いいのにね
「人の考えていることが分かればいいのにね」と言ったのが母で、「あーそうね」と応じたのが娘だった。
どこにでもありそうな町のどこにでもありそうな住宅街。その中のどこにでもありそうな家のリビングで対峙するふたり。
チョコレート菓子をぽりぽりかじってテレビを観る母を、エプロン姿の娘が半眼で見やっている。
素人たちが歌唱力を披露するあのテレビ番組がほどなくおわり、母は娘に振り向いた。
「どうでもよさそうな返事ね。お母さんは本気でそう思ってるのに」
「どうでもよさそうなことだもの。そんなことを考えているくらいなら、本気の矛先をもう少しだけ家事に向けてほしいわ」
すると母は血色のよい頬をぷっくりふくらませて片手を上げた。
「ちょっと待ってよ」
「なーに?」
「まるでお母さんが家事をいっさいしないダメお母さんみたいじゃないの」
「違うとでも?」
「違いません」
いっそ清々しいほど即答だった。なんの迷いもなく言い放つ母に大きくため息をつき、娘はエプロンをほどいて母にぽーんと投げてよこした。
「だったらまず今日の夕食の献立を考えてよ。それからお掃除をして、お洗濯をして、夕方になったらスーパーのタイムセールでお買い物をするの。帰ってきたらご飯を作って……」
「ちょっと待ってよ」
なにやら慌てた様子で、母がまた片手を上げる。
「なーに?」
「そんなにたくさん、できるわけないじゃないの」
できてる人間を目の前にしてこのセリフ。腹立たしいやら悲しいやら情けないやら。
「他のご家庭では、どこでもやられていることよ」
あえて自分ではなく、不特定多数を例に挙げる娘。すると母はちょっとびっくりしたように訊いてくる。
「おとなりの田中さんも?」
「おとなりの田中さんも、そのおとなりの長谷川さんも、そのおとなりの山岡さんもよ」
話がだんだん脱線してきたことに、娘はすこしいらっとする。
すると母は「うーん」と神妙にうなってみせて、
「それは由々しき事態じゃないの」
なんて言って、まるで今まで知らなかったとばかりに泡を食っている。
「お母さんの脳みそが由々しき事態なのは前々から知ってるけど、少なくとも田中さんや長谷川さんや山岡さんはそんな事態には陥っていないはずよ」
「うかうかしていられないわね」
「そうね。うかうかとうかれたその頭を早々に切り替えなきゃいけないと思うわ」
そう言ってやると、母はまた頬をふくらませた。
「あなた、お母さんに対してその口の利き方はないんじゃないの?」
「これでも言葉を選んでいるのよ」
嘘ではない。良い意味でかと訊かれれば、首を横に振るしかないが。
「いいわよ、そういう態度なら聞いてあげようじゃないの。思ってること全部言いなさいよ、今ここで」
居住まいを正した母が、挑むような視線を娘に投げかける。
娘はもう一度大きくため息をこぼし、
「いいよ、別に」
言いたいことがうまく伝わらないのは今に始まったことではないが、毎回こんな調子だとさすがに疲れる。精神的に。
「よくないわよ。言いなさいってば」
「だからいいって言ってるじゃない」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
しばしの沈黙が続き――先に口を開いたのは母だった。
「……ねえ」
「なーに?」
「人の考えていることが分かればいいのにね」
「……あーそうね」
娘は母からエプロンを奪い取ると、掃除機を持ってさっさと二階に上がっていったのだった。
いいのにね