の何時ごろだ」
「何時ごろですって? 冗談いっちゃあいけませんや、あたしらの懐中からひっぱり出せるっていったら、質札と糸くずくらいなもんですよ、へへっ、おっと」僕に睨まれ、慌てて記憶をたぐる仕草をする。
「牧師館へ知らせに行ったとき、ちょうど時計が五時を打つのが聞こえたっけ。だからあっしが見つけたのは四時すぎってところでしょうか」
 四時……
「で、牧師様も、自殺なら祈るわけにもいかん四つ辻に埋めておけっておっしゃるもんで、こうしてあたしが骨を折ってるわけでして。だって法律にもそう定めてあるでしょう、あたしはなんもしとりませんよ、なんも咎められるようなことは」
「もう行け、あとは僕がやる」
「は?」
「行けってば!」
 腰をかがめたまま人夫はこそこそと去っていった。僕はすぐさま遺体の胸の杭を振りはらった。杭は倒れ、転がった。それをつかんでさらに投げ飛ばす。
「何をするのブラッド! 自殺者なのよ、邪悪な霊が歩き出したらどうするの」
「君までそんな迷信を信じるのか、そんなだから魔女の呪いだなんて、ネラに簡単に騙されるんだ」
「酷いわ。だってわたしは彼女に育てられてきたのよ、いわば彼女はわたしの母親がわりよ、そんなひとをどう疑えというの」
 掘られた墓穴から湿った土の匂いが立ちのぼってくる。
「ごめん。悪かった。けど、バートルだっておなじなんだ、バートルが僕を育ててくれたといってもいい、僕にとってバートルは父親がわりだった」
 布につつまれた遺体の杭が抜けた穴は、深くくぼんでいるだけだった。血すらもう出ない。
「少しのあいだ、一人にしてくれないか。僕とバートルだけにしてくれないか」
 ユースタスの離れていく気配がした。
 ふたたび遺体の布をはいだとき、そこにあったのは死そのものだった。僕は死を見つめ、死に触れ、死に最後の接吻をした。だけど、悲しいことだけど、調べるのも忘れなかった。遺書が残っていないか、僕に何か書き残してくれてはいないか。
 なかった。予想はしていた。もしあれば墓掘り人夫が僕にわたしたはずだからだ。死んだ人間を見つけたら、身元を知ろうと当然ポケットや懐をさぐるだろう。ついでに金目の物が出てきたら、葬儀代がわりにいただくだろう。けどバートルの財産といったら焼け焦げた外套が一枚きり。人夫にも見むきもされなかった。哀れなバートル。長年ネラに仕えてきたのに、新しい外套も買えなかったのか。それというのも奉仕の報酬は罰だったからだ。
 バートルを自殺者として埋めなくてはならないのは辛かった。だけど、少なくとも男として眠ることはできる。ガルトムーア・ホールで名前すら呼ばれず、ただ「大きいほう」と区別されていた下女として葬られるより、四つ辻をバートルは選んだんだ。だから死ぬまえにちゃんと男の服装に着がえた。
 人夫の残していったシャベルで、がむしゃらに土をかぶせた。

「バートルはいつも罪の意識に苛まれていた」
 僕が云うと、そうねとユースタスが頷いた。はたから見たら僕らはどう映るだろう。初々しい紳士淑女のカップルの優雅な早朝の散歩だろうか。だけど僕らはヒースを踏みしだいてひたすら歩き、話題は自殺と、誘拐と、殺人だった。
「ネラに逆らえなかったとはいえ、ネラと特殊な関係だったとはいえ、いつだって神様に許しを求めてた」
「そう」
「もっと早くバートルにネラの悪事を白状させるべきだったんだ、そうすればもう罪を重ねることもなかったし、自殺なんてしなくてすんだ」
「そうね」
「けど、変だと思わないか。ゾフとメイナスのことだ」
「ええ」
「墓掘り人夫によるとバートルが死んだのは四時ごろ、ガルトムーア・ホールでは正餐の真っ最中だ、ゾフもメイナスも僕らと一緒にいたじゃないか」
「そう」
「つまりゾフとメイナスが消えたのは、バートルが死んでからってことになる。園丁だってそうだ、僕らが目撃したのは死んでからそれほどたっていなかった、君が云っていたとおり、お湯汲みをしていたバートルが先回りして殺すなんて不可能だ。バートル自身、自分ではないと訴えていたじゃないか、それどころか園丁が殺されたことも知らなかったんだ、そうさ、バートルであるはずがない。じゃあ誰が──」
 ユースタスはこうも云っていた。犯人が園丁をめん棒で殴ったのは抵抗を封じるため、力のあるバートルはそんな必要ない。でもネラなら?
 低いところで蜜蜂がぶんぶん唸ってる。甘い香りがすると思ったら、僕の足が踏みつけているのは野いばらの枝だった。ユースタスのドレスの裾が泥だらけだ。歩かせすぎた。可哀相に水を吸った生地は色が変わり重たげだ。
 帰ろうかと眼をあげると、ユースタスが熱心に眼差しを注いでいるのは僕の顔だった。
「あの下女はほんとうに男だったのね」
 どうしてそんな眼をして僕を見るのか。
「女だと思っていたのが男だった。だったらその逆だってあるかもしれない」
 花の香りも消えた。蜜蜂の羽音も消えた。
「どういう意味だ?」
 だが、ユースタスはついと眼をそらし、
「意味なんてないわ」
 背中をむける。背中が云う。
「わたしはただ、こう云いたかったの。ひとは思っていたとおりではないって」
「思ってたとおりじゃない──、どういうことだ」
 まわりこんでユースタスの正面に立って、問いただした。
「どういうことって、言葉どおりの意味よ。つまり、あれよ、ヒューよ」
「ヒューだって?」
 こんなのは誤魔化しだと、僕の追求をかわそうとヒューの名を云ってみただけだと、ほんとうはわかってたんじゃなかったか。けど僕はユースタスに話をつづけさせた。怯えがあった。そして惜しむ気持ちも。勇気を持って真実に迫るより、僕はひとときの恋の戯れを選んだ。
「そうよ、ヒューよ、ヒュー・ヒュゲット。彼と、ゾフと、メイナス、三人が消えたのをあなたはあの大きい下女、いいえバートルだったわね、いいわ、こうなったらわたしもバートルと呼びましょう、そのバートルが何かしたのではと考えていた。でもバートルは自殺していた、わたしたちみんなが正餐室にいるあいだに。だけどあなた忘れているんじゃなくて? ヒューもバートル同様、正餐のときからいなかったわ」
「ひょっとして君はヒューを疑ってるのかい、馬鹿馬鹿しい」
「笑いごとではなくってよ。正餐で母が倒れゾフが発作を起こしたときも、その二人を運んだときも、姿がなかったのはバートルと、そしてヒュー・ヒュゲット。あなたは考えないの? バートルではないのならヒューかもしれないと」
「ヒューが何をしたと?」
「ゾフもメイナスも、ヒュゲットの仕業だとしたら?」
「滅茶苦茶だ、何でヒューが。理由がないじゃないか」
「では、なぜいなくなったの? その理由は? あなたに何も告げずにいなくなるなんておかしいじゃないの。あなたは彼のことをどれほど知っていて? すべて知りつくしているとでも? そうじゃないでしょう。あなたたち、たいそうな信頼関係のようだけど、実は彼はとんでもない悪人かもしれなくてよ、冷酷な殺人鬼なのかも、殺人鬼がメイナスを殺したのよ、メイナスを縛ってガラスの器で殴って殺め、」
「メイナスを縛ってガラスの器でだって?」
 あっとユースタスは口に手をあてた。
「ユースタス、何か隠してるな」
 いいえ、いいえ、とあとずさる。その腕をつかまえた。ぐいと引きよせた。
「昨夜から引っかかってたんだ、メイナスたちの話になると君は不自然だった」
「離して頂戴」
「子どものころ、こんな遊びしなかった? 秘密の打ち明けっこだ。まず僕から話そう。夕べヒューを探しに行ったとき、僕は客間にメイナスをただ待たしていたんじゃない、殴ったんだ、そうだよ、なんでか君が知ってるとおりグラスハーモニカのガラスの器で。でも殺してはいない、気絶させただけだ、それからロープでパケーに縛りつけておいた。さあ、君の番だ」
「手を離して」
「さあ、君の隠しごとは? 正直に話すんだ、このちっちゃな魔女めが」
 口惜しそうにユースタスは唇を噛んで睨みつけてくる。
 しかし観念したようだった。手を離してやったら、その手首をさすりながらかわいいむくれ顔になった。
「わたしが逃がしたの」
「逃がした? メイナスを? 何でそんなことを」
「だって、」云いよどむ。上目遣いになって、眼をぱちぱちさせる。きれいにそりかえった睫毛の打ちあう音が聞こえてきそうだ。
「だって、気の毒だったんですもの」
「気の毒!」
 なんてこった、これだからお嬢様は。
「あのときは気の毒だと思ったの、あんな大きな器で殴られて。ごめんなさい、扉の外で盗み聞きしたの、あなたのことが心配だったのよ、ゾフとメイナスと三人きりになるなんて。でもわたしが間違っていたわ、ほんとうにごめんなさい」
 しょげかえっている。きゅっと口をむすんで、健気に泣くのをこらえている。とても怒るなんてできない。
「もういいさ、こうやって正直に話してくれたんだから。それじゃあメイナスはゾフをつれて逃げたんだな」
「いいえ、ゾフはおいていったわ。あのとき客間にネラ夫人が来たのよ、だから急いで一人だけで逃げていったわ」
「ネラだって?」
「そうよ、ネラ夫人が来て──」
 同時に僕ら、おなじこたえに行き着いた。当然の結論だ。ネラ以外に誰がいる。
 バートルに命じようにも姿はなく、ネラは自分で邪魔者をどうにかするしかなかったんだろう。衰弱し自由に動くこともままならないゾフなら、運び出すくらい一人でもできる。うまい具合にお供のメイナスもいない。
「ネラ夫人がゾフをさらって隠したのね」
 それともすでに殺したか。いや、殺すなら自分の手を汚さずにバートルにやらせるだろう。ひとまず監禁したに違いない。だけど園丁の例もある。
「帰ろう」
「ガートムーア・ホールへ? なぜ」
「ゾフはきっと舘か、少なくても敷地内だ、女の力ではそう遠くへは運べないもの。早く探さなくちゃ、ゾフから真相を聞き出すんだ、ゾフが白状したらネラの陰謀を証明できる、急ごう、ゾフがまだ生きてるうちに」
 ユースタスも小走りになって、
「そうね、あのひと、いつ死んでもおかしくない容態だったもの」
 思わず振りむいてまじまじと見てしまった。それでようやくユースタスも思いあたったのだろう。
「ネラ夫人が手にかけると? まさか、そこまでするかしら」
「どこまでもおめでたいお嬢様なんだな。現実を見ろ、もう何人も殺してるんだ」
「そんな云いかたしないで。ネラ夫人がわたしを大切に育ててくれたのも現実よ」
「だってそれは──」
「なあに、なんなの?」
 云えない。君がネラの実の娘だからさ、なんて云えやしない。でもいつかは話さなくてはならない。たとえユースタスの誇りをズタズタにし絶望の淵へ落とすことになっても、僕が家や身分を、ほんとうの自分を、とりもどすためにはそうするしかない。
 それとも、このままでいる? 秘密は胸にしまい、真実を捻じ曲げられたままにしておく? そして一生ブラッド・ガルノートンとして生きる、ユースタスとともに。そうすればユースタスは守られるだろう。何も知らず、傷も穢れもない完璧な薔薇として、このガルトムーアで咲き誇っていられるだろう。
 だけどそうなったら、僕はこころの底で常に思いつづけるだろう。自分は誰なのかと。ブラッドは偽りの存在だ、だけど正統なガルノートン家の娘であることも放棄してしまった。残るはアレクサ。けれどもアレクサは、自分をアレクサと名づけた少女は、偽者として生きることに甘んじたりはしない。絶対にしない。だったらあたしは誰?
 強引に話を変えた。
「そういえば君、さっき変だったな、いきなりヒューがメイナスを殺しただなんて云い出して。いったいどうしたんだ?」
「それは──」
「何、なんだ?」
「急ぎましょ、早く帰ってゾフを探すのでしょ」駆けていってしまう。
 やっぱり! 焼きもちだ。僕とヒューの仲を妬いて、ただヒューを中傷したかっただけなんだ。
 偽りのブラッドのままでもいいと、ちょっぴりだけ思った。

 ヒューが心配だったけど、まずゾフを探し出すのが先だ。ヒューだってもしここにいたら、そうしろと云うに違いない。
 舘にもどるとネラは上の階から順番に、扉の取っ手や燭台や、真鍮にくもりはないかと点検の最中だった。午前中の日課だ。僕たちに気づいてうやうやしく頭をさげる。お帰りなさいませ、朝食の御用意ができております。なんという鉄面皮! 見てろ、今にその化けの皮をはいでやる。
 身を翻して先を急ぐとユースタスが後ろから云った。
「ねえ、見た?」
「何を」
「彼女、〈呪い〉病ではないかしら」
「誰が?」
「ネラ夫人よ、あの眼、見たでしょう、瞳が震えていたでしょう」
 馬鹿な、と笑いそうになった。けどユースタスは真剣だ。しかし魔女が自分で自分を呪うなんて、筋が通らない。
「君の勘違いだろう、とにかくゾフを探すんだ」
 地階から隈なく見てまわった。厨房、食物庫、洗濯室。図書室、陳列廊、バケーの置いてある客間。そして家族の寝室も。
 そんなわけないとわかっていたけど、念のため自分の部屋も覗く。そしてヒューが使っていた客用寝室の扉もあけてみる。
 やはり無人だった。ゾフではなく、ヒューがいつの間にかもどっていて、書物のぶ厚いページに顔をうずめてないか、それとも村で調達してきたコケモモのパイでもかぶりついていないかという、淡い期待は裏切られた。しんとした部屋にかすかに獣の臭いが残っている。ヒューが実験のため飼っていた穴ウサギやイタチはもういない。知恵足らずの下女が大騒ぎして逃がしてしまい、最初からやり直しとなって、プレストンへ行くまえに全部放してやったのだ。ほんの三日前のことだ。なのに何年もたったように感じている自分に腹が立って、力まかせに扉をしめた。
 エリザベスの部屋からユースタスが、やはりいないと首を振って出てきた。
「お母様が寝ていただけよ」と鼻に皺をよせ「相変わらずだわ、阿片の匂いが臭いったら!」
「まえから思ってたけど、何で君はあのひとのことをそうも嫌ってるんだい、母親なんだろ」
「母親だからこそよ、正直いって軽蔑しているわ、どうしてわたしの母があんな愚かで役立たずなのか理解できない、あのひとにガルトムーアの女主人の資格はないわ」
 吐き捨てるような口調に胸が痛んだ。これもネラの歪んだ教育のせいなのだ。自分だけを信頼させ、母親を憎むようしむけた。
 それからも捜索をつづけた。大広間のソファの下を覗き、使われていない客間の家具から埃よけの布をすべてはぎとった。厩の藁もひっくり返したし、鼻をつまんで外便所の底まで覗いてみた。しかしゾフの姿はどこにもない。
「糞ッ、どこに隠したんだ」
 下品な言葉遣いにユースタスが眉をひそめるが、かまってられない。
「すでに殺してしまったのか。でも殺したとしても死体がどこかにあるはずだ」
「だけど舘じゅう全部探したのよ、やっぱりネラ夫人は関係ないのではなくて?」
「いいや、まだ探していないところがある」
「どこ? どこのことを云っているの」
 こたえを求め僕の顔をさぐって、そして思いあたったのだろう、ユースタスがはっと息を呑んだ。
「そんな、まさか」
「そうだ、八角塔だ」
 八角塔は城舘の屋上だ。そこへあがる階段も、屋上へ出る扉も、そして塔の扉も厳重に鍵がかけられている。鍵を持っているのはネラだ。
「待って、駄目よ、八角塔にはマミーリアお姉様がいるのよ」
「八角塔は魔女に呪われた者を隔離するところだろ、ゾフを監禁するのにまさに恰好の場所じゃないか」
 ネラは玄関ホールにいた。玄関の扉が開いていて、外に立っている相手と話しているようだ。その様子を主階段から僕らは窺った。訪問者はひたすら畏まっていた。村の教会の牧師らしい。
 ご苦労様、とネラが頷いた。扉を閉め、そして振り返って僕らを見あげた。
「御朝食になさいますか、すっかり冷めてしまいましたが。温め直してまいりましょう」
 さがろうとする。そうはさせるかと階段を駆けおりる。
「八角塔の鍵をわたせ」
「八角塔でございますか」
 予想もしなかったことを云われたときの軽い驚きと困惑、ネラは演技の天才だ。
「さっさとわたすんだ」
「伯爵様の御命令とあればもちろん従いましょう。ですが同時に、ご主人様がたの身をお守りするのもわたくしの務めでございます。ご承知でございましょう、八角塔には今マミーリア様がお入りになってらっしゃいます、魔女に呪われたかたがおられるのですよ、それでも八角塔へ行かれたいというのなら、理由をお尋ねしてもよろしいでしょうか」
 どこまでしらを切るつもりなのか。
「どうぞ理由をお聞かせください、わたくしが納得する理由を」
 どう返事しようか。もっともらしくマミーリアを見舞うと云おうか、消えたゾフを探すのだとあえて正直に明かすか。それともあくまでネラが忠実な女中頭を演じつづけるというのなら、主人の命令が聞けぬのかと権力を振りかざしてやろうか。けど、もっといい選択がある。
「僕のほうからもおまえに質問がある」
「何でございましょう」
「ああ、その前に一つ知らせることがあった」
「はい?」
「バートルが死んだ、自殺だ」
 ついにネラの仮面がはがれ落ちた。驚愕が内側から仮面を押し出し、落ちたあとに虚ろになったこころが覗く。
「昨日だ、首を吊ったんだ」
「首吊り──。では今さっき牧師が知らせてきた自殺者とは──」
 産まれた仔羊の数から嵐で起きた崖崩れまで、領地内の出来事は直ちに領主のもとに報告される。自殺した流れ者を埋葬したことも牧師が知らせにやってくる。けれども牧師は今回も当然のように、伯爵なんて名ばかりの昨日今日来たような坊主にではなく、ネラに話した。口惜しいが、それが長年ガルノートン家の一切をとりしきってきた女中頭、ネラの力だ。
 だけどそのネラも、胸に杭を打たれ四つ辻に埋められた余所者の男が、実はおのれの下僕バートルだったとは思いもよらぬことだっただろう。灰色の瞳の中心が針のように細く絞られている。
「なぜ──、なぜ彼の名前をご存知なのです」
 こんなときのために用意しておいたこたえを返した。自分の正体を隠したまま、だけど嘘ではないこたえだ。
「それは僕がこの城の主だからだ」
 一気にネラを攻めてやろう。こうなったら疑いの数々を残らずぶつけ追いつめてやる。
「知っているのは彼の名前だけじゃない、彼が男であることも、にもかかわらずおまえが下女として使っていたことだって知ってる。考えたな、下女ならいつでも女中頭とともにいる。下女なら箒や湯沸しとかわらないから、主人のユースタスたちもわざわざ注意をむけない。そうやっておまえは手下であるバートルに、長年悪事の片棒を担がせてきたんだ」
 灰色の眼は何も映していない。動揺してるんだ。
「そのうえおまえはバートルの最後の言葉まで奪った、ニワトコの木の下に何て書いてあったんだ、バートルに命じてヒューに何をした」
「ヒュゲット様? お姿が見えないと思っていましたが、ではヒュゲット様もいなくなってしまわれたのですね?」
 眼に光がもどってきた。笑みが薄くしみ出してくる。自分の企みが成功したと知ったせいか?
「悪事ですか、悪事とおっしゃいましたか、嘆かわしい……」
 ネラは仮面をとりもどしていた。御主人様にひたすら忠義をつくす召使いという仮面だ。
「大きいほうの下女はまぎれもなく男でした、左様です、バートルという名です。しかしながらそれもこれも、すべて御一族の皆様のためにしたこと、苦肉の策です。奥様は男の奉公人は厭とおっしゃる、でも充分なお世話をしようと思ったら女手だけでは到底かなわない、ですからバートルを下女として雇ったのでございます。それを悪事とは! 悲しゅうございます、魔女の呪いに侵されたマミーリア様を誰が八角塔へお運びしたでしょう、ご存じのはずでしょう? ユースタス様!」
 と、僕ではなくユースタスへ語りかける。
「もし彼がいなかったら、ユースタス様のお手をお借りすることになったかもしれないのですよ、ユースタス様におできになりますか? マミーリア様に触れるのですよ、アンヌ・マリーに呪われたマミーリア様に」
「いいかげんにしろ、呪いなんて全部おまえの作り話だ」
「何をおっしゃいます、恐ろしい。もしアンヌ・マリーが聞きつけでもしたら」
「魔女なんていない、いるとしたらおまえだ、おまえが魔女だ、みんなおまえの仕業なんだ、バートルを使って毒を盛り、それを呪いだなんて騙してガルノートン一族を殺してきた、魔女の伝説を吹きこんでユースタスたちを怯えさせて支配してきた、すべてこの城の財産と地位を奪うためだ」
「ユースタス様、ユースタス様」
 またもやユースタスへ訴える。
「どうやらブラッド様は恐怖のあまり気が変になられたごようす」
「魔女の呪いが真実だというのなら、」僕はつづけた。「どうしてガルノートン一族以外の者まで呪われるんだ」
「はて、いったい何のことでございましょう」
「しらばっくれるな、ナサニエル・ゾフをどうして隠した。ゾフの症状は明らかにおまえが呪いと云ってるものだ、伝説と矛盾してるじゃないか、それにゾフとおまえは仲間だったんだろう、ゾフの口から真相がもれるのを恐れ、連れ去ったのか」
「馬鹿馬鹿しくてお話になりません。このことは申しあげるべきではございませんが、お嬢様お許しくださいましね、御主人であるブラッド様がお訊きになられたから仕方なくおこたえするのです。ゾフ様はかつてエリザベス様の愛人でいらっしゃいました、ですから魔女に目をつけられたのでございますよ、伝説とはなんら矛盾しておりません。なのにわたくしがゾフ様を連れ去る理由がありましょうか」
「それはゾフに訊くさ。八角塔の鍵を出せ」
「ではゾフ様は八角塔に?」大袈裟に驚いて見せる。「はて、さきほどわたくしがマミーリア様に朝食をお運びしたときには、お見かけしませんでしたが」
 真実か? それともはったりか? 
「では園丁はどうだ? まさかこっちも愛人だなんて云う気か? ほかにも──」鋏研ぎの二人組と云おうとして、言葉を呑みこんだ。ユースタスに聞かれたくない。〈呪い〉病で死にかけている鋏研ぎの存在を、僕はまだユースタスに教えていない。鋏研ぎはネラに雇われブラッド・ガルノートンの偽者になるはずだったからだ。彼らにかわってブラッドになりすましてるのが僕だ。
「園丁は、」鋏研ぎのことは伏せて話をすすめる。「病に臥していた、症状がおまえの云う魔女の呪いとそっくりおなじだった」
「左様でございますか、誰かは存じませぬがそれは気の毒な。ですがたまたま似ていたからといって、呪いだとどうして云えるのです。その者は病気なのでしょう? ブラッド様は今はっきりとそうおっしゃったじゃありませんか、呪いと病気は違います、断じて違います」
「じゃあ殺されたのは? 園丁は首を切られ殺された」
「ああ、ようやく合点がいきました、以前雇っていた園丁のことでございますね、そのことなら承知しておりますよ、村の巡査が報告に参りましたから。押しこみ強盗に襲われたとか」
「よくもぬけぬけと。おまえがやったんじゃないのか」
「は? わたくしがでございますか?」
「何を笑う」
「これはとんだ失礼を。ですがおかしいではありませんか、ブラッド様の説によると園丁は魔女の呪いにかかっていた、でもそれはわたくしがバートルに命じて毒を盛って引き起こした病、けれども園丁は首を切られ殺された、それもわたくしのやったこととあなた様はおっしゃる。はて、妙な論法でございますね、呪いでいずれ死ぬとわかっているのに、なぜわざわざ殺さねばならないのです?」
 ネラはどうだといわんばかりだ。議論を楽しんでさえいる。こうも余裕しゃくしゃくなのはどういうわけだ? 
「園丁は殺されたとき殴られていた」
「左様でございますか」
「使われたのは陶器のめん棒だ、花の模様のやつだ、割れてあたりは水浸しだった、ガルトムーアでそんな上等な道具を持っているのはこの舘しかない」
 ネラの仮面がまたはずれた。一瞬だけだったが確かに僕は見た。ネラはめん棒のことは知らなかったんだ。ということは、園丁を殺したのはネラではないのか?
 するとネラが云った。
「つまりブラッド様は、これもまたわたくしがバートルに命じてやらせたと疑っておいでなのですね」
 いいや、それも筋が通らない。バートルは園丁が死んだことすら知らなかったんだから。
「お気持ちはお察しいたしますブラッド様、魔女の呪いをお認めになりたくないのでしょう、否定なさりたいのでしょう。呪いなど存在しない、これは何かの病気なのだ、誰かの悪だくみなのだ、犯人をつきとめさえすれば助かる、とそうお考えになれば希望が持てますものね。しかし残念ながら呪いというものは、魔女の呪術は、確かにこの世に存在するのでございますよ」
「そんな迷信、僕は信じない」
「おいたわしい」かぶりをふって見せる。そしてユースタスにむかって、
「まさかユースタス様までおなじ考えでいらっしゃるのですか、このわたくしをお疑いなのですか」
「では訊くけど、」ユースタスが云った。
「なぜグロットーに入ってはいけないの」
「何を今さら! 魔女に呪われた者に触れたら」
「触れた者もまた呪われる、それは病気が感染するということじゃなくて?」
「情けない、お嬢様はすっかりブラッド様に感化されてしまったのですね。ですが鍵をおわたしすることはできません、ええ、たとえご主人様がたのご命令とあっても、グロットーの鍵も八角塔の鍵も絶対にわたしません、わたくしはお嬢様をお守りせねばなりませんから」
 またここでもネラは筋の通らぬことを云った。
「グロットーの鍵はとっくに使えないはずだろう」
「何ですって、何とおっしゃいましたか」
「鍵穴につめものをしただろう、鍵を盗んだユースタスが使えないように」
 ネラが首を捻じり、まじまじとユースタスを見る。これも今はじめて知ったようだ。
「ごめんなさい、鍵を黙ってとったのは悪かったわ。だけどグロットーの扉の鍵穴につめものがされたのはほんとうよ、あなたがやったことではないの?」
 どう返事するべきかと迷う間がネラの動揺を表していた。そして選んだ返事は、ええ、もちろんそうですよ、という嘘だった。誰の仕業か知らないがとにかくグロットーに入れないようになったのなら好都合、と考えたのだろう。
「もちろんです、ユースタス様のためにしたことです、グロットーに近づくなんてもってのほか」
何度も落ちてぼろぼろになった仮面をつけ直し、とりつくろっている。
「見られては困るものが隠してあるんだろう」
「もう知っているのよ、エレン伯母様の遺体のことよ、首がないのでしょう」
 けれど今度はかろうじて仮面は落ちなかった。
「魔女ですよ。それこそアンヌ・マリーの仕業です、ご遺体の首を切って持っていくなど、アンヌ・マリー以外に誰がするでしょう、おお恐ろしいこと。ユースタス様、魔女はいるのです、呪いはほんとうにあるのです、お父様もお兄様がたもどのようにお亡くなりになったかご存じのはず。あなた様ならおわかりでしょう、いいえ、おわかりにならなくてはなりません。誰が疑おうと、たとえ国じゅうの人間が疑おうと、あなた様だけは疑ってはなりません。魔女はいるのです、呪いは実在するのです」
「よせ」ユースタスを背後にかばう。「ユースタスを脅しても無駄だ」
「脅してなど! わたくしはユースタス様のために、」
「ために? 魔女の伝説なんて出鱈目を信じこませ人生を狂わせたくせに」
 ユースタスだけじゃない。僕の人生も狂わせた。赤ん坊のユースタスと僕をすりかえ、僕の名前と身分と家族を奪った。それをとりもどすために、捨て子からやっとの思いで偽のブラッド・ガルノートンになって、ガルトムーア・ホールにもどってきたんだ。そしてユースタスと出逢った。我が儘で、高慢で、かわいいユースタスに。僕の真の名を名乗っているユースタスに。もし呪いがあるとしたらこれが呪いだ。僕は愛する者から奪い返さなくてはならない。
「お嬢様、ユースタス様」
 足もとにひれ伏す。
「ブラッド様の云うことこそ出鱈目です、魔女も呪いも確かに存在するんです、誓ってもいい、どうかわたくしをお信じください、わたくしの言葉だけをお聞きください、ユースタス様だっておわかりのはずでしょう、あなた様を幸せにしてさしあげられるのは、このわたくしだけだって」
「やめて頂戴」
 すがるネラからユースタスは身を引き離した。
「何が幸せかは自分で決めるわ」
 ネラの上目遣いの眼にねっとりした光が宿った。唇がひきつれ歪んだ笑みをつくる。
「いいえ、決められません。ユースタス様お一人の力では何もできません。なぜならユースタス様のすべてを知っているのは、そして理解してさしあげられるのは、このスーザン・ネラだけだからです」
「生意気な──、奉公人の分際で──」
 声がかすれていた。言葉とは裏腹のユースタスの狼狽だった。いったい何がこの娘をこんなにもわななかせているのか。
 でもさすがは僕のユースタスだ、果敢に反撃した。
「わたしのためというのなら真実を教えて頂戴。呪いなんて嘘だったんでしょう、すべてあなたが仕組んだことなのでしょう」
「しいいいっ、何をおっしゃるのです、アンヌ・マリーに聞かれでもしたら」
「いい加減にしろ!」たまらず怒鳴ってしまう。「アンヌ・マリーの伝説が真実なら園丁や鋏──」いや、鋏研ぎのことは云えない。「園丁がなぜ呪われたんだ」
「お言葉を返すようでございますが、園丁はさきほど伯爵様が、バートルが殺したとおっしゃったのでは」
「バートルじゃないっ、バートルは殺していない!」
 堂々巡りだ。手が知らず知らず自分の胸もとをつかんでいる。服ごと握りしめている。ワタスゲのブローチだ。紐に通して首にかけて、いつも服の下に隠してる。このブローチを見せてやりたい。ブローチをつきつけて僕こそがユースタスだと、おまえが自分の娘とすりかえた本物のユースタスはこの僕だと、ぶちまけてやりたい。
 だけど伝わってくるのは、僕にぴったりと身をよせて立っているユースタスの震えだ。そしてこんなに怯えているというのに、ほんのりと温かい体温だ。
「まことに残念でございます」
 平坦な、およそ感情のこもっていないネラの声音だった。
「バートルのことでございますよ」
 どういう意味だろう。
「なぜ自殺など」
 白々しい! ありったけの怒りをこめて返してやる。
「自分で自分を罰したんだ。真の罰を望んだんだ」
 ネラはほんのわずか眼を伏せただけだった。けど感じた。この一点のみだけどバートルの死について、ネラは僕に同意していた。
 しかしネラは次にはこれみよがしのため息をついた。
「残念でなりません、バートルは死ぬべきではございませんでした、生きておのれの罪を告白するべきでした、園丁を殺したのは自分だと、洗いざらい話すべきでした。そうすれば余計な誤解もなく、お嬢様がたもこのように混乱なさることもなかったでしょう」
「洗いざらい話すだって?」
 まただ。またもや筋の通らないことを云ってる。
「口が利けないのに?」
「何ですって?」
「口封じにバートルの舌を切って喋れなくしたのは、おまえじゃないか」
 今度こそ仮面は落ちて完全に砕けたようだった。仮面の下から現れたのは、意外にも怒りだった。白熱し炎がほとばしる。
 バートルの舌を切断したのはネラではなかった。誰がやったかわからないけれど、その何者かをネラはすさまじく憎悪していた。これは自分の所有物を損なわれた怒りだ。自身は鞭をふるって惨く扱うのに、ほかの誰かが手を触れるのさえ許さない。これがネラの愛か。ネラとバートルが交わした情か。断ち切るには自殺するしかなかった執着か。バートルの恐ろしいほどの孤独を思った。痛みも屈辱をも愛と受けとる孤独を。そしてそこに隙間なくゆきわたって満ち満ちたネラの支配を。ここにも一つ、呪いがあった。
 だしぬけにネラは腰にさげていた鍵束をつかむと、もぎとるように一つを輪からはずした。僕の手に押しつける。
「お望みの鍵です、八角塔も、そこへのぼる階段の隠し扉も、屋上に出る扉も、みなそれで開きます」
 しかし押しつけておきながら、鍵を握った手を離そうとはしない。
「ブラッド様お一人でお行きなさいませ。ユースタス様はここに置いていってください、そうでなければおわたしするわけにはまいりません」
 ともかく八角塔を調べるのだ。ゾフさえ見つければ、このからまりあった謎を解く糸口になる。
「わかった、いいだろう」
 そう返事をするとネラは鍵を離した。
 だがユースタスが叫んだ。
「厭よ、わたしも行くわ」
「なりません、お嬢様は魔女に呪われたいのですか!」
 ネラも声を荒げる。まったく呆れはてる。それともこの徹底ぶりに感心するべきだろうか。あくまで呪いは存在するという態度だ。
「馬鹿馬鹿しい」ユースタスが吐き捨てた。「呪いなんて嘘よ、魔女なんていない、もう騙されないわ」
「行かせません、危険です、どうかおわかりください」
 と、そのとき、鎖のようなものが落ちた音がした。鍵束だった。ネラが腰の鉄輪から八角塔の鍵をはずしたとき、きちんと閉めなかったらしい。
 ネラは床に膝をついた。床に散らばった鍵へ手をのばした。その手が震えている。拾いあげた鍵を鉄輪に通すことができない。鍵が、握った手が、踊るのだ。どうしても輪に通らない。鍵を握るネラの手に力がこもり関節が白く浮き出る。しかし鍵は輪にぶつかるばかりでカチカチとせわしい音を立てる。
 ユースタスへ視線を移すとユースタスも僕を見た。ほら、云ったとおりでしょう、と。
 でも、おかしいじゃないか。なぜネラが〈呪い〉病に侵されるんだ。ネラは呪いと称して次々と毒を盛ってきた張本人じゃないか。
「ブラッド、先に八角塔へ行って頂戴」ユースタスが云った。「わたしはネラ夫人を手伝って鍵を片付けるわ」
 そして確かめるつもりなんだろう。ネラのこの異常なようすはほんとうに〈呪い〉病なのか、もしそうならいったいどういうわけなのか、今度こそ白状させようというんだろう。ネラも血をわけた娘と二人きりになれば、真実を話す気になるかもしれない。
 頷いて僕は部屋を出た。
 
 廊下のつきあたりの扉は羅紗をはって目立たなくしてあって、そのおざなりな隠しかたが貴族の城にしては無骨だった。ドアノブの錠前も無骨で、鍵をさしこんでまわすとやはり無骨な音がした。
 上へあがる階段がある。その奥、暗がりにドアがあって、あけてみると裏階段で、こちらは地下へとくだっている。もちろん手前の階段をのぼっていった。もとは主階段だったと話に聞いたとおり、こっちは充分に広く傾斜もゆるやかだ。
 のぼりきると扉があった。ふたたび鍵を使う。
 風が僕の髪を巻きあげた。眩しい。空が近い。こんな高い場所に立つのははじめてだ。歩くと眩暈がする。八角塔の屋根が陽射しを反射して、僕の眼を射る。
 八角塔の扉をあけるまえに耳をよせて中を窺ってみた。何も聞こえない。
 鍵は難なくあいた。静かに扉を引く。とたん背後から風に押された。中に入ると扉が音を立ててしまった。
 またたく間に部屋の空気は静まりかえった。薄暗い。窓は小さな明かりとりだけ。扉以外の七つの壁の高いところに一つずつ、小さくあいている。ベッドが一台だけじゃないことに驚いた。手前の三台は縦むきにならべて置かれ、その奥の壁際に横むきにもう一台。
 シーツが膨らんでいるのは一台きりだった。手前の右端のベッドだった。上掛けシーツが頭まですっぽりとかぶさっている。ほかのベッドはシーツもなくマットレスがむき出しだ。
 ゾフか。やはりここにいたのか。
 けど、シーツを持ちあげた僕の手は止まってしまった。
 誰だ?
 ぎょろりと目玉が動いてこちらを見た。でも片方の瞳はあらぬほうへそれてしまう。
 その青い瞳でわかった。マミーリアだ、なんてことだ、これではまるで老婆じゃないか。
 美しかった金髪は艶を失い干からびた藁くずのようだ。痩せこけたせいであまった皮膚が無数の皺となって顔じゅうをおおっている。マミーリアの眼が僕を凝視したのは一瞬だけだった。たちまち震え出し、震えはすぐに全身に広まった。首はイヤイヤと振られ、手足はバタバタとマットレスに打ちつけられる。絶え間ない痙攣は、シーツの下でまるで何十匹もの小動物が暴れているみたいだ。青い瞳だけは変わらず輝いていた。涙がはねて枕に点々と落ちた。
 シーツを眼の下までひっぱりあげてやった。悲惨な姿が少しでも隠れるようにと。それから僕は首を巡らせて部屋の中を見まわした。改めて探すまでもなくゾフの姿はない。
 突然、風が吹きこみ、マミーリアのシーツがめくれあがった。同時にマミーリアの形相が一変した。眼をむき出し歯をギリギリと食いしばっている。そして食いしばった歯の隙間から悲鳴が押し出されてきた。正餐用に絞められる雄鶏だってこんな声は出さない。限界まで見開いた眼が、左右べつべつを見ていた眼が、懸命に僕を見定めようする。
 違った。見ているのは僕の背後だった。背後にあるのは扉で、扉は開かれていて、そこに立っていたのはユースタスだった。ゆった髪が風でほどけたんだろう、それがまた吹きこむ風に巻きあげられて、炎のように逆巻いている。
 マミーリアが叫んだ。
「魔女! アンヌ・マリー!」
 何だって? 
「厭、来ないでっ」
 扉を閉め、髪をおさえてユースタスが入ってきた。「マミーリア、どうしたの」
 マミーリアは寝台の上で体をくねらせ逃れようとする。
「厭、厭、厭よう!」
「何を云っているの、わたしよ、ユースタスよ」
「魔女め、わたしに近づかないで、魔女、アンヌ・マリー、来ないでよう」
 いうことをきかない手でどうにかシーツをたぐりよせ、頭からかぶってしまった。シーツの下の塊は震えつづけている。それは症状なのか、それとも恐怖のあまりなのか。
「きっと髪のせいね、」
 とユースタスは乱れた髪の毛をなでつける。
「それに病気のせいで錯乱しているんだわ、可哀相に、面変わりもしてしまって、あんなに美しかったお姉様が」
 ため息とともに震えるシーツを見おろす。
「それで、ゾフはいて?」部屋を見まわし、
「いないようね」また息をつく。
 僕らは八角塔を出た。
 どうも屋上というのは落ち着かない。空に放り出されたようでこころもとない。雲が流れてゆく。僕を置いて遠ざかってゆく。きれいな空、とユースタスがつぶやいた。その髪を風がまた持ちあげる。髪が逆立ったくらいで魔女だと怯えるだろうか。髪をゆっていない妹の姿なんて見慣れてるだろうに。
 するとユースタスが云った。
「ネラ夫人のあれは呪いではなかったわ、熱があるみたいなの、瘧ではないかしら」
「瘧? 〈呪い〉病だと云ったのは君じゃないか」
「わたしの勘違いだったわ」
「でも、」
「考えてみれば呪いであるはずがなかったわ。自分で自分に毒を盛るなんて筋が通らない、そうでなくて?」
 そりゃそうだけど、何か釈然としない。寸法のあわない穴にボタンを無理やりねじこんだような。
「下へもどりましょう、ここは風が強いわ」
 ユースタスが背をむけた。また風が吹いて、肩をおおっていた髪が持ちあがった。ドレスの背中のボタンが一つ、取れかかっている。ほつれた糸の先でぶらさがっている。ユースタスが歩き出し、ボタンも揺れる。陽の光にガラス製のボタンが煌めく。
 結局ゾフは見つけられず、ネラに罪を白状させることもできなかった。知りたい真実は何一つ得られず、疑問ばかりがふえてゆく。グロットーの鍵穴につめものをしたのも、園丁を殺したのも、バートルの舌を切ったのも、ネラの仕業ではなかった。ネラの知らないところで起こったことだった。ネラ以外に僕らの邪魔をする者がいるっていうことか? いったい誰が? 何の目的で? ヒューが消えたのもそいつのせい?
 前を歩くユースタスの背中から、とうとうボタンが落ちた。黙って拾って、そのまま握りこむ。ガラス製のボタンが手の肉に食いこんで痛い。
 マミーリアがユースタスを魔女と呼んだことに、とくに意味はないと考えていいのだろうか。病で正気を失って口走っただけなのだろうか。そう思いたい。思いたいのに、違うと、これにはきっと裏があると、疑う自分がいる。
 なんてことだ、ユースタスを信じられないなんて。
 だって、なんといってもユースタスはネラの娘だ。ほんとは僕の敵なんだ。だからネラをかばってるんじゃないのか? ネラのことも、〈呪い〉病に侵されたのではと云ってたくせに、今度はただの熱病だなんて、誤魔化しているとしか思えない。疑念が次から次へと湧いてくる。
 しかも、これだけではなかったのだ。このあと僕はさらに混乱の渦に呑まれるようなことを目撃してしまったのだ。

 その物音に気づいたのは眠れなかったからだ。夜ふけだった。月明かりが青く窓から射していた。
 足音が廊下をやってきた。最初はヒューかと思ったんだ。ヒューがやっと帰ってきたんだと。
 でもすぐに違うと考え直した。歩いているのは体重のもっと軽い、歩幅も小さい人物だ。たぶん女だ。それに忍び足になっている。ヒューだったらコソコソする理由はない。
 そっと扉をあけ、首だけ出して覗いてみた。廊下は闇に沈んでいるが、等間隔にならんだ窓が仄かな明るみとなっている。ちょうど僕の部屋の前を通りすぎたばかりだった。蝋燭も持たずに歩いてゆく。やはり女だ。
 ネラ? と思ったのは、その後ろ姿が両手で盆を持って運んでいるようだったからだ。夜中に喉が渇いた御主人様のために、お茶のセットでも用意してきたように見えたんだ。けど、それなら奉公人専用の裏階段を使って直接部屋へ入ればいい。それにネラは長身だ。人影のほうはあんなには背が高くない。
 窓際を通りすぎた一瞬、その背中がおぼろげに照らし出された。見覚えのあるドレスだった。そしてなにより決定的だったのは、ボタンが一つ、ない。ほつれた糸だけが残ってぶらさがっている。なくなったボタンは僕が持っている。昼間とれて落ちたのを拾ったのだ。
 ユースタスか。
 ユースタスが立ち止まったのはエリザベスの部屋の前だった。ノックはせず扉をあけて中へ入る。
 なんだ、ユースタスが母親に飲み物を持ってきたのか。僕はベッドにもどった。けれどますます眠れなくなった。母親を軽蔑すると憎憎しげに云ってたユースタスが、その母のために夜中にお茶を運んでる。憎んでも憎みきれないのが親子なんだろうか。でも本来なら僕だったんだ。僕がああやって甲斐甲斐しく世話をするはずだったんだ。
 闇を睨んで寝返りを何度も打ち、それでもそのうち眠ってしまったんだろう。僕を起こしたのは、寝室の外から聞こえてくる騒ぎだった。
 すでに朝だった。泣き叫ぶ声とそれを叱りつける声。廊下を走って行き来する足音。急いで服を着て廊下へ出る。
 エリザベスの部屋の前で小さいほうと呼ばれる下女が座りこんでいる。扉は大きく開かれ、下女は泣きわめいている。両手で髪をかきむしり何かを訴えるがまともな言葉にならず、もどかしげに今度は指をさし金切り声をあげる。指さした先は部屋の中だ。
 まさか母に! 
 駆けつけると部屋の中央にネラがいた。突っ立っていた。母はベッドの中だ。朝陽が色白の顔とやわらかなおくれ毛を輝かせている。胸のあたりの上掛けが規則正しく上下している。よかった、眠っているんだ、無事だった。
 が、そこに、ぞっとするものがあった。ベッドサイドの小卓に乗っかっている。
 首だ。
 ゾフだ。ナサニエル・ゾフの首──
「な、なんでこんなものが──」
「わかりません、奥様がお目覚めになるまえに早く片付けませんと」
 ネラも動揺していた。奥様の朝のお支度を手伝おうとやってきた下女が見つけて騒ぎ出し、ネラも駆けつけたところだという。下女に首を運び出せと命じるが、当の下女は腰を抜かして泣きわめくばかりだ。
 そんな騒ぎをよそにゾフの首は悠然と沈黙している。
 眼は閉じられていた──神よ、感謝します!──。唇はどういった加減か片端がつりあがって微笑んでいるかのようだった。呪わしい病からやっと解放されて喜んでいるんだろうか。もともと病み衰えて死んだように生気がなかった肌は、実際に命がすっかり抜けてしまった今、かえって艶を帯びて透きとおるような清潔ささえあった。しかしそれは蝋細工の美しさと変わりなかった。それとは裏腹に、切断された首の切り口のギザギザがなぜだか生き生きとして見える。
 そして騒ぎに無頓着なもう一人、エリザベスは、枕もとから生首に眺めおろされながらすやすやと眠りつづけている。
「阿片チンキのおかげでございます、夕べおすすめしてよかった」
「夕べ? じゃあ夕べからずっと眠っているのか?」
「弱った精神には安らかな睡眠が一番の薬ですから。阿片チンキをお飲みになったら奥様は、翌朝わたくしどもがお起こしするまでぐっすりです」
 では、なぜ夜中にユースタスはお茶を持ってきたんだ。いや、エリザベスが阿片を飲んでいたと知らなかっただけだろう。でも、あれを見ろ。ゾフの首が乗せられている物! 盆だ。盆の上に首は立てて置かれて、まるで供物のようじゃないか。昨夜、廊下を歩いていたユースタスも、盆で何かを運んでいた。盆に何が乗ってたんだ、お茶のセットではなかったのか?
「なりません!」
 ネラが扉にむかって叫んだ。いつ来たのかユースタスが立っている。ドレスが夕べと違う。
「入ってはなりません、見てはなりません」
 もしゾフの首をここに持ってきたのがユースタスなら、どうしてそんなことをする?
 でもユースタスは母親のエリザベスを嫌っていた。憎んでいたといってもいい。ガルトムーア・ホールで人間の生首ほど嫌がらせに最適なものはないだろう。だけど、いくら嫌いでもそこまでするだろうか。ひとをさらって殺して、切断した首を母親の枕もとに置く、それこそ魔女の所業じゃないか。
「幸い奥様はご無事です、よく眠ってらっしゃいます、ですからお嬢様はご自分の寝室におもどりください、こんなもの、お嬢様のお眼に触れさせるわけにはまいりません」
 ユースタスが踵を返した。何も云わずに、何が起こったかも確かめようともせずに。

 この騒ぎのせいで朝食の時間が遅れた。食欲などなかったけど朝食室へ行ったのは、ユースタスが気になったからだ。
 すでにユースタスは席についていた。ネラも給仕をしていた。エリザベスはもとから滅多に家族と食事をともにしない。姉二人は病床の身、ヒューは行方不明のまま、こじんまりした朝食室が広く感じられる。
 僕が座ると朝食がはじまった。喋っているのはネラだけだった。
 奥様はお起こしせずにおきましょう睡眠ほどよく効く薬はないと申しますからね、下女が減ってしまいいきとどかないところもおありでしょうが今しばらく御辛抱くださいましね、なにわたくし一人でもあなた様がたのお世話くらいは充分にできますよでなくて女中頭など務まるものですか、今朝ほどのあれもわたくしがきれいに片付けておきましたのでどうぞご心配なく、ポーチドエッグの堅さはいかがですか、そうそう先ほど巡査が知らせにまいりました死体が見つかったそうですこのガルトムーア・ホールからそう遠くない川辺だそうですなんとその死体には首がなかったというのですよ恐ろしいこと、卵の具合はいかがですか。
 ゾフの死体の異常な状態での発見を、卵の湯で加減と一緒に話している。その手が震えている。持った皿がテーブルにあたってカタカタいうし、パンも転げ落ちる。拾おうとするが手の痙攣がさらにパンを跳ね飛ばしてしまう。なのにネラの口調はあくまで快活で、動作はやけに楽しげだ。
 そんな気味悪いふるまいが目の前でつづけられているというのに、ユースタスは何も云おうとしない。
 ユースタスがスプーンの先でポーチドエッグを破った。湯で加減は完璧で黄身がどろりと出てきた。が、黄身に血が混じっていた。血は糸のように細くのびて、黄身とともに皿の上を流れて汚した。
 あっと思わず僕は声を出しそうになった。知ってか知らずかユースタスが、黄身をすくって食べた。

スワン2 これこそが真の呪いなのかもしれない

 大地は明るくのびやかに広がっている。テムズ川もきらめきながら流れてゆく。あの流れに身をまかせたらロンドンまで行けるだろうか。生垣のサンザシは今年も可憐な花を咲かせているが、棘のある枝は農地をきっちり区切って牛を逃がさない。 
 来る日も来る日も干し草刈りをしている。
 そのまえは大麦の種蒔きだった。そのまえは冬の仕事である脱穀だった。秋はひたすら鋤で土を耕し、夏の収穫期は数週間ものあいだ鎌を握りつづけ手のまめがつぶれた。そして一年前の春も今と同様に干し草つくり。
 こんなことなら家事使用人になるべきだったか。
 生家を焼かれ命からがら逃げ出し、何ヶ月かの放浪のすえスワンがたどり着いたのがこの荘園だった。ちょうど牧草の刈り入れ時期で手の足りぬときだった。いっぽう屋敷でも台所の下働きをする女中を探していた。スワンは野良仕事を選んだ。鍋磨きだのジャガイモの皮むきだの冗談じゃない、わたしは一流の料理人だ。そんなつまらぬプライドなど捨てておれば、今ごろは雨風のあたらぬ台所で、残り物とはいえ充分に食べることだってできただろう。
 しかし、プライドよりなによりスワンの目的は、呪いの種をふたたびつくることだった。火事から持ち出せたのはたった一つ、白金のフォークだけだ。だが、それさえあれば新たな呪いの種をつくることができる。しかしそれには苗床が必要だ。苗床にはぜひとも人間を使ってみたいが、今の状況では難しい。だけど牛ならどこの農場でも飼っている。
 目論見どおり畑仕事のないときは牛の世話をさせられた。スワンはフォークを使って、手当たり次第に牛たちに呪いの種の仕込んでいった。あとは待つだけ。ひたすら待つだけ。しかしその待つ時間がどうしようもなく長いのだった。あらぬ考えがよぎる。ひょっとしたら失敗かもしれない。呪いをより確実にし、発現までの期間を少しでも短縮しようと、スワンが開発したのがこの白金のフォークによる方法だったが、それとて完璧ではない。そもそも先祖から代々伝わってきたこの術自体が、元来そういう性質なのか、手順、分量を正確になぞっても、効き目にむらがある。
 ゾフが首を持ってきたあのとき問題なく受けとれていたなら。そうしたら家を焼かれることもなかった、研究をつづけてこれた、父親だって無駄に死なせたりしなかったのに。待ちあぐね、そんな仕方のないことばかりが頭に巡る。白金のフォークがあるとはいえ、これでは一からやり直しだ。いや、それどころか種は二度とつくれないかもしれない。
 無益な思考は刈っても刈ってもきりのない干し草と同様だった。もう、うんざりだ。視界の端にイヌの姿が映る。イヌは黙々と大鎌をふるっている。無知で向上心のかけらもない、土を掘り返すしか能のない農夫たちに混じって、嬉々として励んでいる。無性にスワンはイヌを鞭で打ってやりたくなった。
「スーザン」
 自分の名を──たとえ気に入らぬ名のほうであっても──呼んだその穏やかな声音に、スワンはこころならずも胸がときめいた。振りむくまえに汗をぬぐうふりをして、頬をつねって血色をよくする。
「スーザン、今日こそはよい返事をもらうつもりだよ」
 ロバート・クレメンタインは好男子だった。鷹揚で気取りがなく、一番の美点は気前がよかった。ここの荘園の持ち主のような財産家ではなかったが、父親はこの村の牧師で、ロバートも聖職につくことになっていた。彼は四男であったから父の地位を引き継ぐことはできない。けれども幸いにもここから五十マイルほど北の教区で牧師職に登用された。
 聖職禄を得たら次に持つべきは家庭だった。ロバート・クレメンタインはスワンに求婚した。今日ここに来たのもふたたび結婚を申しこむためだった。最初の一回で求婚が受け入れられなくても諦める必要はない。拒絶は婦人のたしなみなのだ。断られたことによってかえってクレメンタインは、スワンの身分はやはり労働者などではなく、自分とつりあうだけの家柄の娘だと安心したのだった。
 実はわたしの出自は、所領こそ少ないが由緒あるウェールズの名家で、お隣のヘレフォード州のゾフ家とも姻戚関係にあります、とスワンはでまかせを語っていたのだった。わたしがさるかたとの結婚を拒んで逃げ出したせいで実家は没落してしまいました。その罪を償おうとこのように農婦に身をやつしているのです──。牛どもに呪いの兆候は現れない。畑仕事は辛い。なによりいつまでつづくかわからぬ単調な日々が耐えがたい。クレメンタインについた嘘は、はじめはスワンの気晴らしだった。やがてクレメンタインとの交流がささやかな慰めとなった。彼はスワンの荒れた手のために、蜂蜜とオイルと香草を練ったクリームを持ってきてくれた。手荒れよりも空腹のほうが深刻だったのだが、食べものの贈りものはなかった。彼のその鈍感さが好ましかった。パンなど恵まれでもしたらスワンの誇りが血を噴き、憎悪に煮えたぎっただろう。
「クレメンタイン様、何度も申しあげましたが今一度申しあげますわ。わたしの気持ちは変わりません。あなた様からの申し出は光栄に思っておりますし、これがわたしのようなものにはもったいないほどの幸福をもたらす、またとない機会だということも充分に理解しております。そしてわたしへのあなたのまごころに、どれほど言葉をつくしても感謝を伝えきれるものではありません。けれどもわたしは罪を背負っているのですわ。両親を奈落に落としてしまったわたしは、この罪を一生償ってゆくつもりなのですわ」
 淑女ごっこは中々に楽しい。クレメンタインったら、感じ入ったと胸に手をあてため息までついている。
「スーザン・ネラ、あなたはやはり思ったとおり素晴らしい女性だ」
 ネラは偽名だ。この荘園に潜りこむときに使った。
「あなたは今も、はじめて会ったときも、こんなに土まみれだけれど、気高さは隠せない。姿ばかりでなく精神が美しいんだ」
「そんなふうに褒められてこころを動かさない女性がもしいたとしたら、きっとそれは魔女でしょうね」
「魔女? 面白い云いかたをするね、それもウェールズ流の冗談?」
 スワンはこころから笑った。クレメンタインも嬉しそうに頬をほころばせた。これほど明るく、屈託のない頬笑みをスワンは見たことがなかった。彼はわたしを美しいと褒めそやすけれど、彼こそ美しいひとだ。見た目だけでなく、無垢なこころが美しいのだ。
 おそらく女として真の幸福とは、身分でも財産でもなく、まさに目の前にいるこのひとの妻になることだろう。二人の住む牧師館は小さすぎず大きすぎず、家具はつりあいがとれ調度品も品のよいものばかりだろう。庭には四季の花が植えられ、菜園にはラディッシュ、ニワトリは毎朝ちょうどいいだけの数の卵を産むだろう。卵は陽気で働き者の女中の手によって、これまたちょうどよい固さのポーチドエッグになるだろう。それらすべてが、主であるクレメンタインのひととなりの反映なのだ。
「あと何度愛をささやけば、あなたは僕の申し出を受けてくれるだろう」
「あなたの愛の言葉が品切れになるまで、あるいは、あなたの忍耐がつきるまで」
「困った、それでは永遠に結婚できないぞ、ことあなたに関しての僕の忍耐は限界がないし、愛は無尽蔵だ!」
 大袈裟に頭をかかえてみせるクレメンタインに、スワンは日々の憂さをすべて忘れた。
いっそ、もう、イエスと云ってしまおうか。
 そうして晴れて牧師夫人となり、こことおなじような片田舎の教区へ移って静かに暮らすというのはどうだろう。夫に守られる人生、干し草など刈らなくていい、ひとに使用されるのではなく使用する側の身分。でもときには正餐は自分で腕をふるってもいい。クレメンタインはきっと感激するだろう。慈しみ育てるのは二人のあいだにできた子どもだ。いつまでたっても芽生えそうにない呪いの種ではなく。
 スワンはしみじみとクレメンタインを見つめた。
 彼の青い瞳はスワンへの思いに温かく輝いていた。
 幸福と平穏を約束する輝きだった。
 だがそのとき、牧草地を横切る影があった。血相を変えて走っていた。帽子が飛んだのにも気づかない。牧童頭だった。
 牧童頭は家畜小屋のほうから来て、まっしぐらにお屋敷へむかってゆく。家畜小屋では農夫たちが騒いでいる。お手上げだと首を振っているものもいる。
 スワンは歩いていって落ちていた帽子を拾った。牧童頭は屋敷の主人へ悪い知らせをとどけにいくのだろう。それはスワンにはいい知らせだ。待ちに待った知らせだ。
 家畜小屋の牛たちにどのような異変が起こっているのか、スワンにはありありと思い浮かべることができた。まず、乳を搾ろうとしたら大人しいはずの彼らが、いきなり蹴るか噛みつくかしてきたのだろう。そうかと思えば、何かに見入ってぴくりとも動かないものもいるだろう。あるいは自分の皮膚がすりきれるまで体を舐めまわし、またあるいは酔っ払っているかのようにふらふらし、中にはまったく立てなくなり、横たわった体がたえず痙攣しているものもいるかもしれない。
 牧童頭が主人にこう叫ぶのが聞こえるようだ。旦那様、牛が狂っちまった!
 いよいよ胸が高鳴ってくる。笑いを噛み殺すのに苦労した。それでもこらえきれず、帽子に顔を伏せて隠した。
 それをクレメンタインは怯えと誤解したらしい。何ごとかはわからぬが突然の異常事態に、最愛のひとが可哀相にこんなにも不安がっていると。
「どうかそのように震えないでください、どうか思い出してください、ここに僕がいることを、あなたをお慰めするためにはなんでもする覚悟がある、この男の存在を」
 スワンは帽子から顔があげられなかった。
 早く去れ、愚か者め。とっとと消えて、わたしをこころゆくまで喜びにひたらせろ。

 その朝、スワンは家畜小屋の中で立ちすくんでいた。
 牛がいない、一頭も。
 牛舎は空っぽだった。昨晩までここに計十四頭の牛がいて、うち二頭はすでに立てなくなっており、ほかにも始終体を舐めたり壁にこすりつけたりしているのが四頭はいた。スワンの計画は順調に進んでいた。だが今朝、両手に飼葉桶をさげやってきたスワンが見たのは、もぬけの殻となった牛舎だった。
 牧童頭が入ってきた。呆然と立ちつくしているスワンに云った。牛ならすべて売り払われたぞ。まだ暗いうちに買い手がひきとっていった。
 どうしてなの! スワンの声が高くなった。
 異常をきたした牛が売却処分となることは当然予想していた。だがそれはもっとあと、最後の手段だろうとスワンは予想していた。しばらくはようすを見て原因をさぐり、餌を変えたり煙をたいてたかっている虫を退治したり、治療を試みる。そうこうするうち努力のかいなく最初の一頭が死ぬ。その牛は痩せ細ってしまっているから売り物にはならない。だが残った牛たちはまだ間にあう、売れるうちに売ってしまえとここでようやく売却にかかる、というのがスワンの描いていた筋書きだった。現にかつてスワンの父親が、呪いの種の苗床として家畜を仕入れていたとき、取り引き相手の農場のいずれもが、病気が出たりするとそんな調子だった。
 そして最初に死んだ一頭は買い叩かれるくらいなら自分らで食べる。この荘園のように多くの作男をかかえている農場なら、主人の腹の太いところを見せ、一頭丸ごと奉公人にふるまってやる場合もある。痩せて不味い肉でも彼らには滅多に口にできない御馳走なのだ。
 そのときにこっそり牛の頭から、呪いの種をとり出そうと思っていた。
 なのに、一頭残らず売り払ってしまった? 計算を誤った──!
 すると牧童頭が教えてくれた。農場主が牛を急に始末したのにはこういうわけがあった。
 噂だよ。おまえさんがここに来る五年ほどまえかな、農場(ここ)の若旦那が女を捨てたんだよ。その女ってのがフランス貴族の未亡人だって話だった、亭主に死なれて故郷の国に帰ってきたってわけだな。フランス帰りの洒落た女に若旦那は一時はぞっこんだったが、結婚相手として考えてみると年増女はふさわしくねえ、ってゆうよりキャラコで大儲けした船主の、もっと若い娘との結婚話が持ちあがったんだ。それが今の奥様で、その結婚のおかげで農場の土地は倍に増えたってわけだ。
 未亡人のほうは結局この地を去ったが、若旦那との別れ話の際はたいした修羅場を演じたらしい。豹変して手当たり次第投げつけて、考えられるかぎりの呪いの言葉を吐いたとか。それがフランス語だったもんで若旦那には禍々しい呪文に聞こえたんだろう、真っ青になって帰るなり寝こんじまった。そんなこともあって未亡人は魔女だったんじゃないかなんて云うやつが出てきた。もともと未亡人は奇異な眼で見られてたんだ、この田舎じゃフランス帰りのいでたちは派手すぎたし、あちらのお上品なふるまいも珍奇にしか映らないからな。で、今度のことはその魔女の仕業じゃないかって噂が立ってるんだよ。あのフランスから来た魔女が農場の牛に呪いをかけたんじゃないかって。まあ、噂だがな、なんのこたあねえ、農場でこきつかわれて、憂さ晴らしに一杯やりながら面白がって立てる噂よ。だが若旦那はすっかり怯えちまったらしい、仕方なく主人も売り払う決断をしたってわけよ。
 噂──
 またもや噂がわたしの邪魔をした。キリキリとスワンは唇を噛んだ。
 で、この話の教訓はよ、と牧童頭が近よってスワンの手から飼葉桶をとった。
「女の気持ちをけっしてムゲにしちゃなんねえってことだ。だからおれはムゲにはしねえよ、おまえさん、おれの帽子拾って、ほら、牛がおかしくなった日だよ、顔うずめてただろ?」
 逃げたが遅かった。手首をつかまれ、ぐいと男のほうへ引きよせられた。腰に腕をまわされる。顎もつかまれる。
「叫んでも誰も来ねえよ、世話する牛がもういねえってほかのやつらには教えといたからな。おまえだけ伝えなかった、おまえはいつも熱心に牛の面倒を見てたからなあ、今朝も一番にここに来ると思って待ってたんだ」
 顔がかぶさってきて唇を押しつけられる。ヤニと腐った野菜屑の臭いに吐きそうになる。藁の上に押し倒された。手のひらがスワンの乳房をつぶした。爪がスワンの内腿をひっかいた。苦痛はあったが終わってみればあっけないものだった。血は藁に吸われ痕跡は残らなかった。
「女が独り身でいるとろくなことがねえ。なに大丈夫だ、これからはおれが守ってやるさ、おまえはもうおれの女房だからな」
 服を整え、スワンを見おろしながら男は云った。
 牧童頭はさっさと出ていってしまい、スワンが小屋をあとにしたのはそれからしばらくしてからだった。陽射しが眼にしみた。干し草刈りをしている男女の声が遠くに聞こえていた。農場の一日がはじまっているのだ。あの男と夫婦になることについて考えた。思い浮かんだのは、はてしない牧草地だった。自分一人で刈っていた。永遠に終わらない干し草刈りだった。
 歩くとまだ痛い。
 あっとなってしゃがみこんだ。また出血したのだ。スカートの中で足を熱いものがつたってゆく。もう少し小屋でじっとしているべきだった。
 牛は今どこだろう。買いとったのは誰か、どこへ運ばれていったのか、一頭だけでいい、いや頭だけでいい、なんとかとりもどす方法はないか。そんなことをじっとしゃがんだまま指で唇をこすりながら考えていた。男に皮がすりむけるほどキスされた唇だ。
 肩に不意に触れてきた。スワンは飛びあがって逃げた。
「驚かせてしまった?」
 立っていたのはロバート・クレメンタインだった。
「ひどく具合が悪そうだったから」
 スワンは背をむけた。駄目だ、牛はとりもどせない。なにもかも無駄になってしまった、なにもかもおしまいだ。血が足のあいだにまだ流れつづけている。女のスカートがなぜ地べたにとどくほど長いのか、理由がわかった。
「スーザン、畑仕事や家畜の世話や、君にはやはり無理だよ。本来、君がやるべき仕事ではない。君のご一族へ償おうとする決意とその行動は立派だ。だけどこんなに疲れて辛そうな君をもう黙って見ているわけにはいかない。僕はどうしても君と結婚する。スーザン、これは命令だ、僕と結婚なさい。僕に従いなさい、どうか後生だから」
 スワンは背中で感じとった。命令と云いつつクレメンタインは跪き、懇願しているのだ。
 なぜわたしは涙を流しているのだろう。
 この涙と、足のあいだの血と、どちらがより熱いだろうか。
 スワンは振りむくと、クレメンタインのさし出している手に自分の手を置いた。

 三年ぶりに会ったナサニエル・ゾフは、入ってくるなりスワンを抱擁し、両頬にキスをした。そしてにやにや笑いながらおめでとうと云った。
 スワンはひと睨みし、だけど頬が恥じらいに染まっているのを自覚せずにはおられなかった。できればゾフ抜きですませたかった。だが立会人に駆けつけてくれる従兄妹の存在は、スワンの身許の確かさを決定づけるはずだ。新生活を脅かす影は可能なかぎり遠ざけておきたい。それにゾフなら知っているだろう。たとえば娼婦が客を喜ばすために純潔のしるしを偽装する方法を。結婚式はつつがなく終わった。
 クレメンタインが牧師に任命された教会区は美しかった。農地が陽射しを浴びて広がり、ミツバチがものうげに唸り、揺れる野薔薇の香りは甘い。牧師館は思った以上に大きな屋敷で、五百エーカーもの土地もついており、そのほかにクレメンタインは三百ポンドほどの年収もあったから、難なく女中を二人雇えた。
 自分たちの庭園や森への小道を二人で散歩するのが夫婦の日課であった。教会での仕事がなく牧師館にいるとき、クレメンタインは調べものや書きものをしていた。ときにはスワン相手に日曜の礼拝で行う説教の予行練習をした。スワンは椅子にゆったりと座って眼を閉じて、彼の温かみのある声に聞き入るのだった。
 自分にこのような穏やかな時間が持てるとは思ってもみなかった──。

 もう二度とクレメンタインは床から起きあがれない。寝台が柩にかわる日も遠くないだろう。
 落ち窪んでしまった眼が異様にぎらついている。けれど空中のどこを見ているのかわからない。右眼と左眼と、てんで勝手なほうを睨んでいるのだ。頬はそげ、顎はとがり、皮膚は乾ききっている。絶望に蝕まれ頭髪はほとんど白くなってしまった。衰弱した体は一回りも二回りも縮み、シーツの下でたえずガタガタと震えている。暖炉は赤々と燃えているというのに。
 震えからはじまったのだ。災厄はある日突然、震えとともにやってきた。聖書の語句をさす指がどうしても定まらなかった。眼球も痙攣し、揺れる瞳はやがて左右別々の方向へ流れた。そうして今となってはその震えがクレメンタインの生の証だ。さながら命の蝋燭の炎の揺れのように。炎がひときわ大きく燃えるときがある。それはクレメンタインが唐突にあげる叫び声で、まだ死んでいないと訴えているようだが、スワンの観察したところ意思とはまったくの無関係の現象なのだ。
 スワンは献身的に介護した。女中たちには寝室に近づくことさえ許さなかった。夫には感謝している。彼の愛は本物だった。およそ二年間の結婚生活はこのうえなく幸福だった。このまま牧師の妻として終える一生を本気で願ったほどだ。
 あれは三月ほど前だった。上流の家どうしの社交生活に新しい顔が加わった。貴族との結婚を控えているという娘だった。嫁ぎ先は遠くヨークシャで、いったん旅立ってしまえば容易には会えないだろうからと、別れの挨拶をかねて親戚の家を滞在してまわっている最中だそうだ。
 人目をひく繊細そうな顔立ち以外、さして取り柄のなさそうな娘だった。おつむも弱そうだった。ごたいそうに付き添い人(シャペロン)がいた。こちらは肉付きのいい、声が大きくてがさつな女だった。仲のよい従姉妹で姉がわりというふれこみだったが、おおかた当たり籤を引いたエリザベスのおこぼれにあずかろうと、ついてまわっているのだろう。
 エリザベスにとって牧師夫人はやさしく頼りになる相談相手だった。身勝手な従姉妹と違って、それこそ姉のような存在となった。エリザベスは打ち明けて嘆いた。ヨークシャには友達どころか知り合いさえいない。しかもガルノートン家の城はえんえんと広がる荒野のど真ん中だと聞く。玉の輿だとみなはうらやましがるけれど、伯爵夫人といっても自分は後妻で、おまけにいきなり四人の子どもの母親になるのだ。せめて嫁ぎ先が賑やかな都会だったらよかったのに。田舎は厭。田舎は寂しすぎる……
 辺鄙な地の貴族の舘。広大な領地に自由にできる家畜。おいそれと庶民の近づけない城。これほど研究に最適な場があるだろうか。
 しかし、スワンを呪いの研究に引きもどしたのは、エリザベスの登場ではない。それよりももっと以前にスワンは、クレメンタインの体内へ呪いの種の仕込みをすませていたのだから。
 ロバート・クレメンタインの求婚を承諾したのは、彼を実験に使おうと考えてのことだったのか。こたえは、否。では、いつからそんな考えになったのか。こたえは、わからない。ともかく幸福と退屈は同義語なのだ。
 あるいはクレメンタインが虫歯の痛みを訴えなかったら、牧師夫婦は仲睦まじくそいとげたかもしれない。けれども彼は頬を押さえてことさら悲愴な顔をして見せた。妻に甘えて子どもみたいに、ねえ見ておくれよ、あーん。
 しばらくじっとスワンは夫の口の中を覗いていた。
 あのね、わたしの生まれ育った地方に虫歯に効くおまじないがあるのよ。スワンが持ってきたのは革袋だった。鍋つかみくらいの大きさで念入りに二重になっている。中から出てきたのは白金のフォークだ。
「へえ、いかにも効きそうだ」
「ええ。よく効くのよ」
 スワンはクレメンタインにふたたび口を大きくあけさせた。「動かないでね」上顎を刺す。痛っ、とクレメンタインは飛びあがった。口をぬぐった手に血がついた。
「大丈夫よ、痛みも虫歯もそのうち気にならなくなるから」
 ええ、ほんとうよ、そのうちそれどころじゃなくなる──。スワンはフォークの歯に流れるクレメンタインの血を、布で丁寧にふきとった。
 呪いの種を金属に宿すことができるとスワンが発見したのは偶然だった。あれはスワンが呪術の依頼者の家に料理女中として入りこみはじめたころだ。
 種をパイ皮でつつみオーブンに入れ火加減を覗いていると、かがんだ腰に飛び乗ってきたものがあった。そこのお屋敷の飼い猫だった。御主人たちの前では喉を鳴らして愛想をふりまくが、使用人の皿ばかりを狙って盗み食いをする性悪猫だ。生意気にも首輪は絹のリボン、イニシャルをかたどったチャームをこれみよがしにキラキラさせている。
 スワンは背中に腕をまわし猫をつかまえようとした。猫はするりと逃げ、スワンが背を起こすと肩までのぼり、追う手をすり抜け右肩から左へ、頭へと、からかうかのよう逃げる。パイと一緒に焼いてやろうかと毒づいたときリボンに触れた。ぐいっと引いたら猫は飛び去り、リボンがスワンの手に残った。カチャンといった。リボンがほどけた拍子にVの文字のチャームが飛んでいって、どこかに落ちたのだ。舌打ちしてスワンは探した。だがどこにも見あたらない。猫もいなくなった。パイが焼けた。スワンはリボンをオーブンの火に投げ入れた。
 ところが無事に仕事をやり終え、ボウルに残ったパイの具を始末していたら、中からチャームが出てきたのだ。煮沸してからブラシで洗ってきれいにしたが、さてどうしようか。標的の人物はパイをたいらげたというからスワンは明日にも暇乞いをするつもりだ。正直に返すか、それとも売り飛ばして小遣いの足しにでもしようか。思案しながら金属の文字を眺めていたら、いきなりつかみとられた。仲間の女中だった。スワンよりずいぶん年上なのに身分は皿洗いと格下で、日頃から何かと嫌がらせをしてきたこの女中は、ニヤニヤしながら、あたしがいただいとくよ。
 それならそれでかまわないと、スワンが相手にしなかったのが気に食わなかったらしい。盗んだんだろ、いいつけてやるから覚悟しなと脅してくる。違うと云っても聞かず、証拠はこれさと憎たらしくきらきら光るVを突き出して見せる。奪い返そうとのばしたスワンの腕をかわし、ぱくりと口に入れてしまった。おまけに目玉をむき出し手をひらひらさせて挑発するから、つい追いかけまわすことになり、そしたらそのうち女中が勝手に転んだ。口から血の混じった唾液とひん曲がったVの字が吐き出された。
 一年ほどたってからだ、スワンのもとに──正確にはスワンの父親のもとに──皿洗い女中を呪えと依頼した覚えはないとクレームがとどいたのは。
 スワンだってあの女中にパイを食べさせた覚えはない。女中が食べたのは、いや、口に含んだのはVの字のかたちをした金属だ。金属は呪いの種に浸かっていた。女中は転んだ拍子にそれを噛んでしまい、口の中を切った。種が金属にまだくっついていたのか? いや、煮沸までして念入りに洗ったはず。だがしかし、現に女中は呪いに侵され、しかも進行が、パイを食べた本来の標的よりも早いではないか。このときからスワンの研究に、また一つテーマが加わったのだ。どうやら呪いの種は冷たくて硬いゆりかごがお好みらしい。
 ほんとうに夫には感謝してもしきれない。寝台によりそって座り、スワンは臥している彼を見つめた。
 クレメンタインは伴侶としてばかりでなく、苗床としても最高だった。かつての皿洗い女中は異常が現れるまで一年かかったが、夫は半年も待たせなかった。そしてスワンがかねてから望んでいたように、呪いの進行するさまをつぶさに観察させてくれた。
 クレメンタインの、右と左でべつの何かを凝視していた眼が、わずかに動いた。唇が小刻みに動く。いつもの震えなのか、それとも云いたいことがあるのか。だが次の瞬間口から飛び出してきたのは笑い声だった。薄暗い寝室に虚ろに響く。
「そう、水が飲みたいのね」
 スワンはやさしくこたえた。
 クレメンタインの胸もとに布を置き、お椀に入れておいた水をスプーンですくって彼の唇へ持っていった。注意深く傾け、少しずつ流しこむ。その手は手袋をはめている。皮製と布製と二重にだ。
 父親の二の舞はご免だった。油断は禁物、呪いの種はしぶとく狡猾だ。思いもよらない方法で入りこんでひとの体に巣食うのだ。父親は火事で焼け死ぬまえ、すでに体内に呪いの種が育っていた。呪術を素手で行った結果だ。血に汚れた手を洗いもせず酒をあおっていた。スワンの母親の死も原因はおなじだろう。母親は父親の助手をしているうち、呪いの種が体に入りこんでしまったのだ。お祖父さんの代も、ひい祖父さんの代も、みなおなじ死にかただったと聞いた。それなのに両親はもっとも危険だと思われる、苗床から呪いの種を抜き出すときでさえ、手袋を使おうなどとは考えもしなかった。どうしようもなく愚かなひとたち。それでもあの火事のとき、父親の死体さえ無事だったら、せめて斧の一本でもあって頭部だけでも持ち出せていたなら、あんな愚かな親でも役に立っただろうに。
 夫の瞳が潤んでいる。左の眼は見当違いのほうを見ているが、右の眼はスワンをとらえているようだ。その眼から涙がひと筋流れた。
「泣かないで、あなた……」
 スワンの胸もしめつけられた。ほんとうに、このひととともにいつまでも暮らしていけたならどれほどよかったか。
 これこそが真の呪いなのかもしれない。
 平穏で幸福な生活が目の前にあるというのに、研究を極めたいと思ってしまう。せっかく巡り会えた愛するひとよりも、研究を選んでしまう。これがわたしにかけられた呪いなのかもしれない。
 立ちあがり窓辺へとよった。窓は分厚いカーテンがしめられている。スワンは夫の状態を極力隠した。妙な噂をたてられるのを恐れたのだ。噂には何度も痛い目にあわされている。
 カーテンのあわせ目に指をさし入れる。隙間からイヌと牧師補が庭先で話しているのが見えた。牧師補は神についてでも説いているのか熱心に語りかけている。イヌは地面に立てた鋤の柄に頬杖ついて聞き入っている。
 結婚するとき外回りの下働きでもさせようとイヌもつれてきた。牧師補は職務をはたせなくなったクレメンタインの代理だった。どういう理由からか親から譲られた聖職禄をわざわざ手放して、牧師補に身分を落とした男だった。スワンは牧師補とは会っていない。牧師様はとてもひと様の前に出られる状態ではなく奥様も看病にかかりきりですと、女中に面会を断らせた。これからの計画を考えてのことだ。
 だからスワンのほうもあの男の顔は見ていないが、遠目でもわかる。聖人ぶっているが牧師補とイヌは同類だ。卑屈者どうし気があうのか、なにやら楽しげではないか。
 イヌったら、すっかり気がゆるんでしまっている。計画を進めるにあたってまだ幾つも難題を片付けねばならぬというのに。
 今夜あたり久しぶりに鞭で打ってやろう。献身的な妻の仮面にも飽きてきたところだ。いい気晴らしになるだろう。

 とはいえ、今後のことを考えると、満足のいくまでいためつけるというわけにはいかなかった。イヌがひいひいとみっともなく泣き出したところで鞭を置き、スワンは用意しておいた衣裳をほうってやった。スカートとエプロンにイヌは困惑の眼をあげる。
 いい? これからおまえは女中になるのよ。さあ着てごらん、早く! ぐずぐずしないで早く!
 襤褸から女中の服に着がえても、やはりイヌはイヌだとスワンはかぶりをふった。腰のしぼられた服に居心地悪そうに身じろぎし、スカートは寸足らずで足がにょっきりと出ている。
 おまえ、もっと小さくなれないの、せめてボンネットを深くかぶってそのみっともない顔をお隠し。
 イヌが背中を丸め、のろまな手つきで帽子も直す。スワンは頷く。まあこれなら下女くらいには見られるだろう。
 歩くときも静かにね、どたどたするんじゃないよ、おまえは旦那様のお世話をするのだからね。
 イヌの眼が見開かれた。堪忍してくださいと首と手を振って懸命に訴える。長い年月そばで使っていたせいで、生意気にもイヌもそれなりに呪術について知識を持っているのだ。スワンは鞭を振りあげた。イヌが床に這いつくばって許しを請う。鞭の唸りより快い音があるだろうか。ある。ひとの肉に打ちつけたときの音だ。

 クレメンタインの看病はイヌにまかせ、スワンはエリザベスに会いに行った。聞くところによるとエリザベスの輿入れはまもなくだそうだ。時間がない。急がねばならぬ。夫の死も迫っている。この計略はうまくタイミングをあわせるのが重要だ。
 エリザベスに招き入れられると、スワンはわっと泣き伏して見せた。エリザベスは驚いておろおろと、姉と慕う年上の友の手を握ったり、フルーツの砂糖がけをすすめたり、女中にクリーム入りのお茶を持ってこさせたりした。
 スワンは顔をあげ、砂糖がけオレンジとお茶はきっぱりと断った。そして二人掛けソファにエリザベスと座ると、悲しくて悲しくて胸がはり裂けそうですとまた涙を流した。
「夫の死期が近いのです、そしてエリザベスさん、あなたももうすぐ遥か彼方のヨークシャへ行ってしまわれるのでしょう、大切な二人のひとが去ってしまい、わたしは一人ぽっちになるのです」
「まあスーザン、わたしのことはエリザベスと呼んで頂戴と幾度も云っているではありませんか。ほんとうにお気の毒に、スーザン……」
 エリザベスにとって、またほかの誰にとってもスワンは、スーザン・クレメンタインだった。計略のための新しい名を考えなければとスワンは頭を巡らせた。
「エリザベスさんにはほんとうのことを打ち明けますわ」
「どうぞエリザベスとおっしゃって」
「ですけどあなたとわたしとでは身分が違いますもの。でも、わたしもフランスではけっして賤しからぬ地位にいたのです」
「フランスですって? 今フランスとおっしゃったの?」
 これまでウェールズの出と云ってきたけれど、実は自分はフランス貴族の未亡人なのだとスワンは明かした。玉の輿だった。ワイン商だった父親についてフランスへわたり、さる公爵に見初められたのだ。親がつけてくれた名はフランス風に発音するとアンヌ・マリー──アンもメアリも牧師館の女中の名前だ──、フランスにいるあいだはアンヌ・マリーと呼ばれていた。スーザンと名を変えたのは夫の死後イングランドに帰郷し、新しく人生をやり直すためだ。というのも夫はあろうことか犯罪者となり、獄死したのだ。どうか犯した罪については訊かないで、あのような夫だったが貴族であることはまぎれもない事実、名誉を重んじてほしい。それにわたしはクレメンタインと巡り会えた。わたしの第二の人生は充分に幸福だった。その彼とも別れねばならぬ運命だが……
「スーザン、わたしどうお慰めしたらいいのか。あら、アンヌ・マリーとお呼びするべきかしら」
「どうぞスーザンと。わたしはただお別れするまえに、大好きなあなたに嘘偽りのない真の自分を知っていただきたかったのです、ただそれだけです」
 またひとしきりさめざめと泣く。
「ああスーザン、お別れなんておっしゃらないで」
「ごめんなさいね、結婚を控えているエリザベスさんにこんな話をお聞かせして。でもエリザベスさん、たった一人で厳格な貴族の仲間入りをするからといって恐れることはありませんよ、このわたしだって経験したことですもの、エリザベスさんだって大丈夫、うまくやれますよ。エリザベスさんがヨークシャへ行ってしまったら、悲しいけれどわたしたち、おそらくもう一生会う機会はないでしょう。でもヨークシャでは、きっとおやさしいに違いない旦那様と、きっと可愛い子どもたちが四人も、あなたの到着を待っているのだわ。そんなあなたの幸福に、わたしの打ち明け話がどうぞ水をさしませんように! さあ、これでもう思い残すことはありません、エリザベスさんを祝福して送り出すことができますわ」
 エリザベスはしばらく黙りこんでいた。そして何ごとか思いついたというように、ぱっと顔を輝かせた。
「スーザン、わたしと一緒に来てくださらない?」
「えっ、今からですか? どこへですの?」
 スーザンったらと朗らかに笑い、エリザベスはぎゅっとスワンを抱きしめた。
「今までどうして思いつかなかったのかしら、そうよ、これがわたしたちにとって一番いい道だわ」
 スワンはあくまでも、何のことかわからないという顔でいる。
「あなたはわたしの侍女になるの、侍女として一緒にヨークシャに行ってほしいの。侍女といっても、もちろん友達であることには変わりありません、だってわたしがこころを許せるのはあなただけなんですもの」
「まあ! とんでもないことですわ。侍女だなんてとてもわたしには務まりません、嫁ぎ先でエリザベスさんに恥をかかせてしまいます」
 と、いったんは断るが、胸の中ではしめしめとほくそ笑んでいる。
「スーザン、あなた以外に考えられないの、あなたはフランスで貴族の暮らしをしてらしたのでしょう。正直に云うと教えてほしいのよ、貴族のしきたりとか行儀作法とか。わたし、ほんとうに不安でたまらないの、でもあなたがついていてくれれば耐えられると思うの。ねえ、お願い、スーザン、イエスと云って頂戴」
 今度はエリザベスが涙を流していた。
 そして慰めているのはスワンだった。
 二人は固く約束した。エリザベスはヨークシャへの出発を何かしら理由をつけてひきのばす。そして、こんなことはけっして口に出して云うべきではないけれどクレメンタインがいよいよ最期を迎えたら、スワンはエリザベスとともに旅立ち、侍女として一生彼女を支える。
 この企みに重要なのはタイミングと段取り、そして迅速さだ。どうかクレメンタインがちょうどよいときに死んでくれますように! エリザベス、あんたには充分に役に立ってもらう、それまでせいぜい結婚をひきのばしておくれ。そして彼が死んだらことはすみやかに運ばねばならない。一つでも手順が狂ったらすべてが台無しになってしまう。晴れて呪いの種をたずさえヨークシャへと出立したのちも急がねばならぬ。早ければ早いほうがいい。この気候だと死後三日が限度だろう。種に問題なくても肉の鮮度が落ちてしまうのだ。
 実際のところ、クレメンタインは顔に濡れた布でもかぶせてさっさと始末してしまえばよほど話は簡単なのだが、それではスワンの誇りが許さないのだった。呪術を行う者として、直接手にかけるなどもってのほかだ。
 やきもきして待つより、もう一つ片付けねばならぬ問題があった。付き添い人(シャペロン)であるエリザベスの従姉妹の存在だ。この計略を成功させるためには、なんとしても追い払っておかねばならない。
 それでなくても癇に障る女だった。何かしら本能的に感じとっているのか、自分と従姉妹のあいだに入ってきたスワンにたいして敵愾心を持ち、ものいいは厭味で態度は邪険だった。いっそ死んでくれればせいせいするのだが、呪術を使う時間はないし、ひと一人死ぬと騒ぎになってかえって面倒だ。怪我か病ですみやかに実家に帰らせるのがよかろう。
 センニョノケーキは珍しい茸ではない。スワンの住む牧師館の庭先にも生えている。家を焼き出され食べるものもなく放浪していた時期、コケモモや野ニンニクを摘んできたのはイヌだった。もとは浮浪児だったイヌが、これは食べられるというのだ。茸もあった。確かに野ニンニクは美味だったが茸には酷い目にあった。イヌに鞭をくれてやることさえできなかった。砂糖漬けにしてチーズもそえて持っていけば、酒飲みのあの女は大喜びするだろう。
「お二人はすでにお発ちになられました」
 応対に出てきた執事の態度は素っ気なかった。
 発った? エリザベスも? そんな話は聞いていない。
「御予定が急に変わられたのです」
 結婚が早まったのか? だとしてもエリザベスがわたしに黙って去るはずがない。あの女だ。従姉妹がわたしを置いてきぼりにしようと仕組んだに違いない。
 直ちにスワンはエリザベスの馬車を追った。執事は最高位の使用人の誇りにかけて泊まる予定の旅籠を明かさなかったが、馬丁はジン一杯分の銅貨で喋った。雨が降り出した。車輪はぬかるみにはまり、雨の中、幾度も馬車を降りねばならなかった。どうしてこう思いどおりにいかないのか! クレメンタインはいつ死ぬのだ、エリザベスたちは急に宿を変えたりしないだろうな。
 陽が暮れた。雨は降りつづいた。旅籠には糞忌々しい従姉妹しかいなかった。
「ふふん、おいでなすったね。慌てて追っかけてくると思ってたよ」
でっぷりした尻をソファに埋め、羽飾りのついた扇子をあおいでいる。どう見ても分不相応な品だ。スワンのドレスからは雨水がしたたっている。濡れ鼠の恰好はスワンには分相応かもしれない。今のところは。
「エリザベスさんは?」
「ドーチェスターさ。あの子の母親の友人が嫁いでいてね、あの子は挨拶に行ったんだよ」
「じゃあヨークシャに行ったのでは」
「ないない、明日もどってくるよ」
「でも執事が」
「あんたと二人っきりで話がしたいと思ってさ。甘ちゃんのエリザベスは騙せても、あたしはそうはいかないからね」
 にんまり笑った目蓋の隙間から眼が鋭く光っている。
「あんたの考えはお見通しだよ、エリザベスの付き添い人になって自分も甘い汁を吸おうってんだろう、つまりあたしになりかわろうって魂胆だ、なんといってもエリザベスは貴族の奥方様になるんだからねえ」
 スワンは拳を握りしめる。見損なっていた、この女、思ったより利口だ。どう切り抜けるべきか、それとも諦めるしかないのか──
 スワンの前に手が突き出された。
「いくらお出しだい?」
 唖然としていると、手はもどかしげにひらひらと動いた。
「あんたにあたしの立場を譲ってやってもいいと云ってるんだよ。ヨークシャなんてやだやだ、地のはてじゃないか、そうさねえ、どうせなら行くなら都会がいいねえ、ロンドンでゆっくり物見遊山したいねえ」
 
 エリザベスは泣いていた。それも当然だろう、もともとあてにならない付き添い人ではあったが、ここまで無責任だとは思わなかった。突然置手紙をしてロンドンへ旅立ってしまったのだ。だが嘆きはそれほど長くつづかなかった。すでに彼女には涙をふいてくれるひとがいるのだ。遊び好きの従姉妹よりもずっと誠実で頼りになる友人、スーザン。すぐさまスーザンは駆けつけてきてくれ、やさしく慰めてくれ、安心なさってわたしはあなたのそばをけっして離れませんからと誓ってくれた。ふたたびエリザベスの頬が濡れたが、それはもう悲しみの涙ではなかった。
 そして素晴らしいことを思いついた。友の忠誠に報いるうってつけの品がある。いったん寝室へひっこんだエリザベスが、手に持ってきたのはシャトレーヌだった。
 この飾り鎖は、彼女が嫁ぐガルノートン家に代々伝わる品だという。腰の帯にとめ、屋敷じゅうの部屋の鍵をさげる。また鋏や印章やペンや、家庭をきりまわすのに必要な小道具もさげる。縁談が決まったとき、当家の新たな女主人へと、ガルトン伯爵からエリザベスに贈られたのだ。
 とんでもないとスワンはかぶりを振った。シャトレーヌは一家の奥様だけが身につけられる特別な品、いただくわけにはまいりません。
 だがエリザベスは跪き、シャトレーヌをスワンの腰につけた。
「ええ、あなたのおっしゃるとおりシャトレーヌはいわば女主人の証、だからこそあなたに受けとってほしいの、わたしの信頼のしるしとして。わたし泣いてばかりいたのではなくってよ、これからのことをちゃんと考えたのよ。侍女なんてあなたにはまったく役不足だわ、わたしが伯爵と結婚したら、あなた、女中頭になるの、そのシャトレーヌにガルトムーア・ホールじゅうの鍵をさげて君臨して頂戴、わたしのかわりに城をとりしきって頂戴」
 正気か、エリザベス、このわたしにみずから譲りわたすとは。驚きとともにスワンは謀略の成功を予感した。そして折も折、まさにそのとき知らせがとどけられた。
 たった今、クレメンタイン牧師が亡くなられたそうです。
 あまりの絶妙なタイミングにスワンは卒倒しかけた。いや、むしろ、歓喜の表情を隠すため、大仰に卒倒して見せなくてはならなかった。
 もはや成功の予感などではない、確信だ。
 ぱたぱたとハンケチで扇がれスワンは眼をあけた。油断は禁物、ここは慎重に獲物を誘いこまねばならない。エリザベスにせいぜい哀願する。ともに牧師館へ来てくださいませんか、夫の亡骸に祈りを捧げてくださいませんか。
「もちろん、もちろん一緒にまいりますわ」
 ああ可哀相に。信じられないほど馬鹿でおひとよしの娘……
 ついスワンは涙ぐんでしまったのだが、それが無垢な娘の眼には最愛の夫の死に打ちひしがれた友と映り、大いに同情を誘ったのだった。

ユースタス5 わたしのちっちゃな魔女さん、呪術の準備は大急ぎでしたほうがいいわよ

 ブラッド、いったいなんという顔をしているの、そんな眼でなぜわたしを見るの、怒っているの、怖がっているの、まるで魔女でも目の当たりにしたみたいに。
 だけどわたしは問うことはしなかった。素知らぬふりをした。下手に話などして気づかれるのが怖かった。胸に秘めたこの目論見、今一度新たにしたこの決意を、悟られでもしたら恥辱で死んでしまう。
 でも、まさか、ブラッド、あなた感づいているの? お願い、やめて頂戴、そのさぐるような眼差し。わたしはこのとおり昨日と何も変わっていない、普段どおりよ、普段どおりに今朝もまた朝食にポーチドエッグをいただいているのよ。
 ポーチドエッグの湯で加減は完璧だった。さすがはネラ夫人、昨日ブラッドとわたしからあれほど追及されたというのに、料理にはなんら影響していない。それにああやってきびきびと立ち働いているようす、忌まわしい痙攣もひとまず治まっているよう。指がちょっと震えてパンを落としてしまったけれど。
 いつもと変わらぬ美しい朝だ。ガルトムーア・ホールの朝食室には陽光が穏やかに注ぎ、聞こえてくる囀りは楽しげで、溶けかかったバターは香しい。ほんの半時まえ、ナサニエル・ゾフの首が母の枕もとに置かれていたなんて信じられないくらいに。
 皿の上の、こんもりと夏空に浮かぶ雲みたいな塊を、スプーンの先で刺した。黄金色の黄身がとろりと流れ出た。けれど、どうしてなのかその黄身に、ブラッドが顔をしかめている。
 ネラ夫人のお喋りはつづく。ぱっくりあいた傷口からあふれ出る血のように、永遠に止まらぬ血のように。卵の湯で具合はいかがですか、先ほど村の巡査が首のない死体が見つかったと報告にまいりました、卵は硬くはありませんか。ゾフの死体とポーチドエッグの硬さとを同等に述べたてるネラ夫人は、とうに狂っているのかもしれない。
 わたしも狂ってしまえればどんなに楽になるか。いいえ、すでに狂っているのではないだろうか。だってわたしはこれから、ネラ夫人の犯してきた罪をすべて承知したうえで、彼女の言葉に従おうとしているのだから。
 昨日、八角塔の鍵を手にしたブラッドが出ていったあと、ネラ夫人はついにわたしに告白したのだった。いとも素直に、あっけないほどすんなりと。
 魔女の呪いは嘘、アンヌ・マリーの伝説などでっちあげ、ええ、全部自分の企みです、ええ、ええ、お嬢様の考えていらっしゃるとおりでございます。
 ブラッドの推理は正しかった。ガルノートン家は魔女に呪われてなどいなかった。すべてはネラ夫人が仕組んだこと。呪いと称した病は、ある特殊な毒によって引き起こされたもので、毒のつくりかた、使いかたは、夫人の一族に代々伝わってきた秘術だという。
「その毒をあなたは食事に混ぜたのね」どういう返事をわたしは期待していたのだろう。「そうやってお父様やジョン、トム、エレン伯母様たちを殺めたのね」
 しかしネラ夫人は平然とこたえたのだった。
「はい、わたくしの特製キドニーパイをみな様は、いつもお喜びくださり褒めてくださいました。臓物のパイだとあの毒特有の臭味がうまく馴染み、そればかりか風味が出てたいそう美味しくできあがるのでございます」
 このときのわたしの気持ちをどう表せばいいだろう。最初はとるにたらなかった疑いが、胸の中で徐々に育ってきて大きく硬くなり、わたしはもう岩を呑んだようになっていた。疑惑はわたしの内側から始終その存在を主張して、わたしを苛んでいた。だってわたしは信じたかったのだ。調べあげた一つ一つがネラ夫人の悪徳を示し、疑惑はとっくに確信となっていたのに、夫人を信じたいと思う気持ちが残っていたから、苦しかったのだ。だが、疑惑は真実だと知らされた。ネラ夫人みずからそう明かした。そのとたんだった。胸のつかえがいっぺんに消えた。こんなに気持ちよく呼吸ができるのは何ヶ月ぶりだろう! 奇妙なことだ、絶望が安らぎとなるなんて。
 しかし絶望がもたらす安らぎは空虚とも云いかえられる。わたしは空っぽになった。そのなんにもなくなったところへ、ネラ夫人は容赦なく、矢継ぎ早に、言葉を放りこんでくるのだった。
「すべてあなた様のためです、ユースタス様を思ってしたことです、わたくしの欲や利益のためにしたのではございません、ええ、こんな恐ろしいこと、お嬢様のためだと思わなければできるわけがありません、わたくしのことなぞどうでもいいのです、わたくしなぞどうなってもかまいません、罪にまみれて野垂れ死にしたっていい、罰を受けて縛り首になってもかまわない、いえ、縛り首はありえませんね、なにしろわたくしの呪術は完璧ですから、このからくりを解いて証明するなど、ふふっ、まず無理でしょうよ、ですが神の裁きは受けましょう、あえて受けましょう、怒りの雷にこの身を焼かれたっていい、ユースタス様のためならどんな罰でも受ける覚悟でございます、罪はすべてわたくしにあります、すべての罰はわたしが引き受けます、ですから、ですから、ユースタス様、わたくしの言葉を聞いてください、今しばらくわたくしに従ってください、ユースタス様がお幸せになるにはそうするよりほかはないのです」
「ちょっと、ちょっと待って頂戴。何ですって、わたしのためですって? 理解できないわ、どうしてお父様やお兄様たちの命を奪って、わたしが幸せになるというの」
「ユースタス様、おわかりにならないのですか? ほんとうに?」
「わからないわよ、わかってたまるもんですか、そんな恐ろしい考えは悪魔の考えよ」
「ああ、お嬢様……」
 ネラ夫人は眼を閉じて祈るように両手をあわせた。
「何よ、今さら嘆いているの、許しを請うているの」
「いいえ、なんと不憫なお嬢様。でも、なんと純粋でお美しいお嬢様」
「わたしを馬鹿にしているのね」
「いいえ、いいえ、滅相もございません。わたくしはただ、お嬢様の気高いこころに感動しているのでございます。性根がねじくれても不思議はないのに、よくぞ汚れずに育ってくださった。これもわたくしの教育の成果と、この自分を誇りに思います」
「いったい、何のこと」
「ユースタス様の使命のことでございますよ、ユースタス様は一族を救うために選ばれた、特別な娘だという伝説のことでございます」
「あああっ」
 足の下の床がバラバラになったようだった。でも実際に崩れていったのはわたし自身なのだった。ネラ夫人、残酷な魔女。まさか、よりにもよって、陰謀を企てた理由にそれを挙げるなんて!
 自分がほかの女性と違っていることを知ったのは、兄のジョンが亡くなった朝だ。ネラ夫人がわたしに教えたのだ。アンヌ・マリーの呪いを終わらせることができるのはユースタス様だけだと、そう伝説が語っていると、そしてその証拠をお見せすると、自分のスカートをまくりあげたのだ。
 それまでわたしは自分以外の人間の裸を見たことがなかった。また自分の裸も、ネラ夫人以外の人間に見せたことはなかった。兄たちとはもちろんのこと、姉たちとも生まれたときから寝室はべつだったし、兄姉のほうも継母の子には近よりがたいものがあったのだろう、おたがいに打ち解けてきたのはわたしが分別を持つころになってからだった。娘にもっとも近い存在といえば母親だが、母は出産後気鬱症が進み、赤ん坊であるわたしの世話はネラ夫人にまかせっぱなしだったという。
 しかしそれもこれも実はネラ夫人の巧みな誘導の結果であって、すべてはわたしの体の秘密を守るためだったのだろう。両親、兄姉、舘に住むすべての人間から。そしてわたし自身からも。
 スカートをまくりあげたネラ夫人の足のあいだにあったもの。
 青白い腿の肉と、ピンと張った筋の、のぼりつめたところ。
 緊張とそして羞恥心のせいか、ふるふると震えていた、それ。
 はじめて見た女性そのもの。
 これは何。わたしと違う。わたしにはないわ。
 世の女のひとはみな、こんなものを持っているの? なら、なぜわたしにはないの、わたしはおかしいの、わたしは女ではないの、わたしは何なの、出来損ないの化け物なの? 
 なぜならわたしは、わたしのその部分は、ネラ夫人に比べてあまりにも滑稽で、醜悪だった。
 だがその醜さをネラ夫人は誇るべき証と云ったのだ。これこそが特別な娘である証なのだと、ここぞとばかりに熱く、甘く、説いたのだ。わたしも信じた。どうして信じずにいられよう。不具者は疎まれるが、一族を救った英雄なら崇められる。それは誇りという名の鎧だった。その鎧をネラ夫人はみずから語ったとおり教育でもってしっかりと、わたしに纏わせたのだ。
「今ならよくわかる。あなたに聞かされた伝説がどれほどわたしの支えになってきたか。石女がこのガルトムーアの女主人になったとき呪いは終わる、わたしがこんな体に生まれたのは魔女の呪いから家族を救うため……それだから、自分にしかはたせない使命があると思っていたから、わたしは胸を張って生きてこれた」
「そうでございましょう、ユースタス様のために考えた言い伝えでございます」
 満足げな夫人に思わず笑いがもれた。冷めた笑いが。
「あなたは謀の天才ね。ただわたしに誇りを持たせただけじゃない、そんなきれいごとだけではない、あなたはわたしに野心を植えつけた。こんな体では子を望むなど到底無理でしょう、一族の将来を考えれば、跡継ぎも産めないくせに女主人になろうなんてだいそれた野望、誰が懐きますか。だけどあなたは巧妙だった。あなたの嘘に乗せられ、あなたのいうなりになってわたしは演じたり画策したり、騙して云いつくろって媚を売って、それもすべて家族を救うためと英雄を気取ってきた。わたしは恥ずかしい、わたしは自分を恥じるわ」
「何を恥じることがありますか、目的にむかって懸命に努力するお嬢様をわたくしは、ときに愛おしく、ときにほれぼれと見守っておりましたよ」
「お黙りなさい! 目的ですって? それはあなたの目的でしょう、あなたはどうしてそこまでしてわたしを女主人の座につかせようとするの」
「ですからユースタス様のために、」
「やめて! お父様やお兄様を殺しておいて、お姉様たちもあんな忌まわしい目にあわせて、それがわたしのため?」
「当然でございましょう、あのかたがたに生きていられたら、お嬢様はガルトムーアの女主人にはなれません」
「やめてやめてやめて! やっぱりそうなのね、ブラッドが云っていたとおりだわ、あなたは何も知らないわたしを騙して女主人に奉っておいて、この家をのっとるつもりなのよ」
 すぐに反論が返ってくると思った。手に顔を伏せたまま──あまりのネラ夫人の言葉にやめてと叫びながらわたしは手で顔をおおっていた──待っていた。ところが何も聞こえない。顔をあげ夫人を見ると、そこにあったのは冷笑だった。
「お可哀相なお嬢様、ブラッド様を好きになられてしまったんですねえ」
わたしは唇を噛んだ。
「そのお嬢様に残酷な事実を告げなくてはならないとは、わたくしもこころが痛みます」
 と云いながらネラ夫人の笑みは消えない。
「お嬢様は今、わたくしがこの家をのっとるつもりだとおっしゃいましたね。ですがブラッドなんですよ、ブラッドこそお嬢様の家を、財産を、奪おうとしてるんですよ。三十年もまえに失踪したブラッド・ガルノートンの忘れ形見? はっ、偽者ですよ、真っ赤な偽者。あの小僧、どこで聞きつけたんだか、まんまと跡継ぎになりすまし舘に入りこんだ。まったくずる賢い小僧です」
「あなた、知ってたの? ブラッドが本物ではないと」
「おや、お嬢様。その口ぶりはご存じだったのですか」
「いえ、なんとなくよ、なんとなく変だと感じていたの」
 ほんとうはヒュー宛にとどいた手紙を読んで知っていた。本物のブラッド・ガルノートンであるわたしの大叔父は、乗っていた船が南太平洋で遭難し、とうの昔に死んでいる。
「でもなぜ? なぜあなたはブラッドが偽者だとわかったの」
 また笑う。ネラ夫人がこんなに始終笑っているなんて。いいえ、笑みではないのかもしれない。片頬が一瞬ひきつれただけかもしれない。こうやって話しているあいだもネラ夫人の手や肩や、体じゅうのあちこちで何かが暴れ出しそうな気配がしていて、それを夫人は非常な努力でもっておさえこんでいて、でも耐えきれず、瞬間的にぴくりとなるのだ。痙攣が、呪いの起こす痙攣が、爆発しようとしている。まただ、唇がつりあがった。いや、あれはやはり笑ったのか。
「わからないわけがございませんよ、はじめて会ったその場で見破りましたよ、あんな洟垂れ小僧と医者くずれ、どこの馬の骨が来たかと呆れてしまいましたよ。しかし単に見た目で判断したのではございません、もっと確かな根拠がありました。わたくしもまた、ブラッド・ガルノートンの偽者を用意していたのです」
「あ、あなたが偽者を用意していたですって?」
「はい、当然でございましょう、何十年も前に行方をくらませた人間など、生きているか死んでいるかさえわかりません。むしろそのほうが好都合、意のままに動く人間を偽の相続人に仕立てればいいのですから。わたくしの企ては、あんな小僧たちのずさんな仕事とは違います、偽者として雇ったのは事実をきちんとふまえて七十すぎの老人です、行商人でした、確か鋏研ぎだとか。その鋏研ぎにはもちろん結婚相手には誰を選ぶか云い含めておきましたよ。それがどこをどう間違ってあの小僧とすりかわったのか──。ですがわたくしはあえて質すことはしませんでした、鋏研ぎであれ洟垂れ小僧であれブラッド・ガルノートンなる人物は必要です、ユースタス様がガルトムーアの女主人になるには、ガルトムーアを相続した新しい伯爵と結婚しなくてはなりませんから。え、何ですか? なぜ三姉妹で花嫁の座を競わせるなどわざわざまどろっこしい状況にしたか、ですか? 偽者を雇ったなら最初から妻はユースタス様をと指名させればいい? ええ、そうも考えました。ですがあのマミーリア様が黙っているでしょうか、いえ、それよりもユリア様のほうが犠牲精神を発揮され、ご自分の身をさし出そうとするかもしれません。はい? 邪魔ならお姉様がた二人も早いうちに呪い殺せることもできただろう? ところがお嬢様、なんとももどかしいことに、魔女の呪いの技は時間のかかるうえに気まぐれで、邪魔者をここぞというタイミングで片付けられないのですよ。それにユースタス様も競争相手がいたほうが張りあいがございましょう? いくら一族を救うためとはいえ、いざ小汚い爺いを前にしたら、やる気も起きませんでしょうからね。相続者がよぼよぼの爺いとは絶妙な策だとは思いませんか? いつだったかユースタス様はわたくしに結婚について、婚姻した男と女のすることについてお訊きになりましたね、そんなご心配は無用だったのですよ、耄碌爺いなど難なく御せますから。夫婦の交わりなどとんでもない、ユースタス様には指一本だって触れさせない、ユースタス様のお体の秘密は永遠に守ってみせる、何もかも考えた末だったのです、練りに練った筋書きだったのです」
 血が逆流し、わたしは眼がくらむほどになっているというのに、ネラ夫人はいっさい気づかず吐き捨てた。
「それなのにあのブラッドが、どこの馬の骨かわからぬ小僧が、台無しにしてしまった」
「滑稽だわ……」
 それは唇の隙間からこぼれた言葉だった。
「何、なんとおっしゃいましたかお嬢様」
「滑稽だと云ったのよ。この家をのっとるため、魔女や呪いの話をこさえお父様やお兄様たちを毒殺した、呪いを終わらせる特別の娘などという出鱈目をまたでっちあげてその娘はわたしだと信じこませた、そして偽の跡継ぎには老人を用意しその妻の座を狙わせる。なんとまあ、ご大層だこと、まさに練りに練った筋書き! 練りすぎて滑稽よ、滑稽としか云いようがないわ、わたしをとりまくすべてが嘘だったのね、わたしは嘘でかためられた舞台で踊らされていただけだったのね。あなた、さぞかし愉快だったでしょうね、あなたの思いどおりに踊らされているわたしを見るのは」
「何をおっしゃいます、悲しゅうございます、それもこれもすべてはユースタス様のため──」
「まだ云うの、もう騙されない、出ておいき、あなたは馘よ、いいえ駄目、罪を償わせなければ。治安判事に引きわたしてやるわ、あなたは死刑よ、裁判にかけられ吊るし首になって死ぬのよ、感謝なさい、これ以上魔女に似つかわしい最期はないわ」
 まさかこの罵りが彼女を打ちのめしたわけではあるまい。腹黒くずうずうしい魔女がこんなことぐらいでまいるはずがない。だが、だしぬけにネラ夫人の体が崩れ落ちた。まるでどうにかこうにかバランスを保っていた積み木の塔が、ついに倒れたように。
「わたくしを魔女と呼ぶのですか」
 床に這いつくばり、顔だけあおのけ、ネラ夫人が声をしぼり出した。眼のあたりが異様なのは、銀色にけぶって見えるからだった。灰色の瞳が発する水銀のような輝きが、絶え間なく揺れ動いているからだった。眼が震えているのだ。白目の中で忙しく光彩が震えている。〈呪い〉病に侵された姉たちの眼がそうだったように。
「どういうことなの、あなたも〈呪い〉病にやられているの、自分で毒を食べたというの」
 しかしネラ夫人はこうこたえただけだった。
「いずれこうなるのではと思っていました、なんとも厄介な術でございます」
 夫人の手が床を這ってのびてくる、断末魔の蛇よりも苦しげに震えながら。
「もうおわかりでしょう、お嬢様。このような有り様となったわたくしが、どうしてお嬢様の身分や財産を奪おうなどと考えるでしょう。すべてお嬢様のためにしたことです」
 ネラ夫人の手がわたしのスカートをつかんだ、蛇がわたしの裾に噛みついた。
「そんなお体でいらっしゃっても、お嬢様には人並みに幸せになっていただきたいのです」ネラ夫人の手の痙攣がスカートをつたってのぼってくる。「人並み? いいえ、人並みどころか誰よりも幸せにしてさしあげます、このわたくしの命にかえても」
 ネラ夫人の痙攣が、〈呪い〉病の起こす痙攣が、わたしを揺さぶる。
「時間がないのです、お嬢様。だからこうしてすべてをお話しているのです。ほんとうはこの計画はお嬢様には隠しておくつもりでした、お嬢様は何も知らないまま誇り高き女主人として生き、秘密はわたくしが墓まで持っていけばいいと思っておりました。ですが、もうわたくしに残された時間は少ない。お急ぎください、ブラッド様と結婚するのです、ブラッド様の正体が誰だろうと、どんな悪事を企てていようと、ガルトン伯爵の地位を継がれたのだから、ユースタス様が女主人となってガルトムーアを手に入れるには、結婚するしかない。ですが奇しくもあなた様はブラッド様に惚れられた、喜ばしいではありませんか、愛するかたの妻になるのですよ、何を躊躇することがありましょう」
「駄目よ、できないわ、いくら好きでも結婚なんてできない」
 わたしったら何を云っているのだろう。
「もう今までとは違う、あなたの作り話が巧妙にわたしの眼をふさいできたけれど、でも、もうわたしは真実を知ってしまった。伝説の救世主? 使命? そんな法螺話を信じて張りきってきた自分が惨めだわ。わたし、あなたを恨むわ。こんな体でどうして結婚できるというの、ブラッドだって畸形の娘など望まないわ!」
「ああ、お嬢様、お可哀相に」ネラ夫人が起きあがろうとした。よろめいては床に手をつき、立ちあがりかけてもふらついて膝を折る。それでも懸命な努力で踏んばって、ついに立ちあがると、わたしに倒れかかるように抱きついた。
「大丈夫です、大丈夫でございますよ、わたくしがあなた様をお守りしますから。ともかくお嬢様は結婚さえしてしまえばいいのです、お嬢さまはただブラッド様にうんと云わせればいい。そしたらすぐさま許可書をとりましょう、式をあげましょう、その後のことは心配なさらずに。今は何も考えなくてもいいのです、あとのことはすべてわたくしにお任せして、ユースタス様は一番欲しいものを手にお入れなさいませ」
 奇妙なことにこうしてぴったり体をあわせると安心する。痙攣が誰のものなのかわからなくなるほど、ネラ夫人の震えがわたしの芯まで浸透してくるというのに、かえってそれでこころが安らいでしまう。
「でも、あとのことは心配するなといっても、わたしの真の姿を知ったらブラッドはきっと失望するわ」
「いいえ。方法はいろいろとございますよ。たとえばお嬢様はまだご存じないでしょうが、男と女の間にはさまざまな愛の形があるのですよ。なにも寝台の上でなくても愛は確かめられます、ブラッド様にはお二人にあったやりかたを教えてさしあげればいいのです」
 それはどういう意味なのだろうと考えるより先に、いきなりネラ夫人がわたしから飛びのいた。
「わたくしとしたことがなんと不注意な! お嬢様、これからはけっしてわたくしに触れてはいけません、呪いがそちらへ入りこみでもしたら、」
「そこがまったく不可解だわ、なぜあなたまで?」
「しくじりました、充分に注意してきたつもりでしたが。この呪いときたらまったく質が悪いのです。ですがこれもお嬢様のためにつくした末、本望です」
 ネラ夫人の言葉に嘘はないと思った。陰謀はすべてわたしのためだったのだ。痙攣を必死でおさえこもうと腕を引きよせ、拳を固く握り、半身もかがめ、立っているネラ夫人の姿がその証拠だ。
そうだ、まったくネラ夫人の云うとおりだ。もし財産を我がものにするのが目的だったら、こんな状態になってしまったのに、まだやり遂げようなんて考えるわけがない。
「お急ぎください、お嬢様。呪いに侵された者を何人も見てきたお嬢様ならおわかりでしょう、わたくしには時間がありません。ブラッド様と結婚するのです、誘惑してもいい、偽者だとばらすと脅迫してもいい、ともかく結婚にこぎつけるのです」
 そしてわたしに云い返す間をあたえず、
「ぐずぐずしてはいられません、妙なのですよ、わたくしの知らないところで、わたくしの計画以外のことが起きている。グロットーの鍵しかり、柩持ちだった園丁の死しかり。ブラッド様はわたくしがやったと責めてらっしゃいましたが、わたくしに身に憶えはございません、これらに関してはわたくしは潔白でございます」
「ほんとうに? では聖書と日記も?」
「聖書? 聖書とは?」
 芝居とは思えない。第一、魔女の呪いは自分の仕業と明かしておいて、聖書を燃やしたという小さなことを隠すなんて、筋が通らない。
「けれど妙ね、全部あなたに有利に働いている」
「ええ、なにやらまるで陰の協力者がいるよう」
「あの下女に化けていた者ではなくて? バートルとかいう」
「いいえ。あれは忠実ですが、命じられたことしかやらない男です、そのようにわたくしが教育したのです」
 不意に沈黙が舞い降りた。ほんの一瞬。
 そうして、ネラ夫人は云い直した、噛みしめるように。
「男でした」
 次の沈黙は短い祈りを唱えるためだと思った。しかしそのあと発せられた夫人の声は高い熱を持っていた。怒りの熱だ。
「許しがたい、バートルはわたしのイヌだったのに」
「犬ですって?」
「バートルの舌を切ったのもその者の仕業に違いありません」
「ではブラッドの云っていたとおり、あの下女は唖者ではなかったのね、ふりをしていただけだったのね」
「なぜブラッド様がそれをご存知で? あの小僧めが、バートルの名前どころか男であることまで知っていた」
 どこまで打ち明けるべきか。ネラ夫人はブラッドをただの詐欺師だと思っている。けれどわたしはそうではないと知っている。もし財産を奪うだけなら、邪魔なネラ夫人は解雇すればすむ話なのにブラッドはそうせず、夫人の正体を暴き呪いの真相を突き止めようとしている。それはまさしくガルノートン家を救う行為だ。
 ブラッドはどこぞの馬の骨ではない。ガルトムーアの村の捨て子で、それをバートルが面倒を見ていたのだ。しかもメイナス・ジョイスによると、ブラッドは男性ではなく女性なのかもしれないのだ。そしてわたしと同様に、服に隠れて外からはわからないけれど、醜い部分を持っているらしいのだ。
 ブラッドが以前、化け物と蔑まれていたと聞いたとき、わたしはどんなにほっとしたことか。そしていとおしさが、さらにどれほど増したことか。
「ブラッドはガルトムーアに来るまえにいろいろと調べたんじゃないかしら」
 この期に及んでもなおわたしは隠しごとをしようとしている。だけどブラッドの秘密をネラ夫人が知ってしまったらどういう結果になるか、もしやブラッドが危険なことになりはしまいか、それが怖い。「そうだわ!」と声を大きくあげネラ夫人の気をそらす。
「あの下女は以前、数週間ほど休みをとったことがあったわ、それじゃないかしら、舌を切られるなんて大怪我をして、だから休んだのよ」
「あれは確かブラッド様がこの舘にいらっしゃった春のこと、すべての準備が整い、いよいよ計画がもっとも重要な段階に入るというときだった──」拳で額を打ちつづけるネラ夫人。いつもの考えるときの癖、いいえ、これも痙攣のせいかしら。
「わたくしの計画はわたくしとバートルしか知らないはず、それを何者かがバートルから聞き出し、そのあと口封じに舌を切った」
「園丁に会いに行ったこともグロットーへ行ったことも、わたしとブラッドしか知らないはずよ、なのになぜわかったの。なんだか不気味だわ、まるでその誰かがすぐそばに張りついて見張っているようだわ」
「もしや、いつの間にかゾフ様が消えてしまわれたのも、その者が」
「わたしはあなたがやったのかと思っていたわ、ゾフがお母様の愛人だなんて真っ赤な嘘なのでしょ、ほんとうはあなたの仲間だったのね」
「わたくしはユースタス様とブラッド様のお二人かと思っていましたよ、あれこれ聞き出そうと」
 視線が交わった。互いにさぐりあった。
 わたしがネラ夫人の瞳に見いだしたものは秘密だ。直感した。わたしがブラッドについてまだネラ夫人に話していないことがあるように、夫人にもまだわたしに語っていない秘密がある。ほかにいったいどんな悪事を隠しているのか。
 しかしネラ夫人がわたしの眼から読みとったのは、おそらく迷いだ。
「さあ、お嬢様。今のうちですよ、ヒュゲット様もいなくなってしまわれたのでしょう?」
「ヒュゲットは、あなたがそのバートルに命じたのではなかったの?」
「存じません、残した言葉というのも何のことだか。それもこれもすべて陰の協力者がやってくれたのでしょう。さあユースタス様、好機ですよ、今のうちです」
「えっ」
「何をぐずぐずしてるのです、わたくしたちの目的を遂げるのですよ! ゾフ様とヒュゲット様がいなくなったのは幸いです、誰が何のためになどとは考えますまい、ともかく事態はこちらにとって有利に動いているのですから。この機を逃してはなりません、一気にわたくしたちの計画を推し進めるのです」
「駄目」
「お嬢様! わたくしがあなた様をお守りできる時間は限られているのですよ」
「駄目よ、できるわけないでしょう! だってわたしの父や兄は死んだのよ、あなたが殺したのでしょ、わたしのために。今だって姉があなたの呪術で苦しめられている、それを知ってしまったのに、どうして女主人になろうなんてことができるの?」
「なるほど。ようございます、ユースタス様」
 心得たとばかりにネラ夫人が頷いた。
「解毒薬がございます」
「何ですって、解毒薬ですって?」
「左様でございます、呪いを解く薬です。ユースタス様がめでたくブラッド様と御結婚なさったあかつきには、その解毒薬でマミーリア様をお救いしましょう」
「ほんとうに?」
「ええ。ほんとうですとも」
「あのね、マミーリアだけではないの、ユリア姉様もなの」
「おや、まあ、ユリア様まで呪いに? わたくしに隠してらっしゃったんですか、それもブラッド様の差し金ですか」
「お願い、どうかユリアを八角塔へやらないで」
「仕方のないお嬢様ですこと。ようございましょう、でも、おいたもここまでにしておいてくださいましね」
 そうしてネラ夫人は行けと指をさした。だからわたしは八角塔へブラッドを追った。背後から聞こえた。でもお嬢様、くれぐれもお気をつけて、マミーリア様にはけっして触れてはなりません、わたくしの二の舞になりませんよう……
 
 そうして八角塔に入ったわたしを、マミーリアが魔女と呼んだのだ。病に蝕まれ、老婆のように面変わりした憐れなマミーリア。毒は脳にまでまわってしまったのだろうか、錯乱しわたしを指さして魔女と叫んだ。
 ちょうどそのとき屋上の風で結い髪がほどけ舞いあがったから、そのせいね、とブラッドにはとりつくろったけれど、内心わたしは舌を巻いていた。
 半狂人の尋常ではない直感がわたしの邪悪さを見抜いたのだろう。マミーリアは正しい。わたしは魔女と呼ばれるのにふさわしい。わたしはネラ夫人が嘘を云っていると知りながら信じたふりをした。解毒薬なんてあるわけない。もしあれば、残された時間は少ないなどと嘆いておらず、自分で飲めばいい。ネラ夫人は躊躇していたわたしの鼻先に餌をぶらさげたのだ。わたしは解毒薬という恰好の言い訳をあたえられ、心置きなく夫人に従うことにした。魔女はわたしだ。わたしこそ魔女と呼ばれるべきだ。わたしは姉たちの命を救うより、ブラッドを手に入れることを選んだのだ。
 そして翌朝。つまり今朝。
 ゾフの生首が母の寝室に置かれていたのは、つい半時ほどまえのことだ。
 下女が──バートルとやらが死んでしまい、頼りないことに残ったのはこのおつむの足りない下女一人だけだ──発見し大騒ぎとなって、でもその最中にネラ夫人がそっと耳打ちしてきたことには、これも陰の協力者の仕業だろう。
 でも、いったい誰がなんの目的で? 
 いいえお嬢様、この際それは考えますまい、死人に口なし、わたくしたちの計画にこれ以上の安心がありましょうか、ともかくブラッド様との結婚を急ぐのです、一刻も早く、どうかわたくしの命があるうちに。
 だけど、ネラ夫人はああ云ったけれど、ブラッドのわたしを見るあの眼!
 それこそ魔女を見つけたといわんばかり。
 わたし、失敗したかしら。お母様の部屋でもっとゾフの首に驚いて、悲鳴の一つでもあげて見せるべきだったかしら。こんなふうに朝食室に出てきたりせずに、食欲などとてもないと部屋にこもっているべきだったかしら。今だってポーチドエッグなんてつついていないで、ゾフの死体が川辺にあったと聞いたら即座にスプーンをとり落とし、失神すべきだったかしら。どこでしくじったのだろう。これまでのどのふるまいがブラッドに疑念を抱かせたのだろう。それとももしや、あのことがばれた? 
 ヒュー・ヒュゲットがどこへ、なぜ、消えたのかは知らない──陰の協力者の仕業というのはほんとう?──だけど彼が残したメッセージを消したのはわたしなのだ。
 あの夜ヒュゲットがいなくなったと、ブラッドは目もあてられないほどとり乱していた。それを宥めて寝かしつけて、そのあとわたしは一人で外へ出て調べてみたのだ。庭園の、ヒュゲットが最後に立っていたというニワトコの木の下、蝋燭の灯りが照らし出した地面にあったのはある単語で、それをわたしはあやうく踏みそうになっていた。慌ててわたしは足をひいた。そのときまでは本心からブラッドの力になりたいと思っていたのだ。まえもって手がかりを見つけておいて、朝になったらブラッドを喜ばせてやりたいと考えていたのだ。でも、わたしの足はまた前に出て、地面の文字を踏んだ。
 魔女の素地はわたしにもあった。どうしてネラ夫人を責められよう。邪魔者を容赦なく排除するのはわたしもおなじだ。
 ブラッドがわたしを観察している。表情のほんのかすかな変化から手の上げ下げ、髪の結いかたやドレスの皺までも。邪なこころをどれほど巧妙に隠そうが、それら一つ一つがわたしを裏切って、わたしの知らないうちに語っているとでもいうように。
 とても食事などしておれない。スプーンを置いたが、動揺して皿に落としたようになって、高い音を立ててしまった。
 ブラッドが席を立った。身を翻し出てゆく。
「追うのです、お嬢様!」
 ネラ夫人の叱咤が飛んでくる。
「駄目、ブラッドは知っているのかもしれない、わたしがまたあなたと手をむすんだって」
「お嬢様、躊躇している暇などございませんよ。第一、ブラッド様になぜわかるのです、昨日のわたくしたちの会話を知る機会も術もないのに」
「でも変なのよ、昨日までと態度が違う」
「それは焦っておいでだからでしょう、もしくは怯えてらっしゃるのでしょう、相棒のヒュー・ヒュゲットが姿を消してしまい、あのかたの味方は一人もございません。そのうえ白状させようと思っていたゾフも死に、打つ手がなくなったのです」
「そうなのかしら、ほんとうにそういうことなのかしら」
「いいですか? 今が好機なのですよ、陰の協力者のおかげで邪魔者がすべて消えた今、あとはユースタス様がブラッド様を篭絡させるだけです」
「そんなに陰の協力者を信用していいのかしら」
「わたくしだって信用しているわけではございません、ですが事態がわたくしたちに有利に働いているのは事実。なんにせよ、協力者を気にしている時間はございません、わたくしたちが為すべきはこの状況を存分に活用することです。さあ、行くのです、ブラッド様を追って、話しかけて、やさしくしてやって、こころをお嬢様にむけさせるのです」
 動けなかった。
「ブラッド様が欲しいのでしょう?」
 欲しい。でもほんとうに、わたしに手に入れられるのだろうか。ブラッドがこのわたしを望む、などということがあるだろうか。
「解毒薬が間にあわなくなりますよ、さあ、早く!」
 わたしの体がぴょんと跳ねて椅子から立った。

 ブラッドがどんどん先に行ってしまう。ガルトムーア・ホールからずいぶん遠くまで来てしまった。ブラッドは丘のてっぺんにいる。空がまぶしい。逆光のせいでブラッドの姿は切り抜かれた絵のようだ。切り絵が足のほうから地面へ消えてゆく。丘の反対側をおりていっているのだ。急いで駆けのぼったら、ブラッドはもう下の木立ちのところだった。ひねこびた木の幹に手をかけ、地面に眼を落としていた。
「何をしているの、足が速いのね、やっと追いついたわ」
 何気なさを装って近づいてみる。けれどもブラッドは顔をそむけ、また歩き出す。
「待ってよ、わたしも一緒に行くわ」
 聞こえぬはずがない。なのにブラッドは返事しないし振りむきもしない。
「待って、どこへ行くの」
 やっと振りむいた。だけど冷えた声で、
「ヒューを探しに行くに決まってるだろう」
「あてはあるの?」
「舘にいなけりゃ、外のどっかだろ」
 ぞんざいな口の利きかた。それほどわたしを疎んでいるのだろうか。わたしがネラ夫人に寝返ったと知って遠ざけようとしているのか。でも、少なくともわたしがヒュゲットのメッセージを消したとは気づいていないようだ。そうよ、ブラッドは自棄になっているだけよ、ネラ夫人が云っていたでしょう、彼は八方ふさがりなの、ヒュゲットがいなくなってしまってひとりぼっちなの。
 ちくちくと胸が針で刺されるように苛まれる。ニワトコの木の下に残してあった言葉を教えてあげたら? 洗いざらい、ネラ夫人と共謀していることも告白したら? 駄目。できない。今さら遅い。それにそもそもあのメッセージは教えてもあまり意味はない。と、そう思うことでわたしは自分を納得させる。そしてそれから、ブラッドはこんなにもヒュゲットを恋しがっていると、そう考えることでわたしは闘志を奮い立たせる。
「ヒュゲットは出て行ったのではないかしら。あなたを置いて一人で帰ったんじゃなくて?」
「何でそんなことを云うんだ」
 睨みつけてくる。ブラッドの怒りの熱が伝わってくる。わたしも熱くなる。わたしが燃やすのは嫉妬だ。嫉妬も悪くないとわたしは知る。今、わたしを目標へと走らせる原動力は嫉妬なのだから。
「ヒューは途中で投げ出したりしない」
 怒気をはらんだブラッドの声。
「ヒューはそんな男じゃない」
 嫉妬がますます燃えあがる。粘った血がどうどうと音を立てて全身を駆け巡り、指の先から爪先までゆきわたってわたしを恍惚とさせる。が、そこでふと、あの疑いがよみがえった。
 これほどヒュゲットのために激昂するなんて、やはりブラッドはメイナス・ジョイスが云っていたように、女性なのだろうか。ヒュゲットとブラッドは男と女、男女の恋人どうしなのだろうか。そうして二人のあいだでは体の欠陥などなんの問題にもならず、ブラッドはヒュゲットに愛されているのだろうか。
 不思議なことに、それがまたわたしの嫉妬心をさらに煽るのだ。白く光るまで熱せられ、余計なものが焼きつくされ、そうして純粋な感情だけが燃えつきることなく結晶となって永久に輝く。
 わたしはブラッドが欲しい。
 男であろうが、女であろうが、たとえ財産めあてにブラッド・ガルノートンになりすました詐欺師だろうが、わたしはブラッドが欲しい。手を握って、抱きしめて、寄りそって、このガルトムーアの荒野を二人っきりでどこまでも歩いてゆけたら。ヒュゲットなどよりわたしのほうが何倍も何百倍も、何万倍も理解してあげられる。だってわたしたち、おなじ化け物と呼ばれる者どうしだもの。
 だけど目の前にいるブラッドは、わたしを拒むかのように両手は固く拳に握りしめ、顔もそむけている。
「ヒューは医師だ。たとえ僕を見捨てることがあっても、患者を放り出していったりはしない」
 患者とはユリアのことを云っているのだ。ユリアを思うと胸が痛む。昨日、ゾフを探して舘じゅうを調べたとき、ユリアの寝室も覗いた。ユリアは鏡の前で身繕いをしているところだった。〈呪い〉病に侵されていることを秘密にしているから、部屋に閉じこもったきり人前に出ることなどないのに、第一、病状が進んで身繕いどころではないのに、いつヒュゲットに見られてもいいようにと淡い期待を抱きつつ櫛を握っていたのだろう。扉をあけたわたしをヒュゲットと勘違いして、慌てて鏡台の後ろに隠れようとした。入ってきたのがわたしと知ると、歓迎はしてくれたけれど笑みは悲しげだった。手も首もたえず震えているから二時間もかけてやっと半分結えたのよと、云っているそばから櫛が手から転がり落ちた。姉にはまだヒュゲットの失踪を告げていない。あと二時間かけて完璧な髪型に整えても、ヒュゲットは診察に来ないのだとはとても云えない。
 だけど、ヒュゲットがいなくなってわたしは安堵している。邪魔者が消えて喜んでさえいる。陰の協力者に感謝して、そして願っている。どうか永久に消えたままでいさせて。つまりそれはヒュゲットを、陰の協力者に殺してくれといっているのとおなじだ。またはとっくに殺していることを期待しているのだ。呪いだ。ひとの死を切望するなんて、わたしはヒュゲットを呪っている──
「魔女め!」
 恐ろしい名が叫ばれた。そして同時に左の頬のすぐ横を何かが飛んでいった。
「魔女め!」
 また叫ばれ、また飛んできた。石は今度は大きくそれて、見当違いのほうに飛んでいった。
 メイナス・ジョイスだった。いつ来たのか、それとも身を潜ませていたその藪にわたしたちのほうから近づいてしまったのか、ハリエニシダのむこう側からこちらを凝視している。赤い顔して眼も血走っている。衝撃だったのは、その形相が憎しみというより恐怖を表していたのだ。
「魔女め、い、い、」行っちまえ、と怒鳴ったのだと思う。呂律がまわっていない。相当に酔っているらしく、足もともおぼつかない。
 けれど繰り返される投石は明らかにわたしにむかってだった。傍らのブラッドには目もくれない。
 この男はなぜ、わたしを魔女と呼ぶのか。まえは天使と云っていたではないか。それはもちろんおべっかだったけれど、はじめて会ったときだって、魔女と罵った相手はブラッドだったではないか。それが今日はどうしてこうもわたしにたいして怯えるのか。
「魔女だって? なぜユースタスが魔女なんだ」
 ブラッドもおなじ問いを口にした。でも侮辱された怒りからではなく、まったく純粋な問いかけだった。ブラッドのこの態度はわたしの胸を抉った。酔っ払い相手に何をまともにとりあっているの。今はまずわたしを守るべきでしょう。そのひと、またわたしに石をぶつけようと構えているわ。
「メイナス、おまえ、誰がゾフを殺したのか知ってるのか?」
 なぜ急にゾフのことなんか持ち出したのか知らないけれど、ゾフの名を聞いてジョイスがひいいと悲鳴をあげた。
「やらんぞ、絶対にやらん、おれの首はやらんからなあっ」
 転げるように駆け出してゆく。
 ブラッドが追おうとした。とっさにその腕をわたしはつかんだ。「離せ」「いやよ」「離せったら」
 振りほどかれた。その勢いでよろけてしまう。それでも闇雲につかむ。行かないで、ジョイスなんて放っておいて、それよりもわたしの話を聞いて、もっと大事なことがあるのよ! どうと地面に倒れこむ。斜面を転がり落ちてゆく。それでもわたしは離さない。わたしがつかんでしがみついていたのはブラッドの足だった。一緒に転がるうち何度もブラッドの、わたしがつかんでいないほうの足がぶつかって蹴られた。でも離さない。絶対に離さない。ブラッドはわたしのものだもの。
 地面からブラッドの顔があがって、わたしを覗きこんだ。
「おまえったら、何なんだ、何だってこんなことするんだよ」
 泥に汚れ草がつき、擦り傷もできている。わたしもおなじようなものだろう。頬をぬぐったり髪をかきあげたりしてみて、のろのろと起きあがる。
「メイナスは首と云ってたんだぞ、聞いただろ、絶対何か知ってるはずなのに逃げちゃったじゃないか」
「どうせ酔っ払いのたわ言よ、そうに決まっているわ」
「邪魔したのか、話されたら困ることでもあるのか」
「もうどうでもいいわッ」叫んでいた。
「何だって」
「どうでもいいと云ったのよ! メイナス・ジョイスもゾフも、魔女の呪いも、もうたくさん。終わりにしたいの、何もかももう終わりにしたいのよ!」
「諦めるっていうのか、〈呪い〉病はどうするんだ、ユリアやマミーリアは? これからだってほかにも殺されつづけるかもしれないのに」
「いいえ、呪いも何もかも終わりにする、わたしが終わらせるわ」
「どうやって」
「わたしたちが結婚するのよ」
 ぽっかりとブラッドの口があいた。
「また何でここに結婚話が出てくるんだ?」
「ほかの誰も知らないけれど、アンヌ・マリーの伝説には実はもう一つあるのよ、呪いを止める方法の伝説が。それによるとわたしがあなたと結婚してこのガルトムーアの女主人になれば、魔女の呪いも終わるということになっているのよ」
「正気か? 頭がどうかしちゃったんじゃないのか」
 自分でもわかっている、いかに馬鹿げた発言をしているのか。でもなんとしてもブラッドを説得しなくてはならない。
「ものは試しというでしょう、聖書も日記も証人も、手がかりとなるものが失われてしまった、ヒュゲットがいなくては治療もできない、このままでは埒が明かないわ、だから」
「おまえがガルトムーアの女主人になれば呪いが止まるだって? どうせそれもネラがでっちあげた作り話だろうが。要するにいうなりになるおまえを女主人の座にすえてガルノートン家を支配しようって腹じゃないか、そんなこともわからないのか」
「でも! 呪いがネラ夫人の陰謀だという決定的な証拠はまだないじゃないの。ひょっとしたら伝説は作り話ではないかもしれなくてよ、魔女だってほんとうにいるのかもしれなくてよ」
「ハッ、お話にならないな」
 では、結婚してくれたらあなたが実はブラッド・ガルノートンの偽者だということをばらさないでいてあげる、とでも云えばお気に召すのかしら。
 でも云えない。プライドが許さない。いくらわたしがどれほどブラッドを好いていようと、相手の弱みを握って財産もちらつかせて小悪党と取り引きなんてさもしい真似は、死んでも厭。ネラ夫人ほどわたしを理解している人間はいないと改めて思い知る。たとえ作り話だろうと結婚は、魔女の呪いから一族を救うためでなくてはならない。でないと、あまりに自分が惨めすぎる。
 と、そのとき、何を思いついたというのだろう、ブラッドの声音が急に変わった。
「魔女がいるかもしれないって、そう云った?」
「云ったわ、云ったけど──」
「魔女はいるかもしれないとほんとうに思ってる?」
「え、ええ」
「どうしてさ、根拠は?」
「ええっと──、そうね、呪術よ」
「呪術だって?」
「そうよ、魔女が行う呪術よ。もしわたしがして見せたらどう?」
「魔女の呪術ができるのか?」
「できたら魔女の存在を認めて、わたしに結婚を申しこんでくれる? もちろん呪いを終わらせるための結婚ということだけれども」
 まじまじとわたしを見るブラッドの眼差しが、どこか辛そうだったのは思い違いだろうか。
 そして唐突に、上着の内ポケットへ手をつっこみ、出したものをわたしへ突きつけた。
「なあに、ボタンじゃないの」
「憶えは?」
「ガラスのボタンね」
 またブラッドがわたしをじろじろと眺めまわす。先ほどとは違う眼つきになっている。朝食のときとおなじ、疑念を抱いてさぐり出そうとする眼だ。
「このボタンがどうかして?」
 ブラッドは考えていたが、やがて頷いた。
「わかった、いいだろう」
「何のこと?」
「やってみろよ、呪術」
「今ここでというわけにはいかないわ、準備が要るもの。何日か待って頂戴」
「それじゃあ待ってるあいだに僕はメイナスを探す、そしてもう一度問いただす、いいな?」
「どうぞご自由に。あんな酔っ払いに何を聞いても無駄でしょうけど」
「君という人間がわからなくなってきた」
「約束よ、わたしの呪術を見たら結婚するのよ、忘れないで頂戴ね」

 それからのわたしといったら、まるでねじをいっぱいに巻いた、ぜんまい仕掛けのカナリアのようだった。せわしく羽ばたいては鳴き、またバタバタ飛びまわって鳴く。玩具の小鳥はピロロピロロと鳴いていたけれど、わたしが唱えていたのは、魔女はいる、証明してみせる、ブラッドに呪術を見せて、だ。
 まず訪れたのは母の寝室だ。確認しなくてはならなかった。以前聞いたときは、どうせお伽話だと馬鹿にして聞き流していた。今度はちゃんと細かいところまで頭に刻みこまなくては。
 まえに話してくれた呪術についてもういっぺん教えてくださらない? とお願いしたら、母は喜んでわたしを招きよせ、指を折って準備するものと実行の方法、注意しなくてはならない点まで説明してくれた。子どものお伽話にしては一つ一つが実際的だ。魔法の杖や魔法書などではなく、使うものは糸とカラスとラッパ。もしくは太鼓。だからこの呪術ならと考えたのだ。実際にできそうな呪術といえば、これしか思いあたらなかった。
「ユースタス、わたしのちっちゃな魔女さん、呪術の準備は大急ぎでしたほうがいいわよ」
 お伽話だろうが迷信だろうが、もう信じるしかない。母が窓を指してつづける。
「ほら、雲のお魚がいっぱい空を泳いでる、あれは慌てて逃げてるのよ、嵐がやって来るぞおって。嵐ってね、雷のおうちなの」
「お母様、お天気のことにお詳しいのね」
「だって、毎日こうして窓の外ばっかり眺めてるんですもの」
 ぼんやりと空を眺めつづける母の眼差しが悲しかった。阿片づけになって部屋に閉じこもっているのも、母の精神が弱いせいばかりではなかったのだろう。ネラ夫人がそう仕向けていたことは疑いようがない。それもみなわたしへの歪んだ愛情ゆえなのだ。
「もし呪術が上手にできたらご褒美をあげましょうね」
 とお母様が声を弾ませるから、せめて調子をあわせてあげる。
「まあ、何かしら?」
 母はにっこり笑うと立ちあがって、キャビネットから出してきた。我が家の紋を箔押しした、見覚えのある漆の箱だ。
「中身はまだヒ、ミ、ツ」
 そしてしんみりと、
「いつかきっと自分の娘に譲ろうと決めてたの、血をわけたわたしの娘に」
 不安が胸に立ちのぼってきた。
 箱の中の品はとっくに譲り受けているのだ。額縁でかこったワタスゲ、ガルノートン家の紋をかたどった銀細工。だけどわたしはその品を、失くしてしまった、そう、たぶん──死んだ者を悪く云うのは淑女のすることではない。
 なのに母ったら、いまだに空の箱を後生大事に持ちつづけている。
 やっぱりこの母は頭がおかしいのだ。そんな母から伝授された呪術が、はたして上手くゆくのだろうか。いいえ、そもそも呪術自体、絵空事なのだ。
 しかし、やめるわけにはいかなかった。わたしにはほかに方法がない。ここで止まったら、もう二度と立って進むことができなくなってしまう。
 だから母の寝室を出たあとも、わたしは精一杯急いだ。糸は裁縫室に行けばいい。ラッパはこころあたりはないが太鼓だったら、小さいトム兄さんの玩具箱にあったはず。そして嵐も母の言葉どおりなら──神様、信じる者にご加護を!──近いうちに来るという。問題はカラスだった。ワタリガラスが少なくとも五羽、生きたままで必要だった。嵐の空に踊らせねばならないのだ。
 どうしよう、どうやってワタリガラスを捕まえよう。部屋を歩きまわるがよい考えは浮かんでこない。窓の外を見ると、遠くの空にインクの跳ねのように黒い鳥の影が飛んでいる。あれはカラスかしら、うらめしいこと。カラスじゃなくては駄目なのかしら。キジならこのあいだ正餐にローストされたのが出てきたのに。まだ残りが何羽か食糧貯蔵庫に吊るされているかもしれない。ああ駄目よ、馬鹿ね、生きてなきゃ。
 そのとき気づいた。キジは自分で貯蔵庫に吊るされには来ない、誰かの手によって運ばれてくるのだ。それは領地内で猟を許可されている者、つまり猟場番人だ。
 キジが獲れるならカラスだって可能だろう。番人にカラスを調達するよう命じればいいのだ。
 だけど猟場番人にはどうすれば会えるだろう。そもそも務めているのはどこの誰? 思いあたったのは家計帳簿だ。帳簿にはこの舘の収支がすべて記録されており、管理しているのはネラ夫人だ。
 いつぞやグロットーの鍵を盗んだときと同様に、わたしは留守を見計らってネラ夫人の執務室に入った。帳簿は何冊かあった。食料台帳を開くが、キジやウズラの代金は書かれてあるけれど支払い先は記されていない。少し考え、奉公人への賃金台帳を見る。通いの奉公人は、園丁、猟場番人、御者、人夫。だけどやっぱり個人の名前はない。駄目だわ、お手上げだわ。
 が、あることを思い出した。ここに載っている奉公人たちはみな、兄の葬儀のときに柩持ちとして雇ったはずだ。ページをめくって昨年の四月の記載を探す。あった! 葬儀の日付の下に支払った相手の名前が四つ。幸運なことに名前だけでなく、住んでいる村も書いてあった。そのうち一つはブラッドと一緒に園丁に会いに行った村だった。とすると、残った三つうちのどれかが猟場番人ということになる。
 神様はわたしに味方してくださるらしい。いいえ、きっと悪魔が、新たに魔女となったわたしを祝福したのだわ。そう考えたら足が震えてきた。三つの村すべてを探す覚悟で、誰にも告げずにガルトムーア・ホールを出てきたのだった。頭巾つきのマントを頭からすっぽりかぶり、馬車など扱えないし乗馬などもってのほか、ひたすら自分の足で歩いてきたのだった。そうしたらなんと、難なく最初の村で見つかった。猟場番人の住まいは領主の御用をいいつかっているだけあって、村のほかの家よりはまだましだった。
 はじめからネラ夫人に頼めば、ことは簡単だったとわかっている。ネラ夫人にただひと言、カラスが要るのよと命じさえすれば、執務室に忍びこむような賤しい真似もしなくてすんだし、今みたいに、このような下々の家の前に突っ立ってノックもできずにぐずぐずと逡巡することもなかっただろう。だけど、ネラ夫人の手を借りるのは憚られた。自分一人でなしとげるべきだと思われた。だって実行しようとしているのは母から教わった呪術なのだ。これはわたしと母の領域。ネラ夫人には踏みこまれたくない。わたしは娘として母へ敬意を示したかった。そしてまた、せめてもの罪滅ぼしでもあった。ネラ夫人が母へ犯した罪は、ひとえにわたしへの歪んだ愛情ゆえだったから。
 ともかく、悪魔の手引きであろうがなんだろうが、わたしは猟場番人の住まいをつきとめた。さあノックだ、戸を叩いて番人と会うのだ。
 不審げにこちらを窺っていた猟場番人に頭巾をおろして顔を見せてやったら、お舘のお嬢様だと悟ったらしく、たちまち額ずかんばかりになった。わたしは簡潔に、というより緊張したせいで言葉を選ぶ余裕もなく、単語だけならべた。ワタリガラス、五羽、生きたまま欲しい、すぐに。
 それがかえって貴族らしい尊大な態度と受けとめられたようだ。かしこまりました、すぐに、すぐにとどけますです、とおかしな言葉遣いで番人は頭をさげっぱなしだった。三日のうちには必ずと約束させ、わたしはせいぜいとりすまして小屋をあとにした。
 十歩も行かないうちに膝から力が抜けた。それでも猟場番人の家が遠ざかり、完全に村の外へ出るまでは、しゃがみこむのも駆け出すのもこらえていた。
 そうしてムーアの、ヒースだけが風に吹かれて囁きあっている野原に来て、ようやく胸にためこんでいた息を吐き出した。なんだ、やってみたら案外、簡単じゃあないの。息とともに笑いもこぼれ出る。
 が、すぐに笑いは止まった。前方から人影がやってくる。ふらふらと右へ傾いたり左へつんのめったりしながら歩いているのは、メイナス・ジョイスだった。
 厭だわ、また酔っているのだわ。
 先方もわたしに気づいた。とたんのけぞって、尻餅をついた。「ま、魔女!」
 寄るな触るなと腕を振りまわし、お尻をついたままあとじさって逃げようとする。「ひ、ひ、人殺しぃ」
 またわたしのことを魔女と呼んでいる。しかも人殺しですって? 無礼にもほどがある。難題を一つなしおえたわたしに怖いものはなかった。上から傲然とジョイスをねめつけてやる。
「待ちなさい、人殺しとは何ごとです、なぜおまえはわたしを魔女と云うの」
 地にひれ伏すジョイス。
「賤しい愚か者、さあ正直にこたえるのよ」
「か、勘弁してくだせえ、どうか首だけは」
「首ですって? いったい何を云っているの」
「あんた、いや、あなた様があのゾフの首を切って殺したじゃあありませんか」
「何ですって!」何を云い出すのだ、気でも触れたか。「出鱈目を云うと承知しないわよっ」
「で、で、で、出鱈目ぇ? おれにあんなことまでさせておいて出鱈目ぇ?」
 地面の草をむしりとっては投げ捨てる。
「城ン中であんたがおれを逃がしたとき、さっさと出ていかなかったのが間違いだった、燭台かハンケチか、くすねようなんて思わなきゃあよかったんだ、あの城もいけねえ、あんたら貴族の城ときたらやたらでっかくて、使ってない部屋がいっぱいあって、そのうえ召使いも滅多に来ねえときた、簡単に身を隠せらあ」
「おまえがゾフのお供をしてガルトムーアへやってきた日のことを云っているの?」
「おれぁ逃げずにこっそり泊まることにしたんだ、空き部屋のベッドはふかふか、地下の台所に行けばとろい下女しかいねえし、食い放題に飲み放題、帰るのはあんたにもう一度会って、昔話聞かせて、たんまり礼をもらってからでも遅くないってそんなこと、ああ考えなきゃあよかった」
「だからおまえは何が云いたいの」
「夜中だった、二晩目だった、おれぁ夜食でもあさろうかと台所へ降りてったんだ。そしたら誰か来た、おれぁとっさに奥の洗い場に隠れた、驚いたね、こりゃあどうしたわけだ、あんたじゃねえか、舘のお嬢様のあんたが地下の台所なんかにしゃなりしゃなりとやって来たんだ、それも夜中にだ。何か変だ、怪しいとは思ったんだが、けど二人でこっそり話すには都合がいい、話すこと話してたんまり礼金せしめてって、ああそんなこと考えなけりゃ──」
「先をつづけて!」
「あんたはまっすぐ食物庫へ行って、まるで貯蔵してあった豚でも出してくるみたいに引きずってきた。思わず悲鳴をあげそうになったよ、慌てて口を押さえ、台所が暗いことを、蝋燭が一本ついてるきりだったことを、神様に感謝したよ、おかげであんたに気づかれなくて助かったって。それにあんなおぞましい光景、明るい中でやられたりしたら気が狂っちまう。あんたが引きずって出してきたのはゾフだった、ゾフはぴくりとも動かんかった、されるがままだった、あんたは斧をとった、そうしてそれから首んところを、」
「もう結構、もうたくさん」
 しかしジョイスは戯れ言をやめようとしない。
「何で止めるんです、自分のしたことだ、あんただって憶えてるでしょうが」
「憶えてなどいないわ、憶えているわけないでしょう、地下になんて行っていないもの」
「また御冗談を、おれぁこの眼で見たんだ、あんた、重くてゾフを調理台に持ちあげられんかったから、そのまま床で、」
「やめて! この酔っ払いめが出鱈目ばかりならべて」
「そりゃそんときも酔っとりましたが、前の晩から飲みつづけておりましたが」
「ほらご覧、どうせ酔った挙句に夢でも見たのよ」
「どうしてあれが夢なもんか、あんたはおれにさせたじゃないか、あんたはおれにゾフを……。あんたは魔女だ、噂はほんとだった、あの城は魔女の城だ!」
「お黙り!」
「あんたはゾフの首を盆に載せて、それから背中むけたままおれに云ったんだ。おれぁ飛びあがったよ、覗き見してたのがばれてたんだ、あたりまえだな、なんせ魔女だからな、背中にも眼があるんだ。その背中がおれに命令した、残りはいらないからおまえ捨てて来いって。残りって何だ、あれのことか、首のない死体のことか、とんでもねえ、そんなことできるかっておれは怒鳴りつけてやりたかったんだけど、舌の根ががくがく震えるし、喉はカラカラ、声も出ん。そしたらあんたの背中がまた云った、さっさとしないと魔女に呪われるぞ、この首とおなじ目にあいたいか! 一生忘れられん、どんだけ飲んでも、浴びるほど飲んだって、忘れられんあの背中、蝋燭の火にドレスのボタンが光ってた、ガラスのボタンだった、でも一個、なかった」
 ガラスのボタン──
「あんたは首の盆を掲げて出ていっちまった。おれは腰が抜けて、小便まで垂れてたけどそれどこじゃなく、どうにかこうにか立って、首のないゾフをかついで城を出た。拍子抜けするほど軽くて泣けてきた」
 そしてジョイスは血走った眼をむき出し、地べたからわたしを覗きこみ、
「おれぁちゃんとやりましたよ、あんた、いや、あなた様に云われたとおり、ゾフを捨ててきましたよ、だからおれを呪ったりしませんよね、噂じゃ魔女のこと云いふらしたら呪われるって話だけど、おれ、喋ってません、誰にも喋ってません、だからどうか呪わないで──」
 何がなんだかわからない。何がどうなっているの、酔っ払いのたわ言かと思ったけれど、それにしては話が詳細で、まるで実際に見て体験したことのよう。では、ジョイスが語ったことは真実? このわたしが魔女?
 ガラスのボタンですって? 
 ブラッドからわたされたのもガラスのボタンだった──
「魔女様、魔女様、どうかお許しを」
「お黙り!」
「どうかおれを呪わないでください、魔女様あああ」
「お黙りなさい、わたしを魔女と呼ぶんじゃない!」
 自分でも思いがけないほど凄みのある声が出た。
「おまえもゾフのようになりたい? 黙るのよ、金輪際その汚い口を開くんじゃない、もう一度魔女と云ってご覧、今度こそ呪ってやる、おまえの首も切り落としてやる、そうしてほしい? ほしくないでしょう? そう、いい子ね、そうやって口を閉じてらっしゃい。誰にも話してはいけない、おまえが見たことも、わたしが魔女だということも絶対に漏らしてはならない。いいえ、それだけじゃない、姿を現すのも駄目よ、わたしだけじゃなくブラッドにもよ、わたしたちの前に現れないで頂戴、だって今度またおまえを見たら、こうして怒りを必死におさえているのにおさえきれなくなって、呪ってしまいそうになるのよ」と指をくねらせながら、あたかも空中から呪力をつかみとらんというように腕を高くあげる。
 ジョイスは叫びそうになって、慌てて口をふさいだ。
「そうよ、口を閉じるのよ。行きなさい、二度と姿を現さないで!」
 飛びあがって立ち、一目散に逃げてゆく。小さくなってゆく後ろ姿に、わたしの体から力が抜けていった。その場に座りこんでしまいそうになる。手のひらが汗で湿っている。
 しかしいつまでもこうしてはいられなかった。わたしも急いでガルトムーア・ホールへ帰らねばならなかった。確かめねばならない。
 舘にもどり、まっすぐ自分の寝室へあがり、奥の続き部屋へ進んだ。衣裳箱をあけてドレスをかきわける。そして見つけた。
 背中のボタンが一つとれてしまったドレス。糸だけがほつれて垂れている。
 鏡台へ走って抽斗からボタンを出す。ブラッドからわたされたボタンだ。それをドレスの残ったボタンと比べてみる。おなじだ。おなじガラスのボタンだ。
 考えなくては。筋道を立てて考えなくては。ブラッドがわたしにこのボタンを突きつけた理由について。メイナス・ジョイスが地下の台所で見たと云いはっていたことについて。そしてわたしが今手にしている、背中のボタンがとれたドレス。
 やがてたどりついた結論はおぞましいものだった。あまりの汚らわしさに、わたしは叫び出してしまいそうだった。叫ぶかわりにドレスをつかんで立ちあがり、暖炉へ放りこんだ。握っていたボタンも投げ入れた。
 火がドレスの下敷きになった。火掻き棒でつついて息を吹きかけると、炎がよみがえって大きく閃いた。赤い舌がたちまちドレスを舐めてゆく。
 暖炉から放射される熱を全身に受け、絹のこげる匂いを胸いっぱいに吸いこむ。そしてひたすら祈る。
どうか炎が清めてくれますように──!

ブラッド5 ねえ、顔をあげて僕を見て。恥ずかしがらないで

 とうとう雨が降ってきた。雨はムーアを打ちつけ、その烈しさに大地はけぶり、ヒースもワタスゲも白いベールにまつわりつかれながらじっと雨を受けとめている。
 風に背中を押されるようにして進んだ。指定された場所はガルノートン家の墓所、一族の遺体が納められているグロットーだ。しかしこんな嵐の中、ほんとうにやるつもりなのか。雨音は耳をふさぐかのようだった。なのに風の唸りは鋭く耳の奥までとどいて、空が吠えているかのようだ。濡れた髪の毛の先から雫が垂れて、唇へとつたってゆく。
 グロットーが見えた。荒野のただ中にこんもりとした隆起がある。形の半分は石積みによって補われていて、正面にまわると両開きの黒い扉がはめこまれている。
 だけどユースタスはいない。見まわして探すが人影はない。人工洞窟の墓が雨に叩きつけられてるだけ。やっぱりだ、濡れただけ無駄だったってことだ。
 呪術を実演してみせるだなんて、また何で云い出したか見当もつかないが、僕が応じたのはもしやと思ったからだ。マミーリアは病のせいで錯乱したのだとしても、メイナスまでもがユースタスに怯え魔女と呼んでいた。僕も見た、夜中にユースタスが何かを持って──まさかほんとにゾフの首?──エリザベスの寝室へ入っていくのを。確かめなくてはならなかった。しかしメイナスはあれからどこを探しても見つからない。残った方法は一つ、もしユースタスが一族や邪魔者たちを次々と殺してきた魔女──ネラと共犯だったのか?──だとしたら、ヒューもまだ解明していない〈呪い〉病を引き起こす術を、僕の前でやってみせるだろう。
 馬鹿げてる。ユースタスが魔女だなんてまったく馬鹿げてる。ガラスのボタンを返したときも動揺なんかしてなかった。今だって、ほら、やっぱり来てないじゃないか。あの性悪娘、今ごろぬくぬくと暖炉に暖まりながら待っていて、あなたったらあんな冗談信じたのって笑うに決まってる。
だから舘へ引き返そうと思った。そのときだった。グロットーのてっぺんにユースタスの顔が現れた。
 つづいて肩と胸も現れた。裏側の斜面をのぼってきたのだ。スカートの下半身も現れ、グロットーの上に立って僕を見おろした。
 両手に荷物を一つずつさげている。一抱えほどもある大きさのバスケットと、もう片方は小ぶりの布包み。バスケットの蓋はリボンで何重にもくくってある。
「お待たせしたわね、この嵐がどうしても必要だったの。ではこれから呪術をはじめるわ」
「おりろ、危ないじゃないか、帰ろう、遊びはここまでだ」
「呪術をやってみせるって約束したでしょう?」
 ユースタスの顔の上を雨がとめどなく流れ落ちていく。睫毛にたまり、半開きの口へも容赦なく流れこむ。しかし眼はまばたきもせず、唇はうっすらとした笑いの形を崩さない。まさかほんとうにやる気なのか。やめてくれと願った。君は呪いの術なんて知らないはずだろう?
「ほら、聞いて」
「何?」
「聞こえてきたわ」
「何が」
 グロットーの上と下でやりあって、もどかしい。
「ほら、雷よ」
 雷?
「雷をここに呼んでみせるわ」
 何の話だ、〈呪い〉病を起こすんじゃないのか。
「あなた、云ったじゃない、牛乳が酸っぱくなるのやシーツの黄ばみや、雷は魔女の呪術なのかって。牛乳が酸っぱくなるのは桶を熱湯で洗わないせいなの、シーツを白くたもつためには干すときに芝生に広げるの。でも雷を呼ぶのは、魔女の呪術なのよ。あなた、グロットーの中を見たがっていたでしょう、だから雷をここに──」
 だしぬけに空のどこかで雷鳴が轟いた。きゃっとユースタスは首をすくめたが、すぐに顔を輝かせてあおぐ。バタバタと、足もとに置いたバスケットの中でなにやら騒いでいる。
 また雷が鳴った。だが稲光は見えない。ぶ厚い雲の底で不満げな唸りがつづく。
「冗談云ってないで早くおりろよ」
「駄目よ、どれだけ苦労して準備したと思っているの、すべてこのときのためよ」
 小さいほうの包みをとく。出てきたのは太鼓だった。肩にかけるベルトがついていて、ばちもぶらさがっている。呆れて言葉も出ない。子どもの玩具じゃないか。あれを叩いて雷の真似でもするつもりなのか。
 光った! そして雷鳴。でかい! 近づいてきている。
 ユースタスが急いでバスケットのリボンをほどいた。だけど蓋をあけたのはユースタスではなく、内側からだった。同時に出てきた。鳥? カラス? 
 カラスはいったんバスケットのへりにとまり、跳ねてむきを変え、首をひねり、それから飛び立った。嵐の空へまっすぐ飛んでゆく。
 バスケットの中からまた出てきた。飛ぶ。つぎつぎと出てきて飛んでゆく。
 と、バスケットがふわっと宙に浮いた。ユースタスが慌ててつかまえる。足場が悪く躓く。あっと思ったがユースタスは膝をついただけですんだ。バスケットはしっかりと抱え持っている。
 バスケットの持ち手に糸が数本むすばれているのだ。それが宙へとのびて不穏に揺れている。カラスとつながっているんだ。たぶん足にむすんであるんだ。上空ではかまどの焦げカスみたいな影たちが、急に高度をさげたり、旋回したり、ある一定の範囲を乱れ飛んでいる。
 風雨に打たれて飛び疲れ、カラスたちが降りてきた。すると、どーん! と妙に元気でほがらかな音が鳴って、驚いたカラスたちはまた高く飛んだ。が、つながれているからどこへも行けない。太鼓が鳴る。カラスは鳴きわめきながら上空を飛びつづける。
 そうやってユースタスはカラスが降りようとするたびに太鼓を打ち鳴らした。バスケットは蓋を縛っていたリボンで、グロットーの石積みの一つにくくりつけてあった。太鼓の響きは明るく、カラスの鳴き声には恨みがこもっている。
「おりろ!」僕は叫んだ。
「危ないから、早く!」
 でも聞かないからグロットーの斜面をよじのぼって、ユースタスのスカートをつかむ。それでもユースタスは太鼓を叩いている。
 そうして突然だった。ちょうどユースタスの体が僕にひっぱられ、倒れかかったときだ。
 それはとても運がよかったのだと思う。間一髪で助かったんじゃないかと思う。ユースタスが落っこちてきて、それを抱きとめて、一緒に地面に落ちて、転がっていって、そのあいだに視界の端でとらえたのは、空に光の線がギザギザに走ってカラスの一羽に命中した。次の瞬間、すさまじい轟音が塊となってムーアに打ちおろされた。
 しばらく顔をあげられなかった。ユースタスと二人、地べたにつっぷしていた。感じられたのは背中に振り注ぐ雨と、僕の下になったユースタスの震えと、ずぶ濡れだというのに信じられないほど温かいその体温だった。
 先に声を発したのはユースタスだ。
「どうなったの、雷はちゃんと来た?」
「ああ、来たさ。落ちたんだよ。なんて無茶な真似するんだ、死んでたかもしれないのに」
 しかし起きあがってグロットーを見ると、雷が落ちたというのに何の変化もない。鉄の扉はぴたりと閉じ、鎖と錠で厳重に守られている。
「ああ、失敗だわ。雷で扉を壊そうと思ったのに」
「そうか、まえに一緒にここを調べに来たとき鍵穴につめものがされていて入れなかった、それを憶えててくれたんだね」
 ところがユースタスは返事をしない。ぷいとむこうへ歩いていってしまう。何か態度がおかしくないか。
 すると、あっ、という声があがった。
「ねえ、こっち! 見て頂戴」
 呼ばれて洞窟の後ろ側へまわりこんでみると、てっぺん近くの石積みが崩れていた。大きな穴があいている。
「雷にやられたんだ。凄いじゃないかユースタス!」
「どうしましょう、ただのお伽話だと思っていたのに。まさかほんとに呪術ができるなんて──」
「馬鹿云っちゃいけない、呪術なんかじゃない、科学さ。ヒューのメスマー舘にあった本で読んだよ、フランクリンの凧だ、あれとおんなじだ」
 ぽかんと僕を見返すユースタスに笑ってしまった。
「まあいいさ、早く中を見てみよう」
 穴は胸の高さだった。穴の縁に手をかけてのぼり、ユースタスに手を貸しひっぱりあげる。先に中へ飛び降り、ユースタスが降りるのを助けてやる。
 穴から雨とともに、弱々しい光も入ってくる。土の床にぼんやりとした光の円が落ちている。床は傾斜がけっこうあって、奥へとさがってゆく。入り口の扉から想像していたよりも広い。細長く感じるのは両側の壁にそって納体のための棚が設えてあるからだろう。柩は頭を手前にして縦に置かれてある。棚は何段もあって、そして何列も奥へとつづいていく。
 僕らが降りたところの棚が、崩れた石によって破壊されていた。そのせいで柩が傾いたり、落ちてしまっていた。落ちた柩は蓋もはずれていて、その一つにユースタスが息を呑んだ。
「エレン伯母様──、この屍衣と指輪、エレン伯母様だわ」
 胸にリボンの飾り、金の指輪、園丁の云っていた遺体はこれか。
 園丁の話したとおりだった。頭がなかった。箱の中で屍衣はかろうじてひとの形の膨らみをたもっており、袖から覗く手は干からびて真っ黒に変色しながらも肉がまだ骨にへばりついている。枯枝の先っぽみたいな指には指輪が、ぶかぶかになってしまっているけれど、でもちゃんとはまっている。だけど首から上はない。
 ドレスの襟に切れた首の断面が覗いていた。黒く縮んだ肉の真ん中に骨が飛び出ていた。その下の底板に、血の跡だろうか、しみができている。しみは小さい。それほど出血しなかったということだ。
 吹きこむ雨が指輪を濡らしていた。雫が金色の輪を拡大して、指輪の上を流れ落ちた。
「エレン伯母様、お可哀相に──。でも! 埋葬されたときはこんな姿じゃなかったわ。わたし、確かにこの眼で見たもの、柩の蓋が閉まるまで見ていたもの。わたしだけじゃない、ジョン兄様だって、ユリアやマミーリアだってその場に一緒に、」
 それを聞いて思いついた。「先代伯爵ジョンの柩は?」
 ユースタスが震える指でさす。
「それよ、一番新しい柩、ガルノートン家の紋の箔が押してある」
「ああ、ワタスゲね」
 壊れた棚の上から二段目だった。横板が斜めになっていたが、柩は柱にひっかかって落ちずにすんでいた。
「待って頂戴、まさか中を見る気なの?」
「遺体に頭があるかどうか調べるんだ」
「やめて」
 かまわずに背伸びして蓋を押しあげ、覗く。
「やっぱりだ、こっちも頭がなくなってる」
 ユースタスも横に来て覗き、愕然となる。エレン伯母と同様だった。屍衣を着た体はまだ形をとどめている。手も乾いて凝縮した肉が骨にぎゅっとしがみついている。全体的に小さいように思えるのは、死後の変化だけではなく、生前から〈呪い〉病のせいで痩せ衰えてしまっていたからだろう。そしてタイをむすんだ襟のところで首は断ち切られている。頭があるはずの部分は虚しい空間で、柩の底が見えている。
「どうしてお兄様まで──」
 よろけて、ユースタスが思わず手をかけたのが落ちかかっていたまたべつの柩で、派手な音を立ててずり落ちてしまった。
 子供用の小さな柩だった。落ちたショックで蓋がはずれ遺体が飛び出た。これはもう骨になっていた。か細い骨が散らばった。「これは小さいトム兄さんよ!」だけど頭骸骨はない。もしやどこかへ転がっていってやしないかと探したが、なかった。
 柩を床に置き直して、骨を拾い集め丁寧に納めた。それからほかの柩も調べることにした。
 壊れた棚にはあと二つ柩があった。「ワタスゲの箔があるのが先々代のガルトン伯爵、父よ。その隣は、おそらく前の妻だと思うわ」傾いた棚から落とさないよう慎重に蓋をあけてみた。ユースタスはもう声も出なかった。静かにかぶりを振っただけだった。頭蓋骨の失われた先々代伯爵の柩を閉じた。
 つづいて先妻の柩をあける。あれっとなってユースタスと顔を見あわせる。先妻の遺体には頭があった。白い骨となった頭だが。
「そういえばユリア姉様が、生みの母親は呪いで死んだのではないと云っていたわ」
「一族の聖書の記録にもあった、死因は確か、肺炎だった」
 柩はまだあった。棚は洞窟の奥へと幾つもならんでいるのだ。順番にあけて中を確かめる。
 柩や屍衣の状態から年代が古くなっていくとわかる。どれも白骨体だった。そしてどれもがちゃんと頭の骨もそろっていた。聖書の記録によると病気だったり事故だったりさまざまだけど、決して魔女の呪いなんかでは死んでいない者たちだ。
「つまり頭がないのは先々代からこっち、ネラに殺された四人だけだ。遺体をここに納めてから、あとでこっそり切断して持ち出したんだ」
「なぜそんなことを──。ネラ夫人は殺すだけでは飽き足らないというの?」
 棚の列のむこう、暗がりで何かが光った。
 洞窟はずいぶんと奥深くまで掘られているようだ。天井にあいた穴から光が射しこむといっても、とてもそこまではとどかない。けれど奥にある何かが反射している。
 その小さな光にむかって進んだ。「どうしたの、どこ行くの、危ないわ」
 棚がとぎれた先は暗闇しかない。光はもう見えない。角度が変わったのか、僕の体で陰になってしまったのか。手をのばしてみる。闇の空間かと思ったら、触れた。布だ。袋か? 
つかんでひっぱる。が、挟まっているのか出てこない。勢いつけて力いっぱいひっぱった。抜けた! と思ったらたくさん雪崩落ちてきた。逃げたけど遅かった。転がってきたものに足をとられ、倒れた上にまた落ちてくる。
「大丈夫なの?」
 だが駆けよってきたユースタスが悲鳴とともにまたさがった。
 僕も闇に眼を凝らし、何が自分の上に乗っかってるか知ると叫びそうになった。はらいのけて飛び起きる。
 骨だ、服を着たひとの骨。袖口から腕の骨が突き出ている。でも指の骨はバラバラに散らばってしまったらしい。男の服だった。上等な上着だった。ボタンがずらりとならんでる。けど型は古い。ネクタイのこんな大きなやつも何年も前の流行だ。で、その上の頭蓋骨は? どこいった?
 見まわしてまた声をあげそうになる。あたりは骨の死体が散乱していた。その奥では重なりあっていた。積み重ねられた中から僕が無理にひっぱり出したから、山が崩れてしまったのか。
 死体は男のも女のもあった。高級品だけど古びてしまった衣類は胸のところだけが盛りあがっている。手足の骨が散らばっている。靴を履いている骨もある。腕輪をはめている骨もある。だけど、どれだけ見ても、頭蓋骨は一つもない。
「ああ、わかったわ」
 ユースタスが声をあげた。
「このひとたち、パーティーの客じゃないかしら。ガルトムーア・ホールでは以前は頻繁にパーティーが開かれていた、この死体の身なり、みな、それなりの身分のようよ、招待客にふさわしいわ。それに兄のジョンの日記を思い出してみて頂戴、ゾフが密かに運びこんだ魔女の呪いに侵されていた男もパーティーに来ていた客だった、そして〈呪い〉病で殺された父や兄たちの遺体の首がなくなっている、こっちの死体もどれも首がないわ」
「首はきっとあそこだ。ほら、城の裏口の屋根裏に、大量のどくろが隠してあったろ?」
 ユースタスもはっとなって手を口もとにあて、
「では、お父様たちの頭もあの中にあったということ? ああ、ではわたしの部屋にしまってあるどくろは」
「おそらく胴体はこの死体のどれかだ」
「パーティーといっておびきよせて、みんな〈呪い〉病で殺してしまったのね。そして首を切り離したのね。でもどうして。どうしてネラ夫人はそんな残酷なことをするの? ガルノートン家以外のひとたちまで」
 わけがわからない。ネラは狂っているとしかいいようがない。
「ああ、けれどこれはわかったわ。昔の招待客をもう一度招くとわたしが云ったら、あのひと嘲笑ったのよ。そんなことをしたって無駄だって知っていたんだわ、だってみんな死んでしまっているんですもの、頭のない白骨死体になってここにいるんですもの」
 ユースタスは自嘲の笑いをもらしかけたが、ふと死体のほうへ目をとめた。指さした。
「あそこに落ちているあの眼鏡、ドクター・ヒュゲットのでは?」
 何だって! 
 飛んでいって、でも散らばった骨を踏まないよう注意して、拾う。
 違った、これは御婦人用の手持ち眼鏡(ローネット)、ヒューのじゃない、よかった……。さっき光っていたのはこれだったかもしれない。
「そう、違っていたのね、きっと死体のうちの誰かの持ち物ね」
 そう云うとユースタスはそそくさと背中をむけた。
「引きあげましょう、もうたくさんだわ」
「ちょっと待った、さっきからどうも変だな、どうしてこの眼鏡をヒューのだなんて思った?」
「べつに理由なんて」
「どうして呪術の実演にこのグロットーを選んだ? 何で扉を壊してあけようとした? まえに僕がここを調べたがったからだけじゃないな、さては何か知ってるな?」
「知らないわよ、馬鹿なことを云ってないでもう帰りましょう」
「駄目だ、話すまで帰らない」ユースタスの腕を強くつかんでやる。「僕が助けてやらなきゃ、一人で天井の穴にのぼれないだろ? さあ、話せ」
 すると、わかったわよと息をついた。告白のきっかけを待っていたかのようだった。
「ここだったのよ、バートルとやらがドクター・ヒュゲットに伝えていた場所は。ニワトコの木の下の地面にあった文字は、ここ、グロットーだったの、そう書いてあったのをわたしが踏んで消したの、ごめんなさいね、許して頂戴ね」
 阿呆みたいにあいた口がふさがらない。
「せめてもの罪滅ぼしに、呪術でグロットーの中に入れるようにしてあげられたらと考えたのよ」
 返事するかわりにまじまじとユースタスを見る。
「そんなにわたしを責めないで頂戴、もう謝ったでしょう、グロットーにだって入れたじゃない。第一あなたに責める権利はなくてよ、だってあなた、ヒュゲットの恋人なのでしょ」
「恋人! 何云ってるんだ」
「怒鳴って誤魔化さないで」
「筋が通らないだろう、むしろ恋人だったら彼を探す手がかりを消されたんだ、責める権利はあるだろう」
「ああ、やっぱり恋人なのね」
「違うってば!」
 ユースタスの眼差しがひたすら僕に注ぎこまれる。
「違うの?」「違うよ」「ほんとうに?」「ほんとうさ」「間違いなく?」「間違いない」「なら、誰?」「何だって」「誰が好き?」「君だよ」「わたし?」「君だよ」「わたし?」「君が好きだ」「わたし?」「ああ君が好きだ」「わたしが好き?」「そうだよ、僕は君が好きなんだよ」「ならいいわ」
 あとは天上の穴から落ちてくる雨の音だけだった。
 しばらく雨の音だけだった。

 ユースタスと二人でもう一度、グロットーの中を調べ直すことにした。でもヒューを探すのではない。バートルが書き残したこの場所にもしヒューが来ていたとしても、扉は厳重に施錠されているし、おまけに南京錠はつめものをされている。中には入れず外側から眺めるくらいしかできなかっただろう。そしてそのあとヒューはどうなったのか……
 ともかく今僕たちが探すべきは、自殺を決意したバートルが死ぬまえにどうしても知らせたかった、何かだ。
 奥に押しこまれていたパーティー客たちの死体を僕が引き受け、ユースタスは柩の棚をまわっていた。棚の段を一つ一つ丹念に見ている。柩も蓋をあけ中をすべて調べてまわっている。その一生懸命なようすがいじらしい。
 ユースタスの背中が止まった。細い声が云った。「これ、何かしら」
 棚の一番上の頭よりも高い段だったから、陰になっていたし、柩でもないし、だから今まで気がつかなかった。
 布で包まれたそれを慎重に地面におろした。軽くはなかったが持てないほど重くもなかった。大きさは小柄な人間くらいある。また死体だろうか。布はシーツのようだった。薄汚れ、あちこち破れていた。開いてみる。
 やはり死体だ。女だ。服でわかった。服は襤褸だった。死体はまだ新しい。といっても骨になったパーティー客や、柩に納められたガルノートン一家の遺体と比べてだ。このみすぼらしい屍の唯一の装飾品は、干からびて縮んだ手の指に、やけに大きい艶やかな爪だった。
「やっぱりこれも首がないのね」
 ユースタスの云ったとおり、この死体も頭部が切りとられていた。
「いったい誰なのかしら、この服装からして身分の低い者よ、一族でもないのにどうして棚の上に乗っていたの」
 女性、貧しい身なり、遺体の新しさ、背格好、そして頭がなくなっている。ここはバートルが最後に書き残した場所だ。僕には見当がついた。
「バートルの女房だ。一度だけ見たことがある。恐ろしいほど痩せ細っていて、叫びながら腕をくねくねさせて妙な踊りでも踊ってるみたいだった。でもそれは〈呪い〉病の症状だったんだ。気の毒にあれから死んでしまったんだ、それでバートルはこの墓所に葬ったのか」
「まあ! なんて不届きな。伯爵家の神聖な墓所を冒涜する行為だわ」
「少しは思いやりを持てよ、女房は〈呪い〉病の犠牲者なんだ、せめて墓くらい立派なところにと思ったっていいだろう」
「でもそのバートルはネラ夫人の下で悪行を重ねていたのでしょ、自業自得というものよ」
 こんなときだ、ユースタスにぶちまけてやりたいと思うのは。おまえだって実は賤しい生まれで、しかも罪人の娘なんだと。
「それにしても人騒がせね、あれほど苦労してここに入ったというのに、妻の亡骸の置き場所だったなんて」
 それは違うと思う。せっかくここに女房を葬ったのに、わざわざ明かして何の得がある? もっとべつの何かがあるはずだ。バートルが最後に伝えたかった重大な何かが。
 女房の遺体を包み直し、棚にもどそうとした。するとユースタスが邪魔する。
「駄目よ、下賤な者を一族と一緒にはできないわ」
「どうしておまえはそうなんだ、このひとだっておなじ犠牲者じゃないか」
「おなじじゃないわ、身分が全然違うわ」
 じゃあおまえの身分はどうなんだ、と出かかったのをぐっとこらえた。遺体を棚に乗せようと持ちあげる。ユースタスがシーツをつかんで邪魔をとする。ひっぱりあっているうちシーツが乱れ、何かが落ちた。二つ折りして紐でむすんだ、紙の束だ。
「何かしら」
 ユースタスが拾いあげる。僕も遺体をいったんおろす。
 ユースタスが紐をといて開いた。薄暗い中、眼を凝らすと、ぎっしりと字が書いてあるのがわかった。二人で顔を見あわせる。ユースタスが紙に顔を近づけ眼を細め、冒頭を読みあげた。
「私の魂は魔女に支配されており、逃れることはかなわず、ついに言葉まで奪われました。舌を切られたのです。ゆえに長年胸に抱えていた秘密を明かす手段は、もうここに記すしかありません。」
 それから紙をめくって最後の署名を確かめた。また顔を見あわせる。
「これはバートルの告白文だ」
 明るさを求めて天井の穴の下へ移動した。だけど雨が吹きこんでくるから、少しさがった。そうして二人で額をよせあって読んだ。

 私の魂は魔女に支配されており、逃れることはかなわず、ついに言葉まで奪われました。舌を切られたのです。ゆえに長年胸に抱えていた秘密を明かす手段は、もうここに記すしかありません。しかし魔女は常に私のそばにいて私を見張っているから、この文書の存在もすぐに知られてしまうでしょう。どこか絶対に見つからぬ隠し場所を考えねばならないでしょう。けれども、はたして私は秘密を打ち明けたいのでしょうか。それともこのまま、罪を抱えたまま、魔女と一生を添い遂げたいのでしょうか。わからない。わからないことが私のまた罪なのです。ともかく私の移ろいやすいこころが罪を恐れているうちに、これを書いておきましょう。そしてどこかに隠してひとまず保管しておこうと思います。この先この告白がどうなるのか、私のまったくもってこころもとない良心がついに決意して、犯した罪の許しを請うために誰かの手へ託すのか、それとも人知れず隠し場所の中で朽ちていってしまうのか、それこそ神のみぞ知るなのです。私の弱いこころを、弱いゆえに魔女に魅入られてしまったこころを、神よ、お許しください。
 たった今、良い隠し場所を思いつきました。伯爵様の城の墓所です。亡骸をグロットーに運び入れる際、包んだシーツの間にこの文書も挟んでおきましょう。先代伯爵のジョン様が亡くなられてもう一年、新しい伯爵が城にやってくるのは数日中でしょう。そうしたらお嬢様との婚姻を進めねばならず、当分の間、死人は出ないでしょう。したがって葬儀もなく、グロットーをあけることもないから安全です。亡骸は私が世話をしてきた女です。この憐れな狂女もまた魔女の餌食でした。何年も魔女の呪いに苛まれ、無残なほど痩せ衰え、つれてこられたときとはまるで別人のようになってしまいました。つい先日ようやく神のもとに召されたのです。彼女は幸いです。苦しみから解放されたのですから。ですが私はどうでしょう? この新たな苦しみ。焼ける舌。今も痛みに涙が流れ出てきます。しかし、愕然としましたことには、その涙の熱さは私にとって悦びの涙の熱さと何ら変わりないと気づいたのです。私の新たな地獄がはじまったのでしょうか。いいえ、地獄ではなく、罪深き私にとっては望んだとおりの楽園なのです。でなければ昨夜、跪かされ、砂糖挟みで舌を引き出され、その根に裁ち鋏の冷たい刃があてられたとき、逃げようと思えば逃げられたはずなのですから。

「汚らわしい……!」
 そうつぶやいたユースタスの顔が歪んでいるのが薄暗がりでもわかった。僕だって、バートルの忌まわしい部分なんて知りたくない。だけどいったん読みはじめたら、最後まで読むしかない。
 どうやらこの告白文が書かれたのは、バートルが舌を切られた直後のようだ。ということは、僕がブラッドとしてガルトムーアに来る少しまえだ。魔女に舌を切断されたと云っている。じゃあ、やっぱりネラの仕業だったのか。
 バートルは女房の亡骸とともに、いや、この書きかたでは女房かどうかは定かではないけど、告白文をグロットーに隠しておいて、とうとう自分も死ぬと決めたとき、ヒューにその在り処を伝えたんだ。

 魔女は私を痛みと恥辱でもって支配しています。ですが私も望んでいました。最初に出会った瞬間に私たちの関係は決定しました。主従の関係ではありますが、とどのつまり私たちはおなじ種類の人間なのです。それは出会ったときに、お互いの眼を見ただけでわかりました。お互いが何を欲しているか理解したのです。それ以来、私は何もかも捨てて魔女についていきました。家も、親兄弟も、まっとうに生きてゆけば得られたであろう職や妻や子や、そんな将来もすべて捨てて。そのかわり私が得たのは、私が真に欲していたものでした。この罪深い欲望を、私は幼いころからこころの奥底に押し隠していたのです。家を出て乞食同然の放浪生活をつづけましたのも、自らの欲望に恐れおののき、何とか消し去ろうと思ってのことです。神にすがろうとしたのもそのためです。神の力で救ってもらいたかったのです。ですが何もかも無駄でした。すべてはあの女と出会ったときに決定してしまったのです。誰にも理解はできないでしょうが、私は魔女の打ちおろす鞭の下で、これ以上ないほどの至福を味わいました。魔女に命じられ悪事に手を染めたときも、強要されて罪を犯す自分を恥じて、得もいわれぬほど恍惚となりました。
 私は魔女に命じられるまま、あくまで表むきは厭々仕方なく、でもこころの奥底では悦びに打ち震えながら、男の身でありながら伯爵家の下女となりました。怪しまれる心配はまったく無用でした。お子様たちは高貴な身分ですから、下働きの下女など目もくれません。警戒すべきはほかの使用人たちですが、こちらも次々と辞めさせられました。悪賢い魔女はエリザベス様に言葉巧みに取り入って絶大な信頼を得ていましたから、ご主人様の伯爵様に呪いをかけて八角塔に閉じこめてからは、ガルトムーア・ホールを自分の都合のよいように変えていったのです。
 下女というもっとも下層の身分に落ちながら私は、しかしその実、ご主人様がたの生き死にをその手に握っている魔女の、腹心の部下でした。実際この手で、呪いにかかった人間を何人も八角塔へ運びました。伯爵様ご一家だけでなく、正餐会のお客様も大勢いらっしゃいました。ただ、私はあくまで下女、仕事は下働き、八角塔に出入りできるのは憐れな犠牲者を運びこむとき、そして亡骸となったその者を運び出すときのみ、肝心の呪いをかける瞬間には係われません。それが次第に物足りなくなっていったのです。
 ですが、とうとうそのときが来ました。もっとも恐ろしい罪を犯す機会が私にあたえられたのです。ひとに死の種を蒔く呪いを行えと、魔女に命令されたのです。
 死の種とは、魔女がつくったキドニーパイです。見た目はどこにでもありそうなパイですが、いかなる術なのか、それを食べると早い者は二年も経たぬうちに異様な状態となって死んでしまうのです。
 思うにパイには小さな魔女の分身が潜んでいるのではないでしょうか。それがひとの体に入って暴れまわり、時に宿主を操って滑稽な動きをさせて楽しみ、また食べることも飲むこともさせず苛め抜いて、しまいには殺してしまうのではないでしょうか。
 鋏研ぎの行商人を偽の伯爵に仕立てるため雇い、それと同時にさりげなく夜食だといってわたしました。また先代伯爵のジョン様の葬儀の際、グロットーの中で見てはならないものを見てしまった園丁にも食べさせました。
 その後に襲われた罪悪感を何といったらいいでしょう。自分こそ体内に魔女の分身が巣食ったのだと感じました。おぞましいものが体じゅうを食い荒らしてまわっているようでした。頭の先から爪先まですべて食われて私は空虚な皮だけとなり、それだけではすまず、その皮があまりの後悔で裏返しになりそうでした。
 それがまた、たまらないのです。それが好きなのです。嘔吐するほどの悔恨が、わたしにはたまらなく甘美なのです。

「このひと何を云っているの。酷い内容だわ、とても読むにたえないわ」
 ユースタスが吐き捨てる。
 だけど僕が考えていたのはべつのことだ。キドニーパイ。僕がヒューと考えた推理はあたってた。キドニーパイが原因だったんだ。パイに仕込まれた毒物が病を引き起こしていたんだ。神経がやられて、まるで魔女に呪われたかのように見える病を。
 不意にユースタスに問われた。
「あなた、鋏研ぎだったの? まさかキドニーパイを食べなかったでしょうね」
 何のことだ?
「いえ、わたしの勘違いよ。忘れて頂戴」

 このような救いようのない私でしたが、悔い改めようと思ったことも幾たびかありました。特筆すべきは二度です。そのうちの一つは、後ほど詳しく説明します。私が今、こうしてこの文を書いているのは、まさにそれについて書き残さんがためなのですから。私が係わった魔女の悪事、私が犯した罪は数え切れませんが、そして今さら神の許しなど期待できぬのは重々承知しておりますが、しかし、もしできるならば、これだけはしかるべき人物に告白して、長年のこころの重石を取り除きたいというのが、私の切なる願いなのです。
 その話に移るまえにもう一つについて、改心しようと望みながらあえなく挫折した次第を書いておきます。それはつい先日のことです。最初にも書きましたが、私が世話をしてきた女がついに神に召されました。その憐れな女はエリザベス様がガルノートン家に輿入れする際、実家からつれてきた付き添いの女で、侍女になるはずだったとのことでした。魔女が私のもとに連れてきたときには、大量の阿片剤のせいですでに正気を失っておりました。ガルトムーア・ホールに入りこむため、魔女はその付き添いの女になりかわってエリザベス様の召使いとなったのです。本物の付き添い人のほうは、可哀相に奥方様の侍女として城で優雅に暮らせたはずが、魔女に阿片浸けにされて追い払われ、領地のはずれに打ち捨てられていた番小屋で、私ごときにやっかいになる身へと落とされたのです。
 悲劇はさらに重なりました。例の呪いの術が彼女にもかけられていたのです。考えてみれば阿片剤はむしろ救いとなっていたのかもしれません。阿片が効いておれば狂女のこころにもかりそめの平安がもたらされて、自分の身のまわりのことくらいはできましたし、ムーアを散歩したりもしていましたから。もっとも当人は阿片のつくりだす幻影の街で、優雅に買い物でもしているつもりだったのでしょうが。
 彼女の体に巣食った魔女の分身は、実に陰湿で残酷でした。何年も何年も時間をかけてじわじわと、実に十数年間も彼女をいたぶりつづけたのです。そのさまを私は間近で見てきました。特に最後の一年、この一年間は、自分のしたことの結果をまざまざと見せつけられました。あの園丁や鋏研ぎたちも、このようなおぞましいことになっているのだろうか、私が食べるようにしむけたキドニーパイのせいで。そう思い至ったとき、いかな恥知らずの私でも犯した罪の重さに恐れおののきました。そうしてついに女の命がつきたとき、今度こそと決意したのです。今度こそきっぱりと魔女と手を切ろうと。そしてすべてを告白して神に許しを請うのだと。実際私の足は、とうに忘れたはずの教会へむきかけたのです。
 ところが魔女は、魔女という存在は、信じられないほど不可思議で強大だったのです。思いもよらぬところから現れて、私の舌を切ったのです。それまで想像すらしなかった者が突然魔女を名乗って、そして私を脅し血を流させたのです。これまで味わったことのない強烈な苦痛でした。私は新たな魔女に目も眩むほどの苦痛でもって誘惑されたのです。苦痛だけではありません。支配者が一人ばかりではないという状況、そんな切羽詰った状況、その苦悶に私は抗えませんでした。ついさっきまでの改心もどこへやら、教会で懺悔するために伏せようとした額を、私は迷うことなく魔女たちの踵の下へさし出したのです。
 
「厭だわ、汚らわしいことをくどくどと書き連ねて。このひと、告白と云いつつこれを書くのを楽しんでいるんじゃないかしら。生まれや育ちが賤しいと、こうまで性根が捻じくれてしまうものなのね」
 相変わらず鼻持ちならないお嬢様ぶりだけど、これがもし、べつの疑惑を隠すためのユースタスの演技だったら、どうしよう。新たな魔女だって? それまで想像もしなかった者が突然魔女を名乗っただって? 
 思い出されたのは、ヒューのメスメリズムの治療で引き起こされた、人工的遊眠症だった。あれを使えばひとを自由に操ることができる。操られた人間はそのあいだのことをまったく憶えていないという。ならユースタスも演技などする必要はないってわけだ。メスメリズムは医術だ。でも魔女の呪いだって、伝説やら噂やらで〈呪い〉病をそうだと信じこませているだけで、あれも科学の技の一種だろう。もしネラが遊眠症を引き起こす方法も知っていて、使えたとしたら……
「ユースタス、ネラに治療のようなことをされたことは? たとえばメスメリズムのような」
 何のこと? という顔だ。
「いや、僕の勘違いかも。忘れてくれ」
「おかしなひとね。それにしても妙なことが書いてあるわ、魔女は二人いるっていうこと?」
 
 いよいよ、このことを書くべき段となりました。ほかのどの罪も私は地獄へ落ちて償う所存でありますが、この一つだけは何とかして正したいのです。いや、正すべきなのです。それは私の娘の処遇についてなのです。娘とは私と魔女の間にできた子どもです。あの子の今置かれている待遇は、まったくもって不当で不正であって、それを本来あるべき姿にもどしてやるのが、これまで何一つ父親らしきことをしてやれなかった、この私にできるただ一つのことなのです。
 まずは、何故このような異常な状態となっているのか、それを説明せねばなりません。あれは十五年前のことでした。

 僕はユースタスから紙をひったくった。
「何するのよ!」
「もうやめよう、ここから先は読まなくていい」
「何を云うの、ここからが肝心なところじゃない」
「君だってさっき、こんな汚らわしいもの読みたくないって、」
「返しなさい。娘というのはきっと二人目の魔女のことよ、恥知らずにもこの男は自分の娘の身分をなんとかしようと考えたのよ」
「読んだら後悔する」
「意気地なし! 今さら怖くなったの? だけどあなたは読むわ、わたしにはわかる、あなたは絶対に読む、読まずにはいられない、今だってほら、先を知りたくてうずうずしているのでしょう? そこにはあなたがずっと知りたがっていた魔女の秘密について書いてあるんですもの」
 結局は僕はのろのろと、握りしめていた紙をユースタスへさし出したのだった。
 そんなこと、何でしちゃったんだろう。もし呪いというものが存在するなら、これが僕にかけられた呪いなのかもしれない。真実が僕に呪いをかけた、隠匿されたことへの復讐に。最後まで追及しろと、すべてを明らかにしろと、そしていまだ知らずにいて我が身の安泰を信じきっている者へ突きつけろと。

 十五年前のその日、魔女はいつものように夜更けに私の番小屋にやってきました。元付き添い人は小屋の外へ逃げ出します。いつもそうなのです。狂っていたとはいえ、私と魔女との間で行われることの異常さを、何かしら感じ取っていたのでしょう。
 しかしこのときは魔女は何もせずに、しばらくじっと座っておりました。私は戸惑いました。いつもはすぐに愚痴がはじまり、私の下女としての仕事ぶりをあげつらっては小言をたっぷりとこぼし、それから罰ということになるのです。ところがその夜、魔女は耳を疑うようなことを云いました。「自分の子を名家の跡取りにしたくない?」
 奇妙な夜でした。砂の中に身がうずめられたような気分でした。口の中にも砂は入ってきました。その砂は私を見おろす魔女の眼からざらざらと流れ落ちてくるのです。砂はどんどんたまっていき、私は生き埋めになり、息も絶え絶えとなり、体の外も内も灰色一色に塗りこまれたとき、不意に魔女が私の体から降りました。
 その夜のことは私の身にまったくそぐわなくて、私は忘れようと努めました。なぜだか魔女もそれきり番小屋に通ってこなくなり、城で顔をあわせても、かける言葉は上級使用人がはるか下の身分の下女にくだす命令だけでした。だから私は、あれは通常の男女の営みではなく魔女の何かの術だったのだろうと自分を納得させ、下働きに励みました。罵りと鞭の愛撫を恋しく思わなかったといえば嘘になりますが、私の内面の渇きはともかく平穏な日々がつづきました。心配事といったらいつものことなのですが、あの元付き添い人が小屋を抜け出すことくらいでした。阿片剤も善し悪しで効きすぎると浮かれ気分が過ぎるのか、興奮してじっとしていられないようなのです。そのうち大変なことに気がつきました。元付き添い人が孕んでいるようなのです。問い質すと急に怯えたように錯乱します。どうやら外をうろついているうちにどこかのならず者どもに、正気でないのをいいことに慰み者にされてしまったらしいのです。私は自分を責めました。なぜもっと注意して守ってやらなかったのかと。あまりに残酷です。魔女の呪いに侵されこれ以上の地獄はないのにさらに憂き目を見るとは。神はなぜこの女の不幸を、そして私の罪を、お見過ごしになるのでしょう。魔女に知らせましたが返事は素っ気ないものでした。自分の陰謀の犠牲者がどうなろうと気にもかけぬとは、やはり魔女は冷酷だとそのときは思いましたが、実はある事情からさしもの魔女も気もそぞろだったのだと、後に判明したのです。
 例の灰色の魔術の夜からおよそ十ヵ月後。突然、魔女が番小屋に現れました。ものも云わずに入ってきて、奥の部屋まで進みました。そこは元付き添い人の寝室でしたが、そのときはちょうど無人でした。また阿片の夢の誘うままムーアへ出ていったのです。魔女は乱暴にドアを閉めると部屋に閉じこもりました。ほどなくドアのむこうから恐ろしい呻き声が聞こえてきます。私は何事かと怯えました。迷いましたが呻き声はいよいよ烈しくなり、ドアを少しだけあけて隙間から覗いてみました。するととんでもないものが見えたのです。寝台に横たわった魔女は下着姿で、そのお腹が大きく膨らんでいるではないですか。
 魔女は腹に子を宿していたのです。あの晩の魔女の言葉が甦りました。自分の子どもを名家の跡取りに──。では、あの腹の中にいるのは私の子なのか! 魔女は大きな腹をさらけ出し、叫びながら寝台の上をのたうちまわっていました。今、まさに、子を産み落とそうとしているところなのでした。
 私はドアをしめ、やたらと歩きまわりました。まさか魔女が妊娠していたとは。そのような可能性をつゆほども疑っていなかった自分の呑気さを呪いました。また魔女があの晩からなぜ通ってこなくなったのか、そのわけも今さらながら悟りました。お腹の子に障らないようにでしょう。婦人の衣裳について私は不案内なのですが、魔女が云うには胸の下からすぐスカートとなっているため、やりかた次第で膨らむお腹も気づかれにくいらしいのです。エンパイアスタイルというのだそうです。そういえばエリザベス様のおめでたを知ったのも、そのほんの半月前、すでに産み月というときでした。それまで何度か遠目にお姿を拝見する機会はあったのですが、ゆったりとしたドレスに隠されて、体形の変化を窺い知ることができなかったのです。
 突然、ドアのむこうで魔女の雄叫びのような叫び声があがりました。そして次には、赤ん坊の泣く声がはっきりと聞こえたのです。
 私はドアをあけるべきかどうか、奥の部屋へ入って赤ん坊を、我が子を、この眼で見るべきかどうか、迷いました。そうしてやっと決心がつき、ドアの取っ手をつかもうとしたそのとき、内側からドアがあけられました。魔女が出てきて私に命じました。「早く舘へ行くのよ、奥様の出産がはじまりそうなのよ」
 私のような愚鈍な人間はほかにはおりますまい。ここにきて私ははじめて魔女が何を企んでいるのかを知り、驚愕したのです。企みとは、自分の子とエリザベス様のお子様をすりかえようというのです。魔女に追い立てられるようにしてガルトムーア・ホールに急ぎました。頭は混乱の極みにあって、もう何も考えられませんでした。ただ気になったのは顔も見ずに番小屋に残してきた赤ん坊でした。何度も振り返っていたら魔女が笑いました。「じきに見られるわよ。でも見るだけ、抱くのは諦めなさい、まさか下女の賤しい手で奥様の子に触れるなんて、もってのほかでしょう」
 奥様はひどい難産でした。苦しみは一日じゅうつづきました。やがて魔女が顔を蒼白にして、よろよろと裏階段を降りてきましたから、私はてっきり死産だと思ったのです。けれどもそれは誤解で、自分も出産したばかりなのに奥様の介抱でつきっきりだったせいで、魔女も疲労困憊していたのでしょう。無事に女のお子様がお生まれになったと知らされました。
 そのあと魔女と私は、宵に羽ばたく蝙蝠のように慌ただしく暗躍しました。まず魔女が急ぎ番小屋へ行き、自分の産んだ赤ん坊をつれて舘にもどってきました。胸にしっかりと抱いているのは襤褸布の塊です。その襤褸にくるまれた中に我が子がいる。思わずのばした手を魔女が払いのけました。「時間がないのよ」そしてエリザベス様の寝室へとあがっていきました。ゆりかごの中のエリザベス様の娘と入れかえるためです。エリザベス様はお産の疲れで昏々と眠っておいでだったから、気づかれる心配はまったくなかったそうです。ほどなく魔女が裏階段を降りて来ました。やはり腕には襤褸布。くるまれていたのはすりかえられた赤ん坊でした。私は襤褸ごと受け取って、誰の眼にも触れないようこっそりと番小屋へ連れ帰ってきました。
 この子はすぐに始末しろ、というのが魔女の命令でした。死体は見つからないように、燃やすか埋めるかしろと云われました。ですが、どうしてそんな惨いことができましょう。相手は無垢な赤ん坊です。しかもお舘のお嬢様なのです。私は頭を抱えました。しかし魔女の命令は絶対です。私はもつれる足で何とか表へ出ました。石を探そうと思ったのです。赤ん坊の頭を割る石です。ナイフで心臓を刺すのは残酷すぎます、手で鼻と口をふさぐのも耐えられそうにありません。石の一撃なら、一瞬で全てを終えられるだろうと考えたのです。荒野を歩いて手ごろな石を探しました。そんな石、永遠に見つからなければいいと願い、また早く見つけてさっさと終わらせたいとも考えました。そうして石を抱えて小屋にもどったとき、息も止まりそうな光景が私を待っていたのです。
 赤ん坊を包んでいる布が、エリザベス様のお嬢様を包んでいる布が、なんと血に染まっているではありませんか。血はじわじわと広がっていきました。私は石を落とし、腰も抜かさんばかりになって、後じさりました。この血は何だ、罪の印か、神の怒りか。きっと神が罪を犯した私をお怒りになり、その印として血を流させているのだ!
 私は血染めの襤褸布ごと赤ん坊を抱きあげると、番小屋を飛び出しました。そしてどこをどう走ったのかたどりついた村、そこはヘッジス村だったとあとで知ったのですが、その村の一番大きな家の納屋に赤ん坊を捨てたのです。おそらくこの納屋の持ち主は村一番の金持ちだろうから、ひきとってもらえればガルトムーア・ホールには及ばないにしても、それなりの暮らしはできるだろうと考えたのです。それで自分の罪が償えるとは思いませんが、これ以上この赤ん坊を不幸にさせるわけにはいかない、無論殺すなんてとんでもない、いや絶対にしてはならぬ例え魔女にこの身をひき裂かれようとも、と、浅はかな私の愚かな頭が必死にしぼり出した策でした。
 そうしてとぼとぼと番小屋に帰ると、ふたたび私は驚愕させられたのです。捨てたはずの赤ん坊が、そこにいるではありませんか。元付き添い人の狂女がその腕に抱いていたのです。
 エリザベス様のお嬢様が帰ってきている! 罪が私を追ってきたのか。神の怒りから一生逃れることはできないと私に思い知らせているのか。
 が、よくよく見ると、私を怯えさせた罪の印がないのです。赤ん坊を包んでいる布には血などついていません。私の罪が流させた血のしみは、きれいさっぱり消えていたのです。許された、と私は安堵と歓喜でむせび泣きました。だが涙はすぐさま止まりました。ぬか喜びだと気づいたからです。狂女はへらへらと笑っています。赤ん坊はすやすやと気持ちよさそうに眠っています。何のことはない、いつの間に生まれたのか、それは狂女の孕んでいた子どもだったのです。この怒涛の数日間、気にかけている余裕がなかったのですが、狂女の姿が番小屋から消えていました。どうやら一人でどこかで産み落としていたようです。どこぞの床下にでも潜りこんで、まるで野良犬のように。その逞しさに私はある種の感銘を受けました。魔女の常軌を逸した出産、なすすべなく混乱の嵐に呑みこまれた私、その呪われし二人があくせくと陰謀劇を演じ、残酷にも二人の赤ん坊の運命が入れかわったその一方で、野蛮かもしれませんがそれだけに健全さが際立つ命の誕生がなされていた。これぞ神の御業、祝福を! 祝福を!
 しかし、自分がいかにおめでたかったか、後に思い知らされることとなりました。狂女の産み落としたこの娘は白痴だと判明しました。それでも私は我が子のように慈しんで育ててまいりました。ですが、魔女の呪術がこれほど禍々しく強力だとは。母親の体に巣食った呪いが、魔女の化身が、その腹の子にまで入りこみ、もともとの資質まで蝕んでしまった、ということなのでしょうか。嗚呼恐ろしや、恐ろしや。しかし、それを甘んじて受け入れてしまったこの私もまた、魔女の呪いに侵されているのかもしれません。魔女に魂を囚われ、それを自分でも望んでしまう、これが私の呪いなのです。
 ですが、たとえ呪われた身であっても、良心というものがわずかに残っているのです。私の娘、血をわけた娘。その子には私のように罪人になってほしくない。たとえ魔女の娘であっても、これ以上罪を重ねてはいけない。娘は今ガルトムーア・ホールの末のお嬢様の座におさまっていますが、それはまったく不当な地位なのです。その座にいるべきは、本来ならアレクサと名乗っている、ヘッジス村の孤児なのです。私はその娘をこの地から遠ざけてしまいました。魔女の手から守るため仕方なかったのです。しかしアレクサはいつの日か再び、このガルトムーアに戻ってくるかもしれません。自分の真の名前と素性を私から聞き出し、知ってしまいましたから。もし、あの娘が真の自分の人生を取り戻しに現れたら──。そのときこそ、我が娘の間違った処遇が正されて、あの魔女スーザン・ネラから娘が解放される機会となるのですが、しかし、もうすでに手遅れかもしれません。
 表向きはお嬢様とそれに仕える女中頭ですが、我が娘と魔女はすでに一心同体となっています。それも当然でしょう、実の母親と娘なのですから。あの子は母親のいいなり、それどころか母親の考えを先回りできるほど、あの二人の絆は深くなっています。ほどなく魔女は娘に呪いの術を伝授するでしょう。そうして娘はますます魔女に近づいてゆき、やがて正真正銘、魔女となり、この私の上に君臨するのでしょうか。私は彼女ら魔女たちに仕え、あっちに走っては地べたに額をこすりつけ、こっちに戻っては己を踏みつける靴に口づけする節操なしの猿となって、これまで以上に身を堕とすしかないのでしょうか。想像すると、恥知らずにもないはずの舌が思わず痙攣を起こしそうです。私のこのすっかり魔女に征服されてしまった呪わしい魂です。
 舌の傷がまた出血したようです。これも魔女の警告でしょうか、ペンを置けと。
 この文書が誰に読まれ、どう扱われるか。燃やされるのか、または魔女の陰謀を打ち砕く証拠となるのか、はたまた誰にも知られることなく憐れな狂女の亡骸とともに朽ちてしまうのか。すべては神に委ね、私の告白を締めくくりたいと思います。
バートル・スミス

 ユースタスが叫んでいた。白く細い喉をのけぞらせ叫んでいた。吹き出る血のようなその叫びは言葉にはなっていなかったが、何を訴えているのか僕にはわかった。
 助けて。
 助けて。助けて。助けて。
 ユースタスを抱きしめ口をふさぐ。静かに、静かにして、もう叫ばないで。
 しかしユースタスは烈しく身をよじって僕の腕を振りほどく。また抱きしめると、また振りほどく。そして叫ぶ、声をかぎりに。そうして力いっぱい僕を突き飛ばした。
「嘘よ! こんなの嘘よ!」
「そうだよ! 嘘だよ!」
 怒鳴り返して、ふたたびユースタスをつかまえた。腕の中でユースタスはもがきつづけたが、その力もあげる声も弱まっていた。
「嘘よ、出鱈目だわ」
「そうだよ、出鱈目だ」
「絶対に信じない」
「信じなくていい」
 口づける。
 ユースタスも返してくる。
 二人が、僕たちが、こころが、とけあうのを感じる。このまま時間が経ってしまえばいいのに、何年も、何十年も、何百年も。そうしてこのグロットーの暗がりから出たら、ひとびとはみな、ここにある屍と同様に骨になっていて、ガルトムーア・ホールもとっくに廃墟で、僕らは二人きり、どこへでも好きなところへ行くんだ。
「痛いっ」ユースタスが飛びのいた。胸をさすっている。
「何か刺さったわ」
 僕ははっとなって、それを服の上から押さえた。
「服の下に何を隠しているの」
 なんでもない、とこたえる間もなかった。ユースタスが飛びかかってきて、タイを引きほどき、襟首をつかんだ。生地が裂ける音がしてボタンもとんだ。もの凄い勢いだった。やり場のなかった怒りをぶつけているのだと感じた。
 革紐で首に吊るしてあったそれがひっぱり出される。乱暴に首からはずされる。裏のピンがはずれている。ユースタスの胸を刺したのはこのピンらしい。
 ユースタスの顔色が変わった。
「これはわたしのものだわ、なぜ、あなたが持っているの?」
「なんでもない、ただのブローチだよ」
 奪い返そうとしたがユースタスにかわされる。
「ブローチですって? あなた、わたしを馬鹿にしているの、それともほんとうに知らないの、その品が何なのか」
 知っているさ。このブローチの模様のワタスゲはガルノートン家の紋、僕がガルノートン家の人間だという証拠なのだ。
「そういうことだったの──」
 ユースタスがじっと僕を見つめている。指は確かめるようにブローチの形をなぞっている。透かし彫りにしたワタスゲの花、それを額縁のように囲う枠、枠の下辺に何の飾りなのか、小指の爪ほどの輪が五つならんでいる。考えてみれば象徴的じゃないか。雑草をたいそうな額で飾りたてている。まるで僕? それともユースタス?
「きっとあなたはこれをあの大きいほうの下女から、バートルから、もらったのね、そうなのでしょ? あなたがアレクサなのね? バートルの告白書に書いてあったヘッジス村の捨て子、アレクサ、それはあなたのことなのね? わたし、メイナス・ジョイスから聞いて知っているのよ、あなたは孤児で、しかも女の子だって。あなたが本物だというのね? わたしは、あなたがブラッドの名を騙っているのは財産を狙ってだとばかり思っていたけれど、あなたなのね? あなたがほんとうのお母様の娘、ほんとうのユースタス・ガルノートン。あなたがガルトムーア・ホールにやってきたのは、ほんとうの自分をとりもどすためだったのね?」
 どう返事をするべきか。奪われたものをとりもどすこのときを、待ち望んできたはずなのに。
「それなのにあなたったら告白書を出鱈目だなんて。わたしに同情したのね、酷いひと、どこまでわたしを馬鹿にしたら気がすむの」
「同情なんかじゃない」
「みじめだわっ」いきなりブローチを投げつけてきた。
「誤解しないで頂戴! 自分が貴族の令嬢じゃなかったことがみじめなのではない、そうやって同情されることがみじめなのよ!」
 背をむけて、だけど泣くのを懸命にこらえている。僕から見えるのは後ろ姿だけど、こらえているのだとわかる。
 僕はブローチを拾ったが、それをユースタスに返しはしなかった。かわりにユースタスの肩に手をかけ、振りむかせた。唇を重ねる。僕にできるのはそれだけだ。
 やわらかいユースタスの唇。温かい口の中。少し怯えている舌。でもおずおずとこたえてくる舌。
「やめて」急にユースタスが唇を離して僕から逃げようとした。
「どうして」ゆっくり体重をかけて、やさしくユースタスを押し倒してゆく。地べたに二人で横になる。
「駄目、駄目よ」僕の下で可愛らしくうろたえている。
 かまわずドレスのボタンをはずしていく。
「やめて頂戴、お願いよ」懇願もまた可愛い。凄く可愛い。
 コルセットの紐をさぐる。
 突然、頬を張られた。僕はびっくりして痺れる頬を押さえ、いったん身をひいた。
 ユースタスが泣いている。膝を折って身を丸め、泣きじゃくっている。
「どうしたの? 何が悲しいの? 怖いの? 大丈夫、僕にまかせて」
 手をのばすと素早く逃げて、服で下着姿を隠した。
「やめて、わたしのことなんて放っておいて。あなたは知らないのよ、わたしがどんなに醜いか。服の下のわたしを見たら誰もわたしに触れたがらないわ。わたしは化け物なのよ、そうよ、なんといってもわたしはひとを呪い殺してきた魔女と、よりにもよってあの汚らわしい異常な男の娘なのよ、化け物に生まれついたのも道理だわ、これこそ呪いよ、わたしの体は呪われてこうなったのよ。ああ、それとも罰なのかしら、こんな体に生まれたのは罰なのかしら。わたしがネラ夫人の娘だなんて、今の今まで信じられなかった、認めたくなかった、けれど納得したわ、わたしは確かにネラ夫人の娘なんだわ、だから神様がわたしに罰をくだした、わたしのこの醜い体は罰なのよ、実の母親が犯してきた罪への罰」
「馬鹿!」
 今度は僕がユースタスの頬を打っていた。
「罰なんかじゃない、呪いでもない、そんなふうに云わないで!」
「慰めてるの? お願い、これ以上わたしをみじめにさせないで」
「違うよ、これを見て!」
 服を脱いだ。ジレを脱ぎ捨て、襟元の引きちぎられていたシャツも脱いだら、平たい裸の胸が現れた。ユースタスが眼を丸くして、すぐさまそらしたけれど、かまわずどんどん下のほうも脱いでゆく。とうとう裸になった。丸裸になってユースタスの前に立った。
「ねえ、顔をあげて僕を見て。恥ずかしがらないで。おなじ女だもの」
 そろそろとユースタスがこっちに眼をむける。
「よく見て。全部見て。足のあいだも」
 ユースタスの視線が僕をなぞる。恐る恐るといったふうに、でもしっかりと眼に刻みながら、首、肩、ちっとも成長していない貧相な胸、お腹、腰、細くて頼りない腰、お臍。そしてメイナスたちに指さされさんざん嘲笑われた、あの部分。
 ユースタスは口もとに両方の手を重ねていたが、その手の下で小さく息を呑みこんだ。
「わたしとおなじだわ……」
「おなじなの?」
「なんてことかしら」
「見せてくれる?」
 三秒、迷って、それからユースタスも脱ぎはじめた。僕がコルセットの紐をゆるめてやった。ユースタスの裸は僕と違って、白くて、果敢なくて、透きとおるようで、まぶしかった。そして僕とおなじだった。こんなにきれいな体に僕と共通の部分があるなんて、そして僕ら以外の人間はみんなこうではない。そう思うと、僕は誇らしくてならなかった。
「僕もバケモンと呼ばれてたんだよ」
「でも、どうしておなじなの」
「運命だよ。生まれたとき、とりかえられた二人の赤ん坊がおなじ体だなんて、きっとふたたび出逢ったときに二人をむすびつけるための運命」
 右の手でユースタスの左手をとり、左の手でユースタスの右手を握って、二人でむかいあった。
「ねえ、こう考えて。どっちかが貴族令嬢で、どっちかが女中頭の娘なんて、わけないで。二人はおなじ体なんだもの、僕は君、君は僕なんだ」
 でもユースタスが浮かべたのは苦い笑み。
「おなじ化け物どうしだから?」
「黙って。眼を閉じて」
 教えてやりたかった。自分を大切だと思うことを。自分を好きになることを。自分に誇りを持つことを。生きて、楽しんで、幸せになる価値が、自分にもあるんだって感じることを。かつてヒューにしてもらった方法で僕が教わったように、ユースタスにも教えてやりたかった。
 だからそうした。ひたすらこころをこめて。

 そしたら。
 もっと生きて──ユースタスと一緒に! 
 楽しんで──ユースタスと一緒に! 
 幸せになりたい──ユースタスと一緒に! 
 と思ったのは僕のほうだった。
 どうかユースタスも、あの最中可愛い声をあげて僕にしがみついてきたユースタスも、おなじ思いでいてくれますように!

スワン3 よろしい、こたえましょう。あなたをお招きしたのはすべてを明かすためなんですから

 レンジの火床は今や赤々と燃えあがり、その熱で地下の厨房は汗ばむほどになっていた。氷室から持ってきたときにはつつんだ布が凍りついていたそれも、良い具合に融けてきただろう。
 慎重にスワンはつつみを布ごと調理台のボウルに移した。台にはほかに肉切り包丁、スプーンやナイフ、水切り籠など調理道具が置かれてあった。鋏やハットピンに似たものや、調理の道具とはいえないものもあった。
 スワンはボウルを押し出して云った。
「眼鏡がないと不便でしょう、さあ、もっと近くによって御覧なさい」
「あなたが俺の帰りを待ってまで見せたかったというのはそれですか。しかし舘に着くなり奥様が倒れたなどとおびきよせ、おまけにいきなり眼鏡を奪って踏みつけるとはね」
 ヒュー・ヒュゲットの云ったとおりだった。正直なところスワンは彼がもどってくるのを待ち望んでいた。ヒュゲットがガルトムーア・ホールから姿を消したときには、スワンも不審に思ったものだ。イヌがご褒美ほしさにわざと余計なことをやったのではと疑ったが、ところが忌々しくもそのころイヌは使いものにならなくなっており、おまけにゾフも、折よく現れたと思ったらこのざまだ。仕切り直す必要があった。従順なしもべではなく、また抜け目ない便利屋でもなく、新たに得るなら同志をとかねてから考えていた。
 そして今日、嵐を衝いて荒野を真っ直ぐにこの舘へとやってくる彼の姿を認め、とり急ぎ厨房に仕度を整えたのだ。ヒュゲットは医師なので病気を理由にすれば騙すのは簡単だった。眼鏡はのちのち妨げになると考え最初に始末しておいた。
「あなたにはまったく意表をつかれましたよ、俺の眼鏡を壊したのは自分の正体を隠すため? 違いますね、声で知れるし、だいたいこの距離なら眼鏡がなくても見える、あなたの顔も、ボウルに入ったその首も」
「さすがね、つつみの中身が何なのか、もうわかってらっしゃるのね」
 スワンは丁寧に布をはぎとった。
「やはりそうか。ゾフ。ナサニエル・ゾフの首だ」
 調理台に手をつき腰を落としてヒュー・ヒュゲットは覗きこむ。
 ボウルの中で首はあおむけて置かれていた。頭蓋骨のおうとつどころか目蓋の下の眼球の丸みも、ありありとわかる。生前よほど衰弱していたのだろう。なのに首の切断面は思いのほか肉がつまっている。底に汁がたまり出していた。皮膚は透きとおって青みを感じさせるほどで、その頬に蛾の形の痣が、さらに青黒く沈みこんでいた。
「触れて確かめてみないの?」
「だってあなたは手袋をしているでしょ」
 スワンは微笑を浮かべ、二重にはめた手袋をはずしてヒュゲットに貸してやった。思ったとおりだ。ヒュゲットは旺盛な探究心だけでなく、冷静な観察眼と慎重さもあわせ持っている。
 手袋の手で首を持ちあげ灯りにかざしたり、ひっくり返してみながらヒュゲットはつぶやいた。
「うかつだった。俺がここを出たとき、この男がすでに舘に来ていたとは」
「ではここ何日もあなたの姿がなかったのは、ゾフを探すため?」
 ヒュゲットは首をボウルにもどし手袋をスワンに返した。
「プレストンから帰ってきて馬車を降りたちょうどそのとき、郵便配達が手紙をとりに来ていたのが見えたんですよ。ぴんと来た、ユースタス嬢から聞いてましたからね、以前正餐会に呼んだ客をもう一度招待すると。探したかったのはゾフだけじゃない、それらの客にも会いたかった、当時の話を聞こうと思って。配達人を呼び止めて手紙の宛先を見れば簡単なんだが、そうすると配達人からあなたに漏れる恐れがある。だからあとを追って、郵便馬車の宿駅まで行って、そこでこっそり宛先を調べた。それからその足で方々へ出むいたというわけです」
「あなた、中々機転が利くのね。それで何がわかった?」
「まず、当然ゾフには会えなかったが、パーティーの客にも会えなかった、誰一人として会えなかった、死んでいたから。みな、とうに墓の下だった、だがその墓は空なんでしょう?」
「どうしてそう思うの?」
「ガルトムーアを治める伯爵家に招かれたんだ、それ相応の家柄の者だ、いや、金持ちと云うべきかな。招待客は正餐会から帰ってきて早ければ一年、遅くとも二、三年のうちに奇妙な言動を見せるようなった。痙攣、突然の奇声、意思に関係なく勝手に動く手足、まるで魔女にでものりうつられたような。家柄がよければよいほど外聞を気にする、だからこの先を話してくれたのも、もちろん身内じゃない」
「奉公人ね。いくらはずんだの?」
「たいしては。ヨークシャから遠く離れたら、あなたの流した噂もそう効力はありませんでしたよ」
 スワンはただ肩をすくませただけだった。
「世間体を気にする家族の前にふたたびあなたの使者ゾフが現れる、患者は人目を避けて夜中に馬車で運び出される、そして二度と帰ってこない。そうしてころあいを見て空の棺おけが埋葬され、一家の誰かがなんらかの利益を得ることになる。たとえば、いずれは財産を相続するのにそれまで悠長に待っていられなかった息子、または本来なら相続する権利のなかった次男、あるいは夫以外の男とねんごろになった女主人や反対に女主人の座を横取りしたい愛人。ゾフはあなたの協力者ですね、ジョンの日記に書いてあった、ゾフが魔女の呪いに侵された招待客を担いで夜中に八角塔へ運んでいったと。推察するに仲介役だったのでしょう、多額な報酬を払ってでも邪魔者を消してもらいたがっているひとたちとの」
「あなたはよく頭がまわるわ」
「しかしそのゾフもあなたの呪術の餌食となった。やっとゾフという人物についてつかみかけてきたのに、帰ってきた俺を待っていたのはこの首だ。口封じをしたんだな。だが、この首から新たな結論が導き出される。ただ呪術を施すだけでなく被害者をひきとって、家族の体裁まで守ってやるとは面倒見のいいことだと俺は呆れてたんだが、違った。首が必要なんですね? 呪いに侵されて死んだ者の首が」
「ますますあなたが気に入ったわ。だけど一つ誤解があるわ。わたしだってゾフがあんな状態になって現れるなんて思いもしなかった、彼を殺したのはおのれの無知と軽率さよ、この手袋を見ればわかるでしょう、呪いの種を扱うには細心の注意が必要なのだと。呪いの種はしぶとくて狡猾で容赦がないの、惚れ惚れするほどにね、ひとはわたしを魔女と呼ぶけれど、この種こそ魔女そのものだと思わない?」
 そして手袋の手でゾフの首を持ちあげ、それへ語りかけるように、
「わたしも残念に思っているのよ、まだまだ役に立ってほしかったのに。ユースタスが晴れてガルトムーアの女主人になったあかつきには、また正餐会を再開する計画なのよ」
「そこが不可解だ、なぜ他人の殺しまで請け負うんです、富はもう充分でしょう。あなたの呪術は時間も手間もかかるようだ、さらに秘密も守らねばならない、そうやってやっと報酬を得ても、ガルノートン家の財産に比べればさしたるものではないだろうに」
「まあ! 心外だわ、あなたがそんな質問をするなんて」
 これは本心からの言葉だった。ため息まで出た。
「よろしい、こたえましょう。こうしてあなたをお招きしたのは、すべてを明かすためなんですから。ええ、わたしの目的はお金でも家ののっとりでもありません、真の目的は呪いの技術をより絶対的なものにすること、そのための飽くなき研究です。あなただって興味があるんでしょう? 呪いの正体が知りたくて、だからこんな辺鄙な地までやってきたのでしょう? さあ、よろしいですか。これから我が一族に伝わってきた、そしてさらにわたしが改良に改良を重ねた技を、あなたに御披露してさしあげましょう」
 スワンはボウルの底に首を立てると、隙間に布をつめて固定させた。利き手は包丁を持ち、反対の手はボウルの首を押さえる。刃を額の中央へあて、ゆっくりと滑らせる、まずは右耳の後ろまで。そしてむきをかえ反対側も。血はもう出ない。包丁はよく研がれ、切り口はすっぱりと美しい。真っ直ぐの線の隙間に赤黒い色が覗いている。そこへ指をつっこみ、一気に剥ぐ。
「この作業を幾度くり返したかしら、何十回、いいえ、何百回ね。何年もの実験をへてわたしは、もっとも効力のある呪いの種は呪いで死んだ者の脳味噌である、という結論にたどり着いたのよ、これが成功する割合がもっとも高いの。とはいえ、まだ完全ではないわ。わたしが目指すのは、一口食しただけでその体内で確実に芽生え、結果が出るまでの時間も曖昧ではなく、さらには都合にあわせて調節もできる、完璧な種と完璧な技術よ。ああ、正餐会を再開させるのが待ち遠しい!」
 頭の骨は冷やしたミルクのように白かった。これまで何十回何百回と見ているのだが、スワンは今回もまた感銘を受けた。清らかな白。穢れのない白。男でも女でも、中年でも幼い子どもでも、この清潔さは変わらない。肉叩きをとる。
「ほんとうは斧が便利なの。でもどこへいったのか見つからないのよ」
 ハンマーのように振りおろす。つまった音がする。ヒュゲットが思わず身を引いたのを小気味よく思う。また振りおろす。もう一回。もう一回。と、これまでとは違った音がして、肉たたきが跳ね返らずに骨に埋まった。
「鋸を使ったこともあったけれど、あれは骨の細かい粉が出て舌ざわりが悪くなるのよ」
 割れた頭の骨を鋏で挟んで丁寧にとりのぞく。小さな破片も残らずとる。そうして現れた脳にスワンは舌打ちした。
「鮮度が落ちてしまったわ、赤い汁がしみ出ているでしょう、色も全体的に赤くなっているし。あなたがもどってくるのが遅いせいよ。いつもは茹でてから氷室で保存しているんだけど、この工程をあなたの前でやって見せてあげたかったのよ。それにしてもあなたも運がいいわね、新しい種が手に入るなんてね、ゾフの首はわたしたちへの供物だったのかしら」
 スワンはもう一つボウルを用意した。水がたっぷりとはってある。それからヘラとピンを持った。
 まず脳味噌をおおっている薄い膜をピンでひっかけ、引きはがした。それからヘラを慎重に脳と頭骸骨の隙間へさし入れてゆく。もう一本ヘラをとる。こちらは幅広でゆるやかに湾曲している。二本のヘラを使って器用に脳をすくいあげる。
 水をはったボウルへそっと沈ませた。
「よく洗うの、味のよしあしはここで決まるといってもいいわ」
 水の中でピンク色をした襞の集まりがふるふると揺れている。やわらかく崩れやすいから、赤子を慈しむように扱わねばならない。血や膜の残りや骨片を注意深く洗い落とす。それを水をかえて幾度もくり返す。水が濁らなくなるまで。
 これで下準備は完了だ。あとはいつもの要領で料理にかかればいい。ただし手袋ははずさずに。材料はほかに玉葱、セロリ、バター、ナツメッグやジャコウソウなどの香草、そして寝かせておいたパイ生地。
「全部自分でやるのか? 料理まで?」
「あら、これでもわたし、昔は台所女に扮したこともあるのよ。それに料理は気晴らしにもなるわ、たとえ研究のためとはいえ、こんな黴臭い舘に閉じこもっているのは息がつまるのよ。だから呪いとは関係なく腕をふるいたくなったときには、ポーチドエッグの硬さに難癖をつけて料理人を解雇してやったわ」
「でも、あなたの立場で料理人役まで負うのは」
「そうね、その点は運がよかったわ。わたしがこの舘に入りこんだときには、大旦那様とか大奥様とか、そういった小うるさい連中はとうに墓の中で、奥向きのことは新しい女主人エリザベス奥様の天下だったの。料理人や女中や、邪魔な奉公人たちを徐々に追いはらっていったわ、そうやって動きやすい環境にしておいてから、最初の標的に呪いの術を施したの。聡明なあなたのことだから見当はついているでしょうけれど、そう、先々代のガルトン伯爵よ。当主の伯爵を八角塔へ入れてしまったら、あとはもう造作もなかったわ、残った子どもたちは幼く、跡継ぎの長男ジョンですらあのときわずか八歳だったもの。さっそく執事たち男の奉公人も辞めさせて、ガルトムーア・ホールは完全に『女主人エリザベス奥様』の、ふふっ、つまり魔女のこのわたしの、天下となったの。そうそう、その魔女の伝説の件だけど、わたしだってあんなつくり話で秘密が守れるなんて思ってはいないわ、ちょっとした眼くらましのつもりよ、村のうるさい羊が近よってこなければいいの、無知な羊どもがね。むしろ内側の人間の眼をふさぐのが目的だったのよ、貴族の子どもって、村の連中とはまた違った意味で愚かなのね、すぐに信じた。すべてが計画どおり、すべてがわたしの思いのまま、正餐会を開いてかたっぱしから呪いの種を植えつけ、種が育ってきた者を八角塔に収容して、わたしは研究に没頭したわ。呪いの種は中々に気難しいのよ、一度で芽生えることもあれば何度やっても効果がないこともある、ユリアとマミーリアなど何年も前からどれだけ食べさせてきたことか。芽生えまでの期間も縮めるのに苦労したのよ、でもその苦労が楽しいのよね、あのころは幸せだったわ、夢中になったわ、ところがある日、計算違いが起きた。突然エリザベスの身内がやってきたの」
「エレン伯母か」
「伯母様なんて呼ばせていたけれど実際はもっと遠縁なのよ。貴族の親戚にたかりに来たのよ、その証拠にわたしを咎めるどころか、しめた、という顔をしたわ、一時の金より一生贅沢三昧をと考えたのね、弱みを握ったつもりで居着いてしまったのよ。いろいろとひっかきまわしてくれたわ、娘を社交界にデビューさせろですって? かこつけて自分が遊びたかっただけでしょうに。馬鹿な女よ、わざわざ実験台になりに来たようなものよ。とはいうものの、あの女がのさばっていたあいだはさすがに正餐会は休止するしかなかった。でもわたしはこれを機にガルノートン家を確実に手に入れることにしたの、当主であるジョンはエレンに余計な知恵をつけられて、大学へ行くなんて云い出していたしね、こんなことならトマス、下の男の子を残しておくべきだったと後悔したわ、といっても、いくらわたしでも七歳にも満たない子どもに種を植えつけたりはしないわ、あの子は事故だったのよ、あの子ったら食いしん坊でねえ。でもいざ兆候が現れ出したあとは興味深い観察ができたわ、すべて記録してあるの、ご希望ならお見せしましょうか? ともかくジョンは手に負えなくなっていた、それで始末した、あとは偽の新しい伯爵が来て、ユースタスと結婚し、もちろんその伯爵も魔女の呪いによって死ぬことになる、充分に役割をはたしてもらってから、だって跡継ぎはどうしたって必要ですもんね、正餐会をつづけるには伯爵家を存続させないとね。以上がわたしの計画、ところがまたもや計算違いが起こった」
「鋏研ぎの発病が予想以上に早かった?」
 鋏研ぎ? とスワンは料理の手をとめた。丸茹でした脳は細かく刻み、野菜と香草とあわせてたっぷりのバターで炒めたところだ。次はパイ生地を型にはめる番だ。しかし生地を持ったまま、スワンはヒュゲットの顔を見つめた。ヒュゲットが云った。
「彼らは症状も進むのが早い」
「そう、あなたは発病、症状という言葉を使うのね。まさにこれよ、計算違いというのは。単なる金目当てかと思っていたら、あなたは呪いを調べ解明しようとしている、驚いたわ、嬉しい驚きよ、だから急ぐことにしたの。急いで研究を再開したい。そしてあなたに、わたしの術についてぜひ意見を聞きたい」
 生地が温まってしまうまえに素早く成型した。炒めた具をつめた。その上にまたパイをかぶせ、端のはみ出たぶんを切りとり、艶出しの卵黄をぬった。オーブンに手をかざし温度をはかった。パイを入れた。レンジの火加減を調節した。
「パイが色よく焼けたら完成よ」
 そこでようやく手袋をはずした。はずした手袋は釜の火へ投げこんだ。
「ねえ、一仕事を終えたらお腹がすいたわ。あなたもどう? それから意見を聞かせて」
 棚からナプキンをかけた皿をおろしてくる。取り皿とフォークも出してくる。血の散った調理台ではなく、テーブルのほうに置く。ナプキンをとると、それはやはりパイだった。
 ナイフで切りわけた。断面の肉はしっとりと黒く、ぷんと香草が香った。
「さあ、召しあがれ」
 ヒュゲットは動かなかった。
「これは呪いなどではない、病毒を故意に食べさせ感染させているんだ、その病毒が体内に入ると神経と脳が侵されるのだろう、侵された脳がまた病毒となる」
「そういう云いかたもできるわね」
「毒素が脳の中で増えるのか……、それとも脳自体が毒素に変質するのか……」
「どちらにしても入りこんだ魔女が成長していって、彼か彼女かの体をのっとるのよ。ねえ、かけて食べながら話しましょうよ」
「違う、魔女などいない、呪いでもない、これは科学だ」
「あら、わたしにはメスメリズムとやらも魔術に見えるわ」
「何?」
「なんだかんだいってもあなたは育ちがいい、奉公人の領域なんか思いも及ばないんでしょうね、裏階段や裏廊下を使えば舘じゅうのどんなことも見聞きできるのよ。あなた、メスメリズムの術を使ってその男を自由に操っているのね?」
 スワンがさし示したのは厨房の片隅だった。そこには男がいた。伏せた桶に腰かけていた。男は指さされても、それどころかスワンがゾフの首をとり出して皮を剥ぎ頭蓋骨を叩き割っても、黙って膝をそろえその上に両手を乗せ、行儀よく待っていた。メイナス・ジョイスだった。
「あなたはその術で、彼に知りたいことをすべて話させたのでしょう?」
「どうしても知る必要があったからだ、俺がここを留守にしていたあいだに何があったか」
「それで何を知ることができたの」
「ゾフについて、ゾフがどんな状態で何をしにガルトムーアまで来たか、そして誰がゾフを殺して首を切断したか」
「なるほどね。で、それは誰?」
 しばし間をおいたが、ヒュゲットは結局はこたえた。
「ユースタス嬢だ」 
 望みどおりのこたえにスワンは手を打つ。
「素晴らしい! 素晴らしい術ね、なんでも見通せるのね、ユースタス、ああ、わたしの娘! 魔女の名を継ぐべき娘! 研究の再開を急ぎたい理由はあの子のこともあるの、早く呪いの技を仕込んでやりたいのよ。それなのにあの子ときたら、」大袈裟にお上品ぶった素振りを真似る。「どうやってもお姫様気分が抜けなくてねえ、でもこのごろやっと呪術に目覚めてきて喜んでいたのよ。それにしてもあなたの術は興味深いわね、その男など」とメイナスをふたたびさしたが、反応はやはりなく桶にちょこんと座っている。
「まるで別人ね、しかもひとを操るだけでなく千里眼の能力まで引き出せるなんて」
「千里眼などではない、メイナス・ジョイスは実際にユースタス嬢を目撃し、それを人工的遊眠症によって喋らされただけだ。もともと知らないことは何をどう訊かれても喋れない」
「慎重なのね、いい資質だわ、これからの研究次第というところね」
「そんな研究は無駄だ、人工的遊眠症が可能なのは、いわば閉ざされた意識の扉をあけるだけだ、その中にしまってないものをとり出すことはできない」
「自分から考えかたを制限するなんて感心しないわ、こう考えることもできるはずよ、その人工的遊眠症というのは扉だけでなく鍵もあけられる。もしこの世に神がいるとして、その神が人間の優れた能力を恐れ意識の奥底にしまって厳重に施錠した、でもその鍵を人工的遊眠症ならあけられる」
 ヒュゲットは閃きを、学術の徒だけにもたらされる天啓を、受けたようだった。眉根をよせた。考えこんでいる。スワンはさらにたたみかけた。
「あなたもあなたのメスメリズムをここで研究すればいいわ。正餐会が再開されたら大勢の人間が集まるから、あなたも好きなだけ実験できるわよ。わたしには人工的遊眠症の術を教えて頂戴。お互い、わかちあいましょうよ。助言しあい、協力しあって、それぞれの研究を完成させましょう」
「馬鹿な」
 ヒュゲットは笑った。笑って、拒絶に迷いはないと思わせようとした。スワンにではなく、自分自身にだ。それを感じとりスワンも笑みを返す。皮肉をにじませた余裕の笑みだった。
「いいえ、わたしとあなたはおなじ種類の人間よ、金儲けや道徳より探究心を満足させることを優先させるの。そして人生において最大のテーマは自分の研究を完成させること。メスメリズムをとことん極めたいと思わない?」
「メスメリズムは医術だ、医術は人間を治療するためにある、けっして自己の利益や満足のためのものではない」
「あらあら」とスワンは朗らかな笑い声をたてた。
「では、なぜあの男に術をかけたのかしら。まさか治療のためではないでしょう、あなたはただ知りたかったの、わたしの呪いに興味があって知りたくて仕方がなかったの、自分の探究心を満足させたかっただけなのよ」
「違う。〈呪い〉病を解明するためにやったことだ」だがヒュゲットは動揺を隠せない。
「違わない。わたしにはわかる。あなたは考えたはずよ、メスメリズムの治療中に人工的遊眠症を引き起こすたび、この先何が起こるのか、これ以上何ができるのかって。この男に術をかけるときにも考えた、やっと人工的遊眠症を試すときがきたぞって。魔女の呪いを解明するなんてたんなるいいわけ、その証拠に、知りたいことを聞き出したあとも術を解かずに男を連れまわしている」
「違う。みんなの前で証言させて明らかにするためだ、魔女の呪いの真相を、あなたこそが一族を殺した犯人で、仲間のゾフまで死に追いやり、そしてユースタス嬢を操って、」
「操って? 何を云っているの、操っているのはあなたでしょう。その男を操って、どこまでやれるかあなたは試したいの、だから術をかけたままにしているの、さあ、試してみましょうよ」
 ぱん! とスワンは手を打った。メイナスがびくっとして顔をあげた。
「おまえは魔女について噂を知っているの?」
 こっくりと頷く。
「話してごらん」
「伯爵様ご一家は昔から魔女に呪われているからひとが次々と死んでゆく、だから伯爵様のお城には無闇に近づくな、でも魔女をつかまえて火炙りにしたら褒美をもらえる」
 問うようにスワンはヒュゲットへ視線を移す。褒美? わたしはこんな噂は流していないわ、事実と違うじゃないの。
「だから千里眼などではないんだ、この男の頭の中ではそういう話になっているんだろう」
「実際に聞いた話と自分の願望とを混同してしまったということね、そしてそれをこの男は信じているわけね」
 メイナスはあどけない顔で次の言葉がけを待っている。
「以前からわたしは、どうやれば人間を自分に都合よく動かせるかにも興味があったのよ。着目したのは噂や伝説の類い。噂とは秘密に群がるハエのようなもの、人間のこころは天秤のようにギリギリでつりあっているから、そこにハエがとまっただけで簡単に傾く。けれども予測がつかないから安易に利用するのは危険だった、確たる根拠もなくただの噂だけで罪人と見なし、焼き殺そうとさえするのだから。だけど、なるほどね、どうやら人間のこころは傾きたい方向があるのね、たとえばどんな噂を聞いてもこの男は、褒美を得る話に作り変えるのでしょうね。でも、人工的遊眠症なら傾く方向まで操作できるんじゃなくって?」
 ふたたび手を打ってメイナスを呼ぶ。だがヒュゲットが怒鳴った。
「やめろ! ひとのこころを捻じ曲げるな」
「あら、気に入らないの? あくまで紳士を気取るのね、せっかくの実験の機会だというのに。じゃあ、こういうのはどうかしら?」
 スワンの冷えた瞳がにわかに煌めき出していた。メイナスにむかって、ひと言ひと言、はっきりと告げる。
「もし、今からおまえの目の前で凄惨な光景がくりひろげられたら、血が流され叫びが発せられたら、それは魔女の呪いが起こしたものなのだ。そのときこそおまえに巡ってきたチャンスよ、おまえはすぐさま魔女を探しに行きなさい、そして火炙りにしなさい、そうすれば望みどおり褒美を手に入れられるだろう」
 ヒュゲットにむき直り、
「これならいいでしょう? 傾きたい方向へ押してあげただけよ? しかももしをつけてあげたわ」
 メイナスの表情は変わっていない。良いことも悪いこともまだ知らない幼子のように、安心しきって我が身をこの状況に、パイ料理をはさんで対峙しているスワンとヒュゲットに、ゆだねている。
「これからこの男が何をするかは、ドクター・ヒュゲット、あなたの選択にかかっているのよ」
「どういう意味だ」
「わたしとともにこのテーブルにかけて食事をするか、それとも拒否するのか。ああ、呪いの種のことだったら心配は御無用よ、これはただのパイ、味は昇天ものだけど、でも、ただの無害なキドニーパイ。あなたに御馳走しようと腕によりをかけて焼いたのよ」
 ヒュゲットは立ったまま動こうとしない。
「そんなにお疑いなら、わたしが先に食べて見せましょう」
 切り分けたパイの自分の分を、ナイフとフォークで品よく口に運ぶ。味に満足したしるしに大きく頷き、もう一口食べる。
「さ、あなたも食べて」
「断る」
「なぜ」
「魔女と手を組んだら、神様に申し開きできない」
「科学者のくせに神を信じるの?」
「信じていると云ったら嘘になる。でも恐れている」
 スワンは首をかしげた。それから長い息を吐いた、実に残念だというように。あなたにはつくづく失望したわ、と。
 そうして席を立つとヒュゲットに背をむけ、調理台をまわりこみ、棚の抽斗から何かをとり出し、背中に隠してまたもどってきた。
 スワンがヒュゲットの正面まできて、背中に隠していた手を出す。
 握られていたものは、とりたてて珍しいものではなかった。厨房にも食事の場面にも、あってあたりまえの物だった。だからヒュゲットも、まだしつこく食べろと誘うつもりかと誤解した。
「ドクター・ヒュゲット、ごめんなさいね。あなたにすべてを明かすと云ったけれど、実はまだお話してないことがあるの。人間の体に呪いの種を植えつけるには食べさせるのが一番自然で怪しまれないんだけど、ほかにも方法があるのよ。わたしがなぜ最初にあなたの眼鏡を壊したと思う? こうすることになった場合、邪魔にならないようによ」
 云い終わらないうちに、白金のフォークは深々とヒュゲットの左眼に突き刺さっていた。
 ヒュゲットは腰をおり、膝をついた。手が何かを求めていたずらに床を這った。やっと声が喉をせりあがってきた。しかし叫びではなかった。奇妙にも猫が上機嫌になって喉を鳴らす音に似ていた。
「わたしは以前にすべてを失ったことがあるの、でも研究をつづけることができたのは、その白金のフォークのおかげ。白金といってもただの白金じゃあないのよ、銅の悪魔と呼ばれる金属を混ぜてつくったものなの。あれこれ試してみた結果、ドイツからわざわざとりよせたこれが、わたしの可愛い種のお気に召したみたい。これまでの研究をとおして、呪いの種は眼には見えないくらい小さな何かだろうと、それは予想していたんだけれど、どうやら種は、わたしたちとは次元の違う存在らしいのよ。だって、こんな硬い金属にまで宿ることができるんですもの」
 つい、ため息が出てしまう。
「残念だわ、この問題についてもあなたと一緒に追求したかったのに。とはいえ新しい実験ができるわ。これまではね、口の中を刺していたのよ、だけど眼のほうが脳に近いじゃない? でも、さすがに眼をつぶすのは、あら手が滑っちゃったごめんなさいね、ではすまないでしょう? やっと試すことができた」
 満足げな笑みがこぼれる。
「これからじっくりと観察させていただくわ、娘のユースタスとね。フォークはあの子に譲るつもり、そして二人でより完成させてゆくの、そうして技はまた次の代へと継承されていくでしょう、そのフォークとともにね。白金のフォークは我が一族の象徴となるのよ」
 ヒュゲットの手がとうとう求めていたものを見つけた。おのれの眼球に刺さっているフォークの柄だった。右手でつかみ、左の手は眼をおさえる。引き抜こうとする。先に声がほとばしり出た。苦痛を訴えているのか、それとも叫ぶことでくじけるこころを叱咤しているのか、またはひたすらな怒りなのか。ともかくフォークはヒュゲットの眼球に深々と埋まっており、呪いの種がその存在を主張してか仄白い輝きは内側からにじみ出ているようで、それを引き抜くとなれば叫びは尋常ではすまなかった。ひどく禍々しく、憎しみに満ち、それこそ呪詛の雄叫びだった。
 そのようすをスワンはふたたび腰かけて、パイを食しながら見物していた。
 がたんと音がしたと思ったら、メイナス・ジョイスが桶を蹴飛ばして立ちあがったのだった。眼前にくりひろげられている陰惨な光景に蒼白になっている。だが食い入るように凝視している。流された血は網膜を突き抜けて脳にまで灼きつき、そしてヒュゲットの絶叫は一直線に無意識の底まで刺さったことだろう。
 汚臭にスワンは顔をしかめた。メイナスのズボンが濡れている。さては失禁したか。だが怒鳴りつけるまえにメイナスは駆け出していた。へっぴり腰で、あちこちにぶつかってはものを落としていく。
 食べる気が失せた。が、パイはあと一口だった。もったいない。今日のパイはことのほかよい出来だ。たいらげた。
 次の瞬間、吐き出した。咀嚼したパイとともにテーブルに落ち、硬い音をたてる。
 その小さな破片は光っていた。細い金属片だった。スワンの口の端から血が垂れる。
 立ちあがった。ヒュゲットへ歩みよる。ヒュゲットは壁に半身をもたせかけ荒い息をついていた。顔の左半分は血まみれだった。残った右の眼で力なくスワンを見あげている。血は首をつたい服も汚していた。白金のフォークは、だらりと垂れた手の中だ。やはり血にまみれている。
 フォークをひったくる。血が飛ぶ。手袋をはめることも忘れている。フォークの歯が一本短い。一番端の歯が途中で欠けている。
 テーブルにとって返し、口から吐き出した破片を、パイに混じっていた破片を、おのれの口内を傷つけた破片を、つまみあげ、フォークの一本だけ短い歯へあててみる。
 ぴったりつながった。
 腹の底からたぎる憤怒のまま、その名を呼んだ。
「スーザン、スーザン・ネラ! よくも──、イヌめがっ」

ユースタス6  死ぬのかしら? ふと持ちあがったその考えがわたしの胸の内側を照らした

 空がこんなに高く透きとおっているなんて知らなかった。
 わたしたちがグロットーを出たときには雨はとうにやんでいて、洗われたムーアの丘が輝いていた。草に残った雨のしずく一粒一粒が煌めいて、わたしの足に踏まれるたび、楽しげに転がる。靴底を打つ水の音、次第にぬくまってきた泥の匂い、それらにわたしの頬はひとりでにゆるんでくる。
 祝福しているのだ。誰が何を? みながわたしを! 新しいわたしの誕生を!
 わたしは生まれ変わった。グロートーの中でわたしは一度死に、そして新しく生まれ変わった。殺したのはブラッド。生まれ変わらせたのもブラッド。ブラッドは裸のわたしの体の隅々まで見て、触れて、これまで誰にも触れさせるどころか絶対に見せもしなかった秘密のあの部分も、やさしく、そっと、でも躊躇や遠慮はまったくなく、そして凄く上手に扱った。わたしは何べん死んだだろう! 怖くて死んだ。恥ずかしくて死んだ。そうして、気持ちよくて死んだ。
 抱きあうわたしたちを見ていたのも、思わず泣いてしまったわたしの声を聞いたのも、グロットーの中の骨の屍たちだけだった。いいえ、とそこでわたしはまた笑いがこみあげてくる。彼らは見えも聞こえもしない、だって頭がないんだもの。
 最初ブラッドがわたしを引きよせて重なってきたときは、どうしてこんな墓の中でと恨んだけれど、死んで生まれ変わったんだもの、あそこほどふさわしい場所はなかっただろう。それになんといっても、わたしたちは醜い化け物どうし、化け物には似合いの閨ではないか。そう。わたしたちは化け物、この世で二人っきりの存在。
 わたしはガルノートン家の娘ではなかった。赤ん坊はすりかえられた。わたしは女中頭のネラ夫人の娘だった。ネラ夫人が一家を殺してまでわたしを女主人にしたがったのは、そういうわけだったのだ。すべてを投げ打つ愛も、息苦しいほどの期待も、わたしが実の娘だったからだ。
 だけど、あのひとの娘だったと知っても、いまだにピンとこない。おそらくこれからも母親だとは思えないだろう。すでに新しい自分になったわたしには、ネラ夫人は遠い過去の記憶のようだ。
わたしはもう誰の娘でもない。魔女の呪いに怯える貴族令嬢でも、一族の救世主でもない。身分も財産もなく、名前だってほんとうはユースタスではない。唯一自分のものだとはっきりしているのは、この畸形の体だけ。だけど、どうしたことだろう。不安などひとかけらもなく、気分は晴れ晴れとしている。それはきっと隣にブラッドがいるから。
「ねえ」とブラッドが──ブラッドと呼んでいいのか、真の名であるユースタスと呼ぶべき?──振り返った。
「なあに」うっとりとわたしは返事をする。
「ねえ、ガルトムーアを出ないか」
「ここを? 二人で?」
「うん。二人で行こうよ、君の好きなところへ、どこへでも」
 荒野を、生まれたときから馴染んできた風景を、眺めわたした。
 ヒースの花はすでに散り、葉の緑は深まり、秋の装いがはじまっている。ところどころ白粉をはたいたようなのはワタスゲの群れだ。ワタスゲ──。ガルノートン家の紋。
 首を巡らせると、ガルトムーア・ホールはさきほどの雨をまだしたたらせて、あたりを睥睨している。落とす影で自身を真っ黒に染めている。
 不意に気づいた。自分が帰る場所を失ったことを。そしてわたしのこころの半分は、習慣からかそれとも恋しいのか、あの城舘に帰ろうとしていることを。しかし、何者でもなくなったわたしが、あそこへ帰ってどうするというのだ。
 ブラッドの手が伸びてきて、わたしの手を握った。痛いほど握りしめられた。この力と体温より確かなものがあろうか。わたしは両手で握り返し、その愛おしい手のこうに口づけた。荒れてささくれているブラッドの皮膚がわたしの唇にひっかかる。
 そのときだった。舘の玄関の扉が開いたのは。
 舘まではまだ距離があったから、出てきた人影は小さかった。だが誰であるかはほとんど直感でわかった。わたしが恐れていた人物。このまま現れないでほしいと切望していた人物。ヒュー・ヒュゲットだ。
 ブラッドの手がわたしの手からするりと抜ける。わたしをおいて駆けてゆく。わたしは抜け殻になってしまった……
 しかし、重い足どりであとを追い、玄関へのぼる階段まで来ると、ヒュゲットが大怪我を負っていることがわかった。急いで階段をあがる。
 ヒュゲットはとても立ってはおれないようすだった。うずくまって壁に体をあずけている。顔面は血まみれで服にもべっとりとつき、手で左の眼を押さえている。いつも気取ってかけていた眼鏡がない──眼を怪我したのだわ! 点々と血の跡が舘の中からこの玄関ホールまでつづいていた。
「見せて!」ブラッドが傷の具合を調べようとした。「駄目だ、さわるな」弱々しくヒュゲットが制止する。が、かまわず眼から手をどかす。あまりの惨さにわたしは息を呑んだ。ブラッドがハンケチを出して傷にあてる。ヒュゲットがさけようとする。「さわっちゃいけない」「動かないで。誰にやられたの」ハンケチが見る見る血を吸ってゆく。
 死ぬのかしら? ふと持ちあがったその考えがわたしの胸の内側を照らした。
 だが、邪まな願望はそこまでだった。わたしは魔女ではない。わたしは魔女の娘でも、誰の娘でもないのだ。
 躊躇なくスカートの裾を裂いた。細い生地をつくってブラッドの横にしゃがみ、押さえているハンケチの上から包帯がわりに巻いた。
「ありがとう」ブラッドがそう云って幾度もまばたきした。まばたきするごとに濡れてゆくその瞳に、わたしはこころから祈った。どうぞドクター・ヒュゲットが死んだりしませんように。傷が早く治りますように。
 聞き慣れない音がする。舘の中からだ。そして駆けまわる足音も。
 音がまた響く。鋭く空を切り、そして叩きつけられる音。ただし叩きつけられた先は壁やテーブルなどではなく、もっとやわらかくて、でも羽枕よりは身のつまったものだ。
 足音は乱れている。一人ではなく誰かが誰かを追いまわしているような──
 わたしは立ち、舘の中へ入った。
 それが行われていたのは大広間だった。ネラ夫人が逃げ惑っていた。テーブルにぶつかり椅子を倒しソファに倒れかかり、また起きあがって頭をかかえ小走りに逃げる。追っているのは母だ、エリザベス・ガルノートン。いいえ、わたしの母ではないのだわ。わたしのほんとうの母親はあっち、スーザン・ネラ。追われて、鞭で打たれているほう。
 そうなのだ。エリザベスが手に持って振りあげているのは鞭だった。振りおろされる。革がしなる唸り。そしてネラ夫人の背に食いこむ。鋭い破裂音。
何なの、この二人は。何をしているの?
 奇妙なことにネラ夫人は決して本気では逃げていない。その証拠に広間からは出てゆかないし、もたもたしてはエリザベスの鞭のとどくところで待っている。どういうつもりなのだろう、〈呪い〉病の症状のせいで思うように動けないにしてもだ。
「スーザン、このイヌめ!」エリザベスが罵る。ネラ夫人が痙攣する腕をかざしてみじめっぽく訴える。「お許しを、お許しを」
「あれほど手袋をするように云っておいたのに、この愚か者!」
 鞭は打ちおろされる、幾度も幾度も。ネラ夫人はもはや逃げはせず、つっぷしてすべてを受け止めている。
 そうして鞭がやんだかと思うと、べつのものが投げつけられた。夫人の頭にあたった。蓋があいて中身が跳んだ。投げられたのは箱だった。漆塗りの箱で、蓋にはワタスゲの紋が箔押ししてある。この箱についてお母様とお話したのはいつだったっけ。しまってあるのはお母様の跡を継ぐ者だけが持てる品だと。ガルノートン家の女主人の証の品だと。
 だけど中から出てきたのは、むろんシャトレーヌではなかった。だってシャトレーヌはブラッドが持っている。あれを見てわたしは誰が真のユースタス・ガルノートンなのか、悟ったのだ。ブローチだなんてブラッドは勘違いしていたけれど、あれはシャトレーヌだ。ワタスゲの紋の下にならんだ小さな輪に、鍵をさげる鎖をつなげて使う。そうやって舘じゅうの鍵をつねに身につけている者こそ、女主人とみなされるのだ。
 では、シャトレーヌではないのなら、何が箱から出てきたのだろう。フォークだった。白銀の輝きは美しいけれど、でも、ただのフォーク。ワタスゲの紋どころか、何の飾りもない。しかもよく見ると使い物にもならない代物だ。歯が一本欠けている。
「復讐か?」
 エリザベスの声は、これがあのお母様かと疑うほど重たく凝っていた。
「これは復讐か? おまえの体に呪いの種が入りこんだのは、おまえの落ち度だろうが。それをおまえは逆恨みし、わたしにまで種を植えつけたのか!」
 母の顎についた汚れ、あれは血だろうか。
「違いますスワン様!」
 ネラ夫人が叫んだ。
「滅相もないことです、わたくしの預かり知らぬことです、わたしは、わたしは、なんにもしとりません、ほんとです、なあんも知らんのです、ほんとですよう、だから許してくださいよう」
 これは誰? 鉄の百合と恐れられたネラ夫人はどこへ行ってしまったの? 這いつくばって、自分で自分の額を床に打ちつけている。その何度も響く振動が靴底から伝わってくる。粗野な言葉遣い、鼻水まで垂らした泣きべそ顔、額ににじむ血。やがて腕をさしあげるが、〈呪い〉病のせいで痙攣が止まらない。それでもせいぜい伸ばしエリザベスのスカートにしがみつこうとしている。
 だがエリザベスは素早くさがり、また鞭を振った。怒りが極限まできたせいだろうか、もはや無言で、顔から表情というものがまるで抜け落ちていた。眼がガラス球より透きとおっていた。頬が石を彫ったよりも無機質だった。アー、アー、と妙に粘っこい声があがっていた。鞭が打ちおろされるたびネラ夫人があげるのだった。アー、スワン様。アー、スワン様。
 この二人は何をやっているの? スワンとは誰?
「魔女はエリザベスだったんだ」
 囁いたのはブラッドだ。いつの間に来たのか背後にいた。
「ヒューから聞いた。食べ物に病毒となるものを混ぜていたのはエリザベスだった、〈呪い〉病でガルノートン一家や、ほかの大勢を殺していたのはネラじゃなく、エリザベスだったんだ。ネラはゾフと同様、ただの手下だ」
 ブラッドが何を云っているのかわからない。アー、スワン様。アー、スワン様。ただそれだけが頭の中で木魂している。
 ぼんやりとした視界の片隅で動くものがあった。見ると、広間の奥のほうの扉があいて、顔が覗いた。ユリアだった。
「何を騒いでいるの、もしやヒュゲット様がおもどりに──」云いかけて、大きく息を吸いこむ。
「ヒュゲット様!」
 あけっぱなしにしてあったこちら側の出入り口から、玄関ホールのヒュゲットが見えたのだ。
 ユリアは杖で体をささえていた。胸の高さほどある床置きの蝋燭立てを代用したものだった。蝋燭立てにすがって揺れる体を支えながら、精一杯急いで広間を突っ切ってくる。思うようにならない身と操りづらい杖に苛立ち、母親やネラ夫人の姿も眼に入らぬようだ。
 躓いた。ブラッドが駆けよった。わたしも走った。助け起こして三人で玄関へ行く。ユリアは杖を放り出し、転げるようにしてヒュゲットのもとへと跪いた。「酷いお怪我! 早く手当てを」
「大丈夫ですよ、眼をやられただけだ」
 笑って見せようとするけれど、頬がひきつれただけだ。
「もうお話にならないで、静かにしていて、お医者様を呼びましょう」と外へ、ユリアが顔をむけたときだ。
 ユリアの頭ごしにわたしも見た。見たのは一瞬で、思ったのは、とてつもなく大きな鳥が横切った、ということだった。ただし縦方向に。上から下へ。
 そしてほとんど同時、聞こえた。まるで死の王が、生死を決定する巨大な鉄槌を地に打ちおろしたような。
 すぐさまブラッドが駆け出た。「なんとことだ、なぜこんなことに──」
 わたしもつづいた。階段を降りるまでもなく、地面に横たわっているものが何であるかわかった。だけど信じられなかった。どうしてこんなことが起こるのだ。有り得ない。だってマミーリアは、ひとりではベッドから出ることさえできなかったはずだ。
 マミーリアの投げ出された片足と片腕は、ふつうでは考えられない曲がりかたをしていた。頭の下の草に血が広がる。墜落したのだ。八角塔のある屋上から。
 わたしの横にヒュゲットが来た。ユリアの蝋燭立ての杖を使っている。ブラッドがヒュゲットを支え階段を降りた。そのあとをわたしもついてゆく。ヒュゲットが医師の使命をはたす。マミーリアを診る。わたしも覗く。現実を見定めなくては。
 マミーリアのすっかり肉のそげ落ちてしまった顔。まるで頭蓋骨に直接皮膚をはったよう。それでも皮はあまって一面に細かい皺がよっている。以前の美貌の名残りは二つの瞳だけだ。だけど青く宝石のように煌めいていた瞳も、いまやただ表面が反射しているだけ。
 まばたきした! 
 マミーリアの眼は何かを見ているようだった。体はぴくりとも動かないが、眼は空中の何かに据えられていた。そして唇をわななかせた。
「何? 何が云いたいの?」
「魔女が──」
 懸命に言葉を出そうとして喉が鳴っている。手を握って励ます。
「魔女が、わたしを落とした」
 瞳から色が抜けた。握りしめた手にまだぬくもりが残っている。でも、たった今、命は失われた。失われてしまった。ヒュゲットも無言でかぶりを振った。
「魔女が落としたって?」
 そう云ったのはブラッドだ。
「魔女は、エリザベスは、大広間じゃないか」
 そうよ、マミーリアが落ちたとき、エリザベスは大広間でネラとともに鞭打ちの狂乱の真っ最中だったはず。誰がマミーリアを落としたというの。誰が魔女だというの。
 こたえを探し求めるように舘へ振り返ると、玄関にエリザベスが出てきていた。後ろにネラ夫人も控えている。痙攣がつづく体でよろめきながら。
 エリザベスもこの状況を理解できないようだ。茫然と立ちつくしている。
 だしぬけに降ってきた。笑い声だ。なんてけたたましい。
 わたしの頭をよぎったのはあらぬことだった。また八角塔のマミーリアだわ、可哀相なマミーリア、魔女の呪いに侵され自分の意思とは関係なく笑っているのだわ。
 そんなわけなかった。マミーリアの亡骸はここに横たわっているのだ。笑い声は甲高く、上空から針となってわたしたちに降り注ぐ。振りあおいでも認められるのは、屋上の八角塔の屋根が照り返すまぶしい光だけだ。
 アンヌ・マリー。
 アンヌ・マリーなの?
 アンヌ・マリーがマミーリアを落としたの? そして八角塔で笑っているの? 魔女アンヌ・マリーが。

ブラッド6  と、そのとき、魔女の首がごろりと動いた

 魔女が笑っているって? そんな馬鹿な! 
 しかし笑い声は確かに聞こえてくる。キン、と耳の奥に突き刺さって、脳味噌まで振動させる。
 ここにいる全員が事態を把握しかねていた。僕も、ユースタスも──ユースタス以外に何と呼べばいい?──、大怪我を負ったヒュゲットも、病をおしてヒュゲットにつきそうユリアも。
 それからネラ──まったくの見込み違いだった、魔女の賤しい奴隷だったとは。
 そしてエリザベス──真の魔女はこのひとだった、狂気の片鱗すらなく淡々と鞭をくれる女、あれを母と呼べというのか。
 その全員がしばしのあいだ立ちすくんで、禍々しい哄笑を浴びていた。
 最初に動いたのはエリザベスだ。身を翻し、靴音も高く舘の奥へと消える。ネラもそのあとを追う。こちらはよろけては倒れ、這ってでも進もうとする。
 ヒューに呼ばれた。自分たちも八角塔へ行こうと云う。
「駄目だよ、あんたは安静にしてなくちゃ」
 なのに、一人でも蝋燭立ての杖につかまって進もうとするから、肩を貸す。
「待って」ユリアだ。
「わたしも行きます」
 ユリアこそ無理だ。〈呪い〉病に蝕まれ全身を細かく震わせて、立っているのさえやっとなのに。
「いいえ、わたしもこの家の一員です、何が起きているのか知りたいの」
 ユリアはユースタスが支えた。
 四人で主階段をのぼっていった。エリザベスらの姿はすでにない。のぼりながら僕はヒューに伝えた。グロットーで見つけたバートルの告白書のこと、そこに誰が誰の子であるか書いてあったこと。三階まであがったときにはユースタスとユリアは遅れて、まだ踊り場よりも下だった。廊下を進みながらヒューも話す。これまでどこにいて誰と何をしていたのか。
「エリザベスに誘われたよ、ここでともに思う存分研究をしようと」
「ええっ、それで承知しちゃったの?」
「何で承知したと思うんだ」
「じゃあ、何で承知しなかったの」
「正直なところこころが動かされた、神を恐れてるなんてのも嘘さ。怖かったのは彼女なんだ、悪趣味なんだよ。でも、もし出されたのがコケモモのパイだったら、喜んで食べてたかもな」
 何のことを云っているのかわからなかったけれど、ヒューは三日三晩酢に浸けこまれた鰊みたいに、くたびれはてた顔をしていた。
「実は俺はユースタス嬢を疑っている。ユースタス嬢はエリザベスに操られているんじゃないだろうか、人工的遊眠症か、それに類する術で」
 僕は返事ができない。僕だって見てるんだ、夜中にユースタスがゾフの首らしきものを運んでいるところを。マミーリアとメイナスに魔女と指さされ恐れられたところを。だけど僕はユースタスを糾弾しないと決めた。僕らはもう二人で一人なんだから。
「しかし、ユースタス嬢でもなくエリザベスでもなく、八角塔には誰がいるんだ、魔女はまだほかにいるのか」
 三階廊下のつきあたり、隠し扉は半開きになっていた。エリザベスたちが通っていったんだろう。あとから来る二人のために扉は大きくあけておく。ヒューが奥のドアへと進もうとするから止める。「違うよ、そっちのドアは裏階段、地下へとつづいてるんだ」
 手前の階段を使って屋上へ出ると、ちょうどエリザベスたちが八角塔に入ろうとしていた。入った。けど、それきり動かない。突っ立っている背中が見える。
 僕らもたどり着き、中に入り、動かぬ背中の横へとならんだ。小さな明りとりの窓しかないこの部屋でそれを見極めるには、眼を懸命に凝らさなければならなかった。
 寝台に横たわっている、見知らぬ女が。これがもう一人の魔女なのか?
 天井際の小窓から光の帯が落ちてくるけれど、寝台まではとてもとどかない。
 いや知っている、この女の顔、思い出した。でも違う、そんなはずない、筋が通らない、だって死んだはずじゃないか。遺体だってこの眼で見た。さわりもした。抱えて持って僕がグロットーの棚にもどしたんだ。それともあれは僕の思い違いで、別人だったのか?
 寝台に寝ているのはバートルの女房だった。
 女房だというのは僕が思っていただけでバートルの告白書によると、これはエリザベスの付き添い人だった女なのだ。この女が魔女?
 魔女は、付き添い人の女は、上掛けシーツを口もとまで引きあげて、腕も足も体全部すっぽりとくるまって、あおむけに寝ていた。目蓋は閉じられていたが、薄い皮膚を通して、眼球の表面の微妙なおうとつまでわかった。あの頬といったら! 墓石のほうがよっぽど温かくてやわらかそうだ。
 寝台は手前の右端、マミーリアが使っていたものだ。屋上から投げ落とされるつい先ほどまで、マミーリアはそこに寝ていたはずなのだ。ほかのベッドは長いこと使われておらず、シーツも枕もなくマットレスがむき出しになっている。
「やっと全員そろった」
 誰が喋った?
 寝台の魔女はぴくりとも動いていない。エリザベスも口を開いていない。その足もとでしゃがみこんでいるのはネラだが、今のはネラの声じゃない。背後を振り返ったら、ユースタスがユリアを抱えるようにして支え、やっと来たところだ。
「待ちくたびれちゃったよ」
 また声だ。やはり女のほうからだ。だけど女は静かに眠っている。僕ら全員、おののきすら放てずひたすら視線を寝台の女へ注ぎこむ。
「みんなそろったならもう名乗ってもいいよねあたしが誰なのか。さあ誰だと思う?」
「誰だ」ヒューが全員の代弁をした。
「魔女だよあたしこそ魔女。あたしがアンヌ・マリーだよ」
「おまえがマミーリア嬢を投げ落としたのか」
「そ。あたしが投げた邪魔だったから」
 と、そのとき、魔女の首がごろりと動いた。
 枕から下のシーツへ、さらに寝台の端へと二回転半で転がった。そして床へと真っ直ぐ落ちる。日にちが経ちすぎて中が腐ったカボチャを落としたときとそっくりの音がして、わずかに跳ね返ったのもカボチャと一緒、それから勢いがついて転がるさまは、さしずめやんごとなき姫君のベッドの陰のおまるだ。一直線には進まない。グラグラ揺れながら思わぬほうへ曲がっていって、臭くて汚いものを撒き散らす。首の切断面から垂れ出てくるのはいやらしい汁だった。床に転がってきたとおりの曲線のしみをつくった。
 そうして魔女の首が到着したのは、エリザベスの足もとだった。スカートにぶつかって止まった。顔面が上をむいていた。ちょうどエリザベスと視線が交わる位置と角度だった。かつての付き添い人は首だけになって、かつて庇護した者と対峙した。透けるほど薄い目蓋の内側から女の眼が、エリザベスを睨んでいる。
「アンヌ・マリーだと?」
 首へエリザベスが語りかける。唇は片端が吊りあがって笑みの形をつくってる。けど声の掠れは隠せない、ほんのわずかな掠れだけれど。
「冗談をお云い。アンヌ・マリーなんて、わたしがむかし口走っただけの名前。おまえの名はエリザベスじゃないか」
 エリザベス? 何を云っているのか。それは自分の名前だろう。
 するとぎょっとすることが起こった。寝台に残っていたシーツの膨らみがむっくりと起きあがったのだ、さっきから喋っている声でこんなことを云いながら。
「そりゃあその首はエリザベスだけどさ。でもあたしはエリザベスじゃあないあたしはアンヌ・マリーあたしが魔女なんだよ」
 シーツがはがれ落ちる。現われたのは首のない体ではなかった。もちろんそうだ、遺体はグロットーに葬られているのだから。それはちゃんと頭のくっついた一人の人間だった。女性だ、どこの令嬢だ? この令嬢が、首なし死体のかわりにシーツに潜りこんで喋っていたのか。まだ若い、少女だ。
 令嬢の顔に見覚えがあるような気がした。この顔は、この顔は──
「やっぱりおまえだったのね!」
 叫んだのはユースタス、僕を押しのけ令嬢へ歩みよる。
「下女の分際でなんてふてぶてしい!」
 そうか! わかった、小さいほうの下女だ! いつも炭で顔を真っ黒にして髪もくしゃくしゃの、やたら手足をばたつかせていた知恵足らずの娘だ。だけど今はその出で立ちときたら、白い顔に整った眉、髪は結いあげ、着こんだドレスは上等なサテン、いっぱしの貴婦人だ。寝台に腰かけ、上品に小首をかしげて見せる。
「奉公人の癖に生意気な! わたしの衣裳でしょう、手袋も、靴も、勝手に持ち出して着るなんてどういうつもりなの!」
 娘はうなじの後れ毛をひっぱっている。
「おまえはそうやってわたしのドレスを盗んでわたしになりすましたのね? メイナス・ジョイスがわたしに怯えていたわ、人殺しの魔女だと云って。でもブラッドからわたされたガラスのボタンがわたしに真相を教えてくれた。だってわたしは一人では着れないもの、当然でしょう、背中のボタンをはめるのは下女のおまえの役目、衣装を一人で着られるのは賤しい身分の者だけよ。おまえがわたしのガラスのボタンのドレスを着て、ゾフの首を切りとったのね? そのとき厨房は暗かったから、目撃したメイナス・ジョイスはすっかりわたしだと信じこんだのよ。そしてネラ夫人の云っていた陰の協力者、それもおまえね? 筋道を立てて考えてみたのよ、先回りして妨害するためには何が必要? 相手の動向を知ること。では相手に知られずに覗き見し、会話を盗み聞きするのにうってつけの場所は? それはわたしも利用したことがあるからわかった、奉公人専用の裏階段や裏廊下よ。グロットーの鍵穴のつめもの、園丁殺し、聖書と日記を燃やしたこと、すべておまえが裏階段から嗅ぎまわってやったことよ。ずっと以前からわたしは誰かに見られているような気がしていたのよ、それをわたしは魔女アンヌ・マリーの視線だと思っていた。だけど、おまえだったのね、おまえがわたしを、いいえわたしだけでなく舘じゅうを監視していたのね」
 なによりもまず、魔女に協力していたのがユースタスじゃなかったことに安堵した。でももしユースタスの云うとおり、ネラの知らぬうちに行われたことがすべてこの娘の仕業なら、バートルの舌を切ったのも、この娘だったということなのか? 僕はバートルの告白書を読み違えていたのか? バートルの恐れていた魔女とは、この娘のことだったのか?
 しかしなぜ? 何のために協力者のような真似を?
 しれっとして娘が笑った。
「だからあたしがアンヌ・マリーなんだってば。そうだよ鍵も園丁も聖書もあたしがやったゾフの首を切ってやったのもあたし。でもこのドレスを着たことあれこれ云われる筋合いはないね盗んだなんて心外だなだってこれあたしの物だものあたしのドレスなんだものだってほんとならあたしがこの舘のお嬢様なんだもの」

アンヌ・マリー やっぱり首を切るのには斧が一番

 ええっとね。まず名前から云おうかなアン・メアリあたしの名前はアン・メアリフランスふうに読んだらアンヌ・マリーほらそこに転がってる首。あれがあたしをアン・メアリって名付けたママ名前はエリザベス。
 あららややこしくってわかんないって顔してるねえ。でもわかってるひとだっているよねそっちのエリザベスこの舘の奥様エリザベスほんとの名前はスーザンいやスーザンて名は嫌いなんだよねスワンだったっけそして女中頭のネラ夫人この二人は当然事の次第をわかってるはずあっスーザン・ネラはもちろん偽名でほんとはイヌなんだよね。
 やっぱりわかんないか。じゃあちょっと整理して説明してみようか何から知りたい? 待って順番順番いっぺんには喋れないってば! じゃあねまずはやっぱり一番古い話からはじめようそこに首だけ転がってるエリザベスママそのひとがスワンの亭主の脳味噌を食わされたって話から。
 憐れな世間知らずのエリザベスママ嫁ぎ先のガルノートン家に侍女として一緒についてきてほしいって云い出すほどスワンを信じきってたその折りも折り呪いで長らく臥せってたスワンの亭主がやっとくたばってその亡骸と対面させられたエリザベスママ腰を抜かさんばかりに驚いた何これ? 遺体の有様ときたらとても尋常な死にかたとは思えないヤバいと感じたエリザベスママ祈りの言葉もそこそこに逃げ出そうとしたんだけど女がのっそり立ちふさがったそうそうイヌのことだよ。
 エリザベスママはイヌにつかまって縛られて部屋に鍵もかけられカーテンもしめきって蝋燭の灯りだけが揺れる中見るもおぞましいことがはじまったんだスワンが死んでる亭主に斧を振りかざしあっと思う間もなくドン! ごろんと転がったんだってさ首が。
 エリザベスママは気絶しちゃったんだけどね口の中に何かトロッとしたものが入ってきてそれで目が覚めたんだ飲みこむまいとするんだけどそれは凄くやわらかくて融けて喉へ流れこんできちゃう完全に飲みこむまでイヌに口を押さえられててその手の臭いが忘れられないってよく云ってたよ腐ったキャベツとお便所の臭いだってオエェェェそのトロトロと流れてくるのを飲みくだしながら横目でふと見るとテーブルに乗ってるのはスワンの亭主だった生首でその額から上がすっぱりと無いぽっかり大きな穴があいてて中が空っぽのお椀みたいになっててそれで自分が何を食べさせられてるのか悟ったってわけ。
 スワンの声が聞こえた心底すまなそうな調子でごめんなさいね時間さえあればせめて味は特別美味しく料理してあげたのにそれからスワンはこうも云ったエリザベスもう心配しなくていいのよ婚家とのつりあいや礼儀作法や女主人としての威厳や手腕やもう心配することはないのすべてこのわたしに任せて。
 わかったでしょ? スワンはエリザベスに呪いの種を植えつけ自分は何食わぬ顔でエリザベスになりすましガルノートン家へ輿入れしたってわけイヌは実家から連れてきた女中ってことで自分の大っ嫌いだったスーザンて名を名乗らせた。
 え? どうしてあたしがそんな生まれてもない昔のことを知ってるかだって? 決まってるじゃんエリザベスママに聞いたってゆうより聞かされたといったほうが正しいかなエリザベスママは気が触れたと周囲は思ってたけどあれはふりだったの芝居だよ芝居ついでにもうわかってるだろうけどあたしが白痴ってのもふりものごころついたころからね。
 何でそんなことをだって? わたしのことはまあ追々ね。でもエリザベスママについては想像つくでしょ自分の身を守るためとそれから復讐。
 エリザベスママはね自分を陥れた魔女スワンに必ず仕返ししてやるって誓ったのそれで元はけっして賤しからぬ身分のお嬢様だったってのに男どもに身を投げあたえてまで子どもを産んだんだよあたしにアン・メアリって名前をつけたのも復讐の一つ知りあったときスワンは自分をフランス貴族の未亡人アンヌ・マリーだなんて云ったんだってさそんな出任せにまんまと騙されるなんて馬鹿だよねえそうゆう昔のことなんでもかんでもママはあたしに話して聞かせたそしてこんな境遇にあたしが落とされたのもスワンのせいだから恨むならあの魔女を恨めってまだ言葉もわからない赤ん坊のころからううんひょっとしたら生まれたその日から聞かせつづけたんだエリザベスママってばやっぱり狂ってたのかもしれないね赤ん坊相手にひたすら呪いだの魔女だの吹きこむなんてさこれも一種の呪いかなあたしはエリザベスママの恨みつらみを子守唄に育ったんだ。
 あんた。ねえあんたってば。図々しいな本物じゃないくせにユースタスって呼ばないと返事しないってわけ? あんたさっきいつも視線を感じてたって云ったよね魔女かと思ったけどおまえが監視してたのねってお見事それアタリそうなんだあたしいつも見てたんだ裏階段や裏廊下に潜んでねでもさぁそれでなくてもさぁ隠れてなくてもどうせ誰もあたしのことなんて気にしてなかったよね下女だもんねおまけに白痴だもんねあんたらあたしがいるってのに平気でいろいろ秘密喋ってたよねあんたらはそんな調子だしエリザベスママからもあれやこれや聞かされたしあたしの知らないことなんかないんだよだからグロットーの鍵や聖書や日記やそれからお医者の先生の実験用の動物たちもあっそうそう園丁もね先回りして片付けるの簡単だったあれれ? またみんなどうしてって顔になってる。
 酷いなスワン。あなたまでわからないなんてすべてあなたのためにやったことなのにあたしあなたのためにやったんだよあなたを助けようと思ってやったことだよその二人ブラッドと偽者のユースタスが嗅ぎまわるから邪魔してやったんじゃない園丁の首だってほんとは持って帰ろうと思ったんだよ切りやすいようにってわざわざ最初にめん棒で殴ったんだよでもけっこう元気で暴れるし時間もあんまりなくてさ。
 でもそのかわりゾフの首は手に入れてあげたでしょあれはあたしからあなたへのプレゼントあっひょっとして偽ユースタスがやったとか思ってなかったでしょうね勘違いもいいとこだよ偽ユースタスなんかにあなたの欲しいものわかるわけないじゃんいきなり呪術で雷呼ぶとか云い出す意味不明のやつだよ? 欲しかったんでしょ呪いの種氷室なんかで凍らせてない新鮮な呪いの種さっそくあれ使ってさっきパイ焼いてたじゃんえええっ? なぜって訊いてるの? 
 それ本気で訊いてるのなぜ味方するのかだって? 嘘でしょあーがっくりスワンあなたならあたしの気持ちわかってくれると思ったのにぃ。
 エリザベスママだよ! ママの中の呪いの種! あたしずうっと見てきたんだ生まれたときからずうっとこの眼で間近に見てきたエリザベスママの中でちょっとずつ静かにでも確実に育ってゆく未知の力呪いの種。
 じわじわ損なわれてゆくエリザベスママとその体内で次第に力をつけてゆく呪いの種ワクワクしたよ凄いと思った種はママの中をひっかきまわして滑稽な痙攣を起こさせそれから素っ頓狂な叫び声や馬鹿笑いをあの口から次々と石蹴り遊びみたいに蹴り出すんだよあーどんなにスカッとしたことかあの恨みごとばっかり吐きつづける口にはいい加減うんざりだったんだ。
 スワンあたしはあなたを尊敬した憧れたあなたは魔女だ強くて賢い偉大な魔女とてもエリザベスママなんかがかなう相手じゃない太刀打ちできるわけがないだからだよ! 
 だから白痴のふりすることにしたんだよ何も考えられない知恵足らずの娘にエリザベスママもバートルも油断した下女として舘に潜りこんでからは生意気にも女中頭なんかやってるイヌの眼だって誤魔化せたそうやってあなたに近づきたかったんだあなたに技を教えてもらいたかったあなたのようにあたしも魔女になりたかったあたしにはその資格があるううん違う権利があるんだなぜってあたしユースタスなんだもの本来ならあたしがユースタスなんだものだから魔女としてふるまうときは偽ユースタスからドレスをとり返して真のユースタス・ガルノートンとして身なりもちゃんと恥ずかしくないよう整えたそこは筋でしょ。
 あーあ。まだわかんないって顔だねしょうがないなあ。じゃあそろそろ云っちゃおうかな誰が誰の子なのかどうやって入れかわったのかエリザベスママはもう首だけになっちゃって今日ひっぱり出してくるまでは氷室で氷づけだったし今となっては全部知ってるのはこのあたしだけだもんねあっでもその前にバートルについて話さなきゃ。
 バートルはねえ可哀相なんだよもともはスワンの亭主だった牧師の代理として赴任されてきた牧師補だったんだけどそこでスーザン・ネラとあっイヌのことね出会ったのが運のつき一目惚れだったんじゃないかなああいう特殊な趣味に溺れてる人間て直感で同士だとわかるらしいよもともとバートルが国もとを離れて牧師補なんかになったのもその趣味から足を洗うためって話だったんだけど結局牧師補の身分も捨てちゃってネラにくっついてはるばるこんなガルトムーアくんだりまでやって来ることになっちゃったほんと可哀相なバートルなんにも知らないで。
 バートルはほんとうになんにも知らなかったあたしがどうゆう子で何企んでるのかなんにも知らずにあたしを可愛がってくれた自分が服従している魔女ネラが実は魔女でもなんでもないただのイヌだってことも知らなかった真の魔女は舘の奥様エリザベスだってことも知らなかったその奥様も実は偽者で本物のエリザベスは自分が押しつけられて面倒みてる気狂い女だってことも知らなかったあたしいっつも苦労してたんだ笑いをこらえるのにネラとバートルの芝居がかったあの服従ごっこといったらないねネラったら魔女を気取ってせいぜいスワンの真似しちゃってもう可笑しいのなんのって涙が出ちゃったよネラが何やったって? スワンの命令どおり動いただけじゃん魔女の噂だってスワンが流させたガルトン伯爵の替え玉計画だってスワンが考えたネラなんか指示されてそのとおりにしただけじゃんけどあのときはビックリしたなあもうその替え玉としてやって来たのがそこのあんたアレクサだったとはねアレクサよりブラッドって呼んだほうがいいのかなややこしいなあもうブラッドでいいかいいよねともかくさこんな具合にあたしらの事情もこみいっちゃっててまあその話は追々するとしてネラが何かした? なーんにも! 毎日の料理だってスワンがつくってたんだからほら偽ユースタス憶えてるかなメニューがネラの云ってたのと違ってたことあったでしょそんでもってそこのお医者さんはもう感づいてるよねスワンが阿片づけで部屋に引きこもってるってのはそれを隠れ蓑にして厨房やここ八角塔や自由に行き来するためだったってこと正餐会には呪いの種入りキドニーパイを出さなきゃならないし八角塔では実験台になった人間を観察して存分に研究したいもんねネラが何したって? ネラのしたことといったら自分のかわりにバートルに使い走りさせてあとは憂さ晴らしでバートルを苛めてただけおっと一つしでかしたことがあったっけスワンの目を盗んで赤ん坊をすりかえたんだよねあらスワンどうしたの顔色が冴えないねそうかそうかこの話すぐにでも聞きたいんだねでもちょっと待っててね。
 何も知らなかったおめでたいバートルだけどある日突然知ることになったつまりねあたしが舌をちょん切ってやったときのことおやブラッドその顔はやっぱりって顔だねでもなぜとも云ってるああ違うな責めてるんだねなぜそんな真似するんだって決まってるじゃんわからせるためだよほんとの魔女が誰なのか。
 あれは新しいガルトン伯爵がつまり替え玉のブラッドあんたがこのガルトムーア・ホールに到着するって日がいよいよ近づいたときのことエリザベスママがとうとう死んじゃったそしたらバートルったらなんだか感傷的になっちゃってさ改心だなんて血迷いごと云い出したから本来の自分をとりもどさせてやったんだよ舌を切るって中々のアイディアだと思わない? 鞭なんかより何百倍も痛いしでも死ぬほどの怪我にはならないしおまけに口封じにもなるし最高なのは口が利けないと意識するたびに自分の御主人様は誰なのか思い知るってことだねバートルも気に入ったんじゃないかなバートルったらすっかり素直になっちゃってあたしが命令すると喜んでエリザベスママの首を切り落としたよせっかくの呪いの種だもん大事にとっとかなきゃそうでしょ? スワンママ。
 あらネラ。イヌ。なんでそんなにあたしを睨むのさ自分の奴隷を奪われたから? しょうがないでしょだってあんた魔女じゃないんだもんバートルが望んでたのは真の魔女なんだもんバートルが死んだのだってあんたが真の魔女じゃなかったからなんだからねいくらあたしだってバートルを殺したりしないバートルは自殺それは事実。
 残念だったなあバートルにはまだまだあたしのために働いてもらおうと考えてたんだけどなイヌあんたのせいなんだよわかってるのイヌ? バートルはねあんたはただのイヌだってあたしがいくら教えてやっても信じようとしなかった頑固に耳をふさいであんたへの忠誠を貫こうとしたでもあたしのあたえてやる愛情たっぷりの罰にもまいっていたから可哀相に二人の御主人様のあいだでこころが引き裂かれていたんだろうね身もこころもボロボロになっちゃってだからあたしはグロットーや園丁や一人で奔走しなきゃならなかったんだけどまあそれは過ぎたことだしいいや。
 けどねあたしが許せないのはバートルの自殺の理由が失望だったからなんだよイヌ。あんたほんと間抜けだよねスワンにあんなに注意されてたのに呪いの種を甘く見たねそれともただの馬鹿なのかな命じられたことが理解できないくらい馬鹿犬ってことなのかな救いようがないねバートルはねあんたに呪いの兆候を見て愕然としちゃったんだよなんてこったい! 御主人様と崇め奉ってた魔女が呪いの餌食になってるじゃんか! きっとぴょーんと飛んじゃったんだねこころのバネがあたしとあんたとのあいだでいっぱいに伸びてたバネがギリギリまで伸びきってたバネがいきなり片方がはずれてぴょーんと飛んでっちゃったんだ遠くへ手のとどかないずっと遠くへほんと可哀相なバートル死んじゃったよ。
 苛ついてるねスワン。そりゃそうだよねあなたはバートルのことなんてどうでもいいもんね馬鹿犬ったら野良をたらしこんでやがるわってところかな名前も知らなかったんじゃない? じゃあそろそろあなたの知りたがってる赤ん坊のすりかえについて喋ろうかな。
 ええっと。ブラッドと偽ユースタスはどこまで知ってるのかな何? それ何? へえバートルってば告白書なんて書いてたんだちょっと見せてよ。
 ふんふんまっそうゆうことだねスワンあなたも読む? イヌがどうやってあなたの赤ん坊と自分の赤ん坊をとりかえたのか書いてあるよイヌにも野心があったのかなあそれとも仕返しだったのかな鞭打ちもほどほどにしとかなきゃ。
 ほらほらカッカしないでスワン鞭なんか出したりしないでよイヌを折檻してる暇はないよこの赤ん坊のすりかえ話は完全じゃないんだからさ実はまだ隠されてることがあるんだそれじゃあ結論から云っちゃおうかなほんとうは誰が誰の子か。
 まずブラッド。あんたはこの舘の奥様におさまったスワンの子ではないつまりガルノートン家とは縁もゆかりもないあんたはそこに這いずってるイヌネラとバートルの子。
 偽ユースタス。あんたもガルノートン家とは関係ないそれに女中頭ネラ夫人の子でもないあんたはそこに首が転がってる気狂いの乞食女エリザベスと父親はえーと誰だろ?
 そしてあたし。あたしこそスワンあなたの娘なんだよあたしがこのガルノートン家の末娘ユースタスなんだよ。
 はいはいはい静かにして今説明するから! 今からあたしら三人が入れかわったからくりを説明するから! 特にブラッドと偽ユースタスあんたたちのそのけったいな体のことも出てくるからよーく聞いててね。
 ことのはじまりはめでたくスワンが御懐妊しネラが子種欲しさにバートルを押し倒したときのこと。エリザベスママは盗み見してたんだエリザベスママは常に復讐の機会を狙ってたからネラとバートルの会話や動向をもらさず窺ってたんだそうしてこのとき素敵な考えが浮かんだ魔女の裏をかいて奪われた地位と財産を自分の子にとりもどしてやる方法をね。
 ネラに子種が必要だったようにエリザベスママにも必要だった幸いなことにごろつきはどこにでもいる胸をはだけて流し目でもくれてやりゃ襤褸着た乞食女だろうが見境なくよってくる納屋か茂みかでチャチャッとすませ確実に孕んだってわかるまでせっせせっせと繰り返しただからね偽ユースタス。自分の父親が知りたかったらその辺の村をまわって訊いてみたらいいよ十五年前乞食女に悪さしたのは誰ですかってきっとこころあたりのあるクズが何人もいるんじゃないかな。
 とまあそんなこんなで腹の膨らんだ女が三人さあここからが大事なところゆっくり話すからよおく聞いててね。
 まず最初にエリザベスママが子どもを産んだ野良猫みたいにどこかの岩穴か床下で。
 そのあとがネラこっそりバートルの家で産み落とした。
 そして産後の後始末もそこそこにネラはバートルともども舘へ引き返す舘の奥様の出産も迫ってたんだ。
 その二人がいなくなった隙にエリザベスママは自分の赤ん坊とネラの赤ん坊をとりかえた奥様の子が生まれたらネラは自分の子ととりかえる計画だって知ってたからね。
 さてここまでわかったかな何ぽけっとしてるの偽ユースタスとりかえた赤ん坊ってあんたのことだよエリザベスママがあんたを産んでネラの産んだブラッドととりかえたの。
 エリザベスママの思惑どおりいけばネラはママの子を我が子だと思いそして奥様の赤ん坊とすりかえるそうしてエリザベスママの子はガルノートン家の子として育てられるだろう舘の奥様である憎きあの魔女は何にも知らずにママの子を愛し可愛がり地位と財産をあたえるだろう。
 ところがどっこいだったんだよねえ。魔女の出産が終わりネラがバートルの家にもどってきた赤ん坊を連れにきたんだエリザベスママは隠れて窺うおや? ネラのあの思いつめたようすはどうしたことだろう? 
 なにやらまるで地獄でも覗いてるような顔じゃないかいやあれはゴウゴウと瞳を燃やして地獄の底から見あげてるようじゃないかネラがいきなり赤ん坊をつまりママの子を裸にむいて包丁を突きおろした!
 泣き叫ぶ赤ん坊。
 エリザベスママも叫びそうになった去勢したんだよチョン切っちゃったんだ。
 エリザベスママの子は男の子だったネラの子も男の子だっただからエリザベスママは上手くいくと安心してたんだたとえ魔女が女の子を産んでもネラが要領よく誤魔化せばいいんだもんだって赤ん坊が自分の股から出てくるのをまじまじと見ている妊婦なんていないでしょふつうは息も絶え絶えの失神同然の状態でしょだから素早くおくるみにくるんであーら坊ちゃまですよう可愛いですねえとか云っときゃいいじゃん簡単じゃんほんと何でそうしなかったのさイヌ。あーそうだよねしょうがないよねあんたイヌだもん馬鹿犬だもんそんな知恵もまわらなかったんだよね御愁傷様。
 ネラは赤ん坊の傷の手当もそこそこに舘へ連れ帰っていったエリザベスママは放心してたまあ無理もないよね自分の息子を目の前で去勢されたんだもんそうこうするうちバートルがもどってきた抱いている赤ん坊はとりかえられた奥様の子。
 女の子。魔女の子。魔女が産んだ娘。そうこのあたし。
 バートルはなにやら苦悶しているようすどうやらネラに魔女の赤ん坊を始末しろと命令されたらしい赤ん坊を置いて外へさまよい出ていったそこでエリザベスママは考えた。
 たとえ息子でなく娘としてでも我が子は本来いるべき場所ガルノートン家にもどっただから望みは見事はたされたってことになるでもやっぱり気がおさまらない幼い我が子がどうしてあんな酷い目にあわされなきゃならんのかみんな魔女のせいだみんなあの魔女が悪い復讐はまだ終わってない今エリザベスママの腕の中にいるのはネラの子どもすやすやと眠ってる。
 ママは我が子の血を吸った刃をその赤ん坊に突き立てたうんそう赤ん坊とはブラッドあんただよネラの息子。
 エリザベスママはね自分の息子にされたことをネラの息子にやり返してそれからまたとりかえたんだネラの息子とバートルが抱いて帰ってきた魔女の娘とを。つまりブラッドとこのあたしとを。
何だかこみいったことするよねさあどうしてだ? はい正解そうですもちろん復讐のためです魔女の娘をこの手で育てることがママの復讐だったのです。
 最初にも話したけどエリザベスママは魔女の娘であるあたしを育てながら怒り憎しみ恨みのすべてを注ぎこんだ舘にいるおまえの実の母親はおぞましい魔女で残忍な仕打ちを重ねてきてほんとならおまえはガルトムーア・ホールのお嬢様だったのにムーアの泥水すすって干からびたジャガイモしか食べられないのはその報いなんだよってもー来る日も来る日も聞き飽きたってゆうの。
 あー長い話だった喋り疲れちゃったよとりかえたネラの息子はどこに捨てたとかあとの話はだいたいそのバートルの告白書に書いてあるとおりだからもういいよねこれで全部かな云い残したことはないかなうーんあっそうだ馬鹿だ馬鹿だってさんざんネラをけなしちゃったけどあのイヌもおつむを必死にしぼったことがあったっけガルトン伯爵の替え玉に爺いを雇ったことと魔女の呪いを終わらせる救世主の伝説どっちも偽ユースタスが実は女じゃないもんだからうわー困ったーってことになってでも伯爵との結婚はどうしたって必要だしなら爺いをあてがっておけってわけなんだけど爺いなんてヤダって我が儘云わさないよう救世主伝説も用意してでも完璧に信じこませるためにはその前提の魔女伝説が肝心だってんで何年もまえから部屋の壁の裏やらあっちこっちにどくろを仕込んで準備しておまけに念には念を入れて花嫁競争まで設定しちゃってまんまと偽ユースタスを煽ってまあイヌにしちゃあ頑張ったんじゃないのとんだ浅知恵だけどねちょっと考えりゃ変だって気づくじゃんそれを真に受けちゃって偽ユースタスったらあんた着がえも奉公人にやらせるような生活してて頭ボケちゃったんじゃないの。
 ブラッドと偽ユースタス。あんたたち自分の出来損ないの体を神秘的とか宿命とか感じてたんでしょ生憎だったねえこんな真相だったとはね神秘でも宿命でも何でもなかったね馬鹿犬と気狂い女があーあやらかしっちゃったってだけのことなんだよ薄汚い連中がろくに後先考えないでやっちゃった結果なんだよほんとは男だったと知った気分はどう? ところでさあチョン切られたアレはどうなったと思うアハハエリザベスママったらネラの息子のは村の羊に食べさせちゃったんだよそんでもって自分の息子のはねアハハ自分で食べちゃったんだってさやっぱりもう気が狂ってたんだねアハハそれにしてもさスワンママ。
 スワンママにはがっかりだよ魔女の技を偽ユースタスに教えるだって? 跡を継がせて一緒に研究するだって? 雷を呼ぶ術なんか訊かれて大喜びで教えちゃってさ冗談じゃないよほんとの娘はあたしでしょ跡を継ぐのはこのあたしでしょこんなにママを慕ってるのに大好きなのになんでもしてあげるのに実際してきたのにゾフの首だってあげたのにあんなこともこんなこともいっぱいいっぱいしてあげたのにみんなママのためだったのにでももういいや。
 よく考えたらさもう教わることなんかないじゃんあたしはもうカンペキに魔女でもう全部知ってるんだもん呪いの技も見ておぼえちゃった種の植えつけかたも抜きとりかたも料理の仕方もね云ったでしょあたしはいつも裏階段や裏廊下から見ていてなんでも知ってるってスワンママもそうやって裏からガルトムーアホールのすべてを見ていたけれどそれをまたあたしが見てたんだよもちろんママがあたしからの最後のプレゼントを受けとったのも見たよ気に入ってくれたかな? 白金のフォーク。
 そう。あれのこと。フォークの先っぽ。
 あれをパイに入れたのあたしなんだよなのに何でイヌの仕業だなんて思うわけイヌのわけないじゃんイヌなんかあのフォークの価値も意味もわかってないじゃんそれなのにイヌなんか疑っちゃってさそれでまた失望だよとことんがっかりだよもうスワンママなんかいらない魔女は一人でいいと思う魔女はあたし一人で充分ほかのみんなもいらないみんな邪魔あたしのつくったキドニーパイの味スワンママのと変わんなかったでしょ?
 アハハ今ごろ口押さえたって遅い遅いいつ食べたんだろうって考えてるの? さあいつだったかないつでもいいじゃん一度や二度じゃなかったしあんたらあたしがお給仕してるとき疑いもしなかったねというかお給仕が誰だろうと気にもしない見もしないよね今さら慌てたって遅いんだってば。
 とはいってもさ。なんか死ぬのを待つってわずらわしくない?
 えっとあれはどこかな確かここにあったはず。
 あったあったこれブラッドがまえに探してたよね。そうグロットーの鍵を壊そうとしたときだよあたしがずっと持ってたんだエリザベスママの首を切るのに使ってからうん園丁を殺すときも使ったもちろんゾフのときもねやっぱり首を切るのには斧が一番ほんとはさ呪いの種が充分に育って苗床は死んでからのほうがやりやすいんだけどさスワンママも知ってるとおり首も切り落としやすい位置ってのがあるからねだからじっとしててくれればあんたらも一発でスパッごろんて感じでそんなに痛くないだろうしおたがいに楽なんだけどな。

名前のない子  絶叫のかわりに炎が口から噴き出てくる

 誰も動けなかった。新たに知らされた真実は、怒涛のようにここにいる全員を呑みこんでわたしたちの思考を窒息させた。誰が誰だったのか、誰が何者で何をしたのか、わたしが誰の子でどういう人間なのか、女なのか男なのか。わからない。どう理解したらいいのかわからない。何も考えられない。
 だけど、一つだけ意識にくっきりと刻みこまれたのは、わたしはユースタス・ガルノートンではない、ということだ。それまではほんとうのユースタスはブラッドなのだと認識はしていたけれど、それでもまだわたしはこれまでどおり、ユースタスとしてものを考え、ユースタスとして発言し、ユースタスとして行動していたのだ。
 では、わたしは誰? わたしの名は?
 頭の中の自分の名がしまってあった場所が空っぽになってしまった。するとたちまち頭の全体までが空白になっている。ということは、自身の姓名というものは、当人の頭の隅々にまで根をおろして、そのひとそのものとして生きているらしい。それだからわたしは、名前が失われたわたしのからっぽの頭は、目の前の寝台に腰かけているアン・メアリと名乗った娘が枕の下をさぐって、とり出した斧を手鏡がわりに映し見て、おのれの令嬢ぶりを再確認しながら立ちあがり、わたしへと歩みよってきて、そうしておもむろに斧を振りかざしたのに、逃げなければなどという考えはまったく起こらなかった。
 ただ、頭が働かないぶん眼や耳のとらえたものが真っ直ぐと伝わってくる。
 背後で扉の開かれる音がした。同時に外の風がさっと入ってきた。それは閉めきっていた八角塔に吹きこむ新鮮な空気のはずだったが、つんと鼻を刺す臭いも運んできた。
 扉をあけた人物に気をとられたのか、アン・メアリの動きが止まった。わたしも首をねじ曲げてその人物を見た。男は怒声をあげた。
「魔女め! 火炙りだ!」
 男はメイナス・ジョイスだった。のけぞって腕を振りあげている。それはある動作の途中で、いっさい躊躇せずにジョイスはやりとげた。持っていた松明をわたしに投げつけたのだ。
 むかってくる炎はフクロウのようだった。闇に白い顔を輝かせ火の粉という羽毛を散らしわたしに死を運んでくる。名前のないわたしには知恵よりも死がお似合いだというのだろうか。
 ところが受けとる寸前、わたしは倒された。ブラッドがわたしを押し倒したのだ。ブラッドはアン・メアリの斧からわたしを守ろうとすでに飛び出していたから間にあうことができたのだ。
 顔をあげると火がアン・メアリを襲っていた。松明がわたしという標的を失ってアン・メアリのスカートまで飛んでいったらしい。ドレスの下半分が燃えている。メイナス・ジョイスはわたしのことを魔女だと思いこんでいた。だから、どうして火炙りだなんて思いついたかは知らないけれど、わたしを狙った。しかしはからずも本物の──少なくともみずからそう名乗っている──魔女を燃やすことになった。
 ひょっとするとアン・メアリはほんとうに魔女なのかもしれない。アン・メアリは泣きも逃げもしなかった。這いのぼってくる火に怯えもしない。そんなありふれたことをするかわりに魔女は激怒した。眼をむいて歯もむき出して呪詛を吐きながら、斧を振りあげ炎をまとったまま、ジョイスに突進していったのだ。
 しかしアン・メアリがいかに恐ろしい魔女であろうと、なりはまだ小娘だった。そしてジョイスは大人の男だった。ジョイスは小娘など難なく張り飛ばした。その手は瓶を──きっとお酒だ、さっきから臭っているのはお酒のにおいだ──握っていた。アン・メアリと、ついでに酒瓶も飛んでいった。アン・メアリは床に倒れ、斧も放り出され、酒瓶はあけっぱなしの扉にあたって割れた。ジョイスは酒瓶は振り返って惜しんだがアン・メアリには目もくれなかった。なぜなら火炙りにしたい魔女はこのわたしだからだ。
 ジョイスが松明を拾った。わたしに迫ってくる。ブラッドがわたしをかばうように抱きよせ、ともにあとずさる。が、すぐに背中が壁にぶつかってしまう。ジョイスの眼。どこを見ているのか。濁っているのに光っている。わたしを凝視しているのにわたしに焦点があっていない。狂っているのか?
「人工的遊眠症だ」
 ヒュゲットが云うのが聞こえたけれど、何のことだかわからない。見るとヒュゲットはあろうことか寝台のシーツをアン・メアリにかぶせ、火を消そうとしているではないか。カッとなった。そんな娘よりわたしたちを助けるべきでしょう! ユリアは卒倒寸前、小卓の一つにすがりついている。だがネラ夫人は烈しく震える体をひきずってこちらへ来ようとしている。わたしを助けようというのだ。一瞬、胸がしめつけられる。ええ、一瞬、ほんの一瞬のことだけど。
 そして母は、いえ、母だと信じてきたエリザベス、いえアン・メアリが云うにはスワンという名のあのひとは、わたしのほうを見て、ただじっと見て、何を考えているの?
「火炙りだ、魔女を火炙りにするんだ、そしたら、」ジョイスがぶつぶつつぶやいている。なんてお酒臭いの! 
「火炙りだ、火炙りだ、魔女を火炙り、」松明をふたたび投げつけようと、のろのろとした動きで持ちあげてゆく。
 そして驚愕すべきことが起きた。それは松明がジョイスの顔の前まできたときのことだった。口から火を吐いた! まるで松明の火が誘い出したかのように、ふおっとジョイスの口から青い炎が出現し、松明とつながり、次の瞬間にはジョイスに燃え移っていた。絶叫のかわりに炎が口から噴き出てくる。
 何? 何が起こったの? 魔女の術? わたしが振り返って見たのはアン・メアリだ。
 アン・メアリの火はもう消えていて、むくれ顔で座りこんでいる。ヒュゲットが焼け焦げのシーツを広げ、次はジョイスの消火にとりかかろうとする。
「ジンだ、以前にも見た、浴びるほど飲んだやつの呼気に火を近づけるとこうなる」
 ところがジョイスは恐慌をきたし、ヒュゲットを突き倒し、火達磨のまま外へと駆け出てしまった。ばたんと扉がしまる。
 怪我しているヒュゲットはすぐには立てずブラッドが追う。扉をあけようとする。が、あかない。「何かでふさがってる」肩で押してみる。少しだけあいた。隙間を覗く。「メイナスだ、ドアの前で倒れて──」云いおわらぬうち、熱いっと飛びすさった。
 扉の足もとから炎があがっている。メイナス・ジョイスの火が燃え移ったのだ。
「早くあけて外に出ないと」
 だが火は見る見るうちに扉を舐め、両側の壁にも広がった。あたって割れた酒瓶のジンのせいだ。
 扉にはもう近づけない。ここには出入りできる窓もない。天井際に明かりとりがあるだけなのだ。その天井へ火はすでにとどこうとしている。煙が立ちこめ酷く咳きこむ。眼がしみてあけていられない。無理やりあけると炎の熱と光に灼かれる。熱が押しよせてくる。鼻や喉にまで入りこんでくる。
「斧だ、斧がある」
 煙の中にヒュゲットの影が躍った。アン・メアリの斧でまだ燃えていない壁を叩き破ろうというのだ。ブラッドも見えた。振りあげているのは小卓だ。斧がつくった裂け目へ打ちおろしている。わたしも手伝わなくては。ユリアが杖がわりに持ってきた床置き蝋燭立てがあった。ブラッドの横に立ち蝋燭立てで壁板を突く。斧! 小卓! 蝋燭立て! また斧、そして小卓。壊れてしまい舌打ちするブラッド。だけどやっとひとの腕が通るくらいの穴があく。
 いったん穴ができると壁は破れやすくなった。穴は広がり、そこから煙が抜けてゆくのが嬉しい。あと少しだ、あと少しでかがめば通れるくらいになる。そのときだった。頭上から熱風の塊がのしかかってきた。実際に落ちてきたのは天井だ。
 燃えさかる梁からわたしを守ったのはネラ夫人だった。眼をあけるとわたしの上にネラ夫人がおおいかぶさっていた。懐かしい匂いがした。この胸にしがみついて泣くことを考えた。するとそれを望んでいない自分を認識してしまった。
 這い出してあたりを見る。落ちたのは天井の一部、燃えかたの烈しい扉側で、巻きあがる煙と炎のむこうに憎らしいほど澄んだ空が覗いている。ネラ夫人を起こす。朦朧としているようすだが擦り傷以外に怪我はないようだ。急いで首を巡らせ、ほかは無事なのか確かめる。ブラッドがわたしに頷きかけ、ふたたびヒュゲットと斧を持って立つ。ユリアはもともと火のとどいていない壁に身をよせていた。残るは母──違う、わたしの母ではないのだ、スワンという名の他人なのだ。それとアン・メアリ──どうか炎の下敷きになっていますように、とつい祈ったわたしはひとでなしだろうか。
 しかし次に目にした光景は、長い爪の手で胸を深く突き刺されたように感じた。
 母がうずくまっていた。背を丸め何かを抱えこんでいるようだった。母が体を起こす。抱えこんでいるものを離す。立ちあがったのはアン・メアリだった。
 母はアン・メアリを選んだのだ。これまで我が子と思ってきた娘と実際に自分が産んだ娘、燃え落ちる天井からとっさに守ったのはアン・メアリのほうだった。
 魔女の爪にごっそりと胸を抉られてしまった。
「早く逃げるんだ」
 ブラッドの声が遠かった。けれど押されて壁の穴をくぐるとそこは外だった。ひんやりした空気が胸いっぱいに入ってくる。自然と眼差しが彼方へむかう。のびやかに連なるムーアの丘、秋の昼下がりの長い影、ガルトムーア・ホールの屋上からの眺めはまったく素晴らしい。風が空から直接吹きつける。
 ヒュゲットがユリアをつれて、ブラッドがネラ夫人の腕をひっぱって、壁の穴から出てきた。
 ブラッドは唇を引きむすんで、痛みをこらえているような顔をしている。実の母であるネラ夫人をどう思っているのだろうか。そしてわたしはどう思っているのだろう。ネラ夫人のことを。スワンという名のひとのことを。首だけしか見ていない実の母と聞かされた本物のエリザベスのことを。
 わたしは誰? わたしの名前は何? こたえるべきはこれらのひとたちだ。だけどわたしは問えない。問うても仕方ないだろう。自分がこれらのひとをどう思っているのか、どう思えばいいのか、わからないのだから。
 穴からアン・メアリが現われた。先に出なさいと促されたようすだった。そうしてつづいてスワンが出てきた。
 今や八角塔は巨大な火柱となって空を焦がしている。どこかにメイナス・ジョイスがいるはずなのだが、炎はすべてをつつんで踊り狂い、すでに見わけることができない。エリザベスの首を中に残してきてしまった。けれどとりにいきたいという気持ちはわたしにはない。こころの隅々まで、底をさらってまで探してみても、ひとかけらもないのだった。

 ぐずぐずしている暇はなかった。八角塔はもとは玄関ホールからの吹き抜けだ。舘とへだてているのは渡してある床板だけなのだ。その床板もすでに燃えている。
「急いで降りよう」ブラッドに従って、今や燃え落ちんばかりの八角塔をあとにし、舘の中へと降りる階段へむかった。
 扉をあけると隠し階段はうっすらと煙っていた。厭な予感がした。八角塔の煙がまわってきただけと自分を納得させる。
 降りる順番を考えねばならなかった。後ろにつづく者が突然襲ってきたらどうする? 先頭に立ったものが自分だけ安全な場所に出て、出口をふさいでしまったらどうする? 隠し扉の鍵は火事の混乱で失くなったという話だけれど。
 互いに牽制しているとユリアが自分は最後にしてと云った。わたしは思うように体が動かないからみんなに迷惑がかかるわ。
 先頭はわたしとヒュゲットに決まった。ネラ夫人、スワン、アン・メアリとつづき、そのあとにブラッドだ。最後尾のユリアに気を配りながら前の三人を見張るのだ。屋上への扉はあけておいた。煙を少しでも外へ抜きたかった。
 屋上の出入り口はすぐに小さくなって頭上で白く光るカードとなった。闇がけぶっている。暗闇より視界がきかない。息をするたびいがらっぽい味がして、きな臭さも次第に増してくるようで、気が急いてしまう。ところが足が止まった。下のほうが仄かに明るい。三階への出口が、隠し扉が、あいているのだと、そう思いたかった。
 だが違うのだ。燃えていたのだ。裏階段が燃えている。
 わたしたちのいるこの階段と裏階段とを仕切るドアがあいていた。首をのばして覗きこむと下はもはや火の海で、炎は裏廊下、裏階段をつたってこちらへのぼってこようとしている。「メイナス・ジョイスだ」ヒューが云う。「地下の厨房から火をつけていったのか。早く降りよう、こっちの階段に燃え移るまえに」
 駆けおりる。出口の隠し扉は閉じられていて隙間が光の線となって見える。あと五、六段。が、そこで、じゃら、という音を聞いた。
 何の音か知ってる。よく知ってる。鍵束。ネラ夫人がいつも腰にさげていた鍵束。いきなり背後から突き飛ばされた。
 倒れかかったわたしの横を誰かがすり抜ける。失敗だったのはわたしがヒューの左側にいたことだ。左眼を潰されたヒュゲットはこちらのようすを察知するのが遅れた。わたしは手すりを握りそこね転倒してしまう。だけどいいこともあった。階段を転げ落ちたおかげで早く着いた。今しもアン・メアリが隠し扉をあけようとしている。手にはやっぱり鍵束。いつの間に!
 魔女め! 飛び起きる。扉があく、アン・メアリが出る。扉が閉まる、駄目! だが出られたのはわたしの右腕だけだった。扉に挟まれた。でもこれなら鍵はかけられない。
 むこう側からアン・メアリがぐいぐいと扉を押してくる。わたしはわめき、罵る。この魔女めがっ! わたしを突き動かしているのは怒りだ。怒りはこれまで眠っていたのだ。けれどいったん目覚めたらもうおさえようがない。体じゅうに漲って喰らいつく獲物を求めている。魔女め、魔女め、魔女め!
 ふと斧のことが頭をかすめ、ぞっとなった。アン・メアリの斧はどうしたかしら。失くしたと思われていた鍵束はアン・メアリが持っていた。もし斧もアン・メアリの手もとにあったら、わたしのこの挟まれた腕は──
 ヒュゲットとブラッドが来てくれた。三人で扉を押し返した。すると突然抵抗がなくなり、勢いよく開いた。
 飛び出してゆく。ブラッドの制止など聞いておれない。アン・メアリは廊下の先だ。後ろ姿が逃げてゆく。
 追いついて髪の毛をつかみ、思い切りひっぱってやった。が、アン・メアリは振りむくなり振りおろした。よけた。でも倒れてしまう。そこへアン・メアリが乗ってくる。わたしにまたがってまた振りおろす。こめかみをかすめてゴンと床を打った。その振動を感じた。でも斧じゃなかった、水差しだった。銀製のこの水差しは廊下の装飾棚に陳列してあった。細工は東洋風で代々ガルノートン家に伝わる逸品なのだ。それをなんてことを! また振りおろしてくる、わたしの頭をめがけて。夢中で手で受けた。その手ごと水差しは額にぶつかったが、衝撃はたいしたことなかった。アン・メアリがもう一度水差しを振りあげる。だが持ちあがらない。わたしがつかんでいるからだ。絶対に離さない、離してなるものか、この銀細工はおまえなどが気安く触れていいものではない。
 水差しをとりあい、睨みあい、唸りあった。
 するとそれは、小さいほうの下女と呼ばれていたこの魔女が毎日磨き剤でもってせっせと磨いた成果なのだろう。映ったのだ、鏡のような水差しの側面に。助けに走ってくるブラッドたち。だけどわたしがひきつけられたのは、もう一つの影だ。逆さまの、腰が妙にひきのばされた、じっとこちらを眺めているスワン。
 実際の彼女を見て確かめたくて、わたしは懸命に視線を伸ばす。
 隠し扉の前に立っていた。しげしげと興味深げに観察していた。わたしたちのうちどちらが勝ち残るかを。
 この瞬間わたしの手から力が抜けてしまい、だからわたしはアン・メアリに水差しを奪われ殴り殺されてもおかしくなかった。しかし皮肉にもわたしを救ったのは、つきつめればメイナス・ジョイスといえるだろう。風の巻く不穏な音とともに巨大な炎が、隠し階段のほうから躍り出てきたのだ。ジョイスのつけた火は地下から順に貪欲に舘を食いつくし、そうしてついにあけ放してあった隠し階段の出入り口まで到達し、さらなる獲物を求めて舌を伸ばしたのだ。
 炎の舌がとらえたのは一番近くに立っていたスワンだった。一瞬で体は炎につつまれよろめいた。
 悲鳴はネラ夫人だった。アン・メアリがわたしからどいた。呆然となって立ち、手からは水差しが落ち、が、次には頬を染める。それは間近に迫った炎のほてり? それとも喜色?
 だしぬけに起こったこの笑いをなんと表現したらいいだろう。よじれた神経の軋みとでもいおうか。けたたましく笑いながらアン・メアリがスワンに突進する。
 スワンを突き飛ばした。燃えているスワンをさらに火のほうへ、隠し階段のほうへと押しこもうというのだ。けれどなぜか炎は今ひいてしまっていて、そこは暗い四角い出入り口があいているだけだ。
 ふたたびアン・メアリが突く。出入り口へスワンの体が傾く。とっさにネラ夫人が引きもどした。燃えうつるのもかまわずスワンを抱きよせる。しかしネラ夫人も〈呪い〉病のせいで満足に立っていられないのだ。そこをまたアン・メアリが突き飛ばす。けらけらと笑いながら。抱きあった二人の体は反転し、二人をおおっていた炎も優雅に尾をひき、出入り口の闇へと倒れてゆく。そのとき二人から火が一筋伸びた。スワンの腕だった。アン・メアリの胸ぐらをつかむ。
 消えた。スワンも、ネラ夫人も、そしてアン・メアリも。舞いあがった火の粉が闇の四角の中、三人のあとを追うかのように落ちていった。
 わたしは走った。ブラッドも走った。出入り口まで来て、こわごわと覗く。
 落ちていなかった! スワンとネラ夫人が燃え残った床の端にぶらさがっている。
 奥の裏階段とそれにつながる隠し階段の一部は焼け落ちてしまったのだ。見あげると屋上にあがる階段は残っている。だが下を見ると、何もない。地下まで落ちこむ穴となっている。一度は廊下にまで入ってきた炎が退いたのはそういうわけだったのだ。
 なんという意思の力だろう。炎につつまれながらもネラ夫人は、片手でスワンを抱いて、もう片方の手で床につかまっているのだった。これをどう解釈するべき? 忠誠心? そしてわたしたちの行動もどう説明したらいい? スワンとネラ夫人をひっぱりあげようとしている。火がわたしの手を焦がした。わたしが握っているのはネラ夫人の手だった。ブラッドはスワンの手。習慣がそのひとを形づくるというのは真理なのかもしれない。わたしはネラ夫人と母娘のように接してきた。そしてブラッドはスワンを実の母と思い、慕ってきたのだろう。
 ヒュゲットも加わり、やっとのことで二人を引きあげ、上着をかぶせて火を叩き消した。けれども酷い状態だった。二人とも虫の息だった。ネラ夫人が何ごとかつぶやいている。口からくり出されるその言葉は聞くべきではなかった。
「奥様、死んじゃあいけません、罰がまだです、あたしゃああなたの赤ん坊をとりかえたんですよう、たんと鞭をくれなきゃ、たんと、たあんと」
 ──けれどもこのあと、聞くべきでないものはまだあったのだ。
 体の大きいネラ夫人をブラッドとわたしでかかえ、スワンはヒュゲットが運ぶことにして、一刻も早く非難しようとしたとき。スワンを背負おうと膝をついたヒュゲットが、その姿勢のまま固まった。何者かの手がズボンの裾をつかんでいる!
 ヒュゲットがしゃがんでいたのは隠し階段の出入り口のすぐ前だった。ズボンを握っている手は肘のところまで見えていたが、その先は出入り口の床の端から下へ消えていた。
 うわっと声をあげ、ヒュゲットは立って逃げようとした。だけどアン・メアリのほうが早かった。まるで跳ねあがるように床下から半身が現われ、もう一方の手を突き出しヒュゲットをつかまえようとする。
 ヒュゲットは転んでしまい、寝転がったまま足を蹴り出して防ぐ。けれどもそうやって足を浮かすとかえって不安定になって、アン・メアリの重みで体が引きずられてしまう。アン・メアリもまたずり落ちるのだが、それでも手はヒュゲットの裾から絶対に離さず、ぶらさがって顎は床の端に乗せ、そうやって頭が床に乗っかってるさまはまるで伝説の斬首された魔女の首そのもので、反対の手がまたもや伸びてきて、それをヒュゲットが蹴り返し、蹴られても手は諦めず、もう一度蹴り、その踵を手はつかもうとし──
 音は短くつまっていた。意外と軽かった。壮快でさえあった。一瞬だった。
 ズボンを握っている手だけが残っている。
 それと血も。
 床の端から下を覗いてみても、アン・メアリの姿はなかった。地下までつづく穴の底は火が燃えさかっているだけだった。
 斧の刃から血がしたたる。それはアン・メアリの斧だった。八角塔からずっと隠し持っていたのか。それで隠し階段を最後に降りると云ったのか。
 斧を握りしめたままユリアが云った。
「これでいいわ」

新しい名前 僕らは笑うことができる

 馬車が仮住まいの家から出発しようとしていた。乗っているのはヒューとユリア。ビロードのフード付きマントがユリアの痙攣する体を隠している。ヒュゲットは眼鏡を新調したが、左はレンズではなく色ガラスだ。
 ジリアン・ラシェルが手ごろな家を見つけてくれたのだった。プレストンから三マイルほどの田舎でジリアンの住まいも近い。ちょっとした農園もついているそうだ。
 ヒューはそこでメスマー舘を再建して、〈呪い〉病の治療法を研究するのだ。
 アン・メアリは呪いの種を全員に食べさせたと云った。それは真実だろうか。嘘だと信じたい、混乱させるためのただの脅しだったと思いたい。だけど頭の片隅は冷えていて、アン・メアリは狂っていたけれど嘘はつかないとわかっている。
 ヒューがスワンから聞いた話では、呪いの種は必ずしも絶対ではない。発症しない例もあった。発症するまで半年もかからないこともあれば十年以上も待たされたこともあった。発症しても何年も生きのびたひともいたという。摂取した量が関係あるのかもしれない。あるいは呪いの種と植えつけられた人間とのあいだに相性のようなものがあるのかもしれない。新しいメスマー舘でそれらについて調べ、治療法を必ずつきとめるとヒューは僕に約束してくれた。
 だけど、ヒューと話していて僕は思ったんだ。呪いの種は死そのものに似ているって。だってひとは必ず死ぬ運命だ。そして〈呪い〉病がいつ発症するかわからないように、自分の死がいつやってくるのか知っている者は誰もいない。五十年後、充分に歳をとってからかもしれないし、来年溺れ死ぬかもしれない。それとも今日このとき、何かの加減で突然心臓が止まることだってないとはいえない。
 それなのに、何をどうやったって結局は死を迎えるしかないのに、僕らは怯えて、抵抗して、じたばたとあがいてしまう。それこそが僕たち人間にかけられた呪いなのかもしれない。
 馬車の窓からヒューが腕をさしのばしてきて最後の握手をした。
「着いたらようすを知らせるよ」
「僕も住所が決まったら手紙を書くね」
 御者のかけ声があがり、馬が走り出し、馬車が遠ざかってゆく。
 空はどこまでも澄みわたり、陽射しは降り注ぎ、ムーアはワタスゲの綿毛で一面銀色だ。
 ワタスゲがたなびいて風のありかを知らせる。お返しに風は綿毛をひきとって旅につれてゆく。綿毛があんなに煌めいているのは楽しみだからだ。これから行く新しい地を夢見ているのだ。
 ガルトムーア・ホールは焼けてしまった。八角塔からの火と地下からの火とが城じゅうを巡って燃えつくした。僕らが外へ逃げ出したときには、窓という窓から炎が躍り煙が太い帯となって空高くのぼっていた。けれど領地で暮らす村人の誰一人として火を消そうとはしなかった。集まっては来ていたが、遠巻きに無言で見あげているだけだった。
 ユリアが斧でアン・メアリの腕を叩き切ったときに云ったように、誰もがみな思ってたんじゃないだろうか。これでいい、と。むかしから魔女は火炙りと決まっている。魔女は燃えて退治されるものなのだ。ガルトムーア・ホールは石壁だけが残ったが、それも焦げて真っ黒だった。
 事件はメイナス・ジョイスの放火として片付けられた。それは間違いではないが、それ以上はなんといっても伯爵家のことなので追求されなかった。おそらく余計な詮索をして魔女に祟られでもしたらと恐れていたんだろう。ガルトムーア・ホールの焼け跡には以前にもまして誰も近よろうとしなかった。ただ噂話だけが囁かれていた。あの城はいまだに魔女の住処だ、令嬢姿の魔女が夜な夜な無数のされこうべと遊んでる……
 地下に落ちたはずのアン・メアリの死体は、なぜだかどうしても見つからなかった。
 スワンとネラはある日突然いなくなった。
 スワンとネラは大火傷を負ったが死にはしなかった。ネラが献身的にスワンを看病していた。自分の快復は後回しにして、軟膏をぬり包帯をかえ粥を食べさせた。呼ばれたらいつでも世話ができるようベッドをならべておなじ部屋に寝た。そしてスワンが起きられるようになり、この二人の処遇をどうすべきか僕らが悩み出したころ、二人は消えた。
 部屋には手紙が残されていた。エスター卿からヒュー宛にとどいたんだけど、スワンが無断で読んだらしい。そこには本物のブラッド・ガルノートンの最後の消息について書かれてあった。
 ──氏が乗船していたラ・ペルーズ探検隊の船は、不幸なことに一七八八年に消息を絶ちましたが、その後フランスのダントルカストー提督なる人物が船団を率いて捜索しております。結局捜索は不成功におわったのですが、提督は有力な目撃情報を得ていたようです。その情報とは、ニューホランドの北、ニューギニア島近くの島の原住民がフランスの服とベルトを着用していたというものです。それはラ・ペルーズ探検隊の遭難した隊員のものであると容易に想像できるでしょう。ですが聞いたところによると、ニューギニア島をはじめ周辺諸島には食人という恐るべき習慣があり、人間の脳味噌まですくって食べるらしいというのです。よしんば氏が島にたどり着いたとしても、そのような状況ではとても生き延びられるとは──
「ねえ、わたしたちも出発したいわ」
 ユースタスがよりそって僕の手を握る。ヒューの馬車はもう見えない。横たわった銀色の地平が彼方で空ととけあっている。
 ユースタスは髪を結いあげドレスを着て、装いは貴婦人だ。一方僕のほうは、タイにジレ、そして上着(フラック)、紳士だ。
 ヒューははじめて会ったときから僕の体のことを、本人である僕よりも正確に知っていた。医師だからそれも当然だ。それでときどき態度が妙だったんだ。知っていたのになぜ黙っていたのかと、ちょっとばかり責める気持ちで訊いたら、返ってきた言葉は、
「自分で選べばいいと思ったんだ」
 男だろうが女だろうが君は君だ。男でも女でもない、じゃなく、どちらでもなりたいほうになればいいさ。
 だから僕はこうして男の恰好をしている。なんとなくこれが自分に馴染んでいるんだ。そしてユースタスは──この名で呼ぶのも最後だ──女の恰好。ユースタスも、慣れているから今のところはこっちでいいわ、って云ってる。そう。あくまでも今のところだ。この先どうするかは、ゆっくり考えよう。
「いつ?」
 ユースタスが握った僕の手を胸のところまで持ちあげる。
「いつ出発するの?」
「いつでも」
「じゃあ、どこへ?」
「どこへでも。でもニューギニア島は御勘弁」
 二人で笑った。胸にひりっとくる笑いだった。でも笑いは笑いだ。僕らは笑うことができる。
「ねえ。いい考えがあるんだ」
 そう云ったらユースタスが、ぱちぱちと可愛いまばたきをした。
「名前をつけあわない?」
「名前?」
「そう。ブラッドもアレクサも、ユースタスもやめて、新しい名前をつけようよ。僕に名前をつけて。君の名前は僕がつける」
「ええ、わかった。あなたの名前ね、そうねえ」
 小首をかしげて考えている。
 僕はもう決まっている。ぴったりの名前を選んである。僕の目の前にいる、この素敵な子の名前は──


ガルトムーアの魔女 了

ガルトムーアの魔女 第3部

このような長い作品を読んでくださり、ありがとうございました。日々の悩みや辛さをいっときでも忘れ、楽しんでくださったら幸いです。

ガルトムーアの魔女 第3部

その娘の名はスワンといった。父親はスーザンと付けた。だがあまりに平凡だ。スワンとは古英語で豚の世話係という意味、これほど己に似つかわしい名があろうか。スワンの一族は殺しの呪術を専門とする魔術師だった。十九世紀初頭のイングランド、ヒース生い茂る荒野ガルトムーア。ユースタスとブラッドは魔女の陰謀を暴くため協力しあう。いっぽう医師のヒューは呪いの犠牲者に最新医術による治療を試みる。そして現れたのは謎を解く鍵となるはずの人物だったが…… 第1部、第2部につづく完結編。

  • 小説
  • 長編
  • ミステリー
  • 時代・歴史
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-07-28

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著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. ユースタス1 わたしったらどうしたことだろう、ブラッドとともに一族の墓所へ行こうとしている
  2. ブラッド1 園丁に会えば真実がわかる
  3. ユースタス2 わたし一人の力で魔女の存在を証明してブラッドをねじ伏せてやるのだから
  4. ブラッド2 おそらくこれは舘の主だけの秘密の隠し場所なのよ
  5. ユースタス3 何もかもがわたしを混乱させる
  6. ブラッド3 ヒューにとってなにより重要なのは自分が謎を解明すること
  7. スワン1 その意味は『豚の世話係』
  8. ユースタス4  なんてこと! ブラッドがメイナス・ジョイスを殺したのだわ
  9. ブラッド4 あれは、あの荷は、ちょうど人間くらいの大きさじゃないか
  10. スワン2 これこそが真の呪いなのかもしれない
  11. ユースタス5 わたしのちっちゃな魔女さん、呪術の準備は大急ぎでしたほうがいいわよ
  12. ブラッド5 ねえ、顔をあげて僕を見て。恥ずかしがらないで
  13. スワン3 よろしい、こたえましょう。あなたをお招きしたのはすべてを明かすためなんですから
  14. ユースタス6  死ぬのかしら? ふと持ちあがったその考えがわたしの胸の内側を照らした
  15. ブラッド6  と、そのとき、魔女の首がごろりと動いた
  16. アンヌ・マリー やっぱり首を切るのには斧が一番
  17. 名前のない子  絶叫のかわりに炎が口から噴き出てくる
  18. 新しい名前 僕らは笑うことができる