漢字も国語も大嫌い!!
左利きです。
一
私、左利き。
小学四年の時、習字の授業でのこと。
思えば、私の漢字嫌いの始まりは、ここから。
その時のお題は、確か『日の光』だった。
さっそく硯に墨汁注ぎ、大筆を手にしたところ、
「唐沢さん。習字は右で書きましょうね」と、教卓越しに担任――定年まであと三年の女の先生。
私の席は、ちょうど教卓の真ん前。先生から見て、すぐ目につく席だった。
「習字には『とめ』や『はね』や『はらい』があるの。左で書くと、それが反対になっちゃうでしょ。だから習字は右で書きましょう」
「……」
私は、答えない。
「習字は日本の伝統文化、大事にしないとね」
「……」
納得が、いかない。三年の時の先生は、何も言わなかったのに……。
「唐沢さん?」
日本の伝統文化って言うけれど、そもそも漢字も習字も中国発祥なんじゃないの?
中国では、左利きの人って筆で書く時どうしてるの?
中国でも、やっぱり筆で文字を書く時は、左利きの人でも右手に筆を持たされるの?
それとも中国では、有史以来国策で左利きを排斥してるとでもいうの?
様々な疑問、どっと湧いて出たけれど、
「いいですか? 唐沢さん」
結局先生には逆らえない私。
「……分かりました」と返事して、大筆を右手に持ち替える。
それを確認すると、先生は教室内を巡回し始めた。
と言うわけで、この日、私は生まれて初めて右手で文字を書いた。
当然、出来上がりは酷いもの。
まるで、数匹の蛭がのたうち回っているかのような、地獄絵図。
何枚書いても、結果は同じ。
これは無理だあ、と大筆ならぬ匙投げて、左に持ち替えたところ、
「唐沢さん」
ポン、と肩叩き。
ビクッとなって、恐る恐る振り返る。
先生は案外柔和な顔――だけど、
「ずるはダメ」と、きっぱり言った。
――ずる?
左で書くのって、ずるいことなの?
私にしてみたら、右利きの人がそのまま利き手で習字していることの方が、ずっとずるく映るのに……。
けれど、相手は先生。反論出来るはずもなく、
「習字は、右で。約束したでしょ」と、念を押されれば、
「……はい」と、迎合するほかない。
私は、全く泣きそうだった。
やがて、時間。
満足行く作品の書けた人で、それが乾いた人から、提出。
当然、満足行く作品なんて出来ないけれど、とりあえず何かは提出しないといけない。
私は、何とか判読出来そうな一枚を選び、提出した。
さて――。
先生は、私に右手で習字をさせた張本人。
いわば、教唆犯。
それなのに……。
わざわざ私の習字を黒板にマグネットで貼り付けて、にやにや笑いながら、
「こういう唐沢さんのような字が、案外デパートとかで高く売れたりするんでしょうね」
教室に、どっと笑い声。
これって、要はピカソみたいな絵って言われているようなもの。
完全に、小バカにされている。
クラスメイト全員、その意味が分かってる。
だからこそ、どっと笑い声。
私の席が、一番前だったのが、唯一の救い。
皆の視線を、直接見なくて済んだから……。
思えば、私の漢字嫌いはここから始まった。
この日を境に、私は自分の名前以外、極力漢字を避ける女の子になった。
それは、延いては後の国語嫌いへと繋がる。
二
五年生へ、進級。
だけど、クラス替えはなし。
当然、担任の先生も。
この年、私はまた漢字絡みで、この先生から更なる大恥を書かされることになる。
黒板右の、時間割り欄。
基本的には先生が記入するのだけど、音楽と理科は先生が異なるので、翌日に授業がある場合、日直は休み時間にこれらの先生の許を訪ねて授業内容を確認し、時間割り欄に記入しないといけない。
その日、私は日直だった。しかも翌日、三時間めに理科の授業。
幸い、その日も理科があったので、授業終わり、私は先生に明日の授業内容を確認した。
それは『塩の結晶を作る』と言うものだった。
教室に戻り、私はさっそくチョークを手に取った。
さて、チョークを左手に私。
難しい『結晶』はさておいて、さすがに小五にもなって『しお』とひらがなで書くのも恥ずかしい、と私は思ってしまった。何せ、帰りのHRの時間、みんながこれを書き写すのだから。
当たり前だけど、漢字で『しお』は『塩』と書く。
けれどその時の私は、右側の難しい『旁』の方は何故だか書けたのに、左側の簡単な『偏』の方が出て来なかった。
私、短絡的に考える。
『しお』は海からとれるもの、水に関係あるのだから、きっと『さんずい』に違いない、と。
と言うわけで、私は左側に『さんずい』を書いてしまった。(もちろん、正しくは『つちへん』です)
それを、書いたそばから先生は目敏く見付け、さっそくみんなの前で指摘した。
つまり、物笑いの種にした。
やっぱり、教室はどっと笑い声。
しかも今回、私は黒板の前に立っている。
クラスメイト全員の顔が見える。見られてる。
完全な晒し者。
笑い声の中、俯く私。
顔が熱を帯びていく。
あっという間に、耳まで熱い。
確かに『しお』を漢字で書けなかったのは、私の瑕疵。
けれど、それをわざわざみんなの前で指摘しなくても……。
もっとそっと、こっそり教えてくれたって、良かったじゃない……。
私は、心底漢字が、そうして、この先生が憎かった。
この一件をきっかけに、私の漢字嫌いには拍車がかかる。
私は結局、小学校を卒業するまでの間、徹底して漢字排斥に努めた。
その結果、私は漢字嫌いが高じ、すっかり国語嫌いの女の子になってしまっていた……。
三
中学入学――テストに順位が付くようになる。
一年時の私のテスト順位は、中の上と言ったところ。
得意の理科や社会は総じて八十点くらい。
数学や英語は六十点くらい。
そうして国語は、いつも四十点前後を安定の低空飛行……。
まあ、国語が出来ないのは当然と、この時の私は完全に開き直っていた。と言うか、開き直るしかなかった。
けれど私は国語以外の教科、それも得意の社会で、実に漢字で悩まされていた。ちなみに、私が社会を得意としたのは、純粋に暗記だから。
この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば――と、宴の席で詠んでみせたのは、平安貴族の『藤原道長』さん。
ひらがなで書くと『ふじわらのみちなが』と、名前の間に『の』が入る。
けれど、これを漢字かな混じりで書くと――
『藤原みちなが』
『藤原のみちなが』
『ふじわら道長』
『ふじわらの道長』
――と、どう書いてよいやら分からない。
と言うわけで、要らぬ混乱避けるため、私はひたすらひらがなを突き通すことになるのだが、そうすると、解答欄がめちゃくちゃ窮屈なのだ。
幾つか例をあげると――
『東海道中膝栗毛』→『とうかいどうちゅうひざくりげ』
『禁中並公家諸法度』→『きんちゅうならびにくげしょはっと』
『墾田永年私財法』→『こんでんえいねんしざいほう』
『日米修好通商条約』→『にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく』
――と言った具合。
ひらがなで書くと、字数が実に二倍近くに膨れ上がる!
それでも私は意地になって、解答欄に小さな文字で、無理やり二列に書いてやり過ごしていた……。
そんな私だったが、ある先生との出会いによって、見事漢字嫌い、国語嫌いを克服することになる。
四
それは中学二年生の、一学期の実力テスト済んで、最初の国語の時間。
すなわち、テストが返される。
結果、四十四点……。
相変わらずの、ひどい出来。
特に漢字と文法は、ボロボロだった。
漢字は当然として、漢字嫌いから、既に国語全般大嫌いになっていた私には、国語の根幹に関わる文法なんて、端から勉強するつもりがなかったのだ。
「はあ……」と、答案を見つめ、私はいっちょまえにため息を吐く。
漢字をいくら頑張って勝手に排斥したところで、テスト全般、必ず『訂正ノート』を書かされる。特に漢字は、読み書き関係なく間違えた字を赤ペンで、間違えた問題数だけ書かされた。
ちなみに、今回のテストの漢字、読みは十問中六問正解。書きは十問中正当数ゼロ!
つまり一字に付き、二十問中不正解の十四回ずつ、書かないといけない。
これだけで、小一時間掛かってしまう。訂正ノートの一ページ目が、真っ赤に染まってしまうのだ。これが何より苦痛。
私、もう一度ため息を吐く。
ただ、勘違いして欲しくないけれど、このゼロは、漢字排斥の美学に殉じて何も書かなかった結果――ではない。
全然勉強はしてないし、するつもりもないけれど、一応テスト、私は全力で解こうとはしていた。
事実、漢字の解答欄に、空欄は一つもない。
まがりなりにも、私は解答欄を創作漢字で埋めていたのだ。それこそ、いつぞやの『しお』の字じゃないけれど。
何故って、テストだったら、どんなに恥ずかしい答えを書いても、テレビのバラエティ番組じゃないから、みんなに暴露、晒される心配はないから。
つまり、ゼロはゼロでも、全力出してのゼロなのだ。
まあ、勉強してないのだから、いくら全力出したところで、出来るはずないのだけど。
本当のことを言えば、私だって、やっぱりテストでは点数取れた方が嬉しい。
たとえそれが、どんなに大嫌いな国語でも。
いや、苦手な国語だからこそ!
けれど私の現状は――。
国語嫌い→勉強しない→テストが出来ない→ますます国語嫌い→ますます勉強しない→ますますテストが……(以下何度でも繰り返す)
――と、堂々巡り。
完全な負のスパイラル……。
五
「――ええ、全員答案を受け取りましたね? ではさっそくテスト直し――のその前に、先ずは先生の自己紹介を。このクラス、二組の国語を担当します、敷島マユです。ちなみにおとなり三組の副担任をしています。皆さんこれから一年間、一緒に楽しく国語、勉強していきましょうね」
一学期始まったばかり、まだ席替え前だから、座席は出席番号順。
名字が『唐沢』の私は、出席番号六番で、ちょうど教卓の前の席。
さっきテストを返してもらった時は、憂鬱で俯いてたから、先生の顔なんかろくに見なかったけれど、こうして改めて先生を見ると――綺麗な人。
艶のある黒髪を、青いシュシュでシックなシニヨンヘアにまとめ、服装も、白のブラウスに、膝下丈のベージュのプリーツスカートと、いかにも清楚で好感持てる。
異性は勿論、同性からも支持される、まさに綺麗なお姉さん、と言った感じ。
「――ええっと、テスト直しを行うその前に、先生から、幾つかみんなに質問があります。当てはまる人は、手を挙げて下さいね」
そう前置きしてから、先生は、次のような質問をした。
「みんなの中で、国語が得意だよって人、手を挙げて下さい」
その質問、私も凄く興味があった。私は思わず振り返る。
誰も、手を挙げていなかった。
先生もそれを確認すると、
「じゃあ、ここにいるみんなは、国語が苦手な訳ですね。だと、思いました。何せみんなの答案を採点したのは、先生ですから」
教室に、ちょっと笑いが起こる。
それが収まってから、
「そんな国語が苦手なみんなはきっと、国語って、何を勉強したらいいのか分からないんじゃないでしょうか? その通りって人は手を挙げて下さい」
も一度私、振り返る。
けっこうみんな、手を挙げてた。
それを確認してから、私もおずおず手を挙げる。
先生は、うんうん頷くと、
「だと思いました。はい、手をおろして下さい。そんなみんなに、私から朗報です。国語で具体的に何を勉強すれば良いか――ズバリ、どうすれば国語のテストで点数が取れるか、その方法をこれからみなさんに伝授したいと思います」
私、びっくりした!
そんな方法があるのっていう驚きと、何より学校の――しかもこんな綺麗な先生から、露骨にテストで点数を取れる方法を伝授するだなんて言葉を聞こうとは、夢にも思わなかったから。
興味津々、私は先生のお話に、耳をそばだてる。
六
「国語のテストで点を取る方法。それは、ずばり漢字と文法です!」
私、どっと気が滅入る。
いきなりうちひしがれてしまう。
どっちも私の天敵だもの。
「ちょっとみんな、いきなり興味を失わないで――」
先生、苦笑い。
私もつられて、苦笑い。
どうやら、他のみんなの反応も、私と同じだったみたい。
「とりあえず、先生の話は、最後まで聞きましょう。ね」
と、困ったような顔して先生。とてもいじらしく、可愛らしい。
「良いですか? 先ずは、テスト問題の構成をみてみましょう。テスト問題は、およそ次の六つの要素から構成されています」
そう言うと、先生は黒板に次のように書かれた。
一.漢字
二.評論
三.小説
四.詩(俳句・短歌)
五.古文漢文
六.文法
「このうち二から五までは入れ替わりがありますが、一と六、すなわち漢字と文法は、必ず出題されます。そうしておよその配点は――」
先生、また黒板に向かい、次のように書かれる。
漢字:読み書き合わせて10~20点。
文法:10~20点。
「――といったところでしょう。ちなみに今回のテストだと、漢字は読み書き合わせて二十点。文法も、二十点ありますよね。つまり百点満点のテストのうち、漢字と文法の二つを合わせて四十点、実に四割を占めているのです」
私は、はっとした。
「およそ国語が苦手な人って、漢字と文法、この二つを案外ないがしろにしてませんか? 漢字と文法、この二つは、言ってみれば暗記です。二の評論や三の小説のように、長々しい問題文を読まなくても解ける訳です。特に定期テストは範囲が限定されます。つまり勉強しやすいと思います。国語で、何を勉強すればよいか分からないって人は、とりあえず次のテストに向けて、漢字と文法、この二つを集中的に勉強してみてはいかがでしょう? では、テスト直しを始めましょう――」
結局先生のお話は、楽して点数が上がるわけではない、地道な勉強が肝要――ってことだった。クラスのみんなの反応は、なんだか狐につままれた、或いは横綱に肩透かしでも喰らわされたような感じだった。
けれど私にとって、先生のお話は、まさに目から鱗だった。
何故って、みんなが百点満点のテストを受ける中、漢字と文法を捨てていた私は、端から六十点満点のテストを受けていたということになるのだから!
何より衝撃だったのは、毛嫌いしていた漢字と文法は、実は私の得意科目の社会と同じ、暗記だってこと!
私は、自分の答案を改めて見返した。
漢字の読み、十問中、正解数六。(配点一点)
漢字の書き、十問中、正解数ゼロ。(配点一点)
計二十問中六問正解で六点。
文法問題、十問中、正解数1。(配点二点)
二点。
合わせて、八点。末広がり。
四十点満点で、八点。
我ながら、惨憺たる結果。
けれど、あれ?
今回の私の国語の点数は、四十四点。
ここから八点を引くと、三十六点。
つまり六十点満中、三十六点。
むむ?
漢字と文法を差し引いたら、私は六割出来ていることになる!
国語嫌いで、全く勉強していないのに、この出来……。
私って、実は案外、国語出来る女子なんじゃ?
先生のおっしゃる通り、もしも漢字と文法を集中的に勉強すれば、ひょっとして、すっごく点数上がるんじゃ?
何せ、のびしろはあと三十二点もあるのだから!
この日を境に、私は極力漢字を書くよう努めた。
国語の授業も真面目に受けることにした。
文法もしっかり勉強した。
そうして、運命の中間テストを迎える。
七
「唐沢さん」
中間テストが終わって、最初の国語の授業。
すなわち、今まさにテストが返される。
「はい」と返事して、先生の差し出される答案を私、恭しく両手で受け取る。
その際、
「やったわね」と、先生は私に向かって微笑された。
「え?」
点数を見ると――八十二点!
私はびっくりした。
言われた通り、漢字と文法を勉強した結果が、如実に出た。
何と、読み書きともに満点。
合わせて二十点!
文法も、十八点。たった一問しか間違えていない。
漢字と文法、四十点満点中、三十八点!
その八十二点と言う成果が――何より先生に褒められたことが、私には嬉しかった。
それから、テスト直しの時間。
先生が、一問一問頭から、丁寧に解説して下さる。
まさか、憂鬱でしかなかったテスト直しの時間が、こんなにも心地よい時間になるなんて。
何より、訂正ノートの一ページ目に、漢字直しをしなくて良いだなんて。
さて――。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去るもの。
終業を告げる、名残惜しげなチャイムの音。
委員長の、起立、礼。
それが済んで、
「唐沢さん、ちょっと」と、先生。
私を指名、手招きされた。
「はい」
更なるお誉めの言葉が頂けるものと、私は素直に思った。
何せ私は、先生のおっしゃった勉強法を実践し、見事に成果を出してみせた、言わば模範的な生徒であり、今やほとんど先生の信者だったのだから。
「なんでしょう?」
しずしずと先生のお側へ。
自分でも、興奮で上気しているのが分かる。
きっと耳まで赤いだろう。
先生はそんな私の耳許で、そっとこっそりおっしゃった。
「ずるはダメ」
漢字も国語も大嫌い!!
臥薪嘗胆、この悔しさをバネにして、私は次の期末テストで92点(クラス最高点)を取ってやった結果、後日、生徒指導室に呼び出され、先生監視の下、追試を受けさせられましたとさ。全然、めでたくありません。(フィクション)