由香とトイ8

由香とトイ8

由香がだらしなく伸びてきた喋る野良犬トイの毛を切ろうと、道具を持って荒井教頭の家に行ったのが今朝のことであった。トイの毛を上手に刈るために由香は、トリミングのバイトを始めたのである。トイプードルの毛もすでに上手に刈れるようになった由香はトイや荒井教頭に腕を見せつけてやろうと張り切っていた。由香が荒井教頭に家に行くとトイは涼みに荒井教頭の家に来ていた。由香は早速トイの毛を切ろうとトイに近づいたが、あまりにトイが泥まみれで汚くて臭かったので洗わないと無理だと悟った。「くっさ。良く鼻がつぶれないね。トイさん」と思わず由香は言ってしまった。「別に何とも思わないけどな」とトイはクンクン自分の匂いを嗅ぎながら言った。荒井教頭がそれならここを使いなさいと、庭の隅にある水受け場の大きな立水栓を貸してくれることになり、由香はそこで若干嫌がるトイを洗うことになった。立水栓はひなたにあり、日差しはギラギラで暑かった。由香はトイに水を掛けて持ってきた犬用シャンプーでトイを洗ってあげた。一度目は泡が立たず、洗い流されてくる水が泥だらけだった。由香は気合を入れなおして二回目のシャンプーを行った。二回目のシャンプーは泡が立ってきて、トイは泡だらけで情けない姿になった。由香はスマホで写真に収めると「可愛くないー。貧弱だね」と感想を言った。トイはひんやりして気もちいいのか洗い場の石の上に寝転がりながら「うるさい。さっさと洗ってくれ」と由香に文句を言った。文句を言うような格好でなかったので由香は吹き出してしまった。幸いにもトイの体は小さいのでシャンプーはすぐに終わった。九月も半ばのわりに外は炎天下で暑かったが、ホースで水を出して作業していると涼しく感じられて、トイが見る間に汚れが落ちて行くこともあって由香は気分がよかった。トイも途中から文句を言わず黙っていたのでまんざらでもないようだった。リンスを仕上げ終わると、トイは由香に離れるように言い、体を振るわせて水切りをした。荒井教頭にいらなくなったタオルを借り、トイの毛の水を拭くと暑さのせいかトイの体はあっという間に乾いた。ひなたでは大変なので、日陰になっている縁側に一同は移動した。縁側の上に新聞を引いて、トイを新聞の上に来させると、由香はトイの体をブラッシングした。以前由香がハサミだけでカットしていた部分が、伸びてくるとめちゃくちゃ凸凹していたのがよくわかり、バイトで教えてもらえて本当によかったなと由香は思った。由香はまずバリカンでトイの体中の毛を刈りあげた。次にハサミで仕上げて、もう一度ブラッシングすると、トイは見違えるほど綺麗なトイプードルに生まれ変わった。荒井教頭もニコニコしながら、「やっぱりプロは違うわね」と由香を褒めたたえたのであった。由香がトイの毛を片付けていると、荒井教頭の家に尋ね人が現れた。星月莉緒とその母親であった。莉緒は由香を見つけると「あ、由香先生だー」と言って由香に抱き付いてきた。由香は夏休みのバイトで保育補助のバイトをしたが、その時のクラスの子が莉緒だったのだった。莉緒の母は荒井教頭に相談があるらしく、は由香に「悪いですけど、由香さん。ちょっと莉緒と遊んでいてもらえませんでしょうか?」と言ってきた。由香は久々に会う莉緒と遊んであげないと悪いなぁ、先生やめちゃったし、と思っていたので「いいですよ」と言って莉緒と遊ぶことになった。莉緒の母は荒井教頭に深刻な顔で何やら悩みをうちあけているらしい。隣の部屋に行き由香は何して遊ぼうか迷っていると、荒井教頭が顔を出して「今日は暑いから子供用のプール出すわね、この部屋にクーラーが無くてごめんなさい」と言った。由香たちが外で待っていると荒井教頭の旦那さんが「いやぁ、今日は暑いね」と言い、子供用のプールを出してきた。旦那さんは汗を拭きつつ、プールの空気を膨らますと水を張った。「さあ、できたよ、入りなさい。後でアイスを持ってきてあげるよ」「ありがとうございます。こんなプールあったんですね」と由香が言うと「孫用にね、買っちゃったのよ」と旦那さんはおどけて笑って見せた。ところが一緒にいるトイの姿を見ると旦那さんはぎょっとして、そそくさと家の中に入っていってしまった。莉緒が「おじさん。犬怖いの。」と由香を見て言った。由香たちはプールで遊ぶことにした。莉緒は毛を刈って人形の用に可愛くなったトイをいたく気に行ったのか一緒に入りたいと言ってきた。トイは先ほど綺麗にしたためプールに入ることが許された。トイは莉緒の周りをグルグル泳いで莉緒のご機嫌取りをしていた。莉緒もトイにおやつを上げたりして友情を深めたのだった。由香はホースを使って水をかけたり、ボールを投げたりして遊びに加わった。途中荒井教頭の旦那さんが言った通りにアイスを持ってきてくれたりして、莉緒は大いに満足したのであった。お昼になったため、荒井教頭はそうめんを皆に振舞うことになった。恐縮する一同だが、ソーメンが余って仕方ないから減らしたいという荒井教頭の願いもあり、断れなかったのだった。みんなでご馳走になり、旦那さんがまたもや食べきれないからと、スイカを切って皆に振舞った。みんな集まって縁側で食べたのであった。由香はこれも夏の醍醐味よね、今は九月だけど、と思った。その内に莉緒がうつらうつらし始めて、ついにトイに覆いかぶさるように眠ってしまった。莉緒の母は寝ている莉緒を起こさないように抱くと、荒井教頭に相談に乗ってもらったことと、お昼をご馳走になった事を感謝して、家に帰って行った。「何かあったのですか?」と由香が荒井教頭に聞いた。荒井教頭は「星月さんのお兄さんの悩みですよ。お兄さんが高校2年になったら留学をしたいと。今は星月さんの旦那さんが海外に出帳していらして。それで誰かに話を聞いてもらいたかったのでしょう」荒井教頭は悩ましげに言った。由香は莉緒に年の離れた兄がいたのを思い出した。「本来なら今が一番大事な時期で勉強に集中すべきなのでしょう。私も大学に行ってから留学する方が良いと思いますし。でも結局は本人の意思ですから、あまり反対して欲しくないと言いました」「そうですよね、本人に気持ちって大事ですよね」と由香は言った。そんな様子に荒井教頭は「由香さんには話しておこうかしら、ちょうどあなた位の年の子でね。こんな子がいたのよ」と言って、荒井教頭は一人の高校生のことを話しだした。名前は明奈といった。明奈は旅館の女将の一人娘で将来は進学せずに旅館を継ぐのだといっていた。ところが高校2年の冬に突然留学したいと言いだしたのだ。両親は大反対し、知り合いだった荒井教頭に娘を説得して欲しいと言った。荒井教頭は明奈を進路指導室に呼び出し、なぜ突然留学したいのか明奈に聞いたのだった。明奈の理由はこうだった。家の仕事は全然お客が来ないし、おしゃれじゃないし、本当にやりたいことは何か考えた時に、日本じゃ女性がバリバリ働けない、それならいっそ海外で働いてみたくなった。と言うことだった。荒井教頭は若い内に興味のあることを全力でやるのは悪くないと思っていた。しかし荒井教頭は、この時期に留学しても就職に有利ではないこと、両親の反対を押し切ってまでする勇気があるのか、と明奈を説いてみた。荒井教頭から見ると本当に明奈がやる気があるかわからなかったのだった。明奈は自信が無くなったのか、荒井教頭の説得を聞き入れて「留学は諦めます」と言ったのだった。荒井教頭は無事に説得できてほっとしていた。これで本当に良いのか自分でもわからなかったが。一週間後、明奈が学校に二日ほど来なかった。心配した荒井教頭は明奈の家に行ってみることにした。明奈は母親と一緒に旅館にいた。明奈は地元の祭りで、宿泊客が増えその手伝いをしていたのだった。その事を、明奈の母から聞いた荒井教頭はほっとして「そういうことでしたか。なら仕方ないですね。明奈さん、仕事が暇になったらまた学校にいらっしゃい。友達も待っていますよ」と明奈に言った。「どうせ進学しないのなら学校へ行く意味なんて無いんじゃないですか?ごめんなさい、私忙しいから」と明奈は言うとプイと行ってしまった。そんな姿を見て、明奈の母はバツが悪そう荒井教頭に謝った。明奈の母は明奈が機嫌悪い理由を知っていた。「おとといの夜、飼っていたオウムが逃げてからずっとあんな調子なんですよ。可愛がっていたからショックが大きいようで」荒井教頭はまだ近くに居るなら喋るトイプードルのモコが探せる、と思い明奈の母に鳥の羽を借りることにした。オウムの羽を持って家に帰るとモコが縁側にいて涼んでいた。荒井教頭はモコにオウムを探すのをお願いした。モコはおやつを一週間分で手を打ったのであった。「空を飛ぶ鳥探し当てるの、まず無理だゾ」モコはクンクン鼻を嗅いで言った。しばらく辺りを探していると匂いがヒットしたらしく、「おう?似たような匂いの鳥、居るな。あっちだ」と、モコは意外そうに言った。モコたちが、薄暗くなった公園の林に行くと、カラフルな体をした鳥が一斉に飛び立っていった。「あの中にいたのかしら」「うん?奥に羽が落ちているから嗅いでみるか」モコは何十羽の落としていった羽から「多分、これが探しているオウムだろうナ」と言って選びだした。荒井教頭は残念がって言った。「生きていたのはいいのですが…。これでは、飼い主の所へ帰ってくることはないでしょうね」荒井教頭は明奈の旅館に戻ってくると、明奈の飼っていたオウムが野生に紛れて帰ってきそうにないことを明奈に告げた。「ごめんなさい。力になれなくて。あなたが落ち込んでいると聞いて何とかしたかったのですが」と言って荒井教頭はオウムの羽を明奈に渡した。明奈は驚いて「本当に生きていたんですか?」と聞いた。荒井教頭が「ええ、犬に追わせたから間違いないと思うわ」と返した。明奈は意外そうに「あの子、そんな生命力あったんだね。温室で育ってきたから、外界に出たらすぐに死ぬと思っていた」と言った。次の日荒井教頭は、また明奈から進路相談をして欲しいと頼まれた。荒井教頭はなんとなく留学の話だろうと思っていた。明奈は荒井教頭に会うや否や、「やっぱり留学経験をしてみたい。海外の企業で働きたい」と言ってきた。荒井教頭は前と同じようにどうして気持ちが変わったのか明奈に聞いた。「私は今まで決められたレールの上しか歩けないと思っていた。そうしないと安全に生きていけないのかなって。でも私のオウムが教えてくれた。やってやれないことはないって」荒井教頭は深くため息をつくと「道から外れると、簡単にいかなくなるのですよ」と言った。「旅館だって簡単ではないよ」「そうですよね」荒井教頭は少し笑って続けて行った。「実はあなたが、両親に迷惑をかけたくないから留学しないと言っていたのかと思っていました」「…」「私はちょっと反省しているんです。私が無理矢理説得してあなたは納得していないのでは。本当に留学してみたいのなら、チャレンジしてみてもいいと私は思います」「でも両親が許してくれないかもしれない」「そういうことなら私が話をしてみましょう」荒井教頭の話をここまで聞いた由香は「それからどうなったのですか?」と話をせかした。荒井教頭は「私が明奈さんの両親を説得して、明奈さんは無事に留学しました。ところが明奈さん外資系の会社に就職してしまって、海外で働きだしてしまいました」「凄い、明奈さん夢を叶えたんですねー」「有言実行でやってしまうとは思いませんでした。明奈さんの両親には話が違うと怒られてしまいました」と言って荒井教頭は苦笑いした。「でも明奈さんは現地の男性と結婚し、子供も二人できて幸せそのものです。人生何が起こるかわからない。だからこれでいいのだと思います」と言って、荒井教頭は机の引き出しから写真の付いたハガキを取り出した。「明奈さん、明奈さんのご両親が病気になって海外での仕事を辞めて日本に帰ってきました。そして今年から旅館を継ぐことになったんですよ」と言って写真を由香に見せた。若い女将、赤子と幼児を抱いた外人を中心に旅館の従業員が写っている集合写真であった。写真の上にはリニューアルオープン致しました。どうぞ一度いらしてくださいと書いてあった。「ええー、急展開ですね。この女将さんが明奈さん?」「そうです。旦那さんと二人で外国人の客を引き込むんだってすごく張り切っていますよ」写真の中の明奈は自信満々でとてもいい笑顔だった。「由香さんも来年は受験ですね。頑張ってくださいね」由香はげんなりとした顔になった。「由香に過度な期待をしたらかわいそうだゾ」とトイが暑そうに、だらけながら言った。

由香とトイ8

由香とトイ8

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-25

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