吾輩はハイである

ハイテンションで書いたゲージツ的小説です。


 N氏はついに火星への旅の途上に立った。ラジオはガンガンと頭に響き、両目が飛び出て差し出した手の上に落ちた。
 それにしても有名になることは便利で気持ちいい。
 ラジオがN氏の名前を連呼する。N氏は頭の中がクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクル……………………永遠に回る。
 イヴは事務机に座って伝票に2、575円と記入している。機械のカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャ……………………という音がきこえる。
 N氏はもうすぐおれの天下だ、と心の中で叫ぶ。
 ところがどっこい、そんなに簡単に天下は巡って来ないと織田信長がバテレン服を着てのたまう。
「レディース、アンド、ジェントルマン、今度から、稲葉山城が岐阜城って名前が変わったから、みなさん、そこんとこよろしく」

 N氏が織田信長に会ったのは日蓮と自転車で衝突して大ケガをする三カ月前のことだった。でもN氏には織田信長がまるでマルチェロ・マストロヤンニのように見えた。鼻が高くて人を小馬鹿にしているような。
 N氏は写植の機械をガチャガチャいわせながら、「織田マストロヤンニ!」と叫んだ。その頃N氏は随分の有名人だった。

 N氏は社会というものを全く理解していなかった。社会とは戦いだと理解していた。そこで織田信長は「そうだ!」と叫んだ。ところが世の中には山際成仁のような人もいる。山際成仁とは、N氏が昨日電話帳で探した名前。一体、どんな人なんだろう?

 N氏は風船の群れの中に入り込んだ。それはとてもファンタジックな光景なのだが、実はN氏は風船が大の苦手なのだ。「おい、設定が間違ってるじゃないか、おれの夢なら、おれの気に入るような設定にするがいい」とN氏は市役所の健康保険課に苦情を申し込んだ。「その件は二階の市民税課にお回り下さい」「はい、3番の方どうぞ」「一緒にお茶を飲みに行こう」「この時間は口説きの方はお断りしております」
 とてつもなく美人の市役所職員がN氏を挑発していた。

 N氏は美人の市役所職員とともに地下の散髪屋に入った。「全てのはさみの使用を禁じる」とA4のコピー用紙に呉竹の筆ペンで書いて、店主の額に貼る。店の中は冷凍室のように凍りついた。そしてN氏と市役所職員は赤道直下の黒い岩のように熱く燃えたぎった。

 N氏は驚異的な元気さを誇った。遅刻、欠勤、欠勤、遅刻の連続だった以前が全くの嘘のようだった。火星は間近に見えた。火星のフンネルト山に織田信長が立っている。織田信長はまるで若き日の藤田まことのようだ。頭の中で梅宮辰夫の怒号が轟く。

 事務員のイヴはまだ十九歳だった。N氏は彼女より一昔前に生まれている。長い人生でも無駄な場合が多い。ヴァイオリンは古物の方が持て囃されるが、人間の古物は禄でもない。人間は年を取れば取るほど腐って行く。そして最後の腐りで死に至る。
 死んだ人間のことは誰も知らない。祖母を老人ホームに訪ねた時に、あるお婆さんがこう言っていた。
「死んだらきっといいとこに行けるんだろうねえ。わたしはそう思うよ。だって一人も死んだ後に帰って来た者はいないじゃないか。いやなとこなら帰って来るよ。あんたもそうだろう?」
 確かにそうだ。いやな所なら辞めて帰って来る。あの世も会社みたいなものだ。N氏は今まで何度も会社を変わった。どこに行ってもいやな所ばかりだった。いやな所で我慢するのはまるで奴隷だ。

 ところでイヴはいつの間にか伝票の束を持ってN氏のそばに来る。イヴは甘くて豊かな香りがする。N氏は思わず「結婚してくれ」と依頼する。思えば昨日は市役所の美人職員に結婚を申し込んだばかりだ。「定年退職をしてからなら結婚します。今結婚して子供が出来たりしたら、せっかく公務員になったのにもったいないです」
 もったいないって、一体何だ?

「わたしには彼氏がいます」とイヴは困惑した顔をして伝票の束を歯で噛む。伝票に歯型がついて、唾液が唇の間から流れる。N氏は操縦桿から手を離し、イヴの唾液を手のひらで受け止める。
「あら、ごめんなさい。まるで子供みたいね」とイヴは優しくほほ笑む。N氏は今からすぐにしたいと思った。内線の2番で織田信長を呼び出し、「おい、ちょっと操縦を代わってくれないか」と頼む。
「おっと、今から本能寺に行くところだったんだが、きみがそう言うのなら今からすぐに行く」
 かくして織田信長は明智光秀の謀反による死を免れたのであった。

 ピーポーピーポーピーポーピーポーピーポー。
 緊急指令、緊急指令。神様を馬鹿呼ばわりした猫を発見。至急猫鍋にして食べるべし。

 ドカーン、ドスーン、ビシャン、ペケ!
 図書館が大挙して国会議事堂に押しかけております。ウルトラマン一人ではどうにも防ぎ切れません。

 N氏は手動写植機のキーを叩きながら、頭の後ろが割れるのを覚える。彼には日常がなくなった。耳の中でシンバルが何度も鳴り響く。「ヒャック、ヒャック」とN氏はしゃっくりをする。しゃっくりこそ神との交信の仕方で最高のものである。

 仮眠室で耳をそばだてるN氏。世界の中心は俺だと叫ぶ。ファスナーを降ろし、左に曲がったペニスを引き出して、「火星まで、飛べ、精液よ」とオペラ調で歌う。世界はN氏の左手の動きに合わせて太鼓を叩く。

 イヴがお尻を丸出しにして先を急ぐ。お尻が丸出しということは前も丸出しだろうというのは実に甘い考えで、イヴの前には巨大な貝殻が貼りついている。ピストルを持った巨漢の池乃めだかが貝殻にドカーンと八方した。いや、発砲した。
 商店街のアーケードが崩れる。これは洒落にならない。N氏は必死に電柱にしがみついて、商店街の崩落を防いだ。
 お尻を丸出しにしたイヴがN氏に軽く手を振って、「ダ・スビダーニャ」と挨拶をする。

 テーブルの上に『現代書道三体字典』が立っている。腰に手を当てて、「時代遅れなどということはない」と演説をしている。N氏の右目が『現代書道三体字典』の勇士を眺めている。左目は織田信長が葡萄と間違えて食べてしまった。
 それではN氏の鼻はどこに行ったんだ? それは教えられない。

「わたしには彼氏がいるんです」とイヴはいつも同じことを言う。「でも彼氏がいるからといって、それがどうなの? と思うでしょう?」
「ぼくはすいかがボーリングの球だからといって、それがどうなの? って思うかもしれない」
「自由なのね、あなたって」
「褒めたって、オナニーはしないぜ」
「わたしのスカートはどこなの?」
「禁固十年の刑になって、巣鴨にいるさ」
「いいもん、郵便局のポストをはくから」
「それはいつもぼくがはいてるから、駄目さ。この世で一番罪なのは、ユニークさの人真似さ。人真似をするくらいだったら、昔の中国の国民服の方がよっぽど格好がいいさ」
「あなたは自由なのね」
「褒めたって、強姦はしないぜ」

 火星とあの世とはどう異なるのか、実はまだ科学的に説明されてはいない。科学はまだ世界の一部にしか当てはまらない。
 あの世に行く。――チーン
 火星に行く――ポカーン
 うんこをしに行く――ドカーン

 起きて寝てうんこをするだけの本町郵便局の局長が、贈収賄で逮捕された。N氏はハッと夢から醒めて玄関から海に飛び込む。そこはミルクの海だった。
「雪印乳業は永遠に不滅です」と皇帝ペンギンが大きくふりかぶって第一球を投げました! カーン! 1塁から3塁、3塁から2塁へ。見事なファールでした。

 ミルクの海は伊勢志摩に通じていた。伊勢志摩はイヴのお臍に至っていた。「そんな所で遊ばないで、こそばいわ」とイヴは乳房を揉みながら不満をのたまう。「おいおい、きみがそんなに大きくなったら、ぼくは小さくなるじゃないか」とN氏はメガホンを持ってイヴに呼びかける。「あなたはわたしの肉体に完全に包囲されています」と言ってイヴは傍らからバナナを取って食べ始める。
「こんな時にバナナを食べるのは不謹慎だ」
「あなただって仕事中なのに女の臍の中で遊んで、不謹慎じゃないの」
 N氏はいつもイヴに軽く丸め込まれてしまう。彼の方が十一も年上だというのに。

「おはようございます!」と元気よくN氏は職場に突入する。課長はN氏の顔を見るなりいきなり笑い出した。
 ハーハッ、ハハハハ、ハーハ、ハハッハ
「お先に失礼します」
 N氏はトイレに逃げ込んで考える。世界は一体どうなってしまったんだ? 窓からドカン、バタンと大きな音がきこえる。
 考えていただけなのに、N氏は本気でうんこがしたくなった。「うんこのチャンスを逃すな!」と世界が連呼する。それはそれは素晴らしいうんこだった。

 偉大な神々が雲の上で協議していた。
神々A「この頃人間界が乱れているようじゃが、みなさん方はどう思う?」
神々B「なあに、人間界というのは昔からこんなもんじゃよ」
神々C「頭の狂う人が増えたようじゃぞ」
神々B「なあに、人間というのは元々頭が狂っとる。犬やペンギンたちはわしらがそばに行ったら挨拶してくれるのに、人間は全く気がつかん。どう考えても自然界のノータリンじゃ」
神々D「世界の福祉のためには、人間を何とか真人間にしなければならんと思うが、どうじゃ?」
神々B「人間のせいで川の真水が真水じゃなくなったのじゃから、人間も真人間であり続けることは出来ない」
神々E「人間は何のためにこの世に存在するんじゃ?」
神々B「そんなこと、わしが知るもんか」

 N氏の握る操縦桿がだんだんと大きく勃起してきた。イヴは傍らの席で頬杖をつきながらカルビーのポテトチップスを食べている。
「おい、手伝ってくれよ、お前は女だろう?」
「女だからどうだって言うの? 女は勃起した操縦桿を慰めなければならないという法律でもあるの? ひどい女性蔑視だわ」
「しかし、おれはホモじゃない!」とN氏は発狂せんばかりに表情を歪めて叫ぶ。
「ホモじゃなくても操縦は出来るわ」
「実はおれは免許がないんだ」
「目があるじゃないの。人間、目があれば何でも出来るわ」
「目と度胸だな?」
「確かにあなたには度胸がない」

 実はイヴの彼氏とは今川氏真だった。桶狭間の戦いで父の義元が倒れたあと、イヴの家に逃げ込み、そのまま同棲をした。
 小早川秀秋がドアをノックする。
 イヴは「今はまだ留守よ」と答える。
「いつになったらあなたは在宅になるのですか?」
「大阪夏の陣のあとよ」
「ぼくは早死にをするんだ。早く入れてくれないかな」
「二股をかけるのはよくないと、オリビア・ニュートンジョンが言ってたわ」
「そんな毛唐の名前を言うな!」
「何よ、偉そうに。徳川家康が怖いくせに」

 そんなこととも知らずN氏はいつものように手動写植機のキーを叩いている。
 空席になったイヴのテーブルを眺めている。
 イヴはどこに行ったんだ? とN氏は盛んにたずねている。機械に向かってたずねている。
 手動写植機は「そんなこと、おれの知ったことじゃない」と冷たく言い放った。
「いつも丁寧に磨いてあげてるじゃないか」
「あんたはいつも右手で磨いてるが、おれは本当は左手で磨かれるのが好きなんだ」
「左手はぼくにとって神聖な手なんだ。仕事ごときで左手を使いたくない」
「仕事に魂が邪魔になるのと同じ論理だな」
「よく分かってるじゃないか」

 冷たい風の吹き付ける海岸沿いを、N氏と織田信長は歩く。
「冬に涼しいと言う奴は強がりだろうか?」とN氏はたずねる。
「修行をすると火もまた涼しと叡山の坊主が言ってたよ」
「それで焼き打ちをしたんだな?」
「その話はしないっていう約束だろう」
「それじゃあ、ガルシア・マルケスの話をしよう」
「誰だ、それ?」
「マルクス兄弟の弟だよ」
「ああ、分かった。エンゲルスの従兄弟だな」
「エンゲルスという人はきいたことがないなあ。それよりもあそこの露天風呂に入ろう」

 織田信長の背中には大きな刀傷がある。ブリジッド・バルドーが織田信長の背中を撫でている。N氏は巨大な太陽を見て盛んに合掌している。
 今巷では『女性器の神秘――奥へ奥へ』という本が話題になっている。N氏も流行に遅れまいてして、『乳房よ、永遠に――モミモミ』という本を書いている。二行目でつまづいたので、今度は十八行目から書こうと思っている。

 イヴの右手の甲には小さなほくろがある。これは秘密のほくろで、初対面の人には決して見せない。彼女はいつも右手の甲の上に左手を置いて話す。
 N氏もイヴのほくろに気が付かない。わたしのほくろを知らない人は、わたしの友達じゃない、とイヴは確信をもって言う。テレパシーで言うのでN氏にはきこえない。N氏に届くテレパシーは正岡子規の俳句ばっかりだ。
 困ったなあ、ぼくは俳句が苦手なのに。

 コーヒー・ショップで煙草を吸う今川氏真の顔はにやついていた。今さっきソープ・ランドから出たところなのだ。
 自分の体から立ちのぼる湯気が気になる。温泉のあとなら気にならないが、ソープ・ランドのあとは湯気が気になる。
 誰も自分のことなんか気にしてないよ、とチャールズ皇太子がテレビで言っていた。
 でも、織田信長はあんなに脚光を浴びていいなあと、内心では羨ましい。
 強がりと弱気のはざまで揺れ動く今川氏真であった。

 火星には近頃遊園地が出来た。重力が少ないからジェットコースターは空を飛ぶ。時々木星まで飛んで、ゼウスの神が手のひらで受け止める。そのためゼウスの手のひらにはたこが出来てしまった。

 ピーンポーンと玄関のチャイムを鳴らすと、イヴのお姉さんが素っ裸で飛び出して来た。
「あら、失礼」と言ってイヴのお姉さんは両方の乳首を隠す。N氏のズボンの前が破れて、巨大なちんぽこが現われる。
「あら、あなた、本当はそんなにちんぽこ大きくないでしょう? 見栄を張っちゃ駄目よ」
「ああ、すみません」と言うと、N氏のちんぽこはみるみるうちに縮まって、ズボンの中におさまる。

 N氏が部屋の中に入ってもイヴのお姉さんは素っ裸のままだ。「服を着なさい」と権柄ずくなことも言えず、暗にほのめかすつもりでN氏はズボンを脱ぐ。
 ところがイヴのお姉さんはテーブルの上で足を開いて座り、N氏に「これがクリトリスよ」と教授する。
「おお、いとしのイヴのお姉さん、そんなことよりぼくはおなかがすいた」
「あ~ら、気が利かなくてごめんなさい。どうせ何もございませんが、お茶漬けでもあがりますか?」
「お茶漬けでもお湯漬けでも、ぼくはいりません。ここに来る途中でそばを誂えて来ましたので、それを食べます」とN氏はとても素人には出来ないことを言う。

 イヴは盛んに走っていた。フェスティバル・ホールで高石ともやのコンサートがあるのだ。イヴは若いからフォークソングのことは知らない。好きな音楽はタイのガムランだ。
 今川氏真がもっとしっかりした男だったらよかったのにと悔やまれる。やはり年が十一離れたN氏の方が頼りがいがあるかなあと、乙女チックな気分で考える。
 でも今川氏真はBMWに乗ってるもんなあ。N氏はケネディ家の御曹司でもないから、いい車に乗っていない。車がないどころか、免許もないらしい。
 つくづく女はドライブが好きだ。

 N氏は織田信長の電話で呼び出されて、西宮名塩に電車で向かっている。ところが不意に頭の中で声がする。
「お前は追われている!」
 有名になったら嬉しいこともあるが、狙われるので恐ろしい。日本脳科学連盟平群地区からはがきが来た――ような気がした。N氏は一瞬そのはがきを見たが、母が慌てて隠してしまった。
 肉親といえども油断は出来ない。

 織田信長は森蘭丸と一緒に堤防の上を歩いていた。
「海はきれいだなあ」と織田信長は加山雄三みたいなことを言う。
「御意」と森蘭丸はかしこまる。
「お前、昨日の晩、濃姫と寝てたやろ?」
「御意」
「おれは今川氏真の彼女と寝たい」
「御意」
「一番好きなんは、ルイ十六世の嫁さんや」
「御意」
「さあ、ブリの照り焼きでも食べよう」
「御意」

 N氏は極度の幸せと極度の恐怖との両方を味わっていた。
 世の中全てが信号だ。世界は彼に呼応している。彼は今や宇宙一有名な男に成り上がった。
 携帯を取り出し、織田信長に電話をする。「ただ今この番号は使われておりません」と醒めた女性の声がアナウンスする。
「また番号変えよった」
 N氏は今度はテレパシーで交信する。
「はい、こちらは火星テレパシー交換所ですが」と今度は愛嬌のある女性の声がきこえる。
「あっ、すみません、織田信長さんにつないで欲しいんですが」
「わたしではいけませんか?」
「あなたでもいいです。どこにいるんですか?」
「わたしはあなたのそばにいます。いつもあなたのそばにいるのです。今、会いに行きます」

 N氏の脳裏にイヴの影がかすめる。
 織田信長は今、マリー・アントワネットと路上でエッチをしている。

と、空からパラソルをさして降りて来たメリー・ポピンズが暴露する。

 通り過ぎる車の窓々から人々が顔を出して、「ええなあ」と賛嘆のため息をもらす。
 N氏はメリー・ポピンズには手を出せない。メリー・ポピンズは彼にとって神聖な教師なのだ。

「わたしがもし不思議の国のアリスだったら、どう?」
 不思議の国のアリスならもっと駄目だ。名前を変えて欲しい。
「それなら、これからわたしのことを小沢まどかと呼んで」
 オーケー、それなら一丁やりましょうか。

 そんな卑猥なことばかり考えてたら駄目よ、と小沢まどかがN氏のちんぽこを握りながら色っぽく言う。
 うん、ぼくは勉強しなければならないんだ。ぼくはこれから世界を救う仕事をしなければならない。ぼくのこの仕事が完結するまで、ぼくは死ねない。
 あなたが死んでもこのちんぽこは永遠に不潔、いや違う、永遠に不滅だわ。

 不覚にも寝てしまった。夜は故アラファト議長と会話をする時間なのに。
 朝日は既に昇っていた。母は玄関を掃除している。
 おそらく昨晩は故アラファト議長も寝てしまったのだろう。もし起きていればこちらの頭を叩きに来ただろうから。

 ああ、あの足、この足、足は奇麗だ。足が目に迫る。足が誘惑をする。思い切り叫びたい。「足たちよ、足たちよ、ぼくはお前達を一生抱き締めて暮らして行きたい」
 織田信長がハハッと笑う。
「足もいいが、手もいいぞ。おれは手が好きだ」

 N氏はこの頃自分が酒を全く飲んでいないことに気づいた。要するに酒を飲まないでも酒を飲んでいるような状態になったということだ。これは喜ばしいことなのか? 悲しむべきことなのか? 悲しむとすればどのようにして悲しめばいいのだろうか?

 妹に貰った万年筆が壊れたので、N氏はスティーブン・ミルハウザー先生に頼んで修理してもらった。ところがスティーブン・ミルハウザー先生は万年筆屋ではなく、ただの英会話学校の先生なので、直し方が分からない。
「これは何か部品が足りないようですね」と英語訛りの日本語でN氏に語りかける。
「スパシーバ」とN氏は答えて教室を出る。

 雨がやんでいた。N氏は突然何かを悟った。
「ぼくが宇宙を支配出来る」というようなことを。
 スティーブン・ミルハウザー先生は教室に残って気の毒そうに頭を振っている。

 イヴはN氏からの電話に出なかった。イヴのお姉さんが呼んでも出なかった。イヴのお姉さんは心配してイヴにたずねる。
「どうしたの? 今川氏真とNの間で迷ってるの?」
「わたしはNでいいと思ってるんだけど。Nがね」
「いやがってるの?」
「いやがるのよりもっと悪い。わたしに夢中過ぎるの。自分勝手だわ。わたしのペースに合わせてくれたらいいのに。あんなに速いペースじゃ、わたしがついて行けない。わたし、ついて行きたいのに」

 N氏には不満というものがない。というより自分が何に不満を感じているのが分からないのだ。怒ることを非常に罪深いものだと考えている。
 怒る人間の見苦しさ。父と母のいさかいを見るたびに、N氏はそれを痛感した。
 怒ることも大事なのだ。N氏は経験の浅い人間だから、そのようなことを知らない。だから人になめられてしまう。
 優しいとは怒らないことではない。怒ってあげることも優しさなのだ。怒らないで飲み込んでしまうのは、一見優しいようでいて、実はとても冷たい行為なのだ。

 今川氏真は仕事がなくて悩んでいた。このまま無職の状態が続いたら、イヴに去られるのではないかと危惧していた。
 過去の栄光のある人物が転落したら、末路は悲惨だ。普通の家に生まれればよかった。
 『今川氏真』と書いた履歴書を出すたびに嫌みを言われる。「今川家の御曹司ともあろう方が当社のようなつまらない仕事をしたら、体面にかかわるでしょう」
 誰も自分のやっている仕事が本当につまらないとは思っていない。妬み、僻み、嫌みなのだ。

 イヴは贅沢を好まない。岡山県の田舎育ちだから、贅沢とはどういうものかよく知らない。
 N氏は女性は贅沢を好むものだと思っている。
 金の力で人の心が買えるものなら、金持ちになって沢山の人の心を買いたい。誰でも一度は夢見ることだろう。
 特に女性の心を買いたい。男はそのために一生懸命働き、一生懸命出世しようとする。
 物事には別の一面がある。あらゆる物事には両面があり、両面が両方とも真実なのだ。
 金で人の心が買える。金では人の心は買えない。
 どちらも真実なのだ。

 N氏は火星のミンクス山の頂上でサンドイッチを食べている。腕が四本ある火星人の女性が『官能の舞』を踊ってくれる。
 足も四本ある。
 今夜彼女と一緒に寝ることになっているのだが、四本も足があったらどこに入れたらいいのだろうかと考える。
 偏見はよくない。N氏は小学生の時に先生にそう教わった。あらゆる生理的嫌悪を克服してこそ、本当の大人なのだ。だから彼は本当の大人にはなりたくない。

 織田信長は本能寺の前のコンビニでカレーせんべいを買う。店員の竹内結子は今天国の本屋から帰って来たところだ。
 織田信長は女好きで、既に二十四人の子供をもうけている。いきなり竹内結子を押し倒し、スカートに手をかける。
「わたしには何万人ものファンがいるのよ。そんなことしたら、安土城を焼き打ちさせるわよ」
「分かった、分かった。それだけはやめてくれ。このカレーせんべいをあげるから許してくれないか」
「わたしは大女優よ。たったカレーせんべい一袋で許したり出来ないわ」
「それじゃあ、どうしたら許してくれる?」
「プリッツのサラダ味も買って欲しい」
「それじゃあ、買おう。店中のプリッツのサラダ味を買おう」
「芦屋雁乃助さんにも会いたい」
「会わしてあげよう。友達の友達なんだ」

 N氏の携帯が鳴る。
「どうして西宮名塩に来なかったんだ?」と織田信長が責める。
「小沢まどかと名乗ったメリー・ポピンズと一緒だったんだ」
「おれは竹内結子と名乗ったイヴのお姉さんと一緒だったんだ」
「イヴのお姉さんに会いたい」
「イヴには会いたくないのか?」
「イヴはぼくのことを避けてるからな」
「イヴはお前のこと好きだぜ」
「イヴは今川氏真が好きなんだ」
「イヴはウブだ」
「イヴはラヴだ」
「お前、芦屋雁乃助を知ってるか?」
「知らないのなら、お前が芦屋雁乃助になれ。きっとイヴのお姉さんが喜ぶぜ」
「ぼくは今火星に来て忙しいんだ」
「来週の今日、冥王星で会おう」
 電話は突然切れる。世の中、要領の得ないことばかりだ。

 イヴはある日、大きなお盆の上に乗って会社にやって来たN氏を見た。
「料理じゃないんだから、お盆の上に乗るのはやめなさい」とイヴは注意をする。
「お盆の上に乗ってたらわざわざ席を探さなくても座れて便利だ」とN氏が説明をする。
 イヴはなるほどと思う。だが世の中なるほどと思うことでも正さなくてはならないこともある。
「そんなに大きなお盆、どこで買ったの?」とイヴは遠回しにきく。
「買ってないさ。ホームセンターで買い物をしたら、外まで勝手について来たのさ」
「それじゃあ、万引きじゃないの」
「引いてないさ、お盆の方から押して来たのさ」
「それじゃあ、万押しね」
「万押されかな」
「目をつむってワッと叫んだらお盆は消えるかもね」
「これはそんな幻じゃない」
「みんな最初はそう言うの」

 昼休み、N氏とイヴは宝石店に入る。
「わたし、宝石なんかいらないわ」
「いや、きっといる。女は宝石がないと生きて行けない」
「男はアダルトビデオがないと生きて行けないわね」
「男を馬鹿にするな。ぼくはアダルトビデオがなくてもオナニーが出来るぞ」
「それはすごいわ」
「そんなに褒めるな。照れるじゃないか」

 大きなお盆の上にN氏とイヴが向かい合って座っている。イヴはN氏の操縦桿を握り、お盆の運転をする。
 N氏の顔は恍惚のあまり醜く歪んでいる。
 快感に向かう女性は美しいが、快感に向かう男性は滑稽に見える。
「どこに行く?」とイヴがたずねる。
「パラダイスさ」とN氏が答える。
「パラダイスに行くにはあなたの経験値が少ないわ。闘技場で決闘しないと駄目」
「それは恐ろしいな」
「人生、時に恐ろしいこともしないと。大丈夫、もし死んだとしても、死んだあとの人生があるから。人生、死んだあとの方が面白いわよ」

 N氏は闘技場には行かずに死んだあとの世界へやって来た。小さな光が沢山またたいていて、N氏もそれらの光の中の一つとなった。
「お前、まだ光り方が弱いやんけ。まだ死ぬほど熟してない奴やな、お前。なんでこんな所に紛れ込んだんや?」
「ちょっと見学に」
「見学料は高いで」
「いくらですか?」
「五万文字の物語をしゃべらなあかん。ここの世界では、物語がお金なんや」
「それは知らなかった」
「そら、人間の世界では物語いうんはえらい迫害されてるからな。どう考えても福沢諭吉はんの価値には勝たれへん」
「ぼくは作家なんです」
「ええやんけ。有望やなあ。期待してるで」

 N氏はコロッケを作ろうとしてサラダ油を鍋の中に入れようとしてこぼしてしまい、油まみれの床に滑って転んで玄関から飛び出したところを、訪問販売の東関親方にぶつかって、見事に寄り切りで勝ってしまった山田花子の話を物語った。

 光たちから拍手が起こった。光の長老がN氏のもとに進み出て握手を求める。光から白髪が生えているから多分長老だと思う。
「お主はなかなかの物語を語るのお。この頃物語も払底してきて、昔の物語をリヴァイヴァルすることで場をつなぐことが多いんじゃ。時々こうして話しに来てくれんかなあ。今度からはちゃんと魂のギャラを払うぞ」
「魂のギャラですか」
「死んだ時のために、魂のギャラは溜めといた方がいいぞ。地獄の閻魔さんも物語が好きじゃからなあ。シェヘラザーデなんか、三百年も話をきかせたらしいからな。お主もなかなか才能あるぞ」
「ぼくのはでたらめです」
「でたらめにこそ、その人の本性が現われる。人生のほとんどは即興じゃ。そう思わんかな?」
「推敲も大事です」
「推敲も大事じゃが、まずどんな変なものにしろ、たたき台は必要じゃ。そのたたき台を作る一番大事な力は即興じゃ」
 話が真面目になってしまった。N氏は眠くなる。

 女王様に呼び出されてN氏は床の上に平伏する。
「表をあげい」と女王様の声がきこえる。どこかできいた声だ。
 顔を上げたN氏は思わず「イヴ」と小さい声で叫ぶ。
 女王様に変装したイヴが唇の前に指を立てる。N氏はもう一度平伏する。
「大臣」と女王様に変装したイヴが呼ぶと、大臣に変装した織田信長が入って来る。大臣の奥方に変装したイヴのお姉さんが女王様に変装したイヴの手に口づけをする。
 ぼくは何に変装すればいいのだろうか、とN氏は考える。そうだ、ぼくは道化師になろう。ウディ・アレンの道化師のように、全く笑いを引き起こさない道化師になろう。

「みなさん、お揃いで御機嫌麗しく、わたしは嬉しいです。ほら、どうです、涙が出てるでしょう? わたしはどこでも涙が出せるのです。わざわざ玉ねぎなんか用意しなくてもいい次第でして、とても便利です。劇団四季にでも入れるでしょうか? まあ、そんなことはこっちに置いといて、本題に入ります。ところがわたしの話には本題というものがなく、全てが無駄話なのであります。それでは何故わざわざ高貴な方々の前にしゃしゃり出て話しているかと言いますと、わたしが道化師だからです。道化師というものはいかに馬鹿なものかを知っていただいて、一方で高貴な方々がいかに聡明でいらっしゃるかを証明するために、こうしてしゃべっているのでございます」

 無駄話にもほどがある。道化師に変装したN氏はあまりにつまらないというかどにより、断頭台で処刑された。
 昔はよかった、と団塊の世代が呟く。つまらない駄洒落でみんな笑ってくれた。
 今は笑いのレベルが上がったようにテレビは言うが、実は貧困になったのでないだろうか。
 意識の流れ的な純文学っぽい笑いは必要だろうか? 笑いを学問にする必要はあるだろうか? パッとしゃべってドッとうける、笑いはそれでいいのではないだろうか?
 駄洒落を迫害する者ほど笑いに対しては貧困である。これは第一定理。

 女王様に変装したイヴは道化師に変装したN氏の首を抱いてさめざめと泣く。大臣に変装した織田信長は「天下布分」と呟く。大臣の奥方に変装したイヴのお姉さんは、「ブルスのプチシューが食べたいのに」と不満を述べる。
 道化師に変装したN氏の首は「珍野苦沙弥先生は永久に不滅です」と叫ぶ。
「首を洗って出直して来い!」と課長が恫喝する。N氏はない首をすくめる。

 N氏の首は疲れて起きられない。体だけが会社に行く。臍の奥から「おはようございます」と言うが、誰もきこえない。大体、顔がないので誰なのか分からない。
「面接の方は予約していらして下さい」と事務員のイヴが事務的に告げる。
 N氏の体には反論の方法がない。
 やはり魂だけを置いて会社に行くというのは難しい。会社は人間の魂を腐らせる所なのに。

    『ギロチン首取り付け株式会社』

と看板が上がっている。N氏の首とN氏の体はドアを押して入る。
 顔面蒼白の不健康そうな中年の男が応対をする。
「いらっしゃいませ、へへへ」
「首を体につけてもらいたいんですが」とN氏の首が言う。
「ほう、その首を体に、分かりましたが、その首と体が同一人物であるという証明は出来ますかな? ヒヒヒ」
「証明ですか?」
「はい、この頃体が別の首を持って来てつけてもらうという事件が多発しておりましてな、ヒヒヒ、役所の方でもっと仕事を誠実にやれというお達しがありまして、へへへ、市役所の馘首接合課に行ってもらって証明を貰って来ていただきたいのですが、ヒヒヒ」
「市役所にそんな課があるんですか。何階にあるんですか?」
「地下八階じゃよ、ヒヒヒ」

 織田信長の携帯が鳴る。ベッドの中から織田信長の手が伸びて、「もしもし」とうなる。
「珍野苦沙弥じゃが、そちらは誰かね?」
「誰かねって、わしのことを知らないで電話をかけてきたのか? わしこそかの名高い天下人の織田信長であるぞ」
「ああ、あの本能寺の変のやつじゃな」
「本能寺の変って何だ?」
「まあ、それはどうでもいい。N氏がどこにおるか知っておるかの?」
「いやに横柄だな。首を刎ねられたいのだな?」
「わしは小説の登場人物じゃから、首を刎ねられても死なんぞ」
「おっ、なかなか手ごわいの」
 織田信長は恐れを抱いてN氏の個人情報を漏らす。

 市役所の玄関に珍野苦沙弥先生が立って待っていた。平成の時代に彼のような横風なひげは似合わない。
 彼はさっきまで昼寝をしていた。本の中でいつまでもいつまでも昼寝をしていた。
 夢の中で猫が虎になった。苦沙弥先生は驚いて虎になった猫の前に平伏していた。
 猫はN氏のことを語る。苦沙弥先生はN氏という名前はきいたことがない。大体猫がしゃべっているのが変なのだが、夢の中では変なことがよく起こるものだ。
 虎になった猫に食われては大変だから、こうして逃げて来たら市役所の前に着いた。
 織田信長はとかく信用の出来ない男だ。

 道路をはさんで向かいにある西館の三階の窓にイヴが立って、珍野苦沙弥先生に盛んにウインクをしている。
 夢の中というのは、とかくエッチな情景が現われるものだ。苦沙弥先生は今が夢なのか夢でないのかよく分からないから、見えることでも見えないのかも知れないと思う癖がついている。
 本の中の人物というものは、自分の存在に懐疑的である。ところがそうした性質が彼らの魅力の源泉になっている。自らの存在に懐疑的な人物というのは魅力あるものだ。本人はしんどい。だが世の中の人は本人がしんどいかどうかなどあまり気にしないものだ。

 天邪鬼がコケコッコーと鳴く。市役所の本館と西館の間にある道路で車が正面衝突をする。運転席から運転手が転げ落ちる。見ると手に拳銃が握られている。
 コルレオーネファミリーのドンがパンを入れた袋を抱いたまま倒れる。
 市役所の職員が出口まで殺到してこの修羅場を見るが、誰も助けに出る者はいない。当たり前だ、人生に自分の命を賭ける場面は稀なものだ。コルレオーネファミリーのドンが死んで困るのはコルレオーネファミリーの者だけだ。少なくとも市役所の職員には関係がない。

 N氏の首はN氏の体とはぐれてしまった。ろくろ首のように首だけ飛んで市役所の前まで来る。
「きみだな、N氏というのは」と珍野苦沙弥先生が腕を組んで呼びかける。
「正確に言うとぼくはN氏の首で、N氏そのものではありません。ぼくは相棒を探してるんです」
「N氏の体は市役所の西館の三階にいると思うよ、きっと」
「どうしてそう思うんですか?」
「教師の勘じゃよ」

 教師の勘は当たっていた。N氏の体はイヴの体の下に横たわっていた。
「形而下学的光景じゃな」と珍野苦沙弥先生はひげをひねる。
「形而上学は必要ないでしょうか?」とN氏の首は苦沙弥先生にたずねる。
「世の中に必要ないのは形而上学ではなく女だ。女は無より軽いものじゃ。女なんか仕方がない」
「苦沙弥先生は重いですものね」とイヴはN氏の体の上から言う。
「重いたあ、どういうことだ?」
「だって重いじゃありませんか」

 N氏の体は射精してぐったりとなっている。
「体だけ見たら、自分は何と不様なものかと思ってしまいます」と缶コーヒーを歯でくわえながらN氏は言う。
「わたしは不様な人が好きだわ」とイヴが反論する。
「人間、必要なのは愛嬌じゃからな」と苦沙弥先生は処世訓を述べる。
「先生は愛嬌ないもんね」とイヴは遠慮なく突っ込む。
「ぼくは愛嬌あるかな?」と缶コーヒーを歯でくわえたN氏がおずおずときく。
「あなたは愛嬌いっぱいよ。だからもっと落ち着いたらいいわ」
「ぼくはいつも落ち着いてるよ」
「いえ、あなたはいつでも猛スピードだから、わたしついて行けない」
「きみの気持ちが分からないから焦るんだ」
「人には他人の気持ちは分からないものよ。分からないから人間って楽しいんじゃない」
「?」

 精液がボンドに使えるとは知らなかった。ついにN氏の首とN氏の体はしっかりと接合されました。

「印鑑を下さい」と馘首接合課の女性職員はN氏に求める。見ると以前N氏が結婚を申し込んだ女性職員だ。
「あっ、きみは……」
「三日前から異動になりました」
「こんな冬に異動があるのか?」
「あなたが魅力的だから」
「きみも魅力的だ」
「あなたを忘れられない」
「結婚したい」
「結婚は駄目よ。子供が出来て公務員を辞めることになったらもったいないもの」
 もったいないって、一体何だ?

 織田信長から電話がかかって来て城崎に行こうと言う。素泊まり三千八百円の旅館の店主から誘いがあったと言う。
「天下人というのは金がないもんだからねえ」
「どうしてだろう?」
「人間、目立つと金が入らないものなんだ。『その時歴史が動いた』にでも出してもらえればいいんだが、本物は駄目だと言われるんだ」
「ぼくは今度『報道ステーション』に出るんだ」
「すごいじゃないか。きみももう有名人だね」
「実は有名なのが悩みなんだ。FBIに狙われるからね」
「FBIから電話でもかかってきたのか?」
「電話はないが、テレパシーが届いてきたんだ」
「ふーん」

 現実と思い違いの区別は大事だ。
 現実は膨らまないが、思い違いは限りなく膨張する。
 世界一つくらいは軽く包含するほど膨らみ行く。
 世界を超えて、宇宙、あの世、神の世界へと飛翔する。
 飛翔とはプラスの言葉づかいだから訂正する。
 パープリンが飛んで行く、と。
 パープリンはパープリンとして生きて行かなければならない。
 パープリンに未来はない。

 温泉水滑洗凝脂……

 城崎の『みやけ旅館』の主は司法書士でもある。大きな体の豪放磊落な男だ。
 人生、そんなに気を遣ってたらあかん。全く気を遣わんのもあかんけど、気を遣い過ぎるのはもっとあかん。気を遣い過ぎると、結果的に凄く気を遣っていないことになりがちだ。
 溜め込んで、溜め込んで、最後にドカーンと噴火されるのは、誰でも恐ろしいものだ。もう二度とこの人には近づかないと思われてしまう。
 『みやけ旅館』の主人の豪放磊落も、はっきり言って演じているのだ。豪放磊落を演じると、少々不満を述べても相手は傷つかない。おとなしい人が不満を言うとびっくりされる。

 珍野苦沙弥先生は、ご存じの通り胃弱だ。今時の医学なら胃潰瘍くらい簡単に治すことが出来るのだろうが、苦沙弥先生が生きていた明治時代は、胃潰瘍はいうなれば死病だった。
「気をつけねえといけない。胃っていうやつは命をとるからね」
 苦沙弥先生は徳利の首を傾ける。今日はなかなか飲む。もう二合は飲んだろうか。苦沙弥先生は酒が弱いのだが、胃弱には酒がよくきくということをきいて、無理やり飲んでいるのだ。闘っている。
 一方N氏は酒が強い。織田信長は浅井長政の髑髏で酒を飲んで以来一滴も口にしていない。

 イヴのお姉さんは三十二番目の彼氏を連れて来ていた。俳優事務所に所属はしているが、収入は一切ない。収入どころか、事務所に所属するだけでお金がかかる。イヴのお姉さんは一切の面倒を見ている。
 三十二番目の彼氏の唯一の取り柄はアレが大きいということだ。
 イヴのお姉さんは三十二番目の彼氏とくっついたまま離れない。人が見ていようが構わずくっついている。並の神経の人なら赤面するだろうが、今ここには並の神経の人はいない。

「おれなあ、何しろ天下人だから、くだらない仕事にはつけない。そこでだ、おれは考えた。天下布分という言葉にかけて、天下布団という会社を作ろうかと」
「そんな駄洒落で会社を起こすことは出来ないでしょう」とN氏は真面目に指摘する。
「大丈夫。イヴのお姉さんと三十二番目の彼氏をコマーシャルに使えば、客はどっと集まるぞ」
「なるほど」
 織田信長は怖いから、そう簡単には逆らえない。

「ヒイー、フー、ハー、オー、ノー」
 イヴのお姉さんは妙なる調べをかき鳴らす。三十二番目の彼氏はイヴのお姉さんの中に突き入れながら、とうもろこしを食べている。彼はとうもろこしが大の好物なのだ。とうもろこしを食べないと欲情しないらしい。
「まさにこの情景をそのまま使って、天下布団を宣伝するんだ」と織田信長はなおも言い募る。
「それは警視庁がやかましいでしょう」とN氏は指摘する。
「警視庁は芸術には関与できない」
「芸術じゃないですやん、商売でしょう?」
「わしの行うことは全て芸術なんじゃ」
 商売は決して芸術ではない。商売は基本的に詐欺だということを知って、全ての者は働くべし。それを知らないから、世の中にあくどい仕事が絶えないのだ。金を儲けさえすれば何をしてもいいという考えを捨てるべし。そのためには商売は全て詐欺であるということを知って、自分たちのすることに絶えず警戒の目を向け続けること。

 イヴのお姉さんと三十二番目の彼氏との単調な結合に飽き飽きしたN氏は、イヴと空を飛ぶ。
 ここにいるイヴは本当のイヴなのか、N氏の空想上のイヴなのか、N氏には分からなくなった。
 たとえ空想上のイヴでもいい。ぼくも三十二番目の彼氏のようなことをしたいと切に願う。
 空想上のイヴの姿は空想上の天使に変わる。小さな男の子の天使は口に煙草をくわえて、皮肉そうな笑みを浮かべてN氏を見る。
「そんないやらしいことに人生の全ての意義があると思ってもらっちゃ困る」と中尾彬のようなドスのきいた声で天使が話す。
「それでは人生の意義とは何なんですか?」とN氏はペニスを握っていた手を離して謹んで質問する。
「個々の個体の快楽など何の意味もない。重要なのは宇宙全体の喜びなんじゃ。お前たちはその重要なことを忘れたから頭が狂ってしまって、理性などという厄介なものを作った」
「宇宙全体の喜びとは何ですか?」
「その問いを解決することが、お前たち人間の永遠の定めとなるであろう。永遠の定めということは、永遠に解決出来ないということを意味する。もし解決した時には宇宙における人間の存在の意義は失われる。そして失われることこそ宇宙の中で最も大切なことなのじゃ」

 イヴは天王寺の歩道橋の上で歌を歌っている。ギターも何もなくアカペラで歌っている。なかなかうまい。彼女のまわりに人の輪が集まる。
 ポニー・キャニオンのスカウトマンが顎を撫でながらイヴを見つめている。
 次第にイヴは自分の世界にのめり込み、まるで巫女さんのように手や腰を揺さぶって歌って行く。
 イヴの歌う歌は即興なのだ。音楽を習ったことのないイヴが即興で歌うとは凄い。
 それは一種の狂気なのだ。彼女は狂気に取り憑かれている。狂気は神の世界に近い。だが狂気はわがままなものだ。神というものはわがままなものだからだ。
「信じない者は地獄に落ちる」
「小遣いくれなかったらグレてやる」

 天王寺の歩道橋の上はいつしか狂気の乱行パーティーとなった。細かく描写すると検閲に引っ掛かる恐れがあるので、みなさん、頭の中でご想像下さい。わあ~、やらしい、そんなこと考えてんのん?

 ポニー・キャニオンのスカウトマンは実はN氏の変装した姿だった。彼はイヴを求めて駆け寄るが、イヴは歩道橋の手摺りを越えて道路の上に落ちてしまった。たまたま通りかかったトラックの荷台に着地し、苦痛に身もだえしながらもなお歌い続けていた。

 N氏はマリー・アントワネットのスカートの中に押し込められて身動き出来ない。すると他にも何人もの男たちがマリー・アントワネットのスカートの中にいた。
「おい、新入り、ルイ二百八世陛下にご挨拶しなさい」と小さな男がN氏の肩を小突く。顔を上げると、狭いと思っていたマリー・アントワネットのスカートの中は随分広かった。
 上の方に一人の太った男がきらびやかな服装をして座っている。
「陛下をじっと見つめるなどとは何と不届きな!」と小さな男はN氏を散々に蹴るが、力が弱いのでN氏は一向に痛くない。

 宮殿の中が不意に暗くなって、大理石の壁にある映像が映される。それはイヴのお姉さんと三十二番目の彼氏との接合シーンの前で『天下布団』社長織田信長が自社の製品を宣伝する映像だった。
「このような不届きな映像を巷に流布させたのは、紛れも無くこの人物の仕業であります」と小さな男は小さな指でN氏を指さす。
「確かに不届きじゃな。確かに不届きじゃが、こうして三人きりで見る分には不届きでもないんじゃないか?」とルイ二百八世は気弱そうな声で小さな男にたずねる。
「そのようなお気の弱いことをおっしゃるから、ブルボン王朝の復興が成し遂げられないのです」と小さな男は必死の諌言をする。顔を真っ赤にして唾を飛ばすその様子は、ルイ二百八世でなくても恐ろしい。
「わしは別にブルボン王朝の復興など望んではおらんがな」
 その言葉をきいて小さな男は怒りのあまり卒倒する。

「この男のものはなかなか立派じゃのう」と倒れた小さな男を物置に押し込めたルイ二百八世は、壁に映る映像を羨ましそうに見つめている。「わしの三倍はある」
「イヴのお姉さんはぼくの好きなイヴのお姉さんです」と人見知りの激しいN氏は訳の分からない説明をする。
「ほおー、なるほど」と人の良いルイ二百八世は間抜けな返事をする。
「この男はイヴのお姉さんの三十二番目の彼氏です」
「わしは王位などいらんのじゃ。毎日のご飯が食べられて、こうして時々エッチな映像を見れて、月に一度くらい小さな宴会が出来ればいい。もし王位などに就いたら、ファッション・マッサージにも行けなくなる。待合室で『陛下』なんて呼ばれたら、エッチなムードが台無しじゃからな」
 もっともな意見だ。

 頭がフラフラして、酔っていないのに足が千鳥足になる。石切神社の参道は急な坂道で、今にも転びそうになる。疲れてはいない。疲れるとは何のことなのか、今のN氏には分からない。
 人間、自分が疲れていることを自覚するのは時には大事なことなのだ。
 疲れないN氏はフラフラ揺れながら坂道を降りる。本人は疲れている自覚はないが、まわりから見ると疲れているように見える。大丈夫かなあ、あの人、という目で人々は彼を見る。
 神社に来る人は老人が多く、みんな優しい気持ちを持って来ている人ばかりだから、N氏の様子に同情している。
 N氏は完全に勘違いをしている。自分にみんなが目を向けるのは、自分が有名だからだと思っている。

 ――石切神社の百度石前におけるN氏の演説――
「さてみなさん、わたしは絶対の幸福に達しました。みなさんも絶対の幸福を目指そうではないか。絶対の幸福とは何か? 世の中を全て幻だと見ることこそ、絶対の幸福につながるのです。
こだわりを捨てることです。色々なことをこだわるから人間は不幸なのです。人間にとってただ一つ大事なものは命です。命に対するこだわり以外のこだわりは全て取り去るべきです。
こだわりを捨てれば腹も立つことはないでしょう。こだわりを捨てれば怖いこともなく、こだわりを捨てれば泣くこともないのです」

 人々はN氏に向かって賛嘆の石を投げる。N氏の頭から血が流れる。人々は「素晴らしい」と叫びながらN氏の足や胴や腕を蹴る。
 とかく人々というのは素直ではない。血を流しながらN氏は至福の笑顔を浮かべている。

 神懸かりの占い師がいるという噂の店に入る。入ってみると長い髭をはやしたお爺さんがいた。目をつむってじっとしている。寝ているのかと思って出ようとすると、「人間、すぐに諦めてはならん」と背後から嗄れた声がする。
 N氏は「どうもすみません」と言いながら老人の前に座る。
「誰が座ってもいいと言った?」
「あっ、すみません」
「誰が立てと言った?」
「……」
「何とか言いなさい。そんな気の弱いことで生きて行けると思ってるのか?」
「……」
「まあ、そういじめてはいかんな。わしは実はお前を待っておった。きみはN氏じゃな? わしの出番がやっと来たようじゃなあ」
「お名前は何とおっしゃるのですか?」
「ジャイアント馬場じゃ」
「へ?」

 ジャイアント馬場の祈祷が始まる。N氏はあっと言う間に畳の上に転がる。
「何が見えるかの?」とジャイアント馬場がたずねる。
「目の前に大きな星が見えます」
「星形の星か、丸い星か?」
「星形の星です」
「それは本当の星ではない。お前のイメージじゃ。まだまだ深く入らねばならん。きっと楽しいぞ。楽しみにしておれ」
 ジャイアント馬場が「おお!」と気合の入った声を上げる。N氏は両手で宙を掴んで停止してしまう。

 N氏は町の上を飛んでいる。ここはどこの町だろうと考える。「余計なことを考えるな」と耳の中で声がする。N氏は思わず「はい」と答えてしまう。
 西洋の昔のお城みたいな所に着く。一本の矢が飛んで来てN氏は体のバランスを崩して下に落ちてしまう。
「ここはどこですか?」とN氏はジャイアント馬場にたずねたのだが、代わりに答えたのはこの城の馬鹿王子だった。
「ここはお前の豚小屋や。おい、お前は豚やろ?」
「ぼくは豚じゃないと思います」
「いや、豚や。おれが断言したら、それが法律や。お前は確かに豚や。おい、家来ども、この豚を豚小屋に入れろ」
 N氏は家来に担がれて狭い部屋に押し込められる。

 一方イヴは会社で経理の仕事をしていた。今日は仕事が暇なので、課長と係長がそばで将棋をしている。
 電話がピポパポプーと鳴る。
「はい、もしもし」
「イヴか?」
「ああ、Nさん」
「ぼくは今大変なことになってるんだ」
「どうなさったのですか?」
「豚小屋に閉じ込められてるんだ」
「そこは臭いですか?」
「臭くはない」
「他に豚が沢山いますか?」
「豚もいない。四角い部屋の中にいるんだ」
「どうしてそこが豚小屋だと言えるんですか?」
「馬鹿の王子が豚小屋だと言ったから」
「馬鹿の王子が豚小屋だと言っても、わたしにしたらそこは普通の部屋だと言いますよ」
「そうか……」
「これで気分は落ち着きましたか?」
「まあね」
 イヴは電話をガチャリと切る。

 今川氏真は太宰治になった気分でいる。コクヨのキャンパス・ノートに昨日養老乃瀧で足利義政と喧嘩をしたことを書き綴っている。
 文壇はきっと自分の出現に絶大なる拍手を送るだろうと確信している。
 根拠のない自信でも、自信はあった方がいい。人間、少しくらいの自信がなければ生きてはいけないものだ。
 足利義政は昨日「そんな駄文を書いてちゃあ駄目だ」とのたまった。「何も起こらない日常を書いて脚光を浴びられるのは、夏目漱石大先生か内田百閒先生くらいのもんさ。お前のはただの駄文だ」
 確かに今川氏真より足利義政の方が百二歳も年上だ。だが年上だからと言っても、言ってもいいことと悪いことがある。
 そう言う今川氏真は、内田百閒のことを内田百聞とばかり思っていた。

 イヴのお姉さんはまだ三十二番目の彼氏とつながっている。いつまでもつながっていたら三十三番目の彼氏が出来ないなと考えている。
 要するに彼女は三十二番目の彼氏に飽きてきたのだ。やはりアレが大きいのだけでは考え物だと思い始めたのだ。
 しかしイヴのお姉さんには人を見る目というものがない。美人でチヤホヤされると人を見る目がなくなる。
 若いもんはチヤホヤしてはいけない。美人であればなおチヤホヤしてはならない。中身がないのにチヤホヤしたら、中身がないままで親になって、また中身のない子供を育てることになる。
 人類はいつまで続けなければならないのか、この中身のない人間の連鎖を。

 N氏は散々ドアや壁に体当たりをして脱出を図ったが、鉄筋コンクリート製の豚小屋はびくともしない。
 白い壁が一面に広がって、N氏の精神を痛め付ける。N氏はフーとため息をついて、豚小屋の中央に仰向きに横たわる。そしてイヴの言葉を考える。ここは確かに豚小屋には見えない。ぼくは馬鹿の王子に刷り込まれてここを豚小屋だと呼んでいるが、本当は豚小屋ではないのではないか。
 N氏はここは何なのかを考える。
 何でもいい。自分でそうだと思う名前をつければいい。何がいいだろうか? スパシーバ・ボリショイ? ラスコーリニコフの部屋? 不思議の国のアリスが豚を連れ帰ることになった公爵夫人の部屋? ああ、やっぱり豚か。それにあまり長い名前では、思考する上で妨げになる。

 織田信長が天下布団を畳んで押し入れに押し込む。結局天下布団はルイ二百八世にしか売れなかった。ルイ二百八世は今宮殿の天下布団の上で、アップルちゃんとレモンちゃん二人を相手に3Pをしている。
 世の中は平和だ。誰かが不幸であっても誰かは幸福だ。誰かの損は誰かの得だ。世界人類が幸せになることは有り得るのか?
 それとも自分さえ幸せであればいいのか?
 織田信長は伸びた髭をさすって朝の太陽に輝く琵琶湖を眺めている。
 安土城の家賃をどのようにして払おうかと考えている。天下人が根城の家賃も払えないとは誰にも言えない。脱税するにも、その元手のお金がない。

 N氏は白い壁の四角い部屋の中で「イヴ!」「イヴ!」と叫んでいる。
「おい、うるさいじゃないか。お前の声はわしの頭の中にもズンズン響くんじゃぞ」とジャイアント馬場の声がきこえる。
「ああ、すみません」とN氏は天井を見ながら謝る。蛍光灯が乏しい光を発している。
「この色気違いのあほうが。女のこと以外に建設的なことは考えられんのかい」
「ぼくは宇宙の指導者になろうと決意したんです。それこそ建設的なことではないですか?」
「前向きではあるが妄想的でもある。そんな決意をするくらいなら、毎日違う女と一発やることを考えた方が建設的じゃ」
「女のことは建設的じゃないって言ったじゃないですか」
「妄想よりはまだましじゃ」

 N氏の心の中にいる神様が、「ああ、この頃この人の中もやっと住みやすくなったなあ」と呟いている。
「神様が住みやすくなるということは、この男が住みにくくなるということじゃが」とジャイアント馬場は果敢に神様に反論する。
神「人間の世に住みやすくなっても、こちらの世界では何の自慢にもならんさ」
ジ「自慢にはならんでも金持ちにはなれると思うが」
神「あんたはどうなんじゃ? 金持ちかの?」
ジ「わしは貧乏じゃ。見ての通り」
神「それではこの青年も貧乏でいいではないか」
ジ「野心は人間を生かすものでもある」
神「確かにこの青年は野心が多い」
ジ「野心のある人間は金持ちを目指すべきではないのか?」
神「神様と神懸かりがこんな陳腐な会話を続けていていいのか?」

 ルイ二百八世はイヴのお姉さんのマンションの部屋に行って、窓からイヴのお姉さんと三十二番目の彼氏との情事を覗き見ている。王様のマントの中でルイ二百八世の左手が盛んに動いている。二回目の射精の時が近づいている。
「おい、きみ」と背後からイッセー尾形警官が声をかける。
「何だ、うるさいの」と手を止めてルイ二百八世はイッセー尾形を見つめる。
「こんな所で何をしてるんだ?」
 ルイ二百八世はイッセー尾形の耳元まで口を寄せてこれ以上ないという大きな声で「マスをかいてるんだ、マスを!」と叫ぶ。
 イッセー尾形は耳をおさえて二メートルほど体が飛ぶ。
 人間勢いがあれば強い。どんなに間違った考えでも勢いがあれば通ることがある。
 この世は文句言うたもん勝ち。大きい声の方が筋が通る。筋じゃなくて声が通っているだけなのだが。

 織田信長はレンタ馬に乗って安土の町を練り歩く。
「こら、馬のうんこ拾って行け!」と後ろから罵声が飛ぶ。おれが天下人だということも知らないのかと気の毒に思う反面、誰もおれのことを知らないのだと薄々感づいている。
 世の中たとえ事実でも真っ正面から認めると気が狂うことがある。ごまかすことも人生だ。
 織田信長はこの頃少し自信を失っている。天下布団の事業が思わしくないことに落胆したのだ。今度は、と織田信長はレンタ馬に乗りながら考えている。今度は天下布巾を販売しようか。布団は単価が高いが布巾なら一枚を安く売れば売れる。
 この頃流行りの薄利多売だ。

 馬鹿の王子が豚小屋だと言った部屋でN氏はいつしか寝てしまった。何か人の気配がすると思って目を醒ますと、N氏の顔を見下ろしながら小沢まどかが座っていた。見ると見事に全裸だ。
「おい、服を着なさい。ここはラブホテルじゃないんだから」とN氏は注意をしながらも、パンツの中は固く勃起していた。
「ここは何でしょうか? 馬鹿の王子がここに入っておれと言うので入ったのですが、わたしは何をすればいいのでしょうか?」
「どうして部屋を別々にしてくれなかったんだ」とN氏はブツブツと文句を言いながらも小沢まどかの胸をいやらしく触る。
 小沢まどかはN氏のズボンのジッパーを上げてN氏のちんぽこを取り出す。
「おいおい、そんなことをしちゃあいけない。ぼくには歴とした好きな人がいるんだ」と不満を述べながら、N氏は小沢まどかの股の間に手を差し伸べる。
 駄目だ、駄目だと思いながらも男の本能は抑え切れない。男とはほとほと信用が出来ない。

 ルイ二百八世はイヴのお姉さんと三十二番目の彼氏の情事に夢中だ。イヴのお姉さんに興味があるのではない、二人の交合シーンに夢中なのだ。いつしかイッセー尾形も一緒に覗き見ている。
「あなたたち、外で見ていないで、中に入ってらっしゃい」と三十二番目の彼氏に後ろから貫かれながらイヴのお姉さんはドアを開ける。
「おじゃまします」「おじゃまします」と二人それぞれに言って玄関を上がる。三十二番目の彼氏に後ろから貫かれながらイヴのお姉さんはお茶の支度をする。
「どうぞお構いなく」「どうぞお構いなく」と二人それぞれ遠慮をする。
 イヴのお姉さんは三十二番目の彼氏に後ろから貫かれながら二人にコーヒーを出す。
 そうしながらイヴのお姉さんはルイ二百八世の顔を見る。太って丸くて妙な顔だが、愛嬌がある。こんな毎日セックスばかりする生活に飽きたイヴのお姉さんは、三十三番目の彼氏にルイ二百八世はどうかと考えている。
 三十二番目の彼氏の上に跨がりながら、イヴのお姉さんはルイ二百八世にウインクをする。

 豚小屋の中でも小沢まどかがN氏の上に跨がっていた。N氏が駄目だ駄目だと抵抗するのだが、小沢まどかが積極的なのだ。
 抵抗といっても大した抵抗ではない。「まあ、きみ、考えたまえ。それはよくない」と口で少し言ってみるだけで、機械的に動く小沢まどかを止めることなんか出来ない。
 それはそれは吸い付くような見事な締め心地だった。実はN氏は一度も女を抱いたことはない。三十になった今は立派なオナニー研究家だった。
 N氏は頭の中の脳みそが全部溶けて流れるような快感を覚えてうめいていた。だから腰の上に乗っている小沢まどかの姿が段々変わって行くことに気づかなかった。
 射精の時を迎え歓喜にむせび喜んでしばらくして、N氏は自分の体が動かないことに気づいた。見ると上に乗っていたとばかり思っていた小沢まどかの姿はなく、他に何の物体も見えなかったが、彼の感触では彼の下半身は何かにピッタリと貼りつかれ、身動きが取れなくなっているのだ。
 N氏の初体験は実に苦い初体験だった。

 珍野苦沙弥先生は喫茶店の中で暇そうに鼻毛を抜いていた。ここ三日間携帯も鳴らない。家を訪ねる者もいない。迷亭はタイのプーケット島で甲羅干しをしている。寒月君は山形で農民をしている。苦沙弥先生だけは百年前と変わらず文明中学の先生をしている。
 とはいえあまり出勤してはならないことになっている。出勤を控えなさいと言われた当初の頃は彼も非常に喜んだものだ。教師の仕事が死ぬほどいやだったのだ。
 ところが出勤しなくなって五十年くらいたつと、さすがに寂しくなってきた。
 人生で何が一番つらいといって、退屈よりつらいものはない。忙しくてきりきり舞いしている人からすれば退屈は憧れの贅沢かも知れないが、いざ退屈な境遇になってそれがいつまでも続くと、頭の中が腐って行くような気がするものだ。
 物事には両面がある。こうすればいつまでも幸せだという物はない。結婚すれば幸せだと憧れていた者が、結婚してしばらくして結婚は墓場だと気づく。それで結婚の契約を打ち切って一人で生活を始めると、また結婚がしたくなる。
 結婚しているようでしてなくて、結婚していないようで実はしてるというのが一番理想的な形なのだが、何しろ相手があってこそのものだから、そんなわがままを許してくれる相手は世の中に存在しない。

 実は苦沙弥先生はそんなことを考えてはいない。N氏のことを心配してわざわざ本から出て来てやったのに、全く何の連絡もないことに憤っていたのだ。
 苦沙弥先生はコーヒーのスプーンを取り上げて「ぼくは寂しいよ。誰か話しかけてくれないかな」と呟く。
「ぼくでよければ話し相手になりますが」とスプーンから声がきこえる。苦沙弥先生は驚いてスプーンを取り落とす。あまりの孤独のために妄想が始まったのかと恐れた。
「なに、そんなに怖がることはありません。スプーンが話しをすることが出来るというのは、宇宙では常識なんです。昔ユリ・ゲラーはそれを利用してスプーンを曲げたんですから」
 スプーンは苦沙弥先生の前のテーブルの上に立つ。
「そんな所に立たれたら、人が見て妙に思うじゃないか」
「立っているように見えるのはあなただけで、他の人には寝ているように見えます」
「どういうことだ?」
「世界とはそういうものです。見る人によって現象は異なるのです」
「スプーンの癖に難しいことを言うんだな」
「スプーンだから難しいことを言うんです。この世でスプーンほど哲学的存在はありません。この微妙な曲線はどう見ても人間が考えたものじゃないと思いませんか? 人間よりもまずスプーンが先に存在するのです」
「そんな馬鹿な」
「馬鹿なとお思いになるのでしたら言いますが、わたしはN氏が今何をしているか知ってますよ。N氏は今大ピンチにあるんです」
「どこにいるんだ?」
「神様の国でひどい目にあってます」
「ぼくもそこに行けるかな」
「是非行っていただきたいのです。苦沙弥先生がいなければ、何も解決しません」
「そんなお世辞を」
「はい、お世辞です」

 N氏は豚小屋から全裸で追い出された。服を着ようと思っても透明の物体が体の上に纏わり付いて服が着れないのだ。
「何であんたは素っ裸なん?」と馬鹿の王子が鼻糞をほじくりながらのたまう。
 体に纏わり付いているものが邪魔だが、N氏はとても気持ちがいい。透明な物体に吸い付かれて何回も勃起している。馬鹿の王子は勃起したN氏のちんぽこを見てゲラゲラ笑う。
「恥ずかしくないん?」と馬鹿の王子がテーブルの上で頬杖をつく。
 N氏は何とも言えない。恥ずかしい気持ちと快感が交互に襲って来る。
「やっぱりあんたは豚や。豚でないとそんなみっともないこと出来るわけない」

 不意に空に稲光がする。「ハハハハハハハハハハ」と黄金バットのような声がして珍野苦沙弥先生が机に乗って飛んで来る。
 苦沙弥先生は胃弱で痩せているから、とても弱そうに見える。たとえ助けに来てくれたにしても頼りにならないだろうとN氏は考えている。
 ただ今はとてもピンチなので、N氏は藁にも縋りたい気持ちだ。苦沙弥先生だから骨にも縋るというところだろうか。

 イヴのお姉さんは久しぶりに体にちんぽこを入れない状態でくつろいでいる。股が少しスースーするが健康的でいいと考えている。やっぱり常日頃ちんぽこを入れている生活は道徳的によくない。快感ばかりで道徳のない生活は心を腐らせるものだ。
 考えてみればこの頃イヴの姿を見ていない。イヴのお姉さんは携帯を取り上げてイヴに電話をかける。
「ただ今この番号は使われておりません」というアナウンスがきこえる。妹の癖に姉に断らずに携帯の番号を変えるとは何事かと憤るが、考えてみればわたしが悪いのだと思い直す。二十四時間セックスをしている姉のいる部屋に帰って来るのは誰でもいやだろう。
 煙草を口にくわえながら窓から町を見下ろす。

 織田信長はレンタ馬を返して今は安土城の天井裏に寝そべっている。貧乏になると広い部屋が苦手になるものだ。
 そろそろ引っ越しをしようかなあと思っている。天下人を辞職して今川氏真と仲直りをしようかと考えている。
 ポケットの中の携帯が鳴る。
「もしもし珍野苦沙弥ですが」
「はい、久しぶりですね」
「今、N氏を助けに来たんだが、大軍に取り囲まれて負けそうなんだ」
「負ける時はスッパリ負けた方がいい。下手に抵抗すると痛い目にあうぞ」
「謝った方がいいかなあ」
「まあな」
「代わりに謝ってくれないかなあ。今、馬鹿の王子に代わる」
「もしもし、お前は誰や?」と馬鹿の王子の声がきこえる。織田信長はびっくりしてすぐに声が出ない。「お前は誰や、ってきいてるんや」と馬鹿の王子は恐るべき豪胆だ。
「おれは織田信長や」
「ふーん」
「天下人だぞ」
「あっ、そう」
 織田信長は極度の落胆のあまり携帯の電源ボタンをブチッと押した。

 イヴは久しぶりに今川氏真に会っていた。今川氏真が短歌の新人賞に入選したのでそのお祝いにスパゲティーを食べているのだ。
 イヴはさっきから生返事ばかりしている。短歌なんかで賞を貰っても食べて行けないじゃんと思っている。でも思いやりの深いイヴはそんなことを相手に言えない。
「ぼくは源実朝のように短歌で名を残すんだ。武将として失格したから逆に野心が強いんだ」
 野心が強いのならもっと金になることをすればいいのに、とイヴは心の中で思うが、思いやりの深いイヴはそんなことを口に出せない。
「今日はお祝いだから、ちょっとお酒を飲もうかな」と今川氏真は満面の笑みだ。
 ビール、コップに半分飲むだけで倒れる癖にとイヴは考えるが、思いやりの深いイヴは何も言わずに煙草に火をつける。

 賢い王子が決起したとの噂が流れる。賢い王子は城を水攻めにした。馬鹿の王子はほじった鼻糞を敵に向かって投げ付けながら憤慨している。
「賢い奴は政治には不向きなんや。学者にでもなっとけばいいのに、あほやなあ」と書いた文書を忍者に持たせて賢い王子に届ける。
 賢い王子の返事。
   我欲すN氏の身柄
   我欲さず大金の賄賂
   望み達すれば我陋屋に帰る
   いざ返事を
「相変わらず妙な手紙を書くなあ」と馬鹿の王子はまだ鼻糞をほじっている。

 賢い王子の陋屋にN氏と苦沙弥先生が送り届けられる。N氏の体には相変わらず透明の小沢まどかが貼りついている。
   取り付かれしものを外す手段
   我考える
   しばらく待つべし
 賢い王子はそう言ってN氏と苦沙弥先生を牛小屋に入れる。そこには本当に何十頭もの牛がいて、本物の牛小屋だった。これだったら馬鹿の王子の城の方が待遇がよかったなあとN氏は考える。

 宇宙の彼方でパッパラパッパーポロリロピーとラッパの音が響く。
 宇宙のランクがまた一つ上がったのだ。これは全てN氏のお陰だ。宇宙の息吹に溶け込む人間が増えれば増えるほど宇宙のランクは上がる。決して金をつぎ込んで上がるのではない。金は逆にランクを下げるのだ。
 宇宙のランクなどどうでもいい、金が儲かればその方がいいという意見もあるが。
 人間の生活は宇宙の息吹に反している。人間の世界で正しいと思われることは、実は宇宙では間違ったものなのだ。第一宇宙には個体を守ろうという意識はない。大事なのは宇宙の息吹で、個体意識というものは存在しないのだ。

「しゅうーごー!」と株式会社セカンドの社長が呼ぶ。N氏の体に貼りついていた小沢まどかは随分小さくなった。賢い王子の漢詩はたまには役に立つ。小沢まどかは難しい言葉が苦手なので漢詩をきくたびに縮小して行った。
 やっとズボンがはけるようになったなあとN氏は喜ぶ。やはり人間は下半身丸出しでは生きて行けない。たとえ身なりを気にしない人でも、下半身は塞いでいるものだ。
 勿論会社に行く時は上半身も服を着ていなくてはならない。

 社長はN氏より六つ年上なだけだ。社長は社長の立場があるから大きな声では言えないが、N氏がとても好きなのだ。
 社長の甘さはここにあるが、同時に社長の凄さもここにある。人間的な魅力を重視する人は、たとえ年若い故に失敗しても最終的には幸せになるのだ。
 N氏は拍手の中で迎え入れられる。イヴも立ち上がって拍手をしている。N氏はどうして自分が拍手されるのか分からない。ただひたすら気分がいい。自分という存在が人々に認められたという喜びに溢れている。

 社長はN氏の肩をポンと叩く。
「きみは火星の王に即位したらしいじゃないか。株式会社セカンドなんかきみには何の興味もないだろう。ぼくは寂しいよ」
「いえ、ぼくはそんなものに即位した覚えはありません」
「きみに覚えがなくても昨日織田信長から電話がかかってきて、火星の新王に失礼なことをしたら斬り殺すと言われたよ」
「それは織田信長の妄想です」
「きみが妄想なんて言葉を使うと思わなかった。これは爆笑だな」と株式会社セカンドの社長は腹をかかえて笑う。笑いながら株式会社セカンドの社長の目から涙があふれ出す。
「どうしたんですか?」とN氏は心配になって社長の顔をじっと見る。
「人の心配をしてる場合じゃないだろう。きみにはこれから火星の王としての激務が待っている。ところで王妃は誰にするのかね?」
 N氏の心臓が不意にパクパクと鳴り出した。王妃を自分で選べるのか。それならば、とN氏は腰に手を当てて偉そうに「王妃はイヴです」とのたまった。

「わたしはいやよ」と事務机の向こうからイヴが叫ぶ。
「あなたは好きだ、好きだと言うばかりで、ちゃんとわたしの気持ちを考えてくれない。なのに王になった途端にその権力でわたしを手に入れようという考えが許せないわ」
 そこへルイ二百八世と手をつなぎながらイヴのお姉さんが現われた。
「会社の仕事のお邪魔をしてはいけないとは思っていましたが、わたしは妹を説得に来たのです」
「何の説得ですか?」
「わたしもこうしてブルボン家の王と結婚したのだから、イヴも火星の王と結婚しなさいと」
「ブルボン家の王と火星の王とは全然違うわ!」とイヴは長い髪を振り乱して叫ぶ。
「なあに、あまり違わんさ」とルイ二百八世は穏やかに宥める。「わたしだってあやふやな存在さ。地位名誉というのはそもそもあやふやさ。神様が指一本動かすだけで、わたしら全ては消え行く存在なのさ」

 N氏は車に乗せられて郊外にまで出る。即位の式典があると運転手は言う。即位の式典に向かうにしてはちゃっちい車だなあと考える。
「いえいえ、王は中身が大事なんです」
 王宮の建物に着いたと運転手は言う。N氏は非常に踏ん反り返って車から降りる。
 普通の薄汚い建物だ。王宮にしては貧弱な建物だなあと考える。
「なあに、王は中身が大事なんです」
 玄関でジャイアント馬場が白衣を着て待っていた。N氏が握手をしようとすると白衣を着たジャイアント馬場は顔をそむけて無視をした。
 少し傷ついたが、これくらいのことで怒っていては王の責務は果たせないだろうとN氏は考えている。

吾輩はハイである

吾輩はハイである

妄想的ですが、哲学がつめこまれています。つめこんでいます。

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更新日
登録日
2015-07-23

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