生きる運命

古来より、いにしえに伝わる神々が住む森がある。人々は、その森を崇め、 共に生きてきた。しかし、その森は、 呪われた森とも呼ぶ。人間は決して、 立ち入ることは禁じられ、共に生きると偽り、人間は避け続けてきた。移り変わる時の流れの中で、旅人の青年は 風の噂で話を耳にした。その森に住まう人の姿をした少女に出会う。人か、神か、そしてあやかしかー。 その正体は誰も口にしない。呪われた森に住む少女は何者か。

プロローグ

炎の形をした香炉が入っていた。金属製で全体に見事な彫り物がしてある。三狐の神は香炉に刻まれた微かな文字の痕を指でなぞり、それを読み上げた。
「過ちから生まれた者、自ら香を焚き、香を焚いたものは(こう)となる」

その日は、朝から穏やかな晴天で、雪道を行くのも汗ばむほどだった。男は、朝早くからの農作業をいったん終え、妻子が待つ家へと向かっていた。この地では、厳しい冬でも農作物が育つ環境であり、他国の侵略もなく、人々の暮らしは平穏であった。なぜなら、ここは古くから住む神々が人々を守ってきたからである。
だから、人々は不自由なく暮らしてきた。
男は、家から森に続く何か引きずった痕跡と血の線に気付いたが、狩人が獲物を山から下ろし、自分の家で休んでいるものと男は思った。
先月、知り合いの狩人が子熊を仕留め、手土産に持ってきてくれたので、また見せに来たに違いない。そのとき、家の中で飼われている馬が足をふみ鳴らし、しきりに嘶いて暴れる音が聞こえた。見ると、馬が吐く息が辺りを白く曇らせるほどだった。
どうどう、と男は声をかけ、何とか馬を静めようとした。馬はしばらくして漸く落ち着きを取り戻したが、今度は男の胸騒ぎが収まらなかった。男は家の入口に近づくと蓆を排し土間に入った。雪道を歩いてきた男の眼には、炉に残った薪の炎の色が赤々と映って見えるだけだった。男は、いったん落ち着くために土間におかれた甕の水を杓子ですくって飲むと、炉端には八歳の倅が座っていたので、ほっと安心した。
男は自分をおどかすためにわざと狸寝入りをしているのだろうと思い、わざと大声で話しかけながら近づき倅の肩を揺すったが、眼を覚まさない。
「いい加減にしろ」
と、言いながらのぞき込んだとき急に男の顔がこわばった。
倅の胸から膝にかけて、乾いた血のようなものがこびりついているのに気がついたのだ。
男は、倅の顔に手をかけ仰向かせた。男の眼が大きくひらかれた。咽喉の部分の肉がえぐりとられていて、血液がもり上がり胸から膝へ流れ落ちている。さらに頭の左側部に大きな穴がひらき、そこから流れた血が耳朶をつつみ、左肩にしたたっている。
男は、倅の顔をはなすと土間の隅におかれた鉞に走り寄った。他国の者が金か食物を奪うために家に押し入り、倅を殺したに違いないと思った。 男は、息をひそめ家の内部をうかがったが薄暗い家の中に動くものはなかった。
男は倅と留守をしていた妻のことを思い出し、名を呼んでみた。しかし、妻の返事はなく、家の内部に人の気配は感じられなかった。静寂と冷気が、男の体を重苦しくつつみこんだ。
ただならぬ事態に家を飛び出した男は農作業現場にいる仲間の方へ走った。
途中に点在する家々の窓からは、女や子供が、男の走ってゆく姿を不審そうに見つめていた。

第一章 道標

畑葉が部分的にしおれ黄変していて、葉の端が上側に巻いている。それは、どの畑も同じで、しんなりとした葉が地面の下に向いていた。
大人は、首を横に振った。もう秋がせまっている。この時期に畑が全滅しているということは村全体に危機がせまっていた。
「おとう……」
声がして、はっと振り返った。
「おらたち、これからどうなるん」
まだ幼い子供にも直感的に、ただならぬ事態を察知しているようであった。その言葉が村集の大人に重くのしかかる。
ただただ、その問いに答えられず、口をつぐむばかりであった。
その夜、長老を囲んで村の男たちが集まっていた。村の年老いた者、若い者、そして継ぎの長になる青年、頼邑(よりさと)である。長老の世話役の女が湯飲みを運び終わり、去ると、
「長老、このままでは村が危うい」
と、無精髭を生やした男が話を切り出した。
村の畑に異変が起きたのは半月前ほどである。 初めは、一部の葉が枯れていただけであって、それほど気にもしていなかったのだが、半月もしないうちにそれは、村全体の畑に広がっていったのだ。
「何とかなりませぬか長老」
その男の顔には、悲痛な表情が浮かんでいる。 誰もが、その男の問いに答える者はいなく、重苦しい空気が漂う。
「口減らし」
その声にいっせいに皆の視線が呟いた男に向けられた。口減らしとは、飢饉時の農村などで、圧殺・絞殺・生き埋めなどの方法により、乳幼児の殺生であった。
男は下をうつむき、もう無理だ、と言った。
「子らを犠牲にするというのか!」
無精髭の男が口を挟むと、
「こうするしかあるまい。我らが飢え死にするよりかは……」
そう言って眼をつむった。
「仕方のないことだ。いずれにしろ、子らの分まで飯はない。いや、我らの分すらないかもしれないのに情けをしておる場合ではなかろう」
別の男が険しい顔で言った。
「何を言うか。子らを守るのが我らの務めではないのか」
男たちは、いっせいに双方の意見によって言い争いが始まった。若い者は、その間に入れず困惑した表情で見ている。どうしていいか分からないらしい。
「静まらぬか」
それまで口を開かなかった長老の言葉に、しんと静みかえる。
「争いは何の種にもならぬ。我らがまた、一から種を植え、育てるのじゃ」
ゆっくりと話す言葉に皆の耳が傾いていき、さらにそれは続いていく。
「これよりはるか地では、作物が豊富で豊かな国だという。そこでは、冬でも作物が育つ環境だと聞いたことがある。まだ、そこには我らには足らぬ何かがあるやもしれない。それを確かめてみるというのはどうじゃ」
そう言い、皆を見渡した。ここにいる全員が長老と意見に納得したが、誰が確かめに行くのかと男たちは胸がざわついていた。互いに顔を見返すばかりで、いつまで経っても返事をしない。肯定するでも否定するわけでもなく、咽喉につまったような呻き声が洩れただけが聞こえる。
無理もない。過酷な旅になることを皆、承知だ。この時代の旅というと街道も宿場も整備されておらず、食料の調達な困難で、およそ、一般の者が容易に旅を行えるものでなかった。旅の途中で死ぬよりかはここで死んでいく方がまだいいと考える者までいた。
「そのお役目、私に任せていただけませぬか」
凜とした声で言ったのは頼邑だ。瞳に強い光を宿した、端整な顔立ちの持ち主だった。その言葉に“おお、頼邑なら安心だ”と賛同する者が多かったが、中には、“次期の長となる身を旅に出すわけにはいかない”と、言う者もいた。
「ご心配なさらず。必ず皆の元に戻って参ります」
頼邑の強い眼差しを見た長老はため息をつき、
「頼邑よ。やはり、そなたはわしの思いとは裏腹じゃ」
長老も、次期の長となる頼邑を行かせたくはなかった。だが、強い正義感を持つ頼邑なら行くだろうと分かっていた。
「…………」
頼邑は、眼をそらすことなく、全てを覚悟した。数少ない若い者は、顔をしかめていた。
「頼邑よ、物事を見据えてきなさい」

馬蹄の音が力強く地面と一緒になっていく。寒月が皓々とかがやいている。まるで、数奇な運命がこれから先、せまっているような予兆であった。

嵐の前触れ

横→縦切替

暗がりの夜から日の出が頼邑を迎えるように辺りがうっすらと明るくなり始める。それでも、休むことなく走り続けていく。やがて、陽はだいぶ高くなってきた。よく晴れて、大気には秋を感じさせる清々がある。ここも雨がないせいか、砂埃がたっていたが、爽やかな陽気である。
さらに休めることなく、走り続けていくと海原が見えてくる。青い空と海原のなかにくっきりの陽の光が浮かび上がって見えた。
「これが、海というものか」
海を見るのは生まれて初めてのことだ。いつか、長老が海といのは青々とした水は塩辛いと言っていた。海は地平線にのび、それはどこまでつづいているのか頼邑には想像できないものだった。
東へ向かう頼邑に潮風が心地好かった。そして、海をはなれ、再び景色は森へと変わる。 しばらくすると、右手に寺が見えてきた。境内はひっそりしている。頼邑は 、馬のアオをとめ、そこから足で歩き、山門をくぐると庵の方に歩いた。ふいに、前を歩いていた頼邑の足がとまった。庵の前に人が立っていたのである。
この寺の和尚だった。頼邑の姿に気付いたのか和尚が近寄ってくる。
「もし、旅人のお方であられますか」
和尚は、穏やかな微笑みを浮かべて頼邑を見つめていた。それから、頼邑は庵の中で茶菓子を馳走になった。
「では、あなたの国ではそのようなことが起こっておりましたか……」
頼邑が旅をしているわけを聞いた和尚は、湯のみを持ったまま虚空な眼で、
「やはり、あの森のせいか」
と、顔をゆがめてつぶやくように言った。
「森?」
頼邑が訊いた。
「ここから、さらに山を越えたところに、豊かな暮らしをしている集落があるそうです。その先には、神々が宿る深い森がある。それは、不死の森と呼ばれております」
和尚は、まだ湯のみに虚空にとめたままである。
「その森は、ここから何里ほどでしょうか」
和尚は手にした湯のみを飲まず、膳に置いた。
「行こうとするのはやめなされ。その森は、またの名を呪われた森と呼ばれております」
急に声を低くし、眼付きも変わっていた。
「…………」
山の向こうの夕日が辺りを赤く染めていた。 カナカナとひぐらしが鳴いていた。

心の迷い

横→縦切替
縁側に虫の音が聞こえる。夜気が青く澄んで、十六夜の月がかがやいている。宿無しの頼邑に和尚は、快く泊まることをすすめてくれた。ちょうど、弟子たちの使っている部屋の斜向かいの部屋が空いていたので、そこへ頼邑に好きに使っていいと言ってくれたのだ。
頼邑は、夕餉のときに、和尚が話したことが頭からはなれないでいた。瞼を閉じれば、故郷が脳裏に浮かぶ。もうわずかな食糧さえ残っておらず、餓えに苦しむばかりではなく、挙げ句、里の宝とされてきた子供まで手にかけようとした。
里の皆の痛みがよみがえった同時に、和尚の言葉がまるで交差するかのようによぎった。頼邑の背後に真夜中の寝室にゆるやかに揺れる庭木の影が落ちている。まるで、気持ちがそこに写り出されているかのようだ。
月は、頼邑の心情を試しているかのように雲に隠れてはまた、光を照らし、隠れていった。

死ぬ運命

横→縦切替

薄らと夜が明け始めた紺色の空に細かい枝葉が影を落としている。秋らしい清やかな風が吹いている。庭にある柔らかい緑が青白く浮かんでいた。
チュン、チュンと鳥の鳴き声が聞こえる。二羽の鳥が庭先で餌をついばんでいる。
和尚は、頼邑が寝ている部屋に足を進めた。その足は、腰高障子の向こうでとまり 、和尚は障子に手をかけた。しかし一瞬、時がとまったかのように手が動かない。遠方から聞こえてくる鳥の鳴き声が耳元で聞こえる錯覚がした。
がらり、と障子を開け和尚が見たのは、すでに畳まれていた布団とその上に紅葉が置かれていた。
「行ってしまわれたか」
呟くような声であったが、その声は空へと向かって消えていった。

林の中を風と共に駆け抜けていく。途中で白い斑点模様の小鹿が、ぴょんと林からとびだした。 小鹿は、アオに驚き、また林の奥に消えていく。やがて橋の傍の渓流を渡った。頼邑は支流沿いの道を上流に向かって進むことにした。それから山林の傾斜を登り始めてから時が経ち、いつのまにか西日に太陽が傾き始めていることに気づいた。
……もう陽が沈みかけているとは。
頼邑は、手綱を強く握りしめ、体勢を低くするとアオはみるみると速度を上げ、力強く斜面をかけ上がっていく。せめて、一軒の家でも見つけたいと思っていたのだが、今日は諦めるしかないとみた。
仕方なく、一晩過ごせそうな場所を注意深く、辺りに視線を配りながら見た。もうすでに辺りは暗闇につつまれているため、あまりむやみに動くことはできない。
どうしたものか、と思いながら少し前に進んでいくと、岩があった。ちょうど頼邑が隠れるくらいの大きさである。傍にあった枝や葉をかき集め、焚いた。辺りは静寂として、焚かれた枝が亀裂と共に音をたてる。
静か闇の中で、何かの気配を感じたアオは耳をたてた。頼邑もその気配を感じる。
……人か!
ペタ、ペタとゆっくりと足音が聞こえる。頼邑は火を消し、腰刀に手をそえ、張りつめた空気の中で息をひそめつめた空気の中で息をひそめる。 ところが、足音がしだいに遠ざかり再び、辺りは静寂が戻った。
「アオ、すまない。ここで待っていてくれ」
そう言い、月の明かりだけを頼りに頼邑は歩き出す。しばらくあるいていると、目にうつったのは小さな村だった。
……村? こんなところに。
小屋の前に人が横たわっている。慌てて、傍に駆け寄り、肩を揺すろうとしたが、もう体が硬直していた。それだけではない、この遺体は皮と骨だけになっている。とても人の姿とは思えないほどだった。
辺りをよく見ると、遺体がいくつも転がっている。心の鼓動が大きく鳴る。そのとき、頼邑の耳にかすかな呻き声が聞こえてきた。それは、小屋の内部から息を吐くような声がする。頼邑は動きをとめた。生きている者がいることはあきらかである。その声は、口からもれる声のようであった。頼邑は、内部をうかがってから足をふみ入れた。
暗さに眼がようやく慣れ、入口に近づくと小屋の中に何があるか識別できるようになる。寝間に誰かが横たわっている。声の主は、この者らしい。
「大丈夫か」
頼邑は慌てて駆け寄ると、女だった。月の光に照らし出された女の体に頼邑は顔をゆがめた。頬はこけ、骨が浮き彫りになっている。
「あんた、誰?」
その口からもれるかすかに言葉がもれた。
「私は、旅をしている者だ。この村で何があった?」
女はゆっくり起き上がり、おぼつかない足で歩き出した。
「そんな体で歩いてはだめだ」
頼邑の声に反応した女は、
「もう村で生き残ったのはあたしだけ……。夫も死んで、きのう赤ん坊も死んだ……」
女の片腕に布でくるまれたものを抱えたまま頼邑の足元に下ろした。布で包まれていたのは赤ん坊だった。
「ここだけじゃない。いくつもの村がなくなった。皆、飢え死にして、豊かだった森は死んだ…。もう何もない…」
女はうなだれるようにその場に座りこんだ。
頼邑は、うつ向いたまま赤ん坊を抱え、女に言った。
「私の村も同じだった。ここまでひどくはないが、それでも答えを求めて」
女は、ゆっくりと顔を上げる。
「倶にくるか」
頼邑の思わぬ問いに女は口を開けていたが、
「行けば、何があるというの」
と、すがるような眼で言った。
「それは分からぬ……。だから無理にとは言わない」
苦々しい顔で頼邑は答えた。
しばらく女は黙っていたが、身をふるわせ、
「あんた馬鹿だね。どうせあんたも死ぬ運命 さだめ なんだ。そうやって、死ぬことから逃げたって結局、みんな死んでいったんだ!」
そう言うと、頼邑の腰刀に手をのばし、刀を抜くと自分の首を切りつけようとし た。
「やめろっ」
頼邑は必死に女の腕をつかみ、刀を取り上げようとしたとき、女は頼邑の腕を斬りつけた。一瞬、女の腕から手をはなした隙に女は、自分の首を斬りつけた。
ビュッと いう音ともに赤い帯のように血が噴出した。女の首根から噴出した血が驟雨 のように頼邑の顔にかかった。
女は、その場に倒れこむと、震えながら顔を上げて、
「ありがと……。村にあった鎌は錆びて切れなくてさぁ」
消えるような声で言うと、ガクンと頭が倒れ、もう動くことはなかった。
頼邑は、くちびるを噛み締め、止めることができなかった悔しさと悲しみが沸き上がった。
……なぜ、生きようとしない。この女は、ただ死ぬために今日まで生きていたというのか。
やりきれない思いがなお、自分の無力さを思い知らされた。刀を納め、村を後にしうとしたら茂みから音がしたので振り返るとアオがいた。
「心配したか、アオ。すまなさい……。来てくれたのか」
アオは、頼邑の頬を舐めた。まるで、頼邑の心境を理解したかのように。頼邑は、 さっきの女の言葉を思い出した。
『死ぬ運命なんだ』
山間から日の出が見え始める。
「夜が明ける」
頼邑の眼に眩しい光が映えた。
……死ぬ運命などない。生きる運命があってこその死がある。
「行こう、アオ」
チラッと村を見た後、再び出立した。その後、飢え死にでなくなった村に唯一、ここだけ墓があることを人が知った。

人喰い熊

横→縦切替

頼邑は初秋の陽射しを浴びながら旅を続けた。その十日間の経験で、陽射しを浴びながらの旅は疲れることを知ったのである。
山をおりたところで、頼邑はそれとなく背後を振り返って見た。何かの気配を感じたが、それらしい人影もなかった。
「いや、まさかな……」
そう小声で言った。
山をおり、人里に向かうには川を渡らねばならない。川には橋が架かっておらず、自力で渡るしかないようだ。幸い、このところ雨が少なかったせいか水量がなく、難儀せずに川を渡ることができた。
もう、川を渡れば人里は目の前である。 頼邑は人里に入る前にもう 一度後ろに眼をやり、尾行者らしきのがいないか確かめたが、姿はなかった。
これから人里に入るため、アオを連れ、道を歩いていると、向こうから人が、ちらほや見えてきた。馬子や商いを生業う人であふれている。
初老の親父が、茶道具を持って、
「お煎じ物ーお煎じ物っ」
と呼びかけをすると、まるで合図のように人がどこからか集まり、茶を頼んでいた。
この時代は、茶道具を持ち込んでの立売が基本で店を建てた茶屋はなかった。頼邑も、その茶売りに寄り、茶をすすいでくれた初老の主人に話を聞いてみた。
「不死の森に何か知りませんか」
ここ数日、手かがりをつかめずにいたので少しでも手かががほしいと思っていた。
「旅人かね」
主人は、眼をしょぼしょぼさせながら訊いた。
「はい」
「じゃあ、分かんねぇはずだ。不死の森は、あそこの手前にある森よりずっと奥にある。そんで、おめぇさん。そんなこと訊いてどうすんだ」
主人は首をひねった。
「その森と共に住む里があると」
月霧の里(つきぎりのさと)のことか」
主人の話によると、月霧の里は、またの名を霧深き幻の里とも言われるそうだ。月霧の里は、不死の森に近い場所にあり、古来から住む神々の力で作物をよく育ち、人々の暮らしは豊かだという。しかし、半年以上前に熊が人を食い殺すという恐ろしい出来事が起きたと言った。今まで、熊は人を襲うことはなく、まして人里に下りてくることはなかった。
その出来事が起きた日から、畑に異変が起き、人々の暮らしは苦しくなっていったという。
「みんな、祟りじゃないかぁなんて妙な噂がたって余所から来る連中が興味本意で森に入って帰って来なかったなんて話もある」
そこまで、話すと商人らしいふたり連れが入って来たので主人は頼邑からはなれた。この地で明らかな異変が起こったためにその影響が自国の里に及ぼしたのかもしれないと思った。

剣豪

里の入口の杉林に入ってほどなくしたときだった。頼邑は、背後から歩いてくるふたりの男に気づいた。男が途方からふたり歩いている。川を渡る前からの気配はこのふたりだったのかと直感した。
……私をつけているのか。
だが、ふたりは頼邑に近づくとわけでもなく、一定の距離を保ち襲ってくる気配はない。ふたりに尾行されているような気がしたが、それにしては、身を隠さず、普通に歩いている。
しばらく、振り返るのをやめ、先に進んでいたが、また振り返って見たらふたりの姿はなかった。途中にあった横道に入ったらしい。
やはり、気のせいだったようである。近くに川があるのか汀に寄せる川波の音と枝葉を揺らす音だけが聞こえていた。
陽は山の向こうに沈み、樹陰に淡い夕闇へと変わる。霧が辺りを覆い、視界が悪くなってきた頃、前方に畑や町家が見えてきたとき、背後にかすかな足音がした。ヒタヒタと跡をつけている音である。頼邑は振り返った。月光の中に人影が見える。ふたりいた。脛が夜陰に白く浮き上がったように見えた。
……あのふたりだ。
杉林に入った頃、眼にしたふたりである。ただ、そのときと違ったのはふたりと脇差を差し、草鞋をはいていることだった。
ふたりの男は、小走りに近寄ってきた。その姿には殺気があった。
他に人影がないので頼邑を狙っているようだ。
狙われる覚えはなかったし、追剥ぎにも見えなかった。
頼邑は、アオからおり、ゆっくりとした歩調で歩いた。恐れはなかった。相手はふたりだが、身なりは町人である。後れをとることはないはずだった。
頼邑は足をとめ、アオを背にして立った。
見ると、ふたりの男の双眸が夜陰に白くひかっていた。野犬を思わせるような男たちである。
「そなた等、何者だ」
頼邑が誰何した。
ふたりの男は”ここから去れ“とつぶやく。その言葉に頼邑は、
「里の者か」
と訊いたが、男たちはなお、“去れ、去れ” と同じ言葉を繰り返すばかりだ。
すばやい動きで頼邑の左右にまわり込み、腰の脇差を抜いた。
少し前屈みの格好で、脇差を構えている。ふたりの脇差が月光の反射でにぶくひかった。
短い抜き身が頼邑の眼に野獣の牙のように映った。
「やむを得ぬ」
頼邑も抜いた。
頼邑の顔が引き締まり、双眸がひかっている。頼邑は左手にいる顎のとがった男へ切っ先を向けた。もうひとり、右手の小柄な男も視野に入れている。
ふたりの男は、脇差を前に突き出すように構えていた。剣術を修行した者の構えではないが、一撃必殺の気魄がある。ふたりはジリジリと間介をせばめてきた。獲物に迫る野犬のようである。
……初手は右手の男。
と頼邑は読んだ。
ウワッ!
ふいた、右手の男が喉のつまったような気合を発し、踏み込みざま青眼に構えた頼邑の刀身を弾こうと脇差を水平に払った。
と、右手の男が脇差を水平に構えたまま体ごと突っ込んできた。頼邑の脇腹を突くつもりだ。頼邑は体をひねりざま、その切っ先を揆ね上げた。
すばやい太刀捌きだった。頼邑は右手の男の斬撃を読んでいたのである。
キーン、という甲高い金属音がひびき、夜陰に青火が散った。
小柄な男の脇差が揆ね上がり、勢いあまって体が泳いだ。間切っ先が男の肩口をとらえた。
肩口から血の線が吹く。
ヒッ、と悲鳴を上げ、男は後じさりし、恐怖に顔をゆがめた。脇差が大きく揺れている。まだ脇差を手にしていたが構えられないのだ。顎のとがった男の顔にも驚愕と恐怖の色があった。
旅人の頼邑が、これほどの遣い手と思っても見なかったに違いない。
ふいに顔をゆがめ、手にした刀を足元に落とした。
「か、堪忍してくれ。命、命だけは」
ふたりは、声をふるわせて言った。
「なぜ、私を襲った」
頼邑が鋭い声で訊いた。
ふたりの男は答えず、恐怖に顔をゆがめたままだ。頼邑は納刀し、荷物から、行李から晒や貝殻につめた金創膏などを取り出した。
小柄な男は、怪訝な顔をしているが、かまわず頼邑は、小柄な男の着物を裂き、金創膏をたっぷり塗った油紙で傷口を押さえ、晒を幾重に巻いた。
「情けなどいらね……」
と、憎まれ口を叩いたが、抵抗することはなく、頼邑をじっと見ていた。
「しばらくすれば血もとまるだろう」
骨や筋に異常はないので傷口さえ塞がれば心配ないはずである。
「可笑しなやつだ」
そう言葉を洩らし、視線をおとした。
それにしても、どう訳あって頼邑を襲ったのか分からない。恨みを買うような覚えもないので、もう一度訊いてみた。
すると、顎のとがった男が、
「話せば長くなる」
と、小声で言った。
「話す前に我らの里へ案内しよう」
と、頼邑の背を向けた方向に眼を向けた。
その道は霧と闇に覆われていた。

月霧の里

第二章 覡

あちこちから、子供の泣き声、叱りつける女房の甲高い声、亭主の怒鳴り声などがやかましく聞こえていた。頼邑とふたりの男が路地木戸を通ってひときわ大きい家屋の戸口からバタバタと駆け寄る 複数の足音がした。
伊助(いすけ)ー」
と呼ぶ声がすると、わらわらと人が集まってきた。
「伊助、それどしたんだ?」
里の人は、伊助の姿を見て驚いたように眼を剥いて訊いた。
伊助は、言いづらいのか逡巡としている。まさか、襲った相手に助けられたとは、自尊心が崩れる。
「すまない、その傷は私がやったのだ」
「ちっ、ちげぇ。いや間違っていねぇ。でも、これには訳があるんだ」
伊助は、慌てた口調になる。
ふたりの会話に無精髭を生やした男が、頼邑の前に歩み寄り、突然、胸ぐらをつかんできた。顔が怒気で赫黒く染まっている。
「ん? よくここに来れたものだな! それとも 罰を受けに来たというか」
恫喝するように言った。
一瞬にして、場の空気が重くなり、女たち、特に子供がひどくおびえていた。慌てて、伊助は、無精髭の男の手を払った。
「やめろ、この方は、おれの傷を手当してくれた。それでいいだろう」
怪我を受けた本人に言われてしまっては、いくらか高ぶった気持ちが落ち着いた。それでも、どうも腑におちないのがあった。
「分からん。襲った相手をなぜ手当てをした?」
と眉間に皺を寄せ、咎めるような視線を投げつけた。
なぜ、襲った男が伊助を助けたのか皆目分からない、男にはこの旅人が戯れ言を言ったにしか思えなかった。そう思うと腹立しくなってきた。
「訳の分からぬことを。わしを愚弄しておるのか!」
無精髭の男の顔が油に火を注いだように憎怒にゆがんだ。
「やめぬか、治丘衛」
あのひときわ大きい家屋の戸口が、がらりと開き、中から老人がでてきた。面長で顎がとがって、頬が痩けている。一見、落武者みたいである。
治丘衛とは対称に武芸などには縁のない体つきだったが、頼邑にむけられた細い眼には能夷らしいものがあった。
「旅の方よ、無礼を赦せ。伊助が世話になったな」
そして、付け加えるように、
「客人をもてなしおやり」
そう言い残すと、自分は帰って行った。
「客人? この男が」
治丘衛は眼を丸くし、キョロキョロとした。
頼邑は、治丘衛に案内してもらうことになったのだが、治丘衛は、何かとぶつぶつと小言をしている。女、子供は珍しい客人の頼邑に好奇の眼で後ろ姿を見送っていたが、やがて、ひとりふたりとその後をついていった。

その日の夜、頼邑のために宴が開かれ、男たちはここぞとおいて美味の酒を持って宴が行われる場所へ、ぞろぞろ集まってくる。そこでは、男たちの笑い声が絶えない。その中に伊助の姿もある。怪我しているので伊助は、酒はひかえ、飯だけにした。肩口の傷のためである。
「さぁさぁ、頼邑どの。遠慮せずに飲んでくだせぇ」
そう言って頼邑のお猪口に酒をついだのは平八郎(へいはちろう)だ。
平八郎は、三十八歳。あの伊助と酒をくみかわすほどの仲なので手当してくれた頼邑に、
「伊助の命の恩人と一杯やりてぇ」
と言って、家から酒を持ってきたのだ。
平八郎は酒好きで、何かにかこつけては飲みたがるのである。
「にしても、伊助。とんだ阿呆だな」
「おれも聞いてあきれた。こんな話もあるんだな」
なぜ、伊助が怪我を負ったのか伊助自身が、事の成り行きを話した。襲った相手に助けられたことを聞いたものだから、おかしくて中には、ひっくり返るほど大笑いをしている者もいる。
「だってよ! 頼邑さまが、あやかしかと思ってよ」
伊助は、口をとがらせ、拗ねるように言った。
伊助は、最初は頼邑どの、と呼んでいたが、頼邑さまと呼ぶようになった。
「私が、あやかしに見えたのか」
予想もしない言葉に頼邑は驚きを隠せない。
「そりゃねぇだろう。頼邑どのが、あやかしなら伊助は貧乏神だな」
平八郎が、伊助の顔を覗きながら言った。
「その言葉は、そっくりお前に返してやろう 」
平八郎こそ、酒臭い息をし、だらしのない格好になっている。肩まで伸びた総髪が乱れてくしゃくしゃになっている。顎あごがしゃくれ、頬が肉を抉り取ったようにこけている般若のような顔が、貧乏神のようである。
「そいつはいいゃあ」
男たちは高々と笑い声を上げた。
「伊助どの、先の言葉の意味を教えてくれ」
笑いの中、頼邑の声に振り返った伊助は、思い詰めたような表情があった。
「それは、狐の化け物のせいだ」
平八郎が、しゃっくりをしながら言った。
「狐の化け物?」
すると、脇にいた伊助が、
「馬の丈ほどある、でけぇ狐でよ。尾がいくつも生えてるんだ。人里におりて来なかったのに、ここら最近現れるようになったんだ。悪さもしねぇから、気にもとめていなかったんだが、ついに人間を食い殺した」
と、言い添えた。
「食い殺したのは熊だが、狐が従えてるってんだ。それより、厄介なのが人間が俺たちを殺そうとしてる」
お猪口を手に持ちながら、
「その人間は、恐ろしい力を持っている。おぞましい力だ。巫女みてぇな力で、名は覡(かんなぎ)という」 頼邑の横に座った、吉之介が言った。
頼邑よりさほど、歳が変わらないように見えた。
「だから、伊助は見なれず、そなたを狐の類いだと勘違いしてしまったのだ。すまぬことをした」 伊助の代わりに吉之介が、詫びを入れてきたが、重い感情はなく、軽く聞こえた。
頼邑は、それには何も答えず、
「伊助どのは、川を渡る前からずっと私をつけておられたか」
と、伊助に言った。
すると伊助は、首をひねった。
「へ? おれがつけてきたのは、杉林のとこからですよ」
「本当か?」
てっきり、川を渡る前からつけられているとばかり思っていた。あのとき、確かに気配はあった。
「ま、そんな事はいちいち気にするもんじゃねぇ。ささっ、酒だ!酒だ!」
平八郎の言葉に男たちは、どんちゃん騒ぎを始めた。

おませな娘たち

腰高障子が、朝陽にかがやいていた。晴天のようである。陽射しの加減からみて朝餉頃であろうか。家々のあちこちから、子供の泣き声、女房の子供を叱る声、笑い声が聞こえてきた。いつもの騒々しい朝である。
伊助は、大きく伸びをして立ち上がると、皺だらけの着物をたたいて伸ばした。昨夜の宴のあと、面倒なのでそのまま眠ってしまったのだ。
「顔でも洗ってくるか」
伊助は手拭い腰にぶらさげ、小桶を手にして戸口から出ると井戸端へ向かった。
「おい、伊助」
井戸端の方へ歩きかけたところで、背後から声をかけられた。
振り返えると、平八郎が下駄を鳴らして近づいてくる。伊助と同じように手拭いを腰に下げ、手に桶をかかえている。やはり、顔を洗いに行くようだ。
「その寝ぼけ眼を見ると、昨夜はだいぶ飲んだな」
伊助は、平八郎の顔を覗きながら言った。
「いい男と共に飲む酒は進むものよ」
平八郎は、伊助と肩を並べて歩きながら言った。
「いい男ってのは、頼邑さまのことか」
「どっちもだ」
どっちもとは、自身のことだろう。こいつほど、図々しい男はいないと思った。
井戸端に行き、伊助と平八郎が顔を洗っていると、後ろからくる下駄の音がし、話し声が聞こえた。
里の娘、お花とみねという娘である。ふたりとも十五・十六で、ともかくよくしゃべる。
「お花ちゃん、知ってる。伊助さんのこと」
みねが、お花に身を寄せて訊いた。
「知ってるわよ。伊助さんが襲って返り討ちになって助けられて、旅人の方がここまで運んでくださったそうね」
お花が眼をひからせて言った。
「それにしても、まぬけな話よね。襲った相手に助けられるなんて」
「ねぇ、それでね。その旅人の方が男前でね。その顔を見た子が、のぼせ上がって何か話しても上の空らしいのよ」
「ほんと、そんなにいい男なの」
みねが足をとめて訊いた。
「私は、まだ見てないけど気品のある顔付きで優しい声と、時々見せる笑みがたまらないらしいのよ」
「えー」
みねが眼を丸くし、ビクンと背筋を伸ばした。
「うちの里の男とは、月のすっぽん」
「うちの里の男は、底辺の吐きだまりよ」
「そうね、比べることすらおかしいわ」
お花は今度は両手を握りしめ、体といっしょに上下に振っている。
「ねぇ、今も里にいるの?」
みねが訊いた。
「いるわよ。伊助さんの家の斜め向かいの空き部屋に」
「行ってみない。顔だけでも見たいの」
「いいわよ、いいわよ」
みねが早く水を汲まなきゃァ、と言って、井戸端にいた伊助と平八郎にやっと気付いたのか慌てて鶴瓶を手にした。

「な、なんだ。あのふたりは」
平八郎が毒気に当たったような顔して、井戸端からそそくさと去って行ったふたりの娘を見送っている。
「若い娘たちは、頼邑さまが気になるようだな」 伊助は苦笑いを浮かべながら言った。
「それにしても、おれたちなど、底辺の吐きだまりと言ったぞ」
平八郎が苦虫を噛み潰したような顔をした。伊助はその表情を見て、頼邑と比べられてしまったら何も言い返せないのではと思った。男から見ても頼邑はいい男で、剣の腕も見事なものは身を持って体験したので、本当にいい男だと思った。
「急に、仕事をする気が失せたな」
平八郎が自分の、部屋の方へ歩きながら言った。
「そう言うな。今日は曇ひとつない晴れだ。仕事もはかどろう」
そう言って、伊助が空を見上げた。
「空は晴れても、おれの気持ちは雨だ」
「おい、本気なのか」
平八郎が休むと伊助が困るのだ。伊助は右官を生業にしていた。右官とは、大工のことである。 里の家を建てるだけではむろん、食っていけず、今は銀山で銀を採掘することをしている。
この銀山は、不死の森とつながっており、銀を採掘にはその森に入らねばならない。
元々、古来から銀山は里のものであったが、この地を治める公方が権力を握るようになってきた。
「伊助、朝めしは」
平八郎が身を寄せて訊いた。
「まだ、だ」
「おれは、炊いたぞ。どうだ、握りめしでも食いながら指すのは」
平八郎が心底を覗くような目で伊助を見た。
どうやら、仕事は休んで将棋をやろうと言いたいらしい。
「いいな」
思わず、伊助が答えた。正直、怪我をしていたし、働く気を失せていた。
「よし、では、将棋盤と握りめしを持って、おぬしの部屋へ行く」
そう言い残し、平八郎は下駄を鳴らして足早に去って行った。
……握りめしにつられてしまった。
と、伊助は思ったが、悪い気はしなかった。

淡い恋心

治丘衛は、頼邑のいる部屋へ向かっていた。長老に様子を見てほしいと頼まれたからだ。表の腰高障子は開いたままだった。
覗くと、頼邑は座敷の隅に座っている。
「おい、入るぞ」
治丘衛が声をかけた。
頼邑は、すぐに立ち上がり障子の方を見た。
その顔に笑みが浮き、
「昨日はいろいろ世話になった」
と言って、障子の方へ出てきた。
「ふん、長老の許しがなければさっさと追い出したいがな」
治丘衛は、変わらず憎まれ口を叩いた。
そのとき、腰高障子のむこうで、複数の足音がした。ささやくような女の声やくぐもったような男の声が聞こえる。
足音は高腰障子のむこうでとまり、かすかな息の音だけが聞こえた。そのとき、障子が音を立てて揺れた。障子の破れ穴から、こっちを覗いている者がいる。
治丘衛は、障子をあけた。里の者たちが障子のむこうに折り重なるようにつっ立っていた。
いずれも女である。四十過ぎのおしげ、平八郎の隣に住むお静……。男の顔もあったのは、平八郎だ。
さきほど、井戸端で見かけたお花とみねもいる。どうやら、頼邑のことが気になって治丘衛の後をついてきたらしい。
「ええいっ、やかましいぞ!」
そう言って、治丘衛は手で女たちを払いのけるようにやった。
「やかましいのは、あんたの方だよ。いつまでも子供みたいにすねた態度とって見てらんないよ」
お静が脇から口を挟んだ。
お静の言葉に怪訝な顔をした。
「図体だけ大きくて、中身はちっさいってことだよ」
「な、なぁにぃ」
それでも、お静は治丘衛にふん、と鼻で笑った。すると、そばにいた女たちは大笑いした。
治兵衛(じへえ)は、ぐっぬぬ! と唸り声を出した。
「おい、きさま! 長居は許さぬからな」
治丘衛が声をつまらせて、頼邑に向かって罵声をあびると女たちをかきわけながら帰っていった。
その後ろ姿に女たちは舌を出して、べーっと言った。
すぐに振り返り、
「あの人の言うことなんか気にしないでおくれ。いつもあんなんでさぁ」
お静は、照れたような顔をして言った。
「私に非がある。あの者にも悪いことをしてしまった」
頼邑がそのようなことを言うのでお静は、
「あっはっはっは! 本当にいい男だねぇ、あんた」
と、声を上げた。
すると、みねがお花に身を寄せ、
「お花ちゃん、本当にいい男ね」
と耳元でささやいた。
お花が、うんと、嬉しそうにうなずく。
「頼邑さま、ちょっとお願げぇがありやして」
平八郎が揉み手をしながら言った。
「なにさ平八郎、仕事は行かないのか。だからいつまでも貰い手がいないんだよ」
と、お静があきれたようにため息をついた。
「今から行くんで! 貰い手がいないのはお互い様だろっ」
と、つまむように言った後、ふたたび頼邑に眼をむけ、
「その伊助が怪我をしているだろう……。最初は仕事休めと言ったんだが、ちっとも言うこと聞かなくてなぁ。だからと言って人手不足で困ってるんでさ」
と、機嫌良くいかにもわざとらしい言い方をした。
初めは、仕事を休むつもりだったが、懐が寂しかったので行くことにしたのである。
頼邑は、黙って聞いていたが、
「私で良ければ手伝いたい」
と言った。
「いやぁー、すまねぇな頼邑さま。まさか手伝ってくれるとは思ってもなかった」
平八郎が感嘆の声を上げた。
最初からそのつもりでいたくせに、と女たちは思った。平八郎は、朝めしをすましたら家に来るように言うと上機嫌で帰っていく。
「本当、あきれた男だわ」
お静は、そう言い残し部屋から離れ、歩き出した。
女たちも一緒についていくように行く。ただ、お花は用があると言ってみねを先に帰した。
……頼邑さまが、ひとりになる。
お花の手には、ふろしきでつつまれた浅蜊と葱の煮染の入った丼がある。昨夕、お花が夕餉の際に煮付けたものだが、頼邑に食べさせようと余分に作ったのだ。
お花は、頼邑がひとりになったときに煮染をとどけたかった。頼邑とふたりだけで話をしたかったのである。
自分でも不思議だった。まだ見たこともない男の人の噂話を聞いたときから、特別な感情があった。頼邑を見たとき、思った通りの人だったことがより、いっそうお花の胸に頼邑のそばにいたいと思いが衝き上げてくるのだ。
「わたし、お花です。あの、朝餉はおすみですか」
色白の豊頬を熟した桃のように染めて、もじもじして言った。
「いや、まだ」
初めてそばで聞く頼邑の声は、凜として聞こえた。
「あの、頼邑さまに食べてもらおうと思って……」
お花は、おずおずと手にしたふろしきを布を取り、丼を前に出した。
上気して、お花の豊頬が林檎のように赤く染まっている。
「よいのか」
「は、はい」
お花が答えると、頼邑はそれを受け取ろうとしたとき、お花の指に少し触れた。お花はいきなり心ノ臓でもつかまれたよう抑天し、顔が火のように赤くなった。
そんなお花の心情など知らぬ頼邑は、
「ありがとう」
と、やさしい顔で言った。
……頼邑さまが私に礼を言ってくださった。
と、思うと嬉しくてたまらない。
ふと、話がとぎれ、ふたりを静寂がつつんだ。お花は話を続けたいができない。頼邑は、元々無口な御方なのだとお花は思った。
お花は何を話していいか分からず、身を硬くしていると、胸の鼓動が体中から聞こえだした。
顔が熱くなり、手が震えている。
「お花さん、つかぬことを聞く」
頼邑が急に口を開いた。
「何ですか」
お花は、頼邑を見た。
「昨夜、覡という人の話を聞いたのだが、その者について知る限りのことを教えてくれ」
頼邑は、お花を見つめて言った。
その瞳は何か決意したような強いひかりが宿っていた。浮いた話ではないのでお花の胸の高鳴りが、いくぶん収まった。
「神ならぬ身でありながら、強い霊力を持っています。その力は、大地を操ると言われています。でも、人間を憎んでいて私たちを殺そうとしている」
お花は低い声で言った。
その眼には憎悪に近い炎が燃えていた。
「そうか」
頼邑の顔は、いつしか険しくなっていた。
「あっ……」
お花は、余計なことまで言ってしまったと後悔した。
頼邑と緊迫な話をしたいわけではない。それにもっと別の言い方をするべきだったかと頭の中でもんもんとしていると、
「話をしてくれて助かった。私は、もう行かねばならない」
と、軽く解釈すると部屋に入って行った。
お花は、さきほど頼邑に触れた指の場所に手をそいて、
……頼邑さまは何か思いつめていた。旅の訳も聞きたかった。
と、思い少し口をつぐむ。
斜向かいの腰高障子に淡い陽が当たっていた。 頼邑とは、自分とはちがう世界にすんでいる人のように思えた。

銀山

横→縦切替

伊助、平八郎、男たち、そして頼邑は銀山の坑内へ入って行った。
中は、暗闇なので、さざえ殻に胡麻油、綿灯心を入れて火を灯し、足元を照らす。伊助と平八郎は木綿の単衣袖なしに綿帯をしめ、木綿手ぬぐいを被り、松入という藁で作ったかますに道具類を入れて腰につけ、足羊あしなかを履いていた。頼邑は、道具と足羊を身につけただけである。
足場の悪い岩場を道具を持って歩くのは怪我を負っている伊助には辛い。
「伊助どの、持とう」
そう言って、頼邑は伊助の道具を取ると、変わらぬ速さで歩いていく。
「あんなに持ってるのに、若造、早ぇなぁ」
男たちは妙に感心していた。
ここの銀山での作業は、大きく分けて採鉱の製錬の二つがある。
採鉱は、間歩の採堀権を持つ、「山師」、下財の下で鉱石を掘る、鉱石を掘る「金堀」、「手子」と呼ばれる十二歳から十三歳くらいの子供、石を運び出す「柄山負」、支柱をつくる「留山師」などが働いている。
伊助たちは、下財の下である。
そして、掘り出した鉱石は製錬業者に売られ、専門の技術者によって製錬が行われた後、極印が押され「判銀」という形になる。
鉱石を掘る際、鉱脈にそって堀り進んでいくのだが、それには不死の森を通ることは避けられない。
「もう、ここが不死の森でやす」
平八郎が、ぼそっと言うと、
「ここが……。なら地上にはあの少女がいるかもしれないな」
頼邑はなぜか、少し笑みを浮かべている。 
「頼邑さま、勘弁してくだせぇ」
伊助が情けなく怯えたように言った。
男たちは上を見上げ、外に覡がいるかもと思うと気が気でない。だが、その一方で覡一人に怯えるものかと、姿を見せたときは返り討ちにしてくれると思った。
もはや、その自信はどこからくるのか自分たちにも分からない。
そして、いつも作業をしている場所に到着すると二人の男が待ち構えるようにいた。この二人は役人である。
「ここは他の者がやることになった。お前たちは、外での作業をしてもらう」
二人の男がそう言うので、呆気にとられた男たちだったが、
「ちょいと待ってくだせぇ。何も聞いてない。それに外での作業はおれたちがやるには技術が足りねぇ」
と、嫌悪の表情で言った。
「決まったことだ。ご託はせず、言われた通りにせよ!」
「外に出たらおっかねぇ。ここで何とか作業してえんです」
お願ぇやす、外だけは勘弁を、と衰願するような口調で言い添えたが、聞く耳もたず、皆を追い返そうと棒で押してきた。
男たちは、よろけた拍子に伊助はつまずいてしまった。肩先に疼痛があった。頼邑は、伊助をしっかり支え、二人の役人を見た。
「乱暴はよせ!」
役人から棒を取り上げ、険しい顔で言った。
「小僧、何の真似だ。我らに対しての無礼承知の上での行いか」
役人が、叱咤するような口調で言った。
「皆、外に行こう」
伊助を介抱しながら来た道を戻り始める。
「え? でもよ」
男たちの顔に驚きの表情が浮いた。
てっきり、頼邑が役人に歯向かうと思っていたので頼邑のあっけない行動に納得がいかなかった。男たちは、重苦しい空気の中、歩いていく。「頼邑さま、あれでよかったんですか」
伊助が聞いた。
「あの者たちに何を言っても聞く耳もないだろう。ここは、大人しく下がるべきだ」
頼邑が小声で言った。

不死の森


外に出ると、ひんやりとした大気が流れていた。辺りは森閑とし、樹林の中でほそい虫の音が聞こえてくるだけである。里の空気の密度とは明らかに違っていた。
……ここが不死の森。
行くことを止められてまで、入った森は頼邑にとって複雑な気持ちにさせた。
まだ、陽が高いのに森は光にさえぎられ、薄暗い。まるで、人の踏み入る場所ではない別世界である。
「早いとこ、用をすまして出やしょうよ」
顔が強張り、声が震えている。平八郎は顔の色を失っていた。
「そうだな、少女はここにはいないのか……」
「そんなこと口に出すもんじゃねぇよ」
平八郎は、驚きと戸惑いとが、ごちゃごちゃになったような顔をした。
「それより、これは何でやすかね」
伊助は、大袋に入っている石を取り出した。石の先には導火線がついている。
平八郎はそれをまじまじと見て、
「ただの石にしか見えんが」
と、首をひねった。
役人に導火線に火をつけ、森の中に投げろとしか指示されたこと以外、何も分からない。大袋の中には、同じものが大量に入っている。
「用は、火をつけりゃいいんだろ。簡単じゃねぇか」
男たちは伊助から大袋を取り上げ、全員に渡し始めた。
普段の肉体労働からしてみたら、ずっと楽な仕事だ。あれほど外に出るのを拒んでいた男たちの顔に余裕の笑みが浮かんだ。
男たちは、火をつけ始めると導火線がジリジリと燃えながら進む。焼け付く導火線は、やがて石の中までいくと煙は少しずつ広がり始め、辺りの葉まで届くと枯れ始めたのだ。
すると、男たちの様子がおかしくなっていった。
体が小刻みに震えながら、
「の、喉がっ」
と、苦しいのか手に喉を強くあてながら、もがき始めた。
あまりの苦痛で顔がゆがみ、爪が喉に食い込んでいる。喉からしたたれる真っ赤な血を見た他の男たちは恐怖で顔がひきっている。
「皆、ここから逃げろ。その煙を吸うな!」
頼邑は叫びざま、男たちに言った。
男たちは、一目散に逃げていった。しかし、伊助と平八郎は何が起きたのか分からず、その場に身を硬直させている。一瞬、目の前が真っ暗になり、ふたりは奈落の底に沈んでいくような気がした。
「伊助! 平八郎っ」
頼邑が、左手でふたりの肩をつかんだ。強い力である。ふたりの口に布をあて、
「早く、この場からはなれるぞっ」
頼邑が、ふたりの肩先を押した。なるべく、煙に当たらぬように逃げろと指示したのだ。
ふたりは、はじかれたように煙をよけ飛び出して走った。だが、頼邑は一緒には来ないことを見た伊助は、
「早く、頼邑さま」
と、悲鳴のような声を上げた。
「先に行け! 私は、この者と行く」
と、言い置いて、苦しむ男を介抱しているのを見たのが最後になった。

生の問い

第三章 名を捧げる

頼邑は介抱している男と共に森を抜けようとしていたが、足が覚束ない。もうすでに煙を大量に吸って、喉に違和感を覚えていた。
……無事にふたりは抜け出せたろうか。
さっきの正体は、殺生石というものだった。人が煙を吸えば、たちまち喉が焼けてしまうほどの毒煙である。
森を枯らすために里の人を利用したことに頼邑の胸に激しい憎悪の炎が燃え上がった。
そのとき、介抱していた男の首がガクッと後ろに反り返り、体がぐったりとなっている。
そして、頼邑の肩から男の手が、だらりと落ちた。
頼邑は、すぐに男を横たえたが、もうすでに遅かった。
頼邑の脳裏に目の前で死んだあのときの女を思い出した。また、目の前で救えなかった命と対峙してしまったことに身を震わせた。
ー 人は みな 死ぬー
……名も知らぬ者も、大切な者も。
ー みな等しく死ぬー
ー例外はない ー
ー 誰もが それを 知りながらー
ー 眼を逸らして日々を生きているー
頼邑の胸に答えることができない問いが生まれる。
せめて、この男の亡骸を里に連れて帰してやりたいと思い、男を背負うとしたとき、ふいに足の力が抜けたように、その場に倒れてしまった。
なぜ、倒れたのか分からなかったが、頼邑の顔は土気色をして顔に脂汗が浮いていた。喉も焼けるように熱い。しだいに意識も朦朧としてきた。 怒りでここまで症状が悪化していることに全く気付かなかった。身を起こし、何とか歩き始めたが、その足取りは重く、どこを歩いているのか分からない。薄暗らい森の中、木々の黒い輪郭を浮かび上がらせていた。意識が薄れる中、何とか、まだ識別できる。
そのとき、頼邑が歩いてきた周辺からふいごが荒々しく作動しているような音が聞こえてくる。 それは巨大な生物の呼吸音にちがいなかった。荒い息が頼邑の口からもれ、額から頬へと流れる汗がひかっている。傾斜の三十メートルほど上方に太い幹の傍に枯草の集落のようなものが見え、それがかすかに動いていた。頼邑は、うつろな目でそれを疑と見ていたが、脇刀を添えると茶褐色のものが動きをとめると、急に盛り上がった。うるみをおびた小さな眼が、焦点の定まらぬように光って見えた。
頼邑は、その巨大さに眼をみはった。それは馬体よりもはるかに大きく逞しい体をした熊。
その茶色いものは一瞬硬直したように動かなくなったが、その毛が膨れ上がると、突然、地面を蹴散らしながら不気味な地響きと共に駆け下がってきた。
頼邑は瞬時に刀を投げ、熊に傷を負わせたが、熊はもろともせず、頼邑の左大腿部を鋭い爪がえぐりとった。
痛みのあまり足の感覚を失った後、山林の傾斜を反転しながら頼邑は落ちていく。頼邑に転がっていくときの痛みは虚しくも感じることはなかった。

里の怒り

川面に提灯の明かりがおちていた。漁船の先につけた提灯である。
その明かりが笑うように揺れて、ひかりの襞のように八方にひろがっていく。風のない静かな夜だが、船が揺れるたびに川面に映った明かりがくずれ、波紋とともにひろがっていくのである。
仕事を終えた漁師が、網を片付けをしていると大きな声が静寂を破った。向こうの岸から顔を真っ赤にした伊助と平八郎がおどるようにやって来た。その後ろからも男たちがいる。
「て、大変だっ」
平八郎は、ハァハァと荒い息を吐きながら言った。
「どうした。平八郎、それに皆まで」
漁師が、驚いたような顔を向けた。
「よ、頼邑さまが、早く助けねぇと」
「何があった」
「役人どもに謀られて危うく殺されかけた。おれたちは辛うじて逃げてきたが、まだ頼邑さまが不死の森にいる」
「な、何だって」
漁師の顔が強張っていたが、ただならぬ状況を察知した。
片付けばいい、と声を上げ、手にした網をほうり投げると走り出した。伊助たちが後を追いかけていく。
その頃、お静は明日の商いの支度をしていた。 お静は、二十歳を過ぎた年増である。二十歳を過ぎても独り身ではあったが、女の細腕で商売は繁盛だ。
そのとき、お静は通りのむこうから足早にやって来る漁師の姿を目にとめた。
だが、様子がおかしい。
普段なら、両脇に抱えた魚を左右にふりながら大儀そうに歩いて来るのだが、目を剥きながら走りにやって来るのだ。お静は漁師の後ろから続いてくる伊助、平八郎に気付いた。お静は、路上に出て漁師の方に走り寄った。漁師は顔を真っ赤にして、あえぎながらやって来る。
顔には大粒の汗がひかっていた。
「なんだい、みんなにして」
お静が驚いたような顔をむけた。
「頼邑さまが不死の森に取り残されている」
伊助は、お静に事の詳細を話すと里の者がいつの間にか集まってきた。その中にお花とみねの姿もある。
「それであんたは、のこのこ帰ってきやがったのか」
お静は、口をへの字に引き結んで拳を握った。
「仕方なかろう。おれたちに何ができるってんだ」
平八郎が脇から口を挟んだ。
「できないならできないなりにやるのが男だろっ」
お静は、咎めるような厳しい目つきで平八郎を見たあと、その視線を伊助へと向ける。
「頼邑さまに助けてもらった恩を仇で返しやがって、この馬鹿たれ」
そう言って、伊助の鼻下の髭を引っ張った。
ギャッ、という伊助の叫び声に治丘衛が、
「何事だ」
と、お静を囲んでいる輪に入って食い入るように痛がる伊助を見ていた。
「説明はあと。あたしは長老に話してくる。あんたはすぐに男たちをかき集めてきな」
お静は、叱咤するような声を出した。
治丘衛はうずらの卵のように目を剥いていたが、
「おい、伊助たち男たちを集めろ」
と、口をへの字に引き結んで言うと、へ、へい、と伊助たちは協力して里の男連中を呼び集め始める。
すぐに、長老の部屋には里の男たち、治丘衛、伊助、平八郎が顔をそろえていた。隣の部屋の座敷のなかほどに延べられた夜具の上に数人の男が呻き声を上げながら横たわり、そのまわりに女房や女が集まっている。狭い座敷には入りきれず、上がり框に腰を下ろしている者や土間に立って座敷を覗いている者もいた。
「先生は、薬を飲めばよくなるって言ってたからね」
枕元で、女房たちが涙声で言った。
その脇にお静が神妙な顔で座っている。
伊助たちと逃げてきた男たちの中に容態が悪化きた者が出始めたのだ。だが、幸いにも喉には異常はなく、熱があるだけだったので町医者の診断は、このまま熱が引けば助かる、とのことだった。
ときどき、男たちはうす目をあけて、まわりに座っている者に目をやると、役人どもめ、おれたちをなめやがって、とか頼邑さまを見捨ててすまねぇ、などとうわ言のようにしゃべった。
「すまねぇと思うなら、とっとと治しな。よくなったら、おまえたちにも手伝ってもらうよ」
お静がそう言うと、男たちは安堵したように目をとじた。
いっときすると、男たちの口から寝息が聞こえ、額に浮いた汗が行灯を映してひかっている。お静は、長老がいる部屋に入った。
「お静、皆の具合は」
長老が顔を上げて訊いた。
「先生の診断は、命の心配はないようです」
お静は、男たちはぐっすり寝ております、と言い添えた。
「そうか…。それで命じたのは役人なのか」
「へい、そいつらは役人っても下で働く奴らでやした」
伊助は、長老に事の成り行きを話した。
「奴ら、きっと上の者に命じられたものをおれたちに押し付けてきやがったんですよ。里の男がひとり二人消えても騒ぎにならねぇから」
「舐めた真似しやがって。あいつらがここに暮らせるのだっておれたちの里があってこそじゃねぇか」
「皆よ、すまぬ。わしの力量が足らずに劣るばかりで、この様だ……」
長老は頭を垂れ、申し訳なさそうに小声で言った。
「長老のせいではありませんぞ。どうかお顔を上げて下さりませ」
「そうですぞ。ここから我らが力を合わせればよいのです」
男たちはそう言うと、よくやく長老は顔を上げた。
「少し、奴らをみくびっていたようだな」
そう言って、長老はけわしい顔で虚空を見つめた。
刺すようなひかりが宿っていた。見る者を諫せるような凄みがある。これが月霧の里を代々と守り生きてきた長老のもうひとつの顔であった。


全身が火のように熱かった。まるで太鼓でも叩いているように体中で叫び声を上げている。
その痛みに頼邑は意識を取り戻した。
どのくらい時がたったのか分からない。頼邑は必死に身を起こそうとしたが、体が鉛のように重く、起き上がることができない。
熊にやられた傷口を手で確認すると肉が深くえぐりとられていることにようやく気付いた。 出血が激しく、着物が赤く染まっている。

稲穂の金の色をした髪が風を運ぶ。
「風の匂いが変わった」
森の木々を軽々と飛び越える貫頭衣を身にまとう少女の姿がある。少女は、森の中に消えた。


太陽が木々の葉の間からまぶしく降り注ぐ。そのひかりは、頼邑の顔を照らす。
そっと瞼を開けると、うっすらとその景色が見えた。頼邑は、ぼんやりとした意識の中で蠢くような黒い影が見えた。その影は囲むように様子を見ている。それは熊であった。
木々の枝葉が大きく揺れる音に熊は視線を上げた。その熊は頼邑を襲ったものより小さかった。 そこに九本の尾をもった大きな狐が現れる。青白い毛をし、神秘的であった。
「玉藻か」
熊が、九尾の玉藻に近づいた。
狐は、熊に気をとめることなく、悠然と進んでいく。迎え入れるかのように熊たちは道を開けた。その後ろには侍従のようにピタリと寄り添う二匹の九尾が勇状にそびえている。
「愚かな人間め。この地を去れば助かったものを」
と、玉藻は低い声で言った。
「食い殺すか」
つづけて、二匹の九尾が言うと、よこせ人間よこせ、と言い始める。
頼邑は、熊の言葉を遠くから聞こえている感じがした。
そのとき、熊たちがハッとしたように頼邑から視線を外すと一歩下がっていく。
ヒタヒタと足音が横たわる頼邑の前でとまった。頼邑は首をまわすと、そこに立っていたのは少女だった。
歳の頃は、十五・六のように見える。整った綺麗な顔立ちをしていた。だが、少女の髪と眼は金色をしていた。
……こんな山中に美しい女。
その瞳は、獣のような形をしていたが、息をのむほど美しかった。
「おまえ、なぜこの地に来た。行き倒れなら余所で死ね」
刺すような声で言った。
ウッ、喉のつまったような呻き声を洩らして頼邑は声を出そうとしたが、焼けるような痛みで話すことはできない。必死に何かを言おうとしている頼邑を見て、
「人間にやられたな。つまらぬ同士の種をここへもってくるとは」
そう言って、玉藻の方に顔をむけた。
「おまえたち、この人間は嫌なものを持ってきた」
と、強い口調で言った。
「この人間は嫌な匂いがする。殺すか追い出すか早くした方がいい……」
玉藻の言葉に少女が無言でうなずいた。
「みな、もうお行き。この人間はどの道助からない。土に帰るだけだ」
そう言って、横たわっている頼邑を一瞥すると、少女は、熊を連れて森の奥に去っていった。 と、
少女は、熊を連れて森の奥に去っていった。
ただ、ひとり残された頼邑は里の者から聞いた覡のことを思い出していた。頭の中でさっきの少女と覡が重なる。
……あの少女が覡ではないか。
と、頼邑は思った。
その少女の存在が、闇の中の清澄な月明かりのように頼邑の胸に淡いひかりを投げかけていた。
……もう一度、会わねば 。
頼邑は、何度も胸の内でつぶやいた。

偽りの慈悲

横→縦切替
夜気が青く澄んで少女を照らしている。
少女は玉藻に頼邑を任せてひとり、森の中を歩いていた。しおれている花を目にしたので、手をかざすと花に命が吹き込まれたかのように開花していく。
しばらく歩いていると池が見えたので少女は、立ち止まり貫頭衣を脱いだ。首筋や胸元の白い肌が月光ではっきりと浮かび上がる。胸のふくらみや腰のくびれが少女というより、女といった方がいい色香が漂う。
ゆっくりと浸かると、より水が澄んでいく。森の中に青白い月光が射し込んでいる。少女は、水面に伸びた淡い青磁色の月明かりに目を落とした。



玉藻も呻き声を漏らし、額に汗を浮かばせる頼邑に眼を落としている。
いっときは、静かに寝ていた頼邑が呻き声を上げ始めたのだ。痛みで体が、握りしめた小魚のように震えていた。
……やれやれ、真に人間とは、弱き生き物よ。
玉藻がため息をついたとき、少女が戻ってきた。玉藻のそばに来たとき、うなされている頼邑を見て怪訝な顔をした。
「おまえ、何をした」
と、目をつり上げ、威嚇するように言った。
「知らん。勝手に苦し始めたんだ」
「本当か……」
少女は、すぐに疑いを解いたようだ。
この人間をこのまま見捨てておくにはいかなかった。放っておいたら、息耐える前に、獣に食い殺されかねない。
頼邑は蒼ざめた顔で身を震わせている。
「連れて行こう」
少女は、頼邑の肩に腕をまわし、身を起こそうとしたが、重みで少女の膝がかたむいてしまった。脱力した男の人間を運ぶなど無理である。
少女は背後にいる玉藻を振り返った。玉藻は少女が何を言いたいのか分かっているので、むくりと立ち上がり、背を向ける。少女は、頼邑を玉藻にのせて、住み家へと向かって行った。

それぞれの想い

屋根に朝陽が射し、子供の泣き声、女の甲高い声などが聞こえていた。里の一日が動き出したのである。
井戸端に、肌脱ぎで伊助がひとり立っていた。 朝の喧騒につつまれていたが、いつも井戸端に集まっている女房連中の姿はなかった。
伊助の肩には晒が巻いてあった。頼邑を襲ったときに手傷を負ったものだ。
その手には刀が握られている。伊助は、手の具合を確かめるように、ゆっくりと素振りを始めた。傷を負ってから五日経っていた。
……抜いてみるか。
伊助は、釣瓶で水を汲み、手ぬぐいで体の汗をぬぐってから着物の袖を通して、刀を腰に差した。
鯉口を切ると、腰に沈め、気魄を込めて抜刀した。
シャッ、という鞘走る音とともに刀身が朝陽を反射て閃光を放った。
……抜ける。
ほっとして、伊助が刀身を鞘に納めたとき、背後で下駄の音がした。
「もう大丈夫そうだな」
平八郎だった。
寝間着は着替えていたが、単衣を三尺帯で縛っただけのだらしない格好だった。帯には手ぬぐいをぶら下げていた。
顔を洗いに来たようである。
「このとおり、しゃっきりしている」
伊助は両腕をふって見せた。
「それなら、仕掛けてもいいな」
そう言うと、平八郎は釣瓶の水を近くにあった平桶に汲んで顔を洗った。
あの騒動のあと、長老は銀の掘採作業に関わる里の者を撤退させた。さらに、この地を拠点としている地侍に対して、追い返したのである。里の者で力を合わせれば簡単なことだった。
いつまでも役人や地侍の思いのままにさせておくにはいかなかった。
「戦になるかもしれんな」
平八郎が訊いた。
「長老は無論、そのつもりだ」
伊助は、強い語気で言った。
「だが、頼邑さまが先だというのに、長老は少し薄情じゃねぇか」
「いや、そうとは限らぬな」
横目で平八郎を見た。
「どういう意味だ」
「長老がおれたちに頼邑さまを探すように頼まれた」
「というと……」
「不死の森に行く」
伊助はそう言って、濡れた顔を手ぬぐいでぬぐった。
「分かった」
平八郎は、獲物をみつけた野犬のような目をしてついてきた。
「それとお花にも頼まれたのだ」
そう言うと、伊助は井戸端を離れ、平八郎の部屋の方に足を運んだ。
「そうだったのか。まぁ、ここのところお花のやつ、頼邑様の部屋によくいたからなぁ」
平八郎は、そのことをお静から聞いていた。
最初は、お花は女の恋ではなく、少女の憧れであり、夢見るような淡い恋心なのだと思っていた。
……お花は、頼邑さまを慕っていたのか。
伊助は察した。
お花の胸の内には、里の女が抱いているような憧れるような気持ちとは違う強い思慕の念があるかもしれない。
「お花、辛れぇたろうなぁ……」
平八郎が、ため息をついて言った

お花の恋

お花は、土間の隅の流しの前に立っていた。洗い物でもしているらしく水の使う音がする。
「お花、また掃除してるの?」
戸口からお静が声をかけた。
「お静さん」
お静の後ろにはみねもいた。
みねは川沿いにある茶屋で手伝いを行っているが、今日は休みである。
「お花ちゃん、これでいい?」
みねは、手に風呂敷包みをお花に渡した。中には頼邑の茶器などが入っている。
お花は毎日、頼邑の部屋を掃除していた。
「ありがとう」
お花の顔には笑みはなかった。
思い詰めたような顔をしてうつむいている。みねは何と言ってなぐさめていいのか分からなかった。
「お花」
お静が声をかけた。
「頼邑さまは、きっと戻ってくる。強いお方なんだもの」
「…………」
お花は、うつむいたまま凝としていた。体が震え、肩先が息とともに上下している。
「伊助たちも手伝ってくれるから。ああいう馬鹿でもいざとなったらやるから。信じて待ちな」
お静は、笑みを浮かべた顔をお花にむけた。
すると、お花はしぼりだすような声で、
「わ、わたし…、頼邑さまに聞かれたんです」
覡の話をしたときの様子を話し出した。
「わたしがあんなこと言わなければ、頼邑さまは不死の森に行かなかった。わたしのせいなの」
お花は衝き上げてきた感情を押さえるように小声で言った。
「うん、たとえそうであっても頼邑さまは自分で決めて行った。お花のせいでも頼邑さまのせいでもない」
お静は、首を横に振った。
お花の眼から涙が溢れて頬をつたった。お花はうつむいて、涙を指先でぬぐっている。その仕草はまだ少女のようであった。

消えぬ心の闇

少女は、
『死んでくれてありがたい』
という言葉を思い出していた。
記憶の闇の中にその言葉がはっきりと聞こえてくる。騒然とした蠢くような黒い人影が、その声の主なのだろうか。それは分からない。
少女の脳裏に稲妻のようなひかりが疾り、ふいに記憶の闇が晴れた。
いつの間にか遠ざかっていた月明かりが膝先まで伸びている。ここにいてから、だいぶときが過ぎたらしい。
夜は深々と更けていき、闇と静寂が少女の身をおしつつんでいる。ふと、少女は看病をした男を思い浮かんだ。
……まだ、あの人間は起きれないのか。
と、つい口に洩らした。
「いや、もう大丈夫だ」
突然、横から声がしたので少女は、ギョッとしたように身をかたくして振り返ったが、頼邑であることに気付くと、ほっとしたように、もう平気なのか、と訊いた。
「そなたのおかげだ。ありがとう」
そう言った頼邑の顔は生気を取り戻していた。
「そうか」
そう言って少女は笑みをした。
頼邑は初めて少女の優しい笑みを見たのである。
「そなたが覡なのか」
頼邑の心にずっと気になっていたので、そのことを確かめようと言った。
一瞬にして少女の表情が一変した。
「その名を呼ぶな。汚らわしき人間につけた名などいらぬ」
と、強い口調で言った。
わすがばかり、憎悪がまじっている。
「では、そなたの名は?」
頼邑は、そう質すと、少女の顔が困惑したようにゆがんた。
「私に名はない」
と、答えた。
…………!
頼邑は我が耳を疑った。
名がないという。嘘を言っているとは思えなかった。頼邑は、皆から何と呼ばれているか訊いた。
「ない」
少女の声に苛立った響きが加わった。
頼邑の執拗な問いに辟易したようだ。これ以上、訊くことは、あまり良くないと思い、別の話をした。というのも、少女の方から頼邑の生まれや、旅の訳などを聞いてきたからだ。
旅の訳には関心はもたず、アオには興味があるらしく、その話をしているとき、いつの間に少女の顔は穏やかになっていた。

足元の短い影が頼邑をついてくる。少女と話を終えたあと、少し風にあたると言って辺りを歩いていた。
前方に老樹があり、その根本に影があった。
樹陰で闇が濃いためはっきりしなかったが、人ではないのはたしかである。
頼邑が近づくと、その影が前へと出てきた。
青白いひかりを放つ、神秘的な雰囲気をまとった巨大な狐の玉藻であった。
「おまえ、何のつもりだ」
玉藻が、頼邑の行く手をはばむように前に立って言った。
「その眼、気に入らぬ。人間らしく命乞いしろ」 玉藻は、揶揄するように声をあげた。
玉藻が放つ痺れるような殺気をだしているのにもかかわらず、頼邑は、表情を崩さない。玉藻の顔に驚いたような表情があった。
突然、巨大な獣が闇の中で現れれば人間なら臆するに違いないと思っていたからだ。だが、妙に落ちついてるのだ。
玉藻は、苛立ちを隠し、
「若僧、この森から無事に我らが帰すと思っているのか」
揶揄するように言った。
所詮、ただの小僧っ子と見て侮った。
「この森に来たのは私自身。意思に従い、ここを発つ」
静かな物言いであったが、強い気迫をはなっている。
ふたりは、塑像のように動かなく、痺れるような緊張と時がとまったような静寂がふたりをつつんでいる。
「ふん、許しを乞えばよいものを」
玉藻が低い声で言った。
「玉藻、あの子に名がないわけでもあるのか」
「おまえには関わりのないことだ」
玉藻が言うと、頼邑は鋭い眼光のまま言った。
「ある。あの子は私を救ってくれた」
一歩も引かぬ頼邑にじれったいと思ったのか、その訳を話を始めた。
今から十五年ほど前、金の髪と眼をする異形な赤子が産まれたことに人々は天災の前触れだと悟った。
そして、神の怒りに触れる前に、少女を山の神へ捧げたという。
その赤子こそ少女である。
赤子を憐れんだ神は、命を救った。それが、三狐神だった。三狐神は、狐の大神で玉藻の母である。数年前に命を遂げたとのことだった。
「名を呼びたければお前が名付ければいい。お前には心を許しているようだからな」
そう言い残し、闇の中へ吸い込まれるように消えて行った。
頼邑は、きびすを返して、少女のいる方へ歩き出した。

名を授ける

人間を憎みながらで闇の中のでも、安らかで温かく……。
でも太陽より静かで青い月。
日の光より優しく、闇にあっても温かさを失わないひかり。
少女の背後に金色の美しい光を放った月が少女をつつんでいる。
……ひかりを失わないでほしい。世を照らす光。
「名がなくては呼べない。玉藻がそなたの名を授けてよいと言ったのだが、よいか?」
頼邑は、穏やかな声で聞いてみた。
少女は、好きにしろ、と言ったっきり何も口にしなかった。
ー光ー
「そなたの名は光。どうだろう」
少女は、頼邑の顔を見つめていたが、やがて静かにうなずいた。
光の心に光という自分の名がひびいた。初めての自分の名前を命を助けた人間がくれた。

伝説の香炉

第四章 伝説の香炉

月霧の里から離れた山間に城がある。この城主は、この地を治めていた。
その城主である大殿は、反発してきた里の者に対して睨みを利かせていたが、銀の採取するために必要な人材を失うわけにはいかなかった。
里の者と小競り合いをしていると、嗅ぎつけた各小国が攻めてくる恐れもある。
何か絶対的な力を取り入れるため、この地に伝わる何でも願いを聞き入れる香炉を探し求めていたのだ。
そこで地侍を使って、香炉の在り方を探っていたのだが、その地侍にも頭を悩ませることになったのだ。
「殿、殿にお目通りを願いたい地侍が外におります」
家来の言葉に大殿は、ゆっくりと立ち上がり、表に出ると満面に笑みを浮かべた地侍が今にも何か言いたげな表情していた。地侍の手には、かなり古い木箱があり、それを前に差し出した。
「それは何だ」
大殿が首をひねりながら言った。
「こちらは、殿がお探しになっていった香炉にございます」
「開けてみよ」
そう言われ、地侍は木箱から取り出した香炉を見せた。
家来は地侍から受け取った香炉を大殿に見せると、大殿は手に取ることもなく、しばらく見つめていた。
「 こやつを今すぐ叩き出せ」
と、低い凄みのある声で言った。
地侍は凍りついたように身を硬くし、顔が驚愕にゆがんでいた。
「地侍の身で、わしを欺かせるつもりだったのか!」
大殿は目をつり上げ、開いた口からは牙のような歯をのどかせていた。
まさに夜叉のような形相である。
「本物の香炉にはある言葉が記されている。だが、この香炉には何も記されていないおろか、この香炉は、先達て公方様から頂いたのと同じものがわしの部屋にもある」
その言葉に地侍が目を剥いて、あわてて逃げ去って行った。
これが大殿が悩みを抱えてるものだ。近頃、褒美を貰いたい地侍が先ほどのようにやって来るのである。
大殿は、ため息をつくと部屋へと戻っていった。
誰もいない部屋で、香炉に記されている言葉をつぶやき始めた。
「過ちから生まれた者、自ら香を焚き、香を焚いたものは光となる」

治兵衛と伊助たち

「それがあれば、大殿の力を崩すことができるのですか」
そう言ったのは、肌の浅黒い剽悍そうな若者である。
里で、研師の洋次という。
治丘衛にいつもくっついている。
洋次は刀槍を研ぐ名のある研屋に弟子入り修行していたのだが、師匠と喧嘩をして飛び出してきた。
今は、町家などをまわり、包丁、鋏、のこぎりの目立ちなどをして暮らしていた。二十三歳になるが、まだ独り者である。お世辞にも、端整な若者とは言えなかった。
「そうだ。その香炉をこちらが手にすれば大殿、いや小国からの制圧からも逃れることができるだろう」
治丘衛の眼は、ひかりを放っているように見えた。

月霧の里にある酒楽という飲み屋があった。細い路地にある縄暖簾を出した小体な店である。
主の名は、末吉。
五十半ばの小柄な男でお峰という通い婆さんとふたりだけでやっていた。肴は煮しめがあればいい方で、漬物くらいしかない日もあった。
それでも、酒は好きなだけ飲めるし、何より安価なのがいい。
伊助たちは、この店を贔屓にしていた。もっとも、ふたりが銭の心配をせずに飲める店は、近隣に酒楽ぐらいしかなかったのである。
伊助は、ひとりで飯台の空樽に腰を落として、チビチビとやっていた。
呼び出した平八郎が、まだ姿を見せていなかった。本人が来る前に、できあがってしまうわけにはいかなかったのである。
「平八郎のやつ、呼び出しときやがって待たせるとは」
伊助が舌打ちした。
それから小半刻(三十分)ほどして、やっと平八郎が姿を見せた。
「すまねぇ、遅れちまった。 ……お静がよ、中風には酒がよくねぇって言って引きとめやがってもんで、なかなか出られなかったのよ」
平八郎は照れたように笑った。
「なんでぇ、お静にとめられんだ。夫婦でもねぇってのに」
伊助が言った。
「お静の余計な世話好きだろ。へっへへ……。それじゃァ、飲むか」
平八郎はだらしないほど相好をくずし、杯を差し出し、目を細めてうまそうに飲み干した。
そのとき、板場の方から末吉が出てきた。相変わらず、むっつりしている口数の少ない男で、世辞などは口にせず、めったに表情を変えなかった。
「そろいなすったか。ごぼうの煮しめだよ」
末吉は無愛想な声でそう言って、ふたりの前に小鉢を置いた。なかに、たっぷりごぼうと油揚げの煮しめが入っていた。
それだけ言うと、末吉は注文も訊かずに、奥へ引っ込んでしまった。他に客はなく、勝手にやってくれ、ということらしい。
しばらく、酒を汲みかわし、ふたりの顔が赤らんできたところで、
「ところで、明日のことなんだが」
と、伊助が切り出した。
「分かってるよ、頼邑さまのことだろう。明日出よう」
平八郎は、杯を手にしたまま伊助の方に顔をむけた。
「ああ、それと長老が例の香炉を探していることは知っているか」
「いや、初耳だな」
「呼んだのはそのことだ」
「なに、まさか、それもおれたちに探せっていう話なんじゃねぇだろうな」
伊助の驚く口調に平八郎は軽くうなずいた。
「そいつは駄目だよ。頼邑さまだから不死の森に行くけど、香炉のために命をおとしたくはねぇ」
「何を言ってる。どうせ、不死の森に入るんだ。それに香炉を見つけることができたから大殿の制圧からも逃れることができるんだぞ」
平八郎がそう言うと、伊助が身を乗り出し、
「おまえ、不死の森に香炉があるっていう前提な言い方をしているが、必ずそこにあるのか」
と、冷めたような口調で言った。
「……。あるんじゃねぇか」
平八郎が口元をゆるめ、目を泳がせている。
「そう言わずに。手柄を立てれば俺たちは、こうやって安い酒を飲まずにすむ。いや、大殿より良い暮らしができるかもしれねぇ。おれには、お前が頼りなんだ。力を貸してくれよ」
平八郎が銚子を差しだしながら言いつのると、
「欲には分からねぇが、それじゃァやってみるかな」
と、初めからその気だったが、一応遠慮してみせたのである。
「頼むぞ。よし、今夜は前祝いだ。おおいに飲み明かそうじゃねぇか」
平八郎は板場に声をかけて末吉に酒の追加を頼んだ。


その夜、伊助が家に戻ったのは四ッ(午後十時)過ぎだった。腰高障子をあけたまま出たので、上がり框のあたりまで月光が差し込んでいたが、中は濃い闇につつまれていた。
伊助は流しのそばの水甕の水を柄杓で汲んで飲むと、そのままの格好で座敷に横になった。
……平八郎には、ああ言ったが、先に何としてでも、頼邑さまを見つけねば。
自分を二度も助けてくれたのに逃げて帰ってしまったことをひどく後悔の念が伊助を苦しめていたのだった。
……頼邑さま。 今頃どこで何をしているのだろうか。
伊助は、そっと静かに思った。

開き始めた心

早朝、頼邑は光に連れられ歩いていると白い霧に覆われた不死の森は、まだ白乳色の霧の中である。
光と一緒に暗がり木々を抜けると、そこは深緑をした木々があり、辺りは苔むすがびっしりと生えていた。
透き通る大きな布が空から地上へひらひら伸びてくるというような日差しが神秘的である。
暗い風景に、ようやく淡い色が差し、樹林の陰から鮮やかな緑をした葉が姿を見せ、森に朝がやってきた。
水面には、芽吹きにはまだ早い木々と空と雲が映り出され、水中の藻が早い流れに揺れている。 柔らかな風が頼邑の背をおした。振り返ると、光は手の平を口に近付け、そっと息を吹いた。手の平から紙吹雪が、ひらひらと舞い散っていく。すると、まばたきを忘れるほど芽があっという間に成長していく。
新緑が風にあおられ、まるで頼邑は森に包まれている気分だった。
「美しい……」
頼邑は、思わずこぼした。
光は、根太い木に登ると、何も言わずに手を差しのべてきた。
頼邑は、そっと笑った。しっかりと光の手を握ると、体がふわっと宙に浮いた感覚がしたと思ったら、あっ、という光の声がし、もつれたような足音と共に地面に尻餅をつくような音が響いた。 ふたりの頭上から、ハラハラと葉が落ちた。一瞬、顔をこわばらせたが、尻餅をつくのは痛いんだな、と光が言ったので、ふっと息を吐くような笑をしたので光も笑い、ふたりは声を上げて笑った。

「乗れ!」
頼邑は、玉藻を見て躊躇していると、
「平気、乗れって」
と言って、光の手が真っ直ぐにのびて、グイッと引っぱかられた。頼邑は引き寄せられ、そっと光の背中にぶつかった。
頼邑は眼を下ろすと、青白い毛は風に揺れ、とても柔らかな触り心地だった。
玉藻は、風をきって舞い上がった。木々の間をよけながら、高く高くとんでいく。
玉藻は、森に映された緑色の水面をすべるように進んでいく。森に奥に進むにつれ、岩や木が一面に苔に覆われ、霧がたかっているのが見えくる。
苔から伸びる胞子体にたまった雨の雫が生命を感じさせる。生い茂った森は陽のひかりが届かず、薄暗い。
ひんやりとした空間で、木の幹が濡れると木々の葉や苔の青さが引き立っている。
頼邑が、その景色に見入っていると辺りの小さな芽が力強く伸び始めた。光が、手をかざすと命を吹きこまれた芽は、森とひとつになっていった。
すると、小鳥が挨拶をするかのように光の周りにとんできた。光は微笑み、水面から雫を出すと、小鳥たちは遊び始めた。
その様子を見送るかのように後にした。
小川が見えたのでふたりは降り立ち、頼邑は靴を脱いで、足を流れの中に入れた。
水の冷たさが心地良かった。
両足を水に浸したまま川緑に座った。光も座った。
瞼を閉じると小鳥のさえずりが聞こえてくる。小鳥がこんなにも美しく鳴くものかと初めて気がついた。
小鳥が食する木の実。木の実が好む土や水。土を好む虫たちや水を好む生命がここにあるのだろうと思った。
その命を消してしまっているのは人間だと考えるとたまらなく切ない気持ちになった。
眼に入るすべてのものが愛おしかった。何もかもが美しいと思った。道端の草さえも限りなく美しいと思った。
しゃがんで見ると、雑草が小さな白い花を咲かせているのが見える。小指の先よりも小さい花だった。
美しい、と心から思えた。
その花は生まれて初めて見る花だったが、どこか懐かしい感じをさせた。
やがて、光が口を開いた。
「あのとき、お前のこと殺そうとした」
頼邑は黙って光を見た。
「ここに来るとき、川を渡る前に初めて頼邑を見たときだ」
その言葉に頼邑は、月霧の里に入る前に川を渡る前に何かの気配を感じたことを思い出した。
……あの、気配は光だったのか。
上空に月が出ていたが、風で流された雲がときどき覆い、辺りを濃い闇でつつんだ。
風が吹き、笹籔や雑草が、ザワザワと揺れ始める。
「光、里の人間が憎いか」
ふと、頼邑は訊いた。
光は黙ってうなずいた。
頼邑は、里での温かい人との繋がりや、本当に良い人ばかりだと話をしてみた。
「里の人間に肩を持つのか」
光の問いに頼邑は、
「私には、守らねばならないものがある」
と夜陰を見つめた目はひかりをおびていた。
そして、
「生きて戻ることが務めだ」
頼邑は遠くを眺めるような眼をしていた。
しばしの時、ふたりは沈黙があった。遠くで獣の声が聞こえた。その獣は、光に何かを伝えているような気がした。
光は、人間側ではない。獣なのか巫女か妖か、今も分からない。
だが、ひとつだけ分かるのは、人間の頼邑と光が親しく話をしていることが、里の人間が知ったら想像できないことだろう。
だが、目の前にいるのは心優しい少女と敵対していることが胸が締め付けられる思いがした。
「私を憎くないのか」
頼邑が訊いた。
憎む人間を心を許して共にいることに、光はどのような気持ちなのか確かめたい気持ちがあったのだ。
「なぜ、お前を憎まねばならない」
光は、困惑したように眉宇を寄せた。
頼邑は光を見つめたまま、何も言わなかった。 なぜ、急にそんなことを訊くのか皆目変わらなかった。
頼邑は、しばらく口を詰むんでいたが、
「そうか、 憎くはないか……。 なら、私と光が共にできたことを里の者とも共に歩むことはできないのか」
その言葉は、ひとつひとつが重くのしかかるようなものだった。
「それはできない」
光は、さらりと言った。
「お前は、他の人間とは違う。だから、助けた。それを他の人間とはできない」
そう言って、光は小石を手にとり、川へ投げた。
頼邑は相槌を打つことができず、光の当惑する顔を見て頼邑は少し悲しそうな笑顔を浮かべた。 そして、やや間を置いて言った。
「私は彼らと同じだ。醜い感情を抱くこともある」
「そんなことない」
「人間とは、そういうものだ。だからこそ、喜びや尊さがある」
頼邑が光を直視しながら、力のあるひびきの声で言った。
「それ以上、何も言うな。私に光という名をくれたお前がそんなこと言うな」
光は目をつり上げ、悲壮な顔で言った。
光にとって、頼邑は初めて心を許した人間であり、名をくれたとれた特別な存在になっていた。 どこか、心の中で頼邑はずっとここにいるかもしれないと思っていたのだ。その期待は虚しくもなくなった。頼邑と共にいると和らいだ喜びが沸いてくる感情は消え、困惑と失望の色があった。 頼邑は何とも言えばいいのか分からなかった。 ようやくのことで、
「光……」
と、言うのが精一杯であった。
光はうなずいたような気がしたが、暗くてはっきりと見えない。
ふたりは黙っていた。
長い沈黙があった後、ようやく光は口を開いた。
「刀……」
「え?」
「お前の刀、なくしたって言っただろ。明日、探そう」
光の言葉に頼邑は黙ってうなずいた。
ふたりは、西日の空が暗くなるまで、その場に何をするわけでもなくただいた。
上を見上げると、星が一寸のひかりを放っているのが見える。そのとき、星が動いたように見えたので、よく眼をこらしてみると、闇に飛び交う蛍がふたりの周りに集まってきた。
秋に見られる遅れ蛍だ。
飛ぶ光跡が、ふたりに近付きながら上へ上がっていった。

決別

横→縦切替

ひんやりとした大気が流れていた。
秋冷の風である。
伊助と平八郎は、血の気を失った顔で森の中を急いでいた。朝陽がふたりの体を包み始める。木々が生い茂った場所に辺り一面苔が生えている場所に空から太陽の日差し降り注ぎ、神秘的な雰囲気が溢れている。
森の入り口から歩いてから四時間が経過していた。
伊助と平八郎は顔を青ざめさせて立ちつくんでいた。実は、一時間ほど前、山の傾斜を降りていったその後方に地響きに似た熊の足音と荒い呼吸音が迫り、ふたりは転倒しながら駆け下った。ふたりの叫び声は止むことはなく、樹幹の間を抜けて道の土に出た。
すると、熊は何を思ったのか、その後を追いかけることはなく、くるりと背を向け、森の中へと消えていった。茶色いものは、顔も岩石のように大きく、胴体も脚も驚くほど太く逞しかった。
剛毛は風をはらんだように逆立ち、それが地響きと共に傾斜を降下さしてきた。その力感にみちた体に比して、ふたりの肉体が余りにも貧弱であると強く意識した。伊助は覚束ない足取りで歩き出すと、平八郎もそれにならった。ふたりの足は自然に森の奥へと奥へと向かった。
その頃、頼邑は光の帰りを待つように岩の上に腰をかけていた。
ふと、頼邑の耳にかすかな音が聞こえた。それは森の奥から枯れた枝の折れるような音である。 頼邑は、光が戻ってきたと思ったが、すぐに違うものだと分かった。音が聞こえる方向に目を向けた。ふたたび、音が起こった。それはあきらかに小枝をふむ音で、木のきしむ音もつづいていた。
頼邑が耳を傾けているとき、その音を立てながら歩いている伊助と平八郎が眼をこらして岩を見ていた。
ふたりは、その岩に何か黒いものがふくれ上がるのを見た。
平八郎が、身を低くし、
「覡か、熊か」
と言った。
静寂の中で、再び木のきしむ音がした。
伊助は、
「しっ、静かにしねぇか」
と叱咤するように、さらに身を縮みこさせた。 睨むようにうごめく影を見ると伊助の顔が一変した。なんと、その影は捜していた頼邑だったのだ。
ふたりは、大慌てで走り寄り、途中にある枝をふみ荒らしていく。
「頼邑さまーー」
と言う自分の名を呼ぶのが聞こえた。
「頼邑さまっ」
樹幹の間を通って、また声がした。
頼邑は、何度も転びそうになっている人影が近付いていくのを捉えた。そして、頼邑もその人影に近付いた。すぐにふたりだと気付いたからだ。
「良かった……。無事でやったんですね」
近寄った伊助が、甲高い声をかけてきた。
「ふたりとも、なぜここに」
頼邑はあれから、ふたりが森をさまよっていたのではないかとよぎった。
だが、ふたりから無事に里へ着いたこと、そして自分を探していたことを聞かされると安堵したような顔になった。
「もう駄目かと思ったけど本当に良かった……」
平八郎は肩の力が抜け落ち、体が地面なか溶けそうな感覚になった。
「ともかく、無事で良かった」
伊助が言った。
「すまぬ。心配をかけてしまった」
頼邑が少し笑みをして言った。
その表情にふたりは安心したらしく、うなずき合った。
「さぁ、帰りやしょう。皆、頼邑さまの帰りを待っていやす」
伊助の言葉に頼邑の顔が、一瞬固くなったようなきがしたので、ふたりには、それが不思議に見えた。
「どうしたんでぇすか」
と、疑っと頼邑の目を見つめた。
「いや、その」
頼邑は躊躇して、辺りを見渡すと周辺を歩き出した。
光は、頼邑の刀を持って足早に茂みを分けていた。頼邑の姿が見えたので声をかけようとしたとき、素早く幹に身を隠した。光の視線の先には人間がいた。人間を見る、その顔は別人のように強張り、眼には鋭い光が浮かんでいた。
ふたりの人間は、頼邑を心配そうにしていることが分かった。どうやら、迎えに来たのだと理解した。光は、疑っと見ていたが、やがて手に持っていた刀を木の根に突き立てた。くるりと背を向け、玉藻の方へと消えていった。
まるで、その後を追いかけるかのように頼邑がやって来る。そこで、見たのは、なくした刀だった。
それを見た頼邑は、ハッとしたように顔を上げた。
……見ていたのか。
と、頼邑は察知した。
後ろから、伊助たちが駆け寄ってきた。頼邑のそばまで来ると、頼邑さまァ、と言い切り、次の言葉がでない。
森の奥を真っ直ぐと見つめた眼には何か決意したような強いひかりが宿っていたからだ。
でも、すぐにこちらを見て、
「もう大丈夫だ。すまない。帰ろう」
と、背を向け歩き出した。
頼邑の背の先には、光も背を向けて歩いていた。
玉藻は、渡したのか? と訊くと光の顔が険しくなった。
何かを思いつめたような眼をして真っ直ぐと森の闇を見つめながら、
「つまらぬ情にとらわれすぎた……」
と、言ったあとに、
「皆を呼べ」
と、強い口調で言った。
光は眦を決意したような顔をして言った。
ふたりの背には、互いにつながっていた糸が切れ、もう結び直すことはできなかった

里へ

横→縦切替
「頼邑さまっ」
井戸端の近くで風にあたっていた男が、頼邑の姿を見かけて声を上げた。死んだと思っていた頼邑が帰ってきたことに驚きを隠せなかった。
そして、頼邑のそばに駆け寄ると、そばについて歩きながら、皆っ、頼邑さまが帰ってきた!頼邑さまはご無事だぞ、と里中に聞こえるほどの声でまくしたてた。
家々のあちこちで、バタバタと雨戸や障子が開き、女や男の顔が覗き、すぐに飛び出してきた。伊助は頼邑の部屋の腰高障子をあけた。
そのとき、お静が、
「頼邑さまァ!ご無事だったの」
と叫び声を上げながら、走り寄った。
「皆に心配かけてしまった。私はこの通り何もない」
頼邑は上がり框につづく、板敷の間に立った。
お静は、急いで流し場に行き、水を汲んで戻ってきた。そこへ、里の連中が、ぞろぞろと集まってきた。年寄りや子供までが集まり、戸口のまわりに人垣を作った。
「何もないじゃないでしよ。皆、心配していたんだ。本当にもうやだよ」
お静が、顔をゆがめて泣き出しそうな顔をした。
「私のせいで騒がせてしまった。皆も本当にすまない。でも、わたしはこの通りなので引き取ってくれ」
頼邑が、そう言うと里の連中も安心したらしく、戸口の人垣が割れ、つづいて土間にいた連中もうなずき合ったり、何か小声でささやき合ったりしながら出て行った。
後に残ったのは、伊助と平八郎だった。
頼邑が水を一口飲むと、
「頼邑さま、本当は何があったんでぇ?」
伊助が、声をあらためて訊いた。
「ふたりには話そう」
頼邑は、毒気にあたり、意識が薄れる中で熊に襲われ、瀕死の状態になったことなどを話した。
「それを光…、いや、覡に救われた」
「か、覡に!」
平八郎の顔が紙のように蒼ざめ、肩先が震えだした。
伊助も、ハッとしたように眼を剥いた。
頼邑は、覡に助けられたこと、人間を憎むわけをかいつまんで話した。
黙って聞いていた平八郎は、
「け、けどよ、おれ達にも殺された里の者を思うと許せねぇ。たとえ頼邑さまの命を救った奴でも」
と、喉をつまらせながら言った。
「おれも同じだ。もうじき、大殿と戦にもなる。戦を仕掛けるには、長老は、香炉を手に入れるつもりだ」
伊助が言うと、平八郎もうなずいた。
「ああ、奴らも、狙っている。そして、それは覡が持っているんだ」
「こうなったら、何が何でも手に入れる」
と、伊助が意気込んで言った。
「待て、それでは我らどころが覡と剣を交えることになるぞ」
それまで黙っていた頼邑が口を挟んだ。眉間に縦縞が寄っている。その顔に、2人の視線が集まった。
「覡を侮るな。太刀打ちできる相手ではない」
頼邑の顔がさらに引き締まった。
「うむ……」
確かにそうだ。神子の力を持つ覡と争えば、どれだけの犠牲がでるか想像がつかない。まして、大殿と地侍の戦になろうとしているのだ。得体の知れぬ力に太刀打ちしようとしていることが容易ではない。
伊助に揺らぐ心ができたとき、
「おれは、仇を取りてぇ」
と、伊助の心を挟むように言った。
「仇とは何だ?」
頼邑の鋭い問いにふたりは逡巡しながらも、覡と大殿だと答えた。
そして、平八郎は人喰い熊のことを語り出してきたのだ。
「冬に熊に喰い殺されたことは痛みは今でも忘れねぇ。頼邑さまには、少し話したが詳しく話しやす」
倅の両親は、平八郎の古い友であった。実は倅と両親は血は繋がっていない。里でも大変仲の良いおしどり夫婦で評判だった。ひとり息子がいて、両親は可愛がって、目に余るくらいの親ばかだったという。
ところが、ひとり息子が三つのときに病死であっけなく逝ったのだ。
ひとり息子に死なれた母親は腑抜けのようになってしまい、食事もまともに摂らなかったため、日に日に体力が衰えていった。
このままでは、母親まで後を追うように死んでしまうのではないかと途方に暮れているとき、平八郎からふたりの倅と同じ年頃の男の子が両親を病で亡くし、身寄りがないので困っている話を聞き、死んだ息子の生まれ代わりに違いないと思い、男の子を引き取って育てることにしたのだという。
「ふたりは、実の子以上に可愛がって育てていた。これで、もう安心だと思っていたのに倅は熊に撲殺され、母親は喰われちまった。そして、父親も……」
平八郎は涙ながら言いつのった。
家に妻と子を残し父親は仕事に出かけて一人だけ助かったのだ。父親は泣き崩れながらも熊が人を喰ったということを里に伝え、厳重に警戒するように呼びかけたという。
隣家の男同士がふたりずつ組んで、老人、女、子供だけで留守している家族を気遣いをした。 鉞や鍬が熊に対抗する道具としてほとんど無であることに気づいていた。
家の中では、身を守る唯一の手段はな熊の接近を防ぐことだけで、それを可能とするのは、金属製の容器を叩くことと火を熾すことだけであった。
里では、馬や犬が火を極度に恐れることを考えて、炎が熊の来襲を防止してくれるにちがいないと信じた。もしも熊が姿をあらわしても、燃えさかる薪を次々に投げつければ炎のまばゆい輝きと火熱に辟易して引き返してゆくにちがいないと思った。
そして長い夜が明け、朝の朝光が雪におおわれた里にあふれていた。
平八郎と他の男たちは、約束の集合場所に集い、互いの顔を見て安堵したという。しかし、肝心の父親の姿がなかった。そればかりか、一緒に避難した他の家族もいない。
急いで、その父親が一夜過ごした家に向かうと、そこはまさにこの世の地獄だった。
血が床に流れ、柱や天井にも飛び散っていた。平八郎は、床と土間に肉と骨の残骸をみた。遺体に、左大腿部から臀部にかけて肉がえぐりとられ、その一部には白い骨が露出していた。
生々しい肉片が床に散らばるように落ちていたのだ。その中にあの父親の頭だけが転がっていた。
俵のかげに無傷の男児がうずくまっていた。眼を閉じていたが、死んだのではなく、失神していた。十一人の中で、たったひとりの生存者だ。
家屋に熊が侵入してきたとき、男児は土間やな二段積みにされた雑穀俵のかげにひそんで奇跡的にも難を逃れたが、彼は熊の荒々しい呼吸音にまじって噛み砕く音を聞いたという。
それは、何か固い物を強い力でへし折るようなひどく乾いた音であった。それにつづいて、物を細かく砕く音が聞こえてきた。それは、明らかに熊が骨を噛み砕いている音であった。
彼の耳に、
「腹、破らんでくれ。頭から喰ってくれ」
と、熊に懇願するような叫び声が聞こえた。
それは、臨月を迎えた母親が発した声だったという。彼女は、熊に喰われながらも母性本能で胎児の生命を守ろうとしたのだろう。しかし、その願いは虚しく熊は容赦なくはらわたを引き裂き、胎児は外へ引きずりおろされた。
「神も仏もねぇ。奴らは鬼だ」
平八郎が吐き捨てるように言った。
その気持ちは伊助も同じだった。伊助の胸に熱いものがつき上げてきた。
決して奴らを許すものかと強く決意し、今日までを過ごしてきた。
しばらく、伊助は身を揉むように体を震わせら赤くなった眼で虚空を睨み、
「おれたちはここで平穏に暮らしていきたいだけなんだ。 それをなぜ邪魔されなきゃならねんだ」
と、声をつまらせながら言った。
頼邑は、しばらく黙っていたが、
「そなたたちの苦しみは分かる。私も同じだった。だが、その苦しみを憎しみに変えるな。そうしたもので手にした仇など仮初めにすぎない」
頼邑は、確かな眼でふたりを射るように見つめて言った。
平八郎は、頼邑が自分を救ってくれたことを思えば、負い目はあったが、それでも考えを変えることはしたくなかった。
「しょせん、頼邑さまは、余所者だ。おれたちの痛みなんて分からねぇよ」
平八郎は、思わず口から出てしまった。
「よせ、やめねぇか」
伊助は、叱咤した。

矛盾

横→縦切替
そのとき、頼邑の家の腰高障子が開け放った。
「よ、頼邑さま!」
お花が喘ぎながら声を上げた。
顔をゆがめて泣き出しそうな顔をしている。近所の茶屋の手伝いの帰りに里の連中に頼邑の帰りを聞いて急いできたのだ。
「お花、頼邑さまはご無事だぞ」
伊助が明るい声で言うと、お花に安堵の表情が浮いた。ふいに、顔をゆがめ、泣き出しそうな表情となり、両肩をすぼめ、力尽きたように屈み込んでしまった。
「お花さん」
頼邑は、近付き手を伸ばしてお花の体を抱きかかえた。ふいにお花が頼邑のたもとをつかみ、
「夜は私も共にいます」
と、思いつめたような顔で言った。
「えっ」
突然のことに頼邑は困惑したような顔をした。
「私、頼邑さまの看病がしたいんです」
お花は、たもとを離さなかった。
「それには及ばぬ。もう怪我も治っているから」
頼邑は、お花の手を取り、そっと静かにお花の膝に置いた。
その様子をニヤニヤしながら見ていた平八郎が、
「そうは言っても病み上がりなんですぜ」
と、言うとそばにいた伊助も、
「頼邑さま、お花に看てもらったらどうです」
と、首をすくめて言い添えた。
伊助が腰高障子を閉め、ふたりはそれぞれの部屋に戻って行った。障子の向こうの足音が小さくなったとき、ヒッヒヒヒ、という平八郎のしゃがれた笑い声が聞こえた。ふたりで何やらよからぬ会話を交わしているらしい。
だが、その声も足音も遠ざかり、あたりが急に静かになった。
お花は胸をドキドキさせて、
「頼邑さま」
と、声をかけた。
「何かな?」
「夕餉はお済みですか」
「いや、まだだった」
頼邑が、ほっとしたように言った。
「私、すぐに用意します」
そう言うと、お花は手ぬぐいを姐さんかぶりにし、下駄を鳴らして頼邑のそばを離れた。
しばらくして、高腰障子が開いてお花が姿を見せた。手には丼を持っていた。
緊張しているらしく、手にした丼が震えている。
「あの……。残り物ですが」
お花が蚊の鳴くような声で言った。
丼の中身は、煮魚や薩摩芋と牛蒡がたっぷりと入ったである。
「そなたが作った煮染は誠に美味しい」
頼邑がおだやかな顔をした。
お花は嬉しかった。以前、煮染を馳走したことがあり、そのとき頼邑が旨いと言って食べたのをお花は覚えていて、無事に帰ってきた頼邑に食べさせたかったのである。
お花は身を硬くして戸口に立っていた。頼邑の顔をみていられないらしく、うなだれたままである。
頼邑はお花の手から丼を受け取ると、
「ありがとう。誠に感謝している」
と、声を改めて言った。
心のこもった思いひびきのある声だった。お花は顔を上げた。頼邑と眼が合うと戸惑うように視線が揺れ、ポッと白い豊頬が赤く染まった。
頼邑は、お花の目を見つめたまま小さくうなずくと座敷に戻って行った。
お花は、いっとき陶然として立っていたが、自分の置かれている立場に気付いたらしく、慌てて頭を下げてきびすを返した。
頼邑は戸口から出て行くお花を呼び止めた。お花は振り返ると頼邑は思いつめた顔をしていた。
「お花さんは、覡のことをどう考えている?」
「それは……。どういうこですか」
お花は、困惑したように頼邑を見つめた。
すると頼邑の口が開き、
「覡が人間を殺めた事実は許せぬだろう。だが、ひとつだけ知ってほしい」
「はい……」
お花は小さく言った。
「覡が人間を殺めた理由だ。そうでもしなければ自分や仲間を守ることができない。そう思ったのかもしれない」
頼邑、決して逸らさずお花を見つめながら、心から訴えているようだった。
何も言えなかった。お花は考えもしてみなかった。なぜ、覡が人間を殺める理由など、里の人たちにはどうでもいいことなのだ。
お花は何も言えず、凝としていると、
「この里の者にも言い分はあるだろう。だが、覡たちにもあることは忘れないでほしい。互いに傷つけ合うのではなく、手を取り合える方法もあるはずだ」
と、頼邑が強い口調で言った。
いっとき、お花は黙った。お花の心に頼邑の思いは、ひしひしと伝わってくる。その感情につられそうになったが、脳裏に殺された里の人たちが浮かび、その気持ちをグッとこらえた。里の人たちを裏切ることになる。
……だめよ、花。殺された人たちが。
そう思って、一度眼を閉じると頼邑を見た。
「それはできそうにもありません。命を奪われた者には、そう簡単には許せないのです。憎しみを抱くなと、そう仰しゃるのですか?」
お花は、絞り出すような声で言った。
本当は、口に出すことは怖くてたまらないが、里の悲痛と怨念が宿る中で、どうしても頼邑の考えを受け入れることは難しかった。
「抱くなとは言わない。だが、その感情に赴くまま自我を忘れている」
頼邑が思いひびきのある声で言った。いつもと違う凄味のある面貌だった。
お花は、気迫が重くのしかかり、何も言えなかった。
「私も憎しみを持つ者としていたが、怒り憎しみで根が解決するならば私もしたであろう。だが、それはふたたび、くり返すだけだろう」
頼邑の声は穏やかにはなっていたが、眼から放つ異様な気迫にお花は感じた。
「それは……」
お花は困惑したように言った。
できれば、頼邑の考えを分かってやりたかったが、殺された人を思うとやはり、お花の心は変わることはできない。
お花は、首を横に振った。
すると、頼邑の口から、
「私は、この里の者に怒りを覚えていた」
と、思ってもみなかった言葉がでたのである。 頼邑は続けて、旅の訳を話し出した。自国の里で飢饉が起こり、多くの命を失った。飢饉の答えを見つける為にこの地へ赴いたことを説明した。ところが、飢饉の原因は憎しみが火の種になって生まれたことに人々に怒りを感じたことを言いつのった。
それを聞いたお花の胸に無数の針が突き刺さったような痛みがした。
「だから、憎しみを持ったことは隠さない。その気持ちを持つ私は、矛盾しているだろう。皆、自分が正しき道へ突き通そうとしているが、もっと矛盾を受け入れねば。憎しみを持つ心は命を奪わないという矛盾を」
そう言って、頼邑は虚空を見つめた。

頭上で、三日月が嘲笑うようにひかっていた。足元の短い影が寂しそうについてくる。
頼邑を想えば想うほど、今まで抱いていた考えが正しいものではなくなってきたような気がした。
何が正しくて間違いなのか答えを見つけそうにないことが身に染みた。胸に寂寥感と喪失感がつまっていた。
……矛盾を受け入れる。
歩きながら、お花は胸の内でつぶやいた。

過ち

秋夜がしだいに濃くなっていた。森が闇につつまれ、木々の隙間から月光が弱々しくまたたいている。
そこは、人の気配を感じることはない。そんな中で月明かりをたよりに闇の中を歩いている男がいた。
覆面で顔を隠した若い男が木箱を抱えながら先を急ぐように歩いている。男は、しきりに辺りをきょろきょろ見ながら慎重に足を運んでいる。
「やってしまった。もう戻れねぇ」
そう何度も息を吐くようなこもれびで言っている。
……誰か来る!
男は、背後から来る足音を聞いた。振り返るが辺りは暗く、顔は見えない。男は、眼を細めると暗闇の中に月光がその者を浮かび上がらせた。
その姿は月光と同じ髪と眼をした少女である。殺気があった。
……間違いねぇ。覡だ!
男は、里で聞いた覡の風貌と同じだと確信した。相手は、五間ほどの距離を置いて足をとめた。
そのとき、男はさらに複数の足音を聞いた。眼をやると右手の木々の陰から巨大な狐と熊が、それぞれ走り寄ってくる。
男は、ヒィッと引きつったような悲鳴を洩らした。男は咽喉をつまらせたような悲鳴をあげ、必死に逃げようとしたが、恐怖で竦んでしまったらしく、腰が抜けた。それでも、悲鳴を上げながら地を這って光から逃れようとした。
その男に光は上からおおいかぶさるように身を寄せ、左手で男の襟元をつかんで、引き寄せた。
「た、頼む。見逃してくれ」
男の顔が恐怖でゆがみ、激しく震えだした。
「そんなに命が惜しいのか」
光はつぶやくような声で言った。
男は、蒼ざめた顔で激しくうなずいた。いっとき、光が黙考していると、男の頬の汗を手の甲で拭いながら、
「見逃してくれるのか」
そう言って、歩き出そうとした。
「待て!」
光がとめると、男が振り返った。
「その木箱の中身から血の匂いがする。命が惜しいお前が、命を奪ったのか」
光がそう言った途端、男は、ヒィッと引きつったような悲鳴を洩らし、駆け出そうとした。
刹那、男の足元にある竹竿のように細い物が首を貫通した。次の瞬間、夜陰に黒い帯のように血がはしった。男は、首から血を噴きながら、数歩走り、そのまま深い闇の中に突っ込むように俯せに倒れ込んだ。
夜陰の中で、血の流出音がした。その音もすぐにやみ、辺りは深い静寂につつまれた。闇の中に横たわっている男の輪郭が、かすかに認別できるだけである。
光たちは、男の死体を川まで運び、川面に投じた。いっときすれば、男の死体は里の川へ流されるであろう。
「朝になれば、里の人間の晒者になるだろう」
光は川面を見つめて言った。
光は、男が持っていた木箱をそっと開けた。
中身を見つめ、
「憐れだな。だが、お前が悪い。全ての過ちを見届けろ」
と、静かな口調で言った。

引き裂かれる思い

第四章 引き裂かれる思い

その夜、伊助は座敷に敷いた夜具で横たわっていたが、ほとんど眠れなかった。しきりに寝返りを打ったりしている。
頼邑の言葉が頭から離れず、ずっともやもやしていた。これから、里の運命がどう転ぶのか伊助にも予想がつかなかった。
翌朝、伊助は慌ただしく障子を開ける音で目を覚ましたみたいだ。腰高障子が明るんで夜が明けてきたらしい。
その眩いひかりの中に、平八郎が強張った顔で飛び出してきた。
「伊助、大変だ!」
平八郎が声を上げた。
「どうした」
伊助は掻巻を撥ねのけて身を起こした。昨夜、伊助は帰ったままの格好で掻巻だけを腹にかけて寝てしまったのだ。
「ち、長老が殺された」
平八郎は声をつまらせながら言った。
「えっ!」
伊助が、ビクンと背筋をのばし、喉がひきつったような声を出した。


「頼邑さま、こっちで」
平八郎が頼邑たちを先導した。
伊助は、頼邑の後を血の気のない顔でついてきた。眼をつりあげて悲痛に耐えているが、足はしっかりとしていた。ときどき、祈るように胸の上で拳を合わせら何かつふやいていた。人違いであってくれ、と胸の内で叫んでいるかもしれない。
「頼邑さま、あそこで」
頼邑たちを先導してきた平八郎が立ち止まって指差した。
見ると、橋のたもとに人だかりがしていた。頼邑たちは駆け出した。近寄ってきた頼邑たちに集まった男たちが振り返った。
「どいてくれ」
頼邑が声をかけた。
人垣が割れ、その先には横たわっている男の姿が見えた。元結が切れて、ざんばら髪だった。薄茶地に縞の半位が濡れた体にまとわりついている。土気色の肌をし、首には穴があいている。何者かに首を貫通されたらしい。
死体は、長老ではない。
吉之助という男で宴の日、頼邑に話しかけてきた若者だ。吉之助は、長老の側近の一人でもあった。
「この男が長老を殺した」
人垣の中から小柄な男が声を震わせて言った。 眉宇を寄せ、苦しそうである。
「何だと!」
伊助も平八郎も思いもしないことに驚きを隠せなかった。
小柄な男は、側近の吉之助が大殿と内通していたようで長老の首を持って降伏すれば命は助けるという条件を受け、長老を殺したという。
つまり、長老は家臣の裏切りにより、殺されたのだ。
長老の胴体は、藪の中に捨てられ、まだ首は見つかっていない。吉之助の死体は検死で分かったことをかいつまんで話してくれた。
死体の固くなりようから推して殺されたのは昨夜遅く。首を何か鋭く細い物で貫通され、川から突き落とされたらしい。死体は橋の杭にひっかかっており、今朝舟を出してきた船頭が発見し、知らせたという。
……急所を見事に貫いている。
と、頼邑はみた。
首には小さな穴が開いているが、いったいどのようにすれば細い物で首を綺麗に貫通できるのか分からなかった。いずれにせよ、即死であろう。
そのとき、頼邑は吉之助の懐が厚くなっているのに気付き、懐から書状を見つけた。書状は、長老の首と共に降伏すると記されていた。吉之助が長老を裏切り、降伏を願い出たとこれではっきりすると皆の顔が蒼ざめていく。
そのとき、伊助が、
「お満さまはどうした?」
と、皆に訊いた。
お満は長老の奥方だ。伊助の問いに皆が顔を合わせ、首をかしげている。誰もお満を見かけていないようだ。
すると頼邑の脳裏に、旅行く道で首を切って死んだあの女の顔が浮かんだ。そして、ものすごい速さで走り出した。慌てて、伊助と平八郎が足をもつれさせ、泳ぐような足取りで追いかけていく後ろ姿を皆が見送っていた。
頼邑は、長老の家に入り込むと次々と襖を勢いよく開け始めた。一番、奥の襖を開けたとき、頼邑の眼に飛び込んできたのは今まさに自害しようとしていたお満の姿だった。
頼邑は、必死にお満の手首をつかみ、止めようとしたが、
「何をする! 全て失った。今さら生きる意味などない」
そう言って、頼邑の手をふりほどこうとしながら叫び声を上げた。
その瞬間だった。伊助と平八郎も眼をそらすことができないほど、頼邑はお満の胸ぐらをつかみ、
「そなたには命がある。命がある限り生きられよ!」
と、声をあらげたのだ。
その剣幕にお満は言葉を返すことができず、しおれたように肩をしぼめ、声の出す限り泣き叫んだ。
ふたりは、初めて、頼邑が怒鳴るのを見た。
しかし、このときの頼邑の言葉はふたりの心のずっと奥に深く突き刺されたのだった。

里と分断

横→縦切替


頼邑たちはお満を連れ、女たちが集まっている場所に連れて来ると一人の女がこちらへ駆け込んでくる。
お静である。お静の後ろを追いかけるように女たちはお満を心配そうに名を呼んでいる。
頼邑は集まった女たちに、
「大事ないが、少し休ませてやってくれ」
と、声を大きくして話した。
三人は、男たちが集まっている場所に戻り、事の詳細を話した。
男たちの表情が一変とし、血の気が引いている。長老は家臣に裏切られ、命長は自害しようとしたことに里の者たちは言葉もなく立ちつくすし、ただ互いの姿を見て不安を抱いた。
中には、全て覡のせいだ、という者までいた。「そなたたちの怒りや憎しみは分かる。だが、その想いは身を朽ち果てることになる。どうか、血を出す前に身を引け」
そう、緊迫した空気の中で落ち着いた口調で皆を諭した。
男たちの眼には卑屈なひかりが浮かんでいた。沈黙が、ふたたび彼らの間に広がる。
「けど、おれたちに残された道はどこにもねぇ」
男の一人が不安に堪えきれぬように頼邑の顔をうかがった。
「だからこそ、生き延びる道を選べ」
頼邑が不安を押し払うように答えた。
いま、ここで彼らが引かなければ、この里もあの女がいた村のようにぬる。あの村だけではない。いくつもの村や里が朽ち果てていくのを頼邑は見てきた。せめて、この里だけは食い止めたいと思ったのである。
「頼邑さまの言う通りかもしれねぇ」
伊助は、自ら言い聞かすように言った。
男たちは、無言でうなずいた。彼らの顔から不安の表情が消え、少し気持ちがまとまりつつあった。
そのとき、誰かの怒鳴る声が聞こえた。
「そやつの言葉に耳を傾けるでない!」
治兵衛が、怒髪天を衝くが如くの形相で向かってくる。
治兵衛は鋭い瞳で頼邑を睨みつけ、
「余所者の貴様が口出しすることではない。いずれにせよ、我らは元より命を捨てる覚悟でここにいる」
と、恫喝するように叫んだ。
「皆、よく聞け。これより我らは大殿、覡を討つ!」
治兵衛がそう叫ぶと、男たちは心をひとつにしたかのようにいっせいに、叫び声や掛け声が起こった。まるで、鍋をひっくり返したような光景になっていく。
頼邑は、唖然とすると共に腹から怒りが込み上げてきた。
「そなたの眼は盲点か!」
頼邑が憤慨して上げた怒鳴り声に一同は動きを止めた。
烈火の如く怒る頼邑に治兵衛は、
「貴様の話など聞きとうないわ! 所詮、余所者ではないか。我らの苦しみなど見えぬもの」
と、太刀を抜き、切っ先を頼邑に突き付けた。
「そなたは憎しみのあまり、見えるものが見えていない…。今なら間に合う。どうか、その刀を納めてくれ」
その言葉に場が凍りついていく。
治兵衛は怒気で顔を豹変させた。治兵衛は目尻をつり上げ、歯を剥き出し、足を踏ん張って、
「もう遅いのだ。かつては大殿と約定を交わした仲だったが、今や呑み込まれるオチだ。我らにはこの道しか他あるまい。邪魔立てするなら、貴様の首も討つ」
と、太刀を切っ先を頼邑の咽喉元につけた。
「考え直していただけるというなら、この首、喜んで差し出す」
頼邑は、治兵衛の眼をそらさず、続けて言った。
「これ以上、無用な血を流さないためにも。お考え直しを願いたい!」
怯えも迷いもない気迫に迫る頼邑に余計、治兵衛の怒りに触れてしまった。
治兵衛は、叫び声を上げ、太刀をさっと横に払い、鞘に納めた。男たちは、思わず眼をつむった。
その場が、しんと静まり返り、男たちは眼を開けると頼邑の首すじうっすらと切れ、血がしたたれているだけであった。
「皆、行くぞ」
と、治兵衛は言い残して、その場を立ち去った。
男たちもそれに続き、ぞろぞろと後にし、取り残された頼邑たちは苦渋に満ちた顔をした。
「頼邑さま、大丈夫ですせぇ?」
伊助は、自分の手縫いで頼邑の首の血を拭いた。
頼邑は暗い眼をして小さな声で言った。
「何としてでも止めたかったのだが…。ふたりはどうするつもりだ?」
その問いにふたりは声をつまらせ、逡巡した。「迷っているなら、皆の元へ行け」
その声にハッとしたような表情をした。何を言おうとしているのか口元が動いているがら何を言っているか分からない。
そんなふたりに頼邑は、
「あの者たちが戦いをやめぬなら私も戦う。血を血で洗う戦いをやめる戦いをする」
そう言うと、不死の森に眼を向け、行かねば…とつぶやいた。
ふたりには、その言葉に聞き返す暇もなく、頼邑は去っていった。
ふたりは、その姿を見送るようにただじっと立ちすくむしかった。伊助、平八郎と頼邑の間に越えられない一本の線で区切られた瞬間だった。



頼邑は、アオにまたがるとゆっくりと進んだ。 里の出口にさしかかると、
「頼邑さま!」
と声が聞こえた。
お花が駆け寄ってきた。そばまで来ると、ほんの少し視線を落とし、
「止めはいたしません。ですが、分かってほしいのは皆、頼邑さまを大切に思っております」
と、言った。
「私も同じだ。だからこそ、ここを守りたかった」
頼邑の眼には刺すようなひかりが宿っていた。見る者を竦ませるような凄みである。
頼邑の決意は揺らぐことはないと感じたお花は、
「どうか、愚かな私たちをお許しにならないで下さい。どうか…」
と、涙ぐむような眼で頼邑を見つめた。
「お花さん、里を想う気持ちを大切にしてほしい」
アオが足を踏み鳴らしたら瞬間、頼邑は凛としたおもむきとなると走り去っていった。
お花はその姿をしかと、焼き付けるかのように見つめていた。

伊助、平八郎動く

「槍をもっと用意しろっ」
男たちの中であちこちで、その声が聞こえていた。
兵糧を運ぶ者、鉄砲の手入れをする者やらで騒然としている。その中には、伊助と平八郎もいる。ふたりは鉄砲のかき集めを命じられたが、頼邑のことが気がかりで作業に集中できないでいた。
そんなふたりを見かねた治兵衛は、
「そんなんでやっていたら日が暮れるぞ!」
と、声を上げ、伊助が持っていた鉄砲を奪うと頭を殴りつけた。
伊助の額から流れる血を見つめる治兵衛の眼は、何かに憑かれたような顔をしていた。
伊助は顔を強張らせていたが、眼だけ異様なひかりをおびて、治兵衛を睨みつけた。その光景を見た周りは驚愕に眼を剥き、凍りついたように動かなかった。
そのとき、お花が治兵衛のそばに走り寄った。 血の気のない顔をし、眼をつり上げ、
「おやめください」
お花が声を震わせて訴えた。
すると治兵衛が、
「お花、今までどこへ行っていた」
と、恫喝するように言った。
「頼邑さまの見送りに行っていました」
お花は震えを帯びた声で答えた。
お花は治兵衛が、どこへ行っていたことにおそらく気付いているだろうと察し、事実を言ったのだ。
一瞬、治兵衛は機先を制されたように言葉につまったが、すぐに声を荒げて言った。
「奴の見送りをした後、よくのこのこと来れたな。お主の恋情で里を引っ掻き回すな!」
そう言って、お花の頬を平手で叩いた。
顔が横に傾ぎ、口から火花のようなものが飛んだような気がした。頬がジンジンと鳴りら火のように熱い。唇を切ったらしく血がたらりと顎から滴り落ちている。
皆が茫然としたように眼を大きく見開いている。場が凍りつくとはこの事である。
お花は瞳だけ、夜叉のようだった。憎悪の血がお花の瞳を豹変させたのだ。
「治兵衛さまは、頼邑さまが覡と内通して会いに行ったと言いたいのですか?」
と、聞き返した。
治兵衛は、無言でうなずく。
「ええ、そうです。ですが、 一つ思い違いがあります」
お花の声が喉につまったように言った。
「頼邑さまは身を捨てるおつもりです」
お花は、絞り出すような声で言った。
「えっ……」
伊助たちは、どういう事であろうと思った。ふたりには訳が分からない。
するとお花は見送りのとき、頼邑と話をした内容をかいつまんで話をした。
「うむ……」
治兵衛の顔にも戸惑うような表情が浮いていた。
だが、それが事実であっても治兵衛の心は変わることはない。
そのとき、お花がふたりのそばに来て、
「頼邑さまは、お満さまの命を救い、この里の為に生きろと言った。その頼邑さまが自ら命を捨てる覚悟をしたのです。ふたりだって救われたではありませんか。遠い国から来たお方がこの里の為に命を捨てようとするのをこのまま黙っているおつもりですか」
お花が涙をボロボロと出し、声を震わせて訴えた。
すると伊助は、
「治兵衛さま、里を思う気持ちは皆、同じでぇ。その思いと同じお方を見捨てることはできねぇ。もし、これが裏切り行為なら、おれを殺してくれ」
そう言って、刀を治兵衛の前へ突き出した。
治兵衛は押し黙っていたが、刀を押し返し、伊助の前を横切り、
「わしは、一度決めた事は変えぬ。お前たちとは違う考えのようだな」
と、背を向けたまま言った。
治兵衛の元へ残る者と頼邑の元へ行く元へと分かれることになってしまった。
お花の声を聞きつけたらしく、女たちが集まってきて、遠巻きにして心配そうな顔を向けていた。
「伊助、どうするのさ」
お静は、泣いているお花を介抱しながら訊いた。
「すぐに動く。おれたちは、あの森に入っているから道は分かる」
伊助は集まった男たちに、
「頼邑さまが覡と接触する前に何としてでも見つけ出せ」
と、声を大きくして話した。
「お花、安心しろ。一度、無事で戻ってきた頼邑さまだ。次もお戻りになる」
と、お花に眼をやりながら言った。

追っ手

横→縦切替

「気付かれたか」
頼邑は、さらに手綱を強く握りしめると、アオは砂を蹴散らしていく。
不死の森にさしかかった所で侍に狙われたのだ。 全身から痺れるような殺気を放射して、馬蹄の音と共に向かってくる。侍たちは矢を番え、次々と頼邑を狙った。その動きを予測していたかのように飛んできた矢は、頼邑の脇腹を鋭くかすめた。
だが、矢はそのまま地面に突き刺さり、頼邑は無傷のまま、すぐに体制をなおし、すばやく矢を番え、放した。
矢は、空気を切るように侍に向かっていく。侍の体が傾しき、地面に吸い込まれるように頭から落ちていく。だが、それだけでは終わらない。後方から、矢が飛び交ってくる。そして、丘に挟まれた山路の両側から侍に攻められた。
侍が、先回りしていたのか次々と周辺を囲まれていく。
……このままでは危うい。敵をまかねば。
と、頼邑は察知し、一瞬の隙をついて、アオから飛び降り、雑木林へ飛び込んだ。
アオは全身を身震いさせ、走るのを躊躇したが、行け!と頼邑の叫び声に反応してアオだけが走り去っていった。
「逃がすな。追え!」
侍は、声を上げた。
雑木林に侍が追ってくる。そのとき、アオは崖までさしかかり、軽々と降りていく。侍たちは崖を飛び込む気まではないようだ
枝葉をかき分けながら頼邑は先を進むと、アオが崖を降りていくのを見た。ハッとするように頼邑は、急斜面を息をするのを忘れるほど一気に駆け下った。
頼邑は、雑木林の中から手笛を鳴らした。
ピューイ
と、音に反応したアオは頼邑のに合わせ、速度を変え始める。
それを見逃さず、一瞬の隙を見極め、頼邑は全身の力を足に集中させ、雑木林から崖へと飛び降りたのだ。高いところから体を浮遊させたが、風の抵抗をもろともしなく、アオに飛び乗った。
それを見た侍たちは、驚きの表情を隠せないでいた。まさか、崖から馬へ飛び乗るなど想像していなった。それでも、侍は矢を放し続けた。そのとき、頼邑は体をひっくり返らせ、矢を放した。一発、そして二発も侍に命中させる。それには、さすがの侍も崖の上で立ち止まった。
追うのを諦めたようである。その場に立ったまま、
「恐ろしい奴だ……」
と、つぶやき、しばらく走り去っていく頼邑を見つめていたが、雑木林へと引き返していった。

吹き荒れる風

第五章 吹き荒れる風

その頃、頼邑と里の者たちが動いていたときに城でも新たな風が吹き荒れていた。長老の首を持ち帰ることができなかったことに大殿は怒りを露わにしていた。
あれから、伝説の香炉も見つからず、大殿から信用を失いかけている。家来は顔が強張り、ひたすら頭を下げるしかなかった。
そこへ、バタバタと足音を立てながら一言、
「大殿!」
と、声が聞こえた。
「ただいま、急使が参り、香炉を見つけたとのこと。急ぎ、確かめてほしいことにござりまする!」
眉間に皺を寄せしていた大殿が、
「急ぎ、わしの前に持ってこい」
と、家来に命じた。
顔を伏せっていた家来は、安堵したのか面を上げ、早々と先ほど来た家来の後について行った。それは、まさに新たな風が吹き荒れようとしていた。

光の覚悟

横→縦切替

水面に森の木々がうつしだされるほど、水は透き通っている。青白いひかりが水の中に溶け込むように射し込んでいた。何本もそびえ立つ太い木の間から、まばゆいひかりの絹のような布が射し込んでいる。
そこに光はいた。光は小高い山になったら土を見つめている。後ろには玉藻、そして二匹の九尾と熊がうなだれるように座っていた。
小さな瞳を潤みを帯びた一匹の熊がゆっくりと光の前に出てきた。光は、そっと熊の頭をなでると、光の頭の中にある記憶の糸が蘇っていく。
生まれたばかりの子熊が毛皮にされ、人間の子供の羽織物にされていたことだった。母熊は、なかなか身籠ることができず、光も心配していたが、やっと子ができたのだ。
そして、光が子熊に精のある食べ物を手土産に持ってきた日に殺された。怒りに狂った母熊は人間を喰い殺したが、すぐに撃ち殺された挙句、毛皮を剥ぎ取られ、肉は人間によって食べられた。 毛皮を剥ぎ取られたことを思うだけで光の胸に激しい憎悪の炎が燃え上がったときに、香炉が盗まれたのだ。
「向かってくる人間は、一人残らず殺せ。相手が誰であろうと容赦するな」
光は、皆をにらみつけるように言った。唇を噛み締めると、唇からしたたれる血がポトポトと足元に落ちていく。
「若僧はいいのか」
「そんな奴、もう忘れた」
と、玉藻の問いにも素っ気ない態度を示した。
それ以上、玉藻はかける言葉をしなかった。光の中に揺れ動く心と暗い絶望があるのを感じたからだ。
東の空がほんのりと明けてくるのが見える。
うっすらと明けてゆく空を見て、東雲という言葉を思い出した。
……しののめ、か。
それは、頼邑が教えてくれた言葉だった。光は後ろを振り返った。その後ろに山々が朝陽を浴びつつ、緑の色に塗られていく。
美しい…。
と、思わずつぶやいた。
いま、見えるものを守るためなら死を惜しむことはないと思った。光は、玉藻に飛び乗り、大群を率いれ、山を下り始めていった。

追い込まれる

横→縦切替

城では、香炉にいくら火を点けようとしても焚くことができないでいた。しだいに大殿の表情に苛立ちが見えてくる。
家来に女中にも、やらせてみたが点くことはない。大殿は、人払いをし、何度も火を点けようとしていた。
その頃、城門の見張りは交代で来た仲間から茶碗酒の差し入れを飲んでいた。微風に木の葉が、サワサワとやわらかな音を立てているだけで、人声や物音は聞こえなかった。
いつもと変わらず、ゆっくりと時が過ぎていく。見張りの一人が空を見上げたとき、不意に大きな静寂を破った。板壁の破れる音がすると同時に建物が跳ね上がるように激しく揺れた。
見張りは、身構えた。彼らには音と振動の意味が理解できなかった。城内から叫び声が起こり、巨大な生物の呼吸音が入り混じって聞こえてくる。
見張りは、呼吸音は熊だと直感した。熊は群れを率いれ、城内へと突進していく。射手たちは、一斉に引金をひいても、熊は次から次へと押し寄せてきた。
巨大な熊は、不死の森から躊躇なく川を渡り、たちまち城に襲いかかった。いま、ここにいるのはわずかな兵士かおらず、里での戦に出ていた。残された者は、ただ死に物狂いで、その場を死守しかなかった。
「踏ん張れっ、ここを破られたら最後だぞ」
城を落とされる前に何としてでも攻め立て、打ち取るしかない。ついに、大筒で熊を撃ち殺していった。城は、熊の死骸が山のように埋めつくされていったが、それ以上に熊が押し寄せいった。

城で乱闘しているとき、治兵衛は手綱をひいて馬の頭をめぐらすと、森道を進み始め、その後から六個の集団がつづいた。
治兵衛と仲間の乗る馬は、長毛におおわれた太い脚を力強く踏んで、砂を蹴散らしながら進んでいく。白い息を吐きながら上流方向にたどった。風はなく、渓流の両側に迫る樹林も山肌も霧におおわれ、静まりかえっていた。彼らは、小休止もせず、道を進み、半刻後には不死の森と城の境界にある場所に近寄った。
「あそこなら、覡と共に城も落とせましょう」
治兵衛の側近が足を早めて馬に追いつき、言った。
治兵衛は無言でうなずき、側近の案内で道をそれると馬から降りた。そのとき、最後尾の班から一人の男が走ってくると、下流方向から誰かがやって来ると報告した。
治兵衛は振り返り、いま来た道に眼を向けた。だが、そこには何も見えない。声を発する者はいなかった。側近の鉄砲をとると、膝射の姿勢をとっていた。
「馬か」
治兵衛が沈黙に堪えきれぬように言った。
「そのようだと思うのですが…」
側近の男が答え、そばの若い男もうなずいたが、彼らの顔には自信のなさそうな表情が浮かんでいた。
長い沈黙がつづいた。太陽が雲間に隠れ、対岸の闇が濃くなった。ふと、彼らの耳にかすかな音が聞こえた。それは、城につづく道の辺りから起こったもので枯れた枝の折れるような音であった。
治兵衛は他の男たちと共に、その方向に眼を向けた。ふたたび、音が起こった。それは明らかに小枝を踏む音で木のきしむ音がつづいて聞こえた。
治兵衛が突然、身を起こすと、
「覡か!」
と叫んだ。
静寂の中でふたたび、木のきしむ音がした。
治兵衛はふたたび、誰何したが返事はない。
「射て!」
治兵衛の口から叫び声が起こった。
射手から、鋭い発射音が噴き出した。それにつづいて銃撃音が周囲に満ちた。弾丸が次々に装填され、発射される。
静寂は破れ、硝煙がむせかえるように流れた。その中で治兵衛は膝立ての姿勢で連射をつづけ、他の男の銃口からも発射音が起こった。
黒いものが早い速度で走るのが見えた。それは荒々しく、まきあがる砂でまたたく間に樹木の密生する山の傾斜に消えた。銃声は、それを追うようにつづいたが、やがて絶えた。
彼らは、砂煙に包まれていたものが、驚くほどの速さで走り去ったことをうわずった声で口にし合った。見たこともない者たちは、幻影ではない熊の姿を初めて眼にしたのだ。 彼らの興奮は容易にはしずまらなかった。
熊の体が予想以上に大きく見えたことを口にする者もいれば、その地響きで樹林の土砂が落ちるのを見たという者もいた。
「静かにしろ」
治兵衛が、血走った眼をひからせた。
「用意した物を早く出せ。鉄砲がだめでも覡とてこれを喰らえば手も出せまい」
男たちが用意していた別の弾丸を取り出した。 男たちが手にしているのは、殺生石である。殺生石を弾丸にして作ったのだ。
「鳥、獣がこれに近付けば、その命を奪う殺生の石」
治兵衛は、口元をにやつかせて言った。

傷だらけの魂

第六章 傷だらけの魂

治兵衛は、風向を探るらしく宙に視線を向けた。その顔は別人のようにこだわり、眼には鋭いひかりが浮かんでいた。
男たちは、治兵衛が近くに狐か熊の気配をかぎとっているらしいことに気づいた。
治兵衛が、急に背をかがめ足音を殺しながら城の方向に進みはじめた。男たちは、動悸が高まるのを意識した。
治兵衛は土を静かにふんで歩み、男たちはその後ろからついて行った。
巨大な柱のようにそびえ立つ木が迫ってきた。治兵衛は、その傾斜に足をふみ入れたが、不意に動きをとめた。体は前方に向けられていたが、顔が右方にねじ曲げられている。
男たちはその視線の方向に眼を向けた。
そこは、城の渓流の淵から始まる山の頂きにある地で、巨大な木が雑木とともにまばらに立っている。
彼らの眼には、何もとらえられなかった。ただ、樹木の霧の白さが広がっているだけである。 治兵衛の体が、かすかに動いた。少し、ぬかるんだ場所に治兵衛は静かにふみ、その足跡を男たちは、足をふみ入れた。
突然、男たちは自分の体が凍りつくのを意識した。樹幹の間から青白いものが見えた。
太い大木がそびえ立っていて、その傍に毛をかすかに震わせているものがいる。
男たちから、腰にしがみつきたい衝動が起こった。
鉄砲が手からはなれ、地面に落ちた。足が硬直し、全身に痙攣が走った。彼らは、地面に腰を落とした。
九尾だけでなく、熊もいたからだ。
彼らのかすんだ眼に、治兵衛が一歩一歩進んで行くのがとらえられた。
熊は、逞しい背を向けて立っている。山の傾斜にある城を見下ろしているようだった。
治兵衛の動きが止まった。彼は、巨木に身を寄せ、鉄砲をかまえた。男たちには、その立射の姿勢が美しいものに見えた。
弾丸から毒が出て、辺りの木々を枯らし始め、九尾は空へ逃げるように行ったが、残された熊は茶色い毛を逆立て、熊の体がのけぞり、仰向けに倒れた。
熊から長々と呻き声が起こっていたが、徐々き弱まって、やがて消えた。
治兵衛は、それを見届けると振り返った。治兵衛の顔は、死者のように血の気が失われていた。 唇は白け、日焼けした顔の皮膚に皺が不気味なほど深くきざまれていた。
「見たか! これがこの石の力だ。恐れはいらぬ。射て」
彼らの口から叫び声が起こった。
男たちのかまえた殺生石をつめた鉄砲から鋭い発射音がふき出した。それにつづいて、弾丸が次々に装着され、発射される。
その頃、城の者たちは何か異様な異変に気付き始めたが、すでに毒は城の中まで達していた。
多数の者が一斉に呻き声をあげ、その声にまじって明らかに獣の悲鳴と思える叫び声が長々とつづいた。

怒り

人間と獣の叫び声が途方から光の耳に入ってくる。
陽光はまぶしく、光は眼を閉じて耳をすましていた。
「光、玉藻が戻ってきた」
傍に立っていた熊が、うわずった声で言った。 光は眼を開き、振り返りった。玉藻が近づくのを待った。
「奴らが殺生石を使って動き始めた」
玉藻は、先の出来事を話した
光は、全てを知ってた。
「お前は、皆に退くように伝えろ」
光の眼にひかりが宿り、よくやってくれたことに対して礼を述べた。
熊は、うなずくと、ここから一里(四km)ほど離れた所にある見晴らしのよい場所へと向かっていた。
「殺生石の弾が飛んできたのはどちらの方角だ?」
玉藻は、不死の森と城の境目の方向に顔を向けた。
光は、玉藻の視線の方向に眼を見据えている。 光の胸にはちきれるほどの憎悪の炎が燃え上がっていく。
心の片隅で、ほんのわずかな人間の存在が、絡まった玉糸のように置かれていたが、それは消えた。
光の周りで、枯れた枝の折れるような音がし、その足元の地面に亀裂ができ始めていく。
全身の霊力が、怒りで無意識にやっているものだった。光は瞬きもせず、手に持った槍を地面に突き刺した。
その瞬間、眼にも止まらぬ勢いで真っ黒な大地に赤い亀裂が走った。
地底から振動と共に恐ろしい地鳴りが鳴り響き、城が雪崩れるように崩れていった。
砂煙と瓦礫が人間を襲ったのだ。

その頃、頼邑は傾斜をのぼっていた。
突然、前方から獣の咆哮のような不気味な音が聞こえてきた。
ギャア、ギャア
と、黒い鳥が不死の森から飛び立っていくのが見える。
つづいて、大きな揺れが頼邑を襲った。
……地震!
すぐにアオからおりると体勢を低くした。
大きな揺れは収まるものの、周囲の小石が互いにぶつかり合うほどまだ揺れは残っている。
四方を見渡すと、煙がたちこもっているのが目についた。急いで頼邑は、その方向へと突き進んでいった。

大殿の最期

横→縦切替

東の空は、あつい雲でおおわれていた。
まだ、昼後ではあるが濃い夕闇につつまれているようだった。おまけに霧もたちこもっているせいか、辺りは視界が悪く、何がどうなっているか分からない。
熊の毛皮を身につけた男は、ゆっくりと上半身を起こし、周囲を見渡す。あちこちで、呻き声や人の悲鳴がとびかっている。
一瞬で城が崩落したことだけは鮮明に覚えていたが、その後の記憶が思い出せない。
そのとき、ようやく男は気付いたのである。
顔面に裂傷を受けた人間が、ごろごろと転がっていることを。男は一瞬、ギョッとしたように立ちすくんだが無意識に右手を柄に添えていた。男は恐怖を覚え、胸の動悸が激しくなった。そのとき、ギャッ!と叫び声がした。つづいて、何かを突き破るような音が響き渡る。
男は抜刀し、構え、周囲を見渡した。そのとき、ふいに何者かが前に現れた。霧ではっきり見えないが、手に小刀を持っている人の姿があった。
男は眼を剥き、顔を強張らせたが、女であることに気付いた。
「な、なにやつ!」
と、声を上げて刀をつきだした。
女は、男の身につけた熊の毛皮を見つめながら何も言わず、少し間合いをつめてくる。
「な、何の真似だ」
鷲鼻で、顎のとがった顔が、憤怒と恐怖とで奇妙にゆがんだ。
「冥途の道行きの手伝いだ」
「な、なに。道行きとは何のことだ」
男は腰を引いて、後退り始めた。
一瞬、男は里の人間の押し込みと思ったが、女であることと、覡であることに気付いたらしく、その顔が引きつった。
「お前が、その親子を殺し、盗みまで働かせた愚かな人間だな。直接手を加える」
光は、この男を大殿と分かっていた。
「わ、わしを殺す気だな!」
覡の狙いを察知した大殿は切っ先を光の喉元に突きつけた。
ただ、異常に気が昂ぶっているらしく、両肩が上がり切っ先が小刻みに揺れていた。
イヤァッ!
裂帛の気合を発し、大殿の体が躍った。刹那、腰元から稲妻のような閃光が横に一文字に疾った。
光は、大殿の後ろにすばやく反転し、空気を切り裂く乾いた音と共に小刀を突き上げた。
大殿の胸に小刀を突き刺した。
グッと喉を鳴らして身を反らせたが、大殿は夜叉のような顔をして腕を伸ばし、光の顔につかみかかろうとした。だが、大殿の足元なら芽が生え始め、あっという間に大殿の体は木と一体化するかのようにのみこまれていった。
大殿の顔だけが木からでて、血の気が失せて紙のように白くなり、口を開けたまま絶命したのである。
「済んだようだな」
玉藻が、人間のひきちぎった手を加えたまま声をかけた。
「ああ、あとはお前の好きにしろ」

交わることのない闘い

横→縦切替

頼邑から荒い呼気が、強くなっていく。ただ、ひたすら走り続けた。
不意に頼邑の手が硬直し、手綱をとめた。
前方の闇の中から野鳥の群から鋭く啼きしきるのに似た声が聞こえてきた。それは、頼邑が不死の森で瀕死の傷を負ったときに耳にした声と同質のものであった。
大多数の者が一斉に換気を上げているようにも聞こえる。その声にまじって、明らかに悲鳴と思える叫び声が長々とつづいた。
頼邑は、ふたたび走り出し、道のゆるく曲がった角を曲がると渓流の左側に建つ城が見えた。
だが、城は建物の半分が崩壊され、周りは瓦礫化している。
頼邑は一瞬、体を固くさせると城の周囲に眼を据えた。だが、霧が濃く、はっきり分からない。 頼邑はその異変を感じ、耳をすますと、それは何か固い物を強い力で、へし折るようなひどく乾いた音であった。
それにつづいて、物を砕く音が聞こえてきた。頼邑の表情がゆがんだ。音はつづいている。それは、明らかに獣が骨を噛み砕いている音であった。
呻き声は聞こえなかった。
人がすでに息の根をたって、熊が死体を意のままに食い続けていることを示していた。
あまりに酷いものだった。
頼邑の脳裏に平八郎から、人喰い熊の話を目の当たりにし、怒りに近い悲しみがわいていた。
頼邑は落ち着いて、しかし素早く矢を番え、熊を狙った。
矢音が遠のいたとき、頼邑は足元の土がゆれるのを感じた。重量感にあふれたものが、突き進んでくるのが感じられた。
それは、頼邑から逃れるように砂埃をまき上げていった。
熊の足音であった。
頼邑は、アオからおり、熊の後を追う。そうすれば、この先に会わねばならない者がいると確信したからである。
ヒィッ、とひきつったような悲鳴を洩らし、這いつくばって逃れようとしている人影が見えた。 刹那、もう一人の手にした刀が一閃したのが分かった。
「やめろっ」
頼邑は、声を上げた。
人影は、驚いたように振り上げた小刀をピタッと止め、こちらを見た。
頼邑は、慎重に前に歩み寄ろうとした。そのときだった。
霧の陰から、ふいに影がとび出した。人影の背後にひかりを反射て青白くひかっている姿があった。
……玉藻!
人影の背後にひかりを反射て青白くひかっている玉藻の姿だった。
玉藻なら、その人影が誰なのかすぐに察知した。
「光……」
頼邑が、そうつぶやいたとき、霧の中から光の顔が、くっきりと現れる。光は小刀をその場に落とすと、頼邑から眼をそらさないでいた。
その瞳は、獣の如く鋭い刀のようだった。
頼邑は、それに応えるかのように眼をそらさなかった。
頼邑が、何か言おうとしたとき、
「言うなっ、何も言うな!」
と、光が少し息を荒立てて言った。
「もう遅い。熊たちがどこへ向かったか分かるか?」
と、玉藻が低い声で言った。
……まさか!
その言葉に頼邑の顔が強張り、すぐに里の方角へ眼を向けた。
すでに熊たちは、里の方へ動き始めてる。光はその足かせだったのだ。
おそらく、治兵衛と男たちは戦いに行って今、里にいるのは女ばかりだと知っていての奇襲だろう。
頼邑の脳裏に、伊助を始め里の者が喰い殺される光景が浮かんだ。
「今すぐ、退け! これ以上、血で血を洗うな」
頼邑のとんだ声に光は、眼を細めて、
「血で洗う? そうしたのはお前たち(人間)ではないかっ」
吐き捨てるような口調で言った。
その言葉に頼邑の胸に一寸の針が刺さった痛みがした。
「お前が、そっち側(人間)に行ったのだろう。なら、それなりの覚悟はあるはずだ」
光がそう言った途端、頼邑は、
「だから、ここへ来た」
と、力のある響きで言った。
一人でここまで来たのは、以前のような関係は戻れなくとも、心のどこかで、光の心に人を想う気持ちを忘れないでほしいと気持ちがあったのだ。
「殺すべきだった……」
光は眉宇を寄せ、苦しげな顔を見せた。
その言葉を聞いて頼邑の小さな期待は無惨にも打ち砕かれていったのがはっきり分かった。
「まだ、間に合う。憎しみで全てを失うことになるぞ」
頼邑は、まるで己に言い聞かせるように光に言った。
光は、ギクッとした。
頭の中が吹っ飛んでしまい、何も聞こえなくなった。かつて憎しみの心を持ったことで、それ以上に失うものがあるということに思い知らさられた。
光には、そうなって欲しくないと気持ちと里を守りたい思いが入り混じった。その思いの眼差しを光にむけようとしたが、頼邑はやめた。
……黙れ。
光が、声を震わせて言ったからだ。
頼邑から、ひそかな一撃を受けたのは確かだった。
『全てを失う』
と、頼邑は言った。
そのようなことは、とうの昔の自分がよく味わっている。人間から捨てられ、人間でも獣でもない、まして神でもない。
だから、力ずくで生きる場所を奪ってきた。気付いたら血を染めていた。
そうさせたのは……。
かすかな記憶の中で、まだ乳飲み子な赤子が冷たい手の中に抱かれ森の奥へと連れていかれるのが見える。
赤子は、人間の顔を見たが、その顔は影に隠れている。赤子は、ひんやりとした石の上に置かれたその後は思い出せない。もう、人間もいない。 微かなに憶えているのは、暖かい青白い毛に包まれていたことだった。
……光。
誰かが、名を呼んでいる。
聞き覚えのある優しくて心地良くしてくれる声だ。
だが、その名は真の名ではないと強く思った。 自分の名は他にあるのだと。けれど、驚いたことに、どんな名なのか思い出せないのだ。
自分は、どこで生まれたのか何一つ思い出せない。まるで狐に包まれたようだった。
最初は微かに、それからはっきりと誰かの言葉は木霊のように何度も頭の中で響き渡る。
……気味が悪い。
……災いの前兆だ
……早く殺してしまえ。
……おぞましい。
……死んでくれて有難い。
思わず、耳をふさぎたくなるほどだった。まるで、散らばった破片が繋ぎ合わさっていくかのように記憶が鮮明になっていく。
記憶の片隅に置き去りにされたものは、二度と戻ってこなかったが、頼邑と出会ってから、ぷつぷつと繋がっていく記憶に気付きながらも、初めて感じた優しさに触れてみようと思った。
でも、そんなものは手の中ですくい上げた水が、こぼれてしまうのと同じで残ったのは虚しさだけだった。
『全て失う』
それだけは、頼邑の口から出してもらいたくなかった。
言いようのない憤懣と憎悪が胸の中に渦巻く。 感情の潮が、なお上がり、
……黙れ。
と口にしていた。
頼邑は、狼狽の表情を浮かべて、
「命を粗末にするな。生き延びろ」
と言った。
だが、その言葉は、ほとんど風に運ばれてしまい、光の耳に届かなかった。
「黙れ」
頼邑を見つめた双眸が底びかりし、全身から痺れるような殺気を放射していた。
「だまれ、黙れっ!」
光が叫んだそのとき、鋭い刃物を当てられたような痛い風が頼邑を襲った。
頬、腕、足から帯のように血が流れた。
「今さら、何も聞きたくない。こう仕向けたのはお前たち(人間)ではないか。私は、死ねと言われたんだ。でも生きてる。それがお前たちには許せないのだろう」
本当は頼邑に、言っても意味がない。自分を優しく受け入れてくれた頼邑には関係のないことだが、沸き起こる怒りを抑えることはできなかった。
張りつめた空気の中で、恐ろしいほど冷たい風が吹く。
頼邑は、その風を受け止め、一歩近付き、
「過ちは消すことはできぬ。だが、私はそなたに生きてほしい」
そう言って、真っ直ぐな瞳を向けた。
頼邑の澄んだ瞳が、どこかで見た気がした錯覚に光は襲われた。だが、それが実にどういう訳か知りたくはない。
それにもかかわらず、まだその瞳を向けているので苛立ちが高まり、怒りに震える唇を血が出そうなほど噛み締め、
「無用な話はここまでだ。私達は行く道は違う。その道にお前は不要だ」
と、唇からしたたれるようにポポタと光の足元に血が地面に染み込んでいく。
光は、視線を逸らし、里の方角へと向けた。その横顔は、異様なひかりを放っている。
「光、行くなっ」
咄嗟に頼邑は言った。
その必死な訴えに応えるかのように、
……頼邑。
と、小声であったが、頼邑は思わず背筋が凍るほど冷たい声だった。
「お前を殺したくはない。だから、このまま何も言わずに去ってほしい」
今までの強い口調とは一変し、穏やかになった。だが、頼邑には心はどこかへ置いてきてしまったような冷たい口調に感じた。
ふたりの間には、長い沈黙が続いた。
「今なら見逃してやる。納得したなら、去れ」
光はもう一度、念を入れた。
頼邑は重い口を開き、
「すまない。私にはできぬ」
やっとの思いで答えた。
責めたい気持ちより、光とは違えてしまった悲しみの方が大きく、胸がいっぱいだった。
そして、光も頼邑が自分の手から離れていくことに心が揺さぶるように動きを起こしていたが、それを顔には出さず、気丈を保った。
「頼邑、お前は命を持って失う覚悟があるか。それなら、お前に残された道はひとつしかない」
瞳に冷たい憎しみの青い生気が燃えていた。
「光!」
玉藻が間に割って、牙を頼邑に向けたとき、
「玉藻、手を出すな。手元がくるうからな」
そう言い、頼邑を見据えた。
そのまま眼を逸らすことなく、死体の鞘から刀を抜くと、その切っ先を地面に引きずるように立った。
「霊力は使わない。互いに同じ武器だ。だから、お前も私を殺せっ」
眼光は射るように鋭く、獣のような凄みと狜々しさで、ゆっくりと上段に構えた。
大樹のような構えである。
気勢がみなぎり、一撃必殺の気魄があった。
……上段!
上段は、相手より高い自分には有利だが、構えることによって隙ができる。それに、光は頼邑より小体なのにどういうわけが上段で挑んできた。 だが、隙のない綺麗な構えである。
頼邑の全身に気魄がみなぎり、鋭い剣気を放射していた。頼邑は光の構えに押しつぶされるような威圧を感じた。
頼邑は、ピタリと切っ先を敵の喉元につけたまま動きを止めていた。気を集中させ、その威圧に耐えていたのである。
すぐに光は趾を擦るようにしてジリジリと間合を狭めてきた。
一足一刀の間境まで身を寄せると、光は斬撃の気配を見せ、グッと上体を前にかがめた。上段から斬り下ろすと見せた誘いだった。その動きに誘発され、頼邑が斬り込む瞬間をとらえようとしているのである。
だが、頼邑は仕掛けず、逆に動いた。スッ、と刀身を落として、半歩身を引いたのである。
光は身軽に宙返りすると、霧の中へ姿をくらました。頼邑は、霧で視界を失い、辺りを眼だけで見渡す。
遠方に、人影が見え、金色の瞳が鋭利で容赦のない視線が現れた。
刹那、光の全身に鋭い剣気が疾った。
……疾い!
あれだけの距離を疾風の如く敏速に間合をつめてきたのである。
電光のような光の斬撃が、頼邑の頭上へ。それを頼邑の刀身が下から撥ね上げる。
キーン、という金属音がひびき、青火が散った。
「死ね」
光がつぶやいた。
「そなたを殺したくない!」
頼邑が必死に伝えたが、
「私もだ。でも、人間のお前なら殺せる」
そう言うと、光の切っ先が頼邑の右手に伸び、頼邑の切っ先は光の肩先をとらえた。
両者は交差し、間合をとると、反転して切っ先を向け合った。頼邑の右手から血が流れ、光の貫頭衣が裂けて血がにじんでいる。
ふたりとも深手ではなかった。浅く皮肉を裂かれただけである。だが、光の傷口はふさがっていった。
頼邑は、光の刀身を薙ぎ払おうと振りかざしたが、光はバク転し、よけた。
……身軽さは、あちらの方が上だ。ならば!
頼邑は、そのまま左手に走り、竹林の中へ跳躍した。
「待てっ! 逃げる気か。私と戦え!」
獲物を追うように、その後に続いた。
光に応えるように、ピタッと足を止め頼邑は対峙し、互いは睨みをきかせた。竹林の中は、笹の葉がゆれ動く音が人のうなり声みたいに響き渡る。
「ああ、ここで終いにしよう」
頼邑は、つかみかかるように駆け寄ってきた。 反射的に光は、後ずさりしたとき、体の重心が崩れるような感覚に襲われた。
周囲を確認すると、竹でびっしりと覆われた場所では、狭くて、逃げ場もなし、そして疾さも身軽さも閉じ込められることに気付いた。
次の瞬間、頼邑の体が大きくなり、その体に覆い被されていく。頼邑の顔が陰で暗くなり、見えなくなったが、眼だけが、はっきりと見えた。
頼邑の手が、目の前に迫ってくるのが分かった。少しでも逃れようと、後退りし刀を頼邑の手首に突きつけた。
ビィィ、と着物が裂ける音がした。
赤い帯のような血が散った一瞬、頼邑は、重心が崩れ落ちる光を掴みかかり、刀身を薙ぎ払った。
刹那、頼邑の切っ先が槍の穂先のように前にのびた。一瞬のことだった。
他の音を破り切るほどの音が起きた。ハラハラと落ちる葉が、後の静けさを残していく。
頼邑は、馬乗りにで光の皮肉を避け、貫頭衣だけを突き刺し、左足すねで光の左手を押さえた。「光、ここで引け! ここまでだ」
頼邑は強い口調で言った。
息が少し弾み、わずかだが、両肩も波打っている。
光は、吐き捨てるような笑いをし、
「馬鹿が……。これで終いのつもりか?」
と、喉をつまらせ、右手で頼邑の手首に爪を突き立てた。
ほんのわずかに頼邑の手が振動のように動いた刹那、右前腕から刃物が現れ、頼邑の額から赤い糸のように血がとんだ。
右前腕に隠し武器を仕込んでいたのだ。光は瞬時に脇に跳んで、ふたたび構えた。
周囲が開けたように周りの竹が割れた。そして、頼邑に迫り来るように、間合をつめてきたので頼邑は、白光が半弧を描いて前にのびた。
刀身が、陽の光を反射したのである。刹那、光の体が躍動し、身軽に頼邑の頭上を飛び越えた。 頼邑の体も躍動し、下段から逆袈裟に斬りあげた。一瞬の反応である。
瞬間、シャッ!と刀身が擦れるような音がひびき、青火が逆袈裟には疾った。光は右腕に焼き鏝をあてられたような衝撃を感じ、反射的に後ろへ跳んだ。
右の二の腕が斬られ、貫頭衣が裂け、血がほとばしり出ていた。頼邑の太刀筋が迅く、光の眼にも見えなかったのである。
それより、もっと信じ難いことが起きた。傷の回復ができなかった。
光は、刀を左手に持ち替え、後退った。

死への恐れ

……まずい。
今まで手出し、しなかった玉藻が察知し、牙を剥き出しにすると唸り声を上げた。
「霊力の使いすぎだ。 下がれ、こいつは俺が殺る」
玉藻が止めを刺すように叫んだ。
「助力無用(じゅりょくむよう)!」
すざまじい顔に豹変していた。
眼を大きく開き、歯を剥き出し、憤怒の形相で頼邑に迫ってきた。
「よせ!」
頼邑は声を上げて、身を引こうとした。
だが、遅かった。光は飛びかかるように、そのまま斬りつけてきたのだ。頼邑は、振り上げた刀身を返しざま袈裟に斬り下ろした。
光は一歩身を引きながら、刀身を注ぎ込むように頼邑の籠手に斬り込んだ。神速の太刀捌きである。
光の切っ先が頼邑の首を浅くとらえ、頼邑の切っ先は、肩先の貫頭衣が裂けただけだ。
ふたりは斬り込んだ後、すばやく背後に跳んで大きく間合をとった。頼邑の顔が悲しい表情でゆがんだ。首元からしたたれる赤い血が、襟元を染めていく。
光は、下段に構えたが、その刀身が笑うように震えていた。先の傷の痛みが強まっているようである。それでも、光の双眸が猛々しい野獣を思わせるように烔々とひかっていた。
「もう、よせっ」
頼邑は悲痛な、切迫した声を上げ、身を引こうとした。
「黙れ!」
光は、耐え難い絶望と怒りで絶叫し、森の闇を劈いた。
突如、光に稲妻のような殺気が疾った。
……来る。
頼邑の閃光が疾り、疾風のように体が躍った。頼邑は短い踏み込みで、青眼から籠手へ。光の切っ先が頼邑の刀身を巻くように小さ弧を描いて胴へのびる。
わずかに右手に体をひらいた光と頼邑が入れ違い、反転し、間をとってふたたび、切っ先を向け合った。
頼邑の右脇腹の着物が裂けていた。
だが、肌まで届いていない。光の斬撃は届かなかった。痛みで体の感覚が鈍っているようだ。
一方、頼邑の切っ先は、光の右手の甲を浅く裂いていた。
「なぜ、手を止める!」
光が声を上げた。
その声に苛立ったような響きがあった。確かに右手の甲ではなく光と同じく斬撃をすれば必ず狙えた。
流れる血と疼痛が、光の平静さを乱したようだ。
「お前が私を殺さなくとも私が殺せば全て済む」
光が対峙して言った。
頼邑の瞳孔が大きく開く。このとき、はっきりと分かった。もはや、光を止めることはできない。しだいに気の昂りが薄れていき、かわりに頼邑の胸に悲哀と空虚が満ちていた。
ふたりの間に見えぬ糸があり、頼邑に激しい痛みが伝わってきた。だが、その痛みは互いに交わることはない。
頼邑の脳裏に、ほんの束の間だったが、光と共に過ごした時が浮かんだ。それは喜びに満ち、頼邑にとって大切なものになっていた。
そう、幸せな夢を見ているようだった。笑い合った時が、もう遠い記憶のようだ。だが、夢は夢だった。幻に過ぎない。
それでも、幸せな夢を見たのだ。頼邑の心の中でその想いが静かに閉じた。
地面に落ちた、ふたつの短い影の間が引き合うように狭っていく。
フッ、とふたつの影の動きがとまった。ふたりは凝固したようにうごかなかった。
たらっ、たらっ
と光の手の甲から流れた血が腕をつたい、肘から滴り落ちていた。
「光! 来いっ」
頼邑は声を上げて、踏み込んだ。
それと同時に両者の間から大気を裂くような殺気が疾った。頼邑はそれを待っていたかのように刀身を半狐をえがいたとき、手から刀身を放したのだ。
光の切っ先が槍の穂先のように前に伸びていくのを確認すると頼邑は自ら手を広げ、飛び込むように向かっていった。

ドスッ! 、という鈍い音がし頼邑の上体が前に傾いだ。
光の一刀が、胴を深くえぐったのである。着物が、どっぷりと血をふくみ、真っ赤に染まっていく。
「なぜ……。なぜ、刀を捨てた」
光は唇を震わせて言った。
一瞬の出来事に頭の中が白く溶け落ちるような衝撃を受けた。
「そちらこそ、なぜ急所を外した」
頼邑は、クッと喉を鳴らしながら言った。
光は、手にしている刀身を抜こうとした。そのときだった。
ものすごい力で、頼邑は抜こうとする光の手を握りしめ、
「抜くな! そなたの中で消えぬのなら私が受け止める。受け止めてやる!」
苦痛に顔をしかめ、握りしめている光の手を抑え、さらに深くえぐった。
「やっ、やめろ!」
光が叫び声を上げ、頼邑の手から逃れようとした。
だか、ものすごい力でピクリともしない。
ボタッ ボタッ ボタッ
と、どす黒い血が流れ出るように落ち、ふたりの足元を染めていく。
「自由になれ。光…」
頼邑は、土気色をして脂汗が浮いていた。
その言葉に光は耳を疑った。
「よく聞け、光。私にとどめを刺せ。そなたの怒りも憎しみも私が命と共に持ち去る」
頼邑は、空を見上げると、一羽の鳥が大きな翼を広げ、とんでいるのが見えた。その姿は、何も縛られることもなく、自由に羽ばたいていた。
そっと、頼邑は光の頭に触れ、
「私は肩翼を失った鳥だった。されど、そなたにもらい、また羽搏くことができた。次はそなたの番だ。共に羽搏きたかったが、もうできそうにない…」
頼邑は苦痛の中で笑みを光に見せた。
光は叫んだ。頼邑の腹部が血に染まっている場所に手を置いて全身の力を振り絞るように治癒した。
だが、腹部のあたりが見る間に血であふれ、広がり始めている。わずかに残された霊力では限界だった。
玉藻がゆっくりとこちらに来た。頼邑の腹部を見て、
……これは、もう。
急所を外したところで、光は無意識に霊力を込めた刀で頼邑を刺していた。玉藻は、助かることはないと悟った。
その間に頼邑の荒い呼吸が少しずつ浅くなってきた。徐々に顎だけが小刻みに動くだけ呼吸していた。
光の瞳から涙が頬をゆっくりとつたい、それが頼邑の手に落ちた。その温かな滴は頼邑に伝わった。胸の奥がつき上げるように痛く、今まで味わったことがない感情が底から沸き起こった。
悲しみ、怒り、憎しみではない。そのとき、自分が頼邑と見たこともない場所へ旅をし、ふたりで手を取り合って笑い合っている光景が浮かび上がった。なぜ今、こんな光景が浮かんだのか分からない。でも、それはきっと楽しいものに違いない。
「ああ…、きっと楽しい」
頼邑は静かにつぶやいた。
そっと、光の涙をぬぐった。頼邑には、光が見えた光景が分かったのだろうか。穏やかな表情で笑みを浮かべている。
光は、きつく眼を閉じるとさらに涙が頬に流れる。体が小刻みに震えだし、心ノ臓が早鐘のように鳴り出した。
人間を殺したのは憎いだからだ。それがあまり前であった。人間の死の瞬間は、まるで花びらのように虚しく散っていき、その姿を見ても何も感じない。だが、今はたったひとりの人間の死を目の前にして恐怖を感じた。
死を前にした人間は、恐怖に混じった顔で自分の顔を見ながら絶命してきた。自分はその表情を見届けることなく、次の獲物を見つけては殺していく。
だが、今は殺そうとして刀を向けた人間に対して恐怖を抱いた。
頼邑が死ぬのではないか…。
と、いう恐怖を。
光は、涙をぬぐって、
「さっき夢を見たんだ。お前と旅をする夢を。どうせ行くなら海を越えたい。きっと楽しい。きっと…」
と、頼邑の手をそえながら言った。
「ああ」
頼邑は眼に涙を浮かべ、光の手を握った。
「行こう。お前とならどこへでも行けそうだ」
光がそう言った瞬間、頼邑は手を強く握り直し、
「ひと足先に行く。待っている。早くは来るな。ゆっくりでいい。私はいつでも待っているから」
そう言った後、頼邑は糸が切れたかのように、すっと眼を閉じ、握りしめていた手は光の手から落ちていった。
ゆっくりと落ちていく頼邑の手を見ながら息もできぬほどの恐怖が全身を駆け巡った。次の瞬間、光は落ちそうになった頼邑の手をつかまえ、
「駄目だ! 死なせるものかっ。お前は卑怯だ。私にこんな思いをさせて死ぬのか」
霊力が、ほとんど失いかけていたが、それでも霊力を注ぎ込んだ。
……助ける。 もう一度お前を助けてみせる!
意識が混濁していく中で、光の腕から血飛沫がとんだ。それも、一箇所だけではない。流鮮やか血は光の色白の肌を真っ赤に染めていく。
「もうやめろっ、 そいつはもう駄目だ」
玉藻は、叫んだ。
光の傍らに虚しく転がっていた香炉から煙が立ちこみ始めた。その異変にすぐ、気付いた玉藻が、
「こいつから離れろっ」
切羽詰まった声で言った。
だが、光は動けなかった。頼邑を残して自分だけ離れられなかったのだ。そうしている間にも、煙は真っ直ぐ立ち昇り、渦巻きながら円を開いて拡げた翼のように段々と明るく冴えた秋空に濛々と立ち昇る。
辺りは黒汁のような一面の煙となった。
急に眼の前が真っ暗になり、玉藻の姿も頼邑の姿も見えなくなった。気を失ったのである。

襲来

治兵衛を率いる男たちは、茂みの中にうずくまるように潜んでいた。
恐ろしい地鳴りが鳴り響く中、治兵衛は鉄砲を構えている。辺りは、濃い霧につつまれ、視界が悪いので状況をつかむには困難であった。
そのときだった。霧の中から巨大な熊の鋭い牙が治兵衛に襲いかかる。
熊の牙は、治兵衛の首筋を深くえぐったのである。
治兵衛は、首を前に垂らしたまま地面にうずくまり、首根から血を流していた。その凄まじい光景を眼にした男たちは震えていたが、ヒイイッ、という喉の裂けるような悲鳴を上げ、逃げた。
熊は逃げる男たちを執拗に追いかけていく。男たちの間から撒き散らした血が木々を赤く染めていった。

その頃、月霧の里では、城が崩落した光景を見た後、激しい地鳴りに耐えていた。
伊助たちは、治兵衛たちの帰りを待っていた。治兵衛達が森へ行った後、もう一度説得し、連れ戻すために遣いを出したのである。
そのとき、里の門手から何かを破る大きな音が起こった。皆、とっさに鉄砲や槍など武器になる物を手にとった。
侍の襲撃だと思ったのである。しだいに迫り来る巨大な足音は人ではないと察知した。伊助たちは、鉄砲を構えてから引き金を絞ると銃声が響き、弾丸は銃音を伴って乱れ飛んだ。
弾丸の間から、ぐわっと飛びかかるように獣達が襲いかかってきた。けたたましい破裂音と共に爆発音が鳴り響き、木材を切り破る音が混ざり合う。
「伊助、闇雲に撃つな! 引き寄せてから撃て!」
叱咤するような平八郎の声に、
「だが、この数ではキリがないぞ」
と、言いながら、また引き金を抜いた。耳を聾する炸裂音がすざましかった。
女、子供が逃げ回る中で、お花もその中にいた。むせるような血の匂いに思わず、口元をふさぐ。
お花は、ハッとして足を止めた。
そこは、おびただしい鮮血が雨のように降りかかる光景が瞳の中に映った。頼邑の血で血を洗うな、という言葉がまさに、このことだという事を思い知らされた瞬間であった

非情な罠


いつから眼を閉じていたのか。意識がだんだんあるべき場所に戻り、身体の感覚が通常に復してきた。
頼邑は目を覚ました。
「ここは……」
辺りを確認していると、そこはひかりに包まれている空間のような場所だった。そのとき、すぐに何かの気配を感じ、視線をやるとひかりの中から無数の人影のようなものがうごめいているのが見える。
「何者だ」
頼邑が誰何した。
無数の影は答えなかった。いずれも、頼邑を見ているのは間違いない。
「妖か?」
さらに頼邑が声をかけると、無数の影の中から、
「お前は死んだ。光の手によって」
と、低い声で言った。
「光はどこにいる?」
「我は、香炉の主である。光の霊力の生みの親とも言えよう」
声の主は、頼邑の問いには答えず、意味深しげなことを言った。
「光の生みの親は人間ではないのか」
頼邑は、香炉の主を見据えて質した。頼邑の顔に険しい表情があった。
「我らが光に霊力を与えた。命と共に霊力を吹き込ませたのだ」
頼邑は、耳を疑った。
光の霊力は、生まれ持ったものだと思っていた。それが、自然なものではなく、故意的なものだとは思いもよらなかった。
「その訳を問う」
頼邑が訊いた。
「元より、はるか昔は、命の始まりがあり、終わりを告げていた。皆が波を荒立てることはなく、生きてきたが、やがて力を覚え、その力を我が物にするようになった命が生まれた。分かるか?」「…………」
「お前たち(人間)だ」
香炉の主はつぶやくような声で言った。
「個自の力を覚えた命に恐れをなした神が、人の子に霊力を与えたのだ」
香炉の主は、淡々と話をすることに頼邑は怒りが徐々に湧き出した。
「そのためにあの子を犠牲したのか」
「それを決めたのは我らではない。三狐の神だ。三狐の神は、人間を恐れていた。ならば、人の子に力を与え、人間の醜くいものを見せれば自ずと憎しみは増す」
……さすれば、三狐の神にとって好都合だからな。
と、頼邑は思った。
厄介な人間を統御するなら、人間を妖側に付ければ早いことだ。三狐の神は、光の育て親だと聞いた。
頼邑は、拳を強く握りしめると周囲に風が吹きはじめた。
香炉の主は、頼邑を見据えて、
「三狐の神は、我らの道標になっただけだ。こうなる事は全て決まっていた。お前が、あの子に名を与えることも我らは、とうの昔に知っていた。いや、知っていたというより、そう我らが仕向けたのだ」
と、冷徹な声で言った。
「どういうことだ?」
頼邑は眉宇をひそめて訊いた。
「それを知るには、我らのことを話そう」
そう前置きして、香炉の主が話し出した。
まだ、森と人間が調和していた時代から、人間が新たな文明を築き、繁栄し始めた。だが、徐々にあらゆる命が失い、豊かだった場所には、草木さえ生えなくなった。
このままでは、全ての命が滅びゆくと悟った香炉の主は、ある目論見にかけたという。汚れのない世界を創り出すことだ。
さらに、香炉の主は、頼邑が生きている時代が過去であったことを話した。香炉の主が生きていた時代には、命が終わりを遂げようとしていた。その過去を消し去り、新たな過去を作ることだった。つまり、頼邑がこれまで歩んできたものは全て消え、全く別の未来が待っていることになる。そのためには、強い霊力で今の世界を破壊し、新たな世界を作り直す必要があった。
「それで、光を…」
頼邑が念を押すように言った。
「そればかりではない。お前は、我らの思惑にのっているだけだ。お前の意思によって旅をし、光と出会ったのではなく、全て我らの思惑通りなのだ。お前と出会ったことで光の憎しみは強くなり、霊力が高まった」
香炉の主の言葉に頼邑は、震えていた拳をゆるめ、目を閉じた。
故郷のこと、光と出会ったことの記憶が浮かんでくる。小さな記憶が愛おしく、全ての記憶を香炉の主は知っているのだろうかと思った。
この世界を消すには、あまりの代償が大きい。
「恐ることはない。我らはお前を殺すつもりはない。ただ、新しい記憶の中でお前は光と生きられる」
香炉の主は、惑わすような言葉を運んだ。
「お前は、命を冒涜している!」
頼邑は、強い口調を放った。その姿は威風堂々たるとしていて、香炉の主でさえ、圧倒されそうになったが、
「つまらぬ人間になりさがるつもりか。お前は感じているはずだ。己の心に素直になれ」
と、香炉の主がたぶらかすような声で言った。頼邑は、香炉の主の思惑が明確に気付いた。森を侵す人間との争いに生まれた憎しみ、汚れを無にし、全てのものを汚れなき世界に変えることだ。それは、この世界で終わりを告げた頼邑は、新しい世界で生きることができる意味でもある。今、この世界で生きている命の犠牲の上に世界は新しくなろうとしている。
それは、香炉の主がやろうとしていることは、この世界で生きる生命、新しい世界の世界に対する侮辱していると頼邑は感じた。命と命で成り立させ、都合よくさせているしか思えなかった。
「私が生きるべき世界は元よりある。それは変えることはできない。生があるからこそ終わりがある。変わりゆくものが命そのものだ。お前は恐れているだけだ。世界を変える? 死を否定しているお前に命はそれを許さないだろう」
頼邑が、底力のある訴えるような叫び声を上げた。
空気の間に見えない痛みが走っている感覚が香炉の主を襲った。
それを対峙するように、
「その元の世界のせいで、先の世界が生き残るために何をしたか分かるか? 枯渇した森、失われる命、全ての光が失われた中で手元に残ったのは憎悪と絶望であった。我らは、今度ばかり、苦しみ、汚れのない世界を試み、光を灯すためにここに来たのだ」
香炉の主の顔が、ぼんやりと浮かび上がった。それを見たとき、頼邑は背筋に冷汗が流れたのを感じた。香炉の主の顔は、故郷の長老だった。香炉の主は、頼邑の記憶に入り、それが形となって現れたものだ。
「どうやら、お前は死という絶望を選ぶのだな。先のある未来を切り捨て、滅びゆく」
長老の顔で語り出す香炉の主は、手をかざした。
突如、油のような黒い水が足元に湧いてきた。ぽこぽこと気泡が出て、徐々に足が埋まっていっている。
「命は、我らをなくしては絶える」
まるで頼邑を揶揄するように言った。
頼邑にはそれが香炉の主が命を我が物のようにしていることに底ならぬ怒りがこんこんと湧き出てきた。
「それを決めるのはお前ではない。汚れなき世界こそ、仮初に過ぎない。苦しみがあるからこそ、喜びがある。怒り、悲しみがあるからこそ、それを思う尊さがある」
命は決して永遠ではなく、常に変化を遂げ、次に繋げていく。
生は光、死を闇と捉え、闇という絶望は不要だと言っていた。だが、生というものは、多くの死に支えられてきた。そして多くの苦があるのだ。 香炉の主の言葉は、生の命な光で死や絶望は不要だということだ。
頼邑は、黒い池から這い上がるように、
「死とは生きることより共にある。死、苦しみを非しているお前は、この世界を変えるなどできない」
と、底びかりする眼で言い放った。
「お前は、我らには邪魔な命だ」
香炉の主が、殺気だった面貌に変わった。
頼邑は、ふたたび黒い水にとらえられ、徐々に身体が言うことが効かなくなっていった。

空想の記憶

光は、暖かく優しいものに包まれ幸せを感じていた。
顔を押し付けると、青白く柔らかい毛が全身を守ってくれている。すると、九の尾が光の頭をふんわりと空気のように触れ、清らかな風が間にこぼれていた。
その横には、玉藻もいる。光を愛おしそうな瞳で見るのは三狐の神だ。
まだ、幼く小さな光は、鳥が飛び立つような元気さで野山を駆けずり回っている。大地を小さな身体で精一杯受け止めた。
まばゆい陽の光と暗くても光を失わない月の光を浴び、毎日喜びを感じていた。木に登り、山の彼方にある太陽を見つめていると、目の前の景色がゆがんでいった。
そのまま深い闇に溶け込まれるように記憶がなくなっていったのである。
また、瞼を開けると、暖かく優しいものが顔に包まれていた。青白く、柔らかい毛が、光の金色の髪に程よく映える。あれから、時が経ち、成長し今の光がうたた寝していた。まだ、夢心地だった光は、玉藻だと思った。
ゆっくりと瞼を開けると木々の間から木漏れ日が反射してひかっているのが見えた。どのくらい眠っていたか分からないが、うっすらと瞼を開けると青白い毛が顔に優しくかかってた。
光は手の平を顔の前にもって確認した。その手は、成長した女性らしい手だった。どうやら、幼い頃の夢を見ていたらしい。
光は、ゆっくりと立ち上がり、
「玉藻、起きているか?」
と、言って玉藻を見た。
光は、ハッとして息を呑んだ。玉藻ではなく、死んだはずの三狐の神がいた。
「なぜ、かかさまが……」
光は顔をゆがめ、後退った。
光の様子に不思議そうに「どうしたのだ?」言わんばかりの表情をしていた。
「これは夢?」
光は、あまりの困惑で思考が停滞してしまった。
三狐の神は起き上がり、
「夢ではないよ」
と、穏やかな声で言った。
それを聞いたとき、心の帯を緩めたようにほっとした。
光は、頬を母である三狐の神の毛にこすりつけるようにして強くしがみついた。その光の眼が、涙に濡れていた。それを見た玉藻が、「らしくもない。どうした?」と、驚いていた。
「悪い夢でも見ていたのだろう。もう大丈夫」
三狐の神が、光に声をかけた。
光は安堵を感じたのに、どこか心が霧にかかったように晴れない思いが残った。
……本当に夢ではない?
何か違和感があったが、つかみどころがなく、ぼやけていく記憶の頼りさが、これで良いのかもしれないと妙に納得してしまった。
三狐の神と玉藻の背を追うように光は歩き出そうとしたとき、急に意識はあるのに目の前の光景が砂のように広がり、消えていった。
気が遠くなり、意識も薄れ、もう光の眼には何も映らなくなった。今、光がいるのは、恐ろしいほどの完璧な暗闇の世界だった。
何一つとして形あるものを識別することができない。自分自身の体さえ見えないだろう。
そこに何がある気配さえ感じられないのだ。そこにあるのは黒色の虚無だけだ。

遠く離れて

夜の闇は暗く濃く、沖に追い詰められた東の空が不気味な赤みを帯びて明る始めていた。
伊助は、里で一番高い見張り門で鉄砲を片手に抱え、まだ闇に包まれている森を睨むように見つめている。伊助の脳裏に見えているのは森ではなく、昨日の獣たちとの血生臭い争いの光景であった。
闘うために備えはしてきた。だが、鉄砲で撃っても獣たちは次から襲ってくる。惨めなものだった。為す術も無いのである。
伊助の真下には、怪我人、死体が暗がりの中で灰色の石のように横たわっている。まだ、手傷が軽い者達は互いに身を寄せて寝ている。頼邑は、こうなることを見据えて、自分達を必死に説得させていた。
だが、自分も含め、里の者は頼邑を追い出した。これは、当然の報いなのだと伊助は自責の念が締め付けられらる。
そのとき、門出に男達の姿が見えた。すぐに使いの者だと分かった。頼邑も帰ってきたのかもしれないと思った。
「使いが帰ってきた!」
伊助が叫ぶと平八郎を含め、女、子供もバタバタと音を立て、出て来て駆け寄ってくる。使いの中に男たち、そして瀕死の傷を負った治兵衛もいた。だが、その中にいくら探しても頼邑の姿は見当たらない。
伊助と平八郎は、使いに、
「頼邑さまは、見つからなかったのか?」
と、すがるように訊いた。
使いの者は、首を振った。
「ここも酷いが、向こうはひでぇってもんじゃねぇ。人も獣もあちらこちら、死体で埋め尽くされちまってる。もう見分けもつかねぇさ」
そう言って、苦渋の顔をして言った。
皆の顔が強張っていた。息が凍るような恐ろしい情景が現実なのだと思い知らされたからだ。男たちが集まっている後ろで、お花が姿を見せた。
「お花……」
伊助たちは、言葉が見つからなかった。
慰めも今の自分たちには、できないと思ったのである。
「大丈夫です…。 頼邑さまは、お強い方ですもの。きっと無事にお帰りになるはず。きっと、そう……」
頭の中が白く溶け落ちるような衝撃がしたが、自分を保つために気丈にも涙は見せなかったが、全身は小刻みに震えていた。
「そう…。きっとそうです。うん」
お花は、ふたりから背を向けると高鳴る心臓の響きに追っかけられるように足早に歩いて行った。平八郎が呼び止めようとしたら、
「やめとけ……」
と、伊助が沈んだ声で言った。
ふたりは、お花の背を見送るように見つめた。そして、誰もいない場所に着くと、魂が抜けたみたいなかかって、悲しみの感情の動きに生気がなくなった。お花の眼から、ぽろぽろと大きい雨粒のような涙を落とした。

繋がった記憶

頼邑の、足元にあった黒い水は、もう身体の半分以上に浸っていた。その様子を冷徹な眼で見る香炉の主に対して、
「光は何処にいる!」
と、叫んだ。
「お前が心配しずとも、光は安らかな夢を見ている。苦辛の記憶を消し、その夢の続きが手に入るのだ」
そう言って香炉の主が口許に薄笑いを浮かべたが、眼は笑っていなかった。双眸が猛虎のように炯々とひかっている。
香炉の主を見つめる頼邑は、
「お前はお前なりの義はあるだろうが、この世界の命を忘れるな。明日へと羽搏こうとするものを阻むことはできぬ!」
と、憐れみと強い意思が入り混じった眼差しで言葉を切った。
黙れ!
初めて、怒りを露わにした香炉の主の怒りはどこへ向けているのか分からないほとであった。
「お前こそ、本当に光を想うなら邪魔立てするなっ。お前との記憶を消したいのは光自身、幸せな記憶だけを残し、新しき世界で生きるのだ!」
香炉の主は、もう沈みかけている頼邑を見つめながら行った。
もう、頼邑の眼には香炉の主の冷徹な瞳しか見えたのが最後となった。
意識が薄れていく中で、頼邑は光に名を授けたあの夜の晩の日を思い出した。
闇の中であっても決して、光を失わないで欲しいと願って授けた名。ひかりは、ひかりの中にあるのではなく、闇があるから、ひかりが輝く。
「光っ、聞こえるか! 思い出せっ。消し去りたい記憶でも思い出せ!」
と声の限り叫んだ。

その頃、光の耳が鳴動のように響き渡った。
一瞬、ハッとして思わず後ろを振り向いた時、体がひかりの玉の中へ吸い込まれていった。辺りの景色が、かすかにぼんやりしていたが、しだいにはっきりしてきた。
腰高障子に続いて狭い土間があり、その先に六畳の座敷があるだけだった。そこに座っていたのは、まだ乳飲み子の赤子を大事そうに抱いている女だった。
女は、色白で透けるような肌をしていた。赤子を愛おしそうに見つめる眼差しはとても清らかである。
女は、頬を赤子にこすりつけるように抱きしめている。その女の眼が涙に濡れていた。
光は一瞬、頭に鈍い疼きが走り、記憶の断片が脳裏をかすめた時、恐怖と不安が稲妻のように一気に通り抜けた。触れることを避けている記憶が、焼き鏝をあてられたような痛みを心に与え息苦しくなり、膝に胸を押し当てうずくまった。
ふたたび、漆を塗り潰したような闇がたちこめてきた。闇は、心の隙間を埋め尽くすように広がっていく。
……もう、何も思い出したくない。
そのときだった。
耳の途方から、頼邑の声が聞こえた。その声に、光の顔がハッとし、
「光っー! 思い出せ!」
と自分を呼ぶ声が聞こえた。
すると、広がっていた闇が消えていく。
……頼邑!
光が頭のどこかで声を上げた。
そのとき、光は忘れかけていた頼邑の声を聞いた瞬間、記憶の断片が光の瞳の底によみがえった。
そこは、さっきの母親が赤子をあやしながら、赤子に語りかけていた。
「なんて小さいの……。こんな小さな体であなたは生きようとしているのに。母を許せ……。護ることが出来ない、この愚かな母を許しはて…。愛しい、愛しい。私の子……」
そう言って、赤子の髪を撫でた。
その髪は、輝くような金色をしていた。その赤子こそ光である。
ずっと恨まれ憎まれていたと思っていた母の姿は、自分を本当に愛おしく抱いていた。
……なぜ、こんな大切なことを忘れていたのだろう。
光の心に長い間、捨てられたという思いが、呪いのように長いこと自分を縛り付けていたが、すっと消え、心が浄化されていくみたいだった。
突然、闇が押し寄せてきた。
「なぜだ? 人間が憎いのだろう」
光は、その声の主が何者かすぐに分かった。
「そうだ、私は人間は嫌いだ。それは変わらぬ」
光が、静かな声で答えた。
いくら母には愛されていたことが分かっても、これまでの人間の行いには許すことはできないのである。
「なら、なぜお前の心に変化がある? あの男のせいか。あの男はお前をたぶらかしているのだ。所詮、いつか裏切る」
香炉の主が吐き捨てるように言ったが光は、
「なぜ、お前が決める?」
と、一喝した。
「人間を憎むことも私が決めることだ。お前ではない」
それは強い意志に哀打ちされた響きだった。
「違う。なぜ、そこまであの男を信ずる?」
香炉の主は、理解し難い声で訊いた。
「…………」
光は答えなかった。
答えなくても光は頼邑を信じていたからだ。
……頼邑は、決して私から逃げなかった。
頼邑は教えてくれた。人を想うことを。頼邑がいたから過去を断ち切ることができた。生きることも、命のために涙を流すことも、そして温かさ、優しさも全て頼邑が教えてくれた。
だから、恐れるものはなかった。
「己の気持ちに偽りになるな。人間を許せないのは、正しい。お前は間違っていない」
香炉の主は、諭すような口調で言った。
光は、これまでの人間にされたことを思い出し、あらためて憎しみが込み上げてきた。それと同時に温かな母との記憶、頼邑の記憶が浮かび上がる。
「人間を許すのか?」
ふたたび、香炉の主が迫るように言った。
光は、下をうつむいたまま、
「もし、私が人間を許したならばお前はどうなる?」
と、つぶやいた。
香炉の主は、沈黙した。光の思わぬ問いにすぐこたえることができなかったのである。
これで光は分かった。誰かを憎む心も、許せない心があるのは誰もが持つ自然なこと。香炉の主は、ただそれを利用しようとしていただけだ。
光は眉宇を寄せ、哀れむような顔をした。
「お前は、過去の念にとらわれ、心は怨念にまみれている」
そう言って、眼を閉じ、頼邑に名をもらったあの日の光景が浮かんだ。初めて人間に心を許すことができた。頼邑は、人間側だ。自分とは違う道を歩むだろう。それでも、共にいたいと思えた。そして、ふたたび眼を開き、
「私は、頼邑を信じたい」
と、強い口調で言い放った。
その瞬間、闇の中で光の手からひかりが溢れ出てきた。光の霊力は、まばゆいひかりに包まれ力強く、されど優しいひかりは衰えることなく、闇の中を照らしていく。
「お前の闇は、私が浄化しよう…」
徐々に強くなるひかりに飲み込まれるように香炉の主は消えていった。黒い水に沈められた頼邑にも暗黒な前途を照らす光明に包まれていった。
……これは、光。
光の霊力のひかりだと感じたとき、体中の力が抜けていくような安心感がし、頼邑はそのまま気を失った。

死闘の果て

横→縦切替
第八章 死闘の果て

柔らかい風が頼邑の髪をそっとなでるように触れる。頼邑は、眼を開けると、そこは草原の草の穂がさざ波のように揺れている場所だった。
起き上がると、目の前にアオがいた。頼邑が目を覚ますのを待っていたようだ。その隣には、玉藻もいる。
ふと、玉藻の後ろを見ると光がゆっくりとこちらに来た。
その姿を見たとき、頼邑は心の糸が緩んだ時に生まれる悲しい思いが溢れた。ただ、生きてこうして会えた喜びが心を素直な気持ちにさせてくれた。
「生きていてくれてありがとう……」
その言葉は、心に秘めていた思いが鏡を映すように出たものだった。
その思いは同じなのか光は、まばたきもせず、一粒の涙を流した。
光の全てを受け止め、そっと包み込むよう抱きしめた。
ふたりの包み込む新芽が、ゆらゆらと何か話しかけているように揺れていた。
「頼邑のことは信じたい」
その言葉の裏腹には、頼邑以外の人には、まだ無理だということを表していた。受けた心の傷は、すっかり消え去ったというわけではないが、もう過去の思いを断ち切った光の表情はとても晴れていた。
光は左手に小太刀を握りしめた。
頼邑の顔が驚きの色を示した。刹那、冷たい金属の感触が光の首筋に触れると、シャッと風を切った音が響いた。光の長い髪が、はらはらと舞い落ちる。
光の声は優しかったが、力のある響きがあった。
「あの里は、お前にとって大切なのだろう」
そう言って、光は切った髪を持ち、玉藻にまたがると、里の方へ向かった。
そこで、光は髪を放った。金色の髪が陽の光に反射して輝いていた。風に運ばれる霊髪は、傷を負った者たちを癒していく。
苦痛にゆがんで、獣の唸るような声を洩らしていた治兵衛にも痛みが消えていった。里の者たちは、治癒していく傷を見て、驚きと喜びに歓喜が起こった。
伊助と平八郎は、金色の髪が空に舞っているのを見て平八郎が、
「おれたちは、何もできなかった……」
と、気落ちして言った。
「それでも、生きていかなきゃならねんだ」
伊助の声は、静かだったが、強い響きがあった。
その顔は、悽愴が残っていたのであった。

答えの先にあるもの


頼邑は、アオと共に里へ帰ってきた。ここで過ごした場所は、凄惨な爪痕が残ったものに変わり果てていた。
そこに、駆け寄ってくる複数の足音が聞こえてくる。頼邑は、走ってくる伊助に眼をやった。
伊助の後方から足をもつれされ、泳ぐような足取りで走ってくる平八郎や男たちの姿が見えた。
伊助が走り寄り、後に平八郎が続いた。頼邑のそばまで来ると、頼邑さまっ……と、ふたりは言ったきり、
次の言葉がでない。
里を追い出した日から、申し訳ない思いで胸が苦しかったのである。
いっときすると、
「頼邑さま、よく帰って来てくれた……」
そう涙声で、ふたりは頼邑の手を確かめるように強く握りしめた。

「頼邑さま、少し休みやしょう」
伊助が、茶を手にして言った。
それから、お花が丼を抱えて顔を出した。丼には、ひじきと油揚げの煮物が入っていた。お花が、作った物らしい。
「ありがとう」
さっそく、三人は煮物に箸を伸ばした。
お花が持って来てくれる煮物は最初の頃と同じく美味である。
「だいぶ、里も落ち着いてきたな」
あれから、壊れた家屋を再建築するのに右官(大工)の伊助は休む暇もないくらい忙しく、頼邑もその力になっていた。
「そろそろか……」
頼邑がしんみりとした口調で言った。
「何がですか?」
伊助が訊いた。
だが、頼邑は答えず、遠方にある不死の森を見つめていた。

それぞれの命

頼邑はアオに跨り、不死の森へ向かっていた。あれから光とは何度か会っていた、月霧の里は、やり直してよい里にしようと再起していることを伝えると光は複雑な表情をした。
不死の森に近付くにつれ、木という銅色やら金色、燃えるような朱色に染まる美しい秋の森へと変わっていく。しばらく、進んでいくと玉藻が座っていた。
「玉藻、光はいるか?」
頼邑がそう言うと、玉藻は、小さくうなずき、くるりと背を向けた。
どうやら、ついて来いということらしい。しばらく歩くと櫟な栗などがある木々の中に連れて来られた。
「しばらく待っていろ」
と、言い置いて奥へと消えて行った。
草や野花の中に腰を下ろして、遠くの森にじっと眼を向けた。もう、この森とも別れだと思った。
だから、光が来るまで間、しばらくはこの美しい森を見ていたかった。
しばらくして、すぐそばの草の中で何かが揺れる音がして、くすっと笑っているような、かすかな声が聞こえた。
顔を上げると、すぐそばに光の顔がこちらを覗くように笑っていた。
「気配に気付かないとは疲れているのではないか?」
そう言って光も腰を下ろした。
肩まで短くなった光の髪は、心まで軽くさせているようである。
「今日は来るのが早いんだな」
「もうだいぶ落ち着きつつある。私の役目も終わりだ」
頼邑は、顔は笑っていたが、声はどこか寂しそうであった。
光もそれを感じたのか、立ち上がり、栗を取ると、
「なんだ? つまらぬ揉め事でもしたのか?」
と、呆れた口調をして栗を頼邑に渡そうとしたときだった。
頼邑は、いっとき黙っていたが、つぶやくように光と言った後、
「私はすぐにここを発つ。そなたに別れを言いにきたのだ」
と、静かな口調で言った。
光は一瞬、身を固めた。頭の中が真っ白になり、しばらく何も考えることができなくなってしまった。
いずれ去ると分かっていながらも、そばにいてくれるだけで幸せだった。だから、覚悟はしていたが、いざその日が訪れても気持ちの整理がつかない。光は今までの様々な出来事がよぎり、声がつまった。
その気持ちを感じたのか頼邑は、
「私たちは、あまりに多くのものを失った。でも、すべてはそなたのお陰で元に戻りつつある。でも、それではいけない。今度は私たち(人間)が今を始める時だ」
と、眼の前に見える雄大な森を見据え、力強く言った。
自然を含めた命と人間が共存していくことを約束するという意味を込めて言った。もうすでに、光は頼邑の思いを受け止めたのか、うなずいた後、微かな笑みを浮かべていた。
ふたりの周りに、のどかな鳥のさえずりの声が聞こえてくる。その声を聞いたのか、光の心はとても素直な気持ちにさせてくれた。
「あのとき、私に生きていいのだと言ってくれてありがとう。私は、これからも生きていいのか?」
「ああ、生きていかねばいけない」
光の問いに頼邑は、力強くこたえた。
光の口から、その言葉がでたとき、頼邑は、ホッとした。やっと、光は生きることの意志を持ったからである。
光は、巾着袋から中身を取り出し、頼邑に渡した。それは、霊髪だった。故郷のために使って欲しいと思ったからだ。
「持っていけ。お前には必要であろう」
光は、頼邑の眼を見て思った。
その内なる瞳の中に覚悟を定めたものは光のひかりになるのだと。頼邑は、それを受け取るとアオにまたがった。
「そなたが抱いた思いは決して忘れぬ」
そう言い終えたとき、頼邑は振り返ることなく、真っ直ぐ見据えると、馬蹄の音と共に森の中へ溶け込むように去って行った。
光は、その先行きを見つめ、
「ならば、我らも見届けよう」
と、小さなつぶやきをもらした。

お花は、土間に立ったまま斜向かいの腰高障子に眼を向けていた。そこは、頼邑が住んでいた部屋である。いまはだれもいない。腰高障子は閉まったままである。
あの日、頼邑が無事に戻って来て、伊助がお花が懸命に里の皆を説得させたことを話したのだ。 そのことを聞いた頼邑は、ここを立ち去るとき、
「お花さんには色々と救われた。心から礼を申す」
そう言って笑みを浮かばせた。
「頼邑さま……」
お花の声が震えていた。
頼邑が初めて里へ来たときから心を寄せていた。その気持ちが薄れることはなかった。
「わ、わたし……」
そう言ったとき、お花は口から頼邑への想い告げようとしたが、やめた。
今、告げたところで、かえって頼邑を困らせるだけだと分かっていたからだ。何となく、お花の女の勘が、頼邑には別の人を想う心があると気付いたのもある。どう足掻いても、叶わぬ恋だというのは最初から分かっていた。
いっときすると、お花は、
「私、頼邑さまにお会いできて良かったです」
と、言って儚い笑みを口元に浮かべた。
お花は頭を下げて踵を返した。頼邑はお花の背に眼を向け、幸せに暮らせ、と小声でつぶやいた。
いま、斜向かいの腰高障子に淡い西陽が当たっていた。そこの部屋だけひっそりとしている。ときどき、遠くで赤子の泣き声や女房の笑い声などが聞こえるだけである。
……もういないのね。
お花は胸の内でつぶやいた。
ひどく寂しかったが、悲しくはなかった。元々、故郷の長となる方だと知ったときから、頼邑が自分を置いて去っていくことは分かっていたし、それをとめようとも思わなかった。
お花の思っていたとおり、思い出だけを置いて、頼邑は遠い世界へ帰っていったのだ。
いま、お花はひとり取り残され、ひどく寂しかった。
……でも、頼邑さまは大切なことを残してくれた。
顔をつつんでいた澱んだ大気が、さわやかな風になってお花の顔や首筋をやさしく撫でていく。 風が、お花の寂しさを吹き飛ばしてくれるようだった。

そのとき、伊助は平八郎と田畑を耕していた。平八郎が深いため息をしたので、
「平八郎、どうした?」
伊助が訊いた。
「何でもねぇ。ただ…」
「ただ?」
伊助は聞き返した。
「頼邑さまがいねぇとつまんねぇなって」
平八郎が、力なくつぶやくような声で言った。
「何、言ってやがる。おれ達は頼邑さまから教わったことをやっていかなきゃ合わせる顔もねぇ」
「分かっている…」
平八郎は、ぽつりと言うと、魂が一緒に抜け出ていきそうな深いため息をついた。
伊助は、まったくしょうもない男だ、と思ったが平八郎を非難する気にはならなかった。
平八郎も胸の内では頼邑の人柄を好いていたからだ。
「行っちまったなぁ」
平八郎が、つぶやくような声で言った。

くるぶしまでの柔らかい草が浅瀬のように広がっている。草と水の匂いが、かすかにし、澄み切った大気の中を頼邑は走り続けていた。
ふと、視線をずらすと、そこには命を育む美しい森がどこまでも続いているのが見えた。
頭上では、澄んだ秋空を高く鳶が渡り、小鳥はひかりの欠片のように飛びまわっている。ここには、個々の命が宿り、人間が支配するものではないと頼邑は感じた。
すべての命は、個々のものであり、喜びも悲しみも共にあるものだということを忘れた人間は、どんな惨いことをしても互いを傷付け合うのをやめないだろう。
愚かな命でもあり、尊い命にもなる。決して忘れてはならない。その思いを確かめるかのように光の霊髪が数本、風に包まれるように舞い、地へ降り立っていった。
そこに確かな命が芽吹き始めようとした。

生きる運命

生きる運命

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-07-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ
  2. 第一章 道標
  3. 嵐の前触れ
  4. 心の迷い
  5. 死ぬ運命
  6. 人喰い熊
  7. 剣豪
  8. 月霧の里
  9. おませな娘たち
  10. 淡い恋心
  11. 銀山
  12. 不死の森
  13. 生の問い
  14. 里の怒り
  15. 偽りの慈悲
  16. それぞれの想い
  17. お花の恋
  18. 消えぬ心の闇
  19. 名を授ける
  20. 伝説の香炉
  21. 治兵衛と伊助たち
  22. 開き始めた心
  23. 決別
  24. 里へ
  25. 矛盾
  26. 過ち
  27. 引き裂かれる思い
  28. 里と分断
  29. 伊助、平八郎動く
  30. 追っ手
  31. 吹き荒れる風
  32. 光の覚悟
  33. 追い込まれる
  34. 傷だらけの魂
  35. 怒り
  36. 大殿の最期
  37. 交わることのない闘い
  38. 死への恐れ
  39. 非情な罠
  40. 遠く離れて
  41. 繋がった記憶
  42. 死闘の果て
  43. 答えの先にあるもの
  44. それぞれの命