私たちは冒険する

 夜、眠れずに目を閉じていると、どこからか水の落ちる音が聞こえてきた。
 昔から眠れない質であるので、遠くのものの音や幽かな気配の音などをよく聞きとる。いや待てよ逆か。よく聞こえる耳をもっているから眠れないのか。どっちだろう。
 気がつくと、そういうどうでもいいことをつくづく考えてしまって、また眠れずにいる。
 水の音がいつのまにか止んでいる。
 そう思って耳をすませたらやはりまだ続いている。
 ピチョン。
 どこの水が漏れているのか。台所か。トイレか。風呂場か。
 寝返りを打って、右の耳で聞いてみる。さっきまでは左の耳で聞いていたのだ。あれ、聞こえなくなった。
 いっそ仰向けで寝て両耳で聞くべきか。
 いやしかし耳をふたつとも解放するのは怖い。目は音を吸いこむ。両目を開いているときには聞こえもしない異な音が、閉じているときには聞こえたりする。やはり耳はひとつにしておこう。
 ふたたび寝返りを打ち右の耳で聞く。
 ピチョン。
 いったいどこの水が漏れているのか。寝る前に水を使った場所といえばトイレと洗面所。どちらも玄関に近い位置にあり、今寝ている場所からは遠い。
 音は耳をすませないと聞きとれないほど幽かであるのに、同時にごく近い場所からも聞こえてくるようだ。
 人は、自分の声をふたつの方向から聞くという。ひとつは体の外から空中を伝わってくる声。もうひとつは体の中から頭蓋骨を伝わって届く声。本人が聞いているのは、混じり合ったふたつの声だという。
 水の落ちる音は、もしや私の内側から聞こえてくるのでは。
 太股の、うすい皮膚の下を、一滴の水が筋をつくって流れていく。虫が這うようにくねくねとうねりながら、膝の裏や、足首や、親指の先のほうまで流れていく。
 あまり時間もないことだし、くだらないことを考えていないで本能に従ってくれ、と私の体は叫んでいるのかもしれない。いやそんなわけはない。それこそ妄想だ。くだらない。もう眠ってしまおう。そうしよう。
 ふたたび寝返りを打ったとき、不快な金属音が暗い部屋の中に響いた。誰かが私の部屋の玄関の鍵穴に鍵を差しこんでいる。ドアが開いた。
 部屋に入ってきたのは夫だった。
 私は寝たふりをする。
 夫は部屋の真ん中に立ちつくしたまま、身動きひとつしない。灯りもつけない。目を閉じていてもわかる。
 あの人は本当に夫だろうか。
 そもそも私は夫と暮らしていただろうか。
 いや待て違う。結婚もしていないのに、夫がいるはずがない。そうだあれは半年前に別れた恋人だ。
 恋人は妙によそよそしい。こんな夜更けに訪ねてきて「こんばんは」のひとこともない。非常識な恋人だ。いや元恋人か。
 だいいち彼が私の部屋を訪ねてきたことなどあっただろうか。一度もなかったはずだ。訪ねるのはいつも私のほうだった。そしてたいてい留守だった。だとするとあれは私だろうか。
 そう考えると、暗い部屋の真ん中に立って途方に暮れているのはたしかに私だった。何かが起こりそうな予感がして、私は玄関に向かい、ドアを開けた。
 春の終わりの生暖かい夜気が充満していた。ひそかに混じる夏の匂いが夏休みの記憶を誘って心が騒ぎ出している。これまでに何十回という夏を過ごしてきたにもかかわらず、匂いが結ぶのは子供の頃、母が作ったレモネードの冷たさや軒先の風鈴を揺らす風の心地よさ。
 夏の記憶はただ懐かしい気持ちを揺り起こすだけでほろほろと溶けて消えてゆく。だがいつからか、懐かしさの向こう側に冬の訪れを予感するようになった。夏は夏だけでなく、冬も冬だけではない。
 夜の道は吸いこまれそうになるほど静かだ。十字路に出たとき、目の前を自転車が猛スピードで横切っていった。乗っていたのは先頃産休に入ったばかりの同僚だった。こんな夜更けに妊婦が自転車を駆ってどこへいくのだろう。
 声をかけようとしたが彼女は私には目もくれず、たちどころに遠ざかって姿が見えなくなった。そういえば彼女は常に焦っていた。私よりひとまわりも年下なのに。
 狭い路地をどんどん歩いていくと、突き当たりの暗がりに大きな家が建っていた。古くて趣のある煉瓦づくりの館で、壁は蔓草に覆われている。
 この家に住みたいと思って眺めていると、若くて美しい女の人が家の中から出てきた。黒いブリーフケースを手にしている。門の前にいる私を見て、「あなたも早く逃げたら」という。
「この家、あと少しで爆発するから」
 平然と物騒なことをいう。
「どうしてですか?」
「たった今、爆弾を仕掛けたのよ」
 女の人の目は生き生きとしている。
「どうしてそんなことするんですか? 中に誰か残っていないんですか? 早く荷物を運び出さないと……」
「どうでもいいわ」
 果実のようにまるい頬を輝かせて、女の人は私に笑いかけた。
「これさえあれば、大丈夫よ」
 そういって、ブリーフケースを開いて中身を見せてくれた。文字を綴った紙が大量に詰めこまれていた。
「さあいそいで離れなきゃ」
 女の人が勢いよく歩き出した。ヒールの音が快活なリズムを刻むように響く。私も彼女に続いた。
 道はたった今歩いてきたばかりの狭い路地だったが、ふり返ると見覚えのない砂地になっていた。草も木もない枯れた広野がどこまでも広がっている。
 背後でどおんと大きな爆発音がした。
 地響きと風圧で私は砂地に転がった。明るい炎が舞い上がり、火花が飛び散り、暗闇は一変した。
 無数の火花が星のように降ってくる。
 炎のかけらが夜空を切り裂くように流れ、地平線の向こうへ消えていく。
 私は砂まみれで、血を流していた。
 あたりには紙が散乱していた。どの紙にもたくさんの文字がちりばめられている。
 女の人の姿を探したが、どこにも見あたらない。
 砂塵が舞い、煙がたちこめた。私は煙を吸いこみ、激しくむせた。心臓が苦しいほど大きな音をたてて脈打っている。
 息を整えながら起き上がり、煙の中で地面に散らばった紙を一枚一枚拾い集めた。
 爆発の炎はおさまる気配がなく、むしろ激しくなったように見えた。ときどき小さな爆発を繰り返し、そのたびに地響きがして、大気が震えた。世界中が揺らいでいるようだった。
 なんだかよくわからないが、とんでもないことが起こっているようだ。汗が噴き出し、喉が乾いた。水が飲みたい。
 最後に残った一枚に手を伸ばすと、ひんやりと冷たかった。拾い上げた紙の下から、水たまりがあらわれた。砂の下からわきだしてくる水は、さまざまなものを含んで濁り、くすんだ色をしていた。
 ここにいのちのはじまりがある。
 私は血まみれの両手で水をすくった。
 また背後で爆発が起こり、水面が大きく揺れた。火が衰えるのはまだずっと先だろうと思われた。まるで火山の噴火でも見ているようだ。
 地面の下の深いところで、大きく変動する何か。
 指のすきまからこぼれ落ちた水が音をたてる。
 ピチョン。
 私は拾った紙の束を抱え、夜の果てに向かって歩きはじめた。

私たちは冒険する

私たちは冒険する

夜、眠れずに目を閉じていると、どこからか水の落ちる音が聞こえてきた。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-25

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