6、ボウイが絆?

6、理沙

 六、理沙
 

「まったく、どうなっているんだか!」
そうはき捨てて理沙はもう一度机の上の時計に目をやった。



(もう十一時半。人の時間を無駄に捨てる人が多すぎる。)
理沙はどうにも情けない顔をした。十一時に来るはずの患者が来ない。たまにはある話だが今日はやけに腹立たしい。それでなくても最近は多くの事が感にさわる。ついこの間まではスウッと流せた事が妙にひっかかる。さっき帰った患者が自分には心の闇があると言っていたのを思い出すとさらにいらいらがつのってきた。



(いったい何?心の闇?――なんて曖昧な言葉。心理学を文学的にとらえてどうしたいわけ?――カウンセリングはあっちでもこっちでも流行ってるし。つまり人間は誰よりも自分に関心があるという事ね。自分への限りない関心とナルシストの堺は?ひとつ間違えれば怖い世界に引きずり込まれるのに。それをわかってない人が多過ぎる。)
理沙は自分の苛立ちを指にたくして机を小刻みにたたいた。
 


 理沙は三年前まで都内の大学病院で心療内科医として勤務をしていた。そこでは信頼を勝ち取り、その結果この先の安定も約束されていた。どう考えてもやめなければならない理由はなかった。ただひとつ理沙の不安定な感情を除けば。


どんな人にも毎日の同じ繰り返しに虚しさを覚え我慢できなくなる時がある。もっと何かできるとか、まだ別の道もあるかもしれないとか根拠もないのに結構真剣に思ったりもする。それでもだいたいの場合は時間と現実の生活がいつの間にか忘れさせる。


で、理沙の場合は――忘れる事も、消え失せる事もなかった。
それどころか四十歳を越える頃にはそんな思いにどっぷりつかり閉塞感が増すばかり。ついに四十二歳の冬の終わりにこの行き詰まった日々を変えるには突破するしかないと病院をやめた。この無謀に父や母は心配もしたが四十をすぎた大人の判断は見守るしかない。そして二年前理沙は駒沢の実家を改築して開院した。
 


 そこは理沙の希望の場所になるはずだった。これまで幾度も頭の中で描いた医者としての夢を限りなくそそいだ。心を痛めている人の為に優しく、あわく、柔らかい色調の診療室。それはまるで家庭の客間の様。さらに患者の話をゆったり聞く為の時間の配分。その上四十半ばにしては美しいという理沙の評判も手伝って忙しさは日毎に増していった。



客観的に見ればあの理沙の無謀な決断は成功だった。なのに――理沙の気持ちは上向かない。今では患者より理沙のストレスの方が問題かもしれない。
(私はいったいどうしてしまったの?仕事に本気になれない。――というより本気になれる患者がいない。うわっ!・・・なんかこれって怖い考え方?)
理沙は激しく首を横に振ると突然立ち上がり背筋をピンとのばした。そして切れ長の目を細め、大きな声で受付の恵美に話しかけた。



「もう十二時よ。来るわけない。時間を無駄にしたわね。」
その声には恨みがましい響きがこもっている。ただ恵美の返事はいつも通りあっさりしていた。
「たまにはあります。こんなこと。」
その平静さがじわじわと理沙に沁みこんでいく。



(ああ、彼女の方がずっと大人かも。私ときたら・・・)
理沙は診察室の窓際に立ち空をみあげた。空がきれい過ぎる。青く澄み切った空が切ない。天の恵みの暖かい陽射しも理沙の心を救ってはくれない。理沙は医者である自分を取り戻す様にひきしまった声で恵美に話しかけた。
「ねえ、その患者さん予約の時何か言ってた?症状とか。」
「ああ――ちょっと待ってください。」



 そう言いながら恵美は自分にしかわからないメモを取り出す。そのゆったりとした話し方も動きも理沙を落ち着かせる。理沙の苛立ちでピリピリしていた空気を田舎の診療所の様にふんわりした空気に変える。見ようによっては鈍感ともうつる恵美の性格がここでは何より必要だと理沙はあらためて感じた。周りの状況に振り回されない心がここでは必要だったから。

なんと言っても訪れる人は悩み、苦しみ、もがいている人達。急に泣き出す人もいれば突然怒り出す人もいる。その一人ひとりの心の変化に動じていたらここでの仕事は三日ともたない。かと言って事務的で無関心もいけない。やはり人間的なぬくもりもなければならい。恵美はこの二年その多くを満たしてくれた。



(本当に彼女はよくやってくれてる。そう言えば近頃はあまり話すこともなかったかな。――彼女ももう二十八?二十九?――いつ結婚の話がでてもおかしくはないわね。彼はいるのかしら?・・・聞いた事ないけど。)
その時恵美の返事がやっと返って来た。
「予約の時はこれという事は特に。ええと――美原麻奈さん。四十五歳。ああ、先生と同学年ですね。で、症状と言えば眠れないという事くらいですね。」



「そう。四十五で眠れないか。更年期?」
そう言いながら四十半ばの迷いや悩みは面倒だとしみじみ感じていた。
「とにかく今日はもう終わりにしましょう。」
恵美が片付けを始めると理沙はコーヒーを入れ、恵美の前に置いた。



「ところで恵美ちゃんは結婚の話とかないの?突然やめますなんてショックだからね。どうなの?」
「今年三十になりますから考えますよ。ひとりで生きていくのは寂しい気もするし。」
「彼は?最近聞かないけど。」
「もう一年以上前に終わりました。それから出てこなくて。嫌になっちゃいます。友達の中には二人目の子供なんていう人もいるのに。」
「焦る事ないわ。」
「ですね。でもこのままただ待ってても歳ばかりとりそうだから。実は――今度の日曜にお見合いするんです。」
「あら、準備とかで忙しいんじゃないの?」
「別に。普段のままでいいかなって。飾ってもすぐはげますから。」



理沙の頭をふと過去の結婚生活がよぎる。
「それでお相手の人って?」
「普通のサラリーマン。ただ大企業というのに父が乗り気で。親は安心とか安定が大好きだから。今の時代あまりあてにならないと思いますけど。」
恵美の顔が何故か若々しく見える。
「お見合いかぁ・・・私、した事ないのよね。」
「私も少し抵抗がありましたけど。まあせっかくのチャンスですから。」
「そうよね。どう出会ったかより肝心なのはその先ですものね。」



理沙はこの時恵美の人生への期待を見ていた。
(これからが彼女の人生の本番なんだわ。一番輝く時代への一歩?)
 恵美を見送った後、理沙の中に自分の結婚、離婚、そして四十五という年齢が交互に押し寄せる。理沙は自分の人生がいつのまにか抱えきれない程の過去に埋もれてしまった気がした。自分の人生はもはや過去の方が長いのではないかと。まだまだこれからだと考えてみようとしても未来はどこかもの悲しい。
(ああ、若い頃が懐かしくていとおしい。――どうして?そんな歳になったというの、私が?)

6、ボウイが絆?

6、ボウイが絆?

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-25

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