ガルトムーアの魔女 第2部
アレクサ プロローグ 秘密は人間を強く賢くする
あたしはアレクサ。あたしには名前が幾つかある。他人が勝手に呼ぶ名、自分がつけた名、そしてまだ知らないほんとうの名前。
クズ、阿呆、乞食娘、野良イヌどぶネズミ出来損ない役立たず。これはみんな他人があたしを呼ぶときの名前だ。あたしは生まれたときからひとりぽっちだった。親兄弟もいなかったし家もお金も持ってなかった。あたしのことなんか誰もまともに相手してくれない。バケモンって呼ぶやつもいるくらいだ。だからあたしは自分で自分に名前をつけて慰めたんだ。
アレクサ。いい名前だろ? アレクサは強く気高い女の子につける名前だ。もとはスコットランドの王様の名なんだ。アレクサ。あたしはあたしの国の王。けど、あたしの王国に住んでるのはあたし一人きり。あたしには友だちもいない。いるのは敵だけ。まわりの誰もがあたしを痛めつけようとする。だからあたしはあたしの国にこもって、王国を必死に守ってきた。
だけどこれからは違う。あたしは決めた。このちっぽけな王国を出る。出て、探しにゆく。あたしのほんとうの名前を見つけにゆくんだ。
振り返ると赤く膨らんだ夕陽が遠く、ムーアの地平すれすれにぶらさがっている。前をむくと夕闇はいっそう濃く、あそこで揺れてるのが人影なのか、それとも蝙蝠の群れなのか、見分けがつかない。人影はあたしがあとをつけてる男だ。あたしはその男が踏みつけたヒースの匂いを頼りについてゆく。若芽を踏まれたヒースからは青い匂いが立ちのぼってくる。頭上では烏がやかましい。巣へ帰ってゆくんだろう。男もおんなじ、彼がむかう先は自分んちだろう。でも何でそんなに早足なんだ? まるで逃げてるみたいに。
きっと逃げてるんだろう、過去から、真実から。あのひとがけっしてあたしに教えてくれようとしない過去と真実から。闇に半分融けている大きな背中。あのひとはいつも古臭い外套を着ている。あたしは可笑しいような泣きたいような、妙な気分になってくる。
急いで気をひきしめる。胸に何か感情を──憎しみ? それか愛?──何でもいいからかき集め、思いっきり吹いて火をおこす。
ふうふういくら吹いても釜戸の火をおこせなかったのは、あれは幾つのときだっけ? 四つ? 五つ? 五つのガキに何ができる。何にもできないあたしはよく旦那様にぶん殴られたっけ。旦那様? しっかりしなよアレクサ! あたしはもう奉公人じゃない。乞食でも宿なしでもない。あたしは誓ったんだ、金輪際、もう二度と誰にも様をつけて呼んだりしないって。
もちろんこの決意は、あたしをこき使っているジョイスんちの連中にも聞かせてやったさ。そしたら返ってきたのは洗い桶の水。びしょぬれになった。服を脱いでしぼってたら村の悪ガキどもが覗きに来てはやしたてた。慌てて裸を隠して逃げた。しつこく追ってきた。バケモン、バケモン、やーいバケモン。
陽が沈んでしまった。背後の空にはかろうじて明るさが残ってるけど、前方はもう真っ暗だ。あのひとの影も完全に闇に融けてしまった。くんくん鼻をうわむける。踏まれたヒースの匂いは? 草の青い匂いは? 吹くな風! 聞こえてくるあれは狼の声? 何が羽ばたいてるの、こんな暗い中で……
馬鹿ッ、アレクサ、夜飛ぶのはみみずくに決まってるだろ。幽霊じゃない妖魔なんかじゃない、そんなものはいやしない、一番怖いのは人間だ、あたしを虐める人間だ、早く出ろ月! 勇気を出せアレクサ!
もちろんアレクサという名の女の子は勇気を持ってる。金は一ペニーだってないけど勇気はある。それにもう一つ、持ってるんだ。あたしの武器、あたしを強くしてくれるもの。それは秘密。あたしは秘密を持っている。この手の中にしっかりと握りしめている。
ブローチ。
四角い枠の中にひょろ長い草が1本。透かし彫りってやつだ。
額縁みたいな枠にはくねくねと細かい模様が刻まれてる。でも中の草は地味で、あたしもよく知ってるワタスゲだ。ここムーアのどこにでも生えてる。花はちっちゃくて、咲いてても気づかないくらい。ブローチの紋様のワタスゲにもちゃんと花がついてるけど、これまた眼をよおく凝らさないとわからない。けど秋、この穂に綿ができるとムーアが白銀の野となって輝くんだ。
ちょっと変わってるのはブローチの下のところだ。額縁の下辺の外側、小指の爪くらいの輪がついている。飾りにしては何の変哲もないただの穴で、五つ、等間隔にならんでる。何だってこんなところに穴がついてるんだろ?
とにかくこれは値打ちもんに違いない。だって光りかたが違う。ジョイスんちの連中なんてさも上流の人間でございと威張ってるけど、使ってるフォークやナイフを見てみな。あたしはあの家の台所で下働きさせられてるから知ってる。怠けるなってひっぱたかれるんだけど、すり減るほど磨いたってこのブローチみたいには光らない。ブローチは銀だとあたしは踏んでいる。
これはあたしの一番の武器、切り札だ。高級品だからってわけじゃない、これはあたしの秘密なんだ。秘密は人間を強く、賢くする。こっそりブローチをわたされてから、あたしは注意深くなった。油断しなくなった。どこに隠せばジョイスんとこの馬鹿息子やその子分たちや、ほかの村人たちにも見つからずにすむか、いつも頭を働かせた。このブローチはいずれ必ず証明してくれる、あたしがほんとは誰なのかってことを。だからどんなに馬鹿にされたって苛められたって、平気だ。
あそこ!
闇にぽつんと光ってる。灯りだ、家があるんだ!
すると玄関のドアが開いたんだろう、もっと大きな明るい四角形が現れた。ひとの影が入ってく。あのひとだ。あたしは駆け出した。
家は丘をかなりのぼったところにへばりつくように建っていた。暗くてもわかる、あんまり大きくない。ううん、はっきり云って小さい。みすぼらしい。屋根は草葺き、ガラスの窓がない。窓の鎧戸がキイキイいってる。ろくに手入れされてないんだ。これなら口惜しいけどジョイスんちのほうがよっぽど立派だ。
そんなはずない、きっと何かの間違いだ。だって予想してたんだ。あたしがあとをつけてた男、この家に入ってった彼、バートル、そのバートルが実はあたしの父さんじゃないかって。
彼がワタスゲのブローチをくれたんだ。あたしの手に握らせて、これはおまえのものだ、けっして失くさないようにって云ったんだ。ブローチはとびっきり上等な品だったから、ああ見えてバートルはほんとは高貴な身分で、立派なお屋敷に住んでて、召使いも何人も従えてて、だからあたしもお嬢様ってことになり、けど何かの事情で捨てられ、でもそれはあたしがバケモンだからではなくきっと財産を狙う親族の陰謀で、やっと父親であるバートルがあたしのこと探し出してくれ、だけどまだ父娘の名乗りはあげられない敵の正体を暴いて退治するまではって、そんなふうに思ってたんだ。
だけど目の前にあるのは、あたしのブローチにはまったく似つかわしくない、あばら屋。ヘッジス村の小作人の家だって、なんぼかましだ。あっ、ひょっとするとバートルも屋敷から追われた? それか自分から逃げ出して身分を隠し、この小屋に身を潜め、名誉を回復する機会を待ってるのか?
あたしはバートルに打ち明けてほしかった。娘として父さんの力になりたかった。父さんと一緒にあたしたちの敵に復讐し、奪われた家と財産、身分をとりもどしたかった。あたしは乞食娘なんかじゃない、野良イヌでもクズでもない、あたしはアレクサ、でもそれは誰も名づけてくれなかったから自分でつけた名だ、あたしのほんとの名前は何? ねえバートル、父さん、教えてよ!
はずれかかった鎧戸の隙間から灯りがもれている。灯りはちろちろ揺れている。臭い。これは獣脂の燃える匂いだ。貧乏人が使う灯心草蝋燭の匂いだ。あたしは小屋の壁にぴたっとくっついて、窓へ背伸びする。
鎧戸の隙間は狭い。眼玉を右へ左へ動かして覗く。けれどぶらさがった服やらなんやらが視界をさえぎる。みじめったらしく家の中に綱をはって洗濯物を干してるんだ。服のあいだに男が見えた。バートルだ。ジャガイモの皮をむいてる。
バートルが、あたしの父さんかもしれないひとが、自分の手で晩飯をこさえてる。奉公人が一人もいないということは、この襤褸家のようすから想像してた。でもそんなことよりももっと重要なのは、ここに女はいないのか? バートルのために炊事する女は? バートルには妻がいないのか? あたしの母さんは?
バートルがあたしの父さんなら、当然その妻はあたしの母さんだ。だけどここにはバートル一人しかいない。美しく高貴な婦人はいない。
美しくなくても貴婦人でなくてもいい、あたしのやさしい母さんはどこ。
だしぬけに襲われた。魔物があたしの体を芯からゆさぶった。それは戦慄ってやつだった。
腰が抜けてしまい、ぺたんと座りこむ。まだ鳥肌が立ってる。耳の中で消えない木魂。なんてすさまじい声。獣が吠えた? でも狐とも狼とも違ってた。まるで生きたまま皮を剥されたみたいな、喉から血も一緒に噴き出すような──。ほんとに妖魔がいて叫んだ?
地べたに尻をつけたままバートルの家を凝視する。声はそこから聞こえたんだ。中に妖魔が? いや猛獣が? だけど家に変わったところはない。窓からもれる光がさっきとおなじように小さく揺れてる。それだけだ。
静かだった。まるで死んだみたいに静かだった。
アレクサ1 魔女より人間のほうがずっと邪悪で怖いんだ
順番に話そう。あたしが生まれたときのことから話したほうがいいだろう。といって、赤ん坊のあたしが憶えてるわけがない。これはあたしをこき使ってるヘッジス村の連中の、罵ったりからかったりする言葉からつなぎあわせた話だ。
あたしは捨て子だった。赤ん坊はどうやら生まれてまだ何日もたってないようすで、ヘッジスの村で一番大きな納屋の脇に、ちょこんと置かれてあったという。
その数週間前、女の乞食がうろついているのを何人かが見かけた。その女は大きな腹を抱えていて、子を孕んでいるのは明らかだったけど、どうせどこかのならず者にでも悪さされたんだろうって、誰も気にとめなかった。けどこの日、気にしないわけにはいかなくなった。地べたで赤ん坊が泣いている、乞食女の姿はない。
なんて薄情な、たとえ羊だって自分の産んだ子は育てるってのにと、村人はいったんは非難したんだけど、可哀相な赤ん坊の正体を知ったら、誰一人ひきとって育ててやろうなんて考えなかった。
なぜって、あたしはバケモンだったから。
置き去りにされた赤ん坊をやさしい小母さんたちが抱きあげようとしたら、くるんでいた襤褸がはらりと落ちて、あらわになった姿にビックリ仰天腰ぬかした。襤褸も泥汚れかと思ったらべっとりついた血のり。あまりの異様なようすにすぐと地面にもどしたんだってさ。そんでもって何で捨てられたのかも、納得だったんだとさ。
納屋の持ち主のジョイス家は自分の土地を持っていて、麦をつくり、羊も飼っていた。あたしは羊小屋で育てられた。ってゆうより勝手に育った。村の連中はあたしを気味悪がったけど、といって自分らの手で殺すわけにもいかず、うっちゃっておくことにしたんだ。そうすりゃじきあの世行きだろうって。だけどあたしは運がよかった。うまい具合に羊の出産時期だったんだ。納屋の隣が羊小屋で、そして羊は村人が思ってた以上に愛情深い生き物だった。自分の産んだ子じゃなくてもくわえて帰って、乳を飲ませてくれたんだ。そうして牧童が羊に混じってハイハイしてる赤ん坊に気づいたのは数ヵ月後のこと。おっぱいが必要なくなったら、羊たちと一緒に餌の野菜くずなんかを食べ、昼間は牧草地でのんびりメーメー、眠るときも羊たちがあっためてくれた。それでものごころついたとき、あたしは自分を羊だと思ってたんだ。
でも、あれは幾つのときだったか、三つか四つか。正確な歳はわからない、なにしろあたしは羊の子だったから。そう、このへんからがあたしの記憶。その朝、いつものようにあたしたちは柵から出された。けど羊たちは真っ直ぐムーアへ草を食べに行ったのに、あたしは畑につれていかれた。桶をわたされた。ジャガイモを掘れというのだった。
それはあたしが知った日だった、自分は羊じゃない、家畜じゃないって。
でも人間でもないんだ。あたしは家畜以下だった。あたしは働かされた。野良仕事や家事の下働き、水くみにイモの皮むきに床磨き、草取り灰かき家畜の糞集め、何でもやらされた。最初はジョイスんちでこき使われてたけど、そのうちあちこちに行かされるようになった。あたしはただで使える便利な、村共有の道具みたいなもんだった。ごくたまに、お駄賃がわりにパンやリンゴをくれる村人もいた。あたしはこころの中でその人を、やさしいひとの部類に入れた。でもパンが古くて煉瓦なみに硬かったことも、リンゴが半分腐っていたことも、忘れずにこころに書きとめておいた。そんなふうにたまに人間の食べものにありつける以外、あたしはやっぱりジョイスんちの羊小屋で羊の食べるもんを食べて寝起きしてた。
実際のところ、あたしがこれまで生きのびることができたのは、やっぱりあの男のおかげってことになるだろう。あのひと、バートルだ。
いつからだろう、あたしはいつバートルを知ったんだろう。ひょっとしたら羊の母ちゃんのおっぱいにぶらさがってるときにも、あたしは会ってたかもしんない。ときどき彼は現れるのだった。あたしに会いに来てるってことはわかってた。気がつくとじっとあたしを見てる。
最初はただそんだけだったと憶えてる。木の陰や離れたところから、あたしのこと、ただ黙って見てるんだ。だからバートルという名前も知らなかった。恰好は農夫じゃなかった。何の仕事をしてるひとなのか見当もつかなかった。けど村の住人ではないことは確かだった。まだほんのガキだったあたしには見あげるほど大きくて、外套のボタンをきっちりしめ、襟を立て、帽子も深くかぶって、顔は影になってほとんど見えなかった。
だけど、そうやってお互いに遠くから意識してただけだったのが、あるとき、いきなり腕をひっぱられたからびっくりした。あれは確か、あたしが村共有の下働きとして使われるようになって一年くらいたったときだ。畑から帰る途中のことだった。朝からずっとカブの葉っぱについた毛虫をとらされていた。昼飯なんかもちろんもらえず、あたしのお腹はペコペコで、指は虫の毒でヒリヒリしてた。
彼はあたしを村はずれの林へつれてゆくとさし出した。思わず眼をむいちゃったよ、焼きプラムのプディング! もちろんそんときはそんな名前さえあたしは知らなかったけど、とにかく人間の食べもんだ、おまけに腐ってもカビてもない、たまらない、この匂い! ふらふらと引きよせられるようにひと口食べ、ぶっ倒れそうになった。自分が死んだんじゃないかって思った。舌どころか身もこころもとろけて、ここは天国じゃないかって。
夢中になってかぶりついた。こってりと舌にからみつく感触も、口の中で膨らむバターの香りも、はじめての体験だ。そりゃバターは村の連中もつくってるさ、日曜日の食卓だけにならぶ代物だ。だからこのケーキはメイナスだって食ったことないだろう。あたしのねぐらである羊小屋の持ち主、村で一番の農場主ジョイス家、その馬鹿息子メイナス、あのろくでなしは今朝もあたしを後ろからいきなり蹴っ飛ばした。おかげで転んだあたしは厭というほど鼻をぶつけ、鼻血が止まらなくなった。ああ、あいつに見せびらかしてやりたい。プディングはまだ籠にいっぱいある。血だらけになったあたしの顔を指さして大笑いしてたメイナス・ジョイス、どう? うらやましいだろ、砂糖だよ? 真っ白に砂糖がまぶしてあるんだよ?
お腹がぱんぱんになるまでむさぼって、それから指についた砂糖を一本一本、きれいに舐めとった。舐めながら、あたしははじめて間近から、そのひとの顔をとっくりと眺めた。食べてるあいだずっと彼は、隣に座ってあたしを見てたんだ。けど、やっぱり正体はつかめない。でも村の連中とはどこか違う。髭をきれいに剃っていて、眉毛ももじゃもじゃしてなくて、お高くとまった治安判事だってこんなにこぎれいじゃない。そうか、村人なんかとは身分が違うんだ。外套が古くて地味なのは、目立たないためだけでなく身分を隠したいから? でも待てよ。手を見て。あんなにごつごつして荒れてる。あれは労働してる手だ。爪が真っ黒。あたしの爪と変わらない。
鼻の奥で何かがたらっと流れた。鼻の穴から出てきて、唇と顎をつたって落ちた。鼻血だ。また出てきた。すぐにあたしは服の裾でおさえたけど血は止まらない。服がみるみる赤くなった。胸からお腹まで、血でべとべとだ。あーあ、あたしにはこの襤褸しかないのに。焼きプラムのプディングだなんて、あんまり上等なもん食って興奮しすぎた。ううん、メイナス・ジョイスのせいだ。あいつが今朝あたしを蹴り飛ばしたんだ。
すると突然、跪いたんだ。隣にいた男があたしの足もとで地面に手をついて、頭を深くさげている。
仰天してしまった。これじゃあ反対だ。誰かの足もとで、後生ですから堪忍してくださいと地べたに頭をこすりつけるのは、いつだってあたしのほうだ。嘲笑われたりこづきまわされたり、あたしはそんな扱いばかりで、許しを請われるだなんていっぺんだってない。
あまりのことに何にも云えずぼーっとしてたら、彼が顔をあげた。
ぎょっとなった。怖くてしょうがなくなった。だって泣いてたんだ。
彼は涙を流して、鼻水まで垂らしていて、そしてすがるようにあたしににじりよってきた。手をのばし、あたしを、あたしの血まみれになったスカートを、ぎゅっとつかむ。
あたしは飛びあがって逃げた。狂ってる。このひと、きっと頭がおかしいんだ。
彼は追ってこなかった。走りながら振り返ると、跪いたままがっくりと首をたれた彼の後ろ姿があった。
その夜、あたしは猛烈に腹が立った。怒ったのは自分自身にだ。アレクサの馬鹿! 逃げ出すなんておまえはなんて馬鹿やろうなんだ、あれはチャンスだったんだぞ。あの男が何を求めてたのか知らないけど、あのままうまくやったら、美味しいものにもっとありつけたのに。
口惜しくて藁の山に腕をつっこんで投げまくった。驚いた羊が小屋じゅう逃げまわった。服はとっくに乾いて赤黒いしみになってたけど、血の匂いはまだしていた。
それからというもの、あたしは彼を待ち望んだ。だけど何日たっても、何週間たっても、現れない。毎日絶望し、それでも待つのをやめなかった。だって待つ以外あたしに何ができる?
木立ちに何べんも眼を凝らし大きな影が来たと思ったら、しょっちゅう脱走してるジョイスんちのロバだった。背後の足音に振り返ったら、あたしに洗わせる洗濯ものをかかえた小母さんだった。どこからか漂ってくるこの匂い。彼がまたケーキを持ってきてくれた? 眼を閉じて鼻の穴をうわむけて必死に匂いのもとをたどる。ぶつかった。地面に落ちた。大きな丸いかたまり、プディングだ。けれどもつぶれたプディングから覗いてるのは、ぽつんぽつんと干し葡萄だけ。なんとも貧相な代物だ。
と、いきなり眼ン中で何かが爆発した。それから体が宙に飛んで地面に叩きつけられた。
「おれのプディングをだいなしにしやがって!」
地面にのびたあたしを睨みつけているのはメイナス・ジョイスだ。一緒にいるのは子分たち。どうやらあたしがぶつかった相手はメイナスだったらしい。
一介の農民ながらジョイス家は、収穫期には小作人を雇うし、あたしみたいな孤児を羊小屋に飼っておく余裕もあるしで、村の名士を気取ってた。末っ子のメイナスはこのとき十歳で、農場の手伝いくらいもうやってもいい歳だったけど、甘やかされていた。いつも村の悪ガキらをひきつれて、女の子の水浴びを覗きにいったり、あたしみたいな下層のもんを苛めたりしていた。悪ガキたちがメイナスに従うのは、ジョイス家が村で一番の農場主だからだけじゃない。メイナスがときどき自分ちの台所からこっそり食べものを持ち出して、くれてやってるからだ。そのたんびに可哀相に台所女は罪を着せられて、おかみさんにぶたれてべそをかいてる。
「おれのプディングをどうしてくれる、この乞食のバケモンめが」
どうせ盗んできたくせに、とは云わないでおいた。けど、そのあたしの眼つきが気に障ったらしい。袋叩きとなった。子分たちの眼は血走っていた。そんなに食べ損なったのが口惜しいのか、こんな団子みたいなプディングなのに。殴られながらあたしはそいつらを憐れんだ。そのうち気が遠くなっていった。
むっくりと起きあがる。顔が腫れているのがわかった。ものが見えにくい。それでもまわりにはもう誰もいないとわかった。思わず吹き出す。笑うと顔が痛い。胸の骨も痛い。口の端から血がこぼれ落ちる。それでもあたしは笑った。笑わずにはいられない。だってプディングが、落ちてつぶれて砂まみれになったプディングが、なかった。メイナスと悪ガキ仲間が、もったいながって持ち帰ったのだ。
西の空が赤かった。それともあたしの眼に入った血が、風景を赤く見せているのか。
のろのろと歩いていった。ジョイス家の羊小屋へもどる道だ。帰る場所はそこしかないのだ。寒かった。夕方になって風が冷たくなっただけでなく、服が濡れていた。それに鼻をつく厭な臭いもした。小便だ。あいつら、あたしに小便をかけてったんだ。
何で涙が出るんだろう?
今まで泣いたことなんかなかった。どんだけ殴られ蹴られても、どんだけ馬鹿にされても、泣かないどころか何にも感じなかった。なのにどうしたんだろ。アレクサ、あんた何で泣いてるんだ、これまで悲しいと思うのはたった一つ、ひもじいときだけだったろ? 今は空腹さえ感じない。それどころかお腹ん中に何かがいっぱいつまってて、ゲロしそうなのに胸のところでつっかえてる。ぐるぐるまわってる。吐き出してしまいたいのに出せない。ずっとあとになって知ったんだけど、それは屈辱という感情だった。本物のプディングも食べたことのない連中に、小麦粉団子を惜しんで拾ってくような連中に、あたしは辱められたんだ。
突然後ろから、ふわりとしたものがあたしの肩に舞いおりた。
肩掛けだった。羽根のようにやわらかい肩掛けがあたしをつつみ、同時にずっしりと重い籠があたしの手にわたされた。そしてそのひとはもう外套を翻し、立ち去ろうとしていた。
彼だ。何週間ものあいだ待ちかねていた彼。
「待って」
振りむいた彼はあたしの有り様に息を呑んだ。
「なんとむごい──」
はじめて聞く彼の声だ。
「小父さん誰?」
「おお神様、お許しを」
「食べもんと肩掛け何でくれるの、いつも何であたしを見てたの」
「神様、罰する相手を間違っておられます」
「あたしアレクサ」
「アレクサ? 村の連中が名付けてくれたのだな」
「自分でつけたんだよ、あいつらがあたしにしてくれるっていったら折檻くらいなもんさ」
たちまち男の顔に苦悶がにじむ。
「小父さんの名前は?」
「バートル……」
「じゃあバートル小父さん、あんたはあたしのことアレクサって呼んでよ、誰もあたしを名前で呼んでくれないんだ」
バートルはまるでかじったパイに石でも入ってたというように、口を右へ左へ歪ませて、ようやく「アレクサ」と押し出した。
それからバートルは頻繁に現れるようになった。バートルはいろんなものをあたしにくれた。籠いっぱいのペストリーやビスケット、砂糖漬けのくだもの、冷製の羊肉もあった。おかげであたしは羊小屋の羊たちを、一緒に眠る仲間とは思えなくなった。あいつらを見るとお肉を噛んだときのじゅわっとしみだす汁が思い出されて、お腹が鳴るんだ。身につける物ももらった。ハンケチや帽子や髪飾りなんかだ。あたしは仰天してしまった。こんな高そうなもん、手にするどころか見たことだってない。ハンケチには縁取りのレースが縫いつけてあったし、髪飾りのリボンは信じられないくらいすべすべで、おまけに光ってるんだ。
あたしはもう家畜でも家畜以下でもなかった。あたしは人間なんだ。あたしはいろんなもんを持ってる。高価な品々、財産ってやつだ。そんなあたしがどうして羊小屋なんかにいるんだ? あたしは人間、こいつらを料理して食べる側の人間なんだ。
あたしは羊たちにイライラした。こいつら臭い、うるさい。寒い夜に温めてもらったことなんていっさい忘れた。あたしは羊らを蹴っ飛ばして、昼間こきつかわれた憂さ晴らしをした。
そしたら羊たちに仕返しされた。帽子やリボンを藁の下に隠しておいたのに、次々ひっぱり出して食っちまったんだ。それだけでなくゲロした。吐きもどしたものを見た羊飼いが母屋に飛んでいった。
旦那様と奥様と──ジョイス家の亭主とかみさんをそう呼ばされてたんだ、糞いまいましい!──それからメイナスのやつまでやってきて、台所女や作男たちにもかこまれて、誰一人あたしの話に耳を貸す者はなく、あたしは盗っ人ってことになった。乞食で醜いバケモンなら泥棒くらいやってあたりまえだって云うんだ。あたしが旦那様からムチをくらっているあいだ、メイナスが羊小屋の隅から隅まではりきって探して、一枚だけ無事だった肩掛けを──バートルから最初にもらったものだ、軽くてあったかくて、リボンや帽子なんかよりよっぽど重宝してた──見つけ出した。メイナスは手柄に鼻高々、あたしはムチ打ちの数が倍になった。
財産を全部なくして、あたしはムチの傷が痛くて横になることさえできずに、小屋でうずくまっていた。いっそのこと追い出してくれればよかったのに。たとえ野垂れ死にになったって家畜以下にもどるよかましだ。だけどジョイスんちの亭主はあたしを解放しなかった。次の日から麦刈りがはじまるからだ。翌朝、ふらふらしてるあたしに鎌がわたされた。
あたしは決意した。何が何でも人間になろうと。でもきれいな服やリボンはもういらない。すぐにとられてしまうものなんか手に入れてもしょうがない。じゃあ人間になるためには何が必要だろう?
長い麦刈りが終わった。あたしのムチの傷は瘡蓋になり、はがれかけていた。そのころになってようやくバートルとまた会うことができた。考えてみたらバートルは農作業の忙しい時期には現れない。彼が来るのは決まって、少しくらいあたしが仕事をさぼっても平気なとき、村人ものんびりしていてあたしのことなんか気にとめないときだ。それはつまりバートルも、あたしと会っているところを誰かに見られたくないってことか?
まずあたしはバートルの持ってきた食べものにかぶりついた。今日はミートパイ、うれしくって涙がにじんでしまう。甘い菓子もいいけれど肉のほうが食ったって気になる。実際お腹にたまる。もう食べられないってくらいお腹につめこんで、それでも手にはまだパイが残ってて、ふうとため息が出た。
そしたらバートルが待っていたかのように出した。あっ手袋だ。それも貴婦人がはめるようなほっそりした五本指の。なんてやわらかそうな革。これからどんどん寒くなる、雪だってふる、けどあんなのがあったらもうしもやけにならずにすむだろう。
でもあたしは受けとらなかった。残りのパイをゆっくりと噛みながら首を横に振った。
バートルは驚いた顔をした。だけどすぐに髭をきれいにあたった顔が、あたしの機嫌をとるかのように笑った。そしてまた手袋をさし出した。
けどあたしははっきりと首を振った。手袋はもういらない。
バートルはぽかんとなって、それから自分の服のポケットをさぐったりした。何かあたしが気に入るようなプレゼントはないかと探してるんだ。
あたしは云った。
「字を教えて」
「何だって?」
「手袋はいらない、リボンもハンケチもいらない、そのかわりあたしに読み書きを教えて」
「読み書きだって?」
「字だけじゃなく数の数えかたも、計算も、あたしの知らないこと、教えて」
これがあたしが考えた、人間になる方法だった。人間になるために必要なもの、けっして盗まれない財産、それは教養だ。
「ねえ、教えてよ。あたし、いっぱい知恵をつけたいんだ。そんでもって誰にも馬鹿にされないようになるんだ。何であたしはこんな目にあってるんだ? あたしが何をした、あたしがバケモンだからか? 親なし子だからか? 家や親がないのはあたしのせいじゃない、好きでこんな姿に生まれたわけじゃない、なのに村の連中はあたしを人間扱いしない、そんなやつらがあたしより上等だって? 冗談じゃない! あたしはもう誰にもあたしのこと踏みつけにはさせない、させるもんか、あたしは人間なんだ、いつかきっとあいつらに後悔させてやる」
バートルがあたしを凝視していた。眼をむいて、顔は血の気がひいて、あとずさってつまずいて尻餅までついた。まるで亡霊にでも出くわしたみたいだ。
そしてバートルは天を仰ぎ十字を切って、
「おお神よ──」
そんな場合じゃなかったけど、あたしは感心してしまった。このひとは神様を畏れてる。村の教会の牧師様よりずっと信心深い。いつだったかお駄賃がわりにあたしに腐りかけのりんごをくれたのが村の牧師様だ。
そして次の日バートルが持ってきたのが、例のものだったというわけ。四角い枠の中にワタスゲが透かし彫りになった、あのブローチだ。
それは陽の光にキラリと光って、うっとりするほどきれいで、思わずあたしは手をのばしかけたんだけど、でも、
「いらない」
するとバートルはブローチをさらに突き出してきた。
「おまえのものだ」
「こうゆうのはもうほしくないって云った」
「帽子も肩掛けも全部、おまえのものだった」
「だからいらないんだってば」
「聞きなさい。これは本来おまえが持つべきものなのだ」
「どうゆうこと」
「いいか、これだけは失くしてはいけない、何があっても絶対にだ」
ブローチを握らされた。針の先が手のひらに刺さった。けどバートルはあたしの手を押さえつづけていた。痛いって云えなかった。何も云ってはいけないような気がしたんだ。やっと手が離されたとき、小さな血の点が盛りあがっていた。あたしはそっとスカートでぬぐった。どういう理由かは知らないけど血を見るとバートルが怯えるから。
腰を折ってバートルが枝を拾った。地面に書きはじめた。最初の授業がはじまった。
それからの五年間、あたしはバートルが教えてくれたすべてを習得した。読み書きは完全にものにした。聖書だってすらすら読めるし、詩篇の幾つかも暗誦できる。羊も畑の蕪も間違わずに数えられるし、お金の数えかただって知ってる──一ペニー銅貨二十四枚でフロリン銀貨一枚、口惜しいことに肝心の硬貨は持ってない。
中にはこんなの何の役に立つんだってことも教わった。イングランド国王の名前や系譜、この国の歴史、ドーバー海峡のむこうにある国々。そして淑女らしい話しかたや、身分の高いひとへの失礼にならないようなお辞儀のしかたも。
けれども絶対に教えてくれないことがあった。たとえばあたしはバートルという名前しか知らない。いつもプディングやロースト肉を籠につめて持ってきてくれ、雑木林でどんぐりや小枝を使って計算の仕方を根気よく説明してくれる彼が、バートルという名だってことしか知らない。どこからやってきて、なぜあたしによくしてくれるのか、けっして彼は明かさない。あたしが今年十三歳だということは教えてくれても、あたしがどこの誰なのかは明かさない。怒って睨みつけようが、泣いて頼もうが──涙ぐんだ眼はもちろん芝居──口は堅くつぐんだままだ。
だけど、これもバートルの教育の成果、あたしは考えることをおぼえた。筋道を立てて考えることを。
一つ。バートルはあたしの父親である。なぜなら彼は、あたしを気にかけ親切にしてくれるたった一人の人間だ。なにより村の誰も知らないあたしの正確な歳を知っている。
二つ。あたしたち親子は高貴な身分の人間である。なぜならバートルがあたしにくれた品々は高級品ばかりだった。バートルの授業も貴婦人としての教養や、礼儀作法を身につけさせるためといえる。そしてワタスゲのブローチ。見るからに由緒ある品だ。
村の連中はあたしを女乞食が産み捨てていった娘だと云ってるけど、捨てるところを目撃したわけじゃない。ただ赤ん坊が捨てられていて、その少し前に腹ぼての女乞食がうろついてたってだけだ。
じゃあ、女乞食の娘でなくどこかの名家の娘だったとしたら、あたしは何で捨てられた?
決まってるじゃないか、陰謀だ。邪悪な親族が財産を横取りしようと赤ん坊だったあたしをさらって捨てた。間違ってもあたしが醜いバケモンだったからじゃない。これが真実だ。
なのに。
それなのにあたしは今、腰を抜かしている。
やっとつきとめたバートルの家の前で、まったく期待はずれのあばら家の前で、地べたに座りこんでおしっこをもらしそうになりながら。
鳥肌がおさまらない。おぞましい叫びがまだ耳の奥で木魂して、あたしを体の内側から震えさせる。だしぬけに響きわたった叫び声はバートルの家から聞こえたのだ。まるで妖魔に魂を抜かれたひとの悲鳴のような、それとも反対に、魂を盗んだ妖魔が悦びのあまり放った咆哮のような。
家の鎧戸からもれる灯りが凄くきれいだ。眼にしみるほどきれいだ。
いきなり中で音がした。何か倒される音、たぶん椅子とか桶とか。床に叩きつけられる食器の音とぶちまけられた水の音、そして足音、部屋じゅう駆けまわってる。一人じゃなく何人か、足音が重なってる、誰かが誰かを追いまわしてるみたいに。まさかバートルが妖魔に襲われてる?
あたしはドアへ走ろうとした。だけどその前にドアが開いた。
飛び出してきた。女だ。叫ぶ。またあの声。すさまじい叫び。ムーアの彼方まで響いて、夜空もひび割れてしまいそう。
女は髪を振り乱し、裂けるほど口をあけて吠えた。女とは思えぬ野太い声で、血を噴くように吠えた。なのに女の喉はか細かった。細いどころか骨と筋に皮膚がぴったりはりついてる。顔だって頬がげっそり削げ落ちてる。恐ろしいほど痩せてるんだ。そんなに飢えているのか。
突然、叫びは笑いに転じた。なんてことだ、形相は絶叫のままなのに、あいた口から繰り出されてくるのは笑いなのだ。声がけたたましく跳ねまわって周囲の闇をひっかきまわす。
あたしは背筋を剛毛ブラシでこすりあげられてる気分だった。いつも腕の骨が折れるほど床磨きさせられてるんだ。そのブラシでいつかあたしをこき使う連中の肌をこすってやりたいと思ってたんだ。ああほんと、絶対に味あわせてやりたい感触だ。
バートルが女に駆けよった。女を追って外に出てきたのだ。あたしはとっさに後ろに離れる。
羽交い絞めにされても女は笑っていた。バートルが口をふさぐ。すると女は身をよじり、痩せ細った体で妙な踊りをはじめた。ひょこひょこくねくね、くねくねひょこひょこ。バートルが押さえつけるけど、つかまれた腕はくねりつづけ、足はバネみたいに唐突に跳ねる。首も猛烈に振られてる、嵐の中の風見鶏みたいに。
狂ってるんだ。
疑いようがなかった。女は狂ってる。でなかったら女は魔女で、今のは悪魔に捧げるダンスだ。
バートルが女をひきずっていった。ドアがバタンと閉じ、戸口の四角い光も消えた。あたしは動くことができなかった。
静寂がもどってきた。空っぽの棺おけよりも虚ろな静けさだ。あたしは考える。考えたくないけど考えてしまう。乞食女に捨てられた娘と、気狂い女の娘と、どっちがましだろう?
恐ろしいのは、気狂い女のほうがバケモンの母親には似合ってるってことだ。だってバートルと暮らすあの女はバートルの妻だろう。バートルがあたしの父親なら、その妻はあたしを産んだ母親ってことになる──ひょっとしたら、あの狂女が、あたしを産んで捨てた乞食女だったのか?
なんてことだ、これ以上ないほど筋道が通ってる。気狂いがバケモンを産んで、それを忌んだ夫がこっそり捨てた。
叫び出したい。でも叫ぶわけにいかない。叫んだらさっきの狂女と一緒になってしまう。あたしは違う、あたしは気狂い女の娘なんかじゃない。消えてしまえばいい、みんな夜の闇にぬりつぶされてしまえばいい、バートルも、バートルのみじめな家も、獣じみた狂女も!
消えろ、あたしの頭上で無関心に輝いている星。なくなれ、さっきからあたしが足を進めるたび脛をひっかくハリエニシダ。痛くてしょうがないけど、くそっ、暗いからよけて歩くことができない。いったいここどこさ? バートルを追ってがむしゃらに歩いてきたから帰り道がわからない。
なにより真っ黒にぬりつぶしたかったのはあたし自身だった。そうして闇はほんとうにあたしを消しつつあった。ここにあるのは足の下ではねる泥の音だけだ。ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ。今やそれだけがあたしという存在だった。襤褸靴に水がしみてくる。これじゃあ三月になったとはいえ、またしもやけができてしまう。馬鹿っ、そんなこともうどうだっていい。
大きな岩があった。そのくぼんだところを手探りで見つけ、もぐりこんだ。
バートルとあの気狂い女は身分違いの恋に落ちて、駆け落ちしたのかもしれない。そうでなきゃあたしに持ってきてくれた高価な品々の説明がつかない。女は女中だったんだろうか、ううん、身分ある男の目にとまったんだ、もっと上級の使用人だ、侍女なら貴婦人と云ってもいいだろう、それがあまりの貧乏に発狂してしまって……
性懲りもなくあたしはそんな筋書きを考えていた。今さら馬鹿らしかったが、夜は長すぎムーアは寂しすぎた。うずくまっている岩陰は泥と苔のじめついた匂いがした。
小さく星のように見えていたバートルの家の灯りが消えた。
夜はまだ明けていなかった。けれど闇は薄まり、あたりは灰色だった。あたしの眼を覚まさせたのは岩から垂れた水滴だ。
霧が出ている。
夜明け前の、もう夜ではないがお日様はまだのぼってこない、中間の時間。霧は眠るムーアをつつむシーツのようだ。
立ちあがってみると、あたしが身をよせて眠っていたのは一つの岩ではなく、石を積んだ壁だった。石垣だろうか。石垣だとしてもそれらしい形が残ってるのはここぐらいで、ほかは崩れて土に埋もれてしまってる。
その石垣の残骸をたどってゆくとバートルの家だった。これ以上失望することはないと思ってたのに、改めて家の有様を見ると、闇夜がどれだけ慈悲深かったか思い知らされた。
木戸をあける。遠慮なんかしない。あたしの中には怒りに似たものがあった。
ところが誰もいない。バートルの姿はない。家は空っぽだった。
洗濯物がぶらさがってるのは夕べ覗いたときと変わってない。服はすっかり色あせてた。何度も洗われてすりきれる寸前だった。なのにしみついた汚れは落ちてないんだ。女物もあった。引きちぎられては繕われた狂女の衣。あたしは胸から喉のところまでみっしりと、砂がつめられたような気持ちになった。
洗濯物のむこうにドアを見つけた。奥の部屋へのドアだ。近寄ってみると閂がかけられ、さらに錠前もあった。誰の部屋なのかいうまでもない、閉じこめられてるのだ。
こじあけるどころか隙間から覗き見る勇気もなかった。ドアのむこうが静かだったのが救いだった。せめて眠りくらいは穏やかでありますように。
霧の中を泳ぐように歩いていった。もうバートルの家に用はなかった。ヘッジスの村に帰るのも厭だ。でもどこへ行こう? 今ほどムーアのだだっ広さに感謝したことはない。どこまでも歩いてゆける、村とバートルの家以外の場所へ。
視界がきかず、あたしは足もとばかり気をつけていた。ゆるやかなのぼりだった。すぐ近くでいきなり羽ばたく音がして、驚いて、飛び立った鳥を探して顔をあげた。すると突然それが現れたんだ。ほんとは最初からそこにあったんだろうけど、霧のせいでそんなふうに感じたんだ。丘のてっぺん、巨大な影が聳え立っている。
あんな大きな建物、はじめて見た。お屋敷? お城? あれに比べたらジョイスの家なんか、村一番て威張ってるけど馬屋以下だ。あんなに大きいガラスの窓があるだろうか。壁は石を高く高く積みあげて、崩れたりしないんだろうか。おまけに屋根の上にもう一つ、塔が乗っかってる。
その八角形をした塔の、あれは明かりとりの窓だろうか、細い光の線が霧に真っ直ぐとのびている。ひとが住んでるんだ。
なぜだか、あたしの足はそっちへむかっていった。このときのことを何年もたって思い出すとき、あたしはこう考えるようになる。もし通りすぎてたら自分の名前はアレクサのままだったろうって。そしてあたしの名前は、このあとまた変わることになるのだ。
玄関は厳めしく、左右に石の柱が立っていた。柱の頭には彫像があった。彫像はひとの形に見えたけど、欠けていた。
あっとなって、あたしは眼を凝らした。見慣れたものがあったんだ。
彫像と彫像のあいだ、雨よけになってるアーチの真ん中、シンボルのように模様が掘られていた。
あれはワタスゲじゃないか。四角い枠の中のワタスゲ。あたしのブローチとおなじだ。
どうしてこんなところにあたしのワタスゲが?
何なんだ、この城は。住んでるのは何者?
玄関への階段をのぼった。扉の前に立った。取っ手の輪っかをひっぱってみる。びくともしない。
ノッカーを握ろうとして苦笑いする。こんな乞食娘が正面から尋ねていったって、相手になんかされっこない。
扉に耳をあててみる。物音一つ聞こえない。でも誰かいるはずだ。屋根の上の塔に灯りが灯っているもの。それにこの静けさはがらんとした空き家のものじゃない。建物全体が緊張してる。息をつめて何かを待ち構えているみたいに。
鍵のかかっていない窓はないか、あたしは壁にそって一つ一つ調べていった。どれも戸締りは厳重だった。やっと建物の角まで来た。裏へまわってさらに進む。木戸があった。小さくて目立たない。もちろん飾りの彫刻もない。裏口だ、たぶん洗濯女か台所女専用の。
ジョイスんちの裏口はいつもあいている。あたしみたいな下働きがしょっちゅう出入りするからだ。木戸をちょっとだけ引いてみる。やっぱりここも鍵はかかってない。
そろそろと戸をあけた。薄暗い。外のほうが明るいくらいだ。入るとすぐ階段だった。地下へとおりる狭苦しい急な階段だ。出入り口からの光もすぐにとどかなくなる。階段が終わると短い通路、そしてまたドアだ。
取っ手をつかんでひっぱってみる。鍵がかかってるというより、なんかつっかえてるみたいだ。ゆすってみる。パラパラ砂がふってくる。乱暴にゆする。思いっきりひっぱる。と、勢いよくドアがあいた。よし! と思ったとき何かが足にあたった。キラリと光った。後ろの階段へ飛んでった。あっとなって急いでポケットを調べる。ちっ、穴があいてる、襤褸め、大切なブローチを落としてしまった。
階段までもどって探した。段の上にはいってないはずだ。暗くてよくわからない、灯りがほしい、あった、ブローチだ、床石の隙間にはまってた。慎重にほじくり出して埃をはらう。よかった、どこも壊れてない。
感じたのは音より振動だった。同時にあたしの破れ目だらけのスカートが舞いあがった。背後から猛烈な埃の風が押しよせてきたのだ。
振り返ってぞっとする。あいたドアの奥が瓦礫の山になってる。天井が崩れたんだ。
ブローチに救われた。あのまま奥へ進んでたらあたしは下敷きになってただろう。悪くしたらあの世行きだったかもしれない。
せっかくあいたドアは瓦礫にまたふさがれてしまった。かわりに天井にぽっかりと大きな穴があいている。
その穴のふちで何かが動いた。転がって穴から落ちてくる。丸い。おっ、スウプポットかティーポットか、値打ちもんかな? うまく受け止めた。
なんだ、がっかりだ。割れて穴があいてる。ガラクタかあ。その瞬間、悲鳴が出た。放り投げる。これ、どくろじゃないか!
頭のてっぺんに穴のあいたどくろは飛んでいって、瓦礫の頂上に乗っかった。が、それも一瞬で、転がってむこう側に消えてしまった。
天井どころかどくろまで降ってくるなんて、ここはどうゆう城なんだ。あたしは手をスカートにこすりつけ何度もぬぐった。
退散することにする。階段をあがって外に出ると、こころなしか霧が薄くなって空に青味がさしていた。日の出はまだのようだ。新鮮な空気が気持ちいい。あれっブローチは? 確かに手に持ってたはずなのに。
しまった、どくろといっしょに投げちゃった? もいちど階段を駆けおりる。ない。どこを探してもない。材木を裏返してみても石を持ちあげてみても、ない。
どくろは瓦礫の山のむこうへ転がっていった。じゃあブローチも──
瓦礫は高く積み重なり、天井との隙間はそれこそどくろ一個ぶんしかない。
仕方なくあたしはいったん外に出た。壁にそって歩き出す。べつの入り口を見つけなきゃ。そこから中に入って、瓦礫の内側を探すんだ。
が、いきなり頭からがかぶさってきた。
両腕ごと腰のところまですっぽりとつつまれ身動きできない。ごわごわしていて黴臭い。これはじゃがいもをつめる麻袋だ。誰かがあたしを袋づめにしたんだ。
唯一自由な足を滅茶苦茶に振りあげる。やわらかいものにあたった。ウゲッという声がした。やった、誰かを蹴ってやった、と喜ぶ間もなく体が横になって宙に浮いた。かつがれたみたいだ。必死に足をバタつかせてみるけど、もう何にもあたらない。虚しく空気を蹴るだけだ。
あたしは運ばれていった。相手は複数のようだった。少なくともあたしをかかえてるのが二人いる。怖がるなアレクサ、恐怖にとりつかれるな。深呼吸しろ、眼を閉じて落ち着くんだ。
どさっと落とされた。乱暴に袋がはずされる。松明が突き出された。炎が熱くて顔をそむけた。
「こいつは乞食娘じゃねえかよ!」
聞き覚えのある怒鳴り声だった。髪をつかまれ顔をあげさせられる。松明の火がまた近づいて、ちりちり音がして、髪の毛の焦げる臭いもした。
「くそっ、やっぱり乞食娘だ」
吐き捨てるなりあたしを突き倒した。
「誰だ、魔女だなんてほざいたのは」
今度は子分どもへ怒鳴り散らしてる。あたしはこっそり舌打ちした。メイナスのやつめ、またくだらない遊びを思いついたのか。ほかに三人いた。いつもの仲間だ。
あたりを窺うとここは岩の陰で、こういう大岩はムーアのあちこちににょっきり出ている。霧はだいぶ晴れてきた。首をのばすと右手のほうに城があった。距離はさほど離れてない。なんとかもどってブローチをとってこなくては。
メイナスが癇癪を起こして地面を踏み鳴らした。
「探してんのは魔女だろうがッ、おれらがとっつかまえて火炙りにしてやるのは魔女だろうがッ」
魔女だって? また馬鹿なこと云ってる。
ジョイス家の末っ子メイナス・ジョイスは今年で確か十七、いや十八か。十八歳といえばもういい大人だ。なのに相変わらず子分をひきつれて、野良仕事なんかご免だ、おれは出世して大物になるんだって大口たたいてる。そのくせやってることといったら、村の娘にちょっかい出したり、居酒屋で飲んだくれたり。馬鹿のうえに呆れたろくでなし野郎だ。
その目つきが気に障ったんだろう、メイナスが足を振りあげた。蹴られるのは御免だ、よけた。空振りしたメイナスはひっくり返ってざまあみろだったけど、今度は手下が二人がかりで押さえつけてきた。残り一人は両手に松明を持って控えてる。
これみよがしに拳固を振りあげたメイナスのニキビ面がよってくる。あたしはもう動けない。歯を喰いしばった。でも眼はつぶらずメイナスを睨みつけてやった。
拳固がひっこんだ。
「いいこと思いついた、こいつを縛れ」
用意のいいことに縄がすぐ出てくる。あたしは岩に縛りつけられた。
「これで魔女を探す手間がはぶけた。魔女でも乞食娘でも、丸焼けにしちまえば見分けがつかねえよな、おれって冴えてるだろ?」
子分どものあいまいな返事だったがメイナスは本気だった。
「さあ、火炙りだ」
焚きつけも用意されてあった。子分たちは気が進まぬようすだったけど、あたしの足もとに藁が積まれていった。最後に松明がメイナスへわたされた。すると「いや、火はおまえがつけろ」こいつ、やっぱり腰抜けだ。
松明を返された子分はためらっていた。
「さっさとつけろ!」
松明が近づき、しかし止まった。
「つけろよ馬鹿、グズ、とんま、出世したくないのか!」
松明が近づく、のろのろと。
「早くやれよ、魔女を退治すりゃあ伯爵様に恩を売れるんだぞ!」
「あたし見たよっ」
メイナスが、手下ともども眼をぱちくりさせた。
「魔女を探してるって云ったよね、あたし知ってるよ」脳みそフル回転だ。「見たんだ、さっき、あの城の中で」
「ほんとか?」
「うん、あれは魔女に違いない、天井から降ってきたんだ」
メイナスと子分たちは互いの顔を見あわせた。
「あの城はガルトン伯爵様のお屋敷、ガルトムーア・ホールだ。てめえみたいな野良イヌが知ってるわけないだろうがガルトン伯爵っていったら、ここらいったいの領主様だ」
むっときたけどあたしは黙って聞いていた。領主の名前くらい知ってるさ。ただ、どこに住んでてどんなひとか、知らないだけだ。当たり前じゃないか、あたしはヘッジスの村から出たことがなかったし、話し相手といったらバートルをのぞいたら羊だけだし、領主っていやあ貴族様なんだろ、空の星くらい遠くて縁のない人種だ。
けどそれもさっきまでの話、今は違う。あの城の玄関にはワタスゲの紋が刻まれてるんだ。あたしのブローチとおなじワタスゲが。
どうしてももう一度城にもどってブローチを拾ってこなければ。そして、あたしとガルトン伯爵と、どうゆう関係があるのか、調べなきゃ。そのためにメイナスをせいぜい利用してやる。
「伯爵様の紋はワタスゲなの?」
「何だあ?」
「城の玄関に彫刻されてるってことは、城主である伯爵の紋なんだろ?」
「はあ? やっぱてめえはうすら馬鹿だな、おれたちみたいな下層の人間が、お城の正面玄関なんか行けるわけないだろうが」
馬鹿はどっちだ、話になんない。キイキイいう手押し車の車輪も気に障る。押してるのは手下の一人で、車には麻袋が──あたしをさらったときかぶせたやつだ──乗ってる。あとの二人はあたしを両側からつかまえてる。逃げないようにってわけだ。先頭をメイナスが歩いてく。城はすぐそこだ。
「魔女ってどうゆうこと?」
「てめえには関係ねえ」
「魔女って、箒にまたがって飛ぶあの魔女?」
「うるせえな、てめえは魔女のところに案内すりゃあいいんだ」
「魔女を退治したらガルトン伯爵に恩を売れるって?」
「黙ってろクズ」
「伯爵様に頼まれたの?」
「……」
「伯爵様が魔女を退治してくれって云ったの?」
「……」
「ちっ、やっぱりでまかせか」
「でまかせなんかじゃねえ!」
「だったら褒美の金額は? いくらって約束した?」
「金だと! ふん、やっぱおめえはさもしい乞食だな、おれが考えてるのはもっとでっかいことだ!」
メイナスの唾が頭にふってくる。
「ガルトン伯爵様一家はな、魔女に呪われてんだよ。事実死んでんだ、何人もな、ぜーんぶ魔女の仕業だって噂だ。一昨年だって葬式があったろ、はるばるドーセットから来たっていう御親戚。その前はちっさい坊ちゃん、伯爵様の弟様だ、まだ七歳だった。今度はその伯爵様も危ないらしい、魔女の呪いにやられてオックスフォード大学からもどってきたって話だ、五ヶ月ほど前に人目を忍んで夜中にこっそりとな。そこでおれは考えた。こんなチャンス滅多にめぐってこねえぞって。おれらみたいな身分の低い者が出世しようと思ったら、ちょっとやそっとじゃ無理だ、よほどの手柄を立てなきゃなんねえ。魔女をとっつかまえて火炙りにしてやったら、おれは伯爵様の命の恩人ってわけだ。褒美だと? 金だと? けっ、賤しい乞食の考えそうなこった、もっと視野を広く持てよ、視野をよう、金なんて使っちまったらおしまいだろうが。いいか、おれの望みは身分だ。伯爵様には娘がいる、三人もな、おれはその誰かの婿になるんだ、そしたらおれの息子は貴族ってわけさ。どうだ、てめえとは頭の出来が違うだろう」
メイナスの自慢なんかほっといて、あたしは今の話について考えていた。
魔女に呪われているというガルトン伯爵一家。あたしのブローチとおなじワタスゲが彫刻されている伯爵の城。捨てられた赤ん坊だったあたし。あたしの父親かもしれないバートル。バートルの狂った妻。妻のまるで魔女のような踊り。
全部つながってるんだろうか。もしつながっているとしたら、あたしは誰? 魔女の娘?
違う。絶対に違う。魔女なんかいるもんか。魔女より人間のほうがずっと邪悪で怖いんだ。現に人間のメイナスがあたしを焼き殺そうとしたばかりじゃないか。
城の裏口が見えてきた。あたしが忍びこんだところではなく、もっと北側にあるドアだ。メイナスによると村でとれた野菜やミルクは、この裏口でひきわたすんだそうだ。
さっそく麻袋に足をつっこむ。ジャガイモのつまった袋に化けるのだ。
「なに突っ立ってんのさ、城に忍びこむのはあたし一人だけ?」
メイナスが仲間にむかって顎をしゃくった。臆病者めがまた手下に押しつける気だ。手下どもは互いに目配せしあってる。まったく、どいつもこいつも。
「なら、こうしよう、あたしが魔女をおびきだすよ、あんたたちは隠れて待ってて、出てきたところをつかまえればいい」
大きく振られる首が四つ。情けない阿呆ばっかり。でも都合がいい、阿呆についてこられたら邪魔だ。
木戸をノックする音をあたしは麻袋の中で聞いた。何度もノックしても誰も出てこず、諦めかけたころやっと戸があく音がした。
「あ、あの、ジャ、ジャガイモを持ってきましたです」しっかりしろメイナス!
「こんな早くに? まだ夜も明けていないじゃないの」抑揚のない冷たい声だ。
「い、急いで持ってきましたです」
「まあいいわ。中まで運んで、人手がないの」色にしたら灰色って感じの声に、あたしは老婆を想像した。
あたしを乗せた手押し車が動き出す。が、すぐに止まる。あたしはかかえあげられた。つまりメイナスたちがジャガイモの麻袋をかかえあげたってことだ。運ばれてゆく。階段を降りていくんだ。止まって、ドアがあく音、そしてまた運ばれて──今度は階段じゃなく平坦な道だ──、ふたたびドアの音が聞こえ、それからドサッとおろされた。
「置いたらさっさとお帰り、とりこみ中よ」と灰色の声。
ドアの閉じられる音がした。そして足音は遠ざかり、耳をすませて完全に音がしなくなったことを確かめ、さらに百数えてから、あたしは麻袋から顔を出した。
薄暗い小部屋だった。ドア以外の壁は全部棚で、棚には瓶詰めがぎっしりならべられ、天井から雉や兎がぶらさがってた。あたしの隠れてる麻袋は隅に置かれ、隣にはおなじような袋が幾つもあった。食料庫だ。食料がたっぷりとしまわれた貯蔵室。
ドアをそっとあけてみる。最初に探したのは灰色の声の老婆だ。けど、いない。誰もいない。ここは台所だ。なんて広いんだろう。高い天井、でっかい調理台、でっかいレンジ、まるまる牛一頭焼けそうだ。ずらりと吊りさげられた銅鍋はピカピカで、どれもあたしの顔が映ってる。
きれいなめん棒。花の模様がついてる。さすが伯爵様のお城だ、めん棒さえ庶民のものと違う。陶器のめん棒なんてはじめて見た。
レンジには火が入ってた。部屋は温かく、湯が沸いて、湯気がたちこめていた。たぶん朝食用なんだろう、卵が用意され、大皿には切りかけのロースト肉、バターとパンもあった。なのに妙なことにひとはいない。
まず肉を口に放りこむ。冷めてるけどやっぱり肉はうまい。もぐもぐやりながらパンにバターを分厚く乗せる。
かじって、おやっと思った。ゆっくり噛んで味を確かめる。この味──覚えがある。
奥にも部屋がある。食べながら覗くと洗い場だった。たくさん積み重ねられてる物を、近よっていって手にとる。お菓子の型だ。このギザギザの葉っぱの形、見たことある。型も、それにこのパンの味も、あたしは知ってる。バートルが持ってきてくれるビスケットとパンだ。
物音に跳びあがった。振り返るが人影はない。でも確かに台所のほうから音がしてる。
足音を忍ばせ台所へもどる。聞こえる。軽い音だ。くり返されてる。音をたどって用心しいしい調理台の下を覗いた。
胡坐をかいた足のあいだに大きなボウルをかかえこんでクリームをかき混ぜてる。子どもだ。女の子。さっきから聞こえていたのは、この泡だて器の音だ。顔をボウルにつっこむようにして一心不乱にかきまわしてる。あたしが覗いてるのにも気がつかない。
あ、気づいた。顔をあげた。煤で真っ黒だ。女の子は眼を大きく見開いて、口も丸くあけて、あたしを見つめた。
「あっ、怪しいもんじゃないよ──」
けど煤だらけの顔に怯えが浮かんだ。
「あたしはね、ただ、ちょっと用があって──」云いながらあとずさった。女の子が叫び出すと思ったんだ。ところがその子はくるりとあたしに背をむけ、ふたたび泡だて器を動かし出した。猛烈な勢いだ。床にクリームが飛び散ってる。どうやら騒ぐ気はないようだ。
「ねえ、あんた、何だってテーブルの下なんかでやってるのさ」
女の子は振りむかない。背中を丸めてかき混ぜつづける。こういう子、ヘッジス村にもいる。頭が足りないんだ。
子どもみたいに見えたのはそのせいなんだろう。よく見たら歳はあたしと大して違わない。下働きの女中のようだけど、あれでつとまるんだろうか。エプロンの胸当てはとれかかってるし、室内帽は前後ろだ。おさげに編んだ髪は片方は跳ねあがり、片方はゆるゆる。相変わらず泡だて器の勢いが強すぎてクリームが飛び出す。もったいない。
けどあたしは思い出した、貯蔵庫にぎっしりとつまった食料を。もちろんこんなでっかい城のご主人は、クリームがこぼれようが気にもとめないだろう。そしてろくに仕事のできないていのうを雇ってやるのも、貴族様の御慈悲ってわけなんだろう。
「そこにいるのか?」
反射的にあたしの体は奥の洗い場へ飛びこんだ。誰かが入ってくる。あたしは壁にはりつく。台所からは歩きまわって探している気配が伝わってくる。
「いるんだろう? 隠れてないで出ておいで」
信じられなかった。よく知っている声だったんだ。バートル。ああバートル。いったい何であんたがここに? あたしは出ていこうとした。今度こそバートルに訊くんだ、問い質したいことがいっぱいあるんだ。ところが、
「ああマヨネーズソースをつくったのだね」
バートルが話しかけてる相手はていのうの女中だった。やさしい仕草で調理台の下から誘い出した。
「いい出来だ、いい子だ」
頭を撫でられて女中はにたにたしてる。あたしは胸がいっぱいになった。つまりこの城の主人というのは、慈悲深い貴族は、バートルだったんだ!
じゃあ、あたしは?
教えてバートル。あたしは誰?
突然現れたあたしにバートルは真っ青になった。歩く死人にでも出くわしたみたいに、一歩、二歩、とあとずさった。
「何で!」あたしは自分がおさえられない。
「何でそんな顔するのさ、何で逃げるのさ、教えてよ、あたしとこの城には関係あるんだろ? そうなんだろ? じゃなかったら、何でおなじワタスゲの紋が彫られてるのっ」
けれどもバートルはただ首を横に振るだけだ。
カッとなる。それなのに、腹ン中では怒りが燃えてるはずなのに、なんでか熱い塊が突きあげてきて眼からあふれ出ようとする。
ほんとうに訊きたかったのは、あなたがあたしの父さんなのかってことだった。
だけど質問がまわりくどくなるのは、絶対に知りたくなかったからだ。あたしが捨てられた理由はバケモンに生まれついたからだって。
するとだしぬけに声があがった。まったく場違いな声だった。女中が笑い出したのだ。何がはじまったのか理解できない。女中ははしゃいでボウルを頭に乗せて、くるくる踊ってる。調子っぱずれの歌も歌い出す。きいきい甲高い声が耳の奥まで刺さる。
うるさい、黙ってよ、気が変になりそう。
そのとき思い出した。バートルの小屋にいた狂女の、その獣じみた叫び声を。そして唐突に閃く。あの女はバケモンを産んだから気が狂ったんじゃないのか。そして城を追い出された。バケモンの子どもは捨てられた──
あまりに恐ろしい考えだ。すぐさま頭からしめだした。ブローチのことだけを考える。ワタスゲのブローチだけがあたしのこころのよすがだ。
「忘れたのバートル、ワタスゲのブローチだよ。あんたがくれたんじゃないか、あたしのものだったって、絶対に手放すなって。どうゆうことか、ちゃんと説明してよ」
「あれは間違いだった、わたすべきではなかった」
やっと口を開いたバートルの言葉がこれだ。
「わたしは何を望んでいたのだ、あさましい、ああ、あさましきはこの身……」
「何云ってるんだ、はっきりしろバートル」
つかみかかってゆすぶる。だけどバートルはされるがままだった。女中のはしゃぎ声がまだ聞こえている。ただし距離があった。台所から出てったらしい。
金属のぶつかる大きな音が反響した。あたしもバートルも動きを止め、音のほう、戸口のむこうへ首をねじ曲げた。
「床がソースだらけじゃないの、正餐じゃあるまいしマヨネーズソースなど必要ないでしょう」叱りつける声がする。低く抑揚のない声。乾燥しきってぱさぱさになってしまったけど、それしか食うもんがないから仕方なく口にいれたパンみたいに、味も素っ気もない声。あの老婆の声だ。
そして石の床を打ちつける靴音と、じゃらじゃらと鎖の鳴る音がやってくる。
「隠れるんだ、早く!」バートルがあたしを押した。あたしも洗い場へと駆けこんだ。と同時、背後で灰色の声が響いた。「バートル!」
「バートル、バートル、バートル!」
怒鳴りつけながら声の主は、鎖の音とともに台所に入ってきた。
「あの娘がソースを床にぶちまけてくれたわ、私の目の前で。まさかあなたがやらせたのかしら」
「わたしがそんなことをするわけ──」
「そうかしら? あなたはするわよ、なぜってあなたはいつだって欲しがっているもの」
「やめてくれ」
妙な会話だ。意味はわからない。けど含みがある。第一、灰色だった声が艶めいてる。あたしは洗い場の出入り口からそろそろと首をのばして覗いてみた。
驚いた。老婆じゃない。若くはないけど婆さんと呼ぶにはまだまだ早い。ぴんと伸びた背筋、女にしては背が高い。いい服を着ていた。ちょっと見には地味だけど生地に光沢がある。この部屋にいる誰のよりも値のはる品だろう。髪をきっちりと結っている。ひと筋の乱れもない。腰の帯に鎖でつないだ鍵をいっぱいぶらさげてる。じゃらじゃらいってたのはこれだ。
「なんて哀れな男なの、あんな白痴娘を使ってまでわたしを怒らせようなんて」
バートルは顔をそむけていた。あたしから見える横顔は屈辱に歪んでた。
「おまえも、」と女は次は、後ろについて来ていた女中に眼をくれた。
「可哀相にねえ、つくづく運のない娘」
可哀相といいながら女が浮かべているのは笑みだった。呪術で人を弄ぶ、あれこそ魔女の嘲笑だった。
だけど女中のほうはまるでぽかんとして、口を半開きにしてる。
灰色の女の眼もとがゆるんだ。「床を掃除しておいで、おまえが汚した床だよ」女中は鉄砲玉みたいに飛んでいった。
女がバートルにむき直る。声が灰色にもどってる。
「さっき、やっと終わったわ」
神様、とつぶやいてバートルが十字を切った。女は鼻で笑い、
「何を今さら。これから舘じゅう慌ただしくなるわよ」
身を翻すと女は出ていった。靴音と鎖の鳴る音が完全に消えてしまってから、あたしは台所へもどった。バートルが云った。「帰りなさい」
「あれ誰、何だってあんなに威張ってるのさ」
「早く帰るんだ」
「終わったって? 何があったの?」
「もうここに来てはいけない」
「ちょっと待ってよ」
「いいか、二度と来るな、忘れなさい、全部、この舘のことは」
「でも!」
「でないと死ぬぞ!」
バートルもあたしを残して行ってしまった。
迷ったのはほんの一分だけだ。
死ぬだって──?
ふん、馬鹿にするな、今までだって死ぬような目には何べんだってあってきたんだ。幾日もつづく空腹、眠れぬほど凍える夜、血を吐くまで殴られたこともしょっちゅうだ。ぐずぐずしてる暇はない、ともかくブローチだ。
台所を出て進むと、通路にさっきの女中がうずくまっていた。命じられたとおり床を拭いてる。よけて通り抜けた。考えてみればこの娘がボウルを落としてくれたおかげで、灰色の女が来たことがわかったのだ。感謝しなきゃならないだろう。振りむいて見ると、娘も顔をあげていた。笑いかけてきた。煤で真っ黒の顔に黄色い歯がやけに光る。
どこかぞっとした。この娘といい灰色の女といい、それにバートルも、この城はわけのわからないことばかりだ。
通路は曲がってべつの通路とつながっていた。あたしはブローチを落とした裏口と、自分がジャガイモ袋に隠れて入ってきたドアの位置と、頭の中で見当をつけて進んでいった。誰かに出くわしたら──あの灰色の女だったら最悪だ──いつでも逃げるつもりで身構えていたけど、そんなことにはならなかった。舘じゅう慌ただしくなると灰色の女が云っていたように、階上で何か重大なことが起こってるんだろうか。
バートルがあたしに持ってきてくれたケーキやパイはこの城の台所でつくられたものだろう。それは間違いない。だけどバートルにたいする灰色の女の態度、大声で叱りつけ、ねちねちと辱めてた。女はバートルの何なんだ? 何でバートルは黙って従うんだ? バートルは舘の主だろう? あっ、もしかして灰色の女が妻か? じゃああたしはあの女の娘? でも、そしたら小屋にいた狂女は? 駄目だ、頭がこんがらがってきた。魔女みたいな灰色の女の娘と気狂いの娘と、どっちがいいだろう……
通路の先に瓦礫の山が見えた。
どくろが転がってる。さっきあたしが投げた、頭のてっぺんが割れて穴があいているどくろだ。
ブローチは見あたらない。瓦礫をかきわけてみるが出てこない。床のどくろが空っぽの眼であたしを見あげ、剥き出した歯で──上の歯だけだ、下顎はもともとなかった──嘲笑ってる。
もしや、と思った。拾いあげて頭の穴に手をつっこむ。やっぱり。ブローチはどくろの中だった。
あたしはブローチを大切にしまった。この糞どくろは叩き割ってやろうか。が、思いついた。自分の計画に笑いがこみあげてくる。
外はずいぶん明るくなっていた。鳥が鳴いていた。もうすぐ夜明けだ。あたしは魔女を引きずっていった。
「つかまえてきたよ!」
メイナスと子分どもが走り出てきた。
「ほんとかよ?」
遠巻きに、あたしが地面に放りだした布のかたまりを見おろしてる。
「やっぱり隠れてたよ、城の中に」
メイナスらが今度はあたしの背後に聳えてる城を見あげる。
「魔女、見る?」
あたしは布の端を持った。メイナスたちが身構えた。ばっと布を引く。けど、出てきたのはジャガイモ袋だ。ジャガイモ袋を何枚か重ねて、城の地下で見つけたシーツをかぶせ、それらしく仕立てたんだ。
メイナスがアホ面こいてる間に逃げる。手にはまだシーツを持ってる。やつらが追いかけてきた。あたしはシーツを翻してムーアを駆けるが、相手は四人、たちまち囲まれてしまい、おまけにすっ転んでしまった。
「ふざけやがって、ぶっ殺してやる」
メイナスが近づいてくる。あたしはシーツをかぶったままうずくまってる。
メイナスの靴の爪先が見えた。あたしは立った。情けない悲鳴があがった。
メイナスは腰を抜かしていた。ほかの連中はと見まわすと、やっぱり尻餅ついてる。こいつらが眼にしているもの、それはどくろの顔をした魔女だ。あたしは頭の上にどくろを乗っけて、シーツをかぶって全身をおおった。シーツはどくろの顎の下、つまりあたしの額のところできっちり手で持って押さえてる。白い衣を頭からすっぽりかぶった、どくろ魔女のできあがりってわけ。シーツの合わせ目から見えた。メイナスがしょんべん漏らしてた。ざまあみろ、思い知ったか、魔女なんかより人間のほうがずっと悪知恵が働くんだ。
そのときだった。まったく唐突だった。鐘の音が聞こえてきたんだ。
メイナスたちに新しい震えが走った。あたしの胸にも冷たい手が侵入してくる。心臓がきゅっと握られる。
日曜でもなく、こんな夜も明けきらない時間に鳴るのは、たぶん誰かが死んだって知らせだ。つい先月も鳴ってたっけ。けどそれは特別で、教区の人間じゃなく、死んだのはイングランド王だと聞いた。王様なんてあたしには夜空の月よりも遠い存在だ。それよかあたしが考えなきゃいけない問題は今日のパンにどうやってありつこうってことだ。だからそのときはべつに何にも感じなかった。でもこの鐘は違った。何だろう、胸がざわつく。
九つ鳴って臨終の鐘の音はいったん終わった。九つってことは、死んだのは男だ。
また鳴りだす。一、二、三、四、……一六、十七、十八。十八回。
十八歳で死んだのか。誰なんだろう?
アレクサ2 この話にはきっと裏がある
ガルトン伯爵の葬儀は本日行われるという。
そう、あたしが城にもぐりこんだとき、礼拝堂の鐘が知らせてたのは、城の主、ガルトン伯爵ジョン・ガルノートンの臨終だった。灰色の女のやっと終わったという言葉は、伯爵が息をひきとったって意味だったんだろう。
ガルトン伯爵は五ヶ月前に突然オックスフォード大学から帰ってきた。馬車は真夜中に到着し、伯爵様は運びこまれ、それきり姿を見た者はいないらしい。あたしったら馬鹿だ、その話は最初にメイナスから聞いてたじゃないか。城の主は死んだ十八歳の少年、バートルのわけなかった。でも、それでバートルが伯爵家とはまったく無関係ってことにはならない。なにしろ自由に城に出入りしてるんだから。
ご領主様の葬式だからといってヘッジスの村で特別なことはなかった。近隣の村だっておんなじだろう。貴族様の事情に賤しい平民なんぞが関われるわけがない。ただ噂話だけが囁かれていた。葬式は身内だけでひっそりと行われるらしい、父君である先代も魔女に呪い殺されたって話だ、これで残されたのは奥様とお嬢様がただけ、跡継ぎのいない伯爵家はこれからどうなるんだろう。
葬送の行列が現れた。
あたしは身を伏せる。眼の前の地面はほんの少し盛りあがってる。春になってのびだしたスゲやイグサも、あたしを隠してくれる。この場所を決めるのにあちこち歩きまわった。ムーアはなだらかな起伏が広がっているので、丘のてっぺんにあるガルトムーア・ホールからは視界をさえぎるものはほどんどない。こっちの姿は見せずに伯爵家の連中を近くから観察したかった。灰色の女やバートルや、死んだ伯爵の家族の顔が見たかった。
静々と喪服のひとびとが柩のあとをついてゆく。なんて寂しい葬列だろう、これがご立派な貴族様の葬式だなんて。明るすぎる陽射しが余計に侘しい。
バートルはどこにいる?
伯爵家の主じゃなくても、伯父さんとか、親戚かもしれないと考えてたんだ。それか親しくしている友人かもしれない。どっちにしても主の葬式の列にならぶはずだ。
バートルはどこだ?
葬列の中で男は柩を運んでいる四人だけだった。どれも見るからに下級の使用人で、着ているものはこざっぱりはしていたけど喪服ではなく日常着で、黒い腕章だけが喪のしるしだった。四人の中にバートルはいない。
ほかに会葬者といえば、あとはたったの五人。それも女ばかり。
灰色の女はすぐにわかった。女たちのかたまりから頭が飛び出ているし、黒いドレスの腰には鍵のついた鎖がじゃらじゃらとぶらさがってる。一人の女につきそって歩いていた。こっちの女のほうが上等な喪服を着ていて、病気なのか、いや身内の死に打ちのめされたのか、灰色の女につかまってやっとこさで歩いてる。
どうやら勘違いしてたみたいだ。灰色の女は仕えるほう、奉公人なんだ。ご主人様はつきそわれているほうで、見たところ城の奥方様か。その後ろに三人。若い娘たちだ。こちらも高級そうなドレスだから伯爵家の令嬢たちだろう。
バートルはいない。灰色の女はいるのに、バートルの姿はどこにもない。
伯爵家の女たちの顔を一人ひとり見定める。帽子のベールが邪魔する。けどわかることもある。黒いベールを通しても顔の生白さは浮かびあがってる。あたしみたいに日焼けなんかしてないんだ。カンカン照りの下で野良仕事なんかしたことないんだ。あれがワタスゲの紋の彫られた城に住んでいる女たち。
一人だけ、顔をベールで隠してない娘がいた。思わずあたしは、へえ、ってなった。一番小さいのにほかの女たちと違ってうつむいたりしてないんだ。唇をきっとむすんで、真っ直ぐのばした眼差しに映ってるのは、あれは悲しみなんかじゃない。
その子をもっとよく見ようとあたしは茂みをかきわけた。ところが葬送の列は大きく曲がった。背をむけ、あたしの隠れているところから遠ざかってゆく。やがて丘のむこうに消えてしまう。教会墓地へ行くんじゃないのか? 考えてみれば当然だ、伯爵様が庶民の墓の横に埋葬されるはずがない。
あおむけに寝っ転がった。雲雀が飛んでる。地面からはぬくまった土の匂い。風もあったかくてやさしい。
わからないことばっかりだ。バートルはどこいった? 伯爵の葬列に灰色の女はいたのにバートルはいなかった、どうゆうことなんだ?
魔女の呪いだって? 魔女がガルトン伯爵を殺しただって? 魔女なんてほんとにいるのか?
よく考えてみよう。一っこずつ整理してみよう。伯爵家の舘であたしが見つけたのは魔女じゃなくてどくろだった。あれはケッサクだった、あたしのこさえたどくろの魔女にメイナスの野郎ったら、ズボンをびしょびしょにして逃げ帰ってったっけ。どくろは隠しておくことにした。またメイナスを脅かしてやるんだ。
魔女なんているわけない。もしいるとしたら、それは魔女みたいにずる賢くて冷酷な女だ。あの灰色の女こそそうだ。蛇みたいな女。バートルをいたぶって、いいように従わせてた。バートルも何でいいなりになってるんだ、逆らえない理由でもあるのか。
灰色の女は伯爵家の召使いだった。じゃあバートルは? 葬列にならんでないってことは伯爵家とはまったくの無関係? しかも信じたくないけど灰色の女の手下?
もしそれが事実だとしたら、ずっと自分をバートルの娘だと思ってたけど、間違いだったってことになる。だってあたしは伯爵家と所縁ある人間なんだ。このワタスゲのブローチが証拠だ。ブローチは紐を通して首にかけ、服の下にしまうことにした。これならもう落としたり盗られたりしない。これはあたしの大切な秘密なんだ。秘密は武器。あたしを真実へと導き、生きのびさせてくれる武器だ。ただ生きるだけじゃなく、本来あるべき人生を、人間らしい生きかたをとりもどすための武器だ。
遠くでかすかな音がした。かすかだけれど、真っ直ぐ耳の奥まで入ってきた。耳の中で厭な余韻が残る。あたしはブローチを胸の中にもどし起きあがった。
音はそれから二度ばかり聞こえた。そして、のんびりと横たわるガルトムーアの丘に一つの異物が現れた。
最初小さかったその影は、ぐんぐんと近づいてきた。
男だ。あの腕の黒い腕章、さっき葬式の行列で柩をかついでいたうちの一人だ。
男は転げるように駆けてくる。まるで何かから逃げてるみたいだ。葬式はどうしたんだ、途中でほっぽってきたのか?
男が叫んだ。ありったけの声をしぼり出した悲鳴だった。さっきの厭な音はこれだ。男は髪をかきむしって何やらつぶやき、また声をはりあげて叫んだ。
男はまっしぐらにこっちにやってきて、けどあたしなんか眼中になく横を走り抜けた。でもそのときあたしは聞きとった。悲鳴と悲鳴のあいだ、男がうわ言のようにつぶやいていた言葉だ。
だけど、言葉は聞きとれたけれど、いったい何のこと? さっぱりわからない。
問いかける間もなく男は走り去ってゆく。つまずいた、ひっくりかえった、起きあがる。完全に立ちあがらないうち、また走り出す。
男の後ろ姿をあたしは眼を細めて見送った。
匂う。秘密の匂いがぷんぷんする。
どうやら秘密を持っている人間は、そしてその威力を知っている者ほど、他人の秘密も嗅ぎつけられるようになるらしい。
きっと伯爵家に関する秘密だ。また武器がふえた。あたしは服の上からブローチの形をゆっくりとなぞった。
銀狐の尾っぽ亭は賑わってた。酒と揚げ物の匂いが充満し、客は大声あげて笑い、厨房からは亭主が見習い小僧を怒鳴りつけるのが聞こえてくる。これで七軒めだ。あっちの村、こっちの村と探した。足はパンパンでもう棒みたいだし、腹もぐうぐう鳴りっぱなしだ。
あの男だ、やっと見つけた。細い眼に四角い顎、ずんぐりむっくり、隅のテーブルで一人で飲んでる。ガルトン伯爵の葬式から一目散に逃げ出してきたやつだ。
伯爵家の男の使用人は住み込みじゃないって聞いた。普段は鍛冶屋や畑仕事や、自分の本業があって、呼ばれたときだけお屋敷に働きにゆくんだそうだ。それも最小限の人数だけ。あんな大きなお屋敷なのにご領主様はしまり屋でいらっしゃる、って評判はよくなかった。いやいや伯爵様ご一家は人目をはばかって暮らすしかないのさ、なにせ魔女に呪われた一族だもの、って噂もあった。それはともかく、たとえ臨時の仕事でもいやしくも伯爵様のお葬式だもの、実入りはいいはずだ。なのにどうしてあいつは途中で逃げ出したのか。
店の奥まで入っていってもあたしは見咎められなかった。飲みに来てるのは男ばかりじゃない。おかみさん連中だって朝から晩まで一日じゅう働いたあとには、エールの一杯や二杯あけないとやってらんない。右手に赤ん坊、左手にジョッキって女だっている。父ちゃん母ちゃんがいい気分になった頃合いに、娘が迎えに来るのは別段珍しくない光景だ。
男の横に腰をおろす。相当酔ってる。テーブルには空のグラスがいくつもならんでる。この匂いはジンだ。
「父ちゃん、それ以上飲んだら体に毒だよ」
「ああ? おめえはどこの娘っこだ?」どんよりした眼がむけられた。「どっかで見たような……」
「あっ父ちゃんじゃなかった、一緒に伯爵様のお葬式の柩持ちした小父ちゃんだ」
「なんだあ、おめえはアントンとこの娘っこかあ?」
「そうそう、あたし父ちゃんを探しにきたんだよ」
「こんな遠くまでか、アントンの村は確か……どこと云ってたかな」
「父ちゃん、お葬式から帰ってこないんだよ」
とたん細眼男の顔色が変わった。酒で赤かったのが蒼白になった。
「何かあったのかなあ、ねえ小父ちゃん、知らない?」
ジンを飲み干し「知らん」
「でも、」
「知らん、なんも知らん、おめえはうちへ帰れ」
とりつく島もない。細眼男は空っぽのグラスをあおって残った一滴をすする。次のグラス、次のグラスと持ちあげる。
店の見習い小僧が料理を運んできた。キドニーパイだ。
「こんなもの注文してないぞ」
見習いが何か云い返そうとするのを、すかさずあたしが受けとる。「あたしが頼んだんだよ、小父ちゃん何にも食べてないでしょ、すきっ腹にお酒はよくないよ、これはあたしの奢り」フォークもわたしてやる。もちろん奢りっていうのは嘘。どうせ見習い小僧が給仕する客を間違えたんだろう。
「おめえ、気がきくなあ、アントンもいい娘を持ったじゃねえか、おれんちは娘は生まれなくてよお」
細眼男がパイを食べた。あたしの腹がぐうと鳴った。
「ガルトムーア・ホールに行って訊いてこようかな」
「何だって」細眼男が肉汁の垂れた口もとをぬぐう。
「伯爵様のお葬式のお供に雇われた父ちゃんがまだ帰ってきませんがどうしたのでしょう、って訊くの」
「と、とんでもねえ!」
フォークからかじりかけのパイが皿に落ちた。つい唾を飲みこんでしまう。中に肉がぎっしり。
「いいか、あの城にはぜってい近づいちゃなんねえ」
「どうして」
「魔女だよ、魔女に呪われてるって噂だ」
また魔女か。
「お葬式で何があったの」
「云えねえ」
「父ちゃんきっと魔女につかまってるんだ、やっぱあたし行く、城に父ちゃんを助けにいく」
立ちあがりかけたところを椅子にひっぱりもどされた。
「いいか、アントンの娘、これはぜってえ内緒だぞ」声を潜める。
「おれらアントンを入れて四人は村は別々だが伯爵家でときたま顔をあわす仲だ、だから特別に話してやる。これを聞いたらもう二度とあの城に行くなんて考えるな。おめえの父ちゃんもおおかたどこかで飲んだくれてるさ、あんな恐ろしいこと忘れるには飲むしかないからな」
左右を窺って話をつづける。
「今回のおれらの仕事は伯爵様の柩持ちだった、あんなさみしい葬式見たことねえ、身分の賤しいおれらだって、いざおっ死んだら親戚や隣近所、いつもは悪態つきあってる喧嘩仲間だって駆けつけて見送ってくれるってのになあ」
「で?」あたしは焦れる。「墓まで行ってから?」
「墓ってゆうのか、先祖代々の柩を納めておく場所だな、貴族様は墓もおれら下々の者とは違うってわけだ、扉に鍵までかけてよお。やたら威張りくさってる女中頭が腰にじゃらじゃらさげてる鍵束から、もったいつけてこう鍵をとってな」
あの灰色の女は女中頭だったのか。あたしは納得する。
「やっと扉が開いておれらは中へ柩を運んでいった、女中頭が先頭だった、女中頭の命令どおり柩を置いた、が、そのときおれはつまずいたんだ、なんせ中は真っ暗、灯りは女中頭が持ってる一つきりだ」
いったん言葉を切って、そうしてさらに声を低めて、
「つまずいた拍子におれは棚にあった柩にぶつかっちまった、墓の中はでっかい棚になってるんだ、柩を置く棚。その柩の蓋がずれた、中が見えた、幸か不幸かちょうど女中頭の灯りに照らされてな。伯爵家の誰の遺体かは知らん、女だった、ドレスだったからな、胸のところにこう、ぴらぴらしたリボンの飾りがついててよ、組んだ手は、指の先は骨が見えたが、甲のところは干からびた皮が真っ黒になって、骨にこびりついてるみたいでよ、灯りがあたって、骨の指にはめた指輪が光って、金の指輪がキラッと──」
また話を止め、ごくりと唾を呑みこみ、
「その遺体にはなかったんだよ」
──なかった。
そう。昼間ムーアであたしが聞きとった言葉がそれだった。この男は葬儀の途中で逃げてきたとき、何度も口走ってたんだ。なかった、って。
「おれは自分でも知らんうちに逃げ出した、遺体を見たとたん灯りが消えたんだ、真っ暗だ。おれは外に飛び出して、無我夢中でムーアを走って、そうして気づいたら、この銀狐の尾っぽ亭でジンを浴びるほど飲んでたってわけだ」
「あんた、肝心なこと云ってないよ。なかったって、何がなかったのさ?」
「何がって」
細眼男は細い眼でパイの中身をじっと見つめる。
そんな細眼男をあたしはじっと見つめる。
「何がってあれだよ、きっと魔女の仕業だ、魔女が食っちまったんだろうよ」
「だから何を?」
「だから頭だよ! 遺体は首から上がなかったんだよ!」
云い終わらないうち細眼男は立ちあがった。よろよろと外へ出てゆく。「ちょっと、どこ行くの」慌てて追ったら、道端でおしっこしてる。長々とやってる。
あたしは店にもどって席に座った。
ガルトン伯爵家の墓所に納められてる遺体には頭がなかった。
ガルトン伯爵家は魔女に呪われているというもっぱらの噂。
魔女が頭を食っちまった? まさか!
でも、この話にはきっと裏がある。
あたしが思い浮かべていたのはガルトムーア・ホールで見つけたどくろだ。頭のない遺体と、天井から落ちてきたどくろ。こたえは一つだ。遺体とどくろはおなじ人間だ。
違った、おなじじゃあない。だってあたしの見つけたどくろは完全に骨だったもの。古かったもの。細眼男は、遺体の手に黒くなった皮が残ってたって云った。どくろよりまだ新しいってことだ。
頭のない遺体とどくろ。でも、二つはべつの人間。これはどう考えたらいい?
また腹が鳴る。朝から何にも食べてないんだ。目の前のテーブルには細眼男の食べ残したキドニーパイ。ぷんといい匂いが鼻をくすぐる。これはナツメッグとジャコウソウの香りだ。バートルの差し入れのおかげであたしは香草も嗅ぎわけられるようになった。へっ、こんなしけた居酒屋のくせに香草だってさ。迷わず手をのばす。
大きく口をあけたまま、でもあたしの手は止まった。
バートルだ。バートルがやってくる。あたしは立った。身の危険を感じたんだ。
バートルの物凄い形相だった。飛びかかって絞め殺そうって勢いだ。あたしは回れ右する。けどパイの皿は忘れない。忘れるもんか、もったいない、しっかり持ってる。
「アレクサ待て!」
つい振り返ってしまう。ぎょっとなった。バートルが今まであたしがいたテーブルを持ちあげてたんだ。
グラスが全部落ちて割れる。バートルはテーブルを頭より高く担ぎあげる。ギリギリと歯ぎしりしてこっちを睨みつけてる。
パイを放り出して逃げた。テーブルが飛んできた。幸いにもここまでとどかなかった。振動とともにでっかい音がすぐ後ろで響く。そして悲鳴や怒鳴り声も。
もう一度振り返ったら銀狐の尾っぽ亭はめちゃくちゃだった。ドアの前では小便の終わった細眼男が呆然と立ってた。その腕をつかむ。「逃げろ!」
バートル、気でも違ったのか、あたしにテーブルを投げつけるなんて。夜道を細眼男をひっぱってひた走る。細眼男もわけがわからないまま、ぜいぜいいってついてくる。
あたりが畑からエニシダの藪になったところで、ようやく足をゆるめた。振り返ると街道のむこう、灯りがひとかたまりにまとまってる。一番大きいのが銀狐の尾っぽ亭だ。村の背後には夜空よりも黒くムーアの丘がせりあがっている。それを幾つか越えたてっぺんに、今日埋葬されたガルトン伯爵の城舘ガルトムーア・ホールがあるはずだ。
細眼男が座りこんだ。死ぬ、死ぬ、と心臓を押さえてる。
「な、何だってんだ、何でおれまで逃げるんだ」
「訊きたいことがあるんだよ」
「どっか、い、行っちまえ」
「あと一つだけ、いや二つ」
「知らん、葬式からこっちさんざんだ、もうかまうな、もうほっといてくれ」
「頼むよ、教えてくれたらあたしは消えるからさ」
のろのろと細眼の顔が上をむく。
「伯爵家に男のひともいる? 家族か、親戚か、一緒に住んでなくても」
「いねえな。伯爵のジョン様が亡くなって残されたのは女ばかりだ」
「ほんとに? 親戚じゃなかったら頼りにしてる友人は?」
「そんなのがいたら今日の葬式だって真っ先に駆けつけただろうに。ジョン様の前は何といったかな、ヘレン奥様とかエレン奥様とか、その前は次男坊の小さい坊ちゃん、もう七、八年になるかな、どっちの葬式も寂しいもんだった」
じゃあバートルはやっぱり伯爵家とは関係ないんだ。だからあたしとも関係ない。あたしの父親でも何でもない。細眼男が立ちあがろうとした。
「待って、もう一つ、凄く大事なことなんだ」
しぶしぶ座り直す。
「今日埋葬された伯爵様は、首から上はあったの?」
細眼男の眼が見開いた。
「あ、当たり前じゃねえか! なんてこと云うんだ」
「だって墓で見た女の遺体は頭がなかったんだろ?」
「伯爵様の御遺体にはちゃんと頭はあった、この眼で見た、おれは城の礼拝堂での葬儀にもちゃんと参列したんだ、ああなんてこった、末代までの自慢話になるはずだったのに」
細眼男は頭をかかえこむ。しっかりと、まるで自分の頭も魔女にとって食われるとでもいうように。が、はたと顔をあげた。
「だけど、」
「何?」
「十八歳の若者にはとても見えんかった、七十の爺いみたいな、いや年寄りとも違う、ありゃあしぼんでたんだ、まるでミイラだった、きっと魔女だ、魔女に命を吸いとられたんだ」
泣き出している。道端で丸まって鼻水までたらして。
「しっかりしなよ大人のくせに」手を貸して起こしてやった。
伯爵家の墓の遺体は頭がなかったと聞いて、あたしはこう考えていたんだ。若いガルトン伯爵が死んだのは、伯爵家の女中頭である灰色の女の仕業ではないのか。魔女の呪いだなんてみんな騒いでるけど、実は灰色の女が伯爵家の人間を次々と、首をちょん切って殺してきたんじゃないのか。だからバートルはあたしに忠告した。この舘のことは忘れろ、でないと死ぬぞ。そしてその言葉どおり真相を探ろうとしたあたしは、さっきバートルに襲われた──
ところが今の細眼男の話によると、伯爵の遺体にはちゃんと頭があった。それだけでなく、しぼんでいた、まるでミイラみたいに。
いったいどういうことなんだ。ひょっとして灰色の女はほんとに魔女で、魔女が命を吸いとって伯爵を殺したのか?
馬鹿、そんなわけないだろ。考えろ、筋道を立ててよく考えるんだ。魔女なんていない、いつだってほんとうに怖いのは人間なんだ。
魔女が頭を食っただって? はっ、馬鹿馬鹿しい。きっと誰かの──もちろん人間の──仕業に違いない。けど何のために? それに城であたしが見つけたどくろは? そして伯爵はどうやって殺された? この三つは、どうつながっているのか?
こぶしでおでこを叩いて考えるけど、でも見当もつかない。
細眼男がよたよたと歩き出していた。自分の家に帰るつもりなんだろう。細眼男にはもう用はない。あたしは反対方向へとむかった。とりあえずどこか夜を明かす場所を探そう。湿っぽい風に鳥肌が立つ。雨が降らなければいいけどと空を見あげる。半月が輝いてる。けど雲が凄い速さで流れてる。
誰かにぶつかった。おかげで転びそうになった。まったく道の真ん中で何してんだよ、あたしは闇に眼をすがめる。するとそいつがランタンの覆いをとった。光に照らし出されたのはメイナスの歪んだ笑い顔だった。
アレクサ3 身体がどんどん闇に落ちてゆく気がした
茂みに突き倒された。飛び起きて逃げようとしたけど、メイナスの子分どもがあたしを地面にがっちりと押さえこんでる。
メイナスがあたしのほっぺたを平手打ちした。
「クズのくせによくもおれ様をコケにしてくれたよな」
「どくろ魔女は気に入らなかった? なら次は悪魔でもつれてきてやろうか?」
また殴られた。鼻血が垂れるのを感じた。
「ほざいてられるのも今のうちだ、たっぷり礼をしてやるからな」
いきなりスカートをまくりあげられる。
「何するんだよっ」
手足をつかまれていて暴れたくても暴れられない。パンタレットもはぎとられた。膝をあわせたが、すぐに手がのびてきて開かされてしまった。メイナスがランタンで照らす。
「うっ、何だこりゃ」
子分どもも覗きこんでくる。
「こんなの見たことないぞ」
「村のみんなが云ってるとおりだな、確かにバケモンだ」
「げえええ、こんなバケモンと本気でやるのかい、メイナス」
「やっちまえよ、勇気あるなって村の英雄になれるかもよ」
嘲笑う声。
「いやいや、こりゃどんな物好きだって無理だろうな。だいたい、どうやってやるんだ、いやまいったな、賤しい乞食娘ってだけならまだしも、これじゃあ使い道がないぞ。そうだ、見世物小屋にでも売るか」
大爆笑だった。
足が放された。あたしは横むきになって膝をかかえた。裸の尻を蹴飛ばされる。そしてまた笑い声。大口あけて笑ってる阿呆面が涙でにじんだ。
だけどあたしはただ泣いてるだけじゃなかった。じりじりと這い、メイナスに飛びついた。思いっきり急所に噛みついてやる。
悲鳴とともにメイナスがひっくり返る。それでもあたしは離れない。ますます歯を立てる。メイナスはあたしの頭を殴る。顔もガンガン殴ってくる。子分どももあたしをひっぱる。でも離れない。離れるもんか。この臭い股から絶対に離れない。
強烈な一撃が来た。頭を鐘ん中につっこんだみたいに響いて、暗い夜のはずなのに目の前が銀色に光って、それから落っこちた。
気絶してたのはほんの一瞬だ。ならんだ小汚い顔が上から見おろしてくる。メイナスはへっぴり腰で自分の臭い股をおさえてる。
笑ってやる。とたんまた一発。
「この糞アマ、今度こそ火炙りにしてくれる」
起きあがろうとしたけど眩暈がする。
「おまえら焚きつけを持ってこい」
「でもメイナス、それはやりすぎじゃあ──」
「うるせえ! 枝でも枯草でも、何でもいいから集めてこい。こいつはバケモンだ、つまり魔女ってことだ、魔女を退治したら伯爵様が喜ぶぞ、褒美もはずんでくれる」
「伯爵様は死んだんだろ、魔女の呪いって話だ」
「魔女はこいつだ、そうだ焚きつけなんてまどろっこしい、ランタンをよこせ」
奪いとってメイナスはランタンの蓋をあけた。獣脂蝋燭の匂いが鼻をつく。
「魔女め、焼き殺してやる」
蝋燭の火が三重に見えた。迫ってくる。あたしは立った。けど、ふらついて尻餅をついてしまう。いざって逃げる。が、進まない。メイナスがあたしのスカートを踏んでるんだ。
その踏んづけてるスカートへメイナスが蝋燭を近づけた。
炎はすぐに一回りも二回りも大きくなった。みるみるスカートの生地を食べ、のぼってくる。叫んだつもりが声が出てこない。火を叩く。必死に叩く。熱さなんか感じてる余裕はない。なのに物音は妙に鮮明に聞こえる。羊がしゃっくりしてる。何でこんなところに羊がいるんだ? メイナスの笑い声だった。叩いても叩いても炎は指のあいだで踊ってる。
しゃっくりが消え、発情期の鼻声に変わった。と思った直後、あたしに何かがかぶさってきた。分厚い布地だ。その上からパンパンと叩かれる。
布がとり去られ、そこにいたのはバートルだった。服の火は消えていた。
「バートル、助けてくれたの?」
メイナスが、痛ぇよ痛ぇよとべそをかきながら──その声が発情した羊そっくり──地べたに転がっていた。顔が血だらけだった。そばにはけっこうな大きさの板切れが落ちていた。釘も突き出ていた。そのむこうには手下の一人がのびている。ほかの者は見あたらない。逃げ帰ってしまったらしい。
バートルが外套ごとあたしを抱きあげた。あたしはまだ眩暈がつづいていた。バートルの外套からも──火を消すためにあたしを包んだ布だ──あたし自身からも、焦げた臭いがする。しくしくと手が痛んだ。火傷だった。
あたしが運ばれたのは旅籠の二階、部屋は蝋燭が一つきりで暗かった。駅馬車の停車場でもあるここは、行商人や旅行者が長旅の途中で一休みする場所だ。旅行する金なんかないあたしには縁のないところだけど、集まってきた馬車や、余所行き着こんでせいぜいめかしこんでる連中を、たまに遠目に眺めたりしてた。階下の喧騒がかすかに聞こえてくる。一階は食堂になってる。
バートルはあたしを抱いたまましばらく動かなかった。考えあぐねているようすだった。「手を冷やしたい」あたしは云った。するとバートルははっとしたように、あたしをおろした。
ベッドと洗面台と壁には小さな鏡。洗面器にも、水差しにも、水は入っていなかった。ホーローの洗面器のふちにぐるりと水垢のしみがついていた。
「外行って井戸でくんでくる」
「駄目だ」ドアの前にいたバートルに押しもどされた。
「どうして」
「この部屋から出てはいかん」
「だって火傷を冷やさなきゃ」
バートルはあたしの手をとって痛ましそうに見つめた。けれども部屋のドアをあけようとはしなかった。それどころかあたしを引き倒すと、いきなりベッドからシーツをひっぺがした。癇癪おこしたみたいに裂いてゆく。あたしは床に尻餅をついたまま、あっけにとられてた。
するとバートルは今度はあたしにむかってきた。破ったシーツをぐるぐるとあたしの手首にまわす。
「あたしを縛るの? なんで? あたしを殺すため?」
バートルは黙々と仕事を進める。
「あたしが伯爵家の魔女のことを探ろうとしたから? だから殺すの、だからテーブルを投げつけてきたの、さっき銀狐の尾っぽ亭で」
バートルの動きが止まった。
「まさか本気じゃないよね、酷いよ、あんなでっかいテーブル、下敷きになったら大怪我してた」
「だが死ぬよりはましだ」
何を云ってるんだろう。バートルが理解できない。また縛り出してる。今度は足。もう身動きできない。自由に動くのは口だけだ。
「でも、あたしには知る権利がある! だってワタスゲの浮き彫りがガルトン伯爵の城にあった、あたしのブローチとおんなじワタスゲだよ! 教えてよ、あたしと伯爵家、関係があるんだろ、あたしは誰なの、どうして捨てられたの、伯爵家の魔女と関係あるの?」
「知らないほうがいい」
「何でさ、自分のことなのに」
「おまえのためだ」
「あんたは前にも云ったね、ブローチをわたしたのは間違いだったって。けど、間違いだろうが何だろうが、もうブローチはあたしが持ってる、そして自分の出生に秘密があるって気づいてしまったんだ。気づかせたのはバートル、あんただよ、ブローチだけでなく、あんたが教育してくれたおかげであたしは考えられるようになった、筋道を立ててね。だからあんたにはあたしに説明する責任がある」
しかしバートルはあたしを縛ることに専念してる。いや、専念しようとしてるんだ。だってやたら手を動かしているくせに、仕事ははかどらないんだもの。
こころの底から哀願した。
「お願いバートル、教えてよ、殺すというんなら最後に一つだけ。あたしは誰?」
バートルの手が止まった。その指が震えていた。そして苦しそうに、
「おまえは──、おまえ──、あなたは──」
それから言葉が一気に出てきた。まるで長いこと喉につかえていた桃の種が吐き出されたみたいに。
「あなたは伯爵家の末娘」
「伯爵家の娘、あたしが?」
「そうだ、あなたがエリザベス様と先代の伯爵様の、ほんとうの娘なのだ、おお神よ、お許しを」
「エリザベス? エリザベスって──?」
「エリザベス・ガルノートン、伯爵家の奥様だ」
たちまち甦る、ヒースを踏んで進むガルトン伯爵の葬列。灰色の女につきそわれ、柩のあとをついてゆく果敢なげな貴婦人。黒いベールに隠され顔は見えなかったけれど。
「あたしはあのひとの娘……」
何であのときもっと葬列に近づかなかったんだろう。そしたら母さんの顔が見られたかもしれないのに。声が聞けたかもしれないのに。
「あたしはやっぱり伯爵家の人間だったんだ、末娘……。じゃあ名前は? あたしのほんとうの名前は?」
「ユースタス。ユースタス・ガルノートン」
「ユースタス、あたしの名前はユースタス」乞食娘でもバケモンでも、そしてアレクサでもない、あたしはユースタス。
「しっ。静かに!」
口をふさがれた。それではじめて気がついた。階段をのぼってくる靴音がする。
猿ぐつわを噛まされる。それからベッドの下に押しこまれる。狭い空間に綿埃が舞う。くしゃみが出そう。バートルの顔が覗く。
「音を立てるな、絶対に」
バートルも囁き声だった。靴音はドアの前まで来ていた。
ノックもなくドアはいきなり開かれた。靴音が入ってくる、やはり断わりもせずに。
「首尾は?」
「大丈夫だ」
「男の手配は?」
「した」
「確かでしょうね、うんと年寄りでなくては駄目なのよ」
なんてことだろう、聞こえてきたのは抑揚のない、色にたとえるなら灰色の声だった。
「七十をすぎたと云っていた、刃物職人で鋏研ぎの行商をしてあちこちを渡り歩いているそうだ、甥とかいう男も一緒だ、老人だけではこころもとないからお目付役に雇った」
「まあ、気が利くじゃないの」
あたしはベッドの下で音を立てないよう注意しながら、縛られた体を少しずつ、少しずつ、ずらしていった。やっと顔がマットレスの端まで来た。精いっぱい首をのばし、窺う。
やっぱりあの女だ。高い頬骨、きっちりと結いあげた髪、一見地味だけど高級な素材のドレス。ガルトン伯爵の城で威張りくさっていた女。女中頭だという女。
「あの柩持ちも?」
「そちらもすませた」
「不審がられなかったでしょうね」
「幸いなことに居酒屋だったから……」
「噂を広めるのも忘れないで頂戴。ガルトムーア・ホールの魔女はお喋りが大嫌い、余計なことを触れまわると、たとえ伯爵家の人間でなくても容赦はしない、呪ってやるってね」
ここからじゃバートルは見えない。だけど苦悶に満ちた声が聞こえる。
「それだけでよかっただろうに、噂だけで。あの男はひどく怯えていたから、そんな噂を聞けば墓所で何を見たか、口外はしないだろうに」
灰色の女は憐れむような蔑むような眼つきになった。
「まったくあなたときたら何もわかってないのね、噂くらいで口をつぐむと思って? わたしが望んでいるのは伝説よ、伝説をつくるの。柩持ちはもう誰かに喋ってしまったかもしれない、結構、それもまた噂になるでしょう。御領主様の墓の噂、お喋りな人間にくだされる魔女の呪いの噂、多くの噂が互いにからみながら漂うガルトムーア。ところで噂が伝説に変わるのはどんなときだと思う?」
バートルと、そしてあたしも、答えを待つ。
「噂が事実になったときよ、例えば柩持ちの男がほんとうに魔女に呪われたら?」
女の唇の端がわずかにあがって、すぐもどった。ほんの一瞬の微笑だ。
「噂は秘密のまわりに飛び交う蝿だけれど、伝説は秘密を守る深い森。噂は単なる断片、伝説とは一つの物語。ひとは不完全な断片には疑問を持つけれど、完結した物語には納得するものよ。こうして一つ一つつくりあげた伝説がガルトムーア・ホールをとりまく霧となるの、中で何が行われているか包み隠す、濃い霧とね」
「では、男はやはり死ぬのか」
ところが女は肩をすぼめた。
「あなたを喜ばせるのは気に入らないけれど、絶対ではないわ。時間も長く待たねばならないし。呪いは繊細なの、芸術のようにね、粗暴な暗殺とは違うのよ」
「おお神よ……」
「ふん」
鼻を鳴らしてバートルの祈りを嘲ると灰色の女は窓によった。外を見おろしている。
「で? どこにいるの、年寄りとその甥っこというのは」
「約束の時間はまだ、小一時間ほどあと」バートルの声は消え入りそうだ。
「小一時間ですって?」
頓狂に女が問い返す。
「わたしの来る時間を知っていながら、なぜ? 一時間もわたしを待たせるつもり?」
バートルの狼狽える気配。
灰色の女の眼が細くなった。なるほどというように何度も頷いた。「わざとなのね、おまえはまたわたしを怒らせたいのね、まったく堪え性のないこと」
骨と骨をこすりあわせるような音がした。灰色の女の、灰色の笑い声だ。
「わたしがおまえのためにいつも持ち歩いているとでも? だけど運がいいわね、ここは馬車が集まるインよ、ああ、それもおまえの計算のうちだったの、抜け目ないのね、早く一階へ行って馬丁にジンの一杯でも奢ってやって借りてらっしゃい」
沈黙。聞こえてくるのは階下からの喧騒だけ。
「さっさと行くのよ、走って!」
バートルの足音が駆けていった。何がなんだかわからない。灰色の女がせかせかと部屋を歩きまわるので、見つからないようあたしは顔をひっこめなくてはならなかった。バートルはすぐさまもどってきた。足音が部屋に駆けこんできた。荒い息も聞こえた。
「次はどうするの? わかっているでしょう」灰色の声にはねっとりしたものが含まれていた。
せわしい衣ずれの音がする。服を脱いでるんだ。あたしは顔が熱くなってきた。これはつまり、男と女の秘め事ってやつだ。なんてこった、いたたまれない──
ところが、ベッドの下から覗けるわずかな隙間に、信じられない光景が現れた。
バートルの垂れた頭と、その両側にあるのは肘をついた腕。後方には膝をついた脚。腕も脚も服を着ていない。裸だったんだ。バートルが裸で四つん這いになってるんだ。まるで犬みたいに。
そして音が響いた。あたしには馴染みの音だった。鞭で折檻されるときの音。ヒュッと風を切り、叩きつけられた革が肉に埋まる音。何度も何度もくり返される。そのたびにバートルは床の手を握りしめ、呻いている。
バートルのまわりをドレスの裾が近づいたり離れたりしていた。灰色の女がバートルを打ちすえているんだ。女が男を裸にして、床に這わせて、鞭をふるっているんだ。
途切れ途切れに聞こえてきた。バートルだった。「神よ、お許しを。神よ、お許しを」
女が冷たく云い放つ。「毎度おなじ台詞では、いかな慈悲深い神様だってうんざりしてらっしゃるだろうよ」
「お許しを」
鞭の音。バートルがもらす女みたいなか細い声。
「ああ厭だ、なんて声を出すのよ、おまえはちっとも悔い改めていないようね。謝りなさい、額を床にこすりつけて」
ドレスの裾がつまみあげられて女の足が持ちあがり、土のついた靴底がバートルの顔を踏みつけていた。
鞭の音もむせび泣きもやみ、そのあとの気だるいような妙な沈黙もすぎ、ベッドの下でひたすら待っていたあたしが次に感じたのは、きびきびと動きまわる気配だった。
「鋏研ぎが来たようね」
灰色の女は窓から覗いて確認したんだろう。
「よろしい。あれなら申し分ないでしょう」
そして何やらがさごそととり出しているような音。
「これが手紙よ」
バートルは無言だ。
「奥様が書いたわ、ちゃんと署名もある」
奥様──! 城の奥方様のことか。つまりあたしの母さんだ。
「いい? 一年後よ。喪があけた来年の四月、間違いなくあの老人をガルトムーア・ホールに来させるのよ、この手紙を持参させるのも忘れずにね」
バートルの返事は聞こえてこなかったが女は納得したようだった。靴音がせわしなく行き来し出した。帰り支度だ。
「金をやって身なりもそれ相応に整えさせて頂戴、仮にも貴族なのよ、恥ずかしくないようにね」
ドアのあく音がした。靴音がちょっと立ちどまって、
「ところで新しいガルトン伯爵は、そのお目付け役の甥っ子とやらも、わたしからの贈り物を喜んで受けとってくださったかしら?」
このバートルの返事は聞こえた。
「神よ、お許しを」
女は笑った。短く、隙間風のように。
「受けとったのね。なら来年、結婚を急がなくてはね」
ドアがしまった。
しばらく何の物音も声もしなかった。あたしは猿ぐつわの布を噛みしめ考える。唸り声をあげてみようか、縛られた手足を使ってなんとか這い出てやろうか。だけどそのどちらもためらわせるほど重苦しい静寂だった。
突然バートルの顔が覗きこんだ。あたしの喉の奥、悲鳴が起こった。恐ろしい形相だった。怒りと憎しみが煮えて膨らんで、今にも顔面の内側から皮を破ってほとばしりそうだった。ガチガチと剥きだした歯が鳴っている。血走った眼玉が瞬きもせずにあたしを凝視する。だけどその眼にあたしは映ってなかった。何も映ってなかった。バートルが燃えるように見つめていたのは、もっと遠いどこかだった。それとも自分自身か。
ベッドの下から引きずり出される。床板にこすられ、ほっぺたが灼けた。言葉を発する間もなく──話したくても猿ぐつわをかまされているから話しようもないんだけど──毛布を巻きつけられる。あたしを荷物みたいに包んでいく。
あたしは唸って滅茶苦茶に首を振った。何する気、あたしを殺すの、あんたは魔女の手下なの、村で噂してる魔女はあの灰色の女なんだろ? あいつは伯爵の城で何たくらんでるんだ?
毛布の中に頭も押しこまれてしまった。毛布ごと綱かなんかで縛りつけられている感覚が伝わってくる。ぎっちりとくくられて息も充分にできない。このまま河に投げこまれるんだろうか、それとも生きたまま土に埋められるんだろうか。
が、顔の上の毛布がのけられた。あたしは鼻の穴からいっぱいに空気を吸った。
バートルがあたしのブラウスの襟もとに小袋をさしいれた。胸にあたる感触でわかった。中身は硬貨だ。
「これだけあれば当分は困るまい。すべて忘れろ、伯爵家のことも、ガルトムーア・ホールも、ここで聞いたことも、魔女も」
あたしは懸命に首を横に振った。そんなことできるわけない。やっと自分が誰なのかわかったのに。あたしは伯爵家の娘、ユースタス・ガルノートンなのに。
「もう二度ともどってくるな、さもないと魔女に呪われるぞ」
魔女の呪いだって? そんなの嘘だ、きっと裏があるんだ、あの女中頭の悪だくみだ、見ていろ、あたしが絶対に暴いてやるから──
顔に毛布がかぶせられ、また息苦しくなった。
頭から毛布でぐるぐる巻きにされ、目は完全に塞がれ、音もよく聞こえず、まわりのようすはまったくわからなかった。かつがれて運ばれていき、どこかにおろされたのはわかった。しばらくして、突然地面が揺れた。最初に大きく揺れて、それから揺れは細かく、リズムに乗っていつまでもつづいてる。
つまり馬車だ。あたしは馬車の積み荷ってわけだ。
ゴトゴトと馬車は進んでゆく。毛布の中では何も見ることができないんだけれど、あたしは転がされてるから、馬車の振動は体じゅうに伝わってくる。揺れれば揺れただけガルトムーアが、ガルトン伯爵の城舘が遠ざかってゆくんだ。
いったいバートルは何を考えているんだろう。無茶苦茶じゃないか。いきなりテーブルを投げてきたと思ったらメイナスから助けてくれたり、縛って川にでも沈めるのかと思ったらこうやって馬車に乗っけたり。あたしを救うつもりなのか、見捨てるつもりなのか。
悔し涙がこぼれた。翻弄されてる自分が情けない。やっと自分のほんとうの名前がわかったというのに。涙は顎から首をつたって、胸の布袋まで濡らした。バートルがブラウスの襟に押しこんだ硬貨の袋だ。
金をやるからどこかへ消えろってことなんだ。馬鹿にするな、いくら入ってるか知らんけど、どうせはした金だろう。あたしは、あたしは、広大なガルトムーアの領主、ガルトン伯爵の身内なんだぞ、娘のユースタスなんだぞ。証のワタスゲのブローチも持ってる。ちゃんと首にさげて隠してある。
どれだけ胸の中で叫んでも、馬車は容赦なく走ってゆく。どこへむかっているんだろう? いったん考えると、どうしようもなく不安が襲ってきた。毛布の中も闇だけど、その外側もとてつもなく広がる闇のような気がした。そもそもこの馬車だってどんな馬車なのか見当もつかないのだ。駅馬車なのか荷馬車なのか。それとも死者をあの世へ運ぶ馬車?
固く固く眼を閉じる。身体がどんどん闇に落ちてゆく気がした。
閉じた目蓋に痛いくらい光が突き抜けてきて、それであたしは眼を覚ました。
一瞬自分がどこにいるのかわからない。だけど、ぷんと香草の香りが鼻の奥までやってきて、腹がぐうと鳴った。ナツメッグとジャコウソウ。肉料理には必ず使われる。
「可哀そうに。腹がへってるらしい、これをわけてやったほうがいいかの?」
「じいさん馬鹿こくな、これはおれらがもらったんだ、ゆうなれば旦那からおれらへの慰労なんだよ、小汚ねえガキなんぞにやれるか」
やっと状況がはっきりしてきた。夜が明けて、ここは馬車の中だ。あたしはあいかわらず毛布に巻かれて転がっている。馬車は今は止まってる。行商人がよく乗ってる幌付きの荷馬車だった。
鍋やら毛布やら服やらがごちゃごちゃとつめこまれてた。商売道具らしいものもあった。砥石や革の帯だ。鋏もたくさんぶらさがってる。わたしのそばには男が二人、年寄りと若いの。その年寄りのほうの男が、毛布をめくってわたしを覗いてるんだ。ほとんど残ってない白髪、皺に埋もれた眼と口、その割に鼻だけが立派だ。高くて尖ってる。逆に若いほうは全体的にのっぺりした顔だった。髪の色が薄いのでよけいに薄っぺらい印象しかない。
この二人が、バートルが雇った鋏研ぎの老人とその甥か。
若いほうが──といってもメイナスよりは十は歳上だ──パイの最後の一切れを口に入れた。音を立てて食べてる。なんて行儀が悪いんだ。貴い身分の人間は食べるときに音を立ててはいけないと、あたしに教えたのはバートルだった。香草をきかせた肉料理の味を覚えさせたのもバートルだ。恨めしさと空腹のせつなさが入り混じる。老人の歯の抜けた口がまだもぐもぐやってる。パイの欠片があたしの顔に落ちてくる。毛布の中の手の火傷がしくしく痛む。
首を振ってうーうー唸った。そしたら老人のほうがあたしの猿ぐつわをはずしてくれた。
「あんたら、バートルに何をしろっていわれたの?」
「バートルって誰だ?」と甥。
「バートルに雇われたんだろ?」
「あー、あの旦那のことか」
「一年後にガルトムーア・ホールに来いって云われてるんだろ、あっそうだ、手紙わたされなかった? ガルトムーア・ホールの奥様の署名入りの手紙だよ」
甥と老人は顔を見あわせた。
「手紙とはこれのことかの?」
「馬鹿、じいさん黙ってろ」
「そう! それ! 何て書いてあるの?」
「あいにくわしらは字が読めんでの、おまえさん読めるかの」
「読める読める、バートルにばっちり仕込まれたからね、ちょっと見せて」
「じいさん騙されんじゃねえ!」
甥に手紙をとりあげられてしまった。老人は高い鼻の下、口をすぼめてる。甥があたしを睨みつけた。あたしは考えた。
「ねえ、バートルはやめてあたしに雇われない?」
「けっ。おまえ、金あんのかよ」
「今はないけど、あたしに協力してくれたらバートルの倍払ってあげる」
なんたってあたしは伯爵家の娘なんだ。バートルなんかより身分はずっと高いんだ。
「旦那は毎月決まった額をこれからずっと、って云ってくれてるんだぜ」
なるほど、金を小出しにしてつなぎとめておくって寸法だ。
「じゃああたしはいっぺんに払う、それも三倍の額を」
にやにや甥が笑う。
「へええ、三倍ねえ。で、おれたちは何をすればいいんだ?」
「馬車をもどして、あたしをガルトムーア・ホールにつれてって」あたしが誰だか明らかになれば、お金なんていくらでも出してやる。
甥と老人は額をよせて相談をはじめた。ときどき首を曲げてあたしを見る。またぼぞぼそ喋ってる。喋るのはだいたい甥のほうで、老人はふんふんと頷いている。
やがて甥は老人の肩を叩くと──頼んだぞというように──幕をはねあげて荷台から降りていってしまった。
甥は御者台にのぼって鞭をあてたんだろう、馬車が動きはじめた。速度があがる。さげられた鋏が振り子のように揺れ、床の荷が踊り、あたしも跳ねて床に叩きつけられる。大急ぎで引き返してるんだろうか、もと来た道をもどってガルトムーアへ。いや、違う。方向転換してないもの。床が斜めになった。坂道をのぼってるんだ。なのに馬車のスピードは落ちることなく、さらにあがったようだ。
「おじいさん、どこにむかってるの?」
老人は指で高い鼻をこすってるだけだった。それから手をついてそばによってきて、いきなりあたしのブラウスの胸もとを探り出した。
硬貨の袋はすぐに見つかってしまった。中身を出して丁寧に数え、こりゃけっこうな額だのとたまげてる。そして皺だらけのしぼんだ手をまたのばしてくる。
「ほうほう、値打ちもんかの」
老人がひっぱりだしたのはワタスゲのブローチだ。
「駄目、それはやめて」
首にかけるために通していた紐も、老人がよろけながら立ってとった鋏で簡単に切られてしまった。硬貨と一緒に布袋に入れて、ポケットにしまう。
「お願い、返してよ、お金は全部あげるから」
「娘さんは妙なこと云うの、金はもうもらっとるよ」ポンポンと今しまったポケットを叩く。
ふたたび老人が鋏を握った。尖った長い刃先を大きく開く。
「な、何する気?」
鋏の刃音が鳴る。ちょっと間を置いてまた鳴る。「やれやれ、何本も厳重に縛ってあるの」
あたしを巻いている毛布のロープを切っているようだ。どうやらあたしを解放してくれるらしい。
「ねえ、おじいさん」ロープが全部切れるのを待ちながらあたしは説得にかかった。
「さっきの話はほんとうだよ、三倍、いいや十倍だって払ってあげるよ、だってあたしはほんとは伯爵家の娘なんだよ」
「伯爵のお嬢様かの、こりゃたまげた、ずいぶんと汚いお嬢様だの」
「これには訳があるんだよ、あたしを伯爵の城につれてって、そしたらわかる。それからブローチも返して、盗ったことは許してあげるから」
「ほうほう情け深いのう、さすが伯爵令嬢様だ、云うとおりにしたらお礼をはずんでくれるかの」
「うん、たんまりあげる、だから馬車を止めて馬のむきを変えて。ガルトムーアに引き返すだけなんだ、そんだけの手間で大儲けだよ」
老人の憐れみに満ちた眼だった。
「娘さんや、泥棒は泥棒の云うことは信用せんものなんだよ」
「泥棒ってあたしのこと?」
老人はまたさっきのポケットを叩く。ちがう! ブローチはあたしのものだ、金はバートルがよこしたんだ、盗んだんじゃない!
「おまえさんは泥棒さ、見りゃわかる、伯爵家の娘だなんて嘘ついたしの」
「あたしは泥棒なんかじゃない、ほんとに伯爵家の娘なんだ、ユースタスなんだ」
「あの旦那は適当な場所で降ろしてやれと云っとったんだがの」
「ちょっと、何するの」
老人が馬車の後方へあたしを転がす。あたしはもがいてみるけどロープはまだ残っているらしく、毛布から出たのは手首を縛られた腕だけだ。
「すまんの、甥っ子がの、こうしろって云うんだよ。年寄りが安気に生きてくには若いもんに従うのが一番だからの」
あたしはもう荷台の後ろの端ギリギリのところまで来ていた。幕がひるがえって外が覗く。山道だ。狭くて石がごろごろして、馬車がもの凄い速さで走ってるから、それが急流のように流れて見える。片側は崖だ。
「毛布まで捨てちゃあもったいないからの」
鋏の音が聞こえた。同時に毛布がぐいと引かれるのを感じた。反動であたしの体は一回転し、宙に浮いた。そのときわたしの眼がとらえたのは、遠ざかる馬車、はためいている荷台の幕、幕の陰でじいさんは毛布をたいそう大事そうに抱えて──
次の瞬間、強い衝撃が来た。手足が千切れ、一つまた一つと飛び散ってゆく。実際は岩のあちこち突き出た道を転がり落ちているのだった。そしてふたたび大きな衝撃を受けた。跳ね飛んで、空と山肌と石だらけの道とがぐるりとまわって、その視界の隅をかすめた枝に、あたしは反射的に腕をのばした。
なんとか崖から真っ逆さまに落ちずにすんだ。あたしは急斜面に腹ばいになってぶらさがっていた。だけどあたしのつかまった枝は頼りなく、よじのぼる時間をあたえてくれなかった。たとえ時間があったとしても無理だっただろう。縛られて、おまけに火傷を負った手ではつかまってるだけで精一杯だ。
残酷な音とともに枝は折れた。
アレクサ4 男魔女がにやりとする
バンシーが泣いている。
遠くでバンシーが泣いている。
誰かが死ぬんだ。
死んだのはガルトン伯爵だ。ガルトムーアの荒野を柩が運ばれてゆく。まだ十八歳だった若き伯爵、それはあたしの兄さんだった。顔も見たことのない兄さんが、すでに亡骸となって柩に横たわって運ばれてゆく。
柩のあとを黒衣の女たちが歩いてゆく。顔を覆った黒いベールが風に揺れる。でも、もう少しのところで中の顔は見えない。だけど息子を亡くした悲しみで打ちひしがれてるってことはわかる。よろめきながらも懸命に息子の柩についてゆく。あたしの母さんだ。
その母さんの腕をとって支えているのは灰色の女。いかにも甲斐甲斐しく世話してるけど、あいつは悪党。魔女。母さん、なぜ気づかないの? その女は母さんにとりいって、裏では恐ろしい陰謀を企ててるんだよ。母さんの後ろにいる三人の娘たち。
あたしの姉妹たち。ベールをかぶった頭が深く垂れている。けど、ただ一人だけ、気丈にもレースをはねのけている娘がいる。一番若い娘、あたしの姉さん? それとも妹? 顔を真っ直ぐ起こし、胸をはって歩いてる。まるで運命に立ちむかうかのように。
そうだ、立ちむかってるんだ。あの子はきっと知ってるんだ、すべての禍は灰色の女の仕業なんだって。それで亡き伯爵の仇を必ずとると、健気にも決意してるんだ。
ガルトムーアに帰らなくては。
帰って、お母さんたちを救わなくては。
きっとあの子が味方になってくれる。あたしもあの子の助けになる。二人で一緒に力をあわせれば、必ず灰色の女の陰謀を暴くことができる。
バンシーが泣いている。まだ泣いている。今度は誰が死ぬというの?
あったかい。
ここはぬくくって、ふかふかして、気持ちいい。まるで天国みたい──
天国! なんてこった、死んだのはあたし? あたし死んじゃった? バンシーの声が近い。あたしのために泣いてるのか。バンシー泣くな! 泣くな泣くな泣くな!
叫んだ自分の声で眼が覚めた。
立派な部屋だった。明るかった。窓が大きくて壁には壁紙がはってある。壁紙ってはじめて見た。きれいな花の模様。壁ぎわには丸テーブルとそれを挟んで椅子が二脚。椅子もテーブルも脚が妙ちきりんだ。曲がりくねって動物の足の形をしてる。
ここはこざっぱりしてる。こうゆうの、どういうんだっけ。そうだ、清潔だ。床には絨毯が敷かれてあって、模様は上品で、しみも色あせも泥の靴跡なんかも、一つもない。
あたしはベッドの中だった。寝かされているのだ。上等な毛布をかけられて。
天国って、こうゆうところなのか?
そうしてここはやっぱり天国で、あたしは死んじまったんだと思ったのは、バンシーがまだ泣いていたからだ。
部屋の外から聞こえてくる。高くなったり、低くなったり、響きはやさしく澄んでいる。じっと聞いていると頭がぼんやりしてきて、なんだか眠たくなってくる。ここが天国なら、これはバンシーなんかじゃなくて天使の歌声だろうか。
ベッドから起きあがってみた。あっとなって慌てて毛布をひっかぶる。裸だった。何も着てない。パンタレットもはいてない。あたしは素っ裸だ。
天国ではみんな裸なのか? 聞こえてくる天使の歌声はひたすら麗しい。そういえばバートルから習ったっけ、アダムとイブも裸だった、知恵の実を食べるまでは。
あいにくあたしにも多少の知恵はあったから、毛布を巻きつけて立った。見まわすがあたしの着てた服はない。ふと手の火傷がもう痛くないことに気づいた。水ぶくれに油みたいなものがぬってある。神様が薬をつけてくれたんだ、ありがとう──なわけあるもんか、誰かが治療したんだ。誰か、この世の生きた人間が。
ドアをそっとあけた。長い廊下に人影はない。が、歌声は一段と大きく聞こえるようになった。声のするほうへと歩いてゆく。階段だ、歌は下からだ、降りてみる。
その部屋は一階のつきあたりにあって、入り口は両開きの扉で、大きくあけ放たれていた。天使はその中で歌っているようだ。
入れなかった。扉は誰でも自由に入ってよいと開いているのに、あたしの足は動けなかった。何だ、ここは?
薄暗い。窓にはカーテンがひかれ、そのかわり数えきれないほどの燭台が置かれてあった。部屋の形と大きさがつかめない。とにかくとてつもなく広い。ずっとむこうまで奥まっていたり、急に曲がっていたりする。そこにたくさん、ひとがいるんだ。七十人? 八十人? 百人?
違った、鏡だった。カーテン以外のところが鏡でおおいつくされていて、そこに蝋燭の火やひとが映り、それがまた反対側の鏡に映りと、何倍にもなっていたんだ。だから部屋の形もあやふやだったんだ。
それでも三十人以上はいる。男もいた、女もいた。年寄りも若いのも、中年もいた。身なりのよいものは椅子に座ってならんでた。そうでないものは床に直に座ってた。といっても床には毛足の長い絨毯が敷かれてあるから、居心地はよさそうだった。そんなふうに身分の高い者と低い者とが、二手にわかれてはいたけれど、一緒に一つの部屋に集まっているのは妙な感じだった。
それにもっと奇妙なのは、みんなで馬鹿でっかい木の箱を囲んでるんだ。
楕円形の、まるで巨人用の帽子箱みたいのが、部屋の真ん中にでんと据えられてあった。それをひとびとが二重三重に囲んでる。箱の天板からは鉄の棒が何本も出ていて、棒は鉤型に曲がってて、それをひとがしっかり握ってるんだ。
棒があてがわれてないひとは、箱からのびた紐でつながれてる。紐はひとからひとへと順々にめぐり、また中央の得体のしれない箱へともどってる。
部屋の奥では男が見たこともない器械を操っていた。お碗が横むきになってたくさん重なってる、大きいのから小さいのへと。それをハンドルで回転させてる。お碗はガラスでできてるみたいだ。回転してる一つに男が手を触れると音が鳴り出す。べつのにさわると高さの違う音。さっきから天使の歌声だと思っていたのは、これだったんだ。音にあわせて輪になったひとたちが、首をふったり身をくねらせたりしてる。
ここは何なんだ?
突然、誰かが叫んだ。するとべつの一人が飛びあがって立った。そのまま眼をむいて板みたいに硬くなって直立してる。また叫び声だ。そっちは女で、椅子から崩れ落ち、がくがくと全身を震わせている。両腕を振りまわしてる者もいる。烈しく足踏みしてる者もいる。叫びつづける女、泣き出す男、笑ってる老人。立って歩きまわり、跳ねて踊り、そうかと思うと床につっぷしてぴくりとも動かなくなってる者もいる。天使の歌声器械がどんどん音をあげていって、四方の鏡までビリビリ振動しはじめる。
魔女集会!?
思わずあとずさった。
なんてこった、こんなとこで魔女と出くわすとは。ガルトムーア・ホールの魔女か? あたしは魔女の巣にまぎれこんじゃったのか?
背中が誰かにぶつかった。振り返って見て、息がとまった。
魔女!
仮面をかぶってる。眼だけを隠す、けれど透明だからちっとも隠れてない、変ちくりんな仮面だ。
服も変だ。ごわごわした革の上着。マントは紫、なめらかで光ってて、見るからに高級品だ。刺繍もしてある。星や月やあれは蠍の模様? そして魔女は手に杖を持ってた。短い銀色の棒、魔法の杖だ!
逃げようとあたしは駆け出した。けど、足がもつれて転んでしまった。それっきり動けない。立とうとしても力が入らない。魔法をかけられたんだ。
魔女が──男だ、男の魔女だ──近づいてきた。あたしの前で膝をついた。魔法の杖をのばしてくる。ちょっとでもあたしにさわってみろ、噛みついてやる! 杖がとまった。
「ふうむ。ジキリュータイヨリクイモノカナ」
魔法の呪文か? 精一杯、睨みつけてやる。
「おや。これが珍しいのかい」
仮面をはずした。
「眼鏡だよ」
眼鏡? へえ、それが眼鏡。けど実際に返事したのはあたしの腹の虫だった。盛大に鳴った。
男魔女がにやりとする。
「やっぱり。必要なのは食い物だな」
バターのたっぷり乗っかったパン、フライドエッグ、さばの酢漬け、ベーコンに鰻のパイ。スモモのパイもあった。
「慌てて食うな。何か飲まないと喉につまらせるぞ」
男はもうあの珍妙な衣裳は着ていない。眼鏡はかけてる。あたしが仮面と間違えたやつだ。
云われなくてもあたしはエールのジョッキをとって、ぐいっとあおった。
「いい飲みっぷりだ」
男はヒューと名乗った。このヒュー・ヒュゲットがあたしを助けてくれたらしい。
ヒューの話によると、プレ何とかからの山道で、倒れているあたしを見つけたんだそうだ。馬車に乗せて家につれて帰り、ベッドを用意し手当てもしてくれた。
「体じゅう打撲のあとがあったが心配はない。手の火傷は朝晩蜜蝋をぬるように。服は捨てたよ、焼け焦げて着れたもんじゃなかった」
あたしはふたたび二階のこぎれいな寝室のベッドにもどっていた。相変わらず裸にシーツを巻きつけただけの恰好だ。ベッドの真ん中で胡坐をかいて、まわりには食いもんの乗った幾つもの盆、正餐の前だから手のこんだ調理はできないけど、燻製ニシンでも冷製肉でも、好きなだけ食べていいって云うんだ。
だけどあたしは男のことを信じなかった。ベッドの脇まで椅子を持ってきて、あたしを眺めてる。ひょろりと背がのびてて、手足も長い。指も長くてよく動く。眼鏡なんて洒落たもんかけちゃって、金に不自由してないってのはわかるけど、身だしなみはなってない。髪はもつれて顎には無精髭。こいつがしゃあしゃあと医者だって自己紹介するんだ、信用できるもんか。
だいたい、服を脱がせて傷の手当てをしたっていうのなら、あたしの体を見たってことだろう。誰もが気味悪がり、嘲笑う、あの部分を。それなのにこいつは何も云わない。素知らぬ顔して食いもんまでよこす。何か魂胆があるに違いない。たぶん、こいつの正体は見世物小屋の支配人だ。
「横目で睨みながら食うのは消化に悪いぞ」
三十歳はこえてるか、こえてないか。あの銀色の魔法の杖はどこだ?
五杯めのエールに手をのばしかけたら、ヒューとかいうこの男がさっととりあげた。飲みすぎだぞ、おまえは何歳だと訊く。ほら来た、詮索がはじまった。
「どうしてあんな山の中で行き倒れてたんだ?」
「服がほしい」
「名前は?」
「裸じゃあどこにも行けない」それが狙いなんだろ?
「親はどうした、どこから来た、傷だらけだし見つけたときは縛られてたじゃないか、どんな目にあったんだ」
「質問一つにつき着るもん一枚ってことにする? 下着に上着、靴下と靴も、洗いざらい喋ったら、人並みの恰好させてもらえる?」
ヒューは苦笑いした。立ちあがって部屋を出てゆく。そしてもどってきたとき、あたしは五杯めのエールをちゃっかり飲み干していて、ヒューの手にはたたんだ服があった。女中に持ってこさせないのだ。そういえば食糧の盆も自分で運んできたんだった。
「おまえさんの秘密を教えてもらうには、絹でも足りないだろうな。あいにくうちにはこんな古着しかない。せめて名前だけでも聞かせてもらえないだろうか」
ユースタス、それがあたしのほんとうの名前だ。だけど口から出たのは、
「アレクサ」
「アレクサ。なるほど。で、苗字は?」
黙っていたら、
「云いたくないんだな、訳がありそうだ。まあいいさ」
意外にも服をさし出しベッドの端に置いた。
ところが二つにわけてある。あたしから見て右側が女の服、左側が男の服。どういうことだ?
「どちらでも好きなほうをどうぞ」
眼鏡のガラスのむこうから眼があたしをじっと見ている。観察してるんだ、あたしがどっちの服を選ぶか。これは何のゲームだ?
「紳士はレディが着がえるとき遠慮するもんだろ」
ヒューが身じろぎする。と、眼鏡のガラスが反射して奥の眼が見えなくなった。やっぱりあれは仮面だ。考えを悟られないようにしてるんだ。
光るガラスと睨みあう。結局ヒューが立った。「ごゆっくり」
扉がしまるなり置かれた服をひっくり返して調べた。特に変わったところはない。匂いを嗅いでみる。ラベンダーの香りとかすかに灰汁の匂い。ちゃんと洗濯してあるんだ、それも上等な石鹸で。
ノックされた。「もういいかな」
「待って」急いで下ばきをはいた。
服を着たあたしを見てもヒューは何も云わなかった。無表情なうえにまた眼鏡が光って眼を隠してる。あたしはわけもなくスカートをひっぱって皺をのばした。ヒューは考えこんでるようすだ。ときどき一人で頷いてる。
「男の服はどうゆう意味だったのさ」
「まあ、診察の一つといったところ」
「ふん、医者みたいな口利いて」
「医者なんだけど」
「ここどこさ、さっきプレ何とかって云ってたけど」
「プレストン。ここはプレストンから東へ十マイルほど」
「プレストンはどこにある」懸命に頭の中にイングランドの地図を描いてみる。
「ランカシャだよ」
目の前が暗くなる。ガルトムーアからどれだけ離れてしまったんだろう。
「行くところがなかったら、しばらくここにいなさい」
「何たくらんでるのさ」
「疑り深いやつだなあ」
「あたしを見くびるなよ、もちろん魔女なんかいないって知ってる、けど、それとおんなじくらい、あんたが医者ってのも嘘だってわかってる、このペテン師め」
「魔女だと! ペテン師だと!」
「違うってゆうのか、けったいな衣裳着こんで魔法の杖ふるのが医者の仕事だって? 階下の騒ぎはどうゆう見世物? 世にも不気味な魔女集会へごあんなーい、どうせそんなとこだろう」
「見世物だと! なんたる無知蒙昧、愚かという鎧で身をかためた科学の敵。おお、メスマー先生──」大袈裟に腕をかかげ天井をあおいだ。
「ええ、わかっております、承知しておりますとも、彼らに対抗しうるは忍耐と寛容のみ。先生が歩んだ苦難の道をわたくしもまた歩みましょうぞ!」そしてあたしにむき直り「俺は医師だ、あれは歴とした治療だ」
「呪文を使って?」医者の治療といったら下剤にヒルに瀉血と相場が決まってる。
「呪文とは何のことだ?」
「さっきあたしに云ったやつ、ジキリューなんとかって魔法の杖ふって」
「磁気流体。魔法の杖じゃない、磁気棒だ」
「ジキボー?」
「メスメリズムだよ、動物磁気だ」
ドーブツジキって何さ、とは訊けなかった。いきなりノックもなしに扉があいて、男が駆けこんできたからだ。「先生、助けてください!」
けっこうな身分らしい。見るからに身なりがいい。ズボンはぴったり、足の形がわかるくらい。シルクハットもパリッとしてて、思わず座ってつぶしてやりたいくらい。
ひどく慌てていた。けれど態度は畏まっていた。あたしに気づいて「失礼」って会釈したんだ。いっぺんで好感がもてる。男はエスター卿と呼ばれた。貴族なんだ。
エスター卿がヒューに訴えた。恋人が倒れて病院に担ぎこまれたらしい。メスマー舘へと指示しておいたのに、何の手違いかプレストンの開業医のところへ運ばれてしまった。自分も恋人も先生の治療でなければ受ける気はないというのに。メスマー舘というのはこの家のことで、先生というのはヒュー・ヒュゲットのことらしい。
「急がないくては。ナンは失神しているのです、このままでは勝手な治療をされかねません」
「プレストンのどこの開業医だ?」
エスター卿は言葉を濁す。ヒューが舌打ちした。
「あいつか、バーナードのやつ」
馬車はエスター卿が待たせておいた。ヒューと卿、そしてつづいてあたしも乗りこんだ。
卿が驚き、ヒューも怪訝な表情。「あんたがほんとに医者なのか確かめるんだ」って云ってやったら、また苦笑いだ。
嘘だった。ヒューが医師だろうが興行師だろうがどうでもいい。この変な舘から逃げ出すチャンスだ。開業医がいるくらいならプレストンって町はそれなりに都会なんだろう。ひとが大勢集まるところにまぎれこんで、なんとかガルトムーアにもどる手立てを探すんだ。
エスター卿が急がせたかいがあってプレストンには半時で着いた。あたしは馬車の窓枠に手をかけて眼を瞠っていた。はじめて見る都会だった。レンガ造りの三階建て、馬車どうしがゆうゆうとすれ違う大通り。中央広場には花車が出て、紳士が貴婦人に菫の花束を買ってあげてる。
あたしたちの馬車が停まったのは、通りに面した家の前だった。階段の上に玄関があって、たいそう立派な邸宅だ。馬車をおりるなりヒューとエスター卿は階段を駆けのぼる。迷ったけどあたしもついてゆくことにした。道々馬車の中でのヒューとエスター卿の会話から興味が湧いたのだ。卿の恋人ナン・イブリン嬢は、どうやら庶民の階級らしい。仕立て屋のお針子だったのを見初められたわけだが、もう一年以上も交際はつづいているのにエスター家の一族は認めようとしない。つまり身分違いの恋ってやつだ。
その心痛のせいかナンは病気になり、ヒューのメスマー舘に通っていた。新理論を用いたメスメリズムという治療法は、一見奇態だが、進歩的で効果は絶大。恋人ともどもエスター卿は熱い信頼を寄せている。ところが今日どういうわけかバーナード・ヒュゲットという内科医から、ナン嬢の治療は責任もって当院で行うので御心配なく、との言伝が送られてきた。ヒューとおなじヒュゲットという苗字。ヒュゲット一族はプレストンでも一、二を争う名門だという。
「バーナード、兄貴、俺の患者を返せ!」
診察室にヒューが飛びこんだとき、医者の手には、妙に細くて柄までギラギラ光る刃物が握られていた。
こいつがバーナード・ヒュゲット、ヒューの兄弟ってわけか、小太りだ。
ヒューとはずいぶん歳が離れていそう、額が禿げあがってる。癖のある髪は兄弟共通だけど、兄のほうは丹念に油でなでつけてある。時間をかけて凝りに凝ったタイの結びかたといい、弟とは大違いだ。
ナン嬢は長椅子に寝かされていた。ぐったりしていて意識はないようだ。額は石の彫像みたいで頬も透きとおるように白い。顔のまわりの髪の毛が汗ではりついている。
ぞくっとなった。ナン嬢の耳の後ろから落ちたのだ。床に転がってくねる。丸々と太った生きた蛭だった。
「医者なら恥を知れ、蛭に血を吸わせるとは」
「何を騒いでおる。おまえこそオカルトなんぞに溺れ、悪血を散らす処置も忘れたのか」
「オカルトではない、メスメリズムだ」
けれど兄のほうはせせら笑った。
陰気そうな猫背の男が来て、鋏みたいな器具で蛭をつまんで皿に入れた。皿には血がたまり、血の中で数匹の蛭がのたうっていた。今入れた蛭も身をよじらせて血を吐きはじめた。
エスター卿が青くなってる。あたしも思わず眼をそむける。ヒューが怒鳴る。
「まったく非科学的だ、そんなものは治療でも何でもない」
「何を云うか、道を誤ったおまえの尻拭いをしてやってるんだ」
「患者を横取りしてか」
「これ以上ヒュゲット家の体面を汚させんぞ」
バーナードが眼で指示すると猫背男が刃物を──メスというんだとあとからヒューに教わった、猫背は外科医でいつもバーナードから内科医が診るべきでない患者をまわしてもらってるらしい──ナン嬢へメスをさしむける。
「やめろ、血を抜いたって意味はない、彼女に必要なのは動物磁気だ」
「せっかく留学させてやったというのに、ベルリンくんだりまで行って覚えてきたのは魔術師の真似事か」
ヒューが飛びかかった。メスが落ちた。ほかの器具もテーブルから音を立てて落ちる。バーナードが壁の紐を引く。わらわらと下男たちが駆けこんでくる。ヒューをとり押さえる。「離せ、彼女に手を出すな」エスター卿も一緒になって叫ぶ。「彼女はわたしの婚約者です、わたしは断固、あなたの治療を拒否する」卿も男たちに押さえつけられてしまった。
「婚約者ですと? あなたのような御身分のかたがなんと嘆かわしい」バーナード・ヒュゲットはメスを拾った。
「プレストンの社交界は不名誉な噂で持ちきりですぞ。しかしご安心を。医師であるわたしの前では聖人も貧民も一個の患者、たとえどんなあばずれだろうとも、不肖の弟にかわって正当な医療を施してやりましょうぞ」
そのときだった、ナン嬢の眼がぱちりと開いた。その眼の前に、ちょうどメスの切っ先がさしむけられていた。
「人殺しいぃ!」長椅子から転げ落ちるようにしてナン嬢が逃げる。
「クソッ、さっさと押さえんか!」
バーナードの指図で下男がナン嬢をつかまえた。ナン嬢は叫んで手足をばたつかせる。猫背の外科医がメスをわたされ、いっそう背を丸めて迫る。忌々しげに吐き捨てたのはバーナードだ。「あばずれめが、あとで下剤もたっぷり処方してくれるわ」
やめろとヒューと卿が口々に叫んだ。けど体は下男たちががっちりとりついているから動けない。メスはナン嬢の肘の白くやわらかそうな内側、血管の筋が青く浮いたところへ触れようとしていた。
幸いだったのはあたしが女で、おまけに年端もいかない娘っこと見られたことだ。あたしは自由だった。誰もあたしをつかまえてなきゃとは考えなかった。突進する。まずは猫背を、そして鼻持ちならない医者野郎を、つづけて思いっきり蹴っ飛ばしてやった。不意打ちをくらわしてやったから二人とも簡単に転がった。
それからあたしは最も効果的で、でも気の毒な病人もいることだし、それほど被害のない方法を選んだ。その蓋つきの壷はさっきから目をつけてたんだ。蓋には無数の空気穴があいてる。ずっしり重いのをかかえあげ、投げつけた。ぶちまけられたのは大量の生き蛭だ。大の男たちが悲鳴をあげて逃げ惑う。
飛び跳ねて蛭をはらい落とす男たち。襟から入りこんだ蛭に身をよじらせるやつもいる。バーナードは蹴りどころがよかったんだろう、まだ床と仲良くしてる。その上を這いまわる蛭たち。ざまあみろだ。ヒューは大喝采、膝を打って喜んでる。
急いでナン嬢を運び出した。飛び乗ると同時に馬車は駆け出した。
ナン嬢が寝かされたのはメスマー舘の個室の診察室だった。ナン嬢は可哀相に興奮して、引きつけを起こしていた。それでヒューはソファに座らせるのを諦めた。ベッドに寝かせてあげたけど、手足を縮めて丸まってるんだ。「安心して、もう大丈夫」あたしは何度も云ってあげた。乱れた髪をかきあげて汗をふいてあげた。
背後でヒューの声がする。
「甲斐甲斐しいな。忘れるなよ、彼女はエスター卿の恋人だ」
「何云ってるのさ?」振り返らずにナンの手足をさすってやる。冷たいんだ、氷みたいに。
「おまえさんが蛭壷を投げるとはね、実にケッサクだ、いや助かったよ、感謝する」
「ナンが気の毒だっただけ、医者がどれほど偉いってんだ、云いたかないけどあんたの兄貴は下種だ」
「俺も同感だ」
思わず振りむいたら、ぎょっとなった。ヒューの恰好が例の男魔女のいでたちだったのだ。ごわごわとかさばる革の上着、銀色に光る魔法の杖。紫のマントだけはしていない。ときどき光って眼を隠してしまう眼鏡は相変わらずだ。
「さあ、どいてくれ」
「な、何する気」
「通手だ」
「ツウシュ?」
「宇宙極性の法則にのっとって磁気流体を注ぐのだ」
磁気流体。何度もこの言葉は使われていた。どうやらそれはヒューの独特な治療法の鍵となるらしい。
「治療を見ててもいい?」
「一つだけ誓えよ、蛭を投げないって」
おもむろにヒューはベッドに近づいていった。手に持った銀色の棒でそっと、けれど迷いなく、ナンに触れる。
ナンの背中がびくっとなった。引きつけの発作がまたはじまった。食いしばった歯のあいだから唸り声がもれ、それが突然甲高い叫びに変わり、とたん体が弓なりにそり返った。あたしはたじろいだ。だけどヒューは動じることなくナンの抵抗をうまくかわしながら、今度は額に棒をあてた。棒の側面で撫でている。
棒は徐々にさがってゆく。頬から首筋、そして肩へと、服の上を静かにすべってゆく。胸、腹、そして臍までくると入念に撫でる。
と、ナンが突如脱力した。手足がだらりとなって、体から完全に緊張が解けてる。
「起きて座ることができるかい?」
気だるげに頷くとナンは起きあがった。ベッドの端に腰をおろした。ヒューもむきあって椅子に座った。眼鏡をとって棒と一緒にテーブルに置く。
つづいて行なわれたことは、黙って見ていていいものか困った。だってヒューはあろうことかナン嬢の両膝を、自分の膝でしっかりと挟みこんだのだ。たとえ医師の治療でも相手は若い御婦人だ。けれどナンは慣れているのか恥ずかしがりもせず、ヒューと眼をあわせる。
ヒューもナンを見つめた。二人で見つめあってる。案外ヒューは睫毛が長い。ナンの瞳は熱っぽく潤んでる。病気のせいだとあたしは自分を納得させる。
ヒューの手があがった。両手の親指をナンの鳩尾に押しあてる。それから残った指を広げ、胸からゆっくりと撫でながらおりてゆく。臍のあたりにくると、やっぱり丁寧に手を往復させた。
蛭も瀉血も下剤もない、ただ撫でるだけだ。なのにナンの顔や腕に血の気がもどってきた。見るからに楽そうになった。そしてとうとう頬笑みを浮かべるようになった。
別室で待っていたエスター卿が呼ばれた。快復した恋人の姿にすっかり感動したようすだった。ナンを抱きしめてからヒューに握手を求める。
何度も何度も握手と感謝の言葉をくり返し、卿と恋人は帰っていった。あたしはまだ信じられない思いだった。
「まるで魔法みたい」
つぶやくと、ヒューはまた苦笑いした。
アレクサ5 するするとドレスを脱がされてしまう
あれから数週間、あたしはまだメスマー舘にいる。
ほんとうならすぐにでもガルトムーアにもどりたかった。けど、考え直した。ただガルトムーアに帰るだけじゃなく、ユースタス・ガルノートンとして正式に城に迎え入れてもらわなきゃ意味がない。でもワタスゲのブローチは奪われてしまったし、この状態で灰色の女のいる城へ正面から訪ねていくなんて馬鹿のすることだ。
まず情報を集めなくては。伯爵家について、灰色の女と魔女の呪いについて。そしてワタスゲのブローチもとりもどさなきゃ。メスマー舘には連日たくさんの患者が、それもあらゆる階級の人間が集まってくるから、何か知ってる者がいるかもしれない。
ヒュー・ヒュゲットは親切にいろいろ世話してくれた。部屋をあてがってくれ、食事もさせてくれた。傷を診てくれ、薬をくれ、服も買ってくれた。だけど驚いたことに見返りは要求しないんだ。あたしの事情もいっさい訊いてこない。好都合といえば好都合なんだけど、そうなるとなんだか居心地悪くて、掃除や洗濯くらいやってやろうかと思ったら、家事や下働きは弟子たちの仕事なんだそうだ。これも意外だった。弟子はみんな男。家事労働は女の、それも下層の女の役目だろう。だけどここには女中は一人もいない。先生であるヒュー自身も、洗面器に水をくんだり服を出したりしまったり、身のまわりのことは全部自分でやってる。ちょっとした料理なら自分でこさえてるときもある。こうゆうのを進歩的っていうんだ。
でも、おなじ進歩的でも、メスメリズムというやつは中々慣れることができない。メスマー舘は大盛況だ。毎日、小作人から貴族までつめかける。貧乏人からの診察料は期待できないけど、そのかわりエスター卿のような金持ちが熱烈な支持者となって、わざわざプレストンから馬車で通ってくる。ナン嬢に施していた『通手』は個室で行なわれ、ドクターと二人っきりになって密着して体じゅう撫でまわされる。なにやら恥ずかしいんだけど、ヒューは大真面目だし、また患者が男でも変わりなく誠心誠意撫でてるので、これもちゃんとした治療なのだと、今ではあたしも考えてる。
問題は大広間での集団治療で、最初にあたしが目撃したやつだ。
男も女も年寄りも若者も、裕福な者も貧しい者も区別なく、一つところでともに輪になってるのは確かに進歩的だ。ああやって紐でつないでるのは、磁気流体を循環させてるんだそうだ。広間の中央にすえられた、木でできた巨人の帽子箱みたいなのは、磁気桶といって、中に貴重でありがたい磁気がいっぱいつまってるんだそうだ。そしてヒューや弟子たちが持ってるのは、やっぱり磁化した金属棒で、着こんだ革服は──あたしが魔女の衣裳と勘違いしたやつだ──体内に貯えた磁気を逃さないためなんだそうだ。
磁気桶を囲み、天板から突き出た金属棒をつかんで具合の悪いところへ押しあて、全員でつながって磁気の鎖となる。さらにはこれも磁化したグラスハーモニカが演奏されると、天使の歌声のような妙なる調べとともに音波が部屋を満たし、流体を流れやすくする。
そうして、ついにひとびとは次々と奇跡を体験するのだ──あたしの眼に映るのは、奇声、大笑い、錯乱、すすり泣き、痙攣、卒倒だけど。
だけど一連の騒ぎが鎮まったあと、みんな晴れ晴れとして、訴えていた不調が治ってたり、少なくとも改善にむかってたりしているから不思議だ。
おまけにもう一つ、こんなのも目撃した。その初老の男の患者はいつも不機嫌で態度が偉そうで、怒鳴り散らしてた。でもバケーの棒につながって治療がはじまると、とたんにひとが変わったみたいになるんだ。ただ大人しくなるだけじゃない。ヒューが右をむけといえば右をむく。お辞儀をしなさいといえばお辞儀をする。そばにいる患者仲間はあなたの友人なのだから礼儀正しくしなさいと命じれば、従順に従う。さっきまで肘がちょっとあたっただけでも文句云ってたのに、物腰はやさしく、言葉遣いは丁寧、思いやりに満ちたお爺さんに変身する。これはときどき起こる現象で、動物磁気が人工的な夢遊症っていうのを引き起こしたんだそうだ。夢遊症になった人間は、治療者の意思どおりに操れるらしい。けれど覚醒したら、またもとにもどってしまう。老紳士も扱いづらいクソ爺いに逆戻り。
「そもそも、動物磁気って何さ」
ゆでた羊肉、ゆでたにんじん、じゃがいも、かぶ。オレンジとビスケット。プディングにグレイビーソースを好きなだけ。メスマー舘の食事は素朴だけど量はたっぷりだ。
「あらゆる生物が持っている特性だよ、偉大なるメスマー博士の発見だ。天体とこの地球の大地、そして我々を含め命あるものは互いに影響しあっている。具体的には流体によって伝達されるんだが、生物にはその流体をとりこむ特性があるんだ」
いつものようにヒューは自分で運んできて食べている。あたしも厨房から食べたいだけ盆にとって持ってきた。ここは食堂で、メスマー舘の人間は朝食以外は自分で時間を見つけて食べに来なきゃならない。それくらいこの医院は忙しいってことだ。
「磁気流体は人間の神経を通って循環している。そこに障害物があると流体が滞って、人体に様々な変調をきたす。それが病気だ。メスメリズムは動物磁気を使って神経の障害物をとりのぞく治療法だ。メスマー博士は残念ながら五年前に亡くなってるが、その理念はベルリン大学に受け継がれ、俺もそこで学んだ」
あたしが手をのばしたエールをヒューがとりあげた。かわりに自分のかじりかけのソーセージを放ってよこす。
「その動物磁気ってのはどんな病気でも治せるの?」
「まさか、それこそ魔法だ。メスメリズムは科学だよ。直接的に治癒するのは神経の病気だが、体内の流体の流れやリズムを正してやることによって、間接的にそれ以外の病も快方にむかわせるんだ。不眠症、痙攣発作、頭痛胃痛歯痛などのさまざまな痛み、悪気、生理不順、中風に間欠熱。メスマー博士は盲目の女性ピアニストの視力を快復させたと記録に残っている」
聞けば聞くほど魔法との違いがわからない。ソーセージは美味い。食べかけだろうが気にしない。
「だが、おそらく君には効かないだろう」
「何? あたしは病気なんかかかってないよ」
妙な間をおいてからヒューは頷いた。
「そうだな」
おもむろに、あたしのエールを飲み干してしまった。
弟子の一人が急ぎ足で入ってきた。革の上着を着てるから治療中だったとわかる。ヒューの前までやってきて、あたしをチラチラ見て云いにくそうに、「分利のあと目覚めない患者がいらっしゃいます」
『分利』というのは磁気桶につながって集団治療をしているとき、手がつけられなくなるほど興奮したりぶっ倒れたりすることだ。はじめて見たときはあたしも肝がつぶれたけど、当の本人は目が覚めるとけろっとしていて、一人で歩けないほど弱ってたのがスキップでもしそうな足取りで帰ってゆく。
「患者はケンドリー夫人です、貴賓室へ運ばせてあります」
なんでか小声になった。悲しそうだった。反対にヒューの片眉がぴょんとはねた。
ヒューが弟子と出ていった後、『そして誰もいなくなった』の歌を三回唱えてから、あたしも食堂を出た。駆けたりせず普通に歩いて、でも自分の寝室にはもどらず、裏口から外へ出る。それから走った。
貴賓室だって? いつもは分利室に運んでるじゃないか。
分利室というのは、『分利』を起こした患者を介抱するための別室で、桶の大広間の奥にある部屋だ。そこで患者を根気よくなだめて正気にもどしてやるのだ。だけどケンドリー夫人とやらは分利室じゃなく、貴賓室に運んだという。
あたしは貴賓室の窓まで来ると壁にはりついた。
窓はカーテンが引かれていて、でも何を急いだのか完全にはしまってなかった。隙間から見えるのは、壁紙に描かれた優雅な田園風景、くねっとした肘掛けの長椅子、そして椅子の上に乗っかってる女の細い足。寝かされてるんだ。爪先を革でくるんだ高級な靴を履いている。
ヒューの声だけ聞こえる。
「メスマー舘は劇場じゃあないんですよ、ケンドリー夫人」
女の足がもぞもぞ動いた。
「おまけにあなたときたら、何度やっても気絶したふりが上達しない」
「だってあたくし、先生に通手をお願いしたいのに、いつも断られてしまうんですもの」甘ったるい声!
「真に治療を必要としているひとが大勢いるんです」ヒューの声は素っ気ない。
「あたくしだって痛くって仕方ありませんのよ、ほらここ、ここんところですわ」
女の爪先の片方があがって、振られる、くい、くい、くい。
もう一回、くい、くい、くい。
ヒューが近づいてきて、覗いてるあたしにもその姿が見えた。跪くと、誘ってた女の足首をつかむ。
「まったくしようのないひとだ」
はだけたドレスの裾。脱がされて床に放られたドロワーズ。ヒューの姿は見えない。女のスカートの中にもぐりこんでいるからだ。人間も羊の雌も、発情したときのあえぎ声はかわらない。
何が科学だ、磁気流体だ、助平医者め。
窓から離れ、意味もなくうろつく。覗き見なんかするんじゃなかったと後悔したってもう遅い。目についた地べたの石を思いっきり蹴る。
転がった石の先、うずくまっているひとがいた。患者さんかと走っていったら、ナン嬢じゃないか。
「どうしたの、また発作?」
首を横に振る。口を押さえて冷や汗かいてる。
「気持ち悪いんだね、待ってて」
急いで駆けもどった。貴賓室の窓を叩く。「ヒュー、そんなことやってる場合じゃないぞ!」
飛びあがったのはケンドリー夫人だ、意外と年増、唇が厚くて眼が垂れてる。飛んだ拍子にスカートが勢いよくめくりあがったから、また悲鳴をあげた。ペティコートをかきわけヒューが出てくる。眼鏡が片耳にぶらさがってる。かけ直しながら窓をあけた。
「覗き見とは行儀悪いな」
「ナン嬢が、」
あとは指さすだけでよかった。ヒューは貴賓室から消え、一分もしないうちに玄関から弟子たちとともに駆け出てきた。
ナン嬢は運ばれていった。それと入れかわるようにしてケンドリー夫人がメスマー舘から出てきた。身なりもすっかり整え直して、すたすたやってきて、あたしの真ん前で止まった。
頭のてっぺんから爪先まで見おろされた。視線がまた顔にもどって、汚らわしいとばかりに睨みつけてくる。そして唐突に、ああっと天を仰いだ。
「由々しき事態だわ、許されるべきではないわ、こんな小娘があたくしと張りあおうだなんて」
許されないのはあんたの身持ちじゃないの。夫人というからには亭主がいるんだろう。第一、張りあうって何さ。
「先生はあたくしだけのものだったのに」
扇子の陰で嘆いて見せる。いちいち大袈裟な女だ。
扇子を翻してはよよよと泣いて去っていく背中にベーしてメスマー舘にもどった。腹立ちまぎれに部屋のドアを蹴ってあける。ヒューが弟子とキスしていた。
ヒューにはナン嬢の容態を聞きたかったのだ。なのに目に飛びこんできたのはこの光景だ。男同士でキスだなんて思いもよらなかったから何をしているのか呑みこめず、まじまじと見てしまった。
やっぱりキスだ。どこからどう見てもキスだ。ヒューが腰にまわした手で抱きよせ、相手もヒューの首に腕をからませて、あわせた唇と唇が互いを味わいつくそうとしている。さっき、ケンドリー夫人を貴賓室に運んだと呼びにきた弟子だ。名前は確かジリアン。ジリアン・ラシェル。そういえばヒューの毎日の予定を管理したり余所行きにアイロンをかけたり、この男がやってた。
うっとりと閉じていたジリアンの眼が開いた。あたしを見つけ、うわっとヒューから飛んで離れる。ヒューは涼しい顔だ。
「こういうときはお邪魔様と云って、すぐさまドアを閉じるのが礼儀作法なんだがな」
「お邪魔様っ」
理解できない、頭がこんがらがる。ついさっきまでケンドリー夫人と乳繰りあってたんじゃないのか。しかも男と! 礼儀作法だって? どの面さげて云ってるんだ、縛り首になったらどうする!
ナン嬢が運びこまれた部屋へ行くと、エスター卿が頭をかかえて座りこんでいた。ソファが置いてあるここは控えの間だ。ナン嬢はこの奥だろう。
卿の顔があがった。あたしを見て、わざわざ立ちあがった。
「アレクサ嬢には二度もナンを救っていただいた、感謝してもしきれません」
「具合はいかがですの」レディとして扱われたらレディとしてこたえる。これが礼儀作法ってもんだよ、ヒュー。
「あなたに隠しても仕方ない、彼女は妊娠しているのです」
「お腹に子どもが?」
「ヒュゲット先生の見立てによると四ヶ月だそうです。無論わたしの子です。先ほど倒れたのは妊婦にありがちな軽い貧血で今は眠っています。ゆっくり休めば大丈夫だそうです」
「よかった、安心しましたわ」
ところがエスター卿は奥の部屋への扉を見つめてため息をついた。そしてまた両手に顔をうずめてしまう。
「何を心配していらっしゃるんですの」自分の声音に吹き出しそうになる、「ナン嬢は大丈夫なのでしょう? お腹の赤ちゃんも」
「ええ、もちろんですとも! 彼女には丈夫な赤ちゃんを産んでほしい、それはわたしの偽ざる気持ちです、間違いありません、ですが、」
そうゆうことか。エスター卿のナン嬢への愛は嘘ではないけれど、紳士としての体裁やしがらみが二の足を踏ませてるんだ。
「目的地は遠くだが見えている、そこまでの道も知っている、だがわたしには馬車がない、そんな気分です」
「馬車がなけりゃ自分の足で歩けばいいのに」何でこんな簡単ことがわからないんだろう?
卿は驚いた顔をし、それから寂しげな笑みに変わった。
「さすが進歩的なヒュゲット先生の婚約者でいらっしゃる」
婚約者?
「アレクサ嬢の貴重な助言に、そしてなによりナンを二度も助けていただいたことへ、お礼をしたいのですが」
あたしがヒューの婚約者って云った?
「何がいいでしょう、何でもおっしゃってください」
すかさずお願いした。
「なら、ガルトン伯爵の家について教えてください。ご存知ですかガルトン伯爵」
「名前だけは。確かヨークシャの古い家系だ。しかし、またなぜ?」
「あたしの親戚の娘がそこの女中なんです、なんでもこの春に伯爵様が亡くなったとか。勤めている家のご当主の不幸となると、少なからず使用人にも影響が出てくるものでしょう? 解雇されるんじゃないかって従姉妹が不安がっているんです。伯爵家のご内情はどうなのか、ご家族はどんなかたたちなのか、ほかの使用人についても評判とか噂とか」
言い訳は用意しておいたから、すらすらと出た。ほんとうはあたしが捨てられた十三年前のことや灰色の女についてや、もっと具体的に訊きたいところだけれど、下手に探ってあたしの存在がむこうに伝わってはまずい。奉公している従姉妹とは、あの頭の足りない娘を思い浮かべて話した。あの娘だったら、もし何かの拍子に遠縁を名乗ってるあたしの話が伝わっても、にたにた笑ってるだけだろう。
調べてみましょうと卿はうけあってくれた。ほどなくナン嬢が目を覚まし、あたしがヒューの許婚者って話を訂正する機会はなかった。どうせ卿の勘違いだろうからかまやしない。
メスメリズムの患者はまだたくさん残っていたから、すべての診療が終わるころには夜になっていた。でも、時間をおいたことであたしの気分も落ち着いただろう、なんてヒューが思ったとしたら大間違い。混乱したこころの整理をつけたら怒りが軽蔑に変わっただけだ。ヒューが夜食を持って寝室にあがってきた。
「もしまた兄貴のところにかつぎこまれでもしたら大変だ」ナン嬢の話だ。盆をテーブルに置いてスモモのパイをすすめてくる。
「貧血気味の妊婦なのに血を抜くと云い出しかねん。瀉血やヒルのどこが治療なんだ、あんなものまじないと変わりない」
あたしはパイを押し返す。懐柔されるもんか。
「エスター卿もいよいよ思い切らんとなあ。あの二人はとっくに結婚して然るべきなんだが、身分というやつはやっかいだ、卿のほうが及び腰でね」
「思い切れない原因は怖がってるからじゃないの」
ヒューがあたしを見たから、鼻に皺をよせて云ってやった。
「どんな貞淑な妻でもいつか浮気するんじゃないかって。なんたってそばに実例があるもの」
「昼間のことを云ってるのか?」
「通手ってのは年増女の欲求不満にも効くんだね」
ところがヒューはしれっとして、
「かのメスマー博士が金の問題に煩わされずにすんだのは、年上の裕福な未亡人と結婚したおかげだ」
「ケンドリー夫人も未亡人?」
「夫人はきわめてデリケートな病に悩む上客だ、おまけにケンドリー氏は治安判事、判事はあの妻に頭があがらない。メスメリズムを敵視してるのは俺の兄貴だけじゃない、プレストンの医者はみな古い常識にとらわれた石頭ばかりだ、はなから理解しようとしないんだ。それどころか俺を廃業させたがってるから、醜聞一つで命取りさ。けど、治安判事夫人が味方なら心強いだろ?」
そのいかれた夫人との関係は醜聞じゃないのか?
もちろんあたしがヒューの品行について、あれこれいう筋合いじゃない。でも、どうしてだか、おもしろくない気分だった。
「なんだ、妬いてるのかい?」
「馬鹿、そんなわけないだろ、ただ──」
潮時かもしれない。メスマー舘は居心地よすぎた。あたしはガルトムーアに帰らなきゃならないんだ。だけどワタスゲのブローチは見つかっていない。宝石の行商をやってるって患者にそれとなく訊いてみたこともあるけど、手がかりはいっこうにつかめていない。
「嫉妬だろ?」
「黙んな」
ふと思い出した。
「そういえばあの女、ケンドリー夫人、妙なこと云ってた。自分とはりあうなんて許せないって、まるであたしが恋敵みたいに」
ああ、それね、と頷くヒュー。「アレクサ嬢は俺の恋人で、いずれ結婚する予定だからだ」
なにっ?
「エスター卿もそんなこと云ってた、あんた、まさか」
「嘘も方便。独身の男がうら若き乙女を家に置く理由といったら、それしかないだろう」
「そんな出鱈目云ってまわってたのか。どうりで弟子たちの態度も慇懃だったわけだ、ケンドリー夫人には睨まれるし、まるで野良犬の死骸にたかるウジ虫でも見るみたいにさ」
「野良犬の死骸というのは俺のことか?」
「死骸のほうが嘘つかないぶんましだよ、あんたは嘘ばっかりだ」
メスメリズムなんてへんてこな医術をつかうけど、優秀で誠実な医者だと思ってた。それが金めあてのとんだ間男だ。しかも愛人は男。そのうえあたしが許婚だって? 怒りを通りこして笑えてくる。
「嘘は嫌いかい?」
「いいや、嘘は友達。あたしのまわりには嘘しかない」
女乞食が捨てた赤ん坊のあたし、村でこきつかわれていたあたし、アレクサという名のあたし、どれも嘘のあたしだった。ほんとうのあたしはユースタス・ガルノートン。伯爵家の奥方様エリザベスの娘。
それをバートルはずっと隠してた。やっと教えてくれたと思ったら、あたしをガルトムーアから追い払った。あたしの唯一の味方だったのに、それも嘘だったってわけだ。
「じゃ、はじめての真実を紹介してやろう」
ヒューが立った。それから、あっという間だった。あたしをひっぱって立たせ、ひょいと抱きあげ、ベッドへ行き、ベッドに放り出し、ベッドの上であたしの体はちょっと弾んで、そこへヒューがのしかかってきた。
「え? え?」
「はじめまして。アレクサ嬢はヒュゲット先生の恋人、という真実です」
「どうゆうこと?」
「名実ともに恋人の関係になるのさ」
唇を吸われた。舌まで引きこまれ、からまれ、噛まれた、軽くだけど。体から力が抜ける。頭の芯がしびれてくる。眼鏡が邪魔だ。
唇が離された。あたしはまだくらくらしていた。背中のボタンがはずされていくのを、ぼんやりと感じてる。全部はずし終えてからヒューは眼鏡をとった。
長い睫毛の眼が現れる。瞳は黒じゃなく、ほんとうは濃い青色なんだ。ほんとう? 跳ね起きた。ほんとうだって? あたしにもほんとうのことがあった。あたしは醜い。バケモンと呼ばれてた。まっとうな男ならあたしを抱こうなんて思わない。だから村の男たちもあたしに手を出そうとしなかった。あたしを手篭めにしようとしたメイナスだって、いざ事に及んであれを見て、とたんにその気をなくして嘲笑ってた。
ずれ落ちた服をかきあわせ、ベッドの隅までさがる。
「どうした、嫌なら無理にとは云わんが」
「だってあんた、ほら、あれだよ、彼、彼はどうすんのさ」
「ジリアンか? 気にすることはない、彼にもちゃんとかわいい婚約者がいる」
何がちゃんとなのか訳がわからない。が、そっちはどうでもいい、ヒューが迫ってくる。
「これはどうゆう冗談? だってあんた、知ってるくせに。怪我を治療してくれたとき、見ただろ」
「見たよ。だから?」
「同情されるぐらいなら気味悪がられるほうがいい」
「同情じゃない、興味だ。俺は君に興味がある」ふたたびヒューがあたしを押し倒す。「安心しろ、気味悪くなんかないさ、俺は医者だ」
するするとドレスを脱がされてしまう。シュミーズもはぎとられてしまう。あっそう、そりゃあ医者が気にするのは女の美醜でなく患者の症状だもんね、せいぜい皮肉を云ってやった。でも虚勢だって自分でもわかってる。
「じゃあこれは診察ってこと?」
すると、
「診察というより実験だな」
実験? 馬鹿にすんなっ、と怒鳴ることはできなかった。ヒューがいきなりあたしの胸に口づけたからだ。
とろけそうだった。まだぺちゃんこの胸なのに。乳首を吸ってる。反対の乳首は指でつまんだり、つぶしたりして遊んでる。
ドロワーズを脱がされているのに抵抗できなかった。
アレクサ6 あたしはやられたぶんはきっちりやりかえす主義だ
「あら、いけない。レティキュールを忘れてきてしまったわ、誰か馬車までひとっ走りしてとってきてくださいな」
誰か、と云ってるけど、ケンドリー夫人が見てるのはあたしだった。
舘が忙しいときはあたしも手伝うようになっていた。患者を案内したり、磁化した水で入れたお茶を注いでまわったり、馬車で待っているお供のひとへ言伝をとどけに行ったりもする。患者も出入りの商人たちも、あたしに会えば丁寧に挨拶してくれる。今ではメスマー舘でのあたしはこんなふうに容認されてる。少々風変わりなアレクサ嬢。ヒュゲット先生のはねっかえりの婚約者。二人はあつあつ。ヒューのような階級の人間が、まだ式もあげておらぬうちから寝室を一緒にするなんて世の顰蹙を買うところだけど、そこはそれ、進歩的なメスマー舘だからみな知らないふりをしてくれる。
もちろん婚約者なんて方便、結婚なんてヒューは本気で考えてない。あの女たらしはただ、あたしとベッドで遊びたいだけ。あたしだってドクターの奥様に納まろうなんてだいそれたこと考えてない。いや、あたしはガルトン伯爵家の娘で貴族の令嬢だから、ちっとも身の程知らずじゃないか。ともかく、伯爵家についてはエスター卿に調べてもらえることになったけど、ワタスゲのブローチのほうはまだなんの手がかりもない。もうしばらくはねぐらと食いもんを確保するため、ドクター・ヒューの婚約者という立場を利用させてもらおう。
と、自分に言い訳しなくちゃなんないほど、あたしはメスマー舘での暮らしにとけこみ、そしてヒューとの夜に夢中になってた。だって、男が女にくれるもんは拳固だけじゃないって、はじめて知ったんだ。考えたら不思議だ。痛めつけて地獄を見せるのも、やさしく天国の気分を味わわせてやるのも、使うのはおんなじ手なんだ。
で、ヒューは天国のほうの使いかたしかしないので、あたしもずるずるとメスマー舘にいつづけることになった。ジリアンと顔をあわすとさすがに気まずい。おなじ家の中で寝起きしてるんだから、あたしとヒューの関係に気づかないわけがない。けどジリアンは立派な紳士だった。ほかのひとにそうするように、あたしに対しても礼儀正しく親切だった。一度、彼とちゃんと話そうとしたんだ。謝るってのも変だけど、あたしの気持ちを伝えたかったんだ。そしたらジリアンは、長くて真っ直ぐの恰好のいい指をそろえて立てて、あたしの言葉をさえぎった。そうして、わかっているんです、というように頷いた。あんな清らかな顔、見たことがない。天使がもし地上に現れたとしたらきっとこんな姿だろう。柔らかそうな金色の髪、澄んだ水色の瞳。頬笑んでた。少し淋しそうだった。
さすがにその夜はあたしはヒューとは寝なかった。無頓着なヒューに、そして自分にも、無性に腹が立った。こうしてベッドをともにしてる自分たちが、極悪非道の悪人みたいな気がしたんだ。だけどそんな禁欲も二日とつづかず、日々は罪深く、愉快に、忙しく過ぎていった。
そうしてこの日もあたしは、弟子たちに混じって診療の手伝いをしてたのだ。集団治療の大広間で、席に座った患者を順番にロープでつないで、せっせと磁気の輪をつくってたんだ。すると突然ケンドリー夫人があたしに忘れ物をとりにいけと云いつけた。
「できるかぎり急いで頂戴」
ちょうどヒューは退席していた。あたしはべつに平気だった。ケンドリー夫人の嫌がらせにはもう慣れっこだ。無視されたり無能呼ばわりはいつものこと、わざとロープを落とされ、拾おうとしたら手を踏まれたこともある。だから今日も、おおかた夫人の自家用箱型馬車はメスマー舘からうんと遠くに停まっていて、さんざん走らされるってなとこだろう。
思ったとおり、黄色い落ち葉が吹き溜まった道のはるか先に、やっと馬車を見つけた。走ってきたあたしは肩で息をし、御者は居眠りしてる。
馬車の窓から中を覗く。からっぽだ。誰もいないし、レティキュールもない。
「ポリーさんはっ?」
驚いた御者が帽子を落しそうになる。
「レティ、キュール、」息が切れていっぺんに話せない。「ケン、ドリー夫人、忘れたって、ポリーさん、どこ?」
ポリーとはケンドリー夫人の侍女だ。侍女はいつでもどこでも主人につきそってる。レティキュールは気どった婦人がハンケチや化粧道具なんかを入れて持ち歩く手提げだから、本人の手元になかったら持ってるのは侍女だ。
「あんた、アレクサさんかね、メスマー舘の先生の婚約者の」
そうゆう御者ははじめて見る顔だ。鼻の頭にでっかい疣がある。まったく見栄っ張りの金持ちってのは、従者が何人もいることを見せびらかしたくて、とっかえひっかえ連れてくる。
けど使用人のほうはご主人様よか気さくで親切だった。「ポリーは奥様のお使いで香水店へ行ってるよ」帽子をかぶり直しながら教えてくれた。
「香、水店、」息を継ぎ継ぎ、「どこの」
「プレストン」
やられた。無駄足踏まされた。けど怒るより呼吸するのが精一杯。
すると御者が気の毒がってくれたのか、
「乗りな、プレストンまでつれてってやろう。どうせ暇なんだ、奥様のこれが終わるまで」
そういって肩をくねらせて、実に上手いことメスメリズムを受けてる夫人を真似て見せるから、つい笑ってしまった。
手ぶらでのこのこ帰って意地悪が成功したと夫人を喜ばせるより、あるはずのないレティキュールを突きつけてやったらどんな顔するだろう。こりゃ愉快な思いつきだって、そのときあたしは思ったんだ。
プレストンの町に入ってかなりたつのに馬車は止まらなかった。だんだん通りの幅が狭くなり、建物も小さなのが立てこむようになってきた。前にヒュゲットの兄からナン嬢をとりもどしにいったときと、ずいぶん雰囲気の違う街並みだ。看板やウィンドウのカーテンはやたら派手で、でも歩いている人間はあまり見あたらず、いてもコソコソ去ってゆく。
いくらなんでもここが香水店のわけないな、ってところに馬車は止まった。
平穏なときがつづきすぎて、あたしは頭が呆けてしまってたらしい。ここまできてもまだ、御者が道を間違えでもして、いったん止まってから方向転換するんだろう、なんて思ってたんだ。
いきなり扉があけられた。腕をつかまれ、ぐいっと引かれた。
御者があたしを馬車から引きずり出したのだった。踏み台が出されてなかったので、あたしは地面に投げ出された。痛みに呻く間もなくまたひっぱりあげられる。
店につれこまれた。いや、店かどうかわからない。ひとはいないし商品だってならんでない。薄暗かった。カーテンが閉めきってあるのだ。どぎつい緑やピンクのカーテンが。何だろう、この匂い。ツンとして甘ったるくて、でも腐ってるような。
御者があたしをつかまえてないほうの手で乱暴にカウンターを叩いた。
「ちょいと早すぎやしませんかね、お客さん」奥から出てきたのはまだ陽も高いのに夜会用のドレスを着て、裸の肩に真紅のレースを巻きつけた女だった。垂れた下目蓋と筋ばった首、羽をむしった鳥そっくりだ。
「娘たちはまだお化粧もしておりませんのよ」
「部屋を借りるだけだ」
「ここどこさ、何のつもりだよ!」叫んだのはあたしだ。
「騒ぎは困りますよ」そう云いながら皺を吊りあげて冷笑している女主人。
「これで眼と耳をふさぐんだな」バラバラとソヴリン金貨が投げつけられる。さらにもう一枚「ほら、口のぶんもだ」
どんどん階段をのぼってく。離せ、いやだ、誰か助けて。あたしは叫ぶが、もちろん女主人はひっこんでしまってる。二階は狭い廊下がのび、突きあたりまで両壁に扉がならんでる。
「ケンドリー家の御者がこんなことして治安判事の面目をつぶす気?」
「ケンドリー家の御者? おれが?」
笑い出した。
「ケンドリー夫人は今日はメスマー舘へは自家用馬車でなく、貸し馬車でお越しだ。おまえは自分の評判を心配したほうがいいぞ、なにしろこれからおれとねんごろになるんだから。さて、婚約者が知ったらどうなるかな」
しまった、はめられた、ケンドリー夫人の罠だ。
「聞いて、ほんとはヒューとは婚約なんかしてないんだ」
「そんなことたぁどうでもいい、こんなガキだが女とやって、おまけにおれは自由放免だ」
あたしの肩をしっかりつかまえて壁に押しつける。顔を近づけてくる。鼻の頭の疣があたしのほっぺたに触れそうだ、でっかくて醜い疣が。
「さあ、おれを呼んでみな、ロイドって、甘えた声で」
疣をつまんで厭というほどひっぱってやろうか。
「たいした面構えじゃねえか。だが、おれを怒らせないほうがいいぞ、自分でも何するかわからんからな。質屋の爺いだって口の利きかたに気をつけるべきだったんだ、そしたらもうちっと長生きできたし、おれだって牢に入ることはなかった」
「あんた、ひと殺しなの、脱獄してきたの」
「脱獄を手引きしたのはおまえさ、なんたっておまえはおれの情婦なんだからな」
ケンドリー夫人と取り引きしたんだ。逃がしてやるかわりにドクター・ヒュゲットの婚約者をさらって辱めて濡れ衣を着せろって。亭主の職場に行けば、卑劣な取り引きにふさわしい相手はごろごろしてるだろう。
唾を吐きかけてやった。ちょうど鼻の疣に命中した。男の、ロイドの、形相が変わる。が、顔をぬぐおうとしたのは失敗、その隙にあたしはロイドの腕から抜け出した。
けど、足をひっかけられた。床に叩きつけられた。すぐさま起きる。起きたつもりが宙に吊りあげられる。腰をかかえて持ちあげられたのだ。「おろせ、離せ」「黙れ、この糞アマが」手近なドアをあける。あたしを小脇にかかえ部屋に入る。
きゃあと悲鳴をあげたのは、あたしじゃない。ベッドにいた女だった。
女は顔は白粉がぬりたくられていて、でも体は裸で、シーツをはねのけて起きた拍子に二つの胸がぽろんと出たから、ついあたしは眼を瞠ってしまった。
けれども、ほんとに仰天したのはそのあとだ。女の横で眠りこけている男。忘れるものか、忘れるはずもない、あののっぺり顔、あたしを馬車から捨てた鋏研ぎの甥だ。
さらに首をめぐらせると反対の壁にもう一つベッドがある。ううん、寝台じゃなくマットレスだけだ。マットレスが床にじかに置いてある。そこで毛布をかぶって寝ていた。禿げ頭の下のやけに立派な尖った鼻。鋏研ぎのじいさんだ、あたしから金とワタスゲのブローチを奪った盗っ人爺いだ。
ようやっとのっぺり顔の甥っ子が眼を覚ました。「な、な、なんだなんだなんだ?」
ロイドが舌打ちする。
「で、で、で、で、出てけ、ここはおれの部屋だ、おれが借りてんだ」
甥っ子も裸だった。慌てて隣の娼婦ともどもシーツをかぶる。あたしが誰なのか、まるで気づいてない。でもそれも当然かもしれない。あのときのあたしは薄汚れた乞食娘、今のあたしの装いは良家のお嬢さん、別人だ。
「出てけ、出てけ」甥っ子はそればっかり、娼婦がまた叫ぶ。ロイドが怒鳴り返す。「騒ぐな!」
「ねえロイド、」
あたしはその胸板を撫でまわしてやった。
「部屋を間違えたようよ、お邪魔しちゃ悪いわ、早く出ましょ」
驚いたロイドが手をゆるめたので、あたしは床に降りることができた。でも逃げることはせずロイドと腕をからませる。
「さあ早く、あたしたちの部屋につれてって」
眼を剥いてあたしを見るロイド。かまわずぴったりくっついてやる。よりそって二人で出てゆく。ドアがしまる。悲鳴もわめき声ももう聞こえない。
「どうゆう風の吹きまわしだ」
「抵抗しても無駄だもの、だったらこの状況をうんと利用しなきゃ。あんた、すっごく強いね、鼻の疣もとってもかわいい」
「おまえも中々のタマじゃねえか、変わり身が早いこった」
「そりゃあドクター・ヒュゲットをたらしこんだ女だよ。さあ、あたしの味、試してみて」
ドアをあけると今度は空き部屋だった。
「ねえ、まず乾杯しない? 喉かわいちゃった」
「たしかに喉がカラカラだ」
「階下に行ってエールもらってくるよ」
「おっと、その手は食わんぞ、逃げる気だろ」
「ふん、じゃああんたがとってきてよ、大の男が女中の真似してね」
「おれを怒らせてなんとか階下へ行こうとしてるな、女の浅知恵ってやつだ。いいか、おまえは待ってるんだ、逃げるなんて考えるなよ」
「ふん」
「二階には出口はない、階下は玄関も裏口も、女将に云って鍵をかけさせるからな」
「ふんだ、逃げたりしないのに」唇とがらせてすねて見せる。
「ハハハ、おれは慎重な男なんだ」
ドアをしめられた。足音が去った。あたしは窓に走った。
見おろすと下は裏路地で人通りはなかった。左右はと見ると、これとおなじ形の窓がならんでる。窓には柵がついてる。なんておあつらえむきな柵。
ベッドまでもどってシーツをはいで引き裂く。
そうしてロイドがジョッキを手にもどってみると、部屋は空っぽ、慌てて駆けよったのは風にカーテンが揺れている窓で、覗くと柵に裂いたシーツがむすんである。シーツは下の路地まで垂れ、いかにもたった今誰かがつたって降りていきましたよ、とでもいうように揺れている。ジョッキを投げつけ椅子を蹴り倒し罵るロイド、それから逃亡した娘を追って部屋から飛び出してゆく。
その大騒ぎしている音を、壁をへだててあたしは隣の部屋で聞いていた。窓によってカーテンの陰からこっそり見おろしたら、ちょうどロイドが玄関から駆け出てゆくところだ。ちゃんと云ったのに、逃げたりしないって。でも部屋を移らないとは云わなかった。
路地のむこうへとロイドの姿は完全に消えた。そう。この状況をうんと利用してやらなきゃ。あたしは廊下へ出ようとドアをあけた。めざすは最初に飛びこんだ部屋、鋏研ぎの二人組みがいる部屋だ。
すると、ちょうどその部屋のドアが開いた。あたしは急いでまたひっこみ、でもドアは完全にはしめないで隙間から覗いた。誰か出てくる。
「もうッ、ちょっとは休ませてよ、三日三晩もつきあってやったでしょ」
女が靴音も高く去ってゆく。今度は裸じゃない、ちゃんとドレスを着ている。スカートのお尻が左右に振られる。つい、さっき見た裸が思い出され赤くなってしまう。
女が階段を降りていってしまうと、あたしは足音とドアの軋みに注意して廊下へと出た。
鋏研ぎの部屋の前まで行ってドアに耳をくっつける。中で甥がぶつぶつ云ってる。だけどそれもそのうち聞こえなくなった。鼾が二つ、爺いと甥と、かわりばんこに。
静かにドアをあけた。鼾の音が大きくなった。忍びこむ。ベッドを見るとやっぱり眠りこけてる。毎晩遅くまで遊んでるんだ、あたしから奪った金で。仕返ししてやりたかったけど時間がもったいない。とにかく探さなきゃ。
上着が脱ぎ捨ててあった。なんとまあ分不相応に高級な品だ。ポケットをさぐってみる。出てきた。金貨の袋。あたしの金を返してもらう。バートルからもらったぶんを抜く。が、ちょっと考え、袋にもどして袋ごと自分の胸もとに押しこむ。やっぱり全部もらっとこう、これが仕返しだ、まったく足りないけどね。
ポケットをさぐり直す。手紙が出てきた。まだ封をあけてない。ピンときた。これはバートルからわたされた手紙じゃないだろうか。灰色の女が持ってきて、伯爵家の奥様、あたしの母さんが書いたと云っていた。そしてバートルに念を押していた。この二人組がガルトン伯爵の城に来るときに必ず持参させろと。これも胸に押しこむ。
だけど肝心の物がなかった。ワタスゲのブローチ、あたしが伯爵家の娘ユースタスだと証明してくれる品。ポケットはもう空だ。シャツを拾いあげ振ってみる。ズボンも振ってみる。爺いの服も見てみる。こっちは椅子の背にまとめてかけてあった。上着、シャツ、ズボン、チョッキ、全部探したがどこにもない。
考えてみる、筋道を立てて。金貨と手紙はポケットに持ってた。その二つよりブローチは、こいつらにとって大切じゃなかっただろう。売っぱらっちまった? そうかもしれない。でも待って。甥っ子のほうはさっきまで娼婦と寝てた。あの女と三日も遊びつづけてたと云ってた。ご執心ってわけだ。じゃあプレゼントくらいしたっておかしくない。
娼婦の居場所はすぐわかった。一階のカウンターの奥、台所で仲間たちとお喋りしてた。台所女も一緒だ。娼婦たちの顔は白塗り、台所女は浅黒い。けど仲良く笑いあってる。調理台にはココアとおやつをならべてる。女主人はいない。そうだろうとも、あの女が店の娘や使用人らと、クルミやソーセージを食べながら噂話を楽しむところなんて想像できない。
目当ての娼婦は四人いるうちの一番右端に腰かけていた。
見つけた! あたしは運がいい。ブローチだ。娼婦が胸につけてる。間違いない、あたしのワタスゲのブローチだ。
「お母様!」
走っていって抱きついた。
「お母様、あなたはあたしのお母様でしょう?」
しがみついて胸に顔をうずめてやった。さっきシーツからぽろんと出てきた胸だ。
「何よ、この娘はやぶからぼうに」
「会いたかった、ずっとずっとお探ししてたんです」
「離れなさい、離れなさいってば」
「そんなむごいことおっしゃるなんて、きっとお母様は広いお屋敷で一人っきりで眠る怖さをご存じないんだわ。というのもあたし、これまで育ててくれたお継父様とお継母様を、先日馬車の事故で亡くしてしまったんです」
「だからわたしゃあんたなんか知らな──」途中で言葉が切れたのは仲間が耳打ちしたからだ。娼婦なんて商売をしてたら、孕んでしまった子を仕方なく産み、そのあと捨てたかよくて里子に出した、なんて経験は一度や二度じゃああるまい。
「それで、」猫撫で声で訊いてきた。「あんたを育ててくれた御両親は、さぞかし立派なひとたちだったんだろ? あんたの身なりを見ればわかるよ、きっと財産もたんと残してくれたんだろうねえ」
こくこくと娼婦の胸の中で首を振る。顔は見せない。鋏研ぎの部屋で会った娘だと思い出されたら困る。
「よしよし、わたしだっておまえのことは片時も忘れたことはないよ、可愛い可愛い娘だもの」
金持ちの身内ができるとなれば身に覚えがあろうがなかろうがかまやしない、たとえ猫の子だって自分が産んだって云い切るだろう。
さて、この状況からどうやって脱出しようか。
そしたらあたしはほんとに運がいいらしい。「何を騒いでおいでだい、おまえたち」台所の外から声がかかった。女主人だ。近づいてくる靴の音もする。
まずい、とばかりに娼婦があたしを突き放した。
「お行き、女主人に知れたら大変だ」
仲間たちも口々に云う。
「そうだよ、婆さんのくせして自分こそあんたの母親だって云い出しかねないよ」
「まったく呆れるほど強欲なんだから」
「お行き、早く、お行きったら」
台所女が裏口をあけてくれる。
「またあとで来るんだよ、きっと来るんだよ」
投げキッスを何回もよこした。その娼婦のドレスの胸にワタスゲのブローチはなかった。
もちろん、ブローチはあたしの懐の中だ。
ほくほくしてあたしは歩いていった。角を曲がるとやっと知ってる場所が見えてきた。中央広場は一流店が軒をつらね、磨き抜かれたウィンドウがまぶしく反射してる。馬車と人々が行き交い、花売り女がレディ連れの紳士に呼びかけている。
あそこまで行けば馬車を拾えるだろう。でもメスマー舘に帰って、ヒューにどう話す? すべてを打ち明けるんだ、ワタスゲのブローチを見せて。ヒューは驚くだろう。けど信じてくれるだろう。そしてそれから? あたしはガルトムーアに帰る。帰って、灰色の女の陰謀を暴き、母さんと姉妹たちを救う。だってあそこがあたしのほんとうの家だもの。
──だからヒューとは、もうお別れだ。
いきなり後ろへひっぱられた。同時に口をふさがれ叫ぶ間もなかった。かかえあげられる。必死に首を捻じ曲げたら、でっかい疣がついた鼻が見えた。ロイドのやつだ。
裏道に入ってドアを蹴破って、ロイドはあたしを放り出した。埃が舞ってテーブルが倒れ椅子が壊れた。あたしは頭を打って血が垂れてきた。
空き家のようだ。もとはパブだったらしい、カウンターがあった。棚のグラスが破片になってる。くらくらしてまだ立てない。
「糞アマがなめやがって、お礼はたんまりしてやるからな」
襟をつかまれ引き破られた。金貨の袋が転げ出てくる。ブローチと手紙も。
ロイドが金貨の袋に飛びついた。その隙にあたしはブローチと手紙を手の中に握って隠した。ロイドは袋を覗いてにやけてる。逃げるなら今だ。が、立ちあがったけどふらついてしまった。そこを張り飛ばされた。また床に叩きつけられる。
ロイドが馬乗りになってきた。重くて押しのけられない。もがいても抜け出せない。裂けた服がまたつかまれ、もの凄い力でコルセットごと引きおろされた。「ちっ、ガキめが」貧相な胸を嘲笑われた。
スカートをたくしあげられる。ドロワーズを引き剥がされる。あたしにのしかかったままロイドもズボンを脱ぎ出す。こんなこと絶対に許せない、許すものか。だけどでかい体に乗られて、どうやっても逃げられない。
あたしの上でもぞもぞやってたのが、ぴたっと止まった。腰を浮かせて今度は手であたしの股をさぐる。覗いてもみる。そうして素っ頓狂な声をあげた。
「なんだあ、こりゃあ」
それからゲラゲラと笑い出した。「さすがのおれもこりゃあ無理だ」そそくさとズボンをあげるが、まだあたしにまたがっていて見おろしてくる。腐ったもんでも見るみたいに。
まただ、メイナス・ジョイスにやられたときと一緒だ。ひとは誰でもあたしのバケモンの部分を見ると気味悪がるか、こうして指さして笑う。違っていたのはただ一人、ヒュー・ヒュゲットだけだ。ヒューだけがあたしを、あたしのあの部分を、大切に扱ってくれた。
そのときだ。あたしの中で自分でも思ってもみなかった変化が起きた。腹の底から熱の塊が突きあげてきて、脳天までのぼって、全身がカッと燃えた。突然の怒りだった。これまでは笑われたり忌み嫌われたりするたび、打ちのめされて、恥ずかしくて、消えてしまいたいと思ってきた。だけど今は爆発しそうだ。烈しくて荒々しいのが体じゅう駆けめぐってる、暴れまわってる、出口を求めて──
見つけた出口。あたしの眼の前にあった。でっかい疣をつけた鼻!
情けない。去勢された牡牛だってここまで泣きわめいたりしない。男のくせに。あたしは、ペッ、ペッと口にたまった血を吐き捨てた。
メスマー舘に帰りついたときには陽は傾き、あたりは金色のベールをまとったように輝いていた。葉の一枚一枚がくっきりと光に縁どられた美しい夕暮れ。天使の歌声も聞こえてくる。舘からゆるやかに流れてくるグラスハーモニカの調べだ。
グラスハーモニカが演奏されてるってことは、磁気桶の集団治療が佳境に入ったってことだ。玄関には誰もいなかった。おそらく患者のクリーズに備えて、弟子たちもみな大広間につめているのだろう。
広間は思ったとおりクライマックスを迎えているところだった。中央の桶からつながって輪になって、体を揺らしてる者、反対に突っ立って硬直してる者。治ったぞう治ったぞうと叫んで走りまわる男。恍惚となっていきなり失神する女。
今日演奏してるのはヒューだった。回転するガラスの器に指を優雅に踊らせている。あたしに気づいた。眼を剥いた。仰天するのも無理はない。なにしろあたしの恰好ときたら、ドレスはびりびり、髪も乱れ、おまけに血だらけなんだから。
ごめんよ、ヒュー・ヒュゲット。あんたには恩がある。あんたは行き倒れていたあたしを助けてくれた。それになんといっても、あんたがあたしの体をやさしく扱ってくれたから、あたしも自分を辱めるやつらに正当な怒りを持てるようになったんだ。
だけど、あんたには迷惑かけちゃうことになるけど、あたしはやられたぶんはきっちりやりかえす主義だ。
ケンドリー夫人は磁気桶のすぐそばにいた。ずうずうしい女。治療なんてほんとは必要ないくせに一番いい席を占領するなんて。
桶から突き出ている磁気を伝える金属棒につかまって、ケンドリー夫人はひたすら身をくねらせていた。でもあたしの気配を感じたのか、動きはそのままで首をまわした。とろんとしていた眼に光がもどる。笑った。凄く嬉しそうに。あたしのこの酷いありさまに誤解したんだ、自分の企みが成功したって、小憎らしい恋敵を陥れてやったって。
あたしはゆっくり、手をあげた。ずっと握って持ってきたんだ。
「ほら、とってきてやったよ、あんたの忘れ物!」
投げつけたそれはケンドリー夫人の胸にあたった。夫人にとって不幸だったのは、自慢の胸が大きすぎたってことだ。まばたきを三回するあいだ、それは胸の上に乗っかっていた。
胸に乗ってる物が何なのか、まばたきするごとにわかってきたんだろう。夫人の顔から血の気がひいていく。反対に乗ってるものは真っ赤だ、血まみれだ。
落ちた。床にぶつかったとき、ちょっと湿っぽい音がした。うまいこと上をむいて着地したから、その鼻はまるで床に生えたみたいだった。鼻の頭にはでっかい疣がついている。ロイドからあたしが噛み千切ってやった鼻だ。
ケンドリー夫人の悲鳴は案外、野太かった。叫ぶだけ叫ぶとバッタリ倒れ、あたりは静まった。けど、そのドレスの胸に血のしみがついていたのがまずかった。目撃した隣の紳士が叫んだのだ。
「殺人だ!」
一瞬の間ののち、どよめきが起こった。うっとり見ていた夢が突然悪夢に変わったかのように口々に叫ぶ。「助けて、殺される!」
ひとからひとへとあますことなく巡っていた宇宙的流体は断ち切られた。大広間に満ちていた動物磁気はまたたく間に消え去ってしまった。そうして磁気にかわって広間を支配したのはパニックだった。悲鳴が次々と伝染してゆく。紳士は怒号をあげ淑女は卒倒する。子どもは泣き叫び、お針子は逃げ惑い、作男や家事使用人や、わざわざ旅の途中に寄った商売人たちも、椅子を倒しひとを押しのけ逃げ惑う。落ち着け! ヒューが怒鳴っていた。弟子たちも懸命になだめようとしていた。でも誰も聞こうとしない。ぎりぎりまで高まっていた気分が一気に恐怖へと雪崩れ落ちたのだ。
あたしも走っていって、泣いてる子どもたちに出口を指さしてやる。子どもは散り、するとそこに女性が一人、座りこんでた。うずくまってお腹をかばうようにしてる。お腹がかなり目立ってきてるっていうのにナン嬢ったら、また治療に来てたのか。
男が数人、突進してくる。男たちは前ばかり見て、ひとがうずくまってるなんて気づこうともしない。帽子を踏みつぶした。邪魔な椅子を蹴り飛ばした。
とっさにあたしは突っこんでいって体当たりした。男たちがひっくり返り、あたしも床にはじき飛ばされ、でもナン嬢には誰も触れなかったことを眼の端でしっかりと確認した。
「お腹、大丈夫? 痛くなったりしてない?」
ナン嬢は返事もできないほど怯えているようすだったけど、涙を湛えた眼があたしにありがとうって云ってた。
ガラスの割れる音が響きわたった。グラスハーモニカが倒されていた。天使の歌声を生みだす器械が粉々だった。
アレクサ7 だけど神様は、運命は、容赦してくれないみたいだ
ガラスの欠けら一つ一つに蝋燭の黄色い光が反射する。大広間は窓も鏡も真っ暗だ。蝋燭の光を映してるのが鏡、上のほうに星が光ってるのが窓だ。
なんとか修理できないものかと、蝋燭の灯りをたよりにガラスの欠けらを集めてみた。けれどグラスハーモニカはハンドルが折れ、支柱もひん曲がってしまってる。誰もいない。灯りが揺らすのはあたしの影法師だけ。
ここまで大事になるとは予想してなかった。せいぜいケンドリー夫人とヒューとの仲がこわれて、金払いのいい常連患者が一人減るくらいだと思ってた。みんな、あたしのせいだ。だけどヒューはひとっ言もあたしを責めたりしなかった。
騒動を聞いて駆けつけてきた治安判事のケンドリー氏は、これ以上ないほど渋い顔をしていた。あたしは判事をはじめて見たけど、でっぷり太った小男で、尊大な態度のわりに眼は落ちつかなげにきょときょとしてた。気絶からさめたケンドリー夫人はその夫の前で、あたくし死ぬわ死んでしまうわと、実に芝居がかった取り乱しようを披露した。
巡査たちをみな引きあげさせたあと、治安判事はヒューと二人だけの話し合いを持った。お互いの利益のための有意義な話し合いだ。確かに大騒動にはなったけど死人が出たわけじゃない。怪我人だって擦り傷や捻挫くらいで、騒ぎのわりにたいしたことなかった。だいたいもともとの原因は、妻であるケンドリー夫人のほうから悪事をしかけてきたことだ。判事側にも弱みがある。もし騒動を表沙汰にするなら、拘留されているはずのロイドがどうしてプレストンの街中で血まみれになってのたうちまわっていたのかも、説明しなくてはならないだろう。
だけどそこに割りこんできたのがバーナード・ヒュゲット、ヒューの兄だった。扉のむこうから兄弟の怒鳴り声や罵りあいが聞こえるたび、弟子たちはかぶりを振ったり祈ったりしていた。そうしてやっと出てきたヒューが、言葉をしぼり出すように云った。
メスマー舘は閉鎖だ。
驚き嘆く弟子たちと、懸命に憤懣を押し殺してるヒューを、バーナードはにんまり眺めてた。前々から弟の成功が面白くなかったこの兄は、いかがわしい偽治療をこれ以上つづけるなら告訴すると脅したんだそうだ。判決によっては刑務所行き、罪に問われなくても新聞に書きたてられ、醜聞はイングランドじゅうに知れわたることになる。そうなれば、かの王立内科医協会だって黙ってはおるまい、いや、むしろわたしは積極的に進言するつもりだ、それが真っ当な医師の義務だからな、早晩おまえはインチキ魔術師のそしりを受け、しかも糾弾の嵐はおまえだけにとどまらず、おまえのかわいい弟子たちも巻きこむだろう、わたしが遺憾に思うのは、この件によって将来有望な医師たちの前途が断たれてしまうであろうということだ。
泣く泣く弟子たちは荷物をまとめてる。
床の上の、もとの形にもどそうとならべておいたガラスに、靴が映った。見あげるとヒューだった。蝋燭の光がとどかなくて、どんな顔をしてるのかわからない。あたしも何と云ったらいいのか、わからない。でも、立ちあがった。
「ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい」決まりきった言葉しか出てこない。謝ったって取り返しはつかないのに。
「つくづく俺は運がよかったと思い知らされたよ」
「え?」
「君に手を出したとき鼻を噛み切られなかった」そばまで来て、あたしの手から燭台をとった。「そんな顔しなくていい、まあ、これも運命だ、君が無事でよかった」
倒れてた椅子を持ちあげて起こし、あたしにすすめる。もう一つ起こして自分も座る。燭台は横に置いた。でもあたしは座らずに、
「何が運命だよ、ひとの不幸につけこんで脅すなんて、あんたの兄さんは卑怯者だ」
「あいつはこうゆう機会を待ち構えていたからな。でも俺は脅しに屈したわけじゃない。だが、どんなに批難されようが俺一人なら平気だが、弟子たちの名誉まで傷つけさせるわけにはいかない」
「でも閉鎖だなんて」
「いいさ、こんな騒ぎが起きちゃどうせもう患者は来ない」
あたしは眼をつむって顔を突き出した。
「好きなだけ殴って。蹴飛ばしたかったら蹴飛ばしてもいい」
「何で君を殴るんだ?」
「気が晴れるから。男はみんな云ってた、むしゃくしゃしたらあたしをぶちのめすとすっきりするって」
いつまでたっても拳固はふってこない。眼をあけた。ヒューの真剣な顔だった。
「みんなとは? 誰が君を殴った?」
今こそ自分の秘密を話すときだった。正直に話さなきゃいけないと思った。それがメスマー舘を破滅に追いこんでしまったあたしの、せめてもの誠意だ。あたしは椅子に腰かけた。そして胸に隠していたブローチと手紙を出した。
長い話になった。ヒューは最後まで口を挟まず聞いてくれた。話し終わったとき蝋燭は半分の長さになり、窓に覗く星の位置も変わっていた。
ヒューにワタスゲのブローチをわたす。
「今日はまんまとケンドリー夫人の罠にはまっちゃったけど、おかげで二人組を見つけることができた、そして奪い返してきた」
ヒューはブローチを裏返したり、蝋燭の光にあててみたり、熱心に調べた。
「確かにいいものだ、銀だな、細工も凝っている、おいそれと手に入れられるもんじゃない」
あたしのブローチを褒めてもらった。満足だ。
「この輪は何だろう」ヒューの指がブローチの、額縁のような四角い枠の下辺にならんでる小さな輪をなぞる。
「飾りかな」こたえてみたけど、ほんとのところはわからない。飾りにしては単純な円なのだ。
次に手紙をわたした。
「これも盗ってきた。伯爵家の奥様からの手紙だって灰色の女は云ってた。読んで」
「封があいてない」返そうとする。「君にかかわるものなんだろう?」
「あたしのお母さんの手紙だもの、もしかしたらあたしのこと書いてあるかもしれない」
「だったらまず君が読め」
もちろん読もうとしたんだ、鋏研ぎの二人組みから奪ったあと、すぐに封を破ろうとした。
でもできなかった。常にこころの奥底にあって、懸命に押さえつけていた考えが、また頭をもたげたんだ。ひょっとしてあたしが捨てられたのは、灰色の女の陰謀とはまったくの無関係で、単に気味悪い畸形の子どもだったからではないか? あたしを産んだ母さんが、こんな子はいらないと捨てさせたんじゃないのか?
だからガルトムーアに帰って伯爵家を救いたかった。自分の身分の回復ももちろんだけど、灰色の女の陰謀を暴いてお母さんを、姉妹たちを救う。そうすればもう誰もあたしをいらない子どもなんて思わない。大事な大事な家族だ。
「さあ、読みなさい」
「ううん、最初にあんたに読んでほしいんだ。重要な手紙だから、あたしの秘密が書いてあるかもしれないから」
これも正直な気持ちだった。精一杯のあたしの気持ちだ。あたしはヒューが苦労して築きあげてきた、理想の治療法を実現する場をぶち壊してしまった。なのにヒューときたら殴りもせず、笑って許してくれたんだ。
ヒューは頷いた。封蝋をはがし、手紙を開く。
眼鏡のレンズのむこう側で眼が幾度か左右を往復した。止まった。何事か考えてる。
「何て書いてあった?」
返事のかわりに手紙が返ってきた。文面は短い。短いけど中々読めない。文字はちゃんとバートルから教わった。だけど眼は文字の表面をなぞるばかりで意味が頭に入ってこない。
何度かくり返して読むうち、失望がはっきりした形をとり出した。あたしのことなんか書かれてない。十三年前に生まれた娘のことなんか、何一つ書かれてなかった。
宛名は、ブラッド・ガルノートン様、とあった。
はじめに簡単な挨拶。そして、伯爵だった長男が亡くなり一家には男子が残っておらず、親類とはいえ面識のないミスター・ブラッド・ガルノートンが爵位と財産を相続するのはやむなきことと、手紙の主は受け入れている。
──しかしながらブラッド様、女ばかりが残され、わたくしたち一家はこれからどう生きてゆけばよいのでしょう。恥を忍んで申し入れいたします。願わくば娘の一人を妻に迎えてはくださいませんでしょうか。これはあなた様との縁をより確かなものにして安心を得たいという、甚だ愚かではありますが、娘三人をかかえた女の必死な嘆願なのでございます。よもや慈悲深いあなた様が、憐れなわたくしたちを見捨てるはずはないと信じております──
署名はエリザベス・ガルノートン。あたしを産んだ母さんだ。
つまり伯爵家の奥方であるあたしの母さんは、余所から来る新しい伯爵に、娘をさしだすかわりに一家全員の面倒をみてくれと懇願してるんだ。
「駄目だ、あたしにはまるで関係ない、あたしのことなんか忘れちゃったんだろうか」醜いバケモンだから。
手紙をくしゃくしゃにして握りしめた。それをヒューがとりあげ皺をのばした。
「確かに君の出生については書かれていない。が、見なさい、これを読めば君が灰色の女と呼ぶ女中頭が何を企てているか、おのずと知れてくる」
はかりかねていると、
「この挨拶だ」と、あたしが読みとばした箇所をさした。
「エリザベス奥様、君の母親は、この手紙を宛てた人物ブラッド・ガルノートンが無事に生きていたこと、また彼を探しあてられたことを喜んでいる。ということは相続人であるこのブラッドは長いあいだ行方不明だったらしい。ところで女中頭は鋏研ぎの二人組を雇ったと云ってたな」
「うん、爺さんとその甥っ子」
「もっと詳しく」
「灰色の女が話してたのは、死んだ伯爵の喪があけた一年後、必ず爺さんを城に来させろってこと」
「爺さんを雇ったんだな」
「うん、甥っ子は女の指示じゃなかったようだった、バートルがお目付け役に雇ったって云ってた。あの爺さん一人だったら、あたしだってブローチを盗られたりしなかった、反対にうまいこと丸めこんでやったのに」
「ほかに指示されたのは?」
「城に来るときは、この手紙を忘れるなって。あと、身なりも整えさせろとも云ってた、貴族らしく恥ずかしくないように──ということは、」
ピンと指を立てた。
ヒューも頷く。
「そう。鋏研ぎの老人はブラッド・ガルノートンの偽者として雇われた、というわけだ」
「でも、なぜそんなことを」
「本物のブラッド・ガルノートンが見つからなかったからだろう、いや、はなから見つける気がなかったか。その女中頭はたいした策略家だな、耄碌した爺さんを選んで相続人に仕立てあげるとは」
「耄碌爺いなら、いうことをきかせるのも容易い?」
「おまけに老い先も短い」
そこで閃いた。魔女の呪いの噂!
「魔女の噂は女中頭が流してるんだよ、でもただの噂じゃない、ほんとうに伯爵家のひとたちは死んでいってるんだ、まるでほんとに魔女に呪われたような恐ろしい死にかたで」
「それは面白いな」
「面白いもんか、呪いなんて出鱈目に決まってる、この世に魔女なんかいるもんか」
「同感だ」
「全部あの女が仕組んだことなんだ、全部女の陰謀なんだよ」
女中頭のあの女は何かひとにわからぬ方法を使って、そしてそれを魔女の呪いだなんて欺いて、一族をどんどん殺していったんだ。そうやって邪魔な人間を消していき、伯爵家を女ばかりにして支配しようとしてるんだ。
耳によみがえった。鞭の音だ。しなったときの唸り、打ちつけられたときの肉の悲鳴。そうして灰色の女の、灰色としかいいようのない声。けれどもそれはバートルを支配するにつれ、しだいに艶を帯びてくるんだ。
「柩持ちの男も云ってた、伯爵の城は女中頭が仕切ってるって。あの女は伯爵家をのっとるつもりなのか」
「すでにのっとっているのかも」
奥方の衣裳を勝手に着て、贅沢なものを食べて、どんちゃん騒ぎをしたり男をつれこんだり、まるで自分が城の女主人であるかのようにふるまう灰色の女。ずる賢く強欲な女。あれこそ魔女だ。
そうして次にあたしの頭に浮かんだ光景は、魔女がこっそり産室に忍びこむ。天蓋付きのゆりかごから抱きあげられる赤ん坊。手早く脱がされる産着。そうして魔女は襤褸布にくるんだ赤ん坊を抱き、夜の闇にまぎれて城を抜け出し、ヒースの荒野を踏みわけて走り、やがてヘッジス村の灯りが見えてきて──
そうしてジョイス家の納屋の脇に赤ん坊がおろされようとしたとき、誰かがバタバタと、メスマー舘のこの大広間に駆けこんできた。
「ナンは、ナンは、無事ですか!」
叫んでからエスター卿は、あらためてこの場の惨状に驚いたようだった。
「無事ですよ、御心配なさらずに」
返事をしてヒューが立ちあがった。
今日のメスマー舘での騒動は、舘の閉鎖という悲劇的な結末をもたらしてしまったけど、ただ一つの救いは身重のナン嬢に何事もなかったことだ。今は大事をとって二階の寝室で休んでもらっている。
エスター卿を案内すると、ナン嬢はすやすやと眠っていた。いったん控えの間にもどって、ここで目覚めるまで待つことにした。
「驚きました、ほんとうにメスマー舘を閉鎖してしまうんですか、わたしはどうしたらいいのです、ナンは先生だけが頼りなんですよ!」
訴えかけてくるエスター卿をヒューはともかく座らせようとした。ところが卿はますます興奮して、
「ナンはいつも顔色がすぐれず、暗い表情で悲しげで、ときには泣き出したりもするのです。でも、ここに来た日だけは気持ちが穏やかになって安心するようなのです。けれどもすぐまた神経質になって、涙ぐんでしまう。それに彼女は身重なんですよ、こんな大事なときに先生は廃業なさるというのか、先生はわたしたちを見捨てるおつもりか!」
呆れた。ちっともわかってない。ううん、わかってるくせに、わからないフリをしてるんだ。あたしは歩いていって部屋の扉を大きく開いた。
エスター卿もヒューも、何事かとそちらへ首を曲げる。でもそのときにはあたしは卿の背後にまわってた。そのへっぴり腰を思いっきり蹴りつけてやる。
茂みから跳び損ねて出てきたアカガエルみたいに、卿は廊下へとつんのめっていった。
「な、何をするんです」壁につかまってどうにか転ばずにすんだという情けない恰好で、振り返る。
「治療さ。ほんとは自分でもちゃんとわかってるんだろ、ナン嬢の病の原因は、あんたのその及び腰なんだ」
図星だ。青くなってる。
「どうしたらいいだって? 決まってるさ、ちゃんと結婚するんだよ。そうすればナン嬢もたちまち元気になって、赤ちゃんも無事に生まれてくるさ」
それでもうなだれてる。まったくどうしてこうも意気地がないんだ。
「道は知ってるけど馬車がないだって? あんたが心配すべきは馬車じゃなくナン嬢だろ? だったらさっさと踏み出せ、外へ出て前へと進め、できないっていうならもういっぺん蹴ってやろうか」
足を振りあげ蹴飛ばす真似をしてやったら、自分からぴょんと跳ねて進んだ。カエルより勢いよく。
笑い声が起こった。ヒューが手を打って笑ってた。
「こりゃあいい、メスメリズムより効き目があったようだ、エスター卿、俺も同意見ですよ」
眼鏡の奥の群青の眼がやさしい。
「思い悩むより思い切って進みましょう、馬車がないなら船に乗ればいいんです」
卿は意味をはかりかねているようだった。けれどもすぐに何かを思いついて、その顔が輝いた。
足もとで落ち葉が風に吹かれカサコソつぶやいてる。こないだまで黄色い絨毯みたいだったのが今はもうくすんだ茶色だ。ガルトムーアが思い出された。ムーアの荒野には木なんてあまり生えてないから、落ち葉がこんなふうに敷きつめることもない。
外へ出て前へ進めない意気地なしは、あたしだ。尻を蹴っ飛ばされるべきは、あたし自身なんだ。ここに至って気づいた。ブローチが見つからないとか、まずは情報を集めるんだなんて言い訳だ。メスマー舘という自分の居場所ができたら、武器だったはずの秘密が重荷に変わった。ドクター・ヒュゲットのはねっかえりの婚約者という身分でいられるのに、なんだってわざわざ伯爵家を救うだなんてとほうもないこと企てなきゃならない? たとえうまくいったとしても、捨てられたあたしがふたたび家族に迎え入れられるなんてことあるだろうか。
だけど神様は、運命は、容赦してくれないみたいだ。メスマー舘から家具や荷物が次々と運び出されてゆく。いよいよ弟子たちが出てゆくのだ。そしてヒューもここを引き払う。だからあたしも否応なく去らなきゃなんない。いよいよガルトムーアに帰るしかない。
伯爵家の紋のブローチを持っているからといって、ことは簡単にはいかないだろう。灰色の女の陰謀をどうやったら暴けるのか。頼みの綱はバートルだけど、あたしをガルトムーアから追い出したのも彼だ。あの女のいいなりなんだ。
でも、一つだけ希望がある。あの娘だ。ガルトン伯爵の葬列でただ一人、ベールで顔を隠さず、りんと胸をはって歩いてたあの娘。あたしの姉か妹。
あの娘は闘ってる。のっとられた自分の家をとり返そうと、果敢に魔女に抵抗してる。今はずる賢い魔女に屈するしかないけど、いつの日か打ち倒そうと、母と姉たちの盾となってひたすら屈辱に耐えているんだ。あたしにはわかる。だってあたしも闘ってきたから。あたしを苛め、蔑み、支配しようとするすべてのものと。
あたしとあの娘はわかりあえる。
あの娘ならあたしを姉妹だと認めてくれる。
そしてあの娘とあたし二人で力をあわせれば、きっと灰色の女の陰謀を打ち砕くことができる。
メスマー舘の玄関にヒューとジリアンが出てきた。ジリアンは旅行鞄をさげていた。出発するんだ。ジリアンは外科医の伯父さんを頼ると云っていた。とりあえずはその医院で助手を務めることを許されたんだそうだ。
別れを惜しんでいるヒューとジリアン。ジリアンの瞳が訴えてる。いつの日か必ずやメスマー舘を再興してください、僕を呼びもどしてください、何をおいても駆けつけます。そしてこころづくしの口づけ。馬車に乗りこむまでジリアンは何度も振り返った。ヒューも馬車が街道に消えるまで見送っていた。
そうして、あたしのところにやってきたヒューは背を丸めて、拗ねたみたいに唇を尖らせていた。
ふところをさぐって、出したものを放ってよこす。リボンで束ねた紙だ。
「何?」
「エスター卿から君に。以前、約束したとか」
ガルトン伯爵家について調べてくれたんだ。
「エスター卿も発ったよ、インドへ、官吏の職を得て」
「インド! ほんとに馬車じゃなく船に乗ったんだ」
「かの地なら奥方の素性もここほどとやかくは云われまい」
「じゃあ、二人はそこで結婚するんだね」
ナン嬢の赤ちゃんを見られないのは残念だけど、彼女の幸せをこころから祝福しよう。
「みんな旅立ってゆく。あたしも行かなきゃ、アレクサという名前にグズグズしてる娘はふさわしくない」
「いよいよガルトムーアに帰るんだな。しかし計画はあるのか。どうやって伯爵家に? 玄関を叩いて、こんにちは、あたしはこの家の子どもですって自己紹介するのか」
「まさか。まずあの娘と会う、二人っきりでね、事情を打ち明けてうまくとりはからってくれるよう頼むんだ。あの娘は強い娘だよ、血をわけたあたしの姉妹なんだもの、あたしたち二人で灰色の女をやっつけるんだ」
「あの娘とは?」
エスター卿からの書類をほどいた。ここに書いてあるはずだ、伯爵家の家族構成や名前が。もちろんあの娘のことも。
一枚目はジェントルマンが記した文書らしく仰々しく、我が恩人であり友であるアレクサ嬢の依頼によりガルトン伯爵の一族について調査した結果を謹んでここに報告する、と記されてあった。エスター卿はひとをやって調べさせてくれたらしい。二枚目からは卿の訴訟代理人の下で働く修習生ミスター・ハーマンの報告書だった。
まず順当に教区の教会の記録をあたり、それからガルトムーアの村々にも聞き取りをしたようだ。牧師や伯爵家の通いの使用人や産婆なんかの名前があがってる。律儀というべきか気が利かないのか、相手が話したとおりに書いてある。違う相手がおなじ話をしていても、いちいち全部書いてある長い文書だった。
だけどあたしの眼は、最初のほうで止まってしまった。
『一家の長男で当主である第十六代ガルトン伯爵、すなわちジョン・ガルノートンが今年の三月に亡くなり、現在、ガルトン伯爵の住まいであるガルトムーア・ホールで暮らしている家族は四人のみ、亡き第十五代ガルトン伯爵の未亡人とその娘たちである。未亡人すなわち母親のエリザベス・ガルノートン、長女ユリア(二十二歳)、次女マミーリア(十八歳)、三女ユースタス(十三歳)。尚エリザベスは後妻で、実子は末娘のユースタスだけである。』
何度も読み直す。眼が痛くなるほど文字を凝視する。けど、どれだけ読み返しても書いてあることは変わらない。
城に住んでいる家族は四人。その末娘の名はユースタス。エリザベス・ガルノートンの実子は末娘のユースタスだけ。
末娘とはあの娘のことだ。葬列でただ一人、ベールをはねあげて顔を見せていたあの娘、あたしの妹か姉だと思っていたあの娘、あたしの一番の理解者だと思ってたあの娘。あの娘がユースタスだというのか。
違う。この報告書は間違ってる。ユースタスはあたしなのだ。あたしがエリザベスの娘、ユースタス・ガルノートンなのだ。
震えるあたしの手からヒューが報告書をとった。めくって調べ、ある箇所を読みあげた。
「──あの年のことはよく憶えております。イングランドの軍隊がオランダのコペンハーゲンというところに侵攻した年ですよ。わたしの倅も戦争に行ったんです、しがない水兵でした、まだ帰ってきておりませんが。便りも途絶えてしまって。ですがその年はまだ手紙がとどいておりました。二月です。凍るような日でしたが嵐でなくて幸いでした。伯爵様の奥様が産気づき、わたしが呼ばれました。難しいお産ではありませんでした。安産でした。なにしろわたしが着いたときにはもう産まれてたんですから。わたしがやったことといったら、お産の後始末だけです。それだけでもお給金は充分いただきました。元気な玉のような、それはそれはかわいい女の子でございました。そうです、ユースタスお嬢様でございます。わたしのような身分のものが貴い奥様の赤ちゃんのお顔を見られるなんて、もったいないことでございます。末代までの語り草です──
産婆S・ステイモスの証言と記してある。イングランド軍がコペンハーゲンに侵攻したのは一八〇七年、今年は一八二〇年だから十三年前だ」
「やめて。もう充分。そうだよ、あたしは年が明けて二月になったら十四になる、おなじ二月生まれなんだ」
どういうことか、わかっていた。だってあたしは筋道を立てて考える癖がついていたから。結論はこれしか考えられない。声に出してはっきりと告げてやる。ヒューにではない、自分自身にだ。自分を痛めつけるためにだ。男たちは憂さ晴らしにあたしを殴ったけど、あたしには憂さを晴らす相手は自分しかいない。
「一八〇七年二月にエリザベス・ガルノートンが産んだ赤ん坊は、このあたしだった。だけど捨てられた。理由は、」
なんて妙な声をしてるんだろう、とても自分の声とは思えない。伯爵家の城に敷かれてあるだろう毛皮が口を利いたらこんな感じだろう、百年も二百年も一族に踏みつけられてきた皮だ。
「理由はあたしができそこないのバケモンだったから。由緒正しき伯爵家にこんな忌まわしきものが存在してはならぬって、捨てられたんだ」
ところがヒューが、
「そうだろうか」
「そうに決まってる。産婆はたんまり口止め料をもらったんだろう、元気で玉のようなかわいい女の子、なんて、いかにもな云いまわしだ」
「十三年前エリザベスが出産した赤ん坊は君だという推論は妥当だ。産婆も当然、口止めされているんだろう。でもユースタス嬢は? 現在、三女として伯爵家にいる彼女は?」
「どこからか連れてきたんだろう、身代わりに。それこそ玉のようなかわいい女の子を。産婆は出産の瞬間に立ち会ってない、到着したときには赤ん坊はもう生まれてたって書いてある、すりかえたあとの赤ん坊を見たんだ」
「どうしてそこまでする必要がある? もし君の云った理由で赤ん坊を捨てたのなら、跡継ぎでも何でもない末娘だ、死産だったことにすればいい」
そういえばそうだ。
「スーザン・ネラだよ」
「スーザン・ネラ──?」
「君が灰色の女と呼ぶ女中頭の名前だ、報告書にも書いてある。すべてはこのネラの仕業なんだ、城でユースタスと呼ばれている少女は、おそらくスーザン・ネラの娘だろう」
「娘──、あの娘が灰色の女の娘──」
「そうだ、ネラの悪事は自分の娘のためなんだ。俺の考えはこうだ。ネラがこっそり赤ん坊をとりかえた、御主人の子である君を捨て、かわりに自分の子を伯爵家の娘とした。そしていかなる方法でかは不明だが魔女の呪いと見せかけ伯爵家の人間を殺していき、身分と財産を自分の娘のものにしようとしている」
「身分と財産──?」
「君の母君の手紙に書いてあっただろう、新しいガルトン伯爵ブラッド・ガルノートンに娘のうちの一人と結婚してほしいと。その伯爵もネラが雇った偽者だ、つまり君の話していた鋏研ぎの老人だ。結婚相手は当然ユースタス嬢を選ぶ、そう雇い主に命じられている。晴れてユースタス嬢は伯爵夫人、すなわち名実ともにガルトムーアの女主人となり、ネラの野望ははたされる」
何と返事したらいいのか。これ以上ないほどヒューの推理は筋が通っている。素晴らしい。完璧だ。文句のつけようがない──
「しかし、」とヒューが息をつく。「証明する手立てがない」
「あたしはワタスゲのブローチを持ってる」
「それだけでは足りない、盗んだと云われたらそれまでだ。それにまだ不明な点がある」
「魔女の呪い? ネラがどうやってあたしの家族を殺したか?」
「それもだが……」
まじまじとあたしの顔を見てる。
「バートルという男はほんとうに、君がエリザベス・ガルノートンの娘だと云ったのか?」
気づいたらヒューを向こう脛を思いっきり蹴っていた。
「今さら何? 疑うの?」足を押さえてしゃがみこんでいる上からまくしたててやる。「全部あたしの作り話だとでも? まさかブローチも伯爵家から盗んだって思ってる?」
「いや、そうではなく、」
「じゃあ、何だっていうのさ?」
うずくまったまま中々立とうとしない。言い訳でも考えているのかと思ったら、
「そうだ! 妙案を思いついたぞ、城へ乗りこむための策だ、ガルトン伯爵ブラッドだ」
あたしの眼がパチクリとなる。
「城に着いたら俺のことはガルトン伯爵の友人と紹介してくれ」
まるで七つの子どもが悪戯の計画を持ちかけるみたいに、ヒューは愉快そうだった。
紳士が鏡に映っている。
上着は腰のところで真っ直ぐに裁ち、後ろの裾だけ長く垂れている。ジレはビロード製、ボタンはまぶしい金メッキ。タイはヒューが結びかたを教えてくれた。
体のむきを変えてみる。鏡の紳士のポーズもかわる。横むき。斜め。背中を見せて振り返る自分。
身長は足らず髭も生えていないけれど、まんざらでもない。
スカートを脱ぎ捨てて男の服を着てみたら、思いがけなくしっくりきたから不思議だった。糊でカチカチの襟も気にならない。パンタロンは足にぴったりとくっついているから、なんだか安心できる。服はヒューのおさがりだ。髪の毛も切った。下半身とは反対に首筋が寂しくなった。
今日からあたしの名はブラッド・ガルノートンだ。男の言葉使いをし、自分のこともあたしではなく、僕と呼ぼう。僕はブラッド・ガルノートンになりすまして、正面から堂々とガルトムーア・ホールに入るんだ。
あれこれ考えてたって埒が明かない、思い切って敵の内部に入る、というのがヒューの案だった。伯爵家の女主人エリザベスからの手紙を手に、自分こそがこの手紙を送られた新しいガルトン伯爵だと名乗れば、いかな灰色の魔女スーザン・ネラだって使用人という立場上迎え入れざるを得ないだろう。
あれから僕とヒューは腰をすえて検討したのだった。報告書を読み直した。調査にあたった修習生は馬鹿正直に聞いたこと全部を記録しているから、けっこうな量だった。
『──住みこみの使用人は、女中頭のスーザン・ネラとほかは下女二人のみ。よって伯爵家の日常生活のほとんどはこの三人の手に委ねられている。通いの馬丁の話では、女中頭のネラ夫人はきわめて有能、また貴族に仕えるにふさわしく厳格で、態度には威厳さえ感じさせる。』
有能? 厳格? 威厳だって? ふん、つまり云いかたを変えれば、抜け目のない冷酷な悪党がふんぞりかえってるってことだ。
幸運にも本物のブラッド・ガルノートンについて触れた箇所があった。卿に調査を頼んだとき、伯爵家が絶えることにでもなったら奉公している従姉妹が心配と言い訳したから、そのあたりについてできるかぎり詳しく調べてくれたのだ。修習生ハーマンは要領は悪いかもしれないけど、仕事ぶりは信頼できる。
『第十四代ガルトン伯爵──つまり僕のお祖父さんだ──の弟にあたるブラッド・ガルノートン氏は五十年以上も前に出奔、その後、ポーツマス港で目撃されており、目撃者の話によるとインド行きの船に乗船したようである。その後の氏の消息は不明である。十六代伯爵亡きあと、爵位と領地を相続できる男子はこの人物のみだが、一家の先行きに暗雲が垂れこめているのは否めないであろう。』
控えめな表現だけど、まず生きてはいないだろうって云ってるんだ。
『また考えられるかぎりの訴訟代理人事務所に問い合わせてみたところ、伯爵家からブラッド・ガルノートン氏の捜索を依頼されたところはなく、一家も氏の生存の可能性については諦めている模様である。誇り高きガルノートン一族は無駄な悪あがきはせず、貴族らしく静かに滅びのときを待っているようである。』
ヒューと顔を見あわせた。
「話が違う。エリザベス・ガルノートンは、ブラッド・ガルノートンが見つかったから手紙を書いたのに」
「実際は探しさえしていない。ブラッドはおそらくインドでとうに死んでいるんだろう、それはエスター卿に頼めば確かめられる、うまい具合に卿の移転先もインドだ」
「すべてはスーザン・ネラの謀だったのか。探せという命令を握りつぶした、見つかったと嘘をついて、鋏研ぎを偽者に仕立てあげようとした」
「鋏研ぎが老人というのは筋が通っていたな、ブラッドももし生きていたとしたら七十歳をすぎているだろう」
「七十! そんなじいさんにどうやってなりすませって? 計画は無理だ」
「七十なら孫がいたって不思議じゃないだろう、いや、息子にしようか、老いらくの恋だ」
ヒューが云うには、伯爵家の人間の死にスーザン・ネラが関与しているのは明らかだが、むろんネラは魔女などではなく、だから死因も当然呪いではない。おそらくは毒物を利用した殺人だろう。もしくは風土病、または一族特有の病という可能性もある。何にしてもこの興味深い謎は医師である自分こそが解くべきだ。解明したあかつきには論文をまとめ大々的に発表する。そして名誉挽回し、ふたたびメスマー舘を復活させるのだ。
「ガルトムーア・ホールといったかな、実際にその城に住めば厭でも多くのものが見えてくるはずだ。いくら外側から見てもわからないものはわからない、そういうときは内側を見ればいい。解剖術の発想だよ、俺は解剖術を習うためにわざわざロンドンのハンター医学校へ行ったんだ」
「何だ、あんたドクター・ヒュゲットじゃなく、ミスター・ヒュゲットだったんだ」
「そこもまた兄貴の気に食わないところであったんだが、内科医の資格をとるまえにメスメリズムに出会ってしまったんだから仕方ない。そもそも、医師の階級など無意味だ。種痘方式を編みだしたジェンナーだって、内科医ではなく外科医だった」
「ふうん。でもせっかくの解剖術もメスも、メスメリズムには用がなかったじゃない」
「メスメリズムは外科学、内科学の先をゆく医術だ、患者の弱った体にメスを入れずに治す」
「そうだったね、でも伯爵家の魔女は弱った可哀相な患者じゃない、ぐっさりメスを入れてやる」
「もちろんだ」
「僕がブラッド・ガルノートンです、どうぞお見知りおきを、なんて挨拶してやったら、あの女中頭どんな顔するかな、耄碌爺いが来るはずだったのに」
「驚こうが怒ろうが拒否はできまい、偽者だろうなんて騒いだら墓穴を掘ることになりかねないからね」
「あ、でも、耄碌爺いのほうのブラッドは? ガルトムーアで鉢合わせしたらどうする、いや、もう手紙を盗まれたって泣きつきに行ったかも」
「大丈夫、手は打ってあるよ」
あとで知ったんだけど、ちょうどそのころ鋏研ぎの二人組みはなけなしの一ペニー銅貨をかき集め、プレストンの安宿から郵便馬車に乗ろうとしたところ、巡査たちにとりおさえられたという。ケンドリー治安判事の差し金だった。二人は直ちに裁判にかけられ、しかし罪状は当人たちにはまったく憶えのないもので、ところが治安判事は有罪を云いわたし、すみやかに監獄送りにしたのだった。ヒューは判事との取り引き内容をかえたのだ。囚人ロイドを勝手に解放したケンドリー夫人の罪を黙っておくかわりに、当分のあいだ二人組みを監禁しておいてくれと。
ついでにガルトン伯爵家との関係も尋問してくれたけど、二人組みが知ってることはほとんどなかった。時期が来たら城を訪問する約束で、名前も知らない男から──バートルだ──月々の手当てをもらっていただけだという。余計なことはいっさい教えないってわけか、つくづく抜け目のない女中頭だ。
だけどただ一つ、これだけは忘れるなと堅く申しわたされていたことがあるという。
必ず末娘を選ぶこと。
これを聞いたとき、僕の口からこぼれ出たのは声のない笑いだった。自分の愚かさに笑ったのだ。
正直に明かせばあの娘のことが諦めきれなかった。ひょっとしたら、と思ってた。ひょっとしたら、あの娘はやっぱり僕のたった一人の血を分けた姉妹で、一番の理解者で、バケモンと蔑まれてきた僕でもあの娘は受け入れてくれ、そうして僕ら二人で魔女から家族を救うのだと夢見ていた。
だけど、これで決まりだ。ヒューの推理したとおりだ。
あの娘は知っているんだろうか、自分がスーザン・ネラの娘であると。知っているから、あんなふうに喪のベールをはねあげて歩いていたのか。伯爵が死に、おのれの野望が一歩進んだことに晴れ晴れとして。
修習生ハーマンは長い報告書を、この簡潔な一文で締めくくっていた。
『蛇足ながら、伯爵家には魔女の呪いが一族をとり殺すという噂がある。』
馬車が走り出した。幌は折りたたまれていたから、頭上に空が広がっている。何日ぶりかの晴天だ。ガルトムーアへとつづく空だ。春はもうすぐそこだ。
木々の梢が後ろへ後ろへと流れてゆく。風が気持ちいい。冷たいけど古い殻を吹き飛ばしてくれる。乞食娘のアレクサ、出来損ないのバケモン、ドクター・ヒューの婚約者。そして一度見ただけの口も利いたことのない娘に無防備にもこころを許していた馬鹿な女の子。全部の殻が飛び去ってゆき、むきだしになった頬がひりひりする。
大急ぎで新しい殻を整える。第十七代ガルトン伯爵ブラッド・ガルノートン。この殻は中々着心地がいい。
街道に出ると前方から箱型馬車がやってきた。知っている自家用馬車だった。その窓から覗いた顔は、やっぱりそうだ、ケンドリー夫人だ。
今、彼女の眼にはこう映っているだろう。かつての愛人ヒュー・ヒュゲットと、その隣に座ってるどこかで見たことがあるような少年。夫人は首をひねる、誰だったかしらあれは。
と、馬車がすれちがう瞬間、少年がいきなりヒュー・ヒュゲットに抱きつきキスをする。見せつけるかのように。
仰天した夫人は少年が誰だかやっと気づいた。ケッサクだ、あんなご面相、そうそうお目にかかれない。ヒューは何がどうしたのか、まったくわからぬようすで落ちかけた帽子をかぶり直してる。
僕は声をたてて笑った。
第2部 了
ガルトムーアの魔女 第2部