鏡之助の日常
「髪隠し」の番外編です!
四季を表現しつつ、四コマ漫画感覚で楽しめるよう書きました(書いたつもりです)。
※【其の一】と【其の二】のみ改稿しました(2024年)
江戸時代、武士の間では髪が薄く、マゲが結えない者も少なくなかった。彼らは常に〝付けマゲ〟と呼ばれるヅラを着用しており、世間からは「ヅラびと」などとさげすまれていたが、彼らはあくまでそれを地毛であると言い張るのであった。
そして将軍良伸の弟、鶴田大納言禿親も、そんなヅラびとのひとりで、良伸と将軍の座を争っている最中、不覚にもヅラびとであることが露見。将軍の座を追われた禿親は、失意のなか病死する。残された一人息子の鏡視郎は身分を捨てて野に下ることを決意。ひとりの名もなき素浪人として、自由気ままに生きる道を選ぶのであった。
【其の一】 春一番
天色に花吹雪が舞うと、ウグイスが歌いはじめた。
「桜か。今年は早いな」
撫子色の花びらが降り積もった大川(隅田川)の土手道を歩く、ひとりの素浪人。この男、名を被鏡之助と言う。若くしてハゲた故に、世間からは〝ヅラびと〟などとさげすまれてはいるが、実の名を真平鏡視郎禿忠と言い、鶴田大納言禿親卿を父に持つ、やんごとなきヅラびとなのであった。
「にしても、暑いな」
汗でヅラが蒸れる。あたまがかゆい。ヅラの上からかいても意味はない。そんなことはわかっている。無論、ヅラを脱ぎ捨ててあたまから水を被れば一件落着することも知っている。だが、そいつはできない相談だ。なぜかって? 決まってるだろ。桜の下から川の上の屋形船まで、いたるところに花見客の目が光っているからだ!!
「そこがヅラびとのつれぇところ、か」
首に手拭いをぶら下げて軽く息を吐く。
「いっそのこと出家でもするかなあ。坊主になりゃあ、もうこんなもん被らなくても堂々と表を歩けるし」
と、ちょっと本気で考えてみる鏡之助なのであった。
しばらく日差しを避けるように桜の木陰を歩いていると、東橋(吾妻橋)のちかくに団子茶屋が見えてきた。
「おやじ、白湯をくれ。それと団子もだ」
刀を帯から外すと、鏡之助は緋毛氈の床几に腰を下ろした。
「どうも。おまちどおさまです」
茶屋の主人が店の中からやってきた。盆を持つ手は細く、しなびた大根のようである。
「ダンナも花見ですかい?」
「いや。おれは花より団子だ」
「しかし、おかしな陽気でございますねえ。まだ春一番も来てねえってのに」
「まったくだ。この分じゃあ、桜が散る前ぇにセミが鳴くかもな」
そう言って鏡之助が白湯をすすると、茶屋の主人は笑いながら「ちげえねえ」と相槌をうち、店の中へと戻っていった。
「花より団子、か……」
桜を愛でながら湯呑をかたむける。ところで、彼が注文したのはお茶ではなく、ただの白湯である。なぜかって? 決まってるだろ。お茶を飲むと小便が近くなるからだ!!
「まあ、花見をしながら食う団子も、わるくあるめえ」
鏡之助が湯呑を置いて団子の皿に手を伸ばしたときである。
「あっ!」
ふいに突風が駆け抜け、鏡之助のヅラが天高く舞い上がる。
うわさをすれば影。春一番がやって来た。
【其の二】 鏡之助と三つ子地蔵
鬱陶しい梅雨も終わり、街では冷水売りや風鈴を売り歩く棒手振りの姿が目立ち始めた。鏡之助にとっては、もっとも厄介な季節といえよう。しかし、彼は素浪人。仕事はないが、時間ならいくらでもある。一日中川辺で涼んでいても、だれにも文句は言われないヒマ人なのであった。
「お?」
河原の隅に、小さな三つ子地蔵がある。どの顔も、とても穏やかな表情をしている。まるでこちらにほほ笑みかけているようだ、と鏡之助は思った。
「フッ……」
鏡之助は地蔵のまえに膝を折って手を合わせると、瞼を閉じた。そのとき、近くで釣りをしている男が竿を大きく振りかぶり、まるで狙いすましたかのように鏡之助のマゲに釣り針をひっかけた。そして釣り人は、容赦なく彼のヅラを川の中へと叩き込むのであった。
「ひえっ! どっ、土左衛門だーっ!! だだっ、だれか~っ!!」
ヅラを土左衛門と勘違いした釣り人が腰を抜かしながら振り向くと、そこにはすでに鏡之助の姿はなかった。だが、三つ子地蔵は知っていた。となりで座禅を組む大きな大仏が何者なのかを。
【其の三】 そば屋の怪
夕焼け空がもみじのような薄い紅色に染まると、遠くのほうで七ツ半(午後五時ごろ)を知らせる鐘が鳴り、カラスがカァと鳴く。やがてあっという間に陽は落ちていくのであった。
「秋の日はつるべ落とし、か」
とか何とか言いながら、この日も一日中ぶらぶら遊び歩いていた鏡之助なのであった。
「冷えるな……。そこらで一杯やっていくか」
と、ちょうど両国橋の袂に一軒の夜鳴き蕎麦の屋台を見つけた。
「おやじ、あられ蕎麦。それと熱いの一本つけてくれ」
「へい」
夜の街は昼間とは打って変わって静かであった。聞こえてくるのは按摩の笛の音、そして野良犬の遠吠えぐらいだった。だが、それもまた風流、と、ひとりでカッコつけながら鏡之助は手酌で二、三杯ひっかけた。
「へい、おまち」
「おう」
蕎麦から立ち昇る湯気とともに、カツオの出汁が効いた香りが漂ってくる。
「うむ、うめえ! おやじ、このあられ蕎麦、なかなかいけるぞ」
「へへ、ありがとうごぜえやす」
そう言うと、蕎麦屋のおやじは不揃いの黄ばんだ歯を覗かせながら、照れくさそうに笑うのであった。おそらく六十五、六であろうこのおやじは、恰幅のいい背の低い男で、白髪混じりの頭はまだまだハゲる兆しは見られなかった。
「それにしても……」
蕎麦屋のおやじが何やら不思議そうに首をかしげている。そして、その視線は鏡之助の生際に注がれていたのであった。
「!? ど、どうかしたのかい」
「え? い、いやあ、別に大ぇしたことじゃねえんで……へへへ」
鏡之助の心臓が高鳴り、背中を冷たい汗が一筋流れた。 ……バレたか? いや、まさか蕎麦屋のおやじごときに見破られるはずは……と、思いつつも、鏡之助はそれとなく探りを入れてみた。
「気になるなぁ。大ぇした事じゃねえんなら、話してくれたっていいじゃねえか」
「へえ……。それじゃあ、言いやすが……」
「おう、話してくれるかい?」
鏡之助は身を乗り出し、興味深そうにおやじの顔を覗き込んだ。まさか人のヅラを見破っておきながら大ぇした話じゃありやせん、なんてことは言わねえだろう、と、高をくくったのだ。
「いえね、ダンナは歳の割にゃあ白髪がまったくねえんで、若く見えるなあ、って……。ただ、それだけの事なんで。へい」
「白髪?」
……なるほど。そういや、確かに五十を過ぎて白髪が一本もねえってのもおかしな話だ。うかつだったぜ。まあ、白髪なんざぁヅラ人にゃあ縁のねえ物だからな。ハハハ……と、心の中で皮肉っぽく笑ってみるのであった。そして鏡之助は思った。たとえ白髪でもいいから一本ぐらい生えてきてくれないかなぁ~、と……。
「ダンナ、ど、どうかしやしたかい?」
「ん? ああ、いや……」
鏡之助は静かにお猪口を傾けた。
それにしても気になる。このおやじの落ち着いた物腰、立ち居振る舞い、そして油断のない目配り……やはり只者ではない。危険だな。こうなったら勘定払ってとっとと店を出るか、あるいはこのままなにくわぬ顔でやり過ごすか……。
だが同じく、蕎麦屋のおやじも鏡之助が気になっていたのであった。
このダンナ、どうも様子が普通じゃねえ。それに、なんでさっきからアッシのことをジロジロ見て……もしや、だだ、男……色!? ――!! しっ、しまった! さっきのあの言い方じゃあ、まるでアッシが若ぇ男に気があるみてえに聞こえなくもねえじゃねえか!! こ、こりゃあひょっとすると、今夜は無事に帰ぇれねえかもしれねえなあ……。
恐れをなした蕎麦屋のおやじは、とりあえず桶に張った水で汚れてもいない丼ぶりを洗い始めるのであった。もはやふたりの間に会話はなく、重い空気が漂っていた。静かである。按摩の笛も、野良犬の遠吠えも聞こえてこない。
「……お、おやじ、ここ置くぜ」
徳利にはまだ少し酒が残っていたが、なにやら気まずい雰囲気になってしまったので、鏡之助は勘定を払って帰ることにした。
「へ、へい、まま、まいど」
蕎麦はうまかったが、なんだか後味の悪い一日であった。
【其の四】 武士の鑑
華やかな賑わいを見せた歳の市も終わり、いよいよ師走が押し迫ったある晴れた日のこと。浅草花川戸町の、ある一軒の飯屋の店先で事件は起こった。この辺りでは有名な、あるひとりの性質の悪い旗本奴が、若い大工の男を無礼討ちにしようというのだ。なんでも、この旗本奴が飯屋に入ろうとしたとき、店から出てきた大工の男と出合い頭にぶつかった挙句、足を踏まれたなどと言いがかりをつけてきたらしい。しかも酒が入っているらしく、そうとうに酔っている様子。
「どっ、どうぞご勘弁を!!」
「いいや許さん!! そこへなおれ!!」
旗本奴が刀に手をかけ、鯉口を切った。と、その時である。
「よさねえか!」
野次馬の中から一人の浪人が進み出た。鏡之助である。
「なんだ、きさまは。これは立派な無礼討ちである! 文句があるか!」
「ある、と言えばどうする?」
「なぁにぃ~? 素浪人の分際で……」
「武士と言うのは民の手本となるべきもの。それが昼日中から絡み酒とは、天下の旗本が聞いて呆れる」
「お、おのれぇ~、言わせておけば……!」
旗本奴は血走った眼で鏡之助を睨みつけた。酒が入って薄く赤らんだ旗本奴の顔が、怒りでさらに真っ赤に染まっていく。そして、いまにも斬りかからんとする勢いで刀を抜き放ち、上段に構えるのであった。
さあ大変なことになった。野次馬たちがざわつく。そして鏡之助はただ佇んでいるように見えたが、隙はなかった。旗本奴も酔っているとはいえ武士の端くれ。いま斬り込めば、斬られるのは自分である事を本能が知っていた。そんな二人の様子を大工の男、そして野次馬たちは固唾をのんで見守っていた。
「やめておけ。酔って足元もおぼつかねえ今のおまえさんにゃあ、田んぼのカカシだって満足に斬れやしねえさ」
「だっ、だまれ!! オレにカカシが斬れぬかどうか、この男で試してみるか!?」
旗本奴が大工の男に切先を向ける。大工の男は「ひっ」と怯えながら、ペタンと尻餅をついた。
「どうあっても、その男を斬るというのだな?」
「斬る!!」
旗本奴が再び上段に構えた。
「やれやれ。聞き分けのねえやつだ」
すると、鏡之助がゆっくりと腰の刀に手を伸ばした。と同時に、旗本奴がサッと身構える。だが、鏡之助が抜いたのは刀ではなく、鞘の脇に収められた小柄であった。
「それじゃあ、これで許してやっちゃあくれねえかい?」
野次馬からどよめきの声が上がった。旗本奴も状況をうまく呑み込めず、呆気にとられている様子。なんと、鏡之助は自らの髷を小柄で切り落としたのだ。もちろん、これはヅラびとだからこそ成せる業であって、生身の侍にはとてもマネができるものではなかった。
さすがの旗本奴も、武士の命とも言うべきマゲを切っての頼みとあらば聞かぬわけにもいかず、苦虫をかみしめるように顔を歪めるのであった。
「くっ、いいだろう。ここはきさまに免じて、おとなしく引き下がってやる!」
そして忌々しそうに刀を鞘に押し込めると、大工の男を睨みつけた。
「命拾いをしたな」
捨て台詞を残し、旗本奴はしぶしぶ引き上げて行った。
「ダンナ、ありがとうごぜえます! ありがとうごぜえます! ダンナは……武士の鑑だ!」
大工の男は地面に手をつき、涙を流しながら鏡之助に頭をさげて感謝した。
「なに、いいってことよ」
大工の男の背を向け、鏡之助は頬被りをした。野次馬たちの歓喜の声に見送られながら、鏡之助はその場を立ち去るのであった。
長屋に戻って頬被りを脱ぐと、鏡之助は畳の上に寝転んだ。
「武士の鑑、か」
むくりと起き上がり、手鏡にハゲ頭を映した。
「確かに〝鏡〟だな」
とか何とか言いながら、まるで鏡のように輝くハゲ頭を撫でる鏡之助なのであった。
―― 完 ――
鏡之助の日常