おめでとうを、きみに

おめでとうを、きみに

 きみが生まれてくれた奇跡に、ありがとう。
 
 
 幼いころ、香月(かつき)玲紀(れいき)は一緒の部屋でたくさんの時間をすごした。
 お姉ちゃんの香月は粗暴でおちつきがなく、いつもアニメのヒーロー(ヒロインじゃない!)になりきっては、自分と対極の、おとなしくて思慮深い弟の玲紀をいじめては、ご近所さんに聞こえるくらいの大声で勝ちどきの雄叫びをあげ、そのたびに顔を真っ赤にして走ってきたママに頭を叩かれて泣いていた。でも香月はそんなことはすぐに忘れて、また玲紀に丸めた新聞紙を振り下ろすのだった。
「ぼくは姉ちゃんなんてきらいだよ」
 玲紀が言うと、香月はうっと唸って、急に玲紀のご機嫌をとろうと四苦八苦した。玲紀はそんな姉を怖がったり、ころころと変わる表情を、すごいな、と思ったりした。なんだかんだいって、やっぱり姉弟は仲がよかった。
 
 玲紀が姉の変な行動に気づいたのは、五月ももう終わろうかという、雨の日が増えてきて梅雨を予感させるある日のことだった。彼女はいつも変だけど、その日は特に変だった。なんというか、みょうにそわそわしてせわしないのだ。玲紀のほうをじーっとながめては、視線がからむとすぐにぷいっと顔をそむけてしまう。そのころはまだお互いにこどもだったわけだし、おかしいな、とは思っても、それ以上の詮索なんてすることもなかったけれど、それでも姉の水性のりのような粘着質な視線はやっぱり不可解だった。
 彼女の意図するところがわかったのは、それから数日たったある日のことだった。
「ねえ、玲紀。いま何かほしいものってある?」
 平静をたもっているように見せようとして、逆に力の入ってしまった顔をそむけたまま、香月が訊いてきた。玲紀が考えているあいだ、ちらちらとこちらを覗き見ては、またすぐに部屋の壁に貼ったロボットアニメのポスターに視線を向ける。玲紀はそこで、ぴんときた。
 六月三日。あと数日で迎えるその日は、玲紀の誕生日だった。彼女はずっと、なにやら不穏なうごきを見せているけれど、それでもそれは、来たる弟の誕生日の下準備だったのだ。おとなになってからならともかく、こどもが自分の誕生日を忘れるはずなんてないのに、彼女はそれを隠そうと一生懸命だったのだ。きっと当日になっていきなり、おめでとう! とさわいで、玲紀をびっくりさせようとしていたのだろう。姉ちゃんの考えそうなことだな、と思いながら玲紀は、待てよ、と思考をめぐらせた。
 彼女のトリックなんて簡単に解けたけれど、でもそれを言うのは、ちょっとルールとかマナーとかに違反しているのかもしれない。おそらく姉が心の中で作っているであろうルールと、人としてのマナー。玲紀は他の子よりちょっぴり頭の回転がはやく、そして聡明だった。
「ぼくのほしいものなんて訊いて、どうするの?」
 ためしに訊き返してみると、姉は大きな目をもっと大きく開けておどろいて、「き、企業秘密!」なんて答えた。これで確信をもった玲紀は、うーん、としばらく考えてみせて、そして言った。
「そうだなあ、動物の図鑑がほしいな」
 このあいだコンビニで見かけたポケット図鑑は、たしか五百円くらいだったと思う。姉の負担はそんなにないはずだ。香月は「動物の図鑑かあ」なんてぶつぶつつぶやきながら、ありがとうも言わずに部屋を出ていった。玲紀はそれを見送って、ふたたび机にむかって教科書をめくりはじめる。
 
 姉のとる行動が目に見えて変になってきた。もともと彼女はまともな動きをするこどもではなかったけれど、急にはっとしたり、走って家をとびだしたり、自分のアイデアに満足したのかガッツポーズをとったりした。玲紀はそれにあいかわらず気づかないふりをして、それでも笑いがこらえきれなくなったときは、部屋のベッドの布団に顔をうずめて笑ったりした。香月はそんな玲紀に気づかない。
 
 そして、ついにその日をむかえた。玲紀の誕生日。おそらく本人以上に香月が待ち望んでいた、一大イベントの日。
 ぜんぜんおちついてないのに、平静をよそおう姉。おちついているけれど、心のどこかでうきうきしてしまう弟。そんな二人が、いってきますと言って家を出て、そして、二人にとっては長い長い学校の一日が終わった。
「どうしたの、玲紀? なんだかそわそわしてるよ」
 一緒に下校している友達がふいに訊いてきた。
「えっ、そ、そわそわなんてしてないよ!」
「ふうん。ならいいけど」
 友達はそれ以上訊いてこない。玲紀はやれやれ、とそっとため息をついて、隙を見せないように胸をはって帰路につく。
 友達と別れ、家に到着して玄関を開けると、ちょうどママが電話の受話器を置いたところだった。
「ただいま、ママ」
「あっ、玲紀。ちょうどいいところに帰ってきたわ」
 ママは顔を曇らせて、アヒルみたいな口をして、大きく息を吸ったり吐いたりした。
「どうしたの?」
 玲紀が問うと、ママは信じられないことを言った。
「お姉ちゃんが……香月が事故にあって、病院に運ばれたらしいの」
「ええっ?」
「今、車を出してくるから、玲紀も一緒に来なさい」
「わ、わかった!」
 
 ママが運転する車の後部座席にすわって、玲紀はちょっと困っていた。
 香月の安否と、誕生日。どちらが大事かと訊かれたら当然前者だけど、それでも誕生日だって大事なのだ。
「まったく……」
 前のママに気づかれないように、そっとごちる。
「やっぱり姉ちゃんは、ぼくより一枚うわてだ。あれだけ人を盛り上げておいて、当日に事故なんて。おかげでぼくの誕生日どころじゃなくなった」
 ほどなくして、車は病院の広い駐車場に停まる。朝は外来の人たちの車でぎゅうぎゅうだけど、この時間はけっこうまばらだ。
 競歩のような急ぎ足で院内の受付に行って名乗ると、係のおばさんは、その患者さんでしたら、と病室を教えてくれた。「患者さん」と聞いて、玲紀に緊張が走る。あの、いつも元気だけが取り柄だった香月が、患者さんだなんて!
 病室は、一階の奥まったところにある大部屋だった。スライドドアは閉まっている。ママは指先に渾身の力をこめて、シュワーっと開けた。
「香月っ?」
「あ、ママ。来てくれたんだー」
 部屋の中には、ベッドの上で仁王立ちする香月がいた。左腕につながった点滴がいたいたしいけれど、それでも彼女はいつもどおり、とても元気そうだった。ベッドの周りには彼女にきゃーきゃーと黄色い声援を送る、同室の女の子たち。どうやら香月お得意の、一人ヒーローごっこを披露している最中だったらしい。
「か、香月、あんた……」
 あっけにとられてなかなか言葉が出せないでいるママをながめつつ、ヒーロー香月は言う。
「いやあ、急いで帰ろうとして走ってたら、のどが渇いちゃってさ。お店の自販機を見ながら走ってたら、とびだしてきた自転車とぶつかっちゃって。倒れたときに頭打っちゃって、それで、自転車の人にここに連れてこられたんだよー」
「それじゃ、あんたが悪いんじゃないの!」
 ママはその場にへろへろと座りこんで、「あんたって子は……」とくりかえしている。
「あ、そだ。玲紀っ」
 ママの心も知らず、香月は元気いっぱいの笑顔を弟にむけた。玲紀が「なに?」と訊くより早く、とつぜん、パーンと大きな乾いた音が広い病室に響いた。みんなびっくりして、香月を見上げる。廊下から顔を覗かせる人もいる。たくさんの色の、たくさんの細くて長い、よれよれの紙。香月が手にしているのは、クラッカーだった。
 そして高校野球の選手宣誓のように、香月は大きな声で言う。
「玲紀、お誕生日おめでとうっ!」
 ぽかーんと口を開けるみんなの中で、香月だけがにんまりと顔を輝かせていた。
「ごめんね、玲紀。今日はなんか、これから一応頭の検査があるみたいだから、明日プレゼント渡すよ」
 顔の前で手をあわせる香月。しかし、玲紀はひどく冷淡な表情で、
「……いらないよ」
 ぽつりとつぶやいた。予想外の反応に、香月が、えっ? とおどろく。
「どのみち、姉ちゃんがこんな状態じゃ、祝ってもらっても嬉しくないよ」
 パパは来月まで出張でいない。ママはきっと、今夜は姉に付き添うことになるだろう。家に帰れば、玲紀はただひとり。おめでとうを言ってくれる人なんて、どこにもいないのだ。
「あ、あの、その……ご、ごめん……」
 急にしゅんとうなだれて、香月が頭を下げる。それにあわせて、点滴のチューブがゆれる。彼女の心も、きっとゆれている。
「ほんとに……ごめんね……」
 ひたすら謝る香月を見ながら、玲紀は満足そうにうなずいて、言う。
「なーんてね」
「…………え?」
 ずーんと重苦しい空気をまとったみんなが、一斉に玲紀を見やる。
「な、なーんて、って?」
 うなだれたままの状態で、器用に顔だけこちらにむける香月。
「冗談だよ、冗談。おめでとうって言ってもらって、嬉しくないわけないじゃん」
「れ、玲紀ぃ」
「姉ちゃんの気持ち、ずっとずっともらってきたからね。素直に嬉しいよ」
 にっこりと微笑む玲紀。その笑顔を見て、香月にもやっと本来の笑顔が戻る。
「よかったあ」
 ほっと胸をなでおろしながら、香月は、ん? と気づく。
「ずっとずっと、って……。わたしがおめでとうを言ったのは、今年は今日が初めてだよね?」
 香月は、自分がずいぶん前から準備していることを、玲紀に気づかれていないと思っているのだ。玲紀は声をあげて笑って、「そういや、そうだね」と答えた。
 そしてこのあと、この姉弟と保護者であるママは、クラッカーの音でとんできた看護師さんにこっぴどく叱られる羽目になる。
 
 けっきょく今夜は香月に付き添わないことになった(香月が断固として拒否した)ママは、ふたたび車を走らせて、玲紀と二人で家に帰ってきた。
 玲紀は急いでダイニングへと走る。
「あのさ、玲紀。テーブルの上にプレゼントが置いてあるから、開けていいよ」
 香月はそう言って笑い、「とってもいい物だから、喜んでくれると思うよ」と付け足した。
 姉は憶えていてくれたのだ。動物図鑑のことを。
 テーブルの上にはオレンジ色にきれいに包装された大きな箱があって、玲紀はうわっとおどろく。予想していたよりも、ぜんぜん大きい。いったいどんな図鑑なんだろう。心を躍らせながら、ラッピングをきれいにはがしていく。
「……え?」
 中身があらわになり、玲紀は思わず硬直する。
 そこには、『HGギャン』と書かれた、青いロボットのプラモデルがあった。
「ぎゃ、ギャンって……」
 思ってもいないところで不意打ちをくらい、ぼうぜんとする。まさかギャンとは。
「ふ、ふふ……ふふふ……」
 知らず笑いがこみあげてきて、椅子に座って、あははは、と笑った。
「なるほど、ギャンか。たしかにね。これはたしかに、いい物だよ!」
 姉らしいプレゼントに、姉を近くに感じる。
「ありがとう、姉ちゃん……ん?」
 箱を持ち上げると、その下から一冊の自由帳があらわれた。玲紀も昔よく使った、罫線の入っていない真っ白なノートだ。
「あ……」
 自由帳のタイトルを見て、玲紀は声をあげる。
『どうぶつずかん』
 ぺらっと開いてみると、中には色鉛筆で豪快に塗られた、キリンや象、猿、ライオン、コアラ、パンダ……いろんな動物がぎっしりと描かれていた。たいして上手くもない――むしろへたっぴな、落書きの数々。でも、香月は一生懸命描いたのだろう。何回もかけた消しゴムの跡で、表面が毛羽立っている。
「憶えていてくれたんだね」
 玲紀はそのぺらぺらの動物図鑑を、ぎゅっと胸に抱いた。
 
 
 そして、きらきらしい時間は光のように飛んで過ぎ、やがて、十年の月日が流れる。
 
 
「そ、そんなことあったっけ?」
 パーティー開けしたスナック菓子をぽりぽり食べながら、十年後の香月は言う。
「ひょっとして忘れたの?」
 同じようにぽりぽりしながら、十年後の玲紀。
「ケガしたのは憶えてるけど……まさかギャンとは……」
「いやいやいや、そっちじゃないよ! 手作りの動物図鑑のほうだよっ」
「ああ、そっちか」
 リビングでつけっぱなしのテレビからは、よくわからないCMが次から次へと流れている。
 まったくこの姉ときたら、歳はとっても中身がぜんぜん変わってない。
 遠くの町で寮生活をしている玲紀が久しぶりに帰省しているというのに、さっきからスナック菓子をぽりぽりぽりぽり。
「んで? 十年ぶりにくれる誕生日プレゼントっていうのは、どれ?」
「なによー。もっと嬉しそうな顔しなよー」
 姉がどうしても渡したいというから急きょ帰ってきたわけだけど、そこはそれ、やっぱりこの姉なのだ。油断は禁物だ。香月は「じゃーん」なんて言いながら、大きな包みを取り出した。包装は、あの日と同じ、オレンジ色だった。
「どれどれ」
「ありがとうは?」
「中を見てから、言うか言わないか決める」
「なによ、それー」
 ぶーたれる姉を視界の端に追いやって、丁寧に包みをはがしていく。
 そして、出てきたものは――
「……おい、こら」
「格好いいでしょ?」
 見間違えようもなく、箱には大きく、こうかかれていた。
『MGギャン』。
 十年前のHGよりもグレードの高い、よりマニアックな精巧さが売りのプラモデルだ。
「なんでまた同じなんだよ!」
「いいえ、違うわ! MGギャンはこどもには買えない、高価なギャンなのよ!」
「変わんねーよ……」
 はあ、とため息をつきながら、テーブルに頬杖をつく。そして、なぜかガッツポーズをとったりしている姉を見上げ、やれやれ、ともう一度ため息。それは優しいため息だった。
「姉ちゃん」
「んー?」
「ありがと」
 玲紀が微笑むと、香月はまたにっこりと笑った。
「あ、そだ。玲紀」
 なにか思い出したように、香月。玲紀が、ん? と訊くと、香月はガッツポーズを崩さないまま、言った。
「お誕生日おめでとう。そして――きみが生まれてくれた奇跡に、ありがとう」

おめでとうを、きみに

おめでとうを、きみに

「憶えていてくれたんだね」

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-26

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