アイの言葉、ライの言葉

玖琳 怜

 あたしにはとびきりの友達がいた。正直者で可愛くて、大人になりたくないといった出来のいい子(ヒロイン)。偽名はたしか、アイ。


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 教室の窓という窓が開け放たれ、それでもほとんど風が吹き込んでこないような、暑い暑い日だった。斜陽が眩しいからカーテンを引いていたけれど、薄布一枚じゃ大した効力もないし、かえって室内の空気を閉じ込めているくらい。照明を落とした教室ではうっすら差し込むその夕日だけが明かりで、あたしとアイの横顔を淡く山吹に染めていた。

「こないだ、マイちゃんが四組の男子に告白されたんだって」
 アイが言った。マイちゃんはあたしとアイの友人だ。
「あの子も変なところでモテるねえ。返事は?」
「断るつもりみたい」
「よかったじゃん。マイちゃんといえばあの子、高校どうするつもりなの? オープンハイスクールもどこにも行ってないみたいだし、就職?」
 成績もかなり危うく、この間は数学の特別補習授業にも参加したと言っていた。ちなみにそれから数学の問題がスラスラ解けるようになったとか、そういう話は聞かない。大事なのは克服しようとする意思だと言っていたけれど、目前に控える定期考査で結果を出すことのほうが大事だと思うのはあたしだけか。
「知らない。理髪店で働きたいとか言ってた気もするけど、そこまで真剣じゃないみたいだし、どうなるんだろう」
 ほんと、どうなるんだろう。心配だね。
「うん。心配だ」
 とりあえず言ってみた言葉に、ひどく力を込めた同意を返された。
「すごく、心配だよ」
 繰り返して、うんうんと一人で頷く。まるで自分に言い聞かせているようだ。あの子は心配。あの子だけ心配。私は、そうじゃない。
 運動部の声が聞こえる。この暑い中ご苦労なこと。
「教育相談、もう終わった?」
「ううん、まだ。あんたのほうは?」
 終わったよ、いろいろと。すっごく疲れるね、あの先生。
「誰だっけ、あんたのところ」
 紫藤先生。なんか、こう、……容赦なかった。
「ああ、あの人私大っ嫌い。人の地雷わかってて踏み抜いてくるでしょ」
「そうそう、それ!」
 さっきのアイよろしく、首を激しく縦に振る。
「あのねえ、事前にアンケートみたいなの配られたでしょ。学校でのこととか、不安とかあったら書いてくださいーってやつ」
 これくらい、と空中に指で大きさを示す。
「あったあった」
「あれの、将来の夢があったら書いてください、みたいなところ。なんて書いた?」
「まだ考えてないって。とりあえず大学進学だって書いた」
 アイはいけしゃあしゃあと言った。
 嘘ばっかり。あんた、カウンセラーになりたいんじゃないの。人の心は面白いんでしょ。まるでジークムントみたいね。
「先生にそんなこと言ったって、意味ないもん。誰に応援してもらっても結局自分の努力しか報いてくれるものはないし。あんまり人に話すとね、叶わなくなっちゃうんだよ」
 知ってるよ、そんなこと。サン・テグジュペリ曰く、『大切なものは目に見えない』。誰かさん曰く、『大切なものは見せちゃいけない』。見せるとその分削られていくから。だから大切な言葉は誰にも言わない。そっと自分の中で大事に守っておく。そんなこと知ってる。知ってた。だから今回のは失敗したの。
「バカ正直に書いちゃった。将来の夢。デカデカと」
「馬鹿だねあんた」
 うるさい、後悔してんだからそっとしといて。
「あんなところにほんとのこと書いてどうするのよ。どうせあんた紫藤に嫌われてんだから、応援なんてしてもらえないでしょうに」
 そうだね。うん、言われた。高二なんだから、さすがに無理だと思ったら諦めることも肝心だって。うっせえよ体脂肪。あたしの夢を、勝手に不可能にすんな。
 思い出して腹が立ち、ぎゅっと拳を握った。伸びた爪が刺さる。とても痛い。
「落ち着きなよ。教師だからってあんたを応援してくれるわけじゃないし、大人だからってあんたをわかってくれるわけじゃない。あんたを認めてくれないやつだっているんだよ」
 なんだよ哲学的じゃん。それ前にも聞いたよ。『皆が皆みんなを応援し合ってるわけじゃない。全員が分かり合ってるわけじゃないから、あんたを否定する人も必ずいる』でしょ。
「聞き飽きたんだよ、それも」
 諦めるしかない現実だとか、あいつが担任になった不運だとか、あたしを見てくれる人もちゃんといるだとか!
 全部聞き飽きてもううんざりよ。どれだけ言葉を重ねても不快な現状は依然としてそこにあるし、それなら愚痴をこぼすくらいの自由は聞き入れて。
「聞いてやるからもう少し静かに傷つきな」
 アイの言葉は正論だ。
 わかってる、でも、だって。あたしこんな辛いの、ほんと久々だ。鼻頭がツンと痛い。
 いつの間にか運動部の声は聞こえなくなっていた。代わりに蝉の鳴き声が目立つ。ジジジ、ジェージェー、カナカナカナ。耳に障る鳴き声は、いっそう暑さを感じさせてうるさい。
「わかってる。あんたにはちゃんと夢があるもんね。それをたかだか一年一緒にいたくらいの教師に、どうこう言われりゃ腹も立つよな」
 宥めるようなアイの声が沁みる。
「うん。腹、立った。悔しかった」
 一言一句、噛み締めるように、振り絞るように、言った。悔しかった。ううん、まだ悔しい。紫藤先生の姿が脳裏に浮かぶ。


 ――お前、そろそろ将来の夢とか、真剣に考えたほうがいいんじゃないのか。
 ――先生は私が真剣に考えてないってんですか。軽い気持ちで将来の夢なんて書きません。私、ほんとのことしか書いてない。
 ――でもなあ。先生こういうのはよくわからんけど、ほら、公募とか、出してるのか。何か賞を取ったことは?
 ――……ないですけど。
 ――それじゃあなあ……。もう高二なんだし、『現実を見る』じゃないけど、堅い職業とか、そういうのも視野に入れたらどうだ? お前の成績なら、医大なんかも十分だろ。


 汗で透けるワイシャツ。アンケート用紙を握る脂ぎった指。無精ひげを撫でる右手。あたしを見る、細い双眸。あたしは多分、「はい。わかりました。考えてみます」って返事をしたんだと思う。いい子ちゃんで型にはまった、ロボットみたいな返事を。
 紫藤センセ、あたし、センセのこと嫌いじゃなかったんだよ。そりゃあセンセの方は私のこと、苦手だって思ってたみたいだけどさ。ジョークは時々滑るけど、お母さんも「あの人は生徒をよく見てる」って言ってたし。だから、ちゃんとわかってくれてると思ってた。確かに現実味なんてないかもしれないけど、でも、真っ向から否定したりしないって信じてたんだよ。あんなえぐるみたいな言葉で貶されるなんて、ありえないって。


「わかってほしかったなぁ」
 アイの背中を勝手に借りて顔を隠す。やだな、恥ずかしい。みっともないところなんて見せたくなかったのに。
 アイは何も言わないで、あたしが腰に回した手をずっと撫でてくれた。


 神様、あたしには、叶えたい夢があります。なりたい職業があります。いじめられて、父を亡くして、母が蒸発して、幸い素敵な叔父母に引き取られて、転校もたくさんして、友達も大して出来なくて、寂しくて辛くて、それでも生きるモチベーションになってくれたあたしの星。
 とびきりの希望が、あたしにはあるのに。

「先生にだけは、否定して欲しくなかった」

 アイの体が、こわばるのがわかった。
「……うん。先生には、認めて欲しかったな」
 か細い声でアイが頷く。ああ、あんたも同じなんだっけ。項目は違うけど、同じように、分からず屋に否定されたんだっけ。
 しばらく二人でだんまりを続けて、お日様が完全に山の向こうに落ちた頃、あたしはパッとアイの背から離れた。
「オッケー、ありがとアイ。もう大丈夫。あんなやつのことなんて、気にしない」
 腫れの引かない目を弓なりにして、精一杯の笑顔を作れば、アイは黙って一つ頷いた。あたしあんたのそういう、引きのいいとこ好きよ。
「ありがとう。そう見えてるなら、光栄だよ」
 喜ぶモーションを交えて、さらりと笑い返された。アイの口癖、『自分のことなんて自分が一番知ってる』。自信家なところも好きよ、あたし。

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「そうだ、さっき、マイちゃんが告白されたって言ったよね?」
「言ったね」
「あれね、他に好きな人がいるからなんだって」
 初耳。好きな人かぁ、乙女だね。
「最近授業中とか、外で体育してるところ見てるよ」
 ふむふむ。つまりマイちゃんと意中の彼は別のクラスなわけね。
「ああっと口が滑っちゃった。これ以上詮索しないでよ」
 口止めされてる?
「そういうわけじゃないけど。あんたに知れたらすぐに特定されそうだから」
 ひどいなあ。それでもあたしに教えたんだから、さして問題にならないと思ってるんでしょ。
「まあ、あの子の片思いはすぐに標的(ターゲット)が変わるからね。ばれても一時だけだよ」
「随分言うね。仮にも親友なんでしょうに」
 だけどそういえば以前、マイちゃんはアイについて「レズかもしれない気持ち悪い」と言及してたような。
「仮にもって、酷い。立派に……ってのも変だけど、固い絆で結ばれた親友だよ」
「そりゃいいことで」
 そういえばアイはマイちゃんに一ヶ月無視された時も、けろっとした顔で他の子と話していたような。

「あんたらの友情って薄っぺらそうだね」
思ったことを素直に口にすれば、アイにこてりと首をかしげて笑われた。
「そう見えてる?」
 うん。親友なんて言ってるけど、あんたあの子がいなくても平気でしょ。
「そんなことないよ? 寂しいと思うし、物足りないなーって感じると思う。……でもまあ、依存してるのはあの子のほうだよね」
 そうだ、依存。アイはあたかも二人の関係を共依存のように見せてるけど、その実全然マイちゃんにこだわってない。執着してない、とも言う。
「でもマイちゃんは、ずいぶんあんたにご執心だよね。普段態度に出さないけど」
「そだねー。あの子、私だけは絶対に離れていかないって信じてるから。ちょっとそのへんに関しては盲目的かな」
 ふうん。馬鹿だねえ、あの子。進学も危ういのに、何が『離れていかない』だか。
 同じ場所で時間を共有しないってのは、アイが思ってる以上に重大なことだ。会わない分だけ思い出は褪せていく。関心が向かなくなって、そのうち連絡だってとらなくなる。あたしの親友の話は、前にした?
「聞いた。高校受験で失敗したんでしょ、親友ちゃん」
 そう。離れるのなんて一瞬よ。べったべたの共依存でもそうだったんだから、あんたらの場合崩れるのは早いね。
「つまんないなあ、それ。ちょっと残念だ。私マイちゃん好きなんだけど」
 残念、か。勿体無いとは言わないんだね。手放すのが惜しいとか、ずっと続けばいいとか、独占や延長を願う言葉を、あんたは少しも口にしない。


 ――人に話すとね、叶わなくなっちゃうんだよ。


 アイが本当はどうしたいのかなんて、あたしにわかることじゃない。マイちゃんは好きな人がいるって、それをアイには話したんだっけ。それがどんな意味を持つのかなんて、あたしが考えるのは無粋だろうけど。
 自分から手を伸ばしたりしない。でも、確かに心のどこかで渇望している相手がいる。
 きっと誰だってそういうもの。



(でも、あたしはたくさん好きって言ったな)
 大切な親友に、大好きだよって、飽きるほど。言いだしたら止まんないもの。言わないと伝わらないんじゃないかって、それが怖くて何度も伝えた。いつからだったかその関係に飽いても、中断する度胸は持ち合わせちゃいなかったもんだから。無関心を言葉でつないでおくのは見え透いた悪あがきだったのかな。あたしたちは腹のそこじゃ、信頼関係なんて少しもなかったかもしれない。それこそ考えたらキリがないし、意味もないだろうけど。
 あたしの愛はきっと、すごく軽くて脆い。
「発泡スチロールみたい?」
 窒素みたい。
「やばいね。ほとんど無尽蔵だし掴めないじゃん」
 そうだ、やばい。掴めないから全部すり抜けていって、誰にも受け取ってもらえない。
 息をするように愛を吐いて、それでも同じだけの愛は返ってこないから、息が続かずに潰れちゃうんだろう。喘いで、喘いで、愛を乞うてあたしは声を枯らす。
「嘘でもいいから愛が欲しい、ってね」
「それこそ大嘘じゃない」
「あたしは嘘吐きになりたいんだから、これでいいの」
 (うそ)()きじゃなく、(うそ)()きに。嘘ばかりを吐く人になりたい。
「なれるといいね」
 なれたらいいのに。
「応援するよ。忘れるまで」
 何を忘れるまでだろう。アイがあたしを。あたしがアイを。この子は賢いから、人はいつか夢を忘れるんだってことも、もしかするとわかっているのかもしれない。

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 アイは、好きな人いないの?
「いるよ。背が高くてクズみたいな性格だけど」
 どこがいいのよ、それ。
「全部。なんか、いい。運命かな」
 試練の間違いでしょ。
「ひっどい。――でもそうかもしれないな。運命の糸が間違って中指に絡まっちゃったような腐れ縁だから。ていうか、爛れ縁?」
 ほんとにどこがいいの。爛れてるんじゃ手遅れじゃん。その糸きっと、荒縄みたいにぶっといのでしょ。
「だから全部。全部いいけど、どこも褒められたところがない人なの。クズなんだってば、マジで」
 気持ち悪いねえ、そんな人に入れこんでるなんて。何歳?
「十八歳。引きこもりニート進学の予定は無し。つまりクズ!」
 何が楽しいのかアイはケタケタと笑った。
 いっそ清々しいね。条件は最悪だけど。
「でも、聞く限りだけど、そいつにあんたは勿体無いんじゃない」
「わかってるよ。だけどしょうがないじゃない? 好きんなっちゃったんだから。恋は盲目だって、言うでしょ?」
 さあ、知らない。
「あんた好きな人いないの?」
「いないねぇ。いたことない」
「うっそ。高二で? 冗談だろ?」
「本当に。たいていの人に信じてもらえないんだけど」
 しれっとした顔で言うと、アイは素直に信じてくれた。正直な子。実は嘘なんだけどね。
「恋、したいなあとか、思わない? 素敵だよ、好きになるって」
 知ってる。だっていたから、好きな人。誰にも言わないけど。親友にも言わなかったけど、一人だけ。一度だけ。告白する勇気もないまま、三年間ずっと隣にいて、想い続けた人がいたの。
(諦めたのは、いつからだっけ)
 朝顔がしぼむように静かな、涙も出ない失恋だった。今でも大切に思ってるよ。誰より優しい人、あたしの初恋。
 教えるのが勿体無いと思うような、とびきりの恋を、あたしはもう持ってるの。だから次は、もう当分いらない。
「別にいいや。いい友達にも恵まれてるし、ほかにはいらない」
胸中に渦巻く思いなんて欠片も見せずに、あたしはアイに笑いかけた。
「嬉しいこと言ってくれるね」
アイは照れた様子もなく。しれっとしている。
「あんたのことなんて言ってないでしょ、うぬぼれ屋」
「でもあたしのことでしょ?」
 まあね。よくご存知で。微塵も揺らがない自信が、いっそ羨ましいよ。


 キーン、コーン、カーン、コーン。


 全校生に下校を促すチャイムが鳴る。チャイムとしてかなりメジャーな、『ウエストミンスターの鐘』。
「アイの夢は何?」
「唐突だね。カウンセラーだよ。知ってんでしょ?」
「そうじゃなくて。これから先の目標っていうか、したいこと。『なんのために生まれて、何をして生きるのか』」
ちょっとリズムをつけて歌った。
「アンパンマンじゃん」
「あれは名言だからね。引用しちゃいました」
「したいことかあ……。あ、結婚したい。あと、外国の海を泳ぎ回りたい」
 逞しいね。
 あたしは的外れな感想をよこす。
「あんたは?」
 さあね。幸せになれたら、なんでもいいや。
 本当は幸せな将来のヴィジョンが欠片も見えなかったからごまかしたんだけど、それは秘密にしておいた。

(幸せになれるなら、ほんとになんでもいい)

 そのための方法が、あたしの場合極端に少なくて、だから困ってるんだけど。


「さて、そろそろ帰らないとね。チャイムも鳴ったし、そろそろ見回り来ちゃう」
各々荷物を持って、教室を出る準備をする。閉めていたカーテンを束ねると、藤と群青のグラデーションが美しい空が広がっていた。燃える夕日も一瞬あとには、こんな静かな空になるんだ。一人で少し感動した。校庭には下校する生徒の姿がちらほらある。

「来年はアンケート、バカ正直に書いちゃダメだよ。……ホントに、なんでそんなことしたの」
 アイが教室から出る直前に言った。盛大なため息とともに。
 反省してるよ。わかってるって。
(わかってるけど、多分来年も同じことを書くんだろうな)
 ぼんやりと心のどこかで確信する自分がいる。
 どうして正直に夢を書いたのかという問いに答えを用意するなら、それはきっと、隠したくないからなんだよ。あたしの夢は素晴らしく不安定で不明瞭で、それでもそれをあたし、恥ずかしいとは思ってないから。

「あたし、作家になりたい」
 この夢を持つあたしが、あたしは心底誇らしい。

「知ってるよ。なれるといいね」
 《なれるといい》
 素敵な励ましの言葉だ。「きっとなれるよ」なんて根拠のないことは言わないアイが、あたしは気に入ってる。


(この夢は先生にも応援してもらえないような、荒唐無稽なものだけど)

 それでも書かずにいられない。志さずにいられない。それは不幸な十字架で、背負ったまま幸せになる道は一本しかないもの。だからあたし、作家にならなくちゃいけないのよ。医大なんて行ってる場合じゃない。世渡り下手が会社でOLやってる未来なんて、ちっとも描けやしないんだもの。作家になれなきゃ死んじゃうんだろうってくらい、あたし、他には何も才がないの。

「こんなままで私たち、大人になってくんだよ? ちょっと信じられない」
おちゃらけて言うけど、その裏にある怯えを、あたしたちはみんな知っている。
「不安だね」
「――大人になんて、なりたくないよ」
 同感だ。学生は何にも考えていないなんて、そんなことあるはずない。あたしたちにはこれでも皺の刻まれた脳みそがあるんだから、心配事を何も抱えないで脳天気に生活するだけなんて、そんなのできるわけないじゃない。毎日不安の影に憑かれて、縮み上がる心臓でなんとか生き延びているだけ。

「生きづらいねえ、アイ」

 暑い夕暮れ時。高校二年の夏。息をするのもつらい毎日の中で、あたしたちは死にそうだった。

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 それから何度目かの誕生日が来た。今年、あたしは何歳になったんだっけ。もうあれから何十年も経ったような気がする。アイは偽名だと言ったけど、あの子の本名がなんだったのか、もう忘れた。

 あたしは無事作家に(自分で言うのはまだ慣れないけれど、名刺にはそう書いてある)なって、出した作品は「青春を謳歌する少年少女の輝きを美しく描写している」との評価でそこそこの売れ行きを出している。
(青春を謳歌、ねえ……)
 本当になんて滑稽なことだろう。きらめく青春にまるで縁がなかった私が、そんな評価を受けるなんて。白々しく吐き続ける嘘が私の生活を支えているなんて、なんて幸せなことだろう。
 夢を叶えて嘘吐きになれたのに、どこか寂しいのはなぜなんだろう。

 大学何年生かのときに、アイの葬式に参列した。どこか外国の海に遊びに行って、帰ってこなかったらしい。沖の方でアイの浮き輪が見つかったらしいけど、詳細なんてどうでもいいことだ。あたしが知ってるのは、あの子は夢を叶えて自殺したんだってこと。家族は誰も自殺だなんて思ってないみたいだった。沈むのと潜るのの違いなんて、息が切れたあとじゃわからないもんね。
 結婚はしてないみたいだったけど、素敵な彼氏が参列していたところを見ると、それなりに充実していたんじゃないの。あんたを引き止めるには足りなかったけど、確かに愛してくれる人が、あんたには最後までいたんだから。
 


 あたしだけが知ってる、あの子が死んだ理由。大人のアイが生きるには、世界に愛が足りなかった。



 愛ばかり信じている子だったから、アイ。その偽名は、我ながらぴったりだと思う。
 だんだん曖昧になっていく記憶を繋ぎ留めるための、《思い出す》行為。そのための記号としてつけたものだったけど、存外あたしはこれが気に入っている。いかにもって感じ。
 アイだってきっと、気に入ってくれるでしょう?


(あんたがアイなら、あたしはライだろうな)

 あんたとあたし、アイとライ。
 (アイ)に生きた子、(ライ)に生きる子。
 素直な愛と、天邪鬼な嘘。


――神様、あたしには、とびきりの友達がいました。叶えたい夢もありました。二つが共存していたのはとても短いあいだだったけれど、確かにあたしの思い出には、そういう瞬間があったの。
 天におわす君。気に召した者の願いを叶える、都合と気前のいいお方。あたしの夢はきっと、途方もないものだったのですね。あたしの青春を捧げたくらいじゃちっとも足りない、片側の重い天秤だったのですね。
 ご都合主義の素人小説でもあるまいし、代償なしに叶う夢なんてありはしない。そんなことは知っているのです。だからこれは代償で生贄で、等価な対価なんでしょうね。

(それにしては失うものが、いささか私にとって大きすぎたけれど)

 あたしの青春と、あの子の未来と。宝物を二つ捧げてようやく手の届くくらいの、無謀な夢。縋ったそれはパンドラの箱だったのかもしれない。だけどああ、嘆くにはあまりにも、全てが手遅れだ。


「うまくやったじゃない、アイ」
吐き捨てて、久方ぶりに視界が滲んだ。心にもないことを言うのは、こんなに辛かっただろうか。

《生きてて欲しかった》

 それはいつかの夏、嘘吐きが隠した本音。

アイの言葉、ライの言葉

アイの言葉、ライの言葉

暑い夕暮れ時。高校二年の夏。息をするのもつらい毎日の中で、あたしたちは死にそうだった。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-27

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