マイ・スウィート

マイ・スウィート

ニカ

 それは浮遊感に満ちた夏の入りのことだった。広々とした雨雲が去り、しかしまだ蝉の音が耳に届かない、静かな熱で覆われた世界の中での話だ。ぼくはここ二週間で大分体調を崩した。体調を崩すと一概に言っても、昼夜問わず寝込むような大病ではなかった。かといって、見過ごせる怠さでもなかった。ぼくが患ったのは、消化不良と謂れのない頭痛と左目だけ目やにで霞む、の症状が代わるがわる現れては消えていくというものだった。暑さに参っているだけであればまだ対処のしようがあったものだが、どうやら理由は別のところにあるらしい。経験に基づいた自分への労りは、どれも等しく無駄に終わった。

 その不調の兆しがあったのは、本屋の右側にある坂道を登っている最中だった。坂道の上に学校があるため、ぼくはその坂を毎日せっせと登るわけである。今年の夏はうまい具合に午後からの授業でスケジュールを固めることができたので、坂を登るのは日が高く上がってからのことだった。
 降り注ぐ熱を一身に受け止めながら、ほんの少し熱に近づくようにしてぼくは坂を登っていた。額には汗がにじんでいて、卸したてのタオルでそれをおさえる。道の左側に色褪せた枯れかけの紫陽花がある。彩度の落ちた赤紫の上に走る繊維の細い線。ぼくの眼がそれらを捉えたときに、腹痛は起こった。ぼくはすぐさま腹をさすり便所へ駆け込んだ。結局、校舎内に居ながら午後の授業は休まざるを得なかった。
 次に頭痛があった。それは図書館にて課題のために様々な資料を捲っているときに起きた。ぼくは六冊目の本を流して見た後、ふと視線をあげて目の前の噴水をガラス越しに見たのだった。噴き上がる飛沫に陽の光が乱反射する。まもなく、ぼくの頭の中で子どもの甲高いはしゃぎ声が木霊した。ぼくは驚いた勢いで机に突っ伏した。館内はひどく静かだった。

 頭痛と腹痛は日替わりで訪れたが、それからというものの目はとにかくよく霞んだ。しかも、左目だけである。これはぼくの二十三年余の人生の中で初めての出来事だった。
 ぼくが帰るために食堂を横断したのとサキが食堂に入ってくるのは奇妙なことに同時だった。ぼくたちはそのまま食堂で、次の予定まで一緒に時間を潰した。
 最近体調が悪いんだ、とサキに打ち明ける。サキは眼鏡の奥で訝しげな表情をとると、「例えば?」と尋ねた。
「腹痛と頭痛が日替わりで起こるんだ。あと、左目だけやたら目やにが出る」
「日替わりって面白い言い方だな」
「そうだね」
 サキは笑ったあとカッターシャツの捲った長袖を直した。サキは生真面目な性格のせいなのか、夏でも長袖のシャツにきれいな長ズボンしか身につけない。
「確かに僕は夏が苦手だよ。でも、きちんと食べてるし水も飲んでるし夜更かしも辞めたんだ」
「まあ、そんなことでは治らないだろう」
「なぜ? 何か知っているのか」
 サキは老紳士が持っているような革の鞄の中から数枚の紙を取り出した。白紙というわけでもなく、かといってみっちり書かれたノートというわけでもなく、色んなものが細切れに走り書きされた紙の束だった。大学に入ってからサキと知り合い、今ではお互い院まで進んだが、サキは結構複雑な思考回路にしたがって行動しているように見えた。時期によってノートの取り方が違うのである。
「そういえば、きみは五月で二十三になった?」サキはぼくに尋ねた。
「ああ、なった」
「おめでとう」
「ありがとう」
 サキは紙の束を捲って該当の一枚を引っ張り出した。その一枚だけは赤色のインクで文字が書かれていた。
「二十三の法則だ。これはおれが今研究している内容だ」
 サキはその紙をそのままぼくに差し出す。空調の風にあたり少したわんだそれをぼくは慎重に受け取った。紙にはあまり多くのことは書かれていない。「二十三になると様々なものが変わる」とだけ赤色で記されていた。
「あまりにも漠然としすぎてない?」ぼくは文章を目に通すとサキに笑いながら問いかけた。しかしサキは至って真面目にこう答える。
「おれは二十三になって初めて、『歩く』という概念に対し身体や思考で持って取り組むことになった。それは急だった。しかも、課題の一種でもなく記事か何かできっかけを得たわけでもなく、極めて自発的にそれを始めた。それからというものの、移動するたびに歩くことを意識した。今もだ。踵から降ろし指先に向かって体重を移動させる。足首はしなやかに可動し膝は軽く曲がる。骨盤の下から真っ直ぐ腿を振り上げる。バランスを取ろうとして腕は軽く振るのが自然だ。足裏から伝う感覚は体重そのもので、全身を駆け巡りやがて思考にまで辿り着く。『自分』を強く感じる瞬間だ。歩くとはそういうものだ」
 サキは饒舌だった。ぼくは、それをノートに書けばいいのに、と思った。
 次いでサキはぼくに白紙の紙を寄越した。机上に乗せたまますっと差し出された紙は、皺一つなく僕の目の前に鎮座した。そしてその先にいる目の前の男は「きみにレポートを頼んで構わないか」と有無を言わさない様子で言った。
「ぼくの症状のこと?」念のため確認を入れると、サキは深く一回だけ頷いた。ぼくは紙を鞄にしまいこみ、食堂を後にした。外に出ると、やはり視界が悪かった。恐らく、ぼくだけ。

 学習塾のアルバイトを終え、ぼくはその日夜の十時頃に三階の自分の部屋に戻ってきた。すこし前までは寝冷えするほどの気温だったはずなのに、周りの空気は湿気を帯びた暑さへと変化していた。それを部屋に戻るまでの外階段を登っている間に、ひしひしと感じた。
 部屋へ戻るとこもった空気がぼくを歓迎する。ぼくはうんざりしながらも空調の電源を入れ、さらに扇風機を回した。早めにこの空気を撃退しないと熱中症になってしまう。今朝のニュースで、暑さにやられ病院に運び込まれた人の話を聞いたばかりだった。そういう人は大抵、空調をつけていないものである。
 ぼくが水を飲もうとして水道の蛇口をひねると、蛇口の少し上にある小窓のところで白い影がふわりと舞うのが見えた。思わず見あげるが、そこには何もなかった。目を右や下に動かすと、目が霞んだり戻ったりする。ああ、最近お馴染みの目やにだ。ぼくはそう思って、水を飲んだ後ティッシュを右手に持ち、鏡と睨み合いながら目やにを取り除いた。粘り気があって、あまりいい気はしない。
 ぼくは寝る前に、サキにもらったただの白紙を鞄から取り出してシャープペンシルで色々と書いた。腹痛のこと、頭痛のこと、目の霞みのこと。紫陽花がくすんでしまっていたこと、水辺ではしゃぐ子どもたちのこと。そして、窓辺の白い影。そこまで書いて、ぼくは数秒考え込んだのち「窓辺の白い影。」を消した。ただ単にレンズが汚れていた、それだけの話だと判断したからである。

 一週間半ほど経った水曜日のころである。ぼくは懸命に坂を登った。本日もかんかんに陽は照っている。ぼくは途中に咲く紫陽花をなるべく見ないようにする。見たら最後、必ずお腹が痛くなるからだ。見なくても痛むことがあるが、見たら衝動は絶対起きる。それをぼくは過去五回程の失敗から学んだ。
 サキから、レポートの提出を命じられた。それは一昨日の夜のことである。定型文のようなメールで伝えられ、思わずぼくは「教授じゃあるまいし」と一人しかいない部屋の中で呟いてしまった。ぼくは独り言はあまり言わないほうだ。
 サキは、食堂の窓際に座りアイスコーヒーを飲んでいた。
「ぼく、やっぱり暑さにやられているだけだと思う。よく考えたら、生活を見なおしたところで暑いことには変わりないんだから、具合はどうしたって悪くなる。夏が終わるのを待つしかないんだ」
 ぼくは紙を提出した上で、自分の口からも報告した。サキは文章に目を通しながら、興味があるんだかないんだか微妙な素振りで相槌を打っていた。
「しかし、今まではそこまで悪化しなかったんだろう? それは二十三の変化には入らないか?」
「ぼくが変わったのか地球温暖化が進んだのか、わからないよね」
 ぼくはそう言ってしまってから、自分がいかに現実主義者であるかということに気付かされた。サキは「二十三歳になると変化が起きる」と信じこんで、その証拠を集めるために調査を続けているのだと思うが、きっと二十四には二十四なりの変化があるし、きっとその先も都度変化があることだろう、とぼくは思う。
「そもそも紫陽花の色彩にやられてお腹が痛くなるなんて馬鹿げているし、子どもの声に至っては幻聴としか言えないだろ」
「きみはそうかもしれないが、おれは馬鹿げているとは全く思わない。そういうものは自身の思考の奥から這い出たものだからだ。おれの話でいえば、その這い出てきてしまった『歩く』ことに関して、きっと一生をかけて縛られることになるだろう。もしかしたら今後増えるかもしれない。例えば『泳ぐ』とか」
「ついていけないよ」
 ぼくたちは決して喧嘩をしているわけではない。サキとは、いつもこうなる。そして、こういうことばかり考えてられるのは大学生の特権のような気がした。何しろ、お金はないくせに時間ばかりがある。
「もう少し様子を見てくれないか」
 サキは真剣な目でこちらを見た。ぼくは「仕方ない」と言って、更に新しい紙をサキから貰った。
「恩に着る。そうだ、きみにコーヒーをご馳走するよ」サキはポケットから上品な小銭入れを取り出した。じゃらりと金属の擦れる音が短く響く。
「いや、いいよ。紅茶のほうが好きなんだ」
 ぼくは手を振ってその場を後にした。

 ぼくはサキの幻想を完璧に否定したわりには、その後さまざまな不可思議現象に見舞われることとなる。まず、既視感のようなものが急に増えた。特に「瞬間」に対しての既視感が多かった。この道で、この気温で、この角度で、この時間で、この匂いと空気で、この気持ちで、一歩足を踏み出したその「瞬間」は初めてのはずなのに、脳がそれを以前に経験したものとして処理してしまう。そのとき、ぼくの時間は止まる。それは、周りからしたら数秒のことかもしれなかったが、ぼくからしてみれば永遠のようでもあった。
 また、急に涙もろくなった。ぼくは自分自身のことを血も涙もない冷徹な人間だとは思わないが、人一倍泣かない方ではあった。ぼくは男であるし、そういう体質に生まれてよかったと思う。怒鳴られたときそういった弱気が外側に出てしまうことは、一般的に「男だから泣くんじゃない」と言われるように、あまり好ましい事態だとは思えないためだ。しかし、この夏からのぼくはそれを失った。ぼくは堰を切ったように何に対しても目頭を熱くした。泣ける映画だったり動物のドキュメンタリーだったり、はじめはそんな可愛いものだったが、しだいに自分の不調さや無くし物や成績や地位や名誉みたいなところに行き着いてしまう。最終的には、何もしなくても過ぎていく時間という概念の無情さや、空は青くて太陽は眩しいことに、意味もなく悲しみを覚えた。本当に意味のないことだし、ぼくはいよいよ自分が心配になってきた。
 ぼくはアルバイトの量を大幅に増やすことにした。塾は長期休暇のときこそ人手不足を訴えるので、丁度利害も一致した。そうしたら、だんだんと考え事をする余裕がなくなってきて、いくらか負の連鎖からは逃れられたようだった。ただ、それらを完全に断ち切ったとは思えなかった。きっとまた暇を持て余せば虚無感は襲ってくるし、こういうものとは一生付き合っていかなければならないと思う。少なくともぼくはそうである。

 サキは、この暑い中ぼくをテニスに誘ってきた。長い夏休みの最中である。ついでにレポートを提出するよう追伸があった。ぼくは汗ばむ手で紙に最近のことを綴り、最後丁寧に句読点をつけた。そのせいで、そこだけやけに黒々としてしまった。
 サキはきっちりとテニスウェアを決めていた。ぼくはというと、部屋着に久々に陽の目を見せてやっている出で立ちである。くたくたの黄色のシャツに黒い綿の半ズボンで、これもまたくたくたしている。何年も着ているせいで疲れきってしまっているが、寝間着としては優秀なやつらだ。
 サキはボールを三つ取り出してそれぞれの調子を確認すると、一個しまった。三、四個のボールを二個に選定する所作はサービスを打つ前のプロテニスプレーヤーもよくやっている所作だ。サキはどこまでも形から入る男だ。
 ちなみに、ぼくはテニスをやったことがない。大きな大会などはテレビで見たことがあるが、ぼくとテニスの関係はそれくらいだ。だから、ぼくがおかしい打ち方をするとサキは都度教えてくれる。腕だけで打つな、とか、もっとグリップは厚く持て、とか。ぼくは一応それを直した。功を奏して最後のほうにはラリーが長く続いたが、なんにせよとにかく暑いし、ぼくとしては何がなんだかわからないままボールを追いかけてラケットに当てていただけの話だった。
 コートの貸出時間がすぎ、ぼくたちはそこを出た。近くにあった木陰のベンチに腰掛け、ぼくは経口水を口にした。サキは、弁当のようなもの(すごく小さいタッパーに入れてあるので、弁当と呼ぶべきものか悩む)を食べている。その中の卵焼きをひとつくれた。妻が作ってくれてな、とサキは恥ずかしがる様子もなくいつもの調子で答えた。たまに忘れがちになるが、サキは学生のうちに結婚をしていた。まだ彼女は学部生である。
 サキは小さな食事を終え、レポートに目を通した。ぼくはその間、身体の疲労を感じながら遠くの噴水をぼうっと眺めていた。幻ではない子どもたちの高い声がその周りを飛び交う。疲労も暑さも何もかも捨てて噴水に飛び込んでしまいたい、と思った。
「きみは結構、情緒的だよな」
 サキは眼鏡の位置を直すとそう口を開いた。ぼくは視線をサキに移して「そんなことない」と否定した。全力で。少し声を大きくして。
「そんなことはある。きみはよくわかっていないだけなんだ。きみの中には、色んなきみがいる。現実を見るきみも、情緒のあるきみも、冷淡なきみも。そしておそらくそれはきみだけの話ではない」
 ぼくは黙ってサキを見続けた。
「ボリュームのつまみがあるとする。ベースとヴォーカルとギターとドラムだ。皆それを持っているが、その音量は人それぞれで、また少しずつそのリズムや音程が違う。それが個性だ……と、おれは思う」
「そう。二十三の変化と関係がある?」
「あるいは、ある」
 煮え切らない返答に、ぼくは胸につっかえる色んなもやもやをどうにかすることを、諦めた。サキには何を言っても無駄なのだ。
「確かに、情緒的かもね。だって、最近涙が止まらないんだ」
「きみは最近のことだけだと思っているのかもしれないが、十九のときからそれらしき雰囲気はあった」
「それさ、サキ自身で二十三の変化を否定していないか? 二十三になってがらりとその方向に変わったっていうほうが説得力あるよ」
「嘘はつけない」
「ああ、そう」
 サキとはいつもこうなる。

 ぼくの情緒が顔を見せたのは、それから二週間経った日のことだった。ぼくは子どもたちに勉強を教えるので忙しい日々を送っていた。子どもたちは無邪気なわりにあまり素直ではなかった。自分たちに受験という一大勝負が掛かっていることを大して意識していなかった。気持ちはかなり分かる。暑いとはいえこんな青空の広がった気持ちのいい日に、空調で冷えきった部屋で知識を頭に叩きこまなければならないのだ。気もそぞろになるだろう。
 しかし、同時に、もっと大事なことを知る努力をしたら良いのに、と思った。部屋にこもって勉強をしなければならない理由を知る、というところだ。知った上でふざけるのなら、まだ良い。自身が置かれた状況くらいは把握しているのだろうけど、理解しきれてはいないのだろう。そしてそれは、周りが言葉で言えばもっと理解から遠ざけてしまう。自分で気づかないといけないものだ。
 結局のところ、ぼく自身はその問題に対して何もしてやれなかった。唯一、声をあげて叱る、ということだけはしないようにした。子どものころ、上から叱る大人より目線をあわせた話し方をする大人がぼくは好きだったからだ。とはいうものの、上からちゃんと叱ることのできる大人はすごいと思う。そうしないと聞かない子どもに対しては有効だし、叱れることは一種の才能である。でも、叱るのが下手くそな大人が叱ったところで、大抵逆効果だとも思う。
 ぼくの情緒が顔を見せたのは、そんな夏期講習の授業を終えた午後の二時だった。文字通り、それは顔をぼくに見せた。ぼくは授業を終えたあと、すぐ帰宅せずにおにぎりを食べていた。そうしたら、水筒の影からひょこっと、小さな女の子が顔を出したのである。
「ねえ」少女は言った。ぼくは思わずむせた。少女はなおも話し続けるが、ぼくがむせた音でよく聞き取れなかった。ぼくはやむを得ず水筒を手に取ると、少女はぶつからないように器用に避けた。
「こんにちは」
 ぼくは呼吸を整えて、驚くほど平然と話しかけた。少女は声をあげて笑った。きいきい。高い声である。
 彼女はひとりでにしゃべり始めた。最近泣いたこととか服に染みがついたこととか、暑くていやになる、だとか、取り留めもないことを捲し立てた。ぼくと同じようなことを日々考え生きているようだった。彼女は身体が小さいので、声も小さかった。よく聞き取れない箇所に関しては、仕方なく適当に相槌を打った。女の子のおしゃべりは途中で止めないほうがいいのだ。大体、いやな顔をされる。
 彼女はわりと最後の方に「クロエ」と名乗った。
「クロエ? 外国人なの」ぼくはそこで初めて彼女に聞き返し尋ねた。
「べつに。自分でそう名乗ってるだけなの」
 クロエはそう言って白いワンピースを翻して消えてしまった。ぼくは目の霞みを覚えたので、携帯電話の液晶を鏡にして目やにを取り除いた。少し頭痛もした。

 クロエは一日に一回はぼくの目の前にやってきた。どこからともなく現れて、自分の都合で消えていった。こんなに奔放な生き方ができることを少しうらやましく思った。そのことを伝えると、彼女はきいきいと笑った。
 彼女の大きさはどの程度かというと、ガムシロップのポーションを両手でちょうどよく持つ程度のスケールだった。彼女からするとガムシロップは少し重たいようだった。

 ぼくは八月の半ば、図書館で調べ物をしていた。休暇明けに出す課題の一環だ。クロエはお構いなしに積まれた本の影から出てきて話しかけてきた。彼女の話はコーヒーがうまく淹れられない、から始まった。
「静かにしててよ」ぼくは小声で注意を入れた。「クロエはわからないかもしれないけど、図書館では騒がないで」
「じゃあ、外へ出ようよ」
 クロエは甘えた声を出した。「ねえ、外行こう。アイスクリーム食べたい」
 ぼくは数秒黙ったのち、クロエを胸ポケットに招き入れた。分厚い本を全部持って、ぼくは自動貸出機で続きを行い、すみやかに鞄の中にしまった。そういえば、クロエの世界にもコーヒーがあるのか、という疑問は、結局彼女に聞けずじまいだった。
 赤レンガ造りの図書館を出て、外の広場でアイスクリームの屋台を訪れた。チョコミントのアイスをカップによそってもらう。彼女は自分で食べられないので、ぼくはスプーンに適量を乗せクロエの口元に近づけてあげた。クロエは顔にべったりつけないように、舌を長く出して麒麟のようにアイスを掬い取った。
「クロエは、一体どこから来たの」
 聞くつもりはなかったが、ぼくは彼女があまりにも自然にアイスクリームを口にするので思わず聞いてしまった。クロエは「うーん」と周りを見回して、何の答えも出さずに伸びをした。アイスクリームはすでに溶け始めている。
「涙を流したでしょう」
 クロエはしばらく黙ってアイスを食べたのち、言った。「わたしはそこから来たの」
 ぼくはその一言をしばらく頭のなかで噛み砕いていた。クロエは気にせず、まだ個体となっているアイスクリームを懸命に減らしているところだ。
「つまり、クロエはぼくの情緒だ」
 ぼくはそうクロエに伝えた。クロエはまた「うーん」と言って、曖昧に答えを濁した。もう少しアイスクリームを口に含んだ後、スカートをふわりと舞わせてクロエは消えた。

 ぼくは真夏の噴水の縁に座ってゆっくりと目を閉じた。人の声や飛行機のジェット音、蝉の鳴き声、ありとあらゆる音がぼくを包んで、そして遠のいていった。お腹が、きゅう、と少し痛んだが、しだいに痛みが引いていった。熱に浮かされた頭もずきずきと痛んだのち、すうっと痛みが消えていった。暑い。熱い。けれども身体はその熱さえも感じなかった。身体という入れ物に入った自分の感覚がなかった。
 朦朧とした頭のなかで、クロエのことを考えた。彼女はぼくの涙からやってきた。ぼくの情緒そのものだった。そしてぼくは、彼女の。ぼくは彼女の……。
 彼女は、ぼくに何を求めている?
 次の瞬間、ぼくは激しいぐらつきとともに水辺に身を沈めることとなる。意識を失いかけてしまっていたらしいぼくは背中から噴水に倒れこみ、その浅い作りのせいで頭を打った。心臓が飛び跳ね、脳はその衝撃への処理が追いつかなかった。ああ、ぼく、倒れて噴水に落ちてしまったんだ……ということに気づいたのは十秒ほど後のことだった。手をついて姿勢を落ち着かせると、びしょ濡れになった髪から水が滴った。目が、あり得ないほどちかちかした。どうやらぼくは、熱中症になりかけていたらしい。
 しばらくして、公園の管理をしていると思われる警備服の男性が二人こちらへ寄ってきた。善良な人々の証言があってか、ぼくは気が触れて水に飛び込んだのではなく、事実通り具合が悪くて噴水に落ちてしまった、という認識になっていたようで、男性二人はぼくの体調をよく伺ってくれた。ぼくの身体はまだ少し熱を持っていたものの、頭から水を被ったせいか目のちらつきは収まっていったし、気分も幾らか良くなっていた。「問題ありません」とぼくは繰り返し優しい人々を説得し、その場を後にした。念のため経口水を大量に買い込んで帰宅に至ったが、幸いなことにあれから熱中症の気はないまま時は過ぎていった。ついでかどうかわかりかねるが、腹痛も頭痛も、あれ以来なくなった。

 サキはまたレポートの提出を要求してきた。あまりにも頻繁だなとぼくは思ったが、どうやら「二十三の変化」はサキの夏季休暇中の課題だったらしいので、やむを得ずまたレポートを書いた。課題にしているということは、おそらくぼく以外の人にもレポートを頼んでいることだろう。ほかの人は、どういった二十三の変化を迎えているのだろう。ぼくはすごくぼんやりと考え込んだ。
 ぼくはシャープペンシルを持って、何も書かずにずいぶん長い間唸った。クロエのことだ。
 彼女のことを書いていいものなのだろうか?
 ぼくは彼女のことを書いて、何か大切なものを失ったりしないだろうか? とても悩んだ。一年前のぼくであれば、きっと笑い飛ばしたであろう。
「何言ってるの? それって、幻覚だよ」
 そう、一年前の、ぼくであれば。

 サキは何も言わずにレポートを受け入れた。ぼくも特筆してなにか言おうとは思わなかった。それでいいのだ。サキはそういう人物だ。今までも、そしてこれからも。
 サキは協力してくれた証としてなのか、ぼくにアイスティーを奢ってくれた。相変わらず彼はコーヒーを飲んでいた。喫茶店の空調は少々効きすぎていて、長居できそうにない。
「完成していない課題の内容を語るのはいささか苦であるが」
 サキはとんとんと紙の束の端を机に押し付け整えると、言いづらそうに口を開いた。
「きみの話が一番興味深かった」
 ぼくは自然な流れでため息をついて、サキとは目を合わせずに「そう」と言った。ガムシロップのポーションの影に、クロエはいない。ぼくはここしばらくクロエを見ていない。
「きみは、おれが太陽を見上げたとき、太陽に顔があるように見えると言ったら信じるか?」
 サキは表情一つ変えずにぼくに尋ねた。サキは至って真面目だ。こういう冗談を言うやつじゃない。
「信じるよ。だって、サキは嘘をつけないからね」
「ありがとう」
 サキはすこしだけ笑って、紙を鞄にしまった。
「もしおれが今大量の花を持っていたら、それを花びらだけにして、きみにフラワーシャワーをやってやりたい」
「ちょっと、勘弁して。そういうのが似合うのは花嫁だけだよ」
「悪かった。きみがあまりにも身を削って、おれの研究にも付き合ってくれているものだから、賞賛したいと思っただけだ。できるものなら、きみの肩の荷を下ろしてやりたいよ」
 ぼくは、初めて人前で泣きそうになった。がんばってこらえて、「ありがとう」と言ってその場を後にした。涙はなんとか引いてくれた。泣くな、男だろ。ばかみたいに自分に言い聞かせた結果だった。
 ぼくは涼し気な夕方に、ふらふらと商店街を歩いていた。そして、歩きながら今年の夏を思い遣った。もうぼくの身体は疲れきっていた。今ならどんな病気も受け入れて、悪化させ、死んでしまうような気がした。そして、それでもいいと思えるくらいぼくは投げやりだった。本当に「病む」ということは、このように投げやりになってしまうことなのに、ぼくは把握だけして理解をしきれていなかったのだろう。
 結局のところ、クロエの存在意義とは何だったのであろうか。ぼくは知らない。そもそも、ぼくはどうして生きているのだろうか。クロエに対する疑問は、それと同等なくらい、考えてもどうしようもない事実なのかもしれなかった。
 そして、ぼくはしかと自分の情緒を抱きしめた。
 ねえ、ねえ。クロエがぼくに話し掛ける声がした。ねえ。高い声で、ぼくの心に寄り添う。ぼくはすっかり霞まなくなった目をこすり、雑踏の中へ自分を溶けこませていった。夏が終わる。それは、高くなった薄青い空が教えてくれていた。

マイ・スウィート

初出 20150727
「小説家になろう」・棗(自己のサイト)にも掲載しています。

マイ・スウィート

できるものなら、きみの肩の荷を下ろしてやりたいよ。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-27

Copyrighted
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