祖父について 覚書

少しずつ書き加えていきます。

お盆について、そして旅行について

 子供のころはお盆といえば、盆踊りだった。元々、季節の行事などはあまり重要視していない家庭だったため、お盆は先祖の霊を家に招く行事と知ったのは漫画か小説だっただろうか。とにかく、この知識は家庭から得たものではないのは確かだ。
 だから、妙にお盆となると頼りない気持ちになる。思い出すべき手本がないからだろうか。この3年はお盆の直前になると本を読んだり、インターネットで調べたりして、見よう見まねで胡瓜や茄子を買う。実家は秋田にあるからこちらには来ないだろうとぼやきながらも。
 そういうふうにお盆を気にするようになったのは、きっと3年前亡くなった祖父と関係がある。

 思い出せる一番古い祖父の記憶の多くは横顔ばかりだ。柔らかな標準語を話す祖母と比べて、訛の強い言葉を不機嫌そうに話す祖父は幼い私にとって少し怖く、近寄りがたい存在だった。広々としたリビングの一角のソファは祖父だけの空間で、もし私が不用意に使ってしまうと怒られてしまうと勝手に思い込んでいたほどだ。だから、私はこども(だと私が勝手に決めていた)専用のソファに座り、恐る恐る祖父の顔を見ていた。祖父の視線はたいてい、テレビの野球番組か相撲番組、もしくは新聞に注がれていたから、それが横顔ばかり覚えている理由だったのだろう。
 けれども今考えると、私が横顔ばかりを覚えているのは私の恐怖を知っていた祖父がわざとこちらの方を見ないようにしていたためなのかもしれない。

 多くは記憶に残っていないけれども、私が小学生までは祖父母と一緒にあちこち旅行したらしい。富山の黒部ダム、福島の知恵子の家(たしか私はこのとき頭に大怪我をした)、どこかの県のサファリパーク、遊園地、温泉、そして大鰐や安比では毎年のようにスキーをした。安比では夏にコテージに泊まったのを良く覚えている。高校生になるまで使っていた財布は、その時祖母に買ってもらったものだったし、初めて牡蠣を食べたのも、多分安比でだった。泊まったコテージは4畳ほどの屋根裏部屋もあり、誰が屋根裏部屋で寝るかもめた記憶もある。
 けれども兄が高校受験の直前になると自然に冬のスキーに行かなくなり、そのあと姉の受験が始まり、いつのまにか家族全体で旅行に行くことはなくなった。たぶん父もそれまで毎年あちこちに行っていたせいで疲れてしまったのだろう。それに今思えば、老いは少しずつ祖父母に忍び寄っていて、旅行は二人にとってかなり辛いものだったのだと思う。

 最後に祖父母両方と家族全員が旅行に出かけたのはいつだっただろうか。定かではない、けれども、多分それは小学6年生、私が12歳のときだ。他の旅行は何歳のときに行ったのか覚えてないが、この旅行だけは間違えない。ただし、場所は覚えていないのだけれども。
 どこかの神社か寺だった。私はそこで初めて大吉のおみくじをひいた。人生初めての大吉で私は興奮し、大声ではしゃいだと思う。そこへ多分父あたりが「おじいちゃんも大吉を引いたぞ」と言った。
 「おじいちゃんもなっちゃんも申年生まれだからね」
 祖母の一言で私は申年が大好きになった。それまでは猿はなんだか馬鹿みたいな顔をしていると思っていて、申年生まれのことを嫌に感じていた。けれども、本当に単純なことで、12歳のあの夏、生まれた干支の年に初めて大吉をひいて、申年生まれで本当に良かったと思い、そして祖父のことも大好きになった。こんなことを言うと呆れられてしまうかもしれないけれども、
 他の旅行と混ざっているのかもしれないが、その場所には水子のための地蔵が沢山並んでいて、祖母が一人お参りをしていた。祖母の後ろ姿のそばでは色とりどりの風車がカラカラと廻っていた。おばあちゃん子だった私は祖母のそばに行き、ここには来てはいけないと優しくたしなめられ、ひどく落ち込んだ。

祖父について 覚書

祖父について 覚書

亡くなった祖父に関することを忘れないように。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-26

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